蒲原有明 有明集(初版・正規表現版) 燈火
燈 火
人(ひと)の世(よ)はいつしか
たそがれぬ、花(はな)さき
香(か)に滿(み)ちし世(よ)も、今(いま)、
たそがれぬ靜(しづ)かに。
滅(き)えがてに、見(み)はてぬ
夢(ゆめ)の影(かげ)、裾(そで)ひく
薄靄(うすもや)の眼(め)のうち
あなうつろなるさま。
人(ひと)の世(よ)の燈火(ともしび)、
ほのぐらき樹(こ)の間(ま)を、
わびしらに嘆(なげ)くか、
燈火(ともしび)の美鳥(うまどり)。
母(はは)の鳥(とり)――天(あめ)なる
日(ひ)のゆくへ慕(した)ひて
泣(き)いざち嘆(なげ)かふ
聲(こゑ)のうらがなしさ。
燈火(ともしび)のうま鳥(どり)、
うらぶれの細音(ほそね)に
かずかずの念(おもひ)の
珠(たま)をこそ聞(き)け、今(いま)。
闇(やみ)墜(お)ちぬ、にほひも
はた色(いろ)もひとつの
音に添(そ)ひぬ、燈火(ともしび)
遠(とほ)ながき笛(ふえ)の音(ね)……
[やぶちゃん注:「音」のルビ無しはママ。脱ルビで、「ね」ではあろう。また、最後の六点リーダ(ここまでの詩篇では初めて出現する)は、底本では正中線上ではなく、完全に活字スペースの右端に打たれてあるという特異点である。しかし、他の詩篇で多用されるダッシュにそのような仕儀は認められないし、後に載る「やまうど」で多用される同じ六点リーダ(リーダ使用はここと同詩篇のみ)は活字位置の正中線上にあるので、単に植字工のミスと思われる。
第四連三行目「泣(き)いざち嘆(なげ)かふ」はママであるが、不審である。母鳥の飛び交いながら「泣く」のに「いざち」とは何か? 「いざる」、「躄る・膝行る」では情景合わぬし、歴史的仮名遣も「ゐざる」であり、接尾語或いは造語の「ち」がやはり意味として合わない。「青空文庫」版「有明集」(底本:昭和四三(一九六八)年講談社刊「日本現代文学全集」第二十二巻「土井晚翠・薄田泣菫・蒲原有明・伊良子清白・横瀬夜雨集」)では『泣きいさち嘆かふ』(同テクストはパラルビ)で、これならば、すこぶる腑に落ちる。「泣きいさち」とは、タ行上一段の自動詞「なきいさちる」が上二段化したもので(上代からの古語)、「激しく泣く・泣き叫ぶ」の意だからである。初出等の比較・校合対象を私は他に持たないが、これは極めて高い確率で、
泣(き)いさち嘆(なげ)かふ
の本底本の誤植であると考える。]
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