柳田國男 山島民譚集 原文・訓読・附オリジナル注「馬蹄石」(1) 「葦毛ノ駒」(1)
《原文》
馬 蹄 石
葦毛ノ駒 美濃ノ加子母(カシモ)ニ於ケル河童駒引ノ故跡ハ、其地名ヲ葦毛淵ト云フコトハ既ニ述べ了ンヌ。カノ猿神ガ馬ノ保護者ニシテ更ニ馬ノ害敵ナリシト同ジク、葦毛ハ馬ノ最モ靈異ナルモノナルト同時ニ、又最モ災厄ニ罹リ易キモノト考ヘラレシ時代アリ。【ダイバ】例ヘバ馬ヲ襲フ魔物ニ、「ダイバ」又ハ「ギバ」ト云フ物アリ。今ノ今マデ達者ニ步キシ馬モ、此物ニ遭フトキハ忽然ト狂ヒ騰リテ死ス。江州大津ノ穢多ノ娘死シテ「ダイバ」トナルト云ヒ、大津馬仕合吉(シアハセヨシ)ト染拔キタル腹掛ヲ馬ニサセルト、其災ヲ防ギ得ト傳フ。美濃・尾張邊ニテハ、「ダイバ」ニ懸ケラルヽハ白馬ニ限ルトモ、又ハ葦毛ノ駒ガ懸ケラレヤスシトモ謂フトナリ〔想山著聞寄集一〕。【瓶】美作苫田郡二宮村ノ瓶淵(カメガフチ)ニハ、河童ノ話ハ傳ヘザレド、往昔此邊ガ街道ナリシ時、瓶ヲ負ヒタル葦毛ノ馬水底ニ落チ沈ミタルヨリ土地ノ名トス。【雨乞】寬永二年ノ旱魃ニハ國中ノ僧此淵ノ邊ニ集リテ雨乞ヲ爲セシコトアリ〔山陽美作上〕。前ニ擧ゲタル武藏荏原郡駒澤村大字馬引澤ニハ、目黑村大字上目黑トノ境ニ葦毛塚アリ。【ヤチ】是レ例ノ右大將賴朝ノ愛馬ニシテ、將軍巡歷ノ節此村ノ沼地(ヤチ)ノ中ニ陷リテ斃ルト云フ。今ノ字葦毛田ハ即チ其故跡ナリ。【駒繋松】同村字子神丸ニハ駒繋松アリ。曾テ其葦毛ヲ繋ギタリト稱ス。豐多摩郡代々幡村大字代々木字一本松ニモ、以前鞍掛松、一名ヲ駒繋松ト云フ名木アリ。八幡太郞奧州征伐ノ折此地ニ於テ七日ノ物忌ヲ爲ス。此松ハ當時葦毛ノ馬ヲ繋ギ置キシ木ナリト云フ〔以上新編武藏風土記稿〕。此等ノ「コマツナギ」ハ共ニ馬ノ野牧ノ祈禱場ナリシコト、諸處ノ馬洗モシクハ「牛クヽリ」ト同ジカルべシ。而モ葦毛ノ斃レタリシ因緣ト稱シテ馬引澤ノ一村ニハ今モ猶葦毛ノ馬ヲ養ハズ〔四神地名錄〕。【馬上咎メ】同ジ荏原郡ノ蒲田村大字蒲田新宿ニ於テハ、八幡社ノ境内ニ以前靈アル物ヲ埋メシト云フ古塚アリ。葦毛ニ乘リテ此塚ノ前ヲ過グレバ必ズ落馬ス〔新編武藏風土記稿〕。如何ナル理由アルカヲ傳ヘズト雖、恐クハ亦之ト似タル口碑ヲ有セシ馬塚ナラン。
《訓読》
馬 蹄 石
葦毛の駒 美濃の加子母(かしも)に於ける河童駒引の故跡は、其の地名を葦毛淵と云ふことは既に述べ了(をは)んぬ。かの猿神が馬の保護者にして更に馬の害敵なりしと同じく、葦毛は馬の最も靈異なるものなると同時に、又、最も災厄に罹り易きものと考へられし時代あり。【ダイバ】例へば馬を襲ふ魔物に、「ダイバ」又は「ギバ」と云ふ物あり。今の今まで達者に步きし馬も、此の物に遭ふときは、忽然と狂ひ騰(たけ)りて死す。江州大津の穢多の娘、死して「ダイバ」となると云ひ、大津馬仕合吉(しあはせよし)と染拔きたる腹掛を馬にさせると、其の災ひを防ぎ得と傳ふ。美濃・尾張邊にては、「ダイバ」に懸けらるゝは白馬に限るとも、又は葦毛の駒が懸けられやすしとも謂ふとなり〔「想山著聞寄集」一〕。【瓶(かめ)】美作(みまさか)苫田(とまた)郡二宮村の瓶淵(かめがふち)には、河童の話は傳へざれど、往昔、此の邊りが街道なりし時、瓶を負ひたる葦毛の馬、水底に落ち沈みたるより、土地の名とす。【雨乞(あまごひ)】寬永二年[やぶちゃん注:一六二五年。]の旱魃には國中の僧、此の淵の邊に集まりて雨乞を爲せしことあり〔「山陽美作」上〕。前に擧げたる武藏荏原郡駒澤村大字馬引澤には、目黑村大字上目黑との境に葦毛塚あり。【ヤチ】是れ、例の右大將賴朝の愛馬にして、將軍巡歷の節、此の村の沼地(やち)の中に陷りて斃(たふ)ると云ふ。今の字葦毛田は、即ち、其の故跡なり。【駒繋松(こまつなぎまつ)】同村字子神丸(ねのかみまる)には駒繋松あり。曾つて其の葦毛を繋ぎたりと稱す。豐多摩郡代々幡(よよはた)村大字代々木字一本松にも、以前、鞍掛松、一名を駒繋松と云ふ名木あり。八幡太郞、奧州征伐の折り、此の地に於いて、七日の物忌(ものいみ)を爲す。此の松は、當時、葦毛の馬を繋ぎ置きし木なりと云ふ〔以上「新編武藏風土記稿」〕。此等の「こまつなぎ」は、共に馬の野牧(のまき)の祈禱場なりしこと、諸處の「馬洗(うまあらひ)」もしくは「牛くゝり」と同じかるべし。而も葦毛の斃れたりし因緣と稱して、馬引澤の一村には、今も猶ほ、葦毛の馬を養はず〔「四神地名錄」〕。【馬上咎め】同じ荏原郡の蒲田村大字蒲田新宿に於いては、八幡社の境内に、以前、靈ある物を埋(うづ)めしと云ふ古塚あり。葦毛に乘りて此の塚の前を過ぐれば、必ず、落馬す〔「新編武藏風土記稿」〕。如何なる理由あるかを傳へずと雖も、恐らくは亦、之れと似たる口碑を有せし馬塚ならん。
[やぶちゃん注:「美濃の加子母(かしも)に於ける河童駒引の故跡は、其の地名を葦毛淵と云ふことは既に述べ了(をは)んぬ」先行する「河童駒引」の「馬ニ惡戲シテ失敗シタル河童」のここ(グーグル・マップ・データ。以下同じ)であるが、謂いが杜撰。そこでは、「美濃惠那郡付知(ツケチ)町」とし、淵の名を「驄馬淵(アシゲノフチ)」と柳田國男は記しているからである。「付知町」は現在の岐阜県中津川市付知町でここ、「加子母(かしも)」はその西北で接する現在の岐阜県中津川市加子母でここである。同一の伝承地を違った地名で呼んでいる上に淵の漢字表記も異なるというのは、読者に対して頗る不親切と言わざるを得ない。
『例へば馬を襲ふ魔物に、「ダイバ」又は「ギバ」と云ふ物あり。今の今まで達者に步きし馬も、此の物に遭ふときは、忽然と狂ひ騰(たけ)りて死す。江州大津の穢多の娘、死して「ダイバ」となると云ひ、大津馬仕合吉(しあはせよし)と染拔きたる腹掛を馬にさせると、其の災ひを防ぎ得と傳ふ。美濃・尾張邊にては、「ダイバ」に懸けらるゝは白馬に限るとも、又は葦毛の駒が懸けられやすしとも謂ふとなり〔「想山著聞寄集」一〕』ハイ! これは、もう二年前にテツテ的に電子化注している「想山著聞奇集 卷の壹 頽馬(だいば)の事」である。そこでは「ダイバ」の科学的な正体の可能性もオリジナルに探っており、柳田の以上の梗概に対応する注もしてあるので、是非、参照されたい。付け加えるべきものは何もない。それほど、リキを入れてやった仕事ではある。
「美作(みまさか)苫田(とまた)郡二宮村」岡山県津山市二宮であろう。因みに、前に「河童ト猿ト」のところの「猿猴淵」の例として出た「美作苫田郡東一宮村大字東一宮字猿淵」、現在の岡山県津山市東一宮は、ここの東北凡そ四キロメートルと近い。
「前に擧げたる武藏荏原郡駒澤村大字馬引澤には、目黑村大字上目黑との境に葦毛塚あり」「駒引錢」の「駒澤村の馬引澤には賴朝の愛馬の塚あり」で注した、祐天寺駅の西北に当たる東京都世田谷区下馬と、東京都目黒区五本木の境に現存する「葦毛塚」のこと。ここ(以下はリンク先の私の注を読まれたい)。
「ヤチ」「沼地(やち)」湿地・沼沢地を指す民俗語彙で、アイヌ語でも「湿地」の意であると、所持する松永美吉著「民俗地名語彙事典」にある。
「葦毛田」今回、新たに調べたところ、個人ブログ「古墳なう」の「葦毛塚」を発見、そちらに、
《引用開始》
この葦毛塚の由来については諸説あるようで、古くは江戸時代の地誌、『新編武蔵風土記稿』には「葦毛塚 下馬引沢ノ内、上目黒村ノ境ニアリ。凡二間四方ノ塚ナリ。土人ノ説ニ、昔頼朝卿葦毛ノ馬ニ乗テ此塚ヲスギ給フ時、馬驚キテ沢中ニ陥リ、忽チ死シタリシヲ埋メシ所ト云。コノ塚目黒村ノ境ナルユへ、カノ村民アヤマリテ己ガ村内トオモヒ、コノ塚ヲ半ウガチシニヨリ、当村ヨリ来由ヲ語リテトドメシトゾ。今モ塚ノ形半面ハ損セリ。又此側ニ葦毛田ト云所アリ。コレハ馬ノ陥リシ沢ヲ新墾シテ水田トナセシガ、後水モカレタレバ、今ノゴトク陸田トナレリト。」とあり、また昭和37年(1962)に東京都世田谷区より発行された『新修 世田谷区史 上巻』には、「葦毛塚 文治の昔源頼朝が奥州征伐に向った時、葦毛の馬に乗って此の地を通った時、騎馬何者かに驚いてあばれ、遂に沼沢に深く陥った。近侍の武士がようやく其の馬を引上げたが、まもなく死んでしまった。今の葦毛塚は、其の馬を埋めた所であるといっている。また葦毛田の小字は其の故事に因んだ名であると伝えられ、それから馬引沢の名が起ったという」と書かれています。
《引用終了》
とある。地図でもこの「葦毛塚」、不思議な場所――道のど真ん中――にあることが判るが、引用元には判り易い写真があり、その現在の車道の異様な感じがよく判る。必見!
「同村字子神丸(ねのかみまる)には駒繋松あり」これは現在の世田谷区下馬にある駒繋神社のこと(同地図内で東北東五百八十メートルほどの位置に前の「葦毛塚」を確認出来る)。東京都・首都圏の寺社情報サイト「猫の足あと」の「駒繋神社」によれば、創建年代は不詳であるが、天喜四(一〇五六)年、源八幡太郎義家が父頼義とともに朝命を受けて奥州安部氏征討(「前九年の役」)に向かった折り、当社で戦勝祈願をしたと伝えられ、また、源頼朝も「葦毛塚」とは別に、奥州藤原泰衡征伐の際、当社の松の木に馬を繋いで戦勝祈願をしたと伝えられるとあり、引用されてある「せたがや社寺と史跡」の駒繋神社の由緒書きに、この社は昔から「子の神」と呼ばれていたとし、源義家の武運を記した後、『少なくとも』、『これ以前に里人たちによって出雲大社の分霊を勧請し』、『守護神として祀ったことは明らかである』とし、源頼朝の奥州征伐に向かう途次、『この地を通過する時、祖先義家が本社に参拝したのを回想し、愛馬』葦『毛を境内の松の木に繋いで参拝したので、駒繁神社とも称するようになった』とする。『以上は社伝によったものであるが、江戸時代の様子は「江戸名所図会」に』、『「正一位子明神社、二子街道、下馬引沢邑道より左の方、耕田を隔てて丘の上にあり、別当は天台宗宿山邑寿福寺兼帯、子明神の前、今田畑となれる地は、旧名馬引沢といえども、今は上中下と三つに分れたる邑名となれり」とあ』り、さらに『「武蔵風土記稿」には』、『「子ノ神社、除地五段、下馬引沢ノ内小名子ノ神丸ニアリ、ソノ処ノ鎮守ナリ。コノ社ノ鎮座ノ年歴ヲ詳カニセズ。本地仏ハ文殊菩薩ノ由イエリ。本社九尺ニ二間、拝殿二間ニ三間、社地ノ入口ニ柱間八尺ノ鳥居ヲ建、コレヨリ石段二十五級ヲ歴テ社前ニ至ル。又本社ノ未ノ方ニモ同ジ鳥居一基アリ。末社稲荷社、本社ノ左右ニワヅカナル祠、一祠ヅツアリ」』『と記されているので、この時代にも有名な神社であったことがわかる』(太字下線は私)とある。さても本神社の祭神は現在も大国主命であるが、彼の使いは鼠であることから、多くの彼を祭神とする神社は、甲子(きのえね)の日に祭事を行ってきた。そこから「子(ね)の神様」と呼ばれたのである。「丸」は一説に「村(むら)」の転訛ともされ、また、鎌倉時代の「名田(みょうでん)」(平安時代から中世に於いて荘園・国衙領(公領)の内部を構成した基本単位・徴税単位)の名残ともされ、ここがハイブリッドに正統直系の源氏所縁の場所であることを考えると、特にそうした霊験あらたかな場所として幕府から特別な扱いをされていたのかも知れない。ともかくも、以上が、私がこれを「ねのかみまる」と訓じた理由である。万一、読みが違うようであれば、御教授戴きたい。
「豐多摩郡代々幡(よよはた)村大字代々木字一本松」現在の東京都渋谷区代々木附近であるが、調べたところ、直近北の東京都渋谷区富ケ谷一丁目31−1にあったことが判明した。個人サイト「東京都渋谷区の歴史」の「鞍掛の松 伝承地」に、渋谷区教育委員会の記載として、『現在では道路となっていますが、この付近には、かつて「鞍掛の松」と呼ばれていた名木がありました』。『この松については、江戸時代でも早い時期に編纂された「江戸鹿子」には、「所の人ハ古ヘ右大将源頼朝奥州征伐の時、此野に来、土肥月毛と云馬を此木につなき、同く鞍を此木に懸給ふ云、此木枝たれて木形面白く又比類なき松なり、」と記され、頼朝が欧州征伐の折、鞍をかけた松として紹介しています』。『また、「江戸鹿子」よりのちに書かれた「江戸砂子」では、頼朝でなく義家が奥州征伐(後三年の役)に行ったときの話としています。いずれにしても区兄にある伝承地(旗洗池・勢揃坂)と同じく、関東地方特有の源氏伝承のひとつといえましょう』。『松は、幕末・明治の激動期に枯死し、新しい松が昭和』一七(一九四二)年か翌年『頃まで存在していたようですが、道路(山手通り)の拡幅工事のため取り払われてしまいました』とある。間違いない。但し、こうした義家或いは頼朝が馬を繫いだとする松は、江戸及びその周縁に複数存在したことも判った。
「荏原郡の蒲田村大字蒲田新宿」「八幡社」現在の東京都大田区蒲田にある蒲田八幡神社かと思われる。国立国会図書館デジタルコレクションのこちらの左頁の「古塚」の記載が柳田國男の引用の「新編武藏風土記稿」のそれ。この神社の境内には小さな古墳(円墳)があったとウィキの「蒲田八幡神社」にある。それがこの塚の正体に違いないと私は思う。しかし、柳田は「如何なる理由あるかを傳へずと雖も、恐らくは亦、之れと似たる口碑を有せし馬塚ならん」と言っているが、本当にそうだろうか? 柳田は「一目小僧その他」(私は全篇電子化オリジナル注をここで完遂している)の椀貸伝説の論考の中でも、実在する古墳と椀貸伝承を結びつけることを異様なほどに厭がっている(近代西欧的な考古学が自分の創建した民俗学に侵犯するのを生理的に嫌悪した非学術的意識の結果であると私は思っている)。ここも考古学的な古墳であった可能性(現在は事実。蒲田八幡神社境内古墳として認定されている)を完全に隠蔽し、無理矢理、民俗伝承としての馬を埋めた謂われのある「馬塚」なのだと強引に言っているように私には思えてならない。]