蒲原有明 有明集(初版・正規表現版) 大鋸
大 鋸
大鋸(おが)をひくひびきはゆるく
ひとすぢに呟(つぶ)やくがごと、
しかはあれ、またねぶたげに。
いや蒸(む)しに夏(なつ)のゆふべは、
風(かぜ)の呼息(いき)暑(あつ)さの淀(よど)を
練(ね)りかへすたゆらの浪(なみ)や。
河岸(かし)にたつ材小屋(きごや)のうちら、
大鋸(おが)をひく鈍(にぶ)きひびきは
疲(つか)れぬる惱(なや)みの齒(は)がみ。
うら、おもて、材小屋(きごや)の戸口(とぐち)、――
生(なま)あをき水(みづ)の香(か)と、はた
あからめる埃(ほこり)のにほひ。
幅(はゞ)びろの大鋸(おが)はうごきぬ、
鈍(にぶ)き音(おと)、――あやし獸(けもの)の
なきがらを沙(いさご)に摩(す)るか。
はらはらと血(ち)のしたたりの
おがの屑(くず)あたりに散(ち)れば、
材(き)の香(か)こそ深(ふか)くもかをれ。
大鋸(おが)はまたゆるく動(うご)きぬ、
夕雲(ゆふぐも)の照(て)りかへしにぞ
小屋(こや)ぬちはしばし燃(も)えたる。
大鋸(おが)ひきや、こむら、ひかがみ、
肩(かた)の肉(しし)、腕(かひな)の筋(すぢ)と、
まへうしろ、のび、ふくだみて、
素膚(すはだ)みな汗(あせ)に浸(ひた)れる
このをりよ、材(き)の香(か)のかげに
われは聽(き)く、蝮(はみ)のにほひを。
夜(よる)の闇(やみ)這(は)ひ寄(よ)るがまま、
大鋸(おが)ひきは大鋸(おが)をたたきて、
たはけたる歌(うた)の濁(だみ)ごゑ。
[やぶちゃん注:何故だか、私はこの一篇を偏愛する。大鋸を挽く「あの」音と、その「あの」匂いが、実際に漂ってくるからである。
「大鋸」「おが」は「おほが(おおが)」の音変化で大きな木材から板を挽 くための縦挽きの大型の鋸(のこぎり)のこと。元は中国・朝鮮の框鋸(かまちのこ)・枠鋸に由来するもので、日本へは十四世紀頃(室町時代)に導入されたとされる。工の字形の木枠の片側に幅の狭い鋸身をつけ,他端を紐で結び,この紐を絞ることによって鋸身を伸長させ、二人で挽いた(ウィキの「日本の鋸」にある室町時代のその画像をリンクさせておく)が、近世に入ると、前者より幅広い鋸身をもった一人挽きの柄鋸(えのこ)形式のものが現われた(グーグル画像検索「大鋸」を見られたい)。
「ひかがみ」名詞。「膕(ひかがみ)」。膝の後ろの窪んだ部分。「隠曲(ひきかがみ)」の変化した語という。「よぼろ」とも呼ぶ。]
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