蒲原有明 有明集(初版・正規表現版) 惡の秘所
惡の秘所
汗(あせ)あゆる日(ひ)も夕(ゆふべ)なり、
空(そら)には深(ふか)き榮映(さかばえ)の
褪(あ)せゆくさまのはかなさは
沙(すな)に塗(まみ)るる彩(あや)の波(なみ)、――
色(いろ)うち沈(しづ)む「西(にし)」の湫(くて)や、
黃(あめ)なる牛か、雲(くも)群(む)れぬ、
角(つの)にかけたる金環(きんくわん)
倦(うん)じくづるる音(ね)のたゆげ。
ここには森(もり)の木(き)の樹立(こだち)、
暗(くら)き綠(みどり)に紫(むらさき)の
たそがれの塵(ちり)降(ふ)りかかり、
塵(ちり)は遽(には)かに生(しやう)を得(え)て、
こは九萬疋(くまびき)の闇(やみ)の羽(はね)、
微(かす)かにふめき、蔭(かげ)に蒸(む)し、
葉うらを繞(めぐ)り、枝々(えだえだ)を
流(なが)れてぞゆく「夜(よる)」の巢(す)に。
夏(なつ)の夕暮(ゆふぐれ)、いぶせさや、
不淨(ふじやう)のほめき、濕熱(しつねつ)に
釀(かも)す瘟疫(うんえき)、瘧病(ぎやくへい)の、
噫(ああ)、こは森(もり)か、こぶかげに
將(は)た音(おと)もなきさまながら、
闇(やみ)にこもれる幹(みき)と枝(えだ)、
尖葉(とがりは)、廣葉(ひろは)、しほたれ葉(ば)、
噫(あゝ)、こは森(もり)か、「惡(あく)」の秘所(ひそ)。
火照(ほでり)の天(あめ)の最後(いやはて)の
光(ひかり)咀(のろ)ひて、斑猫(はんめう)は
世(よ)をば惑(まど)はす妖法(えうほふ)の
尼(あま)にたぐへるそのけはひ、
靜(しづ)かに浮(うか)び消(き)え去(さ)りぬ、
彼方(かなた)、道なき通(みち)の奧(おく)、
生(しやう)あるものの胤(たね)を食(は)む
蛇(くちなは)纒(まと)ふ「肉(にく)」の廳(ちやう)。
黃泉路(よみぢ)とばかり、「惡(あく)」の祕所(ひそ)、
蔓草(つるくさ)絡(から)むただなかに、
なべては腐(あざ)れ朽(く)ちゆけど、
樹(き)の幹(みき)を沸(わ)く脂(やに)の膸(ずゐ)
薰陸(くんろく)とこそ、この時(とき)よ、
滴り凝(こ)りて、穢(けが)れたる
身(み)よりさながら淨念(じやうねん)の
泌(し)み出(い)づるごと薰(かを)るなれ。
物皆(ものみ)さあれ文(あや)もなく
暮(く)れなむとする夜(よる)の門(かど)、
黑白(こくびやく)の斑(ふ)の翅(つばさ)うち
はためきめぐる蛾(ひとりむし)、
見(み)る眼(め)も迫(せ)かれ、安(やす)からぬ
思(おも)ひもともにはためきぬ、
かくて不定(ふぢやう)の世もここに
闇(やみ)の境(さかひ)にはためきぬ。
[やぶちゃん注:「汗あゆる」「汗あゆ」は「汗がにじみ出る・滴り落ちる」の意のヤ行下二段活用の動詞。
「湫(くて)」後代は「くで」。水草などの生えている低湿地を指す語。
「ふめき」「ふめく」は虻や蚊などがぶんぶんと羽音を立てることを指す動詞。
「瘟疫(うんえき)」高熱を発する流行性疾患。
「瘧病(ぎやくへい)」和訓「わらはやみ」。光源氏が「若紫」で懸り、平清盛が命を落としたあれ。発熱・悪寒が間歇的に繰り返し起こるもので、概ね、現在のマラリアに比定されている。「瘧」の別訓は「おこり」。
「斑猫(はんめう)」は、実際に本邦で見られる、美しい鞘翅目食肉(オサムシ)亜目オサムシ科ハンミョウ亜科Cicindelini族
Cicindelina 亜族ハンミョウ属ハンミョウ Cicindela japonica、別名を如何にも風雅な「みちおしへ」と称する彼らを――指してはいない――と思われる。所謂、媚薬や劇薬毒物として知られるカンタリジン(cantharidin)を体内に持つ、蠱毒系のそれを有明はイメージしていると考える。詳しく知りたい方は、私の「和漢三才圖會卷第五十二 蟲部 斑猫」の私の注、及び「和漢三才圖會卷第五十二 蟲部 芫青蟲/葛上亭長/地膽」などを参照されたい。
『「蛇(くちなは)纒(まと)ふ「肉(にく)」の廳(ちやう)』「廰」はその妖しい森の奥にあるまがまがしい魔宮を閻魔「庁」のように言ったものであろう。
「脂(やに)の膸(ずゐ)」湧き出した半透明の脂を古木の肉骨の「膸」「髓」に譬えた。
「薰陸(くんろく)」(「ろく」は呉音)インド・イランなどに産する樹の脂(やに)の一種で、盛夏に、砂上に流れ出でて固まって石のようになったものを指す。香料や薬用とし、「薫陸香」と呼ぶ。乳頭状のものは特に「乳香」と言う。なお、本邦で松・杉の樹脂が地中に埋もれて固まって生じた化石をも、かく呼ぶ。これは外見が琥珀に似、粉末にしてやはり薫香とする。岩手県久慈市産が知られる。]

