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2019/03/31

柳田國男 山島民譚集 原文・訓読・附オリジナル注「馬蹄石」(1) 「葦毛ノ駒」(1)

 

《原文》

 

    馬  蹄  石

 

葦毛ノ駒  美濃ノ加子母(カシモ)ニ於ケル河童駒引ノ故跡ハ、其地名ヲ葦毛淵ト云フコトハ既ニ述べ了ンヌ。カノ猿神ガ馬ノ保護者ニシテ更ニ馬ノ害敵ナリシト同ジク、葦毛ハ馬ノ最モ靈異ナルモノナルト同時ニ、又最モ災厄ニ罹リ易キモノト考ヘラレシ時代アリ。【ダイバ】例ヘバ馬ヲ襲フ魔物ニ、「ダイバ」又ハ「ギバ」ト云フ物アリ。今ノ今マデ達者ニ步キシ馬モ、此物ニ遭フトキハ忽然ト狂ヒ騰リテ死ス。江州大津ノ穢多ノ娘死シテ「ダイバ」トナルト云ヒ、大津馬仕合吉(シアハセヨシ)ト染拔キタル腹掛ヲ馬ニサセルト、其災ヲ防ギ得ト傳フ。美濃・尾張邊ニテハ、「ダイバ」ニ懸ケラルヽハ白馬ニ限ルトモ、又ハ葦毛ノ駒ガ懸ケラレヤスシトモ謂フトナリ〔想山著聞寄集一〕。【瓶】美作苫田郡二宮村ノ瓶淵(カメガフチ)ニハ、河童ノ話ハ傳ヘザレド、往昔此邊ガ街道ナリシ時、瓶ヲ負ヒタル葦毛ノ馬水底ニ落チ沈ミタルヨリ土地ノ名トス。【雨乞】寬永二年ノ旱魃ニハ國中ノ僧此淵ノ邊ニ集リテ雨乞ヲ爲セシコトアリ〔山陽美作上〕。前ニ擧ゲタル武藏荏原郡駒澤村大字馬引澤ニハ、目黑村大字上目黑トノ境ニ葦毛塚アリ。【ヤチ】是レ例ノ右大將賴朝ノ愛馬ニシテ、將軍巡歷ノ節此村ノ沼地(ヤチ)ノ中ニ陷リテ斃ルト云フ。今ノ葦毛田ハ即チ其故跡ナリ。【駒繋松】同村子神丸ニハ駒繋松アリ。曾テ其葦毛ヲ繋ギタリト稱ス。豐多摩郡代々幡村大字代々木一本松ニモ、以前鞍掛松、一名ヲ駒繋松ト云フ名木アリ。八幡太郞奧州征伐ノ折此地ニ於テ七日ノ物忌ヲ爲ス。此松ハ當時葦毛ノ馬ヲ繋ギ置キシ木ナリト云フ〔以上新編武藏風土記稿〕。此等ノ「コマツナギ」ハ共ニ馬ノ野牧ノ祈禱場ナリシコト、諸處ノ馬洗モシクハ「牛クヽリ」ト同ジカルべシ。而モ葦毛ノ斃レタリシ因緣ト稱シテ馬引澤ノ一村ニハ今モ猶葦毛ノ馬ヲ養ハズ〔四神地名錄〕。【馬上咎メ】同ジ荏原郡ノ蒲田村大字蒲田新宿ニ於テハ、八幡社ノ境内ニ以前靈アル物ヲ埋メシト云フ古塚アリ。葦毛ニ乘リテ此塚ノ前ヲ過グレバ必ズ落馬ス〔新編武藏風土記稿〕。如何ナル理由アルカヲ傳ヘズト雖、恐クハ亦之ト似タル口碑ヲ有セシ馬塚ナラン。

 

《訓読》

 

    馬  蹄  石

 

葦毛の駒  美濃の加子母(かしも)に於ける河童駒引の故跡は、其の地名を葦毛淵と云ふことは既に述べ了(をは)んぬ。かの猿神が馬の保護者にして更に馬の害敵なりしと同じく、葦毛は馬の最も靈異なるものなると同時に、又、最も災厄に罹り易きものと考へられし時代あり。【ダイバ】例へば馬を襲ふ魔物に、「ダイバ」又は「ギバ」と云ふ物あり。今の今まで達者に步きし馬も、此の物に遭ふときは、忽然と狂ひ騰(たけ)りて死す。江州大津の穢多の娘、死して「ダイバ」となると云ひ、大津馬仕合吉(しあはせよし)と染拔きたる腹掛を馬にさせると、其の災ひを防ぎ得と傳ふ。美濃・尾張邊にては、「ダイバ」に懸けらるゝは白馬に限るとも、又は葦毛の駒が懸けられやすしとも謂ふとなり〔「想山著聞寄集」一〕。【瓶(かめ)】美作(みまさか)苫田(とまた)郡二宮村の瓶淵(かめがふち)には、河童の話は傳へざれど、往昔、此の邊りが街道なりし時、瓶を負ひたる葦毛の馬、水底に落ち沈みたるより、土地の名とす。【雨乞(あまごひ)】寬永二年[やぶちゃん注:一六二五年。]の旱魃には國中の僧、此の淵の邊に集まりて雨乞を爲せしことあり〔「山陽美作」上〕。前に擧げたる武藏荏原郡駒澤村大字馬引澤には、目黑村大字上目黑との境に葦毛塚あり。【ヤチ】是れ、例の右大將賴朝の愛馬にして、將軍巡歷の節、此の村の沼地(やち)の中に陷りて斃(たふ)ると云ふ。今の葦毛田は、即ち、其の故跡なり。【駒繋松(こまつなぎまつ)】同村子神丸(ねのかみまる)には駒繋松あり。曾つて其の葦毛を繋ぎたりと稱す。豐多摩郡代々幡(よよはた)村大字代々木一本松にも、以前、鞍掛松、一名を駒繋松と云ふ名木あり。八幡太郞、奧州征伐の折り、此の地に於いて、七日の物忌(ものいみ)を爲す。此の松は、當時、葦毛の馬を繋ぎ置きし木なりと云ふ〔以上「新編武藏風土記稿」〕。此等の「こまつなぎ」は、共に馬の野牧(のまき)の祈禱場なりしこと、諸處の「馬洗(うまあらひ)」もしくは「牛くゝり」と同じかるべし。而も葦毛の斃れたりし因緣と稱して、馬引澤の一村には、今も猶ほ、葦毛の馬を養はず〔「四神地名錄」〕。【馬上咎め】同じ荏原郡の蒲田村大字蒲田新宿に於いては、八幡社の境内に、以前、靈ある物を埋(うづ)めしと云ふ古塚あり。葦毛に乘りて此の塚の前を過ぐれば、必ず、落馬す〔「新編武藏風土記稿」〕。如何なる理由あるかを傳へずと雖も、恐らくは亦、之れと似たる口碑を有せし馬塚ならん。

[やぶちゃん注:「美濃の加子母(かしも)に於ける河童駒引の故跡は、其の地名を葦毛淵と云ふことは既に述べ了(をは)んぬ」先行する「河童駒引」の「馬ニ惡戲シテ失敗シタル河童」のここ(グーグル・マップ・データ。以下同じ)であるが、謂いが杜撰。そこでは、「美濃惠那郡付知(ツケチ)町」とし、淵の名を「驄馬淵(アシゲノフチ)」と柳田國男は記しているからである。「付知町」は現在の岐阜県中津川市付知町でここ「加子母(かしも)」はその西北で接する現在の岐阜県中津川市加子母でここである。同一の伝承地を違った地名で呼んでいる上に淵の漢字表記も異なるというのは、読者に対して頗る不親切と言わざるを得ない。

『例へば馬を襲ふ魔物に、「ダイバ」又は「ギバ」と云ふ物あり。今の今まで達者に步きし馬も、此の物に遭ふときは、忽然と狂ひ騰(たけ)りて死す。江州大津の穢多の娘、死して「ダイバ」となると云ひ、大津馬仕合吉(しあはせよし)と染拔きたる腹掛を馬にさせると、其の災ひを防ぎ得と傳ふ。美濃・尾張邊にては、「ダイバ」に懸けらるゝは白馬に限るとも、又は葦毛の駒が懸けられやすしとも謂ふとなり〔「想山著聞寄集」一〕』ハイ! これは、もう二年前にテツテ的に電子化注している「想山著聞奇集 卷の壹 頽馬(だいば)の事」である。そこでは「ダイバ」の科学的な正体の可能性もオリジナルに探っており、柳田の以上の梗概に対応する注もしてあるので、是非、参照されたい。付け加えるべきものは何もない。それほど、リキを入れてやった仕事ではある。

「美作(みまさか)苫田(とまた)郡二宮村」岡山県津山市二宮であろう。因みに、前に「河童ト猿ト」のところの「猿猴淵」の例として出た「美作苫田郡東一宮村大字東一宮猿淵」、現在の岡山県津山市東一宮は、ここの東北凡そ四キロメートルと近い。

「前に擧げたる武藏荏原郡駒澤村大字馬引澤には、目黑村大字上目黑との境に葦毛塚あり」「駒引錢」の「駒澤村の馬引澤には賴朝の愛馬の塚あり」で注した、祐天寺駅の西北に当たる東京都世田谷区下馬と、東京都目黒区五本木の境に現存する「葦毛塚」のこと。ここ(以下はリンク先の私の注を読まれたい)。

「ヤチ」「沼地(やち)」湿地・沼沢地を指す民俗語彙で、アイヌ語でも「湿地」の意であると、所持する松永美吉著「民俗地名語彙事典」にある。

「葦毛田」今回、新たに調べたところ、個人ブログ「古墳なう」の「葦毛塚」を発見、そちらに、

   《引用開始》

 この葦毛塚の由来については諸説あるようで、古くは江戸時代の地誌、『新編武蔵風土記稿』には「葦毛塚 下馬引沢ノ内、上目黒村ノ境ニアリ。凡二間四方ノ塚ナリ。土人ノ説ニ、昔頼朝卿葦毛ノ馬ニ乗テ此塚ヲスギ給フ時、馬驚キテ沢中ニ陥リ、忽チ死シタリシヲ埋メシ所ト云。コノ塚目黒村ノ境ナルユへ、カノ村民アヤマリテ己ガ村内トオモヒ、コノ塚ヲ半ウガチシニヨリ、当村ヨリ来由ヲ語リテトドメシトゾ。今モ塚ノ形半面ハ損セリ。又此側ニ葦毛田ト云所アリ。コレハ馬ノ陥リシ沢ヲ新墾シテ水田トナセシガ、後水モカレタレバ、今ノゴトク陸田トナレリト。」とあり、また昭和37年(1962)に東京都世田谷区より発行された『新修 世田谷区史 上巻』には、「葦毛塚 文治の昔源頼朝が奥州征伐に向った時、葦毛の馬に乗って此の地を通った時、騎馬何者かに驚いてあばれ、遂に沼沢に深く陥った。近侍の武士がようやく其の馬を引上げたが、まもなく死んでしまった。今の葦毛塚は、其の馬を埋めた所であるといっている。また葦毛田の小字は其の故事に因んだ名であると伝えられ、それから馬引沢の名が起ったという」と書かれています。

   《引用終了》

とある。地図でもこの「葦毛塚」、不思議な場所――道のど真ん中――にあることが判るが、引用元には判り易い写真があり、その現在の車道の異様な感じがよく判る。必見!

「同村子神丸(ねのかみまる)には駒繋松あり」これは現在の世田谷区下馬にある駒繋神社のこと(同地図内で東北東五百八十メートルほどの位置に前の「葦毛塚」を確認出来る)。東京都・首都圏の寺社情報サイト「猫の足あと」の「駒繋神社」によれば、創建年代は不詳であるが、天喜四(一〇五六)年、源八幡太郎義家が父頼義とともに朝命を受けて奥州安部氏征討(「前九年の役」)に向かった折り、当社で戦勝祈願をしたと伝えられ、また、源頼朝も「葦毛塚」とは別に、奥州藤原泰衡征伐の際、当社の松の木に馬を繋いで戦勝祈願をしたと伝えられるとあり、引用されてある「せたがや社寺と史跡」の駒繋神社の由緒書きに、この社は昔から「子の神」と呼ばれていたとし、源義家の武運を記した後、『少なくとも』、『これ以前に里人たちによって出雲大社の分霊を勧請し』、『守護神として祀ったことは明らかである』とし、源頼朝の奥州征伐に向かう途次、『この地を通過する時、祖先義家が本社に参拝したのを回想し、愛馬』葦『毛を境内の松の木に繋いで参拝したので、駒繁神社とも称するようになった』とする。『以上は社伝によったものであるが、江戸時代の様子は「江戸名所図会」に』、『「正一位子明神社、二子街道、下馬引沢邑道より左の方、耕田を隔てて丘の上にあり、別当は天台宗宿山邑寿福寺兼帯、子明神の前、今田畑となれる地は、旧名馬引沢といえども、今は上中下と三つに分れたる邑名となれり」とあ』り、さらに『「武蔵風土記稿」には』、『「子ノ神社、除地五段、下馬引沢ノ内小名子ノ神丸ニアリ、ソノ処ノ鎮守ナリ。コノ社ノ鎮座ノ年歴ヲ詳カニセズ。本地仏ハ文殊菩薩ノ由イエリ。本社九尺ニ二間、拝殿二間ニ三間、社地ノ入口ニ柱間八尺ノ鳥居ヲ建、コレヨリ石段二十五級ヲ歴テ社前ニ至ル。又本社ノ未ノ方ニモ同ジ鳥居一基アリ。末社稲荷社、本社ノ左右ニワヅカナル祠、一祠ヅツアリ」』『と記されているので、この時代にも有名な神社であったことがわかる』(太字下線は私)とある。さても本神社の祭神は現在も大国主命であるが、彼の使いは鼠であることから、多くの彼を祭神とする神社は、甲子(きのえね)の日に祭事を行ってきた。そこから「子(ね)の神様」と呼ばれたのである。「丸」は一説に「村(むら)」の転訛ともされ、また、鎌倉時代の「名田(みょうでん)」(平安時代から中世に於いて荘園・国衙領(公領)の内部を構成した基本単位・徴税単位)の名残ともされ、ここがハイブリッドに正統直系の源氏所縁の場所であることを考えると、特にそうした霊験あらたかな場所として幕府から特別な扱いをされていたのかも知れない。ともかくも、以上が、私がこれを「ねのかみまる」と訓じた理由である。万一、読みが違うようであれば、御教授戴きたい。

「豐多摩郡代々幡(よよはた)村大字代々木一本松」現在の東京都渋谷区代々木附近であるが、調べたところ、直近北の東京都渋谷区富ケ谷一丁目31−1にあったことが判明した。個人サイト「東京都渋谷区の歴史」の「鞍掛の松 伝承地」に、渋谷区教育委員会の記載として、『現在では道路となっていますが、この付近には、かつて「鞍掛の松」と呼ばれていた名木がありました』。『この松については、江戸時代でも早い時期に編纂された「江戸鹿子」には、「所の人ハ古ヘ右大将源頼朝奥州征伐の時、此野に来、土肥月毛と云馬を此木につなき、同く鞍を此木に懸給ふ云、此木枝たれて木形面白く又比類なき松なり、」と記され、頼朝が欧州征伐の折、鞍をかけた松として紹介しています』。『また、「江戸鹿子」よりのちに書かれた「江戸砂子」では、頼朝でなく義家が奥州征伐(後三年の役)に行ったときの話としています。いずれにしても区兄にある伝承地(旗洗池・勢揃坂)と同じく、関東地方特有の源氏伝承のひとつといえましょう』。『松は、幕末・明治の激動期に枯死し、新しい松が昭和』一七(一九四二)年か翌年『頃まで存在していたようですが、道路(山手通り)の拡幅工事のため取り払われてしまいました』とある。間違いない。但し、こうした義家或いは頼朝が馬を繫いだとする松は、江戸及びその周縁に複数存在したことも判った。

「荏原郡の蒲田村大字蒲田新宿」「八幡社」現在の東京都大田区蒲田にある蒲田八幡神社かと思われる。国立国会図書館デジタルコレクションのこちらの左頁の「古塚」の記載が柳田國男の引用の「新編武藏風土記稿」のそれこの神社の境内には小さな古墳(円墳)があったとウィキの「蒲田八幡神社」にある。それがこの塚の正体に違いないと私は思う。しかし、柳田は「如何なる理由あるかを傳へずと雖も、恐らくは亦、之れと似たる口碑を有せし馬塚ならん」と言っているが、本当にそうだろうか? 柳田は「一目小僧その他」(私は全篇電子化オリジナル注をここで完遂している)の椀貸伝説の論考の中でも、実在する古墳と椀貸伝承を結びつけることを異様なほどに厭がっている(近代西欧的な考古学が自分の創建した民俗学に侵犯するのを生理的に嫌悪した非学術的意識の結果であると私は思っている)。ここも考古学的な古墳であった可能性(現在は事実。蒲田八幡神社境内古墳として認定されている)を完全に隠蔽し、無理矢理、民俗伝承としての馬を埋めた謂われのある「馬塚」なのだと強引に言っているように私には思えてならない。

和漢三才圖會卷第三十八 獸類 山羊(やまひつじ) (ヤギ・パサン)

Yamahituji

 

 

 

やまひつし 野羊 羱羊

 

山羊

 

サンヤン

 

本綱山羊【羊在原野者故名】似羚羊而色青大如牛善鬪至死其

角長惟一邊有節節亦疎大不入藥用堪爲鞍橋其皮厚

硬其肉頗肥有大小二種大者角盤環肉至百斤

 

 

やまひつじ 野羊 羱羊〔(げんやう)〕

 

山羊

 

サンヤン

 

「本綱」、山羊【原野に在る羊なり。故に名づく。】羚羊〔(かもしか)〕に似て、色、青。大いさ、牛のごとし。善く鬪ひて、死に至る。其の角、長く、惟だ一邊に〔のみ〕節〔(ふし)〕有り。節も亦、疎大にして[やぶちゃん注:大きいが粗雑であるから。]、藥用に入れず。鞍橋(〔くら〕ぼね)に爲〔(す)〕るに堪へたり。其の皮、厚く硬し。其の肉、頗る肥え、大小二種有り、大なる者は、角、盤環し、肉、百斤[やぶちゃん注:明代の一斤は五百九十六・八二グラムであるから、五十九・六八キログラム。]に至る。

[やぶちゃん注:既出の畜類の「羊」(哺乳綱鯨偶蹄目ウシ科ヤギ亜科ヤギ族ヤギ属 Capra)は古くから家畜化されていたので(ウィキの「ヤギ」によれば、『新石器時代の紀元前』七『千年ごろの西アジアの遺跡から遺骨が出土しており、家畜利用が始まったのはその頃と考えられている。従って、ヤギの家畜化はイヌに次いで古いと考えられる。しかしながら、野生種と家畜種の区別が難しく、その起源については確定的ではない。またパサン(ベゾアール)が家畜化されたと考えられているが、ヤギ属他種との種間雑種に由来する説もある』とある)、ここはそれが野生化したものととってよかろう。現行では、前に出た家畜のヤギの原種として現生するヤギ属パサン(ノヤギ・野山羊)Capra aegagrus が考えられているが、同種は、現在、中国には棲息しない。しかし、アゼルバイジャン・アルメニア・イラン・グルジア・トルクメニスタン・トルコ・イラン東部・パキスタンといった中国の西方一帯が棲息地であり、同種の繁殖期の♂は♂同士で直立して角を強調して威嚇したり、角を激しく打ちつけ合って争うので、これを同定種に挙げても問題はないかも知れない。本文では「大なる者は、角、盤環」、大きな個体では角が輪のように廻っている、と言っており、パサンは♂♀ともに有角で、半月状を成し、先端が内側へ向かう♂では最大一メートル三十センチメートルを超すサーベル状を成し(♀の角は約二十~三十センチメートルで短い)、ウィキの「パサン」によれば、『角の断面は扁平な三角形』で、『角の基部から上部後方にかけて稜状の隆起があり、先端方向の稜には瘤がある』。『角の表面にはわずかに横皺が入る』とあって、本文の「節」の叙述とも類似性があるように思われる。

 

「羚羊〔(かもしか)〕」前項

「善く鬪ひて、死に至る」単に闘争の様子が激しいことを指し、ヤギ類では相手を死に至らせるまでの闘争をすることは、まずない。人間とは違う。

「大小二種有り」パサンには亜種が三種(カフカスパサンCapra aegagrus aegagrus・シンドパサンCapra aegagrus blythi・クレタパサンCapra aegagrus cretica。但し、最後のそれはクレタ島のみなので外れる)いるが、これは恐らく雌雄や年齢差の違いであろうと思われる。

「鞍橋」実際に和語でこれで「くらぼね」と読む。馬具の一種。鞍の主要部分を指すが、鞍橋を単に「鞍」という場合もある。前輪 ・後輪(しずわ)・居木(いぎ)から成る。本来は革製であったが、獣骨も使ったのであろう。本邦の一般的なそれは木製であったようで、正倉院に朝鮮鞍式 (大陸系) のものと和鞍式の二種類が残る。]

本日の原民喜はこれまで

後、二篇を原民喜の忌月に電子化するつもりであったが、「夜景」の衝撃が激し過ぎ、それは後日とすることとした。

原民喜 夜景

 

[やぶちゃん注:昭和一四(一九三九)年五月号『三田文學』初出。

 底本は一九七八年青土社刊原民喜全集「Ⅰ」を用いたが(底本では「拾遺作品集Ⅰ」のパートに配してある)、以上の書誌データや歴史的仮名遣表記で拗音・促音表記がないという事実及び原民喜の幾つかの自筆原稿を独自に電子化してきた私の経験に照らして(彼は戦後の作品でも原稿では歴史的仮名遣と正字体を概ね用いている)、漢字を概ね恣意的に正字化することが、原民喜自身の原稿原型に総体としてより近づくと考え、今までの私のカテゴリ「原民喜」のポリシー通り、そのように恣意的に処理した。

 因みに、本篇は現在、ネット上では公開されていないものと思われる。

 それにしても――このブラック・ユーモアの幻想譚は、後の、驚くべき忌まわしいカタストロフの予言の書となっているではないか!?!

【2019年3月31日公開 藪野直史】]

 

 夜 景

 

 深夜の街の上には、南風が煽り出す眞綿のやうな白い薄雲が、三日月の光に照らされてふわふわと動いてゐた。塀から突出たポプラの枯木が、淡い影を落してゐる往來を、輕い塵が街燈の下へ流されてゐた。街燈の燈は睦むたさうに微かな瞬をした。その、ひよろひよろの柱を、小さな蜘蛛が這ひ登つて行つた。蜘蛛が這ひ登つて行く柱の裏側には、糸屑のやうな蟲が弱々しげにぢつと留まつてゐた。遠くの方で猫の妖しげな呼聲が聞えた。もつと遠くの方では犬の狂ほしげな聲が、時々休止をおいては續いてゐた。

 しかし、今耳を澄すと、誰か人間の跫音がこちらへ近づいて來る。草履を穿いてゐる人間らしいのだが、どうも陀しげな跫音だ。と思ふうちに、その人間の姿は向の角から現れた。そして今度は何か決然たる調子に跫音が變つた。ポプラの影の突出たコンクリートの塀の處まで來ると、彼はちよつと頭を上にあげて頤で、塀の高さを見計つてゐた。が、やがて事もなげにするすると身を飜へして、巧みに塀に登つて行つた。泥棒らしくもない細つそりした優男なのだが、到頭、塀のてつぺんに腰を下したかと思ふと、どうしたものかそれからさきは身動きをしなくなつてしまつた。もう向側へ飛降りさへすればよささうなものを、急に安心でもしたのか悠々と兩足を塀のてつぺんに掛けたまま動かないのである。ところが更に奇妙なのは、さうしてゐるうちに、塀の上の泥棒は微かに鼾をかき出した。その鼾ほ始めは靜かに絃を搖さぶるやうな響であつたのが、忽ち熟睡へ陷つたのか、轟然たる砲聲の如くあたりに鳴渡つた。その時には、しかし、もう四方八方から鳴渡つて來る家々の鼾の渦卷のために、泥棒の鼾も卷込まれてしまつた。今、鼾といふ鼾、屋根といふ屋根が、この街に棲む人間達の吐く物凄い鼾によつて搖れ出してゐた。

 そして、泥棒が熟睡してゐる塀から三〇米と離れてゐない角の交番でも、そこでも、四角な小さな建物が一人の巡査の發する鼾によつて滿たされてゐた。交番の硝子窓は四方八方から響いて來る鼾のために、メリメリと壞れさうになつてゐた。ここのテーブルに打伏せてゐるお巡りさんは、さつきまでは頻りに大きな帳面を繰つてペンで何事かを書入れてゐたのだつたが、不意と趾の方からこみ上げて來るあくびをした拍子に、まるで頤がもげさうな大あくびになつてしまひ、それからさきは、どうにもかうにも、不可抗力の魔睡に襲はれてしまつた。

 交番から東の方へ一直線の道路が停車場へ走つてゐたが、途中にコンクリートの橋が架けられてゐた。その橋の中程では、ダツトサンが一臺、橋の欄杆に衝突したまま留まつてゐた。運轉臺には若い男が手袋を嵌めた兩手をだらりとハンドルの上に投出して、圓い肩を波打たせながら鼾をかいてゐた。その鼾を叱陀するやうに、坐席の方からはもつとすさまじい鼾が發せられてゐた。鼻の尖つた、尖鋭な顎をした醫者が、端然として坐席に於いて熟睡してゐるのだつた。彼は急病人のために呼起されてさつき家を出た時から、うつらうつらし勝ちであつたので、睡氣を覺ますために端然とした姿勢で腰掛けてゐたのであるが、自動車が橋の手前まで來かかつた頃どうやら運轉が怪しげになつたと意識するうちにも、何時の間にか氣分は朦朧となつてしまつたので、ここで欄杆に衝突してゐるのを知つてゐなかつた。ダツトサンから發する二人の鼾は互に應呼して物凄かつたが、しかし外部の鼾に比べればものの數ではなかつた。今、橋の下を流れてゐる水は、兩岸の家々から洩れ出した鼾を湛へて、それはまるで洪水のやうに轟々と橋桁に突當つて渦を卷いた。また橋の上を通過する鼾の大群は、押合へしあひして橋から墜ちると、一種異樣な悲鳴をあげてゐた。

 橋の上をうまく乘越した鼾の群は一直線に停車場の廣場の方へ走つて行つた。そこには旅客を待ちうけてゐた自動車の一列が、てんでに好きな恰好をして、鼾を發散してゐるのだつた。驛の白堊の二階建の外壁に嵌められてゐる時計のダイアルの燈も、それらの鼾の溫氣のためにか茫と霞んで魘れてゐた[やぶちゃん注:「うなされてゐた」。]。そして驛の建物の内部は、天井が高くて音響がよくとほるために、ここでは鼾どもが自在に飛廻つてゐるのだつた。次々に壁を這登る鼾は天井にとどくと電燈の下をぐるぐる駈づり廻り、天井は絕えず雷鳴のやうな響を發した。改札口の方に吊されてゐる黑板の時間表は、それにも鼾が絡みつくために、今は白い文字が飴のやうにだらりと溶けてしまつてゐた。その下では一人の驛員が立つたまま熟睡してゐた。餘程最後まで魔睡と爭つたものらしく、彼の指は自分の瞼を摘んであけようとしてゐるのだつた。

 待合室の中央の大テーブルにはトランクや行李が積まれてゐたが、それらの間に頭を投出して、いろんな人物の姿態があつた。赤い鞣革の大きなトランクを大切さうに兩肘で庇ひながら[やぶちゃん注:「かばひながら」。]熟睡してゐるのは、肥滿した紳士だが、常にいい場所を獨占し、一秒と雖も自分の權利を主張することを怠らない、大變逞しい人格の持主らしかつた。その紳士のチヨツキのポケツトから金時計がぶら下つてゐるのに、さつきまで氣を奪られてゐた人相のよくないハンチングの男も、その男ときたら、まるで今は鐵槌で首を捻られてゐるやうな哀れな恰好で熟睡してゐた。口紅を圓く塗つた若い女は、鼻を天井の方へ向けてのびのびと睡つてゐたが、その隣にゐる母親らしい女は、萎れた夕顏の花のやうな顏であつた。二人は手と手を握り合つてゐるところをみると、娘の方が母親に甘え、母親が多少それをもてあました折、魔術に陷つたものらしかつた。この親子と向ひ合つたところに、眼鏡をかけた神經質さうな男が一人忙しさうに腕組して睡つてゐた。見たところ失業者でもなささうだが、さりとて歲もあんまり老けてはゐないのに、生活に疲れはてたやうな顏附をしてゐるのはあらそはれなかつた。そのほか、景氣のよささうな商人や、無意味にハリキルことを好むらしい若い三人づれの會社員や、神信心に凝りすぎて多少氣が變になつてゐる學生など、どれもこれも、今は正體もなく睡らされてゐた。

 全體として、それらの人間の寢顏は、黃色な深夜の電燈の下で、陶器のやうに佗しかつた。けれども、彼等の放つ鼾は、彼等とはまるで別個の存在のやうに、てんでにすさまじく活躍してゐた。それはまるで喧嘩のやうであつた。赤い揉革のトランクの肥滿した紳士の鼾がガガアと突進すると、圓く口紅を塗つた若い娘の鼾がキキとこれと衝突した。かと思ふと、三人づれの會社員の三種三樣の鼾の如きは、機關銃の音に似てしまつて、終に周圍を壓倒した。

 この華やかな待合室にひきくらべて、そこの窓口から向に見えるところの線路の方は、いささか見おとりする風景であつた。幾條もの軌道が闇の地面を匐つてゐて、電燈がしよんぼりと點在してゐた。一番近くの線路の上に、一人の驛員が懷中電燈を持つたまま、栗石[やぶちゃん注:「くりいし」。鉄道の床部分に用いる小石。]の上に蹲つてゐた。懷中電燈の明りは彼の靑い上着のポケツトの邊を照明してゐた。ところが今、彼の全身にパツと強烈な光線の洪水が襲つた。と見るや否や、何か黑い塊りが彼の上を通過し、やがていくつもの窓のある箱が次々に見え出した。そして、その列車はどうしたものか、そこの驛には留まらうとしないで、矢のやうな速力で素通りしてしまつた。その上、不思議なことには列車が素通りして暫くたつてから後始めて、線路の上に轟然たる鼾の大群が反響して來た。忽ち鼾は線路の上空に龍卷を生じ、さつき通過した列車の乘客達の殘して行つた鼾は、一頻り荒れ狂つた。鼾と鼾の摩擦する度に發する音は無數の蛙の啼聲のやうに、せつぱつまつて物狂ほしさうだつたが、やがて騷ぎは一つ減り一つ減り終に雨滴のやうに杜絕え勝ちになつて、何時ともなしに飮んでしまつた。すると線路の上は闇と靜寂が領した。[やぶちゃん注:このシークエンスは原民喜の最期の映像と異様に重なる。民喜はこの十二年後の昭和二六(一九五一)年三月十三日、吉祥寺・西荻窪間の鉄路に身を横たえ、鉄道自殺を遂げた。同日午後十一時三十一分のことであった。]

 しかし街の方では今、鼾は增々たけなはになつて行くばかりだつた。屋根も道路も電信柱も、人々の發する鼾によつて、ぐらぐらと煮えくり返つてゐた。つまり街全體が今は大きな鼾の坩堝の底に投げやられた相(かたち)であつた。一番物凄いのは街の中央にある練兵場だつた。そこにはすぐ脇に兵營があつたが、兵舍の屋根は巨大な馬の胴腹のやうに、ふわりふわりと伸縮してゐた。練兵場の一角にある紀念碑の邊には、市民の鼾が押寄せて來て、もう立錐の地もない程であつた。鼾はてんでに紀念碑の石のてつぺんへ登つたり、松の木の枝に引懸つたりしてゐた。

 練兵場の砂原では、濠々として砂塵が渦卷いた。立昇るその砂塵の底では、喇叭や馬の嘶きや、大砲の炸裂する音、劍銃のかち合ふ響に混つて、ワワワワと突貫の聲が聞えた。そして、砂塵は增々大きく、いよいよ濃くなつて、練兵場の上の空に擴がつて行つた。遠くから見ると、それは眞白な大入道の顏に似てゐた。

 そして街全體の吐く鼾のために、溫度は刻々に高騰して行つた。そのためにであらうか、羽蟲や蛾が何處からともなしに現れて來ると、見る見るうちに數を增し、辻から辻へ眞白な流れとなつて擴がつて行つた。それらの群は鼾の大群のために追捲られて、苦しまぎれに卵を産むので、アスフアルトの道路は粉雪のやうに白くなつた。街が茹つて來るに隨つて、鼾はいよいよ金屬的な音響となり、それは救ひを求めてゐる悲鳴や、癲癇のあまり發する咆哮と化してゐた。[やぶちゃん注:このシークエンスも驚くほど、六年後に広島を襲う原爆の地獄絵を予感させているではないか! ロケーションは示されていないものの、「練兵場」とは明らかに、原民喜の作品群に馴染みの場所として登場する、広島の陸軍西練兵場(現在の広島市民病院や広島県庁から東の八丁堀京口門公園・広島YMCA附近までの一帯を占めていた)に違いないからである。]

 

 しかし、この切羽語つた鼾の大群のなかにも、やはり氣の輕い、いたづら好きな連中がゐることはゐた。彼等は自分達が單なる鼾である分限をも忘れて、あべこべに睡つてゐる人間を一つ調弄つてやらう[やぶちゃん注:「からかつてやらう」。]と相談し始め、その揚句、四五の輕卒なる鼾どもは、あらうことか、片目の新一の家へ飛込んだのである。

 鼾どもは新一の枕頭をとりまいて、新一の耳をビリビリ引張つたり、塞いでゐる方の目の上を撫でてみたりしたが、新一も今は岩のやうに堅固な睡りをつづけてゐた。そのうちに身輕な鼾は新一の鼻の腔へ潛り込んで、そのなかでサクラ音頭を踊り出した。到頭、新一は口をひらいて、ハックショイ! と一喝した。それに誘はれて嚏[やぶちゃん注:「くしやみ」。]はたてつづけに放たれた。新一はギロリと片目を開いて、闇のなかに坐り直つた。まるで自分が何處に居るのやら、今何時頃なのやら、一切がわからなくなるほど轟々たる音響であつた。

 新一はたつた今、塞いでゐる方の眼が遠かにパツと開く夢をみてゐたのだが、どうも氣持が浮々して、これはほんとにさうなつたのではないかと思はれた。そこで電燈をつけて、柱の方の鏡に自分の顏を持つて行つた。そして慇懃な表情で、恐る恐る鏡のなかの自分を覗いた。すると忽ち、耳許にワイワイワイと猛烈な嘲笑が襲つて來た。新一はびつくりして、部屋の中央に立ちはだかつた。依然としてワイワイワイと嘲笑は煩さく[やぶちゃん注:「うるさく」。]聞えて來た。

「默れ!」と新一は咽喉から血走る聲を發した。けれども、さつきからひきつづいてゐる何者ともわからぬ喚きは一向に歇まなかつた。それは、すぐ隣の襖越しに聞えて來るかと思へば、また屋根の上や床の下からも洩れて來るのであつた。この正體の解らない音響は到頭、新一を滅茶苦茶に苛々させた。

「どうしようつてのだ!」と、新一は天井に對つて[やぶちゃん注:「むかつて」。]呶鳴つてみた。と、音響は今、ドカンドカンドカンと攻擊して來た。「ああ、耳がもげる」と、新一は悲鳴をあげて、兩手で耳朶を塞いでしまつた[やぶちゃん注:「耳朶」は「みみたぶ」(音なら「じだ」)であるが、ここは二字で「みみ」と当て訓していると読む。]。

 暫くして、もう止んだかしらと、恐る恐る耳にあてた掌を緩めてみると、忽ちザザザザと響は大海原の波のやうに搖れてゐるのだつた。新一はぼんやり向の襖に目を留めてゐたが、ふと氣がつくと、襖紙の破れて新聞紙のはみ出してゐる部分が、不思議なことに風船玉のやうに脹らんだり縮んだりしてゐるのだつた。こいつだな、と新一は音の發源地を發見したやうに前へ乘出して、その新聞紙へ指を突込んでみた。すると、忽ち小さな旋風が新一の指に突當つて、それと同時にガガガガ……と雜音が突擊して來た。新一はあわてて、そこの襖を開放つた。

 隣室には新一の母が睡つてゐたが、年寄つた母親は何の異狀もなく今も睡つてゐた。しかし、この大騷動のなかで睡つてゐられるのはどうも合點がゆかなかつた。その時、何だか生溫かい響が新一の足許へやつて來た。それはどうやら母の鼻から出たものらしいのであつた。

「お母さん、お母さん」と新一は母の寢顏に呼掛けてみた。すると、また烈しい音響がゴロゴロと生じた。新一はびつくりして壁の方へ身を寄せた。どうしてもこれは母を起さなければいけなかつた。

「お母さん、どうしたのです」と新一は母の肩に手をかけて搖さぶつてみた。けれども母は何の反應もみせなかつた。その癖音響ばかりは新一の頭上でパリパリと火花を發した。新一は段々手荒く母の瘦せた肩を小突いて行つた。

「起きて下さい、起きて」と、口調とともに怒りがこみ上げて來た。母はまるで新一を嬲りものにするやうに目を閉ぢてゐた。

「何故、起きないのだ」と新一はとうとう母の肩に鐵拳を加へた。「こいつめ、こいつめ、誰が、俺を片輪者にしたのだ」と、新一は片方の目からパラパラと淚を落しながら、亂打を續けて行つた。それでも母は眞白な顏で睡つてゐた。「これでもか、これでもか」と新一は母の肩に馬乘りになつて、無我夢中で母の頭を撲りつづけた。

 そのうちに草臥れて、暫く手を休めようとすると、その時になつて、ハツと新一は大變なことをしでかしてゐるのに氣づいた。今、轟々と咆哮する嵐の底から、「やつたな!」といふ聲が聞えた。新一はそれが死んだ父親の聲に似てゐるので、びつくりして、ガタガタと戰き出した。「違ふ、違ふ、違ふよ」と新一は必死の聲をあげて辯解しようとした。それから、ぐるぐると母のまはりを步いてゐたが、恐る恐る母の顏を覗くと、新一は母の胸許に手をやつて、そつと心臟の上を探つてみた。心臟はまだ溫かく、ドキドキと動いてゐた。それで新一は急に嬉しくなつた。

「とんでもない心配させて」と、新一は睡つてゐる母にむかつて苦情を云つた。ワハハハハと若々しい笑聲が新一の耳にはいつた。それは母の鼾にちがひなかつた。新一はこの強情な鼾には呆れ返つて、もうものが云へなかつた。

 この時玄關の方に何かどかりと重いものがぶつかる音響とともに、けたたましい犬の啼聲や、馬の嘶きや、鳥の叫びが一時に家のまはりを取卷いた。して、玄關の硝子戶はガタガタと搖れ、「開けろ! 開けろ! 開けろ!」と、一齊に人々が叫んでゐるのであつた。新一は遠かに怕くなつて、寢床のなかに潛り込んで、頭からすつぽり夜具を被つてしまつた。しかし、外の騷ぎはいよいよ大きくなつた。玄關の戶や雨戶は人々の手に手に亂打され、時々ワーワーと歡聲があがつた。

「開けろ! 開けろ! 開けろ!」と、今度は誰か一人の代表者が呶鳴つた。「開けなきや壞してはいるぞ!」と他の人が云つた。「火事だ、火事だ、火事だ」と彌次馬らしい聲もした。「出ておいでよ、新ちやん」と馴々しげに呼ぶ女の聲もあつた。はじめ新一はビクビクしてそれらの聲を聞いてゐたが、段々度胸が据つて來た。いい加減なことを云つて冷やかしてるな、と新一は却つて腹立たしくなつた。何だい、畜生、と新一は遂に起上つて、玄關の戶を開けた。

 すると、新一の顏をめがけて、澤山の羽蟲がむんと飛掛つて來た。新一は兩手でそれを拂ひ退けながら、あたりを見廻したが、人間は愚か猫の子一匹もゐなかつた。しかも、さつきから耳に馴れてゐる、ギヤギヤギヤといふ不可解な叫びは一層たけなはに續いてゐた。ふと、屋根の彼方の空を眺めると、恰度練兵場の上あたりに、大きな大入道の顏がにたにた笑つてゐた。

 ハハハハと新一は不意に大聲で笑つてみた。しかし大入道は消えなかつた。そこで大入道の方へむかつて拳固を擬し、「これでもかつ!」と呶鳴つてみた。すると大入道は眼玉をぐるぐる動かして急に怖氣づいたやうな顏に變つた。「それみろ」と新一は得意さうに呟いたが、その時また目の前を羽蟲がうるさく衝當つて來た。新一はあわてて片目を庇つた。と、今、新一のすぐ頭上を何か飛行機のやうな唸り聲がぐわんと通過して行つた。見ると、隣の塀の上に誰か腰掛けてゐて、唸りはそこから發してゐるのだつた。

「おーい、おーい」新一は塀を見上げてその男に聲を掛けてみた。が、相手は身動もせず頻りに爆音を發してゐる。

「君は誰だ、泥棒かい」と、新一は不審に耐へず猶も塀の男を凝視してゐた。

 そのうちに暫くすると、何か白い膜のやうなものが、その男の身體全體を包んでしまつた。と、思ふと、その膜はふわりと男の身體から離れて、路上に降りてゐた。

「えへん、君は誰だい」と、いま白い膜が落ちたところに入替つて正服の巡査が立つてゐた。新一はちよつとびつくりしたが、直ぐ氣をとりなほして、

「馬鹿にするな……」と呶鳴りつけた。すると、巡査はキヨトンとして鬚を捻つてゐたが、とうとう指で口鬚を捩ぎとると[やぶちゃん注:「もぎとると」と訓じていよう。]今度は新一の方へ手を差伸べて、

「御面倒さまです、切符を拜見させて戴きます」と、車掌になつて調弄つて來た。

「切符なんかない」と新一はそつぽを向いて相手にしなかつた。すると、相手は急に無賴漢の姿に變つて腕組みした。

「やいやいやい、一つ目小僧、面白くもねえ面しやがつて!」と、相手は凄さうな聲で新一に迫つて來た。

「やるか!」と、新一はさう叫ぶや否や、塀のところにある大きなポプラの枯木を片手でひつこ拔いた。新一は身の丈數倍もある枯木を輕々と縱橫振廻した。もう相手はすつかり氣を吞まれてしまつたらしく、パタパタ羽擊きながら路上を逃惑つた。

 新一が相手の頭上目掛けてポプラの枯木をパツと叩き据ゑると、その怪物はすーつすーつと空氣枕のやうに息が拔けて縮まり始めたが、やがてコトリと小さな響とともに路上に轉がつて落ちたのは、蝸牛であつた。しかし、猛りたつた新一はそれを眺めても氣は收まらなかつた。足で蹈拉かうか[やぶちゃん注:「ふみしだかうか」。]と思つたが、ふと、向の露次にある塵芥車を片手で引寄せると、箱の蓋を開けて、そのなかに蝸牛を放り込んでしまつた。それから彼は片手で大きな荷車を牽き、片手でポプラの枯木を背負ひながら、大きな地響をたてて進んで行つた。

 すると向の角から市會議員の松村氏がやつて來た。新一の親類にあたる男だつたので、選擧の時には彼が極力應援してやつたのだが、相手は當選してしまふと、もう新一なんかには見向もしてくれなかつた。ところが今は何の風の吹き廻しか、松村氏は大變にこにこと笑ひながら遠くから新一の方へ近寄つて來る。どうも樣子が變だと、新一が疑つてゐると、はたして相手の步き振りはまるで女のやうになつてしまつた。そして、顏もそつくり今は女だつた。その奇妙な女は一生懸命しなを作つて、厚釜しさを押包んでゐる。何が面白くて松村氏は今やこんな女になりはてたのか、新一は啞然として立疎んでゐた。すると相手は得々として、新一の傍までやつて來ると、

「お兄さま」と、甘つたれた聲を放つた。

「馬鹿にするな」と、新一は片手の枯木を大上段に振落した。ポプラの枯木で叩き伏せられた女は暫くは、じたばたやりながら、種々雜多の罵詈雜言を世にも恐しい早口で喚き立ててゐたが、やがて、おとなしくなつたと思ふと、其處にはまた蝸牛が轉つてゐた。新一はそれを拾ひあげると、塵芥車の箱に放り込んだ。

 それから再び片手で荷車を引き、片手で枯木を背負つた姿勢にかへると、もう目の前には新たな怪物が現れかけてゐた。新一は片目にちよつと笑みを浮べて相手を眺めた。隣の家の若い娘が拔足差足でこちらを覘つてゐるのであつた。娘はハンチングなんか目深にかむつて、刺客めいた上衣を着てゐる。と、いよいよ機會は到來したやうに眉をピクリと釣上げたかと思ふと、後に隱し持つたピストルを新一にむけて擬したのである。新一は娘の思ひあがつた恰好がをかしくて、にこにこ笑つてゐたが、娘はそれでも眞劍だつた。忽ちピストルの彈丸は新一の方へ飛來したと見るより、それは一匹の蝸牛と化し、娘の姿はもう吹消されてゐた。新一は樂々とその蝸牛を掌に取上げた。

「暫く待つた」と屋根の上で聲がした。見上げると、そこには街でよく出喰はす乞食の躄(ゐざり)が、兩脚でピンと瓦をふんまへて、大きな梯子を振上げながら新一に挑み掛らうとしてゐた。

「相手にとつて不足はあるまい」と乞食は勝手に決めてしまふと、梯子を薙刀のやうに構へた。新一がづしんと枯木で打込んで行くと、梯子はミシミシと音をたてて折れさうになつた。「龍虎相搏つ」と乞食はのん氣なことを喋つてゐる。新一はこいつも早く蝸牛にしてしまひたいので、猛然とポプラの鉾先で相手の胸許を突刺した。

「遺憾千萬」と乞食は目を白黑させながら、まだそんなことを喋つてゐたが、終にころりと屋根から墜落すると、もう小さな蝸牛になつてゐた。

 新一がそれを拾つて箱に投入れるや否や、もう彼の前には別の相手が現れてゐた。今、蹄の音もかつかつと白い駿馬に跨りながら彼の方へ驀進して來るのは、金光教教會の裏に棲んでゐる盲者の按摩だつた。盲者はかつと兩眼を見開いてゐて、偉風堂々と帽子には雞の羽根を著けてゐるので、これは屈強な敵のやうに思へ、新一は何故とも知れず無性に腹が煮えくり返つた。

「目をつむれ、目を、卑怯だぞ」と、新一は大聲で叫んだ。

「默れ、新一、さあどうだ」と、相手はバツと外套を脫捨てると、細長い劔を夢中で振廻した。しかし、どうしたはずみか、やがて相手の劔はポキリと折れてしまつた。すると、按摩は「おやつ」と呟いて、不審さうに折れた劔に見入つてしまつた。そのうちに鞍上の主人が弱つたためか、馬は見るまに四本の脚がぐにやりとなり、長い首をだらりと垂れて、馬はぺつたりと路上に坐つてしまつた。新一は難なく相手を蝸牛にしてしまつた。

 片手に抱へ持つポプラを路上に下して、新一が一息ついてゐると、今、彼方から水母のやうな塊りがふわりふわり[やぶちゃん注:ママ。]と飛んで來るのだつた。それはたしか、新一の姪の高子がこの間産んだ赤ん坊にちがひなかつた。新一ははたと困惑の表情で相手を睥んだ[やぶちゃん注:「にらんだ」。]。しかし、この半透明な怪物は新一の顏の前まで來ると、オワア、オワア、オワアと奇聲をあげて煩さかつた。新一は片手で相手を拂ひ退けようとしたが、赤ん坊は新一の肩の上に留まつてしまつて、頻りにオワア、オワアと喚きつづけた。

「やかましいぞ」と、突然新一は兩肩を震はせて、地蹈鞴[やぶちゃん注:「ぢたたら」「ぢただら」「ぢだたら」と読むが、これで「ぢたんだ」と当て訓しているかも知れない。]を踏んだ。と、赤ん坊は猫のやうに新一の肩から滑り降りると、今度は荷車の上に留まつてミヤオミヤオ、ミヤオと啼き出した。新一は荷車を搖すつて、赤ん坊を振落したが、相手はまだ逃げ出さうともしないで路上に蟒局[やぶちゃん注:「とぐろ。]を卷いてしまつた。そして今度はコケコツコオと雞の啼き聲を發した。

「馬鹿にするな」と、とうとう[やぶちゃん注:ママ。]新一の怒りは爆發して、ポプラの枯木をむんずと振上げた。すると相手はすーつと靑白い光を放つて飛立つたかと思ふと、振上げたポプラの枝に留まつてしまつた。

「えツ、いまいましい」と、新一はポプラの木を自棄に[やぶちゃん注:「やけに」。]振り動かせたが[やぶちゃん注:ママ。]、ポプラの梢にゐる相手は今は螢に化けてしまつてゐた。新一が暫く口惜しさを我慢して、手を休めてゐると、梢にゐる赤ん坊はジジジジジと蟬の啼聲を放ち出した。それでも新一は今は相手に油斷さすために素知らぬ顏をしてゐた。蟬は新一をじらすやうに、いよいよ調子づいて啼きつづけた。新一は突然飛上つて、梢の蟬を掌で押へつけた。掌に捕へた蟬はまるで茹卵のやうに熱かつた。新一はもう少しでびつくりして放すところだつたが、顏を顰めてぐつと掌で握り潰した。急に掌のなかの物體が冷たくなつたと氣づいた時、それはやはり蝸牛にされてゐた。

 しかし、新一が赤ん坊との戰爭で夢中になつてゐる隙に、他の強敵が今のそのそと彼の方へ匐つて來てゐた。新一はビクリとして今度は少し靑ざめてしまつた。山ほどもある大きさの蜘蛛が、無數の足を擴げて、今刻々と新一の方へ接近して來る。あんなに巨大な腹をしてゐるのは、子持蜘蛛にちがひなかつたが、何よりも困つたことには、新一は生れつき蜘蛛が怖かつたのである。暫く息苦しい睥み合ひを續けてゐたが、怖さに堪へかねて、今はキヤツと叫ぶと同時に、無我夢中で枯木を叩きつけた。と、簡單に手應へはあつたのか、蜘蛛はぐらぐらと山嶽の崩れ落ちるやうな音響とともに消え失せてしまつた。そして路上は見渡すかぎり蝸牛の群で滿たされてゐた。殘念なことに、その時、新一の姿はもうなかつた。

原民喜 夢の器

 

[やぶちゃん注:昭和一三(一九三八)年十一月号『三田文學』初出。

 底本は一九七八年青土社刊原民喜全集「Ⅰ」を用いたが(底本では「拾遺作品集Ⅰ」のパートに配してある)、以上の書誌データや歴史的仮名遣表記で拗音・促音表記がないという事実及び原民喜の幾つかの自筆原稿を独自に電子化してきた私の経験に照らして(彼は戦後の作品でも原稿では歴史的仮名遣と正字体を概ね用いている)、漢字を概ね恣意的に正字化することが、原民喜自身の原稿原型に総体としてより近づくと考え、今までの私のカテゴリ「原民喜」のポリシー通り、そのように恣意的に処理した。

 幾つかの気になる語に先に注を附す。

 第一段落。

「米搗螇蚸」は「こめつきばつた(こめつきばった)」と読む。コメツキバッタは、①捕まえて後脚を揃えて持つと、体を上下に動かすのが、米を搗く姿を思わせることから、お馴染みのショウリョウバッタ(昆虫綱直翅(バッタ)目雑弁(バッタ)亜目バッタ下目バッタ上科バッタ科ショウリョウバッタ亜科Acridini 族ショウリョウバッタ属ショウリョウバッタ Acrida cinerea)の別名であるが、一方で、②やはりお馴染みの、仰向けにすると、頭部と胸部の関節を急速に動かしてパチンと振り上げて跳ね、元に戻る能力を有する小型甲虫コメツキムシ類(鞘翅(コウチュウ)目多食(カブトムシ)亜目コメツキムシ上科コメツキムシ科 Elateridae。この動作が米を搗くそれに似ていることに由来するが、種群の総称通称であってコメツキムシという種はいない)に属する多数のコメツキムシ類の別名でもある。ここでは孰れとも判然としないが、私はコメツキムシ類をコメツキバッタと呼んだことは経験上無く、一読した際は前者のショウリョウバッタととった。複数の個人記事を確認すると、広島地方では後者コメツキムシは、恐らくその音から「ペキン」と呼ばれることが多いこと、やや西の福岡ではショウリョウバッタを「コメツキバッタ」と呼ぶとする記載を確認出来たので、私はやはりショウリョウバッタでとることとする。

・その直後に出る「孩子」は中国語で「子供」の意で、サイト「ふりがな文庫」の「孩子」では「あかご」「わらし」「おさなご」「がいし」の複数の著名作家の用例を掲げるが、文脈上、後の二つはそぐわず、「あかご」もおかしい感じがする。「わらし」は主に東北地方の方言であり(同用例の作者佐左木俊郎は宮城出身)、これもピンとこない。私はシークエンスからも「こども」と読んでおく

・やはりその直後に出る「膃肭臍」は「おつとせい(おっとせい)」で、哺乳綱食肉(ネコ)目イヌ亜目鰭脚下目アシカ科オットセイ亜科 Arctocephalinae のオットセイ類を指す。因みに、本邦で現認し得る(日本海及び太平洋側は銚子沖辺りから以北)野生のそれは、キタオットセイ属キタオットセイ Callorhinus ursinus のみである。

・「ボイル」voile。強撚糸(きようねんし)で粗く織った薄地の布。夏服やシャツに使用する。

 最終段落。

・「セル」「セル地」のこと(但し、「地」は当て字)。「セル」はオランダ語「serge」の略で、布地の「セルジ」のこと(「セル地」という発音の偶然から「セル」と短縮された)。梳毛糸(そもうし:ウールをくしけずって長い繊維にし、それを綺麗に平行にそろえた糸)を使った、和服用の薄手の毛織物。サージ。

 因みに、本篇は現在、ネット上では公開されていないものと思われる。【2019年3月31日公開 藪野直史】]

 

 夢の器

 

 露子は廊下の曲角で靑木先生と出違つた。先生は「ホウ」と輕い息をして露子の前に立留まつた。すると廊下に添つた左右の教室のドアが遠くまで花瓣のやうに開いて、そこからひとりづつ女學生の顏が覗いた。みんな露子を珍しさうに眺めてゐるらしかつた。もう私はとつくに結婚して居るのに、と思ふと露子は何だか無性に腹立たしく、恥しかつた。それで耳の附根まで眞赫になりながら先生の前にもぢもぢしてゐた。「あのひとよ」と誰かが囁いた。その聲は近所のおかみさんの聲だつた。急に露子は嚇として、「あなたがいけないからです」と靑木先生の兩肩を押へつけると、ぐらんぐらん左右に搖すぶつた。先生はべらべらの紙人形のやうに搖さぶられて居た。そのうちに露子は先生を苦しめてゐるのに喫驚して[やぶちゃん注:「びつくりして」。]手を緩めた。靑木先生の眼球はほんとうに辛らさうに黑く顫へて居た。恰度、小さな弟が死ぬる時の眼つきだつた。それに紙人形になつてゐる顏から眼ばかり圓々と生きてゐるのだから。露子は半信半疑で、これは夢をみてゐるらしいとおもつた。しかし動悸が高まつてゆくと、どこかで鐘の音が聞えて來て、やがて廊下は女學生の顏で一杯になつてしまつた。もう露子もそのなかの一人になりきつて居た。露子の友達がキヤツキヤツと叫んで我勝ちに走つて行くのは、誰かが運動場の處に氣違が來てると云つたからだ。その氣違なら露子も同窓會の時一度見たのだつたが、皆が走つて行くのに誘はれて露子も走り續けた。氣違はもう一同を待兼ねて居たとみえて、皆の姿が集まると、ニコニコ笑つてお叩儀をした。これが一級上の優等生の林さんの變り果てた姿かと思ふと、露子は淚が出さうになるのだつた。ところが林さんの方は如何にも得意で嬉し相に、皆の方へ秋波を送りながら、「學校、面白いわね」と片言を喋つた。忽ち、皆はキヤツ! と大袈裟な笑ひに捲込まれ、どの生徒も、どの生徒も米搗螇蚸のやうに腰を折つては笑ひ狂つた。すると林さんはもの靜かに笑ひながら、もう次に云ふ言葉を想ひ着いてゐるらしい。一同の笑ひが靜まつたのを見計らつて、「皆さんは、孩子産みますか」と眞顏で訊ねた。そして懷から小さな枕を取出して、大切さうに抱へてみせるので、もう皆は笑はなくなつた。「あのひとも結婚してから苦勞が重なつて、到頭あんなになつたのです」と、露子の側に立つてゐる光子が話しかけた。何時の間にか女學生達は消えて、光子と二人きりで眺めてゐるのだつた。……氣違の女は運動場の砂の上に膃肭臍の恰好で蹲つてしまつた。そして、もう動かうとしないので、それは海岸の巖のやうに想はれ出した。いくらか靑味をおびた硝子が嵌められてゐるのは額緣の景色かもしれなかつた。ふと露子は自分の今居る病室の壁に掛けられてゐる額を眺めてゐるのに氣附いた。それは新綠の丘の上に茫と圓味をおびた紫色の山が姿を顏はしてゐる繪だつた。が、今、山の後にあたる靑空が時々、晴くなつて慄へるので、露子はまだ氣が遠くなるやうだつた。たしかに、山の裏側から白い靄のやうなものが匐ひ出して來た。視ると、それは彼女がむかし愛玩してゐた西洋人形とそつくりの、ボイルの服着てゐて、顏は櫻んぼうのやうに小さかつたが、限界がきちんと見え、何ともいへない優しい素振りで、今ふわりと額緣の中から二三寸拔け出して來た。露子は何だか相手が不吉な使ひのやうに思はれて、ぢつとりと汗ばみながら怕く悲しくなつた。しかし相手は恍惚とした小さな貌で露子に微笑を投げかけてゐるのだ。そして、まるで鞦韆[やぶちゃん注:「ぶらんこ」。]の綱が伸びて來るやうに無造作に露子の顏へ對つて走つて來た。

 はつと愕いた時には、もう相手は消えてゐたが、眼の前には附添の看護婦の白衣の袖が近づいて居た。看護婦の香川さんは何時ものやうに默つて檢溫器を露子の脇の下に差入れたが、ふと彼女の額を掌で輕く撫でながら、「大分汗をおかきですね」と呟いた。「ああ」と富子は少し靑ざめた聲で應へた。「さつき私は何か唸つてゐなかつた」「いいえ、靜かにおやすみで御座いました、何か怕い夢でも御覽でしたの」「ああ」と露子は子供のやうな聲で頷いた。「あのね、あそこの額緣から小さな魔法使がすーつと出て來たの」と、露子は看護婦の顏を視凝めた。看護婦は急に何かはつと驚いた容子であつたが、「その魔法使の顏はこんな顏ですか」と露子を覗き込むと、看護婦はさつきの魔法使になつてしまつた。あああ、と露子は悶絕した。すると、すぐ近くで樂隊の音がして、魔法使の鞦韆は嵐のなかの舟のやうに左右に搖られてキリキリ舞つた。その苦痛が露子にも直接響いて來るので、あああと彼女は唸りつづけた。私はまだ夢をみて魘れて[やぶちゃん注:「うなされて」。]ゐるのにちがひない……香川さんの意地わる……。露子はきれぎれにそんなことを思ひつきながら、苦しみが鎭まるのを祈つた。……やがて、不思議な鞦韆は後を絕つて、遠くの方から頻りに彼女の名を呼ぶものがあつた。今度こそほんとに目が覺めたやうな氣持だつた。しかし、眼の前がまだ雨降のやうに薄暗く、體もぐつたり疲れてゐた。そこへ光子が大變怒つた顏でふらりと現れて來た。「何處へ行つてゐたのです、人が折角話しかけてゐると、すーつと消えてしまつて」と光子は云つた。露子も喫驚して、さいぜんからの續きを憶ひ出さうとしたが、あたりの樣子からしてもう變つて居た。光子は苦情云つてしまふと[やぶちゃん注:ママ。「苦情を」の「を」の脱字であろう。]、すぐに氣が輕くなつて、今度は露子の機嫌をとらうとするのだつた。「あれ、あんな綺麗な露が」と、光子は廊下の窓から半身を乘出して、外の方を指差した。露子が光子の肩の脇から覗き込むと、そこは講堂の入口の庭で、若竹の纖細い[やぶちゃん注:「かぼそい」。底本は「纖」は「繊」で、経験上から言うと、民喜はその「繊」の字体を使用しているかも知れない。]枝に小糠雨が降灑いでゐて、枝に宿る露の玉は螢に似た光を放つてゐた。「露つてあんなに美しいものかしら、まるで生れて始めて見るやうな氣が致しますわ」と光子は柔かな聲で話しかけた。露子は不思議に惱ましく、何か胸の邊が茫として、頭も柔かくなりすぎた。すると、ふわふわの[やぶちゃん注:ママ。]靄のなかに膃肭臍の姿が閃いた。露子ははつとして林さんのことを憶ひ出した……。

 ところが、其處へ級長の林さんが先頭になつて、一級上のクラスが整列して進んで來たので、露子は茫然としてしまつた。級長の林さんはきつと薄い唇を結んで、脇目も振らず講堂の方へ步いて行き、それに續く上級生達が露子の脇を通り過ぎると、少し冷たい風が過ぎて行くやうであつた。列が杜切れたかと思ふと、暫くして、今度は露子のクラスの生徒がやつて來て、くすくす笑ふ聲が洩れた。見ると列のなかにほ、ちやんと光子の顏まである。そのうちに何時の間にか露子も列のなかに加はつてゐて、後から光子に肩を叩かれた。もう列は講堂の入口へ來てゐた。遠くの白い壁に掛けてある額が、それは露子の死んだ父の肖像だつた。ピアノの上には露子が飼つてゐた白猫が蹲つてゐた。室内は生徒の顏で一杯になり、何かそはそはと愉快さうな空氣が漾つた。氣がつくと、先生達の椅子の列のなかに、露子の夫が澄し込んで腰掛けてゐた。中央の壇上の大きな臂掛椅子の上には露子の叔父の今中さんが毛皮の外套を着て腰掛けてゐた。今中さんは行儀惡く長靴の膝を組合はせてゐて、それに外套の上に大きなダリアに似た勳章を吊下げてゐたが、露子は叔父が勳章なんか持つてはゐない筈だし、また何かいたづらをするのではないかと冷々した。しかし叔父さんは如何にも欣しさうに皆の方へ時々、懷しげな笑ひを投げかけた。すると、生徒達はもう待ちきれなくなつたやうにパチパチと盛んに拍手を送つた。到頭、叔父は椅子から巨體を浮上がらせて、テーブルの處へやつて來た。拍手はいま割れるばかりになつた。叔父は悠々と水差からコップに水を汲んで飮み、ポケツトからハンカチを出さうとしたがなかなか出て來ず、何か黑い塊りをテーブルの上に置いた。「ピストルよ、ピストル」と生徒達の囁きがあちこちで聞えた。やつと叔父はハンカチを取出して、それで口髭を一拭きすると、ちらつと惡戲氣[やぶちゃん注:「いたづらけ(いたずらっけ)」。]の笑みを浮べた。「さて、皆さん、私は本校から派遣されて、遠く、かのアフリカへ行つて來たものであります」皆はそれだけ聽くと、くすくす笑ひ出した。露子は叔父がいよいよ出鱈目を喋り出すので恥しくなつた。「アフリカと申しますと、ライオンや、虎や、獅子や、象、水牛、河馬……」と、叔父は愈[やぶちゃん注:「いよいよ」。]圖に乘つて、「ところが、なかんづく、特に、面白い動物中の動物、白熊を生捕にして持つて歸りましたから、只今卽刻御覽に入れます」……その時、ピアノ上の白猫が立上つて、叔父のテーブルの前に來た。白猫はゴロゴ咽喉を鳴らしながら頻りに叔父に對つて笑ひかけてゐる。それは何だか亡くなつた叔母の顏に似て來て、露子は奇妙にもの哀しくなつた。叔父は叔父で、白猫の動作を默つて視守つた儘、もう剽輕な表情を引込めてしまつた。次第に叔父の額には思慮の皺が寄り、瞳はしょぼしょぼと瞬いた。猫は懷しさうに叔父の胸許に身をすり寄せ、「あなた樣」と、はつきり人間の言葉を放つた。叔父はすつかり感動したらしく、「ううん」と重苦しい聲を洩らした。「お前でも人間の言葉がわかるのか」「ええ、私も立派に人間と會話が出來ます」「儂は今迄それを知らなかつた、ああ、さうだ、これも神樣の御意といふものだ」さう云つて叔父は兩手を空に擧げて祈るやうな恰好をした。講堂は今、しーんとしてしまつて、誰ももう居なかつた。……露子はすつかり叔父の動作に惹きつけられて、靜かに壇上の叔父を視凝めた。すると今迄叔父だと思つてゐたのは、先日ここの病室に訪れて呉れた牧師の今中さんだつた。牧師の方でも、露子の熱心な瞳に氣づいた。「あなたはその儘にしてゐらつしやい、起上らなくとも寢たままでもお祈りは出來ます」と、牧師は露子を靜かに瞰下し[やぶちゃん注:「みおろし」。「かんかしながら」でもよいが、硬過ぎる。]ながら語つた。「あああ、私は一體どうなるのでせう」と、露子は自分が依然としてベツトに橫はつてゐるのを知つて、悲しくなつた。「靜かな氣持でゐらつしやい、懷疑や焦躁は惡魔の侶[やぶちゃん注:「とも」。]です」牧師はゆつくりと太い眉に力を籠めて應へた。「あなたがゐらして下さる間は私も救はれたやうな氣持になれます。ですけれどお歸りになつたすぐ後で、もう私は駄目になつてしまふのです、駄目ですわ、駄目ですわ、こんなに私は弱つてしまつてゐて、淋しいのです」と露子は聲をあげて泣き出してしまつた。相手は無言のまま凝と彼女の歔欷[やぶちゃん注:「きよき(きょき)」。すすり泣き。むせび泣き。]を聞いて居て呉れた。露子は段々氣持が宥められて[やぶちゃん注:「なだめられて」。]、今はただ甘えて泣いてゐるやうに思へた。相手はまだ立去らうとしないで露子を瞰下してゐた。もう露子は泣いてはゐなかつた、むしろ何かを期待するやうな心地だつた。すると、相手は傍にゐる看護婦に輕く合圖した。檢溫器が露子から取上げられ、醫者の掌に渡された。醫者は體溫表をちよつと眺めてゐたが、やがて、露子を勞はるやうな口調で云つた。「だんだん快方へ向つてゐます、もう一週間もすれば退院出來ませう」露子は急に淚が出るほど嬉しくなつた。何も彼もが胸に痞へて[やぶちゃん注:「つかへて」。]、それで容易に言葉は出なかつた。すると看護婦が、「もう一週間すれば櫻が咲いて恰度お花見頃ですわね」と云つた。露子は目の前が眩しく、櫻の模樣がちらついた。それでは退院する時の晴着を母に云つて取寄せて貰はうかしら……と思ふと、變なことに、その着物なら既に以前からこの病室へ取寄せてあり、今も壁に掛けられてゐるのだつた。

 露子はがつかりして氣持が崩れ、息の根も塞がりさうになつてしまつた。今、病室には誰も居なくて、廊下の方も森としてゐた。夜なのか晝なのか時刻も不明で、生暖かい空氣が頻りに藻搔いてゐた。時々、キヤツ! と叫び聲がすると、後はまたしーんとしてしまふ。突然、寢てゐる寢臺が鐵の腕を伸して、後から彼女に飛掛つて來た。そして寢臺は鐵の腕を縮め、ぐんぐん彼女を締めつけて行つた。もう救ひを求めようにも、聲は出なかつた。いいえ、これはやつぱし夢にちがひない、それなら何も怕がらなくてもいいはずだ……露子はぐつたりと疲れた頭で考へてゐた。こんな氣持の惡い夢でなく、もつと面白い綺麗な夢を、あのさつきの講堂で叔父さんがお話して呉れるやうな夢でもいいし、もう一度學校へ後戾りしてみたい、……學校の講堂の、さつきは雨が降つて、笹の葉がまるで螢みたいだつた……。何時の間にか露子の背中に嚙みついてゐた寢臺は力を失つて、それと氣づいた時には、彼女の體は石塊のやうにぐらぐらした闇の底へ墜ちて行くのだつた。

 やがて、房子の體は實家の二階の瓦の上に墜ちてしまつた。非常に睡むたかつたが、彼女は瓦を踏んで窓から六疊の部屋の方へ這入つて行つた。そして疊の上に寢轉ぶと、すぐ睡れさうになつた。今度の夢はここから始まるらしく、何だか自分でそれを知つてゐるのが氣持惡く、どうにもならないことのやうであつた。ぢつと寢轉んでゐると、額の方に窓の靑空が眩しく感じられ、すぐ近所の鑄掛屋でブリキを叩く音がだるさうに響いて來た。時折、表の通りを地響をたてて自動車が通つた。隣の庭の赤松の枝で雀が頻りに囀り出したのは夕方に近づいたしるしらしかつた。そして露子はいくらか饑じく[やぶちゃん注:「ひもじく」。]なつて來た。寢轉んでゐるすぐ枕頭の方には勉強机があつて、その机の上にスケツチブツクが放つてあつた。そのスケツチブツクの白い頁がすぐ露子の瞼の上に漾つて來た。露子は寢轉んだまま、一生懸命その白い頁の上に日記を書き出した。大變みごとな文章がすらすらと綴られて行き、自づと彼女の睫[やぶちゃん注:「まつげ」。]には淚が溢れて來た。もう頁はすつかり塞がつて行つた。が、ふと彼女はこの儘その日記を夢の中で失ふのが惜しく思はれて來た。これは早く目を覺して、枕頭の日記帳へ書きとめておきたかつた。……暫く藻搔いた揚句、彼女はベットの枕頭へ手を伸して、漸く日記帳を取出した。それは入院以來つけて來た日記だつたが、もう久しく忘れられた儘になつてゐるのだつた。彼女は寢たままで、胸の上の日記帳を展げて、ぼんやり眺めた。氣がつくと、何時の間にか誰かが亂暴な文字で一杯にいたづら書をしてゐるのだ。妙に腹立たしく、頰まで火照つて來たが、亂暴な文字の意味は一向に讀めなかつた。それで氣持は惑つて來たが、ふと兩手で支へてゐる日記帳に重みがないのがをかしく思へた。すると、今迄日記帳だと思つてゐたのは、小さな玩具の草履だった。それに露子の兩手はちやんと蒲團の下に在つて、草履は勝手に彼女の顏の上に浮いてゐるのだつた。もしかすると、天井の電燈が熱の所爲で草履に見えるのかもしれない。だが草履の表にははつきりと苺の模樣が着いてゐて、緖は水色だつた。ぼんやりとも靄のやうなものが草履の後に見え出して、速かに草履は誰かの指で動かされた。「氣がついたかね」と夫の聲がした。何時の間にか夫は彼女のベツトの側の椅子に腰掛けてゐた。夫は玩具の草履をポケツトに收めると、タバコを取出して火を點けた。「あなたは何時上陸なさつたのです」と露子は訝しげに眼を細めた。夫はそれには應へないで、ぼんやりと煙草を銜へたまま、何かうつろな面持だつた。すぐ目の前に居ながら、まるで氣持は無限に離れてゐる、ただ拔け殼だけが今もここにある……その日頃からの想ひが仄かに露子に甦つて來た。すると夫も露子の氣持を覺つたのか、更に他所他所しい表情になつて行く。このままではもう間もなく消えて行くに違ひないと露子は思つた。非常に濟まない氣持がこの時になつて彼女に湧いた。しかし、既に形を失ひかけた人物は今、最後の光芒を放ちながら、ヂリヂリと蠟燭の燃え盡きる音をたてた。急に彼女の胸は高く低く波打ち出した。寢臺のまはりには暗黑の海の波が荒れ狂つた。すると、彼女の寢臺はビユーと唸りを發するとともに、高く高く天井の方へ舞上つた。それから暫くはぐるぐると病室のなかを飛移つてゐたが、やがて再び元の位置に据つた[やぶちゃん注:「すはつた(すわった)」。]。その時には夫の姿はもう完全に失はれてゐた。

 彼女は荒れ狂ふ寢臺にすつかり脅え、眼は虛しく天井を瞻あげた[やぶちゃん注:「みあげた」。]。すると今、病室はさながら水槽の底のやうに想へて、露子は刻々に溺れゆく自分を怪しんだ。物凄い速力で水は流れ、そのなかにもう體は木の葉のやうに押流された。次第に水の流れは緩くなつた。そして露子はどうやら、橋の下を今潛つてゐるやうに思へた。橋杙[やぶちゃん注:「はしぐひ(はしぐい)」。「杙」は「杭」に同じい。]の影が靑い水の層から伸び上つてゐる方は、眩しい靑空で、石崖のまはりの水は冷んやりとして渦捲いてゐた。しかし、仄かに靑い水を透して眺められる橋の姿は、何だか病室の寢臺の脚に似てゐた。さう思ふと、川底までが病室の黑光りする床に異らなかつた。だが、頭の上の方をゴロゴロと荷車が通つたり、下駄の行替ふ[やぶちゃん注:「ゆきかふ(ゆきかう)」。行き交う。]音がするのは、橋の下にゐるやうだつた。……暫くすると、露子の眼の前に小さな鮒が泳いで來た。鮒は露子の鼻先に來てとまり、それから、ひらりと身をかはして、壁に掛けてある着物の裾へ泳いで行つた。見ると、露子の晴着は小さな水の泡が一杯ついてゐて、海草のやうにゆるやかに搖らいでゐた。鮒は袂の下を潛り拔けると、まつすぐ露子の方へ泳いで來た。その眼球がたしか、友達の光子だつた。「氣がついて」と相手の鮒は話しかけた。どうやら露子も鮒になつてゐるらしいのに氣づいた。すると、全身から白い膜のやうなものが、ふわりと脫ち[やぶちゃん注:「ぬけおち」。或いは「おち」。]、急に露子は身輕さを覺えた。光子はずんずん面白さうに泳ぎ續けた。露子は自分も泳げるものかしらとまだ躊躇してゐたが、光子の後を追はうと決心すると、案外樂に泳げ出した。すると急に嬉しくなつたので、態と斜に泳いでみたり、くるりと廻轉してみたり、嬉しさはいよいよ募り、もう凝として居られなくなつた。「早く早く外へ出てしまひませう」と、光子に囁き二人は囘轉窓から廊下の方へ飛出した。廊下の向から恰度回診の醫者が看護婦や助手を連れてぞろぞろやつて來た。見つかりはすまいかしらと露子は一寸心配したが、光子は一向平氣でお醫者の鼻先を掠めて行つた。それで露子も皆の頭の上を泳ぎ拔け、早速光子の後を追つた。廊下は既に盡きて、バルコニーに來てゐた。そこからは往來の一部が見渡せるのだつた。露子はもう夢中で明るい往來の方へ跳出した[やぶちゃん注:「をどりだした」。]。後から光子の何か云ふ聲が聞えた。が、露子はもうそれに耳を貸してゐる暇はなかつた。早く、早く、逃げ出して、と風が耳朶[やぶちゃん注:「みみたぶ」(音なら「じだ」)であるが、ここは二字で「みみ」と当て訓していると読む。]で唸る。嬉しくて嬉しくて、何しろもう急がなければならなかつた。後から光子が追駈けて來るらしいことまで頻りに面白く、そして體はいよいよ速かに泳げて行けるのだつた。

 風が後から彼女を押すやうに吹いて來ると、彼女の鰭はふわふわ[やぶちゃん注:ママ。]搖れて、身は輕く街の上を飛んだ。あんまり上に浮いてはまだ心細いので、お腹の浮袋を調節すると、今度はずんずん下に沈めた。それで、もうすつかり自信がつき、また空高く舞上つた。街はそこから一目に見渡せた。煙突や高いビルがすぐ下に、そしてアスフアルトの路は遠くに、人は豆粒のやうに緩く步いて居た。もう連れの光子は何處にも見えなかつた。彼女はやつぱし浮々して、頻りに嬉しく、向に自分の實家の庭の綠が見えて來ると、一直線に突進して行つた。だが門の少し手前まで來た時、急に呼吸切[やぶちゃん注:「いきぎれ」。]がして、動悸が烈しくなつた。まだ病氣なのに無理しなきやよかつたと思ふうちに、目が眩んで、體が石のやうになると、溝の中へ墮ちてしまつた。……やがて溝の上に人の顏が覗いた。次第に胸は烈しく痛み、露子は今、醫者に注射されてゐるやうな氣持だつた。しづかに眼をひらいて見ると、しかし、溝の上に居るのは弟だつた。露子は喘ぎながら弟の名を呼んでみたが、弟は亂暴に彼女を握締めると、家の内へ駈込んだ。それから臺所の處で彼女をバケツの中に放り込むと、家の中から皆が出て來て、てんでにバケツを覗き込んだ。皆がガヤガヤ騷ぎながらバケツを取圍むと、バケツは下の三和土[やぶちゃん注:「たたき」。]に響いて搖れた。搖れてゐる水を隔てて、母の顏や弟達の姿や亡くなつた父の顏が朧に見えた。小さな弟はバケツの柄を把へて、ガチヤガチヤ鳴らして居たが、ふと掌を突込んで水の中の露子を摑へようとし出した。露子は一生懸命逃げ廻つたが、紅葉ほどの掌はなかなか小癪に追駈けて來た。「こらツ、こらツ」と、弟の指は刃物のやうであつた。露子はぐつたり疲れて、情なくおろおろして身を縮めてゐた。すると、こんな風な身の上は何かの物語で以前讀んだことがあるのをふと憶ひ出した。それから何でもずつと昔やはりこれに似たことがあつたやうに思へた。さう思ひながら縮み上つた眼で、上の方を覗ふと、バケツの緣の處には、確かにもう一人別の露子が覗き込んでゐるのだつた。そのもう一人の露子は娘のやうなセルの着物着てゐて、何だか昔撮した寫眞に似てゐた。露子はその女が頻りに氣になり、ひそかに妬ましく感じた。そのうちに弟達が何か喧嘩し出した。下の弟はワーと大聲で泣き喚くと同時にバケツをひつくりかへしてしまつた。あつと思つた時、水はだだーと流れ去り、もう自分は何處へ消えて行つたのかわからなくなつた。……が、暫くして氣がつくと、顚覆したバケツを取圍んで、皆と臺所の處に居るのだつた。露子はそこに居る自分が何だか幻のやうな氣持がして、どうなるのやら心許なかつた。やはり露子は病院のベツトに寢てゐるらしく思へた。が、さう思ふうちにも、臺所の樣子は次第に變り、さつきから騷いでゐた人々の姿も可也異つて來た。何時の間にか中央には大きなテーブルが据ゑてあり、人々はそのまはりを取圍んで立つてゐるのだつた。テーブルの上の大きなガラスの器を長い火箸で搔き廻してゐるのは靑木先生だつた。先生はさつきから頻りに講義をしてゐたらしかつたが、ふと露子の方に目をやると、はたと口を噤んでしまつた。それからもう困つたらしく、片手で首のあたりを撫でて暫く俯向いてゐた。あちこちで忍び笑ひが生じ、靑木先生は愈まごついてしまつた。ところが、先生の後に何時の間にか校長先生がのそつと現れて來た。今度は校長先生が代つて喋り出すらしく思へた。「今度はそれではいよいよ結婚式の實習に移ります」と校長先生は氣取つて挨拶した。すると、皆はパチパチと拍手を送つた。露子は何だか羞しく、胸騷が生じてゐると、カーネーシヨンの花束を持たされた。拍手はまた頻りに湧いて、周圍が一層浮々して來た。すると彼女の前に盛裝の女が現れて、淑やかにお叩儀をした。露子は眼を伏せて自分の襟もとを視ると、白い衣裳を着せられてゐた。生徒達は一勢に讚美歌を合唱し出した。一人俯向いて、露子はテーブルの方を眺めた。テーブルの上の器からは頻りにブクブクと泡が立つてゐた。合唱はいよいよ高潮し、房子はそれを聽いてゐると、次第に昏倒しさうになるのだつた。それで彼女は一心にテーブルの方のガラスの器を眺めた。器から泡立つ液體は今、大方盡きようとしてゐた。しかし、耳許の騷ぎは愈盛んになり、彼女の名を呼ぶ聲や、笑ひ聲や、啜り泣きが入混つて聞かれた。そのうちに天井から、さーつと萬國旗が張られると、再び割れるばかりの拍手が起つた。「神樣、神樣、いいえ、私は……」露子は胸のうちで呟いたかと思ふと、忽ち全身の力が消えて行つた。

2019/03/30

和漢三才圖會卷第三十八 獸類 麢羊(かもしか・にく)・山驢 (カモシカ・ヨツヅノレイヨウ)


 

Kamosika

 

 

かもしか  羚羊 麙羊

にく    九尾羊

麢羊

      【和名加

       萬之介】

      【俗云尓久】

リンヤン

 

本綱麢羊似羊而青色毛粗兩角短小有節大如人手指

又有一角者常獨棲懸角於木枝不着地而夜宿以遠害

可謂霊也故字從靈角有其掛痕其角極堅能碎金剛石

金剛石出西域狀如紫石英百鍊不消物莫能擊惟羚羊

角扣之卽自然氷泮也又貘骨僞充佛牙物亦不能破用

此角擊之卽碎皆相畏耳其皮以作座褥

角【鹹寒或云苦寒】 入肝經甚捷【羊屬火而羚羊屬木】同氣相求也明目治

 小兒驚癇大人中風搐搦等肝膽之病又能噎塞不通

 【屑爲末飮方寸匕幷以角摩噎上】辟邪氣不祥解諸毒

肉【甘平】 治惡瘡强筋骨免蛇蟲毒

                  慈圓

 拾玉松か枝に枕定るかもしゝのよそ目あたなる我庵哉

△按麢半似羊及鹿而灰青色腹白微黃眼畧大也於吉

 野山中捕之畜養而不食糓肉等未知常所好食者試

 投諸草及菓子止食榧葉竹嫩葉薊葉而不多食故難

 育其屎亦如鹿屎

――――――――――――――――――――――

山驢

[やぶちゃん注:以下は原典では上記標題項大字の下に一字下げで二行で記されてある。]

身似驢角似羚羊但稍大而節疎慢耳尾似馬

有岐蹄用其角僞羚羊一名羭

 

 

かもしか  羚羊〔(れいやう)〕

にく    麙羊〔(かんやう)〕

      九尾羊

麢羊

      【和名、「加萬之介〔(かもしか)〕」。】

      【俗に云ふ、「尓久〔(にく)〕」。】

リンヤン

 

「本綱」、麢羊は、羊に似て、青色。毛、粗なり。兩角、短く、小〔にして〕、節、有り。大いさ、人の手の指のごとし。又、一角の者、有り。常に獨棲〔(ひとりづみ)〕して、角を木の枝に懸け、〔身を〕地に着けずして、夜宿〔(よじゆく)〕し、以つて、害を遠ざく。〔これ〕霊〔妙〕なりと謂ふべきなり。故に、字、「靈」に從ふ。角に其の掛けたる痕(きづ[やぶちゃん注:ママ。])有り。其の角、極めて堅し。能く金剛石[やぶちゃん注:ダイヤモンド(diamond)。]を碎(くだ)く。金剛石は西域より出づ。狀、紫石英[やぶちゃん注:紫水晶。アメジスト(amethyst)。]のごとく、百たび鍊〔(ねり)〕て〔も〕消〔(しやう)〕ぜず[やぶちゃん注:磨滅消滅することがない。]。物、能く擊つ莫し。惟だ、羚羊の角で之れを扣〔(たた)く〕時は、卽ち、自然に氷のごとく泮〔(と)くる〕なり。又、貘〔(ばく)〕の骨を僞りて佛牙に充つる物も亦、破る能はざる〔も〕、此の角を用ひて之れを擊つときは、卽ち、碎く〔る〕。皆、相ひ畏るるのみ[やぶちゃん注:ここは「それを実見する者は、ただただその神妙なる力に讃嘆するばかりである」の意。]。其の皮、以つて座褥(しきがは)に作る。

角【鹹、寒。或いは、云ふ、苦、寒。】 肝經に入ること、甚だ捷なり。【羊、火に屬し、羚羊は木に屬す。】同氣〔は、これ〕、相ひ求〔むれば〕なり。目を明〔らかにし〕、小兒の驚癇・大人の中風・搐搦〔(ちくじやく)〕等、肝膽の病ひを治す。又、能く噎塞〔(いつさい)して〕[やぶちゃん注:噎(む)せて咽喉が塞がった感じの症状。]通らざるを〔治す〕【屑を末と爲し、方--匕〔(ひとさじ)〕[やぶちゃん注:一匙。]を飮み、幷びに、角を以つて噎〔(ふさ)ぐる〕上を摩す[やぶちゃん注:閉塞している感じがする部位の肌を角で撫ぜる。]。】。邪氣不祥を辟〔(さ)〕き〔→け〕、諸毒を解す。

肉【甘、平。】 惡瘡[やぶちゃん注:悪性の腫れ物。]を治し、筋骨を强くし、蛇・蟲毒を免かる。

                  慈圓

 「拾玉」

   松が枝に枕定〔む〕るかもしゝの

      よそ目あだなる我が庵哉

△按ずるに、麢、半ばは羊及び鹿に似て、灰青色。腹、白く、微〔かに〕黃なり。眼、畧〔(やや)〕大なり。吉野山中に於いて之れを捕へ、畜養すれども、糓・肉等〔は〕食はず、未だ常に好んで食ふ所の者を知らざれば、試みに諸草及び菓子(このみ)を投〔ぜしに〕、止(たゞ)、榧〔(かや)〕の葉・竹の嫩葉〔(わかば)〕・薊(あざみ)の葉を食ふ。而れども、多食はせず。故に育て難し。其の屎〔(くそ)〕も亦、鹿の屎のごとし。

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山驢〔(さんろ)〕

身、驢〔(ろば)〕に似、角、羚羊に似る。但し、稍〔(やや)〕大にして、節、疎慢〔(そまん)〕なるのみ。尾、馬も似る。岐〔(また)の〕蹄〔(ひづめ)〕有り。其の角を用ひて、羚羊に僞る。一名「羭〔(ゆ)〕」。

[やぶちゃん注:ここは、狭義の羚羊(かもしか)としての、獣亜綱偶蹄目反芻亜目ウシ科ヤギ亜科カモシカ(シーロー(英名:serow))属 Capricornis の、

シーロー亜属スマトラカモシカ(シーロー・ヒマラヤカモシカ)Capricornis sumatraensis(パキスタン北部・インド北部・中国南部・タイ・ミャンマー・スマトラ島などに分布。本種には別に Capricornis milneedwardsiiCapricornis rubidusCapricornis thar の三亜種がいるらしい)

カモシカ亜属 の、

ニホンカモシカ Capricornis crispus(日本固有種。京都府以東の本州・四国・九州(大分県・熊本県・宮崎県に分布)

タイワンカモシカ Capricornis swinhoei(台湾に分布。本種をニホンカモシカの亜種とする説もある)

を挙げておく。まず、ウィキの「スマトラカモシカ」を引く。体長は百四十~百七十センチメートル、肩高は八十五~九十五センチメートル、尾長は九~十一センチメートルで、体重は百~百二十キログラム。『全身は黒茶の毛で覆われている。体毛は粗く固い。背中に黒の縞模様がある』。四『本の脚の毛は茶褐色』。『頭部は羊や牛に似ているが』、『やや短い。広がった耳を持つ。首には長いたてがみがある。頭頂部にやや後ろに湾曲した角を持つ。メスよりオスの角のほうが大きい。蹄は短く丈夫で、岩の上を歩くのに適している』。『海抜』三千五百メートル『以下の亜熱帯の山地及び温帯地区の森に生息する。多くは』一千メートル『以上の山地に住み、冬季になると』、『海抜の低い地域に移動する。単独もしくはペアで生活する。朝と夕方に行動する』。『食性は植物食で、草、木の葉等を食べる』。『晩秋に交配し、初夏に出産する』。一『回の出産で生むのは』概ね一『匹。繁殖能力は低い』。『身の危険が及ぶと絶壁に逃げることがあるが、これがかえって目立ち、猟師の射撃の的になることが多い。そのため数が減り、現在中国では保護動物に指定されている』とある。

 次にウィキの「ニホンカモシカ」を引く。体長は百五 ~百十二センチメートル、肩高は六十八~七十五センチメートル、尾長は六~七センチメートルで、体重三十~四十五キログラム。『全身の毛衣は白や灰色、灰褐色』であるが、『毛衣は個体変異や地域変異が大きい』。『頭骨の額は隆起する』。角の長さは八~十五センチメートルで、『円錐形』を成し、『やや後方へ湾曲し、基部に節がある』。耳の長さは九~十一センチメートルで、『耳介は幅広く、やや短いため』、『直立しても』、『耳介の先端と角の先端が同程度の高さにある』。『眼窩はやや小型で、涙骨の窪みは前頭骨に達しない』。『四肢は短い』。『低山地から亜高山帯にかけてのブナ、ミズナラなどからなる落葉広葉樹林や混交林などに生息する』。『以前は高山に生息すると考えられていたが、生息数の増加に伴い』、『低地にも出没するようになり、下北半島では海岸線付近でみられることもある』。『季節的な移動は行わない』。十~五十『ヘクタールの縄張りを形成して生活し、地域や環境により変異があるが』、『オスの方が広い縄張りを形成する傾向がある』。『眼下腺を木の枝などに擦り付け縄張りを主張する(マーキング)』。『縄張りは異性間では重複するが』、『同性間では重複せず、同性が縄張りに侵入すると』。『角を突き合わせて争ったり』して『追い出す』。『単独で生活し』、四『頭以上の群れを形成することはまれ』である。『木の根元・斜面の岩棚・切り株の上などで休む』。『広葉草本、木の葉、芽、樹皮、果実などを食べる』。『下北半島では』百十四『種、飛騨山脈では』ササ属Sasa やスゲ属Carex『を含む』九十五『種の植物種を食べていた報告例がある』。『積雪時には前肢で雪を掘り起こして食物を探す』。十~十一『月に交尾を行う』。『妊娠期間は』二百十五日で、五~六月に主に一回に一『頭の幼獣を産むが』、『複数頭を出産することや毎年出産することは少ない』。『幼獣は生後』一『年は母親と生活する』。『生後』一『年以内の幼獣の死亡率は約』五十%の高率で、『特に積雪が多い年は死亡率が高くなる』。『オスは生後』三『年で性成熟し、メスは生後』二~五年(平均四年)で『初産を迎える』。『寿命は』十五『年だが、雌雄共に』二十『年以上生きた個体もいる』。『飼育下での記録は』三十三『歳(館山博物館カモシカ園「クロ」)』。『崖地を好み、犬に追われた場合など崖に逃げる傾向が強い。好奇心が強く、人間を見に来ることもあると言う。「アオの寒立ち」としても知られ、冬季などに数時間、身じろぎもせずじっとしている様子が観察される。理由は定かではないが、山中の斜面を生活圏としていることから、反芻(はんすう)をするときに、寝転ぶ場所がないからともいわれている』。『カモシカの糞はシカの糞とほぼ同じ形で、楕円形である。野外において、この両者を見分けるのは簡単ではない。一つの目安はシカは糞を少数ずつ散布するが、カモシカは塊を作ることである。盛り上がった糞塊が作られていれば、カモシカの可能性が高い。これは、シカは歩きながら糞をするのに対し』、『カモシカは立ち止まって糞をする傾向があるからである』。「日本書紀」の皇極天皇二(六四三)年十月二日の条に『童謡(わざうた)が歌われており、「岩上に 小猿米焼く 米だにも たげてとおらせ 山羊(カマシシ)の老翁(おじ)」と記され、老人の踊りをカマシシ=カモシカに例えている』。『カモシカという名称は昔、その毛を氈(かも)と呼んでいたことによる。「氈鹿」のほかに「羚羊」という漢字を宛てることがある。別名を「アオジシ」と言い、マタギのあいだでは単に「アオ」とも呼ばれ、青色の汗をかくと言われる。他にニク、クラシシなどの別名もあり、鬼のような角をもつことから、「牛鬼」と呼ぶ地方もあるとされる』とある。因みに、私は二十六歳の時、顧問をしていたワンダーフォーゲル部の夏の合宿で、槍から下る、徳本(とくごう)の手前で、夕刻、四、五メートル先の藪の中にいる♀と出逢ったのが、野生のそれとの邂逅の最初であった。

 

「にく」『俗に云ふ、「尓久〔(にく)〕」』これは動物の敷き革を指す「褥」「蓐」の音を当てたもので、本種の皮がそれに適していたことに拠る。

「麢羊」『常に獨棲〔(ひとりづみ)〕して、角を木の枝に懸け、〔身を〕地に着けずして、夜宿〔(よじゆく)〕し、以つて、害を遠ざく。〔これ〕霊〔妙〕なりと謂ふべきなり。故に、字、「靈」に從ふ』大修館書店「大漢和辭典」の「麢」(かもしか・かもしし)の解字に事実、「靈」に通じ、「優れる」の意とある。

「泮〔(と)くる〕なり」「泮」の字には「氷が溶ける」の意がある。

「貘〔(ばく)〕」独立項で既出既注

「肝經」五臓の「肝」「膽」に関わる重要な経絡。そもそもが肝臓と胆嚢はともに五行で「木」に属するため、密接な関係を持っているが、ここで割注している「羊、火に屬し、羚羊は木に屬す」と後の「同氣〔は、これ〕、相ひ求〔むれば〕なり」というのは、この羚羊が漢字表記上で「羊」の同類であるから「火」で、「羚羊」は「木」に属すが、実は五行説の相生説では「木生火(もくしょうか)」(木は燃えて火を生む)であるから、「火」の「羊」は「木」の「羚羊」を生み出す(相性がよい)のであり、しかも肝胆を司る「肝胆」は「木」に属せばこそ、速やかに本種の角が作用するのであるというのであろう。

「小兒の驚癇」小児性癲癇。

「大人の中風」中気とも呼ぶ。後天的な半身不随や、顔面・腕・脚等の麻痺及び運動障害などの症候群をいう。脳・脊髄の炎症や外傷など器質的病変によっても発生するが、通常現在では脳卒中の後遺症として現れるものを指す。

「搐搦〔(ちくじやく)〕」「ひきつけ」や痙攣の症状を指す。

「慈圓」「拾玉」「松が枝に枕定〔む〕るかもしゝのよそ目あだなる我が庵哉」「慈圓」は「慈鎭」に同じ。「獅子」の注を参照。「拾玉集」は彼の私歌集。

「榧〔(かや)〕」裸子植物門マツ綱マツ目イチイ科カヤ属カヤ Torreya nucifera

「薊(あざみ)」キク目キク科アザミ亜科アザミ連アザミ属 Cirsium のアザミ類。

「山驢〔(さんろ)〕」「山海経」の郭璞注に、「閭卽羭也、似驢而岐蹏、角如麢羊、一名山驢」と出るが、既に私は「驢(うさぎむま)(ロバ)」の注で、ウシ亜科ニルガイ族ヨツヅノレイヨウ(四角羚羊)属ヨツヅノレイヨウTetracerus quadricornisインドネパール:ウシ亜科の中でも原始的な種と考えられているが、画像を見る限り、本種は牛ではなく如何にも鹿っぽい。ウィキの「ヨツヅノレイヨウ」ヨツヅノレイヨウの画像をリンクさせておく)に同定比定した。]

原民喜 動物園

 

[やぶちゃん注:昭和一三(一九三八)年十月号『慶應クラブ』初出。

 底本は一九七八年青土社刊原民喜全集「Ⅰ」を用いたが(底本では「拾遺作品集Ⅰ」のパートに配してある)、以上の書誌データや歴史的仮名遣表記で拗音・促音表記が殆んどないという事実及び原民喜の幾つかの自筆原稿を独自に電子化してきた私の経験に照らして(彼は戦後の作品でも原稿では歴史的仮名遣と正字体を概ね用いている)、漢字を概ね恣意的に正字化することが、原民喜自身の原稿原型に総体としてより近づくと考え、今までの私のカテゴリ「原民喜」のポリシー通り、そのように恣意的に処理した。

 二段落目の「矢野動物園といふ巡囘興行」についは、吉村大樹氏の論文(卒業論文)「江戸時代の見世物小屋―見世物となった舶来鳥獣―」のこちらによれば、後の「矢野サーカス」の前身である「矢野巡回動物園」のこととする。『矢野巡回動物園は一八九〇年代半ばに、矢野岩太が創立し、香川県を拠点にヤマネコ一匹の見世物から始まった』。『阿久根巖(一九八八年)によると、矢野動物園を本格的にするために、矢野岩太は、ライオンを買い付けるためにドイツ行きを決意して神戸まで行くが、中田和平という動物商の紹介で、ベルグマン商会を経て、ハーゲンベック動物園からライオン購入の商談がまとまり渡航しなくても、輸入できるようになり、このライオンによって、矢野巡回動物園は大当たりするのであると言っている』。『それは、明治四十年(一九〇七年)の話で、それまでの矢野巡回動物園は、ヒョウや虎などを購入して、本格的な動物園へとしてきたが、ドイツから来たライオンにより』、『全国で人気が出て、当時の人々もライオンをいままで見た人が少なく』。『このライオンの人気によって矢野巡回動物園は第二の動物園を組織して、日本列島を二手に分けて巡回してい』った。『第二の動物園の方は、矢野岩太の甥にあたる矢野庄太郎が館主としてまかされ、本部の動物園と区別するために動物館という名称にして、看板の猛獣にキリマンジャロ産のライオンがいたのであったが』、『この二つの巡回動物園が存在したのは、明治四十二年初めから、四十五年頃までのようだった』。『この、明治四十二年から四十五年の間に本部の動物園の方は朝鮮へ渡って興行をしたとされ、第二の動物園の方は長崎の出島などで興行をしたが』、『その他に関する資料が残っていないのである』(明治四五(一九一二)年当時、原民喜は満六~七歳で、同年四月に広島師範付属小学校に入学しているから、辛うじて辻褄が合う)。『そして、大正五年(一九一六年)に矢野巡回動物園のサーカス部門をスタートをさせる』。『この矢野巡回動物園のサーカス部門は、矢野サーカスとして活動し、初代団長に第二の動物園の館主であった矢野庄太郎であり、彼を団長に置いたのは、 木下サーカス』『の団長で庄太郎の兄である木下唯助であった』。『その後、矢野巡回動物園は矢野岩太が大正十五年(一九二六年)五月七日にこの世を去ったため』、『木下唯助、矢野庄太郎の長兄の金助が動物園を継ぐことにな』ったが、『動物の死など』、『不運が重なった矢野巡回動物園は昭和三年(一九二八年)に解散してしまった』。『残った矢野サーカスの方は』、『戦後になって徐々に衰退の道を歩み』、『平成八年(一九九六年)に八十年の歴史に幕を下ろした』とある。

 また、六段落目の「二度日に動物園へ行つたのはハーゲンベツク・サーカスが來た春」とあるのは、野生動物を扱うドイツ人商人でヨーロッパ各地の動物園やサーカスなどに動物を提供し、柵のない放養式展示の近代的動物園を作ったことでも知られるカール・ハーゲンベック(Carl Hagenbeck 一八四四年~一九一三年)の名を冠したサーカス、「ハーゲンベック・サーカス」(Hagenbeck-Wallace Circus)の来日を指し、これは昭和八(一九三三)年のことであった(同年三月十七日から五月十日まで芝区芝橋(芝浦製作所跡)に於て興行が行われた。原民喜満二十七歳。貞恵との結婚はまさにこの年の三月であった)。なお、日本で「サーカス」の名が使われるようになるのは、この時以後のことである。

 最終段落にある「上野科學博物館」は関東大震災の復興事業の一環として、昭和六(一九三一)年九月に「東京科學博物館本館」として竣工したもの。現在の国立科学博物館上野本館。

 因みに、本篇は現在、ネット上では公開されていないものと思われる。【2019年3月30日公開 藪野直史】]

 

 

 動物園

 

 先日、鄕里の兄の許へ行くと「子供達が強請むから[やぶちゃん注:「せがむから」。]、この春休みには皆を連れて東京見物に行くぞ」と兄は云つてゐた。子供といふのは尋常六年と二年と一年生の三人だが、「どうして東京へ行つてみたいのか」と試みに私が尋ねたら、「動物園が見たいのだ」とたちどころに答へた。そんなに動物園が見たいかなあと私は今更のやうに感心した。

 尤も私も子供の頃には、矢野動物園といふ巡囘興行が街に來たのを、眼を輝かしながら、狹苦しい檻と板の間の通路を人混に押されて行つたものだが、夜のことで檻の動物はよく觀察出來ず、ただ動物のいきれと啼聲に滿足して歸つた。殊にライオンの啼聲は氣に入つて、その後しばしば模倣し、ある晚も往來に面した戶の處で、メガホンでそれをやつてゐると、親類の人が通りかかつて、ほんとにライオンがゐるのかと思つて呉れた。それと前後して、私はサーカスで縞馬といふものを始めて見たが、あの夏、裸で遊んでゐると急に寒氣がして目が昏み、白い湯氣のなかをその縞馬が走り出したので大變苦しかつた。

 二年生の甥は廣島から宮島まで自動車に乘せられたら、ふらふらになつて醉つてしまつたといふから、東京まで十五時間の旅はさぞ難儀だらうと思へる。六年生の甥も汽車に弱いので、「誰が今度は一番に醉ふかな」と云はれても、子供達は動物園のことで氣持は一杯らしい。さう云へば、日曜日の省線電車に、父親の手に縋つて、眼を輝かしてゐる神經質の子供は、あれは大抵、動物園へ行くのかもしれない。

 

 私も久しく東京へ住んでゐたが、その間、二度しか上野動物園を訪れなかつた。今は、千葉の方へ住んでゐるので、動物園行きも容易でないが、何故、學生時代、氣持が鬱屈した折など、單純に眼を輝かして、動物園へ行くことを思ひつかなかつたのだらう。すればきつと、動物達の素直なまなざしによつて慰められたにちがひない。

 私が最初、上野動物園見物をしたのは、受驗に上京した歲でその春塾を卒業した兄に連れられて行つた譯なのだが、――一時に受ける東京の印象が過剩だつたため――ただ池のところに金網が張つてあつて、澤山の鳥類がやかましく啼いてゐたのだけが頭に殘つてゐる。たしか、櫻が滿開だつたと思ふ。

 二度日に動物園へ行つたのはハーゲンベツク・サーカスが來た春で、恰度東京見物に來た妹を連れて、萬國婦人子供博覽會を見た序に立寄つたのだつた。嫁入前の妹は、それでなくても彼女はものごとを笑ふ癖があつたが、大槪の動物を見てはくすくす笑ふのだつた。河馬が水槽のなかで大きな口をぱくりと開いて、生のキヤベツの塊りを受取ると、忽ちキヤベツは齒間に碎かれ破片が顎から水に落ちるのを、私は面白く眺めた。それから、あの麗かな春の陽を受けて、岩の上を往つたり來たり、一定の距離を同じ動作で繰返してゐる白熊を見ると、妹はまた噴き出したが、私ははからずも或る舊友を連想してしまつた。その友は昔、私の下宿を訪れる度に、廊下のところで一度私の部屋の障子をピシヤリと開け、ピシヤリと閉ぢ、七八囘開けたり閉ぢたり、廊下と疊を交互に踏んでみて、それから始めて、部屋に道入つて來るのだがすぐには疊の上に坐らうとしないで、神祕的な眼をしながら暫く足踏をして兩手を痙攣させるのであつた。

 いろんな動物のなかでも、狐の眼は燃えてゐて凄かつた。やはり狐は化けることが出來るのかもしれないと私は思つた。妹は白い蛇がゐるのを見て笑つたが、私は『雨月物語』を想ひ出して、それもー寸不思議な感銘だつた。――私達はその日、人と動物と砂挨に醉つてしまつた。

 

 去年、私ははじめて上野の科學博物館を見物したが、あそこの二階に陳列してある剝製の動物にも私は感心した。玻璃戶越しに眺める、死んだ動物の姿は剝製だから眼球はガラスか何かだらうが、凡そ何といふ優しいもの靜かな表情をしてゐるのだらう、ほのぼのとして、生きとし生けるものが懷しくなるのであつた。

原民喜 狼狽

 

[やぶちゃん注:昭和一一(一九三六)年十月号『作品』初出。

 底本は一九七八年青土社刊原民喜全集「Ⅰ」を用いたが(底本では「拾遺作品集Ⅰ」のパートに配してある)、以上の書誌データや歴史的仮名遣表記で拗音・促音表記が殆んどないという事実及び原民喜の幾つかの自筆原稿を独自に電子化してきた私の経験に照らして(彼は戦後の作品でも原稿では歴史的仮名遣と正字体を概ね用いている)、漢字を概ね恣意的に正字化することが、原民喜自身の原稿原型に総体としてより近づくと考え、今までの私のカテゴリ「原民喜」のポリシー通り、そのように恣意的に処理した。

 太字は底本では傍点「ヽ」。踊り字「〱」は正字化した。

 因みに、本篇は現在、ネット上では公開されていないものと思われる。【2019年3月30日公開 藪野直史】]

 

 狼 狽

 

 數學の教師、山根高彦は或る朝日が覺めてみると何の異狀もなかつた。彼は何時もの癖でラヂオ體操をやり、朝飯を食べると、元氣に溢れた顏で登校し、朝禮でまた體操をやり、教員室で幾何の教科書を取ると、第一時間目の三年生の教室へ颯爽と出向いた。彼は二階の階段を昇るのに二段づつ一呼吸にやつて、そこの教室のドアの引手に指が觸れるまでに何秒かかるか計算して知つてゐたが、それはこれまで殆ど一秒も狂はなかつたほど正確な動作だつた。で、今もその正確な動作でさつと引手を引き、教壇に登ると、顎をカラーの方へ引寄せ眼をパチりと瞬くと、一勢に生徒が立上つてお叩頭(じぎ)をした。そこで彼はチヨークを執つて、黑板の方へ對つた。彼はピタゴラスの定理を教へるつもりで定規を黑板にあてがつて新しいチヨークを勢よく引いた。すると、あんまり勢がよかつたので、チョーク[やぶちゃん注:拗音表記ママ。]がポキリと折れ、定規が歪んだ。

「誰だ、今舌を出したのは、高橋だらう」と彼は電光石火の早技(わざ)で皆の方へ向きかはつた。高橋と名指された生徒は眞赤になつてぶるぶる慄へた。この生徒はクラスでもおとなしい、ごく眞面目な男なのだが、どう云ふ譯でその時舌を出したのかわからなかつた。いや、それよりも山根高彦の背中に眼が着いてゐない限り、黑板に對つて[やぶちゃん注:「むかつて」。]ゐながら後の方の樣子が手にとる如く解るはずがない。それだのに高橋あさつき片方の眼を塞ぎなから舌を出したのを見た。

「君はどうも陰日向があるね、先生が黑板の方を向いてゐれば何したつてわからないと思ふと大間違ひだよ。僕にはちやんと靈感で以てわかる」と彼はいささか得意さうに生徒達を見渡した。と、皆の顏に奇妙な感嘆の色が浮んで、一瞬水を打つたやうにあたりが靜まつた。急に彼はとんでもないことを喋り出したのに氣が着いて、また黑板の方へ向き直つた。しかし、どうも如何云ふ[やぶちゃん注:「どういふ」。]譯でああ云ふことが解つたのか、皆目彼にも解らなかつたので、實に變てこな氣分がした。彼はその考へを追拂ふつもりで、今度は靜かにチョーク[やぶちゃん注:拗音表記はママ。]でもつて線を描き始めた。ところが、それもほんの二三秒で、彼はまた不思議なことを口走つた。

「今また舌を出してるのは森田だな、先生を試(ため)さうとしたつて駄目だよ」さう云ひながら、今度は向きかはりもせず、悠々と線を引いて行つた。すると、森田と云はれる生徒は今迄出してゐた舌を氣まりわるげに引込めると、呆然として山根先生の背中を視凝めた。その背は着古されて少し光り出した黑の背廣で覆はれてゐたが、そこには何の變哲もなかつた。そのうちに山根先生は三角形を描き了へると、皆の方へ向き直つた。そして、もうその時にはすつかり平素の態度にかへつた樣子で、ピタゴラスの定理を喋り出した。その時間はこれで何ごともなく過ぎた。

 山根高彦先生はけろりとした顏で教員室へ戾り、バツトを一服やりながら運動場の方を眺めてゐた。恰度その時、博物の教師が近づいて來て、マツチを貸して呉れと手眞似をした。この教師は日頃から山根高彦を若僧扱ひにしてゐたが、今手眞似でやつたのは輕蔑からではなく、實は彼の子供が大病で昨夜も碌に睡れなかつたためひどく疲勞してゐたのだつた。博物の教師は味氣ない表情でチエリーに火を點けると、山根高彦に對つて淋しい微笑を送つた。その微笑の底には何かぞつとするものが漾つてゐるやうに想はれた。

 

「お疲れでせうね、坊ちやんが病氣では……」と山根高彦はごく平凡なことを云つて相手を慰めるつもりらしかつた。

「しかしもう追つきませんよ、お宅の坊ちやんはたつた今亡くなられましたもの」。

「え……君は……」と博物の教師は二三步後ずさりしながら、親指と人差指の間に挾んでゐた煙草に力を入れたため、煙草は折れて曲つた。その半分折れてぶらぶらしてゐる煙草を慄はせながら、彼は相手を視凝めたまま口がこはばつて言葉がきけなかつた。と、その時小使が現れた。

「大村先生、お電話です」。

 電話と聞いてこの教師の表情はさつと變つた。そこで忌々しげに煙草を放ると、彼はあたふたと出て行つた。ところがものの二三分もたたぬうちに、博物の教師はがつかりした顏で教員室へ戾つて來た。それから風呂敷包を纏めながら、一生懸命で何度も結び目を結び替へてゐるのは、淚を隱さうと努めてゐるためらしかつた。

「御愁傷でせう」と山根高彦は背後からしんみりした口調で話しかけた。すると、相手はヒヒヒヒと、鋭い笑聲を立てながら眼からパラパラと淚を落した。恰度その時授業のベルが鳴つた。

 山根高彦は心殘りの儘、廊下へ飛出したが、今度は階段を一呼吸に二段づつ昇つては行かなかつた。何故かわからないが、山根高彦は憂鬱な顏つきであつた。しかし、教壇へ立つと彼はまた顎をカラーの方へ引寄せて、眼をパチクリさせた。そして普通の顏つきで授業を開始した。幸にその時間は自分で自分に呆れたり、驚くやうな變なことがらもなく過ぎて行つた。そして、その次の時間も、また次の時間も、無事であつたため、終に山根高彦は、今朝ほどの不思泰な靈感なぞ全く何かのはずみに過ぎなかつたのだ、と安心して差程氣に留めないやうになつた。

 彼が授業が終ると、とにかく晴々して、大股ですつすつと步きながら、今始めて呼吸をするやうに樂しさうに、午後のひんやりした日蔭の空氣を吸つてみた。すると何時もながら牛肉屋の看板や、自動車のガレージなどのある見馴れた巷の光景が、何か人生の意義に充滿してゐるやうに山根高彦には感じられるのであつた。彼はそこで、戀人のことを想ひ出し、その想ひを獨樂のやうに頭のなかで廻しながら下宿屋へ戾つた。

 下宿屋の二階で山根高彦は暫くの間疊の上に寢轉んだ儘、ぼんやり天井を眺めてゐた。ところが、そこから四五丁さきの道路を今彼のところへ對つて、吉井と云ふ彼の舊友が鳥打帽を被つて、時々所在無さげに頰を撫でながら、何故か控へ目に步いて來るのが、山根高彦にははつきり感じられた。で、何故吉井がああ云ふ姿でやつて來るのかと云ふに、つまり吉井は煙草錢を借りに彼のところへ來る筈なのだが、三十錢貸して欲しいと云ふに違ひなかつた。突然、吉井はついでに五十錢借らうかなと考へたが、吉井の後からやつて來た洋裝の女が彼を追越すと、チエと舌打ちして、やはり三十錢でいいな、と決めてしまつた。――かう云ふ風に山根高彦の腦裡には一つ一つ吉井の樣子が映つて來たが、彼はここでまた自分がとんでもない狀態に陷つてゐるのを意識した。が、相手が吉井であるだけに多少の安心と興味に牽かれて、なほもさうした觀察を續けて行くと、吉井は靴の先で小石を蹴りながら速かに足並みを早めて、さつきの女を追越すと、もう彼の下宿の玄關のところまで來てしまつたのだつた。で、山根高彦はともかく起上つて、玄關先まで出て行つた。

 彼が玄關へ行つたのと、吉井が其處の格子戶を開けたのが同時だつたので、吉井は一瞬面喰つた。が、山根高彦はにこにこ笑ひながら云つた。

「今、君が來るだらうと思つてたところなのだ、まあ上り給へ」。

 吉井は部屋に入ると、默つて鳥打帽を弄(いじく)つてゐたが、眼は絕えず山根高彦の机の上にあるバットの箱に注がれてゐた。山根高彦が煙草に火を點けたのをきつかけに吉井は始めて口をきいた。

「僕にも一本呉れ給へ」。

「いや、始めからそのつもりで來たのだらう、遠慮し給ふな。それから……」と云つて、山根高彦は財布を取出すと、机の上に三十錢並べた。

「これ、とつてをき給へ」。

「? 的中だ、どうも僕この頃不景氣でね」。

「噓つき給へ、君は先週競馬へ行つて損したのだよ」。

「ハハハハ、僕がそれやつてるのをもう知つてたのか、でも妙だなあ、何處から考へたつて君に知れる筈なんかないと思つてたのに。」

「フン――」と、この時山根高彦は深い吐息をついて、何かに感嘆したやうな顏をした。するとその感嘆は忽ち吉井にも傳染した。

「フン――君には神通力が出來たな、君は神樣だよ」。

 神樣と聞くや否や、山根高彦は赫と顏面に朱を注いで怒鳴つた。

「馬鹿野郞、神樣とは何事だ! 神樣が君、中等教員の、それもこんな若僧であつて耐るか[やぶちゃん注:「たまるか」。]、神樣が君、下宿の四疊半で南京豆食つてるなぞと云ふ例[やぶちゃん注:「ためし」。]が何處にあるか」。

「いや、少くとも君は神憑[やぶちゃん注:「かみつき」と訓じておく。]になつたのだよ」。

「何だと! 神憑ぢや! 僕は巫女のやうなものになつたのか。僕は數學の教師だからさう云ふことは望んでないのだ。あんまり變なこと云ひ觸らしでもすると承知しないぞ。それでなくてもこの頃は世間がうるさくて何事も控へ目にすべき時勢だらう。それを君、僕が神憑なぞになつてるなんて、大それたことを想像してもらひたくないな、一つや二つ當推量が的中したからつて、それは君、偶然の一致と云ふものさ。とにかく、面白くないから今日はこれで歸つて呉れ給へ」と、山根高彦は不思議に怒り出した。

「まあ、さう怒らないで一勝負やらうぢやないか」と吉井は碁盤を顎で指差した。が、山根高彦は一そう嚴(いか)つい顏に化してしまつた。

「ねえ、久し振りぢやないか」と、吉井はヂヤラヂヤラ碁石を並べて彼の氣を惹かうとした。

「駄目だ、君が負けるのは解つてるから今日はもう歸れ」。

「へえ、君も妙な男だなあ」と吉井も少しむつとして座を立上つた。

 相手が去ると、山根高彦は大急ぎで抽匣[やぶちゃん注:「ひきだし」」。]から懷中鏡を出すと、自分の顏を調べ出した。山根高彦の容貌はごく類型的な、親しみ易い、賴母しさうな顏で、右の眼の下に黑子(ほくろ)があつたが、それとても無いよりかましにちがひなかつた。しかし彼が調べ出したのはそんな既知の事柄ではなかった。何か奇蹟的な變化がもしや顏に現れてはゐまいかと、暫くは呼吸を殺して鏡と睥み合つた[やぶちゃん注:「にらみあつた」。]。ところが、山根高彦は急に鏡を放ると、あツと叫んでしまつた。それは彼の顏に奇蹟が現れてゐたからではなかつた。いや、何の奇蹟も起つてゐないための恐怖であつた。これがこの際、假りに鼻が三インチ[やぶちゃん注:七・六センチメートル。]も突起してゐたとか、頭に後光が射したとか云ふのなら、山根高彦も頷けただらう。事實は平々凡々な、何の神聖さもない人間の面で、しかも、それがさつき吉井を怒鳴りつけたため額に浮んだ靜脈の跡が、みつともなくも消えてゐなかつた。

 ――これがこれとは何ごとか! と山根高彦は再び興奮しながら怒り出した。

 ――全然五里霧中だ。第一僕は一介の數學の教師で、微塵も僭越な氣持は持ち合はせてゐない。それが、かう云ふ平凡な面で神樣にならうものなら、それは神聖を瀆すと云ふものだ。神樣と云ふものは偉大な、何と云ふか、つまりその、名稱を超越し給ふ存在なのだ。ところで、今日はその自分に魔がさすとでも云ふのか、他人の餘計な事柄が見えたり、聞こえたりして困るが、どうもああ云ふ癖はよくないから徹頭徹尾抑制しなきやいかん。ああ云ふ癖が募りつのると、今に自分はとんでもない破目に陷る……。

 山根高彦が一通り自分の氣持を整理しかけた時、一人の婦人が訪れて來た。彼はその大柄な、派手な顏をした婦人を一瞥した時、奇妙に自分を恥しく思つたが、ははあ、また困つたことが出來たなと呟いた。勿論、彼にはその婦人が、今日彼が教壇から二回目に叱りつけた森田と云ふ生徒の母親であることも、彼女が息子から今日の話を開いて早速やつて來たことも、一體何を相談に來たのかも、すつかり前以て感知されてしまつたので、非常な努力を以て呆け面を粧はなければならなかつた。で、知れきつたことを尤らしい顏で、ハア、ハアと聞かされてゐるのが、如何にも彼女に氣の毒してるやうに思へたので、そいつを意識すまいと、山根高彦は相手の膝に纏(まつは)る友禪模樣の曲線を一つ一つ丹念に眺めてゐた。そのうちに森田の母親はいよいよ相談の本筋へ入つて來た。

「實は私の主人の話で御座いますが、どうもこの頃商賣が思はしくないので株に手を出してゐるので御座います。それで一つ是非先生に御智惠を拜借致したいと思ひまして今日お伺ひしたやうな次第なのです。」

「そいつは困りますなあ。僕は御存知の通り數學の教師ですが、そのことなら一つ經濟學の先生にでもお聞きになつたら如何がです」。

「いいえ、もうそんな呑氣なこと云つてはゐられないので御座います。主人はこれまで損ばかりやり通して來ましたのに、まだ性懲りもなく、今に芽を出すなんて申してゐるので御座いますが、このまま行つたら一體私達はどうなるので御座いませうか。一そのこと破産するならするでしてしまへばさつぱり致しますが、今のやうにぢりぢりと落目になつて行つたのでは何だかあんまり殘酷ぎるやうで御座います。ほんとにこの頃では先生の前でお話しするのも恥しう御座いますが、そのため私は時々癇癪が起きて自殺したくなるので御座います。」

 それから彼女は今にも癇癪を起しさうな氣配を見せながら喋り續けた。

「恰度幸なことに今日子供から先生のお話を伺ひましたので、これこそは神樣の救ひだと信じました。何でも先生は不思議な神通力をお持ちださうですが、どうかこの憐れな私どもにも少し分けてやつて下さいまし。この際のことですから私はもう絕對先生の御言葉を信賴致したう御座います」。

「ハハハ、今日のあれですか、あれはほんの座興ですよ」。

「いいえ、あれが座興なら、なほさらのことです。とにかく今私のお縋り申したい方は先生一人なので御座います。先生はつまり神樣なので御座います」。

「僕が神樣? そんな輕卒なことは云はないで下さい」。

「いいえ、いいえ、先生は神樣です。隱したつて逃げたつて、神樣は神樣です」。

「違ひます、そいつは人違ひと云ふものですよ。僕はつまり數學の先生ですよ」。

「いいえ、數學の話では御座いません。私は今こんなにお願ひしてゐるのではありませんか、どうか神樣になつ下さいまし。」

「さう矢鱈に神樣になれる筈がない」。

「いいえ、なれます、なれます、現に現に先生は神樣ぢやありませんか」。

 彼女はもう少しで泣き出しさうで、もう眼頭は興奮のために淚が潤つてゐた。その有樣を見ると、山根高彦は何時までもかうして婦人と爭つてゐるのが增々氣の毒になつた。それにもう山根高彦にはこの婦人の主人が今度は株で大儲けすることがちやんと解つてゐたので、どうしても一言云つてやり度くなつた。

「よろしい、ぢやあこれだけ申上げませう。あなたの御主人は今にきつと大成功なさいますよ、大成功、さうですね、正確なところ三十二萬圓は儲かりませう。」

 三十二萬圓と聞くと、この婦人は暫くきよとんとした顏で山根高彦を視凝めてゐたが、ハラハラと淚を落すと、急に彼の肩に抱きついて山根高彦をまるで戀人のやうに搖さぶつた。「ああ、神樣、ああ、神樣」と、彼女は恰度猫のやうに咽喉を鳴らして喚いた。そのうちにこの婦人はやつと普通の樣子にかへると、

「さきほどはどうも御無理を申上げたり、取亂したりして失禮致しました。でもどうかお許し下さいませ、ほんとに有難う御座いました。いづれ成功の曉にはきつとお禮に伺ひますとして、早速このことは早く主人の耳に入れて勵ましてやりたいと思ひますので、今日はこれで失禮させて戴きます」と、何度もお叩頭しながらいそいそと歸つて行つた。

 その婦人が殘して行つた、なまめかしい化粧品の香ひを空氣のなかに嗅いで、山根高彦は甚だ不機嫌であつた。到頭強制的に神樣にされてしまつたことや、自分の意志に反して彼女に助言を與へたことが、思へば思ふほど殘念であつた。そこで彼は窓を開けて空氣を入れ替へると、深呼吸をして、机の前に正座した。

 ――神樣! と彼は祈り出した。これは一體、どう云ふ譯なので御座いませうか。どう云ふ譯で私が神樣にならなきやならぬので御座いませうか、そいつからして解せない次第です。第一に、その、いや、どうも順序なぞ立てないで申上げたい。小生は數學の教師で因數分解とか、軌跡とか云ふことに就いてなら誰にも教授出來ます。それに小生はもともと大して大それた野心は抱かない男だと云ふことも神樣じゃ夙に御存知の筈である。もつとも、これまで折疊式下駄箱とか、ライター附蝙蝠傘とか云ふ品を發明して特許を獲らうとしましたが、どちらも間が拔けてゐると云ふので一笑に附せられたが、あれは考へてみると成程間が拔けてゐました。しかし大體に於きまして、小生は今の生活に滿足し、撥溂たる氣分で暮してゐるのであります。ただ、あそこの中學の教頭が、象像先生のことですが[やぶちゃん注:「象像」は一応、「しやうざう(しょうぞう)」と読んでおく。但し、そんな姓や名があるとは知らぬが。]、その多少、皮肉屋で黑を赤だと云つたり、猫を犬だと云つて強情で困りものですが、それもまあ比較的小生なんかには當つて來ないので感謝してゐる次第です。小生はまだ獨身ですが、その一寸恥しいやうな氣持も致しますが、つまり、その、誰にもあることで、一人の戀人が御座いまして、その娘と小生は既に婚約の間柄なので御座います。一寸こましやくれた可愛い娘で、それが小生のまあ、謂はば永遠の女性なので御座います。で、まあまあ、之を要するに、どうやら神樣のお蔭で以つてこれまでは順調にものごとが進行してゐましたので、行々は彼女の産んだ子供の教育費だけは出せるやうに精出して貯金するつもりであつたので御座います。ところが、どうも今日起りました數々の不可解な現象は一體、これはどう解釋したらいいのでせう。あれは神樣の御意志で御座いませうか。どうも、さうとは信じかねる點が多いやうに小生には感じられますが、……。第一、神樣が誰か人間の形體に於いて現はれたくおぼしめしになるなら、何も小生如き靑二才をお選びになる必要はないかと愚考致します。しかし假りそめにも神樣の御意志を拜得した以上、あくまでこの惱み多き人生に光明を與へるべく努力するのが男子の義務で御座いませうが、どうも小生は御免蒙りたいのであります。何? それが卑怯だ? いや、卑怯と云はれたつて、何と云はれたつて、小生は既に申上げた通り、つまりその、微分析分[やぶちゃん注:ママ。]とか、タンゼン[やぶちゃん注:ママ。]・コタンゼントとか云ふことを取扱つて、嬶と仲よく暮したい以上に何の野心もないので御座います。

 それに小生として最も理解に苦しみまする點は、突飛な豫感が忽ち實現すると云ふことです。大體背中に眼がない以上、後の樣子が微細に解るなぞと云ふことは、どうも穩かでない現象かと思ひます。どう云ふ譯でああしたことが解るのか自分で了解出來ない以上、結局僕はぞつとするばかりです。さうです、何だかこの人生にはぞつとするものが視え始めました。神樣、かうしてお祈りしてゐる最中にも小生には今ここの下宿屋の臺所で夕餉の支度に何を拵へてゐるかが、ありありと眼に浮んで來ます。今晚は大根の煮附に揚がついてゐて、いや、それは今焚いてゐる匂ひがするから解るのではないのです。それならもう一つ別の皿に、殼のままの卵が出る筈ですが、あれなんか解らない筈ですし、それから、ほら、今、おかみさんが頭髮が痒くなつて、簪で自棄に突(つつ)いてゐるのが見えますが、疊や天井が小生の視線を遮つてゐる以上、何と云つても不合理なことだと思ひます。とにかく、かう何もかも微に入り細に亘り、直感され出しては小生は全く神經衰弱になりさうです。病的な男なら、さうしたことも喜ぶかも知れませんが、小生としてはむしろ迷惑千万の話です。小生は既に何度も申上げました通り、全智全能なぞにはなりたくないのです。第-、いや、もう祈りだか愚痴だか、しどろもどろになつてしまひましたが、何卒この心の狼狽のほどをお察し下さい。

 山根高彦が一通り祈禱を了へたところへ、女中が夕餉の膳を運んで來た。それはさつき彼が神樣に云つてのけた通り、大根の煮附と生卵であつた。が、山根高彦はもうかうした惡魔の飜弄には多少あきらめを感じた。たつた今も、女中がその食膳を持つて來る途中、廊下の廻り角で、如何云ふ[やぶちゃん注:「どういふ」。]わけでか、その女中はぺろりと舌を出して皿の大根を舐めたのであるが、山根高彦は何だか嚴肅な顏つきをして、その女中が舐めたところの大根をむしやむしや食べ始めた。

 

 山根高彦先生は間もなく世間から神樣にされた。噂は噂を呼んで彼の豫言の名聲は赫々と輝きはじめた[やぶちゃん注:「赫々」は「かくかく」或いは「かつかく(かっかく)」で、「華々(はなばな)しい功名を挙げるさま」「光り輝くさま」を言う。]。もとより豫言は百發百中であつたが、彼はそれ故鬱陶しかつた。もともと親切な先生で、人から賴まれては餘儀なく相談相手になるのではあつたが、やれ私の姪が今度産むはずの兒は男か女かと云ふ質問や、世間にはどうも好奇心のありあまる男女が多いものとみえて、私の隣りの家の主人の顏は高慢ちきで癪で耐らないが、あいつを何とかして監獄へぶちこむ方法はないものか――なぞと云ふ猛烈なものもあつた。さう云ふ豫言を求められる度に、山根高彦は何か罪惡を犯してゐるやうな、呵責を感じ、非常に面白くない不安に惱まされるのであつた。そして人々は彼の顏や態度が嚴肅になるに隨ひ、增々彼を信仰し出すやうになつた。

 さて、人々はみな山根高彦の豫言を信賴し、利用し、感謝するのであつたが、ここに最も悲しむべきたつた一人の例外があつた、それは誰あらう、山根高彦の永遠の女、つまり彼の許嫁であつた。彼女は山根高彦の名聲が高まれば高まるほど、彼を信じなくなつた。いや、この女は始めから山根高彦先生を信じても、愛してもゐなかつたらしいのである。彼女が彼と交際し出す以前に、彼女は既に他の男達を知つてゐた。それだから彼女は非常に輕薄な氣分で彼と婚約を結んだまでで、何も山根高彦を本氣で愛してなぞゐなかつたのだ。「もし、あの男がほんとに神樣なら、私の本心がわからないなんて變だわ」と彼女は鼻に輕蔑の小皺を寄せて笑ふのであつた。ところが、既にさうした一切のことがらは、山根高彦にはすつかり遠くから透視されてゐたのであるが、彼は暫く、ぢつとその屈辱に堪へた。さうした間にも結婚の日はどしどし近づいて來た。彼は時々その女の家を訪問しては、出來るだけ彼女の魂を正しい方向へ導かうとしむけたのであるが、彼女は心にもない甘い言葉や、笑顏で彼を嘲弄するばかりであつた。山根高彦はここでもまた人生のぞつとするものに觸れ、人の世の罪深かきに泣かされるのであつたが、結婚の日はあと一日となつた。すると、彼女はどうでもかうでもあの男がこの婚約を履行しようとするなら、するで、私には考へがある、と決心してしまつた。彼女の頭にその考へが閃いたのと同じ瞬間に山根高彦はそれを知つたので、あツと聲を放つて轉倒しさうになつた。あの女は俺と結婚して、そしてゆくゆくはこの俺をそつと殺さうと考へたな! 實に恐しいことだ。何と云ふ滅茶苦茶な思想だ、もはやこれは絕體絕命の現實だ。俺はさて何處へ逃げたらいいのか、この己れ故、人一人に罪を犯さすよりか、己は己の故鄕が戀しくなつた。

 そして、翌朝、美しい秋の朝日が射す物干棚で、山根高彦は首を縊つてゐた。

原民喜 獨白

 

[やぶちゃん注:昭和一七(一九四二)年十月号『三田文學』初出。

 底本は一九七八年青土社刊原民喜全集「Ⅰ」を用いたが(底本では「拾遺作品集Ⅰ」のパートに配してある)、以上の書誌データや歴史的仮名遣表記で拗音・促音表記がないという事実及び原民喜の幾つかの自筆原稿を独自に電子化してきた私の経験に照らして(彼は戦後の作品でも原稿では歴史的仮名遣と正字体を概ね用いている)、漢字を概ね恣意的に正字化することが、原民喜自身の原稿原型に総体としてより近づくと考え、今までの私のカテゴリ「原民喜」のポリシー通り、そのように恣意的に処理した。

 因みに、本篇は現在、ネット上では公開されていないものと思われる。【2019年3月30日公開 藪野直史】]

 

 獨 白

 

 あなたの夢は山道の出來事から始まります。あなたが息をひきとられてから、まだ三時間とたたない時、あなたの死體を乘せた自動車が夜道で故障を起してしまつたのです。それが氣も轉倒してゐる私にはただの出來事とは思へなかつたのです。兄と運轉手と私のほかには誰もゐない深夜の山道で、齒の根もカチカチ慄へる寒さでした。あなたをくるんだ毛布がかすかに私の方にずり下る氣配がして、ぢつと息を潛めてゐると、たしかにあなたは毛布を隔てて私にだけ分る合圖をなさつてゐるのでした。

 思はず私は、あなたの掌を捉へ、それを固く握り締めたまま、戰く胸のところに當ててをりました。そして、ガタガタ慄へだしました。急に底知れない怕さが漲つて來るやうでした。次いて、何か途轍もない力によつて私たちは天空高く舞上るやうな心持がしました。あなたの力が、あなたを滅ぼしたものの力が、ぎりぎりと私の額のところを捩ぢ伏せてゐました。悶絕の姿勢のまま、私はある限りの奇蹟を待ち望んでゐたのでせう。

 ……しかし、自動車は夜明前に修繕が整ふと、やがてあなたの生家の方へ向つて走り出しました。それから後はふらふらとした悲嘆の風景です。

 夢では、……あなたはいつもみごとに生きてをられます。眞暗な處で、自動車が停まつてしまつても、あなたはすつと座席を立つて車の外へ出て行かれるのです。それから、運轉手と何か二こと三こと話しあつてゐて、あなたは何時の間にかそんなことも硏究なさつたのか、せつせと修繕の指圖をなさるのです。それが、まだ退院したばかりの身で無理ではないかしらと心配すれば、わざわざあなたは窓の方へ顏を寄せて、「大丈夫だよ」と斷られるのです。……と思ふと、もう私たちは家へ歸つてをります。何もかも新規蒔直だ、と、あなたは押入の中の書物を取出し、あるじの留守の間そつとその儘つつましく待つてゐた机の上に一つ一つ積み重ねて行かれます。すると、もう父親の顏をよく憶えてゐる薰が、「お父さん、お父さん」と嬉しげに附纏ひ、次男の耿二はこれも兄に眞似て珍しげに何か片ことを喋るのです。あなたは二人の子供を膝にあやしながら、視線はぼんやりと穴だらけの障子にとどまつてゐます。天井も柱も煤けて歪んだこのボロボロの家屋が、しかし今では一寸も心細くなくなるのです。……あなたは疊の上に放り出されてゐる玩具のタンクを一寸弄つてゐられると、ふと思ひ出したやうに、うんと一人で頷かれます。「入院中素晴しい考が浮んだよ、あれをつきつめて行けば吃度ものになるんだ、糸口だけはもう見つかつてゐるのだから……」と、あなたは早速ノートを出して、私には解らない公式を書込んでをられます。あなたの指さきは忙しさうに鉛筆を運んでをられますが、眼は奧深く澄んで無限を視凝めてゐるもののやうです。……その姿を見てゐると、泉のやうに湧き出すあなたの計畫の實現を信じないではゐられません。それでゐて、少しつつ、不安になつて來るのは、どうしてなのでせう。やはり以前の悲しい記憶が忍びこんで來るのでせうか。

「もう大丈夫だよ」とあなたはその頃よく云はれました。實際誰の眼にもあなたは圓々と肥えて元氣さうでした。母の葬式の時も、あなたは大勢の人にうち混じって努めて人並に振舞はれました。そして葬ひが濟むと、萎れてゐる私を引立てるために、あなたはもう就職のことやら轉居やら、いろんな計畫で心を奪はれました。それまでの不安な生活はほとほと私達を疲れさせてゐましたが、遽かにあなたは奇蹟のやうに若々しく晴れやかになられました。

 そして、あれは大學の方への復職がほぼ決まりかけた時です。何となく苛々する朝、あなたは起きがけにかすれた聲で私の名を呼ばれました。そして、それを知つた時の私はただ「大丈夫よ」と繰返し、體はづしんと地の底に沈んで行くやうでした。それにもまして、あなたは石のやうに默したまま、絕對安靜の姿勢で天井を視つめてゐられました。まるで私達を呪ふものがそこの天井にゐるかのやうに、私はあなたの視線の跡を追つてみました。失望に塗りつぶされた私の眼に、その煤けた天井は夜のやうに眞暗でした。

 あの朝の不吉な印象はこの頃でも、そつと夢の中に紛れ込みます。……私はくたくたに疲れて、身も魂も呻きとほしてゐます。さうすると、譯のわからぬ怒りが押寄せて來て、見るまに私の體は浮び上り、自分ながらおそろしい感覺で魘されます[やぶちゃん注:「うなされます。]。高く高く宙に浮上つた私の體のはるか向うに、あなたの姿が小さく儚なく見えます。それは海の中の絕對安靜の島。狂つてうはづつた風景です。

 

 あの朝の打擊が段々鎭まると、あなたの健康はまた順調になつてゆかれたやうです。やがて、私達は郊外の川に近い借家へ引越しました。あなたの計畫は挫折しましたが、あなたはまた新しい方針を立て、心は碎けてゐなかつたのです。旅先に託けてあつた家財道具も取寄せ、久振りに家らしい場所を得ました。そこでは靜臥椅子を備へたり、療養書を讀み漁つたりして、あなたは自分の病氣をすつかり硏究されました。……靜かな環境の中に月日は水のやうに流れてゆきました。あなたはよく無念無想の顏で、緣側の椅子の上に橫臥したまま、夕ぐれの近づく空を見つめてをられます。あなたのまはりの空氣は甘くゆるやかに流れ、そこには何か恍惚としたものが、あなたにだけ感じられるものが漾つてゐます。……あの頃があなたの生涯のうちでは一番穩かないい時期だつたのではないでせうか。愚かな私はあなたの安らかさうな姿に、時折、どうにもならぬ怒りを感じました。久しく收入の途が絕たれ、その上賴みとなる母を失ひ、僅かばかりの貯金を下し下し暮してゐる身は、だんだん大きくなつてくる子供を見ても、ぢりぢりと苛立つのでした。ぢりぢりといら立つ火の上に坐つてゐるやうな氣がして、それを考へると堪らないのでした。しかし、今では、……今ではあの頃を追慕するばかりです。いら立つ火を背負つてゐたのはあなたも同じだつたに相違ありません。はじめてあなたと知つた頃から、あなたは愁はしげな口調で「われわれは不幸な日を生きぬいてゐるのだ」と、よくそんな風に云はれたものです。

 

 よくよく、あの家があなたには氣に入つたとみえて、どうかするとあなたは夢ではあそこの家に舞戾つて來られるのです。それは朝餉が濟んで、あなたが緣側の椅子に移り、もの音が杜絕えた一時、玄關の戶が開いて、郵便と何か放る音がするので何だらうと思つて出てみると、大學の雜誌なのです。こんなものを見せてはあなたは又夕方熱を出されるだらうと、躊躇してゐるうちに、あなたはもう側からその雜誌を奪ひ取られます。あなたの友達の消息が出てゐるところを覗き込むと、をかしなことに次の頁には私の女學校の友達の安否が載つてゐて△印を附けたのは未亡人のしるしだとあるのです。と思ふと、あなたはやにはに後の方の頁をめくつて見て、「出た、出たぞ」と面白さうに云ほれます。見ればあなたの下手な俳句が一句、薰といふ號で載つてゐるのです。そこへ薰はあわただしげに外から走つて來て、「お母さん、雙葉屋に食パンを賣出したよ、早く、早く」と急き立てるので、私も夢中で走り出し、つい目が覺めてしまふのです。

 

 あなたの健康は少しつつ良くなつて行くやうでした。やがて凉しい季節が來ればもう散步にも出られさうでした。その時あの支那事變が始まつたのでした。あなたは容易ならぬ面持で、何ごとかをきびしく豫想されました。「さうだ、かうしてはゐられない」と、あなたは事變の進展する度にさう呟かれました。ほんとに、あなたにとつて、もし健康さへ許されてをれば、今はどんなに澤山の仕事が待つてゐたことでせう。あなたがそれを一つ一つ說明されると、目には見えなくても、到る處の工場や發電所が猛烈な勢で唸つてゐるやうに想はれるのでした。しかし、あなたは興奮して話された後はいつも翼を奪はれた鳥のやうに、力なく椅子に橫臥されてしまひます。凉しい季節が訪れても、あなたの熱は退かうともしませんでした。秋風の中を汽車の響がして、風にひきちぎられて、萬歲! 萬歲! 萬歲! といふ聲が、軒近く緣側の椅子のところまで漾つて來ます。それは聞く人の心を遠くへ持去つて行くやうでした。そんな日がいく日もいく日も續いてゐました。……あなたの顏はひどく動搖してゐるやうでしたが、やがて、眼の色がだんだん深く澄んで來ました。あなたは以前の落着をとりかへされ、それに一層何か偉大なものがつけ加はつたやうでした。病氣はあなたの意志で再び克服されて行くやうでした。その頃のことです、あなたは專門の學問の外に俳句や土いぢりに興味を持たれ始めました。あなたは日常生活の一寸したことにも面白い工夫や新しい發見をなさいます。しかし、俳句はをかしいほど下手でしたが、あなたは生活の單調に屈托されることはありませんでした。何か素晴しい代用品を考案してみせるぞと、よく冗談半分に云はれます。あなたの話を聞いてゐると、私にはもうそれが出來上つたやうに思へるのでした。病氣さへ恢復すればと、私の祈ることはそればかりでした。……あなたが二番目の子供の父親になられたことが判つた時、あなたはまたひどく動搖されました。「是が非でも早く治つてみせる」と、あなたは低く引締つた聲で云はれました。そして、一層悲痛なことには、その翌日から輕微ながらよくない徴候があらはれました。

 あなたはまた前にも增して、激しい鬪病精神に燃え立たれました。そして、それは次第に貫徹されて行きました。二番目の子供の顏を見られた時、あなたは殆ど健康に辿り着かれたやうでした。もう子供はそろそろ匐ひ出すやうになりました。二人の子供の父親となられたあなたは、更に大きな計畫を夢みながら、おもむろに身をいたはつてをられました。越して來た頃は靜かだつた環境も、その頃になると遽かに家が建込んで、だんだん暮し難くなりました。子供を連れて、ぶらぶら散步してゐるあなたの姿が心ない人の口の端にのばり、後指をさされることもありました。そんな時も、あなたはじつと堪へ忍んでをられました。そして、遂に忍苦の報いられる日が來ました。醫者の保證も得て、就職の決定した日、そんな日が到頭やつて來たのでした。「少しづつ、少しつっだ」と、あなたはその日、自信を籠めて呟かれました。

 ――それから後のことは、今も私は苦痛なしには囘想出來ません。あれは長い療養中に蓄積されてゐた、仕事に對するあなたの情熱が逸散に塞を切つて[やぶちゃん注:「いつさんにせきをきつて」。]溢れ出したのでした。それはあなたの短かい生涯に輝きを放つた最後の虹だつたのでせうか。その虹はあえなく消え失せたのでせうか。いいえ、今も、どこかに、大きな虹は交錯してをります。その虹をひそかに誰かが仰ぎみるのです。

 

 あなたにとつても、私にとつても、あの土地はまだまざまざと生殘つてゐます。汽船がはじめて、あそこの港に入つた時、小さな街は一眸[やぶちゃん注:「いちぼう」。「一望」に同じい。]のうちに收まり、その丘の端に新設された高等工業の校舍が、あなたを招くやうに見えました。二人の子供を連れて、(-人はまだ私の胸に抱かれてゐましたが)にこやかに甲板に降り立たれた時のあなたは……、それが半年後、看護婦に助けられて、よろよろと甲板を步む姿に變らうとは誰が想像したでせう。……その土地は氣候も穩かだつたし、あなたは高等工業の敎授として、病後の保養を續けながら、少しづつ硏究を積まれて行くはずだつたのです。その土地の借家へ落着いた時、あなたは新郞のやうに若々しく、道はおもむろに開かれてゆくやうでした。しかし、あなたは殆ど凝と心を休息させてはをられませんでした。そこへ越す少し前から始まりさうだつたヨーロッパの戰爭も遂に火蓋が切られましたが、あなたは新聞に眼を走らせながら、これからさきの世の中はどうなると細かなことまで豫想されるのでした。……今になつてそれらを思ひ出してみると、あなたの豫見は大槪的中してゐるやうです。あなたのすぐれた眼の中には、そんなに未來のことがらがよく見えてゐながら、どうして、あなた自身のことがらは見えなかつたのでせう。それとも、やはり私のあなたに對する注意が足りなかつたのでせうか。

 とめても、とめても、あなたは忙しさうに勉强なさいました。遲くまで、あなたの部屋に灯が點いてゐて、その影法師を見てゐると、以前大學で助手をしてをられた頃の姿とそつくりでした。あの頃、あなたは先生の硏究を本に纏める仕事を引請けられ、身を損ねるまで夢中で働いてをられました。私はふと今度はその姿に怯氣[やぶちゃん注:「おぢけ」と読んでいよう。「怖気」に同じい。]を感じましたが、しかし、晝間出勤から戾られた時のあなたの姿はまるで疲勞を知らない人のやうに快活でした。……あなたは新設の學校に用件が多いのを寧ろ喜んでをられるやうな風でした。そしてあなたは餘計な仕事までわざわざ引請けて來られました。就任されてまだ一ケ月も經たないうちに、あなたは學校の用件で東京へ出張され、まだその疲れも休まらないのに今度は京都の方へ出掛けられました。長途の旅から戾られると、あなたは頻りに何かわからないものに對して張合ひを感じてゐられるやうでした。……そして、私達親子四人で秋晴の日曜日をピクニツクに出掛けた時、私は川のほとりで、やはりあなたと同じやうに何かわからないものに對して限りなく滿ちたりたものを感じてゐました。ところが、ふと、その時感謝の氣持を隱しながら、あなたの方を振向くと、あなたの姿はどこか肩のあたりが何かしーんとした寂しさに溢れてゐるのでした。その姿を思ひ出すと、今でも泣けてなりません。

 あなたが肺炎に罹られたのは、その年の暮です。打續く高熱のうちに、あなたは昏々として頑張れてゐました。病氣が峠を越した時、あなたはいつものやうに、「なあにすぐよくなる」と、もう學校のことなど氣にされてゐました。しかし、醫者は苦しい口調で絕對安靜を言渡しました。あなたの健康はすつかり駄目になつてゐたのです。レントゲンの寫眞を示されて、醫者からそれを云はれた時、私は何もかも當分諦めねばならぬと決心しました。それから私達は汽船に乘つて、鄕里の方へ引返したのでした。

 

 こんどの打擊はすぐにもう私たちを根こそぎにしてしまひさうでした。しかし、あなたは「またやり直しだね」と、氣輕に療養所へ入院されました。それは殆ど絕望を知らない人のやうでした。「すぐにまたおうちへ歸つて行くよ」とあなたは薰に對つて[やぶちゃん注:「むかつて」。]さう仰るのでした。……「少しづつ良くなつてゐるらしい」――あなたは見舞に行くたびに吟味するやうな顏で、暫くためらひながら、ふと明るい眼つきをなさいました。容易ならぬところまで行きついてゐる體も、どこかから奇蹟の救ひがさづかりさうでした。「少しづつ良くなつてゐるらしい」その言葉はいつも奇蹟のひびきが籠つてゐるやうでした。さうして、あなたはあそこで一年近くも鬪病を續けて行かれました。

 ……そのうちにあなたは見舞に來る人のうち、お母さんに對して、妙に腹を立てられるやうになりました。もともと性のあはない間柄のやうでしたが、その頃になると、何故かあなたはお母さんをひどく呪つてゐられるのでした。そして、あなたは短歌を作り始められました。以前の俳句とは違つて、悲しい心魂を打込んだやうな歌が、いくつも枕頭のノートに書込まれてゐました。さうかと思ふと、あなたは博い知識を病院中に振り撒いて、お醫者をとらへては滔々と議論をなさるのでした。そんなにあなたは淋しかつたのでせう。

 ……その朝、あなたは食事を終つて、恰度誰も室内に人がゐない時、突然無慘な徴候が襲つて來ました。人々に助けられて、やがて、いくらか人心地に戾られた時、あなたはすつかり晴々した顏で、「助かつた、助かつた、有難う、有難う」と頻りみんなに感謝なさいました。電報で知つて私が駈けつけた時、その時にはただ昏々とあなたは睡り續けてをられました。あれがあなたの最後の姿だつたのでせうか。

 

 あなたを喪つてからの私はいつも死の影に包まれてゐるやうです。眼に映るものの姿が死の相を帶びても、それが今ではごく普通のことのやうに親しめて參りました。それに、あなたはやはり死んではゐられないやうにも思へるのです。あなたといふ人の不思議な力や、あなたと結ばれた七年間の暮しが、時ととも意味を增し陰を深めて來るやうです。……はじめから、私といふ女は不幸な星の下に生れついてゐたのでせうか。豐かな家庭に育ちながら、幼い時から素直な氣持と云ふものに惠まれてゐませんでした。七つ違ひの姉が人からちやほや可愛がられるのにひきかへ、私は皆から疏んじ[やぶちゃん注:「うとんじ」と読んでいよう。「疎んじ」に同じ。]られてゐました。そして私は人に愛されることに激しい輕蔑と反撥を持ち續けました。誰をも寄せつけない、冷やかな蕊[やぶちゃん注:「しべ」ではなく「しん」と読んでおく。]が凝と固まつて行きました。それでも年頃になると、かうした態度も表面だけは緩和されてゐましたが、皮肉な心はひそかに硏ぎ澄まされてゐました。と、いふのも、私の姉の愚かな結婚が油を注いだのです。姉は殆どとる足りない俗惡な男を神樣のやうに崇拜しながら、その酷使に甘んじて三年目に病死してしまひました。その死際に至るまで、姉は自分の幸を疑はず、夫の名を呼びつづけてゐました。私は人間といふものの愚かさを、それから男といふものの恃むに足りないことを、その時はつきり見せつけられたと思ひました。自然と私は自分の未來の結婚にも暗影を描き出しました。どんな男と結婚したところで、私といふ人間は惠まれないと決めてしまつたのです。……ですから、あなたとの緣談が持上つた時も、私は何の期待も持つてはゐなかつたのです。母が勸めるままに、その人なら安心出來ると云ふので、承諾したまでのことです。

 ……こんな告白を今あなたに對つてしてゐると、私の心は自分ながら不可解になつて參ります。殆どあなたの生前には私は自分の心の底を割つて見せたことは無かつたやうです。あなたの誠實に溢れる愛情すら私はいつも疏ましく受け流してゐたやうです。そして、その氣持は、ひそかにあなたの死の瞬間に到る迄續いてゐたのではないでせうか。……貧苦の裡に育てられ、苦學に近い生活を續けて、大學を卒業されたといふあなたは、初めてお目にかかつた時、吃驚するほど素直で純粹さうに見えました。さうして、私達が所帶を持つてからの、あなたの親切な態度は、それがあなたの生れつきの性質だつたのに、私は境遇の相違から來るものではないかと疑つたりしてゐました。不貞腐れたり、橫着な性質と出逢ふ度に、あなたは逆にそれを珍しさうに勞はり憐んで下さいました。思へば、辛苦つづきの生活でしたが、私はあなたに甘えつづけてゐたのではないのでせうか。

 ……さう云へば、何だかこの獨白も、あなたに呼び掛けてゐるのでせうか、それともあなたがわたしに呼び掛けてゐられるのでせうか。この頃の有樣や、私の日々の氣持も、あなたはもうとつくに、みんな知つてゐられるのに違ひありません。それなのに、それをあなたは私から引出さうとなさるのですか。……あなたと死別れてからもう三年になりますが、今は己の背負はされた境遇にもどうやら馴れて參りました。娘の頃は何不自由なく育つた私でも、この頃は人並以上の不自由を凌いでをります。そして、今ではそれを不幸とも幸福とも何とも感じなくなりました。そんなことより、ただ生きて行くことで手一杯のやうです。それも夢中で、賑やかに子供たちに勵まされてゐるばかりなのです。薰はあなたに生寫[やぶちゃん注:「いきうつし」。]で、もう國民學校の一年生ですが、素直で、悧巧で、人懷つこく、虛弱なところまであなたに似てゐます。耿二はまだ頑ぜない年頃で、なかなか手が懸ります。それに兄と違つて、敏捷で、强情で、喧嘩好きです。先達て二ケ月ばかり幼稚園を手傳に通勤した際も、この子が足手纏になつてどれだけ困らされたかわかりません。今日も薰が獲つて來た蟬を耿二が奪ひとり、夕餉前の一時を大騷動でした。……晝間はあれこれと忙しく、子供の聲に紛れて、過ぎ去つたことがらもつい忘れ勝ちです。夜が靜まつて秋風が吹いて來ると、靜まつてゐたものが搖れ動くのです。

2019/03/29

甲子夜話卷之五 30 厭離穢土の御旗幷參州大樹寺閂の事

 

5-30 厭離穢土の御旗參州大樹寺閂の事

[やぶちゃん注:以下、長い二箇所の漢文体部分には訓点があるが、それを排除して、まず、白文で示し、後に( )で、訓点に完全に従った訓読文を添える形とする。やや読み難いので、訓読文では今まで本「甲子夜話」の電子化では一回もやっていないのだが、例外的に句読点を変更・増加し、送り仮名の一部を追加して送り、難読と思われる字には、これも極めて例外的に歴史的仮名遣で推定読みを添え、鍵括弧も添えた。静山の文はこれも特異的に改行した。

參州大樹寺登譽和尚傳云。永祿三年、東照神君出師不利、脫身奔走入大樹寺。時隨之者僅十八人。神君謂師曰。今日事急矣。當如之何。師曰。男兒當於死中求生計。豈可坐受窘辱乎。鳴呼檀越之有難者、係我法門之厄也。我雖沙門頗解兵策。能捨身命爲擁護、則敵不足懼矣。卽遣使近村招募兵士、得緇素五百人。乃設方略防守寺門。又以白布遽裁爲旗、大書之曰。厭離穢土欣求淨土。乃自揭旗、規度軍營處所。其指揮籌策、殆如宿將。神君見而壯焉。又云。從此之後、神君用兵、則必揭是旗而出、戰則必勝、攻則必取。平居無事、則納之烏漆匝、未嘗離其傍云。

(參州大樹寺の登譽和尚の傳に云ふ、『永祿三年、東照神君、師を出でて、利あらず、身を脫して奔走し、大樹寺に入る。時に之れに隨ふ者、僅に十八人。神君、師に謂ひて曰はく、「今日、事、急なり。當に之れを如何(いか)んとかす。」。師、曰はく、「男兒、當に死中に於いて生計を求むべし。豈に坐(ざ)ながら窘辱(くんにく)を受くべけんや。鳴呼、檀越(だんおつ)の難(なん)有るは、我が法門の厄に係れり。我れ、沙門と雖も、頗る兵策を解す。能く身命(しんみやう)を捨てゝ擁護を爲さば、則ち、敵、懼るるに足らず。」。卽ち、使ひを近村に遣はし、兵士を招き募るに、緇素(しそ)五百人を得。乃ち、方略を設け、寺門を防ぎ守らしむ。又、白布を以つて遽(には)かに裁して旗と爲し、大に之れを書きて曰はく、「厭離穢土欣求淨土」。乃(すなは)ち、自ら旗を揭げ、軍營の處所を規度(きど)す。其の指揮・籌策(ちうさく)、殆んど宿將のごとし。神君、見て、「壯なり。」とす。又、云はく、此れよりして後、神君、兵を用ひるとき、則ち、必ず、是の旗を揭げて出するに、戰へば、則ち、必勝、攻むれば、則ち、必取。平居、事は無きとき、則ち、之れを烏漆(うしつ)の匝(はこ)に納め、未だ嘗つて其の傍らを離さず、と云ふ。)

件の御旗のことは世普く所ㇾ知なり。御他界の後は、日光の神庫に納て、世々崇寶ありしと云。然にこの六七年前か、日光の何院とか火を失し、神庫も延燒して、此御旗も祝融の患に罹れりと聞く。又前書に云く。

寺有一僧。號曰祖同。勇悍多力能敵八十夫。時祖同介冑帶刀、爲神君御馬。敵兵方至已逼寺門。緘扃甚固欲入無從。神君曰、閉門拒之事似怯弱。言未訖、拔刀斫門關。祖同曰、此豈足以煩於君手耶。便進破鎖、奓戶而立。神君上馬。祖同執其馬勒而先登。從者十八人亦隨突出。雄壯威猛無敢近者。敵兵大潰神君得捷。其所斫門關、至今尚在大樹寺、刀痕宛然而存。

(寺に、一僧、有り。號して祖同と曰ふ。勇悍多力にして、能く八十夫に敵す。時に祖同、介冑(かいちう)して刀を帶び、神君の爲めに馬を御す。敵兵、方(まさ)に至りて已に寺門に逼(せま)る。緘扃(かんけい)、甚だ固くして入らんと欲すに從(よ)し無し。神君、曰はく、「門を閉(とざ)して之れを拒(ふせ)ぐは、事、怯弱(けふじやく)に似たり。言ふこと、未だ訖(をは)らざるに、刀を拔きて、門關を斫(き)る。祖同、曰はく、「此れ、豈に以つて君手(くんしゆ)を煩はすに足らんや。」。便ち、進みて鎖を破り、戶を奓(ひら)きて立つ。神君、馬に上る。祖同、其の馬の勒(くつわ)を執りて先登(せんとう)す。從ふ者、十八人、亦、隨ひて突き出づ。雄壯威猛、敢へて近づく者、無し。敵兵、大いに潰れて、神君、捷を得たり。其の斫る所の門關、今に至りて、尚ほ、大樹寺に在り、刀痕、宛然として存す。)

この門關も、亦五六年前大樹寺より持出たるとき、增上寺の方丈に於て拜見せり。このときの大僧正は敬譽典海と云て、予が少時より相識れる人なりし。因て見ることを得たり。凡木口にては三寸ばかり、長さは一間にもたらずと覺ゆ。神君の御太刀痕と云ものもさまで顯然たるにもあらず。然れば其時の有さまは、此門關にては知れず。唯急難の御時に、御勇氣の盛なるを以て相傳たる者ならん。因て予、僧正に言しは、此物は今幕下の歷々總て拜見すべきもの也。冀は其形狀を模寫ありて開梓せらるべし。然らば各遠く參州龍興の跡を拜觀し、英氣を長ぜんと申置たりしが、僧正も尋で遷化せしかば其事いかゞなりしにや。

■やぶちゃんの呟き

「參州大樹寺」現在の愛知県岡崎市鴨田町広元にある浄土宗成道山松安院(じょうどうさんしょうあんいん)大樹寺(だいじゅじ/だいじゅうじ)(グーグル・マップ・データ)。ウィキの「大樹寺」によれば、『寺の言い伝えによれば』、永禄三(一五六〇)年の「桶狭間の戦い」で、『総大将義元を失った今川軍は潰走、拠点の大高城で織田方の水野信元の使者からの義元討死の報を聞いた松平元康(徳川家康)は、追手を逃れて手勢』十八『名とともに当寺に逃げ込んだ。しかし』、『ついに寺を囲んだ追撃の前に絶望した元康は、先祖の松平八代墓前で自害して果てる決意を固め、第』十三『代住職登誉天室に告げた。しかし登誉は問答の末』、「厭離穢土 欣求浄土」の教え(絶対他力で只管、阿彌陀の大慈大悲の誓願を信じて来世の極楽浄土を冀(こいねが)う浄土宗の教えを「穢れた世の中は清浄な世の中に変えなくてはならない」という自力的意味に読み換えたもので、『登誉は浄土宗徒でもあった元康に、この努めを果たすよう説得したとされる』)『を説いて諭した。これによって元康は、生き延びて天下を平定し、平和な世を築く決意を固めたという』。『元康は奮起し、教えを書した旗を立て、およそ』五百『人の寺僧とともに奮戦し郎党を退散させた。以来、家康はこの言葉を馬印として掲げるようになる。こうして元康は、今川軍の元での城代山田景隆が打ち捨てて空城となった古巣の岡崎城にたどりついたとされる』。『しかし』、「桶狭間の戦い」『の直後、三河へ撤退する松平勢に対し、織田勢が追撃戦を行ったという記録を有する資料は存在しない』とある。慶長七(一六〇二)年には『勅願寺とな』り、『家康の死に際しては』、第十七『代住職の了譽(りょうよ)が同席した。家康の死後は、遺言に従い、位牌が収められた。以降、歴代徳川将軍の等身大位牌が大樹寺に収められた』とある。

「閂」「かんぬき」。

「窘辱(くんにく)」辱めを受ける苦しみ。

「檀越(だんおつ)」檀家。

「緇素(しそ)」「緇」は出家者の衣の色である「黒」色を指し、「素」は在家者の衣の色である「白」色をいう。転じて、出家者と在家者の意。

「裁して」裁断して。

「規度(きど)す」奮起を促すための規範評語とし、軍紀を守ったということであろう。

「籌策(ちうさく)」計略。策略。

「宿將」経験に富んだ優れた将軍。老練なる武将。

「平居」非戦時。

「烏漆(うしつ)」烏の羽毛のように黒く、光沢を帯びた黒漆塗りのこと。

「祝融」祝融(しゅくゆう)は中国神話の「火の神」。炎帝の子孫とされ、火を司るとする。そこから、「火災に遇う」ことを「祝融に遇う」と喩える。

「介冑(かいちう)」鎧と兜。ここはそれらを装着すること。

「御す」「馭す」に同じい。

「緘扃(かんけい)」門を閉ざして堅く封じること。

「從(よ)し無し」「由無し」の同じ意でルビを振った。

「怯弱(けふじやく)」臆病。怯懦(きょうだ)。

「奓(ひら)きて」「開きて」に同じ。「奓」には「開ける」の意がある。

「勒(くつわ)」「轡」に同じい。

「捷を得たり」獲得するの意であるが、ここは戦に勝利することを指す。

「敬譽典海」浄土宗学僧にして増上寺第五十六世となった典海教誉のことかと思われる。俗姓は出島、号は演蓮社・教誉・光阿・義円。紀伊生まれ。大阪天満大信寺で剃髪、三田林泉寺の禀誉説典に師事、後、増上寺に入り、内外の経典を学び、増上寺学頭・連馨寺住職から、光明寺に転住、その後、増上寺住職となり、大僧正に叙された。文化六(一八〇九)年八十で入寂している(ここまで思文閣「美術人名辞典」に拠る)から、時期的にも合う。

「凡」「およそ」。

「木口」「こぐち」。木材を横切りにした面。

「一間」一メートル八十二センチメートル弱。

「御太刀痕」「おんたちあと」。

「開梓」「かいし」。公に板行(出版)すること。

「各」「おのおの」。

「龍興」これは本来は天子が国を起こして興隆させることを指すが、ここはそれを実質的に日本を収めた家康の出現に擬えたもの。

「申置たり」「まうしおきたり」。

「尋で」「ついで」。その時から間もなく。静山が「甲子夜話」の執筆に取り掛かったのは、文化三(一八〇六)年に三男熈(ひろむ)に家督を譲って隠居した後の、文政四(一八二一)年十一月十七日甲子の夜であるから、典海教誉の入寂とも矛盾がない。

譚海 卷之三 樂器の家々 琴

樂器の家々 琴[やぶちゃん注:字空けはママ。]

○樂器の内(うち)三絃はみな其(その)家有(あり)。和琴(わごん)は四辻殿(どの)、琵琶は菊亭殿、筝(さう)は藪(やぶ)殿其家也、門弟免許なき人は猥(みだり)に彈ずる事ならぬわざ也。持明院殿は朗詠・催馬樂(さいばら)其家也。和歌披講發聲等も門入(もんにふ)してならふ事也、私(わたくし)にはうたふ事成(なり)がたし。廣橋家は書法式の家也、世尊寺殿も文字法式免許を出さるゝ家也、又勅額を彫刻せらるゝ家もありとぞ。

[やぶちゃん注:「三絃」三味線。ウィキの「三味線」によれば、十六『世紀末、琉球貿易により堺に中国の三弦がもたらされ、短期間の内に三味線へと改良された』。『現存する豊臣秀吉が淀殿のために作らせた三味線「淀」は、華奢なもののすでに基本的に現在の三味線とほとんど変わらない形状をしている。伝来楽器としての三弦は当道座』(とうどうざ:中世から近世にかけてあった男性盲人の自治的互助組織)。仁明(にんみょう)天皇(在位:天長一〇(八三三)年~嘉祥三(八五〇)年)の子である人康(さねやす)親王は盲目(眼疾による中途失明)であったが、山科に隠遁し、盲人を集め、琵琶・管弦・詩歌を教えた。人康親王の死後、そばに仕えていた者に検校と勾当の官位を与えたとする故事により、当道座の最高の官位は検校とされた。鎌倉時代に「平家物語」が流行し、多くの場合、盲人がそれを演奏した。その演奏者である平家座頭は、源氏の長者である村上源氏中院流の庇護、管理に入ってゆき、室町時代に検校明石覚一が「平家物語」のスタンダードとなる覚一本をまとめ、また足利一門であったことから室町幕府から庇護を受け、当道座を開いて、久我(こが)家が本所(名目上の権利所有者)となった。江戸時代にはその本部は「職屋敷(邸)」と呼ばれ、京都の佛光寺近くにあり、長として惣検校が選出され、当道を統括した。官位を得るためには、京都にあった当道職屋敷に多額の金子を持っていく必要があった。以上はウィキの「当道座』」に拠った)『の盲人音楽家によって手が加えられたとされ、三弦が義爪を使って弾奏していたのを改め』、『彼らが専門としていた「平曲(平家琵琶)」の撥を援用したのも』、『そのあらわれである。彼らは琵琶の音色の持つ渋さや重厚感、劇的表現力などを、どちらかといえば軽妙な音色を持つ三味線に加えるために様々な工夫を施したと思われる。とくに石村検校は三味線の改良、芸術音楽化、地歌の成立に大きく関わった盲人音楽家であろうと言われる』とある。

「四辻殿」室町家の別名。花亭家とも呼ぶ。藤原北家閑院流。西園寺家一門。家業は和琴と箏。江戸時代の家禄は二百石。

「菊亭殿」今出川家の別名。藤原北家閑院流、西園寺家庶流。家業は琵琶。江戸時代の家禄は初めは千三百五十五石。

「藪(やぶ)殿」高倉家の別名。藤原北家閑院流、四辻家支流。藤原南家の祖藤原武智麻呂の子孫である藤原範季を祖とする。江戸時代の家禄は初めは百八十石。

「持明院殿」持明院家。藤原北家中御門流。藤原道長の次男藤原頼宗の曾孫藤原俊家の子である基頼の流れを汲む。家学は鷹匠・書道(筆道宗家)・神楽。江戸時代の石高は二百石。

「廣橋家」藤原北家日野流。家業は文学。江戸時代の家禄は八百五十石。

「世尊寺殿」世尊寺家。藤原北家九条流嫡流の摂政藤原伊尹の孫行成を祖とし、「三跡」「四納言」として知られた初代行成以降、代々、入木道(書道)の家系として知られ、その流派は世尊寺流として受け継がれた。以上、それぞれの家の内容はウィキのそれぞれに拠った。]

和漢三才圖會卷第三十八 獸類 羆(しくま)・魋(しやぐま) (ヒグマ・ウスリーツキノワグマ?)

 

Sikuma

  

 

 

しくま   人熊 馬熊

【音碑】

      【和名之

       久萬】

ピイ   【蓋白熊畧稱也】

 

本綱羆似熊而大色黃白其頭長脚高猛憨多力能拔樹

木虎亦畏之遇人則人立而攫之故俗呼爲人熊蓋熊羆

壯毅之物屬陽故書以不二心之忠臣譬之

――――――――――――――――――――――

【音頽】

[やぶちゃん注:原典では上記標題下に二行で以下の本文が記されてある。]

本綱魋似熊而小色黃赤或赤或呼爲赤熊蓋熊羆

魋三種一類也【如豕色黒者熊也大而色黃白者羆也小而色黃赤者魋也】

 

 

しくま   人熊〔(じんゆう)〕 馬熊

【音、「碑〔(ヒ)〕」。】

      【和名、「之久萬」。】

ピイ   【蓋し、「白熊」の畧稱なり。】

 

「本綱」、羆は熊に似て、大。色、黃白。其の頭、長く、脚、高し。猛憨〔(まうかん)〕[やぶちゃん注:暗愚(憨)乍らも猛々しいこと。]・多力、能く樹を拔く。虎も亦、之れを畏る。蓋し、熊・羆、壯毅〔(さうき)〕[やぶちゃん注:意気盛んで勇ましいく、強いこと。]の物〔にして〕陽に屬す。故に、書に、二心(〔ふ〕た〔ごころ〕)あらざるの忠臣を以つて之れに譬ふ。

――――――――――――――――――――――

(しやぐま)【音、「頽〔(タイ)〕」。】

「本綱」、魋は熊に似て、小さく、色、黃赤、或いは、赤。或いは、呼びて、「赤熊」と〔も〕爲す。蓋し、熊・羆・魋、三種一類なり【豕〔(ぶた)〕のごとく、色、黒き者は「熊」なり。大にして色〔の〕黃白なる者は羆なり、小にして色〔の〕黃赤なる者は魋なり。】。

[やぶちゃん注:本記載は「本草綱目」の前後孰れも抜書きで、「熊」の「附錄」部の以下の分割である寺島良安が参考にした可能性が高い寛文九(一六六九)年風月莊左衞門(京都)刊の「本草綱目」ここ(国立国会図書館デジタルコレクション)を視認して訓読し、電子化した)

   *

附錄 羆・魋 【音は頽。時珍曰、熊・羆・魋、三種一類なり。豕のごとく、色、黑き者、熊なり。大にして、色、黃白なる者は羆なり。小にして、色、黃赤なる者は魋なり。建平[やぶちゃん注:現在の遼寧省朝陽市建平県(グーグル・マップ・データ)。ここだと、ウスリーヒグマの分布限界の西外となる。]の人、魋を呼びて「赤熊」と爲す。陸機、羆を謂ひて、「黃熊」と爲〔すは〕、是れ〔なり〕。羆、頭、長く、脚、髙し。猛憨多力〔にして〕、能く樹木を拔く。虎も亦た、之れを畏る。人に遇ふときは、則ち、人のごとくに立ち、之れを攫ふ。故に、俗、呼びて「人熊」と爲す。闗西に〔ては〕「猳熊〔(かゆう)〕」と呼ぶ。羅願が「爾雅翼」に云はく、『熊、豬熊〔(ちよゆう)〕有り、形ち、豕のごとし。「馬熊」有り、形ち、馬のごとし。卽ち羆なり』〔と〕。或いは云はく、『羆は、卽ち、熊の雄なる者なり。其の白きこと、熊の白きがごとくして、理〔(きめ)〕粗に〔にして〕、味、減ず。功用、亦た同じ。】

   *

中国産のヒグマ(食肉目クマ科クマ亜科クマ属ヒグマ Ursus arctos)は、

ウマグマ(チベットヒグマ)Ursus arctos pruinosus(中国西部)

ウスリーヒグマ Ursus arctos lasiotus(エゾヒグマと同亜種ともする)

の二種が代表種となろうか。ヒグマについては、前項の「熊」の「松前に出づる者、最〔も〕多し」に既注なので、そちらを見られたい。「黃白」という標準体色はやや不審ではあるが、焼けた茶褐色を言っているととれば、ヒグマのそれと一致するから、腑に落ちる。

 

「白熊」これは単に黒い熊類の中でやや白っぽい体毛をしているという程度の意味であろう。本邦のエゾヒグマでもアルビノと推定される白色個体が目撃されているので、アルビノと断じてもよかろう。所謂、狭義の現在の「白熊」、クマ属ホッキョクグマ Ursus maritimus は、ユーラシア大陸では北極圏直近のロシア北部沿岸にしか棲息せず、言わずもがな、中国には分布しないので、論外である。

「書に、二心(〔ふ〕た〔ごころ〕)あらざるの忠臣を以つて之れに譬ふ」出典未詳。

「魋(しやぐま)」「赤熊」既に述べた通り、払子や舞台用の鬘(かつら)及び兜の飾りなどに用いた赤く染めた「赤熊(しゃぐま)」それは、ヤク(ウシ目ウシ亜目ウシ科ウシ亜科ウシ属ヤク(野生種の学名は Bos mutus。家畜化された種としての学名はBos grunniens)。「犛牛(らいぎう)(ヤク)」を参照)の尾の毛を赤色顔料で染めたもので、「赭熊」とも書くが、良安がここで「しやぐま」とルビしたのはそれに引かれた当て訓に過ぎず、それはこの「魋」の毛とは無縁である(なお、東洋文庫訳では『ししぐま』とルビする。別版本のそれか。不審)。「魋」が如何なる種を指すかは不詳だが、「本草綱目」の叙述を見るに、可能性としては、性的二型のウスリーヒグマの♀、或いは、チベットツキノワグマ Ursus thibetanus thibetanus(雲南省南西部・四川省北西部・青海省南部・チベット自治区南東部)・タイワンツキノワグマ Ursus thibetanus formosanus(台湾)・シセンツキノワグマ Ursus thibetanus mupinensis(青海省・甘粛省・陝西省・チベット自治区・広西チワン族自治区・広東省・浙江省)・ウスリーツキノワグマ Ursus thibetanus ussuricus(中国北東部及び朝鮮半島。先の「本草綱目」の建平がこの地域に該当するのでこれが有力か)の♀或いは赤色個体(実際にいる)か若年個体で、体毛が有意に赤茶けたそれを指すのではないかと私は思う。

2019/03/28

和漢三才圖會卷第三十八 獸類 熊(くま) (ツキノワグマ・ヒグマ)

Kuma

 

 

くま

【音雄】

★     【和名久萬】

ヒヨン

[やぶちゃん注:★部分に上図の篆文が入る。]

 

本綱熊生山谷如大豕而竪目人足黒色性輕捷好攀縁

上高木見人則顛倒自投于地冬蟄入穴春乃出春夏臕

肥時皮厚筋弩毎升木引氣或墮地自快俗呼跌臕冬月

蟄時不食饑則舐其掌故其美在掌謂之熊蹯其行山中

雖數千里必有跧伏之所在石巖枯木謂之熊舘其性惡

穢物及傷殘捕者置此物于穴則合穴自死或爲棘刺所

傷出穴爪之至骨卽斃也性惡鹽食之卽死又云熊居樹

孔中人擊樹呼爲子路則起不呼則不動也

熊膽【苦寒】治時氣熱盛變爲黃疽者暑月久痢心痛治諸

 疳驚癇瘈瘲退熱清心平肝明目【惡防己地黃】

膽春近首夏在腹秋在左足冬在右足熊膽多僞以米粒

許㸃水中運轉如飛者眞餘亦轉但緩爾◦又眞者善辟塵

試之以浄水一噐塵幕其上投膽米許則凝塵豁然而開

                  爲家

 新六白雪のふる木のうつほすみかとてみ山の熊も冬篭る也

△按熊在深山中出於松前者最多全體黒而胸上有白

 毛如偃月俗稱月輪常以手掩之獵人窺其月輪刺之

 則斃若不然則挫刀鎗其强勢不可敵也其生子也甚

 容易以自手抓出故人用熊掌置臨産傍亦取安産之

 義矣

 陳眉公秘笈云熊得人輙搔人喉若腋令笑人仆舌舐

 靣血以爲快人屏氣陽乃棄去還視之再三人蘇欲起

 逃去追而扼之山民習其狀能脫于死

 近頃於津輕山中捕一大熊其掌徑三尺爪一尺許體

 毛脫兀希有之大熊也凡熊膽春夏則痩小黒色帶黃

 秋冬則肥大而深黒色也取之有數品鐵砲擊取者陷

 阬生捕者並膽全追捕者次之穴捕者又次之【投木撅於穴則

 能忿攫之取藉尻數木盈穴則終窮迫而出穴仍殺之謂之穴捕以勞倦其膽痩劣也】試法㸃水

 運轉徹底爲一線黃黒光色其味苦微辛甘氣腥也猿

 膽亦爲線然不能運轉且赤黒色而不光味苦氣惡也

 【又偽作者有數品】

 熊膽膜有八重穿取其膽肉盛身肉造成者難辯

 又有墨與油和煎染紙爲袋別用熊骨黃栢五倍子【三種】

 濃煎爲膏盛件袋晒檐閒如鉤柹漸乾而推扁作之

熊皮 造泥障坐褥及鞘袋等賞之正黒色美亞于獵虎

 其黃白色者最珍

 

 

くま

【音、「雄」。】

★     【和名、「久萬」。】

ヒヨン

[やぶちゃん注:★部分に上図の篆文が入る。]

 

「本綱」、熊、山谷に生ず。大なる豕〔(ぶた)〕のごとくにして、竪目〔(たてめ)〕[やぶちゃん注:意味不明。人のようでなく、丸いことを言っているか。]、人の足〔のごとし〕。黒色。性、輕捷にして[やぶちゃん注:身軽且つ敏捷で。]、好みて攀縁〔(はんえん)し〕[やぶちゃん注:物に縋って攀じ登り。]、高木に上〔(のぼ)〕る。人を見るときは、則ち、顛倒し、自ら地に投ず。冬は蟄(すごも)り、穴に入る。春は乃〔(すなは)ち〕出づ。春夏、〔身の〕臕(あぶら)[やぶちゃん注:「臕」は、肥えて肥っていることの形容で、ここは「脂」に同じ。]肥えたる時、皮、厚く、筋[やぶちゃん注:筋肉。]、弩〔(ど)たり〕[やぶちゃん注:意味不明。大きな弓の絃のごとくだぶついていることを指すか。]。毎〔(つね)〕に木に升〔(のぼ)〕る[やぶちゃん注:「登」に同じ。]ときは、氣を引き[やぶちゃん注:大気を身体全体に吸い込み。]、或いは、地に墮ち、自〔(おのづか)〕ら快〔(こころよ)〕しとす。俗に「跌-臕(くまのあそび)」[やぶちゃん注:「跌」(音「テツ」)は「躓く・足を踏み外す」の意で腑に落ちるものの、何故、先の意しかない「臕」をその後に使つてこの意とするかは不明。]と呼ぶ。冬月、蟄する時は、食(ものくら)はず。饑うるときは、則ち、其の掌(たなごゝろ)を舐(ねぶ)る。故に、其の美〔(うまし)は〕[やぶちゃん注:有意な栄養分は。]掌に在り。之れを「熊蹯(ゆうばん)」[やぶちゃん注:「蹯」は獣の足(ここは四肢ととってよかろう)の裏の意。]と謂ふ。其れ、山中を行くこと、數千里[やぶちゃん注:明代の一里は五百五十九・八メートルであるから、一千里は五百五十九・八キロメートル。]と雖も、必ず、跧伏〔(せんぶく)〕の所[やぶちゃん注:腹這うための場所。]を有〔し〕て、石巖・枯木〔、そこ〕に在り。之れを「熊舘〔ゆうかん)〕」と謂ふ。其の性、穢(けが)れたる物及び傷〔つき〕殘〔(そこな)ふこと〕を惡〔(にく)〕む。捕る者、此(これら)の〔穢れ物及び熊の身體を損傷し得る〕物を穴に置くときは、則ち、穴に〔てこれらのものに〕合〔ひて〕、自〔(おのづか)〕ら死す。或いは、棘刺〔(きよくし)〕の爲に[やぶちゃん注:鋭い棘(とげ)が刺さったために。]、傷〔つけらるれば〕、穴を出で、之れに爪〔を立てて、それ、〕骨に至れば、卽ち斃〔(たふ)〕る。性、鹽を惡〔(い)〕む。之れを食へば、卽ち、死す。又、云ふ、『熊、樹の孔〔(あな)〕の中に居〔(を)〕る〔に〕、人、樹を擊ちて、呼んで「子路。」と爲〔(す)〕れば、則ち、起つ。呼ばざれば、則ち、動かず』〔と〕。

熊膽(くまのゐ)【苦、寒。】時氣の熱、盛んにして、變じて、黃疽〔→黃疸〕と爲〔(な)〕る者、暑月〔(しよげつ)の〕久痢・心痛を治す。諸疳・驚癇・瘈瘲〔(けいしよう)〕を治し、熱を退〔(のぞ)〕き、心を清し、肝を平〔(たいら)かに〕し、目を明〔かにす〕【防已〔(ばうい)〕・地黃〔(ぢわう)〕を惡〔(い)〕む。】。

膽、春は首に近く、夏は腹に在り、秋は左足に在り、冬は右足に在る。熊の膽、僞〔(にせもの)〕多し。米粒許(ほど)を以つて水中に㸃ずるに、運〔(めぐ)り〕轉じて、飛ぶがごとき者、眞なり。餘は亦、轉〔(ころ)〕ぶ〔に〕但だ緩きのみ。又、眞なる者、善く塵を辟〔(さ)〕く。之れを試みるに、浄水一噐を以つて、塵を其の上に幕〔(ばく)〕し[やぶちゃん注:撒き。]、膽、米許(ほど)を投ずるときは、則ち、凝塵[やぶちゃん注:水面を蔽って固まっていた塵が。]、豁然として開く[やぶちゃん注:パッと周囲に散って、澄んだ水面が開く。]。

                  爲家

 「新六」

   白雪のふる木のうつぼすみかとて

      み山の熊も冬篭る也

△按ずるに、熊、深山の中に在り。松前[やぶちゃん注:松前藩の松前城城下町であった、現在の北海道南部の渡島半島南西部、渡島総合振興局管内の松前町(まつまえちょう)附近(グーグル・マップ・データ)。]に出づる者、最〔も〕多し。全體、黒くして胸の上に白毛有り、偃月〔(えんげつ/はんげつ)〕のごとし。俗に「月の輪」と稱す。常に手を以つて之れを掩〔(おほ)〕ふ。獵人、其の月の輪を窺ひ、之れを刺せば、則ち、斃〔(たふ)〕す。若〔(も)〕し、然らざれば、則ち、刀鎗を挫(くじ)く。其の强勢、敵すべからざるなり。其の子を生(う)むこと、甚だ容-易〔(やす)〕く、自〔らの〕手を以つて抓〔(つま)み〕出だす。故に、人、熊の掌を用ひて、臨産の傍らに置く。亦、安産の義を取る〔ものなり〕[やぶちゃん注:安産を祈る呪物・お守りという意味を持つものである。]。

 陳眉公〔が〕「秘笈〔(ひきふ)〕」に云はく、『熊、人を得れば、輙〔(すなは)〕ち、人の喉若し〔く〕は腋を搔きて、笑はせしめて、人、仆(たを[やぶちゃん注:ママ。])れば、舌にて〔人の〕靣〔(おもて)〕の血を舐〔(ねぶ)るを〕以つて快(こゝろよ)しと爲す。人、氣陽を屏(しりぞ)ければ[やぶちゃん注:呼吸が止まるか、ごく微かになってしまうと]、乃〔(すなは)ち〕、〔その人を〕棄(す)て去り〔→れども、又〕、還りて之れを視ること、再三なり。人、蘇(よみがへ)りて起ちて逃げ去らんと欲〔さば〕、追ひて之れを扼〔(つか)〕む。山民、其の狀(ありさま)を習ひて、能く死を脫す』〔と〕[やぶちゃん注:最後の部分は所謂、熊に襲われたら「死んだふり」をして死地を脱するという例の嘘っぱちの噂である。]。

 近頃、津輕の山中に於いて、一の大熊を捕へ、其の掌、徑り三尺、爪、一尺許り。體毛、脫け兀(は)げて、希有の大熊なり。凡そ、熊の膽、春夏、則ち、痩せ小さく、黒色〔に〕黃を帶ぶ。秋冬、則ち肥大して深黒色なり。之れを取〔る法に〕數品〔(すひん)〕[やぶちゃん注:数種類。]有り。鐵砲にて擊ち取る者、陷阬(をとしあな)にて生け捕る者、並びに、膽、全し。追ひ捕ふる者、之れに次ぐ。「穴捕〔(あなどり)〕」の者、又、之れに次ぐ【木・撅〔(くひ)〕[やぶちゃん注:杭。]を穴に投〔ずれば〕、則ち、能く忿〔(いか)り〕て之れを攫(〔つ〕か)み取りて尻に藉(し)き、數木、穴に盈(み)ち、則ち、終〔(つひ)〕に窮迫して、穴を出づ。仍つて、之れを殺す。之れを「穴捕」と謂ふ。勞〔れ〕倦〔(う)み〕するを以つて、其の膽、痩せて劣れるなり。】。〔熊の膽の眞贋を〕試みる法、水に㸃じ、轉〔び〕運〔(ゆ)きて〕底に徹〔(とほ)〕り、一線、黃黒〔に〕光〔れる〕色を爲す。其の味、苦くして微〔かに〕辛甘〔(しんかん)〕、氣〔(かざ)〕、腥〔(なまぐ)〕さし。猿の膽も亦、線を爲す。然れども、運轉〔すること〕能はず、且つ、赤黒色にして、光らず、味〔も〕苦く、氣、惡〔しき〕なり【又、偽り作る者、數品、有り。】。

熊〔の〕膽の膜、八重〔(やえ)〕有り[やぶちゃん注:八つの層がある。]。其の膽の肉を穿ち取りて、身の肉を盛りて造〔り〕成〔したる僞(にせ)〕者、辯〔(わきま)〕へ難し。

又、墨と油と〔を〕和(ま)ぜ煎じて、紙に染めて、袋と爲す。別に熊の骨・黃栢〔(わうばく)〕・五倍子〔(ぬるで)〕【三種。】を用ひて、濃く煎じて膏と爲して、件〔(くだん)〕の袋に盛り、檐(のき)の閒に晒〔(さら)〕し、鉤-柹〔(つるしがき)〕のごとく〔し〕、漸々(やうやう)乾きて推〔(お)して〕扁〔(たひら)にし〕、之れを作る。

熊皮 泥-障(あをり[やぶちゃん注:ママ。])・坐褥(しきがは)[やぶちゃん注:敷革。]及び鞘(さや)袋等に造りて、之れを賞す。正黒色〔にして〕美〔しく〕、獵虎(らつこ)に亞(つ)ぐ。其の黃白色なる者、最も珍し。

[やぶちゃん注:本邦に棲息するのは、

食肉目クマ科クマ属ツキノワグマ亜種ニホンツキノワグマ Ursus thibetanus japonicus(本州及び四国。九州では絶滅(最後の九州での捕獲は一九五七年で、二〇一二年に九州の絶滅危惧リストからも抹消されている。二〇一五年に二件の目撃例があったが、アナグマ或いはイノシシの誤認かとされる)

及び北海道に(本文の松前産はそれ)

クマ属ヒグマ亜種エゾヒグマ Ursus arctos yesoensis

が棲息する。但し、前半は「本草綱目」であるので、中国にはツキノワグマの亜種である、

チベットツキノワグマ Ursus thibetanus thibetanus((雲南省南西部・四川省北西部・青海省南部・チベット自治区南東部)

タイワンツキノワグマ Ursus thibetanus formosanus(台湾)

シセンツキノワグマUrsus thibetanus mupinensis(青海省・甘粛省・陝西省からチベット自治区・広西チワン族自治区・広東省・浙江省)

ウスリーツキノワグマUrsus thibetanus ussuricus(中国北東部)

が棲息し、さらに一部(極東の東北部と西方山岳地帯)にヒグマの亜種が棲むので、それらも挙げておく必要がある。冒頭では本邦産種の代表としてウィキの「ニホンツキノワグマ」を引いておく。体長は百二十~百五十センチメートル。尾長は六~十一センチメートル。体重は♂で六十~百二十キログラム、♀で四十~八十キログラム程度で、『大陸産に比べ』ると、『小型である。最大の記録は』一九六七『年に宮城県で捕獲された』二百二十『キログラムの個体で、近年にも』二〇〇一『年に山形県で体長』百六十五『センチメートル、体重』二百『キログラムの記録が報告されている。肩が隆起せず、背の方が高い。全身の毛衣は黒いが、稀に赤褐色や濃褐色の個体もいる。胸部に三日月形やアルファベットの「V」字状の白い斑紋が入り(無い個体もいる)、旧属名Selenarctos(月のクマの意)や和名の由来になっている』。『本州及び四国の森林に生息し、九州では絶滅したとされる』。『夜行性で、昼間は樹洞や岩の割れ目』や『洞窟などで休むが』、『果実がある時期は昼間に活動することもある』。『夏季には標高』二千『メートル以上の場所でも生活するが、冬季になると標高の低い場所へ移動し』、『冬眠する。食性は植物食傾向の強い雑食で、果実、芽、昆虫、魚、動物の死骸などを食べる』。『以前はヒグマと違い、大型動物を捕食することはほとんどないと考えられていたが、近年では猛禽類(イヌワシ)の雛や大型草食獣(ニホンカモシカやニホンジカ)などを捕獲して食べたりする映像が研究者や観光客により撮影されることから、環境により』、『動物を捕獲して食料とする肉食の傾向も存在すると考えられ』ており、秋田県鹿角(かづの)市熊取平(くまとりたい)一帯では二〇一六年の五~六月にかけてツキノワグマが次々と人を襲い、四人が死亡し、人体の一部が食われている(詳しくはウィキの「十和利山熊襲撃事件」を参照)。人肉の味を知った個体は再び人を餌として襲う可能性が頗る高く、本事件では複数の個体が人肉を食らっており、射殺された一頭(♀)の体内からは人肉が見つかっているが(研究家はこの人食い熊を鹿角のイニシャルをとって「スーパーK」と呼んでいる)、向後も高い警戒が必要である概ね、二『頭の幼獣を産む。授乳期間は』三『か月半。幼獣は生後』一『週間で開眼し、生後』二~三『年は母親と生活する。生後』三~四『年で性成熟する。寿命は』二十四『年で、飼育下の寿命は約』三十三『年である』とある。

 

「★」の篆文であるが、大修館書店「廣漢和辭典」の「熊」の解字によれば、「能」+「黑」の省略+「肱」の省略の音声などとするが、同時に『この字形は不明な点が多い』としつつ、『能はくまの象形』で、『黑はくろいの意、肱はひじの意。ひじを自由に動かし、木に登り、えさをとる黒くまの意か』と記す。

「熊、樹の孔の中に居る〔に〕、人、樹を擊ちて、呼んで「子路。」と爲〔(す)〕れば、則、起つ。呼ばざれば、則ち、動かず」サイト「Yoshimi Arts」内の、陶芸家上出惠悟氏の「熊について」によれば、「子路(しろ)」は熊の異名とし、陶淵明(一部或いは全部が偽作ともされる)の六朝時代の『志怪小説集「捜神後記(続捜神記)」の中に、「熊無穴有居大樹孔中者 東土呼熊子路」という記述があり、また』、『江戸時代の獣肉屋でも子路と書いて「くま」と読ませていた』『(寺門静軒著「江戸繁盛記」)』とあり、『論語に詳しい方はご存知と思いますが、子路とは孔門十哲の一人仲由のことで、子路という異称の由来は、熊が住処とした樹の「孔」と孔子の「孔」をもじった言葉遊びからの洒落です』と意味を解明されておられる。以下、上出氏の述懐がとてもしみじみとしていいので引用させて戴く。

   《引用開始》

子路のことなら中島敦の小説「弟子」(昭和十八年発表)で主人公として描かれており、私はこの小説を幾度と読み感動しています。子路は子供がそのまま大人になった様な直情径行な性格から度々孔子に叱られます。激越でしかし素直な子路はまこと獣のように美しく、これを読むと熊と子路を結びつけた人の気持ちが腹に落ちるように理解できます。物語の最後、子路は主君を救う為に反逆者のいる広庭へと単身跳び込み、気高くも無残に殺されてしまいます。孔門の後輩、子羔と共にその場から遁れることも出来た子路が子羔に声を荒げた「何の為に難を避ける?」という言葉が私の心の中で何度も反復されました。「何の為に難を避ける?」。里に現れる熊は一体どのような気持ちで里に降りて行くのだろう。私の中でその熊と子路の姿が妙に重なり始めました。日常生活でも植木を熊と見間違えたり、車のヘッドライトの影に熊を見たり、空に浮かぶ雲を見て熊を思ったり、実際に会えないかと山へ行ってみたり、北海道を旅したりと熊の痕跡をっています。結局のところ私はなぜ熊なのかと自分でも判らないまま熊を心に宿してしまったのです。

   《引用終了》

「捜神後記」のそれは「第十一巻補遺」の以下。

   *

熊無穴、居大樹孔中。東土呼熊爲子路。以物擊樹云、「子路可起。」。於是便下。不呼、則不動也。

   *

寺門静軒の「江戸繁盛記」のそれは「初編」のここ(国立国会図書館デジタルコレクションの画像)の右頁の三行目。

「熊膽(くまのゐ)」ウィキの「熊胆」を引く。『熊胆(ゆうたん)は、クマ由来の動物性の生薬のこと。熊の胆(くまのい)ともいう。古来より中国で用いられ、日本では飛鳥時代から利用されているとされ、材料は、クマの胆嚢(たんのう)であり、乾燥させて造られる。健胃効果や利胆作用など消化器系全般の薬として用いられる。苦みが強い。漢方薬の原料にもなる。「熊胆丸」(ゆうたんがん)、「熊胆圓」(ゆうたんえん:熊胆円、熊膽圓)がしられる』。『古くからアイヌ民族の間でも珍重され、胆嚢を挟んで干す専用の道具(ニンケティェプ)がある。東北のマタギにも同様の道具がある』。『熊胆の効能や用法は中国から日本に伝えられ、飛鳥時代から利用され始めたとされる熊の胆は、奈良時代には越中で「調」(税の一種)として収められてもいた。江戸時代になると』、『処方薬として一般に広がり、東北の諸藩では熊胆の公定価格を定めたり、秋田藩では薬として販売することに力を入れていたという。熊胆は他の動物胆に比べ』、『湿潤せず』、『製薬(加工)しやすかったという』。『熊胆配合薬は、鎌倉時代から明治期までに、「奇応丸」、「反魂丹」、「救命丸」、「六神丸」などと色々と作られていた(現代は、熊胆から処方を代えている場合がある』『)。また、富山では江戸時代から「富山の薬売り」が熊胆とその含有薬を売り歩いた』。『北海道先住民のアイヌにとっても』、『ヒグマから取れる熊胆や熊脂(ゆうし)などは欠かせない薬であった。和人の支配下に置かれてからは、ヒグマが捕獲されると』、『松前藩の役人が』、『毛皮と熊胆に封印し、毛皮は武将の陣羽織となり、熊胆は内地に運ばれた。アイヌに残るのは肉だけであった。熊胆は、仲買人の手を経て』、『薬種商に流れ、松前藩を大いに潤した。明治期になっても、アイヌが捕獲したヒグマの熊胆は貴重な製薬原料とされた』。『昔から知られる熊胆の鑑定法、昔から知られる効能は』「一本堂薬選」に『詳しい』。『青森津軽地方でも、西目屋村の目屋マタギは「ユウタン」、鰺ヶ沢町赤石川流域の赤石マタギは「カケカラ」と呼んだ』。『熊胆に限らず、クマは体の部位の至る所が薬用とされ、頭骨や血液、腸内の糞までもが利用されていた』。『主成分は胆汁酸代謝物のタウロウルソデオキシコール酸』『の他、各種胆汁酸代謝物やコレステロールなどが含まれている』。『古来、日本は熊胆を利用しつつも』、『クマの個体数が維持されており、世界的にみても珍しい』とある。

「時氣の熱、盛んにして、變じて、黃疽と爲〔(な)〕る者」東洋文庫訳では『時気熱(はやりねつ)』(流行性感冒?)『が激しく変じて黄』疸(東洋文庫は「疳」と誤植している)『(おうだん)となったもの』と訳してある。

「暑月〔(しよげつ)の〕久痢」夏期の慢性的下痢症状。

「心痛」胸痛。前の「暑月」は「久痢」のみに係っていると読むべきであろう。

「諸疳」「疳の虫」によって発症するとされた、小児性の多様な疾患。夜泣きや「ひきつけ」などの発作を起こす小児性神経症や、身体が痩せて腹が膨満してくるような小児性慢性胃腸病。

「驚癇」癲癇。

「瘈瘲〔(けいしよう)〕」漢方で、外感熱病・癲癇・破傷風などの症状として見られる、筋肉が引き攣(つ)るような病態を指す。

「防已〔(ばうい)〕」落葉性蔓植物であるキンポウゲ目ツヅラフジジ(葛藤)科ツヅラフジ属オオツヅラフジ Sinomenium acutum から製した生薬名。ウィキの「オオツヅラフジ」によれば、『オオツヅラフジの蔓性の茎と根茎は生薬「防已」(ぼうい)(日本薬局方での定義)であり、鎮痛、利尿作用などがある』。『木防已湯(もくぼういとう)、防已茯苓湯(ぼういぶくりょうとう)などの漢方方剤に配合される。有効成分はアルカロイドのシノメニン(sinomenine)など。 作用が強力なので、用法を間違えると』、『中枢神経麻痺などの中毒を起こす』。『中国では防已をオオツヅラフジではなくウマノスズクサ科』(コショウ目ウマノスズクサ(馬の鈴草)科 Aristolochiaceae:本邦で一般的なのはウマノスズクサ科 Aristolochioideae 亜科ウマノスズクサ属ウマノスズクサ Aristolochia debilis)『の植物としていることがある。このウマノスズクサ科の植物の防已はアリストロキア酸という物質を含み、これが重大な腎障害を引き起こすことがある』(発癌性も認められる)。『このため』、『中国の健康食品や漢方薬には十分注意する必要がある』ともあるから、明珍の言っているのは後者の可能性もある。なお、東洋文庫訳は『防己(ぼうき)』としており、致命的な誤判読をやらかしている。

「地黃〔(ぢわう)〕」キク亜綱ゴマノハグサ目ゴマノハグサ科アカヤジオウ属アカヤジオウ Rehmannia glutinosa の根から製した生薬。カタルポールなどのイリドイド配糖体を多く含んでおり、内服薬としての利用では補血・強壮・止血作用が、外用では腫れ物の熱を取り、肉芽の形成作用を有する。

「惡〔(い)〕む」薬物として合わせて使ってはいけないことを指す。

「爲家」「新六」「白雪のふる木のうつぼすみかとてみ山の熊も冬篭る也」藤原定家の子藤原為家の「新撰六帖題和歌集」(「新撰和歌六帖」とも呼ぶ。六巻。藤原家良(衣笠家良:いえよし)・為家・知家・信実・光俊の五人が、仁治四・寛元元(一二四三)年から翌年頃にかけて詠まれた和歌二千六百三十五首を収めた、類題和歌集。奇矯で特異な歌風を特徴とする)の「第二 山」に載る。「日文研」の「和歌データベース」で校合済み。「うつぼ」は「うつほ」でもよい。漢字表記は「空」で、「岩・幹などの内部が空(から)になっている場所・部分、空洞の意。

「松前に出づる者、最〔も〕多し」ニホンツキノワグマは北海道には棲息しないので、この松前の個体はツキノワグマとは別種の、クマ属ヒグマ亜種エゾヒグマ Ursus arctos yesoensis である。但し、『全體、黒くして胸の上に白毛有り、偃月〔(えんげつ/はんげつ)〕のごとし。俗に「月の輪」と稱す』とあるのは誤りではない。ウィキの「ヒグマ」によれば、『頸部や前胸部に長方形様の白色がある個体』があり、ニホンツキノワグマと同じく『月の輪』と呼ばれているからである。以下、同ウィキを引く。『日本に生息する陸上動物としては最大の動物である』。『ヒグマの亜種であるウスリーヒグマ(Ursus arctos lasiotus)と同亜種とする説もある』。『北海道の森林および原野に分布する。夏季から秋季にかけての時期は中山帯と高山帯にも活動領域を広げる。石狩西部と天塩、増毛の地域個体群は、絶滅のおそれがある地域個体群(LP)に指定されている』。『江戸時代末期から明治時代初期』(一八六五年~一八六八年)『にかけては、集落などのように人が多い地域を除けば、北海道全域が本種の生息域であったといわれている』。『オホーツク文化期の末期』(十三世紀)『までは利尻島と礼文島にも生息していたようである』。『ヒグマ種の化石がブラキストン線(津軽海峡)以南の本州と四国、九州の約』一『万年前の更新世末期の地層から発掘されており、本州以南にもヒグマ種が生息していたようである』。『成獣の大きさはオスとメスとで異なり、オスの方が大き』い性的二型で、体長は♂が約一・九~二・三メートル、♀が約一・六~一・八メートル。体重は♂で約百二十~二百五十キログラム、♀で約百五十~百六十キログラム。四百八十キログラムの個体もいる。『近年の記録に残されている最大の個体では』、体重は♂の五百二十キログラム(二〇〇七年・えりも町・推定十七歳)、♀の百六十キログラム(一九八五年・推定八~九歳)で、体長では♂が二百四十三センチメートル(一九八〇年、推定十四~十五歳)、♀が百八十六センチメートル(一九八五年・推定八~九歳)である。『毛色は褐色から黒色まで個体により様々であり』、『その色合いごとに名称が付けられている。黄褐色系の個体は金毛』。『白色系の個体は銀毛。頸部や前胸部に長方形様の白色がある個体は月の輪。また夏毛は刺毛で構成されており、冬毛は刺毛と綿毛で構成されている』。『新生子の大きさは、体長が』二十五~三十五センチメートル、体重は三百~六百グラム。『視力はなく、歯も生えていない。体毛は、産毛がまばらに生えている』。『本種の行動は、発情期と子育て期以外は単独行動である。活動時間帯は昼夜を問わず一定していない。休息場所は特に決まっておらず、気に入った場所で休息する。本種は犬掻きによる泳ぎが得意である。若い本種は木登りも得意であるが』、『それは体重が軽いためである』。『本種は手をよく使い、手の爪が伸びる速さは足の爪が伸びる速さの約』二『倍である。これは手をよく使うために手の爪の摩耗が速く、摩耗した爪を補うために速く伸びるものと推考できる。また後肢で』二『本足立もする』。『活動期間は、春から晩秋・初冬にかけての期間で、活動地域は平野部から高山帯に至るまで様々な地域で活動する。餌となる植物を得られない残雪(春)や降雪による積雪(晩秋・初冬)の多い地域にはおらず、植物を採食できる地域に移動している。越冬のために巣穴に籠る時期は晩秋から初冬にかけての時期で、出産は越冬期間中に行われる』。『寿命は、野生下では約』三十『歳』。『食性は雑食性である。 植物性のものを食べる目的は二つあり、一つは栄養を摂取するため。もう一つは便秘予防や消化促進のためである。本種が前者の目的で摂取する植物は、栄養素を多量に含むフキやセリ科などの草と木の実である。本種は植物繊維を分解して栄養素に変換する機構を備えておらず、また草食動物のように植物繊維を分解して栄養素に変換する腸内細菌と共棲していない。そのため本種がスゲ類』『などの植物繊維の多い植物を摂取する目的は後者である。本種は様々な動物性のものを摂取するが、主に鳥類と哺乳類、昆虫類、水棲動物ではザリガニやサケ、その他の魚類である。鳥類と哺乳類の場合は既に死亡しているものを食べ、捕食することは珍しい。本種は共食いをすることがある。摂取した昆虫類やザリカニの外骨格、羽毛、獣毛などは分解できず、未消化のまま排泄される。本種の食性は非常に多様性に富み、人が食べることができるものは元より、それ以外のもの食べることができ、樹脂も食べる。草類は約』六十『種類、木の実が約』四十『種類、動物が約』三十『種類である』(中略)。『家畜や人を捕食することもある』。『本種がこれらを食べるときは内臓から食べ始めるという通説は誤りである。本種は最初に筋肉から食べ始め、最後に四肢を食べるが、肘から先の部分と膝から先の部分は食べないことが多い。頭部はなおのこと』、『食べないことが多い』(本邦でのヒグマの襲撃によるヒト死亡例でも首だけが残されていたケースが見られる)。『成獣は相手を威嚇する時に「ウオー」「グオー」「フー」などの鳴き声を発声する。鳴き声以外にも歯を鳴らしたり、足で地面を擦るなどして音を出して威嚇する』。『新生子や子グマは「ビャー」「ピャー」「ギャー」などと鳴く』。『発情期は初夏から夏にかけての期間。妊娠期間は約』八『ヶ月間で、翌年の越冬期間中に巣穴で出産する。産仔数は』一~三『頭。子育てはメスだけで行う』。『越冬期間中に出産と母乳による子育てをするため、春に巣穴から出る頃には母グマの体重は約』三十%『減少している』。『新生子は視力や歯などがない。生後』六『週目に聴力を得て』、七『週目に視力を得る。生後』四『ヶ月で乳歯が生え、母グマと同じものを食べるようになる』一~二『歳になると親離れする。子グマが繁殖できるようになるのは』四~五『歳で、最年少の記録は』三『歳』。三十『歳ぐらいまで繁殖が可能である』。『越冬用の巣穴は山の斜面に横穴を掘り、縦穴は掘らない。他の個体が前回の越冬に使用した穴を使用することもある。岩穴や樹洞を使うことは滅多にない。独立して行動する年齢になった本種は複数個の巣穴を持っており、その使い方は個体により様々』で、『巣穴に籠る時期は晩秋から初冬にかけての期間であるが、積雪とは関係がない』。『冬籠り中の体温は活動時期より』四~五『度下がる』。『動物園などでの飼育下では、本種を冬籠りさせないことができる』。『また、冬ごもりさせる動物園もある』。『本種は樹木に登って木の実を食べることがあるが、そのときに熊棚(くまだな)ができる場合がある』。『本種が樹上で木の実がなっている枝を手繰り寄せたときに枝が折れることがあり、折れた枝は本種の臀部の下に敷く習性があり、枝の数が多くなると棚のようになるので、これを熊棚という』。一九八〇『年代まではエゾヒグマが農作物を荒らすことは少なかったが』、一九九〇『年代後半から』二〇〇〇『年代にかけて農作物を食べるエゾヒグマが増加した』。『その理由として、農業従事者の減少によって畑などに人が入ることが少なくなったため、クマが畑や人を警戒しなくなったことが挙げられている』。『本種による農業被害額は年間で』一『億円を超えると推定されている』。但し、『ツキノワグマと違って』、『林業被害は報告されていない』。『家畜が襲われる被害は』一九七〇『年代以降』、『大きく減少している』。『エゾヒグマと遭遇することで人が襲われ、負傷もしくは死亡する事例もたびたび発生している』。「札幌丘珠(おかだま)事件」(明治一一(一八七八)年・死者四名(嬰児一名を含む))、「三毛別(さんけべつ)羆事件」(大正四(一九一五)年・死者七名(内一人は妊婦))、「石狩沼田(ぬまた)幌新(ほろしん)事件」(大正一二(一九二三)年・死者五名)、「福岡大学ワンダーフォーゲル部ヒグマ事件」(昭和四五(一九七〇)年・死者三名)など(総ての事件で熊による食人が行われている。リンクは各ウィキ。なお、最後のリンク先には『野生動物研究家の木村盛武』の、山行中にヒグマに遭遇した場合の襲われないための『ヒグマがあさった荷物を取り返してはいけない』・『ヒグマに遭遇したらすぐに下山しなければいけない』・『ヒグマに背を向けて逃げてはいけない』・『事前にヒグマに出会った時の対処法をチェックしておかなければならない』・『ヒグマは時間や天候に関係無く行動する』という五箇条が示されてある)、『複数の被害を出した事例も少なくない』。『本州のツキノワグマの場合』、『偶発的に人間を殺傷してしまう例がほとんどであるが、ヒグマの場合、上記の事件では集団』としてのヒト個体群を『捕食対象として認識し、計画的に執念深く追尾し、捕らえ、捕食し、さらに遺体を持ち帰り』、『食用として保存までしている』。「駆除と保護」の項は略す。『駆除だけに頼らずに被害防止と共存を実現するためのさまざまな取り組みも』二〇〇〇『年代以降に北海道各地で行われ始め』、二〇〇〇『年には「渡島半島地域ヒグマ保護管理計画」が策定され、科学的なエゾヒグマの保護管理政策が実施されている』。『自然遺産に指定されている知床でも「知床ヒグマ保護管理計画」の策定に向けた取り組みが進められている』。しかし一方で、一九九〇『年に春熊駆除が廃止され』、『ヒグマを取り巻く環境が保護へと転換されてから』十五~二十年以上が経過した二〇〇〇年代には、逆に『人に対する恐怖経験が全くない世代のエゾヒグマが現れるようにな』り、『こうしたクマは「新世代クマ」と呼ばれ、大きな問題となっている』。『新世代クマとみられるエゾヒグマが住宅地に出没する事例も』、『季節を問わず』、『発生して』おり、『こうした状況になると、警察によるパトロールや周辺学校での集団下校、遊歩道や公園の閉鎖が行われたり、住民が外出を控えるようになったりと』、『物々しい騒然とした事態となる』。二〇一一年十月には、『千歳市や札幌市の市街地でクマが相次いで目撃され』、『大きく報道された』とある。なお、次項は「羆」である。

「常に手を以つて之れを掩〔(おほ)〕ふ。獵人、其の月の輪を窺ひ、之れを刺せば、則ち、斃〔(たふ)〕す」ニホンツキノワグマのもヒグマの「月の輪」にも、そのような習性や弱点はないと思われる。

「陳眉公」明末の書家・画家として知られる陳継儒(一五五八年~一六三九年)の号。同じ書画家董其昌(とうきしょう)の親友としても知られる。

「秘笈〔(ひきふ)〕」陳継儒が、収集した秘蔵書を校訂・刊行した叢書「宝顔堂秘笈」のことか。

「人の喉若し〔く〕は腋を搔きて、笑はせしめ」無論、こんな阿呆な習性も、勿論、ない。

「黃栢〔(わうばく)〕」落葉高木アジア東北部の山地に自生し、日本全土にも植生する、ムクロジ目ミカン科キハダ属キハダ Phellodendron amurense の樹皮から製した生薬。薬用名は通常は「黄檗(オウバク)」が知られ、「黄柏」とも書く。ウィキの「キハダ」によれば、『樹皮をコルク質から剥ぎ取り、コルク質・外樹皮を取り除いて乾燥させると』、『生薬の黄柏となる。黄柏にはベルベリンを始めとする薬用成分が含まれ、強い抗菌作用を持つといわれる。チフス、コレラ、赤痢などの病原菌に対して効能がある。主に健胃整腸剤として用いられ、陀羅尼助、百草などの薬に配合されている。また強い苦味のため、眠気覚ましとしても用いられたといわれているほか、中皮を粉末にし』、『酢と練って』、『打撲や腰痛等の患部に貼』り、『また』、『黄連解毒湯、加味解毒湯などの漢方方剤に含まれる。日本薬局方においては、本種と同属植物を黄柏の基原植物としている』。『アイヌは、熟した果実を香辛料として用いている』とある。

「五倍子〔(ぬるで)〕」東南アジアから東アジア各地に自生し、本邦のほぼ全土に植生する落葉高木、ムクロジ目ウルシ科ヌルデ(白膠木)属ヌルデ変種ヌルデ Rhus javanica var. chinensis の虫癭(ちゅうえい)から製した薬物。ウィキの「ヌルデ」等によれば、同種の葉にヌルデシロアブラムシ(昆虫綱半翅(カメムシ)目同翅(ヨコバイ)亜目吻亜目アブラムシ上科アブラムシ科ワタアブラ亜科ゴバイシアブラ属Schlechtendalia chinensis)が寄生すると、大きな虫癭が生じるが、その中には黒紫色のアブラムシが多数、詰まっており、その虫癭全体にタンニンが豊富に含まれていることから、それを以って「皮鞣(なめ)し」に用いられたり、黒色染料の原料とし(染め物では空五倍子色とよばれる伝統的な色を作り出す)、また、インキや白髪染の原料になる他、かつては既婚女性及び十八歳以上の未婚女性の一般的習慣であった「お歯黒」(鉄漿)にも使用され、『また、生薬として五倍子(ごばいし)あるいは付子(ふし)と呼ばれ、腫れ物、歯痛などに用いられた。但し、猛毒のあるトリカブトの根も「付子」』(ぶす)と書くので、『混同しないよう』、『注意を要する』。他に『ヌルデの果実は』「塩麩子(えんぶし)」『といい、下痢や咳の薬として用いられた。この実はイカル』(スズメ目アトリ科イカル属イカル Eophona personata)『などの鳥が好んで食べる』ともある。

「泥-障(あをり)」「障泥」とも書くが、歴史的仮名遣は「はふり」が正しい。馬具の付属具の名で、鞍橋(くらぼね)の四緒手(しおで)に結び垂らし、馬の汗や蹴上げる泥を防ぐためのもの。下鞍(したぐら)の小さい「大和鞍」や「水干鞍」に用い、毛皮や皺革(しぼかわ)で円形に作るのを例としたが、武官は方形とし、「尺(さく)の障泥(あおり)」と呼んで用いた。場所と形が頭に浮かばぬ方は、参照した小学館「デジタル大辞泉」の「あおり」の解説の下の画像をクリックされたい。

「獵虎(らつこ)」哺乳綱食肉目イタチ科カワウソ亜科ラッコ属ラッコ Enhydra lutrisウィキの「ラッコ」によれば、『日本では平安時代には「独犴」の皮が陸奥国の交易雑物とされており、この独犴が本種を指すのではないかと言われている。陸奥国で獲れたのか、北海道方面から得たのかは不明である。江戸時代の地誌には、三陸海岸の気仙の海島に「海獺」が出るというものと』、『見たことがないというものとがある』。嘗て、『千島列島や北海道の襟裳岬から東部の沿岸に生息していたが、毛皮ブームによ』『る乱獲によって』、『ほぼ絶滅してしまった。このため、明治時代には珍しい動物保護法「臘虎膃肭獣猟獲取締法」』(明治の末年の明治四五(一九一二)年)『が施行され、今日に至っている』とある。なお、本「獸類」(巻第三十八)の最終項は「獵虎」である。]

荒野吟 國木田獨步 /國木田獨步詩歌群電子化注~了

 

     ○荒 野 吟

 

   功名によりて進み利達の爲めに

                退く

   此の如き進退我はよくせず

我ニ祖母あり母あり弟あり知己あり亦愛人あり

   我が衷には靈動き

   いと高き處には神在す

 人生天職あり天意に遵ひて天功を亮スるのみ

  アヽ救主、四十日四十夜荒野の試み

 這般の苦心人知るや否や

 

[やぶちゃん注:「ニ」及び「ス」のカタカナはママ。以上の詩一篇は、学研の「國木田獨步全集」增訂版(全十卷+別卷)の「第九卷」(昭和五三(一九七八)三月刊)に「○荒野吟」として載るものである。底本解題によれば、『前田重氏の研究ノート中に挾まれてゐた「獨步筆跡」と裏書した寫眞草稿。』無署名ではあるが、筆蹟が獨步のものとみられるので掲げた』とある。詠吟時期や背景は一切不明のようである。老婆心乍ら、言っておくと、「我が衷」の「衷」は「うち」で「心裏」に等しく、「在す」は古語で「います」と読み、「遵ひて」は「したがひて」、「天功」は「天の成した技(わざおぎ)。人智を超えた大自然の働き」の意、「亮スる」は「りやうする(りょうする)」で「扶助する」の意であろう。「這般」は「しやはん(しゃはん)」と読み、「這」は中国語の俗語で「此」の意で、「これら・この辺・このたび・今般。通常、かく、格助詞「の」を伴って用いる。

 以上の他にも國木田獨步の詩歌(漢詩)等は散見されるが、底本全集が明確に抽出したものは以上であり、一先ず、これを以って國木田獨步詩歌群電子化注は終りとする。他に見い出し得、追記したいものが発見出来た場合はここで追加する。

2019/03/27

人形劇団ひとみ座の「どろろ」は必見!

本日、拝見。
 
手塚治虫の原作を知っている人も、全く知らない人も、文楽好きの人も、「ひとみ座」を「ひょっこりひょうたん島」ぐらいしか知らない人も、皆にお薦めする。
 
あの私の偏愛する作品が今現在の世界の状況にも複数の強いメッセージを放って止まない!

久し振りに真に祝祭的芝居を見た。必見!!!

追伸:虫プロの「人形劇『どろろ』開幕直前インタビュー!」も必見!

國木田獨步の日記「欺かざるの日記」及び書簡内の短歌群

 


○國木田獨步日記「欺かざるの記」所収の短歌


[やぶちゃん注:以下は学研の「國木田獨步全集」增訂版(全十卷+別卷)の「第九卷」(昭和五三(一九七八)三月刊)の解題で、日記・書簡中の短歌・俳句が抽出再録されている中から、短歌を抜き出し、同全集の当該日記(第六卷及び第七卷)で確認の上、電子化した。]


初春の花見る每に父母の
  傾く年を獨り寢に泣く、


[やぶちゃん注:明治二六(一八九六)年三月十四日の作(國木田獨步満二十一歳)。三月十五日の日記の冒頭に『昨夜歌一首を得。曰く、』として載せ、歌の後に、『アヽ天地悠々、歲月は逝』(ゆ)『いて止まず、明年は如何、明々年は如何、十年の後は如何、將た百年の後は如何、百年回顧しれば一夢の如く、千年回顧すれば一瞬のみ、人間の恩愛は萬古の情。』(太字は底本では傍点「◦」)と記している。彼の逝去はこの十五年後であった。]


今更らに此世の風の身に沁みて、
      いとゞ戀しき父母のひざ。


[やぶちゃん注:明治二六(一八九六)年三月二十二日の作。三月二十三日の日記の中に、『昨日自由社より歸や、書を裁して國もとに送る、收二』(國木田獨步の実弟)『宿舍入舎の相談也。其の他色々。』/(改行)『中に一首、』としてこの歌を記し、後に『あゝ「五年は經過せり」、』(この五年前、上京して東京専門学校(早稲田大学の前身)に入学した。後述は誕生起点の値)『二十年餘は經過せり、父老ひ[やぶちゃん注:以下とともにママ。]母老ひ吾亦た壯年に達して、尚ほ且つ父母を安ずる能はず、理想の責任徒らに重く、燈火の悲慨空しく深し、切に回顧して父母の膝下を懷ふ』と記している。]


弱ければ弱きに付けて猶ほ弱く、
     吾は迷へる羊なるかな。


[やぶちゃん注:明治二六(一八九六)年三月二十四日の条に出る。日記冒頭、『此の記を書するに先たちて左に一首、』として以上を掲げた上、歌の後に、
   *
アヽ昨朝は意志の冷靜健猛たらんことを自誡して、而も今は淚と共に此の歌を歌はざる可からざる吾の如何に弱きぞ。
若し斯くの如くして日一日を送らば、狂死にあらずんば堕落なり。
狂死か堕落か、狂死猶ほ可、堕落して生を放樂に偸むる[やぶちゃん注:ややおかしいが、「ぬすむる」。]に至りては、神明の罰終に如何。
思ふに精神靈性の弱きはたまたま以て身體の衰弱を招き、狂死に非ず、堕落に非ず、元より事業成功に非ず、何事も成し能はず、以て命を消さんとする如きに了らんも計る可からず。
   *
と記している。以上で当日の日記全文となる。]


こつこつとつとむる外に味もなく、
  望もわざもせんすべもなし。


[やぶちゃん注:明治二六(一八九六)年三月三十一日の日記の掉尾に、前書で『左の一首を三月に送る』と記して、載せる。]


しねとならば死ぬる此身は惜まねど
    生れし心あだに消す可き。


[やぶちゃん注:明治二六(一八九六)年七月六日の日記より。後に大久保余所五郞(よそごろう)宛の手紙に書き添えたものである旨の記載があり、書簡にも見える。]


冬枯れの野邊に主なく燃ゆる火の
   燈は月の光ならまし。


[やぶちゃん注:明治二六(一八九六)年十一月二十三日の作。三日後の二十六の日記に載せる。この前月、國木田獨步は先に注した大分県佐伯にあった私立鶴谷学館教頭に就任していた。日記より、歌に関わる箇所を抜き出す。
   *
木曜日二十三日の夜は月の光、夕の香をこめて僅に照りそめし頃、たまらず、家を出でぬ。弟を伴ひたり。
船頭河岸(せんどがし)に出でたり。晝間のさわがしきに似ずいと靜かなり。白馬一ツ繫ぎ居るを見たり。忽ち馬子乘りて牽て石階を下り渡船に乘らんとす。馬をそれてのらず、二三の人船と岸とに立ちて危ぶみて眺めぬ。馬よふよふ船に乘りたり。月已に川にみち居たりし也。海岸(かし)[やぶちゃん注:「海」はママ。]の石階の上に理髮所あり燈かゞやき居たり、其の前に四五人の見守り達集りて頻りに小兒を搖りつゝ唄ひ居たり。聲あはれなりき。渡船河の中流に出でし時、斜めに下流の峯より射す月の光を受けて馬白く人黑く舟危く、古色ありて、今眼前に眺め乍らも懷古の情と等しく一種の哀れを感じぬ。かゝる時人々の笑ふ聲、靜けさを破りて聞ゆるなどは却て哀れを增す者なり。
船廻りし時、吾等も乘りて渡りぬ。曩の[やぶちゃん注:「さきの」。]洪水に流されし橋の杭のこり立ちて趣きをそへぬ。
「渡」を渡れは堅田道なり。水田と河の入江とを貫きたる眞すぐの道にて家なし。此處野邊甚だ開けて山々のふもとを去るや、遠く、蒼煙はるかに地上をこめ月光白く空にみち、人なく聲なく、山默々、田の面に、くゞし火燃へ居たり。只だ獨り靜かにもへ[やぶちゃん注:ママ。]居たり煙低[やぶちゃん注:底本にここに編者により「く」の脱字を推定する割注有り。]はひて月の光これにこもりて 蒼く甚だ寂漠をたすけぬ。一首を得たり


[やぶちゃん注:「くゞし」は「くぶし」と言い、農作業で刈った草を燃やすこと及びその焚火を指す語。湿った生草のようなものを山のように積み、見た目では煙だけで燃やしているように見えることが多い。単に不要のそれを燃やすのであるから、炎や火の粉が舞い上がらぬよう、しかもこのシークエンスのように、夜、そばに人がおらずとも安全にごくゆっくりと燃えればよいのである。]


   *


として一首を掲げる。因みに歌の後には、時制がずれるから、この一首とは直接の関係はないが、


   *


昨夜友にやる書狀認め了はりし時は夜已に甚だ更けぬ、月の光のみ醒めたり。草あり、口笛なり。何處の少年ぞ、可憐なる。


   *


と書いて擱筆している。印象的なので言い添えておく。]


吹くからに柳の絲の亂るなれ、
    天の戶閉るその人もがな。


[やぶちゃん注:明治二七(一八九七)年三月十四日の作。十五日の日記に所収。それによれば、


    *


德富[やぶちゃん注:蘇峰。]氏一首の和歌、一篇の漢詩を寄せらる。曰く、
  吹く風に靡きそめたる靑柳の、
       絲の亂れをとく由もがな。
今日の政界を慷慨したるもの也。
吾返歌を作る。曰く、


    *


としてこの歌を掲げている。]


散にけり、いざ事問はん村びとよ
   花のさかりをいかに眺めし。


[やぶちゃん注:明治二七(一八九七)年三月三十一日の作であるが、翌四月一日の日記に所収する。それによれば(抹消線は底本編者のそれで復元した。太字は底本では傍点「◦」、下線は左傍線)、
   *
昨日の黑澤行を誌し置く可し。(二日朝認む)[やぶちゃん注:「黑澤」は現在の大分県佐伯市黒沢(グーグル・マップ・データ)。]
昨日は日曜日。教會の人々と共に黑澤と稱する處に櫻見物に出行きぬ。此黑澤の櫻と稱する云ふは、吾が佐伯に來りし時以茶己にしばく耳にする虛なりし也。佐伯町を去る三里半の山奧に在り。
拜禮終はりし後、同行者八人午前十時半頃出發す。歸宅したるは午後七時半なりし。
櫻花は已に散り居たり、只だ落花紛々の景を賞するを得たりしのみ。吾等それのみにても滿足したり。
櫻樹は二本あるのみ、されど何百年を經たりしとも知れざる老樹なり。なかなか世にめづらしき大木なり。立派なる庵あり、東光庵と稱す。
   散にけり、いざ事問はん村びとよ
        花のさかりをいかに眺めし。
此邊はまことに遠村なり、されど人は住み花は咲き、其處に人生あり。其處に老若男女あり、其處に吾あるなり
知りぬ、己れの吾を以て尤も大なる吾と心得、其の吾をのみ中心として齷齪[やぶちゃん注:「あくせく」。]することの極めて愚なることを。見よや、乾坤の間、人類至る處に生滅す。何れか其吾を保たざらん。希くは此の吾をして其等凡ての吾に住まはしめよ。
余は此の凡ての吾に同化するを得て天地悠々の哀感のうちに、神聖者の信仰に生き、以て他の吾達の爲めに美妙を發揮し得る文士となりて一生を幸福に送るが願のみ。
英勵風發、美妙何處にかある。[やぶちゃん注:「英勵」の右に底本では編者のママ注記がある。何の誤字か不明。]
美妙はシエクスピヤーの筆の上ぼりたる處にあり。ユーゴーの筆に上りたる方面に在り。ウオーツウオースの筆に上りたる處に在り。はた老子信仰の人生觀に在り。はたクリスト信仰の人生觀に在り。はた李白が詩の聲のうちに在り。はたシヨウペンハウエルが哲理のうちに在り。美妙は至る處に在り。大我同情の眼を以てすれば至る處に在るなり。人性の暗處も描けば美となる。社會の暗黑も寫せば美となる。自然の美勿論然り。
   *
と述べている。]


櫻花なれこそしらめ此のほかに眠りし人の花のかんばせ。


[やぶちゃん注:前と同じく明治二七(一八九七)年三月三十一日の作であるが、翌四月一日の日記に所収し、
   *
昨日、老櫻に別れて歸路につき、來ること一二丁ならずして路傍にいと古びたる墳墓四ツ五ツ並びて草のうちに立ち居たり。吾、人々を顧みて問ふて曰く此の墓と彼の老櫻といづれか老いた年を經たる。人々の曰く勿論老櫻こそと。然り。されど墓も已に其の形と云ひ其の朽碎せる樣と云ひ全然近代のものにあらず。今一首を得。
 櫻花なれこそしらめ此のほかに眠りし人の花のかんばせ。
   *
とある。]


鶯の啼なる方をふれされば
    木の間がくれに花の散るなり。


[やぶちゃん注:「ふれされば」はママ。「振りされば」(振り返ってみると)の意か。前と同じく明治二七(一八九七)年三月三十一日の作であるが、翌四月一日の日記に所収する。それによれば、
   *
黒澤にゆく路は常に溪流に伴ふて進むなり。此流れ曲折するにつれて路は或は時に其の岸に沿ひ或は之を橫る[やぶちゃん注:「よこぎる」。]、南側の山脈より分派せる山の尾にたちきられ村落各所に散在す。山櫻いたる處の谷に在り。鶯も亦た處々に啼く。農夫野に在り。のどかなる景色なり。若葉萌へ出ずる樣陽氣空にみつ。
  鶯の啼なる方をふれさけば
      木の間がくれに花の散るなり。
  櫻花なもなき山に咲き出でゝ
      ゆかしさまさる鶯の聲。
  茅の屋をみごしの山の花さきて
      春日のどかに翁眠れり。
     俗調一ツ。
  春の日に獨りぶらぶら山家を訪へば
      野邊の花まで迎へ顏。
   *
と四首を並べる。後の三首は改めて以下に掲げる。]


櫻花なもなき山に咲き出でゝ
    ゆかしさまさる鶯の聲


[やぶちゃん注:前歌注参照。]


茅の屋をみごしの山の花さきて
    春日のどかに翁眠れり。


[やぶちゃん注:前々歌注参照。なお、これは実景と見てよいが、実はこの前年の十一月に獨步は「竹取物語」を読んおり、この直近の四月三十日には詩「竹取」の改作第一章を書いているから、この一首はそれと強い親和性があると見てよいように思われる。無論、これは詩篇「かぐや姫」(明治三一(一八九八)年六月一日『反省雜誌』発表)のプロトタイプと考えられるものである。


   俗調一ツ。
春の日に獨りぶらぶら山家を訪へば
    野邊の花まで迎へ顏。


[やぶちゃん注:三首前の短歌注を参照されたい。そこに電子化したように所収する日記では前書風にある辞を添えて出した。]


世に生れ、貧しくそだち、哀れにも
        寂びしく暮す、一家なり。


[やぶちゃん注:明治二七(一八九四)年六月十三日の条に記されてあるが、これは短歌ではなく、既に『國木田獨步の日記「欺かざるの日記」及び書簡内の俳句群(一部は私は詩篇と推定する)』で示した通り、纏まったソリッドな五七調の一詩篇の部分と読む方が正しいと私は考えている。


伊豆相模、峰の白雪ふかけれど
     わがすむ庵は春雨の音


[やぶちゃん注:明治二九(一八九六)年二月二十七日の条に載る。歌の後に『春雨蕭々、閑居の思ひ長し。』と記している。短かった佐々城信子との結婚生活中の一首(結婚は前年明治二十八年十一月十一日)。この翌々月の四月十二日、教会礼拝からの帰途、信子は失踪し、同月二十四日に離婚を決した。]


わが戀の深き心は戀すてふ
  浮名も消えし苔の下かな。


[やぶちゃん注:明治二九(一八九六)年十月二十三日の条に載る。歌の後に『信子、信子、われは此の歌を愛吟して滿足するのみ』と記し、前文でも信子への未練を強く滲ませている。]


戀すてふ浮名や消えし後もなほ
   戀しきものは戀にぞありける


[やぶちゃん注:明治二九(一八九六)年十一月十九日の条に以下の三首とともに列載する。歌の前に(但し、歌群との間には罫線がある)『余が感情は再び荒れんとせり。再び昨年信子を知らざりし以前の余の感情に立ちかへらんとせり』と記している。]


朝な夕な身に沁みまさる秋風に
   さびしく獨り戀ひまさるかな


[やぶちゃん注:同前。]


花に狂ふ蝶の羽風のたよりだに
   君がことづて聞くよしもがな


[やぶちゃん注:同前。]


わぎもこの北にいませば北風の
   身に沁めかしと野邊路さまよふ


[やぶちゃん注:同前。]


 


○國木田獨步書簡所収の短歌(日記「欺かざるの記」と重出するものは除く)


[やぶちゃん注:以下は学研の「國木田獨步全集」增訂版(全十卷+別卷)の「第九卷」(昭和五三(一九七八)三月刊)の解題で、日記・書簡中の短歌・俳句が抽出再録されている中から、短歌を抜き出し、同全集の書簡(第五卷)で確認の上、電子化した。]


波風の荒き時のみ尊きかは
    まことの友は又たの吾が身ぞ


[やぶちゃん注:明治二三(一八九〇)年七月二十三日附大久保余所五郞宛(底本全集書簡番号四)より。大久保余所五郞については、『國木田獨步の日記「欺かざるの日記」及び書簡内の俳句群(一部は私は詩篇と推定する)』の注で既注。]


君を待つほの夕なぎに
  やくやもしほの身をこがしつゝ


[やぶちゃん注:明治二四(一八九一)年五月二十八日附水谷眞熊宛より(底本全集書簡番号補一一)。書簡では歌は丸括弧で括られてあるが、除去した。水谷眞熊(明治三(一八七〇)年~大正一四(一九二五)年)は熊本出身の友人。東京専門学校邦語政治科卒で、在学中、国木田独歩らと親交を結び、『靑年文學』同人となる。一時は雑誌編集の中心であった。後、郷里にて農政・社会事業に尽くした(ここは日外アソシエーツ「20世紀日本人名事典」に拠った)。]


大言を吐て今年も過ぎたれど
   心細きは年の暮かな


[やぶちゃん注:明治二五(一八九二)年『正月元日』附大久保余所五郞宛より(底本全集書簡番号一五)。歌の前に一字下げで、『僕歲暮の感てふ一狂歌あり大兄の下に年玉として進呈致す事也曰く』と記す。]


 ○君に告ぐ
死して後やまん心のますらほのちかひしことの末を見よ君


[やぶちゃん注:明治二五(一八九二)年六月二十五日附河手忠宛より(底本全集書簡番号一九)。以下の三首と列挙する。歌にはそれぞれ前後に鍵括弧が附されてあるが、除去した。河手は山口での旧友と思われる。]


 ○獨り昂然として
うてばちる葉末の露の玉となるも瓦となりて何にながらへん君


[やぶちゃん注:同前。]


 ○出立の際
立てば行く行けば倒れんそれ迄ではいくるも死ぬも神のまにまに


[やぶちゃん注:同前。これより前の書簡内容からは、若き日、山口から上京した折りを追懐しての吟と推定される。]


 ○客舍の暮雨旅魂將に寂漠たるの際忽ち亡友古川兄を思ふて
友は逝きのこりし吾の此の命せめては國のためにさゝげん


[やぶちゃん注:同前。]


富士の山、いつの世にか崩れなん、
 雲の峰たへはせじ、


[やぶちゃん注:明治二六(一八九三)年七月六日附大久保余所五郞宛より(底本全集書簡番号三二)。前で『君が夏雲、富岳に秀づるを見ての秀咏に對へて』として、次の一首と併置する。]


雲の峰いつの世にかたへはてん
 美の心つきはせじ


[やぶちゃん注:同前。二首の後に『以上は歌なり之れにつぎて以下は文章なり。』/『かるが故につきせぬ心は美の心、吾が心は則ち美の心、之れを以て富岳大と雖も雲峰偉なりと雖も吾が方寸の中に在り』と記している。]


關留る柵ぞなき泪川
いかにながるゝ浮身
       なるらん


[やぶちゃん注:明治二六(一八九三)年七月二十五日附大久保余所五郞宛書簡(底本全集書簡番号三二)の末尾クレジット・署名前に配す。本書簡には既に出した「わが宿は星滿つ夜(よる)の琵琶湖かな」の俳句も前の方に記している。老婆心乍ら、上句は「せきとむるしがらみぞなきなみだがは」と読む。]


大神の御心われは知らねども
  日の本の民救はざらめや


[やぶちゃん注:明治二七(一八九四)年二月二十四日附田村三治宛書簡より(底本全集書簡番号六二)。書簡末尾(追伸位置)にあり、前には、
   *
人眠之時吾醒ナリ
夢漠々時、淚潛々
  *
という和漢文が記されて一行空けて短歌を記している。「潛々」は音で「センセン」か。訓じるなら「さめざめ」である。田村三治は「頭巾二つ 於千代田艦 國木田獨步」で既注。]


春くれバ草木をのづと萌へいづるに
何とて民の枯れまさるらん


[やぶちゃん注:「をのづと」はママ。明治二七(一八九四)年三月十日附大久保余所五郞宛書簡より(底本全集書簡番号六四)。後に『此失望的の口調あれども慷慨の餘りのみ 草々』と擱筆している。]


木の葉ちり秋も暮にしかた岡の
 さびしき杜に冬は來にけり


[やぶちゃん注:明治二七(一八九四)年九月二十七日附大久保余所五郞宛書簡より(底本全集書簡番号七九)。末尾追伸位置に次の歌と併置してある。次注も参照のこと。]


昔思ふ秋のねさめの床の上に
 ほのかにかよふ峯の秋風


[やぶちゃん注:同前。前の歌との間に『の時節には少しく間もある事ながら』と挟む。]

2019/03/26

柳田國男 山島民譚集 原文・訓読・附オリジナル注「河童駒引」(41) 「虬は水神」(2) / 「河童駒引」~了

《原文》
「ミンツチ」ハ日本語ノ「ミヅチ」ト關係アルべキコト、「アイヌ」ノ音韻轉訛ノ法則ヨリ見テ露ホドモ疑ナシト、金田一君ハ言ハレタリ。奧州ノ「メドチ」ハ固ヨリナリ。加賀能登ノ「ミヅシ」ニ至リテモ、之ヲ「ミヅチ」ノ轉訛ト考フルノ外別ニ一案ノ存スル無シ。「ミヅチ」ハ我邦ニ於テハ古クヨリ之ヲ漢字ノ虬又ハ蛟ニ宛テタレドモ、單ニ其語原ヨリ見レバ未ダ之ヲ蛇類ニ屬スべキ理由ヲ知ラズ。本居氏ノ說ニハ、「ミヅチ」ノ「ミ」ハ十二支ノ巳又ハ「オカミ」、「へミ」、「ハミ」ナドノ「ミ」ニ同ジク、モト龍蛇ノ類ノ總稱ナリ。「ツ」ハ之ニ通フ辭ニシテ「チ」ハ尊稱ナリ。野槌ナドノ例ニ同ジトアレド、自分ハ其野槌ノ例ヨリ推シテ之ヲ水槌ノ義ナランカト思ヘリ。【足摩乳】【手摩乳】「ツチ」ノ靈物ヲ意味スルラシキ旁例ハ、出雲ノ國津神足摩乳(アシナツチ)手摩乳(テナツチ)アリ。【打出小槌】打出小槌ヲ如意ノ寶トスルコト、奧州ノ「イタコ」等ガ槌ノ子ニ由リテ巫術ヲ妨ゲラレシ話〔佐々木繁氏談〕、サテハ大地ヲ「ツチ」ト云フナドヲ思合セテ、此ノ如ク考フルナリ。歷代ノ文人タチ、其漢學ノ知識ヲ以テ頻リニ虬ノ字蛟ノ字ヲ以テ「ミヅチ」ニ宛テヽ止マザリシモ、水邊ニ住スル平民ハ一向之ニ頓著セズ、何カ有リ得べキ怪物ニ托シテ各自ノ水ノ神ヲ想像セシハ寧ロ正直ナリト云フべク、彼等ハ父祖十數代一タビモ遭遇セザル四脚ノ蛇ナドヲ、村ノ水中ニ養フコト能ハザリシナリ。而モ又否定スべカラザル一事ハ、每年夏月ニ入ルニ及ビ、小兒婦女牛馬ノ類往々ニシテ淵ニ入リテ死シ、恰モ物アリテ其獲物ヲ求ムルガ如クナリシヨリ、「ミヅチ」ノ恐怖ハ久シキヲ經テ愈深ク、神トシテ之ニ仕ヘ其意ヲ迎フルニ非ザレバ其災ヲ免ルヽ能ハズト信ズルニ至リシナリ。其時一人ノ英雄アリ、乃至ハ道力優レタル行者ノ村ヲ訪フ者アリ。法(カタ)ノ如ク出現シ來リ法ノ如ク兇神ヲ退治シ去ル。【傳說ノ發明】是レ卽チ我々ガ所謂傳說ノ東雲ナリ。傳說ハ恰モ春ノ野ノ陽炎ノ如シ。能ク我等ガ望ム所ニ向ヒテ發展ス。唯夫レ陽炎ノ如クナルガ故ニ、從前ノ信仰ハ少ナクモ其形式ノ上ニ於テハ此ガ爲ニ一朝ノ變革ヲ受クルコト無ク、永ク其痕跡ヲ故土ニ留ムルナリ。天然ノ神々ガ人間ノ便宜ニ抵抗スル能ハズシテ徐ロニ其威力ヲ收メ、終ニハ腑甲斐無キ魑魅魍魎ノ分際ニ退却スルコトハ何レノ民族ニ於テモ常ニ然リ。而モ彼等ガ既ニ其結界ヲ明渡シ其犧牲ヲ思切リテ後モ、責メテハ型バカリノ昔ノ祭ヲ要求シ、且ツハ氣味惡キ儀式ヲ繰返シテ畏怖ノ記念ヲ新ナラシメ、且ツハ之ニ由リテ敗北ノ失望ヲ慰メラレントスルモノ往々ニシテコレ有リ。【センゾク】【駒繫松】サレバ彼ノ馬ヲ水邊ノ杙ニ繫ギテ河童ノ祭ト稱スル土佐ノ例ノ如キモ、恐クハ又「ミヅチ」ニ對スル最少限度ノ養老金ノ類ニシテ、更ニ多クノ洗足池馬洗淵ノ地名ハ、由來不明ナル各地ノ駒繫松ナドト共ニ、年々馬ヲ水ノ神ニ供ヘタル上古ノ儀式ヲ、イツト無ク農民ノ好都合ニ解釋シテ、之ヲ以テ其馬ノ災害ヲ除却スル一手段ト見ルニ至リシモノ、久シキヲ經テ再ビ其理由ヲ忘ルヽニ至リシナルべシ。【雨乞】牛馬ノ首ヲ水ノ神ニ捧グル風ハ、雨乞ノ祈禱トシテハ永ク存シタリキ。朝鮮扶余縣ノ白馬江ニハ釣龍臺ト云フ大岩アリ。唐ノ蘇定方百濟ニ攻入リシ時、此河ヲ渡ラントシテ風雨ニアヒ、仍テ白馬ヲ餌トシテ龍ヲ一匹釣上ゲタリト云フ話ヲ傳ヘタリ〔東國輿地勝覽十八〕。白キ馬ハ神ノ最モ好ム物ナリシコト、舊日本ニ於テモ多クノ例アリ。 


《訓読》
『「ミンツチ」は日本語の「ミヅチ」と關係あるべきこと、「アイヌ」の音韻轉訛の法則より見て、露(つゆ)ほども疑ひなし』と、金田一君は言はれたり。奧州の「メドチ」は固(もと)よりなり。加賀・能登の「ミヅシ」に至りても、之れを「ミヅチ」の轉訛と考ふるの外、別に一案の存する無し。「ミヅチ」は我が邦に於ては、古くより之れを漢字の「虬」又は「蛟」に宛てたれども、單に其の語原より見れば、未だ之れを蛇類に屬すべき理由を知らず。本居氏の說には、「ミヅチ」の「ミ」は十二支の巳(み)、又は「オカミ」・「へミ」・「ハミ」などの「ミ」に同じく、もと、龍蛇の類の總稱なり。「ツ」は之れに通(かよ)ふ辭(じ)にして「チ」は尊稱なり。「野槌(のづち)」などの例に同じ、とあれど、自分は其の「野槌」の例より推して、之れを「水槌(みづづち)」の義ならんかと思へり。【足摩乳(あしなつち)】【手摩乳(てなつち)】「ツチ」の靈物(れいぶつ)を意味するらしき旁例(ばうれい)は、出雲の國津神(くにつかみ)足摩乳(あしなつち)手摩乳(てなつち)あり。【打出小槌(うちでのこづち)】打出小槌を如意(によい)の寶(たから)とすること、奧州の「イタコ」等が「槌(つち)の子(こ)」に由りて、巫術(ふじゆつ)を妨げられし話〔佐々木繁氏談〕、さては、大地を「ツチ」と云ふなどを思ひ合はせて、此(かく)のごとく考ふるなり。歷代の文人たち、其の漢學の知識を以つて、頻りに「虬」の字、「蛟」の字を以つて「ミヅチ」に宛てゝ止まざりしも、水邊に住する平民は、一向、之れに頓著(とんちやく)せず、何か有り得べき怪物に托して、各自の水の神を想像せしは、寧ろ、正直なりと云ふべく、彼等は父祖十數代一たびも遭遇せざる四脚の蛇などを、村の水中に養ふこと、能はざりしなり。而も又、否定すべからざる一事は、每年、夏月に入るに及び、小兒婦女・牛馬の類ひ、往々にして、淵に入りて死し、恰(あたか)も物ありて其の獲物を求むるがごとくなりしより、「ミヅチ」の恐怖は久しきを經て愈々(いよいよ)深く、神として之に仕へ、其の意を迎ふるに非ざれば、其の災ひを免るゝ能はず、と信ずるに至りしなり。其の時、一人の英雄あり、乃至(ないし)は道力(だうりき)優れたる行者の村を訪ふ者あり。法(かた)のごとく出現し來たり、法のごしく兇神を退治し去る。【傳說の發明】是れ卽ち、我々が所謂、「傳說の東雲(しののめ)」なり。傳說は、恰も春の野の陽炎(かげらふ)のごとし。能く我等が望む所に向ひて發展ス。唯だ、夫れ、陽炎のごとくなるが故に、從前の信仰は、少なくも其の形式の上に於ては、此れが爲に一朝の變革を受くること無く、永く其の痕跡を故土に留むるなり。天然の神々が人間の便宜に抵抗する能はずして、徐(おもむ)ろに其の威力を收め、終(つひ)には腑甲斐無き魑魅魍魎の分際に退却することは、何れの民族に於ても常に然り。而も彼等が既に其の結界を明け渡し、其の犧牲を思ひ切りて後も、責めては型ばかりの昔の祭りを要求し、且つは、氣味惡き儀式を繰り返して、畏怖の記念を新たならしめ、且つは、之れに由りて敗北の失望を慰められんとするもの、往々にして、これ、有り。【せんぞく】【駒繫松(こまつなぎまつ)】されば彼の馬を水邊の杙(くひ)に繫ぎて河童の祭りと稱する土佐の例のごときも、恐らくは又、「ミヅチ」に對する最少限度の養老金の類ひにして、更に多くの、「洗足池」「馬洗淵」の地名は、由來不明なる各地の「駒繫松」などと共に、年々、馬を水の神に供へたる上古の儀式を、いつと無く、農民の好都合に解釋して、之れを以つて其の馬の災害を除却(じよきやく)する一手段と見るに至りしもの、久しきを經て、再び其の理由を忘るゝに至りしなるべし。【雨乞(あまごひ)】牛馬の首(かふべ)を水の神に捧ぐる風は、雨乞ひの祈禱としては永く存したりき。朝鮮扶余縣(ふよけん)の白馬江(はくばこう)には釣龍臺(てうりようだい)と云ふ大岩あり。唐の蘇定方(そていはう)、百濟(くだら)に攻め入りし時、此の河を渡らんとして、風雨にあひ、仍(よつ)て、白馬を餌として、龍を一匹、釣り上げたりと云ふ話を傳へたり〔「東國輿地勝覽(とうごくよちしやうらん)」十八〕。白き馬は神の最も好む物なりしこと、舊日本に於いても、多くの例あり。


[やぶちゃん注:これを以って「山島民譚集」の「河童駒引」は終わっている。私は正直、「河童駒引」がこれでエンディングというのは、かなり消化不良を起こすものではある。まあ、そのお蔭で石田英一郎氏の名著「河童駒引考」(昭和二三(一九四八)年筑摩書房刊)が書かれたのであってみれば、よしとしよう。
「本居」本居宣長。
「オカミ」「龗」(音「レイ・リョウ」)で日本神話の神「淤加美神(おかみのかみ)」。「古事記」にも言及される、罔象女神(みづはのめのかみ)とともに水神とされる。ウィキの「淤加美神」によれば、『神産みにおいて伊邪那岐神が迦具土神を斬り殺した際に生まれたとしている』。「古事記及び「日本書紀」の『一書では、剣の柄に溜つた血から闇御津羽神(くらみつはのかみ)とともに闇龗神(くらおかみのかみ)が生まれ』たとし、「日本書紀」の『一書では』、『迦具土神を斬って生じた三柱の神のうちの一柱が高龗神(たかおかみのかみ)であるとしている』。『高龗神は貴船神社(京都市)の祭神である』。「古事記」では、『淤迦美神の娘に日河比売(ひかはひめ)がおり、須佐之男命の孫の布波能母遅久奴須奴神(ふはのもぢくぬすぬのかみ)と日河比売との間に深淵之水夜礼花神(ふかふちのみづやれはなのかみ)が生まれ、この神の』三『世孫が大国主神であるとしている。 また、大国主の』四『世孫の甕主日子神』(みかぬしひこのかみ)『は淤加美神の娘比那良志毘売』(ひならしびめ)『を娶り、多比理岐志麻流美神』(たひりきしまるみのかみ)『をもうけている』。漢字の「龗」は「龍」の古字であり、「神」「善」の意もある。
「野槌(のづち)」、本邦の妖怪。ウィキの「野槌」によれば、「野つ霊」「野椎」とも。「野の精霊」(「野つ霊(ち)」)の意『であるとも言われる』。『外見は蛇のようだが、胴は太く、頭部に口がある以外は目も鼻もなく、ちょうど柄のない槌(つち)のような形をしている』。『深山に棲み』、『子ウサギやリスを食べる』が、『時には人を喰うとされた』。『近畿地方・中部地方・北陸地方・四国地方を中心に伝承されているもので』、『シカを一飲みにする』、『転がってくる野槌に当たると死ぬ』、『野槌に見つけられただけでも病気を患ったり、高熱を発して死ぬともいう』。『昭和中期から未確認生物として知名度をたかめたツチノコは、野槌に用いられていた呼称のひとつ(槌の子・土の子)だったが、昭和』四十『年代以降』(一九六五年以降)『はマスメディアなどで多用された結果、野槌のような伝承上の特徴をもつ蛇の呼称も「ツチノコ」が定着していった』。寺島良安の「和漢三才図会」では、『大和国(現・奈良県)吉野山中の菜摘川(夏実川)や清明滝(蜻螟滝)でよく見かけるもので、野槌の名は槌に似ていることが由来とある。深山の木の穴に住み、大きいものでは体長』三『尺(約』九十『センチメートル)、直径』五『寸(約』十五『センチメートル)、人を見ると』、『坂を転がり下って』、『人の足に噛みつくが、坂を登るのは遅いので、出くわしたときには高いところへ逃げると良いという』とある。同原文・訓読と私の注は「和漢三才圖會 卷第四十五 龍蛇部 龍類 蛇類」の「野槌蛇(のづち)」を見られたい。『仏教説話の中にも「野槌」という名は見られ、鎌倉時代の仏教説話集』「沙石集」『には、徳のない僧侶は深山に住む槌型の蛇に生まれ変わるとされている。生前に口だけが達者で智慧の眼も信の手も戒めの足もなかったため、野槌は口だけがあって目や手足のない姿だとある』。『鳥山石燕は』「今昔画図続百鬼」で『全身毛だらけの野槌がウサギを食べる様子を描いているが、解説文でその形状を』「沙石集」を『引いて「目も鼻もなき物也といへり」と述べている』。「古事記」「日本書紀」に『登場している草の女神』『カヤノヒメの別名に野椎神(ノヅチノカミ)があり、「のづち」という言葉そのものは、草や野の精であるという解釈がとられている』。『鳥山石燕が野槌の解説文に「草木の精をいふ」』『とも述べているが、これはそれを受けたものである。記紀神話にはカヤノヒメを蛇とする記述は見られないものの、夫のオオヤマツミを蛇体とする説があることからカヤノヒメも蛇体の神だと考えられている』。『仏教が普及すると、カヤノヒメが霧の神、暗闇の神、惑わしの神を産んだとされることから、野槌は妖怪変化を産む神とみなされ、野槌自体も次第に妖怪視された』。『近代以前の辞書などではさまざまな虫について「のづち」と称している例も見ることも出来る。平安時代の漢和辞典』「新撰字鏡」では、『蝮(フク。マムシの漢字)に「乃豆知」』、『蠍(カツ。サソリの漢字)に「乃豆知」』『という訓読みを示している。江戸時代に編纂された源伴存』の「古名録」でも、『蝮の項目に』「新撰字鏡」等を引きつつ、『「乃豆知」「乃川知」という呼び方を示している他、「古書ノヅチト云ハ蚖(クソヘビ)ニノ長サ四五寸、首尾一般ノハビ也」としている』。『また、室町時代に編纂された』国語辞書「節用集」では、『「蝍蛆」(ムカデ、またはコオロギの事)に「ノヅチ」と読み仮名を当てたものもある』とある。『江戸時代の黄表紙』「妖怪仕内評判記(ばけものしうちひょうばんき)」にも『野槌が登場するが、こちらは』「のっぺらぼう」の如く、『目鼻のない人型の化け物で、頭の上の大きな口で物を食べる姿として描かれている』。この容貌は江戸初期の怪談集「奇異雑談集」の『「人の面に目鼻なくして口頂の上にありてものをくふ事」に描かれている、目鼻がなく口のみある「不思議の人」の図像を借用したもので、口のみ』を『器官として』持つ『とされる野槌にあわせて取られたものであると見られ』ている、とある。
「足摩乳(あしなつち)」「手摩乳(てなつち)」前者(「足」は「脚」とも、「なつち」は「名椎」とも書く)は「古事記」「日本書紀」に見える男神で後者はその妻。出雲の斐伊川の川上に住む老夫婦として登場し、二人の娘の奇稲田姫(くしなだひめ)が八岐大蛇(やまたのおろち)に食われるところを素戔嗚尊に救われ、新たに造営された宮の管理に当たるとともに、稲田宮主神(いなだみやぬしのかみ)の名を与えられる。記紀神話全体から見ると、天から降った神と初めて対面した国神となる。記紀の神界は、天上の神と地上の神に大別されており、また神話における「初め」には、その「典型」を示す働きがあるので、この神が素戔嗚に服従の態度をとったことは、天上の神が国神に対し、優勢であるのが基本的な在り方であるという構造を示そうとしているとも言う(以上は「朝日日本歴史人物事典」に拠った)。
「旁例(ばうれい)」「傍例」に同じ。一般に見られる例のこと。
「如意(によい)」思うがままのことが成就するの意。
『奧州の「イタコ」等が「槌(つち)の子(こ)」に由りて、巫術(ふじゆつ)を妨げられし』不詳。
「責めては」せめても。
「除却(じよきやく)」取り除くこと。
「朝鮮扶余縣(ふよけん)」現在の大韓民国忠清南道扶余郡(グーグル・マップ・データ)。「白馬江(はくばこう)」は東北から南西に貫通している川の部分名であろう。「釣龍臺(てうりようだい)」の位置はハングルなので判らない。この伝承はサイト「龍学」の「白馬江と釣龍台」に詳しい。
「蘇定方(そていはう)」(五九二年~六六七年)は、初唐の軍人。名は烈、定方は字(あざな)。ウィキの「蘇定方」によれば、十五歳で『父の下で従軍し、しばしば先頭に立って敵陣を陥落させた』。『唐の貞観初年』(六二七年)、『匡道府折衝となり、李靖の下で二百騎を率いて突厥を攻撃する先鋒をつとめ、霧の中で牙帳を襲撃した。突厥の頡利可汗』(けつりかがん)『は狼狽して逃亡し、李靖がまもなく到着すると、取り残された突厥の一党はことごとく降伏した。凱旋すると、定方は左武候中郎将に任ぜられた。永徽』(えいき)『年間』(六五〇年~六五五年)『に左衛勲一府中郎将に転じた。程名振とともに高句麗を攻撃(唐の高句麗出兵)して、これを破った。右屯衛将軍に任ぜられ、臨清県公に封ぜられた』。その後も、異民族の制圧に功あって、彼の活躍によって、『唐の勢力圏は中央アジア』はもとより、『パミール高原より西の地方も唐の勢力圏に入った』。六六〇年、『熊津道(ようしんどう)大総管となり、軍を率いて百済の征討にあたった。城山から海をわたって熊津口に上陸』、『沿岸の百済軍を撃破して真都城に進軍すると、百済の主力と決戦して勝利をおさめ』、『百済王義慈や太子の隆は北方に逃走した。定方が泗沘』(しび)『城を包囲すると、義慈の子の泰が自立して王を称した。泰は抗戦を続けようとしたが、義慈は開門して降伏することを決意して、泰はこれを止めることができなかった。百済の将軍の禰植と義慈は唐軍に降り、泰も捕らえられ、ここに百済は平定された。百済王義慈や隆・泰らは東都洛陽に送られた』とあり、この中のワン・シークエンスが、以上の白馬江釣龍台での出来事なのである。『定方は三カ国を滅ぼし、いずれもその王を捕らえたため、賞与の珍宝は数えきれず、子の蘇慶節は尚輦奉御の位を加えられた。まもなく』、『定方は遼東道行軍大総管となり、また平壌道行軍大総管に転じた。高句麗の軍を浿江で破り、馬邑山の敵営を落とし、平壌を包囲した。大雪に遭って、包囲を解いて帰還した。涼州安集大使に任ぜられて、吐蕃や吐谷渾とも戦った』。七十六歳で『死去すると、高宗はかれの死をいたんで、左驍衛大将軍・幽州都督の位を追贈した』とあり、生涯、根っからの軍人であり続けた武人であることが判り、龍も釣るだろうという気がしてくる壮士である。

柳田國男 山島民譚集 原文・訓読・附オリジナル注「河童駒引」(40) 「虬は水神」(1)

《原文》
虬ハ水神 河童ヲ猿ニ似タル物ト云フ說ノ、牛馬ノ保護ヲ祈禱スル信仰ニ出デタルコトハ、以上ノ解釋ニテ先ヅ明ラカニナリタリトシテ置クべシ。唯此ダケニテ濟マヌト感ゼラルヽハ、龜ダ川獺ダト主張スル他ノ地方ノ異說ナリ。更ニ退キテ考フルニ、猿ヲ水中ノ物トシタル理由モ單ニ竃ト馬トノ關係ヲ言フノミニテハ些シク不十分ナリ。故ニ今暫ク此問題ニ足ヲ駐ムルノ必要アラン。サテ河童ノ一名ヲ加賀又ハ能登ニテ「ミヅシ」ト呼ブコトハ前ニ唯一言セリ。能登ニテハ胡瓜ヲ食ヒテ水泳ギニ行ケバ「ミヅシ」ニ取ラルト云フ。【河童ノ藥】羽咋(ハクヒ)郡堀松村大字末吉ノ川ノ邊ニ、淵端某ト云フ疳ノ藥ヲ賣ル舊家アリ。其家ノ先祖或日門前ノ川ニテ馬ヲ洗ヒ居タルニ、「ミヅシ」來タリテ馬ノ脚ヲ纏ヒ陸ニ引揚ゲラル。捕ヘテ之ヲ殺サントスル時助命ヲ切ニ求メ、其禮トシテ疳ノ藥ノ製法ヲ教ヘタリト云フ。此藥今ハ遠ク北海道ニ迄モ販路ヲ有セリ〔鄕土硏究一ノ四號〕。コノ「ミヅシ」ハ南部地方ノ「メドチ」ト同ジキコト疑ナシ。南部ノ八戶邊ニテハ、川ニ泳ギテ「メドチ」ニ取ラレタリト云フ話、今モ每夏絕エズアリ〔石田收藏氏談〕。然ルニ蝦夷ノ土人ノ中ニテモ、河童ヲ「ミンツチ」ト呼ビ來レリ。【芥子坊主】金田一京助氏ノ話ニ、バチェラア氏ノ語彙ヲ見レバ、「ミンツチ」ハ單ニ湖又ハ川ニ棲ム半人半獸ノ靈物トノミアレドモ、「アイヌ」ガ之ニ就キテ語ルヲ聞ケバ、全ク奧州ノ河童ト同ジク、三尺バカリノ芥子坊主ニテ其オ芥子ヲ煙管デデモ打テバスグ死ヌ者ダナドト云フ。彼等ガ傳承ニ從ヘバ、「ミンツチ」ハ元ハ草人形(チシナプカムイ)[やぶちゃん注:これはルビではなく、本文。]ナリ。【疱瘡神】昔「オキクルミ」天降リテ人間世界ヲ支配セシ時代ニ、沖ヨリ疱瘡神渡リ來リ數多ノ「アイヌ」其爲ニ命ヲ殞ス。「オキクルミ」ハ乃チ六十一ノ草人形ヲ造リテ其疱瘡神ト戰ヒ之ヲ逐ヒ退ケシム。其折討死シタル草人形、化シテ「ミソツチ」ト成ル。【蓬】草人形ハ蓬ヲ十字ニ結ビテ人ノ形トシ、橫ノ一本ハ卽チ左右ノ手ナルガ故ニ、今モ「ミンツチ」ハ片手ヲ拔ケバ兩手トモ拔ケルナリト稱ス。又紫雲古津(シウンコツ)ノ「アイヌ」ノ中ニハ又「ミンツチ」ガ人ノ家ノ好キ娘ニ聟入シタル物語アリ。「アイヌ」語ニテハ又「シリシヤマイヌ」ト呼ビ、海川ノ漁獵ヲ掌ル神ナリト云ヘリ〔鄕土硏究一ノ十二號〕。【河童ノ腕】此記事ノ中ニテ殊ニ注意スべキハ亦例ノ河童ノ腕ノ話ナリ。内地ニテモ之ニ似タルコトヲ云フ。例ヘバ強力ナル武士河童ヲ捕ヘ其腕ヲ引拔キシニ、後ニテ見レバソハ唯一本ノ藁稈(ワラシベ)ナリト云ヒ〔日本傳說集〕、又ハ河童ト相撲ヲ取リテ甚シク取リニクキハ、其兩手ガ一本ニテ左右ニ貫キ伸縮自在ナルガ爲ナリト云フガ如キ是ナリ。豐前耶馬溪宮園村ノ庄屋次右衞門曰ク、河童ヲ捕ヘシ者ノ話ニ、其肩ノ骨一本ニシテ左右ニ通リ、譬ヘバ手拭掛ノ臺ニ手拭ヲカケタルヤウニアリシ云々〔水虎錄話〕。此等ノ話ノ奧羽ニ存セズシテ遙カニ九州ニ飛離レテアルハ殊ニ奇ト云フべシ。【手長猿】中國ニテモ「エンコザル」トハ手長猿ノコトニテ、此猿ノ左右ノ手ハ貫通シテ一本ナルガ故ニ、梢ヨリブラ下リテ水中ノ月ヲ探ルニ便ナリナド、老人ノ語リ聞カセシコトアルヲ記憶ス。而モ其由來ニ至ツテハ獨リ「アイヌ」ノミ之ヲ説明シ得テ、我々ハ未ダ之ヲ尋ネントモセザリシナリ。 


《訓読》
虬(みづち)は水神 河童を猿に似たる物と云ふ說の、牛馬の保護を祈禱する信仰に出でたることは、以上の解釋にて、先づ、明らかになりたりとして置くべし。唯だ、此れだけにて濟まぬと感ぜらるゝは、「龜だ」「川獺(かはをそ)だ」と主張する他の地方の異說なり。更に退(しりぞ)きて考ふるに、猿を水中の物としたる理由も單に竃(かまど)と馬との關係を言ふのみにては、些(すこ)しく不十分なり。故に今暫く此の問題に足を駐(とど)むるの必要あらん。さて、河童の一名を加賀又は能登にて「ミヅシ」と呼ぶことは前に唯だ一言せり。能登にては胡瓜を食ひて水泳ぎに行けば「ミヅシ」に取らると云ふ。【河童の藥】羽咋(はくひ)郡堀松村大字末吉の川の邊(ほとり)に、淵端(ふちはた)某と云ふ「疳(かん)の藥」を賣る舊家あり。其の家の先祖、或る日、門前の川にて馬を洗ひ居たるに、「ミヅシ」來たりて馬の脚を纏(まと)ひ、陸に引き揚げらる。捕へて、之れを殺さんとする時、助命を切に求め、其の禮として「疳の藥」の製法を教へたりと云ふ。此の藥、今は、遠く北海道にまでも販路を有せり〔『鄕土硏究』一ノ四號〕。この「ミヅシ」は南部地方の「メドチ」と同じきこと、疑ひなし。南部の八戶邊にては、川に泳ぎて「メドチ」に取られたりと云ふ話、今も每夏、絕えずあり〔石田收藏氏談〕。然るに、蝦夷(えぞ)の土人の中にても、河童を「ミンツチ」と呼び來たれり。【芥子坊主(けしばうず)】金田一京助氏の話に、バチェラア氏の語彙を見れば、「ミンツチ」は單に、「湖又は川に棲む半人半獸の靈物」とのみあれども、「アイヌ」が之れに就きて語るを聞けば、全く奧州の河童と同じく、三尺ばかりの芥子坊主にて、其の「お芥子」を煙管(きせる)ででも打てば、すぐ死ぬ者だ、などと云ふ。彼等が傳承に從へば、「ミンツチ」は元は草人形(チシナプカムイ)[やぶちゃん注:これはルビではなく、本文。]なり。【疱瘡神】昔「オキクルミ」、天降(あまくだ)りて人間世界を支配せし時代に、沖より、疱瘡神、渡り來たり、數多(あまた)の「アイヌ」、其の爲に命を殞(おと)す。「オキクルミ」は、乃(すなは)ち、六十一の草人形を造りて、其の疱瘡神と戰ひ、之れを逐(お)ひ退(の)けしむ。其の折り、討死(うちじに)したる草人形、化して「ミソツチ」と成る。【蓬(よもぎ)】草人形は、蓬を十字に結びて、人の形とし、橫の一本は、卽と、左右の手なるが故に、今も「ミンツチ」は、片手を拔けば、兩手とも拔けるなりと稱す。又、紫雲古津(しうんこつ)の「アイヌ」の中には又、「ミンツチ」が人の家の好(よ)き娘に聟入りしたる物語あり。「アイヌ」語にては又「シリシヤマイヌ」と呼び、海川の漁獵を掌る神なりと云へり〔『鄕土硏究』一ノ十二號〕。【河童の腕】此の記事の中にて、殊に注意すべきは、亦、例の河童の腕の話なり。内地にても之れに似たることを云ふ。例へば、強力なる武士、河童を捕へ、其の腕を引き拔きしに、後にて見れば、そは、唯だ一本の藁稈(わらしべ)なりと云ひ〔「日本傳說集」〕、又は、河童と相撲を取りて甚しく取りにくきは、其の兩手が一本にて、左右に貫き、伸縮自在なるが爲なり、と云ふがごとき、是れなり。豐前耶馬溪(やばけい)宮園村の庄屋次右衞門曰はく、「河童を捕へし者の話に、其の肩の骨、一本にして左右に通り、譬へば、手拭掛(てぬぐひか)けの臺(だい)に手拭をかけたるやうにありし」云々〔「水虎錄話」〕。此等の話の奧羽に存せずして、遙かに九州に飛び離れてあるは、殊に奇と云ふべし。【手長猿】中國にても「エンコザル」とは「手長猿」のことにて、此の猿の左右の手は貫通して一本なるが故に、梢よりぶら下りて水中の月を探(さぐ)るに便(びん)なりなど、老人の語り聞かせしことあるを記憶す。而も、其の由來に至つては、獨り「アイヌ」のみ之れを説明し得て、我々は、未だ之れを尋ねんともせざりしなり。


[やぶちゃん注:「川獺(かはをそ)」既出(但し、初回は「川獺」の表記)既注
「羽咋(はくひ)郡堀松村大字末吉の川の邊(ほとり)に、淵端(ふちはた)某と云ふ「疳(かん)の藥」を賣る舊家あり」現在の石川県羽咋郡志賀町(しかまち)末吉(グーグル・マップ・データ。以下同じ)はここで、さらに調べてみたところが、何と! 現在も薬草販売店「淵端本家薬店(ふちはたほんけやくてん)」として営業しておられる!
「疳」乳幼児の複数の異常行動を指す俗称。特に夜泣き・疳癪・ひきつけなどを指す。
『南部地方の「メドチ」』既出既注。そこでもリンクさせたが、私の「谷の響 五の卷 七 メトチ」も見られたい。
『蝦夷(えぞ)の土人の中にても、河童を「ミンツチ」と呼び來たれり』既出既注
「芥子坊主(けしばうず)」供の頭髪で、頭頂だけ毛を残し、廻りを全部剃ったもの。外皮そのままの球形のケシの果実に似ているところから、かく称する。
「金田一京助」(明治一五(一八八二)年~昭和四六(一九七一)年)は言語学者・民俗学者。日本のアイヌ語研究の本格的創始者として知られる。しかし、東京帝国大学教授・國學院大學名誉教授であったものの、かつて國學院大學のある教授が講義で、『金田一先生のの業績は石川啄木を経済援助したことと、ただ「ユーカラ」の研究一本のみだ』とのたもうたのを思い出す。一本で十分じゃないか。毒にも薬にもならないような論文を積み上げるよりは。
「バチェラア氏の語彙」イギリス人の聖公会宣教師ジョン・バチェラー(John Batchelor 一八五四年~一九四四年)は同時にアイヌの研究家で「アイヌの父」と呼ばれた人物。ウィキの「ジョン・バチェラー」によれば、『サセックス州アクフィールドに生まれる。最初園丁として働いていたが、インド宣教をしていた宣教師の説教を通して、東洋伝道の志を持つ。イギリス教会宣教会(CMS)に入会し』、一八七六年に『香港のセント・ポール学院に入学した』。『香港で学んでいる時』、『健康を害し』、翌年の明治一〇(一八七七)年、『静養のために函館に来た。函館で伝道している中で、アイヌ民族のことを知り、アイヌ伝道を志』した。二年後の明治十二年、『バチェラーは』『CMSの信徒伝道者に任命され、函館を拠点にアイヌへの伝道活動を始め』た。同年、『アイヌの中心地の一つである日高地方の平取』(びらとり)『を訪問した。ここでアイヌの長老ペンリウクの家に』三『ヶ月滞在して、アイヌ語を学んだ』。明治十五年には『イギリスに一時帰国し』たが、よく明治十六年に『再び函館に帰任した』。明治十七年、『ルイザ・アンザレスと結婚』、翌年、『幌別村(現在の登別市)を訪れ、アイヌへキリスト教教育のほか、アイヌ語教育をはじめる』。明治二一(一八八八)年、『金成太郎を校主としてキリスト教教育を行なうアイヌ学校設立構想の下、金成喜蔵が息子の太郎をアイヌに教育を行うアイヌ教師とするために私塾の相愛学校を設立』し、また明治二十五年には、『アイヌが無料で施療できるように、アイヌ施療病室を開設』している。明治二十四年の元日、『バチェラーは、伊藤一隆を中心とする北海道禁酒会の招聘に応え』、『函館を離れ、翌日』、『札幌に移転した』。『札幌に自宅を持ち、自宅で聖公会の日本人信徒のためにバイブル』・『クラスと日曜礼拝を始めた。また、札幌の自宅を拠点にアイヌ伝道を展開した』。明治二十五年に『札幌聖公会が正式に組織され』。明治二十八年『には、平取と有珠で教会堂を建設した』。明治三六(一九〇三)年時点で『北海道の聖公会信徒』二千八百九十五『人中アイヌ人が』二千五百九十五『人であった』という。『アイヌの向井八重子を養女』とした。大正六(一九一七)年に『江賀寅三』(えがとらぞう:アイヌ出身の聖公会牧師。後に聖公会を脱会して日本ホーリネス教会の牧師となったが、晩年は超教派の伝道師となり、静内に教会を建設した)『に洗礼を授ける。江賀は後に札幌に来て、アイヌ語辞典の編纂に協力して、バチェラーとの関わりで献身』している。大正一一(一九二二)年には、『アイヌの教育のために、アイヌ保護学園を設立』した。翌大正十二年、『バチェラーは』七十『歳になり、規定により』、『宣教師を退職した。しかし、その後も札幌に留まり、北海道庁の社会課で嘱託として働いた』。昭和八(一九三三)年には、『長年のアイヌのための活動が評価されて勲三等瑞宝章が授与された』が、昭和十六年)、『太平洋戦争が始まると、敵性外国人として、帰国させられ』、千九百四十四年に母国イギリスで九十一年の生涯を終えた』。『バチェラーは自身の遺稿の中で、アイヌと和人との混血が急速に進んでいることや、アイヌの子供が和人と同様に教育を受け、法の下に日本人となっていることから「一つの民族として、アイヌ民族は存在しなくなった』『」と記述している』。『バチェラーは、アイヌ語新約聖書』『の翻訳出版や』、『アイヌ語の言語学的研究と民俗学的研究に多くの業績を残した。アイヌに関する多くの著作を発表してアイヌ民族のことを広く紹介した。このことから、バチェラーは日本のアイヌ文化研究の重要な研究者の一人であるとされている』。『バチェラーの説には、現在では否定されている説もあり、「近江・アイヌ語由来説」を唱えたが、現代の語形で考えているため、無理があり、地名研究書の水準』としては『信頼度を低くしている一端と』も『される』とある。「バチェラア氏の語彙」というのは不詳。明治二二(一八八九)年に彼によって作られた「蝦和英三対辞書」(国立国会図書館デジタルコレクション)のことかと思って縦覧したが、それらしい記載は見つからなかった。
「オキクルミ」「アイヌラックル」「オイナカムイ」等の別名でも知られる、アイヌ伝承の創世神話における英雄神の名。ウィキの「アイヌラックル」によれば、『アイヌ民族の祖とされる地上で初めて誕生した神』で、『アイヌ語で』「人間のような神」『という意味。エピソードを通じて人々の日常生活を支える多くの品々の起源が語られることから、アイヌ神話の上での文化英雄の役割を持つ』という。生涯の伝承についてはリンク先を見られたい。
「蓬(よもぎ)」キク目キク科キク亜科ヨモギ属ヨモギ変種ヨモギ Artemisia indica var. maximowiczii
「紫雲古津(しうんこつ)」現在の北海道沙流郡平取町紫雲古津(さるぐんびらとりちょうしうんこつ)
「藁稈(わらしべ)」稲藁の芯。
「日本傳說集」の以上はここ(国立国会図書館デジタルコレクションの同書の当該ページ)。
「豐前耶馬溪(やばけい)宮園村」現在の大分県中津市耶馬溪町大字宮園。]

國木田獨步 短歌 三首

 


鳴きつれて行くかりかねの行へさへ
      知らではかなき懸にくちなんぬる。


こしかたの夢に焦るゝ現世の
      戀てふものは夢にぞありける


武士の心は何と人間はゝ碎けて後の玉と答へん


[やぶちゃん注:以上の三首の短歌は、学研の「國木田獨步全集」增訂版(全十卷+別卷)の「第九卷」(昭和五三(一九七八)三月刊)に「短歌」として載るものである。底本解題によれば、獨步の『短歌はかなりの數にのぼり、書簡、「明治二十四年日記」』、日記『「欺かざるの記」その他に散見する』が、前二首は「獨步遺文」の「韻文篇」の中の、『「戀緖」の總題を有する四首のうち、二首のみが他に見當らないので、こゝに收錄した。この四首には、本間久雄氏所藏の草稿がある。おそらくは、『遺文』に用ひられた原稿と思はれるが、總題の「戀緖」は獨步の筆ではないらしい。はじめの二首、「花に狂ふ……」と、「朝な夕な……」とは『欺かざるの記』の明治二十九年十一月十九日の記述中にある』(ブログでは後掲する)。『終りの二首を、本間氏の好意により、草稿を底本として收錄した』とし、最後の『「武士の心は……」は』の一首は、『水谷眞熊のノート『金蘭帖』中から採錄した』とある。一首目の抹消線は本文の注記に従って再現したものである。なお、俳句と同様、「欺かざるの記」と書簡内の短歌は別に後に電子化する。]

國木田獨步の日記「欺かざるの日記」及び書簡内の俳句群(一部は私は詩篇と推定する)

 


○國木田獨步日記「欺かざるの記」所収の俳句


[やぶちゃん注:以下は学研の「國木田獨步全集」增訂版(全十卷+別卷)の「第九卷」(昭和五三(一九七八)三月刊)の解題で、日記・書簡中の短歌・俳句が抽出再録されている中から、俳句を抜き出し、同全集の当該日記(第六卷及び第七卷)で確認の上、電子化した。]


朝な朝な起き出でゝみる冬景色


[やぶちゃん注:明治二六(一八九三)年十二月十七日の条の二行目に記す。國木田獨步満二十三歳。一行目は『近來天甚だ寒く、月漸く冷なり』と記し、この句を掲げた後、『ぶらぶらなすなく暮す此頃、なすなしと雖もなさんと欲するの熱情は愈〻燃ゆる也』と記し、続いて『昨日生徒を合手にナシヨナル第二を教へ居たる時、突然自ら客觀して思はず自笑せり。朽つる命、何を爲さんとするぞ。』(「合手」はママ)/(改行)『今朝めさめて頭を舉げてガラス越しに灘山の背後朝輝の天に漲ぎるを望む忽然として感ずらく嗚呼、大なる美なる確かなる此自然、吾は人なり、爾の中に生く、爾老ひず、吾豈老ひんや、吾あに死せんやと』(「老ひ」はママ)『然り「自然」は一致なり、古來幾億の生命、此自然が呑吐したる現象に非ずや、吾も人なり、安ぜよ、吾甚だ獨立を感ず然り吾甚だ吾がソールの獨立を感ず』(「ソール」は「soul」であろう)/『要するに吾ソールを此自然の中に見出す也』『ソールソール 汝は自由なり、自然なり、獨立なり。』(傍線は右)と記している。獨步はこの直前の同年十月、大分県佐伯(さえき:後に訛りの実発音の「さいき」に改称し、現在の公称も佐伯(さいき)市)町にあった私立鶴谷学館の英語と数学(代数学)の教師兼教頭として赴任していた(小学校卒業後の子弟を対象とした中等以上の教育を行う補助教育機関。德富蘇峰と矢野龍溪の紹介による。但し、十ヶ月後の翌年七月末を以って退職した)。]



野邊のすそ、川邊に一ツ
           住家あり。


月かげに、すかして見れば
           茅屋なり。


誰れが住む、住む人は誰れ
           問ふまでもなし。


名も知れぬ、名もなき(浮世の)
           人々ならめ。


[やぶちゃん注:以上《四句》は明治二七(一八九四)年六月十三日の条に記されてある。当日の日記冒頭には、『昨夜船を蕃匠の流に泛べ月光に掉[やぶちゃん注:ママ。]して、富永氏を灘村の校舍に訪ひぬ。同舟者は尾間、山口、收二の三人。吾を加へて四人。』/『月明、流れに滿ち山岳の影、倒さまに水に落ち來四顧寂々、ああかも湖面をゆくが如し。』/『歸來、此の美景、眼にのころ、心に生く』『吾は美を信ぜんことを欲す。』(太字は底本全集「第七卷」では傍点「◦」)/『わきには吾只た[やぶちゃん注:ママ。]美の力を信じたり、曰く美を信ず。と。是れ非なり。』/『寂漠、幽遠、光明、暗澹の世界。吾が生、こゝに在り。古人の生こゝに消へぬ[やぶちゃん注:ママ。]。吾、何處に適歸せん。』/『四顧茫々然。嗚呼吾信仰を欲す。』/『虛榮、小我、比較、焦念、束縛の衣よ去れ』/『信仰、自由、大我、眞實の生命よ來れ』とあった後に、実際には以上は、罫線に挟まれる形で、間に明らかな短歌風の一首を挟み、


   *


野邊のすそ、川邊に一ツ
           住家あり。
月かげに、すかして見れば
           茅屋なり。
誰れが住む、住む人は誰れ
           問ふまでもなし。
世に生れ、貧しくそだち、哀れにも
           寂びしく暮す、一家なり。
名も知れぬ、名もなき(浮世の)
           人々ならめ。


   *


となっているのである。全集「第九卷」の「解題」では、これらを五つに分離し、無理矢理、俳句と短歌に分けているのであるが、しかし、これはどう見ても、俳句+短歌一首、ではなく、纏まったソリッドな五七調の一詩篇と読む方が正しいとしか私には思えない。


「富永」は鶴谷学館の生徒富永德麿。独歩の退職帰京に伴い上京し、牧師となった。「收二」は獨步の実弟。なお、御存じない方のために言っておくと、獨步は熱心なクリスチャンであった。同学館では彼を尊崇する生徒がいた一方、その熱烈な信仰を毛嫌いする生徒も有意におり、後者は彼を排斥する運動行動に出たりしていた。そうした中、この時、獨步は既に学館を辞職して東京へ帰る意志を固めていた。


もぐらもち土をもたぐる狹霧かな。


[やぶちゃん注:明治二九(一八九六)年十一月二十六日の条に記されてある。句の前に『今日は終日狹霧たちこめて野も林も永久の夢に入りたらんごとく靜かなりき。午後獨り散步に出かけ犬を伴ひぬ。默視し、水流を睇視して空想に馳せたり。をりをり時雨の落葉の上をわたりゆく樣の靜けさ。』(「睇視」(ていし)は「目を細めて見ること」或いは「横目で見ること」であるが、前者でよかろう)。「林の奥に座して四顧)としてこの句が示され、後に『狹霧の靜寂を歌ひたる也』と記す。この年の四月、結婚から五ヶ月にして佐々城信子に逃げられて離縁しており、九月に渋谷(現在の渋谷駅の直近)に転居、この前月十月二十六日には名作「武藏野」の構想が既に成っていたことが日記から判る。一方、先の引用の後、には罫線を引いた後に、『信子を懷ふて和歌及び新體詩成れり。』と記している。和歌は後掲する当該首がある。「新體詩」は発表年月日の判っているものの中で、直近のものである「森に入る」「聞くや戀人」が、その一部に当たるのではないか、とは推理可能ではある。]


 


○國木田獨步書簡所収の俳句(日記「欺かざるの記」と重出するものは除く)


[やぶちゃん注:以下は学研の「國木田獨步全集」增訂版(全十卷+別卷)の「第九卷」(昭和五三(一九七八)三月刊)の解題で、日記・書簡中の短歌・俳句が抽出再録されている中から、俳句を抜き出し、同全集の書簡(第五卷)で確認の上、電子化した。]


東海の富士を枕にあくび哉


[やぶちゃん注:明治二三(一八九〇)年八月十五日相模小田原消印の田村三治宛書簡より(底本全集書簡番号六)。句に続けて『(まくらと云ふ題で)』(太字は底本では傍点「ヽ」)と記す。國木田獨步満二十九歳で、東京専門学校(現在の早稲田大学の前身)英語普通科第二年級。小田原は学年末休業中の旅行滞在(但し、底本全集年譜ではそれを八月四日から八日としており、不審)。前に『夏の暑さにつれ、堪へ兼て、うつらうつらの宵の間(ま)にあらうれしやな、うれしの□□□□、夢かまぼろし(三月あとに主のたよりをあらうれしやなあふぐ團扇の風で聞く、(うちわと云ふはうた)』(太字は底本では傍点「ヽ」。「うちわ」はママ。取消線は抹消部、□は底本の判読不能字と思われる)とあり、句の後に有意な字下げで、『こんなめそめそしき事は此れでよす!』とある。なお、底本では句を含め、一部が崩しの変体仮名であるが、表記出来ないので正字化した。]


わが宿は星滿つ夜(よる)の
      琵琶湖かな


[やぶちゃん注:明治二六(一八九三)年七月二十五日武蔵東京麹町消印の大久保余所五郞(よそごろう)宛書簡より(底本全集書簡番号三二)。書簡本文から、大久保が琵琶湖を綴った先行書簡に想を得た想像吟であることが判り、句の後に『僕が寓所の窓より滿天の星影輝〻たるを望み且つ遠く湖上の夜を想ふ時は心耳遙かに磯打つ波の音を聞くの思。眼底直ちに星空たれて水面に連なるの想ありとの意に候』とある。大久保は独歩の友人で後の第二次松方内閣で勅任参事を務めた。筆名を湖州と称し、「家康と直弼」など(リンク先は国立国会図書館デジタルコレクション)、文筆にも優れた。芥川龍之介に「大久保湖州」がある(リンク先は「青空文庫」。但し、新字旧仮名)。]


友なくば何が都の秋の月


[やぶちゃん注:明治二七(一八九四)年五月十六日附クレジットで、大分県佐伯町発信の中桐確太郞宛書簡より(底本全集書簡番号六九)。前に注した鶴谷学館教頭時代のもので、句の直後に学生の國木田獨步に対する排斥運動は『已にトツクニをさまり候今は八九名の有爲の靑年小生を愛し小生を信じ小生も亦た心を盡して職に當り、甚だ幸福の有樣に御座候間御安心あれ』と記しているが、実際にはこの二日前には上京の相談を知人・生徒らと行っており、既に辞任の意志は固まりつつあった。]

2019/03/25

和漢三才圖會卷第三十八 獸類 豪豬(やまあらし) (ヤマアラシ)

Yamaarasi

 

 

やまあらし 山豬 蒿豬

      豲※1 ※2豬

      鸞豬

豪豬

      【俗云也末阿良之】

[やぶちゃん注:「※1」=「豕」+「兪」。「※2」=「豕」+「亘」。]

 

本綱豪豬深山中有之多者成群害稼狀如豬而頂脊有

刺鬣長近尺粗如筋其狀似笄及帽刺白本而黒端怒則

激去如矢射人自爲牝牡而孕也人取其刺毛以爲簪令

髮不垢或以其皮成鞾其肉【甘大寒】有毒

△按豪豬自外國來畜之以異毛賞之耳。

 

 

やまあらし 山豬 蒿豬〔(かうちよ)〕

      豲※1〔(くわんゆ)〕

      ※2豬〔(くわんちよ)〕

      鸞豬〔(らんちよ)〕

豪豬

      【俗に云ふ、「也末阿良之」。】

[やぶちゃん注:「※1」=「豕」+「兪」。「※2」=「豕」+「亘」。]

 

「本綱」、豪豬は深山の中に、之れ、有り。多くは、群れを成し、稼〔(こくもつ)〕[やぶちゃん注:「稼」は「実った穀物」の意で、穀物・穀類を指す。)]を害す。狀〔(かたち)〕、豬〔(ゐのしし)〕のごとくにして、頂・脊に刺〔(はり)〕の鬣〔(たてがみ)〕有り、長さ尺に近し。粗くして、筋(はし)[やぶちゃん注:箸。]のごとく、其の狀〔(かたち)〕、笄〔(かうがい)〕及び帽刺〔(ばうさし)〕[やぶちゃん注:被冠物を頭部に固定するために髪と一緒に刺し貫く器具の謂いであろう。]に似たり。白き本〔(もと)〕にして、黒き端。〔その刺、〕怒れるときは、則ち、激し去〔つて〕[やぶちゃん注:動詞についてその動作の方向を指す。]矢のごとく、人を射る。自〔(みづか)〕ら牝・牡を爲〔(な)〕して孕みす[やぶちゃん注:無論、誤認。刺があるから交尾不能と思った結果であろう。]。人、其の刺毛を取りて簪〔(かんざし)〕と爲す。髮〔に〕垢〔(あか)〕つかざらしむ。或いは、其の皮を以つて、鞾〔(くつ)〕[やぶちゃん注:「靴」に同じい。]と成す。其の肉【甘、大寒。】、毒、有り[やぶちゃん注:アフリカでは現に食用とされており、有毒ではないだろう。それこそ、猛獣も刺を恐れて襲わないところから起こった流言に違いない。]。

△按ずるに、豪豬、外國より來たりて、之れを畜ふ。異毛を以つて、之れを賞するのみ。

[やぶちゃん注:哺乳綱齧歯(ネズミ)目ヤマアラシ上科ヤマアラシ科 Hystricidae の中で、中国に棲息する種は、例えば、ヤマアラシ属マレーヤマアラシ Hystrix brachyura が挙げられるが、ここで良安が今までのように「中華」と言わずに「外國」と言っていることを考えれば、中国に棲息せず、中国を経由してか、或いは南蛮貿易のオランダ船が、経由してきたアフリカやインドや東南アジアに棲息する他の種(恐らく殆んど剥製)を持ち込んだものを指すとするなら、ここには以下のような複数の種を掲げることが可能である(他に別々に進化した全く独立の系統近縁にはない、南北アメリカ大陸に棲息するアメリカヤマアラシ科 Erethizontidae の種群がいるが、ここには表示する必要がない)。

アフリカフサオヤマアラシ Atherurus africanus

アジアフサオヤマアラシ Atherurus macrourus

アフリカタテガミヤマアラシ Hystrix cristata

ケープタテガミヤマアラシ Hystrix africaeaustralis

ヒマラヤヤマアラシ Hystrix hodgsoni

インドタテガミヤマアラシ Hystrix indica

ボルネオヤマアラシ Thecurus crassispinis

パラワンヤマアラシ Thecurus pumilis

スマトラヤマアラシ Thecurus sumatrae

ネズミヤマアラシ Trichys fasciculata

以下、ウィキの「ヤマアラシ」から引く。『草食性の齧歯類』で、『体の背面と側面の一部に鋭い針毛(トゲ)をもつことを特徴とする』。『ヤマアラシという名で呼ばれる動物は、いずれも背中に長く鋭い針状の体毛が密生している点で、一見よく似た外観をしている(針毛の短い種もある)。しかし』、《ヤマアラシ》『に関して最も注意すべきことは、ユーラシアとアフリカ(旧世界)に分布する』地上生活をするヤマアラシ科『と、南北アメリカ(新世界)に分布する』樹上性のアメリカヤマアラシ科『という』二『つのグループが存在すること』、しかも、『これらは齧歯類という大グループの中で、別々に進化したまったく独立の系統であり、互いに近縁な関係にあるわけではない』という点である。『両者で共有される、天敵から身を守るための針毛(トゲ)は、収斂進化の好例であるが、その針毛以外には、共通の特徴はあまり見られない。齧歯目(ネズミ目)の分類法には諸説があるが、ある分類法では、ヤマアラシ科はフィオミス型下目、アメリカヤマアラシ科はテンジクネズミ型下目となり、下目のレベルで別のグループとなる。つまりアメリカヤマアラシ科はヤマアラシ科よりも、テンジクネズミ科とのほうが系統が近い』。この二『群の』生物学的に縁が近くない『動物が、現在に至るまでヤマアラシという共通の名前で呼ばれているのは、そもそもヨーロッパから新大陸に渡った開拓者たちが、この地で新たに出会ったアメリカヤマアラシ類を、まったくの別系統である旧知のヤマアラシ類と混同して、呼称上の区別をつけなかった名残りに過ぎない。特に区別する必要があるときは、それぞれ「旧世界ヤマアラシ」「新世界ヤマアラシ」と呼び分けるのが通例である』。『ヤマアラシ科はアジアとアフリカ(およびヨーロッパのごく一部)に生息する地上性のヤマアラシで』、『夜行性で、昼間は岩陰や地中に掘った巣穴に潜んでいる。アメリカヤマアラシ科は北アメリカと南アメリカに生息するヤマアラシで、丈夫な爪をもち、木登りが得意である。こちらも夜行性で、昼間は岩陰や樹洞に潜んでいる』。『他にもハリネズミ目のハリネズミ』(哺乳綱ハリネズミ目Eulipotyphlaハリネズミ科ハリネズミ亜科 Erinaceinae)、『カモノハシ目のハリモグラ』(哺乳綱単孔目ハリモグラ科ハリモグラ属ハリモグラ Tachyglossus aculeatus)『など、体が針で覆われた哺乳類が知られているが、それぞれが独自に進化の過程において針を獲得してきた』。『通常、針をもつ哺乳類は外敵から身を守るために針を用いるが、ヤマアラシは、むしろ積極的に外敵に攻撃をしかける攻撃的な性質をもつ。肉食獣などに出会うと、尾を振り、後ろ足を踏み鳴らすことで相手を威嚇するだけでなく、頻繁に背中の針を逆立てて、相手に対し』、『後ろ向きに突進する。本種の針毛は硬く、その強度はゴム製長靴を貫く程であり、また捕食された場合でも針が相手の柔らかい口内や内臓を突き破り』、『感染症や疾患を引き起こさせ、場合によっては死亡させることが知られている。この』ため、『クマやトラといった大型の捕食動物でも』、『本種を襲うケースは少ない』。『ケープタテガミヤマアラシ Hystrix africaeaustralisなどの針は白黒まだらの目だつ模様をしている。これはスズメバチの腹の黄黒まだらの模様と同じく、警告色の役割をしていると考えられる』。『ヤマアラシは通常、頭胴長』は六十三~九十一センチメートル、尾長は二十~二十五センチメートル、体重は五・四~十六キログラム。『夜行性で、穀類、果実、木の葉、樹皮、草などの植物を食べる。群れをつくらず』、『単独行動で生活している』。一『度に出産する子供の数は』一、二『頭と少ない』とある。哲学や心理学で『「自己の自立」と「相手との一体感」という』二『つの欲求によるジレンマ』(二律背反)を「ヤマアラシのジレンマ」(Porcupine's dilemmaHedgehog's dilemma(ハリネズミのジレンマ))と呼ぶが、これは、『寒空にいるヤマアラシが互いに身を寄せ合って暖め合いたいが、針が刺さるので近づけないという、ドイツの哲学者、ショーペンハウアーの寓話に由来する』。――『ある冬の寒い日、たくさんのヤマアラシたちが暖を求めて群がったが、互いのトゲによって刺されるので、離れざるを得なくなった。しかし再び寒さが彼らを駆り立てて、同じことが起きた。結局、何度も群れては離れを繰り返し、互いに多少の距離を保つのが最適であるのを発見した。これと同様に、社会における必要に駆り立てられ、人間というヤマアラシを集まらせるが、多くのトゲや互いに性格の不一致によって不快を感じさせられる。結局、交流において許容できるような最適の距離感を発見し、それがいわゆる礼儀作法やマナーである。それを逸脱する者は、英語では「to keep their distance」(距離を保て)と乱暴に言われる。この取り決めによって、初めて互いに暖を取る必要が適度に満たされ、互いの針で刺されることも無くなる。とは言え、自らの内に暖かみを持つ人間は、人々の輪の外に居ることを好むであろう。そうすれば互いに針で突いたり突かれたりすることも無いのだから』。――『この概念について、後にフロイトが論じ』、同じオーストリアのウィーン生まれの精神科医で精神分析家のレオポルド・べラック(Leopol Bellak 一九一六年~二〇〇二年)が』『名付けた』。『心理学的には「紆余曲折の末、両者にとってちょうど良い距離に気付く」という肯定的な意味として使われることもある』。『なお、実際のヤマアラシは針のない頭部を寄せ合って体温を保ったり、睡眠をとったりして』おり、この譬えは生態上は正確と言えない。]

和漢三才圖會卷第三十八 獸類 野馬(やまむま) (モウコノウマ或いはウマ)

Yamauma

やまむま


野馬


本綱野馬似馬而小今甘州肅州及遼東山中亦有之取

其皮爲裘食其肉云如家馬肉但落地不沾沙耳

騊駼 北地有獸狀如馬色青名曰騊駼此皆野馬類也

△按山馬皮自中華多來其皮比鹿麂等畧厚而肌不密

 最劣以作裘及韈爲下品



やまむま


野馬


「本綱」、野馬、馬に似て、小さし。今、甘州・肅州及び遼東の山中にも亦、之れ、有り。其の皮を取り、裘(かはごろも)[やぶちゃん注:革衣。]と爲す。其の肉を食ひて云はく、「家(つね)の馬(むま)の肉のごとし。但し、地に落〔ちても〕沙を沾(うるを)さざるのみ。」〔と〕。

騊駼〔(とうと)〕 北地、獸、有り、狀、馬のごとく、色、青。名ぢけて「騊駼」と曰ふ。此れ、皆、野馬の類ひなり。

△按ずるに、山馬の皮、中華より多く來たる。其の皮、鹿・麂(こびと〔じか)〕等に比(くら)ぶれば、畧(ち)と[やぶちゃん注:少し。]厚くして、肌、密[やぶちゃん注:緻密。稠密(ちゅうみつ)。]ならず。最も劣れり。以つて、裘〔(かはごろも)〕及び韈(たび)[やぶちゃん注:足袋。]に作る。下品たり。

[やぶちゃん注:「馬に似て、小さし」という点、それが永く「野馬」として認識されていたという点、「州・肅州及び遼東」(現在の甘粛省と遼東半島周辺)という中国北及び北内陸部に産するとする点から見て、「第三十七 畜類 馬(むま)(ウマ)」で示した哺乳綱奇蹄(ウマ)目ウマ科ウマ属ノウマ亜種ウマ Equus ferus caballus の野生化した種ではなく、以前は野生種であると考えられていた、

ウマ属ノウマ亜種モウコノウマ Equus ferus przewalskii

に同定してよいのではないかと考える。但し、現在はこの考え方は否定されつつあり、やはり非常に古い時代に家畜種であったものが野生化した個体群の末裔に過ぎないとする見解が主流になりつつあるウィキの「モウコノウマ」によれば、『かつてはシマウマ、ノロバ(野驢馬)を除いた唯一の現存する野生馬と考えられていたが、約』五千五百『年前に現在のカザフスタンで飼われていた家畜馬の子孫であることが』、『最近の研究で明らかにされた』。『その為に「本当の野生馬(家畜化されていないノウマ)はすでに絶滅している」との主張が現在の見解となりつつある』。頭胴長は二・二~二・六メートル、体高は一・二~一・四メートル、体重二百~三百キログラムほどで、『毛色はいわゆる薄墨毛で、全体的に淡い褐色、四肢と』鬣(たてがみ)、『尾は濃い褐色になる。冬になると』、『毛の色合いが薄くなり、かつ』、『毛が長くなる。たてがみは常に直立しており、家畜馬のように倒れない。口先に白いポイントがある。体型はがっしりとしており、サラブレッドなどの競走馬が持つ華奢なイメージはない。背中に「鰻線(まんせん)」という濃い褐色の帯がある』。『年長のメスに率いられた小規模の群れで暮らす。群れの構成はリーダー』の『メスを中心に数頭のメスと』、『その子供からなり、群れの周辺には』一『頭前後のオス個体がいる。草原の草を食べる典型的なグレイザー』(grazer:草食者)『である。ユーラシア大陸の草原に生息している。かつてアジア中央部、特にモンゴル周辺(アルタイ山脈周辺)に多数生息していたが、野生下では一度』、『絶滅し、飼育個体の子孫を野生に戻す試みが各地で続けられている。英語圏での別名は』「Asian Wild Horse」「Mongolian Wild Horse」で、『かつての原産地であるモンゴルでは、タヒまたはタキと呼ばれている』。『西洋諸国に知られるようになったのは』一八七九年(明治十二年)で、『ロシアの探検家ニコライ・プルツェワルスキー大佐によってモンゴルで発見され、広く知られるようになった(学名及び英名は発見者に対する献名)。しかし』、一九六六年に、『ハンガリーの昆虫学者によって目撃されたのを最後に野生下での目撃情報が確認されなくなり、恐らく』、一九六八『年頃に野生下では一度』、『絶滅したと見られている。だが』、『発見以後』、『多くの個体が欧米諸国の動物園に送られており、その子孫が生き残っていたことから、飼育下での計画的な繁殖が始められ、再野生化が試みられた。現在は、世界各地の動物園』千『頭以上が飼育されている。モンゴルのフスタイ=ヌルー保護区で再野生化が行われ』、百『頭以上に回復している。また、新疆ウイグル自治区の自然保護区等で、再野生化の目的で飼育個体の一部の導入が行われている』とある。こちらの「AFPBB News」の記事「中国の野生馬、世界の4分の1に相当 新疆、甘粛などに515頭」という記事では、甘粛省にある「甘粛絶滅危惧動物保護センター」で管理する野生馬の数は百頭を突破し、柵内で放牧されている四十三頭と、野に放たれた野生個体六十頭を合わせると百三頭に及ぶとあり、『同センターでは』一九九〇『年から、米国やドイツなどから』、十八『頭のモウコウマを引き入れ』、二〇一〇年と、二〇一二年には『それぞれ、シルクロードの一部分にあたる河西回廊』『の最西端に位置する敦煌』『西湖自然保護区に』二十八『頭が放たれた』とある。但し、同記事では『モウコウマは現在、地球上で生息する唯一の野生馬』であるとし、しかもモウコウマの原産地は『ウイグル・ジュンガル盆地の北塔山』と、甘粛省の粛北モンゴル自治県にある馬鬃山(ばそうざん:「鬃」は「鬣」と同義で原産地としては如何にもピッタりな名ではある)一帯であるとまで限定した上で、六千『万年の進化史と原始的ルーツを残しながら世界に約』二千『頭が生息している』と記す。


「家(つね)の」「常の」。普通の。良安の当て訓

「地に落〔ちても〕沙を沾(うるを)さざるのみ」肉から血や体液が砂に浸出してくることがないところだけが、通常の馬肉とは異なって異様である、の意。

「騊駼〔(とうと)〕」個人ブログ「プロメテウス」の「騊駼:大昔は神獣のことを指していた名馬の美称」によれば、拼音では「táo tú」(タァォ・トゥー)で、『騊駼は北方の青い毛の野生の馬のことですが、歴代の名馬を指すようになったため』、『騊駼という名称は人々に重要視されました。馬の他には騊駼と言う名を持った人もおり、東漢臨邑候の劉騊駼や隋朝官吏の李騊駼などがいます』。「逸周書」の「王会」には「禺氏、騊駼」『とあり、この一文に対して孔晁が』「騊駼とは馬の一種である」『と注釈を行っています。司馬遷の史記にも』「匈奴が乗る動物が騊駼である」と『言う一文がありますので、こちらも騊駼は馬の事を指しています。他の文献にも』、『騊駼に関して』、『北方にいる青色の馬の事を指しているという記述が多くみられます』。『しかし』、「山海経」の「海外北経」には「北海内に野獣がおり、その形状は一般的な虎のようで、名を騊駼と言った」と『あり、虎のような怪物として描かれています』「山海経」も、「山海経」のやや後に書かれた「史記」も、『同じ漢代に書かれた書物ですが、一方では虎に似た怪物、一方では馬と同時期でも解釈は判れてしまっています』。「山海経」の『注釈を行ったことで有名な郭璞は』、「山海経」の『この虎のような怪物の一文を引用して』、「北海内に獣がいた。形状は馬のようで名を騊駼と言い青色であった」『と注釈を残しています。両方の解釈を結び付けてしまったわけです。これは郭璞自身が強引に解釈したのか、郭璞が注釈を行う以前より』、「山海経」の『騊駼と言う怪物は』、『実は青い馬のことであると言う論調があり、それに従って郭璞が注釈を行っただけなのか』は『今となっては判りません』。『現在では騊駼は北方産の馬とされています。この北方はどのあたりを指すかと言うと』、「史記」の、『匈奴が乗る動物が騊駼である、との記載に従えば』、『甘州内であったと推測されます。匈奴自体はモンゴルから中央アジアにかけて存在した遊牧民族の総称です』。『また、古書にある海外とは陸続きでも中国(中原)以外の場所で友好関係にあった国を指しています。騊駼という名は』「山海経」の「海外北経」に『記載されており、当時の中原の北にあった匈奴産の馬を指していたのではないかと考えられます。これらの関連性により』、『多くの人が現在の蒙古馬は騊駼馬の子孫なのではないかと考えています』とあり、ここでも甘粛の地名が登場し、ブログ主も「騊駼」は多くの人々が蒙古馬(モウコウマ・モウコノウマ)の原種ではないかと言っているという事実が示されており、良安が「本草綱目」のこの部分を敢えて載せたことは、少なくとも、既にそうした認識(モウコノウマこそ野生の馬の原種の一つであるという考え方)があったことと親和性を示していると言えるのではないか? お判りとは思うが、良安の「本草綱目」の引用はかなり恣意的な抜粋なので、この良安のそれ(原文は「山海経」から)に私はよくぞ引いて呉れたと快哉を叫びたいぐらいの気がしているのである。

「麂(こびと〔じか)〕」中形の鹿で、ヨーロッパ・中国・中近東と分布域が広い(本邦には棲息しない)、鯨偶蹄目反芻亜目シカ科オジロジカ亜科ノロジカ属ノロ Capreolus capreolus(「ノル」「ノロジカ」とも呼ぶ)であろう。地域によりいくつかの亜種があるが、大きく次の三亜種に分けられる。ヨーロッパノロ Capreolus capreolus capreolus は、ヨーロッパから中近東にかけて分布し、肩高六十~六十八センチメートル。マンシュウノロ Capreolus capreolus bedfordi は、肩高六十五~七十八センチメートル、夏毛と冬毛の色彩的差異があまりない。中国・朝鮮半島などに分布する。オオノロCapreolus capreolus pygargusは、三亜種中、最大で、肩高七十~九十センチメートルあり、アルタイ・アムール地方に産する。毛色は夏毛は赤黄色、冬毛は灰褐色。晩春から初夏にかけて。、成獣の♂はテリトリーを作り、七月下旬から八月上旬の発情期に入ると、♂は♀を追い、二頭は「ノロの輪」と呼ばれる円を描くように走る。妊娠期間は九ヶ月半にもなる場合があり、受精卵の着床遅延が認められている。出産期は五~六月、一産に通常は二子、時に三子、稀に四子を産む。寿命は十五年ほど。ここまでは小学館「日本大百科全書」によった。大修館書店「廣漢和辭典」では「オオノロ」とするのであるが、現行の分布域と、良安が「こびと」とルビするところからは、上記のマンシュウノロの方が相応しい。

中高時代の故郷へ旅した

この時期、毎年、友人らと旅をしている。
今回は、新湊・氷見・富山であった。
企画は友人任せだが、この場所は私が中高時代を過ごした地である。
高岡からは派手な「ドラえもんトラム」に乗って、新湊へ(帰りには立川志の輔が停車駅を解説していたけれど、土地の人にはちと喧しかろうに)。新湊は海王丸が係留され、橋尽くしの観光船が巡り、一大テーマ・パークに変貌していた。氷見線には「忍者ハットリくん」列車が走り(それは停止車体を見かけただけだが、帰りは新高岡まで「べるもんた」に載り、珍しい車体の路線移動を体験した。昔は最終車両の接続部はドアも何もなく、私はそこから去りゆくレールの風景を見るのを好んだものだった)、氷見の商店街には藤子不二雄Aのモニュメントが至るところに林立していた(これもセンサー対応で人が通るたびに自己紹介をするのには閉口した)。海岸線が大幅に埋め立てられて、唐島(からしま)が陸に繋がりそうになり、日本一という道の駅風の「ひみ番屋街」が観光客を誘って、いや、まさに「桑田変じて」の逆を行っていた。
友人らと一緒であるし、一泊で、個人で行動することは出来ないので、私が六年間を過ごした伏木の町は、車窓から垣間見ただけだったけれど、中学の同級生が自転車で下ってきて交通事故で亡くなった坂道が見えた……惨めな失恋の憂愁を慰めてくれた国分浜も……如意が丘に建つ母校伏木高校も……深夜にこっそり訪ねて、家人に見つからぬように窓から入れて貰った友人の家も、皆、そのままに……蟹突きをしていてクサフグに腰を噛まれた雨晴……友人とキャンプした島尾の海岸……当時の恋人とデートして歩んだ氷見の町並み……何もかもが、波状的に胸を打った。
私の青春の故郷は確かに――あの高岡の伏木――だった。
・父が両端の橋柱のデザイン(合掌の形)した高岡の鳳鳴橋を見に行きたかったが、時間がなかった。されば、グーグル・ストリート・ビューからトリミング画像を貼っておく。最後のものは橋竣工式典の際にデザイン者として招待された折りの父の写真である。

Houmeibasi01

Houmeibasi02

Houmeibasi03

Houmeibasi04

Houeibasisyunkou

2019/03/22

隨分御機嫌よう

明日早朝より友人らと懷かしき場所に旅に出づれば暫く御機嫌よう 心朽窩主人

國木田獨步 俳句(二句)



冠掛けて菊千本の主かな    獨步



眼鏡かけて我に髯なき恨哉   獨步



[やぶちゃん注:以上の二句は、学研の「國木田獨步全集」增訂版(全十卷+別卷)の「第十卷」(昭和五三(一九七八)三月刊)に別刷の投げ込み冊子で挿入されてある全十六ページから成る「学習研究社版 國木田獨步全集第十卷 補遺 追加」(発行者署名は『学習研究社 国木田独歩全集編纂委員会事務局』(新字はママ))の「ⅹⅰ」ページ(全集追加ノンブル『追619』)に『句』として、載る俳句である。同全集本文には俳句パートは存在しない。但し、同全集「第九卷」の解題で日記・書簡中の短歌・俳句が抽出再録されているので、後にそこから俳句を抜き出して電子化することとする。前者「冠掛けて菊千本の主かな」は、明治三五(一九〇二)年九月二十九日発行の雑誌『太平洋』に、後者「眼鏡かけて我に髯なき恨哉」は同年十二月十五日発行の同じ『太平洋』に掲載されたものである。國木田獨步満三十一歳の折りの句である。國木田獨步は前年明治三十四年三月に作品集「武藏野」を発表していたが、同作品集はその当時の文壇では評価されなかった。しかし、その年末に「牛肉と馬鈴薯」(十一月『小天地』)、この年には「鎌倉夫人」(十・十一月『太平洋』)・「酒中日記」(十一月『文藝界』)を書き、翌明治三十六年に「運命論者」(三月『山比古』・「正直者」(十月『新著文藝』)を発表するに及んで、自然主義の先駆者となった(但し、この時に至っても、文壇は未だ紅・露(尾崎紅葉と幸田露伴)全盛期で、國木田獨步はとてものことに文学で生計を立てられるような状態にはなかった)。因みに、この雑誌『太平洋』というのは週刊誌で、盟友田山花袋が編集していた(この明治三十五年に編集主任に就任)。花袋はまさしくこの年の五月に、本邦に於けるゾライズムの代表作ともされる名篇「重右衛門の最後」を新声社の月刊新作叢誌『アカツキ』の第五編として発表し、小説家としてのデビューを飾っていた。]

友情消ゆ 國木田獨步



  友情消ゆ



貧しきを泣かむや

 名無きを泣かむや

少年の春の經過を泣かず

落々たる雄心の消磨を泣かず

 殘灯に對して默坐す

冷かなる淚一滴

 蒼顏をつたはるは

世にも深かりし友情の

 餘りはかなく

 消えたれば



[やぶちゃん注:「獨步遺文」より。本篇を以って底本の「詩」パートは総てを終わっている。]

破壞 國木田獨步



  破  壞



破壞は悲し

 尤も悲し

愛の破壞は

 これを感ずる

われ人里に深からば

 人の淚は

 更に淸きを



[やぶちゃん注:「獨步遺文」より。]

高峯の雲よ 國木田獨步



  高峯の雲よ



高峰の雲よ心あらば

乘せてもて行き此我を

大海原のたゞ中の

人なき島に送れかし

斯くて此身は浮世より

消え失すとても此我は

天地(あめつち)廣き間にて

人とし生きむ、しばしだに



[やぶちゃん注:「高峯」「高峰」の混在使用はママ。孰れも「たかね」と訓じておく。確定資料では無論ないが、死後の出版の「獨步詩集」(大正二(一九一三)年東雲堂書店刊)では本文の「高峰」に「たかね」とルビを振っている(但し、同詩集の標題は「高峰の雲よ」である)。「獨步遺文」より。]

都少女 國木田獨步



  都 少 女



都少女よ春風に

花の振袖きそふとも

甲斐ぞ無からむ塵深き

街の色の朝夕に

なれが心を染めぬかば



[やぶちゃん注:「獨步遺文」より。]

菫 國木田獨步



  



野邊の小路に噴き出でし

菫の花は今日もまた

君がかざしとなりにけり



胸の思を如何にせむ

歌ひてもらす術もがな

君が奏づる琴の音の

調に合はす由もがな



暫時は君の聞けよかし

菫羨むわが歌を



[やぶちゃん注:「獨步遺文」より。]

菫 國木田獨步



  



春の霞に誘はれて

おぼつかなくも咲き出でし

菫の花よ心あらば

たゞよそながら告げよかし

汝(な)れがやさしき色めでゝ

摘みてかざして歸りにし

少女や今日も來りなば

「君をば戀ふる人あり」と



[やぶちゃん注:「獨步遺文」より。]

大連灣 國木田獨步



  大 連 灣


茫々夢の如し、憶ふ彼日

悠々日月轉ず、憶ふ彼夜

大連灣今如何

旅順口頭猛鷲旗樹つ



艦隊一條長く

指すや大連灣

秋光波に溶け

高し黃海の天



陸兵背を衝くの日

戰艦前を扼するの約

海陸の計空しく

敵に勇卒無し



見よや和尚島

翩翻たり日章旗

笑聲起る、敵を笑ふなり

歡聲湧く、我を祝ふなり



茫々夢の如し、憶ふ彼の日

悠々日月轉ず、憶ふ彼の夜

大連灣今如何

和尚山頭猛鷲旗樹つ



大同の江の夕まぐれ

花園口のあけの星

夕は燈火を滅し

曉に敵地を窺ふ



咄嗟上陸す三萬の軍

劔光日に映ず遼東の野

風無し、波無し、敵影無し



淸國英をあつむ旅順口

想ふ黃海の殘艦潛むと

黃金山白煙咄として起る

艦側白浪聳つ

空を劈くの霹靂

艦上快哉を叫ぶ



艦を旋らす大連湾

報あり放順落つと



[やぶちゃん注:「獨步遺文」より。國木田獨步(当時、二十三歳)が『國民新聞社』の日本海軍従軍記者として明治二七(一八九四)年十月十九日に大同江(だいどうこう/テドンガン:現在の朝鮮民主主義人民共和国北西部を流れる川)で軍艦千代田に乗艦、以後、大連湾で転戦・勝利した体験を回顧したものである(翌明治二十八年五月五日に呉へ帰還。その間、獨步は、弟収二に宛てるという形式の戦況ルポルタージュ「愛弟通信」を連載、一躍、有名となった。因みに、既に電子化した、現行、最も古い初出である「頭巾二つ 於千代田艦」が詠ぜられたのは、この従軍から帰った七ヶ月後であった)が、創作年代は不詳

「猛鷲旗」「あらわしき」か。海軍の旭日旗のことか。当初、Z旗かとも思ったが、Z旗が海軍に於いて特別な意味(所謂、言うところの「皇國ノ興廢此一戦ニ在リ、各員一層奮勵努力セヨ」)を持って意識されるようになるのは後の日露戦争中の、明治三四(一九〇五)年五月の「日本海海戦」での旗艦「三笠」での掲揚を嚆矢とするので違うと思われる。

「陸兵背を衝くの日」上陸した兵軍がすっくと立って順調に進軍するその日のさまの意か。

「戰艦前を扼するの約」戦艦は湾の中でどっしりと場を占めて、湾を閉塞するという任務をしっかりと守っているさまの意か。

「海陸の計空しく」日本軍が海軍・陸軍ともに相応に準備万端の戦略を以って立ち向かったにも拘らず。「敵に勇卒無」ければ、それが無駄になった、という謂いであろうか。

「和尚島」「をしやうじま」と訓じておく。現在の大連湾湾奧にある大連市甘井子区和尚島(グーグル・マップ・データ)。大和尚山がある。

「花園口」「くわゑんこう」音読みしておく。大連湾の東北約百キロメートルの黄海に面した町。遼寧省大連市荘河市花園口(グーグル・マップ・データ)。日清戦争で日本軍が最初に上陸した地点として知られる(後の日露戦争でも日本軍は同じくここから上陸している)。個人ブログ「HBD in Liaodong Peninsula」の「花園口―日清戦争での日本軍上陸の地」の写真を見ると、恐ろしく遠浅の海が広がっている。以下に今や、まず読まれることのない「愛弟通信」の、「上陸地の光景」の全文を全集から引用する。但し、読み(総ルビではない)は一部に留めた。

   *

       上陸地の光景

愛弟、吾れ已に上陸したり。軍兵上陸の模樣を語る前に、御身をして先づ上陸地の槪況を知らしめんと欲す。

海岸一帶は、艦上より眺めたる如く、凡て斷崕(だんがい)なり。所々入澳(にふいく)[やぶちゃん注:入り江。]ありて自から濱をなす。艦上より平蕪(へいぶ)の曠原(くわうげん)と見しは、總て大耕作地にして、滿目茫々、殆ど玉蜀黍(たうもろこし)の刈株(かりかぶ)のみなりし。樹木甚だ少し、少なしと雖も其丈は高し。數珠の高樹、丘陵の斜傾(しやけい)せる邊(あたり)に樹ち、其の木陰(こかげ)に農家二三の小村を作る。首(かしら)をたれ尾をふり、悠々然(いういうぜん)と步み居るは牛と驢馬(うさぎうま)なり。壁を以て圍まれたる庭の隅々に集りたるは雞(にはとり)なり、耕作地の畦(あぜ)を、無頓着(むとんぢやく)に鼻の先にて突きつゝあるは豕(ぶた)なり。吾等の近づくを見て、聲を限りに吠へつくは例の犬、少しも變りなし。平陵急に裂けて泉をなす處、家鴨(あひる)群(むれ)をなせり。地質は乾砂(かんさ)と赤土(あかつち)とを混和したるものらしく見へ、雨の日など泥濘(でいねい)にして步み難きを推し得べく、近日の晴天は土を灰の如くならしめ、荷車の轍(わだち)の跡、遠くうねりて丘の頂(いたゞき)を過ぎ、樹木の下を橫ぎり、何れの村にか通ふめり。

小丘の半腹(はんぷく)、海に面して突如と立つものは、一種異樣の寺院なり。周圍一木なく、平野に裸出して、夕陽(ゆうよう)を橫領し顏(がほ)なるは他見(よそめ)だけに羨やまし。住まば三日もたまらざる可し。

海岸總て遠淺にて干潮の際は沼をなし、断崕の突出せるものは、岩骨(がんこつ)直立して壁をなす。東南の風若(も)し激(げき)せば、滿潮の時必ず怒濤の咆哮(はうこう)すべきを推するに難からず。

此の地を花園口と云ふ。蓋し花園河の口に當ればなりと土人謂へり。花園河何處にかある、あたりには見へざりき。

潮(しほ)退(ひ)きたる跡に鴫(しぎ)群がれるを見て、獵銃を携へざりしを悔むは艦長なり。崕角(がいかく)[やぶちゃん注:崖の端或いはその下。]に息(いこ)ふ兵士、坂を上ぼりゆく一隊、今しもボートをこぎ着けたる一組、見渡す限り際限なき蒼海(さうかい)、沖に繫がる無數の大船、點々相連なる通船(かよひせん)[やぶちゃん注:上陸用舟艇。]、潮(うしほ)にぬれたる岩礁、丘上に飜る旗、此等の光景に茫然たる吾は、實に米僊氏なきをうらみたり。[やぶちゃん注:「米僊氏」明治期の画家で画報記者であった久保田米僊(べいせん 嘉永五(一八五二)年~明治三九(一九〇六)年)。京都生まれ。名は寛。慶応三(一八六七)年に鈴木百年に師事し、維新後、京都画壇の興隆を目指して、明治一一(一八七八)年に画学校の設立を建議した。師風を継ぐ雄渾な画風で知られ、内国絵画共進会・内国勧業博覧会で受賞を重ねた。また一八九〇(明治二二)年のパリ万博で金賞を受賞し、渡仏して『京都日報』に寄稿、明治二十四年には上京し、『国民新聞社』に入社し(則ち、独歩入社の三年前で彼の先輩に当たるのである。年齢は獨步より十九歳上)、一八九三(明治二六)年のシカゴ万博や、翌年の日清戦争従軍の記事を報じた(但し、獨步とは行動をともにしてはいない)。「米僊漫遊画譜」「米僊画談」などの著書があるが、明治三三(一九〇〇)年に失明、以後は俳句や評論活動を行った。]

吾等の千代田艦を發したるは、午前八時なり。上陸地に到着したるは九時半を過ぎたり。而して歸艦したるは殆ど午後二時なりとす。陸上に在ること三時間計り。

   *

「黃金山」大連湾の約五十キロメートル弱南西にある旅順の非常に狭い湾口の、北の岬のピーク、現在の大連市旅順口区黄金山。砲台があった。かなり長いが、この最後の二連に圧縮された事実を確認するために、「愛弟通信」の「艦隊の旅順攻擊」の全文を全集から引用する(前と同じ仕儀とした。一部、改行の有無の判別し難い部分があったが、国立国会図書館デジタルコレクションの単行本「愛弟通信」(明四一(一九〇八)年十二月左久良書房刊)で校合した。但し、同単行本は遙かに改行を施してあり、底本全集とは異同がある)。特に関連の強い箇所を太字で示した

   *

     艦隊の旅順攻擊

       千代田艦にて

愛弟

吾第二軍の花園口に上陸したる以來殆ど一ケ月、玆に愈〻旅順口の大攻擊となりけり。二十一日こそ海陸總掛りの當日なりければ、吾も今度こそは愈〻海軍の方にも多少の抵抗を受け、少しは目覺ましき戰もあることならんと、前以て大に樂しみ居たり。

二十一日午前一時、吾が艦隊大連灣を發す。大連灣に居殘りたるは第三遊擊隊のみ。此の居殘る軍艦こそ氣の毒の至りなれ。

先づ本隊には松島、千代田、嚴島、橋立第一遊擊隊には吉野、高千穗、秋津洲、浪速、第二遊擊隊には扶桑、比叡、金剛、高雄、第四遊擊隊には筑紫、赤城、大島、摩耶、愛宕、鳥海、之れに加ふるに水雷艇九艘を以てす。而して特務艦なる八重山は、前日已に威海衞偵察のため先達したり。[やぶちゃん注:「威海衞」(いかいゑい)は現在の山東省最東部に位置する威海市。渤海の湾口の南の遼東半島端に当たる。]

是より先き陸軍にては、已に旅順方面に向て進擊し、敵軍の全く旅順港内に退却する迄に、我が軍に士官三名、下士十四名、兵卒三十二名の死傷を生じたる程の戰ありしなり。其の砲聲の大連灣に聞こへたることは前信申上げたる如くなり。

されば二十一日の戰こそ、旅順口の運命の決する所、敵は所謂る袋の中の鼠、如何に臆病風に吹きまくられたる支那兵と雖も、死もの狂ひに戰ふ可ければ、戰(いくさ)は必ず猛烈なるべしとは兼て待設(まちまう)けし所なりき。昨日の事今日より顧みれば、夢見し如くにて昨日の事とも思はれず。已に十年の昔しの樣なる心地す。

午前一時、我が艦隊が大連灣を出で行きし光景は、定めて壯觀なりしならんも、余は猶ほ熟睡のうちに在りし。

突然呼び起すものあり。藤木少尉なり。戰(たゝかひ)は已に始まれりといひ捨てゝ去りぬ。サテは寢過したるかと、衣も匇々に着更へて甲板に躍り出たるに、夜は未だ明けざりけり。

艦隊は今しも旅順口の前面、數哩のあたりを通過しつゝあるなり。則ち右舷に旅順の山艦を見つゝ進むなり。遙かに明滅するものは何ぞやと問ひしに、是れ金州半島の極端、老鐡山の一角に立つ燈臺の光なりき。[やぶちゃん注:この南端附近か(グーグル・マップ・データ)。]

第四遊擊隊は已に砲擊を始め居たり。砲臺より放つ大砲の彈丸やゝもすれは、吾が軍艦の船體近く落つるを見たり。東天の金雲(きんうん)次第に其の色あせると共に、夜は全く明けなんとす。

陸上盛んに砲聲を聞く、南軍已に接したるなり。亙砲を連發するが如くなるは、砲戰の猛烈なるを推し得べし。吾が艦隊は只だ此等の光景を眺めつゝ、旅順口の前面を一直線に進みゆく。

八重山艦威海衞より歸り來り報じて曰く、港内の模樣前日の如く、敵艦出で來る樣子なしと。支那艦隊は旅順口を見殺しにせんとす。

旗艦已に老鐡山の沖合に來るや、左轉して再び旅順の前面を通過せんとす。

かくて我等は再び旅順の前面に來り、多少其の模樣を觀察し得たり。陸上の砲擊斷續す。惜ひ哉、艦隊は砲臺よりの砲擊を避け、常に遠隔離に在りて望觀すること故、望遠鏡を以てするも、猶は十分に陸上の事條(じぜう)を見る能はざりき。

旗艦更らに方向を轉換して、三度(みた)び旅順の前面を通過せんとす。

旗艦命(めい)を下して、水雷艇をして諸艦の左側に來らしむ、見る見る水雷艇矢の如く馳せて艦と艦との間を通過せり。暫時にして其の隊形を整へ、常に砲臺より諸艦を蔭にして進む。

不思議にも海岸砲臺よりは、一發も艦隊に向て砲發せざる也。思ふに全力を背面防禦にあつめしならん。吾が陸軍の苦戰思ふ可し。

旗艦此の度は、方向を左側に轉換せずして、少しく右に折れ、直ちに老鐡山を右舷に、鳩灣の方を指して遙かに旅順の側面に進む。[やぶちゃん注:「鳩湾」後の日露戦争のウィキの「旅順攻囲戦」にある当時の地図によって、旅順から南の老鐡山を廻り込んで、渤海側に入った最初の東に貫入した半島南西部の湾であることが判る。]

忽ち前程に煤煙を認めたり。之れ滊船(きせん)なり。旗艦命じて、第一遊擊隊、則ち吉野以下をして、急に之を檢察せしむ。命を受けて第一遊擊隊は直に列を出で急馳(きふち)して、本隊以下の前程に突進せるを見たり。

彼の滊船は小蒸滊なりき。鳩灣に逃げ込みしかば、水淺くして大艦窮追(きゆうつゐ)するを得ず、吉野乃(すなは)ち旗艦に水雷艇を以て捕獲すべきを請ふ。吉野を以て鷲(わし)に比すべくば水雷艇は實に鷹なり。

小鷹號以下の水雷艇數艘、籔林(そうりん)にひそみたる雀を捕ふる如くに、苦もなく鳩灣の奧にかくれたる彼の小蒸規を捕へたり。小蒸滊は不思議にも英船なりき。不思議にも、實(じつ)に不思議にも。[やぶちゃん注:この時に先立つこと、僅か三ヶ月前の明治二七(一八九四)年七月十六日に「日英通商航海条約」が締結されており、大英帝国は日清戦争に対して中立の立場を示していた。]

小蒸滊名を金龍といふ、蓋し大沽あたりの曳船(ひきふね)なり。旗艦忽ち之を放ちやりぬ。雀は喜ばしげに逃げ去りぬ。始終吾が艦隊に附隨して見物してありし、英國軍艦ポーポイズは『感謝す』の旗信をなして、小蒸滊の跡を追ひたり。吾れ何となく狂言を見る心地せりき。其の小蒸滊何の恐るゝ所ありて鳩灣に逃げ込みしか、逃げ込みしに非ずとせば何の用ありて鳩灣に入(い)りしか、而して斯(かゝ)る疑惑を被り易き老を放ちたるに際し、不思議にも英の軍艦は感謝せり。是れ吾れの見擊(けんげき)したる事實なり。[やぶちゃん注:「大沽」(たいこ)は現在の渤海湾奥西の天津市浜海新区(旧塘沽(とうこ)区)内の地名。天津から海河に沿って南東に下った河口地域。ここ(グーグル・マップ・データ)。「英國軍艦ポーポイズ」大英帝国の十二門の軍艦「ポーパス」(Porpoise:意味は「イルカ」或いは「ネズミイルカ」(哺乳綱獣亜綱鯨偶蹄目ハクジラ亜目マイルカ上科ネズミイルカ科 Phocoenidae)を指す)。]

鳩灣の口まで入り込みたるは乃ち吾が千代田號なり。千代田尚ほ本隊の列に在る時、鳩灣の右岸なる丘上(きうじやう)に、烏の如く集り、蟻の如く動く者を見る。忽ち丘上に現はれ、忽ち背後にかくる。散じては集り、集りては散ず。よくよく見れば支那兵なり。

旗艦、千代田に命あり、丘上のもの若し支那兵ならば、進みて砲擊せよと。是に於て千代田は列を出でゝ、鳩灣近く進みゆきぬ。

先づ丘上に向て二發を放つ。憫(あはれ)む可し支那兵、已に吾が陸軍の追ひまくる所となり、袋底(たいてい)全く遁れ出づる所もなくして[やぶちゃん注:「袋底」は不詳。「囊底」(なうてい(のうてい))と同じだとして、深く隠れ逃げ込むところが最早ないことを強調しているものとは思われる。]、僅かに此の丘上に落ちのびたりと思へば、忽ち海面より巨丸頭上に飛び來りて破裂す。見よ、蛛(くも)の子を散らす如しとは此の事なり。十二サンチ砲の榴彈彼等の眞上に破裂せしよと見る間に、今まで集りたる一群、パツト散り亂れて山腹指してサツト駈け下り、谷の如く凹みたる處にひれ伏す。進退維(これ)谷(きはま)るとは是より出でしならめなど笑(わらつ[やぶちゃん注:ママ。])て許す。これも一時の興とは言へ、敵ながら氣の毒の思ひありたり。[やぶちゃん注:「榴彈」榴弾砲の弾。榴弾砲は十七世紀頃に一般化した火砲で、平射で長距離を狙う「カノン砲」と、曲射で近距離を狙う「臼砲(きゅうほう)」の中間型の砲種として、火砲の基本的な型の一つとなった。本来の榴弾砲は、臼砲と同様に、援護物後方の目標を攻撃し、また、砲台や軍艦甲板を上方から破壊するのが目的であるが、臼砲よりも弾速や射程が勝っている。近代以後,口径十センチメートル内外の野戦榴弾砲が戦場で重宝がられるようになり、日本の後の旧陸軍では重・軽の二種を用い、軽榴弾砲は口径 十センチメートル、最大射程一万メートル、重榴弾砲は口径十五センチメートルで最大射程は一万五千メートルであった(以上は「ブリタニカ国際大百科事典」に拠った)。但し、ここでは巡洋艦「千代田」の主砲であったアームストロング十二センチ(四十口径)単装速射砲の打ち出したものである。]

なほ進みて、灣内の陸上に向て二發を放ちぬ。

左岸の丘上に隊伍嚴然として整列せる者を見出しぬ。まぎれもなき吾が皇軍の一部なりき。ズボンは赤く胸には黃條(わうじやう)をかけたり。之れ騎兵に非ずや。皆な馬より下りて息(いこ)ふものゝ如し。山頂に馬を立つる一騎あり。視點(してん)何處をか指すぞ。列をはなれて集まる數人(すにん)あり。議する事何ぞ。

千代田列(れつ)に歸り、艦隊又旅順口の前面に向て航す。日已に西に傾く。

海面を拔くこと一千五百尺の老鐡山、半ばは密雲(むつうん)の閉ざす處となりぬ。遙かに旅順の丘を見渡すに黑雲(こくうん)低く垂れて、光景極めてものすごし。[やぶちゃん注:「一千五百尺」四百五十四・五四メートル。ある学術論文のデータでは、現在の正式な老鉄山の標高は四百六十五・六メートルである。]

陸戰の模樣如何と心配し乍ら進みゆくうち、一信を得たり。旅順右側の砲臺は已に吾軍の占領する處となりたりとの事、先づは一安心と思ふ間もなく、突然左側海岸砲臺の一個より、吾が艦隊に向て射擊をはじめたり。

第一に落下したる彈丸は、橋立、嚴島の艦側百間(?)計り[やぶちゃん注:凡そ百八十二メートル。]の處に落ち、潮水(てうすゐ)直立して空中にはね上る事數丈もあらんかと思はれ、其の勢の猛烈なること、嘗て陸上にて想像せしが如き者に非ず。一發又一發遠く落ち近く墮(お)つ。

砲臺より白煙起りし時は、則ち發砲せし時なり。今か今かと思ひつゝ、何處(いづこ)に落つるぞと、見廻はすうち、一秒もいや長く感じて、やゝ暫くして轟然と海中に落つ。彈丸海中に落つるや否や、砲聲遠雷の如く響き、彈丸の空をきる音、雲も亦振動するかと思はるゝ程の、一種魂の底に沁み渡るが如き響を以て來る。白煙バツと發し、彈丸落下するまで、今か今かと待つ時など、餃り氣味のよきものに非ず。

玆に可笑(をか)しかりしは、彼の英國軍艦ポーポイズが何心なく、砲臺のもとを通過せんとしたる時、支那兵已に非常に狼狽したるならめ、忽ち英艦に向て發砲したり。二丸船尾近く海水に落ちぬ。ポーポイズ先生の驚きは如何、全速力を以て沖合に向け馳逃(はせに)げたり。

砲臺より頻りに擊ちたれども、幸にして一發も達せず、吾が艦隊よりは一發も應戰せずして悠々然と通過したり。

日は暮れなんとす。風雲益〻慘憺(さんたん)を加ふ。見る! 旅順の入口より滊船走り出でたり。水雷艇は波を蹶(けつ)て驀地(まつしぐら)に追かけたり。後(のち)の報告に曰く、滊船自から陸に乘り揚げたりと。

更らに一信を得、曰く吾が陸軍已に背面防禦の一部を破りたり、今夜か明朝のうち海岸砲臺に迫まる筈なれば、艦隊よりの射擊は停止せられたし云々。

顧みれば旅順海岸の連山、今や全く雲の底に埋(うづ)まりぬ。雨や降る、雪や來る、風や襲ふ、何か無くては叶ふまじき光景なり。天も亦昏(くら)し、艦上に默(もく)して立つ人をして、愴然として淚あらしむ。

今夜此の如く漫航し、明朝再び旅順に歸るべし、陸戰の結果を見るぞ樂しみなる、など語りて吾れ早く寢(ね)たり。

烈風果して襲ひ來りぬ。艦隊列を解き、思ひ思ひに大連灣指して一先づ引き揚げたるは今朝(こんてう)なり。

   *

「報あり放順落つと」ウィキの「日清戦争」によれば、同年九月二十一日、「黄海海戦」『勝利の報に接した大本営は』『旅順半島攻略戦を実施できると判断し、第二軍の編成に着手した』。『その後、まず第一師団と混成第十二旅団(第六師団の半分)を上陸させ(海上輸送量の上限)、次に旅順要塞の規模などを偵察してから第二師団の出動を判断することにした』。十月八日、『「第一軍と互いに気脈を通し、連合艦隊と相協力し、旅順半島を占領すること」を第二軍に命じ』、二十一『日、第二軍は、海軍と調整した結果、上陸地点を金州城の東・約』百キロメートル『の花園口に決定した』。『第一軍が鴨緑江を渡河して清の領土に入った』二十四日、『第二軍は、第一師団の第一波を花園口に上陸させた。その後、良港を求め、西に』三十キロメートル『離れた港で糧食・弾薬を揚陸』、十一月六日、『第一師団が金州城の攻略に成功』、十四日には、『第二軍』が『金州城の西南』五十キロメートルの『旅順を目指して前進』を開始し、十八日には『偵察部隊等が遭遇戦を行った』。十一月二十一日、『総攻撃をかけると』、『清軍の士気などが低いこともあり』(約一万二千人の清の兵士の内、約九千人が新規募集兵であった)、翌二十二日までに『堅固な旅順要塞を占領した。両軍の損害は、日本軍が戦死』者四十名、戦傷者二百四十一名、行方不明七名に『対し、清軍』の戦死者は四千五百名(内、金州(大連)及び金州から旅順までの戦闘で約二千名)で、捕虜は六百人であったとある。]

2019/03/21

柳田國男 山島民譚集 原文・訓読・附オリジナル注「河童駒引」(39) 「河童の神異」(5)

《原文》

 所謂夏越祭又ハ牛ノ藪入ノ趣旨ハ多クハ牛馬ノ疫病ヲ防グ爲ナリト云フモ、又異ナリタル口碑ノ存スルアリ。例ヘバ備後ノ福山附近ニテハ、七月七日ニ牛馬ヲ海川ニ引入レテ置ケバ、年中河童ノ災難ニ遭フコト無シト信ゼラレタリ〔風俗問狀答書〕。【野牧】【河童ノ祭】曾テ河童ガ馬ヲ引込マントシテ失敗セシ古跡、土佐長岡郡ノ下田ナドニテハ、每年六月十五日ニ家々ノ馬ヲ川端ニ引出シ、長キ綱ヲ以テ之ヲ杭ニ繫ギ置クヲ野牧ト稱シ、此ノ日ハ又河童ノ祭ヲ營ム〔土州淵岳志〕。遭難當時ヲ記念スル爲ニ年々同ジ作法ヲ繰返スモノカ、但シハ又斯ル慣習アル爲ニ此傳說ヲ發生セシモノカ、之ヲ判斷セザルべカラザルハ我々ナリ。思フニ猿ノ水中ニ住ムニ至リシモ、段々ノ順序ヲ考ヘテ見レバ必ズシモ非常ニ不自然ニハ非ズ。川ノ流ノ淵ヲ爲ス場處ヲ諸國ニテハ多クハ釜ト云フ。【竃ノ祭】釜ハ英語ノ「ポツト」ナドトハ別ニテ、周圍ヲ巖石ニテ圍ハレ一方ニノミ開ケルサマ、ホボ竃ノ形ニ似テ居ルガ爲ノ名ナルガ如ク、昔ヨリ之ヲ竃ノ神ノ祭場ニ用ヰタリシガ如シ。陸上ニテモ岩ノ形ノ竈ニ似タル處ヲ崇敬シタル例ハ多シ。巫女ノ宗教ニ於テハ生命ノ根原トシテ食物調製ノ爲ニ用ヰラルヽ竃其物ヲ祭ル風アリキ。貴人大家ナラバ家々ノ竃ニ就キテ其祭ヲ營ミシナランモ、一村一鄕合同ノ竃祭ニハ、天然ノ地形ノ竈ニ似タル處、卽チ前ニ屢擧ゲタルガ如キ川々ノ淵、又ハ山中ノ岩組ノ中凹ナル處ナドヲ其祭場ニ選定セシモノナラン。【馬ト竃】而シテ竃ノ神ト馬トハ夙クヨリ深キ關係アリキ。此ハ馬ノ蹄ノ痕ガ昔ノ時代ノ竈ノ形ト似テ居タリシ爲カ、或ハ又竈ハ火ノ神ナルガ故ニ午ニ相當スル馬ヲ以テ其ノ象徵トシタルモノカ、未ダ充分ニ其理由ヲ知ル能ハザルモ、兎ニ角二者ノ關係アリシコトノミハ疑無シ。馬ノ鞋ヲ作リテ初春每ニ之ヲ竃ノ神ニ供ヘ、馬ノ繪札ヲ竃ノ傍ニ貼附ケ、或ハ又生レシバカリノ馬ノ子ヲ曳キテ竈ノ神ヲ拜マシムルガ如キ風習ノ、今モ各地ニ行ハルヽモノ甚ダ多シ。牛ニ就キテモ之ニ似タル例アリ。例ヘバ羽後北秋田郡阿仁合(アニアヒ)町ニテハ、十二月二十八日ニ竈ノ神ノ祭アリ。宮ノ神主ハ一枚ノ紙ニ三十六ノ牛ヲ印刷シタルモノヲ家每ニ配リタリ。昔伊勢ニテ三十六頭ノ牛物ヲ運ビテ功アリ。【飯盛】御炊(ミカンキ)ノ神氷沼道主(ヒヌマノミチヌシ)、三十六ノ「ヘツヒ」ノ神ヲ率ヰテ朝夕ノ大御食(オホミケ)ヲ炊キ供フト云フ故事ニ基クカト云ヘリ〔眞澄遊覽記二十三〕。但シ其故事何ニ見ユルカヲ知ラズ。此等ノ關係ヨリ察スレバ、竃ノ神ノ祭場ガ同時ニモシクハ時代ヲ經テ、牛馬ノ神ノ祭場トナルコト無シト云フべカラズ。而シテ所謂河童ガ牛馬ノ神トシテ常ニ水邊ノ祭場ニ居住スト考ヘシモ亦自然ノ推測ト謂フべキナリ。但シ氣紛レニ人間ノ子供ニ迄モ手ヲ出セシガ爲ニ、其正體ガ甚シク不明ト爲リ、此ノ如ク後世ノ硏究者ニ手數ヲ掛クルニ至リシナリ。

《訓読》

 所謂、「夏越祭」又は「牛の藪入り」の趣旨は、多くは牛馬の疫病を防ぐ爲なりと云ふも、又、異(こと)なりたる口碑の存するあり。例へば、備後の福山附近にては、七月七日に牛馬を海川(うみかは)に引き入れて置けば、年中、河童の災難に遭ふこと無しと信ぜられたり〔「風俗問狀答書(ふうぞくとひじやうこたへ)」〕。【野牧(のまき)】【河童の祭】曾つて河童が馬を引き込まんとして失敗せし古跡、土佐長岡郡の下田などにては、每年六月十五日に家々の馬を川端に引き出だし、長き綱を以つて之れを杭(くひ)に繫ぎ置くを「野牧」と稱し、此の日は又、河童の祭を營む〔「土州淵岳志」〕。遭難當時を記念する爲に年々同じ作法を繰り返すものか、但しは、又、斯かる慣習ある爲に此の傳說を發生せしものか、之れを判斷せざるべからざるは、我々なり。思ふに、猿の水中に住むに至りしも、段々の順序を考へて見れば、必ずしも非常に不自然には非ず。川の流れの淵を爲す場處を諸國にては多くは「釜(かま)」と云ふ。【竃(かまど)の祭】釜は英語の「ポツト」[やぶちゃん注:pot。]などとは別にて、周圍を巖石にて圍はれ。一方にのみ開けるさま、ほぼ竃の形に似て居るが爲の名なるがごとく、昔より之れを竃の神の祭場に用ゐたりしがごとし。陸上にても、岩の形の竈に似たる處を崇敬したる例は多し。巫女(ふぢよ)の宗教に於ては生命の根原として食物調製の爲に用ゐらるゝ竃其の物を祭る風ありき。貴人大家ならば家々の竃に就きて其の祭を營みしならんも、一村一鄕合同の竃祭には、天然の地形の竈に似たる處、卽ち、前に屢々擧げたるがごとき川々の淵、又は、山中の岩組みの中凹(なかくぼ)なる處などを、其の祭場に選定せしものならん。【馬と竃】而して竃の神と馬とは夙(はや)くより深き關係ありき。此れは、馬の蹄(ひづめ)の痕(あと)が昔の時代の竈の形と似て居たりし爲か、或いは又、竈は「火」の神なるが故に「午(うま)」に相當する「馬」を以つて其の象徵としたるものか、未だ充分に其の理由を知る能はざるも、兎に角、二者の關係ありしことのみは疑ひ無し。馬の鞋(わらぢ)を作りて、初春每に之これを竃の神に供へ、馬の繪札を竃の傍らに貼り附け、或いは又、生れしばかりの馬の子を曳きて、竈の神を拜ましむるがごとき風習の、今も各地に行はるゝもの甚だ多し。牛に就きても之れに似たる例あり。例へば、羽後北秋田郡阿仁合(あにあひ)町にては、十二月二十八日に竈の神の祭あり。宮の神主は、一枚の紙に三十六の牛を印刷したるものを家每に配りたり。昔、伊勢にて三十六頭の牛、物を運びて功あり。【飯盛(いひもり)】御炊(みかしき)の神氷沼道主(ひぬまのみちぬし)、三十六の「へつひ」[やぶちゃん注:「竃(へつつい(へっつい)」。「かまど」の主に関西での呼称。]の神を率ゐて、朝夕の大御食(おほみけ)を炊き供ふと云ふ故事に基づくかと云へり〔「眞澄遊覽記」二十三〕。但し、其の故事、何に見ゆるかを知らず。此等の關係より察すれば、竃の神の祭場が同時に、もしくは、時代を經て、牛馬の神の祭場となること、無しと云ふべからず。而して、所謂、河童が牛馬の神として常に水邊の祭場に居住すと考へしも亦、自然の推測と謂ふべきなり。但し、氣紛(きまぐ)れに人間の子供にまでも手を出だせしが爲に、其の正體が甚しく不明と爲り、此くのごとく、後世の硏究者に手數を掛くるに至りしなり。

[やぶちゃん注:「備後の福山附近にては、七月七日に牛馬を海川(うみかは)に引き入れて置けば、年中、河童の災難に遭ふこと無しと信ぜられたり〔「風俗問狀答書(ふうぞくとひじやうこたへ)」〕」「備後の福山」現在の広島県福山市(グーグル・マップ・データ)。たまたまこの引用書の読みを確認するために調べたところが、国立国会図書館デジタルコレクションの画像で当該ページを調べ得た。ところが、その「備後浦崎村風俗問狀答」パートの「七月」の「七日星祭の事」には、

   *

牛を海へ追行、汐をかけ洗申候。

   *

あるだけで、そうし「て置けば、年中、河童の災難に遭ふこと無しと信ぜられたり」という記載はどこにも、ないのだ! 危うく、柳田國男に騙されるところだった! 不愉快!!!

「土佐長岡郡の下田」今回、地名変遷を順に辿ってゆくと、ここは現在の高知県南国(なんごく)市稲生(いなぶ)地区内(グーグル・マップ・データ)にあったことが判明した。しかもこの地図、見覚えがあると思ったら、「馬ニ惡戲シテ失敗シタル河童」(3)」で既注であった。そこに出る「河童の祭」の注を再掲する。そこには確かに河童を祀った「河泊(かはく)神社」が現存するのである。サイト「Web高知」の「稲生のエンコウ祭―河泊様―」の解説によれば、旧暦六月十二日に「エンコウ祭り」が今も行われている。位置は同サイトの別ページで、ここ。判り難い方のために。正規のグーグル・マップ・データのこの中央辺りである。サイト「日本伝承大鑑」の「河泊神社」によれば、『この神社の来歴は未詳であるが、かつてこの地にあった円福寺の境内に漂須部(ひょうすべ)明神という社があり、それが改称されて存続したのではないかとも考えられる』(「ひょうすべ」『も河童の異称である)』。『毎年』七『月に河泊祭りがおこなわれており、地元の人も「河泊様(かあくさま)」と呼んで崇敬しているという。祭りでは、近くの小学生による奉納相撲がおこなわれ』る、とある。そこで私は『但し、ここで柳田が言っている「下田」村で行われていたという「河童の祭」と同一のものかどうかは定かではない』としたが、ここの記載から間違いないことが確定したと言ってよい。但し、現在、その祭事は「六月十五日」ではなく、旧暦「六月十二日」である。これは柳田國男が誤ったものかどうかは、「土州淵岳志」を見られないので判らぬ

「巫女(ふぢよ)の宗教に於ては生命の根原として食物調製の爲に用ゐらるゝ竃其の物を祭る風ありき」私は思うに、竈が祀られる真の意味は形が食物を調製するからではなく、竈の形が子宮を連想させるからであると考える。いや、食物絡みでもいい。そもそもが保食神(うけもちひのかみ)はその「火登(ほと)」(陰部)から麦・大豆・小豆を生んでいるのだから。南方熊楠先生なら、私のこの物言いに、ニッコリ笑って頷いて戴けるものと存ずる。

『竈は「火」の神なるが故に「午(うま)」に相當する「馬」を以つて其の象徵としたるものか』五行思想で「火(か)」は方位で南=「午」である。しかしどうも、説得力に欠く謂いである。

「羽後北秋田郡阿仁合(あにあひ)町」現在の秋田県北秋田市阿仁地区(グーグル・マップ・データ。以下同じ)。幾つかの神社を認めるが、果たして現在も「十二月二十八日に竈の神の祭」があり、「宮の神主」か「一枚の紙に三十六の牛を印刷した」「ものを家每に配」っているかどうかは確認出来なかった。郷土史研究家の御教授を乞うものである。ただ当地には「阿仁郷土文化保存伝承館」(北秋田市阿仁銀山下新町)なるものがあるので、ここに行けば、或いは判るかも知れぬ。

「伊勢にて三十六頭の牛、物を運びて功あり」不詳。識者の御教授を乞う。

「飯盛(いひもり)」以下の文章から、テキトーに訓じた。

「御炊(みかしき)の神氷沼道主(ひぬまのみちぬし)」「御炊」は辞書的には「内膳司の官人。また、一般に貴人の食事の準備をする者」或いは「貴人の食事を調える場所」の意であるが、ここは厨房の神ということらしい。「氷沼道主」というのはよく判らぬが、ある記載(複数)には「粟御子神」「粟嶋坐神乎多乃御子(あはしまにますかみをたのみこ)」の子孫とあるが、これらの神がまた、その人らの解説を読んでも、どんな神なのか一向に判らぬ。お手上げ。まあ、柳田國男自身が「其の故事、何に見ゆるかを知らず」と言っているんだから、しゃあないか。

「大御食(おほみけ)」天皇の食べる食物。「大御饗(おほみあへ)」に同じ(「おほみ」は接頭語)。]

和漢三才圖會卷第三十八 獸類 野豬(ゐのしし) (イノシシ)

Inosisi



ゐのしゝ

野豬

     【和名久佐

      井奈岐

      俗云井乃

      之々】

本綱野豬有深山形如豬但腹小脚長毛色褐或黃作羣

行牙出口外如象牙其肉有至二三百斤者能與虎闘或

云能掠松脂曳沙石塗身以禦矢也最害田稼亦啖蛇虺

獵人惟敢射最後者若射中前者則散走傷人

肉【甘平】 治癲癇補肌膚益五臟【青蹄者不可食忌巴豆】其肉赤如馬

 肉食之勝家豬牝者肉更美

                  爲家

 新六はた山の尾上つゝきのたかゝやにふすゐありとや人とよむらん

△按野豬怒則背毛起如針頸短不能顧左右觸牙者無

 不摧破如爲獵人被傷去時人詈謂汝卑怯者蓋還乎

 則大忿怒直還進對合與人决勝負故譬之猛勇士惟

 突傷鼻及腋則斃

――――――――――――――――――――――

嬾婦獸 出嶺南似山豬而小善害田禾惟以機軸紡織

 之噐置田所則不復近也

ゐのしゝ

野豬

     【和名、「久佐井奈岐〔(くさゐなき)〕」。

      俗に云ふ、「井乃之々」。】

「本綱」、野豬は深山に有り。形、豬〔(ぶた)〕のごとく、但〔(ただ)〕、腹、小さく、脚、長く、毛の色、褐、或いは、黃。羣行を作〔(な)〕す[やぶちゃん注:群れを成して行動する。]。牙、口の外に出でて、象の牙のごとし。其の肉、二、三百斤[やぶちゃん注:明代の一斤は五百九十六・八二グラムであるから、百十九キロ強から百七十九キログラムに当たる。実際のイノシシの成体個体としては正当な数値である。後注の下線太字部参照。]に至る者、有り。能く虎と闘ふ。或いは云ふ、能く松脂〔(まつやに)〕を掠〔(りやく)〕して[やぶちゃん注:擦り採って。]、沙石に曳き、身に塗りて、以つて矢を禦ぐ〔と〕。最も田稼〔(でんか)〕[やぶちゃん注:田畑の作物の総称。]を害し、亦、蛇・虺〔(まむし)〕を啖(くら)ふ。獵人、惟だ、敢へて〔群れの〕最も後〔(しり)〕への者を射る。若〔(も)〕し、射て、前の者に中〔(あた)〕るときは、則ち、散走して人を傷つくる。

肉【甘、平。】 癲癇を治し、肌膚を補し、五臟に益あり【青〔き〕蹄〔(ひづめ)〕の者〔は〕食ふべからず。巴豆〔(はづ)〕を忌む。】。其の肉、赤く、馬の肉ごとし。之〔れを〕食〔ふに〕、家-豬(ぶた)に勝れり。牝(め)は、肉、更に美なり。

                  爲家

 「新六」

   はた山の尾〔(を)の〕上〔(へ)〕つゞきのたかゝやに

      ふすゐありとや人とよむらん

△按ずるに、野豬(ゐのしゝ)、怒れば、則ち、背の毛、起ちて針のごとし。頸、短く、左右を顧みること能はず。牙に觸るる者、摧(くじ)き破(わ)らざるといふこと無し。如〔(も)〕し、獵人(かりうど)の爲に傷(きづ)ゝけられて去る時、人[やぶちゃん注:その猟人。]、詈(のゝし)りて「汝、卑怯(ひきよ〔う〕)者、蓋〔(なん)〕ぞ還(かへ)さざるや」〔と言へば〕、則ち、大きに忿-怒(いか)りて、直ちに還り、進んで對し、合〔(がつ)〕して、人と勝負を决す。故に、之れを「猛き勇士」に譬〔(たと)〕ふ。惟だ〔し〕、鼻及び腋〔(わき)〕を突き傷つくれば、則ち、斃〔(へい)〕す[やぶちゃん注:斃(たお)れ死す。]。

――――――――――――――――――――――

嬾婦獸〔(らんぷじう)〕 嶺南に出づ。山豬(ゐのしゝ)に似て、小さく、善く田〔の〕禾〔(いね)〕を害す。惟だ〔し〕、機軸(はたをり)・紡織の噐〔(き)〕を以つて田の所に置かば、則ち、復た〔とは〕近かづかざるなり。

[やぶちゃん注:本邦の本土(北海道を除く)産は哺乳綱鯨偶蹄目イノシシ亜目イノシシ科イノシシ属イノシシ亜種ニホンイノシシ Sus scrofa leucomystax。他に亜種リュウキュウイノシシ Sus scrofa riukiuanus が南西諸島(奄美大島及び琉球諸島の一部(沖縄島・石垣島・西表島等)に分布する(以下に引用するように八重山諸島の群を別亜種として三亜種とする主張や、これらは亜種ではない同属のタイプ種とは別種とする説もある)。ウィキの「イノシシ」を引く。良安も述べている通り、『「猪突猛進」という成句がある』ように、『突進力が強い半面、犬と同じくらい鼻が敏感で、神経質な動物でもある。本種の家畜化がブタである』。『学名は「Sus scrofa」であり、リンネによる命名である。ウシやウマなど他の家畜の学名では野生種より前に家畜種に命名されている例が多々あり、先取権の点から問題となった(審議会の強権により解決された)が、イノシシとブタの間ではそのような問題は起きなかった。古い大和言葉では「ヰ(イ)」と呼んだ。イノシシは「ヰ(猪)のシシ(肉)」が語源であり、シシは大和言葉で「肉」を意味する(「ニク」は音読みの呉音)。現代中国語では、「猪(豬)」の漢字は主にブタの意味で用いられており、イノシシは「野猪(豬)」と呼んで区別する。』。『元来はアジアやヨーロッパなどを中心に生息していた。人間によってイノシシまたはその家畜化されたブタが再野生化したものがアメリカ大陸やオーストラリア大陸などにも放され、爆発的に生息域を広げることになった。分布地域によって個体に大きな差があり、米国アラバマ州では体長約』二・八メートル、体重約四百七十キログラムにも達する『巨大なイノシシが過去には仕留められている。中国東北部のイノシシも体重』三百キログラム以上に達する個体も『ある。日本には北海道を除いてニホンイノシシとリュウキュウイノシシの』二『亜種』乃至『八重山諸島のグループをさらに分けた』三『亜種が分布する。いずれもイノシシの亜種ではなく、別種として分類すべきとの議論もなされている』。なお、ニホンイノシシの場合は性的二型で、よりも小さく、体長はで百十~百七十センチメートル、で百~百五十センチメートル、肩高は六十~九十センチメートル、尾長は三十~四十センチメートル、体重は八十~百九十キログラム(岐阜市で約二百二十キログラムもの個体が捕獲されたことがある)『古くから狩猟の対象とされてきた動物の一つであるが、非常に神経質で警戒心の強い動物である。普段より見慣れないものなどを見かけると、それをできるだけ避けようとする習性がある』。『非常に突進力が強く、ねぐらなどに不用意に接近した人間を襲うケースも多い』。イノシシの成獣個体は七十キログラムか、それ以上の体重を有し、さらに、時速四十五キロメートルで走ることも『可能であり、イノシシの全力の突撃を受けると、大人でも跳ね飛ばされて大けがを負う危険がある。オスの場合には牙も生えているため、たとえ立ち止まっている場合でも』、『オスの場合は鼻先をしゃくり上げるようにして牙を用いた攻撃を行う。オスの牙は非常に鋭く、訓練された猟犬であっても』、『縫合が必要な大きな裂傷や深い刺傷を負う場合があり、作業服程度の厚さの布も容易に切り裂いてしまうという』。『この牙による攻撃は』、丁度、『成人の太ももの高さに当たるため、人間が攻撃された場合、大腿動脈を破られて失血死するケースが多く、非常に危険である』。『メスは牙が短い為、牙を直接用いた攻撃をする事は少ないが、代わりに大きな顎で噛み付く場合がある。メスであっても』、『小動物の四肢の骨程度であれば』、『噛み砕く程の力がある』(イノシシだけではない。私は二十数年前、養豚場のブタが、飼い主の老婦人の臀部に噛みつき、同人が出血性ショックで亡くなった事件を知っている)。『多くの匂いに誘引性を示し、ダニ等の外部寄生虫を落としたり』、『体温を調節したりするために、よく泥浴』『・水浴を行う。泥浴・水浴後には体を木に擦りつける行動も度々観察される』(本文の「松脂」云々の記載はそれを誤認したものであろう。そのように意識的に汚した体表毛は時に硬く固まって鎧のような効果も持つように思われる)。『特にイノシシが泥浴を行う場所は「沼田場(ヌタバ)」と呼ばれ、イノシシが横になり転がりながら全身に泥を塗る様子から、苦しみあがくという意味のぬたうちまわる(のたうちまわる)という言葉が生まれた』。『生息域は低山帯から平地にかけての雑草が繁茂する森林から草原であり、水場が近い場所を好む。食性は基本的に山林に生えている植物の根や地下茎(芋など。冬場は葛根も食べる)、果実(ドングリなど)、タケノコ、キノコなどを食べる、草食に非常に偏った雑食性(植物質:動物質≒9:1)である。芋類は嗅覚で嗅ぎ付け、吻と牙で掘り起こして食べる。動物質は季節の変化に応じて昆虫類、ミミズ、サワガニ、ヘビなどを食べる。食味が良く簡単に手に入れられる農作物を求めて』、『人家近辺にも出没することがある。穀物も採餌対象であり、田畑で実った稲』『やトウモロコシも食害に遭う。鳥類やアカシカなど小型哺乳類なども採餌し、死骸が落ちていた時に食餌する。基本的には昼行性で日中に採餌のため徘徊し、人間活動による二次的な習性で夜行性も示す』。『野生下での寿命は長くて』十『年であり、一年半で性成熟に達する。幼少期にはシマウリ(縞瓜)に似た縞模様の体毛が体に沿って縦に生えており、成体よりも薄く黄褐色をしている。イノシシの幼少期は天敵が多く、この縞模様は春の木漏れ日の下では保護色を成す。その姿かたちからウリ坊(ウリン坊とも言う)、うりんこ、うりっことも呼ばれ、この縞模様は授乳期を過ぎた生後約』四『か月程度で消える』。『繁殖期は』十二『月頃から約』二『か月間続く。繁殖期の雄は食欲を減退させ、発情した雌を捜して活発に徘徊する。発情雌に出会うと、その雌に寄り添って他の雄を近づけまいとし、最終的にはより体の大きな強い雄が雌を獲得する。雌の発情は約』三『日で終わり、交尾を終えた雄は次の発情雌を捜して再び移動していく。強い雄は複数の雌を獲得できるため、イノシシの婚姻システムは一種の一夫多妻であるとも言える。雄は長い繁殖期間中ほとんど餌を摂らずに奔走するため、春が来る頃にはかなりやせ細る』。『巣は窪地に落ち葉などを敷いて作り、出産前や冬期には枯枝などで屋根のある巣を作る。通常』四『月から』五『月頃に年』一『回、平均』四・五『頭ほどの子を出産する。秋にも出産することがあるが、春の繁殖に失敗した個体によるものが多い。妊娠期間は約』四『か月。雄は単独で行動するが』、『雌はひと腹の子と共に暮らし、定住性が高い。子を持たない数頭の雌がグループを形成することもある』。『短い脚と寸胴に似た体形に見合わない優れた運動能力を持ち、最高では人間の短距離走世界記録保持者』(百メートルを約九秒台後半から十秒で走り、時速は三十六キロメートル強に相当する)『をも凌ぐ約』時速四十五キロメートルの『速さで走ることが可能である。農研機構近畿中国四国農業研究センターの実験によると』、七十キログラムの成獣が一メートル二十一センチメートルの『高さのバーを』、『助走もなしに跳び越えることができた』という。但し、『立体感のあるものは苦手で、斜めに立てられた柵は越えることができない』。『扁平になった鼻の力(実際には首~上肢の力)はかなり強く、雄で』七十キログラム『以上、雌でも』五十~六十キログラム『もある石を動かすことができる』。『基本的には水を嫌い泳ぐことはないが、追い立てられたりして止むを得ず泳ぐこともある。犬かきで時速』四キロメートル『程度を出せ』、三十キロメートルの距離を『泳ぐことも不可能ではないという』。『瀬戸内海では島の間を渡る猪がたびたび目撃されている』。『積極的に前進することや向こう見ずに進むことを「猪突猛進」といい、これはイノシシが真っすぐにしか進めないところからきていると言われている。実際のイノシシは他の動物と同様前進している際、目の前に危険が迫った時や危険物を発見した時は急停止するなどして方向転換することができ、真っすぐにしか進めないという認識は誤りである』。『大型肉食動物(トラ、ライオン、ヒョウ、オオカミ、クマ、ワニ、大蛇など)とイノシシの生息地が被る際には、主に幼獣を含む中小の個体が他の有蹄類と同様に捕食対象となる。逆に大型の個体では撃退はおろか返り討ちにするケースも見られる。なお、それらが生息していない地域や、過去には生息していたが』、『現在では絶滅している地域では、成獣を殺害・捕食する大型動物は人間以外にはほぼ存在しない。そうした地域では野犬やカラス、キツネや大型の猛禽類等が幼獣を捕食する程度である』。『縄文時代にはシカとともに主要な狩猟対象獣であった。北海道や離島からも骨が出土し、これらの島には人為的に持ち込まれたと考えられている』。『山梨県北杜市大泉町の金生』(きんせい)『遺跡は八ヶ岳南麓に立地する縄文時代後期の遺跡で、配石遺構が出土したことが知られる。金生遺跡からは焼けたイノシシ幼獣の下顎骨がまとまって出土しており、馴化して飼養状態において、食用に間引いていたとも考えられている』。『イノシシは多産であることから、縄文時代には豊穣の象徴として、縄文時代の精神世界においても重視されていたとされ、土器文様としてイノシシ装飾が見られる。金生遺跡の焼骨も何らかの祭祀に関わる遺物であると考えられている』。『日本で獣肉食が表向き禁忌とされた時代も、山間部などでは「山鯨(やまくじら)」(肉の食感が鯨肉に似ているため)と称して食されていた。「薬喰い」の別名からもわかるように、滋養強壮の食材とされていた。「獅子に牡丹」という成句から、獅子を猪に置き換えて牡丹肉(ぼたんにく)とも呼ばれる』『イノシシ肉の鍋料理を「ぼたん鍋」と称する』とある(引用に際しては、いくつかの項を省略している)。

「久佐井奈岐〔(くさゐなき)〕」小学館「日本国語大辞典」によれば、イノシシの古名とし、本邦初の漢和薬名辞書とされる「本草和名(ほんぞうわみょう)」(全二巻。深根輔仁(ふかねすけひと)著。延喜一八(九一八)年頃の成立。本草約千二十五種の漢名に別名・出典・音注・産地を附し、万葉仮名で和名を注記してある)に、『野猪黃 和名久佐爲奈岐』とし、「今昔物語集」巻第二十の、私の偏愛する一篇「愛宕護山聖人被謀野猪語第十三」(愛宕護(あたご)の山の聖人、野猪(くさゐなぎ)に謀(たまか)れたる語(こと)第十三)の文中の例を引く(前にも「象」で紹介したが、私の『柴田宵曲 續妖異博物館 「佛と魔」(その3) 附小泉八雲Common Sense原文+田部隆次譯』で全文を電子化してある)。語源説には、最初に『クサヰノキ(草猪黄)の義か。クサイは、ブタ(家猪)に対してヰノシシ(野猪)をいう語。キ(黄)は脳の意。脳を薬用にするところから〔大言海〕』を挙げ、次に『クサナギ(草坐長)の義〔日本語原学=林甕臣〕』とする。

「田稼」「稼」は本来、「穀物を植える」(熟語の「稼穡(かしょく)」は「穀物の植え付け」と「穫(と)り入れ」、「種蒔き」と「収穫」の意で、転じて「農業」の意とする)や「穫り入れた穀物」(熟語の「禾稼(かか)」は「禾」が「穀類の総称」、「稼」は「実った穀物」の意で穀物・穀類)の意なのであり、そこから「働く・かせぐ」の意に転じたのである。

「虺〔(まむし)〕」「蝮」で、爬虫綱有鱗目ヘビ亜目クサリヘビ科マムシ亜科マムシ属 Gloydius のマムシ類。

「巴豆〔(はづ)〕」常緑小高木であるキントラノオ目トウダイグサ科ハズ亜科ハズ連ハズ属ハズ Croton tigliumウィキの「ハズ」によれば、『種子から取れる油はハズ油(クロトン油』(本種の英名 Croton に基づく)『)と呼ばれ、属名のついたクロトン酸のほか、オレイン酸・パルミチン酸・チグリン酸・ホルボールなどのエステルを含む。ハズ油は皮膚に』附着するだけで、『炎症を起こす』。『巴豆は』中国古代の本草書「神農本草経下品」や医書「金匱要略(きんきようりゃく)」に『掲載されている漢方薬であり、強力な峻下作用』(下剤の中でも作用の強いものを峻下剤と呼ぶ)『がある。走馬湯・紫円・備急円などの成分としても処方される』が、『日本では毒薬または劇薬に指定』『されているため、通常は使用されない』とある。

「爲家」「新六」「はた山の尾〔(を)の〕上〔(へ)〕つゞきのたかゝやにふすゐありとや人とよむらん」藤原定家の子藤原為家の「新撰六帖題和歌集」(「新撰和歌六帖」とも呼ぶ。六巻。藤原家良(衣笠家良:いえよし)・為家・知家・信実・光俊の五人が、仁治四・寛元元(一二四三)年から翌年頃にかけて詠まれた和歌二千六百三十五首を収めた、類題和歌集。奇矯で特異な歌風を特徴とする)の「第六 草」の載る。「日文研」の「和歌データベース」で校合済み。「畑山(山裾の畑)の尾の上續きの(山頂から続いている尾根)高萱に(背の高い草の生い茂ったところに)伏す(或いは臥す)猪ありとや人響(とよ)むらん(人々が大声を上げて騒いでいるようだ)」の意であろう。

「汝、卑怯(ひきよ〔う〕)者、蓋〔(なん)〕ぞ還(かへ)さざるや」「お前! 卑怯者め! どうして戻って来ないんだ?!」。

「進んで對し、合〔(がつ)〕して」自(みずか)ら真っ直ぐに進み出て、その狩人に対面し、ガチで組み合って。

「嬾婦獸〔(らんぷじう)〕」不詳。イノシシ属の一種ではあろうか? 「嬾婦」は中国語で「怠け者の女・無精な女」の意であり、それが以下の機織り(これは洋の東西を問わず、女性の大事な(古くは神聖な)仕事であった)の織機を置くと来なくなるというのと親和性があり、古伝承でそうした婦人が猪に変じたものと言うのであろうか「和漢三才圖會卷第五十三 蟲部 蟋蟀(こほろぎ)」には、

   *

俚語〔(りご)〕に『趨織(こほろぎ)鳴けば、嬾婦〔(らんぷ〕驚く』と言へること、有り。

   *

とあり、また、私の『栗本丹洲自筆「翻車考」藪野直史電子化注(10) 考証第二部』の中に、

   *

「寧波府志」云はく、『江豚、形、猪に似る。一名「大白」。其の身、脂(あぶら)多く、以つて紡績せるを照らせども、則ち、昏(くら)く、賭博を照らして、則ち、明(めい)たり。舊傳に嬾婦(らんぷ)の所化(しよけ)[やぶちゃん注:化け物に変化(へんげ)すること。]せると』と。

   *

とあったのを思い出したのだ。私の考証過程はそちらをじっくりと見て戴きたいが、なにより、そこの「江豚」の文字と「形、猪に似る」に着目して貰いたいのである。「江豚」は結果して私は哺乳綱鯨偶蹄目ハクジラ亜目マイルカ上科ネズミイルカ科スナメリ属スナメリ Neophocaena phocaenoides に比定同定した。無論、この「嬾婦獸〔(らんぷじう)〕」の記事では「善く田〔の〕禾〔(いね)〕を害す」と言っているのであるから、スナメリとは、一見、思えないようでもあるのだが、現在、長江には完全な淡水に棲息するスナメリの個体群がいることが判っており、彼らが水路を伝って水深のある水田に侵入して、稲を食害するかどうかは別としても、田を荒すことは十分に考えられる。また、上記引用の「寧波」や「長江」は「嶺南」ではないものの、嶺南の沿岸地帯にもスナメリは棲息するのである(ウィキの「スナメリ」分布図を見よ)。これは私の推理に過ぎないであるが、この「嬾婦」(「本草綱目」の「野豬」の「集解」の終りに出る)は、或いは、例えば「形、猪に似る」というのを陸の獣と勘違いしたものではあるまいかとも考えているのである。

「嶺南」中国南部の南嶺山脈よりも南の地方の広域総称。現在の広東省・広西チワン族自治区・海南省の全域と、湖南省・江西省の一部に相当する(部分的には「華南」と重なっている)。参照したウィキの「嶺南」地図(キャプションに『華南/嶺南の諸都市。なお』、『福建省(かつての閩)は、多くの場合』、『嶺南には含まれない』ともある)。]

和漢三才圖會卷第三十八 獸類 ※牛(もうぎう) (前と同じくヤク)



Mugyuu


もうぎう  犣牛◦犏牛

※牛【音毛】

マ◦ウ ニウ

[やぶちゃん注:「※」=「牜」+(「旄」-「方」)。「◦」は単に字が詰まったので、繋がっていないことを示すための記号。]

本綱※牛乃野牛也人多畜養之狀如水牛體長多力能

載重迅行如飛性至粗梗髀膝尾背胡下皆有黒毛長尺

許其尾最長大如斗亦自愛護草木鈎之則止而不動今

人以爲纓帽毛雜白色者以茜染紅色

三才圖會云天子車在纛以※牛尾爲之

△按野牛自中華來於肥州長崎偶有之不蕃息

もうぎう  犣牛〔(れふぎう)〕

      犏牛〔(へんぎう)〕

※牛【音、「毛」。】

ウ ニウ

[やぶちゃん注:「※」=「牜」+(「旄」-「方」)。なお、「れふぎう」は現代仮名遣「りょうぎゅう」。]

「本綱」、※牛は、乃〔(すなは)〕ち、野牛なり。人、多く之れを畜養す。狀、水牛のごとく、體、長し。多力にして能く重きを載す。迅〔(はや)〕く行くこと、飛ぶがごとし。性、至つて粗梗〔(そかう)〕なり。髀〔(もも)〕・膝・尾・背・胡〔(こ)の〕下〔(した)〕に、皆、黒毛有り、長さ、尺許り。其の尾〔は中でも〕最も長大にして、斗〔(ひしやく)〕のごとく、亦、自〔(みづか)〕ら〔も〕愛護す。草木、之れに鈎(かゝ)るときは、則ち、止〔まり〕て動かず。今の人、以つて纓帽〔(えいぼう)〕と爲す。毛、雜白色の者を、茜〔(あかね)〕を以つて紅色に染む。

「三才圖會」に云はく、『天子の車に纛(たう)在り。※牛の尾を以つて之れを爲る』〔と〕。

△按ずるに、野牛、中華より肥州長崎に來たる。偶々〔(たまたま)〕、之れ、有〔れども〕、蕃息せず[やぶちゃん注:本邦では繁殖させることが出来ない。]。

[やぶちゃん注:「※牛」の「」は「犛」と同じで繁体字「氂」と同字であり、「本草綱目」の時珍も、実物を知っているらしい良安も、単に「野牛」に言い換えてしまっており、記載内容も前項の「犛牛(らいぎう)(ヤク)」と酷似するから、同じくウシ目ウシ亜目ウシ科ウシ亜科ウシ属ヤク(野生種の学名は Bos mutus。家畜化された種としての学名はBos grunniensなのだ。思うに、いろいろな字で古代から記されたことから、後代、これらが類似する別種として誤認されたものであろう。或いは、前項に、「※は小さく、犛は大なり」とあることから、「※」はヤクの♀、「犛」は♂を別種と誤認したとも思われ、或いは、各地のヤクの個体変異を別種としたともとれなくもない。

「粗梗〔(そかう)〕」荒々しく強い。

「髀」腿(もも)。

「胡〔(こ)〕」牛などの顎の下の垂れ下がった肉を指す語。東洋文庫訳では『えぶくろ』とルビするが、これでは胃の意味になり、私は不適切と思う。

「斗〔(ひしやく)〕」柄杓。

「鈎(かゝ)るときは」引っ掛かった際には。

「止〔まり〕て動かず」毮ㇾたりして傷つくことを恐れて動かないのである。

「纓帽〔(えいぼう)〕」前項に既注であるが、再掲すると、頂きから赤い房を垂らした官人の式帽を指す。

「雜白色」白を基調として雑色の混じるもの。

「茜〔(あかね)〕」キク亜綱アカネ目アカネ科アカネ属アカネ Rubia argyi。但し、ウィキの「アカネ」によれば、和名は「赤根」で『根を煮出した汁』を本邦でも古く『上代から赤色の染料として用い』『ていた』が、『日本茜を使って鮮やかな赤色を染める技術は室町時代に一時』、『途絶えた』とある。

『「三才圖會」に云はく……』同書「儀制三巻」の「皁纛」。ここに図(左頁)、ここ(左頁)に解説が載る(国立国会図書館デジタルコレクションの画像)。

「纛(たう)」(現代仮名遣「とう」)旗棹の上端に附ける、ヤクの毛を束ねて垂らした、威儀の飾り。これに旗を附けて「纛の旗」と称する。前の「三才図会」の図を参照されたい。

「偶々〔(たまたま)〕、之れ、有〔れども〕」「たまに見かけることがあるけれども」。しかし、高地高原性のヤクを果たして日本に連れて来たことがあるのかどうか、甚だ疑問ではある。何か別の種のウシ類を誤認したものではあるまいか?

「蕃息せず」「本邦では結局、繁殖させることが出来ないでいる」の意。当たり前田のクラッカーだっつうの!

告天子 國木田獨步



  告 天 子



身をば心に任せつゝ

心を天にまかせつゝ

花野のかげの塒をば

あけの眞珠の星に立つ



[やぶちゃん注:同じく「獨步遺文」より。

「告天子」とは雲雀、スズメ目スズメ亜目ヒバリ科ヒバリ属ヒバリ Alauda arvensis の異名(漢異名由来)で、通常は「かうてんし(こうてんし)」と読むのが一般的である。但し、ここはこれで「ひばり」と素直に私は読みたい。個人的に種としてのヒバリが好きだし、その「ひばり」の響きも好きだからである。本邦には亜種ヒバリAlauda arvensis japonica が周年生息(留鳥)し(北部個体群や積雪地帯に分布する個体群は、冬季になると、南下する)、他に亜種カラフトチュウヒバリ Alauda arvensis lonnbergi や亜種オオヒバリ Alauda arvensis pekinensis が、冬季に越冬のために本州以南へ飛来(冬鳥)もする。詳しくは私の「和漢三才圖會第四十二 原禽類 鷚(ひばり)(ヒバリ)」を参照されたい。

「塒」老婆心乍ら、「ねぐら」と読む。]

亡き友 國木田獨步



  亡 き 友



墓を隔てし君なれば

我世の樣や見えざらん

天にまします君なれば

此世の今を挑むらん

我に理想の光無く

國に正義の響絕え

雨濛々の夕まぐれ

ひとへに君を思ふ哉



[やぶちゃん注:同じく「獨步遺文」より。「國に正義の響絕え」……これはまさに――今現在そのものである――]

近頃逝きし友を思ひて 國木田獨步



  近頃逝きし友を思ひて



君は已に此世を去りて

靜かなる處に行き給ひぬ

吾は今猶前途の夢に迷ふ



前途! 前途! 何處とかある

靈なる君の聲を揚げて

吾を夢よりさませかし



君と吾とは友なりき

吾は君をいつくしみき

然り、愛したりと思ひ居たり



君逝きて、吾一度泣きぬ

今は如何に、あゝ今は如何に

君逝きてまだ一月を經ず



吾が心すでに君を忘れんとす

吾また君を思はざらんとす

天も地も不思議の命も



君と別れし刹那こそ

いと怪しくも思ひしが

今ははや何の不思議も消えにけり

靈なる君よ

迷冥にあらん吾が友よ

夜更けて願かくか吾が界を訪へ



吾君に會はんと

昨夜芝公園にと行きぬ

人行き絕えし森のなか

古き建物いや凄き

ものゝあやめも見えぬ處

靜に苔むす石に腰かけ

暗に向ひて君を呼びぬ

友よ、されど聲は無かりけり

身の毛のよだつのみなりき



君がゆきし其のあとは

雨のみ降り日も暗く

我が心いとむすぼれしが

そはたゞ濁れる血のせきしのみ



世に在ると世に亡きと

何の隔のある事ぞ

君よ、迷冥にあらん君よ

希くほとこしへの情をつゞくれ

吾をして何時までも君を

忘れしむる勿れ



如何に前途の夢にあくがるゝ時も

如何に人のてだてに湧き立つ時も

如何に人のことばに□□時も

如何に世の樣を嘆く時も

如何に戀の幻になやむ時も

君よたゞに吾にのりて

此の世の不思議を說けよかし

命の不思議を說けよかし

天地の不思議を說けよかし

以て吾を眞面目ならしめ



いぎ去らば  今夜は

君と語らん、暗き森の

  君と語らん



[やぶちゃん注:同じく「獨步遺文」より。

「迷冥」は見慣れぬ熟語であるが、「めいめい」と読んでおき(國木田獨步はクリスチャンであるから「めいみやう(めいみょう)」と敢えて読む必要はないと思う)、「迷」は単に冥界の非常な「冥」(くら)さの、迷うほどにいや深いことを強調する接頭語と採ればよいと私は思う。

「君よたゞに吾にのりて」の「のりて」は、老婆心乍ら、「告(宣)(の)りて」で「告げて」の意。]

再會 國木田獨步



  再  會



この世にまた

  君と遇ふことあらんとも

      思はざりしに

忘れねばこそ面影の

      早くも君を見つけぬる哉

浮世の巷に遇ひ見れば

  君はをさな子背に負ひて

      よき母親となられたり

君と別れてはや四とせ

      四とせが間

世のうきふしに遇ふ每に

      別れし君を思ひ出でける

我は昔にかはらねど

      君は母御となりにけり

そのをさな子を背に負ひて

  玉川の淸きほとり

      そのふる里に歸り行け

われは都に

      別れし君を思ひつゝ

世のうきふしに

     浮世のちまたにさすらはん

この世にまた

     君と遇ふことあらんかも



[やぶちゃん注:國木田獨步の明治四一(一九〇八)年六月二十三日の逝去から三年後、友人沼波瓊音(ぬなみけいおん)が編した「獨步遺文」(明治四四(一九一一)年十月日高有倫堂刊)所収。]

五月雨 國木田獨步


  五 月 雨


降(ふ)りみ降(ふ)らずみ五月雨(さつきあめ)

 晴(は)れなんとして我(わが)むねほ

君(きみ)が言葉(ことば)に曇(くも)りけり

 やがてはぬるゝ我(わが)たもと



[やぶちゃん注:明治四一(一九〇八)年六月二十三日の國木田獨步逝去から五ヶ月後の明治四一(一九〇八)年十一月十九日附『讀賣新聞』に「故國木田獨步」の名で掲載された詩篇。]

暮鐘 國木田獨步



  暮  鐘


わが夕暮(ゆふぐれ)を悲(かな)しみて

  鐘(かね)こそ響(ひび)け野末(のずゑ)なる

君(きみ)住(す)む岡(をか)の彼方(かなた)より

  鐘(かね)こそ響(ひび)け夕暮(ゆふぐれ)の。



[やぶちゃん注:明治四一(一九〇八)年六月二十三日の國木田獨步逝去から五ヶ月後の明治四一(一九〇八)年十一月十九日附『讀賣新聞』に「故國木田獨步」の名で掲載された詩篇。]

うれしき祈禱 國木田獨步


  うれしき祈禱



朝(あさ)な朝な

  われにうれしきいのりあり

祈(いの)りにいはく鳴呼(あゝ)吾(わ)が神(かみ)!

  『彼女(かのぢよ)に安(やす)きを給(たま)へかし』

アヽ此(この)祈り

  いかにうれしきいのりぞや。

人(ひと)なき室(へや)に淚(なみだ)と共(とも)に祈(いの)るなり

  『彼女(かのぢよ)の上(うへ)を守(まも)れかし』



[やぶちゃん注:五行目の「祈り」にルビがないのはママ。以下に電子化するのは、底本の「詩」パートの「遺稿」パートより。既に記した通り、國木田獨步は明治四一(一九〇八)年六月二十三日、午後八時四〇分、入院していた茅ヶ崎市南湖院にて肺結核のため(最初の兆候は既に明治三十九年末にあった)、満三十六歳と十ヶ月逝去した。本篇以下の三篇(後の「暮鐘」と「五月雨」)は、その五ヶ月後の明治四一(一九〇八)年十一月十九日附『讀賣新聞』に「故國木田獨步」の名で掲載された詩篇である。本篇は後の「獨步遺文」の中に「嬉しき祈」という標題で所収されているが、それは大きな異同があるので、以下に示す。

   *


 

 うれしき祈


 

朝(あさ)な朝な夕な夕な

我にうれしき祈りあり

祈りに曰く、あゝ吾神!

彼女の上を守れかし!

われを見捨てし彼女の上に

肉にも靈(たま)にも安きを賜へ

あゝ此祈!

いかにうれしき祈りぞや

人なき室にたゞ一人

淚と共に祈るなり!

 

   *

言わずもがなであるが、これによって本篇の「彼女」が前妻佐々城信子であろうことは推察される。但し、それ以前、獨步二十歳前後に、石崎トミとの悲恋(トミの両親が独歩があまりにも熱心なクリスチャンであったことに反対した故ともされる)があり、彼女もそこに含まれるものと考える方がより正しいと私は思っている。なお、後の「暮鐘」と「五月雨」の二篇は「獨步遺文」には所収されていない。]

2019/03/20

柳田國男 山島民譚集 原文・訓読・附オリジナル注「河童駒引」(38) 「河童の神異」(4)

《原文》

 【水神】水神ト河童トハ假ニ一步ヲ退キテ最初ヨリ別物ナリトスルモ、少ナクモ牛馬ノ災ヲ避クル爲ニ水神ニ祈禱スルノ風習ノ弘ク行ハレシ事ノミハ事實ナリ。每年春ノ初又ハ夏ノ終ナドニ、牛馬ヲ引キテ川ニ入レ又ハ川原ニ於テ一日遊バシムルコトハ、其一年中ノ災ヲ攘フ爲ナリト信ゼラレ、農家ハ嚴重ニ此行事ヲ勤メタリ。馬少ナキ長門ニテハ牛ニ就キテ盛ニ此事アリ。【牛ノ正月】初春ニ行ハルヽヲ牛ノ正月又ハ牛ノ年越ト云フ。牛祭ト稱シテ二月ニ入リテ此式ヲ舉グル村方アリ。牛神樂又ハ牛申シトモ名ヅケタリ。【牛ノ禁忌】五月五日ト六月晦日ト兩日牛ヲ使ハザル村ハ最モ多シ。【ヒサゴ】大津郡俵山、美禰郡岩永、共和村大字靑景等ニ於テハ、端午以後八朔マデ他鄕ノ牛ノ村ニ入ルコトヲ禁ジ、之ヲ犯シタル者ハ瓢簞ヲ頭ニ被ラセ牛ニ乘セテ村ヲ追放ス。又婦人ヲシテ牛ヲ使ハシメモシクハ農具ヲ掛ケタルマヽ牛ニ川ヲ渡ラシムルコトモ嚴禁ナリ。此等ノ禁條ハ農業ノ爲不利益ナリトテ、俵山ニテハ天明四年ニ畔頭(クロガシラ)等ノ連判ヲ以テ之ヲ廢シタリシモ、尚且ツ人民ノ不安ヲ如何トモスル能ハズ、四十年ノ後再ビ前ヨリモ一層八釜シキ禁止ヲ申合セタリ。此等ノ村々ニテハ六月末日ノ牛ノ休ミヲ夏越(ナコシ)ト云フ。【柱松】所謂柱松ノ行事モ夏越ト關係アリ、之ヲ行ハザレバ牛ノ病難アリト信ゼラレ、此ヲ又牛燈ト稱ス。美禰郡赤鄕村大字赤ニテハ、六月晦日ヲ夏越ト唱ヘ、軒別牛馬ヲ山野ニ繋ギ休息仕ラセ候。同郡眞長田(マナガタ)村大字長田ナドニテハ、此日牛馬ヲ川へ連レ行キ一日休息セシメ候云々。【牛ノ祇園】阿武郡大井村ニテハ六月十五日ヲ牛ノ祇園ト稱シ、村民牛ヲ洗ヒテ地下(ヂゲ)ノ小社へ參詣仕リ、半日一日休息セシメ候ナド、何レモ村村ノ書上ニ見ヘタリ〔以上長門風土記〕。【牛ノ藪入】大阪附近ノ田舍ニテハ五月五日ヲ牛ノ藪入ト云フ。【鞍】例年此日ハ梅田堤へ近在ノ飼牛ニ新シキ鞍ヲ置キ、肩ニ色々ノ花ヲ結ビ附ケテ、朝ノ五ツ時ヨリ一時バカリ此邊ノ野ニ放チ、ヤガテ牛ノ心ノマヽニ家路ニ還ル。農民粽ヲ數多持來リテ見物ノ人ニ之ヲ蒔散ラス。【疱瘡】之ヲ得テ歸レバ小兒ノ疱瘡輕シトテ爭ヒテ拾ヒ取ル〔攝陽落穗集二〕。是レ今ヨリ百年バカリ前迄ノ風習ナリ。【牛カケ】或ハ又之ヲ「牛カケ」トモ謂フ〔攝陽見聞筆拍子三〕。紀州奧熊野ニ行ハルヽ「牛カケ」ハ、普通田植ノ後ニ田地ノ一部ヲ區劃シテ之ヲ行フ。其有樣餘程競馬ナドノ興行物ニ近クナレリ〔鄕土硏究一ノ五號川口氏〕。端午ノ日ノ競馬ハ必ズシモ賀茂社ノ模倣ノミニハ非ザルべシ。現在ハ如何ニモアレ、其最初ノ動機ハ亦此邊ニ存スルニハ非ザルカ。【洗馬】之ニ由リテ思フニ全國ニ數多キ洗馬(セバ)又ハ馬洗淵ナド云フ地名ハ、昔某ト云フ武人ガ愛馬ヲ洗ヒタル古跡ナドト說明スルモ、恐クハ皆信仰ノ根ヲ絕ヤシタル馬ノ神ノ舊祭場ニシテ、曾テハ例年ノ或日馬ヲ此地ニ曳キ來リ之ヲ洗ヒテ祈禱ヲ爲セシヨリ起リシナルべシ。彼ノ陸中ノ「牛クヽリ淵」ノ如キモ、牛ヲ繋ギ置キシ水邊ノ地ト解スルコトヲ得。【牛首】牛首ハ卽チ牛絞(ウシクビリ)ノ轉靴ニシテ、「クビル」トハ繋グト云フ方言ナラン。牛クビリ淵ト云フ地名モ亦多シ。多クノ牛池駒ケ池ノ類モ、此ノ如ク說明スルトキハ其傳說ノ全然夢語リニ非ザルコトヲ知リ得べキナリ。

《訓読》

 【水神】水神と河童とは、假に一步を退きて、最初より別物なりとするも、少なくも、牛馬の災ひを避くる爲に水神に祈禱するの風習の、弘く行はれし事のみは事實なり。每年春の初め又は夏の終りなどに、牛馬を引きて、川に入れ、又は、川原に於いて一日遊ばしむることは、其の一年中の災ひを攘(はら)ふ爲なりと信ぜられ、農家は嚴重に此の行事を勤めたり。馬少なき長門にては、牛に就きて盛んに此の事あり。【牛の正月】初春に行はるゝを「牛の正月」又は「牛の年越」と云ふ。「牛祭」と稱して、二月に入りて此の式を舉ぐる村方あり。「牛神樂」又は「牛申し」とも名づけたり。【牛の禁忌】五月五日と六月晦日(みそか)と、兩日、牛を使はざる村は、最も多し。【ひさご】大津郡俵山、美禰(みね)郡岩永、共和村大字靑景等に於いては、端午以後、八朔(はつさく)まで、他鄕の牛の村に入ることを禁じ、之れを犯したる者は、瓢簞を頭に被らせ、牛に乘せて、村を追放す。又、婦人をして牛を使はしめ、もしくは農具を掛けたるまゝ、牛に川を渡らしむることも、嚴禁なり。「此等の禁條は農業の爲、不利益なり」とて、俵山にては、天明四年[やぶちゃん注:一七八四年。「天明の大飢饉」は天明二年から八年までであるから、この仕儀は理解出来る。]に畔頭(くろがしら)[やぶちゃん注:長州藩に於ける庄屋の補佐役の呼称。]等の連判を以つて、之れを廢したりしも、尚ほ且つ、人民の不安を如何ともする能はず、四十年の後[やぶちゃん注:単純加算なら文政七(一八二四)年。]、再び、前よりも一層八釜(やかま)しき禁止を申し合せたり。此等の村々のては、六月末日の牛の休みを「夏越(なこし)」と云ふ。【柱松】所謂、「柱松(はしらまつ)」の行事も「夏越」と關係あり、之れを行はざれば、牛の病難(びやうなん)ありと信ぜられ、此れを又、「牛燈」と稱す。美禰郡赤鄕村大字赤にては、六月晦日を「夏越」と唱へ、『軒別(けんべつ)[やぶちゃん注:一軒ごと、それぞれの農家が総て各個に行うこと。]、牛馬を山野に繋ぎ、休息仕らせ候』。同郡眞長田(まながた)村大字長田などにては、『此の日、牛馬を川へ連れ行き、一日(いちじつ)休息せしめ候』云々。【牛の祇園】阿武郡大井村にては、六月十五日を「牛の祇園」と稱し、『村民、牛を洗ひて、地下(ぢげ)の小社へ參詣仕(つかまつ)り、半日・一日休息せしめ候』など、何れも、村村の書上に見へたり〔以上、「長門風土記」〕。【牛の藪入】大阪附近の田舍にては、五月五日を「牛の藪入」と云ふ。【鞍】例年、此の日は、梅田堤へ、近在の飼牛に新しき鞍を置き、肩に色々の花を結び附けて、朝の五ツ時[やぶちゃん注:不定時法で午前七時前。]より一時(いつとき)[やぶちゃん注:現在の二時間相当。]ばかり、此の邊りの野に放ち、やがて牛の心のまゝに家路に還る。農民、粽(ちまき)を數多(あまた)持ち來たりて、見物の人に之れを蒔き散らす。【疱瘡】之れを得て歸れば、小兒の疱瘡[やぶちゃん注:天然痘。]輕しとて、爭ひて拾ひ取る〔「攝陽落穗集」二〕。是れ、今より百年ばかり前までの風習なり。【牛かけ】或いは又、之れを「牛かけ」[やぶちゃん注:「牛驅(うしか)け」。]とも謂ふ〔「攝陽見聞筆拍子」三〕。紀州奧熊野に行はるゝ「牛かけ」は、普通、田植えの後に、田地の一部を區劃して、之れを行ふ。其の有樣、餘程、競馬などの興行物に近くなれり〔『鄕土硏究』一ノ五號、川口氏〕。端午の日の競馬は、必ずしも賀茂社の模倣のみには非ざるべし。現在は如何にもあれ、其の最初の動機は亦、此の邊りに存するには非ざるか。【洗馬】之れに由りて思ふに、全國に數多き「洗馬(せば)」又は「馬洗淵(うまあらひぶち)」など云ふ地名は、昔、某(なにがし)と云ふ武人が愛馬を洗ひたる古跡などと說明するも、恐らくは皆、信仰の根を絕やしたる、馬の神の舊祭場(さいじやう)にして、曾ては例年の或る日、馬を此の地に曳き來たり、之れを洗ひて、祈禱を爲せしより起りしなるべし。彼の陸中の「牛くゝり淵」のごときも、牛を繋ぎ置きし水邊の地と解することを得。【牛首】牛首は、卽ち、「牛絞(うしくびり)」の轉靴にして、「くびる」とは「繋ぐ」と云ふ方言ならん。「牛くびり淵」と云ふ地名も亦、多し。多くの「牛池」・「駒ケ池」の類ひも、此(か)くのごとく說明するときは、其の傳說の、全然、夢語りに非ざることを知り得べきなり。

[やぶちゃん注:「大津郡俵山」現在の山口県長門市俵山(グーグル・マップ・データ。以下同じ)。

「美禰(みね)郡岩永」現在の山口県美祢市秋芳町岩永本郷及びその周辺

「共和村大字靑景」現在の秋吉台北西部分を含む山口県美祢市秋芳町青景

「八朔(はつさく)」旧暦八月朔日(ついたち)ので当日に行われた行事の名でもある。「田の実節供」とも称し、農家では豊作を祈って稲の穂出しや穂掛けを行う。一般には「憑(たの)む」の意味でこの日に「八朔の贈答」を行った。本来は、中世、武家で行われたものが民間に広まったもので、贈答には元は新米を用いた。また、近畿一帯では「八朔休み」と称し、この日から昼寝をやめて、夜なべ仕事が始まった(平凡社「百科事典マイペディア」に拠った)。

「瓢簞を頭に被らせ、牛に乘せて、村を追放す」無論、この「牛」はその他鄕から侵入した邪気(疾患:家畜の伝染病を考えれば、これはかなり腑に落ちる禁忌であるとも言える)を持っていると考えられた牛であろう。これは「虫送り」などと同じシステムとして理解可能であるが、問題は「瓢簞を頭に被らせ」るという仕儀である。瓢簞は中が空洞であることから、異界へ通底する呪具として原始社会ではしばしば用いられるもので、しかもシャーマンや邪神や魔魅(まび)に仮装する仮面の素材としても知られることから、ここではその禁忌を侵した者を運命共同体を危うくした存在としてスポイルするための仕儀、則ち、異邦人として「追放」することの呪的アイテムなのだと私は解釈する。仮面を被って村を追放されるだけでもよしとすべきである。より古い時代には恐らく殺されていたはずだから。

「夏越(なこし)」ここに限らず、全国的に行われてきた旧暦六月三十日の祓いの祭事。「名越」とも書き、「水無月の大祓い」と称して、古くから宮中を始め、民間においても忌み日として祓いの行事が行われた。この日、「輪くぐり」といって、氏神の社前に設けた大きな茅(ち)の輪をくぐって災厄を祓う儀式が一般的には知られる。宮廷においても故実として清涼殿で行われたことは「御湯殿上日記(おゆどののうえにっき)」などで確認出来る。神社からは氏子の家に紙人形(かみひとがた)を配布し、それに氏名・年齢を記して、御宮に持参して祓って貰う形式をとることが多い。この時期は農家にとって稲作や麦作などに虫害・風害などを警戒する大事な時に当たることから、他にも多様な祓いの行事が行われている。藁人形を作り、太刀を持たせて水に流す地方もあり、小麦饅頭や団子を作って農仕事は休む。中国地方から北九州にかけて海辺の地方では、海に入って禊をし、牛馬をも海に入れて休ませたりした。長崎県壱岐島では「イミ」と称し、斎忌を厳重に守る。一方で、熊本県天草諸島では、この日だけは河童が出ないと言い伝えて自由に海に入って泳ぐという(以上は主文を小学館「日本大百科全書」に拠ったが、最後の個所は別史料で天草諸島を確認した)。

「柱松(はしらまつ)」主に西日本周辺と信州周辺で七夕や盆に行われる儀式。竹や柴草で太く高い柱を作って立て、頂上に幣(ぬさ)や榊(さかき)を挿し、これに下から火を投げ上げて点火し、その様子から秋の収穫の吉凶を占う呪的な行事であった。別名「柱松明」「投げ松明」「上げ松明」などとも呼ばれる。

「牛燈」読みは「ぎうとう」か。盆行事に関わる学術論文の中に登場するのを確認は出来たが、ルビが振られておらず、当該行事の解説もなかったので、よく判らぬ。

「美禰郡赤鄕村大字赤」現在の山口県美祢市美東町(みとうちょう)赤(あか)

「同郡眞長田(まながた)村大字長田」山口県美祢市美東町真名周辺と思われる。

「阿武郡大井村」山口県萩市大井と思われる。

「梅田堤」近松門左衛門の名作「曽根崎心中」で、お初と徳兵衛が道行した場所として知られる梅田堤は、古くからの墓地として有名であった「梅田墓」に通じ、現在のJR大阪駅附近に相当する。

「今より百年ばかり前」本「山島民譚集」初版は大正三(一九一四)年七月刊であるから、機械的計算では文化一一(一八一四)年前後となる。

「賀茂社の模倣」滋賀県近江八幡市の賀茂神社で行われる神事「足伏走馬(あしふせそうめ)」の真似という謂い。同神社は奈良時代の天平八(七三六)年に聖武天皇によって創建されたもので、ウィキの「賀茂神社(近江八幡市)」によれば、『白村江の戦いの後、天智天皇が「これからは騎乗技術の発展と馬匹の繁殖が大事」と考え、賀茂神社の地に国営牧場を造った』ことから、馬との関係が深く、今も『「馬の聖地」として崇敬が寄せられ』ている。『創建時より、御料地「御猟野(みかりの)」として、猟や競馬が行われていた。さらに、平安時代に始められた京都上賀茂神社の競馬会神事を』、『後白河上皇の意により』、『当地でも継承し』ている。『例祭賀茂祭では、およそ』四百メートル『の直線の馬場を用いて』、七『頭の馬により』、二『頭ずつ 』七『回の競走を行い、上賀茂神社の競馬会に参加する馬を決する神事「足伏走馬』」『が行われる』とある。]

このココログの昨日のブログ・メンテナンスは完全な失敗・最悪・最低である

とりあえず國木田獨步の詩をニフティのブログに公開してみたが、どうやってみても最初、空行をまるで感知せず、それを均衡させるのに非常な労力と神経を使い、結局、投稿するだけで今までの3~4倍時間がかかった。甚だ不愉快である。昔の方が、数十倍よかった。使用可能な旧字や異体字も大幅に減衰している。例えば、「廻」の字の「回」が「囘」となっている字体は、嘗つて使えなかったのが、何年も前に使用出来るようになっていたものが、また使えなくなった。過去の電子化では多量に使用している。どうにもならない。旧字体・異体字は無数に使用しており、いちいち調べ得ないので、ひょいと「?」となっている部分を見つけた方は、どうかご連絡戴きたい。表記を変えて読めるようにする。

冬の山家 國木田獨步

 
 
  冬 の 山 家
 

眞柴たく山家の民
甘薯(いも)ふかす夕(ゆふべ)のまとゐ
まつ少女(をとめ)またるゝ者は
みづ淸き村のわかもの


「君と別れて松原ゆけば
鳥も通はぬ八丈ケ島へ」
ありふれ歌のかずかず
つきぬまに夜は更(ふけ)にけり


月出ぬ東の小まど
松風を影にうつして
「歸りなん今宵は家に」
「明日(あす)の夜も來(きた)りて唄(うた)へ」


家のもの床に入りしも
少女(をとめ)のみ眠がてにす
山路ゆき月にうかれて
わかものゝ唄ふ聲さゆ


かつがつに遠ざかりゆく
彼人(かのひと)の聲たえだえに
ほゝゑみて少女(をとめ)眠りぬ
まどかなり此夜(このよ)の夢も
 
 
[やぶちゃん注:初出は明治三二(一八九九)年十一月五日『活文壇』。死後の出版の「獨步遺文」所収のそれはかなり有意に異同がある。以下に示す。
   *
 
 
 冬 の 山 家

  
眞柴焚く山家の民
芋ふかす夕の圓居
今夕また彼の唄聞かん
いかなれば彼人遲き
待つ少女待たるゝ人は
水淸き村の若者


「君と別れて松原行けば
松の露やら淚やら」
「咲いた櫻になぜ駒繫ぐ
駒が勇めば花が散る」


ありふれし歌の數々
盡きぬ間に夜は更けにけり
月出でぬ東の小窓
松風を影にうつして


「歸りなん今宵は宿に」
「明日の夜も來りて歌へ」
家の者床に入りしも
少女のみ眠りがてにす


山路ゆき月に浮かれて
若者の歌ふ聳冴ゆ
かつかつに遠ざかり行く
彼人の聲絕え絕えに


ほゝ笑みて少女眠りぬ
まどかなり今夜の夢も


   *
第五連の二行目「若者の歌ふ聳冴ゆ」はママ。「聳」は「聲」の誤植であろう。]

少女の歌 / 老女の歌  國木田獨步



  少 女 の 歌

春あけぼのゝ閑かなる
夢十七年の歲たちて
今はた夢む此のゆめの
ふかき心を知るや花



[やぶちゃん注:初出は明治三一(一八九八)年七月一日『反省雜誌』。これは一緒に同誌に発表された次の「老女の歌」と対で読むべきであろうから、セットで出す。



  老 女 の 歌

夕べ夕べの鐘の數
かぞへ浮世の一夢さめて
今はた夢む此のゆめの
ふかき心を知るや星

 
 


かぐや姫 國木田獨步




  か ぐ や 姫


   そ の 一

今はむかし
ちとせのむかし幾百の
むかしなりけむ竹とりの
翁といふがすみにけり
みやこに近き村はづれ
さびしき野邊にさびしくも
翁と媼とくらしけり
野山に翁竹をとり
媼は家に絲ひきて
絲よりほそき煙たて
ながの月日を送りけり
むかしも今の夕日かげ
むかしの山に沈みはて
あかねにそまる西のそら
東の森の月白し
翁は獨り竹おひて
野みちたどりて歸りゆく
暮れゆく空をながめては
愚痴と知りつゝくりかへす
老のくりこと「貧しとて
何かなげかむ悲しきは
さびしきものはなしとかや
きゝしにまさる身の上の
淋びしさはげに冬の夜半」

更けてもかせぐ老の身の
媼は今宵も絲ひきつ
翁は籠あむ手をやめて
をりをり燈火かきたてつ
かすかに燃ゆるゐろり火の
あかき光はほのぐらく
媼の眼には淚あり
翁は頭うちふりて
「わが子にあらぬもらひ子は
可愛ゆくあれど他の子の
わが子にあらぬかなしみは
人の力のまゝならじ
人のこゝろのまゝならず」
あはれにひゞく絲ぐるま
さびしくてらす燈火は
老ひの心にしみにけむ
「げにまゝならじ世の中も
和子だにあらば二十八
嫁さへ今はあるべきに」
夜三更の月澄みつ
霜さえざえの野中なる
參媼のひとつやの
さびしくもまた哀れなり


   そ の 二

朝ぼらけ
翁わが家をたちいでゝ
いつもの山をこゝろざし
霜ふみ分けてたどりゆく
むかしも今の朝日かげ
今もむかしの鳥の聲
翁がうたふ聲遠く
近き山路をたどりゆく
わらべもいつしか翁なり
翁もかつてわらべなり
谷の小川の水せきつ
小川の淵を瀨にかへつ
まゝならぬ世と知らずして
夏の日樂しく遊びせり
あはれ昔の水の音
昔を今とむせびつゝ
翁の胸のみさわぐめり
翁小藪にわけ入りて
彼これ竹をゑらみつゝ
小暗き奧をうかゞへば
ひともと光る竹ありて
あたりまばゆく照らす見ゆ
翁不思議とちかよりつ
しばし見とれてゐたりけり
みるみる翁わかゞへり
しわみし顏のつやまさり
あづさの弓の腰のびて
散りにし花のかへりざき
翁我身をうち忘れ
躍る心をおさへつゝ
光る竹をばきりとりぬ
竹の節よりふしぎにも
星ともまがふうるはしき
赤兒うまれぬかくやくの
光あたりを照らしけり
翁かひあげうれしさの
淚にくれし日もくれて
媼翁の老の身の
望の光あらはれぬ


   そ の 三

笑ふこゑ
絲ひく音の其外に
さびしき家に響きそめ
絲ひく歌のそのほかに
やさしきうたぞ聞かれける
やさしきうたの其外に
可愛ゆき泣聲もれきこゆ
木かげ小暗き夕まぐれ
夕月仰ぐ翁あり
骨たくましき其かひな
やさしく組みつそが中に
可愛ゆき赤兒かひ入れつ
かなたこなたとゆきゝして
やさしき守うたうたひける
翁のもりのそのひまに
媼はかまどたきつけつ
たのしき夕べほのぐらく
靑き煙のいういうと
大空高くたちのぼり
速くなびきて村里の
田園今は暮れむとす

[やぶちゃん注:初出は明治三一(一八九八)年六月一日『反省雜誌』。國木田獨步の日記「欺かざるの記」には、例えば、明治二十七年五月九日の条に、
『今朝「竹取物語」の新體詩其一を作る』
とあり、また、同年同月十八日には、
『昨日「竹取物語」の第三の一節を作る』
さらに、同年六月四日、
『今夜「たけとり」の一節をものす』
とあって、これはまさに本篇の草稿であったものと思われる(底本解題もそう推定している)。
 さて、しかし、同解題で筆者中島健藏は本篇を、『未完』とする。しかし、そうだろうか?
 確かに、続きが読みたくなるほど心地よいし、御門とのやりとりから月の使者の来訪と永遠の別れ・富士に久遠に立つ烟まで詠んでほしいという思いはある。しかし、卑劣な五人のお馬鹿な貴公子のパートではきっと私は飽きるだろう。それでもその後を待ち焦がれるだろうが、そこには飽きた貴公子パートの瑕疵が纏わって、それはまた、最後まで拭えぬだろう(たとえ後半が素晴らしくても、である。そもそも私は「かくや姫の物語」(清音がよい)はどうも前半の貴公子失敗談連作部と、後半での雰囲気とが(特に姫のイメージが)異様に異なっているのが激しく気になっている。違った話をカップリングしたのではないとさえ思うのである)。
 とすれば、私は、これで、國木田獨步の「かぐや姫」は終わっていてよいのだと思う。これはこれで、完結してこそ、美しい。
 あなたが詩人で、この後に続けて詩韻やイメージを真似て幾らも書けるとのたもうなら、どうぞ、お好きにやればいい。私は社交辞令で褒めるかも知れぬ。しかし、きっとあなたは、作り終えて、必ず後悔することを請け合おう。
「三更」一夜を「初更(甲夜)」・「二更(乙夜(いつや))」・「三更(丙夜)」・「四更(丁夜)」・「五更(戊夜(ぼや))」に五等分した五更の第三で、凡そ現在の午後十一時又は午前零時からの二時間を指す。所謂、「子(ね)の刻」相当。
「いういう」「悠々」。]

和漢三才圖會卷第三十八 獸類 犛牛(らいぎう) (ヤク)

Raigyu


らいぎう 毛犀 牧牛
      竹牛 犘牛
      貓牛 犨牛
犛牛
      犛【毛俚來三音】
本綱犛牛【※1牛之屬】野牛也居深山中狀及毛尾俱同※1牛但
[やぶちゃん注:「※1」=「牜」+(「旄」-「方」)。]
※1小而犛大有重千斤者其體多長毛其尾可爲旌旄纓
帽之用身角如犀故曰毛犀角甚長而黃黒相間以僞犀
角卒莫能辯也角之花班皆類山犀而無粟紋其理似竹
不甚爲奇蓋犛之角勝于※1而※1之毛尾勝于犛
犩牛 如牛而大肉重數千斤又名虁牛
※2牛 色青黃與蛇同穴性嗜鹽人褁手塗鹽取之其角
 如玉可爲噐
[やぶちゃん注:「※2」=(上)「魏」+(下)「牛」。]
海牛 形似牛鼉脚鮎毛其皮甚軟脂可燃燈一名潜牛
山牛 狀如牛角有枝如鹿茸
月支牛 出大月氏國今日割取肉明日其創卽復合也
 【以上五種亦野牛之類也】
らいぎう 毛犀 牧牛
      竹牛 犘牛〔(ばぎう)〕
      貓牛〔(びやうぎう)〕
      犨牛〔(しうぎう)〕
犛牛
      犛は【毛〔(マウ)〕・俚〔(リ)〕・
      來〔(ライ)〕の三音〔たり〕。】
「本綱」、犛牛は【※1牛〔(やく)〕の屬。】野牛なり。深山の中に居り、狀及び毛・尾、俱に※1牛に同じ。但し、※1は小さく、犛は大なり。重さ、千斤[やぶちゃん注:明代の一斤は五百九十六・八二グラムであるから、五百九十七キログラム弱とあるが、あり得ない。中国得意の誇張表現。後に出る架空の巨牛「犩牛」の数値である。]の者〔も〕有り。其の體、長毛多く、其の尾、旌旄〔せいぼう〕[やぶちゃん注:旗竿の先に「旄」というヤクの毛の旗飾りを附け、これに鳥の羽などを垂らした旗。天子が士気を鼓舞するのに用いたり、皇帝から将軍や使節に任命の印章として与えられた旗。]・纓帽〔(えいぼう)〕[やぶちゃん注:頂きから赤い房を垂らした官人の式帽。]の用と爲すべし。身・角、犀のごとし。故に「毛犀」と曰ふ。角、甚だ長くして、黃・黒、相ひ間(まじ)はる。以つて犀角を僞はる。卒(つい[やぶちゃん注:ママ。])に能く辯ずること莫し[やぶちゃん注:本物と偽物を見分けることは出来ない。]。角の花〔の〕班〔(まだら)も〕、皆、山犀に類して、粟〔のごとき〕紋、無し。其の理(きめ)、竹に似て、甚だ奇なりと〔は〕爲さず。蓋し、犛の角、※1より勝れり。※1の毛尾は犛より勝れり。[やぶちゃん注:「※1」=「牜」+(「旄」-「方」)。]
犩牛(き〔ぎう〕) 牛のごとくにして大〔(だい)〕なり。肉の重さ、數千斤。又、「虁牛」と名づく。
※2牛〔(だうぎう)〕 色、青黃なり。蛇と穴を同〔じう〕す。性、鹽を嗜〔(この)〕む。人、手を褁〔(つつ)み〕て鹽を塗りて、之れを取る。其の角、玉のごとく、噐〔(うつは)〕と爲すべし。[やぶちゃん注:「※2」=(上)「魏」+(下)「牛」。]
海牛 形、牛に似、鼉〔(わに)〕の脚、鮎〔(まなづ)〕の毛。其の皮、甚だ軟〔か〕なり。脂、燈〔(ともし)〕に燃すべし。一名、「潜牛」。
山牛 狀、牛のごとく、角に枝有りて、鹿茸〔(ろくじよう)〕[やぶちゃん注:鹿の袋角(ふくろづの)。]のごとし。
月支牛 大月氏國に出づ。今日、割〔(さ)き〕て肉を取るに、明くる日〔には〕其の創(きず)、卽ち、復(い)ゑ[やぶちゃん注:ママ。「愈え」と同義。]合ふなり[やぶちゃん注:翌日には肉を取った部分の傷は忽ちのうちに癒合していて、元通りに治っている。]【以上の五種も亦、野牛の類ひなり。】。
[やぶちゃん注:ウシ目ウシ亜目ウシ科ウシ亜科ウシ属ヤク。野生種の学名は Bos mutus。家畜化された種としての学名はBos grunniensウィキの「ヤク」を引く。『インド北西部、中華人民共和国(甘粛省、チベット自治区)、パキスタン北東部に自然分布』する。体長は♂で二メートル八十~三メートル二十五センチメートル、♀で二メートル~二メートル二十センチメートル。尾長は♂で八十センチメートルから一メートル、♀で六十~七十五センチメートル。肩高は♂で一メートル七十センチメートルから二メートル、♀で一メートル五十~一メートル六十センチメートル。体重は♂で八百グラムから一キログラム、♀で三百二十五~三百六十キログラム。『高地に適応しており、体表は蹄の辺りまで達する黒く長い毛に覆われている』。『換毛はしないため、暑さには弱い。肩は瘤状に隆起する』。『鳴き声はウシのような「モー」ではなく、低いうなり声である』。『基部から外側上方、前方に向かい、先端が内側上方へ向かう角がある』。『最大角長』は九十二『センチメートル』に達する。『四肢は短く』、『頑丈』。『標高』四千から六千『メートルにある草原、ツンドラ、岩場などに生息する』。八~九『月は万年雪がある場所に移動し、冬季になると』、『標高の低い場所にある水場へ移動する』。『高地に生息するため、同じサイズの牛と比較すると』、『心臓は約』一・四『倍、肺は約』二『倍の大きさを有している。食性は植物食で、草、地衣類などを食べる』。『妊娠期間は約』二百五十八日で、六月に、一回に一頭の『幼獣を産む』。『生後』六~八『年で性成熟し、寿命は』二十五『年と考えられている』。『野生個体は食用の乱獲などにより生息数は激減して』おり、中国では『法的に保護の対象とされている』、一九六四年に『おける生息数は』三千から八千『頭と推定されている』。二千『年前から家畜化したとされる』、一九九三『年における家畜個体数は』千三百七十万『頭と推定されている』。殆どの『ヤクが家畜として、荷役用、乗用(特に渡河に有用)、毛皮用、乳用、食肉用に使われている。中』『国ではチベット自治区のほか、青海省、四川省、雲南省でも多数飼育されている』。『「ヤク」の語はチベット語』の「g-yag」(発音)『 に由来するが、チベット語では雄のヤクだけを指す言葉で、メスはディという』。『チベットやブータンでは、ヤクの乳から取ったギー』『であるヤクバターを灯明に用いたり、塩とともに黒茶を固めた磚茶(団茶)』『を削って煮出し入れ、チベット語ではジャ、ブータンではスージャと呼ばれるバター茶として飲まれている。また、チーズも作られている』。『食肉用としても重要な動物であり、脂肪が少ないうえに赤身が多く味も良いため、中国では比較的高値で取引されている。糞は乾かし、燃料として用いられる』。『体毛は衣類などの編み物や、テントやロープなどに利用される』。『ヤクの尾毛は日本では兜や槍につける装飾品として武士階級に愛好され、尾毛をあしらった兜は輸入先の国名を採って「唐の頭(からのかしら)」と呼ばれた。特に徳川家康が「家康に過ぎたるものが二つあり、唐の頭に本多平八」と詠われたほど好んだため、江戸時代に入って鎖国が行われてからも』、『清経由で定期的な輸入が行われていた』。『幕末、新政府軍が江戸城を接収した際に、収蔵されていたヤクの尾毛が軍帽として使われ、黒毛のものを黒熊(こぐま)、白毛のものを白熊(はぐま)、赤毛のものを赤熊(しゃぐま)と呼んだ』。『これらの他に、歌舞伎で用いる鏡獅子のかつら』『や、仏教僧が用いる払子にもヤクの尾毛が使用されている』とある。

 

「犩牛(き〔ぎう〕)」「肉の重さ、數千斤」からまともに考える気にならない。悪しからず。そもそも異名として出す「虁」は中国神話上の龍の一種、或いは牛に似たような一本足の妖獣、或いは妖怪の名である。ウィキの「虁(中国神話)」によれば(そこにある「山海経」のトンデモ絵図をリンクさせておく)、古い伝承では『音楽と深い関係にあるとされた。夔についての伝承は時代や地域によって大きく異なっている』。『元は殷代に信仰された神で、夔龍とも呼ばれる龍神の一種であった。一本足の龍の姿で表され、その姿は鳳と共に夔鳳鏡といった銅鏡等に刻まれた。鳳が熱帯モンスーンを神格化した降雨の神であった様に、夔龍もまた降雨に関わる自然神だったと考えられており、後述の『山海経』にて風雨を招くとされるのもその名残と思われる。後に一本足の牛の姿で表されたのも』、『牛が請雨のために龍神に捧げられた犠牲獣であったためとされている。一本足は天から地上へ落ちる一本の雷を表すともいわれる』。『『山海経』第十四「大荒東経」によれば、夔は東海の流波山頂上にいる動物である。その姿は牛のようだが角はなく、脚は一つしかない。体色は蒼である。水に出入りすると必ず風雨をともない、光は日月のように強く、声は雷のようである。黄帝は夔を捕らえてその皮から太鼓をつくった。この太鼓を雷獣の骨で叩くと、その音は五百里にまで響き渡ったという。『繹史』巻五に引用されている『黄帝内伝』によれば、この太鼓は黄帝が蚩尤と戦ったときに使われたものだという。また『山海経広注』に引用されている『広成子伝』によると蚩尤が暴れるのをとめたのは夔ではなく同音の軌牛であったという』。『夔は『説文解字』第五篇下における解説では「竜のような姿をしていて角がある」とされている。また『法苑珠林』に引用されている『白沢図』によれば「鼓のようで、一本足である」という』。『『国語』「魯語」に三国時代の韋昭が付した注によると、夔は一本足であり、越人はこれを山繰と呼び、人の顔、猿の体で人語を解する動物であるという。『史記』「孔子世家」では夔は木石の怪であるとされ、魍魎と同一視されている。同様の記述が『抱朴子』「登渉篇」にもある』。『『書経』「舜典」では、夔は舜帝の配下である人間で、帝によって音楽を司るように命じられた。夔は「私が石を高く低く打てば百獣がそれに従って舞うことでしょう」と言ったという』。『『韓非子』「外儲説左下」第三十三では、夔が一本足であるかどうかについての議論が行われている。このことを問われた孔子は「夔は一本足ではない。夔は性格が悪く人々は何も喜ばなかったが、誰からも害されることはなかった。なぜなら正直だったからである。この一つで足りる、だから一足というのである」。または「夔は何の才能もなかったが、音楽の才能だけは突出していた。そのため堯帝が『夔は一で足りる』と言った」と答えたという』。『山梨県笛吹市春日居町鎮目に鎮座する山梨岡神社には、一本脚の神像が伝わっており、「山海経」に登場する夔(キ)の像として信仰を受けている』。十年に一度(現在では七年に一度)四月四日に『開帳され、雷除け・魔除けの神として信仰されている』。「虁」『神像に関する記録は、荻生徂徠』『の『峡中紀行』が初出とされる。甲府藩主・柳沢吉保の家臣である荻生徂徠は』宝永三(一七〇六)年に『吉保の命により甲斐を遊歴し、山梨岡神社にも足を運んでいる。この時、徂徠が山梨岡神社に伝来していた木像を』「虁」『に比定し、以来』、「虁」『神としての信仰が広まったと考えられている』「虁」『神の来由を記した中村和泉守』の「鎮目村山梨岡神社虁神来由記」(慶応二(一八六六)年)・『山梨県立博物館所蔵)によれば、江戸後期には』「虁」『神像に関して、天正年間に織田信長軍が山梨岡神社に乱入した際に疫病によって祟ったというような霊験譚が成立している』虁『神信仰は江戸後期の社会不穏から生じた妖怪ブームにも乗じて広まったと考えられており』、虁『神の神札が大量に流通し、江戸城大奥へも献上されている』。『明治初期には山中共古『甲斐の落葉』において紹介され』ているものの、そこでは「虁」神像として『欠損した狛犬の像が』示されており、それが『「山海経」の「』虁『」と結びつけられたものであると考えられている』。『また、山梨県では山の神に対する信仰や雨乞い習俗、雷信仰などの山に関する信仰、神体が一本脚であるという伝承がある道祖神信仰が広く存在し』虁『神信仰が受け入れられる背景にもなっていたと考えられている』。『このほか、『古事記』に出てくる一本足(という読みもある)の神久延毘古の「クエ」という音は、夔の古代中国での発音kueiと似ており、関連がある可能性がある』とする説もあり、『また』、『水木しげるは、日本の一本足の妖怪「一本だたら」「山爺(やまちち)」と夔の類似性を指摘している』とある。

「※2牛〔(だうぎう)〕」(「※2」=(上)「魏」+(下)「牛」)不詳。蛇と共生する牛難なんていないだろ! 但し、牛や犀が実際に塩を好むことはよく知られている。

「海牛」「牛に似」て、「鼉〔(わに)〕」(脊椎動物亜門四肢動物上綱爬虫綱双弓亜綱主竜型下綱ワニ形上目ワニ目 Crocodilia の爬虫類のワニ類)の脚を持ち、「鮎〔(まなづ)〕の毛」(中国では「鮎」はアユではなく、条鰭綱新鰭亜綱骨鰾上目ナマズ目ナマズ科ナマズ属ナマズ Silurus asotus を指すことは、禅の公案図「瓢鮎図」等でとみに知られる。この「毛」はナマズの鬚(ひげ)のことであろう)、則ち、頭部にヒゲを持つこと、「其の皮」は「甚だ軟」らかであり、その肉から「脂」を搾ることができ、それが「燈」火を「燃」やすのに利用できるという各点から、これはもう、海棲哺乳類のアフリカ獣上目海牛(ジュゴン)目Sirenia のジュゴン科 Dugongidae・マナティー科 Trichechidae のカイギュウ(海牛)類と採ってよい。時珍の知識の中には、或いは、近代に人間が肉と脂肪と皮革を手に入れるために絶滅させてしまった寒冷適応型のカイギュウ類の最後の生き残り(北太平洋のベーリング海に棲息していた)であったジュゴン科ステラーカイギュウ亜科†Hydrodamalinae ステラーカイギュウ属ステラーカイギュウ Hydrodamalis gigas も含まれていると見るべきである。属ステラーカイギュウは体長七メートルを超え、一説には最大八・五メートルに達し、体重は五~十二トンあったとも言われている巨大海獣である。我々の愚かな行為(またしてもジュゴンの滅亡劇が今現に沖縄で起こりつつある)を忘れないためにも、ステラーダイカイギュウについては、南方熊楠「人魚の話」附やぶちゃん注の私の注13を是非お読み頂きたい。

「山牛」調べる気にならない。何故かって? 「説文解字」の「巻十一」のここ(中文サイト「中國哲學書電子化計劃」)を御覧な、この「山牛」に似ている動物というのは、ほうれ、前に出た聖獣「獬豸(かいち)」だ、「山牛」で野生のウシの原種だなんて安易にやらかしたら、そこに異常な皮膚や骨増殖の起こった疾患動物が一角獣の実在を証明することになるなんていう異常変態博物学は私個人の妄想の中なら至極楽しいが、こうした注でまともにやらかす内容ではないからだよ。

「月支牛」産する「大月氏國」とは匈奴に追われて西遷してバクトリア(大夏(たいか)中央アジアの現在のアフガニスタン北部にあった国。トゥハーリスターン或いはトハラ)を支配した月氏(秦から漢代にかけて中央アジアで活躍したイラン系遊牧民族)の根拠地(後にアフガニスタン及び北インドに支配を拡大したクシャン朝をも、中国では「大月氏」と呼んだ)で実在するのであるから、この牛は実在する特定の種(或いは品種)に比定出来そうだが、判らぬ。一つ浮かんだのは、そのインドや東南アジアに分布するウシ亜科ウシ属ガウル Bos gaurus ではあったが、積極的に比定する気にはならない。速攻、傷が治るなんていうおいしい話は眉唾だからね。]

 

フォントについて

今まで欧文(人名・原書名・学名等)に於いてローマンを使用したり、本邦の詩集等の正規表現版では明朝を使用してきたが、ブログのメンテナンスによってそれが出来なくなったため(或いは可能なのかも知れぬが、私には出来ない)、以降は、総てゴシックのそれとなる。非常に不愉快であるが、仕方がない。

柳田國男 山島民譚集 原文・訓読・附オリジナル注「河童駒引」(37) 「河童の神異」(3)

《原文》

 河童ノ社會上ノ地位ト云フべキモノニモ地方的ニ餘程ノ高下アリ。東北ノ河童ハ槪シテ普通ノ獸類以下ニ取扱ハル。化ケルトハ言ヒテモ狐ナドニ比ブレバ遙カニ拙劣未熟ナリ。之ニ反シテ西部日本ニ向フニ從ヒテ、次第ニ其神異的分子ヲ增加スルガ如シ。【河童人ニ憑ク】二三ノ地方ニ於テハ河童ハ犬神「ヲサキ」又ハ「トウビヤウ」ナドノ如ク自在ニ人ニ憑キ、頗ル馬ノ因緣ヲ離レテ人間ノミヲ目ノ敵トスル風アリ。土佐ニテハ婚姻ノ相談ナドハ決シテ之ヲ河童ニ聞カシムべカラズ。若シ不注意ニシテ彼等ノ立聞キスル所トナレバ、必ズ嫁入婿入ニ化ケ來タリテ人ヲ迷ハス。故ニ一般ニ密談ヲスルニハ先ヅ弓弦ヲ鳴ラシテ此徒ヲ退散セシムべキナリ〔土陽陰見記錄下〕。【カウゴ石】肥後ノ葦北郡ナドニハ、他國ノ天狗話ノ多クヲ以テ、「カゴ」卽チ河童ノ所爲ニ歸セリ〔日本周遊記談〕。肥前五島ノ富江ニハ河童ノ築キタリト云フ城ノ城壁今モ存在スト云フ〔同上〕。又西國ニテ川ニ火トボリ芥ナドヲ燒クガ如キアリ。船近ヅクコト三四尺ニナリテ消エ、漕ギ過グレバ又元ノ如シ。之ヲ「川ワラフ」[やぶちゃん注:原典のママ。「ちくま文庫」版全集は『川ワロウ』とする。則、これを「川ワラウ」の誤植と断じているわけである。「觀惠交話」を確認出来ないので、ママとしておく。]ノ仕業ナリト云フ〔觀惠交話下〕。卽チ不知火モ亦河童ノ力ニ出ヅトスルナリ。加藤淸正ニ二字ヲ奉リタル河童ノ頭目九千坊ノ如キモ、亦恐クハ一城ノ主ナルべシ。人間ノ武家ガ迫(サコ)每ニ割據シテアリシ時代ニ、河童ノ方面ニハ既ニ或程度迄ノ中央集權行ハレ、此ノ如キ大酋長ヲ推戴シテアリシナリ。

《訓読》

 河童の社會上の地位と云ふべきものにも、地方的に餘程の高下(かうげ)あり。東北の河童は、槪して普通の獸類以下に取り扱はる。化けるとは言ひても、狐などに比ぶれば遙かに拙劣未熟なり。之れに反して、西部日本に向ふに從ひて、次第に其の神異的分子を增加するがごとし。【河童人に憑く】二、三の地方に於いては、河童は「犬神」・「ヲサキ」、又は「トウビヤウ」などのごとく、自在に人に憑き、頗る馬の因緣を離れて、人間のみを目の敵(かたき)とする風あり。土佐にては、婚姻の相談などは、決して之れを河童に聞かしむべからず、若し不注意にして彼等の立ち聞きする所となれば、必ず嫁入り婿入りに化(ば)け來たりて人を迷はす。故に一般に密談をするには、先づ、弓弦(ゆづる)を鳴らして此の徒を退散せしむべきなり〔「土陽陰見記錄」下〕。【かうご石】肥後の葦北郡などには、他國の天狗話の多くを以つて、「カゴ」、卽ち、河童の所爲に歸せり〔「日本周遊記談」〕。肥前五島の富江には、河童の築きたりと云ふ城の城壁、今も存在すと云ふ〔同上〕。又、西國にて、川に火とぼり、芥(あくた)などを燒くがごときあり。船近づくこと、三、四尺になりて消え、漕ぎ過ぐれば、又、元のごとし。之れを「川ワラフ」の仕業なりと云ふ〔「觀惠交話」下〕。卽ち、不知火(しらぬひ)も亦、河童の力に出づとするなり。加藤淸正に二字を奉りたる河童の頭目九千坊のごときも、亦、恐らくは一城の主(あるじ)なるべし。人間の武家が迫(さこ)每に割據してありし時代に、河童の方面には、既に或る程度までの中央集權、行はれ、此くのごとき大酋長を推戴してありしなり。

[やぶちゃん注:「犬神」私の「古今百物語評判卷之一 第七 大神、四國にある事」の私の注を参照されたい。

「ヲサキ」「オサキ狐」のこと。私の「反古のうらがき 卷之一 尾崎狐 第一」の本文及び注を参照されたい。

「トウビヤウ」先行する『「河童駒引」(25)「川牛」(5)』の私の『「トンボ」又は「トウビヤウ」と云ふ蛇のごとき』の注(ウィキの「トウビョウ」からの引用)を参照されたい。

「土陽陰見記錄」「土陽陰見記談」が正しい(書誌データ不詳)。当該記載は珍しく「国文学研究資料館」の画像データ・ベースの接続がいいので、発見出来た。ここである。

「【かうご石】肥後の葦北郡などには、他國の天狗話の多くを以て、「カゴ」、卽ち、河童の所爲に歸せり」「肥前五島の富江には、河童の築きたりと云ふ城の城壁、今も存在すと云ふ」この個所は、柳田國男にして、この頭書は、誤認を惹起させる配慮に欠くものと私は思う。「日本周遊記談」(書誌不詳)に当たることが出来ないので何とも言えないが、「かうご石」とは、「カゴ」=「カハゴ」=「川子」=「河童」所以の「石」の意ではなく、「かうごいし」(「神籠石」「皮籠石」「交合石」「皇后石」などの当て字が成され、現代仮名遣「こうごいし」と呼ばれている、主に九州地方から瀬戸内地方の山等に見られる、石垣で区画した謎の列石遺跡の総称である。その殆どは造成年代も理由も全く不明で、何らかの祭祀遺跡とも、古代の山城の跡とも議論されている不詳の人工石積みを指すものである。詳しくはウィキの「神籠石」を読まれたい。

「肥前五島の富江には、河童の築きたりと云ふ城の城壁、今も存在すと云ふ」個人のページと思われる「島の暮らしって?長崎県五島の暮らし(伝説と民話)」に(下線太字やぶちゃん)、「大円寺の河童伝説」があり(大円寺は長崎県五島市大円寺町に現存する曹洞宗広巌山大円寺。戦国時代の大永年間(一五二一年~一五二八年)に宇久(五島)盛定がこの地にあった庵を寺に改めて大円寺と号したのに始まると伝えられ、その後、五島地方における曹洞宗を統括する「録司」の任に当たり、肥前国福江藩(五島藩)の藩主となった五島氏の菩提寺となった、とウィキの「大円寺(五島市)」にある。ここ(グーグル・マップ・データ)。以下に出る「水神社」とは、同地図の大円寺の東北直近の河畔にある「水神宮」のことと思われる)、そこには、『大円寺川畔の水神社は、消防の神として昔から有名である。河童を祭った珍しい神社で、前面の深渕には河童の大将が住んでいると言い伝えられ』ており、享保八(一七二三)年二月十六日、『江戸麻生六本木の五島家上屋敷が類焼した。そこで、時の藩主第』二十六『代盛住は、火の用心のためにとこの神社の分社を同屋敷内に建て奉祀した。その後、隣屋敷である小田原藩主大久保家に火災が起こり、まさに五島邸に燃えうつろうとした時、突然五島邸より大勢の消防手が現われまたたくまに火を消し止めたという。その消防手は人間でなく、水神社の河童であったことが江戸市中の大評判となり、参拝者が多かった。福江市の二番町で安政』五(一八五八)年七月十六日に『大火があり、町内の大部分を消失し、その前後も火災が多かった。そこで水神社の祭りを毎年行うことにした。また』、『新一番町も旧藩時代は火災が多かったので、町内に水神社を分祀した。その後災難は絶えたという』とあり、さらに興味深い叙述として、「伝説・勘次ケ城(富江町)」があり(ここ(グーグル・マップ・データ))、そちらには、『今から約』百五十『年前、富江の大工だった勘次は藩命で新船を建造中、突然』、『姿をくらませた。捜索すると』、『玉之浦村小川の海岸で発狂しているのを見つけ、連れ戻したが、それから間もなく』、『山崎の石の城跡に住むようになった』。『勘次の発狂は、山崎の海岸で難破した唐人船を襲い、銀』六貫目(二十二・五キログラム)の『入った金箱を奪った祟りだと言われ、狂った勘次は』「六貫目様、六貫目様」と』、『ぶつぶつつぶやきながら歩くので、村人は彼のあだ名を』「六貫目様」と『呼んでいた』。『勘次はクブキ(かますのこと)を背負い』、『村を廻って食物を乞い、米飯を与えてくれた家には、その謝礼に水の漏らない一升枡を作って贈り、イモをくれた家には水の漏る枡を置いて帰った』。『村人が城を造った人の名を聞くと、必ず「自分がカッパと一緒に築いた」と答えるので』、「勘次ケ城」の『名がついたという』。『もちろん、この城は勘次ひとりで造れるものではなく、その築城法が大陸風の海域を思わせることや』、『付近の出土品、隣接地の多数の人骨の埋葬などから、和冦の出城であろうと言われている。城の構造は』十五間(二十七・二七メートル)に二十二間(約四十メートル)の『長方形で』、『外壁の高さは』一丈二尺(三メートル六十三センチメートル)、『入り口は』一ヶ所しかなく、その幅は二尺(六十一センチメートル弱)あった。これが「觀惠交話」(書誌不詳。ある記載には二百年前の古書とあるので、寛政(一七八九年~一八〇一年)前後成立か)の言うそれであろう。なお、同書は、河童の一種についてのウィキの「セコ」に出る。既に『「河童駒引」(17)「河童ニ異名多シ」(3)』で引用済みである。

「加藤淸正に二字を奉りたる河童の頭目九千坊」清正と九千坊の話は既出であるが、「加藤淸正に二字を奉りたる」という部分は意味不明。識者の御教授を乞う。

 

 

《原文》

 【水神】河童ノ威風ノ最モ行ハレ居タル南部九州ニ於テハ、水神ト云ヘバ卽チ河童ノコトナリ。田畠收穫ノ季節ニハ地面ノ西ノ方ヲ一鎌ダケ刈殘シ、之ヲ其水神ニ供フル慣習アリキ〔笈挨隨筆一〕。肥後ノ北部ニ在リテハ、河童ヲ水邊ニ祭レドモ水神ハ河童ニ非ズ。每年ノ夏畠ノ初物ヲ串ニ挿シテ溝川ノ堤ナドニ立テヽ置ク〔高木敏雄氏談〕。此モ亦水神ノ信仰ニ基クモノナレドモ、此ハ寧ロ河童ニ對抗スべキ勢力トシテ之ヲ祭ルガ如シ。【鐵ノ忌】但シ河童モ水ノ神モ共ニ鐵類ヲ忌ミ、水神ノ供物ト河童ノ供物トノヨク相似タルヲ見レバ、本來一ツノ神ノ善惡兩面ガ雙方ニ對立分化シタルモノト解スルモ必ズシモ不自然ナラズ。【植物ノ忌】河童ハ又角豆ヲ嫌フ。近江ニテハ村童角豆ヲ袋ニ入レテ腰ニ下ゲ、河童ノ害ヲ防グ守トス。河童來リテ相撲ヲ取ラント云フトキ、我ハ角豆飯(ササゲメシ)ヲ食ヒタリト云ヘバ閉口シテ去ル〔土陽陰見記錄下〕。【瓠】河童ハ又瓢簞ヲ甚シク嫌フ。仍テ之ヲ食ヒテ川ヲ涉ルトキハ害無シト云ヘリ〔越後名寄十八〕。又同ジ國ニテ川々ノ渡シ守壺蘆(ユフガホ)ト胡麻トヲ作ラザルハ古クヨリノ習慣ナリ。其仔細ハ川ニ潛ム河童ドモ壺蘆ノ若キト胡麻ノ若葉トヲイタク忌ムト傳フル故ニ、之ヲ作ラズシテ舟ニ乘ル人ノ安全ヲ祈ルナリ〔越後風俗志七〕。之ニ由リテ思フニ、大昔笠臣(カサノオミ[やぶちゃん注:底本は「カノオミ」であるが、これは諸記載から「サ」の脱字と断じ、特異的に訂した。「ちくま文庫」版全集も「カサノオミ」である。])ノ祖ガ川島川ノ虬ヲ試ミタリシ三ノ全キ瓠(ヒサゴ)、或ハ河内ノ人茨田連衫子(マンダノムラジコロモノコ)ガ河伯(カハノカミ)ヲ欺キ得タル兩個ノ瓠ナル者ハ〔仁德紀〕、共ニ後世ノ河童ガ避ケ且ツ忌ミタル壺蘆ノ瓜ナルコト大凡其疑無キニ近シ。河童ハ又麻ヲ忌ム。或人河童ヲ捕ヘ之ヲ斬レドモ通ラズ、麻穰(アサガラ)ヲ削リテ刺セバヨク通リタリ。又樒(シキミ)ノ香ヲ惡ムトモ云フ說アリ。或ハ法師ノ言ヒ始メシ言ナランカ。【胡瓜】河童ノ愛スル物ハ胡瓜ナリ。胡瓜アル畠ニハ多ク來ル。胡瓜ヲ食ヒテ川ヲ渡ル人往々ニシテ河童ニ取ラルヽコトアリ。關東ニテハ六月朔日ニ胡瓜ヲ川ニ流シテ河童ノ害ヲ攘ヒ得べシト信ズル者アリ〔竹抓子四〕。【祇園】此ハ恐クハ祇園ノ神ノ胡瓜ト何等カノ關係アルべシ。自分等ノ鄕里ニテハ祇園ノ夏祭ニハ胡瓜ヲ川ニ流シテ其神ニ捧ゲ、ソレヨリ後ハ中ニ蛇ガ居ルナドト稱シテ決シテ胡瓜ヲ食ハズ。【水天宮】此神ハ西京ノ本社ニ於テハ水ノ神トハ言ハザレドモ、田舍ニテハ此意味ヲ以テ祀ル處モアルナリ。今日ノ東京ニテハ水難除ノ守札ハ殆ド水天宮ノ一手專賣ナルガ、蠣殼町ノ流行神ガ東上シタルハ決シテ古キコトニ非ズ。有馬家ノ舊領久留米ヨリ芝ノ屋敷内ニ勸請シタルハ實ニ文化ノ某年ニ在リ。此神ノ守札ヲ碇ニ附ケテ水中ヲ探レバ、水ニ落チタル物必ズ綱ニ掛リテ揚ル外ニ、産ニ臨ミタル婦人之ヲ戴ケバ直チニ安産スナドトモ噂セラレキ〔寶曆現來集七〕。此神樣モ亦些シク風變リナリ。【隱レ里】鄕里ノ筑後ニ於テハ元ハ尼御前社ト稱セラレ、城下ヨリ四里ホドノ上流ニ九十瀨川(コセガハ)ト云フ處ノ水神ト夫婦[やぶちゃん注:底本は「夫插」であるが、私はこれでは読めないので、「ちくま文庫」版全集で訂した。]ノ神ナリトモ云ヒ、或ハ又九十瀨入道ハ卽チ平相國淸盛ニシテ尼御前ハ二位尼ナリトモ傳ヘラレ、此地方ニ分布スル平家隱里ノ傳說ト因緣ヲ結ビ附ケラレタリ〔筑後志下〕。今ノ久留米ノ本社ニ於テハ祭神ハ三座ナリ。中央ハ二位尼安德天皇ヲ抱キマツル像、一體ハ女院ニシテ他ノ一體ハ戎衣ヲ著ケタル平知盛ナリ。【水難除】而モ此尼御前ノ靈驗ハ弘ク水難ヲ救フニ在ルノミナラズ、殊ニ河童ニ對シテ有力ナル守札ヲ出スハ奇ト謂フべシ〔校訂筑後志〕。但シ此札ハ專ラ人間ノ腰ニ佩ビシムべキモノニシテ、牛馬ノ爲ニハ寧ロ冷淡ナルガ如クナレド、是レ恐クハ牛馬ノ多カラザル都會地ノ神ト爲リテ後ノ變遷ナルべシ。【釜神】同ジ筑後ノ中ニテモ、八女郡光友村大字田形ノ釜屋神、卽チ矢部川南岸ノ淵ニ臨ミテ構ヘラレタル水神ノ社ノ如キハ、農民ヲ相手ニ盛ニ牛馬安全ノ護符ヲ出シ、多クノ修驗者ハ其札ヲ持チテ村々ヲ廻リ、一匹一升ノ施米ヲ受ケツヽ、牛馬病難ト河童トノ防衞ヲ以テ任務トスル、神ノ德ヲ宣傳シツヽアリシナリ〔筑後地鑑下〕。

《訓読》

 【水神】河童の威風の最も行はれ居たる南部九州に於いては、水神と云へば、卽ち、河童のことなり。田畠收穫の季節には、地面の西の方を一鎌だけ刈殘し、之れを、其の水神に供ふる慣習ありき〔「笈挨(きふあい)隨筆」一〕。肥後の北部に在りては、河童を水邊に祭れども、水神は河童に非ず。每年の夏、畠の初物を串に挿して、溝川の堤などに立てゝ置く〔高木敏雄氏談〕。此れも亦、水神の信仰に基づくものなれども、此れは寧ろ、河童に對抗すべき勢力として、之れを祭るがごとし。【鐵(てつ)の忌(いみ)】但し、河童も水の神も共に鐵類を忌み、水神の供物と河童の供物との、よく相ひ似たるを見れば、本來、一つの神の、善惡兩面が雙方に對立分化したるものと解するも、必ずしも不自然ならず。【植物の忌】河童は又、角豆(ささげ)を嫌ふ。近江にては、村童、角豆を袋に入れて腰に下げ、河童の害を防ぐ守(まも)りとす。河童、來たりて「相撲を取らん」と云ふとき、「我は角豆飯(ささげめし)を食ひたり」と云へば、閉口して去る〔「土陽陰見記錄」下〕。【瓠(ひさご)】河童は又、瓢簞(へうたん)を甚しく嫌ふ。仍(よつ)て之れを食ひて川を涉るときは害無し、と云へり〔「越後名寄(えちごなよせ)」十八〕。又、同じ國にて、川々の渡し守、壺蘆(ゆふがほ)と胡麻(ごま)とを作らざるは、古くよりの習慣なり。其の仔細は川に潛む河童ども、壺蘆のごときと、胡麻の若葉とを、いたく忌む、と傳ふる故に、之れを作らずして、舟に乘る人の安全を祈るなり〔「越後風俗志」七〕。之れに由りて思ふに、大昔、笠臣(かさのおみ)の祖が川島川の虬(みづち)を試みたりし三つの全(まつた)き瓠(ひさご)、或いは、河内の人、茨田連衫子(まんだのむらじころものこ)が河伯(かはのかみ)を欺き得たる、兩個の瓠(ひさご)なる者は〔「仁德紀」〕、共に後世の河童が避け、且つ、忌みたる壺蘆(のゆふがほ)の瓜(うり)なること、大凡(おほよそ)、其の疑ひ、無きに近し。河童は又、麻(あさ)を忌む。或る人、河童を捕へ、之れを斬れども、通らず、麻穰(あさがら)を削りて刺せば、よく通りたり。又、樒(しきみ)の香(か)を惡(にく)むとも云ふ說あり。或いは法師の言ひ始めし言(げん)ならんか。【胡瓜】河童の愛する物は胡瓜なり。胡瓜ある畠には多く來たる。胡瓜を食ひて川を渡る人、往々にして河童に取らるゝことあり。關東にては、六月朔日(つひたち)に胡瓜を川に流して、河童の害を攘(はら)ひ得べしと信ずる者あり〔「竹抓子(たけさうし)」四〕。【祇園】此れは、恐らくは、祇園の神の胡瓜と何等かの關係あるべし。自分等の鄕里にては、祇園の夏祭りには、胡瓜を川に流して其の神に捧げ、それより後は中に蛇が居るなどと稱して、決して胡瓜を食はず。【水天宮】此の神は西京の本社に於いては水の神とは言はざれども、田舍にては此の意味を以つて祀る處もあるなり。今日の東京にては、水難除けの守札(まもりふだ)は殆ど水天宮の一手專賣なるが、蠣殼町(かきがらちやう)の流行神(はやりがみ)が東上したるは決して古きことに非ず。有馬家の舊領久留米より、芝の屋敷内に勸請したるは、實に文化[やぶちゃん注:一八〇四年~一八一八年。]の某年に在り[やぶちゃん注:誤り。後で引用するように文政元(一八一八)年九月。]。此の神の守札を碇(いかり)に附けて水中を探れば、水に落ちたる物、必ず、綱に掛りて揚る外に、産に臨みたる婦人、之れを戴けば、直ちに安産すなどとも噂せられき〔「寶曆現來集」七〕。此の神樣も亦、些(すこ)しく風變りなり。【隱れ里】鄕里の筑後に於いては、元は尼御前社(あまごぜしや)と稱せられ、城下より四里ほどの上流に九十瀨川(こせがは)と云ふ處の水神と夫婦(めをと)の神なりとも云ひ、或いは又、「九十瀨入道(こせにゆうだう)」は、卽ち、平相國淸盛にして尼御前は二位尼なりとも傳へられ、此の地方に分布する「平家隱れ里」の傳說と因緣を結び附けられたり〔「筑後志」下〕。今の久留米の本社に於いては、祭神は三座なり。中央は、二位尼、安德天皇を抱(いだ)きまつる像、一體は女院(にようゐん)にして、他の一體は戎衣(じゆうい)[やぶちゃん注:武士が戦場で身につける武具。甲冑。具足。]を著けたる平知盛なり。【水難除】而も、此の尼御前の靈驗は、弘く水難を救ふに在るのみならず、殊に河童に對して有力なる守札を出だすは、奇と謂ふべし〔「校訂筑後志」〕。但し、此の札は、專ら、人間の腰に佩(お)びしむべきものにして、牛馬の爲には、寧ろ、冷淡なるがごとくなれど、是れ、恐らくは、牛馬の多からざる都會地の神と爲りて後の變遷なるべし。【釜神】同じ筑後の中(うち)にても、八女(やめ)郡光友(みつとも)村大字田形(たがた)の釜屋神、卽ち、矢部川南岸の淵に臨みて構へられたる水神の社のごときは、農民を相手に盛んに牛馬安全の護符を出だし、多くの修驗者は其の札を持ちて、村々を廻り、一匹一升の施米を受けつゝ、牛馬病難と河童との防衞を以つて任務とする、神の德を宣傳しつゝありしなり〔「筑後地鑑(ちくごちかん)」下〕。

[やぶちゃん注:『田畠收穫の季節には、地面の西の方を一鎌だけ刈殘し、之れを、其の水神に供ふる慣習ありき〔「笈挨(きふあい)隨筆」一〕』は『「河童駒引」(18)「河童ト猿ト」(1)』で同書の同記載の載る「水虎」の全文を電子化済み。そこに、『日薩[やぶちゃん注:日向国と薩摩国。]の間にては水神と號して誠に恐る。田畑の實入(みいり)たる時、刈取(かりとる)るに、初(はじめ)に一かま[やぶちゃん注:刈った一鎌分。]ばかり除置(のけおき)、是を水神に奉るといふ』とある。

「角豆(ささげ)」マメ目マメ科ササゲ(大角豆)属ササゲ亜属ササゲ Vigna unguiculata。一年草。若い莢や熟した種子を食用とするほか、茎葉を家畜の飼料とし、緑肥ともする。品種によって蔓性、半蔓性、矮性などがあり、蔓性品種は茎の長さが二~四メートルになるが、矮性種は三十~四十センチメートルに留まる。葉は互生し、三小葉からなる複葉で、葉柄は長い。夏、葉の付け根から花柄を出し、白色又は淡紫色の蝶形花(ちょうけいか)を数個つける。果実は豆果で、中に種子(豆)が一列に並んで入っている。種子はアズキに似るものから、大形で扁平にして角張るものまで、種々あり、色は赤・白・黒・褐色・斑紋様など多様である。日本では近縁種の品種ヤッコササゲ(Vigna unguiculata subsp. cylindrica)とジュウロクササゲ(Vigna unguiculata subsp. sesquipedalis)も栽培され、ともに栽培上はササゲの仲間として扱われる。ヤッコササゲは矮性で、莢は長さ十二~二十センチメートル、物を捧げる手のように上を向いてつく特徴が顕著である(和名の由来はそれともされるが、他にも、莢を牙に見立てて「細々牙(ささげ)」と言ったという説、豆の端が少しばかり(「ささ」)角張っている(「とげ」か)ことに由来するなど諸説がある)。ジュウロクササゲはつる性で、茎は二~三メートル、莢は長く垂れ下がり、一メートルを超す品種もある。ササゲの仲間は全般に寒さには弱いが、乾燥に強く、土地を選ばず、比較的、容易に栽培出来る。原産地はアフリカで、古代にインドや東南アジア各地に広まった。日本へは九世紀以前に中国から伝来したと考えられている。ササゲの栄養成分や無機質・ビタミン類などの含有量は同属のアズキ(ササゲ属アズキ Vigna angularis)によく似ており、煮豆や餡・味噌原料とし、また、煮崩れしないので、アズキ(アズキは煮崩れし易い)の代わりに赤飯をつくるのにもよく用いられる。若い莢は、茹でて和え物にしたり、炒め物・汁の実・天ぷらなどにする(以上は主文を小学館「日本大百科全書」に拠った)。

「角豆飯(ささげめし)」ササゲを小豆代わりにした赤飯。

「瓠(ひさご)」「瓢簞(へうたん)」スミレ目ウリ科ユウガオ属ユウガオ変種ヒョウタン Lagenaria siceraria var. gourda

「壺蘆(ゆふがほ)」ユウガオ属ユウガオ変種ユウガオ Lagenaria siceraria var. hispida

「胡麻(ごま)」シソ目ゴマ科ゴマ属ゴマ Sesamum indicum

「之れを作らずして、舟に乘る人の安全を祈るなり」河童の忌む作物を片手間に栽培すれば、河童はそれを憎んで、彼の生業である舟を襲うからである。

「笠臣(かさのおみ)」講談社「日本人名大辞典」の「笠県守(かさのあがたもり)」には『「日本書紀」にみえる豪族』で、『笠氏の祖。仁徳』天皇六十七年(機械換算で西暦三七八年)に『吉備』『の川嶋河(岡山県の高梁川』(たかはしがわ:ここ(グーグル・マップ・データ)『か)にいる大虬』(みつち:蛇或いは竜)『が民衆をくるしめたため』、『きり殺したという』とある。Open GadaiWikiの「県守」によれば、『笠臣の祖。勇猛果敢で力が強い。仁徳帝朝、吉備中国の川島河に大きな虯』(みづち)『がいて民を苦しめていた。県守は、三つの瓠を用意して淵に臨んで「汝に告げる。今、ここで三つの瓠を河に投げ込む。もし汝が瓠を沈めることができたら』、『汝を許す。沈めることができなかったら』、『汝を殺す。」と言った。すると、大虯は鹿に化けて八方手を尽くし』たが、『瓠を沈めなかった。県守は剣を抜』き、『河に飛』び『込んで』、『大虯を斬り殺した。さらに小虯を求め』、怖しくて』『水底の岩穴に隠れてい』た『小虯を探し出して殺した。そのとき、河の水はすべて血に変わった。それでそこを名付けて「県守淵」という』とある。以上は「日本書紀」の仁徳六十七年の以下の記載に基づく。

   *

是歲、於吉備中國川嶋河派、有大虬、令苦人。時路人、觸其處而行、必被其毒、以多死亡。於是、笠臣祖縣守、爲人勇捍而强力、臨派淵、以三全瓠投水曰、「汝屢吐毒令苦路人、余殺汝虬。汝沈是瓠則余避之、不能沈者仍斬汝身。」。時、水虬化鹿、以引入瓠、瓠不沈、卽舉劒入水斬虬。更求虬之黨類、乃諸虬族、滿淵底之岫穴。悉斬之、河水變血、故號其水曰縣守淵也。當此時、妖氣稍動、叛者一二始起。於是天皇、夙興夜寐、輕賦薄斂、以寛民萌、布德施惠、以振困窮、弔死問疾、以養孤孀。是以、政令流行、天下太平、廿餘年無事矣。

   *

なお、史実的系譜上では笠氏は古代日本の吉備国(岡山県)の豪族吉備氏(きびうじ)から七世紀以降に分派した一氏族で、ウィキの「吉備氏」によれば、分派した彼らは姓(かばね)としては「臣(おみ)」または「朝臣(あそみ)」を称し、『多くは国造や郡司などの在地の有力豪族』となったが、『中央貴族として立身した者も少なくな』く、例えば、飛鳥時代の官人吉備笠垂(きびのかさのしだる)は古人大兄皇子(ふるひとのおおえのみこ ?~大化元(六四五)年:舒明天皇第一皇子)の『反乱を告発して名を上げ』たとある(但し、ウィキの「古人大兄皇子」によれば、古人大兄皇子は「乙巳の変(いっしのへん:彼の異母弟中大兄皇子(後の天智天皇)・中臣鎌子(藤原鎌足)らが蘇我入鹿を暗殺して蘇我本宗家を滅ぼした政変)」で後ろ盾であった曽我氏を失ってからは、皇極天皇退位後、皇位に就くことを勧められたものの、それを断り、出家して吉野へ隠退していた。しかし、この笠垂が古人大兄皇子の謀反の企てを密告し、中大兄皇子によって攻め殺されたもので、実際には『謀反を企てていたかどうかは不明である』ともある)。

「茨田連衫子(まんだのむらじころものこ)」(生没年不詳:「まむた」とも)は日本古代の河内国の豪族で、姓は連。ウィキの「茨田連衫子」によれば、「新撰姓氏録」の『「右京皇別」によると、茨田連氏は「多朝臣同祖」とあり、「神八井耳命男彦八井耳命之後也」とある。茨田』の屯倉(みやけ)(河内国に設置された大和朝廷の直轄地)の『管掌を行ったので、この氏名がある』。「日本書紀」巻第十一によると、仁徳天皇十一年(機械換算で三二三年)、『日本最初の大規模な土木工事である茨田堤の築造の際』、

両處(ふたところ)の築(つ)かば、乃(すなは)ち、壞(くづ)れて塞(ふさ)ぎ難き有り。

『(築いてもまた壊れ、防ぎにくい所が二カ所あった)』。その時、『天皇は夢を見』、そこに『神が現れて』、

武藏人(むさしひと)強頸(こはくび)河内人(かふち)茨田連(まむたのむらじ)衫子(ころものこ)二人を以(も)て河伯(かはのかみ)に祭らば、必ず塞(ふさ)ぐこと獲(え)てむ。

『とおっしゃられた。そこで』、『この二名を捜して人身御供にした』。『強頸は泣き悲しんで水に入って死んだが、衫子は、

全(おふし)匏(ひさご)兩個(ふたつ)

『を取って、川の中に投げ入れ』、誓約(うけい)『をした』。

河神、祟(たた)りて、吾(やつかれ)を以て幣(まひ)とせり。是(ここ)を以て、今吾來(きた)れり。必ず我(やつかれ)を得むと欲(おも)はば、是(こ)の匏(ひさこ)を沈めてな泛(うかば)せそ。則ち、吾、眞(まこと)の神と知りて、親(みづか)ら水の中に入らむ。若し、匏を沈むることを得ずは、自(おのづか)らに僞(いつは)りの神と知らむ。何(いかに)ぞ吾が身を亡(ほろぼ)さむ。

『(河神がたたるので、私が生け贄にされることになった。自分を必ず得たいのなら、このヒサゴを沈めて浮かばないようにせよ、そうすれば自分も本当の神意と知って水の中に入りましょう。もしヒサゴを沈められないのなら、無駄にわが身を亡ぼすことはない)』、と『言った途端、つむじ風がにわかに起こり、匏を引いて水中に沈めたが、匏は波の上に転がるだけで沈まなかった。風に流されて遠くへ行ってしまった』。『かくして衫子は死ななかったが、堤は完成した。これは衫子の才量によって命が助かったのである。時の人はこれを強頸断間・衫子断間と呼んだ』とある。『前者は大阪市旭区千林町、後者は寝屋川市太間に比定されている』。『これと同様の物語が仁徳天皇』六十七『年にある。吉備中国(きびのみちのなかのくに)の川嶋河の川俣に、大虬(みずち=大蛇・竜)が住んでおり、毒気で人々を苦しめていた。笠臣の始祖の県守(あがたもり)は勇敢で力が強く、淵に「三(みつ)の全瓠(おふしひさこ)」を投げ入れ、「お前がこの瓠を沈められるのなら、私が避ろう。できなければ』、『お前の体を斬るだろう」と言った。みずちは鹿に化けて瓠を沈めようとしたが、沈まずに、県守は剣を抜いて水中にはいり、みずちとその仲間を斬り殺した。この淵を県守淵と言う。この時妖気に当てられて、叛く者が一二名いたという』(前掲であるが、引いておいた)。『茨田連一族は』、「日本書紀」巻第二十九に『よると、八色の姓制定により』、天武天皇一三(六八四)年十二月に『宿禰の姓を与えられている』。『この説話の末尾には』、

是歲(ことし)、新羅人(しらきひと)朝貢(みつきたてまつ)る。則ち、是の役(えたち)に勞(つか)ふ。

『とあり』、五『世紀代から本格化する大土木工事の技術や知識が渡来人集団によるものであることは明らかであり、その技術革新への自信が自然の脅威への挑戦・克服へと繋がっていることを、衫子の行動自身が指し示している』。『そこには』、『それまでの農民の利益を代表してきた共同体の機能の存続・維持を求めてきた「迷信」への克服が現れている。農耕具の進歩(U字形鍬・曲刃の鎌など)、武具における革綴短甲から鋲留短甲への革新・発展、須恵器生産の開始、騎馬の風習なども大いに関係している』とある(「日本書紀」原文の漢字表記を正字に改め、一部に句読点を追加して打った)。「日本書紀」の原文は以下(【 】は割注)。

   *

冬十月、掘宮北之郊原、引南水以入西海、因以號其水曰堀江。又將防北河之澇、以築茨田堤、是時、有兩處之築而乃壞之難塞、時天皇夢、有神誨之曰、「武藏人强頸・河内人茨田連衫子【衫子、此云莒呂母能古】二人、以祭於河伯、必獲塞。」。則覓二人而得之、因以、禱于河神。爰强頸、泣悲之沒水而死、乃其堤成焉。唯衫子、取全匏兩箇、臨于難塞水、乃取兩箇匏、投於水中、請之曰、「河神、祟之以吾爲幣。是以、今吾來也。必欲得我者、沈是匏而不令泛。則吾知眞神、親入水中。若不得沈匏者、自知僞神。何徒亡吾身。」。於是、飄風忽起、引匏沒水、匏轉浪上而不沈、則潝々汎以遠流。是以衫子、雖不死而其堤且成也。是、因衫子之幹、其身非亡耳。故時人、號其兩處曰强頸斷間・衫子斷間也。是歲、新羅人朝貢、則勞於是役。

   *

「河伯(かはのかみ)」この漢字表記は気になる。明らかに中国由来の川の神だからである。

「麻穰(あさがら)」削るとあるからには、落葉小高木のツツジ目エゴノキ科アサガラ属アサガラ Pterostyrax corymbosus か。樹皮はコルク質が発達し、浅く裂け易く、材も非常に割れ易い。但し、河童がこれに刺されてしまうのは、和名の「麻殻」の「麻」絡みであるからに過ぎまい。河童が鉄や麻を嫌う意味はよく判らぬ(五行の相剋でもない)。ピンとくる説明にも巡り遇わぬが、ここに一つ、sunekotanpako氏の『スネコタンパコの「夏炉冬扇」物語』の「続・河童と渋江氏」にかなり変わった解釈が示されてはある。それに賛同するわけではないが、一つの見解としてはかなり面白い。

「樒(しきみ)」アウストロバイレヤ目 Austrobaileyalesマツブサ科シキミ属シキミ Illicium anisatumウィキの「シキミ」によれば、シキミは『俗にハナノキ・ハナシバ・コウシバ・仏前草と』も言い、『空海が青蓮華の代用として密教の修法に使った。青蓮花は天竺の無熱池にあるとされ、その花に似ているので仏前の供養用に使われた』とある。なお、仏前供養でお馴染みな割には、あまり知られていないと思うので引用しておくと、シキミは『花や葉、実、さらに根から茎にいたるまでの全てが毒成分を含む。特に、種子に』猛毒の神経毒であるアニサチン(anisatin)『などの有毒物質を含み、特に果実に多く、食用すると』、『死亡する可能性がある程度に有毒である』。『実際』に『事故が多いため、シキミの実は植物としては唯一、毒物及び劇物取締法により劇物に指定』『されている』ことは知っておいてよい。

「胡瓜」ウリ目ウリ科キュウリ属キュウリ Cucumis sativusウィキの「河童」には、『キュウリを好むのは、河童が水神の零落した姿であり、キュウリは初』実(な)り『の野菜として』、『水神信仰の供え物に欠かせなかったことに由来するといわれる』とある。柳田國男の論展開と一致するし、これは判り易く、プラグマティクで腑にも落ちる。

「攘(はら)ひ」「拂」「祓」に通ず。

「祇園の神」ウィキの「祇園信仰」によれば、それは『牛頭天王・スサノオに対する神仏習合の信仰で』、『明治の神仏分離以降は、スサノオを祭神とする神道の信仰となっている。京都の八坂神社もしくは兵庫県の広峯神社を総本社とする』。『牛頭天王は元々は仏教的な陰陽道の神で、一般的には祇園精舎の守護神とされ』、「簠簋(ほき)内伝」(安倍晴明が編纂したと伝承される占術書「三国相伝陰陽輨轄簠簋内伝金烏玉兎集(さんごくそうでんいんようかんかつほきないでんきんうぎょくとしゅう)」の略称)の『記述が著名である。中国で道教の影響を受け、日本ではさらに神道の神であるスサノオと習合した。これは牛頭天王もスサノオも行疫神(疫病をはやらせる神)とされていたためである。本地仏は薬師如来とされた』。『平安時代に成立した御霊信仰を背景に、行疫神を慰め和ませることで疫病を防ごうとしたのが祇園信仰の原形である。その祭礼を「祇園御霊会(御霊会)」といい』、十『世紀後半に京の市民によって祇園社(現在の八坂神社)で行われるようになった。祇園御霊会は祇園社の』六『月の例祭として定着し』、天延三(九七五)年には、『朝廷の奉幣を受ける祭となった。この祭が後の祇園祭となる。山車や山鉾は行疫神を楽しませるための出し物であり、また、行疫神の厄を分散させるという意味もある。中世までには祇園信仰が全国に広まり、牛頭天王を祀る祇園社あるいは牛頭天王社が作られ、祭列として御霊会(あるいは天王祭)が行われるようになった』。『明治の神仏分離令で、神社での仏式の行事が禁止され、また、祭神の名や社名に「牛頭天王」「祇園」のような仏教語を使用することが禁止されたことから、祇園社・牛頭天王社はスサノオを祀る神社となり、社名を改称した。総本社である京都の祇園社は、鎮座地の地名から八坂神社とされた。その他の神社では、京都にならった八坂神社のほか、祭神の名前から素盞嗚神社・素戔嗚神社、かつての社名から祇園神社、また地名を冠したものや牛頭天王を祀る以前の旧社名などに改称した』。『牛頭天王・スサノオに対する信仰のうち、津島神社(愛知県津島市)を中心に東海地方に広まった信仰を津島信仰(つしましんこう)と呼ぶ』とある。牛頭天王と素戔嗚命(すさのおのみこと)と水神と河童を芋蔓式の誤魔化しではなく、多重多層的に結びつけるものが示されないと私のような偏屈者には、まだまだ納得が行かない。

「それより後は中に蛇が居るなどと稱して、決して胡瓜を食はず」祇園祭の期間は、胡瓜を食べないという習慣は全国的に残っている。これは一般には祇園神社の紋が「五瓜(ごか)紋」ウィキの「木瓜(もっこう)紋」の当該紋の画像)が胡瓜の輪切りに似ていることに由来するとされる。他にも、平将門の紋である「九曜星」がやはり似ていることから、千葉県などで胡瓜を食べない地区があることは大学時分に聴いたことがある。

「水天宮」「蠣殼町(かきがらちやう)の流行神(はやりがみ)」「鄕里の筑後に於いては、元は尼御前社(あまごぜしや)と稱せられ、城下より四里ほどの上流に九十瀨川(こせがは)と云ふ處の水神と夫婦(めをと)の神なり」東京都中央区日本橋蛎殻町にある水天宮(グーグル・マップ・データ)は、福岡県久留米市にある久留米水天宮の分社。ウィキの「水天宮(東京都中央区)」によれば、『久留米の水天宮は久留米藩歴代藩主(有馬家)により崇敬されていたが』、文政元(一八一八)年九月、第九代『藩主有馬頼徳が江戸・三田の久留米藩江戸上屋敷に分霊を勧請した。これが江戸の水天宮の始まりである。藩邸内にあったため』、『一般人の参拝が難しかったが、江戸でも信仰者の多い水天宮への一般参拝の許可を求める伺書を幕府へ提出、幕府のこうした事例は関与しないとの見解を得た上で、同年から毎月』五『の日に一般開放された。その人気ぶりは「情け有馬の水天宮」という地口も生まれたほどであった。有馬家の会計記録には「水天宮金」という賽銭や奉納物、お札などの販売物の売上項目があり、その金額は安政年間の記録で年間』二千『両に上り、財政難であえぐ久留米藩にとって貴重な副収入だった』。明治四(一八七一)年に『有馬家屋敷が移転することになり、それとともに赤坂に遷座したが』翌明治5年、『有馬家中屋敷(近隣の中央区立有馬小学校に名前と痕跡が残る)のあった現在の日本橋蛎殻町二丁目に移転した』。『有馬家との縁は続いており』、二〇一六年『現在の宮司有馬頼央は、有馬家の第』十七『代当主』だそうである。さて、本家の現在は福岡県久留米市瀬下町(せのしたまち)にある水天宮(グーグル・マップ・データ)もウィキの「水天宮(久留米市)」から引く。『天御中主神・安徳天皇・高倉平中宮(建礼門院、平徳子)・二位の尼(平時子)を祀る』。『社伝によれば』、寿永四(一一八五)年、『高倉平中宮に仕え』、『壇ノ浦の戦いで生き延びた按察使』(あぜち)『の局伊勢が千歳川』(現在の筑後川)『のほとりの鷺野ヶ原に逃れて来て、建久年間』(一一九〇年~一一九九年)『に安徳天皇と平家一門の霊を祀る祠を建てたのに始まる。伊勢は剃髪して名を千代と改め、里々に請われて加持祈祷を行ったことから、当初は尼御前神社と呼ばれた』(調べてみると、このプレ水天宮である尼御前神社はその後、筑後川下流の氾濫原を流されては再建し、転々と場所を移っていたらしい。但し、さらに調べるに、最初の位置候補として現在の水天宮の対岸(北)の佐賀県鳥栖(とす)市下野町(しものまち)(地図を拡大すると、同地区内にも「水天宮」が現認出来る)内に「鷺ケ鼻」という地名が残るという(ビッグツリー氏のサイト「ぶらり寺社めぐり」の久留米の「水天宮」の記載内)。また、ずっと上流であるが、福岡県うきは市浮羽町妹川周辺(以上総てグーグル・マップ・データ)もこの伝承と絡んでいるらしいことも判った(後の引用参照))。『そのころ、中納言平知盛の孫の平右忠が肥後国から千代を訪れ、その後嗣とした。これが現在まで続く社家・真木家の祖先である』。『慶長年間』(一三一一年~一三一二年)『に久留米市新町に遷り』、慶安三(一六五〇)年、『久留米藩第』二『代藩主有馬忠頼によって現在地に社殿が整えられ遷座したのが』、『現在総本宮である久留米水天宮で』、『その後も歴代藩主により崇敬されたが、特に第』九『代藩主頼徳』が以上の通り、『久留米藩江戸屋敷に分霊を勧請し』ている。

「九十瀨入道(こせにゆうだう)」(「ちくま文庫」版全集は前の九十瀬川にもこれにもルビを振らないが、これを「こせ」と読める人はそう多くはない。ルビを振らないのは、これ、不親切極まりないと私は思う)多くは平清盛が化した河童の頭目とするが、個人(女性)サイトの「のりちゃんず」の「巨勢山口神社」(この神社は奈良県御所市古瀬宮ノ谷にある)の解説の下方に、サイト主宛てに豪族「巨勢(こせ)氏」と「九十瀬入道」についての、メールで受けたとする情報が示されてあり、

   《引用開始》

「福岡県浮羽郡田主丸町の九十瀬入道についてですが、別名を巨瀬入道といいますが、田主丸町歴史研究家によれば、古代豪族の巨勢氏からではなく、同地方にある巨瀬川の「巨瀬」を取って名乗ったということです。例えば、『源氏の一部のものが、足利という土地を領するようになり、その後、足利を名乗るようになった』というように、中世の武士は、本貫地とする地名を氏としていますが、平氏の残党である武士が巨瀬川付近に住むようになって、自ら巨瀬と名乗ったのではないかと思います。なお、田主丸町史によれば、この九十瀬入道は、物語である旨、記載されています。」

「九十瀬入道については、福岡県浮羽郡浮羽町大字妹川(江戸時代まで、妹川村と呼ばれていました。)にある大山祇神社内にある御神体の敷板にも、次のことが書かれています。『妹川村地方は昔巨勢氏の領地であった。この巨勢氏の同族である妹川朝臣が開墾したので、この地を高西(こせ)の妹川という。巨勢大夫人は白鳳年中(五三八年~七一〇年)勅命により賊を討ったが敗れたため罪を蒙った。その子孫である蟻(あり)は僧となり諸国を修行し、先祖の遣蹟を慕ってこの地に来り住んだ。天宝壬寅春村民のために山神をまつって、田園の守護神として崇めさせ、樋を設けて濯漑の便をはかることなどを教えた。爾来鳥獣の害、早魃の憂いもなく五穀豊穣、居民は益々さかえた。蟻入道は後年自ら九十瀬入道(こせにゅうどう)ととなえたが、ある日山に入ったままとうとう帰らなかった。

村民は、敬慕のあまり滝のそばに小伺を立てて蟻権現とあがめた。これがいわゆる九十瀬水神である。』(原文は漢文)

大山祇神社については、壇ノ浦の敗戦後、平家の将卒は、九州にある巨瀬川を上って福岡県浮羽郡浮羽町大字妹川の樫ケ平に至り、同地にある大山祇神社を祭って戦勝の再興を祈願したそうです。九十瀬入道については、浮羽町史等が、平清盛や平家関係の人物である旨記載しておりますが、田主丸町史には、道君氏の15世及麿(ちかまろ)の捨い子であり、後に石垣山観音寺の中興の祖となる金光坊然廓(ねんかく、童子のころ現若(ありわか)と名付けられたそうです。)伝説の影響下で構成されたものではなかっただろうか、と記載しており、この九十瀬入道が、実在の人物であったかどうかには、未だ分かりません。今後も調査を続けようとおもいます。

なお、巨瀬川は巨勢川とも書きますが、巨勢川という川の名は巨勢氏から来ているそうです。何かの本で読んだのですが、福岡県には、筑後川があり、灌漑用水のため、巨勢氏が筑後川から支流を開いたので、巨勢川と呼んだそうです。」

   《引用終了》

とある。う~ん、なかなか奥が深そう!!!

「女院(にようゐん)」高倉天皇の皇后(中宮)で安徳天皇の母である建礼門院徳子。

「釜神」竈神に同じ。なお、調べているうちに、『各市町村史()、郷土史、書籍等から抜粋の釜神関係記事』と副題する「工房釜神 【釜神の伝説 言い伝え 習俗】」というマニアックな竈神ページを発見! ともかく凄い! 必読・要保存!!!

「八女(やめ)郡光友(みつとも)村大字田形(たがた)の釜屋神、卽ち、矢部川南岸の淵に臨みて構へられたる水神の社」福岡県八女市立花町田形にある釜屋神社(グーグル・マップ・データ)。事代主氏の「事代主のブログ」の「釜屋神社(立花)」によれば、祭神は罔象女命(みつはのめのみこと)・瀬織津媛命(せおりつひめのみこと)大日孁貴(おほひるめのむち)で、社殿に掲げられた「釜屋神社縁起」に(写真有り。事代主氏の電子化されたものを、そのまま引用させて貰う。

   《引用開始》

それここに筑後国上妻郡釜屋大明神は人皇五十代桓武天皇の御宇延暦年中この地に跡を祭りたもうてより多年の星霜を経て社頭も漸く頽敗しぬ。

然るに平治の頃薩摩国根占の城主大蔵大輔助能公綸命を蒙りて黒木の庄猫尾の城主に封ぜらる。ある時助能公霊夢によりて、嘉應年中この社頭を再興し給ひ尊信淺からず、則ち累世祈願の地と仰ぎ給う。

物換り星移り数十代を経て天正十二年甲申黒木兵庫頭家永公に至りて、猫尾落城、社頭も己に破却し候。その後慶長十一年田中吉政公尊敬ましまし神領を寄附し給ひ再び盛栄の霊地となれり、元和七年の春竹中寀女正公また神領御免の地を給う。同年の冬大守宗茂公御尊信の旨を以て猶また倍加の地を寄附し給ふ。

之に依りて神威日を追ふて輝き神徳年を経て厚し誠に国土安全五穀豊饒万民快楽の霊地となれり。今ここに宝暦十年辰三月旧例によりて瑞戸をひらき奉り貴餞の拝礼を乞う神奧奇跡の影を移すがごとく、その徳豈空しからんや(由緒板より)

   《引用終了》

以下、事代主氏の解説。『これによると』、『この神社は、桓武天皇の時代』(七一六年前後)『の創建のようで、平治の頃』(保元四年四月二十日(ユリウス暦一一五九年五月九日)~平治二年一月十日(同一一六〇年二月十八日))、『黒木の猫尾城主となった大蔵大輔助能が社殿を再興したとなっています』。『そして天正十二年』(一五八四年)に『黒木兵庫頭家永公』の『頃、猫尾』は『落城』し、後の元和七(一六二一)年『の春』、『竹中寀女』(采女(うねめ)であろう)『正』(しょう)、『公に許しを得て』、『同年の冬』、『大守宗茂公によって更に倍加の土地(神領)の寄附を賜ったとあります』。ブログ主は最後に『ここはいかにも水と河の神の社と云う雰囲気です』と述べておられる。添えられた写真とともに見られたい。確かに。いい感じ!]

2019/03/18

柳田國男 山島民譚集 原文・訓読・附オリジナル注「河童駒引」(36) 「河童の神異」(2)

 

《原文》

 事玆ニ及ビテハ河童ハ到底動物學上ノ問題ニ非ザルナリ。草木言問フ神代ナラバイザ知ラズ、今時河童ガ人間ト會話ヲ爲シ、モシクハ人ヲ欺キ、或ハソコニ居リナガラ姿ヲ見セズナドト云フガ如キ、是レ所謂靈異ニ非ズシテ何ゾヤナリ。【人ヲ化カス動物】我々祖父母ノ頃マデハ、狐狸貉ノ類ハ獸ニシテ兼ネテ人ヲ魅スルノ力アルコトヲ許サレタリシモ、仔細ニ考慮ヲ加フレバ、此ハ他ノ一面ニ動物ヲ神ニ齋クダケノ覺悟アリテ始メテ現ハレ來ルべキ思想ナリ。木ノ神モ蟲ノ神モ皆同ジコトニテ、拜スレバコソ祟ルト云フコトモアルナレ。語ヲ換ヘテ申サバ、惡ノ力モ世ノ進ムト共ニ漸ク衰ヘ行クべキモノナリ。此古風ナル信仰ノ斷シテヨリ後ハ、傳ノミガ其跡ニ取殘サレテ只ノ小トシテ存在シ、假令最初ニ之ヲ語リシ人ハ如何ニ眞面目ナリキトスルモ、後世ニ於テハ單ニ興味ノミヲ以テ之ヲ語リ傳ヘ、又興味ヲ以テ自由勝手ニ之ヲ變形シ行クコトモ無シトハ云フべカラズ。故ニ諸國ノ澤山ノ河童談ヲ比較硏究スルニ非ザレバ、何ノ爲ニ斯ル話ガ發生シタルカヲ理解スルコト能ハザルハ當然ノ事ナリトス。

 

《訓読》

 事、玆(ここ)に及びては、河童は、到底、動物學上の問題に非ざるなり。草木(くさき)言問(こととふ)ふ神代(かみよ)ならばいざ知らず、今時、河童が人間と會話を爲し、もしくは人を欺き、或いは、そこに居(を)りながら、姿を見せずなどと云ふがごとき、是れ、所謂、靈異(りやうい)に非ずして何ぞやなり。【人を化かす動物】我々祖父母の頃までは、狐・狸・貉(むじな)の類は獸にして兼ねて人を魅(み)するの力あることを許されたりしも、仔細に考慮を加ふれば、此れは他の一面に動物を神に齋(いつ)くだけの覺悟ありて、始めて現はれ來あるべき思想なり。木の神も、蟲の神も、皆、同じことにて、拜すればこそ、祟ると云ふこともあるなれ。語を換へて申さば、惡の力も世の進むと共に漸く衰へ行くべきものなり。此の古風なる信仰の斷してより後は、傳のみが其の跡に取り殘されて只だの小として存在し、假令(たとひ)最初に之れを語りし人は如何に眞面目なりきとするも、後世に於いては單に興味のみを以つて之れを語り傳へ、又、興味を以つて自由勝手に之れを變形し行くことも無しとは云ふべからず。故に諸國の澤山の河童談を比較硏究するに非ざれば、何の爲に斯(かか)る話が發生したるかを理解すること能はざるは、當然の事なりとす。

[やぶちゃん注:「狐」脊椎動物亜門哺乳綱食肉目イヌ科キツネ属アカギツネ亜種ホンドギツネ Vulpes vulpes japonica

「狸」イヌ科タヌキ属タヌキ亜種ホンドダヌキNyctereutes procyonoides viverrinus

「貉」「狐」「狸」と差別化する場合は、食肉目イヌ型亜目クマ下目イタチ小目イタチ上科イタチ科アナグマ属ニホンアナグマ Meles anakuma を指す。食肉目ネコ型亜目ジャコウネコ科パームシベット亜科ハクビシン属ハクビシン Paguma larvata を「貉」に含める識者も多いが、私はハクビシンは近代以降の人為的外来侵入種と捉えており、ここでの「むじな」には含めて考えない。

「齋(いつ)く」大切に神的存在として祀る。]

柳田國男 山島民譚集 原文・訓読・附オリジナル注「河童駒引」(35) 「河童の神異」(1)

 

《原文》

河童ノ神異  サテ立チ戾リテ愈河童傳ノ結末ヲ附ケント欲ス。猿ハ既ニ厩馬ノ保護者ナリトスレバ、假令每囘ノ計畫ハ失敗ニ終リタリトハ言ヘ、常ニ馬ノ害敵ヲ以テ自ラ任ズル河童ヲ指ザシテ、猿ヨリ變形シタルモノナリト斷定スルハ無理ナルニ似タリ。【善神惡神】併シナガラ日本ニハ限ラズ、多クノ國ノ民間ノ神樣ニハ佛樣ト違ヒテ往々ニシテ善惡ノ二面アリ。而モ人ノ生活ト最モ多ク交涉スルハ、神ノ本來ノ親切ニハアラデ其時々ノ憤怒ノ威力ナリ。此性癖ノ殊ニ顯著ナルガ恐ラクハ所謂枉津日(マガツヒ)ノ神ニシテ、人ハ其兇害ヲ輕減セラレンガ爲ニ村ニ夥シク其祠ヲ齋ヒ、言ハヾ惡神ノ消極的保護ヲ仰ギシナリ。思慮淺キ者ノ考ヘニテハ、善神ニハ何ノ祈願ヲ掛ケズトモ當然ノ恩惠ヲ期スルコトヲ得べシ、之ニ反シテ惡神ノ方ハ早ク手ヲ廻シテ置カザレバ何ヲシタマフカ分ラズ。故ニ常ニ其御機嫌ヲ取リテ良キ程ニ他ノ方面ニ注意ヲ轉ゼシムルノ算段ヲスルナリ。【神送リ】其神ニシテ移動性ノ神ナラバ鉦鼓歌舞ヲ以テ之ヲ村ノ境マデ送リ出シ、若シ又土著ノ神ナラバ無慈悲ノ地頭ヲ戴キシ時ト同ジ格ニテ、最モ謹愼シテ年々ノ祭ヲ勤メ、聊カニテモ其怒ヲ起サズ其思遣リ無キ神罰ヲ蒙ラザルコトニ熱心ス。要スルニ憤ヲ抑ヘ恨ミヲ寬恕スルコトモ亦大ナル神德卽チ人間ノ懇請スべキ神ノ好意ナリ。此故ニ假ニ馬ノ神ノ特質ニ中世何等ノ變遷無カリキトスルモ、猶河童駒引ノ傳ヲ發生セシムルニ些シモ差支ヘ無シ。【客神】殊ニ所謂猿神ノ如キハ勿論神代ノ最初ヨリノ我神ニ非ズ。イヅレノ時代ニカ入リ來リシ客神ノ一種ニシテ、十分ニ氣心ノ知レヌ神ナリ。從ツテ我々ノ祖先ガ如何ニ其信仰ヲ受傳ヘタリシカハ、到底想像ノ外ニ在リ。【荒神】或ハ油斷ノナラヌ荒神ナルガ爲ニ、一應ハ其護符ヲ有難ク頂戴シタルモ、内心ノ不服ヲ自制スルコト能ハズシテ、寧ロ詫證文ノ誤解ヲ歡迎シ且ツ其詮議ニ手ヲ盡シ、モシクハ又其力量ノ必ズシモ怖ルヽニ足ラザルヲ感ズルヤ、頻リニ某地ニ於ケル「ヒヤウスヘ」ノ約束ヲ云々シテ、旗鼓堂々ト之ニ對シテ戰ヲ宣シタルモノナリトモ見ルコトヲ得べシ。

 

《訓読》

河童の神異  さて、立ち戾りて愈々(いよいよ)河童傳の結末を附けんと欲す。猿は既に厩馬の保護者なりとすれば、假令(たとひ)、每囘の計畫は失敗に終りたりとは言へ、常に馬の害敵を以つて自ら任ずる河童を指(ゆび)ざして、猿より變形したるものなりと斷定するは無理なるに似たり。【善神惡神】併しながら、日本には限らず、多くの國の民間の神樣には、佛樣と違ひて、往々にして善惡の二面あり。而も人の生活と最も多く交涉するは、神の本來の親切にはあらで、其の時々の憤怒の威力なり。此の性癖の殊に顯著なるが、恐らくは、所謂、「枉津日(まがつひ)の神」にして、人は其の兇害(きようがい)を輕減せられんが爲に、村に夥(おびただ)しく其の祠を齋(いは)ひ、言はゞ、惡神の消極的保護を仰ぎしなり。思慮淺き者の考へにては、善神には何の祈願を掛けずとも、當然の恩惠を期(き)することを得べし、之れに反して、惡神の方は、早く手を廻して置かざれば、何をしたまふか、分らず。故に常に其の御機嫌を取りて、良き程に他の方面に注意を轉ぜしむるの算段をするなり。【神送り】其の神にして移動性の神ならば、鉦鼓歌舞(しやうこかぶ)を以つて之れを村の境まで送り出し、若(も)し又、土著(どちやく)の神ならば、無慈悲の地頭を戴きし時と同じ格にて、最も謹愼して、年々の祭りを勤め、聊(いささ)かにても其の怒を起さず、其の思ひ遣り無き神罰を蒙らざることに、熱心す。要するに憤りを抑へ、恨みを寬恕することも亦、大なる神德、卽ち、人間の懇請すべき神の好意なり。此の故に、假に馬の神の特質に、中世、何等の變遷無かりきとするも、猶ほ、河童駒引の傳を發生せしむるに些(すこ)しも差し支へ無し。【客神(まらうどがみ)】殊に、所謂、「猿神(さるがみ)」のごときは、勿論、神代(かみよ)の最初よりの我が神に非ず。いづれの時代にか入り來たりし客神の一種にして、十分に氣心(きごころ)の知れぬ神なり。從つて、我々の祖先が、如何に其の信仰を受け傳へたりしかは、到底、想像の外に在り。【荒神】或いは、油斷のならぬ荒神なるが爲に、一應は其の護符を有難く頂戴したるも、内心の不服を自制すること能はずして、寧ろ、詫證文の誤解を歡迎し、且つ、其の詮議に手を盡し、もしくは又、其の力量の必ずしも怖るゝに足らざるを感ずるや、頻りに某地に於ける「ヒヤウスヘ」の約束を云々して、旗鼓堂々(きこだうだう)と、之れに對して戰ひを宣したるものなり、とも見ることを得べし。

[やぶちゃん注:「枉津日(まがつひ)の神」ウィキの「禍津日神によれば、「古事記」に基づくなら、伊耶那岐(いさなき)の『禊ぎによって生まれた神々』を指し、『禍(マガ)は災厄、ツは「の」、ヒは神霊の意味であるので、マガツヒは災厄の神という意』となる。「神産み」で、黄泉から帰還した伊耶那岐『が禊を行って黄泉の穢れを祓ったときに生まれた神で』、「古事記」では「八十禍津日神(やそまがつひのかみ)」と「大禍津日神(おほまがつひのかみ)」の二神とし、「日本書紀」第五段第六の一書に於いては、「八十枉津日神(やそまがつひのかみ)」と「枉津日神(まがつひのかみ)」とする。『これらの神は黄泉の穢れから生まれた神で、災厄を司る神とされている』。『神話では、禍津日神が生まれた後、その禍を直すために』、「直毘神(なおびのかみ)」二柱と「伊豆能売(いづのめ)」が生まれあとする。柳田國男が言うように後には、『この神を祀ることで』、『災厄から逃れられると考えられるようになり、厄除けの守護神として信仰されるようになった』。『この場合、直毘神が一緒に祀られていることが多い』とある。『本居宣長は、禍津日神を悪神だと考えた』。『宣長によると禍津日神は人生における不合理さをもたらす原因だという』。『この世の中において、人の禍福は必ずしも合理的に人々にもたらされず、誠実に生きている人間が必ずしも幸福を享受し得ないのは、禍津日神の仕業だとした』。『「禍津日神の御心のあらびはしも、せむすべなく、いとも悲しきわざにぞありける」』(「直毘霊(なおびのたま)」)『と述べている』。『一方、平田篤胤は禍津日神を善神だとし』、『篤胤によると、禍津日神は須佐之男命の荒魂であるという』。『全ての人間は、その心に禍津日神の分霊と直毘神(篤胤は天照大神の和魂』(にぎみたま)『としている)の分霊を授かっているのだという』。『人間が悪やケガレに直面したとき、それらに対して怒り、憎しみ、荒々しく反応するのは、自らの心の中に禍津日神の分霊の働きによるものだとした』。『つまり、悪を悪だと判断する人の心の働きを司る神だというのである』。『また』、『その怒りは直毘神の分霊の働きにより、やがて鎮められるとした』とある。

「旗鼓堂々」通常は、「旗鼓」は「軍旗」と先陣を飾る「太鼓」で、「軍隊が整然として勢いや威厳のあるさま」であるが、そこから転じて、一般に人々が隊列をなして行進するさまなどの形容にも用いる(別に「文筆の勢いの盛んなさま」にも用いる)。]

柳田國男 山島民譚集 原文・訓読・附オリジナル注「河童駒引」(34) 「靱猿根原」(2)

 

《原文》

 同ジ野大坪ノ記錄ノ中ニ又左ノ如キ一節アリ。曰ク鎌倉殿ヨリ頂戴セシ証文士ノ免許狀ハ扇子ノ面ニ認メテアリキ。【骨足ラズ】然ルニ不幸ニモ其扇ノ骨ガ一本損ジテアリシ爲ニ、且ツハ自分等ガ品格ヲ重ンジテ近村ノ農民トノ交際ヲ避ケタリシ爲ニ、世ニハ誤リテ野宇津保證文士ハ骨一本足ラズト唱ヘテ此部落ヲ輕蔑擯斥シ、サモサモ賤民ニテモアルカノ如キ取扱ヲ受ケ來リシハ殘念ノ事ナリトアリ。此記事ヲ裏面ヨリ觀レバ、當ト不當トハ別問題トシテ、世間ニテハ此仲間ヲ目シテ、所謂骨ノ一枚不足セル種族ト爲セシ事實ハ明カナリ。萬歳ト「シヨモジ」ト同類ナルコトモ之ニ由リテ知ルコトヲ得タリ。「シヨモジ」ハ普通ニハ唱門師ト書キテ、二百年ホド以前迄京都及ビ其近國ニ居住セシ特殊ノ部落ナリ。塵添壒囊抄卷十三ニモ、家々ノ門ニ立チ金鼓(キンコ)ヲ打チ妙憧ノ本誓ヲ唱ヘ阿彌陀經ヲ誦スル者ナレバ門ニ唱フト書クべキナリトアリテ、今ハ多ク之ニ從ヘリト雖、其名稱ノ由來ハ峯相記ナドニ「闇證ノ禪師誦文ノ法師」ナドトアル誦文師ナランカト思ハル。【ヒジリ】卽チ經文ヲ暗誦スルモ、學問ナクシテ一宗ノ趣ヲ解セザル身分低キ「ヒジリ」ノコトナルべシ。此モ亦夙クヨリ陰陽家ノ支配ノ下ニ立チ、正月ノ左義長又ハ土用ノ水合ノ折ニハ、宮廷ノ御階近クマデモ罷出デタリシト云ヘリ〔和訓栞〕。【ハカセ】【ヰンナイ】而シテ其子孫ト云フ者今ハ何レノ地方ニモ殘存セザルハ、多分「ハカセ」トカ、「ヰンナイ」トカ、「シユク」トカノ別種ノ名稱ヲ以テ呼バレタル結果ニシテ、此ト共通ナル業ヲ營ミ乃至ハ唱門師ノ一類ナリト稱セラルヽ者ハ近キ頃マデ多ク存セシナリ。此等ノ輩ハ何レモ未ダ厩ノ祈禱ニ關係セシ證據ヲ見出サザレドモ、越前ノ宇津保舞ノ故事ヲ考ヘ合ストキハ、猿ガ馬ヲ曳ケル繪札ナドヲ配リシ者ハ、必ズシモ專門ノ猿屋ノミニハ限ラザリシヤモ知リ難シ。【エビス願人】カノ梓神子ノー派ガ此札ヲ持チテアルキシ外ニ、關東ニテハ神馬ノ守札ハ舞太夫モ「エビス願人(ぐわんにん)」モ亦之ヲ配リタリシナリ。サレバ所謂駒引錢ノ中ニ神主又ハ農夫體ノ者ガ口綱ヲ取居ルモノノ如キハ、必ズシモ沐猴ノ冠シタル者ニハ非ズシテ、右ノ證文士一輩ノ在野巫祝ノ生活ヲ寫セシモノトモ見ルコトヲ得べキナリ。

 

《訓読》

 同じ野大坪の記錄の中に、又、ひだりのごとき一節あり。曰く、鎌倉殿[やぶちゃん注:源頼朝。]より頂戴せし証文士の免許狀は扇子(せんす)の面に認めてありき。【骨足らず】然るに、不幸にも、其の扇の骨が、一本、損じてありし爲に、且つは、自分等が品格を重んじて、近村の農民との交際を避けたりし爲に、世には誤りて、「野宇津保證文士(のうつぼしやうもんし)は骨一本足らず」と唱へて、此の部落を輕蔑・擯斥し、さもさも賤民にてもあるかのごとき取り扱ひを受け來たりしは殘念の事なり、とあり。此の記事を裏面より觀れば、當(たう)と不當(ふたう)とは別問題として、世間にては、此の仲間を目して、所謂、「骨の一枚不足せる種族」と爲せし事實は明かなり。萬歳(まんざい)と「シヨモジ」と同類なることも、之れに由りて知ることを得たり。【唱門師】「シヨモジ」は普通には「唱門師」と書きて、二百年ほど以前まで、京都及び其の近國に居住せし特殊の部落なり[やぶちゃん注:「部落民」の脱字か。]。「塵添壒囊抄(じんてんあいなうしやう)」卷十三にも、家々の門(かど)に立ち、金鼓(きんこ)を打ち、妙憧(しやうしよう)[やぶちゃん注:「地藏」の別漢訳表記。]の本誓(ほんぜい)[やぶちゃん注:仏・菩薩が立てた衆生済度の誓願。本願。]を唱へ、「阿彌陀經」を誦(じゆ)する者なれば、「門に唱ふ」と書くべきなりとありて、今は多く之に從へりと雖も、其の名稱の由來は、「峯相記(みねあひき)」などに「闇證(あんしよう)の禪師」「誦文(しようもん)の法師」などとある「誦文師」ならんかと思はる。【ひじり】卽ち、經文を暗誦するも、學問なくして一宗の趣きを解せざる、身分低き「ひじり」のことなるべし。此れも亦、夙(はや)くより、陰陽家の支配の下(した)に立ち、正月の「左義長(さぎちやう)」又は土用の「水合(みづあはせ)」の折りには、宮廷の御階(おんきざはし)近くまでも罷(まか)り出でたりしと云へり〔「和訓栞」〕。【はかせ】【ゐんない】而して、其の子孫と云ふ者、今は何れの地方にも殘存せざるは、多分「はかせ」とか、「ゐんない」とか、「しゆく」とかの別種の名稱を以つて呼ばれたる結果にして、此れと共通なる業を營み、乃至(ないし)は「唱門師」の一類なりと稱せらるゝ者は、近き頃まで、多く存せしなり。此等の輩は何れも未だ厩の祈禱に關係せし證據を見出さざれども、越前の宇津保舞の故事を考へ合すときは、猿が馬を曳ける繪札などを配りし者は、必ずしも專門の猿屋のみには限らざりしやも知り難し。【えびす願人】かの梓神子(あづさみこ)の一派が此の札を持ちてあるきし外に、關東にては神馬の守札は舞太夫も「えびす願人(ぐわんにん)」も亦、之れを配りたりしなり。されば、所謂、「駒引錢」の中に、神主又は農夫體(てい)の者が口綱を取り居(を)るもののごときは、必ずしも、沐猴の冠(かんむり)したる者には非ずして、右の證文士一輩の在野(ざいや)巫祝の生活を寫せしものとも見ることを得べきなり。

 

[やぶちゃん注:「唱門師」既出既注。頭書も二度目。

「塵添壒囊抄(じんてんあいなうしやう)」室町末期に編纂された類書。全二十巻。天文元(一五三二)年の序に編者の僧某が記しているように、既に流布されていた「壒囊鈔」の巻々に「塵袋(ちりぶくろ)」から選択した二百一項を本文のまま配し添え、計七百三十七項を再編集したもの。中世的な学殖を以って仏教・世俗に亙る故事の説明がなされており、中世の学芸・風俗・言語の趣を知るべき直接の資料として貴重である(平凡社「世界大百科事典」に拠った)。

「峯相記(みねあひき)」中世(鎌倉末期から南北朝にかけて)の播磨国地誌。作者は不明だが、正平三/貞和四(一三四八)年に播磨国の峯相山(ほうそうざん)鶏足(けいそく)寺(現在の兵庫県姫路市内にあったが、天正六(一五七八)年、中国攻めの羽柴秀吉に抵抗したため、全山焼き討ちに遇って廃寺となった)に参詣した旅の僧が、同寺の僧から聞き書きをした、という形式で記述されている。鎌倉・南北朝期の社会を知るうえで貴重な史料で、中でも柿色の帷子を着て、笠を被り。面を覆い、飛礫(つぶて)などの独特の武器を使用して奔放な活動をした、と描かれる播磨国の悪党についての記述は有名である。兵庫県太子町の斑鳩寺に永正八(一五一一)年に写された最古の写本が残る(平凡社「百科事典マイペディア」に拠った)。

『正月の「左義長(さぎちやう)」』小正月を中心に各地で行われる火祭り。正月の松飾りを各戸から集めて、十四日の晩方乃至は十五日の朝にそれを焼くのが一般的な習わしである。社寺の境内、道祖神の近く、河原などで行われる。「ドンドヤキ」「サイトウ」「ホッケンギョ」など、土地によって様々に呼ばれており、現在でも広く行われている。「サギチョウ」というのは、すでに平安時代の文書に「三毬打」または「三毬杖」としてみられるが、三本の竹や棒を結わえて三脚に立てたことに由来すると言われている。元は、火の上に三脚を立て、そこで食物を調理したものと考えられている。今も所によってはその火で餅などを焼いて食すことがあるが、或いはその名残かもしれない。いずれにしても、木や竹を柱とし、その周りに松飾りを積み上げるものや、木や藁で小屋を作って、子供たちがその中で飲食をしてから、火を放つものなど、多様である。関東地方や中部地方の一部では道祖神の祭りと習合しており、燃えている中に道祖神の石像を投げ込む事例もある。長野県地方の「サンクロウヤキ」は松飾りとともに、「サンクロウ」という木の人形を燃やす。また九州地方では「オニビ」と呼ばれ、七日に行われている。多くの土地では、その火にあたると丈夫になるとか、その火で焼いた餅を食べると病気をしない、などという火の信仰が伝承されており、また、中心の木を二方向から引っ張ったり、或いは、それらが燃えながら倒れた方向によってその年の作柄を占うという、年占(としうら)的な意味を持つようなケースも認められるという(小学館「日本大百科全書」に拠った)。

『土用の「水合(みづあはせ)」』陰陽道の呪術の一つで、毎年夏の土用(立秋直前)の入りの日に行なった祓(はらえ)。

「はかせ」辞書では見出せないが、「博士」で、対概念を示す語で敢えて呼ぶ賤称であろう。

「ゐんない」「院内」。小学館「日本国語大辞典」の「院内」の③に、『特殊民の一つ。前身は祈祷また、遊芸を業としたが、土御門家や興福寺その他の社寺の支配に属するものがあったところからいう。近畿から中部地方に広く分布し、地名に残るものも多い』とある。

「しゆく」既出既注の「夙」であろう。

「梓神子(あづさみこ)」既出既注。リンク先の「梓巫(あづさみこ)」の注参照。

「舞太夫」神事舞太夫を起原とした幸若舞太夫や女猿楽の舞太夫、更に零落した大道芸の舞いを生業とした人々を指すのであろう。

「えびす願人」「えびす」の絵像を頒布した末端的宗教者。既出既注の「エビス」も参照されたい。]

柳田國男 山島民譚集 原文・訓読・附オリジナル注「河童駒引」(33) 「靱猿根原」(1)

 

《原文》

靱猿根原  厩ノ祈禱ニ關係スル巫祝ノ中ニ、今一種ノ部類アリ。【萬歳師】ソハ今日モ隨分數多キ春ノ初ノ萬師ナリ。河童ノ手形ト誤ラレタル牛馬安全ノ守護札ヲ民家ニ配リシハ或ハ此輩ノ所業ナリトモ想像スルコトヲ得。而シテ此ニモ亦少々ナガラ猿ノ因緣ハアルナリ。【靱猿】能ノ狂言ニ「靱猿」ト云フ一曲アリ。アル我儘ナル大名、猿牽ノ猿ヲ見テ靱ニ張リタケレバ其皮ヲ呉レヨト言フ。猿牽ハ驚キテ色々ト詫言ヲ爲シ辛ウジテ勘辨シテ貰ヒ、其禮ニ猿ヲ舞ハスト云フ趣向ナリ。此狂言ノ猿屋モ腰ニ御幣ヲ挿シタリ。歌ノ文句ニハ厩ヲ譽メ馬ヲ祝スル語多シ。狂言ハ必ズシモ有力ナル史料ト認ムル能ハザルモ、之ヲ見レバ靱舞ノ根原ハ此時ノ猿ノ皮事件ニ在ルガ如クモ考ヘラル。然ルニ右ノ「ウツボ」ノ舞ナルモノハ、實ハ古クヨリ存在セシ厩祈禱ノ爲ノ宗教上ノ舞ナリシナリ。【野大坪】越前今立郡味間野(アヂマノ)村ノ野大坪(ノオツボ[やぶちゃん注:ママ。])及ビ上大坪ノ二大字ハ、所謂越前萬歳ノ鄕里ナルガ、此地ノ住民ガ自ラ記錄シタル由緖書ヲ檢スルニ、地名ノ大坪ハ卽チ右ノ宇津保舞ノ「ウツボ」ニ同ジ。彼等ノ先祖河内首(カハチノオビト)某ナル者ハモト朝廷ノ馬飼部ナリキ。或時皇子御寵愛ノ馬物ニ驚キテ、秣モ食ハズ病附キシヲ、此者其馬ノ前ニ進ミテ宇津保ノ舞ヲ舞ヒシカバ、忽チニシテ氣力ヲ恢復シ一命ヲ取留メタリ。ソレヨリ吉例トナリテ御厩ノ祈禱役ヲ命ゼラレ、野宇津保萬歳ノ稱號ヲ賜ハル。【唱門師】其後賴朝公ノ將軍時代ニハ鎌倉ニ召サレ、正月御初乘ノ式ニ祝言ノ禱ヲセシ功ヲ以テ、證文士ト云フ位ヲ授ケ且ツ萬歳樂ヲ舞フコトヲ許サル云々〔今立郡誌〕。此宇津保ノ舞ハ人ガ舞フモノニテ、猿トハ關係無キガ如クナレドモ、彼等ガ其家ノ神トシテ天鈿女命卽チ世ニ猿田彦神ノ妻トモ謂ヒ又猿女君(サルメノキミ)ノ祖先トモ謂フ女神ヲ祀リテアルコトハ頗ル注意ニ値セリ。此徒ノ厩ノ舞ガ何故ニ古クヨリ宇津保ト稱セシカハ誠ニ決シ難キ問題ナリ。試ミニ僅カナル手掛リニ由リテ想像ノヲ立テンニ、靱ニ猿ノ皮ヲ張ルコトハ決シテ狂言ノ大名ノ思附ニ非ズ。【猿皮靱】既ニ源平盛衰記ノ中ニモ猿ノ皮ノ靱ト云フコト見エタリ。而シテ猿ニハ限ラヌコトナレドモ、總テ靱ニ毛皮ヲ掛ケタルヲ名ヅケテ騎馬靱ト云ヒ、其他ノモノヲ大和靱ト云ヘバ〔武家名目抄〕、馬ニ騎ル武士ハ特ニ猿ノ皮ヲ掛ケタル靱ヲ携ヘテ馬ノ守護ト爲シ、馬ノ病ナドノ折ニモ自然ニ之ヲ用ヰテ舞フコトトナリシヨリ、其舞ヲモ「ウツボ」ト名ヅケシモノナランカ。

 

《訓読》

靱猿根原(うつぼざるこんげん)  厩の祈禱に關係する巫祝(ふしゆく)の中(うち)に、今一種の部類あり。【萬歳師】そは、今日も隨分數多き春の初めの萬師(まんざいし)なり。「河童の手形」と誤られたる牛馬安全の守護札を民家に配りしは、或いは、此の輩の所業なりとも想像することを得。而して此(ここ)にも亦、少々ながら、猿の因緣はあるなり。【靱猿】能の狂言に「靱猿」と云ふ一曲あり。ある我儘なる大名、猿牽の猿を見て靱に張りたければ、「其の皮を呉れよ」と言ふ。猿牽は驚きて、色々と詫言(わびごと)を爲し、辛(から)うじて勘辨して貰ひ、其の禮に猿を舞はすと云ふ趣向なり。此の狂言の猿屋も腰に御幣を挿したり。歌の文句には、厩を譽め、馬を祝する語、多し。狂言は必ずしも有力なる史料と認むる能はざるも、之れを見れば、靱舞(うつぼまひ)の根原は、此の時の「猿の皮事件」に在るがごとくも考へらる。然るに、右の『「ウツボ」の舞』なるものは、實は、古くより存在せし厩祈禱の爲の宗教上の舞なりしなり。【野大坪】越前今立郡味間野(あぢまの)村の野大坪(のおつぼ)及び上大坪の二大字(おほあざ)は、所謂、「越前萬歳」の鄕里なるが、此の地の住民が自ら記錄したる由緖書を檢(けん)するに、地名の「大坪」は、卽ち、右の「宇津保舞」の「ウツボ」に同じ。彼等の先祖河内首(かはちのおびと)某(なにがし)なる者は、もと、朝廷の馬飼部(うまかひべ)なりき。或る時、皇子(みこ)御寵愛の馬、物に驚きて、秣(まぐさ)も食はず、病み附きしを、此の者、其の馬の前に進みて、「宇津保の舞」を舞ひしかば、忽ちにして氣力を恢復し、一命を取り留めたり。それより吉例となりて御厩の祈禱役を命ぜられ、「野宇津保萬歳」の稱號を賜はる。【唱門師】其の後、賴朝公の將軍時代には、鎌倉に召され、正月御初乘(おはつのり)の式に祝言の禱(いのり)をせし功を以つて、「證文士」と云ふ位(くらゐ)を授け、且つ、「萬歳樂」を舞ふことを許さる云々〔「今立郡誌」〕。此の「宇津保の舞」は人が舞ふものにて、猿とは關係無きがごとくなれども、彼等が其の家の神として、天鈿女命(あめのうづめのみこと)、卽ち、世に猿田彦神(さるたひこのかみ)の妻とも謂ひ、又、猿女君(さるめのきみ)の祖先とも謂ふ女神を祀りてあることは、頗る注意に値(あたひ)せり。此の徒の厩の舞が、何故に古くより「宇津保」と稱せしかは、誠に決し難き問題なり。試みに、僅かなる手掛りに由りて想像のを立てんに、靱に猿の皮を張ることは、決して、狂言の大名の思ひ附きに非ず。【猿皮靱(さるかはうつぼ)】既に「源平盛衰記」の中にも「猿の皮の靱」と云ふこと見えたり。而して、猿には限らぬことなれども、總て靱に毛皮を掛けたるを名づけて「騎馬靱(きばうつぼ)」と云ひ、其の他のものを「大和靱(やまとうつぼ)」と云へば〔「武家名目抄」〕、馬に騎(の)る武士は、特に猿の皮を掛けたる靱を携へて馬の守護と爲し、馬の病ひなどの折りにも、自然に之れを用ゐて舞ふこととなりしより、其の舞をも「ウツボ」と名づけしものならんか。

[やぶちゃん注:「靱(うつぼ)」正しくは「靫」「空穗」で(この「靱や「靭」は誤用〕、矢を携帯するための筒状の容器の称。竹などを編んで毛皮を張ったもの、練り革に漆をかけたものなどがあり、右腰に装着する。矢羽を傷めたり、篦(の:矢の竹の部分。矢柄(やがら))が狂ったりするのを防ぐことが主目的である。

「萬師(まんざいし)」既出既注

能の狂言に「靱猿」と云ふ一曲あり』大名狂言の一つで、狂言の世界では「猿(「靭猿」の猿役)に始まり、狐(「釣狐」の狐役)に終わる」とも言われ、狂言師を目指す子弟が本作の猿役で幼少時に初めて舞台に立つ演目としても知られている。大名が太郎冠者を連れて狩りに出かける途中、猿引きが連れている毛並みの良い猿を見かけて、「靱の皮にしたいから猿を譲れ」という。猿引きが断ると、大名は弓矢で脅し、無理に承知させる。猿引きが猿を殺そうと杖を振り上げると、無邪気な猿は、その杖を取って舟の櫓を漕ぐ真似をするので、猿引きは憐れを催し、手が下せない。大名も無心な猿の姿に心打たれ、命を助けてやる。猿引は喜んで、猿歌を歌い、猿に舞わせる。大名も上機嫌で猿に戯れて舞う真似をした上、扇・刀・衣服を褒美として与える、という筋。国立国会図書館デジタルコレクションの画像の「和泉流狂言大成全篇が読める(シノプシス部分は平凡社「世界大百科事典」に拠った)。

「越前今立郡味間野(あぢまの)村の野大坪(のおつぼ)及び上大坪」これは現在の福井県越前市味真野町(あちょう)及びその東南で接する越前市上大坪みおぼ)(グーグル・マップ・データ)に当たる。柳田國男のルビは「ノオツボ」であるが、これは確かに「のおほつぼ」と読んだ場合、「ほ」が脱音される可能性があり、ルビの配置から見ても、かつては「のおつぼ」と読まれていたか、或いはそう発音では聴こえた可能性を排除出来ない。

「越前萬歳」小学館「日本大百科全書」によれば、『福井県越前』『市野大坪(のおおつぼ)に伝承する万歳。野大坪万歳ともよばれる。江戸時代は毎年元旦』『に越前の福井、鯖江(さばえ)、加賀(石川県)の金沢、大聖寺(だいしょうじ)などの藩城に登城していたという。越前には継体』『天皇にまつわる伝承が多く、万歳も例外でないが、不詳である。ただ』、『野大坪は靭舞(うつぼまい)に関する名称とされ、古い来歴をもつものだろう。太夫(たゆう)と才蔵各』一『人ずつの「ことぶき万歳」「扇づくし」、才蔵が複数の「三番叟(さんばそう)」「木やり万歳」「さいとり万歳」、両方とも複数の「舞込お家万歳」などがある。太夫は侍烏帽子(さむらいえぼし)、舞鶴(まいづる)の素袍(すおう)、手に扇、才蔵は大黒頭巾』、『着付』、『袴』、『手に万歳太鼓が基本だが、曲によって叺(かます)帽子、蝶々薙刀(ちょうちょうなぎなた)帽子をかぶる。舞、しぐさ、語りとも早いテンポで軽快である』とある。You Tube 早川真「2016全国万歳フェスティバルin安城 越前万歳で動画が見られる。

「河内首(かはちのおびと)某(なにがし)」yusakuブログ「yusakuの「5世紀の渡来人と首おびと)」に、『神功皇后の新羅征伐の時代より、日本と朝鮮半島との交流が盛んとなり、その後』、五『世紀に入って、半島の百済や新羅からの渡来人も急増した様である。この多くは不安定な国からの脱出であったと思』われる『が、一部はその技術が認められ、渡来を望まれた人々もいた』。『この様な人は、職種により』、『集団で渡来し、場所を与えられ(河内が多かった様だ)、その頭目には首(おびと)の称号が与えられた』。『首とは臣(おみ)とか連(むらじ)等より低い地位の氏に与えられたものであるが、渡来人には職掌名+首として氏に与えられた。応神天皇の時代、学者として百済より、王仁(わに)が招聘され、書首(ふみのおびと)と呼ばれ』、『他に鍛冶首や馬飼首等ある』とされ、続く継体天皇と馬飼首によれば、『継体天皇、当時は男大迹王(おほどのおう)が大和の豪族である大伴金村大連等に天皇となることを乞われても、直ちに首を振ることなく、たまたま知り合いであった、河内の馬飼首荒籠』(うまかいのあらこ)『に相談し、その話を受ける様勧められ、即位を決心した経過が』「日本書紀」に『述べられている』。『さて馬飼首とはどの様な人であったかを考えると、首とは職掌名を冠して賜る姓で、主として渡来人に付けられたものであるが、馬飼とは馬を飼育・調教する職種であった。こう書けば、今では大した職にみえないが、当時馬術は中国や朝鮮半島で軍備として、急速に発展してきたので、日本でも取り入れるべく、応神天皇の時代、貢物の一部として、馬や、それを育てる飼部(みまかい)が献上された、その中から馬飼首が誕生したと考えられる。現代風に言えばミサイルを操作するハイテクの技術屋集団の長であったのである。当然』、『この技術を通じて、大きな攻撃能力を有していたと考えられる』。『男大迹王が荒籠に頼んだのは、大和に入っても身の安全のための協力を求めたものであらう、この保証が得られたので、決心したと考えられる。それでも尚』、『警戒し、即位した場所が奈良でなく、大阪の樟葉(今の枚方市楠葉)で河内の地を選んだのであらう』とある。

「唱門師」「證文士」小学館「日本大百科全書」の「唱門師(しょうもんし)」によれば、『唱聞師、声聞師、唱文師、聖文師とも書き、「しょうもんじ」「しょもじ」ともいう。中世から名が現れ、民衆の門口に立って金鼓(きんこ)を打ち、経文や寿詞を唱える芸能の一種で、施しを乞』『うた。大和』『の興福寺に所属する唱門師はとくに知られ、清掃などで奉仕したが、一座を結成し、卜占』、『読経、曲舞(くせまい)などを行い、猿楽』『などの芸能を支配する権利を得ていた。近世の京都では大黒(だいこく)ともよばれ、皇居の門で元旦』『に毘沙門』『経を訓読して玉体の安穏を祈った。中世から近世初期にかけて毎年正月に宮中に出入りして千秋万歳(せんずまんざい)を奏したのも唱門師たちであった。京都のほか、近江』『や河内』『など各地に存在し、近世の大道芸人の先駆をなした』とある。

「賴朝公の將軍時代」頼朝の征夷大将軍宣下は建久三(一一九二)年三月十三日で、在位のまま建久一〇(一一九九)年一月十三日(満五十一歳)で急死しているから、事実とすれば、この閉区間の七年間のどこかとなる。

「天鈿女命(あめのうづめのみこと)」「猿田彦神(さるたひこのかみ)の妻」「猿女君(さるめのきみ)の祖先とも謂ふ女神」「岩戸隠れ」のストリップで特に知られる芸能の女神であり、日本最古の踊り子とされる。「天鈿女命」は「日本書紀」の表記で、「古事記」では「天宇受賣命」。参照したウィキの「アメノウズメによれば、『岩戸隠れで天照大御神が天岩戸に隠れて世界が暗闇になったとき、神々は大いに困り、天の安河に集まって会議をした。思金神の発案により、岩戸の前で様々な儀式を行った』その決め手となったのが、彼女のそれで、「古事記」では、『「槽伏(うけふ)せて踏み轟こし、神懸かりして胸乳かきいで裳緒(もひも)を陰(ほと=女陰)に押し垂れき。」
つまり、 アメノウズメがうつぶせにした槽(うけ 特殊な桶)の上に乗り、背をそり胸乳をあらわにし、裳の紐を股に押したれて、女陰をあらわにして、低く腰を落して足を踏みとどろかし(』「日本書紀」では『千草を巻いた矛を、「古事記」では『笹葉を振り)、力強くエロティックな動作で踊って、八百万の神々を大笑いさせた。その「笑ひえらぐ」様を不審に思い、戸を少し開けた天照大神に「あなたより尊い神が生まれた」とウズメは言って、天手力雄神』(たぢからのをのかみ)『に引き出して貰って、再び世界に光が戻った』。また、『天孫降臨の際、邇邇芸命(ににぎ)が天降ろうとすると、高天原から葦原中国までを照らす神がいた。アメノウズメは天照大御神と高木神に、「手弱女だが顔を合わせても気後れしない(面勝つ)からあなたが問いなさい」と言われた。この時のアメノウズメは』、「日本書紀」によれば、『「その胸乳をあらわにかきいでて、裳帯(もひも)を臍(ほそ=ヘソ)の下におしたれて、あざわらひて向きて立つ。」』たとする。『つまり、乳房をあらわにし、裳の紐を臍の下まで押したれて、あざわらいながら向かって言った』のであった。『その後』、その神の『名を問い質すと』、彼は『国津神の猿田毘古神と名乗り、道案内をするために迎えに来たと言った』とある。『アメノウズメは天児屋命(あめのこやね)、布刀玉命(ふとだま)、玉祖命(たまのおや)、伊斯許理度売命(いしこりどめ)と共に五伴緒の一柱として』、『ニニギに随伴して天降りした。アメノウズメは猿田毘古神の名を明かしたことから』、『その名を負って仕えることになり、猿女君の祖神となった。一説には猿田毘古神の妻となったとされる』ことで、柳田國男が挙げた異名は総て説明される。『白川静は』「字訓」で、『「神と笑ひゑらぐ」巫女の神格化である。「神々を和ませ 神の手較ぶ(真似する)」神事の零落したものが、現在の芸能であり、折口信夫によれば、滑稽な技芸である猿楽(さるがく
能や狂言の祖)は、猿女のヲコのわざと一脈通じるという(上世日本の文学 天細女命)』。「巫女考」で『芝居の狂人が持つ竹の枝を「ウズメの持つ」笹葉が落ちたものとする柳田國男の説を享けた折口信夫は、手草』(たくさ:歌ったり舞ったりする際に手に持つもの。神楽の採り物としての笹などを指す)『を「神である」物忌みを表す標とし、「マナを招く」採り物とは別であるとした』。『谷川健一が、笑いと狂気という、「人間の原始的情念」の一環が噴出したものとしてあげ』ており(「狂笑の論理」)、『天の岩戸の前における「巧みに俳優をなす」彼女の行為は、神への祭礼、特に古代のシャーマン(巫)が行ったとされる神託の祭事にその原形を見ることができ』、『いわば』、『アメノウズメの逸話は古代の巫女たちが神と共に「笑ひゑらぐ」姿を今に伝えるものである』と言えよう。折口信夫は「上世日本の文学」で、『カミアソビは「たまふり」の儀礼であり、岩戸で行なったウズメの所作は「マナ(外来魂)を集め、神に附ける」古代の行為である』とし、さらに、『死者の魂を呼ぶ儀礼が遊びであるため、「岩屋戸の神楽は、天照大神が亡くなったため興った」という説は再考すべきだと言っているが、少なくとも』「延喜式」では、『宮廷で行われた古代の鎮魂祭において、巫女たちが「槽ふし」』の『激しい踊りを大王家の祖神へ奉納する儀礼に猿女も参加したことが記されている』。また、彼女の伝承で海産無脊椎動物フリークの私が好きな一つが、以下で、『アメノウズメは大小の魚を集めて天孫(邇邇芸命)に仕えるかどうか尋ねた。みな「仕える」と答えた中でナマコだけが何も答えなかったので、アメノウズメはその口を小刀で裂いてしまった。それでナマコの口は裂けているのである』という話である。]

すみれの花 國木田獨步

 

  すみれの花

 

うれしき夢を去年の春

見はてし朝のかなしみを

君が誠の淚もて

そゝぎし花を力にて

ゆふべ僅にしのびにき

 

かの花今はいかにせし

君が送りて慰めし

すみれの花はいかにせし

とてもはかなき戀ゆへに

慰めかねて枯れにしか

 

[やぶちゃん注:「ゆへに」はママ。初出は明治三一(一八九八)年二月十日発行の『國民之友』。この詩篇も没後の「獨步遺文」に「相馬良子に送りて近頃音信無きを恨む」という詩篇が載り、それは本篇の異稿と考えられる。この「相馬良子」とは相馬黒光(そうまこっこう 明治九(一八七六)年~昭和三〇(一九五五)年:國木田獨步より五歳歳下)のことで、ウィキの「相馬黒光によれば、彼女は『夫の相馬愛蔵とともに新宿中村屋を起こした実業家、社会事業家で』『旧姓は星、本名は良(りょう)』である。『明治女学校在学中』(明治三〇(一八九七)年同校卒業)『に島崎藤村の授業を受け、また従妹の佐々城信子を通じて』、『国木田独歩とも交わり、文学への視野を広げた。「黒光」の号は、恩師の明治女学校教頭から与えられたペンネームで、良の性格の激しさから「溢れる才気を少し黒で隠しなさい」という意味でつけられたものと言われている』とある。また、國木田獨步の日記「欺かざるの記」の明治二九(一八九六)年四月三十日の条に本篇の背景と思われる内容が記されてある。この情報は底本解題に拠ったが、引用は底本全集の第七巻の「欺かざるの記」の当該条を用いて(やや長い)、同日分全文を以下に引くこととする。当時の獨步(満二十四歳)の内奥の苦悩がひしひしと伝わってくるものである。区分ダッシュは底本よりも引き上げてある。下線はママで、太字は底本では傍点「ヽ」。

   *

三十日。

 吾を光と強と柔和と勇氣と忍耐と、眞理と理想との器となせと自から言ふ。

 然り。されど、吾が信子を戀ふる心いとゞ深く、彼の女なければ此の世に倦み疲るゝ心地す。

 彼の女の遂に吾を見捨てたる今日。寒風一陣、心頭に吹き入りて、めぐりじて吾をなやます。吾が心、色と光とのぞみとを見ず。

信子、信子、汝と吾とは同じ東京市中の僅に里餘の地にすみ乍ら、汝の心、いかにしてかくも我より遠ざかりつるぞ。

今更ら言ふもせんなし。せんなきが故に苦し。苦しきが故に此の世うしつらし。

鳴呼、戀てふものゝ苦しきかな。冷めし戀の夢を逐ふ苦み、何にかたとへん。

永久にわれ信子を愛す。吾が心に信子益〻戀し。

彼の女は最早、戀の墓か。然らば吾れ其の中に埋められん。

 ―――――――――――――――――――

此の世の事に思ひなやむ吾が心。

曰く、何を爲す可き。曰く、如何にして身を立てん。曰く、われは貧し。曰く、無學なり。日く、愚者にして怠慢者なり。曰く、文學者詩人たらんか。曰く、政治家たらんか。曰く、傳導者たらんか。曰く、凡て吾が長所に非ず。曰く、われは一個狂漢、望者、呪はれし者なり。

思ひなやむ心の苦しさ。

永しへに此の地上に長らふるものゝ如くにもだえ苦しむ。

少壯の時は去らん。忽ち老い、忽ち死すべし。生已にはかなく、其のはかなきつかの間の生すら此くの如くに苦し。

さりとて自殺もえせず。自殺は罪と思へば死の後のおそろしきかな。生已に苦しく、死もまた恐ろし。

生は苦惱、死は恐怖、此の身は地獄の中央に立つ。火焰なき、劒鎗なき、熱湯なき、何もなき荒野の如き地獄の苦しくもあるかな。

今の苦惱を逗子に於ける愛樂に比べ來れば、われは高山の頂より深谷窟底に投げこまれしが如し。[やぶちゃん注:底本では、ここが行末になっている。文の流れから以下改行と採った。]

されど友義!

今日に當りてせめてもの心の避難所は、友義のあたゝかき情にぞある。

吾をせむるもの左の如し。

愛の破壞、貧困、無職業、自暴自棄、天地悲觀。

右の五個、此の一つだにあらば人は苦しきものを、此の五個相結んで吾を攻む。

信子の離婚は吾が愛を破りて無窮の悲痛を與へ、老父母を憂へしむる貧困は殆んど胸塞ぐの思あらしめ、自信消え自から自己を呪ふに至りて殆んど何の希望もなく、これに加ふるに神の愛を感じ永生を感ずる能はざる無信仰は實に此の天地を暗き世界と化せしむ。

此の五個のもの、未だ十分其の力を逞ふせずと雖も、尚ほ且つ吾を苦しむるに十二分の力あり。

されど吾、此の五個を征服せずんは止まじ。

吾あに何時までか自暴自棄するものならんや。吾あに遂に神の愛を感ぜざらんや。吾あに業なくして止まんや。吾あに貧に苦むものならんや。貧しき他の人を見て憐れめ。自家の富を願ふものならんや。

たゞ愛、信子の愛、壞れしを如何せん。忍びて丈夫(ますらを)の如くに立たんのみ。

 ―――――――――――――――――――

ヨブ記を讀み了はる。

 ―――――――――――――――――――

午前早朝星良子孃を訪ふて事の永次第を語りぬ。

孃泣く。

二十九日に送りたる吾が書狀を讀みて良子孃泣きぬる由、傍に在りし友、孃を促して九段坂下の花園に到り、孃わがためにすみれを求めて歸り、これを吾におくらんと思ひ居りし由を語りぬ。餘其の好意を謝し、自ら其のすみれを携へて歸宅し、今机上在り。

   *

以下、改題に掲げられた「獨步遺文」の異稿を示す。

   *

 

 相馬良子に送りて近頃音信無きを恨む

 

菫の花は如何にせし

君が送りて慰めし

かの花今は如何にせし

 

嬉しき夢を去年の春

見果てし朝の悲を

君が誠の淚もて

濺ぎし花を力にて

夕べ僅にしのびにき

 

かの花今はいかにせし

とてもはかなき我なれば

我を見捨てゝ枯れにしか

 

   *]

わかれ 國木田獨步

 

  わ か れ

 

今日を限りの別れとは

夢知らざりき、夢にのみ

行末の日を樂しみし

我世もゆめとなりにけり

 

目もはるかなる野末見よ

遠山かすむ彼方には

人住む里も多からむ

其里戀ひし、君が行く

 

十とせの後の冬の夜に

君が門の、たゝかむをり

せめては内に入れたまへ

こしかたの夢かたるべし

 

君は彼日を語りいで

われは彼夜を忍ぶべし

梢をわたる風の音は

かたみの淚さそひつゝ

 

もゝとせの後、秋の夜半

月冷やかにかげ澄みて

君が塚石てらすべし

蟲の音しげき山里に

 

わが墓いつか苔むして

文字さだかにも讀めぬ日は

誰か知るべき、君とわれ

住て此世に逢ひし事を

 

逢ては別れ、別れては

東に西に埋れゆく

(千世の昔の神世より)

はかなき人の多からめ

 

斯くて恨の盡きはせじ

かくて此世は昔より

戀のかばねを冬枯の

あらしにさらす墓ならめ

 

小川谷川、すえ終に

大海原に注げども

人の情のなみだ川

湛えてくまん時ぞなき

 

[やぶちゃん注:初出は明治三一(一八九八)年二月十日発行の『國民之友』。この詩篇、没後の「獨步遺文」の「別れ」という詩篇が載り、それは本篇の異稿と考えられる。但し、この異稿は複雑で、まず、異稿も本篇と同じく一連四行の全九連から成るものの、そちらでは本篇の最終第九連目の詩句は存在せず、それは、

   *

 

 淚  川

 

小川谷川末終に

大海原に注げども

人の情の淚川

湛へて汲まむ時ぞ無き

 

   *

となっている(解題では以下の異稿の後に続くようにこの「淚川」は示されているが、果たして事実そうなのかどうかは、原本に当たれぬので不明である)。底本解題に異稿全体も示されてあるので、それを以下に示す。

   *

 

 別  れ

 

今日を限りの別れとは

夢知らざりき夢にのみ

君に遇瀨を樂しみし

我世も夢となりにけり

 

目もはるかなる野末見よ

遠山霞む彼方には

人住む里も多からん

其里戀ひし君が行く

 

人の世古き昔より

逢うては別れ別れては

また逢ふこともあらなくに

別れし人も多からめ

 

の後の冬の夜に

君が門の叩かみ折

せめては内に入れ給へ

越し方の日を語るべし

 

君は彼日を語り出で

我は彼夜を忍ぶべし

梢をわたる風の音は

かたみの淚さそひつゝ

 

後の秋の夜の

月は木の間を迷ふにも

君がおくつき照らすべし

蟲の音しげき山里に

 

吾が墓いつか苔むして

文字さだかにも讀めぬ日は

誰か知るべき君と吾

住みて此世に逢ひし事を

 

逢ては別れ別れては

東に西に埋れ行く

千代の昔の神世より

はかなき人の多からめ

 

逢ふは束の間別れこそ

はてなき恨み此世こそ

戀の屍と冬枯の

あらしに曝す墓ならむ

 

   *

第三連の「逢うて」はママである。]

花袋君の「わが跡」を讀みて 國木田獨步

 

  花袋君の「わが跡」を讀みて

 

ゆふ日さびしき砂の上に

のこせし君が足あとは

とこしへの波、音もなく

みちしほ夜半の

夜半のみちしほ搔きけさむ

 

うらみそ君よ、人の世に

きざみし人の足あとの

人の足あといつまでか

あゝ幾とせかのこるべき

 

なぐさめ兼ねて、一人して

狂ひあるきそ、此世をば

伊勢の濱荻をりしきて

眠れ荒磯、あらいそ千鳥

君がうれしき友ならむ

 

狂へばとて泣けばとて

誰れか可笑しとわらふべき

吹く潮風に身をまかし

仰げ月影、月かげ仰ぎ

夢に常世の春をみよ

 

[やぶちゃん注:初出は明治三一(一八九八)年二月十日発行の『國民之友』で、以下の「わかれ」「すみれの花」とともに三篇一緒に発表している。署名は江聲樓主人。ここで國木田獨步が素材とした田山花袋作「わが跡」というのは、先に示した國木田獨步も十五篇を載せている、明治三一(一八九七)年一月增子屋(ますこや)書店刊の、石橋哲次郎(愚仙)編になる詞華集「新體詩集 山高水長」の田山花袋のパートに載る「わが跡」のことである。後に本邦の自然主義小説のチャンピオンとなる田山花袋(明治四(一八七二)年~昭和五(一九三〇)年:本名は録弥(ろくや)。群馬県(当時は栃木県)生まれ)とは、先行する前年の同じ石橋編の詞華集「抒情詩」刊行の一年前の明治二九(一八九六)年、國木田獨步は渋谷村(現在の東京都渋谷区渋谷駅近く)に居を構え、作家活動の本格再始動に入るや、同年年末の十一月十六日に田山花袋と松岡国男(後の柳田國男)の訪問を受けて以来、親しく交わっていた(これも既に述べたが、この花袋も國男もやはり詞華集『抒情詩』に詩を載せた「詩人」であったのである)当該詩篇を、既に「国文学研究資料館」の「近代書誌・近代画像データベース」の「高知市民図書館近森文庫所蔵」版視認し、以下に電子化しておく。

   *

 

 わ が 跡

 

一ツ見えつる帆のかげも

いつしか遠くなり行きて

立つはしら波寄るは潮

秋のゆふべのうらさびし

 

いそ山越えて見かへれば

過ぎて來にけるわが跡は

ひと筋ながくのこるなり

夕日さびしき砂の上に

 

あはれはかなきその跡を

誰かは知らんわび人の

なぐさめかねて一人して

狂ひありきしあとなりと

 

   *

因みに、私はこの田山花袋のそれ、國木田獨步のそれを一読するや、直ちに私の偏愛する後の國木田獨步の小説「運命論者」(明治三六(一九〇三)年発表)を思い出した。

「伊勢の濱荻」諺「難波(なにわ)の葦(あし)は伊勢の浜荻」(難波で「葦」と呼ぶ草を、伊勢では「浜荻」と呼ぶように、物の名・風俗・習慣などは土地によって違うことの喩え)を利かしたもので、さればこそ、この「濱荻」は磯に生える荻(単子葉植物綱イネ目イネ科ススキ属オギ Miscanthus sacchariflorus)を指すのではなく、同イネ科Poaceae の「葦」(=「蘆」=「葭」)、ダンチク(暖竹)亜科ヨシ属ヨシ Phragmites australis を指す。

「あらいそ千鳥」「千鳥」(ちどり)は狭義には鳥綱チドリ目チドリ亜目チドリ科 Charadriidae の多数種群の総称であるが、それに似た種群も含め、さらには広汎に「沢山の鳥」という意味でも万葉以来、用いられてはきた。敢えてここで狭義の例を示すなら、本邦では「チドリ」と総称される種は十一種いるが、その中で本邦内で繁殖する五種の内、海岸附近で観察されることが多いのはチドリ科チドリ属シロチドリ Charadrius alexandrinus・チドリ属コチドリ Charadrius dubius などである(チドリ科タゲリ属ケリ Vanellus cinereus・タゲリ属タゲリ Vanellus vanellus もいるが、彼らは概ね干潟で、「あらいそ」、岩礁性海岸では見かけないこと、彼らの和名に「チドリ」が附かぬことから除外し、残る繁殖種であるチドリ属イカルチドリ Charadrius placidus は海岸で見られることは稀れとあるのでこれも除いた)。]

2019/03/17

和漢三才圖會卷第三十八 獸類 一角(うんかふる/はあた:犀角) (海獣イッカクの角)

 Unikauruうんかふる 巴阿多

はあた   宇無加布留【共蠻語也】

一角

      疑此稱犀之

      通天者乎

△按宇無加布留俗用一角二字阿蘭陀市舶偶來而爲

 官物尋常難得其長六七尺周三四寸色似象牙而微

 黃外靣有筋畾畾如竿麩至末一二尺細尖而筋亦無

 之微曲斜也内有空穴其穴徑四分許價最貴故以白

 犀角充之其白犀角從交趾來【近年是亦希也】其色白不潤長

 者尺餘破之如竹有禾理外靣無筋見其全躰則大異

 矣

――――――――――――――――――――――

辟塵犀爲簪梳帶胯塵不近身 辟寒犀夏月能淸暑氣

辟寒犀其色如金冬月暖氣襲人 蠲忿犀爲帶令人蠲

去忿怒此皆希世之珍

うんかふる 巴阿多

はあた   宇無加布留【共に蠻語なり。】

一角

      疑〔ふらく〕は、此れ、犀の

      通天と稱する者か。

△按ずるに、宇無加布留〔(ウンカフル)〕、俗に「一角」の二字を用ふ。阿蘭陀の市舶〔(しはく)〕[やぶちゃん注:交易船。]、偶(〔たま〕たま)來りて官物[やぶちゃん注:幕府への公納品。]と爲す。尋常〔には〕得難し。其の長〔(た)〕け、六、七尺。周〔(めぐ)〕り三、四寸。色、象牙に似て微〔かに〕黃。外靣、筋〔(すぢ)〕有り、畾畾〔(るいるい)〕[やぶちゃん注:「累々」に同じ。]として、竿麩(さをふ)[やぶちゃん注:棒麩と同義でとっておく。]のごとし。末、一、二尺に至りて細く尖り、筋も亦、之れ無し。微かに曲〔りて〕斜〔めとなる〕なり。内に、空穴、有り、穴〔の〕徑〔(わた)り〕四分[やぶちゃん注:一センチ二ミリメートル。]許り。價ひ、最も貴〔(たか)〕し[やぶちゃん注:非常に高額である。]。故に白犀〔(しろさい)〕の角を以つて、之れに充(あ)つ。其の白犀の角は交趾(カウチ)[やぶちゃん注:ベトナム北部。]より來たる【近年、是れ亦、希れなり。】。其の色、白くして潤〔(うるほ)〕はず。長き者〔は〕尺餘り。之れを破れば、竹のごとき禾理(のぎめ)[やぶちゃん注:節理構造。]有り。外靣、筋無く、其の全躰を見れば、則ち、大きに異なり[やぶちゃん注:少し離れて全体を見た時と、このように割り裂いた場合に観察される様態は大いに異なっているのである。]。

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「辟塵犀〔(へきじんさい)〕」は簪-梳〔(かんざし)〕帶-胯〔(おびどめ)〕と爲す。塵、身に近づかず。 「辟寒犀」は、夏月、能く暑氣を淸め、「辟寒犀」は、其の色、金のごとく、冬の月、暖氣、人を襲〔(つつ)〕む[やぶちゃん注:自然に温める。]。 「蠲忿犀〔(しよくふんさい)〕」は帶と爲〔さば、〕人をして忿怒〔(ふんぬ)〕を蠲-去(さ)らしむ。此れ、皆、希世の珍なり[やぶちゃん注:世にも稀なものの中のまたまた珍品というべきものである。]。

[やぶちゃん注:前項の「犀」(サイ)(哺乳綱奇蹄目有角亜目 Rhinocerotoidea 上科サイ科サイ属(タイプ属)Rhinoceros )の角は中実角(ちゆうじつづの)で、サイ類に見られる、中に空洞も骨質の芯もない角で、毛状の繊維(毛ではない)が固まって出来ており、絶えず成長するタイプのものであるから、ここで角の中に穴があると言っている以上、それはサイの角ではない外来語とする「うにかふる」「宇無加布留〔(ウンカフル)〕」はポルトガル語の「ウニコール」(unicorne)で、これは原義は西洋の想像上の動物である一角獣(ユニコーン:ドイツ語:Einhorn/フランス語:licorne:角を持つ馬に似た姿で描かれることが多く、伝承は聖書に溯り、最強の動物で捕らえ難いが、処女(=聖母マリア)には馴れ親しむ。則ち、ユニコーンをイエス・キリストに見立てるキリスト教的寓意譚もある)であるが、実際のその正体は海棲哺乳類であるイッカク(鯨偶蹄目イッカク科イッカク属イッカク Monodon monoceros:一属一種)のの牙である。ウィキの「イッカク」によれば、体長はで約四・七メートル、雌で約四・二メートルに達し、の体重は一・五トンにも『達することがあるが』、は一トンに『満たない。胸びれは短く、成体では先端が上方に反る』。『また、背びれは持たない。尾びれは扇形で、中央に顕著な切れ込みがある』。『身体の大部分は青白い地に茶色の斑点模様であるが、首、頭部、胸びれや尾びれの縁などは黒い。年長の個体の模様は若い個体よりも明るい。老齢の個体はほぼ真っ白になるため、角が確認出来なかった場合などに』同じイッカク科Monodontidae であるシロイルカ(鯨偶蹄目 Whippomorpha 亜目 Cetacea 下目ハクジラ小目イッカク科シロイルカ属シロイルカ Delphinapterus leucas)『と誤認される事もある』。『イッカクの雄の特徴は』一『本の非常に長い牙で』、『この牙は歯が変形したものである。イッカクの歯は上顎に』二『本の切歯があるのみであるが、雄では左側の切歯が長く伸びて牙となる。牙には左ねじ方向の螺旋状の溝がある。その大半が中空で、脆い。先端はつやのある白』で、『体長が最大で』四・七メートル『程度であるのに対し』、『牙の長さは』三メートル、『重さは最大』で十キログラム『に達することもある。通常牙は一本であるが』、五百『頭に』一『頭程度の割合で』二『本有する個体も存在する。この場合、もう一本の角は左側より短いが、同様に左ねじ方向の螺旋状である。また雌は通常、牙を持たないが、約』十五%『程度の確率で』一・二メートル『ほどの華奢な牙が生える。また、野生においては一例、二本の牙を持つ雌が確認されている』。『牙の役割については多くの議論が交わされてきた。以前』『は棲息地である北極海を被う氷に穴を開けるために発達しているという説や反響定位(エコーロケーション)のための器官であるという説、この牙で獲物を気絶させ』、『捕食する説などがあった』が、『最近』『では牙の電子顕微鏡検査によって内側から外へ向かう神経系の集合体と判明し、高度な感覚器として知られるようになった。この牙を高く空中に掲げることにより』、『気圧や温度の変化を敏感に知ることがイッカクの生存環境を保つ手段となっている。 また、大きな牙を持つ雄は雌を魅了することができるようである。ゾウの牙と同様に、イッカクの牙は一旦折れてしまったら』、『再び伸びることはない』。『イッカクは俊敏で活動的な哺乳類であり、主な食料はタラの類の魚である。しかしながら、ある海域では餌としてイカを食べることに適応している。イッカクは』五『頭から』十『頭程度の群を作る。夏の間、いくつかの群が一緒に行動し』、『同じ海岸へ集まることがある。繁殖期には雄同士が牙を使って争う。ただし、この争いは角を使って傷つけ合う戦いではなく』、『互いの角の長さや持ち上げた角度で優劣を決める戦いであるということが近年』、『分かってきた。この争いにより勝った雄は』、『雌を多数従えたハーレムと呼ばれる繁殖集団を形成する』。『イッカクは潜水が得意で』、『典型的な潜水は』毎秒二メートル『程度の速度で』八『分から』十『分間下降して』一千メートル『程度の深海に達し、数分間過ごした後、海面に戻る』千百六十四メートル『まで潜水した記録がある。通常の潜水時間は』二十『分間程度であるが』二十五『分間潜水したという記録も例外的にある』。『イッカクが見られる海域は北極海の北緯』七十『度以北、大西洋側とロシア側である。多くはハドソン湾北部、ハドソン海峡、バフィン湾、グリーンランド東沖、グリーンランド北端から東経』百七十『度あたりの東ロシアにかけての帯状の海域(スヴァールバル諸島、ゼムリャフランツァヨシファ、セヴェルナヤ・ゼムリャ諸島など)などで見られる。目撃例の最北端はゼムリャフランツァヨシファの北、北緯』八十五『度で、北緯』七十『度以南で観察されることは稀である』。『大多数の個体が棲息している海域は、カナダの北やグリーンランドの西のフィヨルドや入り江であると推測されている。航空機を用いた上空からの調査により、生息数は約』四『万頭程度であるという結果が報告されている。上空からは視認できない深度の海中にいたであろう個体数を加算すると、全生息数は』五『万頭を超えると推測される』。『イッカクは回遊』し、『夏の間は海岸近くの海域に移動する。冬が近づき海の凍結が始まると、海岸から離れて浮氷に覆われた海域に移動する。春になり浮氷の裂け目が広がる季節になると、再び海岸に近くに戻ってくる』。『イッカクの主な捕食者はホッキョクグマとシャチである』。『イッカクの棲む海域はヨーロッパの人々にとってはあまりにも北であったため』、十九『世紀までは伝説の動物だった。イヌイットとの交易を通してのみ、イッカクの存在が伝わっていた。イヌイットの間では』、『ある女性が銛にしがみついたまま海に引きずり込まれ、その後、女性はシロイルカにくるまれ、銛は牙となって、それがイッカクとなったという伝説が伝わっている』。以下、角についての記載。『ユニコーン(額に一本の角の生えた馬の姿を持つ伝説上の生物)の角は解毒作用があると考えられたため、中世ヨーロッパではユニコーンの角と偽ってイッカクの角が多数売買された』。『江戸時代の日本にもオランダ商人を通じてイッカクの角はもたらされた。当時の百科事典である』本書「和漢三才図会」にも『イッカクが』かく『紹介されて』おり、後の博物学的文人であった木村蒹葭堂(けんかどう 元文元年(一七三六)年~享和二(一八〇二)年)『の著した「一角纂考」という書物には、鎖国の中で』ありながら、『木村自身が調べあげたイッカクの生態や、ユニコーンなどの西洋の伝説と共に、実際の詳細な骨格や、珍しい』二『本の牙を持つイッカクのことも紹介されている』。『漢方薬の材料としてもイッカクの角は使われ、研究者が標本として、漢方薬店で見つけたイッカクの角を購入した事もある』とある。なお、イカックの角については、サイト根付て」の「ウニコールとセイウチの見分け方が画像もあり、非常によい。それによれば、『ウニコールは、象牙や黄楊よりも大変貴重で、江戸時代には毒消しや難病の漢方薬として同じ重さの金以上の価格で取り引きされていました。そのような薬を根付として携帯することで、同時に薬を携帯するという一石二鳥の意味もあったようです』『ヨーロッパにおいても、ユニコーン伝説を元にして、北洋の船乗り達が持ち帰った一角鯨の角は、貴重品として王侯貴族に献上されたようです。現在でも欧米のオークションで一角鯨の角は、置物や美術品として高値で取り引きされています』とし、リンク先に写真で示された二・五メートルのもので約百万円の値がついているとある。『ウニコールの最大の特徴は、表面にあるその左まき螺旋状のひだ模様です。ウニコールをまねたフェイク根付には、このひだ模様を巧みに真似たものがありますが、その味のある独特の模様は人工的に彫刻して再現することは困難です。簡単に見破れます。よって、江戸時代の根付師には、材質がウニコールであることを証明するため、このひだ模様を意匠の中にわざと一部分残して彫刻した者もいます』とある。必見!

「巴阿多」語源不詳であるが、仏典の漢訳的雰囲気はある。

「通天」前項参照。

「周〔(めぐ)〕り」角の円周。

「白犀〔(しろさい)〕」文字通り受け取ってしまうと、シロサイ属シロサイ Ceratotherium simum となるが、シロサイはアフリカ大陸の東部と南部にしか分布しないので、「交趾(カウチ)[やぶちゃん注:ベトナム北部。]より來たる」もので、鎖国当時の本邦にその角が齎された可能性はゼロに近いと思われ、何より、中実角の問題があるから、シロサイではあり得ず、やはりイカックのそれであろう。

「辟塵犀〔(へきじんさい)〕」中文サイトを見るに、ここは唐の劉恂(りゅうじゅん)の「嶺表録異」の注からの「本草綱目」への引用。

「帶-胯〔(おびどめ)〕」東洋文庫訳は『おびがね』とルビする。

「辟寒犀」ここは五代の王仁裕 (八八〇年~九五六年) の「開元天宝遺事」からの「本草綱目」への引用。

「蠲忿犀〔(しよくふんさい)〕」中文サイトを見るに、唐の蘇鶚(そがく)の「杜陽雜編」からの「本草綱目」の引用。「蠲」には中国語の古語で「免除する」の意がある。]

柳田國男 山島民譚集 原文・訓読・附オリジナル注「河童駒引」(32) 「守札ヲ配ル職業」(2)

 

《原文》

 【土御門家】此等ノ配札者ハ昔ハ悉ク陰陽師ヨリ分レ出デタリシモノヽ如ク、後世マデモ其多數ハ陰陽道ノ總管長タル土御門家ノ支配スル所ナリキ。【梓巫】例ノ猿牽職ノ如キモ亦梓巫(アヅサミコ)ヤ萬歳師ナドト共ニ、正シク其中ノ一種ナリ。此徒ハ何レモ自分ノ持場々々アリテ、祈禱ヲシタル札ヲ配布シテアルク外ニ、宗教家ニモ似合ハズ舞ヲ舞ヒ歌ヲ歌ヒテ家々ヲ巡ルガ常ノ業體ナリシナリ。【竃拂】後世歌舞ト配札トガ次第ニ各一方ニ分ルヽコトヽナリタレドモ、猶竃拂ト云フ巫女ノ如キハ近キ頃マデ民家ニ札ヲ配リニ來リ、且ツ竃ノ前ニ於テ鈴ヲ振リ舞ヲ舞ヘリ。梓神子家職ニ關スル安永二年ノ田村八太夫掟書ニハ、珠數占(ジユズウラナヒ)相勤ムべキ事、繪馬配ルべキ事ナドトアリ〔祠曹雜識三十六〕。寺社方ニ勤務シタル稻葉丹後守ノ手控ニハ、同ジク梓女ノ家職トシテ、繪馬ト申シテ猿馬ヲ牽キ候繪ヲ正月配リ候事トアリ〔寺社捷徑〕。之ニ由リテ思フニ、右ノ猿牽職ノ輩モ以前ハ厩ノ守護ノ札ヲ配リ居タリシ者ナルべシ。備後ノ福山領ニテハ以前ハ正月ニ猿牽猿ヲ負ヒテ農家ニ來ル。【鹽】或ハ馬屋ノ祈禱トテ猿ヲ連レ參リ、鹽ヲ振リ何カ唱ヘテ猿ヲ牽ク人ノ畫ヲ貼附ク。猿牽ハ頭アリ。今ノ蘆品郡有磨村大字有地ニ居住セリ。此者藩主ノ馬ノ祈禱ヲスルニ、正五九月帶劍袴ニテ厩へ罷リ出デ、幣四本馬ノ繪四枚差シ上ゲ何カ唱ヘゴトヲ爲セシトナリ〔風俗問狀答書一〕。蓋シ猿ガ御幣ヲ擔ギテ片手ニ馬ノ綱ヲ曳ク所ノ繪紙ノ如キハ、元ハ皆此者ノ手ヨリ貰ヒ受ケテ之ヲ厩ノ口ニ貼リシモノナラン。古代ノ板繪ハ無造作ニ粗末ナル者多シ。【山王】今若シ武藏西多摩郡西秋留(ニシアキル)村大字引田ノ山王社ノ天正十七年ノ繪馬ノ如ク、御幣ヲ手ニセザル猿ガ馬ヲ曳ク繪札ノ古キモノアリキトセバ、河童駒引ノ傳ノ如キハ之ヲ發生セシムルコト極メテ容易ナリシナルべシ。卽チ馬ガ急病ノ爲ニ騰リ狂フ處ヲ猿ガ取鎭メントシテ居ルモノカ、ハタ又猿ニ似タル獸ガ馬ヲ捕ヘ殺サントスルヲ馬驚キテ之ニ抵抗セントスルノ圖ナルカ、由來ヲ忘却シタル者ニハ一見シテ之ヲ判別スルコト容易ナラズ。或ハ猿ノ形ガ甚ダ小サクシテ如何ニモ力無ゲニ見エ、且ツ馬ノ方ニ向ヒテ垂レ下ルヤウニシテ居ルヲ見テ、此ハ是レ怪物敗北ノ樣ヲ描キタル歷史畫ナルべシト速斷セシ者無キヲ保セザルナリ。【猿ト河童】而シテ猿ハ河童ノ敵ナリト云フ一、又ハ紀州田邊邊ニ於テ猿ト河童トハ兄弟分ナリト云ヒ、猿河童ヲ見レバ急ニ水中ニ飛入ラントスルガ故ニ、猿牽ハ何レモ川ヲ渡ルコトヲ非常ニ忌ムト云フノ如キ〔南方熊楠氏報〕、亦此繪札ヲ猿牽ガ配リシカト想像セシムべキ一材料ナリ。又多クノ厩ノ守札ノ中ニハ、駒曳ノ外ニ鶺鴒ヲ蹈マヘタル馬櫪神ノ像モアレバ、或ハ單ニ勝善經ナドノ呪文ノミヲ書シタルモアリテ、此ダニ貼置ケバ牛馬ノ災難ハ決シテ無シト信ゼシコトガ、終ニハ此札ヲ以テ河童降參ノ怠狀ノ如ク言傳フル原因ト爲リシモノカ。【手形ハ守札】長州椿鄕ノ河童ノ手形ノ如キモ、之ヲ板行シテ希望者ニ頒チタリト云フ以上ハ、恐クハ亦右ノ配札ノ一種ニシテ、此等猿屋ノ手ニ由ツテ馬持百姓ノ家ニ配布セラレシモノナルベシ。長門又ハ周防ノ山村ニハ、猿牽ガ猿ヲ調教訓練スル猿ノ學校ノ如キモノアリ。入學者ハ多ク九州方面ヨリ來ルトノコトナリ〔石黑忠篤氏報〕。兎ニ角所謂「エンコウ」ト緣故ノ淺キ地方ニ非ザルコトハ確カナリ。

 

Hikitasannousyaema

      武州引田山王社古繪馬

       新編武藏風土記稿ヨリ

 

[やぶちゃん注:絵馬の図は黒の塗り潰しであるから、今回は晴れて底本の国立国会図書館デジタルコレクションの画像をダウン・ロードしてトリミングと補正をかけ、汚損と思われる箇所を徹底的に清拭して使用した。以下、同絵馬に就いての詳細キャプション。署名と花押は底本ではずっと下方になる。]

 

 竪八寸五分。橫六寸。畫樣猿ノ馬ヲ曳キタルモノナリ。繪馬ノ裏面ニ。

武州多西引田村。當領主日奉之朝臣。平山右衞門大夫也。此家中令知行當所内、有山王權現。古跡中年久者也。忝信心得心。過去因現在未來業。今歳天正十七己丑。奉再興新殿一宇。次自男號角藏者。十七歳而刻之。奉寄進當社也。仍而如件。

     甲州鶴郡鶴川祖生  志村肥前守

       所願成就皆令滿足  影元(押)

          引田眞照寺

 

《訓読》

 【土御門家(つちみかどけ)】此等の配札者は、昔は悉く陰陽師(おんやうじ)より分れ出でたりしものゝごとく、後世までも其の多數は、陰陽道の總管長たる土御門家の支配する所なりき。【梓巫(あづさみこ)】例の猿牽職のごときも亦、梓巫(あづさみこ)や萬歳師(まんざいし)などと共に、正(まさ)しく其の中の一種なり。此の徒は何れも自分の持場々々ありて、祈禱をしたる札を配布してあるく外に、宗教家にも似合はず、舞を舞ひ、歌を歌ひて、家々を巡るが常の業體(げふてい)[やぶちゃん注:有様。所行(しょぎょう)。「げふたい(ぎょうたい)」と読んでもよい。]なりしなり。【竃拂(かまどはらひ)】後世、歌舞と配札とが次第に各一方に分るゝことゝなりたれども、猶ほ、「竃拂」と云ふ巫女のごときは、近き頃まで、民家に札を配りに來たり、且つ、竃の前に於いて、鈴を振り、舞を舞へり。梓神子(あづさみこ)家職(かしよく)に關する安永二年[やぶちゃん注:一七七三年。]の田村八太夫掟書(おきてがき)には、『珠數占(じゆずうらなひ)相(あひ)勤むべき事、繪馬配るべき事』などとあり〔「祠曹雜識(しさうざつしき)」三十六〕。寺社方に勤務したる稻葉丹後守の手控(てびかへ)には、同じく梓女(あづさめ)の家職として、『繪馬と申して猿馬を牽き候ふ繪を正月配り候ふ事』とあり〔「寺社捷徑(じしやせふけい)」〕。之れに由りて思ふに、右の猿牽職の輩(やから)も、以前は厩の守護の札を配り居たりし者なるべし。備後の福山領にては、以前は、正月に、猿牽、猿を負ひて農家に來たる。【鹽】或いは馬屋の祈禱とて猿を連れ參り、鹽を振り、何か唱へて、猿を牽く人の畫(ゑ)を貼り附く。猿牽は頭(かしら)あり。今の蘆品(あしな)郡有磨(ありま)村大字有地(あるぢ)に居住せり。此の者、藩主の馬の祈禱をするに、正・五・九月、帶劍・袴にて厩へ罷り出で、幣(ぬさ)四本・馬の繪四枚、差し上げ、何か唱へごとを爲せしとなり〔「風俗問狀答書」一〕。蓋し、猿が御幣を擔(かつ)ぎて片手に馬の綱を曳く所の繪紙(ゑがみ)のごときは、元は皆、此の者の手より、貰ひ受けて、之れを厩の口に貼りしものならん。古代の板繪(いたゑ)は無造作に粗末なる者、多し。【山王】今、若(も)し、武藏西多摩郡西秋留(にしあきる)村大字引田(ひきだ)の山王社の天正十七年[やぶちゃん注:グレゴリオ暦一五八九年。]の繪馬のごとく、御幣を手にせざる猿が馬を曳く繪札の古きものありきとせば、河童駒引の傳のごときは之れを發生せしむること極めて容易なりしなるべし。卽ち、馬が急病の爲に騰(たけ)り狂ふ處を猿が取り鎭めんとして居るものか、はた又、猿に似たる獸が馬を捕へ殺さんとするを、馬、驚きて、之れに抵抗せんとするの圖なるか、由來を忘却したる者には、一見して之れを判別すること容易ならず。或いは、猿の形が甚だ小さくして如何にも力無げに見え、且つ、馬の方に向ひて垂れ下(さが)るやうにして居るを見て、此れは是れ、怪物敗北の樣を描きたる歷史畫なるべし、と速斷せし者無きを保せざるなり[やぶちゃん注:そういう早合点をした者が決して居なかったという断言は保証の限りではない。]。【猿と河童】而して猿は河童の敵なりと云ふ一、又は、紀州田邊(たなべ)邊(あたり)に於いて、猿と河童とは兄弟分なりと云ひ、猿、河童を見れば急に水中に飛び入らんとするが故に、猿牽は何れも川を渡ることを非常に忌むと云ふのごとき〔南方熊楠氏報〕、亦、此の繪札を猿牽が配りしかと想像せしむべき一材料なり。又、多くの厩の守札の中には、駒曳の外に鶺鴒(せきれい)を蹈(ふ)まへたる馬櫪神(ばれきじん)の像もあれば、或いは單に、「勝善經」などの呪文のみを書したるもありて、此れだに貼り置けば、牛馬の災難は決して無しと信ぜしことが、終(つひ)には此の札を以つて河童降參の怠狀(たいじやう)のごとく言ひ傳ふる原因と爲りしものか。【手形は守札】長州椿鄕(つばきがう)の河童の手形のごときも、之れを板行して希望者に頒ちたりと云ふ以上は、恐らくは亦、右の配札の一種にして、此等猿屋の手に由つて馬持百姓の家に配布せられしものなるべし。長門又は周防の山村には、猿牽が猿を調教訓練する「猿の學校」のごときもの、あり。入學者は、多く九州方面より來たるとのことなり〔石黑忠篤氏報〕。兎に角、所謂「エンコウ」と緣故の淺き地方に非ざることは確かなり。

   武州引田山王社古繪馬

  (「新編武藏風土記稿」より)

[やぶちゃん注:詳細キャプションは訓点が一切ないので自然流で読んだので保証の限りではない。また、句読点の一部を変えた。「某(それがし)」は志村景元である。]

 竪八寸五分、橫六寸。畫樣(ゑやう)、猿の馬を曳きたるものなり。繪馬の裏面に、

武州多西(たさい)引田(ひきだ)村、當領主日奉(ひまつり)の朝臣(あそん)平山右衞門大夫なり。此の家中の某(それがし)、當所の内を知行せしむに、山王權現、有り、古跡にして中し、年(とし)久しき者なり。忝(かたじけな)くも某(それがし)、心得て信心す。過去の因(いん)は現在・未來の業(ごふ)たり。今歳(ことし)天正十七己丑(つちのとうし/キチユウ)。再興して新殿一宇を奉る。次いで、某(それがし)自男[やぶちゃん注:「自(みづか)らの男(を)」で息子の意か、或いは「次男」の意か。])角藏と號せし者十七歳、之れを刻し、當社に寄進奉るものなり。仍(よ)つて件(くだん)のごとし

 甲州鶴郡鶴川祖生(そふ)  志村肥前守

   所願成就 皆 滿足せしむ  影元(押)

          引田(ひきだ)眞照寺

[やぶちゃん注:「陰陽道の總管長たる土御門家」平安時代以来、天文・陰陽両道で朝廷に仕えた家系。左大臣阿倍倉梯麻呂(くらはしまろ)の子孫安倍晴明が大膳大夫・天文博士となって以来、子孫代々その業を伝え、天変地異あるごとに朝廷・幕府に警告した。戦国時代に勘解由小路在富(かげゆこうじありとみ)が死んで暦術家が絶えた際、詔(みことのり)により、土御門有修(ありなが)は天文・暦術博士を兼ね、以後、同家は両博士を兼ねることとなった。子孫相次いで明治に至り、華族に列し、子爵を授けられている(以上は小学館「日本大百科全書」に拠った)。

「梓巫(あづさみこ)」関東地方から東北地方にかけて分布する巫女(みこ)の名称。梓弓は古代より霊を招くために使われた巫具(ふぐ)で、これを用いて「カミオロシ」(神降ろし)・「ホトケオロシ」(仏降ろし)をすることから、「梓巫女」の名が起った。能の「葵上」には「照日(てるひ)」と呼ばれる巫女が梓弓の弦を弾いて口寄せする謡(うたい)がある。津軽地方の「イタコ」は先に示した「いらたか念珠」を繰ったり、弓の弦を棒で叩いてトランス状態になり、また。陸前地方の巫女である「オカミン」たちは「インキン」と称する鉦(かね)を鳴らしながら、入神する(以上は平凡社「世界大百科事典」に拠った)。

「萬歳師(まんざいし)」万歳(まんざい)のこと。正月、家毎に回って祝言をの述べ、歌い舞い、祝儀を請う門付(かどづ)け芸の一種。形式は時代と土地で異なるが、普通、風折烏帽子(かざおりえぼし)に素襖(すおう)を着た「太夫」と、頭巾を被り、鼓を持つ才蔵とが一組になり、家毎に祝言を上げ、滑稽な掛け合いを成し、太夫が舞い、才蔵が鼓を打つ。古く鎌倉・室町時代に既に陰陽師支配下の「散所(さんじょ)」(古代末期から中世にかけて、貴族や社寺に隷属して労務を提供する代わりに、年貢を免除された人々の居住地及びその住民の称。鎌倉中期以降は広義に浮浪生活者などをかく呼ぶようになり、賤民視されるに至った。中世末から近世にかけては卜占(ぼくせん)や遊芸を生業とする者もそこから現れたりした)・「声聞師(しょうもじ)」(中世に於いて卜占を本業としつつ、各種の経読や曲舞(くせまい)などをも生業とした芸能民。門付けの芸で諸国を渡り歩いたことから、江戸時代には賤視の度を深めた)などの賤民の行う「千秋(せんず)万歳」があったが、近世になって「三河万歳」や「大和万歳」その外、各地に同類の門付け芸を行う集団が生じた。明治以後は次第に衰えたが、今日でも三河や知多の万歳は正月に諸方に出掛け、また、河内・尾張など各地の万歳も残っている(以上は主文を平凡社「百科事典マイペディア」に拠った)。

「竃拂(かまどはらひ)」「竈祓」が本義で「かまはらひ」「かまばらひ」「かまはらへ」「かまつぱらい」とも呼んだ。歳末や各月の晦日(みそか)などに巫女(みこ)体(てい)の者や「俄か山伏」などが来て、竈を清拭して祈祷を行い、注連縄を張って祭りを行った巫女。「かままつり」「竈注連(かましめ)」「荒神祓(こうじんばらい)」も同じ。

「珠數占(じゆずうらなひ)」「数珠(じゅず)占い」「念珠占い」などとも呼ばれる、数珠を用いた占い。嘗ては修験者(或いはそう称した者)や密教系の僧たちは盛んにこれを行ったらしい。

「寺社方に勤務したる稻葉丹後守」老中で相模小田原藩三代藩主・越後高田藩主・下総佐倉藩初代藩主であった稲葉正往(寛永一七(一六四〇)年~享保元(一七一六)年)か。彼は従五位下丹後守であったことがあり、天和元(一六八一)年四月に奏者番兼寺社奉行に就任している。但し、昇進が速く、同年十一月には京都所司代に転任しているので、七ヶ月と在任期間が短い。彼ではないのかも知れない。

「備後の福山領」備後福山藩。備後国(現在の広島県東部)南部と備中国南西部周辺を領有し、藩庁は福山城(現在の広島福山市内(グーグル・マップ・データ))。

「蘆品(あしな)郡有磨(ありま)村大字有地(あるぢ)」現在の広島県福山市芦田町には上有地(かみあるじ)下有地があるので、この周辺であろう(グーグル・マップ・データ)。「ちく文庫」版は「有地」にルビしないが、「あるじ」とすんなり読める人はそう多くはないと思うがなぁ?

「武藏西多摩郡西秋留(にしあきる)村大字引田(ひきだ)の山王社」現在の東京都あきる野市引田に、後の駒引絵馬の詳細キャプションに出る「眞照寺」が現存する(グーグル・マップ・データ)。真言宗引田山(ひきだざん)真照寺である。山王神社は確認出来ないが、恐らくは神仏習合当時のこの山王社の別当寺がこの真照寺であったものと推定される。同寺周辺の引田地区には六つもの神社・小祠を現認出来るので、これらの孰れかと思われるが、特定出来ない(何となく、距離的には東直近の熊野神社・御嶽神社辺りかなぁという感じはした)。しかし、執拗に検索を掛けた結果、「あきる野市教育委員会」発行の『郷土あれこれ』第二十八号(平成二八(二〇一六)年九月一日発行)のこちら(PDF)の齋藤慎一氏の記事によって、この絵馬(紙製の絵馬を刷るための板木として使用されたもので、柳田國男が挿絵として載せているのも摺られたものである)が現存し、現在はこの真照寺が所蔵していることが判った(この記事はこの「猿曳駒(さるひきこま)絵馬」が市指定文化財となったことを告げてもおり、本絵馬の時代背景を踏まえた細かな解説が示されている貴重な記録である。本書の本部分の欠くべからざる貴重な資料として要保存である)。しかも、この絵馬、東京都内に現存する最古の絵馬なのである!(記事参照) 裏の陰刻部についても解説が載り、平山右衛門大夫は平山直重かとされておられる。もしそうだとすると、彼はこの翌年に亡くなっている。天正一八(一五九〇)年、後北条氏に従ったここの一党(後注「日奉」参照)であった平山氏であったが、調べて見たところ、父平山氏重とこの嫡子直重は、翌年の檜原城での戦いの後、千足の地で討ち死にしたとされているからである。記事でも『絵馬奉納の翌年』の七月五日に『平山右衛門大夫の属した後北条氏は豊臣秀吉に幸福、振ら山右衛門大夫直重も』、『早く』、六月二十三日の『八王子城落城と共に討死したことで』あろうとし、さらに『天正頃の後北条氏軍役の規定で、志村家の負担する軍勢では騎馬で甲冑(かっちゅう)姿の武者は』五『騎程度で』あったから、『そのうちの』一騎であったろう数え十八『歳の志村角蔵の最後も討死であったと想像』されると述べられた上で、『しかし、その前年、角蔵が武家』好み『の見事な馬を』彫った、この『権現に納めた素朴な猿曳駒の絵馬は』、この『村々の人々の豊饒(ほうじょう)を祈るための神前へのささげものとして多くの紙絵馬を刷りだす版木として大切にされ』、永らく『伝えられることとなったので』あると結んでおられれる。この志村は土着豪族ではなく、ここにある通り、元は甲斐国「鶴郡鶴川祖生」の武士で、平山氏の配下として、別の国衆でありながら、ここに知行地を貰っていたのである。さても私もこの十七で散った少年志村角蔵のことが気になっていたのである。この齋藤氏の最後の一言に私はとてもしみじみとしたのである。

「紀州田邊(たなべ)邊(あたり)に於いて、猿と河童とは兄弟分なりと云ひ、猿、河童を見れば急に水中に飛び入らんとするが故に、猿牽は何れも川を渡ることを非常に忌むと云ふのごとき〔南方熊楠氏報〕」南方熊楠と柳田國男の往復書簡集を縦覧したが、今のところ見出せない。発見し次第、追記する。

「鶺鴒(せきれい)を蹈(ふ)まへたる馬櫪神(ばれきじん)の像」図を含めて既注

「勝善經」既出既注

「怠狀(たいじやう)」既出既注であるが、再掲しておくと、古くは、平安後期から鎌倉時代にかけて罪人に提出させた謝罪状。「過状(かじょう)」とも言った。後に、自分の過失を詫びる旨を書いて人に渡す文書を指すようになった。「詫び状」。「謝り証文」。

「長州椿鄕(つばきがう)」既出既注

『長門又は周防の山村には、猿牽が猿を調教訓練する「猿の學校」のごときもの、あり』流石に、もうないでしょう?

「日奉(ひまつり)」所謂、「武蔵七党」の一つで、武蔵守日奉(ひまつりの)宗頼(生没年未詳:承平元(九三一)年に京より武蔵守として下向し国府(府中)で政務に当たり、任期満了の後も帰郷せずに土着したともされる)を祖とすることから、「日奉党(ひまつりとう)」とも、また「西党(にしとう)」とも呼ばれる、平安から戦国期にかけて武蔵国西部の多摩川流域を地盤とした武士団の呼称。この一族には「一ノ谷の戦い」で熊谷直実とともに一ノ谷奥の平家軍に突入し、勝利の契機を作ったことで知られる平山季重がおり、ここに出る「平山右衞門大夫」(直重)は彼の直系である。

「甲州鶴郡鶴川祖生(そふ)」不詳。鶴川という川なら、山梨県北都留郡小菅村及び上野原市を流れるが(グーグル・マップ・データ)、この辺りか。「そふ」は現行の地名で「そお」があることからの当て読みに過ぎない。違う読みかも知れない。

「志村肥前守影元」不詳。

「所願成就 皆 滿足せしむ」「引田眞照寺」先の齋藤氏の解説によれば、これらの文字は刻されたその『配置が不自然で』、『それまでの文字と彫り』・『書体も異なり』、これは『山王権現の別当として真照寺が板木(はんぎ)絵馬を管理する(紙絵馬を刷る)用に成った年代の追刻(ついこく)』であると説明されておられる。とすれば、「所願成就皆令滿足」は言祝ぎのマークに過ぎないから、訓読せずに音読(現代仮名遣「しょがんじょうじゅかいれいまんぞく」)すればよいのかも知れぬ。

雜吟『若し忍ばず、われゆかば』 國木田獨步

 

雜吟『若し忍ばず、われゆかば』

 

君し忍ばず、われゆかば、

深き契も、あだならん。

 

曇るを月のならひとは、

まつ心なき、恨なり。

 

夕は歌に音を泣きて、

あしたは神に祈れかし。

 

淺くなくみそ情(なさけ)をば、

底のましみづいや深し。

 

千里くまなき月かげは、

君が面わをてらすべし。

 

星さゆる夜の秋風は、

わが高どのゝ淚かな。

 

ますらをのこは世にかたん、

淸き少女は戀になけ。

 

忍ぶは君が誠にて、

いさむはわれの誇なり。

 

[やぶちゃん注:標題は底本編者によるもので、総標題に一行目を添えたもので、本篇は無題。初出は明治三〇(一八九七)年十二月十日発行の『國民之友』。なお、本篇は底本解題によれば、昭和六(一九三一)年改造社刊の「現代日本文學全集」第十五篇「國木田獨步集」の口絵にある写真版の下方の毛筆原稿「わきもこにまいらす歌」(「まいらす」はママ)の異稿であるとある。末尾クレジット(後掲)から見て、これが原初期稿であったと考えてよいであろう。幸い、国立国会図書館デジタルコレクションの画像に当該書籍があったので、画像でダウン・ロードし、トリミングして以下に示し、それをもとに当該異稿詩篇も電子化しておく。

Wakimokonimairasuuta

   *

 

 わきもこにまいらす歌

 

君し忍ばず、われゆかば、

深きちぎりも、あだならん。

曇(くも)るを月のならひとは、

待(ま)つ心なき、恨みなり。

 

ゆふべは歌に音(ね)を泣(な)きて、

あしたは神に祈れかし。

淺(あさ)くな掬(く)みそ、情(なさけ)をば、

底(そこ)の眞清水(ましみづ)いや深し。

 

千里(ちさと)くまなき月影は、

君がおもわを照らすべし。

星さゆる夜(よ)の秋風は、

わが高殿(たかどの)の淚かな。

 

ますらをのこは世にかたん。

清き少女(をとめ)は戀になけ。

忍ぶは君が誠にて、

勇(いさ)むはわれの誇(ほこり)なり。

 

   *

詩の後に、

   *

卅年十一月九日午前三時半

彼人の心をあはれと泣きてこの

詩を作りはげます。

   *

という添書きがある。]

雜吟『木の葉かたよる音さえて』 國木田獨步

 

雜吟『木の葉かたよる音さえて』

 

木の葉かたよる音さえて、

わが夜靜になりにけり。

文よむ窓の月すみて、

もの思ふ夜ぞふけにける。

 

[やぶちゃん注:標題は底本編者によるもので、総標題に一行目を添えたもので、本篇は無題。初出は明治三〇(一八九七)年十二月十日発行の『國民之友』。]

雜吟『戀こそ夢なれ』 國木田獨步

 

雜吟『戀こそ夢なれ』

 

懸こそ夢なれ。

夢こそ世なれ。

行末を、

たゞよふ雲にまかさばや。

利根の川岸、花さかん。

阿蘇の山もと、三日月の、

影をあはれと泣く人に、

己が旅衣ぬはさばや。

 

[やぶちゃん注:標題は底本編者によるもので、総標題に一行目を添えたもので、本篇は無題。初出は明治三〇(一八九七)年十二月十日発行の『國民之友』。]

雜吟『戀こそ夢なれ行末は』(――に送らんとて作り遂に送らざる歌) 國木田獨步

 

雜吟『戀こそ夢なれ行末は』(――に送らんとて作り遂に送らざる歌)

 

戀こそ夢なれ行末は

淚の川に身をうかべ

浮世の波にたゞよはん

今の別れの悲しさを

歌ひ盡さん調なし

たゞすこやかに在せ君

たゞすこやかに在せ君

 

はてなき海の千里の波に

谷又谷の岩淵の淵に

萬代かけて月澄みつ

千代の昔の人ゆきぬ

 

峰の白雪峰より峰に

底の眞珠の珠より珠に

萬代かけて月澄みつ

千代の昔の人ゆきぬ

 

月の光に誘はれて

奧津城訪はん林の奧の

月の光に誘はれて

賤の男訪はん深澤の岸の

我が身昔の我ならず

月し昔の色澄めり

をさなき時を思ふ哉

去年の今夜を思ふ哉

 

あしたの雲の花やかに

夕の時雨しめやかに

君と語りし年も暮れて

今夕ばかりとなりにけり

 

忘れそ君よ彼の夜をば

其夜は殊に月澄みて

君が面わは輝きて

我が血靜に脈打ちぬ

 

[やぶちゃん注:標題は底本編者によるもので、総標題に一行目を添えたもので、本篇は無題。初出は明治三〇(一八九七)年十二月十日発行の『國民之友』であるが、底本は全五篇連作の内、本篇のみ、獨步の死後に出された「獨步遺文」所収のものを底本としていて、添書き「――に送らんとて作り遂に送らざる歌」はそれによるものかと思われる(則い、この添書きは初出にはないものと思われ、以下の通り、「獨步遺文」所収の第一連部分のみである)。以下に、解題に示された初出形を示す。

   *

 

戀こそ夢なれ、行末は、

淚の川に身をうかべ、

浮世の波にたゞよはん

今の別れの哀しさを、

かたりつくさん言葉なし。

たゞすこやかにいませ君、

たゞすこやかにいませ君。

 

   *

なお、底本解題によると、第二連二行の「谷又谷の岩淵の淵に」は國木田獨步の詩篇を載せる流布本によっては「谷又谷の岩間の淵に」となっているともある。]

雜吟『小萩が岡よ、秋風よ』 國木田獨步

 

雜吟『小萩が岡よ、秋風よ』

 

小萩が岡よ、秋風よ、

故鄕戀し、路遠し。

都のちまた降る雨に、

ゆきかふ人のあとえて、

こみぞ流るゝ水の色に、

亡せにし友を懷ふかな。

小萩が岡よ、故鄕よ、

都のちまたさすらひて、

われいつまでかあくがれん。

 

[やぶちゃん注:標題は底本編者によるもので、総標題に一行目を添えたもので、本篇は無題。初出は明治三〇(一八九七)年十二月十日発行の『國民之友』で、この後の、頭に同様の「雜吟」と附した無題の四篇とともに全五篇が纏めて同日の同誌に掲載されている。署名は「江聲樓主人」。

 「故鄕」の「小萩が岡」は不明。ウィキの「国木田独歩(二重鍵括弧はそれであるが、記載に問題があり過ぎるので、全集年譜で補整した)等によれば、國木田獨步の出生地(狭義の故郷)は下総国(千葉)の銚子であるが、満三歳で母と上京しており、ここではないと思われる。國木田獨步は明治四(一八七一)年八月三十日、『国木田貞臣』・(通称、専八。文政一三(一八三〇)年生)と淡路まん(天保一四(一八四四)年生。彼女は同年陰暦十二月二十七日生まれで、新暦では一八四三年は終わっている)の『子として、千葉県銚子に生まれた。父・専八は、旧龍野藩士で榎本武揚討伐後に銚子沖で避難し、吉野屋という旅籠でしばらく療養していた。そこで奉公していた、まんという女性と知りあい、独歩が生まれた。この時、『専八は国元に妻子を残しており、まんも離縁した米穀商の雅治(次)郎』(全集年譜では「亡夫」とあり、父専八の戸籍簿では「權次郎」である)『との間にできた連れ子がいたとされる。独歩は、戸籍上は雅治郎の子となっているが、その他の資料から判断して、父は専八であるらしい』。明治七(一八七四)年七月に専八は一足先に単身上京、翌八月以降に、まんも『独歩を伴い上京し、東京下谷徒士町脇坂旧藩邸内に一家を構えた』(専八は明治九(一八七六)年五月に国元の妻とくと『正式に離婚が成立している』(ウィキがそれを一八九九年とするのは誤り)。翌明治八年六月、『専八は司法省の役人となり、中国地方各地を転任したため、独歩は』五『歳から』十六『歳まで山口、萩、広島、岩国などに住んだ』。『自らの出生の秘密について思い悩み、性格形成に大きく影響したとみられる。錦見小学校簡易学科、山口今道小学校を経て、山口中学校に入学』(入学と同時に寄宿舎に入った)、『同級の今井忠治』(今井は明治一九(一八八六)年十月退校願を提出し許可されている)『と親交を結んだ』。明治二〇(一八八七)年、『学制改革のために』規則上、上級学校を目指すには編入が非常に上手くない状態となってしまうため、『退学すると、父の反対を受けたものの』、『今井の勧めで上京』し、『翌年』五月『に東京専門学校(現在の早稲田大学)英語普通科に入学し』ている。これらから「故鄕」というのは、萩か山口ではないかとは取り敢えず踏むけれども、「小萩が岡」は固有名詞ではないらしく、検索してもヒットしない。お手上げ。識者の御教授を乞う。

2019/03/16

和漢三才圖會卷第三十八 獸類 犀(さい) (サイ)

 

Sai

 

さい    朅伽【梵書】

      兕犀【牝也一名沙犀】

【音西】

 

本綱犀狀似水牛豬首大腹卑脚其脚似象有三蹄黒色

舌上有刺皮上毎一孔生三毛如豕有山犀水犀兕犀三

種又有毛犀似之【毛犀乃旄牛也】

山犀居山林人多得之水犀出入水中最難得並有二角

一有鼻一有額鼻角長而額角短水犀皮有珠甲【山犀皮無珠甲】

兕犀【一名沙犀】卽犀之牸者止有一角在頂文理細膩班白分

明不可入藥蓋牯角文大而牸角文細也【郭璞謂犀有三角者訛也】其

紋如魚子形謂之粟紋紋中有眼謂之粟眼黒中有黃花

者爲正透黃中有黒花者爲倒透花中復有花者爲重透

並名通犀乃上品也花如椒豆班者次之烏犀純黒無花

者爲下品

犀角【苦酸鹹寒】足陽明藥解一切諸毒中毒箭以犀角刺瘡

 中立愈犀角置穴狐不敢歸【辟一切邪鬼也可知】癰疽化膿作水

 治吐血衂血下血及痘惡症

 犀角有黒白二種以黒者爲勝角尖又勝【鹿取茸犀取尖】凡犀

 角鋸成當以薄紙裹于懷中蒸燥乗熱搗之應手如粉

 【故謂翡翠屑金人氣粉犀是也】

天卽腦上之角經千歳長且鋭白星徹端能出氣通

 天則通神破水入水水開三尺置屋上烏鳥不敢集夜

 視有光夜露不濡入藥至神騐

                  寂蓮

  夫木うき身にはさいの生角えてしかな袖の泪もとをさかるやと

[やぶちゃん注:「とをさかる」(遠ざかる)はママ。]

按犀角從暹羅柬埔寨多將來凡長一尺四五寸其蛻

 角者不佳俗謂之野晒【目利人能辨之】

 

 

さい    朅伽〔(けつが)〕【梵書。】

      兕犀〔(じ(し)さい)〕

      【牝なり。一名、「沙犀」。】

【音、「西」。】

 

「本綱」、犀は、狀、水牛に似て、豬〔(ぶた)〕の首、大きなる腹、卑〔(みぢか)〕き脚〔なり〕。其の脚、象に似て、三つの蹄、有り、黒色。舌の上に刺(はり)有り。皮の上、毎〔(まい)〕一孔〔に〕、三〔つの〕毛、生ず。〔それ、〕豕〔(ぶた)〕のごとし。山犀・水犀・兕犀〔(じさい)〕の三種、有り。又、毛犀、有り〔て〕之れに似たり【毛犀は乃〔(すなは)ち〕旄牛〔(ぼうぎう)〕なり。】。

山犀は山林に居〔(を)り〕、人、多く、之れを得。水犀は水中を出入して、最も得難し。並びに[やぶちゃん注:孰れも。]、二つの角、有り、一つは鼻に有り、一つは額に有り。鼻の角(つの)は長くして、額の角は短し。水犀の皮には珠甲〔(しゆこう)〕有り【山犀の皮には珠甲無し。】。

兕犀〔(じさい)〕【一名、「沙犀」。】卽ち、犀の牸(め)[やぶちゃん注:。]なる者〔にして〕止(た)ゞ一角有り。頂きに在りて、文理〔(もんり)〕細〔(こま)かに〕して膩〔(なめら)か〕、班〔(まだら)たる〕[やぶちゃん注:「班」はママ。良安の誤った書き癖である。]白、分明にして、〔これ、〕藥に入るべからず。蓋し、牯(を)[やぶちゃん注:。]の角は文〔(もん)〕大にして、牸(め)の角は、文、細かなり【郭璞〔(かくはく)〕、謂はく、『犀に三つの角有り』とは、訛〔(あやまり)〕なり。】其の紋、魚の子の形のごとく、之れを「粟紋〔(ぞくもん)〕」と謂ふ。紋の中、眼、有り。之れを「粟眼〔(ぞくがん)〕」と謂ふ。黒き中〔に〕黃〔なる〕花有る者を「正透〔(しやうとう)〕」と爲し、黃なる中に黒〔き〕花有る者うぃ「倒透〔(たうとう)〕」と爲す。花の中に復た花有る者を「重透〔(ぢゆうとう)〕」と爲す。並びに[やぶちゃん注:以上の総てを。]「通犀〔(つうさい)〕」と名づく。乃〔(すなは)〕ち、上品なり。花、椒豆〔(しやうたう)〕[やぶちゃん注:山椒の実の粒。]のごとき班〔(まだら)〕なる者は、之れ〔ら〕に次ぐ。「烏犀(うさい)」は純黒にして花無し。〔その〕者、下品と爲す。

犀角〔(さいかく)〕【苦、酸、鹹。寒】足の陽明の藥〔にして〕一切の諸毒を解す。毒の箭〔(や)〕に中〔(あた)〕れば、以つて犀角を瘡〔(きず)〕の中に刺せば、立ちどころに愈ゆ。犀の角を穴に置〔かば〕、狐、敢へて歸らず【一切の邪鬼を辟〔(さ)く〕ることや、知るべし。】癰疽〔(ようそ)〕[やぶちゃん注:悪性の腫れ物。「癰」は浅く大きいもの、「疽」は深く見た目は小さく狭いものを指す。]の膿みを化して水と作〔(な)〕す。吐血・衂血〔(はなぢ)〕・下血及び痘[やぶちゃん注:疱瘡。天然痘。]の惡症[やぶちゃん注:症状が重症化したもの。]を治す。

犀角に、黒・白の二種有り。黒き者を以つて勝〔(すぐ)〕れりと爲す。角の尖り、又、〔黑きは〕勝れり【鹿は茸〔(じよう)〕[やぶちゃん注:嚢角(ふくろづの)。若角のこと。]を取り、犀は尖れるを取る。】。凡そ、犀角、鋸〔(のこ)のごとく〕成〔れば〕、當に薄紙〔(うすがみ)〕を以つて懷中に裹(つゝ)み、〔人肌の溫(ぬく)みを以つて〕蒸し、燥〔(かは)〕かし、熱〔する〕に乗じて、之れを搗くべし。手に應じて、粉〔(こな)〕のごとし【故に『翡翠は金を屑にし、人の氣は犀を粉〔に〕す』と〔は〕是れなり。】。

通天〔(つてん)〕は、卽ち、腦の上の角〔なり〕。千歳を經(へ)て、長く、且つ、鋭(とが)る。白〔き〕星、端に徹(とを)り[やぶちゃん注:ママ。]、能く氣〔(き)〕を出だす。「通天」は、則ち、神に通ず。水を破る。水に入れば、水、開くこと、三尺といふなり[やぶちゃん注:水の入れようとすると、犀角から水は九十三センチ三ミリメートル(明代のそれで換算)も自然に退(しりぞ)き、また、水面が窪んでそこに空間が開くと言われている。]。屋の上に置〔かば〕、烏・鳥、敢へて集らず。夜、視〔れば〕、光、有り。夜の露に濡(ぬ)れず。藥に入るるに、至つて、神騐〔(しんげん)〕あり[やぶちゃん注:「騐」は「驗」の異体字。]。

                  寂蓮

  「夫木」

    うき身にはさいの生角〔(いきつの)〕えてしがな

       袖の泪〔(なみだ)〕もとをざかるやと

按ずるに、犀角は暹羅(シヤム)[やぶちゃん注:現在のタイ王国の前身。]・柬埔寨(カボヂヤ)[やぶちゃん注:現在のカンボジア王国の前身。]より、多く將(も)ち來たる。凡そ、長さ一尺四、五寸[やぶちゃん注:五十四~五十七センチメートル。]。其の蛻〔(ぬ)け落ちたる〕角は、佳ならず、俗に之れを「野晒(〔の〕ざらし)」と謂ふ【目〔の〕利の人、能く之れを辨ず。[やぶちゃん注:目のよく利く人はこれ(「野晒し」でないかどうか)を一目で弁別することが出来る。落語見たような謂いじゃげな。]】。

[やぶちゃん注:哺乳綱奇蹄目有角亜目 Rhinocerotoidea 上科サイ科サイ属(タイプ属)Rhinoceros で、現生種は、

インドサイ属インドサイ Rhinoceros unicornis(インド北部からネパール南部)

インドサイ属ジャワサイ Rhinoceros sondaicus(インドネシアのジャワ島西部)

シロサイ属シロサイ Ceratotherium simum(アフリカ大陸の東部と南部)

スマトラサイ属スマトラサイ Dicerorhinus sumatrensis(インドネシア(スマトラ島・ボルネオ島)・マレーシア・ミャンマー。カンボジア・ベトナムに分布する可能性もある)

クロサイ属クロサイ Diceros bicornis(アフリカ大陸の東部と南部)

の五種である。ウィキの「サイ」を引く。『かつてサイ科の属する奇蹄目は、始新世から漸新世にかけて繁栄し』、二百四十『属と多様性を誇った。サイの祖先たちは、ほぼ全ての地域(可住域)に分布し』ていた。『特に漸新世には陸上哺乳類史上最大の種(パラケラテリウム』(サイ上科ヒラコドン科インドリコテリウム亜科パラケラテリウム属 Paraceratherium)『)が現れるなど、繁栄を極めた。しかし』、『中新世以降は地球の寒冷化によって多くの種が絶滅し、またウシ亜目などの反芻類の進化に押されて衰退し』、『更には人間の狩猟と乱獲、開発によって、現在の分布になったと考えられ』ている。シロサイは体長三メートル七十~四メートル、体重二千三百キログラム(最大で三千六百キログラムという記録があるという)。『現生種ではインドサイ・シロサイはオスがメスよりも大型になるが、他種は雌雄であまり大きさは変わらない』。『皮膚は非常に分厚く硬質で』、一・五~五センチメートルの『厚みを持ち、格子構造になったコラーゲンが層をなしている。皮膚はあらゆる動物の中でも最硬といわれ、肉食獣の爪や牙を容易には通さない。インドサイ等は、だぶついた硬い皮膚が特徴的で、体全体が鎧で覆われているように見える。体色は灰色をしている種が多いが、サイは泥浴びを好み、水飲み場などでよくこれを行うので、土壌の色で茶色などを帯びたように見えることもある。スマトラサイを除き』、『体毛がない。しかし』、『耳介の外縁や睫毛、尾の先端に毛を残している。幼獣は成獣より毛深く、成熟するにつれて体毛が薄くなる。スマトラサイは耳介も含めて全身が粗く長い茶褐色の体毛で被われているものの、野生種では泥にまみれるか、抜け落ち、あまり目立たない』。『非常に大きな頭蓋骨は、前後に長く、後頭骨が立ち上がっている。鼻骨は大きく前か上にせり出し、前上顎骨よりも前に飛び出る。角が接合する部分は、鼻骨の表面がカリフラワー状に荒れている。頭部に』一『本(インドサイ属)または』二『本(クロサイ・シロサイ・スマトラサイ)の角がある』。『ラテン語の呼称および英名のrhinocerosはこの角に由来し』、『古代ギリシャ語で鼻を指すrhisと』、『角を指すcerasを組み合わせたものとされる』。『スマトラサイでは後方の角が瘤状にすぎない個体もいたり』、『ジャワサイのメスには角のない個体もいる』。『角はケラチンの繊維質の集合体で、骨質の芯はない(中実角)』(ちゆうじつづの:サイ類に見られる、中に空洞も骨質の芯もない角で、毛状の繊維(毛ではない)が固まって出来ており、絶えず成長するタイプの角を指す。次項は「一角(うんかふる/はあた)」で犀の角とするが、実はそれはどうも犀の角ではない。そちらでまた考証する)。『何らかの要因により角がなくなっても、再び新しい角が伸びる』。『シロサイやクロサイでは最大』一・五メートル『にもなる』。『サイの角は肉食動物に抵抗するときなどに使われる。オスのほうがメスより角が大きい。目は小さく、視力は非常に弱い。シロサイは』三十メートル『も離れると』、『動かないものは判別できない』。但し、『嗅覚は非常に発達』しており、また、『聴覚も発達し、耳介は様々な方向へ向け動かすことができる』。『脳は哺乳類の中では比較的小さい』(四百〜六百グラム)。『後腸をもつ後腸発酵草食動物で、必要とあらば』、『樹皮のような硬い植物繊維質も食料源とすることができる。単胃であるため』、摂餌が『頻繁で、反芻しない。体は硬い皮膚に覆われているが』、『口先はやわらかく、感覚に優れている。口先の形状は種によって異なり、種によって食性が微妙に違うことを示している』という。『吻端はシロサイを除いて尖る』。『インドサイやクロサイは上唇の先端がよく動き、木の枝などを引き寄せることができ』、『シロサイは頭部が長くて唇が幅広く、丈が短い草本を一度に広い範囲で食べることに適している』。二十四から三十四本の『歯を持ち、小臼歯と大臼歯ですり潰す』。『アジアのサイの下顎切歯を除けば、犬歯および切歯は痕跡的である。これは突進時の衝撃への適応と考えられている』。『アフリカのサイ』二『種は前歯を持たず』、『その代わりに口先(吻)で餌を挟み取る。四肢は短く頑丈で、指趾は』三本である。『乳頭は後肢の基部にあり、乳頭数は』二『個』。『精巣は陰嚢内に下降』せず、『陰茎は後方を向き、雌雄共に後方に向かって尿をする』。『出産直後の幼獣はやや小型で、体重で比較すると母親の約』四%『(インドサイ・シロサイ約』六十五『キログラム、クロサイ約』四十『キログラム)しかない』。『草原や森林、熱帯雨林、湿地に生息する。スマトラサイとジャワサイは、特に河川や沼の周辺に好んで生息する。サイは夜行性あるいは薄明薄暮性である。母親とその幼獣を除けば』、『主に基本的に単独で生活するが、シロサイは若獣が連れ添ったり』、『幼獣がいないメスで』、六、七『頭の群れを形成することもあり』、『大規模な群れを形成することもある』。『短期間であれば』、『日陰や水浴びなどの際に集合することもある』。『雄は通常、縄張りを持ち、尿や糞、足跡(スマトラサイ)などでマーキング』し、その『一生のほとんどを自分のなわばりの中で暮らす』。『縄張りの大きさは』、二〜百平方キロメートルとさまざまで、しかも『縄張りは厳密ではなく、繁殖期以外は他者の侵犯を見逃したり、縄張りが重なりあう。食料事情や繁殖の為に、縄張りの大きさも変動する。昼間は木陰で休む、水場で水を飲む、水浴びや泥浴びをして体温調節したりする。水浴びや泥浴びを好み、前者は体温の上昇・後者は虫を避ける(皮膚は分厚いが表皮は薄くすぐ下に血管が通っているため)効果があると考えられている。薄明時や夕方に食物を摂取する』。『食性は植物食』で、『近くに水場があれば毎日水を飲むが、アフリカ大陸に分布する種は』四、五日は『水場へ行かないこともある』。『また、塩やミネラルを摂取することが重要で、塩を舐める』行動をとり、『スマトラサイやジャワサイは塩分を摂るために海水を飲むことがある』という。『クロサイやインドサイは最高時速』五十五キロメートル『で走ると言われる』。『硬い皮膚と大きな体躯を持つことで、肉食獣に襲われて捕食されることはあまり多くない』が、『幼獣はその限りではない』。『オス同士ではクロサイとシロサイは前方の角を、他種は下顎の牙状の歯を使い激しく争う。妊娠期間』十五~十八ヶ月。『種によってまちまちだが、オスは約』八~十『歳で性的に成熟し、メスは』五~七『歳で成熟する。飼育下での寿命は』三十五~五十『年、野生では』二十五~四十『年程度と言われている』。『角は』現在でも『工芸品』や『ジャンビーヤと呼ばれる中東の短剣の柄、漢方薬の犀角、その他の伝統医学の材料として珍重されている』が、時珍が記すような犀角に薬としての特別な効用があるとは私には思われない。以下、「文化への影響」の項。『サイは古代から人類と関係を持っていたと考えられている。現存する人類最古の絵画であるフランスのショーヴェ洞窟壁画にもサイ』『は描かれており、これは』一~三『万年前のものである』。一五一五年、アルブレヒト・デューラー(Albrecht Dürer 一四七一年~一五二八年)は『サイがリスボンに輸入された時の様子を描いた無名の画家のスケッチを元にして、有名な犀の木版画を創作した。デューラーは実物を見ることができ』なかったようであるが、『描写はいくぶん不正確』なものの、『この木版画は「動物を描写した作品のうち、これほど芸術分野に多大な影響を与えたものはおそらく存在しない」とまでいわれている作品でもある』。この犀の図は『西洋において何度も参照され、絵画や彫刻に影響を与え』、本邦『にも伝わり、谷文晁がそれを模写をした』「犀図」を残してもいるリンク元の有名なその図。このサイは長旅のために重い皮膚病に罹っていたと考えられており、体表のそれは実は誇張ではなく、そうした病変を正確に写しとっているのだとも言われる。私は統合後のドイツの旧東ドイツで本原画を見た)。『ビルマ、インド、マレーシアでは、サイが火を潰すとする伝説がある。神話のサイは badak api (マレー語) の名称で呼ばれ、badakは犀、apiは火を意味する。森林の中で火が燃え広がるとサイが現れ、それを踏み消すとされる』。但し、『この事実が確認されたことはない』。『日本や中国』『では、水犀(みずさい)と呼ばれる動物が絵画などに見られる。頭には角、背中に甲羅、足には蹄を持つと』もされるらしいが、『平安末期の国宝鳥獣人物戯画の乙巻には、虎・象・獅子・麒麟・竜といった海外の動物や架空の動物とともに水犀が描かれている。江戸末期の北斎漫画にも水犀が描かれて』おり、『日光東照宮の拝殿東面、妻虹梁下にも水犀(通天犀とも)が彫刻されている』とある。

 

「朅伽〔(けつが)〕」サンスクリット語からの漢音写であろうが、「朅」には中国語の古語で「行く」或いは「勇敢で堂々としている」の意があるので、サイに相応しい気はする。

「兕犀〔(じ(し)さい)〕」「兕(じ)」は水牛に似た一角獣で、「山海経」に記載されている想像上の動物。中国では古くから国外から「犀角」を薬として輸入していたが、角の部分だけで本物の見たことがある人は少なく、また「犀角」は偽物が水牛の角による代用品であったりしたケースも多く、それを誤魔化した由来が幻獣の「兕」のイメージと合ってしまったものででもあろう。従って後に出る「山犀」・「水犀」・「兕犀」の種別も、博物学的に正しい実在種の記載とは思われない。但し、次注参照。

「毛犀」「旄牛〔(ぼうぎう)〕」これは哺乳綱ウシ目ウシ亜目ウシ科ウシ亜科ウシ属ヤク Bos grunniens である。ウィキの「ヤク」によれば、二千年前から家畜化されたとされる。インド北西部・中国(甘粛省・チベット自治区)・パキスタン北東部に自然分布する。『「ヤク」の語はチベット語』『に由来するが、チベット語では雄のヤクだけを指す言葉で、メスはディという』。『チベットやブータンでは、ヤクの乳から取ったギー』『であるヤク』・『バターを灯明に用いたり、塩とともに黒茶を固めた磚茶(団茶)』『を削って煮出し入れ、チベット語ではジャ、ブータンではスージャと呼ばれるバター茶として飲まれている。また、チーズも作られている』。『食肉用としても重要な動物であり、脂肪が少な』く、『赤身が多く味も良いため、中国では比較的高値で取引されている。糞は乾かし、燃料として用いられる』。『体毛は衣類などの編み物や、テントやロープなどに利用される』。『ヤクの尾毛は日本では兜や槍につける装飾品として武士階級に愛好され、尾毛をあしらった兜は輸入先の国名を採って「唐の頭(からのかしら)」と呼ばれた。特に徳川家康が「家康に過ぎたるものが二つあり、唐の頭に本多平八」と詠われたほど好んだため、江戸時代に入って鎖国が行われてからも』、『清経由で定期的な輸入が行われていた』という。『幕末、新政府軍が江戸城を接収した際に、収蔵されていたヤクの尾毛が軍帽として使われ、黒毛のものを黒熊(こぐま)、白毛のものを白熊(はぐま)、赤毛のものを赤熊(しゃぐま)と呼んだ』。『これらの他に、歌舞伎で用いる鏡獅子のかつら』『や、仏教僧が用いる払子にもヤクの尾毛が使用されている』。体長はで二百八十~三百二十五センチメートル、で二百~二百二十センチメートルで、体重はで八百キログラムから一トン、で三百二十五~三百六十キログラム。『高地に適応しており、体表は蹄の辺りまで達する黒く長い毛に覆われて』おり、『換毛はしないため、暑さには弱い。肩は瘤状に隆起する』。『鳴き声はウシのような「モー」ではなく、低いうなり声である』という。『基部から外側上方、前方に向かい、先端が内側上方へ向かう角があ』って、最大角長九十二センチメートルに達し、『四肢は短く』、『頑丈』。標高四千~六千メートルに『ある草原、ツンドラ、岩場などに生息』し、八~九月は『万年雪がある場所に移動し』ており、『冬季になると』、『標高の低い場所にある水場へ移動する』。『高地に生息するため、同じサイズの牛と比較すると心臓は約』一・四』『倍、肺は約』二『倍の大きさを有している。食性は植物食で、草、地衣類などを食べる』。『妊娠期間は約』二百五十八日で、六月に、一回に一頭の『幼獣を産む』。『生後』六~八年で『性成熟し、寿命は』二十五年ほどと『考えられている』とある。三つ後の独立項に出る。

「珠甲〔(しゆこう)〕」粒立った粒状の非常に硬い突起があるということであろう。

「郭璞、謂はく、『犀に三つの角有り』とは、訛〔(あやまり)〕なり」東洋文庫訳割注に「爾雅注疏」を出典とし、「爾雅注疏」は同書の書名注に、『十一巻、晉の郭璞』『注、北宋の刑昺(けいへい)疏。『爾雅』の注釈書。大変すぐれたもので、後世の人々から注疏の手本とされている』とある。

「魚の子」東洋文庫訳は「魚子」とし、それに『ななこ』とルビを振る。小学館「日本大百科全書」の「魚々子(ななこ)」に、『金工技法の一つ。魚子とも書く。切っ先の刃が小円となった鏨(たがね)を打ち込み、金属の表面に細かい粟粒』を撒いた『ようにみせる技法。隣接して』、『密に打たれたさまが、あたかも魚の卵を』撒き『散らしたようにみえるところから』、『この名がある。普通は文様部以外の地の部分に打たれ』、『日本には中国から伝播』『したと考えられるが』、正倉院文書に『「魚々子打工」とみえるところから、奈良時代にはすでに専門工がいたことが知られ、正倉院には当時使用された魚々子鏨が伝存している。遺品の古い例としては』、天智天皇七(六六八)年『創建の滋賀』の『崇福寺塔心礎出土の鉄鏡や』、その後の』奈良の長谷寺の銅板の「法華説相図」に見られるとあり、『奈良時代から平安時代までは概して魚々子の打ち方は不』揃い『のものが多いが、時代が下るとともに整然と打たれるようになり、江戸時代には「互(ぐ)の目魚々子」とか「大名縞(しま)魚々子」といった変わり打ちも出現した』とあるが、原典字体に「魚の子」とあり、これを「ななこ」と読むことは、原典訓読のルールから外れるものであり、時珍の謂いは、文字通りの魚卵の謂いであることは間違いないと私は思う。

「寂蓮」「夫木」「うき身にはさいの生角〔(いきつの)〕えてしがな袖の泪〔(なみだ)〕もとをざかるやと」「国文研」の和歌データベースの「夫木和歌抄」の「巻二十七 雑九」に、

 うきみにはさいのいきつのえてしかなそてのなみたもとほさかるやと

とある。]

柳田國男 山島民譚集 原文・訓読・附オリジナル注「河童駒引」(31) 「守札ヲ配ル職業」(1)

 

《原文》

守札ヲ配ル職業  維新以前ニハ右ノ甲州ノ猿牽ト同樣ニ、半僧半俗トモ謂フべキ生活ヲ營ム一種ノ階級ノ人民頗ル多カリキ。【鉦打ノ類】關東ニテハ鉦打(カネウチ)又ハ磬叩(キンタヽキ)ト云ヒ、西國ニテハ茶筅又ハ鉢屋ナドヽ云フ者モ皆此類ニ數フべシ。其他「エビス」ト云ヒ、「ソキ」ト云ヒ、「シユク」ト云ヒ、「シキ」ト云ヒ、婦人ニテハ「イタコ」「モリコ」ナド呼ブ者アリ。【初穗】名稱ニモ業務ニモ無數ノ種類ハアリシガ、-般ニ在家ニ住ミ配偶者ヲ持チナガラ本尊ヲ人ニ拜マセ、祈禱ト占ノ術ニ通ジタル者多ク、常ハ農作ヲ營メドモ主タル生活ハ宗教的ノモノニシテ、殊ニ色々ノ護符ノ類ヲ遠近ノ民家ニ配リテ僅カヅツノ初穗ヲ集ムルヲ專ラトス。明治ノ代トナリテ法令ヲ出シ、此徒ノ全部ニ對シテ職業ノ繼續ヲ禁止セシガ、其以前德川幕府ノ時代ニ於テモ、既ニ大社大寺ノ勢力ニ壓迫セラレテ著シク其數ヲ減ジ、或ハ又家傳ノ由緖ヲ忘却シテ次第ニ尋常物貰ヒノ仲間ニ零落セシ者無キニ非ズ。併シ壓迫ノ比較的輕微ナリシ種類又ハ地方ニ在リテハ、此者ノ一類モ頗ル蔓延シテ、單ニコソコソト札ヲ配リテ廻ルニ非ズ、村人ニ勸メテ色々ノ神ノ爲ニ小サキ祠ヲ建テサセ、自分ノ家ニモ夫々權現ヲ祀リテ信心ヲ誘ヒタリシ例多シ。近世ニ及ビテ彼等ガ中ニモ佛教ト結合シ、寺院ノ庇護ノ下ニ立チテ社會上ノ地位ヲ維持セントセシ者アリキ。【行者】之ヲバ特ニ修驗者、行人又ハ行者ナドト呼べリ。【山伏】山ニ臥ス故ニ山伏ト云フ者卽チ是ナリ。【野山伏】所謂山伏ニモ寺ト似タル住所アリ、其生活ハヨホド僧侶ト似タル處多クナリシヨリ、今ノ人ハ之ヲ僧侶視スルガ常ナレドモ、所謂本當二[やぶちゃん注:底本も「ちくま文庫」版も「二」であるが、これを例えば、修験道の霊場とされる二荒山(ふたらさん)の「二」と採るには、表現上、前の「本當」に続かない。されば私は「ニ」の誤植と採り、訓読ではそうした。大方の御叱正を俟つ。]山ノ山伏ナルモノハ後世ノ從屬ニシテ、此以外ニモ何レノ佛教ニモ附隨セズ、低キ身分ニ居タル野山伏ナル者近キ世マデ田舍ニ有リテ、ソレ等ハ亦全然札配リヲ以テ生計ヲ立テタリシナリ。【竈】又盲法師ノ琵琶ヲ彈ク者モ此類ナリ。彼等ガ一部ハ殆ド信ジ難キ由緖ヲ主張シテ直接ニ江幕府ノ保護ヲ受クルコトヽナリ、何ノ札ヲモ配ルコト無クシテ唯從來ノ配當ノミヲ徵集シ居タリシモ、此同類ニモヤハリ別ニ一派ノ在野座頭アリテ、昔ノ儘ニ土地ノ神竃ノ神ニ琵琶ノ曲ヲ手向ケテ祈禱ヲ爲シ、札ヲ配リテ其生活ヲ續ケ居タリシナリ。

 

《訓読》

 

守札(まもりふだ)を配る職業  維新以前には右の甲州の猿牽と同樣に、半僧半俗とも謂ふべき生活を營む、一種の階級の人民、頗る多かりき。【鉦打(かねうち)の類】關東にては「鉦打(かねうち)」又は「磬叩(きんたゝき)」と云ひ、西國にては「茶筅(ちやせん)」又は「鉢屋」などゝ云ふ者も、皆、此の類に數ふべし。其の他、「エビス」と云ひ、「ソキ」と云ひ、「シユク」と云ひ、「シキ」と云ひ、婦人にては「イタコ」・「モリコ」など呼ぶ者あり。【初穗】名稱にも業務にも無數の種類はありしが、-般に在家に住み、配偶者を持ちながら、本尊を人に拜ませ、祈禱と占ひの術に通じたる者多く、常は農作を營めども主たる生活は宗教的のものにして、殊に色々の護符の類を遠近(をちこち)の民家に配りて、僅かづつの初穗を集むるを專らとす。明治の代となりて、法令を出し、此の徒の全部に對して、職業の繼續を禁止せしが、其れ以前、德川幕府の時代に於いても、既に大社(だいしや)・大寺の勢力に壓迫せられて、著しく其の數を減じ、或いは又、家傳の由緖を忘却して、次第に尋常物貰ひの仲間に零落せし者、無きに非ず。併し、壓迫の比較的輕微なりし種類又は地方に在りては、此の者の一類も頗る蔓延して、單にこそこそと札を配りて廻るに非ず、村人に勸めて、色々の神の爲に小さき祠を建てさせ、自分の家にも、夫々(それぞれ)權現を祀りて、信心を誘ひたりし例、多し。近世に及びて、彼等が中にも佛教と結合し、寺院の庇護の下(もと)に立ちて、社會上の地位を維持せんとせし者ありき。【行者】之れをば、特に「修驗者(しゆげんじや)」、「行人(ぎやうにん)」又は「行者(ぎやうじや)」などと呼べり。【山伏】山に臥す故に「山伏」と云ふ者、卽ち、是れなり。【野山伏】所謂、山伏にも、寺と似たる住所あり、其の生活は、よほど僧侶と似たる處、多くなりしより、今の人は、之れを僧侶視するが常なれども、所謂、本當に山の山伏なるものは、後世の從屬にして、此れ以外にも、何れの佛教にも附隨せず、低き身分に居たる「野山伏」なる者、近き世まで田舍に有りて、それ等は亦、全然、札配りを以つて生計を立てたりしなり。【琵琶法師】又、盲法師(めくらはうし)の琵琶を彈く者も此の類なり。彼等が一部は殆んど信じ難き由緖を主張して、直接に江幕府の保護を受くることゝなり、何の札をも配ること無くして、唯だ、從來の配當のみを徵集し居たりしも、【竈(かまど)】此の同類にも、やはり、別に一派の在野座頭ありて、昔の儘に土地の神・竃の神に琵琶の曲を手向(たむ)けて祈禱を爲し、札を配りて其の生活を續け居たりしなり。

[やぶちゃん注:「鉦打(かねうち)」「磬叩(きんたゝき)」狭義には時宗に属した半僧半俗の徒。金磬(きんけい:「磬」は吊り下げて叩いて音を出す打楽器。その真鍮製や銅製のもの)・銅鉦を首に掛けて、和讚を唱え、念仏踊りなどを演じたもの。「沙彌」とも呼んだ。

「茶筅(ちやせん)」「鉢屋」私は本文からもこれを前者の西日本での呼称とのみ捉えていたが、サイト「東日本部落解放研究所」の「鉦打・時宗研究会の紹介」には、

   《引用開始》

鉦打は、近世社会において東日本を中心に広く存在した時宗系の民間宗教者である。被慈利(非事吏)とも呼ばれたように、半僧半俗の勧進聖(俗聖)として西日本の鉢叩・茶筅と対をなす存在としても知られている。柳田国男や堀一郎らの民俗学・宗教史学の立場からの研究も積み重ねられてきているが、もうひとつ実態が鮮明になっていないこと、地域社会との関係性が明らかにされていないこと等が不満である。

そして、何よりも、この鉦打と呼ばれた人々が、近世中・後期、「穢多・非人同然の者」という賤視を受け、様々な差別に直面していた事実を認識すると共に、その要因や背景を解明しなければならないと考える。以前から、雑種賤民(近年では多様な被差別民)と呼ばれてきた民間宗教者・芸能民の研究が部落史の課題となってきているが、鉦打の研究は特に東日本において大きな比重を占める課題であると思われる。この点が、鉦打・時宗研究会の活動を当研究所のプロジェクトに位置づける所以である。

もう一つ、私達が強い関心を抱いている点は、近世部落と時宗寺院との深い関係性である。かつて、西日本の部落は圧倒的に浄土真宗との寺檀関係にあったのに対し、東日本の部落は在地の諸宗派と寺檀関係にあって特定の宗派との関係は認められないと理解されてきた。しかし、近年、地域部落史の研究が進展するにつれて、東日本の部落と時宗との寺檀関係には予想外の広がりが見えてきた。

勧進聖の鉦打を宗門の末端に位置づけてきたことと、広く近世部落と寺檀関係を結んできたこととが、時宗の教義なり教団活動なりから必然的に生じてきたものなのか。このような関心と課題設定から、本会は鉦打・時宗研究会と名づけられ、二〇〇八年一月発足した。この問題に関心を持つ、研究所内外の方々の参加を呼びかけている(大熊哲雄)。

   《引用終了》

とあるからには、同類の職業ではあるが、どうも明確に区別される、対称的な存在であると読める。

「エビス」「恵比須売り」のことか(しばしば歴史的仮名遣を「ゑびす」とするように思われているが、これはそうでなくてはならない理由はない)。小学館「日本国語大辞典」によれば、近世、京阪地方で元日にえびす神、又は、大黒天の像を木版刷にりにした髪を縁起物として売り歩いた商人とある。一方、民俗学研究所編「民俗学辞典」(昭和五〇(一九七五)年四十七版)の「人形まわし」には、『夷(えびす)まわし。夷かき。戎おろし等は、祝言を唱えながら夷の人形をまわす』『物貰い』の一種を挙げ、平凡社「世界大百科事典」の「夷舁き」には、『摂津西宮の西宮神社を本拠地とし』、『首掛けの箱に入れた夷人形を舞わしながら』、『春の時期に家々を訪れ』て『祝福するとともに』、『夷神の御姿を描いた札を配った宗教芸能者。夷まわしともいう。鯛を釣る夷の姿は漁家の信仰を得たが』、『多くは』二人一組『で簡単な劇なども演じ』、『天文年間』(一五三二年~一五五五年)『以降』、『京都に姿を』見せ、『禁裏などにも推参』したとあって、雰囲気的にはその舞いの親和性から、この「ゑびすまはし」「ゑびすかき」であるように思われる

「ソキ」不詳。漢字も思い浮かばない。

「シユク」「夙」(しゅく)か。小学館「日本国語大辞典」の「夙」によれば、『江戸時代の賤民の一種。天皇の御陵番である守戸(しゅこ)の訛といわれ、御陵が多い大和地方に多かった。農業・酒造のほか、歌舞音曲、小芝居などをして生活するものもいた。穢多の支配に服した者もいたが、大和の者は平民と余り差別がみられなかった。宿、守公、守宮とも書く。しゅくのもの』とある。

「シキ」不詳。なお、「敷」「鋪」で盗賊間での隠語では乞食を指す語ではある。

「イタコ」「モリコ」ウィキの「イタコを引く。『日本の北東北(東北地方の北部)で口寄せ』『を行う巫女のことであり、巫の一種。シャーマニズムに基づく信仰習俗上の職である』。『南東北(東北地方の南部)においては、旧仙台藩領域(岩手県の南側約』三分の一『と宮城県)でオガミサマ、山形県でオナカマ、福島県でミコサマ、オガミヤと呼ばれる。福島県・山形県・茨城県ではワカサマとも呼ばれる』。『イタコには霊的な力を持つとされる人もいるが、実際の口寄せは心理カウンセラー的な面も大きい。その際』、『クライアントの心情を読み取る力(一種のコールド・リーディング)は必須であるが、本来は』、『死者あるいは祖霊と生きている者の交感の際の仲介者として、氏子の寄り合い、祭りなどに呼ばれて死者や祖霊の言葉を伝える者だったらしい』。『イタコは占いの際』、『数珠やイラタカ』(「いらたか数珠」。「伊良太加」「苛高」「最多角」「刺高」等と漢字表記される長い呪具としての特殊な数珠。国立民族学博物館公式サイトによれば、『イタコの場合』は、三『百余りの黒いムクロジ』(ムクロジ(無患子)目ムクロジ科ムクロジ属ムクロジ Sapindus mukoross:一般の数珠や羽子突きの羽根の玉の材料でもある)『の木の実をつなぎ合わせた長い数珠で、両側には雌雄の鹿の角、猪の牙、熊の爪、鷹の爪、狐の顎骨、狼等の野獣の骨がついている。また、天保銭・小銭・剣等が装飾されている。これらの物には憑き物のお祓い、悪魔祓い、虫封じ、魔除け、身体のおまじないの意味がある。必要に応じて単品で使用する場合がある。数珠全体を全身にも使用する。イタコの場合は修験道と同じように、読経や祈祷・口よせの際は両手で激しく上下にすり合わせる。高い音を出す。そしてその響きに神仏を乗り移す』とある。リンク先には後に出る梓弓(あずさゆみ)とともに画像がある)『を用いるが、一部のイタコは、交霊の際に楽器を用いることがあり、その際の楽器は梓弓』『と呼ばれる弓状の楽器が多い。他に倭琴(「やまとごと」、または「わごん」)や太鼓なども用いられる。これらは農村信仰などで用いられた日本の古代音楽の名残とされ、日本の伝統音楽史において現存するうちの最も古いものの一つとされる』。『岩手県南部から宮城県北部の巫女で組織された大和宗』(やまとしゅう)『の大乗寺縁起』(岩手県一関市川崎町(ちょう)薄衣(うすぎぬ)にある「イタコ」衆の信仰する大和宗の寺院である大乗寺。リンク先はサイト「八百万の神」の同寺のデータ)『によれば、クチブクと呼ばれる招霊の秘法は目連の救母伝説にその由来があるという』。『大和宗では口寄せの用具には引磬』(いんきん/いんけい:「キン」は唐音。仏教系楽器の一つ。御椀状の小さな鐘に柄を附けたもの。読経の際などに小さい鉄棒で打ち鳴らす)『を用いるが、巫女の周りに麻糸を付けた梓弓と桃や柳を置いて儀礼空間を創っている』。『口寄せは、霊的感作によりあらゆる人種、動物でも呼び出せるとされる』。『口寄せ以外にもイタコには「オシラアソバセ」を執り行う役目がある。「オシラアソバセ」とは、東北の民間信仰である』、「おしら様」の『御神体である二体の人形を遊ばせることである。オシラサマは各家庭に祀られており、一部地域ではその家庭の家族の代わりにイタコが』「おしら祭文」を『読み上げる。オシラサマのベースである杓子、瓢や柄杓に関する信仰を膨大に集め、これが「魂を集める採り物」であるとした柳田國男の説を承けた折口信夫によれば、これはマナ』(太平洋の島嶼部の原始的宗教において、神秘的な力の源とされる概念。人や物などに付着して特別な力を与えるとされるが、それ自体は実体性を持たない。元々は、メラネシア語で「力」という意味)『を寄せるための依り代である』という。『東海道中膝栗毛等に登場する、イチコ』『とよばれる巫女は、常陸』『の国や京阪地方では、「神社に座し湯立てをする」巫女の称であるが、東京近辺ではイタコの様な巫女を指す』。『沖縄県や鹿児島県奄美群島にはユタという在野の霊能力者が、イタコに似た霊的カウンセリングを生業とすることで広く知られており、こちらは葬祭そのものを扱うことも多い』。『イタコの語源についてはいくつかあり、沖縄のユタの韻との共通性』、「斎(いつ)く」が『転化したイチコからの変化、神の委託をする委託巫女であるとするもの、アイヌ語の語るの意味イタック等からの変化、神降ろしの巫具としての板が用いられたこと等の』複数の語源説がある』。『柳田國男は、アイヌ語で「神がこう仰った」の意味のitak説や、御倉板挙神はミクライタケノカミと読み、神の御言を伝える物の神格化ではないかとする説等を紹介しながら、イタコの語源は斎(イツキ)であり、それが元の儀礼を襲いながら零落し』、『神にせせられて放浪するようになった者の一部』が、「イタコ」「エチコ」「イタカ」「イチコ」「モリコ」と『呼ばれたとした』。『イタコは、先天的もしくは後天的に目が見えないか、弱視の女性の職業であった』。『堀一郎によれば、目が悪い子供はイタコの師匠に米、炭を持って入門し』、一年~三年或いは四~五年『ほど、板の間の板を打って祓いの文句、オシラ祭文を習う。そしてスキルが上がった後、ダイジュユリ、デンジュ、ユルシ、ウズメソと呼ばれるいわゆるイニシエーションを行って、一週間程』、『氏神社にこもってから』、『仕事をする』とある。

「竃の神」ウィキの「かまど神を引いておく。『竈・囲炉裏・台所などの火を使う場所に祀られる神』で、『火の神であると同様に農業や家畜、家族を守る守護神ともされ』、『久那土神とも呼ばれることがある』。『一般には』、『かまどや炉のそばの神棚に幣束や神札を祀るが』、『祀り方の形態は地方によって様々である。東北地方では仙台藩領の北部(宮城県北部から岩手県南部)では、竈近くの柱にカマ神やカマ男と呼ばれる粘土または木製の面を出入口や屋外に向けて祀る』。『新築する際に家を建てた大工が余った材料で掘るもので、憤怒の形相をしており』、『陶片で歯を付けたり』、『アワビの貝殻を目に埋め込んでいるのが特徴』。『信越地方では釜神といって、約』一『尺の木人形』二『体が神体であり、鹿児島県では人形風の紙の御幣を祀っている。竈近くの柱や棚に幣束や神札を納めて祀ったり、炉の自在鉤や五徳を神体とする地方もある』。『島根県安来市につたわる安来節も火男を象徴しているということが言われている。沖縄、奄美群島ではヒヌカン(火の神)といって、家の守護神として人々には身近な神である』。『日本の仏教における尊像・三宝荒神は、かまど神として祀られることで知られる。これは、清浄を尊んで不浄を排する神ということから、火の神に繋がったと考えられている』。『また』、『近畿地方や中国地方では、陰陽道の神・土公神がかまど神として祀られ、季節ごとに春はかまど、夏は門、秋は井戸、冬は庭へ移動すると考えられている』。『神道では三宝荒神ではなく、竈三柱神(稀に三本荒神)を祀る。竈三柱神はオキツヒコ(奥津日子神)・オキツヒメ(奥津比売命)・カグツチ(軻遇突智、火産霊)とされる。オキツヒコ・オキツヒメが竈の神で、カグツチ(ホムスビ)が火の神である』。『住居空間では』、『竈は座敷などと比べて暗いイメージがあることから、影や裏側の領域、霊界(他界)と現世との境界を構成する場所とし、かまど神を両界の媒介、秩序の更新といった役割を持つ両義的な神とする考え方もある』。『また、性格の激しい神ともいわれ、この神は粗末に扱うと罰が当たる、かまどに乗ると怒るなど、人に祟りをおよぼすとの伝承もある』とある。]

良人への慰 國木田獨步

 

  良人への慰

 

名なしとて何をか憂ふ、

貧しとて嘆く事かは、わが良人(つま)よ、

君は何とてわがこゝろ

 つきぬ寶と見玉はざる。

浮世の風は荒くとも

 得(え)こそ入るまじ此わが家。

君ともろ共永久(とこしへ)の

 契(ちぎり)の春に住まんには、

 何を此世(よ)に求(もと)む可き。

淸く暮(くら)さんもろともに、

高く祈らんもろともに。

 

[やぶちゃん注:明治三〇(一八九七)年三月十五日発行の『婦人新報』初出。署名は「遠山雪子」の女性仮名で、しかも國木田獨步は同仮名で、その同じ『婦人新報』当該発行号に「『めをと』を讀みて」という評論を載せている(そこでは自身を「小妹」と称して女性仮託を徹底している)。『めをと』はレフ・ニコラエヴィチ・トルストイ(Лев Николаевич Толстой/ラテン文字転写:Lev Nikolayevich Tolstoy 一八二八年~一九一〇年)の小説で、内田魯庵訳になる明二九(一八九六)年五月博文館刊のそれを指す。国立国会図書館デジタルコレクションの画像で全篇を視認出来る(英訳題は“My Husband And I”(原題不詳)で、魯庵はその「例言」では一八五九年(「?」を附す)の著作とする)。従って、この詩篇はそれに関わって詠まれたものであって、國木田獨步が訳作『めをと』の内容を意識しながら、女性になり代わって、夫を詠んだ仮想詩篇という、かなり複雑な創作背景を持つとするのが正しいものと私には思われる。

 しかも、本篇は獨步の死後五ヶ月後の明治四一(一九〇八)年十一月十九日附『讀賣新聞』に故國木田獨步の署名で「妻のなぐさめ」と改題されたものが、底本の後の「遺稿」パートに出る「うれしき祈禱」・「暮鐘」・「五月雨」とともに掲載されており、そこでは標題のみでなく、本文にも手が加えられているので、初出後に獨步が推敲を重ねていたと考えられる。底本の解題にその「妻のなぐさめ」が載るので、以下にそれを示す。太字部分は底本では傍点「◦」である。

   *

 

 妻のなぐさめ

 

君(きみ)よわが夫(つま)

  名なしとて何をか憂(うれ)ふる

  貧(まづ)しとて何(なに)を悲(かな)しむ

君は何とてわがこゝろ

 つきぬ寶と見玉はざる

浮世(うきよ)の外(そと)のこのわが家(や)

 君(きみ)ともろ共(とも)とこしへの

契(ちぎ)りの春(はる)に住(す)まんには

 何(なに)を此世(このよ)に求(もと)むべき

淸(きよ)く暮(く)らさんもろともに

 高(たか)く祈(いの)らんもろともに

 

   *]

『心、みやこをのがれ出で』 國木田獨步

 

  『心、みやこをのがれ出で』

 

心(こゝろ)、みやこをのがれ出で、

夕日(ゆふひ)ざわつく林(はやし)の中を

語(かた)る友なく獨(ひと)りでゆきぬ。

夏(なつ)たけ秋は來(きた)りぬと

梢(こずゑ)に蟬が歌(うた)ひける。

林(はやし)を出でゝ右に折(を)れ、

小高き丘(をか)に、登り來(く)れば、

見渡す限(かぎ)り、目もはるかなる、

武藏(むさし)の野邊(のべ)に秩父山(ちゝぶさん)、

雲(くも)のむす間に峯(みね)の影、

吾(われ)を來れと招(まね)きける、

吾を來(きた)れと招きける。

 

[やぶちゃん注:奇妙に徹底しない或いは大いに呆けた印象しかない殆んど不要な(私は「秩父山(ちゝぶさん)」だけでよいと思う)パラルビはママ。明治二八(一八九五)年八月三十一日附『國民新聞』に「てつぷ」の署名で掲載されたが、初出は『獨步吟三』とあって無題である。ここで言う「獨步吟」はその最初が詞華集「抒情詩」で山中」改題、「獨步吟二」が同じく「抒情詩」で夜」改題で、それに続く「三」という意味である。これらの初出は総て「てつぷ」署名であり、以前にも述べたが、標題の「獨步」とは一般名詞であって、ペン・ネーム認識は未だない状態にあるのである。なお、標題がかく変えられて公開されたのは、実に國木田獨步の死後五十四年も経った昭和三七(一九六二)年講談社刊の「日本現代文学全集」第十八巻の「國木田獨步集」が初めてであり、二重鍵括弧から見ても、当時の編集者が一行目を仮題として示したものと考えるべき(則ち、本来は無題とすべき)であろうが、当該書を所持しないので、底本に従った。

友に與ふ 國木田獨步

 

  友 に 與 ふ

 

世(よ)の波高(たか)し。      君(きみ)はいかに。

打(う)て、突(つ)け、殺(ころ)せ あだしあらば、

つるぎ引(ひ)きぬけ!        何に、ものかわ。

あゝ友よ友よ、            勇(いさ)みすゝめ!

 

【★ルビ排除正規本文字配版】

 

  友に與ふ

 

世の波高し。   君はいかに。

打て、突け、殺せ あだしあらば、

つるぎ引きぬけ! 何に、ものかわ。

あゝ友よ友よ、  勇みすゝめ!

 

[やぶちゃん注:頭巾と同じ方式で示した。パラルビはママ。明治二八(一八九五)年八月三十一日附『國民新聞』に掲載。]

2019/03/15

古人 國木田獨步

 

  古  人

 

わが室荒野のうちに在り。

さよ更けて、

燈火かすかにたゞ獨り

瞑目して古今を思へば

恍としてわれ又古人の如し。

鳴呼古人何處にある。

窓打つ雨の淋しき音、

これ自然の聲に非ずや。

軒を亙る彼の風の音

これ宇宙の聲なるかも。

恍としてわれ不朽を思ふ。

 

鳴呼古人何處にかある。

計らず楣間を仰げば

われを見下ろすもの

テニソンあり、カライルあり。

吾をして思ず君等と叫ばしむ。

バイブルをとりて讀めば、

基督イエスの聲、生けるが如し。

之れ自然の聲に非ずや。

之れ不朽の聲に非ずや。

鳴呼古人、古人、吾も逝かん。

吾亦た遂にゆきて、

永久に君等と共に在らん。

吾今ま生く、君等また生く。

君等の窮若し無死なりせば、

よし吾をして亦た君等と共に、

死の無窮の國にゆかしめよ。

 

[やぶちゃん注:明治二八(一八九五)年八月八日附『國民新聞』に掲載。署名は「てつぷ」。傍線はママ。「今ま」(いま)はママ。「君等の窮若」(も)「し無死」(むし)「なりせば、」の「窮」はコーダの「無窮」を考えれば、「窮(きゆう(きゅう))か。無論、「きはみ」と訓じてもよいとは思うが、詩語としての緊迫感を欠くように私には思われる。

恍として」ぼんやりと。

「楣間」は「びかん」と読み、長押(なげし)や欄間(らんま)の間の意。

「テニソン」ヴィクトリア朝時代のイギリスの詩人アルフレッド・テニスン(Alfred Tennyson 一八〇九年~一八九二年)。國木田獨步が愛読したことは獨步吟」の「序」に出た。

「カライル」イギリスの歴史家・評論家トーマス・カーライル(Thomas Carlyle 一七九五年~一八八一年)。やはり獨步が愛読した作家である。]

失戀兵士 國木田獨步

 

   失 戀 兵 士

 

        一

樂(たの)しき夢(ゆめ)もあだなりき。

いざ左(さ)らば、

ますら武夫(たけを)が思(おも)ひでに、

此身一つを國(くに)の牲(にへ)、

臺灣(たいわん)さして急(いそ)がなん。

 

        二

單衣(ひとえ)の戎衣、身に輕(か)ろく、

戀(こひ)も情(なさけ)もあとに見て、

骨(ほね)を埋(うづ)めん、雲山萬里の土(つち)。

雨(あめ)にむせばん、秋風身に沁(し)むの時(とき)、

願(ねが)ふは國(くに)のほまれのみ。

いざ左(さ)らば、

壯士、一去(きよ)、また歸(かへ)りこず。

臺灣(たいわん)さして急がなん。

 

        三

舷に倚(よ)つて富嶽(ふがく)を望(のぞ)み、

一たび哭辭(こくじ)を告げて鄕國(きやうこく)と別れん。

漫々(まんまん)たる大海(たいかい)、今より汝にまかす。

面(めん)を拂(はら)ふ八重(やへ)の潮路(しほぢ)の朝風(あさかぜ)に、

あだなる夢(ゆめ)を拭(ぬぐ)ひすて、

いざ左らば、

悲歌(ひか)三たびあがり、富嶽(ふがく)二たび見へず。

壯士(さうし)一たび去(さ)つて、

また歸(かへ)り來(きた)らず。

臺灣(たいわん)さして急(いそ)がなん。

 

[やぶちゃん注:読み(パラルビ)はママ。明治二八(一八九五)年七月三十日附『國民新聞』での発表。署名は「てつぷ」(哲夫の音で彼のペン・ネームの一つ)。日清戦争の結果、「下関条約」によって台湾は清朝から日本に明治二八(一八九五)年四月十七日に割譲された。ウィキの「日本統治時代の台湾によれば、『この時期、台湾総督府は軍事行動を前面に出した強硬な統治政策を打ち出し、台湾居民の抵抗運動を招いた。それらは武力行使による犠牲者を生み出し』ていたとある。一見、ナショナリズムを高揚するような詩篇でありながら、標題が目に止まる。無論、「失戀」とは故国日本での活躍を閉ざされた者が、日本を女性に見立てたものとも採れるようにも思えるが、しかし「樂(たの)しき夢(ゆめ)もあだなりき」「あだなる夢(ゆめ)を拭(ぬぐ)ひすて」と繰り返されるその吐露は、実は本篇が実際の「失戀」の結果として、自棄的に死を求めて戦さ場へと彷徨せんとする男の訣別としてあることを示しており、そもそもが、詩篇中に出る「哭辭」とは、本来、亡き人の殯宮(もがりのみや)や墓の前でその人の業績や記憶を追懐し、慟哭しつつ詠むところの言辞を指す(哀歌・挽歌。英語の「lament」)ものである。「壯士」(壮士や騎士にとって、失恋は不可逆的な一つの〈死〉であり、死でなくてはならぬものである)の姿は、実は、浪漫主義者國木田獨步の隠蔽された姿であることが垣間見えるのである。]

譚海 卷之三 (「和哥宗匠家」の続き)

(目録に立項なし。前の「和哥宗匠家」の続き)

○爲家卿の末二條家と稱し、世々撰者の跡を繼(つぎ)相傳(さうでん)有(あり)しが、中古以來其家斷絶して二條家なし、世俗に二條家と稱するは、其家のを傳へたる斗(ばか)り也、二條家とはいひがたし、二條流と稱すべき事也。當時爲家卿の末は、上下冷泉家ばかり殘れり。剩(あまつさ)へ下冷泉家も他の人家督相續ありし故、今にては上冷泉家斗り爲家卿より血脈(けちみやく)相傳して斷絶なく、撰者の跡は只此一家なり。殊に爲家卿の後室阿佛尼其家の傳書を傳(つたへ)られて、上冷泉代々相傳ありし故、彼家には古書ことごとくありしを、近世冷泉家に放蕩の人有て、重代の書籍等を沽却(こきやく)せられしより、往々人間(じんかん)に散在したる事に成(なり)たり。仍(よつ)て其家の文庫敕封せられ、其人といへどもうかゞひ見る事あたはず。上冷泉家に敕封開覽といふ事有て、其人五十になれば敕使を玉はりて開封有、一生涯先祖の書籍披見を許さるゝ也。卒去あれば又封ぜられて見る事あはず[やぶちゃん注:「あたはず」の脱字か。]。享保年中萬葉集の長歌・短歌の事を、定家卿しるし置(おか)せられし眞蹟を、江戸の町人なら屋安左衞門といふ者買取所持せしを、公儀へ獻ぜしに、有德院公方樣、冷泉家の舊物なればとて、則(すなはち)爲久卿へ下し賜り、御禮として長歌を詠(よみ)て奉られし事有。此外爲家卿眞蹟の僻案抄(へきあんせう)などと云(いふ)もの、往々人間に有(ある)は、みな彼家の什器の散落せる也。

[やぶちゃん注:「爲家卿」藤原定家の三男である権大納言民部卿藤原為家(建久九(一一九八)年~建治元(一二七五)年)。母は内大臣西園寺実宗(さねむね)の娘。当初、蹴鞠により後鳥羽・順徳両院の寵を被ったことから、父定家を悲しませたが、建保(一二一三年~一二一九年)の頃から歌作に努め、「為家卿千首」を詠じ、慈円より励まされ、歌道家継承の志を新たにして精進を始めた。知家(蓮性(れんしょう))や光俊(真観)ら、反御子左(みこひだり)派の抵抗にも遇ったが、よくその地位を守った。後嵯峨院の撰集下命により、建長三(一二五一)年に「続(しょく)後撰和歌集」を撰し、その後、再度、単独撰集の命を受けたが、後に基家・家良(中途で逝去)・行家・光俊が撰者に追任され、文永二(一二六五)年に「続古今和歌集」を撰進した。その子為氏・為教・為相により、歌道家の三家分立となった。歌風は温雅平明にして「中道の人」として崇敬され、その「制の詞(ことば)」「稽古」の思想は、御子左歌学の継承であったとはいえ、中世を通じ、その及ぼした影響は大きいものがあった。絵画にも秀でた(以上は小学館「日本大百科全書」に拠った)。底本の竹内利美氏の「爲家卿の末」の注には、定家の『長子為氏が二条家、次子の為教が京極家、三子の為相が冷泉家を、それぞれおこし、和歌の流祖となった。阿仏尼』(貞応元(一二二二)年?~弘安六(一二八三)年:女房名は安嘉門院四条又は右衛門佐。桓武平氏大掾氏流の平維茂の長男である平繁貞の子孫奥山度繁(のりしげ)の娘(または養女とも)。安嘉門院(後堀河天皇准母)に仕え、出仕中、十代で初恋失恋の失意から出家を決意して尼となったが、その後も世俗との関わりを持ち続け、三十歳の頃、藤原為家の側室となり、冷泉為相らを産んだ)『は為家の側室で、為相の母であったから、冷泉家に多く和歌の伝書が伝えられた。二条・京極両家はその後絶えて、冷泉家のみか近世までつづき、さらに為相四代の孫為伊』(ためまさ)『の子持為が分派して下冷泉家となった。そして、為相の正統も上冷泉家と呼ばれるに至った』とされる。

「沽却(こきやく)」売り払うこと。売却。

享保年中」一七一六年~一七三六年。

「なら屋安左衞門」奈良屋茂左衛門(もざえもん ?~正徳四(一七四一)年)は元禄時代、一代で富豪に成り上がった材木商。略称「奈良茂(ならも)」。豪商「紀文」と並び称せられた。姓は神田、名は勝豊、剃髪して安休と号した。「茂左衛門」は代々の通称で、勝豊は四代目。日光東照宮修築の際、材木調達を請け負い、濡れ手に粟の大儲けをしたとされる。以後、寺社を盛んに建立した徳川綱吉の治世の時流に乗り、幕府の材木御用達(ごようたし)として巨富を積んだ。綱吉が没した翌年の宝永七(一七一〇)年には材木商を廃業し、安楽に暮らせる貸家業に転じた。死後の遺産は十三万二千両余で、内訳は家屋敷三十ヶ所(沽券高四万四千両余)、現金約四万八千両、貸金四万両であった。この莫大な遺産は長男広と次男勝屋が遊興に耽って散財したが、紀文のように完全には没落せず、幕末まで中流の江戸町人として面目を保ち存続した(小学館「日本大百科全書」に拠る)。

「有德院公方」徳川吉宗。

爲久卿」上冷泉家第十四代当主冷泉為久(貞享三(一六八六)年~寛保元(一七四一)年)。正二位権大納言。武家伝奏を務めた。

「僻案抄」鎌倉時代の和歌注釈書。一巻。藤原定家著。嘉禄二(一二二六)年成立。父俊成から受けた口伝を含め、「古今和歌集」・「後撰和歌集」・「拾遺和歌集」の三代集の難語を考証・注解したもの。「僻案集」とも呼ぶ。]

頭巾二つ 於千代田艦 國木田獨步

 

  頭 巾 二 つ   於千代田艦

 

 吾(わ)が艦隊(かんたい)、黃海(くわうかい)の最北(さいほく)にかゝりて、第二軍(ぐん)の上陸(じやうりく)を護衞(ごゑい)しつゝある時、たまたま千代田艦長(いよだかんちやう)内田(うちだ)正敏君の夫人(ふじん)より一個の荷物(にもつ)、良人の(りやうじん)もとに到着(たいちやく)したり。靑木と稱する艦長(かんちやう)ボーイ、艦長室(かんちやうしつ)にて艦長の目前(めのまへ)に此の荷物(にもつ)をときぬ。吾(われ)傍(かたはら)に在りて之を見(み)たり。防寒用(ばうかんよう)の頭巾(づきん)一個荷物(にもつ)のうちより出でぬ。已にして又た一個(いつこ)出でぬ。一個は夫人(ふじん)殊(こと)に艦長ボーイに贈(おく)られたる也。艦長ボーイ年の頃は十五六、常にまめまめ敷(しく)艦長(かんちやう)に仕(つか)ゆ。吾れひそかに夫人の優(やさ)しき心(こゝろ)をくみて此の歌(うた)を作(つく)る。

 

吾(わ)が夫(つま)は

遠(とほ)き波路(なみぢ)を、  ゆきゝして、

勇者(つはもの)どもと、     もろともに、

勇者(つはもの)どもの、     かしらして、

御國(みくに)のためと、     はげみます、

懷(おも)ふや速(はや)き、   夫(つま)の身(み)の上(うへ)。

 

北(きた)の海(うみ)

吹(ふ)きすさぶなる、      潮風(しほかぜ)を、

如何(いか)にわが夫(つま)、  しのぎ給(たま)ふらむ

思(おも)へばいとゞ、      すきまもる

都(みやこ)の風も        身(み)にぞしむ。

 

いくさ人(びと)とは、      言(い)いながら、

さぞや不自由(ふじいう)に、   いますらん。

遠(とほ)きうみ山(やま)、   へだつれば、

朝(あさ)な夕(ゆふ)なの    かしづきも

思(おも)ふにまかせぬ、     女子(をなご)の身(み)、

たのむは夫(つま)の       傍(かたは)らに

はべると聞(き)きし       童(わらべ)のみ

 

生(い)くるも夫(つま)と    もろともに、

死(し)するも同(おな)じ、   波(なみ)のそこ、

哀(あは)れの童(わらべ)、   なつかしや。

 

夫(つま)思(おも)ふ

吾(わ)れさへあるに、      いかならむ、

童(わらべ)が母(はゝ)の、   心根(こゝろね)は、

ともに女子(をなご)の、     身(み)にしあれば、

思(おも)ふこゝろの       變(かは)らめや。

妻(つま)の心(こゝろ)の、   深(ふか)ければ

母(かゝ)の心(こゝろ)ぞ    いや深(ふか)き。

 

此(こ)の頭巾(づきん)、

夫(つま)に送(おく)らん    其(そ)のつてに、

童(わらべ)がためと、      今(いま)一(ひと)つ、

同(な)じ包(つゝ)みに、    封(ふう)じたり。

 

たまを霰(あられ)の、      艦(ふね)のうへ。

霰(あられ)をたまの、      北(きた)のうみ。

氷(こほ)るしぶきの、      そのなかに、

夫(つま)も童(わらべ)も    もろともに、

たゞ安(やす)かれと       祈(いの)るなり。

 

【★ルビ排除正規本文字配版】

 

 頭 巾 二 つ   於千代田艦

 

 吾が艦隊、黃海の最北にかゝりて、第二軍の上陸を護衞しつゝある時、たまたま千代田艦長内田正敏君の夫人より一個の荷物、良人のもとに到着したり。靑木と稱する艦長ボーイ、艦長室にて艦長の目前に此の荷物をときぬ。吾傍に在りて之を見たり。防寒用の頭巾一個荷物のうちより出でぬ。已にして又た一個出でぬ。一個は夫人殊に艦長ボーイに贈られたる也。艦長ボーイ年の頃は十五六、常にまめまめ敷艦長に仕ゆ。吾れひそかに夫人の優しき心をくみて此の歌を作る。

 

吾が夫は

遠き波路を、    ゆきゝして、

勇者どもと、    もろともに、

勇者どもの、    かしらして、

御國のためと、   はげみます、

懷ふや速き、    夫の身の上。

 

北の海

吹きすさぶなる、  潮風を、

如何にわが夫、   しのぎ給ふらむ

思へばいとゞ、   すきまもる

都の風も      身にぞしむ。

 

いくさ人とは、   言いながら、

さぞや不自由に、  いますらん。

遠きうみ山、    へだつれば、

朝な夕なの     かしづきも

思ふにまかせぬ、  女子の身、

たのむは夫の    傍らに

はべると聞きし   童のみ

 

生くるも夫と    もろともに、

死するも同じ、   波のそこ、

哀れの童、     なつかしや。

 

夫思ふ

吾れさへあるに、  いかならむ、

童が母の、     心根は、

ともに女子の、   身にしあれば、

思ふこゝろの    變らめや。

妻の心の、     深ければ

母の心ぞ      いや深き。

 

此の頭巾、

夫に送らん     其のつてに、

童がためと、    今一つ、

同じ包みに、    封じたり。

 

たまを霰の、    艦のうへ。

霰をたまの、    北のうみ。

氷るしぶきの、   そのなかに、

夫も童も      もろともに、

たゞ安かれと    祈るなり。

 

 

[やぶちゃん注:冒頭の詞書は底本では全体が詩篇本文ポイントで二字下げとなっているが、ブラウザの不具合を考えて引き上げた。詩本篇では、一行で上下に分割されてある箇所は、底本では総て、下の文字列がインデントされてある。ルビではなく、読みを添えているため、やはりブラウザの不具合を最小限とするため、その字間を第二行目で下方詩句を違和感のないぎりぎり二字下げ開始にした、その位置に後を合わせざるを得なかった。そこで、後にルビを排除して正規表現形式とした原型に近いものを特異的に示した。また、第三連一行目の「言(い)いながら」はママである。

 ここより底本の「拾遺」パートに入り、時制が戻る本詩篇の発表は明治二七(一八九四)年十一月二十五日発行の『家庭雜誌』で、署名は「國木田哲夫」。現在知られている國木田獨步の詩篇の内、生前に公開され、且つその初出が判明している詩篇としては、最も古い詩篇(但し、年譜で見ると、後の新体詩「竹取物語」等の創作開始時期は本詩篇の発表より遙かに先立つし、その間にも前掲の「獨步吟」詩篇群の草稿創作を行っているので、単に発表時制が最古であるだけであり、これが彼の詩の出発点であったわけではさらさらないので注意されたいである。この年、國木田獨步(当時、二十三歳)は九月中旬に『國民新聞社』に入社していたが、早くもその半月後の十月一日、日清戦争に海軍従軍記者の話を受けて快諾、同十三日新橋を出、広島・佐世保を経て、同十九日夕刻、大同江(だいどうこう/テドンガン:現在の朝鮮民主主義人民共和国北西部を流れる川)で軍艦千代田に乗艦、以後、同艦は大連湾での転戦から翌明治二十八年五月五日の呉への帰還までの間(但し、途中で数日、同艦は長崎にドッグ入りで戻ったりはしている)、弟収二に宛てた文体の戦況ルポルタージュ「愛弟通信」(没年の十二月に纏められて発行されたものが国立国会図書館デジタルコレクションのこちらの画像で全篇読める)をとして発表し、『國民新聞』の記者「國木田哲夫」として一躍、有名となったのであった。なお、従軍中の「千代田」から、友人で文学仲間の新聞記者田村三治(さんじ:この獨步出発の直前である七月七日中央新聞社に入社し、後に主筆となった)に当てた彼の書簡(十一月十四日附)を国立国会図書館デジタルコレクションの画像で読むことが出来る。

 彼が乗艦した、巡洋艦「千代田」は日本海軍がイギリスに発注建造されたもので、命名は明治二一(一八八八)年九月で、日本に回航され、横須賀に到着したのは明治二十四年四月。日清戦争では黄海海戦や大連・旅順・威海衛・澎湖島攻略作戦などに参加、後の日露戦争では仁川沖海戦・旅順攻略作戦・日本海海戦・樺太作戦などに参加した。第一次世界大戦では青島攻略戦に参加し、後にマニラへ派遣され、中国沿岸水域の警備に従事、大正八(一九一九)年から翌年にかけて呉工廠で潜水母艦に改造され、海防艦から水雷母艦に類別変更され、翌年、軍艦籍から除籍されて潜水艦母艇となった。大正一三(一九二四)年十二月、除籍されて雑役船に編入、練習船に指定されて海軍兵学校附属となったが、昭和二(一九二七)年二月に廃船となり、撃沈処分が下され、同年八月三日午後、豊後水道沖合で空母鳳翔航空隊及び水上機母艦能登呂航空隊の爆撃演習の標的艦として沈没している。以上はウィキの「千代田防護巡洋艦に拠ったが、獨步乗艦当時の本篇に出る艦長は内田正敏大佐(嘉永四(一八五一)年~大正一一(一九二二)年)であった(彼の経歴はウィキの「内田正敏を参照されたい)。

 第一連五行目のの「はげみます、」の「ます」は古語「坐(座)す」で「あり・をり」の尊敬語であって、口語の丁寧語表現ではないので、若い方は誤読されぬように。]

2019/03/14

柳田國男 山島民譚集 原文・訓読・附オリジナル注「河童駒引」(30) 「猿舞由緖」(2)

 

《原文》

 世ノ中太平ト成リテ牛ガ增加シテ馬ガ減少シ、而モ猿屋ノ眷屬ハ次第ニ國々ニ多クナリシ結果トシテ、由緖ヲ重ンジ馬ヲ大切ニスル大名タチガ猿舞師ヲ扶持シテアリシ時代ニスラ、彼等ハ既ニ人ノ厩ノミヲ譽メテハ暮スコト能ハザリシナリ。況ヤ今ハ生活ノ烈シキ新時代ナリ。轉業廢業ヲ敢テスルニ非ザレバ則チ追々ト所謂猿芝居ノ方ニ力ヲ用ヰ、猿ニ女ノ鬘ナドヲ被ラセテ、馬以外ノ者ノ心ヲ樂シマシメネバナラヌハ自然ノ傾向也。但シ世ノ季ニナリテモ昔ト變ラザルコト唯一ツアリ。【猿屋家筋】卽チ猿牽ノ職業ガ終始一定ノ家筋ニ限ラレテアルコト是ナリ。此ハ必ズシモ此職ノ下賤ナルガ爲ニハ非ザルべシ。人間ニ似タリト言フトモ到底猿ハ獸ナリ。之ヲ教育シテ舞ヲ舞ハシムル迄ニハ多クノ口傳ト練熟トヲ必要トス。誰ニテモ卽座ニ猿屋トナルト云フコトハ不可能ナリ。加之厩ノ祈禱ニハ猿ノ舞ト共ニ更ニ六ツカシキ修法アリ。【馬醫】昔ハ猿引ガ馬相及ビ馬醫ノ術ヲ兼ネ行ヒシガ如シ。卽チ近キ頃マデ博勞ノ徒ノ從事セシ職務ナリ。【勝善神】猿舞ト馬醫トノ間ニ分業ガ行ハレテ後モ、尚猿屋等ハ此種ノ故實ニ通ジタリシ上ニ、更ニ厩ノ神トシテ勝善神ト云フ神ヲ祀リ、勝善經ト云フ經ヲ讀ムガ其常ノ任務ナリシナリ〔猿屋惣左衞門傳書〕。勝善又ハ蒼前ト云フ神ハ奧羽地方ノ村里ニ於テ馬ノ保護者トシテ今モ崇祀セラル。【葦毛馬】其由來ハ不明ナレドモ、自分ノ推測ニテハ驄騚(ソウゼン)卽チ葦毛四白ノ馬ナラント思フ。葦毛ハ古來ノ馬書ニモ七驄八白トアリテ、齡八歳ニ達スレバ白馬トナル。馬ノ最モ靈異ナルモノト認メラレ、多クノ地方ニ於ケル馬ノ神ノ正體ナリ。厩師ノ猿牽ハ言ハヾ之ニ仕フル巫祝ニシテ、現今ノ思想ニ於ケル遊藝人ニテハ非ザリシナラン。西京ニテハ因幡堂藥師ノ町ニ住スル山本七郞右衞門、及ビ伏見ニ住スル猿牽ノ如キモ、晴ノ儀式ニハ裝束ヲ着ケテ出頭セリ〔遠碧軒記上〕。併シ片田舍ノ猿牽例ヘバ甲州西山梨郡千塚(ちづか)村ノ守山野太夫ノ如キハ、刀ヲ差シ麻上下ヲ着テ其上ニ袈裟ヲ掛ケタリト云フ〔裏見寒話四〕。其出立チノ此ノ如ク頗ル異樣ノモノナリシヲ見テモ、伊達ヤ物好キニテハ無カリシコトヲ察スルニ足レリ。

《訓読》

 世の中、太平と成りて、牛が增加して馬が減少し、而も猿屋の眷屬は次第に國々に多くなりし結果として、由緖を重んじ、馬を大切にする大名たちが、猿舞師を扶持してありし時代にすら、彼等は既に、人の厩のみを譽めては、暮すこと、能はざりしなり。況や今は生活の烈しき新時代なり。轉業・廢業を敢へてするに非ざれば、則ち、追々と、所謂、猿芝居の方に力を用ゐ、猿に女の鬘(かつら)などを被らせて、馬以外の者の心を樂しましめねばならぬは、自然の傾向なり。但し、世の季(すゑ)になりても昔と變らざること、唯だ一つあり。【猿屋家筋】卽ち、猿牽の職業が終始一定の家筋に限られてあること、是れなり。此れは必ずしも此の職の下賤なるが爲には非ざるべし。人間に似たりと言ふとも、到底、猿は獸なり。之れを教育して、舞ひを舞はしむるまでには、多くの口傳と、練熟とを必要とす。誰にても卽座に猿屋となると云ふことは不可能なり。加之(しかのみならず)、厩の祈禱には猿の舞ひと共に更に六(む)つかしき修法あり。【馬醫】昔は猿引が馬相(ばさう)及び馬醫の術を兼ね行ひしがごとし。卽ち、近き頃まで、博勞(ばくらう)の徒の從事せし職務なり。【勝善神】猿舞ひと馬醫との間に分業が行はれて後も、尚、猿屋等(ら)は此の種の故實に通じたりし上に、更に厩の神として「勝善神」と云ふ神を祀り、「勝善經」と云ふ經を讀むが、其の常の任務なりしなり〔猿屋惣左衞門傳書〕。「勝善」又は「蒼前(さうぜん)」と云ふ神は奧羽地方の村里に於いて馬の保護者として今も崇祀(すうし)せらる。【葦毛馬】其の由來は不明なれども、自分の推測にては「驄騚(そうぜん)」、卽ち、「葦毛四白(あしげしはく)」の馬ならんと思ふ。葦毛は古來の馬書にも「七驄八白(しちそうはつぱく)」とありて、齡(よはひ)八歳に達すれば白馬となる。馬の最も靈異なるものと認められ、多くの地方に於ける馬の神の正體なり。厩師(まやし)の猿牽は言はゞ、之れに仕ふる巫祝(ふしゆく)にして、現今の思想に於ける遊藝人にては非ざりしならん。西京にては因幡堂(いなばだう)藥師の町に住する山本七郞右衞門、及び伏見に住する猿牽のごときも、晴(はれ)の儀式には裝束を着けて出頭せり〔「遠碧軒記」上〕。併(しか)し、片田舍の猿牽、例へば、甲州西山梨郡千塚村の守山野太夫のごときは、刀を差し、麻上下(あさかみしも)を着て、其の上に、袈裟を掛けたり、と云ふ〔「裏見寒話」四〕。其の出立(いでた)ちの、此(か)くのごとく頗る異樣のものなりしを見ても、伊達(だて)や物好きにては無かりしことを察するに足れり。

[やぶちゃん注:「猿舞師」「猿芝居」「猿牽」ここいらでウィキの「猿まわし」他を引いておこう。『猿回し(さるまわし)とは、猿使いの口上や太鼓の音に合わせて猿が踊りや寸劇などを見せる大道芸の一種。猿飼、猿曳、猿舞、野猿まわしなどとも呼ばれている』。『発掘された粘土板に書かれた楔形文字から』四千五百『年前のメソポタミア文明に猿回しが職業としてあったことがわかっている』。『猿を使った芸は日本へは奈良時代に中国から伝わったとされている。昔から馬の守護神と考えられてきた猿を使った芸は、武家での厩舎の悪魔払いや厄病除けの祈祷の際に重宝され、初春の門付(予祝芸能)を司るものとして、御所や高家への出入りも許されていた。それが室町時代以降から徐々に宗教性を失い、猿の芸のみが独立して、季節に関係なく大道芸として普及していった』。『インドでは賤民が馬と共に猿を連れて芸を見せるという風習が有った』。『江戸時代には、全国各地の城下町や在方に存在し、「猿曳(猿引、猿牽)」「猿飼」「猿屋」などの呼称で呼ばれる猿まわし師の集団が存在し、地方や都市への巡業も行った。近世期の猿引の一部は賤視身分で、風俗統制や身分差別が敷かれることもあった。当時、猿まわし師は猿飼(さるかい)と呼ばれ、旅籠に泊まることが許されず、地方巡業の際はその土地の長吏や猿飼の家に泊まらなければならなかった』。『新春の厩の禊ぎのために宮中に赴く者は大和』、『もしくは』、『京の者』で、『幕府へは尾張、三河、遠江の者と決まっていた』。『猿まわしの本来の職掌は、牛馬舎とくに厩(うまや)の祈祷にあった。猿は馬や牛の病気を祓い、健康を守る力をもつとする信仰・思想があり、そのために猿まわしは猿を連れあるき、牛馬舎の前で舞わせたのである。大道や広場、各家の軒先で猿に芸をさせ、見物料を取ることは、そこから派生した芸能であった』。『明治以降は、多くの猿まわし師が転業を余儀なくされ、江戸・紀州・周防の』三『系統が残されて活動した。大正時代に東京で廻しているのは主に山口県熊毛郡の者だった』。『昭和初期になると、猿まわしを営むのは、ほぼ山口県光市浅江高州地域のみとなり、この地域の芸人集団が全国に猿まわしの巡業を行なうようになった』。『猿まわし師には「親方」と「子方」があり、子方は猿まわし芸を演じるのみで、調教は親方が行なっていた』。『高州の猿まわしは、明治時代後半から大正時代にかけてもっとも盛んだったが、昭和に入ると徐々に衰え始める。職業としての厳しさ、「大道芸である猿まわしが道路交通法に違反している」ことによる警察の厳しい取締り、テキ屋の圧迫などから、昭和』三十年代(一九五五年~一九六四年)に『猿まわしは』一旦、『絶滅した』。しかし、一九七〇年に『小沢昭一が消えゆく日本の放浪芸の調査中に』、『光市の猿まわしと出合ったことをきっかけに』、昭和五三(一九七八)年、『周防猿まわしの会が猿まわしを復活させ、現在は再び人気芸能となっている』とある。「猿回しが登場する作品」の項。浄瑠璃「近頃河原達引」(世話物。三巻。為川宗輔・奈河七五三助(ながわしめすけ)らの合作。天明二(一七八二) 年春に江戸外記座初演とされる。元禄一六(一七〇三)年に起きた、「おしゅん庄兵衛」(劇中では「おしゅん伝兵衛」)の心中事件に,元文三(一七三八)年に四条河原で起きた公家侍と所司代家来の喧嘩と、親孝行な猿廻しが表彰を受けた話題を絡ませて脚色したもの。「猿廻し与次郎」の家の悲劇を描く「堀河猿廻し」の段は、世話浄瑠璃の代表曲の一つとされ、今日でもしばしば上演される。ここは「ブリタニカ国際大百科事典」に拠った)では、『主人公の遊女の兄として猿回しの与次郎が登場し、盲目の母を助ける孝行者として描かれる。この話は』上記の通り、『実話を元に創作されたもので、ある心中事件があ』ったことに、『京都の東堀川に住んでいた丹後屋佐吉という猿回しが盲目の母親に孝行を尽くしたことで表彰され、それらを題材に作られ』ている。『与次郎というのは京都の非人頭の通称で、享保年間に名高かった「叩きの与次郎(門口で扇を叩きながら祝言や歌を披露して生活する人たちのことで、京都悲田院の与次郎が始めたことからそう呼ばれた)」から名を借りて使われた』とある。次にウィキの「ニホンザル」の「馬と猿、猿曳き」『日本には古来、猿は馬を守る守護者であるとする伝承があった。たとえば「猿は馬の病気を防ぐ」として、大名屋敷などでは厩において猿を舞わせる習慣があった』『が、こうした猿の舞を生業とする猿曳き(後の猿回し)は、柳田國男によれば、元来』、「馬医」『をも生業に兼ねていた』(本文)。『柳田はまた「厩猿(まやざる)」と呼ばれる習俗を紹介している。これは東北地方に見られる風習で、馬(や牛)の健康、安産、厩の火除けなどを願って猿の頭蓋骨や手、あるいは絵札などを厩に飾るもの』で、『柳田によれば』、『これは非常に古い伝統で、元来は実物の猿を厩につないでいたものだった』。『厩に猿を飼う風習は古く』、「梁塵秘抄」や「古今著聞集」にも例があることは先行する注で示した。また、『類似の習俗は中国やタイにもあったという』とある。

「馬相(ばさう)」馬の相(そう)を見て、占うところの、柳田國男の言うところの、馬限定で呪術を行う「巫祝」(ふしゅく)のこと。

「博勞(ばくらう)」(現代仮名遣「ばくろう」)は「伯楽」「馬喰」とも書き、本邦では牛馬の仲買人を指す。「伯楽」は古代中国の馬の鑑定の達人とも、また馬を守護する星の名ともされ、転じて、村々を回って農家から牛馬を買い集め、各地の牛馬市などでこれを売り捌く者をさして呼んだ。また、獣医の普及以前には、牛馬の「血取り」(牛馬の健康観察を行うとともに蹄の手入れ・焼き鏝(ごて)で膝頭の外側を焼くなどの予防医療を行うこと)や疾患治療などを業とした者にも「伯楽」の字が当てられたが、この場合は「はくらく」と呼んだようである。但し、両者ともに馬相鑑定の技術に優れていることが必要で、もともと両者は兼ね行われていたらしく、その分化は極めて曖昧である、と「ブリタニカ国際大百科事典」の「博労」にはあった。柳田の謂いの通りである。我々はどこかで馬による運送を生業とした「馬引(うまひき)」を博労と呼ぶと勘違いしている向きがあるように私には思われる。

「勝善神」「蒼前(さうぜん)」小学館「日本大百科全書」の「蒼前様(そうぜんさま)」によれば、『馬の保護神で』、「勝善」「正善」「宗善」「総善」など、『いろいろに』言われ、また表記さ『れている。牛馬の守護神というのは全国各地にあるが、蒼前というのは東日本』、特に『東北地方に多く信仰されている』もので、『岩手県の各郡では、月日は土地によって異なるが、蒼前神の祭日にはお供えをあげ、馬をきれいに飾って参詣』『する。また馬の子が生まれたときは、御神酒(おみき)をあげ』、『近所の人を招いて祝うという。秋田県仙北郡では、正月中に猿丸太夫(さるまるだゆう)と』名乗る『厩(うまや)祭りの祈祷師』が来て『祈祷をする。蒼前様は、家の中の大黒柱や、居間にあがる敷き板の上方に棚を設けて祀』『ってある』ことが『多い』とある。

「勝善經」このような経典があるとは私には思われないので、恐らくは神仏習合時代、陰陽道の系統から生み出された呪言的なものではないかと推察する。

「驄騚(そうぜん)」「葦毛四白(あしげしはく)」中文サイトの「説文解字注」に、「驄」は『馬靑白襍毛也。白毛與靑毛相閒則爲淺靑。俗所謂葱白色』とあり、「騚」は中文サイトの辞書に『四蹄全白的馬。又叫踏雪馬』とあるから、これは葦毛で四肢が白い馬のことを指すものと思われる。「葦毛」は既注であるが、再掲すると、馬を区別する最大の指標である毛色の名で、栗毛(地色が黒みを帯びた褐色で、鬣(たてがみ)と尾が赤褐色のもの)・青毛(濃い青みを帯びた黒色のもの)・鹿毛(かげ:体は鹿に似た褐色で、鬣・尾・足の下部などが黒いもの)の毛色に、年齢につれて、白い毛が混じってきたものを指す。

「七驄八白(しちそうはつぱく)」前の「四」は四肢であろうが、ここは年齢となっているから、七歳の「葦毛四白」が、今一つ年を取ると「八白」という霊的存在になることを指しているようである。

「厩師(まやし)」当初、「うまやし」と読みを振ったが、先のウィキの引用に従って「まやし」としておいた。「馬屋」は確かに「まや」とも読む。但し、柳田國男がどこでこの読みを出しているかは、今のところ確認出来ない。見出し次第、追記する。

「因幡堂(いなばだう)藥師の町」現在の京都府京都市下京区松原通烏丸東入る上る因幡堂町(ちょう)の真言宗福聚山平等寺(びょうどうじ:本尊薬師如来周辺のことか(グーグル・マップ・データ)。

「甲州西山梨郡千塚村」現在の山梨県甲府市千塚附近(グーグル・マップ・データ)であろう。

「裏見寒話」江戸中期の甲府勤番士野田市右衛門成方(のだいちざえもんしげかた)が、凡そ三十年に亙って甲斐国で見聞したものを綴った地誌。宝暦二(一七五二)年序。「国文研データセット」の原著画像の、に当該部が載る。]

秋の入日 國木田獨步 (生前発表の最後の詩篇)

 

   秋 の 入 日

 

 要するに悉(みな)、逝(ゆ)けるなり!

 在らず、彼等は在らず。

 秋の入日あかあかと田面(たのも)にのこり

 野分はげしく颯々と梢(こずゑ)を拂ふ

 うらがなし、あゝうらがなし。

 

 水とすむ大空かぎりなく

 夢のごと淡(あは)き山々遠く

 かく日は、あゝ斯(か)くてこの日は

 古(いにしへ)も暮れゆきしか、今も又!

 哀(かな)し、哀し、我こゝろ哀し。

以て自序となす     獨 步 吟 客

 

[やぶちゃん注:末尾の後書きから判る通り、本篇は明治四〇(一九〇七)年五月十五日彩雲閣から発行された第四小説集「濤聲」(とうせい)の巻頭に、当該書籍の「序」として示した一篇である(これが初出)。本詩篇に限っては、国立国会図書館デジタルコレクションの聲」初版の画像を視認して電子化した。詩篇ページである。因みに、同作品集には、順に本序詩「秋の入日」以下、小説十三篇(「鎌倉夫人」・「神の子」・「二少女」・「帽子」(初出誌の標題は「田舍教師」)・「あの時分」・「死」・「波の音」・「號外」(リンク先は私の電子テクスト)・「歸去來」・「別天地」・「戀を戀する人」・「非凡人」(ツルゲーネフ原作の翻案)・「園遊會」)から成るもので、直前の一月五日には小説九篇から成っていたプレの第四小説集の原稿が印刷所の火災によって焼失するという難に襲われ、同年四月に獨步社(前に述べた通り、近時畫報社を引き継いだもので、明治三九(一九〇六)年六月創設)は破産した。そうして結局、本書は彼の生前最後の単行小説集となってしまった。現行、生前に発表された最後の詩篇と確認されているものは底本全集のデータを見る限り。これである國木田獨步はこの翌明治四一(一九〇八)年六月二十三日、午後八時四〇分、入院していた茅ヶ崎市南湖院にて肺結核のため(最初の兆候は既に明治三十九年末にあった)、満三十六歳と十ヶ月逝去した。この詩篇には、既にしてその死の予感が彼にはっきりと働いてことが感じられて、凄然たるものが漂っているではないか。

和漢三才圖會卷第三十八 獸類 象(ざう/きさ) (ゾウ)

 

Zou

 

ざう     伽耶

きさ    【文作𤉢

       象耳牙鼻足

       之形】

【音牆】

★      【和名岐佐】

スヤン

[やぶちゃん注:★の部分に上図の篆文の文字が入る。]

 

本綱象交趾雲南及西域諸國野象至成群畜之長則飾

而乘之有灰白二色形體擁腫靣目醜陋大者身長丈餘

高稱之大六尺許肉倍數牛目纔若豕四足如柱無指而

有爪甲行則先移左足臥則以臂着地其頭不能俯其頸

不能囘其耳一軃其鼻大如臂下埀至地鼻端甚深可以

開合中有小肉爪能拾針芥食物飮水皆以鼻卷入口一

身之力皆有於鼻故傷之則死耳後有穴薄如皷皮刺之

亦死口内有食齒兩吻出兩牙夾鼻雄者長六七尺雌者

幾尺餘耳交牝則有水中以胸相貼與諸獸不同三年一

乳五歳始産六十年骨方足其性能久識嗜芻豆甘蔗與

酒而畏烟火獅子巴蛇殺野象多設机穽以之或埋象

鞋於路以貫其足捕生象則以雌象爲媒而誘獲之飼而

狎之久則漸解人言使象奴牧之制之以釣左右前脚罔

不如命也

象牙【甘寒】治諸鐵及雜物入肉【刮牙屑和水敷之立出】諸物刺咽【磨水

 服之愈】癇病切邪魅及諸瘡【世人知燃犀可見水怪而不知沉象可驅水怪又夏

 月合藥宜置象牙于傍】凡犀以望月紋生角象聞雷聲則花發牙

 西域重象牙用飾牀座中國貴之以爲笏象毎牙自

 埋藏之人以木牙潛易取焉【象牙殺取者上也自死者次之山中多年者下

 矣或謂一歳一換牙者非也

象膽【苦寒微毒】明目治疳【其膽隨四時春在前左足夏在前右足秋後左足冬後右足也】

 拾玉妙法經かく道塲の曉に白象天を見ぬは見ぬかは 慈圓

寰宇記云象見傷則群黨相扶將去南向跪拜鳴三匝以

木覆之【人如以斧刄刺象其象遁去則半日卽合故人象皮燒灰敷金瘡不合者愈】

五雜組云人畜象如牛馬然騎以出入裝載糧物而性

尤馴又有作架於背上兩人對坐宴飮者遇坊額必膝行

而過上山則跪前足下山則跪後足穩不可言有賊所劫

者窘急語象以故象卽捲大樹於鼻端迎戰而出賊皆一

時奔潰也惟有獨象時爲人害則穽而殺之

 

 

ざう     伽耶〔(かや)〕

きさ    【「文」に「𤉢」の字に作る。

       耳・牙・鼻・足の形を象る。】

【音、「牆」。】

★      【和名、「岐佐」。】

スヤン

 

「本綱」、象は交趾(カウチ)[やぶちゃん注:ヴェトナム北部。]・雲南及び西域の諸國に〔出づ〕。野象、群れを成すに至る。之れを畜ひて、長ずるときは、則ち、飾りて之れに乘る。灰・白の二色、有り。形體、擁腫〔(ようしゆ)せるがごとく〕[やぶちゃん注:腫れ物でを病んでいるかのようで。]、靣目〔(めんもく)〕[やぶちゃん注:「靣」は「面」の異体字。]、醜陋(みにく)し。大なる者は、身の長け、丈餘り[やぶちゃん注:明代の一丈は三・一一メートル。]、高さ、之れに稱(かな)ふ[やぶちゃん注:見合った分だけある。]。大いさ、六尺許り[やぶちゃん注:同換算で一メートル八十七センチメートル。]。肉、數牛に倍す[やぶちゃん注:牛数頭分に当たる。]。目、纔〔(ちいさ)くし〕て、豕(ぶた)のごとし。四足、柱のごとく、指、無くして、爪甲(つめ)、有り。行くときは、則ち、先づ、左の足を移し、臥すときは、則ち、臂〔(ひぢ)〕を以つて地に着く。其の頭、俯(うつむ)くこと能はず、其の頸、囘(まは)すこと、能はず。其の耳、一つに軃〔(たれさが)り〕、其の鼻、大にして、臂のごとく下に埀れて、地に至る。鼻の端〔(は)〕し、甚だ深く、以つて、開合すべし[やぶちゃん注:開いたり、合わさったりすることが出来る。]。中に小さき肉の爪有り〔て〕能く針芥を拾い[やぶちゃん注:ママ。良安は細く小さな針や塵を拾うという意味で訓読しているようだが、これは誤りであると思う。「拾針芥」は「磁石(磁「針」)が細かな屑鉄(芥)を引きつけるように、どんなに小さなものでも吸いつけて「拾」う」の謂いと私は読む。]、物を食ひ、水を飮むにも、皆、鼻を以つて卷きて口に入る。一身の力、皆、鼻に有る故に、之れを傷くるときは、則ち、死す。耳の後に、穴、有り。薄くして皷〔(つづみ)〕の皮のごとし。之れを刺すに、亦、死す。口の内に、食齒、有り。兩の吻(くちわき)に出づ。兩牙、鼻を夾〔(はさ)〕む。雄なる者、長〔(た)〕け、六、七尺[やぶちゃん注:一メートル八十七~二メートル十八センチメートル弱。]。雌なる者、幾尺[やぶちゃん注:数尺。]餘りのみ。牝に交(つる)むときは、則ち、水中に有りて、胸を以つて相ひ貼〔(てん)〕ず[やぶちゃん注:胸を合わせるように交尾する。]。〔これ、〕諸獸と同じからず。三年に一たび、乳〔(はらみ)〕す。五歳に始めて産し、六十年に〔して〕、骨、方(まさ)に足(た)る[やぶちゃん注:成体の頑丈な骨と成る。]。其の性〔(しやう)〕、能-久(よ)く識(し)り、芻豆(すうたう)・甘蔗(さたうのくさ)と酒とを嗜みて、烟火〔(はなび)〕・獅子・巴蛇〔(はだ)〕を畏る。野象を殺すには、多く、机穽(をとしあな[やぶちゃん注:ママ。後も同じ。])を設(もふけ[やぶちゃん注:ママ。])て以つて之れを(をとしい)る。或いは、象の鞋〔(くつ/わな)〕を路に埋づめて、以つて其の足を貫く。生きたる象を捕ふるには、則ち、雌の象を以つて媒(なかだち)[やぶちゃん注:囮(おとり)。]と爲して、之れを誘つ〔て〕獲る。飼(か)ひて之れに狎(な)るゝ〔こと〕久しきときは、則ち、漸〔(やうや)〕く、人言を解し、象奴〔(ざうつかひ)〕をして之れを牧(か)はしむ。之れを制するに〔は〕以つて左右の前脚を釣〔(つり)〕す[やぶちゃん注:錘(おもり)をぶら下げる。]。命のごとくならざるといふこと、罔(な)し[やぶちゃん注:そうしておけば、通常は、思いのままに操ることが出来ないなどということは、ない。]。

象牙〔(ざうげ)〕【甘、寒。】諸鐵及び雜物、肉に入るを治す【牙の屑を刮〔(けづ)り〕て水に和して之れを敷〔(つ)くる〕に立〔たちどころ)〕に出づ。】諸物、咽〔(のど)〕に刺(た)つに【水に磨して之れを服〔さば〕愈ゆ。】癇病・一切の邪魅及び諸瘡【世人、犀〔の角〕を燃せば水怪を見つべきことを知りて、而〔れども〕、象〔の骨〕を沉〔(しづ)〕めて水怪を驅すべきことを知らず。又、夏月、藥を合するに、宜しく象牙を傍らに置くべし。】凡そ、犀は、望月を以つて、紋、角に生ず。象は、雷聲を聞くときは、則ち、花[やぶちゃん注:「本草綱目」では「光」である。良安の誤字。]、牙に發す、西域には象牙を重じ、用ひて牀座〔(いす)〕を飾る。中國にも之れを貴んで、以つて笏に爲(つく)る。象、毎〔(つね)〕に牙を(をと[やぶちゃん注:ママ。])すれば〔→時は〕、牙を自ら埋〔(うづ)〕んで[やぶちゃん注:ママ。]、之れを藏(かく)す。人、木の牙を以つて潛(ひそ)かに易(か)へて焉〔(これ)〕を取る【象牙、殺して取る者を上とす。自死〔せる〕者は之れに次ぐ。山中に〔(おと)して〕多年〔なる〕者は下〔たり〕。或いは、「一歳〔に〕一たび牙を換ふ」と謂ふは、非なり。】。

象の膽〔(きも)〕【苦、寒。微毒。】目を明らかにし、疳[やぶちゃん注:「脾疳(ひかん)」。乳児の腹部膨満や異常な食欲を示す症状の総称。]を治す【其の膽、四時に隨ふ。春は前の左足に在り、夏は前の右足に在り、秋は後ろの左足に、冬は後ろの右足にあるなり。】。

 「拾玉」

   妙法經〔(によはうぎやう)〕かく道塲〔(だうじやう)〕の曉に

      白象天を見ぬは見ぬかは 慈圓

「寰宇記(くはん〔うき〕)」に云はく、『象、傷(きづゝ[やぶちゃん注:ママ。])けらるるときは、則ち、群-黨〔(むれ)〕、相ひ扶(たす)けて將〔(ひき)〕い〔て〕去る。南に向き、跪〔(ひざまづ)き〕て拜し、鳴き、三匝〔(みめぐり)〕して、木を以つて之れ[やぶちゃん注:友の遺体。]を覆ふ』〔と〕。【人、如〔(も)〕し、斧・刄〔(かたな)〕を以つて象を刺し、其の象、遁れ去るときは、則ち、半日〔にして〕、卽ち、合す[やぶちゃん注:傷は自然に合して塞がれる。]。故に、人、象の皮を灰に燒き、金瘡〔(きんさう)〕の合はざる者に敷〔(つ)け〕て、愈ゆ。】。

「五雜組」に云はく、『滇〔(てん)〕人〔(ひと)〕、象を畜ふ〔こと〕牛馬のごとし。然〔(しか)〕も、騎して、以つて出入し、糧物〔(れうもつ)〕を裝-載(の)せる。而〔(しか)〕も、性、尤も馴る。又、架(たな)を背の上に作りて、兩人、對坐して宴飮〔(えんいん)〕する者、有り。坊額〔(ばうがく)〕[やぶちゃん注:巷間の扁額を掲げた門。]に遇へば、必ず、膝(いざ)り行きて、過ぐ。山を上るときは、則ち、前足を跪(ひざまづ)く。山を下るときは、則ち、後足を跪く。穩なること[やぶちゃん注:穏和な性質であることは。]、言ふべからず。賊、有りて、劫〔うばひ〕さるゝ者〔ある時〕は、窘急〔(きんきふ)〕[やぶちゃん注:「緊急」に同じい。]なること、象に語るに、故に以つす[やぶちゃん注:いかなる事態が生じているかを懇切丁寧に語り聴かせる。]。象、卽ち、大なる樹を鼻の端に捲(ま)ひて[やぶちゃん注:ママ。]、迎〔へ〕戰〔(う)ち〕て出づ。賊、皆、一時に奔(はし)り潰(つ)ゆなり[やぶちゃん注:ママ。]。惟だ、獨象有りて、時に、人の害を爲(な)せば[やぶちゃん注:なすことがあったりするが、その時は。]、則ち、穽(をとしあな[やぶちゃん注:ママ。])して之れを殺す。

[やぶちゃん注:現生最大の陸生哺乳類であるアフリカ獣上目長鼻(ゾウ)目ゾウ上科ゾウ科 Elephantidae のゾウ類。現生種は以下に示すアジアゾウに四亜種、アフリカゾウに二亜種で、二種六亜種(マルミミゾウ(体高二~二・四メートルと小柄で、中央・西アフリカの森林地帯に棲息することから「シンリンゾウ」とも呼ばれ、耳が小さく丸みを帯びている点、牙が真っ直ぐ下へ向かって生えている点を特徴とする。近年、別種する記載が多く見られ、その場合は三種五亜種となる)がいる。一種はインド産の、アジアゾウ属アジアゾウ亜種インドゾウ Elephas maximus indicus で、もう一種はアフリカ産のアフリカゾウ属アフリカゾウ Loxodonta Africana である。アジアゾウの亜種はインドゾウの他に、セイロンゾウ Elephas maximus maximus・スマトラゾウ Elephas maximus sumatrana・マレーゾウ Elephas maximus hirsutus であり、アフリカゾウはサバンナゾウ Loxodonta africana africana・マルミミゾウ Loxodonta africana cyclotis(先に記したように独立した一種として扱う場合は「Loxodonta cyclotis」となる)である。たまには子供向け風に両者の違いを判り易く示す。アジアゾウ(アジアゾウ属 Elephas )では、

  ・耳が小さな四角形を成す

 ・鼻の尖端は上だけに突起を有する

 ・頭頂部は左右に二つのピークを持つ

 〇前足の蹄は五つで後ろ足が四つ

 ・背中が丸い

  牙は極めて短く、♀には牙がないこともある

 のに対し、

アフリカゾウは、

 ・耳が大きな三角形を成す

 ・鼻先の上下に突起を有する

 ・頭頂部が平たい

 〇前足の蹄(ひづめ)が四つで後ろ足が三つ

 ・肩と腰が有意に盛り上がっていて背中は窪んでいる

  ♂♀ともに前方にカーブした牙を持ち、♂では三メートル以上に延びる

点である(以上は「富士サファリパーク」公式サイト内の「アフリカゾウとアジアゾウの比較」を参照した)。以下、ウィキの「ゾウ」を引く(下線太字は私が附した)。『「象」の字は、古代中国にも生息していたゾウの姿にかたどった象形文字であるとされる』。『これとは別に、日本にはゾウがいないにもかかわらず、日本語には「きさ」という古称があり』、「日本書紀」では『象牙を「きさのき」と呼んでいる』(以下の「日本書紀」と「和名類聚鈔」の引用は独自に私が作成した)。

 「日本書紀」のそれは、天智天皇一〇年(六七一)十月の条。

   *

是月、天皇遣使、奉袈裟・金鉢・象牙・沈水香・栴檀香及諸珍財於法興寺佛。

(是の月、天皇(すめらみこと)、使ひを遣はして、袈裟・金鉢(こかねのはち)・象牙(きさのき)・沈水香(ちむすいかう)・栴檀香(せんたんこう)及び諸々の珍財を法興寺の佛に奉らしめたまふ。)[やぶちゃん注:北野本の室町時代の訓を参考にした。]

   *

 また、平安中期の源順(したごう)の辞書「和名類聚鈔」(「巻一八毛群部第二十九 毛群名第二三四)に(ここは独自に全文を引いた)、

   *

象 「四声字苑」云、「𤉢【祥兩反上聲之重字。亦、作「象」。和名「岐佐」。】。獸名。似水牛、大耳、長鼻、眼細、牙長者也。

   *

とある。他にも「宇津保物語」・「宇治拾遺物語」・「徒然草」、江戸時代の滝澤馬琴の「椿説弓張月」などにも『「象」の記述がある』。ゾウの『鼻は』、『上唇と鼻に相当する部分が発達したものであり、先端にある指のような突起で仁丹のような小さな物から、豆腐といったつかみにくい物までを器用につかむことができる』。『また嗅覚も優れており、鼻を高く掲げることで』、『遠方より風に乗って運ばれてくる匂いを嗅ぎ取ることができる。聴覚も優れている』が、『視力は弱く、色覚もなく、外界の認識は主に嗅覚と聴覚によっている』。『第』二『切歯が巨大化した「牙」を持ち、オスのアフリカゾウでは牙の長さが』三・五メートル『にまで達することもある。牙は象牙として珍重され、密猟の対象となる。巨大な板状の臼歯が上下に』一『本ずつの計』四『本しかない。自分の体重や歩くことによって足にかかる負担を少なくするため』、『足の骨と足の裏の間には脂肪に包まれた細胞がつまっており、足の裏の皮膚は固く角質化している。蹄を持つため』、『有蹄類として分類されることもある』。『雌と子供で群れを形成し、雄は単独か』、『雄同士で別に群れを形成して生活する。巨大な体躯のため、成体のゾウが襲われることはほとんどないが、しかし人間を初め』、『敵が皆無という訳ではなく、アフリカではライオンの群れ、インドではトラが、主に若いゾウや幼獣を襲うことが確認されている』。『そのため、群れの成獣たちは常に幼獣の周りを取り囲んで、これらの敵から身を守っている。その巨体ながら』、時速四十キロメートル『程度で走ることができる』。『寿命は』六十『歳から』七十『歳で』、二十『歳ほどで成獣になる』(本記載(時珍)の「六十歳」がいい加減ではないことが判る)。人間には聞こえない低周波音(人間の可聴周波数帯域下限である約』二十ヘルツ『のそれ以下)で会話していると言われ、その鳴き声は最大約』百十二デシベル『もの音圧(自動車のクラクション程度)があり、最長で約』十キロメートル『先まで届いた例もある。加えて、象は足を通して低周波を捕えられることも確認された』。『ゾウの足の裏は非常に繊細であり、そこからの刺激が耳まで伝達される。彼らはこれで』三十~四十キロメートルも『離れたところの音も捕えることができる。この生態領域はまだ研究途中であるが、雷の音や、遠く離れた地域での降雨を認知できるのはこのためではないかと考えられている。また、足の裏のひび割れには滑り止めの役割があり、人間の指紋のように個体によってひび割れの模様は違っている。ゾウのしわは表面積を大きくし』、『熱を発散させるという』。人間を見分けることもできるほどに高い認知能力を持っているといわれており、例えば』、『飼育下では優しく接してくれた人間に対しては甘えたり』、『挨拶したりするが、逆に自らや仲間に危害を加えた人物に対しては非常に攻撃的になる。また、人の言語の違いを聞き分けられるとも言われ、象を狩っていたマサイ族の言語を非常に警戒したとの報告もある。ただし、同じマサイ族でも狩りに参加しない女性にではなく、男性だけを避けようとする等々、様々な逸話が伝えられる。また、群れの仲間が死んだ場合に葬式』(これも本記載の正しさが認められる)『ともとれる行動をとることがある。死んだ個体の亡骸(なきがら)に対し、周りに集まり鼻を上げて匂いを嗅ぐような動作や、労わるように鼻でなでる等の行動をとった記録がある。これらの行為の意味については疑問点も多いが、いずれにせよかなり優れた記憶力や知能を持っていると推察されている。近年、ゾウには鏡映認知(鏡に映った自身を自身と理解する能力)があることが明らかになった』。『草・葉・果実・野菜などを食べる。ミネラルをとるために泥や岩塩などを食べることもある。草食動物で』一『日に』百五十キログラム『の植物や』百リットル『の水を必要とし、野生個体の場合は』、『ほぼ一日中』、『食事をしている。体が大きく必要となる食物も並大抵の量ではないため、森林伐採などの環境破壊の影響を受けやすく、また食欲と個体数増加に周囲の植生回復が追いつかず、ゾウ自身が環境破壊の元凶になってしまうこともある。また糞の量も多く成獣だと』、一『日平均』百二十キログラムもの『糞を出す。動物園で飼われている象で』は、一『日に』二百五十キログラムもの『糞をした記録もある』。『成熟した成獣のオスにはマスト(ムスト)と呼ばれる』、一定期間、『凶暴になる時期がある。ゾウはこめかみの辺りからタール状の液体を出すが、マストとなった個体はその分泌量が多くなるため、その判断材料とされる。動物園等では、この時期の個体は』、『保安のため、檻の中で鎖に繋いでおくことが多い』。『ゾウの死体や骨格は自然状態では全くと言っていいほど発見されなかったため、欧米ではゾウには人に知られない定まった死に場所があり、死期の迫った個体はそこで最期を迎えるという「ゾウの墓場」伝説が生まれた。だが、実際には他の野生動物でも死体の発見はまれで、ゾウに限ったことではない。自然界では動物の死体は肉食獣や鳥、更には微生物によって短期間で骨格となり、骨格は風化作用で急速に破壊され、結果的に文明人の往来が少なかったアフリカでは遺骸が人目につくことはなかった。そうした事情が基になり、この伝説ができたものと考えられている。象牙の密猟者が犯行を隠すためにでっち上げたという説もある。なお、人の往来が頻繁になった近年はアフリカのサバンナでもゾウの遺骸が見られる事がある』とある。「役畜としてのゾウ」の項。『ゾウは使役動物としてかつて現地の人たちには移動手段として使われ、重いものを運ぶのにも利用された。戦象として軍事用に使われたこともある。こうした役畜としての使用はおもにアジアゾウに限られ、アフリカゾウも使われた』(ローマ時代)『記録はあるものの、あまり役畜としての利用はせず、飼育もあまりされてこなかった』。『また、ゾウに芸をさせることもあり、サーカスではゾウに逆立ちさせたり台に上らせたりといった芸をさせる。タイではゾウにサッカーをさせる行事がある。また、かつてインドでは象に罪人の頭を踏みつぶさせる処刑があった』。以下、文化的記載。『インドの神話でゾウは世界を支える存在として描かれる』。『ヒンドゥー教には、ゾウの頭を持つガネーシャと呼ばれる神様がいる。仏教では歓喜天に当たり、シヴァ神の長男で富と繁栄の神様とされる。また、天帝インドラはアイラーヴァタと呼ばれる白象に乗っている』。『仏教の影響下、東南アジアでも白いゾウ(白象)は神聖視された。釈迦は白象の姿で母胎に入ったという。ゾウは普賢菩薩の乗る霊獣として描かれることが多い』。『古代地中海世界では戦象としてゾウを軍用に使役していた。古代ローマ人が初めてゾウと遭遇したのはピュロスのイタリア半島侵入の際で、ヘレニズム世界で使用されていた戦術をピュロスがそのまま持ち込んだものであった。このときローマ軍が戦象と戦った場所ルカニアから』、『ローマではゾウはルカニアの牛と呼ばれた。こうしたピュロスのエピソード以上に第二次ポエニ戦争の際、カルタゴの将軍ハンニバルがその傭兵部隊に加えて』三十九『頭の象を引き連れ、イタリア半島に侵攻したことはよく知られている。アルプス山中で受けた妨害と寒さや餓えのため、イタリアの平野部に到達した象は元の半数以下だったが、それもトレビア川の戦いでインドゾウの一頭を残してことごとく倒れた(最後のゾウ以外はアフリカゾウ(マルミミゾウ)であった)』。『ゾウはローマにおいては一般的なものではなく、そのため』、『ローマ帝国期においては』、『ときおり』、『ゾウがローマ市まで連れてこられ、パンとサーカスの一環として見世物に供された』。紀元八〇『年にローマ市中心部において完成したコロッセウムにおいても、ゾウが皇帝に挨拶をしたり』、『ダンスを踊った記録が残されている。また、ゾウとほかの猛獣とを戦わせる見世物も行われた』。『ゾウはその生息地だけでなく、ゾウの生息しない地域においても大きさや温和さ、強さ、賢さなどのイメージから、さまざまなシンボルに使われてきた』。以下、「日本人とゾウ」の項。『日本列島がまだユーラシア大陸と陸続きだった頃、日本にはナウマンゾウ』(ゾウ科パレオロクソドン属ナウマンゾウ Palaeoloxodon naumanni『が生きており、石器時代には獲物とされていた。日本においては約』二『万年前に絶滅したとされるが、その骨は後の時代も珍重され、正倉院にもナウマンゾウの臼歯が竜骨として保管されていた』。『文献上、現世のゾウが日本へ人為的に初渡来したのは応永』十五年六月二十二日(ユリウス暦一四〇八年七月十五日)で、『東南アジア方面からの南蛮船により、足利義持への献上品として現在の福井県小浜市に入港』し、『上京した後、朝鮮に贈られた記録がある』。『それ以前より』、『仏教の影響でゾウの存在は知られており』、「今昔物語集」には、『イノシシがゾウに乗った普賢菩薩に化けて僧を誑かす逸話がある』(これは私のすこぶる附きに好きな話で、私は『柴田宵曲 續妖異博物館 「佛と魔」(その3) 附小泉八雲“Common Sense”原文+田部隆次譯』の注で電子化している。「今昔物語集」の「卷第二十」の「愛宕護山聖人被謀野猪語第十三」(愛宕護(あたご)の山(やま)の聖人、野猪(くさゐなぎ)に謀(たばか)らるる語(こと)第十三)」がそれである。未読の方は是非読まれたい)。十二『世紀から』十三『世紀に成立したと言われる鳥獣人物戯画の乙巻には、長い鼻や太い足、牙など象の特徴をよく捉えた絵が描かれている』。天正三(一五七五)年には、『明の船が象と虎を連れて豊後国臼杵に到来し、大友宗麟に献上されたほか』慶長二(一五九七)年には、『ルソン総督が豊臣秀吉への献上品として、また』、慶長七(一六〇二)年には交趾(コウチ:現在のベトナム北部)から、『徳川家康への献上品として虎・孔雀とともに贈られた。神戸市立博物館所蔵の桃山時代の南蛮屏風には日本に連れて来られた象が描かれている』。享保一三(一七二八)年六月には、♂♀二頭の『象が江戸幕府』八『代将軍・徳川吉宗に献上するために広南(ベトナム)から連れてこられた。メスは上陸地の長崎にて』三ヶ月『後に死亡したが、暴れることを想定し』、『それに耐えうる頑丈な国産船が当時無かったことから、オスは長崎から陸路歩行で江戸に向かい、途中、京都では中御門天皇の上覧があり、庶民からもかなりの人気があった』。『上覧には位階が必要なため、オスのゾウには「広南従四位白象」と位と姓名が与えられている。江戸では徳川吉宗は江戸城大広間から象を見たという。その後、ゾウは浜御殿にて飼育されていたが、飼料代がかかり過ぎるため』、寛保元(一七四一)年四月、『中野村(現東京都中野区)の源助という農民に払い下げられ、翌年』十二『月に病死した。現在も馴象之枯骨(じゅんぞうのここつ)として、中野の宝仙寺に牙の一部が遺されている』その後、文化十年六月二十八日(グレゴリオ暦一八一三年七月二十五日)に『イギリス船シャルロッテ号とマリア号が長崎に来航した際、将軍への特別の贈り物としてメスの象』一『頭が連れてこられている。長崎奉行遠山景晋』(かげくに/かげみち:「遠山の金さん」こと景元の実父)『がその象の検分に当たり、しばらく長崎に滞留していたが、同年』九月一日に『幕府から受け取り拒否の回答が伝えられたため、その象は再び船に乗って日本を出国していった。なお、このイギリス船の来航の本当の目的は、トーマス・ラッフルズの命により、出島のオランダ商館をイギリスに引き渡すようにオランダ商館長ヘンドリック・ドゥーフに要求するためで、象はその挨拶がわりだったのではないかとされている』。

 以上の本邦渡来の内、最後の文化一〇(一八一三)年のそれは、私の「耳囊 卷之十 文化十酉年六月廿八日阿蘭陀一番舟渡來象正寫の事」に記載があり(図有り)、そこで私は七回の渡来について詳細を注しておいたので、是非、参照されたい。

 

「伽耶〔(かや)〕」インド中部の伽耶(がや)城西方にある、釈迦が修行・説法をしたとされる伽耶山に因むものであろう。この山は別名を「象頭山(ぞうずせん)」とも呼び、その山容が象の頭に似ていると言われる。

「きさ」「岐佐」小学館「日本国語大辞典」の「きさ【象】」を見ると、石山寺本「大智度論」の平安初期の注に、『善勝白象(キサ)を下りて、怨家に施與して』と出るとあり、「語源説」の項には、①『牙に木目のような筋がありるところからキサ(橒)の義〔東雅。和訓栞/大言海〕』(「橒」は材木の断面に見られる木目を指す語で、この語源は刻(きざみ)の義・蚶貝(殻の外側の肋の有意に太いアカガイ等の貝類の称)模様に似ることから等の語源説がある)、②『牙サシ出ルの義〔日本釈名〕』、③『キザシ(牙)の略〔名言通〕』、④『ケサ(牙蔵)の転〔言元梯〕』、⑤『キバヲサ(牙長)の義〔日本語原学=林甕臣〕』、⑥『カミシラ(髪白)の反』切、という六が載る。

文」既出既注

「雲南」中国南西部の雲南省(グーグル・マップ・データ)。ヴェトナム・ラオス・ミャンマーに接する。

「一つに軃〔(たれさが)り〕」「軃」は中文サイトの辞書に「下垂」とある。東洋文庫訳は『一対(つい)垂れ下がり』とする。

「耳の後に、穴、有り。薄くして皷〔(つづみ)〕の皮のごとし。之れを刺すに、亦、死す」鼓膜のことを言っているとしたら、これは誤りである。ゾウの耳の穴はあの大きな耳朶の後ろではなく、前にあるからである。cageman-channelのブログ「ケイジマン チャンネル」の『ゾウさんの耳の「穴」を直視したこと、ありますか?意外なところにあった!?東山動植物園で撮影』を見られたい。

「牝に交(つる)むときは、則ち、水中に有りて、胸を以つて相ひ貼〔(てん)〕ず」嘘。普通に陸上で後背位で行う。

「芻豆(すうたう)」中国語では広く牛馬の飼料となる草を指す。さしずめ、マメ目マメ科マメ亜科シャジクソウ連ウマゴヤシ属ウマゴヤシ Medicago polymorpha などの仲間であろう。

「甘蔗(さたうのくさ)」単子葉植物綱イネ目イネ科サトウキビ(砂糖黍)属サトウキビ Saccharum officinarum の別称。ウィキの「サトウキビによれば、『サトウキビ発祥の地は、現在のニューギニア島あたりで、紀元前』六〇〇〇『年前後に現在のインド、さらに東南アジアに広まったといわれている』。『また、インドを原産とする文献もあ』り、『古代サンスクリット語による古文書の記載から』、少なくとも、製品としての『砂糖の精製は北インドが発祥ではないかとされている』とある。

「烟火〔(はなび)〕」花火。

「巴蛇〔(はだ)〕」「黒蛇(こくだ)」「黒蟒(こくぼう)」とも称する大蛇(蟒蛇(うわばみ))。ウィキの「巴蛇」によれば、「山海経」の「海内南経」に『よると、大きなゾウを飲み込み』、三『年をかけてそれを消化したという。巴蛇が消化をしおえた後に出て来る骨は「心腹之疾」』(治療困難な難病とされるが、詳細は不詳)『の薬になるとも記されている。また』、同じ「山海経」の「海内経」の中の、『南方にある朱巻の国という場所の記述には「有黒蛇 青首 食象」とあり、同じよう大蛇が各地に存在すると信じられていた』。「山海経」注には、「蛇(ぜんだ)吞鹿、鹿已爛、自絞於樹腹中、骨皆穿鱗甲間出、此其類也」と『あって』、『ゾウの話は蛇(大蛇)がシカなどを飲み込むような事を示したものであろうと』ある。「聞奇録」には、『山で煙のような気がたちのぼったのを見た男が』、『あれは何かとたずねたら「あれはヘビがゾウを呑んでるのだ」と答えられたという話が載っている』。『ゾウ(象)を食べるというのはウサギ(兔)という漢字との誤りから生じたのではないかとの説もある』。「本草綱目」では蚋子』(ぶと)『(蚊の小さいもの)は巴蛇の鱗の中に巣をつくる、と記している』(私の「和漢三才圖會卷第五十三 蟲部 蚋子(ぶと)」を参照されたい)。また、「山海経」の「大荒北経」には、『大人国に青い大蛇がおり、大きなシカを食べたという』ともある。『金州城(金州)』(現在の遼寧省大連市金州区附近)『の城隍廟にあった槐』(マメ目マメ科マメ亜科エンジュ属エンジュ Styphnolobium japonicum)『の木には大蛇が住んでいるとされていて、その姿を見ると』、『病気になると言われていた。小さい廟が備えられてあり、「蟒大帥」「蟒老将軍」「黒蟒将軍」という神牌が供えられていたという』。「南裔異物志」には、蛇の牙(長さ』六~七『寸)は土地の者が魔除けとして珍重しており、ウシ数頭分の価値があった、と記されている』とある。

「象の鞋〔(くつ/わな)〕」東洋文庫は『象鞋』でルビを振らず、注で、『穴を掘って中に上向きに大きな錐(きり)を埋め』、『草で覆っておく道具(わな)』とする。

「癇病」癲癇やひきつけ。

「瘡」限定的には梅毒や、広義の皮膚病を指すが、別に「傷」の意もあるので、ここは最後のそれでよかろうと思う。

「犀〔の角〕を燃せば、水怪を見つべきことを知りて、而〔れども〕、」犀の角を燃やすと、水に潜んでいる、普通は目に見えない妖怪を人が見ることが出きるということは知っているが。

「象〔の骨〕を沉〔(しづ)〕めて水怪を驅すべきことを知らず」象の骨をその水怪の棲息する水に沈めるだけで、奴らをそこから駆逐することが出来ることを知らない。

「夏月、藥を合するに、宜しく象牙を傍らに置くべし」夏に薬物を調合する際には、象牙をその傍に置いて行うと非常によろしい、というのである。暑さによる混合前の別箇な生薬が溶けるのを抑えるか、或いは、当該生薬に耐性のある毒虫などが集るのを防ぐというのであろう。

「拾玉」「妙法經〔(によはうぎやう)〕かく道塲〔(だうじやう)〕の曉に白象天を見ぬは見ぬかは 慈圓」誤りがある。水垣久氏のサイト「やまとうた」内の十題百首 慈円『拾玉集』よりによれば、「十題十首和歌」の「獸」の「象」に、

 如法經(によほふきやう)かく道場の曉(あかつき)に

    日象天(につしやうてん)を見ぬは見ぬかは

である。「慈圓」は「慈鎭」に同じ。獅子」の注を参照。「如法經」とは、一定の法式に従って経文を筆写することやその筆写した経文を指すが、多くの場合は「法華経」について言う。「日象天」は不詳。これが「獸」の「象」の歌であるならば、象頭人身の単身像と立像で抱擁している象頭人身の双身像の二つの像様が知られる歓喜天のことかと思うが、「日象天」とは言わない。ただ、歓喜天は別に「聖天」(しやうてん)と呼ぶから、それに「天尊」(これも異名)を掛けて、暁の後の曙や日の出のプレとしての「日」の「象」(かたち)の「天」=太陽を暗にイメージしたものか? この手の釈教歌はよく判らぬ。

「寰宇記(くはん〔うき〕)」「太平寰宇記」。北宋の楽史(九三〇年~一〇〇七年)の著になる地理書。本文二百巻・目録二巻。中国では早くから八巻分が欠損していたが、本邦に残存していた宋刊本によって、現在、その中の五巻余を補うことが出来る。宋が天下を統一した九七九年を基準として、中国内地の他、周辺の異民族地域の歴史地理を記述する。今に残らない南北朝から唐代にかけての地理書を多く引用し、人物の略伝や名所旧跡の詩を採録しているのを特徴とする(平凡社「世界大百科事典」に拠った)。

「五雜組」既出既注

「滇〔(てん)〕」漢代の西南国境外に生活していた一種族。滇池(現在の雲南省昆明湖(グーグル・マップ・データ))付近に住み、髷(まげ)を結い、田を耕し、村落を形成していた。戦国時代には楚の荘蹻(そうきょう)がこの地に国を建てたというが、これは後世の伝説と思われる。前漢の武帝が西南夷経略を行うと、滇は紀元前一〇六年に漢に降(くだ)り、ここに益州郡が置かれたが、滇の首長は滇王に封ぜられて王印を賜わっている。昭帝の時、大乱が起こって、滇国は滅びたと推定されている。近年、雲南省晋寧郡石寨(せきさい)山から「滇王之印」の四字を刻した漢印が発見されている。また、滇は現在の雲南省の別称ともなった。

「奔(はし)り潰(つ)ゆなり」潰走(かいそう:戦いに惨敗し、秩序なく逃げ去ること)してしまう。]

鎌倉妙本寺懷古 國木田獨步

 

  鎌倉妙本寺懷古

 

夕日(ゆふひ)いざよふ妙本寺(めうほんじ)

法威(ほふゐ)のあとを弔(とむら)へば

芙蓉(ふよう)の花(はな)の影(かげ)さびて

我世(わがよ)の末(すゑ)をなげくかな

 

法(のり)よ、おきてよ、人(ひと)の子(こ)よ

時(とき)の力(ちから)をいかにせん

永劫(えいごふ)の神(かみ)またたきて

金宇玉殿(きんうぎよくでん)いたずらに

懷古(くわいこ)の客(きやく)を誘(さそ)ふかな

梢(こずゑ)の鳩(はと)の歌(うた)ふらく

ありし昔(むかし)も今(いま)も尚(な)ほ

夕日(ゆふひ)いざなふ妙本寺(めうほんじ)

芙蓉(ふよう)の花(はな)は美(び)なるかな

 

[やぶちゃん注:明治四〇(一九〇七)年三月一日発行の『新古文林』に「獨步生」の署名で載る。この雑誌『新古文林』というのは、獨步が明治三六(一九〇三)年三月に立ち上げた敬業社発行とする雑誌『東洋畫報』(國木田哲夫編輯)が同年九月に『近時畫報』と改題した『時代に力を入れ、同社の經濟的破綻の後を引きうけた獨步社の時にも、引きつづいて出していた雜誌であ』った。因みに、『獨步社の發足は明治三十九年八月であり』それが破産して彼自身が経済的困窮に堕ち入るのは僅か九ヶ月後の、『翌年四月であつた』(底本全集第二巻解題から引用)。なお、これに先立つ明治三一(一八九八)年、獨步は近々に下宿(東京麹町)していた折りの、隣家の娘榎本治(はる)と結婚している。

 妙本寺は現在の鎌倉市大町にある日蓮宗本山(霊跡寺院)長興山妙本(グーグル・マップ・データ)。鎌倉駅から最も近くで静謐さを味わえる古刹で、私も偏愛する十二所の光触寺に次いで、最も訪れた回数の多い寺である。ここには、鎌倉時代初期に北条氏と並ぶ権力を持った比企能員(よしかず)一族の屋敷があり、初代執権北条時政が主導した凄惨な「比企能員の変」の舞台となった跡地である。『比企能員は、源頼朝に仕えた御家人で、頼朝の乳母・比企尼の養子にあたり、妻は』第二代将軍『源頼家の乳母、娘の若狭局は頼家の妻となり』、『頼家の子・一幡を生むなど、源氏とは深い関係を持った。このため、頼朝の妻・北条政子の実家である北条氏とは対立するようにな』り、建仁三(一二〇三)年に『頼家が病気で倒れると、次の将軍を誰にするかで、千幡(後の源実朝)を推す北条氏と、若狭局が生んだ一幡を推す比企氏の間で争いが起きた。能員は頼家と北条氏討伐を謀るが』、逆に『察知され、名越で殺害され、比企一族は』この比企谷(ひきがやつ)の谷戸(小御所と呼んだ)に籠って、『北条氏らの軍勢と戦うが』、『敗れ、屋敷に火を放って自害した』。『若狭局は』、山門を入った参道から左手に奥にある蛇苦止(じゃくし)の池に『身を投げて自害し、一幡も戦火の中で死んだ。能員の末子であった能本(よしもと)『は生き残り、後に京都へ行き、順徳天皇に仕え、承久の乱で順徳天皇が配流になると、佐渡まで供をした。彼の姪にあたる竹御所(源頼家の娘)が』第四『代将軍九条頼経の妻になったことから』、『許されて鎌倉に帰った』が、年(文暦元(一二三四)年、『竹御所は出産時に死去』してしまうが、彼女は持仏像であった『釈迦如来像を祀るため、新釈迦堂の建立を遺言』し、嘉禎元(一二三五)年、ここに『新釈迦堂が建立』され、『竹御所は新釈迦堂のその下に葬られ』ている。寛元元(一二四三)年、『仙覚が新釈迦堂の寺住となる』が、彼はここで寛元四年に「万葉集」の校訂を成し遂げている。建長五(一二五三)年、『能本は日蓮に帰依』し、文応元(一二六〇)年、能本は父以下の一族の『菩提を弔うため、日蓮に屋敷を献上し』、『法華堂を建立』し、『これが、妙本寺の前身』となった。『その後、日蓮の弟子・日朗が妙本寺を継承し』て『以後、日蓮宗の重要な拠点となった。池上本門寺と当山は両山一首制で一人の住職が管理していた。江戸時代には池上本門寺に住職がおり』、『当山は司務職として本行院の住職が管理し』、この『両山一首制は』昭和一六(一九四一)年『まで続いた。江戸初期の弾圧までは』、日蓮宗のファンダメンタリズムで、江戸幕府が禁制とした『不受不施派の末寺を多く抱えて』おり、その数は二十六寺にも及び、『末寺の』六十八%をも『占めていた』。なお、本詩篇には後に『曲がつき、戦前の教科書に採用されて親しまれていた』(以上はウィキの「妙本に拠る)。私の記事には妙本寺について記したものが数多あるが、新編鎌倉志卷之七の「妙本寺〔附比企谷 比企能員舊跡 竹御所〕」及び、「鎌倉攬勝考卷之六」の「妙本寺」がよかろう。また、「比企能員の変」については、北條九代記 將軍賴家卿御病惱 付 比企判官討たる 竝 比企四郎一幡公を抱きて火中に入りて死すをお薦めする。因みに、本寺を愛した以後の近現代の文学者は多く、中でもよく知られるのは、中原中也と小林秀雄の、この寺の名木であった海棠のロケーションから始まる小林の追懐した、しみじみとした哀感に富むエピソードで、それも私の『詩集「在りし日の歌」正規表現復元版)後記 中原中也の注で電子化している。是非、読まれたい。

 さて、所持する染谷孝哉著「鎌倉もうひとつの貌」(一九八〇年蒼海出版刊)によれば、『どこやら高校の寮歌を思わせるような調子の』本篇について、詩人日夏耿之介は「明治浪漫文學史」(一九五一年中央公論社刊)の中で、『「詩人的直情のまつしぐらな直叙の心持ちよさに乗つてその全体としての詩のバランスが部分一の瑕瑾を意とせぬやうにならしむる妙」があるから「人の胸をうつ」のだと、おしみない讃辞を呈している』とし、さらに、本篇『「鎌倉抄本寺懐古」はいつ』妙本寺を『訪れた時の懐古だったのか。国木田独歩には二度その機会があったはずである。一八九五(明治二八)年一一月一一日、ようやくの思いで佐々城信子と結婚式をあげ、一九日になって逗子に間借りの新居を構えた。翌日、鎌倉笹目ケ谷の星野天知の家にいる、信子の従妹・星良子(のちの相馬黒光、新宿・中村屋創業者夫人)を新妻とともにたずねている。このおりのことは、黒光の回想記『黙移』に書かれている。独歩夫婦は翌年三月七日まで逗子暮しをしている。民友社員の独歩も休日には、信子と鎌倉散歩をこころみたのではあるまいか。これがそのひとつ。一九〇二(明治三五)年二月八日、友人の斎藤弔花、原田東風らと坂ノ下に家を借りて、妻子を東京に残したまま男ばかりの共同生活をはじめた。やがて妻と長女と生まれたばかりの長男(虎雄)を呼びよせる。この時がそのふたつである。独歩の妙本寺懐古は、信子とつれだっての散策のおりのことであるようにどうしても私には思われる』と詠唱時期を推定をされている。信子への未練たらたらであった彼にして、私もその推定を、概ね、支持するものである。]

2019/03/13

ピエール瀧の代役は古田新太しかいない!

ピエール瀧は「三丁目の夕日」の氷屋がよかった。
こんなザマになったのは情けないが、仕方ない。
視聴率の異様な低下を鑑みつつも――私は妻に付き合って見ている数少ないテレビ・ドラマに過ぎないけれども――「いだてん」の彼の代役を私なりに考えた。
あのピエール瀧が造形した迫力を出せ、しかもそれまでの視聴者がすんなり受け入れられるとしたら、私は風貌・演技力の総てを合わせ、そして視聴者の違和感を最低限に抑え得るという観点から、

古田新太

しかいないと感ずる。
私は「あまちゃん」眷属へのオマジューも全くない人間だが、彼以外には――いない――と思う。

たき火 國木田獨步 《小説・「武藏野」所収の正規表現版》

 

[やぶちゃん注:明治二九(一八九六)年十一月二十一日発行の『國民之友』に「鐡夫生」の署名で初出。約四年五ヶ月後の國木田獨步の第一作品集「武藏野」(明治三四(一九〇一)年三月十一日民友社刊)に再録された。一般に國木田獨步の処女作は「源叔父」(作品集「武藏野」では「源おぢ」。歴史的仮名遣は「源をぢ」が正しいが、森鷗外主宰の『めざまし草』巻之二十一(明治三〇(一八九七)年九月発行)の合評で、「源おぢ」とされてしまったものを、國木田自身がそのまま改題してしまったという呆れた事実がある)とされ、獨步自身も処女作と認めているけれども、同作は、明治三〇(二八九七)年四月二十一日に田山花袋とtもに日光に遊び、泊まった照尊院で書き上げ、日記によれば、翌五月十八日に脱稿していることから、「たき火」は「源叔父」よりも約半年も前に書かれた、彼の真に正しい最初の小説作品と思う(以下の底本全集でも「小說 一」の巻頭に配されてある)。

 底本は所持する学研の「國木田獨步全集」增訂版(全十卷+別卷)の「第二卷」(昭和五三(一九七八)年三月刊)を用いて正字正仮名で電子化した。但し、作業を簡略化するため、「青空文庫」の新字新仮名版「たき火」のテキスト・ファイル(入力・j.utiyama氏/校正・八巻美恵氏/ここの一番下の圧縮ファイル)を加工用に使用させて戴いた。ここに御礼申し上げる。しかし、この底本(昭和四七(一九七二)年(第九版)集英社刊「日本文学全集」第十二巻「国木田独歩・石川啄木集」)、擬古文の本作を、新字新仮名にして、ここまで平仮名化して送り仮名をして崩してしまっては、最早、國木田獨步の「たき火」では、ない、と感ずるほど、酷い。まあ、比較して見られるがいい。この程度の擬古文も読めない日本人が普通なのだというのであれば、古典などはさらさら学ぶ価値も資格も意味も永遠(とこしえ)になかろうぞ!

 なお、底本(「武藏野」版準拠)はかなりのルビを振るが、ブログでは後に丸括弧で読みを振る関係上、底本の総ての読みを振ると非常に読み難くなることから、私が読みが振れて困るであろうと判断したもののみにストイックに読みを振ることとした。ルビのないものには振っていない(但し、前で振っておらず、後で振っている場合、その読みに読者が躓くと思うものは採用して振ってある)。踊り字「〱」「〲」は正字化した。傍線は底本では二重線である(本ブログではに二重線は引けないため)。太字は底本では傍点「ヽ」である。

 なお、本電子化は、私が現在、ここで行っている國木田獨步詩歌群電子化注の、本作と全く同じ題材を扱った詩篇「たき火」(初出は『反省雜誌』(後の『中央公論』の前身誌)明治三〇(一八九七)年八月で、後に石橋愚仙(哲次郎)編になる詞華集「新體詩集 山高水長」(明治三一(一八九七)年一月增子屋書店刊)に「國木田哲夫」名義で収録されたものの一篇)の参考資料として行ったものであるので、一部を除いて、注などは附さない。冒頭の「六代御前」(ろくだいごぜん)等が判らぬ方は、詩篇の方の私の注を参照されたい。それでも最低限のことは言っておくか。ロケーションは逗子の田越川(ここでは冒頭に「御最後川」の河口附近での異名で出る)の河口附近である(グーグル・マップ・データ)。「あぶずり」は「鐙摺」で、地図の南に岬部分から立ち上がる尾根筋の山の名、源頼朝が愛馬の鐙を摺ってしまったことに由来すると伝える山路で、三浦の軍勢と畠山重忠(当時は未だ平氏方であった)の軍勢が戦った「小坪合」戦に際しては、この鐙摺山に設けた支城から三浦義澄が援軍を送ったことで知られる。知らない? では、私の「『風俗畫報』臨時増刊「江島・鵠沼・逗子・金澤名所圖會」より逗子の部 小坪 又は 「あなたは白旗山合戦の直後に起こった鎌倉由比ヶ浜での戦さをご存知か? 『源平盛衰記』の小坪合戦の部を注にて一気掲載!」」を読まれよ!

 なお、国木田独歩は、明治二八(一八九七)年十一月十一日、佐々城信子と結婚、同十九日にはこのロケーション内の現在の逗子市桜山にあった旅館柳屋(現存しない)の一室で新婚生活を始めている(私の「逗子の海岸 田山花袋」が多少参考になる)。信子はしかし、翌年四月十二日に失踪、同月二十四日に協議離婚している。彼女をモデルとして後に有島武郎が名作「或る女」を書いたのはご承知の通りである。因みに、独歩は、これを書いた頃には、まだうじうじと信子を思い続けて、和歌や新体詩を書いていたというのが事実ではあった。]

 

   た き 火

 

 北風を背になし、枯草白き砂山の崕(がけ)に腰かけ、足なげいだして、伊豆連山の彼方に沈む夕日の薄き光を見送りつ、沖より歸る父の舟遲しと俟つ逗子邊(あたり)の童(わらべ)の心、その淋しさ、うら悲しさは如何あるべき。

 御最後川の岸邊に茂る葦の枯れて、吹く潮風に騷ぐ、其根かたには夜半(よは)の滿汐(みちしほ)に人知れず結びし氷、朝の退潮(ひきしほ)に破られて殘り、ひねもす解けもえせず、夕闇に白き線を水際(みぎは)に引く。若し[やぶちゃん注:「もし」。]旅人(たびゝと)、疲れし足を此潯(このほとり)に停めしとき、何心なく見廻はして、何らの感もなく行過(ゆきす)ぎ得べきか。見かへれば彼處(かしこ)なるは哀れを今も、七百年の後(のち)にひく六代御前の杜(もり)なり。木がらし其梢に鳴りつ。

 落葉(おちば)を浮かべて、ゆるやかに流るゝ此沼川(ぬまかは)を、漕ぎ上(のぼ)る舟、知らず何れの時か心地よき追分の節(ふし)面白く此舟より響き渡りて霜夜の前ぶれをか爲(な)しつる。あらず、あらず、たゞ見る何時(いつ)も何時も、物言はぬ、笑はざる、歌はざる漢子(をのこ)の、農夫とも漁人とも見分け難きが淋しげに櫓あやつるのみ。

 鍬かたげし農夫の影の、橋と共に朧ろにこれに映つる、かの舟、音もなくこれを搔き亂しゆく、見る間に、舟は葦がくれ去るなり。

 日影仍(な)ほあぶずりの端に躊(た)ゆたふ頃、川口の淺瀨を村の若者二人、はだか馬に跨りて靜かに步ます、畫めきたるを見ることもあり。かゝる時濱には見わたす限り、人らしきものゝ影なく、ひき上げし舟の舳(へさき)に止(とま)れる烏の、聲をも立てゞ翼打(はうち)ものうげに鎌倉の方さして飛びゆく。

 或年の十二月末つ方、年は迫れども童は何時も氣樂なる風の子、十三歳を頭(かしら)に、九ツまで位(くらゐ)が七八人、砂山の麓に集りて何事をか評議まちまち、立てるもあり、砂に肱(ひぢ)を埋めて頰杖つけるもあり。坐れるもあり。此時日は西に入りぬ。

 評議の事定まりけん、童等[やぶちゃん注:「わらべら」。]は思ひ思ひに波打際を駈けめぐりはじめぬ。入江の端より端へと、おのがじし、見るが間に分れ散れり。潮(うしほ)遠く引きさりしあとに殘るは朽ちたる板、緣(ふち)缺けたる椀、竹の片(きれ)、木の片、柄の折れし柄杓などの色々、皆な一昨日(をとゝひ[やぶちゃん注:ママ。])の夜(よ)の荒(あれ)の名殘なるべし。童等らは一々これらを拾ひあつめぬ。集めて之れを水際を去る程よき處、乾ける砂を撰びて積みたり。つみし物は悉く濡(うるほ)ひ居たり。

 此寒き夕まぐれ、童等は何事を始めたるぞ。日の西に入りてより程經たり。箱根足柄の上を包むと見へ[やぶちゃん注:ママ。]し雲は黃金色(こがねいろ)にそまりぬ。小坪の浦に歸る漁船の、風落ちて陸近ければにや、帆を下ろし漕ぎゆくもあり。

 がらす碎け失せし鏡の、額緣(がくぶち)めきたるを拾ひて、これを燒くは惜しき心地すといふ兒の丸顏、色黑けれど愛らし。されど其(そ)は必ず能く燃ゆと此群(このむれ)の年かさなる子、己のが力に餘る程の太き丸太を置きつゝ言へり。其丸太は燃へ[やぶちゃん注:ママ。]じと丸顏の子いふ。いな燃やさでおくべきと年上の子いきまきて立ちぬ。傍(かたはら)に一人、今日は獲ものゝ何時になく多き樣(やう)なりと、喜ばしげに叫びぬ。

 わらべ等の願(ねがひ)はこれらの獲物を燃(もや)さんことなり。赤き炎は彼等の狂喜なり。走りて之れを躍り越えんことは互の誇りなり。されば彼等このたびは砂山の彼方より、枯草の類(たぐひ)を集め來りぬ。年上の子、先に立ちて此等に火をうつせば、童等は丸く火を取りまきて立ち、竹の節の破(やぶ)るゝ音を今か今かと待てり。されど燃ゆるは枯草のみ。燃えては消えぬ。煙のみ徒(いたづ)らにたちのぼりて木にも竹にも火は容易(たやすく)燃え付かず。鏡のわくは僅かに焦げ、丸太の端よりは怪しげなる音して湯氣(ゆげ)を吹けり。童等は交る交る砂に頭(あたま)押しつけ、口を尖らして吹けど生憎(あいにく)に煙眼に入りて皆の顏は泣きたらんごとし。

 沖は早や暗(くら)ふ[やぶちゃん注:ママ。]なれり。江の島の影も見わけ難くなりぬ。干潟を鳴きつれて飛ぶ千鳥の聲のみ聞こえて彼方此方(かなたこなた)、ものさびしく、其姿見えずと見れば、夕闇に白きものはそれなり。あわたゞしく飛びゆくは鴫、かの葦間よりや立ちけん。

 此時、一人の童忽ち叫びていひけるは、見よや、見よや、伊豆の山の火(ひ)早や見えそめたり、如何なればわれらが火は燃えざるぞと。童等は齊(ひと)しく立あがりて沖の方を打まもりぬ。げに相模灣を隔てゝ、一點二點の火、鬼火かと怪しまるゝばかり、明滅し、動搖せり。これ正(まさ)しく伊豆の山人(やまびと)、野火を放ちしなり。冬の旅人の日暮(ひく)れて途遠きを思ふ時、遙かに望みて泣くは實(げ)に此火なり。

 伊豆の山燃ゆ、伊豆の山燃ゆと、童等節面白く唄ひ、沖の方のみ見やりて手を拍ち、躍り狂へり。あはれ此罪なき聲、かはたれ時の淋びしき濱に響きわたりぬ。私語(さゝや)く如き波音、入江の南の端より白き線立(すぢた)て、走り來り、これに和したり。潮(しほ)は滿ちそめぬ。

 此寒き日暮に何時までか濱に遊ぶぞと呼ぶ聲、砂山の彼方より聞こえぬ。童の心は伊豆の火の方にのみ馳せて、此聲を聞くもの無りき[やぶちゃん注:「なかりき」。]。歸らずや、歸らずやと二聲三聲、引續きて聞こえけるに、一人の幼なき兒、聞きつけて、母呼び給へり、最早打捨て歸らんと言ひ、忽ち彼方に走りゆけば、殘(のこり)の童等亦た、さなり、さなりと叫びつ、競ふて砂山に駈けのぼりぬ。

 火の燃え付かざるを口惜く思ひ、かの年かさなる童のみは、後振(あとふ)りかえりつゝ馳せゆきけるが、砂山の頂(いたゞき)に立ちて、將に彼方に走り下らんとする時、今ひとたび振向きぬ。ちらと眼(まなこ)を射たるは火なり。こはいかに、われらの火燃えつきぬと叫べば、童等(わらべら)驚ろき怪(あやし)み、たち返へりて砂山の頂に集り、一列に並びて此方(こなた)を見下ろしぬ。

 げに今まで燃え付かざりし拾木(ひろひぎ)の、忽ち風に誘はれて火を起し、濃き煙(けむり)うづまき上(のぼ)り、紅(くれなゐ)の炎の舌見えつ隱れつす。竹の節の裂(わ)るゝ音聞え火の子舞ひ立ちぬ。火は正(まさ)しく燃え付きたり。されど童等は最早や此火に還ることをせず、たゞ喜ばしげに手を拍ち、高く歡聲を放ちて、一齊に砂山の麓なる家路の方へ馳せ下りけり。

 今は海暮れ濱も暮れぬ。冬の淋しき夜(よ)となりぬ。此淋しき逗子の濱に、主(あるじ)なき火はさびしく燃えつ。

 忽ち見る、水際をたどりて、火の方(かた)へと近づき來る黑き影あり。こは年老ひ[やぶちゃん注:ママ。]たる旅人(たびゝと)なり。彼は今しも御最後川を渡りて濱に出で、濱連(はまづた)ひに小坪街道へと志しぬるなり。火を目がけて小走(こばしり)に步むその足音重し。

 嗄(しはが)れし聲にて、よき火やと幽かに叫びつ、杖なげ捨てゝいそがしく背の小包を下ろし、兩の手を先づ炎の上にかざしぬ。其手は震ひ、その膝はわなゝきたり。げに寒き夜かな、言ふ齒の根も合はぬが如し。炎は赤く其顏を照らしぬ。皺の深さよ。眼(まなこ)いたく凹み、其光は濁りて鈍し。

 頭髮も髯(ひげ)も胡麻白(ごまじろ)にて塵にまみれ、鼻の先のみ赤く、頰は土色せり。哀れ何處(いづく)の誰ぞや、指してゆくさきは何處ぞ、行衞定めぬ旅なるかも。

 げに寒き夜かな。獨りごちし時、總身(そうしん)を心ありげに震ひぬ。斯(か)くて溫まりし掌もて心地よげに顏を摩(す)りたり。いたく古びて所々古綿(ふるわた)の現はれし衣の、火に近き裾のあたりより湯氣(ゆげ)を放つは、朝の雨に霑(うるほ)ひて、仍ほ[やぶちゃん注:「なほ」。]乾(ほ)すことだに得ざりしなるべし。

 あな心地よき火や。言ひつゝ投げやりし杖を拾ひて、これを力に片足を揚げ火の上にかざしぬ。脚絆(きやはん)も足袋(たび)も、紺の色あせ、のみならず血色(ちいろ)なき小指現はれぬ。一聲(いつせい)高く竹の裂(わ)るゝ音して、勢よく燃へ[やぶちゃん注:ママ。]上がりし炎は足を焦がさんとす、されど翁(おきな)は足を引かざりき。

 げに心地よき火や、たが燃やしつる火ぞ、忝(かたじ)けなし。言ひさして足を替へつ。十とせの昔、樂しき爐(ゐろり)見捨てぬるよりこのかた、未だこの樣(やう)なるうれしき火に遇はざりき。いひつゝ火の奧(おく)を見つむる目(ま)なざしは遠きものを眺むるごとし。火の奧には過ぎし昔の爐の火、昔のまゝに描(ゑが)かれやしつらん。鮮やかに現はるゝものは兒にや孫にや。

 昔の火は樂しく、今の火は悲し、あらず、あらず、昔は昔、今は今、心地よき此火や。言ふ聲は震ひぬ。荒ら荒らしく杖を投げやりつ。火を背になし、沖の方を前にして立ち體(たい)をそらせ、兩の拳(こぶし)もて腰をたゝきたり。仰ぎ見る大ぞら、晴に晴れて、黑澄(くろす)み、星河(せいか)霜(しも)をつつみて、遠く伊豆の岬角(かふかく)に垂れたり。

 身うち煖(あたゝか)くなりまさりゆき、ひぢたる衣の裾も袖も乾きぬ。あゝ此火、誰(た)が燃やしつる火ぞ、誰が爲にとて、誰が燃やしつるぞ。今や翁の心は感謝の情(じやう)にみたされつ、老の眼(まなこ)は淚ぐみたり。風なく波なく、さし來(く)る潮(うしほ)の、しみじみと砂を浸す音を翁は眼(まなこ)閉じて聽きぬ。さすらふ旅の憂(うき)も此刹那にや忘れはてけん、翁が心、今一たび童の昔にかへりぬ。

 あはれ此火、漸(や)ふ漸ふ[やぶちゃん注:ママ。]に消えなんとす。竹も燃えつき、板も燃え盡きぬ。かの太き丸太のみは猶ほ良く燃えたり。されど翁は最早やこれを惜しとも思はざりき。ただ立去際(たちさりぎは)に名殘惜しくてや、兩手もて輪をつくり、抱(いだ)く樣(やう)に胸のあたりまで火の上にかざしつ、眼しばだゝきてありしが、いざと計(ばか)り腰うちのばし、二足三足(ふたあしみあし)ゆかんとして立ちかへれり、燃えのこりたる木(き)の端々(はしばし)を搔集めて火に加へつ、勢よく燃え上(あが)るを見て心地よげに打笑(うちゑ)みぬ。

 翁のゆきし後(あと)、火は紅(くれなゐ)の光を放ちて、寂寞(じやくばく)たる夜の闇のうちに覺束なく燃えたり。夜(よ)更(ふ)け、潮(しほ)みち、童等が燒(たき)し火も旅の翁が足跡も永久(とこしへ)の波に消されぬ。
 

 

 

2019/03/12

たき火 國木田獨步 《詩篇》

 

  た き 火

 

   一

 

逗子の砂やま草かれて

夕日さびしく殘るなり

沖の片帆の影ながく

小坪の浦はほどちかし

 

箱根足柄、雪はれて

こがねの雲を戴きぬ

ゆふばえ映る汐ひがた

飛びこふ千鳥こゑ寒し

 

落葉たゞよふさとがはの

葦間にのこるうすこほり

ふみて碎きて飛びたちぬ

羽音したかし、しぎ一羽

 

小舟こぐ手もたゆみたり

富士の高峰をみかへりて

今日も暮れぬとふな人の

歌はきくべしたび人も

 

   二

 

濱邊につどふわらべあり

みるま忽ちおのがじゝ

水際あさりてゆきゝせり

拾ひし木々を積み上げぬ

 

潮風さむし身に沁めば

わらべは小枝をりそへて

たき火いそぎぬあやにくに

ひろひし木々はうるほへり

 

かたみに吹けど煙たち

たばしる淚ふきあへず

かたみに笑ふ際(ひま)くれて

かはたれ時となりにけり

 

ゆふぞら晴れて星一つ

影をさやかに映すなり

干潟の千鳥みえわかず

相模の灘は暮れにけり

 

   三

 

節ありあはれ歌のごと

童は水際にたちならび

「伊豆のやま人ふきおくれ

野火をいざのふ風あらば」

 

鬼火か、あらず、いさり火か

伊豆の山こそやけそめぬ

冬のたび人ゆきくれて

のぞみて泣くはこの火なり

 

わらべは指してうれしげに

もろ聲あはせうたひけり

「伊豆のやま人ふきおくれ

野火をいざのふ風あらば」

 

かはたれ時の濱遠く

罪なき聲はたゞよひぬ

海の女神はこたへせり

みち來る汐はさゝやきて

 

   四

 

童のかへり遲しとて

母なる一人よびたてぬ

「夕暮さむしいつまでか

淋しき濱にあそぶぞと」

 

稚きわらべげにもとて

砂山さしてかけゆきぬ

つゞく友どちそのまゝに

たき火をすてゝ走りたり

 

かしらの童ふりかへり

濱のこなたを見下しぬ

風は炎をいざなひて

今しも荒く燃えたちぬ

 

うれしとのみは思へども

童はそこに居ならびて

わが火もえぬと叫びつゝ

家路をさして馳せさりぬ

 

   五

 

海暮れ野くれ山くれて

冬のさびしき夜となりぬ

逗子の濱邊は人げなく

あるじなき火の影あかし

 

と見る、人あり近寄りぬ

足おと重したび人か

たき火慕ふは袖ひぢて

かはかす間(ひま)もなかりしか

 

火影にうつる顏くろく

額にきざむ皺ふかく

六十路にあまる髯枯れて

衣のすそはやぶれたり

 

ふるさと遠くたびねして

ゆくえも知らずさすらふか

ゆめは枯野にさめやすく

草をまくらの老の身か

 

   六

 

あはれ此火よたがわざぞ

かたじけなしとかざす手は

炎まぢかくふるひたり

まなざしにぶく見まはしぬ

 

身うちの氷とけそめて

心ゆたかになりにけり

燃ゆる炎のかなたには

昔のわが身うかびたり

 

なぎさゆたかに滿ち來なる

汐はまさごとしたしみて

さゝやく音はおのづから

おきながなみだ誘ひけり

 

仰ぐ大ぞら星さえて

霜をつゝめる天の河

伊豆の岬をゆびさしぬ

天のはるばる人こひし

 

   七

 

ひぢし衣もかはきたり

殘りすくなに燃えつきぬ

たき火の炎かすかなり

おきな今はと、杖とりぬ

 

小坪のかたは道くらし

ゆき去りかねしたび人は

あとふりかへりたゝずみつ

たき火のぬしをことぶきぬ

 

有明ちかく月さえて

逗子のうら人ゆめふかし

伊豆の孫やま火はきえて

いさり火のみぞのこるなる

 

里の童がたきし火は

さすらふ人の足跡は

とこしへの波おともなく

夜半のみち汐かき消しぬ

 

[やぶちゃん注:初出は『反省雜誌』(後の『中央公論』の前身誌)明治三〇(一八九七)年八月詞華集「新體詩集 山高水長」の國木田獨步のパートは本篇を以って終わっている。

「一」の第三連の初行「落葉たゞよふさとがはの」の「さとがは」は「里川」で、「田舎の川」の意。後に述べる小説「たき火」から「御最後川」の旧異名を河口付近に持つ、現在の、逗子海岸南端で海に開く田越(たごえ)(グーグル・マップ・データ)であることが判る。リンクの地図上の河口の南側に「国木田独歩文学碑」とあるのは、まさに実に本篇冒頭の「逗子の砂やま草かれて」/「夕日さびしく殘るなり」/「沖の片帆の影ながく」/「小坪の浦はほどちかし」の四行が彫られた碑があるのである。なお、川の異名「御最後川」(御最期とも表記する)は「平家物語」の「六代斬られ」で知られる「六代御前」、平宗盛嫡男維盛嫡男で平清盛の曾孫である平高清(承安三(一一七三)年~建久十(一一九九)年:六代は幼名で平正盛から直系六代に当たることからの命名)が、この田越川河畔で処刑されたことに因む。ご存じない方は、私のサイトの「新編鎌倉志卷之七」の「〇多古江河〔附御最後川〕」の本文や私の注、或いは手っ取り早くなら、私のブログの「『風俗畫報』臨時増刊「江島・鵠沼・逗子・金澤名所圖會」より逗子の部 田越川」又は「『風俗畫報』臨時増刊「江島・鵠沼・逗子・金澤名所圖會」より逗子の部 六代御前墓」を見られたい。

「一」の同連の最終行「羽音したかし、しぎ一羽」の「羽音したかし」は「はをと/し/たか(高)し」で、「し」は強意の副助詞である。

「二」の第二連の「たき火いそぎぬあやにくに」の「あやにくに」は、「間の悪いことに」の意で、「ひろひし木々はうるほへり」(湿っていた)と繋がる。

「二」の第三連の一行目「かたみに吹けど煙たち」の「煙」は、後に述べる小説「たき火」の中のルビから、「けむり」と読むこととする

「二」の同連の三行目「かたみに笑ふ際(ひま)くれて」の「際(ひま)くれて」は、思うに「余裕を見せて」の意ではなかろうかと私は思う。

「三」の第二連の「鬼火か、あらず、いさり火か」/「伊豆の山こそやけそめぬ」/「冬のたび人ゆきくれて」/「のぞみて泣くはこの火なり」というのは、一読、夕日の余光が木間隠れに見えることかと思ったりするかも知れぬが、少なくとも後に述べる小説「たき火」で『はげに相模灣を隔てゝ、一點二點の火、鬼火かと怪しまるゝばかり、明滅し、動搖せり。これ正(まさ)しく伊豆の山人(やまびと)、野火を放ちしなり。冬の旅人の日暮(ひく)れて途遠きを思ふ時、遙かに望みて泣くは實(げ)に此火なり』と述べている。歳末のこの時期、しかも陽が落ちて後に伊豆の山人が野焼きをするというのには、やや私は不審が残りはするのであるが、言い添えておく。

最終連の「伊豆の孫やま」は「伊豆の連山」の意。

同最終連の「夜半」は音数律からも、後に述べる小説「たき火」からも、「よは(よわ)」である

 さて、國木田獨步の代表作で満載された彼の第一作品集「武藏野」(明治三四(一九〇一)年三月民友社刊)を愛する方は、一読、というより、標題「たき火」を見た瞬間に、そこに収録された散文詩風の忘れ難い名篇「たき火」を想起されるであろうし、詩篇を読み進めれば、同じシチュエーションを用いていることが判然とする。しかし、この小説(と称して区別しておく)「たき火」は、明治二九(一八九六)年十一月発行の『國民之友』に「鐡夫生」の署名で発表されたもので、少なくとも本詩篇よりも先に発表されているものなのである。

 本詩篇と対照するため、この後、ここで正規表現で同小説「たき火」を次に急遽、電子化した。

雲影 國木田獨步

 

  雲  影

 

さゝ波立たぬ湖は

雲の影こそ映るなれ

ものを思はぬわが心

天津御空ぞ映るなる

 

[やぶちゃん注:初出不明。]

人のすみか 國木田獨步

 

  人のすみか

 

人のつくりし浮世より

のがれ出づべきすべはあれど

人をつくりしあめつちの

外にのがるゝすべやある

人の獄舍(ひとや)は浮世なり

人のすみかは天地(てんち)なり

神をば知らんすべもがな

 

[やぶちゃん注:初出不明。

「獄舍(ひとや)」は「獄」「人屋」「囚獄」とも書き、文字通り、捉えた罪人を押し込めておく牢屋・牢獄のことで、「日本書紀」に「囹圄」(ひとや)として既に出、源順の「和名類聚鈔」にも載る上代からの古語である。]

行雲流水 國木田獨步

 

  行雲流水

 

人里遠き深山にも

笑ひて咲けるすみれあり

浮世はなれし此村の

こかげに眠る墓もあり

高嶺たゞよふ雲あはく

谷を流るゝ水きよし

わが身一ついかにせん

わが身一ついかにせん

 

[やぶちゃん注:初出不明。]

晃山の春 國木田獨步

 

  晃山の春

 

高峰たゞよふ朝霧に

白銀(しろかね)つゝむ雪晴れて

朝日まばゆくてりはえぬ

梢の小鳥聲淸く

池のさゝなみ影あかし

みぎはの花も咲きいでぬ

川すそ遠く眺むれば

空もかすみて見えわかず

都の春や老ぬらん

 

[やぶちゃん注:初出は『國民之友』明治三〇(一八九七)年五月。初出では標題は「日光山中」で、「晃山」(「こうざん」と読んでおく)とは一見、「日光」の字を単に合字させたもののように見えるが、実は現在の「奥日光」をこう呼称するのである。]

我身 國木田獨步

 

  我  身

 

波に漂ふ木葉(このは)なり

月にこがるゝ胡蝶なり

我身一つをたとふれば

木葉たゞよふ波荒らく

胡蝶こがるゝ月高し

あはれ我身をいかにせん

 

[やぶちゃん注:初出は『國民之友』明治三〇(一八九七)年五月。初出では「我身一つをたとふれば」と「木葉たゞよふ波荒らく」の間が一行空け。これはいらない。]

若鳥 國木田獨步

 

  若  鳥

 

翼をれにし若鳥を

あはれと君もおぼすべし

此世の望高かりし

ますらをのこの翼をば

うちし獵夫(さつを)や誰なりし

惜しと君はおぼさずや

 

[やぶちゃん注:初出は『國民之友』明治三〇(一八九七)年五月。初出標題は「わか鳥」。

「獵夫(さつを)」猟師。万葉語。

そのうた 國木田獨步

 

  そ の う た

 

夕ぐれ時をかなしとて

泣きつる我をわきもこが

泣きて歌ひて慰めし

歌のかずかず忘れねば

一人うたひて一人ゆく

其歌かなしいかにせん

 

[やぶちゃん注:初出は『國民之友』明治三〇(一八九七)年五月。初出標題は「その歌」。

「わきもこ」「
吾妹子」で「わぎもこ」「わぎも」とも読むが、上代語であり、清音がよい。男性が妻や恋人などの女性に親しみの気持ちを込めて呼ぶ語。

夏來りぬ 國木田獨步

 

  夏來りぬ

 

丘の白露ふみわけて

のぼる朝日を迎へなん

靑葉かざして日の光

めくらむまでに仰ぎなん

 

あだなる夢はさめはてぬ

わかき心は躍るなり

のぞみは高し天津空

思はひくし、あゝわが神

 

[やぶちゃん注:初出は『國民之友』明治三〇(一八九七)年六月。]

亡友を懷ひて 國木田獨步

 

  亡友を懷ひて

 

君とわれと

幽明、境をへだつれども

われ君を懷ふいやふかし

われ君を懷ひ

君世に在(いま)さず

高にのぼりてたゝずめば

天(あま)のはるぐばる雲きえて

悠々たり蒼空の色

夕照遠近にみちぬ

君を懷ふて感に堪へず

徘徊俯仰願望する時

時の羽風(はかぜ)耳邊をかすめて飛び

永遠の俤(おもかげ)眼底に動きぬ

 

[やぶちゃん注:初出は『國民之友』明治三〇(一八九七)年六月。「耳邊」は「じへん」。]

友人某に與ふ 國木田獨步

 

  友人某に與ふ

 

   其 一

 

いざや君

    たびたゝん

猜疑の暗鬼

    住まぬ國に

何處にもあれ

    鳥なかずとも

花咲かずとも

    月照らずとも

 

   其 二

 

父は子に教へて曰く

わが子、こゝろせよ

  門を出れば

  敵あり七人

 

其子は老ひぬ

    父となりぬ

教へて曰く

わが子、こゝろせよ

  門を出れば

  敵あり七人

 

   其 三

 

もろともに

    神にいのらん

あはれ世の人

    神をわらふも

せめては人を

    信ぜんことを

 

[やぶちゃん注:初出は『國民之友』明治三〇(一八九七)年六月。初出は「其一」二行目は「たびだゝん」。]

水際のすみれ 國木田獨步

 

  水際のすみれ

 

曉やみの霧はれて

谷の淸水の底淸し

水際にさけるつぼすみれ

影をさやかにうつしけり

しばし汲む手もたゆたひつ

ゑみし少女や人なりし

 

[やぶちゃん注:初出は『國民之友』明治三〇(一八九七)年五月。初出標題は「すみれ」で、一行目は「曉やみに霧はれて」。

 「つぼすみれ」被子植物門双子葉植物綱スミレ目スミレ科スミレ属ツボスミレ Viola verecunda。恐らくは、「菫(すみれ)」から多くの人が想起するのは、強い紫色を発色して群生するスミレ属スミレ Viola mandshurica か、或いは、丸葉と立ち上がる茎を特徴とするスミレ属タチツボスミレ Viola grypoceras であろうが、私は断然、この白く花の奥が菫色を呈する目立たぬ、このツボスミレこそ「菫」である。ウィキの「ツボスミレによれば、『ニョイスミレとも呼ばれる。全体に小柄で、茎はよく伸びて往々にして地表を這い、花はあまり高く出ないので、あまり目立たない植物である』。『地下茎はごく短く、地上に根出葉と複数の茎を伸ばす。茎は斜めに伸びるか横に這い、間を空けて葉をつける。草丈は』五~二十五センチメートル『ほど。葉は丸っこく、基部は深く心形になるので、全体としてはきれいなハート形の葉である。葉柄は根出葉では長く、茎葉では短い。葉は柔らかく、緑色でつやがなく、無毛。葉の縁には粗くて背の低い鋸歯がある』。『花は匍匐する茎の葉腋から出て、花柄は立ち上がり、葉より少し上に出て花をつける。花色は白で、上弁は反り返る。花弁には基部に向けて紫の筋が入る。紫の筋の濃さには差があり、場合によっては花全体が紫を帯びる。花弁はやや細め』。『やや湿った樹木に被陰されない草地に生える。山間部では人里にも珍しくなく、畑や水田の水路脇などには見かけることが多いが、市街地にはあまり出ない。匍匐枝をのばすので、小さな群落を作る。時には畦に一面に出現することもある』。本邦では『北海道から九州、屋久島まで分布し、各地で普通種である。国外では東アジアに広く分布することが知られる。日本国内では個体数でタチツボスミレに次いで多い、との声もある』。『地理的にも生態的にも分布の広いものだけに、変異は大きい。特に葉身が短く、基部が深く心形になるものをアギスミレ Viola verecunda var. semilunaris という。葉の形は極端な場合には「へ」の字型になるが、中間的なものも多い。本州中部以北に多く、特に湿地に出現する型である』。『他に』、『葉が円形に近く、表面に微毛があり、高山に出現するミヤマツボスミレ Viola verecunda var. fibrilosa や、アギスミレに似てより小さく、茎から根を下ろすヒメアギスミレ Viola verecunda var. subaequiloba、それよりさらに小さく、屋久島のみに見られるコケスミレ Viola verecunda var. yakusimanaも知られている』。本邦産の『スミレでは他にこういった姿のものはなく、混同することは』まずない。前に掲げた通り、和名には「ツボスミレ」「ニョイスミレ」があるが、『前者は坪菫であり、坪は庭の意である。つまり、庭に生えるスミレとの意で、この種に対する古くからの名である。後者は如意菫で、こちらは葉の形が仏具の如意』(僧が読経や説法の際などに手に持つ道具。孫の手のような形状をしており、笏と同様に権威や威儀を正すために用いられるようになった)『に似ることによる。これは牧野富太郎の命名によるもので、前者がこの種を特定するものではないので、命名し直したとのこと。ツボスミレの名は牧野曰く「不純でまぎらわしい」そうである。なお、変種のアギスミレは顎菫で、葉の基部の出っ張ったのを顎』(あぎと:頷(あご))『に見立てたものである』。『しかしながら、『日本植物誌』や保育社の『原色日本植物図鑑』、平凡社の『日本の野生植物』シリーズなど』、『日本産植物全体を見通した標準的な図鑑として使われてきた文献ではツボスミレが使われている』。『それに対し』、いがりまさし著「山渓ハンディ図鑑」第六巻「増補改訂 日本のスミレ」(二〇〇八年山と渓谷社刊)『などはニョイスミレを使い、著者はツボスミレは使いたくない意思を匂わせている。本種における問題に限られるものではないが、学名と異なり』、『植物学の中に正式の地位を持たない和名には強制的なルールが存在しないため、どちらの使用も許容されることが、紛らわしさを生じさせている』とある。國木田獨步は「すみれ」が好きだった、私も好きだ

 最終行はすみれが化した妖精としての幻の少女であろう。妖精はスミレの花がよく似合う。水際なればこそ、ウンディーネ(Undine)……]

わがこゝろ 國木田獨步

 

  わがこゝろ

 

風をあらみ

浮世の波にさそはれて

うは濁りせるわがこゝろ

暫時(しばし)は月よ居すまひて

淸きすがたを宿せかし

 

[やぶちゃん注:初出は『國民之友』明治三〇(一八九七)年五月。]

すみれの花よ 國木田獨步

 

  すみれの花よ

 

すみれの花よ今日までは

なれをめでにしわがこゝろ

世の常なりし淺かりし

さばかりわれは塵ふかき

浮世の巷さすらひし

 

夢よりさめしこゝちして

さめし夢をばかなみつ

まなざしにぶく此丘を

ゆきつもどりつせしまゝに

はからずなれを見いだしぬ

朝露かほる日影にて

 

天津ひかりよ白露よ

すみれの花よ今日よりは

なれが友なれ、淚こそ

あふれて落つれ、わがこゝろ

たゞひと時に靜まりぬ

 

友としなれをつくづくと

ながめいりにし其時は

大空たかく仰がれて

心はひくゝへりくだり

人の世ならぬあめつちの

廣きを家とおぼえたり

 

たゞ願くはとこしへに

なれを友としよろこばん

たゞ願くはわがこゝろ

とこしへまでも變らざれ

なれを友としよろこびて

 

[やぶちゃん注:「かほる」はママ。初出は『國民之友』明治三〇(一八九七)年五月。]

ゆめうつゝ 國木田獨步

 

  ゆめうつゝ

 

昨夜の夢のあやしさを

語りつくさんすべもがな

ゆくへもしらずさすらふは

我身か、あらず、影なるか、

暗(くら)きをたどるをのこあり

 

仰げば空の星消えて

常世(とこよ)の闇(やみ)の光なし

とばかりありて星一つ

とばかりありて二つ三つ

かゞやき出でぬくれなゐに

見る間(ま)たちまちむらさきに

我身か、あらず、影なるか、

をのゝき立てるをのこあり

 

夢を見る見る夢ならで

我身くすしくなりにけり

心たちまちをのゝきて

あはれ我身と叫びたり

とばかりありて星飛びぬ

とばかりありてたまゆらぎ

我身くすしくなりにけり

 

夢さめぬ朝日のぼりて

かぎりなし天のはるばる

あかつきの光は淸し

風吹けば靑葉かゞやき

鳥鳴きて今日(けふ)も變らず

いかなればくすしかりけん

この我身昨夜の夢に

 

夕闇遠し獨りして

小川の岸をたどりつゝ

仰げば高し色深し

瑠璃の大空雲たえぬ

見はてのかぎり山見えず

吹き送る風は袂をひるがへし

うたふ聲森をへだてゝ聞ゆなり

牛ひける童は見えず鐘の聲

遠近(をちこち)の寺にひゞきつ獨りゆき

ものを思へば、はてもなし

我身あやしと見し夢は

夢よりさめし夢なるか

夢にあやしと見し星は

色に光に變りなし

現(うつゝ)の今ぞ夢なるか

 

夢みなん、いざ今宵また

星飛びて月も碎けよ

底さけて眠れる火山

降りそゝげ焰の雨

をのゝきさめんかくて吾

夢のうちにもうつゝ世の

にぶき眠りの迷より

 

[やぶちゃん注:これより以下、十五篇は、明治三一(一八九七)年一月增子屋(ますこや)書店刊の、「靑葉集」と同じく石橋哲次郎(こちらでの筆名は「石橋愚仙」であるが、これは彼の別号。彼については旅人歌」の私の注を参照されたい)編になる袖珍本の詞華集「新體詩集 山高水長」(「さんかうすいちやう(さんこうすいちょう)」:訓読すれば「山のごとく高く水のごとく長し」で「山が高く聳え、川が長く流れる」であるが、一般には、「高潔な人の功績や徳望が崇高で、長く人に仰がれること」の、或いは、「人の品性が高大で高潔なこと」の形容に用いられるが、ここは原義のままでとれば良かろう)の巻頭を飾った「國木田哲夫」名義の詩篇である(因みに、本書には後に大月隆編・文學同志會刊の別版(翌年二月の時点で四版も出している)がある。国文学研究資料館の「近代書誌・近代画像データベースで「高知市民図書館」の「近森文庫所蔵しかしこれは恐らく意想外に売れた結果か、版を譲り受けた大月何某が増刷した感じが濃厚な気がするので、参考にはしたものの、私は校合対象とはしなかった)。そこでは詩」の時と同じく「獨步吟」という総題を持つ。同アンソロジーは國木田のそれを巻首として他に、田山花袋・宮崎湖処子・佐々木信綱・石橋愚仙(編者)・松岡國男(後の柳田國男)・繁野天來・正岡子規・大町桂月・太田玉茗・重松朋水・桐生悠々の作品を収めるもので、前の二詞華集とはメンバーに於いても親和性の強いものである。幸いにして、早稲田大学図書館古典総合データベースで、初版の全篇を視認し、ダウン・ロードことが出来る。私も電子化に際しては底本と、これを校合させて貰った。

 初出は『國民之友』明治三〇(一八九七)年七月。初出では第五連の、

ものを思へば、はてもなし

と、

我身あやしと見し夢は

の間で連が切れており、全七連構成となっている。全体の構成バランスから見ると、一見、このブレイクはあって自然に見えるが、寧ろ、コーダへ向けて、地殻の中に鬱勃してゆく如きも「あやし」きパトスの様態を感じるとき、この中断はない方がよいと私は感ずる。

 三箇所で出る「くすしく」「くすしかり」という「くすし」は以前にも注したが、「奇(くす)し」で「不思議な」(感じ)の意で、大袈裟に言えば、ある種の霊的な感応の感覚を、もっとフラットに言えば、なんとも説明し難い一種、奇妙な印象を指している。]

2019/03/11

柳田國男 山島民譚集 原文・訓読・附オリジナル注「河童駒引」(29) 「猿舞由緖」(1)

 

《原文》

猿舞由緖  【猿牽】猿ヲ厩ニ繋グノ風習ニ次ギテ、第二ニ考察スべキハ猿牽卽チ厩ニ來テ猿ヲ舞ハシムル職業ノ事ナリ。今日ニ於テハ猿牽ハ將ニ猿芝居ニ進化セントスルノ觀アレドモ、其本來ノ役目ハ實ニ厩馬安全ノ祈禱ニ外ナラザリシナリ。每年正月三日ノ伊勢兩大神宮ノ猿ノ舞、同ジク禁裏ノ御物始ノ三番ハ、何レノ世ヨリ始マリシカハ知ラズ、兎ニ角猿飼ノ徒ノ眉目トスル所ナリキ〔遠碧軒記上〕。但シ此ニハ厩ノ祈禱ヲ目的トセシコトハ見エザレドモ、其他ノ場合ニハ常ニ武家百姓ノ厩ニ來テ舞ヒシナリ。【猿屋町】德川將軍家ノ出入ノ猿屋ハ淺草猿屋町ニ住セシ瀧口長太夫ナリ。天正十八年入部ノ節ヨリノ由緖アリテ幾度ト無ク城内ニ出頭シテ馬ノ病ヲ祈禱セシ猿屋ナリ。常ノ年ニモ正五九月ノ三度ヅツ大小ノ武家ヲ廻リテ猿ヲ舞ハシム〔彈左衞門書上〕。【厩師】駿府靜岡ニ於テモ猿屋町ト云フ處ニ猿屋惣左衞門ト云フ今川家以來ノ厩師居住セリ〔駿國雜志七〕。【小山氏】紀州ニテハ海草郡貴志村大字梅原ノ大歳神社ノ南ニ猿舞師ノ有名ナル者住ス〔紀伊國續風土記〕。家ノ名ヲ小山ト云フ。單ニ和歌山ノ城下ニ出ヅルノミナラズ、廣ク上方地方ニ於ケル猿引ノ本山タリ。近江犬上郡高宮村ノ猿引式部ハ本名ハ小山右京、彦根井伊家ノ代々ノ猿屋ナリ。藩祖ニ隨伴シテ上野ヨリ來タルト云フ。最初今村小兵衞ノ下ニ附キテ其長屋ニ住ミ、後ニ高宮ニハ移リシナリ。例年正月ノ三日ニハ井伊家御厩ノ祈禱ヲ勤メ、次ニ今村氏ニ行キソレヨリ諸家中ヲ廻ル。【猿能】神武官ヨリ特ニ鳥帽子白丁ヲ許サレ、正月五日禁廷ノ猿能ニハ猿引ノ惣司武井兵庫頭ヲ助ケ五人ノ役者ノ一人タリ。高宮ノ小山右京ハ笛、尾州淸須ノ小山左京ハ太鼓ノ役ナリ云々〔淡海木間攫二〕。【猿屋部落】加賀金澤ノ厩ノ祈禱ハ、越中射水郡二上村ノ山町ト云フ部落ヨリ出ル猿舞之ヲ勤ム。每年正五九月ノ三度先ヅ前田家ノ厩ニ於テ猿ヲ舞ハシメ、ソレヨリ家中村々へモ廻ル。其猿屋ノ名前ハ昔ヨリ七ト呼べリ〔越ノ下草下〕。上杉家ノ猿牽ハ米澤市猿ケ町ニ住スル高田彦兵衞外四人ノ者ナリキ。家祿トシテ御藏米二俵ヅツヲ下サレ、春ハ城へ出デテ御厩ヲ祝ヒ、次ニ御大家ヲ廻リ、町方ニテハ寺島半七郞、在方ニテハ馬持百姓ノ家々ヲ廻リタリ〔米府鹿子四〕。此等ノ由緖アル猿牽ドモハ其後如何ニ成リシヤラン。貴志ノ小山甚兵衞氏ノ末裔ノ如キハ、今モ立派ナル役人ナレドモ、家ノ歷史ハ夙ニ忘却シ了ルト云ヘリ。其他ノ地方ニ至リテハ思フニ一層激烈ナル變遷ヲ經タルナルべシ。

 

《訓読》

猿舞由緖  【猿牽】猿を厩に繋ぐの風習に次ぎて、第二に考察すべきは、猿牽、卽ち、厩に來りて猿を舞はしむる職業の事なり。今日に於いては、猿牽は將に猿芝居に進化せんとするの觀あれども、其の本來の役目は、實に厩馬安全の祈禱に外ならざりしなり。每年正月三日の伊勢兩大神宮の猿の舞、同じく禁裏の御物始(おものはじめ)の三番は、何れの世より始まりしかは知らず、兎に角、猿飼ひの徒の眉目(びもく)[やぶちゃん注:誉れ。名誉。]とする所なりき〔「遠碧軒記(ゑんぺきけんき)」上〕。但し、此(ここ)には厩の祈禱を目的とせしことは見えざれども、其の他の場合には、常に武家百姓の厩に來りて舞ひしなり。【猿屋町】德川將軍家の出入りの猿屋は淺草猿屋町に住せし瀧口長太夫なり。天正十八年[やぶちゃん注:一五九〇年。]入部の節よりの由緖ありて、幾度と無く、城内に出頭して、馬の病ひを祈禱せし猿屋なり。常の年にも、正・五・九月の三度づつ、大小の武家を廻りて、猿を舞はしむ〔「彈左衞門書上」〕。【厩師】駿府靜岡に於いても猿屋町と云ふ處に猿屋惣左衞門と云ふ、今川家以來の厩師、居住せり〔「駿國雜志」七〕。【小山氏】紀州にては、海草(かいさう)郡貴志(きし)村大字梅原の大歳(おほとし)神社の南に、猿舞師の有名なる者、住す〔「紀伊國續風土記」〕。家の名を小山と云ふ。單に和歌山の城下に出づるのみならず、廣く上方地方に於ける猿引の本山たり。近江犬上(いぬかみ)郡高宮村の猿引式部は本名は小山右京、彦根井伊家の代々の猿屋なり。藩祖に隨伴して上野(かうづけ)より來たると云ふ。最初、今村小兵衞の下に附きて、其の長屋に住み、後に高宮には移りしなり。例年正月の三日には井伊家御厩の祈禱を勤め、次に今村氏に行き、それより諸家中を廻る。【猿能】神武官より、特に鳥帽子・白丁(はくちやう)を許され、正月五日、禁廷の猿能には猿引の惣司(さうじ)武井兵庫頭(ひやうごのかみ)を助け、五人の役者の一人たり。高宮の小山右京は笛、尾州淸須(きよす)の小山左京は太鼓の役なり云々〔「淡海木間攫(あふみこまざらへ)」二〕。【猿屋部落】加賀金澤の厩の祈禱は、越中射水(いみづ)郡二上(ふたがみ)村の山町と云ふ部落より出づる猿舞、之れを勤む。每年、正・五・九月の三度、先づ、前田家の厩に於いて猿を舞はしめ、それより、家中・村々へも廻る。其の猿屋の名前は、昔より、「七」と呼べり〔「越の下草」下〕。上杉家の猿牽は米澤市猿ケ町に住する高田彦兵衞外四人の者なりき。家祿として御藏米二俵づつを下され、春は城へ出でて御厩を祝ひ、次に御大家を廻り、町方にては、寺島半七郞、在方にては馬持百姓の家々を廻りたり〔「米府鹿子」四〕。此等の由緖ある猿牽どもは、其の後。如何に成りしやらん。貴志の小山甚兵衞氏の末裔のごときは、今も立派なる役人なれども、「家の歷史は夙(つと)に忘却し了(をは)る」と云へり。其の他の地方に至りては、思ふに、一層、激烈なる變遷を經たるなるべし。

[やぶちゃん注:我々はこの文章を読む時、ここに記された猿牽きに従事した人々が、社会的に差別されていた事実を見落とさずに読まねばならないし、そうした批判的観点以外の興味で読むことは厳に慎まねばならないことを言い添えておく。

「淺草猿屋町」現在の台東区浅草橋二・三丁目附近(グーグル・マップ・データ)。サイト「江戸町巡り」の「浅草猿屋町」に詳しい。『往古は豊島郡峡田領鳥越村のうちで』、寛文七(一六六七)年に『町屋となった。「往古武州豊島郡峡田領鳥越村と申候由にて、寛文七庚午年中町屋に被仰付候処、如何の訳にて猿屋町と相唱候哉相知不申候。尤土地にて申伝候には、越後國猿屋村より罷越候者にて、猿屋加賀美太夫と申舞太夫にても御座候哉、右の者往古当所に住居罷在候由、其後町屋に被仰付候ても里俗に猿屋と相唱、自然町名相成候由」』とあり、『町名の由来には』二『説あって、越後猿屋村から出て来た猿屋加賀美太夫が住んでいたから』『とも、猿引き(猿回し)が多く住んでいたから』(「江戸志」)『ともいわれる』とあり、現存する『加賀美稲荷は』その『加賀美太夫に由来』するともある。

「彈左衞門書上」「彈左衞門」は江戸時代の被差別民であった穢多・非人身分の頭領で、江戸幕府から関八州(水戸藩・喜連川藩・日光神領などを除く)と伊豆全域及び甲斐都留郡・駿河駿東郡・陸奥白川郡・三河設楽郡の一部の被差別民を総て統轄する権限を与えられ、触頭(ふれがしら)と称し、全国の被差別民に号令を下す権限をも与えられていた人物が代々名乗った通称である。幕府は「穢多頭(えたがしら)」と呼んだが、自らは代々「長吏頭(ちょうりがしら)矢野弾左衛門」と称した。また、浅草を本拠としていたため、「浅草弾左衛門」とも呼ばれた。私の大学時代の先輩(現在では関東でも知られた神社の神主である)は彼をよく研究しておられた。

「海草(かいさう)郡貴志(きし)村大字梅原の大歳(おほとし)神社」これは現在の和歌山市梅原にある(おおし)神社であろう(グーグル・マップ・データ)。和歌山城の紀の川を隔てた北西である。

「近江犬上(いぬかみ)郡高宮村」現在の彦根市高宮町(グーグル・マップ・データ)。

「彦根井伊家の代々の猿屋なり。藩祖に隨伴して上野(かうづけ)より來たると云ふ」慶長五(一六〇〇)年、当時、徳川四天王の一人とされ、上野(こうずけ)高崎城主であった井伊直政は、「関ヶ原の戦い」の戦功により、十八万石に加増された上、故石田三成の居城であった佐和山城に入封、佐和山藩を立藩している。

「白丁(はくちやう)」「はくてい」とも読む。下級武士の着用する狩衣の一種。白の布子張りであったので「白張」とも書いた。また、律令制の諸官司・神社・などに配属されて雑務を行う無位無官の者や、諸家の傘持・沓持・口取などの仕丁(しちょう:平安以降、貴族の家などで雑役に従事した下男)がこれを着たところから、彼らを指して、かく呼称もした。白丁から官途に就いても、主典(さかん)級で頭打ちであった。

「越中射水(いみづ)郡二上(ふたがみ)村の山町」現在の富山県高岡市二上谷内(やち)にある二上射水神社附近(グーグル・マップ・データ)。因みに、その地図の右上に伏木矢田新町という地名が見えるであろう。ここが私が昔、住んでいた場所である。

「米澤市猿ケ町」不詳。

「町方にては、寺島半七郞、在方にては馬持百姓の家々を廻りたり」ここ在方を廻った人名が脱落している感じがする。]

彼君 國木田獨步

 

  彼  君

 

えて久しき彼の君を

夢に見ざりき、はからずも

昨夜の夢はさちなりき。

林の奥に小路ありて

かの君思ふ夕ごとに

あゝ幾度かさすらひし。

今朝起きいでゝ訪ひ來れば、

木の間をもるゝ日の光、

秋は梢に來たりけり。

 

仰ぐ日影のうつくしさ、

さそふ淚の怪しさよ。

秋の光の身にしむか、

はた君思ふゆゑなるか。

 

[やぶちゃん注:初出は『國民之友』明治三〇(一八九七)年十月。本篇が詞華集「靑葉集」に載る最終詩篇である。]

わが友 國木田獨步

 

  わ が 友

 

わが友思ふ夜なりけり、

夜ふけて空の星とびぬ。

をのが力のあまりてか、

星は軌道をつきいでぬ。

怪しの光はなちつゝ、

しばしたゞよふ程もなく、

地平線下に隕ち失せぬ。

其夜の夢の悲しさよ。

 

[やぶちゃん注:「をのが」はママ。初出は『國民之友』明治三〇(一八九七)年十月。]

わが星 國木田獨步

 

  わ が 星

 

秋の夜ふけぬ、高どのゝ、

窓をひらきて、久かたの、

天のはるばる求むれど、

あはれわが星見えわかず。

のぼらずや、いまだわが星、

隕ちうせしや、遂にわが星、

あゝ、永久(とこしへ)に、とこしへに、

 

[やぶちゃん注:初出は『國民之友』明治三〇(一八九七)年十月。「隕ちうせしや」は「おちうせしや」。]

秋の夜 國木田獨步

 

  秋 の 夜

 

たゞよふ白雲を、如何せん、

とゞめてこと問はん、由もなし。

月さやかに照りて、影さむく。

秋風身にしみて、淚落つ。

悠々の天地に、身を置けば、

哀々のこゝろの、なからずや。

いづこより來りし、あゝ此身、

かの吾友いま、いかにせし。

仰ぐ大空、とこしへに、

天のはるばる、見よ、雲たゞよふ、

淚あり、をのづから落つ。

 

[やぶちゃん注:「をのづから」はママ。「はるばる」の後半は底本では踊り字「〲」。初出は『國民之友』明治三〇(一八九七)年十月。

 これには特異的に底本全集編者による大きな操作が加わっている

 一つは二行目で、詞華集「靑葉集」では

「とゞめごと問はん、由もなし。」

であるが、底本は初出を採っている。私もこれでよいと思う

 二つ目は終りから二行目で、「靑葉集」では

「天のはるばる見よ、雲たゞよふ。」(「はるはる」の後半は踊り字「〲」)

であり、初出は

「天のはるはる、見よ、雲たゞよふ、」(「はるはる」の後半は踊り字「〱」)

となっている。全集編者はここれをカップリングしたわけであるが、諸条件から見て、この仕儀も私は最善の選択と心得るものである。]

久方の空 國木田獨步

 

  久 方 の 空

 

限りなき空仰ぎつゝ

とこしへの望かたらひし

君がまなざし忘れねば

物の思に堪えかねて

ひとり眺むる久方の

天のはるばる戀しけれ

間近に君はいませども

 

[やぶちゃん注:初出は『國民之友』明治三〇(一八九七)年五月。上記本文は友人沼波瓊音(ぬなみけいおん)が獨步の死後に編した「獨步遺文」(明治四四(一九一一)年日高有倫堂刊)に拠ったものである。初出では「とこしへの望かたらひし」は「思ふこゝろを語らひし」である。また、「獨步遺文」では、標題が「限なき空」と改題されている。三十八で亡くなった彼は、二十七の時の本詩篇を遺愛していたことがよく窺われる事実である(但し、底本解題では『おそらく、無題、あるいは「限なり空」といふ題の原稿があり、重複したものと察せられる』とはある)。

はてしなき海 國木田獨步

 

  はてしなき海

 

月の光にさそはれて

    大海原をたゞよはん

とこよの岸は何處ぞや

    そよぐ潮風こゝろせよ

 

はてなき海と思ひてし

    いにしへ人はさちなりき

雲井はるかに見わたせば

    波のかなたははてもなし

 

わが帆ゆたかに孕みたり

    月はさやかにてらすなり

そよぐ潮風こゝろせよ

    とこよの岸はいづこぞや

 

波に碎くる月影は

    常世に通ふ路なるか

月に漂ふわが舟は

    空に浮べる雲なるか

 

空や海なる海や空

    吾や月なる月や吾

われは常世の民にして

    常世は今のうつゝなる

 

わが帆ゆたかに孕みけり

    月はさやかない照らすなり

常世の岸も程ちかし

    そよぐ潮風こゝろせよ

 

[やぶちゃん注:初出不明。]

絕望 國木田獨步


  
   望

 

        (去年の夢)

 

さみだれさびし獨りして

ものを思へばはてもなし

あはれとて泣きしは夢の心地して

にくしとも恨むは今のうゝつなる

 

行末はいかにもとあれ

鬼よ去れ、望の鬼

燃えつゝ氷る心地する

今の我身をしばしだに

鬼よ去れ、望の鬼

 

こしかたの夢さめはてぬ

ゆくすえ光だもみず

木枯し吹くとこやみの空

星落ちてゆくえを知らず

あゝわが魂いづこに迷ふ

 

[やぶちゃん注:初出不明。「ゆくすえ」はママ。「去年」は「こぞ」と読みたい。実は底本には問題があり、第二連と第三連の間は改ページであるが、前後孰れのページも、一行余す、或いは、一行空ける仕儀を版組上で行っていない。しかし、これまでの詩篇やこの後の本詞華集の彼の詩篇で、第一連を四行でブレイクした後、第二連を十行連続とするのに近い詩篇構成を見出せないのである。黙読のリズムからも、朗読上からの観点からも、「行末はいかにもとあれ」/「鬼よ去れ、望の鬼」/「燃えつゝ氷る心地する」/「今の我身をしばしだに」/「鬼よ去れ、望の鬼」の後に有意にブレイクが入って、以下、第三連へと続くのが自然であると私は思う。詞華集「青葉集」原本を確認出来ないが、私は、暫く上記の通りとする。実は、「抒情詩」の中にも、一篇、同じ疑問を抱いた箇所があったが、これは二本の原典画像で視認し、行空けがあることが確認出来たので、特に注さなかったのである。そういう〈前科〉が底本にはあるので、今回は特にかく注を附してそのような仕儀を行った。大方の御叱正を俟つものではある。

厭世的樂天家の歌 國木田獨步

 

  厭世的樂天家の歌

 

のぼる朝日をまちわびそ

  くれゆく空をねになきそ

    たゞつかの間のうまざけに

      わが世いのちと歌へかし

 

[やぶちゃん注:初出不明。]

戀 國木田獨步

 

  

 

君北にいますと聞くからに

  身をきる風ぞ戀しき

冬枯の野にたちて

  悲しき歌うたはゞや

 

[やぶちゃん注:初出不明。]

和漢三才圖會卷第三十八 獸類 㺊(つつが) (幻獣)

 

つゝが

【音】

唐韻狀如獅子食虎豹及人

神異經曰北方大荒中有獸咋人則疾名曰

 恙也嘗入人室屋黃帝殺之【自此人無憂疾謂之無恙也】

[やぶちゃん注:図なし。原本では、項目名の下に最初の二行が二字下げで入っている。三行目は表記通りの一字下げ。前の「囓鐵獸と同じ翻刻上の理由と推測する。]

つゝが

【音、[やぶちゃん注:欠字。]】

「唐韻」、『狀〔(かた)〕ち、獅子のごとく、虎・豹及び人を食ふ』〔と〕。

「神異經」に曰はく、『北方〔の〕大荒〔(だいこう)〕[やぶちゃん注:地名と思われるが不詳。]の中に、獸、有り、人を咋(か)むときは、則ち、疾〔(や)〕む。名づけて、「」と曰ふ。は「恙」なり。嘗つて、人の室屋に入〔るも〕、黃帝、之れを殺したまふ【此れより、人、憂-疾〔(うれひ)〕無き〔を〕、之れ、恙無〔(つつがな)〕しと謂ふなり。】。

[やぶちゃん注:幻獣。なお、現行の狭義のツツガムシ病及びそれを媒介するツツガムシの一種については、和漢三才圖會卷第五十四 濕生類 沙虱(すなじらみ)で相応に考証したので繰り返さない(他の和漢三才圖會卷第五十四 濕生類 蜮(いさごむし) 附 鬼彈等でも比定候補として考えもしたので、私はかなり慎重に同定比定をしたと考えている)。

「唐韻」唐代に孫愐(そんめん)によって編纂された韻書。もとは全五巻。中国語を韻によって配列し、反切によってその発音を示したもので、隋の陸法言の「切韻」を増訂した書の一つ。後、北宋の徐鉉(じょげん)によって、「説文解字」大徐本の反切に用いられたが、現在では完本は残っていない(「ブリタニカ国際大百科事典」に拠る)。

「神異經」後漢末に東方朔が著したとされる、中国の神話集成。

「黃帝」中国古代の伝説上の帝王。三皇五帝(三皇は燧人(すいじん)・伏羲(ふっき)・神農(或いは女媧(じょか)を数えることもあり、別に天皇・地皇・人皇とするケースももある)、五帝は黄帝・顓頊(せんぎょく)・嚳(こく) ・堯(ぎょう)・舜(しゅん)とするのが一般的ではあるが、こちらも命数には数説がある三皇五帝説の確かな成立は戦国時代であった)の一人。姓は公孫。軒轅氏とも、有熊氏(ゆうゆうし)ともいう。蚩尤(しゆう)の乱を平定し、推されて天子となり、舟車・家屋・衣服・弓矢・文字を初めて作り、音律を定め、医術を教えたとされる。]

和漢三才圖會卷第三十八 獸類 狡兔(かうと) (幻獣)

 

Kouto

 

かうと

狡兔

 

本綱狡兔生昆吾山形如兔雄色黃雌白食丹石銅鐵昔

呉王武庫兵噐皆盡掘得二兔一白一黃腹中腎膽皆鐵

取鑄爲劍切玉如泥五雜組云狡兔遇鷹來撲輙仰臥以

擘其爪而裂之鷹卽死

 

 

かうと

狡兔

 

「本綱」、狡兔、昆吾山〔(こんごさん)〕に生ず。形、兔〔(うさぎ)〕のごとく、雄は、色、黃、雌は白し。丹石[やぶちゃん注:辰砂(丹砂)の意でとっておく。は硫化水銀(Ⅱ)(HgS)からなる鉱物。]・銅・鐵を食ふ。昔し、呉王、武庫の兵噐、皆、盡(つ)く。〔されば、地を掘るに、〕二つの兔を掘り得て、一つは白く、一つは黃なり。〔その兔を裂くに、〕腹中の腎・膽、皆、鐵〔たり〕。取りて鑄て、劍と爲し、玉〔(ぎよく)〕を切るに、泥のごとし〔と〕。「五雜組」に云はく、『狡兔、鷹の來〔たりて〕撲〔(う)つ〕に遇〔へば〕、輙〔(すなは)〕ち、仰(あふむ)き臥して、足を以つて、其の爪を擘(つんざ)き、之れを裂く。鷹、卽ち、死す』〔と〕。

[やぶちゃん注:現行では、「狡兔(=すばしっこいウサギ)」は専ら「狡兎(こうと)死して走狗(そうく)(或いは「良狗」「良犬」)烹らる」の故事成句でしかお目にかからない(「韓非子」の「内儲説下」や「呉越春秋」の「夫差内伝」等に見える比喩。狡兎が死んでいなくなれば、優れた猟犬は最早、不用となり、煮て食われる。敵国が滅びれば、それまで手柄のあった謀臣も邪魔にされて殺される運命にある)が、ここはトンデモ幻獣。この話、和漢三才圖會卷第四十四 山禽類 鷹(たか)でも良安は引いていた。そこでは半可通な注(「すばしっこいウサギ」の意で採った結果の大呆け)を附していたので、今回、追記をしておいた。お恥ずかしい。

 

「昆吾山」は幻想地誌「山海経」の「中山経」に出る山で、そこに、

   *

又西二百里、曰昆吾之山、其上多赤銅。有獸焉、其狀如彘而有角、其音如號、名曰蚳、食之不眯。

   *

「赤銅」(しゃくどう)を多産するというのが金属食の「狡兔」と親和性があり、但し、それは「彘」(いのこ)=ブタのようで、角を有し(これは一致)、その鳴き声は叫ぶようで、名は「蚳」(ろうち)(但し、後人の校訂では「蛭」(ろうてつ)とする)、これを食うと「不眯」、眼がかすまない、とする。或いは、この獣が「狡兔」のルーツであると考えてもよいのかも知れぬ

「呉王」呉は紀元前五八五年頃から紀元前四七三年まで続くが、寿夢(じゅぼう?~紀元前五六一年/在位:紀元前五八五年~没年)が国名を「句呉」から「呉」に改名し初めて王を名乗ってから、呉王は最後の「臥薪嘗胆」で知られる、夫差(紀元前四九五年~紀元前四七三年)まで、七人いる。夫差が飛び抜けて有名だが、この奇体な話は私は知らない。そもそもこの時珍の引いた話は何に載るのであろう? 識者の御教授を乞うものである。

和漢三才圖會卷第三十八 獸類 豻 (幻獣)

 

【音岸】

 本綱豻胡狗也胡地野犬也似狐而黒身長七

 尺頭生一角老則有鱗能食虎豹蛟龍銅鐵獵

 人亦畏之

[やぶちゃん注:図なし。原本では、項目名の下に最初の二行が二字下げで入っており、三行目もその位置まで下がって並んでいる。]

 

 

〔(がん)〕【音。「岸」。】

「本綱」、豻は胡狗〔(こく)〕なり。胡地の野犬〔(のいぬ)〕なり。狐に似て、黒き身、長〔(た)〕け、七尺。頭に一角を生ず。老すれば、則ち、鱗、有り。能く虎・豹・蛟〔(みづち)〕・龍・銅・鐵を食ふ。獵人も亦、之れを畏る。

[やぶちゃん注:幻獣。野犬とするところからはモデルを比定したくなるが、真っ黒なキツネに似た一角獣で「七尺」(明代の一尺は三十一・一センチメートルであるから、二メートル十八センチメートル弱)もあり、老成した個体には鱗が生え、トラ・ヒョウはもとより、龍の前駆段階である水棲の小さな蛟からそれが長じた聖獣龍まで食うどころか、銅や鉄まで餌とするのでは、同定する気も起らぬ。「本草綱目」では先の「貘」の「附錄」として前の「囓鐵」に続けて、以下のように記載する。

   *

豻 禽書云豻。應幷星胡狗也。狀似狐而黑身長七尺頭生一角。老則有鱗能食虎豹蛟龍銅鐵獵人亦畏之。

   *

「胡」中国人が、古くは北方の、後に西方の異民族及びその一帯を呼んだ卑称。戦国時代には万里の長城塞外地域の異民族の居住地を、漢代には主として匈奴とその居住地を指したが、南北朝時代以後は、主に西トルキスタンのイラン系民族、特にソグド人の居住する方面を指した(ここは主文を「ブリタニカ国際大百科事典」に拠った)。]

和漢三才圖會卷第三十八 獸類 囓鐵獸 (幻獣)

 

囓鐵獸

 本綱南方有獸角足大小狀如水牛毛黒

 如漆食鐵而飮水糞可爲刀其利如鋼名

 曰囓鐵【唐史云吐火羅國獻大獸高七尺食鋼鐵日行三百里】

[やぶちゃん注:図なし。原本では、項目名の下に最初の二行が二字下げで入っている。三行目は表記通りの一字下げ。これは本来は、前の二行の頭位置で揃えたかったのであるが、そうすると、最後の割注が入らなくなり、少しの残りのために一行増えてしまうのを嫌った仕儀であろうと推測する。]

 

 

囓鐵獸〔(けつてつじう)〕

「本綱」、南方に獸、有り、角・足、大小〔ありて〕、狀〔(かた)〕ち、水牛のごとし。毛、黒きこと、漆のごとし。鐵を食ふ。而〔して〕水を飮む。糞、刀に爲〔(す)〕るべし。其の利(と)きこと、鋼(はがね)のごとし。名づけて「囓鐵」と曰ふ【「唐史」に云はく、『吐火羅國〔(トカラこく)〕より大獸を獻ず。高さ七尺、鋼鐵を食ふ。日に行くこと、三百里』〔と〕。】。

[やぶちゃん注:幻獣。「本草綱目」では前の「貘」の「附錄」として以下のように記載する。

   *

囓鐵 時珍曰、按「神異經」云、南方有獸角足大小、狀如水牛毛黑如漆、食鐵而飮水。糞可爲兵、其利如綱、名曰囓鐵。「唐史」云、叶火羅獻大獸髙七尺食銅鐵日行三百里。

   *

『「唐史」に云はく……』以下は「新唐書」の「列傳第一百四十六下 西域下」に確かに「吐火羅」国が献じたとして載るが、「本草綱目」は確かに「大獸」とするものの、原書では「大鳥」となっており、原文を見ると、

   *

永徽元年、獻大鳥、高七尺、色黑、足類橐駝、翅而行、日三百里、能啖鐵、俗謂駝鳥。

   *

とあって、この献上されたそれは実は実在するダチョウであることが判明してしまう。

「吐火羅國」ウィキの「トハラ人によれば、トハーリスターン(トハリスタン)と呼ばれた地域で、『中国や日本の史書では吐火羅』『と表記される』とする、附近(同ウィキの地図)。]

和漢三才圖會卷第三十八 獸類 貘(ばく) (マレーバク・ジャイアントパンダその他をモデルとした仮想獣)

 

Baku 

ばく 

【音麥】 

モツ 

本綱貘似熊而頭小脚卑黒白駁文毛淺有光澤或云黃

白色或曰蒼白色象鼻犀目牛尾虎足多力能舐食銅鐵

及竹骨蛇虺其骨節強直中實少髓其糞可爲兵切玉其

尿能消鐵爲水其齒骨極堅以刀斧却碎落火亦不能燒

人得之詐充佛牙佛骨以誑俚俗

貘皮 爲坐毯臥褥寢貘皮避温癘氣邪氣圖其形亦

 避邪唐世多貘作屏風

 

 

ばく 

【音、「麥」。】 

モツ 

「本綱」、貘は熊に似て、頭、小に〔して〕、脚、卑〔(みぢか)〕く、黒白の駁〔(まだら)〕の文〔(もん)あり〕。毛、淺く、光澤有り。或いは、云はく、黃白色、或いは曰はく、蒼白色なり〔と〕。象の鼻、犀の目、牛の尾、虎の足〔にて〕、多力にして、銅・鐵及び竹・骨・蛇・虺〔(き)〕[やぶちゃん注:伝説上の水棲の毒蛇。五百年を経て蛟(みづち)に変じ、千年で龍となると中文サイトにはあるが、一一般的には実在する蝮(マムシ)のことを指す。]、能く舐〔(ねぶ)〕り食ふ。其の骨節、強直〔(ごうちよく)〕・中實[やぶちゃん注:髄の周囲の骨がみっちりと硬く厚く詰っていること。]にして、髓、少なく、其の糞、兵〔(ぶき)〕と爲〔(な)し〕て玉〔(ぎよく)をも〕切るべし。其の尿〔(いばり)〕は能く鐵を消〔(とか)〕して水と爲〔(せ)〕る。其の齒骨、極めて堅し。刀・斧を以つてするに、却つて碎落〔(さいらく)〕す。火も亦、燒くこと、能はず。人、之れを得て詐(いつは)りて、佛牙[やぶちゃん注:釈迦の歯。]・佛骨に充〔(あ)〕てて、以つて俚俗を誑(たぶら)かす。

貘〔の〕皮 坐-毯〔(ざぶとん)〕・臥--寢〔(しとね)〕と爲す。貘の皮は、温癘〔(おんれい)〕[やぶちゃん注:温気によって発症する疫病。]・[やぶちゃん注:「濕」の異体字。]氣〔(しつき)〕・邪氣〔(じやき)〕を避く。其の形を圖〔(ゑが)〕くも亦、邪を避く。唐の世には、多く貘を〔(ゑが)き〕て屏風を作る。

[やぶちゃん注:哺乳綱奇蹄目有角亜目バク科 Tapiridae のバク類(現生種は五種で、北アメリカ大陸・南アメリカ大陸・東南アジアに分布する)の内、本「貘」はインドネシア(スマトラ島)・タイ南部・マレーシア(マレー半島)・ミャンマーに棲息するマレーバク Tapirus indicus 或いはジャイアントパンダ(哺乳綱食肉目クマ科ジャイアントパンダ属ジャイアントパンダ Ailuropoda melanoleuca)その他をモデルとした仮想獣である。ここには現行知られるような悪夢を食ってくれるという明確な記載はないが、胴や鉄を食い、糞が武器となるほど硬く、尿は鐡を溶かして水と変じさせ、歯や骨は刀剣・斧でさえ刃が立たずに欠けてしまうとし、特に後半分でその皮を寝具に用いると、諸病や邪気を避けることができ、唐代(六一八年~九〇七年)には既にそうした聖獣として盛んに屏風に描かれたという辺りには、唐代には既に悪夢(それは身体への邪気の侵入に他ならない)を食ってくれるものとする伝承があったように私には読め、この仮想獣「貘」が日本へ伝承されるや、本邦では前の金属を食い溶かすという奇体な部分は捨てられ、専ら、悪夢を食ってくれる幻獣としてクロース・アップされたということであろう。荒俣宏氏の「世界博物大図鑑」の第五巻「哺乳類」(一九八八年平凡社刊)の「バク」の項によれば、『節分の晩に』、『獏の絵を枕の下に敷いて寝れば』、『この獣が悪夢を食べてしまうというのも日本特有の俗信』であり、また、『宝船の帆に獏という字を入れた絵』が『同様に悪夢よけのお守りに用いられた』のも、現行、正月二日の『初夢の晩』に『獏の姿を描いた紙を枕の下に敷いて寝れば悪夢を食べてもらえるといういい伝えが残』るのも本邦固有の習俗と読める。

 さてもそこでウィキの仮想獣を見てみると、『獏(ばく)は、中国から日本へ伝わった伝説の生物。人の夢を喰って生きると言われるが、この場合の夢は将来の希望の意味ではなくレム睡眠中にみる夢である。悪夢を見た後に「(この夢を)獏にあげます」と唱えると同じ悪夢を二度と見ずにすむという』。『中国で「獏(貘)」は古くから文献に見えるが、どんな動物であるかについては文献によって一定しない。『爾雅』釈獣には「白豹」であるといい、『説文解字』には「熊に似て黄黒色、蜀中(四川省)に住む」(『爾雅』疏に引く『字林』も同様だが「白黄色」とする)であるという。『爾雅』の郭璞注には「熊に似て頭が小さく脚が短く、黒白のまだらで、銅鉄や竹骨を食べる」とあり、ジャイアントパンダを指したようである』。『段玉裁『説文解字注』でも「今も四川省にいる」とあるので、やはりパンダである』ように思われるが、『後に、白黒まだらであることからバクと混同され、また金属を食べるという伝説が大きく取り上げられることになった』。『『本草綱目』にも引かれている白居易「貘屏賛」序によると、鼻はゾウ、目はサイ、尾はウシ、脚はトラにそれぞれ似ているとされる』。『中国の獏伝説では悪夢を食らう描写は存在せず、獏の毛皮を座布団や寝具に用いると疾病や悪気を避けるといわれ、獏の絵を描いて邪気を払う風習もあり、唐代には屏風に獏が描かれることもあった』。『こうした俗信が日本に伝わるにあたり、「悪夢を払う」が転じて「悪夢を食べる」と解釈されるようになったと考えられている』。『『後漢書』や』『『唐六典』の注に伯奇(はくき)が夢を食うといい』、『これが獏と混同されたとの説もある』。なお、『この「伯奇」を「莫奇」と書いてある文献もあるが、江戸時代の小島成斎『酣中清話』の記載を孫引きしたもののようである』。『日本の室町時代末期には、獏の図や文字は縁起物として用いられた。正月に良い初夢を見るために枕の下に宝船の絵を敷く際、悪い夢を見ても獏が食べてくれるようにと、船の帆に「獏」と書く風習も見られた』。『江戸時代には獏を描いた札が縁起物として流行し、箱枕に獏の絵が描かれたり』、『獏の形をした「獏枕」が作られることもあった』。また『中国の聖獣・白澤と混同されることもある。東京都の五百羅漢寺にある獏王像も、本来は白澤の像とされている』(これは私の偏愛する像である)。『近年のフィクションで獏もしくはそれをイメージしたキャラクターが悪役として出る場合は、伝承とは逆転して良い夢を食べて絶望に追いやったり、悪夢を見せたりすることが多い』。『奇蹄目バク科の哺乳類のバクは、この伝説上の獏と姿が類似する事から、この名前がついた』『なお、京都大学名誉教授林巳奈夫の書いた『神と獣の紋様学中国古代の神がみ』によれば、古代中国の遺跡から、実在する動物であるバクをかたどったと見られる青銅器が出土している。このことから、古代中国にはバク(マレーバク)が生息しており、後世において絶滅したがために、伝説上の動物・獏として後世に伝わった可能性も否定はできない。なお』、『古代中国においては、他にもアジアゾウやインドサイが生息しており、その後』、『絶滅している』とあるから、私の推理は的外れではあるまい。

 但し、笹間良彦著「図説 日本未確認生物辞典」(一九九四年柏美術出版刊)の「獏」には、本「和漢三才図会」の訳を引かれた後、『大変な能力ある動物であるが、動物学上獏(タピール)』(Tapir:バクの英名)『と名付けられたものに外形は似ているが、全く想像的動物である』。タピールは『有蹄類の奇蹄類獏科でおとなしい動物でこれが伝説の夢を食う動物とされるようになったのは何故であろうか』とされた上で、『中国の』「唐六典」の「詞部郎中職」の記載の十二神『の中に漠奇という夢を食う動物の話があり』、『漠奇から漠が結びつけられたものらし』とされ、「節序紀原」(釋如松著・延宝七(一六七九)年刊)から以下を訳しておられる。

   《引用開始》

いまの世に節分の夜に漠の形を描いたものを枕に用いたり描いたものを敷いてねると、悪い夢を見たときに獏が食ってくれると信じる風習がある。考えるにその元は『爾雅』とい う書から出たようである。これに獏は金属のような固いものや竹を食うとあるが、夢を食うという説は記していない。

唐の白居易の漠を描いた屏風に讃して、獏は鼻は象のようで目は犀に似、尾は牛に似て足は虎に似る。獏の皮は湿気を避け、その図を敷くと邪気を避ける。いまの世で白澤と混同している。また、『陸佃』がいうのには、獏の皮を座蒲団や寝具に用いるともろもろの湿病悪気を避けるといっているのを、悪い夢を食うというのに誤まったのであろうか。

   《引用終了》

と、悪夢を食うという認識は中国ではなかった如松は断じており、笹間氏も『漠が夢を食うというのは誤解であろう』とはされる(但し、私はそうは思わない)。以下、笹間氏はその後、『獏は白澤であるという人も出てくるが、縁起物として獏の図や文字を用いるようになったのは室町時代末期頃からであるから、漠が夢を食うという俗信が日本に伝わったのはそれ以前からであろう』とされ、江戸後期の御家人で右筆であった国学者屋代弘賢(やしろひろかた 宝暦八(一七五八)年~天保一二(一八四一)年)の「不忍文庫画譜」にある以下を引かれる。

   *

陸月に用ふる宝船のえ[やぶちゃん注:ママ。「繪」であろうから「ゑ」が正しい。]はいつの頃より始りぬるにや。大永[やぶちゃん注:一五二一年~一五二七年。室町幕府はあるものの、戦国初期。]のころ巽阿彌[やぶちゃん注:「そんあみ」。]が記[やぶちゃん注:「澤巽阿彌覺書」か。]に見えたれば其前よりや行はれぬらむでや此一ひらはかけまくもかしこしき後水尾院[やぶちゃん注:文禄五(一五九六)年~延宝八(一六八〇)年/在位:慶長一六(一六一一)年~寛永六(一六二九)年。]獏の字を書き給ひて御手づから版にえらせ給ひしとて、今も勘使所(かんづかひどころ)[やぶちゃん注:京都御所口向(くちむき)役所。「口向」は経理・総務担当を指す。]にひめおかるとかや。

   *

『とあり、正月の初夢には宝船の図を描いた絵を枕の下に敷いて寝る縁起的風習があって宝船の帆の中央に「宝」の字を書くのが一般であるが、目出度い吉夢をばかり見るとは限らず嫌な夢を見ることがある。そこで夢を食うと言い伝えられている漠を図の代わりに文字で書き込んだ宝船の図も使われたことを物語るものである』とされ、さらに、国学者喜多村信節(きたむらのぶよ 天明三(一七八三)年~安政三(一八五六)年)の「萩原随筆」を引いてこれは後小松院(一三八三~一四一二年・足利四代将軍義持の治世で室町初期)のこともするとある。また、『獏の図の札が縁起物として流行したのは江戸時代で、井原西鶴の『好色一代男』にも』(恣意的に漢字を正字化した)、

   *

二日は越年にて或人鞍馬山に誘はれて一原といふ野を行けば、厄拂い[やぶちゃん注:ママ。]の聲、夢違の獏の札、寶船賣など鰯柊[やぶちゃん注:「いはしひいらぎ」。魔除け。]をさして鬼打豆云云。

   *

『とあり、獏の図を枕に敷くのは晦日とも一日ともいう』と記されて、『このように、獏が夢を食うと信ぜられたのは日本だけのようである』。『そのために江戸時代頃までの箱枕には側面に漠の絵を描いたものもあり、この縁起の獏の絵は動物学上の獏』『とは全く似ていない動物である』とされる。ウィキの「獏」の葛飾北斎の「貘」、及び、豊臣秀吉貘枕の画像をリンクさせておく。

 最後に、モデル生物と目されるウィキの「マレーバク」を引いておく。体長百八十~二百五十センチメートル、尾長五~十センチメートル、肩高九十~百五センチメートル、体重二百五十~五百四十キログラム。『頭部から肩、四肢の体色は黒く、胴体中央部の体色は白い』。『これにより』、『昼間では白色部が際立つことで輪郭が不明瞭になり』、『捕食者に発見されにくくなると考えられている』。『頸部の皮膚は固く、厚さ』二~三『センチメートルに達する』。『生後』六『か月以内の幼獣には白い縦縞が入る』。『河川や沼地の周辺にある多雨林に生息する』。『夜行性』で、『群れは形成せず、単独で生活する』。『危険を感じると』、『茂みや水中へ逃げ込む』。『食性は植物食性で、主に木の葉を食べるが』、『果実も食べる』。『妊娠期間は』三百九十~四百七日。四~五月に、一回に一頭の『幼獣を産む』。『生後』二『年半から』三『年で性成熟する』。『タイの山岳民族の間では』、『神が余りものを繋ぎ合わせて創造した動物とされた』。『開発による生息地の破壊、娯楽やペット用の狩猟などにより』、『生息数は減少している』とある。]

若き旅人の歌 國木田獨步

 

  若き旅人の歌

 

人里遠き深山も

    笑ひて咲けるすみれあり

浮世はなれし此村の

    木蔭にねむる墓もあり

高峰たゞよふ雲あはく

    溪を流るゝ水きよし

 

[やぶちゃん注:これより以下、十篇は明三〇(一八九七)年十一月文盛堂刊の石橋哲次郎編になる詞華集「靑葉集」に載った「國木田哲夫」名義の詩篇である。同アンソロジーは國木田のそれを掉尾として他に、戸川残花・河井酔茗・武島羽衣・田山花袋・大町桂月・石橋暁夢(編者の筆名)・佐々木信綱・太田玉茗・正岡子規・宮崎羊児・大塚楠緒子・河内魚ぬの・塩井雨江・与謝野鉄幹・宮崎湖処子の作品を収めるもので、底本解題によれば、『この年は新體詩普及隆盛の年であり』、先の國木田獨步の詩篇が収録された同年四月刊の「抒情詩」を始めとして、『この主の編輯詞華集が引きつづき出版され、その中に彼の作品も含まれるやうになつた』とある。編者の石橋哲次郎は生没年等未詳であるが、黒羽夏彦氏のブログ「ふぉるもさん・ぷろむなあど 台湾をめぐるあれこれ」の「【研究メモ】マッケイと石橋哲次郎によれば、宣教師で雑誌編集や記者で『文学気質を持った』人物で、『久留米藩士石橋六郎の次男として生まれ』、明治二三(一八九〇)年九月に『久留米尋常中学明善校(藩校明善校に由来し、現在は福岡県立明善高校)に入学』、曲折を経た後、明治二七(一八九四)年六月、『カナダ・メソヂスト教会部会の試験を経て福音士となり、明治三一(一八九八)年三月、『日本基督教會規定の試験を経て』、『伝道師となり』、五『月に台湾へ渡った』が、翌年七月に『伝道師を辞した後は台南県主記として勤務』したといった詳しい事蹟が載る。

 本篇の初出は不明。]

2019/03/10

和漢三才圖會卷第三十八 獸類 豹(ひやう/なかつかみ) (ヒョウ)

 

 

Hyou

 

 

 

 

 

ひやう   程 失刺孫

 

なかつかみ

 

 

 

【音報】

 

      【和名奈賀豆可美】

 

 

 

本綱豹有數種遼東及西南諸山時有之狀似虎而小白

 

靣圓頭其毛赤黃色脊長行則脊隆如錢者曰金錢豹宜

 

爲裘如艾葉者曰艾葉豹次之尾赤而文黒曰赤豹毛白

 

而文黒曰白豹皆自惜其毛采又西域有金線豹文如金

 

線海中有水豹【凡豹猛捷過虎廣西南界有唼臘蟲食死人尸難驅逐惟以豹皮覆之則畏不來】

 

豹畏蛇與鼠而獅駮渠捜能食豹淮南子蝟令虎申蛇

 

[やぶちゃん注:「申」はママだが、意味が通らない。「本草綱目」では「畏」である。訓読ではそれで訂した。]

 

令豹止物有所制也廣志狐死首丘豹死首山不忘本也

 

豹皮不可藉睡令人神驚豹胎至美爲八珍之一

 

 

 

 

 

 

ひやう   程 失刺孫〔(しつしそん)〕

 

なかつかみ

 

 

 

【音、「報」。】

 

      【和名、「奈賀豆可美」。】

 

[やぶちゃん注:「ひやう」はママ。歴史的仮名遣では「へう」が正しい。]

 

 

 

「本綱」、豹は數種有り。遼東及び西南の諸山に時に之れ有り。狀、虎に似て、小さし。白靣〔(はくめん)〕。圓〔(まろ)〕き頭。其の毛、赤黃色。脊〔(せ)〕、長く、行くときは、則ち、脊、隆(たか)し。錢〔(ぜに)〕のごとくなる者を「金錢豹〔(きんせんへう)〕」と曰ひ、裘〔(かはごろも)〕[やぶちゃん注:皮衣。]と爲るに宜〔(よろ)〕し。艾〔(よもぎ)〕の葉のごとくなる者を「艾葉豹〔(がいえふへう)〕」と曰ひ、之れに次ぐ。尾、赤くして、文〔(もん)〕黒〔き〕を「赤豹」と曰ふ。毛、白くして、文、黒〔き〕を「白豹」と曰ふ。皆、自〔(おの)づから〕其の毛〔の〕采〔(あや)〕を惜しむ。又、西域に「金線豹」有り、文、金線のごとし。海中に「水豹〔すいへう)〕」有り【凡そ、豹の猛捷〔(まうせふ)たる〕こと、虎に過ぐ。廣西の南〔の〕界〔(さかい)〕に、「唼臘蟲(せいらうちゆう)」有り、死人の尸〔(しかばね)〕を食〔ひ〕、驅逐し難し。惟だ、豹の皮を以つて之れを覆〔へば〕、則ち、畏れて來らず〔と〕。】。

 

豹、蛇と鼠〔(とびねずみ)〕とを畏る。而〔して〕、獅〔(しし)〕・駮〔(はく)〕・渠捜〔(きよそう)〕、能く豹を食ふ。「淮南子〔(ゑなんじ)〕」に、『蝟〔(はりねずみ)〕は虎をして畏れさせ、蛇は豹をして物を止ましむ[やぶちゃん注:行動を抑止させる。]。制する所、有るなり』〔と〕。「廣志」に、『狐、死して、丘を首〔(かうべ)〕にす[やぶちゃん注:狐は、死ぬ時は首を、長年、住ませて呉れた丘の方へ向けて義を尽くして死ぬものである。]。豹、死しては、山を首す。本〔(ほん)〕を忘れざるなり[やぶちゃん注:畜生であっても彼らは自然に対する己れの本分をよく弁えて、死ぬ時でさえ忘れずに義を守っているのである。]』〔と〕。豹の皮を藉(し)き睡るべからず。人をして神-驚(おどろ)かせしむ。豹〔の〕胎〔(はららご)〕、至つて美なり。八珍の一つと爲す。

 

[やぶちゃん注:ネコ目ネコ科ヒョウ属ヒョウ Panthera pardusウィキの「ヒョウ」によれば、『アフリカ大陸からアラビア半島・東南アジア・ロシア極東にかけて』、『サバンナや熱帯雨林・半砂漠など』、多様な環境にそれぞれ適応して棲息を広げ、『都市部の郊外に』棲息する場合もある。『夜行性』で、『群れを形成せず』、『単独で生活する』が、『ネコ科の構成種では』地球上で『最も広域』に『分布する』種である。体長は一メートルから一メートル五十センチメートル、尾長は八十センチメートルから一メートル、体重は三十~九十キログラムで、『全身は柔らかい体毛で密に被われており、黒い斑点が見られる』。『背面の毛衣は淡黄褐色や淡褐色で』、『腹面の毛衣は白い』。『頭部や頸部、腹面には黒い斑点が入り、背面や体側面には黒い斑点が花のように並ぶ斑紋が入る』。『四肢は体長や体高に対してやや短い』。『また、出産直後の幼獣は』『体重四百~六百グラム』である。『乳頭の数は』四個で固定している。『主に小型から中型の有蹄類を摂食するが』、霊長類・鳥類・爬虫類・魚類・昆虫などと、その食性も多様である。『人間の居住地域である場合は』、『犬や人間も襲う』。『捕えた獲物を樹上へ運び、数日にわたって食べたり』、『保存することもある』。『上述の捕らえた獲物を樹上に運ぶ行為は、ライオンやハイエナ等の他の捕食者から獲物を横取りされるのを防ぐのが主な狙いであるとされる』。『妊娠期間は』八十八~百十二日で、『岩の隙間や樹洞・藪の中などで』一『回に』一~六頭(平均は二~三『頭)の幼獣を産む』。『幼獣は生後』十八~二十四ヶ月で『独立』し、生後二年半から三『年で性成熟する』。『毛衣が黒い個体は「クロヒョウ」と呼ばれ』るが、『これは劣性遺伝により』、『突然変異した黒変種』『であり、クロヒョウという種が存在している』わけではない。『突然変異のため、親兄弟が通常のヒョウであっても』これは『発生する。なお、クロヒョウもヒョウ特有の斑紋を有しており』、『赤外線照射により視認できることが分かっている』。中国及びその周辺で見られる亜種は以下。

 

ペルシャヒョウ Panthera pardus ciscaucasica中文名「波斯豹」:アゼルバイジャン・アフガニスタン・アルメニア(ナゴルノ・カラバフ共和国含む)・イラン・ジョージア・トルクメニスタン・トルコ・パキスタン・ロシア(コーカサス地方北部))

 

Panthera
pardus delacouri
中文名「印度支那豹」:東南アジア・中国南部)

 

インドヒョウ Panthera pardus fusca(インド)

 

キタシナヒョウ Panthera pardus japonensis(中国北部。学名は(Gray, 1862)の命名で、これは文久二年相当で「japonensis」は採集(棲息)地が日本と誤認されたか、日本経由の原標本或いはデータによってそうなったものか、由来不明である)

 

チョウセンヒョウ Panthera pardus orientalis(中国北東部・ロシア極東部・朝鮮半島)

 

以下、「逸話」の項。『古代ローマではヒョウの息は芳しい香りを放つので、動物たちはこれに魅了され、ヒョウに狩られてしまうと信じられていた。この香りに抗することができるのはユニコーンだけであるとされた。これが転じてキリスト教では、人々をキリストに導く伝道者の象徴とされた。だが実際はヒョウの息にそのような芳香はない。普通の獣臭である』。『人の態度などがだしぬけに変わることを「豹変」という。これは易経の「君子豹変、小人面革」(君子は豹変し、小人は面を革むる)に由来する。元来、豹の毛が抜け変わり』、『鮮やかな模様が現れる様に、君子は自らの過ちをはっきりと改める(しかし小物は表面だけ変えてみせる)という、良い意味であったが、現在ではむしろ』、『悪い方向への変化を指すことが多い』。『英語やドイツ語でヒョウのことを「Leopard」(レパード、レオパルト)』(これはラテン語の「leo」(ライオン)と「pardus」(ヒョウ)の合成語に基づく)『というが、日本のファッション誌・業界では「ヒョウ柄」模様のことを「レオパード柄」という。これはLeopardの読み間違いから生まれた造語である。また、英語では「panther」(パンサー)と呼ばれることもあるが、イギリスではヒョウを、アメリカではピューマを指している』。本標題にも出る和訓「なかつかみ」の由来は以下。『豹の和名は「なかつかみ」というが、これは八将神』(はっしょうじん:陰陽道の神で方位の吉凶を司る八神の総称。「八将軍」とも称する。ウィキの「八将神」によれば、『民間伝承では牛頭天王の八王子といわれ、その母は牛頭天王の妃で娑伽羅龍王(しゃがらりゅうおう)の娘、頗梨采女(はりさいじょ)とされるが、牛頭天王が須佐之男尊と同一視されることから、その妃の櫛稲田姫を母とするともいう』。『暦注においては歳徳神・金神と並び重要で、その年の十二支によって居を変え、その方角が吉凶を左右するとされた。基準となるのは太歳神で常にその年の十二支の方位に位置し、それに対応して他の七神は居を定める』とする。その豹尾(ひょうび)神は『計都星の神格』化したもので、『豹のように猛々しく、家畜を求めるに凶。大小便も凶』とする。図像はこれ)『の中心(中つ神)が豹尾神であることからという』(しかし、この図、豹を制圧するはずの蛇を摑んでるんですけど!)。『日本には生息していないが、虎とともに豹は浮世絵に多く描かれている。高島春雄は、当時は分類の知識がなく』、『豹を虎の雌と考えていたと説明している』とある。

 

 

 

「程」「失刺孫」原義は不明だが、孰れも「列子」辺りが発生元のようである。

 

「遼東」現在の遼寧省南部の遼東(リャオトン)半島。ここに棲息するとなれば、これはキタシナヒョウ Panthera pardus japonensis か、チョウセンヒョウ
Panthera pardus orientalis
となる。

 

「西南の諸山」Panthera
pardus delacouri
(中文名「印度支那豹」)であろう。

 

「艾〔(よもぎ)〕」これは「本草綱目」の記載であるから、この「艾」とは本邦のキク目キク科キク亜科ヨモギ属ヨモギ変種ヨモギ Artemisia indica var. maximowiczii とは異なる、ヨモギ属チョウセンヨモギ Artemisia argyi ではある。まあ、孰れもしかし、葉の形は似ているから問題はない。

 

『西域に「金線豹」有り』ペルシャヒョウ Panthera pardus ciscaucasica であろう。

 

『海中に「水豹〔すいへう)〕」』海豹(哺乳綱食肉(ネコ)目イヌ亜目鰭脚下目アザラシ科 Phocidae)のこと(誤伝)であろう。

 

「廣西の南〔の〕界〔(さかい)〕」「廣州」は現在の広東省広州市一帯であるから、その南部境界域はこの附近(グーグル・マップ・データ)。如何にも湿気が高そうな、有象無象の虫の出そうな一帯ではある。

 

「唼臘蟲(せいらうちゆう)」「和漢三才圖會卷第五十四 濕生類 𧌃臘蟲(しびとくらひむし)」で、私はかなり真剣に考証しているので、そちらの本文と注を参照されたい。

 

鼠〔(とびねずみ)〕」哺乳綱齧歯(ネズミ)目ネズミ上科トビネズミ科 Dipodidae のトビネズミ類。ウィキの「トビネズミ」によれば、体長四~二十六センチメートル。『北アフリカから東アジアにかけて、砂漠などの乾燥地帯に生息する。後ろ足が長く、二本足で立ち、カンガルーのように跳躍して移動する。一跳びで』三メートル『程度』、『跳躍できる』。『体長と同程度の長いヒゲをもつ。高く飛び上がったとき以外は、このヒゲが地面に触れており、障害物や食物の有無など地表の様子を触覚から探知している。夜行性であり、気温の高い昼間は地中に掘った巣穴の中で休み、涼しくなった夜間に外に出て、食物を摂る。主な食物は植物の若芽、根、種子などである。乾燥した環境に強く、ほとんど水分を摂らずに生活できる。体内の水分消費を最小限にするよう、尿は濃縮され、強い酸性を示す』とある。現在、トビネズミ科には十一属三十種がいる。それにしても、鼻行類みたような彼らを豹が畏れるとも思えない。それって「」ってこの漢字と「豹」の類感呪術じゃあねえのかな?

 

「獅〔(しし)〕」獅子

 

「駮〔(はく)〕」既出既注

 

「渠捜〔(きよそう)〕」既出であるが、不詳。中文サイトでは獣の名とはするものの、詳細を記さない。西域の国名ではあるが、それではない。

 

「淮南子〔(ゑなんじ)〕」(「え」は呉音)前漢の武帝の頃に淮南(わいなん)王劉安(紀元前一七九年~紀元前一二二年)が学者を集めて編纂させた思想書。

 

「蝟〔(はりねずみ)〕は虎をして畏れさせ、蛇は豹をして物を止ましむ。制する所、有るなり」前にも出てきたが、まあ、針の多いハリネズミ類をトラが好んでは食わないだろうし、猛毒を持つ蛇の場合に、咬まれるリスクを考えて敢えて襲わない学習はするだろうが、まんず恐らく、その本源は五行思想の相克説辺りで、実生態をあれこれ言ってみても始まらないと私は思う。

 

「廣志」東洋文庫版の書名注に、『二巻。晉』(二六五年~四二〇年)『の郭義恭撰』とある。

 

「神-驚(おどろ)かせしむ」訓読のしようがないので、かくした。東洋文庫訳は『ひどく驚かせる』とする。

 

「胎〔(はららご)〕」胎児。

 

「八珍」国立国会図書館の「レファレンス協同データベースの「埼玉県立久喜図書館事例(管理番号埼熊-2009-027の「概要」によれば、『「八珍」とは中国古来から称されてきた珍貴な食べ物のことで』あるが、『時代によりその内容は異なっている』として(表記不全が多数あるが、そのまま載せた)、

 

   《引用開始》

 

八珍についての最古の記述は周代の官制を記した「周(しゅ)礼(らい)」とされている。「周礼」の天官・膳夫の項に「およそ天子にささげる食事には、六穀を用い、肉料理には六牲を用い、飲みものには六清を用い、滋味のものには百二十品を用い、珍(美味)には八物を用う」とあり、注書にその八物として八珍が記されている。それによると周の時代における八珍とは、淳熬(じゅんごう)、淳母(じゅんぼ)、炮豚(ほうとん)、炮?(ほうしょう)、檮珍(とうちん)、漬(し)、熬(ごう)、肝?(かんりょう)の8種類の料理された珍味を指す。各料理の詳細については、『中国食文化事典』のほか『中国社会風俗史』に説明あり。

 

宋の時代には、「牛、羊、麋(となかい・おおしか)、鹿、麕(くじか・のろ)・豕(豚)、狗(いぬ)、狼」

 

の8種類の動物を指す。

 

元の時代には八珍自体が数種あると思われ、また、同じ名称のものでも何を指すかは参照する資料により諸説ありはっきりしないが、『中国食文化事典』『美食に関する11+人を喰った譚』などの解説を整理すると以下のとおり。

 

説その1

 

竜(りゅう)肝(かん)(①白い雄馬の肝、②蛇の肝、③瓜の一種の龍肝瓜)

 

鳳(ほう)髄(ずい)(①果子狸の骨髄、②きじの髄、③鳳凰の髄)

 

兎(と)胎(たい)(①うさぎの胎児、②豹のはらみ児)

 

鯉(り)尾(び)(①鯉の白子、②上半を冷布で包み、下半を熱油で揚げたもの、③鯉の尾)

 

猩(しょう)唇(しん)(猩のくちびる)

 

熊(ゆう)掌(しょう)(熊のてのひら)

 

鶚(ごう)炙(しゃ)(①みさご鳥の炙りもの、鴨で代用。②ふくろう)

 

酥酪(そらく)(乳製品でバター、チーズのようなもの)

 

説その2

 

醍醐(だいご)(①乳製品②純粋なバター、チーズ、またはよく澄んだ赤い色の酒)

 

■沆(きんこう)(①のろの子の喉、②くじか(小型の鹿の一種)ののど肉)

 

*「■」の字の「君」の部分は「且」と表記するものもあり。

 

*「沆」の字は「吭」と表記するものもあり

 

野駝(やらく)蹄(てい)(らくだの足)

 

駝乳麋(らくにゆうび)(①となかいの子、②らくだの乳から作ったバター、チーズ)

 

天鵝炙(てんがしゃ)(①白鳥、②鵞鳥の丸焼き)

 

紫玉漿(しぎょくしょう)(紫竹の王液(酒の一種))

 

玄玉漿(げんぎょくしょう)(葡萄酒、葡萄液)

 

鹿脣(かしん)(鹿の唇(舌))]

 

その後、清の時代には八珍は禽八珍、海八珍、山八珍、草八珍に細分され、近代では上八珍、中八珍、下八珍に分類されている。

 

   《引用終了》

 

(参考書の書誌はリンク先を参照されたい)以上の元代の「八珍」の第一説にある、「兎胎」の「豹のはらみ児」という解釈がこれに当たる。]

山の聲 國木田獨步

 

  山 の 聲

 

峰より峰に風わたり

  遠ざかりゆく其聲を

聞きすます間に水のをと

  溪より溪へひゞくなり

風聲遠く水近し

 

水野をとにもあらぬ聲

  風の聲にもあらざるは

月にうかれて山かつの

  妹がりゆきつ歸るさの

山路こえつゝうたふなり

 

あはれ其聲たえだえに

  風にまじりつ水をとに

えつきこけつ遠ざかり

  末は嵐となりにけり

風聲遠く月さむし

 

[やぶちゃん注:初出不明。二箇所の「をと」はママ。死後に出た二篇の詩集を見ると、孰れも「風聲」には「ふううせい」と振る。本篇を以って詞華集「抒情詩」の「獨步吟」パートは終わっている。]

風の音 國木田獨步

 

  風 の 音

 

ふと小夜更けてめさむれば

のきばをさわぐ風のをと

春や來りし、冬やゆきし

枯野の小屋の夢あはく

遠ざかりゆく風のをと

冬やのがれし春やきし

 

[やぶちゃん注:二箇所の「をと」はママ。作者の誤った書き癖である。初出は『國民之友』明治三〇(一八九七)年三月。初出では「のきばをさわぐ風のをと」が「のきばにさわぐ風のをと」となっている。]

戀の淸水 國木田獨步

 

  戀の淸水

 

戀の淸水をくむものは

  まごゝろくもてよかし

戀しき夢のさめぬ間に

  きよき現にうつりなん

 

天津眞淸水くみつゝも

  まごゝろ淺き乙女見よ

黑き血吐きて斃れたり

  いつしか夢もさめはてゝ

 

[やぶちゃん注:初出は『國民之友』明治三〇(一八九七)年三月。「」は底本では「強」であるが、「抒情詩」原典で変更した。初出は「まごゝろくもてよかし」が「眞情くもてよかし」であり(但し「眞情」で「まごころ」と読ませるつもりであろう)、四行目の「きよき現にうつりなん」(「現」は「うつつ」)が「聖き現にうつりなん」となっている。読みは同じだが、印象は微妙に異なる。なお、この截り拂ってしまったようなコーダは、一見、似たような他の詩篇のそれらに比しても、有意に奇体な印象を与えているように感じられる。

沖の小島 國木田獨步

 

  沖の小島

 

沖の小島に雲雀があがる

  雲雀すむなら畑がある

畑があるなら人がすむ

  人がすむなら戀がある

 

[やぶちゃん注:初出は『國民新聞』明治二八(一八九五)年八月十六日附で、標題は「獨步吟」で、無題。前の「山中」と併載された。初出は一部語句が異なり、感嘆符も用いられていて、かなり印象が異なるので、以下に示す。

 

  沖の小島

 

沖の小島に雲雀があがる!

  雲雀居るなら畑がある

畑があるなら人がすむ

  人がすむなら戀がある!

 

このままだったら、これ、かなりナウい!

山中 國木田獨步

 

  山  中

 

山路たどれば煙が見ゆる

  谷の小川に藁流る

何處の誰がおすみやるか

峰の松風さびしかろ

 

[やぶちゃん注:「山中」の読みは確定出来ないが、隠逸詩的「迷ひ家(が)」的雰囲気からは「さんちゆう」がよかろう。初出は『國民新聞』明治二八(一八九五)年八月十六日附で、標題は「獨步吟」で、無題。次の「沖の小島」と併載された。初出では「小川に藁流る」が「小川に藁がある」となっている。さても、このクレジットを見ればお判りの通り、これが本「獨步吟」詩群の中の最初の発表であった(無論、これ以前にも単発的に「頭巾二つ」「失戀兵士」等の詩篇は発表されており、それは底本の後の「拾遺」パートにある)。この翌日の同じ『國民新聞』に「獨步吟(二)」(先に公開した「夏の夜」に改題されて「抒情詩」の「獨步吟」に収載。因みに、言っておかねばならないことは、「抒情詩」の「獨步吟」内での詩篇の並びは編年ではない点である。お間違いなきように。そのためにも私は初出のクレジットを示しているのである)・「友に與ふ」(「獨步吟」には収録されなかった。底本の後の「拾遺」パートにある)・「獨步吟(三)」(同前)が発表されている。底本の中島健藏氏の解題によれば、これら、『『國民新聞』に出た七篇の署名は、いずれも「てつぷ」であった。彼が國木田哲夫の哲夫から、鐡斧、あるいは鐡斧生、そして「てつぷ」という假名を作つて用ひたのは、これが初めてでない』。しかしながら、『國木田獨步の「獨步」は、まだ署名には用ひられず、作品の題名の「獨步吟」がまづあらはれたわけである。詩の總題としての「獨步吟」がつづいて用ひられ、やがて「獨步吟客」といふ筆名が生れ、つひに「國木田獨步」となるのである』と述べておられる。即ち、詩篇に限って署名を辿って確認してみると、「抒情詩」刊行時点では、國木田獨步は國木田獨步ではなかったのであり、「獨步吟」とは「獨り步みて吟じたる詩篇」という一般名詞を総標題としての固有名詞化したに過ぎないものであることが判るのである。中島氏の記載を確認する限りでは、「獨步吟客」の署名は、後の詞華集「靑葉集」に改題されて所収される「久方の空」の初出、明治三〇(一八九七)年五月発行『國民之友』に発表した「高峰吟」から或いはその直前辺りから使用されたものと思われるのである。同年の八月十日発行の『文藝俱樂部』に彼は名品小説「源おぢ」(発表時は「源叔父」)を発表しているが、雑誌表紙及び目次には「國木田獨步」の署名で載るものの、本文には「獨步吟客」とすることからも、この時期を國木田獨步(当時満二十六歳)のペン・ネーム誕生時期としてよいと私は思う。

秋の月影 國木田獨步

 

  秋の月影

 

秋の月かげひとりでふめば

をのが影のみさきにたつ

ふりさけ見れば目に淚

露を拂へと風がふく

 

[やぶちゃん注:初出不明。]

獨坐 國木田獨步

 

  獨  坐

 

夜ふけて燈前獨り坐す

哀思悠々堪ゆべからず

眼底淚あり落つるにまかす

天外雲ありわれを招く

 

[やぶちゃん注:初出は『國民之友』明治三〇(一八九七)年二月。]

2019/03/09

山林に自由存す 國木田獨步

 

  山林に自由存す

 

山林に自由存す

われ此句を吟じて血の湧くを覺ゆ

嗚呼山林に自由存す

いかなればわれ山林を見すてし

 

あくがれて虛榮の途にのぼりしより

十年の月日塵のうちに過ぎぬ

ふりさけ見れば自由の里は

すでに雲山千里の外にある心地す

 

眥を決して天外を望めば

をちかたの高峰の朝日影

嗚呼山林に自由存す

われ此句を吟じて血の湧くを覺ゆ

 

なつかしきわが故鄕は何處ぞや

彼處にわれは山林の兒なりき

顧みれば千里江山

自由の鄕は雲底に沒せんとす

 

[やぶちゃん注:初出は『國民之友』明治三〇(一八九七)年二月。初出時の標題は「自由の鄕」(「鄕」は「さと」。本文の最終行と同じ)で、第三節(「嗚呼山林に自由存す」)がなかった(底本異同にはそう読めるように記してある)。國木田獨步の詩篇では最も知られた一篇であろう。ここまでの國木田獨步「獨步吟」十四篇、殆んどは今の読者から見れば、凡庸な抒情詩にしか見えないかも知れぬが(実際、調べて見てもネット上にはこれらは驚くべきことに殆んど電子化されていないのである)、しかし、これが近代詩の黎明期を支えた詩篇の有意な一角であったことは記憶しておく必要がある。

「途」は「みち」。

「雲山千里」は独歩の死後の大正二(一九一三)年に東雲堂書店から刊行された「独歩詩集」では、「うんざんせんり」とルビする。

「眥」は「まなじり」。

「をちかた」「彼方」「遠方」で「遠くの方・向こうの方・あちら」の意。

「雲底」は「うんてい」。]

今こそは 國木田獨步

 

  今こそは

 

行先は何處にもあれ

行末は如何にともあれ

すぎこしかたの夢もさめにけり

いまこそは此身ひとつ旅路なれ

 

漫々たる大海今より爾にまかす

八重の潮路の朝風よ

淺かりし契のなごりふき拂へ

今こそは此身一つの舟路なれ

 

いざ去らば富士の高峰もいざ去らば

八百八島今をかぎりの淚かな

たらちねのわが故鄕もいざ去らば

今こそは此身一つの舟路なれ

 

[やぶちゃん注:初出不明。「爾」は「なんぢ」、「高峰」は「たかね」、「八百八島」は「はつぴやくやしま」。]

聞くや戀人 國木田獨步

 

  聞くや戀人

 

聞くや戀人烏羽玉の

やみの枯野に聲すなり

狂へる人の叫ぶ聲

あらしにまじりてえに

君が名よびて行く聲を

 

[やぶちゃん注:底本では「え」の後半は踊り字「〱」であるが、これでは読みは「たえたえ」となってしまう。「〲」が私は正しいと思う。初出は『國民之友』明治三〇(一八九七)年二月。初出では「烏羽玉の」は「うばたまの」と平仮名表記。「烏羽玉の」については既注。]

森に入る 國木田獨步

 

  森に入る

 

遠山雪をわれのぞみ

  若き血しほぞわきにける

自由にこがれわれはしも

  深き森にぞ入りにける

 

あはれ乙女のこまねきて

  戀しき君よと呼びてければ

わかき心のうきたちて

  何時しか森をわれ出でぬ

 

森をば慕ふわれなれば

  都のちまたに生ひたちし

乙女がこゝろあきたらで

  戀が黃金に見かへしぬ

 

あはれはかなきわが戀よ

  若きこゝろもくだかれて

わかき血しほも氷りはて

  をぐらき森にわけ入りぬ

 

[やぶちゃん注:初出は『國民之友』明治三〇(一八九七)年二月。「抒情詩」原本では、第三連が右頁で終わり、左には山麓の森の挿絵が描かれている(作者は和田英作)。国文学研究資料館の「近代書誌・近代画像データベース」の「抒情詩」(高知市民図書館近森文庫所蔵)の当該頁画像で示しておく。]

戀のきはみ 國木田獨步

 

  戀のきはみ

 

戀しき君よみそなはせ

  苔むす古き此墓を

われらが若き戀の身も

  悲しき今の此戀も

はかなくきゆる其時の

  時の羽風ぞ身にはしむ

あはれ悲しき此こゝろ

  戀のきはみの淚かな

 

戀しき君よ此淚

  風にもにたる君が目に

露より淸く浮ぶ時

  限りなき空仰ぎつゝ

われは見るなりとことはに

  君ともろとも住む國を

あはれうれしき此こゝろ

  戀のきはみの望なれ

 

[やぶちゃん注:初出不明。「羽風」は「はかぜ」。]

君ゆゑに 國木田獨步

 

  君ゆゑに

 

烏羽玉のやみの命と泣きつるに

君ゆゑに春の月夜となりにけり

  うつらうつらと戀ゆゑに

  樂しき夢をむすびつゝ

 

  樂しき夢のさめぬ間に

  わかき血しほのかれぬ間に

とことはの國に入らましあはれ君

 

[やぶちゃん注:初出不明。「烏羽玉の」「ぬばたまの」は「闇」・「黒」・「夜」・「夢」などに掛かる枕詞。「うばたまの」「むばたまの」とも言い、「射干玉」「烏羽玉」「野干玉」「夜干玉」などとも漢字表記する。「うばたま」はヒオウギ単子葉植物綱キジカクシ目アヤメ科アヤメ属ヒオウギ(檜扇)Iris domestica の種子が黒いことに由来する。なお、「ぬばたまの」の読みで確定した理由は、後に出る「聞くや戀人」の中の「烏羽玉の」が、初出では「ぬばたまの」となっていることを根拠とした。]

門邊の兒供 國木田獨步

 

  門邊の兒供

 

街の塵にまみれつゝ

  浮世の風に吹かれつゝ

門邊に遊ぶ子供等の

  よろこぶ樣を見る每に

 

あはれ子供よなれも亦

  住みて悲しきあさましさ

此世に生れをひたちて

  淚の谷へいそぐなる

 

げに哀れぞと思ひやり

  空ゆく雲をながめては

雲のゆくへのきはみなき

  深き思に沈むなり

 

[やぶちゃん注:初出不明。「門邊の兒供」は「かどべのこども」。「門邊」はシチュエーションから門のある家とは思われないから、貧しい民家の家の前の謂いと採る。]

春來り冬ゆく 國木田獨步

 

  春來り冬ゆく

 

のぼる朝日を迎へては

  春よ春とと叫ぶをば

梢の鳥も同じこゝろに聞きとりて

  ねをふりたてゝ囀りぬ

囀る聲をきゝてはわれも

  春よ春よとまたよびぬ

沈む夕日を見送りて

  冬よ冬よと叫ぶ時

寺の鐘のをとも憐れに鳴りひゞき

  冬の心を弔ひぬ

きえゆく鐘をきゝてはわれも

  冬よ冬よとまたよびぬ

 

[やぶちゃん注:「をとも憐れに」の「をと」はママ。初出(『國民之友』明治三〇(一八九七)年二月)は「音も」。「遠寺の鐘の」の「遠寺」は「ゑんじ」と読み、文字通り、遠くにある寺。「太平記」には既に用例があえい、中国の名勝名数である「瀟湘(しょうしょう)八景の」一つ「煙寺晩鐘」を踏まえた用例が多く、「煙寺」とも書く。]

友なき里 國木田獨步

 

  友なき里

 

今日一日も暮にけり

友なき里にさびしくも

入合告ぐる鐘のねに

今日も一日暮にけり

明日もさびしく暮すらん

友なき里にさびしくも

 

[やぶちゃん注:初出は『國民之友』明治三〇(一八九七)年三月。「抒情詩」では三行目が「入合告ぐ鐘のねに」。脱字。カラ画像鮮明国文学研究資料館の「近代書誌・近代画像データベースの「抒情詩」(高知市民図書館近森文庫所蔵画像で示しておく。]

枯野の友 國木田獨步

 

  枯野の友

 

枯野のなかの此ひとつ家

家のうしろのひとつ松

わが友とては此松のみ

 

枯野のなかの一もと松

をとづるものは風ばかり

友とし言へば此われのみ

 

[やぶちゃん注:「をとづる」はママ。初出は『國民之友』明治三〇(一八九七)年一月。初出では第二連二行目は「をとづるものは風の音」。]

濱づたひ 國木田獨步

 

  濱づたひ

 

夕日まばゆき砂山こえて

  われ心無く濱づたひ

沖の白帆や眞帆白帆

  浮世の波を知らずがほ

 

[やぶちゃん注:初出不詳。「抒情詩」本文では一行目は「夕日まばゆき砂山こえて」であるが、原書には巻末に「正誤表」があり、そこで以上のように訂されてある。カラー画像で鮮明な国文学研究資料館の「近代書誌・近代画像データベース」の「抒情詩」(高知市民図書館近森文庫所蔵)の当該画像で示しておく。]

夏の夜 國木田獨步

 

    

 

夏の夜はれて星みつ空

  さびしき野邊をひとりたどる

仰げば高しいよゝ高し

  嗚呼わが心天をゆびさす

 

[やぶちゃん注:初出は『國民新聞』明治二八(一八九五)年八月三十一日附で、「獨步吟二」とし、無題。初出では最終行は「あゝわが心ぞ天を指す」である。]

カテゴリ「国木田独歩」創始/詩歌群正規表現版始動 「獨步吟」の「序」及び「驚異」

カテゴリ「国木田独歩」を創始し、まず、國木田獨步の詩歌群の正規表現版の電子化を行う。私は既に偏愛する彼の、

武藏野(やぶちゃん校訂版) 縦書版

忘れえぬ人々(単行本「武藏野」版)縦書版

忘れえぬ人々(筑摩書房「現代日本文學大系」版)(読み排除版+読み附き版)

號外

の三篇七種の電子化をサイトの「心朽窩旧館」で遠い昔に行っている。

 底本は、所持する(私が教師になった当時に買ったもので、一括揃五万二千円であった)、個人全集では稀有の名品と感じている学研の「國木田獨步全集」增訂版(全十卷+別卷)を用いる(本全集は解説を含めて全篇が徹底した正字正仮名表記である)。詩篇パートは同全集第一卷昭和五三(一九七八)年刊である。國木田獨步は独立した狭義の単独の自作詩集を持たない(例えば、以下に示す「獨步吟」は「抒情詩」(明治三〇(一八九七)年四月民友社刊の宮崎湖處子編になる、國木田哲夫(獨步)・松岡國男(柳田國男)・田山花袋・太田玉茗・矢崎嵯峨の舎(嵯峨の屋おむろ)・宮崎湖處子六人による詞華集(アンソロジー))に載る國木田獨步のパートである。現物は国立国会図書館デジタルコレクションのこちらの画像で総て視認出来る)。従って、底本の詩篇パート(底本では『詩』)を完全に一括して電子化すれば、それは底本の編者の編集権を侵すことになる。しかし、底本は國木田獨步の詩篇(但し、「欺かざるの記」や書簡等に含まれるそれは省かれてある)をそれが収録された詞華集の発行順に編年体(但し、実際にはその中では編年順でなく、錯雑している(それぞれに私が附した初出のクレジットを参照されたい)。個別詩篇自体の編年体構成ではない)で並べ、それに漏れているものを「拾遺」と「遺稿」で纏めたものであるので、〈その順に、一篇ずつ、ブログで分割して電子化を行って紹介すること〉は、編集権に抵触しないし(現在、日本で認められ得る編集権があるとしたら、そういうものである。編集権は編集されたソリッドな全体にしか及ばないというのが現行の著作権の編集権に対する一般的理解通念である。文化庁に問い合わせして戴いてもそう答えるはずである)、さらに言えば、私は必ずしも底本の表記に満足していないので、原典を見ることが可能なものの場合は、それで訂した箇所もある(例えば、以下の「序」の「記臆」)それにオリジナルに書誌情報や初出異同(但し、有意に異なる場合のみしか示さない)その他の注を個別に附すので、最早、編集権侵害など問題にならない。そうした仕儀と認識で以下を開始するものである。

 踊り字「〱」「〲」は正字化した。私は詩はゴシックが似合わないと思う人種であるので、ここでは基本、明朝を用いた。【2019年3月9日始動 藪野直史】]

 

   獨 步 吟

 

 余も亦歐詩を羨みし者の一人なり。明治の世に人となり、例へばバイロンを讀み、テニソンを讀み、シルレルを讀める者にして、其情想、衷に激すれども、これを詠出するに自在の詩體吾國に無きを憾む者世間必ず其人多かるべしと信ず、余も亦た其一人なりき。

[やぶちゃん注:「衷」は「うち」。]

 新日本の建立さるゝに當りて全く缺乏せる者は詩歌なりとす。開國以來海外の新思想は潮の如く侵入し來り、吾國文明の性質著しく變化を被りしと雖も、遂に一詩歌現はれて此際の情想を詠じ以て、吾人の記臆に存せしめたる者なし。自由の議起り、憲法制定となり、議會開設となり、其間志士苦難の狀況は却て詩歌其者の如くなりしと雖も而も一編の詩現はれて當時火の如かりし自由の理想を詠出し、永く民心の琴線に觸れしめたる者あらず。「自由」は歐洲に在りて詩人の熱血なりき。日本に移植されては唯だ劇場に於ける壯士演となりし得しのみ。斯くて自由黨は其血を枯らし、其心を失ひ、今や議會に在りてすら淸歌高明なる自由の理想は見る能はずなりたり。

[やぶちゃん注:「缺乏せる者」は「抒情詩」原本では「缺乏しる者」。

「記臆」は底本では「記憶」とするが、誤りではないので原典に従った。]

 基督教を始め、歐洲の人心を鼓舞激勵しつゝある雄大の理想、早く已に吾國に入り來りて而も日本には、これが熱情を享け得る程の詩歌を缺きしため我國の新文明は物質的偏長の弊に陷り、世を擧げて唯物主義の淺薄固陋に走り、宗教は卑下せられ、徒に電氣燈のみ輝きて國民靈性の神殿は暗夜の如し。日本に詩歌の發達せる形式なかりしは新日本の文明を跛足ならしめし大源因の一なりと余は信ず。

[やぶちゃん注:「跛足」「はそく」と読んでおく。「ちんば」「びつこ(びっこ)」が一般の読みであるが、本文の格調からは音読みとしたい。但し、現在では差別用語である。]

 斯る時、井上外山兩博士等の主唱編輯にかゝはる「新體詩抄」出づ。嘲笑は四方より起りき。而も此覺束なき小册子は草間をくゞりて流るる水の如く、何時の間にか山村の校舍にまで普及し、『われは官軍わが敵は』てふ沒趣味の軍歌すら到る處の小學校生徒をして足並み揃へて高唱せしめき。又た其のグレーの「チヤルチヤード」の飜譯の如きは日本に珍らしき淸爽高潔なる情想を以てして幾多の少年に吹き込みたり。斯くて文界の長老等が思ひもかけぬ感化を此小册子が全國の少年に及ぼしたる事は、當時一少年なりし世の如き者ならでは知り難き現象なりとす。夫れ斯の如くなりしと雖も爾來文學界は新體詩なる者を決して歡迎せざりき。こは皆な世人の知る處。文界今尚ほ新體詩を眼中に入れざる輩少からざるを以て知るべし。

[やぶちゃん注:「グレー」トマス・グレイ(Thomas Gray 一七一六年~一七七一年)はイギリスの詩人で古典学者。ケンブリッジ大学教授。ロマン主義の先駆者。

「チヤルチヤード」グレイの詩“Elegy Written in a Country Churchyard”(田舎の教会墓地にて書かれたエレジー(哀歌):一七五一年発表)は近代詩の嚆矢とされる詩集「新體詩抄」(明治一五(一八八二)年刊)に尚今居士名義(東京大学理学部教授で植物学者矢田部良吉のペン・ネーム)の「グレー氏墳上感懷の詩」として訳出された。J-TEXTのこちらに「新体詩抄」は全電子化されてある(但し、漢字は新字)。同詩は『山々かすみいりあひの 鐘ハなりつゝ野の牛ハ』『徐に步み歸り行く 耕へす人もうちつかれ』『やうやく去りて余ひとり たそがれ時に殘りけり』『四方を望めバ夕暮の 景色ハいとゞ物寂し』『唯この時に聞ゆるハ 飛ぴ來る蟲の羽の音』『遠き牧場のねやにつく 羊の鈴の鳴る響』(以上第一連(六行)。電子化には国立国会図書館デジタルコレクションの「初編」のこちらJ-TEXTのそれを校合した。なお、「耕へす人」は「たがへす(たがえす)人」で、「耕へす」は「耕やす」の古語である)で始まる長詩で、多分に退屈で詩的レベルの低い「新體詩抄」の中では、訳詩でもあるため、非常な好評を得、明治文学に大きな影響を及ぼした。原詩と現代語訳はgtgsh氏の「英語の詩を日本語で English Poetry in Japaneseの「Gray, "Elegy Written in a Country Churchyard"(閲覧日・本日)がよい。]

 されど時は來れり。西南の亂を寢物語に聞きし小兒も今は堂々たる丈夫となり、其衣兜の右にミルトンあり、左に杜甫あり、懷に西行を入れて、秋高き日、父が上下着て登城したる封建の城、今は蔦葛繁れる廢墟の間を徘徊する又た珍しからぬ事となりぬ。而して冷評されつゝも今日まで雜誌類に現はれし新體詩は何時しか世人の眼に慣れて其新詩形も最早奇異ならぬ者となりぬ。

[やぶちゃん注:「衣兜」「かくし」。衣嚢(いのう)。ポケット。]

 斯くて時は來れり。新體詩は兔にも角にも新日本の靑年輩が其燃ゆる如き情態を洩らすに唯一の詩體として用ゐらる可き時は徐ろに熟したり。乃ち「靑年文」てふ雜誌に新體詩の特に盛んなるは敢えて不思議の事にもあらず。

[やぶちゃん注:「敢えて」はママ。原典も同じ(国立国会図書館デジタルコレクションの画像の当該ページ)。]

 是に於てか余は新體詩が今後我國の文學に及ぼす結果の豫想外に強大なるべきを信ず。日本の精神的文明の上に著しき影響を與ふるものは今後必ず此詩體なるべきを信ず。此詩體今だ甚だ幼稚なりと雖も新日本はこれに由りて始めて其詩歌を得べくなりぬ。其結果は如何。遺傳に於て吾等は天保老人の血を體中に流し、東洋的情想を胸底に燃やす。學文に於て吾等は歐洲の洗禮を受けたり。吾等が小さき胸には東西の情想、遺傳と教育とに由りて激しく戰ひつゝあり。朝虹を望んではヲーズヲースを高吟すれども、暮鐘を聞ては西行を哀唱す。神を仰ぎて幽愁に沈む。今や吾等は新體詩を得ていさゝか此鬱憤をのぶるに足りつゝあり。吾等をして縱橫に歌はしめよ、斯くて其結果は如何。

 あはれ此混沌たる時代と、此煩悶せる靑年輩と、此新生の詩體とは相關係して何等の果をも結ばず止むべきか。

 されど此等、凡て年若き者の果敢なき夢想なりとせんか、或は然らん。而も余の如きものゝ胸には此新體詩の上にかゝる夢想を描き又た描きつゝある事實を如何せん。誰れか此夢想の他日、日本の文明史上に大なる現實となる可きを否定し得るものぞ。

[やぶちゃん注:「果敢なき」「はかなき」。]

 顧て余は新體詩の主唱者及び今日まで冷評されつゝも耐え忍びて此詩體を愛育したる諸君に向て感謝の意を表する者なり。

 余は詩作の上に於て極めて後進なるが故に今日までに成就したる作とても甚だ少く、甚だ少き中より撰びて茲に揭げ得しは僅かに廿編餘に過ぎざるを遺憾とす、而も唱するに足るものなきを愧づ、たゞ是を以て新體詩その者を罪するなくんば幸なり。

 詩體につきては余は甚だ自由なるを有す。七五、五七の調も可。漢詩直譯體も可。俗歌體も可。漢語を用ゆるの範圍は廣きを主張す。枕詞を用ゆる、場合に由りて大に可。たゞ人をして歌はざるを得ざる情熱に驅られて歌はしめよ。此の如くなれば、其外形は散文らしく見ゆるも、瞑々の中必ず節あり、調あり、詠嘆ありて自から詩的發言を成し、而も七五の平板調の及び難き遒勁を得。余は此確信によりて『山林に自由存す』を歌ひぬ。

[やぶちゃん注:「遒勁」「しうけい(しゅうけい)」。書画・文章などの筆勢が力強いこと。]

 吾國には漢詩を直譯的に朗吟する習慣あり。七五、五七の流麗なる調の外、自から吾人の口頭に一種の調を成し居れり。余は此習慣を新體詩の上に利用し發達せしめんことを希望するもの也。此意を以て余は『獨坐』を作りぬ。

 新體詩を以て敍事詩を作ることは必ず失敗すべきを信ず。此に付きては坪内君已に言へり。故に初より覺悟して敍情詩の上にのみ十分の發達を遂げしむるに若かずと信ず。されど彼の敍事的敍情詩の如きは尤も新體詩に適するものゝ如し。太田君の「宇之が舟」は嚴然として泣かしむ。たゞ余は七五調のみを以て此等の長編を行る事の或は平板に流れ易きを恐る。此故に井上博士の「比沼山」を成功覺束なきものと余は思ふ。

[やぶちゃん注:「坪内君」坪内逍遙。

「太田君」「抒情詩」の共著者である詩人で小説家の太田玉茗(ぎょくめい 明治四(一八七一)年~昭和二(一九二七)年)。

「宇之が舟」「抒情詩」に太田が載せている(国立国会図書館デジタルコレクションの当該詩篇の冒頭)。『見わたす限り秋の野は、』『千ぐさの花となりにけり、』『其の野のすゑに一すじの』(「すじ」はママ)『淸きながれぞながれたる。』(第一連。字配は再現していない)『淸きながるる其川に、』『蓮の葉ぶねをうかべつゝ、』『まつりし靈を里人の』『おくる夕べとなりにけり。』(第二連)で始まる、幼くして急死した「宇之」という子の魂を老媼と子供らが蓮の葉の精霊舟を流して見送るという全十八連から成る物語詩。太田の代表作とされる。「宇之」の読みは如何なる記載を見てもルビが振られていない。詩の中間部に出、その韻律から二音であることは間違いない。ルビが振られないということは「うし」と読むばかりだが、名前としては「うの」の方がいいような気がする。識者の御教授を乞うものである。

「行る」「やる」。

「井上博士」「新體詩抄」の著者の一人である東京大学助教授(同詩集刊行当時)で哲学者の井上哲次郎。

「比沼山」井上が明治二九(一八九六)年九月発行の『太陽』に発表した「比沼山の歌。原詩を確認出来ないので内容も不明が、『太陽』総目録で見ると、八ページに亙っているので長詩であることは判る。]

 戀するものをして自由に歌はしめよ。歌ふて始めて爾の戀は高品のものとならん。悲戀の士よ。歌へよ。爾の歌こそ尤も悲しかるべし。神を仰ぐものよ、歌へよ。爾の信仰火の如くんば、何んぞ默して坐し、坐して散文をならぶることを得ん。疑ふものよ。爾の懷疑の煩悶を歌へよ。冷やかに眠る勿れ。貧者よ、爾の詩を以て爾の不平をもらせ。自由に焦るゝ者よ、高歌して憚る勿れ。代議士よ爾の演に於ける引證を統計年鑑より採る事をのみ苦心するなく、時には詩歌を用ゐて爾の語らんとする眞理を飾れ。

 嗚呼詩歌なき國民は必ず窒塞す。其血は腐り其淚は濁らん。歌へよ、吾國民。新體詩は爾のものとなれり。今や余は必ずしも歐詩を羨まず。

[やぶちゃん注:「窒塞」「ちつそく」。窒息に同じい。]

 

 明治三十年二月   著 者

 

[やぶちゃん注:以上は底本をもとにしつつ、詩」原本をも字配等で参考にした(例えば、最後の「著者」は底本にはない)。]

 

 

 

  驚  異

 

ゆめと見る見るはかなくも

  なほ驚かぬこのこころ

吹けや北風此ゆめを

  うてやいかづち此こころ

 

おのゝき立ちてあめつちの

  くすしき樣をそのまゝに

驚きさめて見む時よ

  其時あれともがくなり

 

[やぶちゃん注:「見る見る」の後半は底本では踊り字「〱」である。初出は『國民之友』明治三〇(一八九七)年二月。冒頭の二行は、明らかに、「序」でも言及している西行の「山家集」の「中 雜」に載る、

 世中(よのなか)を夢と見る見るはかなくも猶(なほ)おどろかぬわがこゝろ哉(かな)

の借用である。

「くすしき」「奇(くす)しき」で「不思議な・霊妙な」の意。]

2019/03/08

大和本草卷之十三 魚之上 ウグヒ (ウグイ)

 

【和品】

ウグヒ 俗ニ鯎ノ字ヲ用ユ出處シレス漢名未詳琵琶

 湖諏訪湖筥根湖等ニ多シ三四月湖水ヨリ河流ニ

 上ルヲ漁人多クトル色赤シ諏訪ニテハ赤魚ト云長五

 六寸ニ不過味不美ナマクサシ河魚ノ最下品ナリ或曰

 本草所載石鮅魚ナルヘシト云其長一寸作鮓甚美ナリ

 ト云ハウクヒニ非ス

 

○やぶちゃんの書き下し文

【和品】

ウグヒ 俗に「鯎」の字を用ゆ。出處〔(しゆつしよ)〕しれず、漢名、未だ詳らかならず。琵琶湖・諏訪(すは)の湖・筥根〔(はこね)の〕湖等に多し。三、四月、湖水より河流〔(かはながれ)〕に上ぼるを、漁人、多く、とる。色、赤し。諏訪にては「赤魚〔(あかうを)〕」と云ふ。長さ五、六寸に過ぎず、味、美〔(よ)から〕ず、なまくぐさし。河魚の最下品なり。或いは曰〔ふ〕、『「本草」載する所の「石鮅魚」なるべしと云ふ。其の長さ、一寸、鮓(すし)と作〔(な)〕す。甚だ美なり』と云ふは、ウグヒに非ず。

[やぶちゃん注:条鰭綱骨鰾上目コイ目コイ科ウグイ亜科ウグイ属ウグイ Tribolodon hakonensis本邦での漢字表記では「鯎」「石斑魚」。既に何度も述べているが、各地に於いて、複数の種の川魚を含めた総称「ハヤ」(「鮠」「鯈」)の一種で、本種を「ウグイ」よりも「ハヤ」で呼ばれることが有意に多い地方も存在する(後の引用を参照)。しかし、「ハヤ」は本邦産のコイ科(条鰭綱骨鰾上目コイ目コイ科 Cyprinida)の淡水魚の中でも、中型で細長い体型を持つ種群の総称通称で、釣り用語や各地での方言呼称に見られ、「ハエ」「ハヨ」などとも呼ばれる。呼称は動きが速いことに由来するともされ、主な種としては、本種のほかに、

ウグイ亜科アブラハヤ属アムールミノー亜種アブラハヤ Rhynchocypris logowskii steindachneri

アブラハヤ属チャイニーズミノー亜種タカハヤ Rhynchocypris oxycephalus jouyi

コイ科 Oxygastrinae 亜科ハス属オイカワ Opsariichthys platypus

コイ科 Oxygastrinae亜科カワムツ属ヌマムツ Nipponocypris sieboldii

カワムツ属カワムツ Nipponocypris temminckii

などが「ハヤ」に入り、さらに本種ウグイには近縁種に、

エゾウグイ Tribolodon ezoe(北海道などの河川・湖沼に棲息)

ウケクチウグイ Tribolodon nakamurai(絶滅危惧種で長野県・新潟県の信濃川水系の河川などに棲息)

マルタウグイ Tribolodon brandti(汽水域や内湾・沿岸域に棲息。産卵のために河川を遡上する遡河回遊魚で、ウグイとマルタウグイとは交雑し易い)

がおり、これらもウグイ及び「ハヤ」に含まれる。以下、ウィキの「ウグイ」を引く。『多くの地方でオイカワやカワムツなどと一括りに「ハヤ」と呼ばれる。また、関東地方をはじめ本種を指す呼び名としての「ハヤ」の普及は標準和名を凌ぐ地域もある』。『この他、分布の広さから数多くの地方名があり、アイソ、アカハラ、クキ、タロ、ニガッパヤ、イダ』、『ヒヤレ』、『デイス、イス』、『イダ』『など各地の独特な名前が付けられている』。なお、本邦では本種を「石斑魚」と漢字表記するが、香港では「石斑魚」(広東語)は海水魚の条鰭綱スズキ目スズキ亜目ハタ科ハタ亜科 Epinephelinae のハタ類(マハタ Epinephelus septemfasciatusなど)を指し、また、益軒は「漢名、未だ詳らかならず」と言っているが、中国語で本種「ウグイ」は「三塊魚」或いは「珠星三塊魚」と漢名表記するので要注意である。また、益軒がぐちゃぐちゃ言って異物とする「石鮅魚」(この物言いは実は「石鮅魚」という時珍の記載を益軒の知人が「石斑魚」と見誤った可能性が濃厚)は後注でも示すが、「ハヤ」としての仲間である、コイ科Oxygastrinae 亜科ハス属オイカワ Opsariichthys platypus で、確かに「ウグイ」ではない話をウグイに戻す。ウグイは『成魚の体長は最大』五十センチメートル『に達するが、多数を占めるのは』三十センチメートル『前後の個体。側面型は流水性コイ科淡水魚に共通する流線型を示す』。『体色は全体にこげ茶色を帯びた銀色で、体側に』一『本の黒い横帯が走る。腹部は繁殖期以外には銀白色である。各鰭、特に腹鰭、尻鰭、及び尾鰭後端部は黄色味を帯びる。春』(三月上旬から五月中旬)『になると』、『雌雄ともに鮮やか』三『本の朱色の条線を持つ独特の婚姻色へ変化する。婚姻色の朱色の条線より』、『「アカウオ」』『や「サクラウグイ」と呼ばれることもある』。『沖縄地方を除く日本全国に分布。淡水』性『で、河川の上流域から下流域に幅広く生息する。群れを組んで泳ぎ回るので、橋の上などから魚影を確認することができる。食性は雑食。水生昆虫、ミミズ、水に落ちた昆虫、水底のコケ、小さな魚、魚の卵、甲殻類、残飯など何でも捕食する』。『繁殖期の春には、川の浅瀬で比較的流れの緩やかな直径』二~五センチメートル『の礫質の場所を選び、春から初夏にかけて集団で産卵をおこなう』。『全国の河川でもっとも普通に見られた魚であ』る。『幅広い水域で見られる魚ではあるが、特筆すべきはpH 4以下の強酸性でも生きられる点であり』、『強酸性のためクニマス』(条鰭綱サケ目サケ科サケ亜科タイヘイヨウサケ属ベニザケ亜種クニマス Onchorhynchus nerka kawamurae:西湖に棲息)『が絶滅した田沢湖や恐山の宇曽利湖』『や屈斜路湖、猪苗代湖等でも生息している。また、水質汚染が激しい水域でも割合生息が可能である』。『一生を河川で過ごす淡水型と』、『一旦』、『海に出る降海型がいる。降海型は北へ行くほど』、『その比率が増す』。『産卵行動は、水温が』摂氏十一~十三度『に上昇する時期に始まり、直径』二ミリメートル『程度で粘着性のある淡黄色の卵を、流速』毎秒十センチメートル『以下の緩流部で』、『藻の付着していない小石に産み付ける。卵は、水温』摂氏十三度『程度で約』一~三週間かけて『孵化する。孵化から』一『年目に約』五センチメートル、二年目で十~十五センチメートル『程度に成長し』、二~四『年目で繁殖活動を行う』。『雑食性である』ため、『生息域内の別な魚種の卵や稚魚を捕食する。この性質を利用し』、本邦で最も分布を広げてしまっている特定外来生物『ブルーギル』(スズキ目サンフィッシュ科ブルーギル属ブルーギル Lepomis macrochirus)『の増殖抑制に有効である可能性が示されている』。『酸性下では、エラの塩類細胞の形が変わり、且つ』、『数が増えている。通常、塩類細胞は一個ずつバラバラに上皮に存在しているが、宇曽利湖(恐山湖)のウグイでは多数の塩類細胞が濾胞を形成している。これにより体液のpH調整を行っている』。『具体的には、Na+/H+交換輸送体(NEH3)という』八百二十七『個アミノ酸基からなる分子の働きにより、Na+を取り込み、交換にH+を排出している。また、カーボニックアンヒドラーゼ (carbonic anhydrase, CA) 酵素の働きにより』、『細胞内に生じた炭酸水素イオン(HCO3−)を中和に利用している。更に、窒素代謝により生じたアンモニアも中和に利用している。通常の代謝系では、アンモニアは尿素回路で尿素に変換され排出される』とある。私は嘗て庄川の近くの川魚料理屋で父母と食べた初春の「桜うぐい」の塩焼きの美味さが忘れられない。益軒先生、「桜うぐい」は絶品で御座るよ。

「三、四月、湖水より河流〔(かはながれ)〕に上ぼる」湖水に流れ入る、河川をさらに遡上するという意であるが、別に下りもするわけで、この謂いには問題がある。

『「本草」載する所の「石鮅魚」なるべしと云ふ。其の長さ、一寸、鮓(すし)と作〔(な)〕す。甚だ美なり』と云ふは、ウグヒに非ず』先に述べた通り、明の李時珍が「本草綱目」で言っている、「石鮅魚」はウグイではなく、コイ科ダニオ亜科オイカワZacco platypus である。しかも、現代中国語に於いてもズバリ、同種オイカワを指している稀有なケースである。これは私の和漢三才圖會 卷第四十八 魚類 河湖有鱗魚「石鮅魚(をいかは)」の項目名で、本「大和本草」(宝永七(一七〇九)年刊)の三年後に、寺島良安が正確に同定している(「和漢三才図会」の成立は正徳二(一七一二)年)。その「石鮅魚(をいかは)」で良安は、

   *

「本綱」に『石鮅魚〔(せきひつぎよ)〕は、南方、溪-澗(たにがは)の中に生ず。長さ一寸、背裏・腹下、赤く、以て鮓〔(なます)〕と作〔(な)〕して甚だ美なり。其の肉【甘、平。小毒有り。】。』と。

按ずるに、「石鮅魚」の右に謂ふ所の「長さ一寸」の一の字は、當に「數」の字に作るべし。「背裏」の「裏」の字も亦、當に「黑」に作るべし。恐らくは傳寫の誤か。蓋し、「鮅〔(ひつ)〕」は「鱒」の一名なり。此の魚、岩石の急流に、之れ、有り。狀〔(かたち)〕、鮅〔(ます)〕に似て小さく【故に「石鮅」と名づく。】、背、黑にして、微〔(わづ)〕かに斑〔(まだら)〕有り。腹の下、赤斑〔(あかまだら)〕なり。大いさ、四、五寸、夏月、鰷〔(あゆ)〕と同時に出づ。之れを取りて鮓と爲す。味、やや劣れり。洛の大井川に多く、之れ、有り。京俗、呼びて「乎井加波〔(をゐかは)〕」と曰ふ【大井川の畧言。】攝〔=摂津〕・河〔=河内〕の俗に「赤毛止〔(あかもと)〕」と稱す【赤斑の假名の下の畧。相ひ通ずるを以て之を名づく。[やぶちゃん注:この割注、意味不明。]】。「夜砂地〔(やしやち)〕」【名義、未だ詳らかならず。】〔とも稱す〕。

   *

と言って、「本草綱目」の誤字指摘までしているのは凄かろう。さて、因みに「和漢三才図会」では、その次の項が「鯎(うぐひ)」という、絶妙な配置となっている。言わずもがな、「石鮅魚」を「石斑魚」と読み間違え、それを誰かがウグイに勝手に仕立て上げたに過ぎないのである。犯人探しはどうでもいいが、真相を僅か三年後に正して明記した寺島良安の名だけは永く知られてよい。また、一言言い添えておくと、現行、「石鮅魚」は大型深海魚である海水魚のムツ(スズキ目スズキ亜目ムツ科ムツ属ムツ Scombrops boops)の異名でもあるので、注意されたい。

柳田國男 山島民譚集 原文・訓読・附オリジナル注「河童駒引」(28) 「馬櫪神ト馬步神」(2)

 

《原文》

 サテ何故ニ猿ヲ厩ニ繋ゲバ馬ノ爲ニ善カリシカ。【猿ハ馬飼】肥後ノ阿蘇ニテハ馬ハ元來猿ノ飼フべキモノナリト云フ。人間ハ猿ニ學ビテ始メテ馬ヲ牽クコトヲ知レリ。其故ニ今モ馬屋ハ申ノ方ニ向ケテ建テ、百姓ハ決シテ猿ヲ殺スコト無シ。野飼ノ駒ニ猿ガ耳ヲ摑ミテ乘レルヲ見タル人少ナカラズトナリ〔鄕土硏究一卷二號〕。他ノ地方ニモ此類ノ口碑存スルヤ否ヤ未ダ之ヲ詳カニセズ。古ク輸入シタル支那書ノ記事ニモ、或ハ猢猻瘟疫ノ氣ヲ去ルト云ヒ〔補註相驥經六所引畜養本草〕、獼猴ノ皮ハ馬ノ疫氣ヲ掌ルト稱シ〔同上證類本草〕、能ク惡ヲ避ケ疥癬ヲ去ルト云ヒ〔同上虎幹經〕、又ハ常ニ獼猴ヲ馬坊ニ繋ゲバ惡ヲ辟ケ百病ヲ消スナドトモアリテ〔同上圖像馬經及爾雅翼〕、其理由トスル所區々ニシテ且ツ曖昧ナレド、結局其效用ハ災ヲ免カルト云フ、消極的ノモノナルコトニ一致セリ。【馬醫】古クハ東晉ノ大將軍趙固ナル者アリ。馬醫中ノ扁鵲トモ言フべキ道士郭撲[やぶちゃん注:ママ。]ノ力ニ由リテ、愛馬ノ危キ命ヲ取リ留メタリ。此馬ハ不思議ノ病ニ罹リテ俄カニ狂ヒ死セシヲ、人ガ三十人長キ桿ヲ持チテ三十里東ノ方ノ森林ニ入リ、其桿ヲ以テ森ノ樹ヲ叩ケバ猿ニ似タル一疋ノ獸現ハレ出ヅ。其獸ヲ連レ來リテ死馬ノ前ニ置ケバ、鼻ヲ馬ノ軀(ムクロ)ニ當テヽ息ヲ吸ヒ、馬ハ忽チニシテ蘇生スト云ヘリ〔獨異志〕。郭撲ノ時代ハ卽チ「パンチヤタントラ」ガ印度ニ於テ編述セラレ、又菩薩本行經ガ支那ニ於テ飜譯セラレタル時代ナリ。而モ佛典ノ厩ノ猿ニハ何ノ爲ニ之ヲ繋グカヲ明セザルニ反シテ、道士教ノ行法トシテハ此ノ如ク記述セラレタリ。【馬ノ神】馬ニ災ヲ與フル神アルコトハ更ニ其以前ヨリノ支那ノ信仰ナリシニ似タリ。馬步ト云フガ卽チ其神ノ名ニシテ、每年冬季ニ厩ノ司ノ之ヲ祭リシコト周禮校人ノ章ニ見ユ。馬步神ノ步ハ酺ニ同ジ。【蝗ノ神】馬ノ病又ハ田ノ蟲ノ發生シタル時ニ祭ルベキ災害ノ神ナリ〔補註相驥經七〕。後世趙宋ノ代ニ至リテハ馬步神ニ對シテ馬櫪神ガ祭ラレ、民間ノ信仰ハ善惡二道ノ分立ヲ示セリ。【サル木】馬櫪神ノ櫪ハ厩ニ於テ馬ヲ繋グ木ノコトニシテ、日本ニテハ之ヲ「サル木」ト云フ。此神ノ像ハ人ノ形ニシテ兩手ニ劍ヲ持チ、兩足ノ下ニ猿ト鶺鴒トヲ踏ミテ立ツト云ヘリ〔塵添壒囊抄三〕。猿ハ則チ災害ヲ除クト云フ神ノ力ヲ表現シタルモノナランガ、鶺鴒ハ全ク其趣旨ヲ解スル能ハズ。或ハ是レ馬ノ神ト水ノ神トノ相互關係ヲ推測セシムべキ材料ニハ非ザルカ。未ダ旁證ヲ知ラズト雖一應之ヲ假定シテ進マント欲ス。馬櫪神ト云フ唐ノ神ハ我邦ニモ正シク之ヲ輸入セリ。【馬力神】例ヘバ野州ノ大蘆川ノ谷、武州秩父ノ山村ナドニ於テ、馬力神ト刻シタル路傍ノ石塔ノ近年ノ建設ニ係ル者ヲ見ル。是レ察スルニ馬ニ牽カシムル荷車ヲ人ノ曳ク人力ニ對シテ馬力ト呼ブニ至リシ新時代ノ一轉訛ニシテ、馬樫神ノ神號ガ文字無キ平民ノ耳ニ馴レタル語ナリシ證トスルニ足ル。【勝善神】陸奧三(サンノヘ)郡三大字川守田村元木平(モトキダイ)ノ宗善ノ祠ハ、明治維新後改メテ馬力神社ト稱ス。寬保三年ニ立テタル春砂國(ハルシヤコク)ノ名馬ノ碑アリ。【名馬長壽】中央ニ馬頭觀世尊ト刻シ、其傍ニ鹿毛二百九歳[やぶちゃん注:ママ。碑文誤読か。後注する。]長五尺九寸五分トアリ。天和二年ニ四代將軍ヨリ贈ラレタル「ハルシヤ」ノ種馬ニテ、死後此地ニ瘞メ今モ正月十六日之ヲ祭ル。塚ノ上ニ南向ノ松アリ。馬ノ靈故國ヲ慕フガ故ニ枝葉皆南ニ靡ケルナリト云ヘリ〔糠部五郡小史〕。

 

《訓読》

[やぶちゃん注:二箇所の「郭撲」(かくはく)の誤字を訂した。]

 さて、何故に猿を厩に繋げば馬の爲に善(よ)かりしか。【猿は馬飼(うまかひ)】肥後の阿蘇にては、「馬は元來、猿の飼ふべきものなり」と云ふ。人間は猿に學びて、始めて馬を牽くことを知れり。其の故に今も馬屋は申(さる)[やぶちゃん注:南西。]の方に向けて建て、百姓は、決して、猿を殺すこと、無し。野飼ひの駒に、猿が耳を摑(つか)みて乘れるを見たる人、少なからず、となり〔『鄕土硏究』一卷二號〕。他の地方にも此の類ひの口碑、存するや否や、未だ之れを詳かにせず。古く輸入したる支那書の記事にも、或いは、猢猻(こそん)[やぶちゃん注:猿の異名。]、瘟疫(をんえき)[やぶちゃん注:高熱を発する流行病。]の氣を去ると云ひ〔「補註相驥經(さういきやう)」六所引「畜養本草」〕、獼猴(びこう)の皮は馬の疫氣を掌(つかさど)ると稱し〔同上「證類本草」〕、能く惡を避け、疥癬(かいせん)を去ると云ひ〔同上「虎幹經」〕、又は、常に獼猴を馬坊に繋げば惡を辟(さ)け、百病を消す、などともありて〔同上「圖像馬經」及び「爾雅翼」〕、其の理由とする所、區々にして[やぶちゃん注:さまざまで。]且つ曖昧なれど、結局、其の效用は災ひを免(まぬ)かると云ふ、消極的のものなることに一致せり。【馬醫】古くは東晉[やぶちゃん注:三一七年~四二〇年。]の大將軍趙固なる者あり。馬醫中の扁鵲(へんじやく)とも言ふべき道士郭璞(かくはく)の力に由りて、愛馬の危(あやふ)き命を取り留めたり。此の馬は不思議の病ひに罹りて、俄かに狂ひ死(じに)せし、人が三十人、長き桿(さを)[やぶちゃん注:竿。]を持ちて、三十里[やぶちゃん注:東晋期の一里は四百四十・一メートルであるから、十七キロ半強。]東の方の森林に入り、其の桿を以つて、森の樹を叩けば、猿に似たる一疋の獸(けもの)、現はれ出づ。其の獸を連れ來りて、死馬の前に置けば、鼻を馬の軀(むくろ)に當てゝ息を吸ひ、馬は忽ちにして蘇生す、と云へり〔「獨異志」〕。郭璞の時代は、卽ち、「パンチヤタントラ」が印度に於いて編述せられ、又、「菩薩本行經」が支那に於いて飜譯せられたる時代なり。而も佛典の厩の猿には何の爲に之れを繋ぐかを明せざるに反して、道士教の行法としては此(か)くごとく記述せられたり。【馬の神】馬に災ひを與ふる神あることは、更に其れ以前よりの支那の信仰なりしに似たり。「馬步(ばほ)」と云ふが、卽ち、其の神の名にして、每年冬季に厩の司(つかさ)の之れを祭りしこと、「周禮(しゆらい)」「校人(こうじん)」の章に見ゆ。馬步神(ばほじん)の「步」は「酺(ほ)」[やぶちゃん注:「災害の神」の意。]に同じ。【蝗(いなご)の神】馬の病ひ、又は、田の蟲の發生したる時に祭るべき災害の神なり〔「補註相驥經」七〕。後世、趙宋[やぶちゃん注:「宋」に同じ。九六〇年~一二七九年。]の代に至りては、馬步神に對して「馬櫪神(ばれきじん)」が祭られ、民間の信仰は善惡二道の分立を示せり。【サル木】馬櫪神の「櫪」は厩に於いて馬を繋ぐ木のことにして、日本にては之れを「サル木」と云ふ。此の神の像は人の形にして、兩手に劍を持ち、兩足の下に猿と鶺鴒(せきれい)とを踏みて立つ、と云へり〔「塵添壒囊抄(ぢんてんあいなうせう)」三〕。猿は、則ち、災害を除くと云ふ神の力を表現したるものならんが、鶺鴒は全く其の趣旨を解する能はず。或いは是れ、「馬の神」と「水の神」との相互關係を推測せしむべき材料には非ざるか。未だ旁證(ばうしよう)を知らずと雖も、一應、之れを假定して進まんと欲す。馬櫪神と云ふ唐(もろこし)の神は我が邦(くに)にも正(まさ)しく之れを輸入せり。【馬力神(ばりきしん)】例へば野州の大蘆川(おほあしがは)の谷、武州秩父の山村などに於いて、「馬力神」と刻したる路傍の石塔の近年の建設に係る者を見る。是れ、察するに、馬に牽かしむる荷車を、人の曳く人力(じんりき)に對して、馬力と呼ぶに至りし新時代の一轉訛にして、馬樫神の神號が文字無き平民の耳に馴れたる語なりし證(あかし)とするに足る。【勝善神(そうぜんしん)】陸奧三(さんのへ)郡三大字川守田(かはもりた)村元木平(もときだい)の宗善(そうぜん)の祠(ほこら)は、明治維新後、改めて馬力神社と稱す。寬保三年[やぶちゃん注:一七四三年。]に立てたる春砂國(はるしやこく)の名馬の碑あり。【名馬長壽】中央に馬頭觀世尊と刻し、其の傍らに、「鹿毛(かげ)二百九歳長(たけ)五尺九寸五分」とあり。天和二年[やぶちゃん注:一六八二年。しかしこの年は第五代将軍徳川綱吉の治世であり、以下と矛盾する。他にも矛盾有り。後注する。]に四代將軍[やぶちゃん注:徳川家綱。おかしい。]より贈られたる「ハルシヤ」の種馬にて、死後、此の地に瘞(うづ)め、今も正月十六日、之れを祭る。塚の上に南向きの松あり。馬の靈、故國を慕ふが故に、枝葉、皆、南に靡(なび)けるなり、と云へり〔「糠部(ぬかのぶ)五郡小史」〕。

[やぶちゃん注:「疥癬(かいせん)」皮膚に穿孔して寄生するコナダニ亜目ヒゼンダニ科Sarcoptes 属ヒゼンダニ変種ヒゼンダニ(ヒト寄生固有種)Sarcoptes scabiei var. hominisによって引き起こされる皮膚疾患。

「趙固」(?~三一九年)は、西晋(二六五年~三一七年)から五胡十六国時代東晋の武将。なお、以下の話の出典を柳田は記していないが、恐らくは「捜神記」巻三の二十二に基づくものと思われる(捜神後記」の巻三の六二にも同内容のやや長いものが載るが、柳田が拠ったのは前者の以下である)。

   *

 趙固所乘馬忽死、甚悲惜之、以問郭璞。璞曰、「可遣數十人持竹竿、東行三十里、有山林陵樹、便攪打之、當有一物出。急宜持歸。」。於是如言、果得一物。似猿。持歸、入門、見死馬、跳樑走往死馬頭、噓吸其鼻。頃之、馬卽能起。奮迅嘶鳴、飲食如常。亦不復見向物。固「奇之・」、厚加資給。

   *

勝手流で訓読する。

   *

 趙固、乘る所の馬、忽ち、死せば、甚だ悲しみ、之れを惜しみ、以つて郭璞に問ふ。璞、曰はく、「數十人をして竹竿を持たせ遣すべし。東に行くこと、三十里、山林陵樹[やぶちゃん注:丘のようになった林。]有り、便(すなは)ち、之れを攪(か)き打てば、當に、一物、出べし。急ぎ宜しく持ち歸るべし。」と。是(ここ)に於いて、言(げん)のごとく、果して一物を得。猿に似たり。持ち歸り、門に入れば、死馬を見るや、跳樑して走りて死馬の頭(かうべ)に往き、其の鼻を噓吸(きよきふ)す[やぶちゃん注:息を吸ったり吐いたりする。]。頃-之(しばら)くして、馬、卽ち、能く起(た)つ。奮迅して嘶-鳴(いなな)き、飲食、常のごとし。亦、復(ふたた)び向(さ)きの物を見ず[やぶちゃん注:同時に、(周りを見回しても)その猿に似た生き物は姿を消していた。]。固(もと)より、「之れ、奇なり。」と、厚く資給を加へり[やぶちゃん注:郭璞に沢山の謝礼が贈られた。]。

   *

「扁鵲(へんじやく)」戦国時代(紀元前四〇三年~紀元前二二一年)の伝説的名医。姓は秦、名は越人。渤海郡(現在の河北省)の人。長桑君の弟子で、その医書と秘伝の口伝を受けたとされる。春秋時代の 虢(かく)の太子の急病を救って名を得たという。但し、その伝説は、紀元前八世紀から紀元前七世紀~紀元前四世紀に亙っており、定かではない。耆婆(きば:古代インドの名医)と並んで、「名医」の代名詞とされ、ここもその用法。

「道士郭璞(かくはく)」(二七六年~三二四年)は東晋の文人。字(あざな)は景純。聞喜県(現在の山西省内)の人。博学で詩文の才に恵まれ、当時の有力者に重用され、東晋建国に寄与した王敦(おうとん 二六六年~三二四年)の参軍書記となったが、王敦の謀反に反対して殺された。「晋書」巻七十二の本伝には、特に彼の五行・天文・卜筮(ぼくぜい)に関する優れた能力についての記録が見える。詩人としても一流で、その代表作「遊仙詩」(全十四首)は、道家の立場から神仙を求める思想詩としての深みがあり、高く評価される。学者としては、「爾雅」・「方言」・「穆天子伝(ぼくてんしでん)」・「山海経」などの古典に注を施し、現在、なお益するところが多い(ここは小学館「日本大百科全書」に拠った)。

「猿に似たる一疋の獸(けもの)」ということは、通常の猿類に似てはいるものの、妖猿の類いともとれる。

「パンチヤタントラ」古代インドのサンスクリット語で書かれた説話集。題名は「五巻の物語」の意。原本は散逸して現存せず、作者・成立年ともに不詳。五五〇年頃、一伝本が中世ペルシア語のパフラビー語に翻訳されたという。「朋友の分離」・「朋友の獲得」・「鴉と梟の争闘」・「獲得したものの喪失」・「思慮なき行為」の五巻から成る。カシミールに伝わる「タントラーキヤーイカ」は、その最も古い形を伝えるものとされ、「ヒトーパデーシャ」もベンガルに伝わる一本である。世界各地に広く伝播し、その内容・形式は東西の説話文学に多大の影響を与えている(ここは「ブリタニカ国際大百科事典」に拠った)。

「菩薩本行經」「本縁部」と呼ばれるグループに属し、四世紀頃の訳出かとされる。全二十八話で、ジャカータカ(前世の物語の意。漢訳では「闍陀迦」「闍多伽」等と表記する)が中心で、弟子の前生物語等も含まれている。小乗・大乗に共通な内容が多いが、全体には大乗的色彩が濃い。現世利益に関する内容が多いのも特徴とする(鈴木出版の「仏教説話大系」第十一巻の「比喩と因縁」三に拠った)。

「馬步(ばほ)」「馬步神(ばほじん)」前段の私の注も参照されたい。

「馬櫪神(ばれきじん)」前段の私の注も参照されたい。ネットで拾った「北斎漫画」の馬術の項の最初に出る「馬櫪尊神」図も掲げた

『「櫪」は厩に於いて馬を繋ぐ木のこと』「櫪」の字は馬屋の床(ゆか)に順序良く並べた板、則ち、「厩の根太(ねだ)」が原義。馬関連では、「飼い葉桶・馬草桶」の意もある。

『災害を除くと云ふ神の力を表現したるものならんが、鶺鴒は全く其の趣旨を解する能はず。或いは是れ、「馬の神」と「水の神」との相互關係を推測せしむべき材料には非ざるか』前段の私の注も参照されたい。柳田國男の仮説は、或いは、セキレイ類が多く水辺に住むことからの連想であろう。

「野州の大蘆川(おほあしがは)」現在の栃木県中南部の鹿沼市を流れる。ここ(グーグル・マップ・データ)。

『「馬力神」と刻したる路傍の石塔』四季歩氏のブログ「四季歩のつれづれ」の「馬力神(ばりきしん)/日本の神々の話」によれば、『記紀などの神話に登場する神でなく、民俗信仰によるもの』で、柳田が指示する通り、『栃木県を中心とする北関東地方から南東北地方で江戸末期から昭和初期まで盛んだった風習で、愛馬の冥福を祈り石碑を建てるもの』とあり、『ネットで見つかる記事で推測すると、範囲は宮城県、茨城県、栃木県と思われ』、『埼玉県、東京都では、私は見かけたことが無い』とある。「日本民俗大辞典」(福田アジオ他編。一九九九年川弘文館刊)『によると、「馬の守護神。自然石に馬力神と刻んだ石塔が栃木県や宮城県で見られるが、その大部分は愛馬の供養のために造立されたもので、神名のほか、紀年銘と造立者を記すだけのものが多い。馬力神の石塔は栃木県下都賀郡壬生町南犬飼北坪の』嘉永四(一八五一)年の『例が現在知られる最古のもので、幕末に出現し、明治時代にもっとも多く造立された。」と説明があり』、『たとえば栃木県では』、「下野の野仏 緊急碑塔類調査報告(一九七三年栃木県教育委員会編)『の塔碑類一覧で調べると』、『県内に』実に二百七十四基も『の馬力神があることがわかります』とされ、『「馬頭観音」や「馬頭観世音」の石碑と同様の信仰心理に成り立っているものだろう』と推定されておられる(碑の画像有り)。

「勝善神」「ブリタニカ国際大百科事典」の「蒼前様(そうぜんさま)」によれば、馬の守護神で、「勝善様」「相染様」とも書く。「そうぜん」は、葦毛四白の馬とする説、爪揃神(そうぜんしん:馬の爪=蹄を切ることを「爪揃(ソウゼン)を取る」と呼ぶから、その際の傷の癒えや感染を防ぐ神の謂いであろう)の意とする説がある。主に東日本にその信仰は分布し、厩のそばに竈(かまど)を築き、その上に農具を並べ、この神を祀る長野県東筑摩郡の例、正月に猿丸太夫(厩祭(うまやまつり)の祈祷師)が祈祷し、また馬の売買のときに博労(ばくろう)がこの神に御神酒を供える東北地方の例などがある。さらに東北地方では馬を持つ人たちで作る講があり、この講を「そうぜん講」と呼ぶ、とあった。

「陸奧三(さんのへ)郡三大字川守田(かはもりた)村元木平(もときだい)の宗善(そうぜん)の祠(ほこら)は、明治維新後、改めて馬力神社と稱す」現在の青森県三戸郡三戸町(まち)川守田(かはもりた)下比良(しもひら)にある馬暦神社(グーグル・マップ・データ)である。ビナヤカ氏のブログ「奥羽*温故知新」の「『馬暦(ばれき)神社』と『唐馬(からうま)の碑』」がよい。そこには安政三(一八五六)年の「三戸通神社仏閣書上帳」『に「蒼前堂」とある』とされ、寛保三(一七四三)年、『ペルシャ馬の埋葬地に供養碑を建立して、馬頭観世尊として祀ったものという』とあり、『昭和二十一』(一九四六)『年』に『現社名に改称』とあるから、或いは、明治期からそれまでは、「馬力神社」と名乗っていたのかも知れない。視認出来る『県指定史跡「唐馬の碑」』の説明版画像もあるので、日本語部分を電子化しておく(アラビア数字は漢数字に代え、英文の表記から読みを補っておいた)。

   *

   唐馬(からうま)の碑

享保一〇年(一七二五)八代将軍吉宗にオランダ人の献上したペルシャ(春砂)馬が、南部藩に下付された。藩ではこれを住谷野(すみやの)に放牧し、種馬として馬匹の改良を図ったが、九歳で死んだので関係者はこれを悼み三葉の松を植え墓印とした。人々は馬の神としてあがめ、参詣の人が絶えなかったので、元野馬別当の石井玉葉(いしいぎょくよう)が追善のため寛保三年(一七四三)にこの碑を建てて弔った。この碑は日本産馬史上においても、外国馬に関しての最古の史料として有名である。

   *

「馬匹」は「ばひつ」で、一匹・二匹と数えるところから馬の別称。以上から、「糠部(ぬかのぶ)五郡小史」の記載にはトンデモない錯誤が多重してあることが判る(「糠部五郡小史」に当たることが出来ないので、柳田國男の錯誤ではなく、そちらの錯誤と述べおくこととする)

「鹿毛(かげ)」一般に茶褐色の毛を持つ馬のことを指す。家畜馬・野生馬を問わず、最も一般的に見られる毛色。

「二百九歳」ナンジャア? コリャアッツ? 先のビナヤカ氏のブログ「奥羽*温故知新」の「『馬暦(ばれき)神社』と『唐馬(からうま)の碑』」には、『供養碑は「唐馬の碑」と称され、正面に「寛保三癸亥天(梵字)奉新造馬頭観世尊 二月十七日」』とあり、『左側面に「鹿毛白九歳長四尺九寸五分 異国春砂」とあり、施主は石井玉葉である』とある。「白九歳」が正しいわけで、柳田國男の頭書「名馬長壽」もトンデモアカン違いあったことが判るのである。

「長(たけ)五尺九寸五分」一メートル八十・五センチメートル。「寸(き)」であろうから、脚の先から肩までの高さで、国産馬の標準は四尺が「一寸(き)」であるから、当時の日本人から見て、異様に大きいことが判る。但し、戦国大名伊達氏第十七代当主で仙台藩初代藩主となった伊達政宗(永禄一〇(一五六七)年~寛永一三(一六三六)年)は、ウィキの「ウマによれば、『南部駒の産地を支配した伊達政宗は、ペルシャ種馬を導入して在来種の改良を行ったと伝えられている』とあるから、必ずしもこの駿足の巨馬は初見ではなかったのかも知れない。]

2019/03/07

ブログ・アクセス1200000突破記念 原民喜 面影

 

[やぶちゃん注:昭和一七(一九四二)年二月号『三田文學』初出。

 底本は一九七八年青土社刊原民喜全集「Ⅰ」を用いたが(底本では「拾遺作品集Ⅰ」のパートに配してある)、以上の書誌データや歴史的仮名遣表記で拗音・促音表記がないという事実及び原民喜の幾つかの自筆原稿を独自に電子化してきた私の経験に照らして(彼は戦後の作品でも原稿では歴史的仮名遣と正字体を概ね用いている)、漢字を概ね恣意的に正字化することが、原民喜自身の原稿原型に総体としてより近づくと考え、今までの私のカテゴリ「原民喜」のポリシー通り、そのように恣意的に処理した。

 思うに、本篇の主人公の青年のモデルは、一九三六(昭和十一)年八月一日から八月十六日にかけて行われたベルリン・オリンピックに出場した人物かと思われる。但し、無論のこと、ウィキの「1936年ベルリンオリンピックの日本選手団には「良雄」という名の選手の名は、ない。それを穿鑿してみる気も私には起こらない。

 不思議な構成と二人称の語りが限りない哀感を醸し出す絶品の掌品である。

 因みに、本篇は現在、ネット上では公開されていないものと思われる。

 なお、本電子化は花幻忌(三月十三日)を前にすると同時に、2006年5月18日のニフティのブログ・アクセス解析開始以来、本ブログがつい、数分前、1200000アクセスを突破した記念として公開する。【2019年3月7日 藪野直史】]

 

  面 影

 

 良雄や 良雄や 良雄や

 夜なかの雜沓する驛で、聲をかぎりに號んだ[やぶちゃん注:「さけんだ」。]、わたしの姿をおまへは憶えてゐてくれるだらう。おまへの眼に燒きつけられた、あれがわたしの最後の姿だつたのだね。泣き腫れたわたしの眼にはおまへの顏の輪廓がただ白く霞んでゐたが、それがわたしの最後の眼に殘つたおまへだつたのだね。わたしはうれしかつた、うれしかつたのではない、たまらなかつたのだ、こころがおののいてばかりゐた。

 

 おまへが日本を離れてからはわたしは一夏をラヂオの前に坐りつめた。伯林の消息に胸ををどらし、おまへの名が出て來はすまいかと、そればかりを氣にしてゐた。わたしにはわけも分らないスポーツのことであつた。なんとももどかしいかぎりであつた。あんまりおまへの便りがないのでもしか脚氣にでもなつたのではないかと、心配でたまらなくなつた。それでも日本の選手が勝つ度にわたしは吻とした。あのよろこびのなかにきつとおまへも加はつてゐるのだらうと、ゆめのやうにおもつた。

 ひどく美しい靑空の下に赤や白のユニホーム姿が並んでゐるグラフもゆめのやうにおもへたものだ。そのうちに秋になつた。こんどはゆめではなくおまへはほんとに我が家へ戾つて來る。わたしは指折り數へて、その日を心強く待つた。おまへを乘せた船はもう印度洋を渡つたといふ、おまへを乘せた船はシンガポールに着いたといふ、おまへを乘せた船はあと一週間で神へ歸つて來るといふ、そんなうれしいたよりをききながらも、わたしはわたしをどうにも出來なかつたのだね。とうとうわたしはおまへの歸りも待たずに死んで行つてしまつた。

 おまへの船が神港に着いた時、わたしはもう燒かれて骨になつてゐた。あの賑やかな歡迎の嵐の中から、ひよつくりおまへは片隅へ攫はれて行つた。おまへの兄からわたしが死んだことを聞かされても、おまへは啞のやうに默つてゐた。やがておまへは汽車に乘せられて、鄕里へ戾つて來た。おまへが戾つて來た家にはわたしの新しい位牌と死顏を撮つた寫眞が待つてゐた。それを掌にしておまへははらはらと淚を零した。がつかりしたことであらう。わたしは遠くではらはらするばかりだつた。

 それでもその晚おまへは部屋一杯にお土産の品を取出して竝べた。獨逸製のカメラやチエツコスロバキヤの繪葉書や、巴里のコンパクトやシンガポールの鰐の剝製から支那の墨まで、いろんなものがあつた。そんなにどつさり持つて歸つたものをわたしに見せたかつたのだらうに、おまへのあてもわたしのあてもすつかりはづれてしまつた。

 おまへはあてがはづれたやうな顏で間もなく上京してしまつた。それから後のことはわたしにはもうどうにもならないことだつた。わたしは遠くからはらはらするばかりだつた。わたしはおろおろと祈りつづけた。

 わたしがなくなつてからおまへの氣持はだんだん欝いで[やぶちゃん注:「ふさいで」。]荒んでいくやうであつた。おまへが性の知れない女と交際つたり、洒に溺れてゆくやうになつたのもその頃からだ。その度にわたしはどうしていいのか分らなかつた。もともとわたしが甘やかしすぎて育てたためかもしれなかつたけど、おまへはほかの子と違つて父親の顏も憶えてゐない不愍の子だ。片親だけで育てられてやつと一人前になりかかつた頃またわたしといふものを亡くしてしまつたのだ。オリンピツクへ出發する際の際までおまへはわたしを呶鳴り散らしたりした。そんな我儘なおまへのことだ。そのおまへの我儘のはけ口が急に無くなつてしまつたのだ。おまへは世間と衝突したり、荒廢の底に沈んだ揚句には、おまへはわたしの亡き名を呼んでくれた。お母さん、よく思ひきり撲らしてくれましたと、おまへはそつとわたしに呼びかけてくれた。おまへはわたしの命日を每月ちやんと憶えてゐてくれた。そんな風なおまへが世間からだんだん惡く云はれてゐると、おまへは自分でさう思ひ込んだ。そしておまへの眼つきは悲哀の怒りに燃えてゐた。

 そのうちに支那事變が始まつたのだつた[やぶちゃん注:昭和一二(一九三七)年七月七日の「盧溝橋事件」を発端として開始した。]。天にかはりて不義を打つ[やぶちゃん注:軍歌「日本陸軍」(大和田建樹作詞・深沢登代吉作曲)の第一番第一節。明治三七(一九〇四)年七月発表。ウィキを見られたい。レコードが聴ける。]……あれはわたしが若い頃憶え込んだ勇しい歌の一つだ。おまへも微かに憶えてはゐないか。雪の降つた朝、わたしはおまへを炬燵に入れて、おまへの小さな頭にはすつぼり蒲團をかむせて、そして、節おもしろく歌つた。歡呼の聲に送られて今やいで立つ父母の國と。さうすると、おまへは小さな掌を振つて、やはり浮き立つたものだ。あれはおまへの子守唄の一つだつた。雪の降つた朝、何か勇み立たうとする氣持で、わたしは若い日をとりもどしたやうに歌つたものだ。その歌があちらでもこちらでも歌はれだした。事變は愈進んで行つた。その頃から、おまへは今日の日あるを覺悟してゐたのであらうか、おまへの顏の底には決意の表情が潛められてゐた。しかし、若い日をせめて學生の間は思ひきり遊べと、おまへは自分で自分に決めてしまつたね。そして墮落學生の頽廢記錄、おまへは自分で自分を苦しめて行つた。おまへは疲れてアパートの部屋に戾ると押入からわたしの舊い手紙を取出して、皺を伸して讀みかへし、何がなし淚ぐんだりしてゐた。おまへはその以前送金が多いと苦情云つてやつたわたしの手紙に合掌して、アルバムに貼つてしまつた。わたしが生きてゐたら、おまへはわたしにあたりちらしたに違ひない、そんな風に何か苦しいことに苛まれてゐるおまへの顏であつた。あれはわたしの三回忌のあとさきのことだつた。おまへが選手を廢めてしまつたのもその頃だつたね。それから後もおまへの破綻の多い、しかし、二度と返らぬ日々が續いて行つた。おまへは二度と返らぬ日々を惱み樂しみながら生きて行つた。

 そして、おまへは卒業と同時に就職すると、檢査では甲種合格になつたのだつたね。わたしの家からもせめて一人は御奉公に出したいと思つてゐた、わたしの願ひがかなつたのだ。それにしてもおまへは小學校では心臟辨膜病と診斷された位だから、運動を控へるやうにわたしは度々云つたものだ。それをおまへはおまへで體が惡けりや態と運動してやると云つて、とうとうそのうちにスポーツがおまへの生命となつたほどだから、おまへの體は奇蹟のやうに立派になつた。おまへの體格は誰にも劣らないほどもう立派になつたものだ。しかし、おまへが一人前になるまでにはどんなにわたしはハラハラしたことか。おもへばまだ昨日のやうに鮮かな出來事がある。京都の姉の處へわたしがおまへを連れて行つたのはおまへが七つ位の時のことだつた。おまへは支那料理屋で胡椒の甁を弄んでゐた拍子に、蓋がとれて、胡椒が眼に這入つた。お前は痛がつて泣き叫ぶ、わたしはどうしていいのかわからない。突嗟におまへを疊の上にねぢ伏せて、おまへの眼をわたしはわたしの舌で舐め𢌞した。おまへの眼の粉がすつかり吸ひとれる迄、わたしは夢中で胡椒を吞みこんだものだ。そんなことを一つ一つおまへはとても憶えてはゐないだらうが……。

 この春、おまへの緣談が纏まりかけた時、おまへは珍しいほど乘氣になつてゐた。ところが先方で神樣に判斷して貰つたと云つて斷つて來ると、おまへはもうけろりとしてゐた。これも亡き母上の意志なのだらうと、おまへはきつぱりと前方を睥んで[やぶちゃん注:「にらんで」。]進んだ。おまへが考へてゐることはもう前方にしかなかつたのだ。

 その日がそしてとうとう[やぶちゃん注:ママ。]やつて來たのだね。おまへは明日入營するのだ。おまへは近くまた日本を離れて遠方へ行くだらう。何處へ行かうと、最後の最後まで、おまへはわたしのことを忘れはすまい。

 良雄や 良雄や 良雄や

 わたしの聲を限りに叫ぶ見送りの聲が聞えますか。

 

 良雄さんもとうとう明日は入營ですか。わたしはお招きされたので、汽車に乘つて今夜やつて參りました。實は日どりを一日間違へて送別祝ひには間にあはなかつたのです。そのかはり今夜はしんみりと過せます。

 何から申上げていいのやら、わたしはただただ茫とするばつかしです。ここへ參つたのも久し振りで三年になりますか四年日になりますか、隨分御無沙汰してをりました。伺つてみれば、やはり同じやうに家があつて、わたしの住み慣れた臺所が御座います。そして見違るやうに大きくなられた良雄さんが居られます。わたしはもう何も彼も夢ではないかと思へるのです。昔のことが夢なら今の今も夢ではないかと胸は一杯に塞がられます。こんなに心が弱くなつたのも身體が衰へて、もう老さき短かい身の上のためでせう。折角おめでたい明日の入營に泣いたりしてはいけないと思つてをります。おばんはあなたを見送りするまでは泣くまいと誓つてをります。でも、やはり年寄は昔のことが思ひ出されてなりません。あなたが生れられた時、お産の手傳に行つたのもこのおばんです。あなたはまだ誕生を迎へられないうちに、お父さんとお別れになりました。お父さんのお葬ひの時もわたしは手傳に參りました。その頃はもうわたしも配偶と死別れてをりましたが、まだまだ體は元氣でしたよ。供米の四斗俵を一人で抱へて男の人を驚かしたことさへ御座います。あなたのお父さんが亡くなられてから、あなたのお母さんが亡くなられるまで、ざつと二十年以上もわたしはここの家で暮したのです。良雄さんのことなら、おばんは何から何まで知つてゐるつもりです。

 あなたに匙でお粥を食べさせたのも、背に負つてお守りしたのもみんなこのわたしです。あなたが箸を使へるやうになつた時あなたはぎつちよの癖がありましたね。その癖を直さうとして隨分おばんは教へてあげましたよ。それでどうやら箸だけは右手で使へるやうにしてあげました。が、やはりあなたは左手の方が都合よささうでした。妙なものでその左利[やぶちゃん注:「ひだりきき」。]があなたのスポーツでは重寶がられたと云ひますね。さう云へばあなたは日月ボール[やぶちゃん注:剣玉のこと。]でも何でも左手で器用にやられました。日月ボールと云へばよくあんなに流行つたものです。それから片足をのつけて走る木の車、あれも隨分流行りましたね。片手に日月ボールを持つたあなたを連れて、練兵場へ兵隊さんを見に行つたのも、たつた昨日のやうな氣持がします。ほんとにあの頃はわたしもまだ元氣だつたし、何だか今も懷しくてたまりません。

 あの頃あなたは練兵場で馬の側へ行くと、よく怕がられましたが、今でもやはり馬が怕いのでせうか。さう、一度あなたは魚屋の鱧[やぶちゃん注:「はも」。]を弄つてゐて指を嚙まれたこともありましたね。

 それからあなたが小學校へ行かれるやうになると、だんだん腕白小僧になられました。あなたの姉さん達を泣かせたり、近所の子供を撲つたり、どうかするともうその頃からおばんも負ける位でした。ほんとに手に負へなくなつたのは、あなたが中學生になられてからです。あなたの兄さん達は中學生になるとみんなもう大人しくなられたのに、あなたばかりは何時までも腕白でした。お母さんの腕をパチパチ叩いて怒らしたり、わたしの腕をねぢ上げて泣かせたり、それがあなたの力は並大抵の力ではなかつたのですもの、ほんとにみんな弱らされましたよ。

 さうかと思へばわたしが折角作つてあげた食事が氣に入らないと、「おばん」とあなたは大聲で呶鳴ります。「おばんうどん貰つて來い」と、三度に一度はきつとかうです。またいつでも夏になると、「おばん、アイスキヤンデー買つて來い」とかう云はれました。大學生になられても夏休みにお歸りになると、やはりアイスキヤンデーでしたね。

 あゝあなたは休暇でお歸りの時はわたしにまで土産を下さいました。

 あなたが中耳炎で入院されたのはオリンピツクへ行かれる前の年でしたかしら、あの頃はわたしの身の上にも不幸が重なつてをりましたが、あの折ずつと病院で附添したのもわたしです。あの時、あなたはわたしの息子の不幸をしみじみ聞いて下さいました。わたしの息子が出來心から犯した罪を、それよりこのわたしの苦しさを、淚ぐんで聞いて下さいましたね。そして人間はみんな罪深いのだと、あなたはさう云つて慰めて下さいました。それからあそこではこんなこともありましたね。あなたは「向うの山に猿が三匹通るが……」といふ歌をわたしに歌へと請(せが)まれました。むかしあなたを寢つかせる時よく歌つた歌です。それを大學生のあなたがわたしに歌へと仰しやるのです。わたしは馬鹿らしくてお斷りするとあなたはどうしても歌へと仰しやつて承知されません。とうとう[やぶちゃん注:ママ。]「向うの山に……」をやらされました。

 それからあなたは女の寫眞を四、五枚取出してわたしに見せ、いいだらうどれが好きかとあなたは云はれました。この別嬪さんたちは何ですと聞くと、いや何でもないさ、とあなたはつまんなさうに云はれました。隨分大人になられたと、あの時も思つたものですが今度お目にかかると、又一段と立派になつてをられます。あなたがお母さんの臨終に間にあはず四五日違ひでオリンピツクからお歸りになつた時のことも思ひ出します。あの時わたしはあなたのために早速小豆を焚いてあげましたよ。うん、日本の小豆かとあなたは滿足さうに召上つた。

 ああ、今夜も隨分遲くなりました。明日はお早いのですからもうお休みなさいませ。明日の朝御飯は久し振りでわたしが給仕してあげます。あゝ、それからあなたの好きな煙草、光を土産に持つて參りました。立派な兵隊さんになつて下さい。立派な兵隊さんになつて下さい。おばんは嬉しう御座いますよ。

 

 十二月一日。緊張した面持で良雄は小學校の校庭に立つてゐた。他所の町から來た訓練服の靑年が六人、良雄は一番端に立つてゐた。その後には見送りの人が一杯詰めかけてゐた。やがて萬歳が三唱された。良雄達は引率されて練兵場の方へ向かつた。ごく身内の見送り人がその後に從いて[やぶちゃん注:「ついて」。]ぞろぞろと進んだ。一行の足なみは速く、もう練兵場の中に來てゐた。聯隊へ行く櫻並木があつた。ここからさきはもう見送りの人々も這入れないのであつた。良雄達は前方を向いて、とつとと步いてゐた。しかし、ふと振返ると、今迄送つて來た人々が遠くに一塊りになつて立留まつてゐる。兄、姉、嫂、甥、おばん、それらの顏に交つて、良雄はちらりと母の姿を見たやうな氣がした。

柳田國男 山島民譚集 原文・訓読・附オリジナル注「河童駒引」(27) 「馬櫪神ト馬步神」(1)

 

《原文》

馬櫪神ト馬步神  猿ヲ厩ノ守護トスル風習ハ起原ノ最モ古キモノナリ。我々ノ同胞ハ猿曳駒ノ繪札ヲ厩ノ軒ニ貼附スル以前、實物ノ猿ヲ畜舍ニ繫グヲ以テ有效ナル家畜保護ノ手段ト認メタリキ。此慣習ハ支那ニモアレバ暹羅ニモ存シ、佛經結集時代ノ天竺ニモ亦行ハレタリト云フ〔南方熊楠氏報〕。馬ヲ大事ニセシ武家時代、馬經ヤ安驥集ノ類ヲ片端ヨリ飜譯セシ時代ニ、此モ亦支那モシクハ朝鮮ヲ經テ我邦ニ輪入シタル迷信ナリト言ヒ得ザルニハ非ザルモ、日本ノ厩ノ猿モ決シテ新シキ外國ノ模倣トハ認ムべカラズ。讃州高松ノ某氏ニ傳ヘタル古キ馬ノ口籠ノ金物ノ彫刻ニ、猿ノ首ニ繩ヲ附ケテ柱ニ繋ギタル所ヲ表ハセルモノアリ〔集古十種馬具三〕。【猿ノ舞】昔足利家ノ先祖左馬入道義氏朝臣ハ、美作國ヨリ舞ノ巧ミナル一頭ノ猿ヲ求メ得テ之ヲ將軍ニ獻上ス。顯文紗(ケンモンサ)ノ直垂小袴ニ鞘卷ヲ差シ烏帽子ヲ着テ、鼓ノ調子ニ合セテ面白ク舞ヒ、舞終リテハ必ズ纏頭ヲ乞ヒケリ。件ノ猿ヲ能登守光村預カリテ厩ノ前ニ繋ギ飼ヒケルニ、如何シタリケン馬ニ背中ヲ嚙マレ、其後舞フコトセザリケレバ皆人念無キコトニ思ヘリト云フ〔古今著聞集二十〕。今ヨリ七百年バカリ前ノ事實ナリ。同ジ頃流行セシ郢曲(エイキヨク)ノ章句ニモ亦一ノ例證アリ。曰ク

[やぶちゃん注:以下の引用は底本では全体が二字下げ。]

御厩(ミマヤ)ノ隅ナル飼猿ハ、キヅナ離レテサゾ遊ブ、木ニ登リ、常磐ノ山ナル楢柴ハ、風ノ吹クニゾチリトロ搖ギテウラガヘル〔梁塵祕抄二〕

 

《訓読》

馬櫪神(ばれきじん)と馬步神(ばほじん) 猿を厩の守護とする風習は起原の最も古きものなり。我々の同胞は「猿曳駒」の繪札を厩の軒に貼附(てんぷ)する以前、實物の猿を畜舍に繫ぐを以つて、有效なる家畜保護の手段と認めたりき。此の慣習は支那にもあれば、暹羅(シヤム)にも存し、佛經結集時代の天竺にも亦、行はれたりと云ふ〔南方熊楠氏報〕。馬を大事にせし武家時代、「馬經(ばけい)」や「安驥集(あんきしふ)」の類を片端より飜譯せし時代に、此れも亦、「支那もしくは朝鮮を經て、我が邦(くに)に輪入したる迷信なり」と言ひ得ざるには非ざるも、日本の厩の猿も、決して新しき外國の模倣とは認むべからず。讃州高松の某氏に傳へたる古き馬の口籠(くちかご)の金物(かなもの)の彫刻に、猿の首に繩を附けて柱に繋ぎたる所を表はせるもの、あり〔「集古十種馬具」三〕。【猿の舞(まひ)】昔、足利家の先祖左馬入道義氏朝臣(さまのにゆうだうよしうぢあそん)は、美作國(みまさかのくに)[やぶちゃん注:現在の岡山県東北部。]より舞ひの巧みなる一頭の猿を求め得て、之れを將軍[やぶちゃん注:鎌倉幕府五代将軍藤原頼嗣。後注参照。]に獻上す。顯文紗(けんもんさ)の直垂(ひたたれ)・小袴(こばかま)に、鞘卷(さやまき)を差し、烏帽子(えぼし)を着て、鼓(つづみ)の調子に合はせて、面白く舞ひ、舞ひ終りては、必ず、纏頭(てんとう)[やぶちゃん注:「てんどう」とも読む。歌舞・演芸をした者に対して褒美として衣類・金銭などの品物を与えること。また、その品物。本来は、それとして衣類を受けた際に、それを頭に纏ったことに由来する。被(かず)け物(もの)。]を乞ひけり。件(くだん)の猿を、能登守光村、預かりて、厩の前に繋ぎ飼ひけるに、如何(いかが)したりけん、馬に背中を嚙まれ、其の後、舞ふことせざりければ、皆人(みなひと)、念無(ねんな)きことに思へりと云ふ〔「古今著聞集」二十〕。今より七百年ばかり前の事實なり。同じ頃、流行せし郢曲(えいきよく)の章句にも亦、一つの例證あり。曰はく、

[やぶちゃん注:訓読では歌詞に合わせて字空けと改行を施し(これはブラウザでの不具合を避けるためである)、逆に読点は除去した。新潮日本古典集成版「梁塵秘抄」を用いて校合し、平仮名の一部を漢字としたり、表記の一部を変更もした。

 

 御厩(みまや)の隅なる飼猿(かひざる)は

 絆(きづな)離れて

 さぞ遊ぶ

 木に登り

 常磐(ときは)の山なる楢柴(ならしば)は

 風の吹くにぞ

 ちうとろ搖(ゆ)るぎて裏返(うらがへ)る

 〔「梁塵祕抄」二〕

 

[やぶちゃん注:「馬櫪神(ばれきじん)」馬の守護神。両手に剣を持ち、両足で猿と鶺鴒(尾を上下に振ることでお馴染みの私の好きな鳥、スズメ目スズメ亜目セキレイ科セキレイ属 Motacilla・イワミセキレイ属 Dendronanthus に属するセキレイ類。本邦で普通に見られるセキレイはセキレイ属セグロセキレイMotacilla grandis(固有種)・セキレイ属タイリクハクセキレイ亜種ハクセキレイ Motacilla alba lugens・キセキレイMotacilla cinerea の三種)を踏まえている像として描かれる。「北斎漫画」の馬術の項の最初に「馬櫪尊神」が描かれている(以下のネットで拾った画像を参照されたい。ここでは四本の手を持つ神として描かれ、猿と鶺鴒は手に持っている。この神像の様態は柳田國男も次段で述べている)。サイト「国際水月塾武術協会」の『馬術の神 「馬櫪尊神」』によれば、『中国から伝播した神で、両剣で馬を守り、猿とセキレイがその使者』であるとし、『セキレイは馬を刺す害虫であるブヨなどを食べてくれる』ことから、また、『馬の「午」は』五行では『火を表』わすのに対し、『猿の「申」は水を表していて、荒馬を鎮めるという意味や、火事から厩舎を守るという意味がある』とする。また『猿は帝釈天の使者という説があり、中国では悪魔退散の意味から崇められていた』ともある。

 

Barekisonjin

 

「馬步神(ばほじん)」個人サイト「Eastasian in peninsula.「馬(4) 馬神崇拝」によれば、『馬神又は馬祖という神がいる。馬祖は馬の祖先であるが、これは人間の祖先崇拝を馬にも適応したもので、祖先崇拝と動物崇拝が融合したものである。『詩経』「小雅・吉日」に「既伯既』禱『」とあるが、「伯」は「馬祖」という』。『文献の記載を見ると周代には既に馬祖崇拝の習俗は存在していた。『周礼』「夏官・校人」によると、「春、馬祖を祭る」とある。それ以外にも周天子の狩や遠征で馬が使用される時には先に馬祖に対する祭祀を行った。馬祖以外にも先牧・馬社・馬歩などの馬に関係のある神を定期的に祭祀することがあった』。『「先牧神」は馬の飼育を始めた者である。「馬社神」は馬に乗り始めた者。「馬歩神」は馬に害をなす神である。先牧・馬社二神は人類のために馬を飼いならし、乗馬を生み出した神なので』、『人々はその恩に感謝してそれを祀る。馬歩神は馬の災厄を司る神なので』、『人々はこれを祭祀して、馬が災厄から免れるようにし、その繁栄を願うのである』。『周代以降歴代の官府はほとんど常に馬神を祭祀する制度を維持してきた。『隋書』「礼儀制」によると』、『仲春は馬祖、仲夏は先牧、中秋は馬社、仲冬は馬歩を祭っていたという。これは『周礼』とも同じである。唐代も馬祖祭祀は行われていたし、それは明清代まで衰えることなく続いた』とあるので、この神は本邦の御霊信仰のような疫病神・鬼神を崇めて鎮めることで限定固有の災厄を防禦する方式で神となったものであることが判る。

『「猿曳駒」の繪札』前回示した生石子神社の守り札のようなもの。

「暹羅(シヤム)」タイ王国の旧名「サヤーム」の漢音写。

「南方熊楠氏報」書簡は今のところ確認出来ないが、後の大正七(一九一八)年『太陽』初出の「十二支考 馬に関する民俗と伝説」の「八 民俗(2)」の終りに、『虎鈐経(こけんけい)』巻一〇に、猴を馬坊内に養(か)えば、患を辟(さ)け疥(かい)を去るとありて、和漢インドみな厩に猴を置く。『菩提場経』に馬頭尊の鼻を猿猴のごとく作る。猴が躁(さわ)ぐと馬用心して気が張る故健やかだと聞いたが、馬の毛中の寄生虫を捫(ひね)る等の益もあらんか。また上述乾闥婆部の賤民[やぶちゃん注:「カンダールヴァ部」と読む。本来はインド神話でインドラ(帝釈天)に仕える半神半獣の奏楽神団を指すが、ここは特異的に実在したそうした演奏と大道藝を見せた下級集団を指しているようである。]など馬と猴に芸をさせた都合上この二獣を一所に置いた遺風でもあろう。一八二一年シャムに往った英国使節クローフォードは、シャム王の白象厩(べや)に二猴をも飼えるを見問うて象の病難除よけのためと知った由』とある。また、寺島良安が「和漢三才圖會 卷第四十 寓類 恠類」の「獼猴(さる/ましら)」で明の李時珍の「本草綱目」を引き、『厩の中に母猴〔(ははざる)〕を畜(か)へば、能く馬の病を辟〔(さ)〕く。故に馬留と名づく』とするのに、リンク先で私は相応の注を附しているので、参照されたい。

「馬經(ばけい)」「新刻針醫參補馬經大全」であろう。全四巻。明代に書かれた馬医書らしい。

「安驥集(あんきしふ)」唐代に作られた「司牧療馬安驥集(しぼくりょうばあんきしゅう)」(全七巻・附一巻・六冊)という馬医書。「和漢三才圖會卷第三十七 畜類 馬(むま)(ウマ)」の私の『張穆仲〔(ちやうぼくちう)〕が「安驥集〔(あんきしふ)〕」』の注とそのリンク先を参照されたい

「口籠(くちかご)」厩舎用具の一つ。馬の口に装着させる摂餌抑制を目的とした籠のこと。古くは竹製であったが、現在は金網製で、寝藁(ねわら)を食べたりする、採食の異常を示す馬に使う。食いのいい馬が定量以上の飼葉(かいば)を食うのを制限するために使う場合もある(JRA公式サイト内の「競馬用語辞典」に拠った)。その「集古十種馬具」(松平定信編)の「猿の首に繩を附けて柱に繋ぎたる所を表はせる」「金物(かなもの)の彫刻」というのは、これ(国立国会図書館デジタルコレクションの当該画像)装飾性が非常に高いものであることが判る。高松家臣蔵の口籠圖とあるから、嘗ての藩主乗馬用の馬のそれででもあったものであろうか。

「左馬入道義氏朝臣」足利家三代目当主であった足利義氏(文治五(一一八九)年~建長六(一二五五)年)。ウィキの「足利義氏」によれば、『足利義兼の三男。母は北条時政の娘時子』。『三男ながら、正室の北条氏の所生であったため』、『家督を継』いだ。『そのため』、『終生』、『北条氏とは懇意であり、要職には就かなかったものの、和田合戦や承久の乱など、重要な局面において北条義時・泰時父子をよく補佐し、晩年は幕府の長老としてその覇業達成に貢献した。自身の正室にも泰時の娘を迎えており、家督もその子である泰氏に譲っている』。『承久の乱で京(京都府京都市)と鎌倉(神奈川県鎌倉市)の間の東海道の三河国守護職を得て、日本の東西交流を牛耳る立場を獲得した。後に子孫の尊氏が京の六波羅探題を落とした』際、『関東から鎌倉幕府勢が海道を上洛するのを足利家が三河国で阻止できたのも』、この遠い所縁があったことによる。『三河国では源頼政の孫大河内顕綱などを家臣に入れ』、『勢力を拡大し、庶長子の長氏を幡豆郡吉良荘(現在の愛知県西尾市)に住ませて足利氏の分家吉良氏(後に今川氏が分家)を誕生させた』。『三河守護職、陸奥守、武蔵守などを歴任し』た。

「將軍」後注で示すが、これは寛元三(一二四五)年の出来事で、前年に父で第四代鎌倉幕府将軍藤原頼経の譲りによって、彼は僅か六歳で第五代将軍に就任していたのである。

「顯文紗(けんもんさ)」様々な織り出してあるある布地。

「鞘卷(さやまき)」刀の鞘に葛藤(つづらふじ)の蔓などを巻きつけたものを指すが、中世にはその形の刻み目をつけた漆塗りとなっていた。

「能登守光村」幕府御家人で評定衆ともなった三浦光村(元久元(一二〇五)年~宝治元(一二四七)年)は三浦義村四男。ウィキの「三浦光村」によれば、『幼少時代は僧侶にすべく鶴岡八幡宮に預けられ、公暁の門弟となるが、後に実家である三浦氏に呼び戻されたようである』。「吾妻鏡」での光村の初見は建保六(一二一八)年九月であるが、『将軍御所での和歌会の最中に鶴岡八幡宮で乱闘騒ぎを起こして出仕を停止させられた』という不名誉な『記事である。この段階では幼名の「駒若丸」を名乗っており、この後に元服して光村と改名した。「光」の字は烏帽子親子関係を結んだ名越光時から偏諱を受けたものとされている』。貞応二(一二二三)年には『北条重時・結城朝広とともに新将軍・三寅(後の九条頼経)の近習に任じられる。以後』、二十年の長きに渡って『頼経の側近として仕え』、寛元二(一二四四)年に『頼経が息子頼嗣に将軍職を譲ると、光村はこれを補佐する意図を以って鎌倉幕府評定衆の一人に加えられた。光村は武芸に秀でると共に管弦に優れ、藤原孝時から伝授を受けた琵琶の名手であった』。既に見てきた通り、第三代『執権北条泰時が死去すると、幕府は執権北条氏派と将軍派に分裂して対立を続け』、寛元四(一二四六)年に『将軍九条頼経を擁する名越光時ら一部評定衆による』第五代『執権北条時頼排除計画が発覚する』(還元の政変)。『この計画には光時の烏帽子子である光村も加担していたが、時頼は北条氏と三浦氏の全面衝突を避けたいと言う思惑から、光村の問題は不問に付し』、『京に護送される頼経の警護を命じた』。ここでも「吾妻鏡」から引くように、『光村は鎌倉に戻る際に頼経の前で涙を流し、「相構へて今一度鎌倉中に入れ奉らんと欲す」と語り、頼経の鎌倉復帰を誓ったという』。『また、この時に頼経の父で朝廷の実力者である九条道家と通じたとする見方もある。光村は道家を後ろ盾とした反北条・将軍派の勢力をまとめる急先鋒として、北条氏に危険視されていた』。翌宝治元(一二四七)年五月二十八日、妖しくも『頼経が建立した鎌倉五大明王院』を殊更に尊崇厚遇したとあって、「吾妻鏡」の同日の条からは、『これが世を乱す源になったとされ』、同年六月、『ついに鎌倉で三浦一族と北条氏一派との武力衝突が起こると、光村は先頭に立って奮戦し、兄泰村に決起を促すが、泰村は最後まで戦う意志を示さず』、『時頼と共に和平の道を探り続けた。だが総領泰村の決起がないまま』、『安達氏を中心とする北条執権方の急襲を受けた三浦氏側は幕府軍に敗れ、残兵は源頼朝の墓所・法華堂に立て籠もった。光村は「九条頼経殿が将軍の時、その父九条道家殿が内々に北条を倒して兄泰村殿を執権にすると約束していたのに、泰村殿が猶予したために今の敗北となり、愛子と別れる事になったばかりか、当家が滅ぶに至り、後悔あまりある」と悔やんだとされている。光村は兄の不甲斐なさを悔やみ、三浦家の滅亡と妻子との別れを嘆きながら、最後まで意地を見せ、敵方に自分と判別させないように自らの顔中を刀で削り切り刻んだのち、一族と共に自害した(宝治合戦)』。

『「古今著聞集」二十』「古今著聞集」の「巻第二十 魚虫禽獣」の次の条(新潮日本古典集成を参考にした)。

   *

   足利左馬入道義氏の飼ひ猿、能く舞ひて纏頭を乞ふ事

 足利左馬の入道義氏朝臣、美作國より、猿をまうけたりけり。その猿、えもいはず、舞ひけり。入道、將軍の見參に入れたりければ、前(さき)の能登守光村に鼓(つづみ)うたせられて、舞はせられけるに、まことに其の興ありてふしぎなりけり。けんもさの直垂・小袴に、さはらまきさせて[やぶちゃん注:この伝本はこれであるが、「小腹巻」のことか。簡易の腹を蔽う鎧である。版本では柳田の示した「さやまき」である。シチュエーションとしては、ミニチュアの鞘巻の方がいい。]、烏帽子をせさせたりけり。はじめはのどかに舞ひて、末(すゑ)ざまには、せめふせければ、上下、めをおどろかして興じけり。舞ひはてては、必ず、纏頭をこひけり。とらせぬかぎりは、いかにも[やぶちゃん注:どうしても。]いでざりければ、興あることにて、舞はせては、かならず、纏頭をとらせけり。件の猿、やがて、光村あづかりて飼ひけるを、馬屋の前につなぎたりけるに、いががしたりけん、馬に背中をくはれたりけり。そののち、舞ふこともせざりければ、念なきこと、かぎりなし。

   *

これは実は「吾妻鏡」にも載っているのである。寛元三(一二四五)年四月二十一日の条である。

   *

廿一日乙酉。天晴。左馬頭入道正義自美作國領所稱將來之由。獻猿於御所。彼猿舞蹈如人倫。大殿幷將軍家召覽于御前。爲希有事之旨。及御沙汰。教隆云。是匪直也事歟。

やぶちゃんの書き下し文

二十一日乙酉。天、晴る。左馬頭入道正義(まさよし)[やぶちゃん注:義氏の法名。]、美作國の領所より將來の由を稱し、猿を御所に獻ず。彼(か)の猿の舞蹈は人倫のごとし。大殿[やぶちゃん注:頼経。]幷びに將軍家御前に召覽(しやうらん)す。希有(けう)の事たるの旨、御沙汰に及ぶ。教隆[やぶちゃん注:清原教隆。]、云はく、「是れ、直(ただ)なる事に匪(あらざ)るか」と。

    *

当時の正義(義氏)の美作国内の領所は垪和郷(はがごう)で、これは現在の岡山県久米郡美咲町ちょう)中垪和(が)附近と推定される(グーグル・マップ・データ)。清原教隆(正治元(一一九九)年~文永二(一二六五)年)は幕府抱えの儒者。清原頼業(よりなり)の孫で家学の明経(みょうぎょう)道を継ぎ、幕府に仕え、将軍頼嗣及び次代の宗尊親王の侍講となっている。金沢実時を導き、実時の金沢文庫創設に影響を与えた。晩年、京都に帰り、大外記となった。

「今より七百年ばかり前の事實なり」本書は大正三(一九一四)年刊であるから、六百六十九年前。

「郢曲(えいきよく)」平安時代から鎌倉時代にかけての日本の宮廷音楽の内で、「歌いもの」に属するものの総称。語源は春秋戦国時代の楚の首都郢で歌唱されたという卑俗な歌謡に由来する。

「梁塵祕抄」以下は「梁塵秘抄」の「巻第二」に載る一首。新潮日本古典集成版の頭注を参考にして注する。

「御厩(みまや)」「みうまや」の約。

「絆(きづな)」猿を繋ぎ止めておく綱。

「さぞ遊ぶ」「あんな風に、まあ! 遊ぶこと!」。

「常磐(ときは)」新潮日本古典集成版の頭注は『地名か』とする。

「楢柴(ならしば)」楢(ブナ目ブナ科コナラ属 Quercus の総称であるが、その中でも主要な種とされるのあミズナラ Quercus crispula)の木の枝。

「ちうとろ」ひらりひらりと。

「搖(ゆ)るぎて裏返(うらがへ)る」これは思うに、猿がトンボを打つことを言っているのであろう。]

和漢三才圖會卷第三十八 獸類 豰(こく) (仮想妖獣? ジャイアントパンダ?/ベンガルヤマネコ?)

 

Koku

 

こく  黃腰獸

 

本綱黃腰獸似豹而小腰以上黃以下黒形類犬又云鼬

身貍首長則食母形雖小而能食虎及牛鹿

 

 

こく  黃腰獸

【音、「斛〔コク〕」。】

 

「本綱」、黃腰獸、豹に似て、小なり。腰より以上は黃なり。以下は黒し。形、犬に類す。又、云はく、鼬〔(いたち)〕の身、貍〔(り)〕の首〔と〕。長ずるときは、則ち、母を食ふ。形、小なりと雖も、能く虎及び牛・鹿を食う。

[やぶちゃん注:大修館書店「廣漢和辭典」によれば、「執夷(シツイ)」とも呼び、虎や羆(ひぐま)に似るという、仮想幼獣。現行、この「」は他にイノシシ・イノシシ・子豚の意があるが、叙述とは一致しない。単色の図(出所不明)は如何にも実在しそうに見えるが、どうもピンとこない。種同定した記載も見当たらない。敢えて言うなら、ネコ目ネコ科ヒョウ属ヒョウ Panthera pardus の劣性遺伝により突然変異した黒変種(「クロヒョウ」と呼ぶが、そういう種が存在するのではない)を誤認したものかも知れぬと思ったが、中文辞書の「漢語網」では、ジャイアントパンダ』(哺乳綱食肉目クマ科ジャイアントパンダ属ジャイアントパンダ Ailuropoda melanoleuca に同定していて、ちょっとびっくりした。しかし、言われてみれば、パンダの白色帯が黄色く汚れるのは見たことがあるし、中文では「大熊猫」でヒグマに似るというのと一致するし、実際、小型哺乳類を食べることもあり、他のクマ類と同様、肉食を含む雑食性の特徴も僅かながら保持しており、気性も実際には荒い。但し、同種は既に虞」で比定候補の有力な一つとして出てはいる。

 

「貍〔(り)〕」これは「たぬき」とも読める(東洋文庫訳はそう振っている)が、実は、もとは「野猫」を指し、これはベンガルヤマネコ(ネコ科ベンガルヤマネコ属ベンガルヤマネコ Prionailurus bengalensis)等のヤマネコ類をも指す語であり、ここで獰猛さを考えると、タヌキではなく、そうした類と考えた方が腑に落ちる。次注も参照のこと。

「長ずるときは、則ち、母を食ふ」これは不孝の獣で、梟が不当にもそれとされてきた。さても、そこで和漢三才圖會卷第四十四 山禽類 鴞(ふくろふ)(フクロウ類)に於いて、

   *

孟康が云はく、『梟、母を食ふ。破鏡は、父を食ふ』〔と〕、破鏡とは貙〔(ちゆう)〕のごとくにして、虎の眼の獸〔(けもの)〕なり【貙は狸に似たる獸〔なり〕。】。

   *

と記してあったのを思い出した。この「貙〔(ちゆう)〕」「虎の眼の獸〔(けもの)〕」「狸に似たる獸」現代仮名遣で「チュウ」獣の名で、大きさは狗(く:イヌ・クマ・トラなどの小形種のものの子)ほどで貍(前注通り、ヤマネコ類と採る)のような紋様があるとする、「貙虎(ちゅうこ)」とも。「爾雅注疏」の「釋獸」に「貙似貍【疏:字林云貙似貍而大一名郭云今山民呼貙虎之大者爲貙豻……」と出、また「説文解字注」の「犬部の「」には「郭云今貙虎也大如狗文似貍」とある(以上はK'sBookshelf 辞典・用語 漢字林」に拠った)のである。私は以上から、前に掲げたベンガルヤマネコのようなヤマネコ類の変異個体をも同定候補の一つとすべきであるように感じているのである(因みに同種は中国にも分布する)。

和漢三才圖會卷第三十八 獸類 駮(はく) (仮想妖獣)

 

Haku

 

はく    玆白

【音博】

 

 

本綱及三才圖會云中曲山有駮狀如馬白身黒尾一角

虎足鋸牙能食虎豹音如振鼓佩之可以禦

苑云鵲食猬猬食鵔食豹豹食駮駮食虎

 

 

はく    玆白〔(じはく)〕

【音、「博」。】

 

 

「本綱」及び「三才圖會」に云はく、『中曲山に、駮、有り。狀、馬のごとく、白き身、黒き尾、一角。虎の足、鋸の牙。能く虎・豹を食ふ。音(こへ[やぶちゃん注:ママ。])、振鼓〔(ふりつづみ)〕のごとし。之れを〔の骨(或いは角?)を〕佩ぶれば、以つて[やぶちゃん注:「凶」の異体字。]を禦ぐべし』〔と〕。

苑〔(ぜいゑん)〕」に云はく、『鵲〔(かささぎ)〕、猬〔(はりねずみ)〕を食ひ、猬、鵔〔(しゆんぎ)〕を食ひ、鵔、豹を食ひ、豹、駮を食ひ、駮、虎を食ふ』〔と〕。

[やぶちゃん注:「山海経」の「西山経」に上記の通り出、「海外北経」にも出る仮想妖獣。様態はユニコーン(Unicorn)に酷似しており、文化的連関性は不明ながら、ユニコーンも非常に獰猛であり、その角が蛇などの毒で汚された水を清める力があるとするのは、凶事を防ぐという部分で親和性があるようには思われる。

 

『「本綱」及び「三才圖會」に云はく……』「本草綱目」の「虎」の「附録」には、

   *

「山海經」云、駮、狀如馬白身黒尾一角鋸牙。能食虎豹。「周書」謂之茲白。「説苑」云、師曠言鵲食猬猬食駿駿食豹豹食駮駮食虎。

   *

で、良安はほぼ丸写ししていることが判る。「三才図会」のそれは国立国会図書館デジタルコレクションの画像の

「振鼓」は和名。「鼗(とう)」が正しい漢名。中国・朝鮮・日本の太鼓の一種で、「鞉」「鞀」とも書き、中国では「鞉牢」とも記した。日本では「鞀鼓」と記したこともあるが、「振鼓(ふりつづみ)」が古形で、所謂、「でんでん太鼓」(小型の丸胴の両面太鼓に柄を差し通し、胴に結びつけた短い二本の紐の先端に小さい球をつけ、柄を回し、球で革面を打ち鳴らすもの)の原型である。二つの胴を上下に重ねた四革面のものを「路鼗」、三つのものを「雷鼗」、四つのものを「霊鼗」と称し、「礼記」「論語」などの古文献に記されており、漢以後から近年まで雅楽に使用された。

苑〔(ぜいゑん)〕」前漢末の学者劉向(りゅうきょう)撰になる逸話集。全二十巻。前賢先哲の逸話を記録したもので、君道、臣術などの二十篇から成り、一篇を一巻とし、各篇の初めに序説があり、その後に逸話を列挙している。元来は先秦及び漢代の書から「天子を戒め」るに足る遺聞逸事を採録したとするもので、現存する諸子百家の書と、かなり重複している。しかし、すでに佚してしまい、本書にしかみえないものもあり、今日からみれば貴重な古代説話集である(小学館「日本大百科全書」に拠った)。]

「鵲〔(かささぎ)〕」スズメ目カラス科カササギ属カササギ亜種カササギ Pica pica sericea

「猬〔(はりねずみ)〕」「蝟」に同じで、哺乳綱 Eulipotyphla目ハリネズミ科ハリネズミ亜科 Erinaceinae。背は体毛が変化した棘で被われている。同種は日本を除く東アジアにも棲息する。これについては、和漢三才圖會第四十三 林禽類 鵲(かささぎ)で「本草綱目」から、

   *

「淮南子」に云はく、『鵲の矢(くそ)、蝟〔(はりねづみ)〕に中〔(あた)〕れば、蝟、卽ち反つて、受け、喙〔(ついば)〕む【火、金に勝つの理〔(ことわり)〕なり。】」〔と〕。

   *

と引いているのであるが、そこで私は以下のように疑問を呈した

   *

「淮南子」(前漢の武帝の頃に淮南(わいなん)王であった劉安(高祖の孫)が学者達を集めて編纂させた一種の百科全書的性格を備えた道家をメインに据えた哲学書。日本では昔からの読み慣わしとして呉音で「えなんじ」と読むが、そう読まねばならない理由は、実は、ない)。同書の「説山訓」に、

膏之殺鱉、鵲矢中蝟、爛灰生蠅、漆見蟹而不幹、此類之不推者也。推與不推、若非而是、若是而非、孰能通其微。

とあるのであるが、どうも時珍が言っていることと真逆のことを言っている気がする。さても東洋文庫の注を見ると、そこに『ここは『淮南子』の文を引いたことになっているが実際の『江南子』(説山訓)には「鵠矢中ㇾ蝟(注)中亦殺也」』(注は「中(あた)るは亦「殺(ころ)す」なり)『とある。ここの良安の文は『本草綱目』鵲〔集解〕の時珍の言をそのまま引いたもので、これでは鵲より蝟の方が強いことになる。『淮南子』原文では蝟より鵲の方が強いことになる。ところで『本草綱目』猬(蝟)[やぶちゃん注:ハリネズミの現代中国語名は「刺猬」である。]〔集解〕では陶弘景の言として「(蝟)能跳入虎耳中。而見鵲便自仰腹受啄。物相制如此」とある。これによれば飼より鵠の方が強いことになる』とある。

   *

ここにも伝承の混乱が認められると言える。

「鵔〔(しゆんぎ)〕」キジ目キジ科 Chrysolophus 属キンケイ Chrysolophus pictus。私の和漢三才圖會第四十二 原禽類 錦雞(きんけい)を見られたい。]

和漢三才圖會卷第三十八 獸類 騶虞(すうぐう) (仮想聖獣)

 

Suugu

すうぐう 酋耳

騶虞

 

ツヱ イユイ

[やぶちゃん注:先行する「獬豸(かいち)(仮想聖獣)」で既注であるが、「すうぐう」の読みはママ。]

 

本綱酋耳狀似虎白而黒文尾長於身太平則至不食生

物食自死物見虎豹卽殺之

三才圖會云周文王時見乘之日行千里詩召南壹發五

豝于嗟乎騶虞是【賈誼新書以詩騶虞爲騶人虞人非獸恐鑿也】

 

 

すうぐう 酋耳〔(しうじ)〕

騶虞

 

ツヱ イユイ

 

「本綱」、酋耳は、狀、虎に似て、白くして黒〔き〕文〔(もん)〕あり。尾、身より長し。太平のときは、則ち、至る。生きたる物を食はず、自死の物を食ふ[やぶちゃん注:自然死した動物のみを食う腐肉食である。]。虎・豹を見れば、卽ち、之れを殺す[やぶちゃん注:前条が食の限定条件である以上、殺しても、それらを食うことはしないのである。というより、他の獣を襲って食い殺す一般に実在するトラ(霊性を持たない個体)やヒョウは、騶虞にしてみれば、「仁」のない下等なあるべきでない生き物であり、だからこそ見つければ、殺すのである。後注の「酋耳」引用の説も参照されたいが、殺したそれらを食うとすれば、「騶虞」=「酋耳」説を保持していては甚だ矛盾が生じることになる。]。

「三才圖會」に云はく、『周の文王の時、見る[やぶちゃん注:出現した。]。之れに乘れば、日に行くこと、千里』とあり、「詩」[やぶちゃん注:詩経。]の「召南」に、『壹〔(ひと)〕たび〔に〕五〔つの〕豝〔(めのゐのこ)〕[やぶちゃん注:のイノシシ。]を發〔(う)〕つ。嗟乎(あゝ)騶虞』とあるは、是れなり【「賈誼〔(かぎ)〕新書」は、「詩」の「騶虞」を以つて、騶人〔(すうじん)〕・虞人〔(ぐじん)〕と爲し、獸に非ずとすと。恐らくは、鑿〔(さくせつ)〕[やぶちゃん注:内容が乏しく、真実味の稀薄な説。誤った説。]なり。】』〔と〕。

[やぶちゃん注:以下の冒頭部は先行する「獬豸(かいち)(仮想聖獣)」で既注したものであるが、転写する。この漢字では「すうぐ」或いは「すうご」としか読めない。伝説上の生き物で、「騶吾(すうご)」とも書く(但し、異名とするように語られている「酋耳」は後注する)ウィキの「騶虞」によれば、『品格を持った仁徳を示す瑞獣とされ仁獣と称される』。『中国の文献では一般的に騶虞は、仁徳をもった君主が現れたときに姿を見せる瑞獣として描かれている。姿は虎のようだが』、『性質穏健で獣を捕食しない』とする。「説文解字」では、『尾が体よりも長く、黒い斑点を持つ色の白い虎のようなかたちをしていると描写されている』。「山海経」の『「海内北経」に記載されている騶吾は騶虞とおなじものであると見られており、「騶虞」という表記で記されている文献もある』。『騶吾は体に五彩の色をそなえた虎のような大きさの獣で、尾が体よりも長いとされる』。「三才図会」には、『周の文王の時代に姿を現わした』『という伝承が記されている。明の永楽帝の時代には、開封で捕らえられた騶虞が皇帝に贈られたという記録がある。また山東での目撃談もあったという。この目撃談は黄河の水が澄んだことや、ベンガルまで派遣された鄭和艦隊の分遣隊がキリンを持ち帰ったことなどと併せて瑞祥とされた』。『騶虞の語が登場する最古の例は』「周礼」の『「春官」で』、また、「詩経」に『収められた一篇「騶虞」の題およびその一節』『などもあるが、ここで述べられている騶虞とは狩猟に関することを司る役人の職名(騶人・虞人)』であって、『仁獣としての存在を意味しているかどうかは疑わしいと魯詩学派(漢の時代に』出現した「詩経」解釈学派の一つ)『では説かれていた』。『仁獣である証しとして、肉として食べるのは自然と死んだ獣のみで、生活をしている獣を狩り捕って食べることはないとされている。また、草木などに対しても同様で必用以上に踏み荒らして移動をすることをしないとい』。『同様に獣を捕食しないとされる中国に伝わる霊獣には酋耳(しゅうじ)というものもある』。『オランダの中国学者ヤン・ユリウス・ローデウェイク・ドイフェンダック』(Jan Julius Lodewijk Duyvendak 一八八九年~一九五四年)『は、白い体に黒い模様をもつという記述から』、『永楽帝に贈られたという騶虞はジャイアントパンダ』(哺乳綱食肉目クマ科ジャイアントパンダ属ジャイアントパンダ Ailuropoda melanoleuca『ではなかったか』と一九三〇年代に『主張している。日本ではあまりとりあげられていないが、欧米などでは彼の主張に追随して現在の著述家のなかにも騶虞はもともとジャイアントパンダを指していたものではないかと考える者がいる』とある。

 

「酋耳」(しゅうじ)を良安は「騶虞」の異名扱いしている。これはこの本文冒頭部を「本草綱目」によったことによるもので、「巻五十一上」の「虎」に「附錄」として「酋耳」が掲げられていて、

   *

酋耳 「瑞應圖」云、酋耳似虎大、不食生物見、虎豹卽殺之。太平則至。郭璞云、卽騶虞也。白虎黑文尾長於身。

   *

と郭璞(かくはく 二七六年~三二四年:西晋・東晋の文学者)が言っている「酋耳」=「騶虞」説ことを無批判に受け入れてしまっているからにほかならない。しかし、ウィキの「酋耳」によれば、『古代中国の伝説上の生き物。大きな虎のようなすがたをしているとされる』。『見た目は虎のようで体はとても大きく尾もとても長いが、決して生きた獣を捕食しないという。ただし、虎や豹を目にすると態度は変わり必ず襲ってそれを殺すと伝えられていた』。『狩り捕った虎や豹は食べる』『とされる場合もあるが、酋耳は狩るのみで』、『その肉を食べたりはしないとも語られる』。「三才図会」では、『王者の威勢が四夷に及んだ際に世に出現する獣であるとされている』。「逸周書」の『「王会」の解では』、『各地から贈られて来ためずらしい禽獣魚介のうちのひとつとして贈られていることが記されているが、これを献上している央林』(「三才図会」では「英林山」とする。後のリンク先画像参照)『については』、『西の方角に属する地である』『以外にはあまり詳しく分かっていない』。『同様に獣を捕食しないとされる中国に伝わる霊獣には騶虞(すうぐ)というものもあり、そちらは仁獣とされている』。『性質が似通っていることから同じ霊獣と見られたり、混同が行われて来ており「虎や豹を見ると狩るが、食べない」と言われたりする点や「長い尾が特徴である」とされる点など』、『互いの属性がまじりつつ伝わっている面もある』とある。

「虎」既出既注

「豹」ネコ目ネコ科ヒョウ属ヒョウ Panthera pardus。三つ後で独立項。

『「三才圖會」に云はく……「騶虞」の図は「鳥獸三」のこちらで、解説は次の頁我々は良安の無批判な迂闊な「酋耳」=「騶虞」説丸呑みによって騙されるので注意しなくてはならない。明の王圻の「三才図会」では、「騶虞」と「酋耳」は別な動物として記されてあるからである。良安の引用はご覧の通り「騶虞」のものであるが、「酋耳」は「鳥獸四」のこちらで、「騶虞」とは離れた位置にあり、図も遙かに狼か狐みたような迫力のない、正直、ショボい姿である(但し、天下泰平の世に出現するという内容はあるにはあるので、先の引用の如く伝承での混同混乱が生じたことは事実である)。個人的には「三才図会」の絵姿からは仁獣であるのは「騶虞」としか思えない

「周の文王」(紀元前一一五二年~紀元前一〇五六年)は周王朝の始祖。

『「詩」の「召南」に、『壹〔(ひと)〕たび〔に〕五〔つの〕豝〔(めのゐのこ)〕を發〔(う)〕つ。嗟乎(あゝ)騶虞』とあるは、是れなり【「賈誼〔(かぎ)〕新書」は、「詩」の「騶虞」を以つて、騶人〔(すうじん)〕・虞人〔(ぐじん)〕と爲し、獸に非ずとすと。恐らくは、鑿〔(さくせつ)〕なり。】』「詩経」の「国風」の「召南」にある「騶虞」は以下(二章)。

   *

 

  騶虞

 

彼茁者葭

壹發五豝

于嗟乎騶虞

 

彼茁者蓬

壹發五豵

于嗟乎騶虞

 彼(か)の茁(さつ)たる者は葭(よし)

 壹たび發して 五豝(ごは)

 于嗟乎(あああ) 騶虞よ

 彼(か)の茁(さつ)たる者は蓬(よもぎ)

 壹たび發して 五豵(ごしよう)

 于嗟乎(あああ) 騶虞よ

 

   *

「茁」は草の芽がさっと出ることで、春の季節の始まりを指し、それは同時に狩りの時節の到来を意味する。「壹發」ただ一度、弓矢を放てば。「五豝」はその国の資源の豊饒の言い換え。参考にした一九五八年岩波書店刊「中国詩人選集 詩經國風」(吉本幸次郎註)では、やはり『なさけぶかい』仁獣、『義(みち)ある獣』である騶虞とし、『なお漢の魯詩学派』((漢代に出た「詩経」解釈学派の一つ)『では、騶虞を狩場をあずかる役人と説いていたようであるが、いまそれを顧慮しない』とし、訳では『騶虞〔のようにえらいとのさま〕』という君主を讃えるものとしている。しかし、そうすると、この詩句の表現は比喩としても不適切であると私は感ずる。「蓬」は、吉川氏の註では、江戸時代の本草家小野蘭山は現行の「蓬」、則ち、キク亜科ヨモギ属変種ヨモギ Artemisia indica var. maximowicziiではなく、キク目キク科 Asteraceaeムカシヨモギ属(ヒメジョオン属・エリゲロン属)ムカシヨモギErigeron acris var. kamtschticusに比定している。ムカシヨモギは茎高は三十~六十センチメートル。葉は倒披針形から長披針形。九~十月に緩い散房状又は円錐花序を造り、頭花を多数つける。頭花は雌花と雄花とからなるが、雌花に二型がある。一つは細い舌状で、他の一つは細い筒状である。つまり、頭花が三形の小花からなることが特徴である。本邦の中部地方以北の本州から、極東アジアに広く分布する(ここは小学館「日本大百科全書」に拠った)。「豵」は吉川氏は『いのししの一歳のもの』とする。東洋文庫訳では「騶人虞人」の部分に注して、『騶とは天子の所有になる狩り場のことで、騶人虞人とはそこを管理する役人のこと。この説によって先の『詩経』を譯すれば、「一たび矢を放てば五匹の豕をうち取る。ああ見事な騶虞の人々よ」となる』とある。]

2019/03/06

蒲原有明 有明集(初版・正規表現版) 人魚の海 / 蒲原有明 有明集(初版・正規表現版)~完遂

 

 人魚の海

 

『怪魚(けぎよ)をば見(み)き』と、奧(おく)の浦(うら)、

奧(おく)の舟人(ふなびと)、――『怪魚(けぎよ)をか』と、

武邊(ぶへん)の君(きみ)はほほゑみぬ。

 

『怪魚(けぎよ)をばかつて霧(きり)がくれ

見(み)き』と、寂(さび)しうものうげに

舵(かぢ)の柄(え)を執(と)る老(おい)の水手(かこ)。

 

武邊(ぶへん)の君(きみ)はほほゑみぬ、

水手(かこ)またいふ、『その面(おもて)

美女(びぢよ)の眉目(まみ)濃(こ)く薰(かを)りぬ』と。

 

水手(かこ)はまたいふ、『人魚(にんぎよ)とは

げにそれならめ、まさめにて

見(み)しはひとたび、また遇(あ)はず。』

 

船(ふね)はゆらぎて、奧(おく)の浦(うら)、

霧(きり)はまよひて、光(ひかり)なき

入日(いりひ)惱(なや)める秋(あき)の海(うみ)。

 

『げにかかりき』と、老(おい)の水手(かこ)、

『その日(ひ)もかくは蒼白(あをじろ)く

海(うみ)は物(もの)さび呼息(いき)づきぬ。

 

『舷(ふなばた)ふるへわななきて、

波(なみ)のうねうね霜(しも)じみの

色(いろ)に鈍(にば)みき、そのをりに――』

 

武邊(ぶへん)の君(きみ)はほほゑみぬ、

水手(かこ)の翁(おきな)は舵(かぢ)とりて、

また呟(つぶや)ける、『そのをりに――』

 

武邊(ぶへん)の君(きみ)は眼(め)を放(はな)ち

海(うみ)を見(み)やれば、老(おい)が手(て)に

馴(な)れたる舵(かぢ)の軋(きし)む音(おと)。

 

船(ふね)はこの時(とき)脚重(あしおも)く、

波間(なみま)に沈(しづ)み朽(く)ち入(い)りて

ゆくかのさまにたじろぎぬ。

 

水手(かこ)の翁(おきな)もほほゑみぬ、

凶(まが)の時(とき)なり、奧(おく)の浦(うら)、

ああ人(ひと)も人(ひと)、船(ふね)も船(ふね)。

 

昔(むかし)の夢(ゆめ)ぞほほゑめる。――

『そのをりなりき、たちまちに

波(なみ)は燃(も)えぬ』と、老(おい)の水手(かこ)。

 

つぎてまたいふ、『海(うみ)にほひ、

波(なみ)は華(はな)さき、まどかにも

夕日(ゆふひ)の臺(うてな)かがやきぬ。

 

『波(なみ)は相寄(あひよ)りまた歌(うた)ふ、

熖(ほのほ)の絹(きぬ)につつみたる

珠(たま)のささやく歌(うた)の聲(こゑ)。

 

『そのをりなりき、眼(ま)のあたり

人魚(にんぎよ)うかびぬ、波(なみ)は燃(も)え、

波(なみ)は華(はな)さき、波(なみ)うたふ。

 

『黃金(こがね)の鱗(うろこ)藍(あゐ)ぞめの

潮(しほ)にひたりて、その面(おもて)

人魚(にんぎよ)は美女(びぢよ)の眉目(まみ)薰(かを)る。』

 

昔(むかし)の夢(ゆめ)ぞかへりたる、――

凶(まが)の時(とき)なり、奧(おく)の浦(うら)、

ああ時(とき)も時(とき)、海(うみ)も海(うみ)。

 

『瞳子(ひとみ)は瑠璃(るり)』と、老(おい)の水手(かこ)、

『胸乳(むなぢ)眞白(ましろ)に、濡髮(ぬれがみ)を

かきあぐる手(て)のしなやかさ。――

 

『武邊(ぶへん)の殿(との)よ、かかりき』と、

言(い)へば諾(うなづ)き、『見(み)しはそも――』

殿(との)はほほゑみ、『何處(いづこ)ぞ』と。

 

『殿(との)よ、ここぞ』と、老(おい)の水手(かこ)

眼(め)をみひらけば、霧(きり)の墓(はか)、

ただ灰色(はいいろ)の海(うみ)の面(おも)。

 

昔(むかし)の夢(ゆめ)はあざわらう、――

『何處(いづこ)』と問(と)へば『ここ』と指(さ)す

手(て)こそわななけ老(おい)の水手(かこ)。

 

船(ふね)は今(いま)しも帆(ほ)を垂(た)れぬ、

人(ひと)囚(とら)はれぬ、霧(きり)の海(うみ)、

ただ灰色(はいいろ)の帷(とばり)のみ。

 

『げにかかりき』と、老(おい)の水手(かこ)、

『船(ふね)も狹霧(さぎり)も海原(うなばら)も、

胸(むね)のとどろき、今日(けふ)もまた――』

 

またいふ、『あなや、渦(うづ)まきて、

霧(きり)は狹霧(さぎ)を吞(の)み去(さ)りぬ、

殿(との)よ、沒日(いりひ)は波(なみ)を焚(た)く。』

 

武邊(ぶへん)の君(きみ)は身(み)じろがず、

帆(ほ)は、――老(おい)の水手(かこ)『見(み)じ』とただ――

帆(ほ)は紅(くれなゐ)に染(そま)りたり。

 

『あな見(み)じ』とこそ老(おい)の水手(かこ)、――

人魚(にんぎよ)うかびぬ、たちまちに

武邊(ぶへん)の君(きみ)が眼(ま)のあたり。

 

二(ふた)つに波(なみ)はわかれ散(ち)り、

人魚(にんぎよ)うかびぬ、身(み)にこむる

薰(かをり)も深(ふか)し波(なみ)がくれ。

 

人魚(にんぎよ)の聲(こゑ)は雲雀(ひばり)ぶえ、――

波(なみ)は戲(たはぶ)れ歌(うた)ひ寄(よ)る

黑髮(くろかみ)ながき魚(うを)の肩(かた)。

 

人魚(にんぎよ)の笑(ゑみ)はえしれざる

海(うみ)の靑淵(あをぶち)、その淵(ふち)の

蠱(まじ)の眞珠(またま)の透影(すいかげ)か。

 

人魚(にんぎよ)は深(ふか)くほほゑみぬ、――

戀(こひ)の深淵(ふかぶち)人(ひと)をひき、

人(ひと)を滅(ほろぼ)すほほゑまひ。

 

武邊(ぶへん)の君(きみ)は怪魚(けぎよ)を、きと

睨(にら)まへたちぬ、笑(ゑみ)の勝(かち)、――

入日(いりひ)は紅(あか)く帆(ほ)を染(そ)めぬ。

 

武邊(ぶへん)の君(きみ)は船(ふね)の舳(へ)に、

血(ち)は氷(こほ)りたり、――海(うみ)の面(も)は

波(なみ)ことごとく燃(も)ゆる波(なみ)。

 

武邊(ぶへん)の君(きみ)は半弓(はんきゆう)に

矢(や)をば番(つが)ひつ、放(はな)つ矢(や)に

手(て)ごたへありき、怪魚(けぎよ)の聲(こゑ)。

 

ああ海(うみ)の面(おも)、波(なみ)は皆(みな)

をののき氷(こほ)り、船(ふね)の舳(へ)に

武邊(ぶへん)の君(きみ)が血(ち)は燃(も)えぬ。

 

痛手(いたで)に細(ほそ)る聲(こゑ)の冴(さ)え、

人魚(にんぎよ)は沈(しづ)む束(つか)の間(ま)も

猶(なほ)ほほゑみぬ、――戀(こひ)の魚(うを)。

 

むくいは(つよ)し、眼(め)に見(み)えぬ

影(かげ)の返(かへ)し矢(や)、われならで、

武邊(ぶへん)の君(きみ)は『あ』と叫(さけ)ぶ。

 

人魚(にんぎよ)ぞ沈(しづ)むその面(おも)に

武邊(ぶへん)の君(きみ)は亡妻(なきつま)の

ほほゑみをこそ眼(ま)のあたり。

 

亡妻(なき)の笑(ゑみ)、怪魚(けぎよ)の眼(め)と

怪魚(けぎよ)の唇(くちびる)、――悔(くい)もはた

今(いま)はおよばじ波(なみ)の下(した)。

 

昔(むかし)の夢(ゆめ)はひらめきて

闇(やみ)に消(き)え去(さ)り、日(ひ)も沈(しづ)み、

波(なみ)は荒(あ)れたち狂(くる)ひたつ。

 

暴風(あらし)のしまき、夜(よ)の海(うみ)、――

水手(かこ)の翁(おきな)はさびしげに

『船(ふね)には泊(は)つる港(みなと)あり。』

 

泊(は)つる港(みなと)に船(ふね)は泊(は)つ、

さあれすさまじ夢(ゆめ)のあと、

人(ひと)のこころの巢(す)やいづこ。

 

武邊(ぶへん)の君(きみ)はその日(ひ)より

こころ漂(たゞよ)ひ二日(ふつか)經(へ)て、

またたどり來(き)ぬ奧(おく)の浦(うら)。

 

領主(りやうしゆ)の館(たち)の太刀試合(たちじあひ)、

また夜(よ)の宴(うたげ)、名(な)のほまれ、

武邊(ぶへん)の君(きみ)は棄(す)て去(さ)りぬ。

 

二日(ふつか)を過(す)ぎしその夕(ゆふべ)、

武邊(ぶへん)の君(きみ)はそそりたつ

巖(いはほ)のうへにただひとり。

 

巖(いはほ)の下(もと)に荒波(あらなみ)は

渦(うづ)まきどよみ、ながめ入(い)る

おもひくるめく瑠璃(るり)の夢(ゆめ)。

 

帆(ほ)かげも見(み)えず、この夕(ゆふべ)、

霧(きり)はあつまり、光(ひかり)なき

入日(いりひ)たゆたふ奧(おく)の浦(うら)。

 

武邊(ぶへん)の君(きみ)に幻(まぼろし)の

象(すがた)うかびぬ、亡妻(なきつま)の

面(おも)わのゑまひ、――怪魚(けぎよ)の聲(こゑ)。

 

『幻(まぼろし)の界(よ)ぞ眞(まこと)なる』――

武邊(びへん)の君(きみ)はかく聞(き)きぬ、

痛手(いたで)にほそる聲(こゑ)の冴(さ)え。

 

ああ、くるめきぬ、眼(め)もあはれ、

心(こゝろ)もあはれ、靑淵(あをぶち)に

まきかへりたる渦(うづ)の波(なみ)。

 

武邊(ぶへん)の君(きみ)は身(み)を棄(す)てて

淵(ふち)に躍らす束(つか)の間(ま)を、

『父(ちゝ)よ』と風(かぜ)に呼(よ)ぶ聲(こゑ)す。

 

武邊(ぶへん)の君(きみ)の身(み)はあはれ

ゑまひの渦(うづ)に、幻(まぼろし)の

波(なみ)のくるめき、夢(ゆめ)の泡(あわ)。

 

『父(ちゝ)よ』と呼(よ)びぬ、奧(おく)の浦(うら)、

水手(かこ)の翁(おきな)はその聲(こゑ)を、

眠(ねぶ)らで聞(き)きぬ夜(よ)もすがら。

 

水手(かこ)の翁(おきな)は曉(あかつき)に

奧(おく)の浦(うら)べを『父(ちゝ)』と呼(よ)ぶ

姫(ひめ)のすがたにをののきぬ。

 

『姫(ひめ)よ、怪魚(けぎよ)かと魂消(たまぎ)えぬ、

は、は』と寂(さび)しう老(おい)の水手(かこ)、

『姫(ひめ)よ、さいつ日(ひ)わが船(ふね)に――』

 

『父(ちゝ)は人魚(にんぎよ)のあやかしに――』、

姫(ひめ)は嘆(なげ)きぬ、『父(ちゝ)はその

面(おも)わのゑみに誘(ひ)かれき』と。

 

『姫(ひめ)よ、武邊(ぶへん)の君(きみ)が矢(や)に

人魚(にんぎよ)は沈(しづ)み、夜(よる)の海(うみ)、

あらしの船(ふね)』と老(おい)の水手(かこ)。

 

姫(ひめ)は嘆なげ)きぬ、『名(な)のほまれ、

領主(りやうしゆ)の館(たち)の太刀試合(たちじあひ)、

父(ちゝ)は辭(いな)みてあくがれき。』

 

『姫(ひめ)よ、甲斐(かひ)なき人(ひと)の世(よ)』と

老(おい)は呟(つぶや)く、姫(ひめ)はまた

『父(ちゝ)は怪魚(けぎよ)棲(す)む海(うみ)の底(そこ)。』

 

ああ幾十度(いくそたび)、『父(ちゝ)』と呼(よ)ぶ

姫(ひめ)が聲(こわ)ねに力(ちから)なく、

海(うみ)はどよもす荒磯(あらいそ)べ。

 

姫(ひめ)は『母(はゝ)よ』と、聲(こゑ)ほそう、

『母(はゝ)よ』と呼(よ)べば、時(とき)も時(とき)、

日(ひ)はさしいづる奧(おく)の浦(うら)。

 

黃金(こがね)の鱗(うろこ)波(なみ)がくれ、

高波(たかなみ)白(しろ)くたち騷(さは)ぎ、

姫(ひめ)を渚(なぎさ)に慕(した)ひ寄(よ)る。

 

三(み)たび人魚(にんぎよ)を眼(ま)のあたり、

水手(かこ)の翁(おきな)は『三度(みたび)ぞ』と、

姫(ひめ)をまもりてたじろげば、

 

渚(なぎさ)かがやく引波(ひきなみ)の

跡(あと)に人魚(にんぎよ)は身(み)を伏(ふ)せて、

悲(かなし)み惱(なや)む聲(こゑ)の冴(さ)え。

 

姫(ひめ)は人魚(にんぎよ)をそと見(み)やる、

人魚(にんぎよ)は父(ちゝ)の亡骸(なきがら)を

雙(さう)の腕(かひな)にかき擁(いだ)き、

 

眞白(ましろ)き胸(むね)の血(ち)のしづく、

武邊(ぶへん)の君(きみ)が射(い)むけたる

矢鏃(やじり)のあとの血(ち)の痛手(いたで)。

 

人魚(にんぎよ)はやをらかなしげに

面(おもて)をあげぬ、悲(かな)しめど

猶(なほ)ほほゑめる戀(こひ)の魚(うを)。

 

人魚(にんぎよ)は遂(つひ)に(た)え入(い)りぬ、

姫(ひめ)はすずろに亡父(なきちゝ)の

むくろに縋(すが)り泣(な)き沈(しづ)む。

 

渚(なぎさ)どよもす高波(たかなみ)は

ふたたび寄(よ)せ來(く)、老(おい)の水手(かこ)、

『あなや』と叫(さけ)ぶ隙(ひま)もなく、

 

武邊(ぶへん)の君(きみ)が亡骸(なきがら)も、

姫(ひめ)も、人魚(にんぎよ)も、幻(まぼろし)の

波(なみ)にくるめく海(うみ)の底(そこ)。

 

水手(かこ)の翁(おきな)はその日(ひ)より

海(うみ)には出(い)でず、『まさめにて

三度(みたび)人魚(にんぎよ)を見(み)き』とのみ。

 

[やぶちゃん注:「ただ灰色(はいいろ)の海(うみ)の面(おも)。」及び「ただ灰色(はいいろ)の帷(とばり)のみ。」の「はいいろ」のルビはママ。

「昔(むかし)の夢(ゆめ)はあざわらう、――」の「わらう」はママ。

「人魚(にんぎよ)うかびぬ、たちまちに」は、底本では「人魚(にんぎよ)うかひぬ、たちまちに」であるが、例の正誤表にはない。しかし、これでは躓くので、例外的に「青空文庫」の「青空文庫」の「有明集」の(底本:昭和四三(一九六八)年講談社刊「日本現代文学全集」第二十二巻「土井晚翠・薄田泣菫・蒲原有明・伊良子清白・横瀬夜雨集」/入力・広橋はやみ氏/校正・荒木恵一氏/登録二〇一四年七月/最終更新二〇一五年十月)に従った。

「暴風(あらし)のしまき、夜(よ)の海(うみ)、――」ここ、音数律から言えば、「夜(よる)」だが、ママ。

「奧(おく)の浦(うら)べを『父(ちゝ)』と呼(よ)ぶ」ここは底本は、「奧(おく)の浦(うら)べを『父(ちゝ)と』呼(よ)ぶ」であるが、底本の「名著復刻 詩歌文学館 紫陽花セット」の解説書の野田宇太郎氏の解説にある、有明から渡された正誤表に従い、特異的に呈した。

「雙(さう)の腕(かひな)にかき擁(いだ)き、」は底本は、「雙(そう)の腕(かひな)にかき擁(いだ)き、」であるが、底本の「名著復刻 詩歌文学館 紫陽花セット」の解説書の野田宇太郎氏の解説にある、有明から渡された正誤表に従い、特異的に呈した。

 九頭見(くずみ)和夫氏の論文『明治時代の「人魚」像――西洋文化の流入と「人魚」像への影響について――』PDF)によれば、本詩篇「人魚の海」の初出は明治四〇(一九〇七)年一月発行『太陽』で、翌年、本詩集「有明集」に収録された物語詩であるが、後の「有明詩集」(大正一一(一九二二)年アルス社刊)『に付された蒲原有明自身の註によれば』、井原西鶴(寛永一九(一六四二)年~元禄六(一六九三)年)の「武道伝来記」(貞享四(一六八七)年刊の「巻二の四」である「命とらゝる人魚の海 忠孝しるる矢の根の事」を『素材として作られた翻案詩である』とされ(以下、有明の註有の引用があるが、漢字を恣意的に正字化し、促音表記を正字とし、コンマを読点に代えて示す)、

   *

西鶴の「武道傳來記」の中の一章に據つたものである。人魚の海と熟した言葉も西鶴の造句そのままを用ゐたが、人魚の出現するをりの形容などもまた一々西鶴の言葉に據つた。

   *

と有明の謂いを掲げられた上で、『この有明の付した自註を検証する前にまず両作品の梗概を記す』とされて、原点素材のかなり細かなシノプシスが述べられてある(リンク先を参照されたい)。私は同書を所持しないが、幸い、国立国会図書館デジタルコレクションの画像で岩波文庫のそれをここから読むことが出来る(凡そ五ページほどで長くない)。しかし、そこで、九頭見氏が指摘しているように、これは西鶴の翻訳詩篇化ではなく、翻案であって、西鶴の大団円型変形武辺物ではなく、原話にはない、「老」「水手」を美事に真面目なワキツレと変じさせた、一種の悲劇的なコーダを設定した夢幻能に近いものであることが判る。そこでは、諸西洋の文学を小川氏は引用され、この「老水手」が傍観者に過ぎない設定となっているという諸論を提示される。確かにそうだ。しかし乍ら、本邦の夢幻能の展開を考えると、ワキツレは常に危うい傍観者、則ち、禁断の世界にたまさか「踏み込んでしまった観客の一人」なのであり、その設定に私は何らの不満を抱かない。なお、小川氏はその後も、北原白秋の詩「紅玉」(「邪宗門」所収)や、森鷗外の小説「追儺」を対称考証材料として示され、遂には南方熊楠の「人魚の話」(リンク先は私の古い電子化仕儀)まで語られるという、実に面白い考察をなさっておられるので、是非、読まれんことを望む。

 本長詩を以って本「有明集」は詩篇本文を終わる。以下、奥附の二ページ前の左ページの著作目録。底本では全体が下方に配されてある。その後に奥附を画像で示した。]

 

 

 著作目錄

 

草わかば    

  明治三十五年一月新聲社發行

獨絃哀歌    

  明治三十六年五月白鳩社發行

春鳥集

  明治三十八年十月本鄕書院發行

 

[やぶちゃん注:以下、]

 

 

Ariakesyuokuduke

 

[やぶちゃん注:私の退屈な仕儀にお付き合い戴いた読者に心より感謝申し上げる。しかし、私は、蒲原有明の「有明集」全体をマニアックに突いた電子化データとして、私のやったことは無駄ではないと、大真面目に思う人種であることを最後に言い添えておきたい。]

蒲原有明 有明集(初版・正規表現版) 蠅 (ウィリアム・ブレイクの訳詩)

 

 

 

さ蠅(ばへ)よ、あはれ、

わがこころなき手もて、今、

汝(いまし)が夏の戯(たはぶ)れを

うるさきものに打拂(うちはら)ふ。

 

あらぬか、われや

汝(いまし)に似(に)たるさ蠅(ばへ)の身(み)、

あらぬか、汝(いまし)、さらばまた

われにも似(に)たる人(ひと)のさま。

 

われも舞(ま)ひ、飮(の)み、

かつは歌(うた)へども、終(つひ)の日(ひ)や、

差別(けぢめ)をおかぬ闇(やみ)の手(て)の

うち拂(はら)ふらむ、わが翼(つばさ)。

 

思(おも)ひわかつぞ

げにも命(いのち)なる、力(ちから)なる、

思(おも)ひなきこそ文目(あやめ)なき

死(し)にはあるなれ、かくもあらば、

 

さらばわが身(み)は

世(よ)にも幸(さち)あるさ蠅(ばへ)かな、

生(い)くといひ、將(は)た死(し)ぬといふ、

その孰(いづ)れともあらばあれ。

             ――ブ

 

[やぶちゃん注:これはイギリスの詩人で画家のウィリアム・ブレイク(William Blake 一七五七年~一八二七年)が一七九四年に刊行した詩画集の「無垢と経験の歌」(Songs of Innocence and of Experience)の中の「経験の歌」(Songs of Experience:これは一七八九年に彼が詩画集「無垢の歌」(Songs of Innocence)を出した四年後、その続篇として詩画集「経験の歌」の広告が一七九三年に出たが、結局、それは発行されることはなく、この一七九四年に既刊の「無垢の歌」と、その「経験の歌」が合本とされ、一つの詩画集「無垢と経験の歌」として刊行されたものであった)の中の一篇「The Fly」の訳詩である英文ウィキの「The Fly (poem)から引く。手書き彩色詩篇画像もリンクさせておく。なお、目次の「プレイク」は誤植で、本篇後書きのそれも「プ」のようにも見えるが(ポイントが小さく潰れていてよく判らない)、ここは良心的に「ブレイク」で表記しておいた。

   *

 

The Fly

 

Little Fly

Thy summer's play,

My thoughtless hand

Has brush'd away.

 

Am not I

A fly like thee?

Or art not thou

A man like me?

 

For I dance

And drink & sing;

Till some blind hand

Shall brush my wing.

 

If thought is life

And strength & breath;

And the want

Of thought is death;

 

Then am I

A happy fly,

If I live,

Or if I die.

 

   *]

蒲原有明 有明集(初版・正規表現版) 『ルバイヤツト』より

 

   『ルバイヤツト』より

 

    其一

 

泥沙坡(ナイシヤプル)とよ、巴比崙(バビロン)よ、花(はな)の都(みやこ)に住(す)みぬとも、

よしやまた酌(く)む杯(さかづき)は甘(うま)しとて、苦(にが)しとて、

間(たえま)あらせず、命(いのち)の酒(さけ)はうちしたみ、

命(いのち)の葉(は)もぞ散(ち)りゆかむ、一葉(ひとは)一葉(ひとは)に。

 

朝每(あさごと)に百千(ももち)の薔薇(ばら)は咲(さ)きもせめ、

げにや、さもあれ、昨日(きのふ)の薔薇(ばら)の影(かげ)いづこ、

初夏月(はつなつづき)は薔薇(ばら)をこそ咲(さ)かせもすらめ、ヤムシイド、

カイコバアドの尊(みこと)らのみ命(いのち)をすら惜(を)しまじを。

 

逝(ゆ)くものは逝(ゆ)かしめよ、カイコバアドの大尊(おほみこと)、

カイコスル彦(ひこ)、何(なに)はあれ、

丈夫(ますらを)ツアルもルスツムも誇(ほこ)らば誇(ほこ)れ、

ハチム王(わう)宴(うたげ)ひらけよ――そも何(なに)ぞ。

 

畑(はた)につづける牧草(まきぐさ)の野(の)を、いざ共(とも)に

その野(の)こえ行手(ゆくて)沙原(すなはら)、そこにしも、

王(わう)は、穢多(ゑた)はの差別(けぢめ)なし、――

金(きん)の座(ざ)に安居(あんご)したまへマアムウド。

 

歌(うた)の一卷(ひとまき)樹(こ)のもとに、

美酒(うまき)の壺(もたひ)、糧(かて)の山(やま)、さては汝(みまし)が

いつも歌(うた)ひてあらばとよその沙原(すなはら)に、

そや、沙原(しなはら)もまたの天國(てんごく)。

 

   其二

 

賢(さか)し教(をしへ)に智慧(ちゑ)の種子(たね)播(ま)きそめしより

われとわが手(て)もておふしぬ、さていかに、

收穫(とりいれ)どきの足穗(たりほ)はと問(と)はばかくのみ――

『水(みづ)の如(ごと)われは來(き)ぬ、風(かぜ)の如(ごと)われぞ逝(ゆ)く。』

       オマアカイアム

 

[やぶちゃん注:間(たえま)あらせず、命(いのち)の酒(さけ)はうちしたみ、」は底本では「間(たえま)あらせず、命(いのち)の酒(さけ)うちしたみ、」であり、「安居(あんご)」のルビは「あんこ」であるが、底本の「名著復刻 詩歌文学館 紫陽花セット」の解説書の野田宇太郎氏の解説にある、有明から渡された正誤表に従い、特異的に呈した。中標題「其一」と「其二」の字下げの違いはママ。作者を示す後書きの「オマアカイアム」の位置は底本ではずっと下方である。

 「ルバイヤツト」(Rubā‘īyāt)(「ルバイヤート」のカタカナ表記も通用される)とはペルシア語で「四行詩集」の意。「ルバーイー」(四行詩)の複数形。イラン固有の詩形で民謡に端を発したという。第一行・第二行・第四行の脚韻はかならず押韻し、第三行の脚韻は押韻しても、しなくてもよい。十世紀の詩人をはじめとして多くの詩人たちがこの詩形を作詩したが、ペルシア文学史上とくに四行詩人として知られるのは、ウマル・アル・ハイヤーミー、アブー・サイード・ビン・アビル・ハイル、アンサーリー、バーバー・ターヒルの四詩人である。しかし「ルバイヤート」といえば、ペルシア文学代表作品としてウマル・アル・ハイヤーミーを想起するほど彼の作品は世界的に名高い。十九世紀半ばのイギリスの詩人エドワード・フィッツジェラルド(Edward Marlborough FitzGerald 一八〇九年~一八八三年)によって流麗な英訳が刊行されて以来、世界中に名声が高まり、日本語を含めて世界の主要な言語に翻訳された。人生の無常・宿命・酒の賛美・一瞬の活用などが基調となっている。「ウマル・アル・ハイヤーミー」(Abu 'l-Fath ‘Umar ibn Ibrhm al-Nsbr al-Khayym 一〇四八年?~一一三一年?)はイスラムの数学者・天文学者・詩人。通称は「オマル・ハイヤム」(Omar Khayyam)。イラン北東部ニシャプールに生まれる。現在は、愛と自由を讃えた四行詩「ルバイヤート」の作者として有名であるが、数学者・天文学者としての業績が実は大きい。その「代数学」(al-jabr)には、二次方程式の幾何学的・代数学的解法があるほかに、十三種の三次方程式を認め、それら総てを解こうと試みて、その多くに部分的な幾何学解法を与えている。ただ、その際、負の根を考慮していない。彼はユークリッドの「原論」(Stoikheia)の公準と定義とを研究している。天文学では、セルジューク王ジャラール・アル・ディーン・マリク・シャー(Jalr al-Din Malik Shh)の求めで、一〇七四年頃、イスファハーンの新しい天文台でペルシア暦(一年が三百六十五日)の改良に従事している。彼の改良した暦は「ジャラール暦」(al-Ta'-rkh al-Jlar)とよばれ、これは約五千年に一日の誤差しか生じることがなく、その点では、三千三百三十年に一日の誤差のある今日のグレゴリオ暦よりも精確な暦法であった(孰れも主文は小学館「日本大百科全書」に拠った)。私も大学二年の春以来、岩波文庫版(昭和二四(一九四九)年初版刊)のオマル・ハイヤーム著の小川亮作訳「ルバイヤート」を愛読し続けている(他に森亮氏の訳本も所持する。「森亮訳詩集 晩国仙果 Ⅰ イスラム世界」(平成二(一九九〇)年小沢書店刊)。

 以上の訳詩の内の、「其一」の第一連は、ネットで見る限り、フィッツジェラルドの英訳(複数の英文サイトの記載を見、比較対象して、ここに電子化されているものを採用した)、

 

Whether at Naishápúr or Babylon,

Whether the Cup with sweet or bitter run,

The Wine of Life keeps oozing drop by drop,

The Leaves of Life keep falling one by one.

 

である。これについては岩波文庫版の小川亮作訳「ルバイヤート」の訳者「解の「三 邦語譯の諸本」の冒頭で

    *

 フィツジェラルド英譯本から重譯によってルバイヤートを我が國に恐らく最初に紹介した人は蒲原有明であった。明治四十一年一月東京・易風社發行の『有明集』に収められ、後わずかに訂されて、大正十年アルス發行の『有明詩集』中に入れられた六首である。香気あふれるばかり、しかもよくルバーイイの詩形をも彷彿せしめているすぐれた譯詩であった。本書の第九五歌に相當するルバーイイは次のように譯されている。

 

泥沙坡(ナイシヤプル)とよ、巴比崙(バビロン)よ、花の都に住みぬとも、

よしや酌むその杯は甘(あま)しとて、はた苦(にが)しとて、

間(たえま)あらせず、命の酒はうちしたみ、

命の葉もぞ散りゆかむ一葉(ひとは)一葉(ひとは)に。

 

    *

とある(これは小川氏の言う本詩集のものの、有明が誤植を訂し、さらに改稿した版のそれである)。小川氏のそれの訳詩を示す(同氏は昭和二六(一九五一)年没でパブリック・ドメインである)。

   *

 

     九五

 

バグダードでも、バルクでも、命はつきる。

酒が甘かろうと、苦かろうと、盃は滿ちる。

たのしむがいゝ、おれと君と立ち去ってからも、

月は無限に朔望をかけめぐる!

 

   *

 なお、小川氏はこの「バグダード」と「バルク」に注を附しておられ、『バグダード アッバス朝時代(西記七四九―一二五八年)のカリフの首都、當時イスラム文化の中心地であった。目下イラクの首府』とされ、また、『バルク 現在は北アフガニスタンの小都であるが、古代にはバクトリアの都として、また中世にはブハラやネイシャプールと並ぶ東ペルシアの中心地の一つとして文化の榮えた所』と記しておられる。

 さて、第二連以降の全四連は、同じくフィッツジェラルドの英訳の以下(であろう(引用は英文サイト「"The Rubaiyat of Omar Khayyam" (1859), translated by Edward Fitzgeraldより。これは初版のもの。或いは改版(後述)では改稿が成されているのかも知れない)。

   *

 

VIII.

And look—a thousand Blossoms with the Day

Woke—and a thousand scatter’d into Clay:

And this first Summer Month that brings the Rose

Shall take Jamshyd and Kaikobad away.

 

IX.

But come with old Khayyam, and leave the Lot

Of Kaikobad and Kaikhosru forgot:

Let Rustum lay about him as he will,

Or Hatim Tai cry Supper—heed them not.

 

X.

With me along some Strip of Herbage strown

That just divides the desert from the sown,

Where name of Slave and Sultan scarce is known,

And pity Sultan Mahmud on his Throne.

 

XI.

Here with a Loaf of Bread beneath the Bough,

A Flask of Wine, a Book of Verse—and Thou

Beside me singing in the Wilderness—

And Wilderness is Paradise enow.

 

   *

問題は第一連であるが、思うに、これはフィッツジェラルド自身の手に成る一八七九年の第四版(彼の「ルバイヤート」は全部で五版あるが、一八八九年刊行のそれは彼の死後の編集版である)に載るものではないかと思われる(第四版の英文の書誌情報を捜し得なかったのでただの私の当て推量ではある)。

 次に「其二」であるが、これも前掲の初版の中の、

   *

 

XXVIII.

With them the Seed of Wisdom did I sow,

And with my own hand labour’d it to grow:

And this was all the Harvest that I reap’d—

"I came like Water, and like Wind I go."

 

   *

とよく一致する。小川氏の訳をやはり載せておく。

   *

 

    三七

 

幼い頃には師について學んだもの、

長じては自ら學識を誇ったもの。

だが今にして胸に宿る辭世の言葉は――

 水のごとくも來り、風のごとくも去る身よ!

 

   *

 最終行の一字下げはママ。会話記号を嫌ったもの。

「ヤムシイド」「尊(みこと)」小川氏の「ジャムシード」の注に従えば、『詩人フェルドゥシイの集成したイランの國民史詩「シャーナーメ」に傳はる帝王の名。イラン創世の第一王朝ピシダーデイ朝第五世の英王で、「クタテ・ジャムシード」(ジャムシードの王座)の名のあるペルセポリスを築いた。「ジャムシード」は「日の王」を意味する』とある。

「カイコバアドの尊(みこと)」同じく小川氏の「ケイコバード」の注には、『神話時代のイランの第二王朝ケイアニイ朝を開いた』とある。

み命(いのち)をすら惜(を)しまじを。

「カイコスル彦(ひこ)」原文の綴りからみて、小川氏の「ケイホスロウ」であろう。同注には『ケイアニイ王朝中興の英主』とある。

「丈夫(ますらを)」「ツアル」不詳。初版原文では当該の固有名を見出せない。不審。

「丈夫(ますらを)」「ルスツム」不詳。孰れも武勇を誇った伝説上の人物と押さえておく。

「ハチム王(わう)」ハテム・アル・タイ(?~五七八年)、アラブ・アラビアのタイ族に属していた詩人らしい。

「マアムウド」小川氏の「マムード」であろう。注に『ガズニ王朝(西紀九七七―一一八六年)の英主スルタン・マムード(九九八―一〇三〇年)。印度を侵略して數多の財寶を掠取した』とある。]

2019/03/05

蒲原有明 有明集(初版・正規表現版) 聖燈 (ダンテ・ゲイブリエル・ロセッティの訳詩)

 

  聖 燈

 

深(ふか)き眞晝(まひる)を弗拉曼(フラマン)の鄙(ひな)の路(みち)のべ、

いつきたる小(ちさ)き龕(ほくら)の傍(かた)へ過(す)ぎ

窺(うかが)へば懸(か)け聯(つら)ねたる(ゑ)の中(なか)に、

 

聖母(せいぼ)は御子(みこ)の寢(ね)すがたを擁(いだ)きたまへり

羊(ひつじ)を飼(か)へる少女(をとめ)らは羊(ひつじ)さし措(お)き、

晴(は)れし日(ひ)の謝恩(しやおん)やここにひざまづく、

はたや日(ひ)の夕(ゆふべ)もここにひざまづく、

悲(かな)しき宿世(すぐせ)泣(な)きなむも、はたまたここに。

 

夜(よ)も更(ふ)けしをり、同(おな)じ路、同(おな)じ龕(ほくら)の

かたへ過(す)ぎ、見(み)ればみ燈(あかし)ほのめきて

如法(によほふ)の闇(やみ)の寂(さび)しさを耀(かがや)き映(うつ)す、

かくも命(いのち)の溫(ぬく)み冷(ひ)え、疑(うたが)ひ胸(むね)に

燻(くゆ)る時(とき)、「信(しん)」のひかりをひたぶるに

賴(たの)め、その影(かげ)、あるは滅(き)え、あるは照(て)らさで。

         ロセチ白耳義旅中の吟

 

[やぶちゃん注:「弗拉曼(フラマン)の」は実は底本は「弗拉曼(ブラマン)の」となっているが、これは誤植で、底本の「名著復刻 詩歌文学館 紫陽花セット」の解説書の野田宇太郎氏の解説にある、有明から渡された正誤表に従い、特異的に呈した。同じく三行目の「(ゑ)」も、底本ではルビが「ね」となってしまっているが、これも誤植で、同じく正誤表によって特異的に呈した。

 

 前と同じくダンテ・ゲイブリエル・ロセッティ(Dante Gabriel Rossetti 一八二八年~一八八二年)の訳詩。後書きは底本ではもっと下方にある。その「白耳義」「ベルギー」(België)の旅も恐らく同じ一八四九年九月から十月にかけてのものである。原詩は「Returning To Brussels」。

   *

 

Returning To Brussels

 

Upon a Flemish road, when noon was deep,

I passed a little consecrated shrine,

Where, among simple pictures ranged in line,

The blessed Mary holds her child asleep.

To kneel here, shepherd-maidens leave their sheep

When they feel grave because of the sunshine,

And again kneel here in the day's decline;

And here, when their life ails them, come to weep.

Night being full, I passed on the same road

By the same shrine; within, a lamp was lit

Which through the silence of clear darkness glowed.

Thus, when life's heat is past and doubts arise

Darkling, the lamp of Faith must strengthen it,

Which sometimes will not light and sometimes dies.

 

   *

「弗拉曼(フラマン)の」(冒頭注参照)原詩の「Flemish」で、「フランドル地方の」の意。フランドル(オランダ語:Vlaanderen/フランス語:Flandr/ドイツ語:Flandern)は旧フランドル伯伯(フランス語:Comte de Flandre)はフランドルを八六四年から一七九五年まで支配し続けた領主及びその称号)領を中心とする、オランダ南部・ベルギー西部・フランス北部にかけての、現在は三国に跨った広域地域を指す。中世に毛織物業を中心に商業・経済が発達し、ヨーロッパの先進的地域として繁栄した。]

蒲原有明 有明集(初版・正規表現版) 眞晝 (ダンテ・ゲイブリエル・ロセッティの訳詩)

 

  眞 晝

 

眞晝時(まひるどき)とぞなりにける、あるかなきかの

軟風(なよかぜ)もいぶき(た)えぬる日盛(ひざかり)や、

野(の)のかたを見(み)やればひとつ鐘(かね)のかげ、

うねりつづける生垣(いけがき)の圍(かこ)ひの隙(ひま)を

軒低(のきひく)き鄙(ひな)の家(や)白(しろ)くかつ照(て)りつ、

壁(かべ)を背(せ)に盲(めしひ)の漢子(をのこ)凭(よ)りかかり、

その面(おもて)をば振(ふり)りかへし日(ひ)にぞあてたる。

 

停(とどま)り足搔(あが)く旅(やび)の馬(うま)、土蹴(つちけ)る音(おと)は

緩(ゆる)やかに堅(かた)し、輝(かゞや)く光(ひかり)こそ

歌(うた)ふらめ、歌(うた)あひのしじま長(なが)きかな、

眞晝(まひる)は脚(あし)を休(やす)めつつ、ひとつところに、

かにかくに過(すが)ひ去(い)ぬべきさまもなく、

濃(こ)き空(そら)の色(いろ)はかなたにうち澱(よど)み、

暑(あつ)さはたゆき夢(ゆめ)載(の)せて重(おも)げに蒸(む)しぬ。

         ロセチ白耳義旅中の吟

 

[やぶちゃん注:蒲原有明が傾倒していたイギリスの詩人で画家のダンテ・ゲイブリエル・ロセッティ(Dante Gabriel Rossetti 一八二八年~一八八二年)の訳詩。後書きは底本ではもっと下方にある。その「白耳義」は「ベルギー」(België)と読む。この旅は一八四九年九月から十月にかけてのもの。原詩は「Near Brussels」と添書きする「A Half-way Pause」。

   *

 

A Half-way Pause

 

The turn of noontide has begun.

In the weak breeze the sunshine yields.

There is a bell upon the fields.

On the long hedgerow's tangled run

A low white cottage intervenes:

Against the wall a blind man leans,

And sways his face to have the sun.

Our horses' hoofs stir in the road,

Quiet and sharp. Light hath a song

Whose silence, being heard, seems long.

The point of noon maketh abode,

And will not be at once gone through.

The sky's deep colour saddens you,

And the heat weighs a dreamy load.

 

   *]

蒲原有明 有明集(初版・正規表現版) おもひで

 

  おもひで

 

   (妻をさきだてし人のもとに)

 

「おもひで」よ、淨(きよ)き油(あぶら)を汝(な)が手(て)なる

火盞(ほざら)に注(そゝ)ぎ捧(さゝ)げもち、淨(きよ)き熖(ほのほ)の

あがる時(とき)、噫(あゝ)、亡(な)き人(ひと)の面影(おもかげ)を

夫(せ)の君(きみ)のため、母(はゝ)を呼(よ)ぶ愛(めぐ)し兒(ご)のため、

ありし世(よ)のにほひをひきて照(て)らし出(い)で、

かへらぬ魂(たま)をいとどしく悼(いた)める窓(まど)の

小暗(をぐら)さに慰(なぐさ)め人(びと)と添(そ)へかしな、

慈眼(じげん)の主(ぬし)はこれをこそ稱(たた)へもすらめ。

「おもひで」よ、なほ隈(くま)もなく、汝(な)が胸(むね)の

こころの奧所(おくが)ひらくべき黃金(こがね)の鍵(かぎ)を、

悲(かなし)みにとこしへ朽(く)ちぬしるしありと、

音(おと)も爽(さや)かにかがやかに捧(さゝ)げまつりね。

蒲原有明 有明集(初版・正規表現版) 水のおも

 

 水のおも

 

いと小(ち)さき窓(まど)

晝(ひる)も夜(よ)も(た)えずひらきて、

劃(かぎ)られし水(みづ)の面(も)の

たゆたひをのみ

倦(うん)じたるこころにしめす。

 

淀(よど)める沼(ぬま)か、

大河(おほかは)か、はたや入江(いりえ)か、

水(みづ)の面(も)の一片(ひとひら)を、

何(なに)は知(し)らねど、

間(たてま)なくながめ入(い)りぬる。 

 

蒼白(あをじろ)く照(て)る

波(なみ)の文(あや)、文(あや)は撓(たわ)みて

流(なが)れ去(さ)り、また疊(たゞ)む

數(かず)のすがたは

一々(いちいち)に秘密(ひみつ)の意(こゝろ)。 

 

しかはあなれど

何事(なにごと)もわれは解(げ)し得(え)ず、

晝(ひる)は見(み)て、夜(よる)想(おも)ふ、

その限(かぎ)りなさ、

いつまでか斯(か)くてあるべき。 

 

わが魂(たましひ)を

解(と)き放(はな)て、見(み)るは崇高(けだか)き

天(あま)ならず、地(つち)ならず、

ただたゆたへる

水(みづ)の面(おも)、昨日(きのふ)も今日(けふ)も。 

 

世(よ)をば照(て)らさむ

不思議(ふしぎ)はも耀(かゞや)き出(い)でねと

待(ま)ちければ、こはいかに、

わが魂(たましひ)か、

白鵠(びやくこふ)は水(みづ)に映(うつ)りぬ。 

 

哀(かな)しき鳥(とり)よ、

牲(いけにへ)よ、知(し)らずや、波(なみ)は、

今(いま)、溶(と)けし熖(ほのほ)なり、

白(しろ)き翅(つばさ)も

たちまちに燒(や)け失(う)せなんず。 

 

聞(き)け、高(たか)らかに

聲(こゑ)顫(ふる)へ、『父(ちゝ)、子(こ)、み靈(たま)に

み榮(さかえ)のあれよ』とぞ

讃(ほ)めし聖詠(せいえい)、

臨終(いまは)なる鳥(とり)の惱(なや)みに。 

 

わが身(み)はかかる

ありさまに眼(め)をしとづれば、

まだ響(ひゞ)く、『みさかへ』と、――

窓(まど)の外(と)を、そと、

見(み)やる時(とき)、こは天(あめ)ならめ。 

 

夕(ゆふべ)の空(そら)か

水(みづ)の面(おも)、こは天(あめ)ならめ、

浮(うか)べたる榮光(えいくわう)に

星(ほし)は耀(かゞや)く、

しかすがにうら寂(さび)しさよ。 

 

われと嘲(あざ)みて

何(なに)ものかわれに叛(そむ)きぬ、

暗(くら)き室(むろ)、小(ち)さき窓(まど)、

倦(う)みて夢(ゆめ)みし

信(しん)の夢(ゆめ)、――それも空(あだ)なり。

 

[やぶちゃん注:「みさかへ」はママ。なお、第九連の末尾「見(み)やる時(とき)、こは天(あめ)ならめ。」は底本では、「見(み)やる時(とき)、こは天(あめ)あらめ。」であるが、底本の「名著復刻 詩歌文学館 紫陽花セット」の解説書の野田宇太郎氏の解説にある、有明から渡された正誤表に従い、特異的に呈した。

「白鵠(びやくこふ)」白い鵠(くくひ/くぐひ)で、「白鳥」、カモ目カモ科 Anserinae 亜科 Cygnus 属の七種の内、「白」をわざわざ冠しているから、コクチョウ(黒鳥)Cygnus atratus(オーストラリア固有種であるが、日本(茨城県・宮崎県)に移入されている)や本邦に棲息しないクロエリハクチョウ Cygnus melancoryphus などを除いた以下三種の孰れかとなる。コブハクチョウ Cygnus olor・オオハクチョウ Cygnus cygnus・コハクチョウ Cygnus columbianus。因みに、本篇はキリスト教が顕在的な詩篇であるが、仏教の「仏説阿弥陀経」の中には「浄土六鳥」称して、浄土にあっては六種の聖なる鳥が、仏・法・僧の三宝を奏でて、浄土を荘厳(しょうごん)しているとされ、その名を「白鵠(びゃっこう)」・「孔雀」・「鸚鵡」・「舎利」・「迦稜頻伽(かりょうびんが)」・「共命鳥(ぐみょうちょう)」とすることを言い添えておく。]

和漢三才圖會卷第三十八 獸類 虎(とら) (トラ)

 

Tora

 

とら  䖚䖘【於兔】 李耳

 

【音】

    【和名止良】

フウ

[やぶちゃん注:「★」部分に上記図の下方にある篆文が入る。]

 

本綱虎山獸君也狀如猫而大如牛黃質黑章鋸牙釣爪

鬚健而尖舌大如掌生倒刺項短鼻齆夜視一目放光一

目看物獵人候而射之箭既及目光卽墮入地如白石爲

之虎魄人記其頭頂之處月黒掘下尺餘得之猶人縊死

則魄入於地隨卽掘之狀如麩炭之義虎吼聲如雷風從

而生百獸震恐立秋虎始嘯仲冬虎始交或云月暈時乃

交又云虎不再交孕七月而生又云虎知衝破能畫地觀

奇偶以卜食物隨月旬上下而囓其首尾其搏物三躍不

中則捨之食虎狗則醉狗乃虎之酒也聞羊角烟則走惡

其臭也虎五百歳則變白凡虎有威骨如乙字長一寸在

脇兩傍破肉取之令人有威帶之臨宦佳無官則爲人所

憎虎害人獸而蝟鼠能制之智無大小也獅子騶虞駮黃

腰渠搜能食虎勢無弱也

爾雅云淺毛虎曰【音棧白虎曰※【音寒】貓黒虎曰【音育】似虎

[やぶちゃん注:「※」=「虎」の最終画を右に伸ばし、その上に「甘」を配した字。]

而有角曰虒【音嘶】

五雜組云山民防虎者有崖口缺虎常躍入廼以巨組縱

橫而空懸之虎躍而下浮罥組上四足挿空不能作勢終

不能矣又有以黐布地及横施道側者虎頭觸之覺其

黏也爪之不得下則坐地上俄而遍體皆汚怒號跳撲至

死凡虎據地一吼屋瓦皆震也中華馬見虎則便溺下不

能行惟胡馬不懼獵犬亦然胡人射虎惟以二壯士彀弓

兩頭射之射虎逆毛則入順毛則不入前者引馬走避而

後者射之虎回則後者復然虎雖多可立盡也

 六帖 から國の虎ふすといふ山にたに旅にはやとる物とこそきけ

虎骨【辛微熱】 用頭及頸骨色黃者佳【藥箭射殺者不可入藥能傷人也】初生

 小兒煎湯浴之辟惡鬼去瘡疥驚癇治溫瘧及犬咬毒

 作枕辟惡夢魘【又云虎之一身筋節氣力皆出前足故以脛骨爲勝】

虎膽 治小兒驚癇疳痢等【虎睛虎魄虎爪虎牙皆効同能辟鬼魅虎皮繋衣服亦佳】

△按日本紀欽明帝六年膳臣巴提便遣使于百濟妻子

 相逐行至百濟濵日晩停宿小兒忽不知所之其夜

 大雪天暁始求有虎連跡帶刀擐甲尋至巖岫自稱而

 罵詈虎進前開口欲噬巴提便忽申左手執其虎舌右

 手刺殺剥取皮還【文祿年中秀吉公軍在朝鮮有擊大虎者以獻之使舁擡而渡都鄙其長

 丈餘班毛鮮明也】

 

 

とら  䖚䖘〔(おと)〕【〔音、〕「於兔」。】 李耳

 

【音、[やぶちゃん注:欠字]。】

    【和名、「止良」。】

フウ

[やぶちゃん注:「★」部分に上記図の下方にある篆文が入る。]

 

「本綱」、虎は山獸の君[やぶちゃん注:君主。]なり。狀、猫のごときにして、大いさ、牛のごとし。黃なる質〔ぢ〕に黑き章〔(しるし)〕、鋸〔(のこ)〕の牙、釣〔(かぎ)〕の爪、鬚、健(すくや)かにして尖り、舌、大にして掌のごとく、倒(さかさま)に刺(はり)を生ず。項〔(うなじ)〕、短く、鼻、齆(ふさが)り、夜、視るに、一目は光りを放ち、一目は物を看る。獵人、候〔(うかが)ひ〕て、之れを射るに、箭〔(や)〕、既に及べば、目の光り、卽ち、墮〔(お)ち〕て地に入りて、白石〔(びやくせき)〕のごとし。之れを「虎魄〔(こはく)〕」と爲す。人、其の頭〔の〕頂〔(いただき)〕の處を記〔(しるし)〕して、月-黒〔(やみよ)〕に掘り下ぐること尺餘[やぶちゃん注:明代の一尺は三十一・一センチメートル。]にして、之れを得。猶を[やぶちゃん注:ママ。]、人の縊死せるに、則ち、魄、地に入りて、隨ひて、卽ち、之れを掘るに、狀、麩-炭〔(けしづみ)〕の義〔(かたち)〕のごとくなる〔ものを得るが〕ごとし。虎、吼ゆる聲、雷〔(かみなり)〕のごとく、風、從ひて生じ、百獸、震い恐る[やぶちゃん注:「い」はママ。]。立秋、虎、始めて嘯(うそぶ)き、仲冬、虎、始めて交(つるみす)る。或いは云ふ、「月に暈〔(かさ)〕ある時、乃〔(すなは)〕ち、交〔(まぢは)〕る」〔と〕。又、云ふ、「虎、再たび〔は〕交(つる)まず。孕(はら)みて、七月にして、生む」〔と〕。又、云ふ、「虎、衝破〔(しようは)〕を知り[やぶちゃん注:敵を倒すに有利な方角と時を知って。]、能く〔それを〕地に畫〔(ゑをか)き〕て、奇・偶を觀て[やぶちゃん注:対象の奇数と偶数を判じて。陰陽説では奇数は陽で、偶数は陰。]、以つて食〔(くひもの)〕を卜(うらな)ひ、〔その〕物〔を食ふに〕、月旬の上・下に隨ひて、其の〔獲物の〕首・尾を囓〔(かじ)〕る〔ことを變ふる〕。其れ、物を搏(う)つこと[やぶちゃん注:獲物を襲うこと。]、三たび、躍る〔→るれども〕中〔(あた)〕ざれば、則ち、之れを捨つ。虎、狗を食へば、則ち、醉ふ。狗は乃ち虎の酒なり。羊〔の〕角の烟を聞〔(か)〕ぐときは、則ち、走る[やぶちゃん注:逃げる。]。其の臭(かざ)を惡〔(にく)〕む。虎、五百歳なれば、則ち、白に變ず。凡そ、虎に威骨有り、「乙」の字のごとく、長さ、一寸。脇の兩傍に在る。肉を破りて之れを取れば、人をして、威、有らしむ。之れを帶びて、宦[やぶちゃん注:「官」に同じ。]に臨みて、佳なり。官無きときは、則ち、人の爲に憎(にく)まる[やぶちゃん注:人から憎まれる事態に陥る。]。虎は人獸を害す。而れども、蝟-鼠〔(はりねづみ)〕、能く之れを制す。智に、大小、無きなり。獅子・騶虞〔(すうぐ)〕・駮〔(はく)〕・黃腰・渠搜〔(きよそう)〕、能く虎を食ふ。勢〔(せい)〕に、弱、無し。

「爾雅」に云はく、『淺毛〔(うすげ)〕の虎を「【音、「棧」。】貓〔(さんびやう)〕と曰ひ、白虎〔(びやくこ)〕を「※〔(かん)〕」【音、「寒」。】と曰ひ、黒き虎を「〔(いく)〕【音、「育」。】と曰ひ、虎に似て角有るを「虒〔(し)〕」【音、「嘶」。】と曰ふ』〔と〕。

[やぶちゃん注:「※」=「虎」の最終画を右に伸ばし、その上に「甘」を配した字。]

「五雜組」に云はく、『山民、虎を防ぐは、崖の口、缺くること〔→ところ〕有れば、虎、常に躍り入る。廼〔(すなは)〕ち、巨〔(おほき)〕なる組(つな)[やぶちゃん注:綱。]を以つて縱橫(たて〔よこ〕)にして空に之れを懸く。虎、躍りて下れば、組(つな)の上に浮-罥(かゝり)て、四足、空に挿〔(さ)し〕、勢を作ること能はず。終〔(つひ)〕に〔(ぬ)く〕ること能はず。又、黐(とりもち)を以つて地に布(し)き、及び、〔その〕横に〔→なる〕道の側〔(がは)〕に〔も〕〔黐を〕施す者、有り。虎の頭、之れに觸れ、其の黏(ねばり)を覺えるや、之に爪して、下ることを得ず。則ち、地の上に坐〔せば〕、俄かにして、遍體、皆、汚(けが)る。怒り號(さけ)びて、跳〔(をど)〕り撲〔(う)〕ちて、死に至る』〔と〕。『凡そ、虎、地に據〔(よ)〕りて、一たび、吼(ほ)ゆれば、屋の瓦、皆、震(ふる)ふなり』〔と〕。『中華の馬、虎を見るときは、則ち、便-溺〔(ゆばり)〕[やぶちゃん注:尿。]下して、行くこと、能はず。惟だ、胡(えびす)の馬は懼(をそ[やぶちゃん注:ママ。])れず。獵犬も亦、然り』〔と〕。『胡人、虎を射るには、惟だ二〔(ふた)〕りの壯士を以つて弓〔を〕彀〔(ひきしぼ)りて〕兩頭より之れを射る。虎を射ば、毛に逆(さか〔ら〕)へば、則ち、入り、毛に順へば、則ち、入らず。前なる者、馬を引き走り避けて、後(〔しり〕へ)なる者、之れを射る。虎、回〔(めぐ)〕るときは、則ち、後なる者、復た、然り。虎、多しと雖も、立ちどころに盡くすべし。

 「六帖」

   から國〔(くに)〕の虎ふすといふ山にだに

      旅にはやどる物とこそきけ

虎骨〔(ここつ)〕【辛、微熱。】 頭及び頸骨を用ふ。色、黃なる者、佳なり【〔毒〕藥の箭〔(や)にて〕射殺すは、藥に入るるべからず。能く人を傷つくる。】初生の小兒、煎〔じて〕湯にして之れに浴すれば、惡鬼を辟(さ)く。瘡疥・驚癇を去り、溫瘧〔(うんぎやく)〕及び犬の咬(か)みたる毒を治す。枕に作すれば、惡夢に魘(をそ[やぶちゃん注:ママ。])はるゝを辟く【又、云ふ、「虎の一身〔の〕筋節〔の〕氣力〔は〕、皆、前足に出づ。故に脛骨を以つて勝れりと爲す」〔と〕。】。

虎膽〔(こたん)〕 小兒の驚癇・疳痢等を治す【虎の睛〔(ひとみ)〕・虎の魄・虎の爪・虎の牙、皆、効、同じ。能く鬼魅〔(きみ)〕を辟く。虎の皮、衣服に繫ぐも亦、佳なり。】。

△按ずるに、「日本紀」、欽明帝六年[やぶちゃん注:五四四年。]、膳臣巴提便(かしはでのはです[やぶちゃん注:ママ。正しくは「かしはでのおみはすび」。])百濟に遣使す。妻子、相ひ逐(したが)ひ行く。百濟の濵に至り、日、晩(くれ)て停-宿(やど)る。小兒、忽ち、(う)せて、之(ゆ)所く所を知らず。其の夜、大〔(おほ)き〕に雪(ゆきふ)る。天-暁(よあ)けて、始めて求むるに、虎の連なる〔足〕跡、有り。刀を帶(たい)し、甲(よろひ)を擐(き)て、尋ね、巖岫〔(いはくき)〕[やぶちゃん注:岩山の洞窟。]に至り、自-稱(なの)りて罵-詈(のゝし)る。虎、前に進んで[やぶちゃん注:ママ。]、口を開き、噬(くら)はんと欲す。巴提便、忽ち、左の手を申(の)べて、其の虎の舌を執り、右の手にて刺(さ)し殺して、皮を剥ぎ取り、還る【文祿年中、秀吉公の軍、朝鮮に在りて、大〔なる〕虎を擊つ者、有り。以つて之れを〔秀吉公に〕獻ず。舁〔(か)き〕擡〔(もた)げ〕して都鄙〔(とひ)〕[やぶちゃん注:繁華な町と田舎。]を渡る。其の長〔(みのた)〕け、丈餘り。班(まだら)の毛(け)鮮明なり。】。

[やぶちゃん注:哺乳綱食肉目ネコ科ヒョウ属トラ Panthera tigris であるが、以下の亜種に分かれる(近現代の絶滅種を含む。ウィキの「トラ」に拠った)。

ベンガルトラPanthera tigris tigris(分布はインド・ネパール・バングラデシュ・ブータン(以下同じ):全長は二百七十~三百十センチメートル、で二百四十~二百六十五センチメートル。体重はで百八十~二百五十八キログラム、で百十~百六十キログラム。体毛は短く、背面の毛衣はオレンジや赤褐色。頬・耳介の内側は白い体毛で被われる。縞は少なく、肩部や胸部に縞のない個体もいる)

アムールトラPanthera tigris altaica(ロシアのウスリー東部。以前はバイカル湖からサハリンにかけて分布しているとされたが、サハリンの個体は一時的に移動してきただけであったと現在は考えられている。全長はで二百七十~三百七十センチメートル、で二百四十 ~二百七十五センチメートル。体重はで百八十~三百六十キログラム、で百~百六十七キログラムと、現生では最大亜種とされる。体毛は長く、密生し、腹面は脇腹も含めて白い。尾は白と黒の体毛で被われる)

アモイトラPanthera tigris amoyensis(中華人民共和国南部(広東省・江西省・湖南省・福建省)に分布していたが、野生下では絶滅したと考えられている。腹面の明色部は脇腹に達せず、縞は太くて短く、数も少なく、間隔が大きい)。

バリトラPanthera tigris balicaインドネシアのバリ島に棲息していた絶滅亜種で全長は二百二十~二百三十センチメートル、で全長百九十~二百十センチメートル。体重はで九十~百キログラム、で六十五~八十キログラムで、最小亜種であった。但し、頭骨の比較や分子系統解析では、現生亜種のスマトラトラと同一若しくは重複するとされる

インドシナトラPanthera tigris corbetti(カンボジア・タイ・中華人民共和国南西部・ベトナム・マレーシア(マレー半島)・ミャンマー・ラオスであるが、カンボジアとベトナムでは。近年。繁殖が確認されておらず、ベトナムでは一九九七年に行われたカメラ・トラップによる撮影でも確認されず、カンボジアでは大規模な調査活動が行われたものの、二〇〇五年以降はごくわずかな報告例しかない。背面の毛衣は赤褐色がかかり、縞は細くて短く、数が多い)

ジャワトラPanthera tigris sondaicaインドネシアのジャワ島に棲息していた絶滅亜種。但し、頭骨の比較や分子系統解析では、現生亜種のスマトラトラと同一若しくは重複するとされる

スマトラトラPanthera tigris sumatrae(インドネシアのスマトラ島。背面の毛衣は赤褐色。側頭部の体毛が長いが、頸部の鬣は短い。縞は太い)

カスピトラPanthera tigris virgataトルコ・中華人民共和国(新疆ウイグル自治区)・イランに棲息していた絶滅亜種。毛皮の分子系統解析では現生亜種アムールトラに極めて近縁とする結果もある一方、頭骨での比較と分子系統解析の結果からは、本種をユーラシア大陸産とスンダ列島産の二亜種とする説も提唱されている)

以下、ウィキの「トラ」のトラ全体の記事を引く(太字下線は私)。「形態」の項。『メスよりもオスの方が大型になる』。『腹部の皮膚は弛んで襞状になる』。『背面は黄色や黄褐色で、黒い横縞が入る』。『縞模様は藪などでは周囲に溶けこみ』、『輪郭を不明瞭にし、獲物に気付かれずに忍び寄ったり待ち伏せることに適している』。『腹面や四肢内側は白い』。『黒化個体の発見例はない』(記録はあるらしい。後掲)『が、インドでは白化個体の発見例がある』。『鼻面は太くて短く、顎の力が強い』。『前肢の筋肉は発達し』、『後肢は前肢よりも長い』。『これにより』、『前肢は長い爪も含め』、『獲物を押さえつけることに、後肢は跳躍に適している』ことが判る。『出産直後の幼獣は体長』三十一・五~四十センチメートル、尾長は十三~十六センチメートル、体重七百八十~千六百グラム。『縞模様はあるが、体色は成獣よりも明色』である。「白化型(ホワイトタイガー)」の項。『ホワイトタイガー』『とはインドに生息するベンガルトラの白変種で、アルビノとは異なる白化型であり、正式名は「ベンガルトラ白変種」という』。『ホワイトタイガーは、普通のトラでは黄色になる部分の毛が』、『白色もしくはクリーム色で、黒い縞模様の部分も色が薄い。縞模様は個体によっては茶色だったり、または縞がないか』、『あっても極めて薄いスノーホワイトと呼ばれるパターンもある。虹彩の色は青である。白化型の遺伝にはメンデルの法則が当てはまるとされる。かつてはインド北部や中東部に数頭いたといわれるが、トラ全体の数が減ってしまった現在では全世界でも』二百五十『頭あまり、国内には』三十『頭ほどしかいない希少種で、飼育下でしか目にすることができない』。『アムールトラの白化個体に関しても』、『目撃情報はあるが、確かな記録はない』。なお、『ブラックタイガー』は『過去に数例捕らえられた記録』はある。他に『通常のトラの色を薄くしたパターンで』、『世界で約』三十『頭飼育されている』『ゴールデンタビー』がおり、また、『青に見える灰色で、アモイトラの変種』は『マルタタイガー』と呼ばれるらしい。「生態」の項(抜粋)。『熱帯雨林や落葉樹林・針葉樹林・乾燥林・マングローブの湿原など』、『様々な環境に生息する』。『木に登った例もあるが』、『通常は木に登らない』。『夜行性だが』、『主に薄明薄暮時に活動し』、『昼間に活動することもある』。『群れは形成せず、繁殖期以外は単独で生活する』。『行動圏は獲物の量などで変動がある』。『平均的にオスは数十平方キロメートル、メスは』二十『平方キロメートルの行動圏内で生活し、雌雄の行動圏は重複する』。『縄張りの中を頻繁に徘徊し、糞や爪跡を残す、肛門の臭腺からの分泌物を含む尿を木や岩・茂みに撒くなどして縄張りを主張する』。『温暖な地域に生息する個体は』、『避暑のため』、『水に浸かる』。『泳ぎも上手く』、『泳いで獲物を追跡することもある』、『河川を』六~八『キロメートル渡ることもあり、まれに』二十九『キロメートルを泳ぐこともある』。八~十『メートルを跳躍することもあるが、通常は』五~六『メートル以下』である。『食性は動物食で、主に』多数種の『哺乳類を食べる』。『大型の獲物がない時はヤマアラシ類などの齧歯類、キジ科などの鳥類』・『カメ類・ワニ』・『カエル』。『魚類などの小型の獲物も食べる』。『まれにアジアゾウやインドサイの幼獣、マレーバクを襲うこともある』。『家畜や人間を襲うこともある』。『日あたり平均』六~七『キログラムの肉を食べるが、一晩で』二十五『キログラムの肉を食べることもある』。『獲物を待ち伏せることもあるが、主に一晩あたり』十~二十『キロメートルを徘徊し』、『獲物を探す』。『獲物を発見すると』、『茂みなどに身を隠し』、『近距離まで忍び寄り、獲物に向かって跳躍して接近する』。『主に獲物の側面や後面から前肢で獲物を倒し、噛みついて仕留める』。しかし、『狩りの成功率は低く』、十~二十回に一回『成功する程度』である。『獲物は茂みの中などに運び、大型の獲物であれば』、『数日に何回にも分けて食べる』。『繁殖期は地域によっても異なり』、『インドの個体群は雨期が明けると交尾し、主に二~五月に繁殖する』。『発情期間は数日だが、約』二『日間に』百『回以上の交尾を行う』。『妊娠期間は』九十六~百十一日で、一回に一~六『頭の幼獣を産む』『メスのみで幼獣を育て』、『授乳期間は』三~六ヶ月。『出産直後の幼獣は眼も耳も閉じているが』、生後六~十四『日で開眼し』、生後九~十一日で耳が開く。『生後』四~八『週間で巣から出るようになる』。『幼獣は生後』十八~二十四ヶ月は『母親の縄張り内で生活し』、『徐々に独立する』。『生後』二『年で幼獣の半数は命を落とし、オスが幼獣を殺すことも多い』。『オスは生後』四~五『年、メスは生後』三~四『年で性成熟する』。『寿命は約』十五『年と考えられ』、『飼育下では』二十六『年の記録がある』。「人間との関係」の項。『骨が漢方薬になると信じられている』。『中国には虎骨酒がある』。『開発による生息地の破壊、薬用や毛皮用の乱獲、人間や家畜を襲う害獣としての駆除などにより』、『生息数は激減して』おり、二十『世紀に入』ってからは三亜種もが絶滅している。人的被害の記載。十九世紀にネパール.インド国境付近に『出没したチャンパーワットの人食いトラの被害者数は』四百三十六『人であり、ギネス世界記録に認定されている』。二十一『世紀においてもトラが人を襲う被害は続いており』、二〇一八年にはインドの『マハラシュトラ州で』二『年間に』十三『人を殺害した雌のトラが射殺されている』。「文化的側面」の項。『中国では百獣の王といえば虎であり』、『獰猛な野獣としての虎は』、『古くから』、『武勇や王者のイメージとして受容され、軍事的シンボルや建国・出生譚、故事成語などに結びついている』。『また、虎と人間の生活が密接だった古代の中国や朝鮮など東アジアでは、虎をトーテムとして崇拝した氏族があり、その名残りから魔除けや山の神として一般的な崇敬の対象になった』。『虎は龍と同格の霊獣とされ、干支では年の始めに当たる寅に当てられている』。『一方で、虎は凶悪・危険・残酷といったマイナスのイメージとして比喩される』。『虎による被害の多い地域では虎にまつわる多くの民話が伝承されているが、ネガティブなイメージをもって語られるものが多い』。『古代より日本人にとって虎の皮は海外との交易で輸入される唐物の代表』で、「続日本紀」などに『記録されている渤海使の献進物の中にも虎の皮が含まれている。虎皮は朝議では五位以上の貴族しか身に付けることができず、ときには病気や祟りから身を守る呪物として用いられた』。『他に虎の強さのイメージを利用した例として、虎皮を材料に利用した鎧がある。平貞盛から平維盛まで』九『代に渡って継承された「唐皮」などが有名である』。『虎をモチーフにした伝説の生物としては』、『四神の白虎、鯱、さるとらへび、人虎、開明獣などがある。 また、鬼の虎褌など、見知らぬ異国の住人である鬼と凶悪な虎の複合した観念が、平安末期以降に』「地獄草紙」や「桃太郎」『などの作品に見られるようになる』。『ヨーロッパにその存在が知られるようになったのは、アレクサンドロス』『世(大王)のインド遠征によるもので、ペルシア語のthigra(鋭い・尖った)から、ギリシア語でtigrisと呼ばれるようになり、英語・ドイツ語のtigerへと変化した。ヨーロッパで最初にトラが持ち込まれたのは、紀元前』一九『年にローマ皇帝アウグストゥスにインドの使者がトラを献上した時と言われている。「虎退治」を『題材とする伝説などのフィクションは古今東西にあり、その多くは登場人物の武勇を表現するために使用された。』「水滸伝」の『行者こと武松や黒旋風の李逵が有名である。同作品には実際』、『作中で虎退治を確認できないが、虎殺し(打虎将)の異名を持つ人物も登場する』。良安が引く、「日本書紀」の『百済に派遣された膳臣巴提便が子供を食べた虎を倒しその皮を剥いだとあり、その武勇談は中世の』「宇治拾遺物語」にも、『「遣唐使の子、虎に食るゝ事」という説話として採録されている』。『また』、『豊臣秀吉の家臣加藤清正が朝鮮出兵中に虎狩りをした逸話は良く知られており、これにあやかって明治時代以降、多くの日本人が虎狩りを行っている。なかでも旧尾張藩主の徳川義親はシンガポールで虎狩りを行い、「虎狩りの殿様」として知られている』とある。

 

「李耳」南方熊楠は「十二支考 虎に関する史話と伝説、民俗」(大正三(一九一四)年『太陽』初出)の冒頭の「(一)名義の事」の一節に(引用は平凡社「南方熊楠選集 第一巻」に拠る)、

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 また支那で虎を李耳(りじ)と称う、晋の郭璞(かくはく)は「虎物を食らうに耳に値(あ)えばすなわち止(や)む、故に李耳と呼ぶ、その諱(いみな)に触るればなり」、漢の応劭(おうしょう)は南郡の李翁が虎に化け た故李耳と名づくと言ったが、明の李時珍これを妄とし、李耳は狸児(りじ)を訛(なま)ったので、今も南支那人なお虎を呼んで猫となす、と言った。狸は日本でもっぱら「たぬき」と訓(よ)ますが支那では「たぬき」のほかに学名フェリス・ヴィヴェリナ、フェリス・マヌル等の野猫をも狸と呼ぶ。したがって野狸に別(わか)たんとて猫を家狸と異名す。

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文中の「フェリス」(Felis)はネコ属であるが、種小名の方を見たところ、それらは現在、ネコ属から移されていることが判った。前者はネコ亜科ベンガルヤマネコ属スナドリネコ Prionailurus viverrinus であり(インドネシアの島々からインドシナ半島及び中国南部・インド地域にかけての沼沢地に棲息し、ネコ科動物にあって特筆すべき魚介類(節足動物を含む)やカエル等の両生類を魚漁(すなど)りする魚食性の猫である。詳しくはウィキの「スナドリネコ」を見られたい)、後者はネコ亜科Otocolobus属マヌルネコ Otocolobus manul である(アゼルバイジャン・アフガニスタン・イラン・インド(ジャンムー・カシミール州)・カザフスタン・キルギス・中華人民共和国(四川省・青海省・陝西省・内モンゴル自治区・新疆ウイグル自治区・チベット自治区)・ネパール・パキスタン・ブータン・モンゴル・ロシア南部に棲息。マヌルはモンゴル語由来で、まさに「小さい野生ネコ」の意である。ウィキの「マヌルネコ」を見られたい)。郭璞の謂いはちょっと略があって分かりにくいが、「虎は獲物の動物を食らう際に、耳の部分まで食うと、食べるのを止める。故に「李耳」と呼ぶのだが、まさにそれは(道家の祖たる老子の本名「李耳」)という諱(いみな)に触れるからである」というのである。応劭のそれは「風俗通」佚文にあって、「呼虎爲李耳。俗、虎本南郡中廬李氏公所化爲、呼李耳因喜、呼班便怒」とある。というより、時珍の「本草綱目」の「虎」の「釈名」に以上は以下の通り、纏めて挙げられてあるのを南方熊楠は用いたのである。

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揚雄「方言」云、陳魏之間、或謂之李父。江淮南楚之間、謂之李耳、或謂之𪂬。自關東西或謂之伯都。珍按、李耳當作狸兒。蓋方音轉狸爲李、兒爲耳也。今南人卽此意也。郭璞謂虎食物、耳則止、故呼李耳、觸其諱。應邵謂南郡李翁化耳、皆穿鑿不經之言也。

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」「虎」は象形であるが、大修館書店「廣漢和辭典」によれば、音形上(拼音(フゥー))は虎の吼える声のオノマトペイアであろうと推定している。

「虎魄〔(こはく)〕」琥珀をそうして生成されたものと採った古伝。面白いが、そこで比較として出すのが、縊死自殺して地に帰った「魄」(中国では「魂魄」は別なもので「魂」は空へ昇るとされる)が固まったものと同類だというのは、如何にも不気味。

「月-黒〔(やみよ)〕」月の出ていない闇夜。何故かは知らぬが、この手の話にはありがちな、呪的に、月の光は「虎魄」と相性が悪く、掘り出した途端に、光りを失ってしまうのであろう。

「麩-炭〔(けしづみ)〕」消し炭。ここは東洋文庫訳のルビに従った。

「嘯(うそぶ)き」吼え。

「〔その〕物〔を食ふに〕、月旬の上・下に隨ひて、其の〔獲物の〕首・尾を囓〔(かじ)〕る〔ことを變ふる〕」ここは良安の訓読が良くないのだが、要は月の上旬と下旬では、その獲物の動物を首から食うのか、尾から食うのかが、決まっていて、その定式に従ってそれぞれの時期には食事法を変更するというのである。

「其れ、物を搏(う)つこと[やぶちゃん注:獲物を襲うこと。]、三たび、躍る〔るれども〕中〔(あた)〕ざれば、則ち、之れを捨つ」どんな獲物のでも、三度試みて、捕獲出来なかった場合は、諦めるというのである。

「虎に威骨有り」先の南方の「十二支考 虎に関する史話と伝説、民俗」の「(七)虎に関する民俗」の一節に以下のようにある。太字で示したのが「威骨」であるが、その後の虎の鬚が有毒とする伝承や、本文が触れている虎が占いをするという部分と親和性のある箇所があって面白いので、それも含めてソリッドに引用しておく(カタカナ・ルビは推定で表記を変えた)。

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インドのマラワルの俗信に虎の左の肩尖の上に毛生えぬ小点あり、そこの皮また骨を取り置きて嘗(な)め含むと胃熱を治す、また虎肉はインド人が不可療の難病とする痘瘡(とうそう)唯一の妙剤だと(ヴィンツェンツォ・マリア『東方遊記』)。安南の俗信に虎骨ありて時候に従い場処を変える、この骨をワイと名づく、虎ごとにあるでなく、最(いと)強い虎ばかりにある、これを帯びると弱った人も強く、心確かになる、因って争うてこれを求むとあるが(ランド『安南民俗迷信記』)、ワイは支那字威(ウェイ)で、威骨(ウェイクツ)とて虎の肩に浮き居る小さき骨で佩ぶれば威を増すとてインドでも貴ぶ(『日本及日本人』[やぶちゃん注:大正三(一九一四)年。]新年号二三三頁を見よ)。安南人また信ず、虎鬚有毒ゆえ虎殺せば鬚を焼き失う習いだ。これを灰に焼いて服(のま)すとその人咳を病む、しかし死ぬほどの事なし。もし大毒を調えんとなら、虎鬚一本を筍(たけのこ)に刺し置くと鬚が蚝(けむし)に化(な)る。その毛また糞を灰に焼いて敵に服ませるとたちまち死ぬと。安南人また信ず、虎王白くて人を啖わず、神山に隠れ棲む処へ子分ども諸獣肉を献上す。また王でなく白くもない尋常の虎で、人を啖わず、いわば虎中の仙人比丘で神力あり、人を食うほど餓うればむしろ土を食うのがある。これをオンコプと名づく。その他人を何の斟酌なく搏ち襲う虎をコンベオと名づけ、人また何の遠慮なくこれを撃ち殺す。しかし虎が網に罹(かか)ったり機(わな)に落ちたりして、即座にオンコプだかコンベオだか判りにくい事が多いから、そんな時は何の差別なく殺しおわる。虎は安南語を解し、林中にあって人がおのれの噂するを聞くという。因って虎を慰め悼む詞を懸けながら近寄り、虎が耳を傾け居る隙すきを見澄まし殺すのだ。また伝うるは、虎に食わるるは前世からの因果で遁れえない。すなわち前生に虎肉を食ったかまた前身犬や豚だった者を閻魔王がその悪む家へ生まれさせたんだ。だからして虎は人を襲うに今度は誰を食うとちゃんと目算が立ちおり、その者現に家にありやと考えもし疑わしくば木枝を空中に擲(な)げて、その向う処を見て占うという。カンボジア人言うは虎栖[やぶちゃん注:「す」「すみか」。]より出る時、何気なく尾が廻る、その尖を見て向う所を占う(アイモニエー『柬埔寨人風俗迷信記(ノート・シュル・レ・クーツーム・エ・クロヤンス・スペルスチシュース・デ・カンボジヤン)』)。

 虎はなかなか占いが好きで自ら占うのみならず、人にも聞いた例、『捜神後記』に曰く、丹陽の沈宗、卜を業とす、たちまち一人皮袴を著、乗馬し、従者一人添い来って卜を請う、西に去って食を覓(もと)めんか東に求めんかと問うたんで、宗卦を作し、東に向えと告げた。その人水を乞うて飲むとて、口を甌(かめ)中に着け、牛が飲むごとし。宗の家を出て東に百余歩行くと、従者と馬と皆虎となり、「これより虎の暴非常」、と。『梁典』に曰く、「斉の沈僧照かつて校猟し、中道にして還る、曰く、国家に辺事あり、処分すべしと。問う、何を以てこれを知る、と。曰く、さきに南山の虎嘯くを聞きて知るのみ、と。にわかにして使い至る」。これは人が虎嘯くを聞いて国事を卜うたのだ。防州でクマオに向って旅立ちすると知って出たら殺され、知らずに出たら、怪我けがするとて、その日を避ける。船乗りことに忌む。クマオは子、辰、申の日が北で、それから順次右へ廻る。その日中に帰るならクマオに向かい往くも構わぬという(大正二年十二月『郷土研究』六二七頁)。このクマオも熊尾で、上述の虎同様熊が短き尾を以て行くべき処を卜うという伝説でもあるのか、また西洋で北斗を大熊星というから、その廻るのを熊尾と見立てての事か、大方の教えを乞いおく。

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この最後に南方の言っている「クマオ」というのは、よく判らないが、どうもその日に凶である方角を指すようではある。「捜神後記」のそれは、第九巻の以下。

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丹陽人沈宗、在縣治下、以卜爲業。義熙中、左將軍檀侯鎮姑孰、好獵、以格虎爲事。忽有一人、著皮褲、乘馬、從一人、亦著皮褲、以紙裹十餘錢、來詣宗卜、云、「西去覓食好。東去覓食好。」。宗爲作卦。卦成、告之、「東向吉、西向不利。」。因就宗乞飮,内口著甌中、狀如牛飮。既出、東行百餘步、從者及馬皆化爲虎。自此以後、虎暴非常。

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さて。この威骨って何だろう? と考えた。漠然と、「乙」の字に似ているとしたら、鎖骨かしらん? と思ったのだが、調べてびっくり、ネコ類には鎖骨は痕跡しかないという。サイト「ペット生活」の「人にはある骨。でも猫にはなぜ鎖骨がないのはなぜ?」によれば、『鎖骨は、「肩甲骨」と胸の前にある「胸骨」を結ぶ骨です。鎖骨は肩甲骨を外側に維持するために使われる骨であり、人が鎖骨を骨折してしまうと肩を動かすときに痛みが生じたり、肩幅が狭くなったります』。『一方』、四『本足で歩く猫は、前足を体の下に位置させて重心を安定させることが大切で、前足を開く動きはそれほど重要でありません。基本的に前足を前後に動かすだけでいい猫には、鎖骨の必要性が少なくなって鎖骨が退化してきたと考えれます。実際には、レントゲンを撮ると鎖骨の痕跡がうつることもありますが、筋肉の間に痕跡が存在するだけで実際の働きはないと言われています。ちなみに犬では痕跡も残っておらず、鎖骨は全くありません』。『鎖骨がないことで猫にはいくつかのメリットがあります』。『猫が狭い場所をうまく通り抜けることができるのは鎖骨がないおかげだと考えられています。鎖骨がないと』、『前足が体の横ではなく』、『前(腹側)側につくため、肩幅を狭くすることができます。狭い隙間をするすると進むためには鎖骨が邪魔なんですね』。『また、鎖骨は非常に骨折しやすい骨であり、人の全骨折の』十%『が鎖骨骨折だと言われています。鎖骨がないことで骨折のリスクが減るというのも、鎖骨がないメリットの一つだと考えれます』。『人間以外に鎖骨がある動物には、サルなどの霊長類の他にハムスターなどのげっ歯類やウサギなどがいます。では、猫や犬と、ハムスターやウサギは何が違うのでしょうか?』 『それは、前足の使い方をよく考えてみるとわかってきます。犬や猫はフードを食べるときに基本的には前足を使いません。一方、ハムスターやウサギはエサを器用に前足で持って食べることができるのです。つまり、鎖骨のある動物は手(前足)をうまく使うことができるんですね。前足の走る機能を高めた動物では鎖骨が退化し、前足を起用に使う機能を優先させた動物では鎖骨が残っていると考えられています』とあったのだ。うん? しかし、「長さ、一寸」だ。或いは、その痕跡として残っている鎖骨かも知れぬ。トラの全骨格を見る機会があったら確認してみよう。

「蝟-鼠〔(はりねづみ)〕」哺乳綱 Eulipotyphla 目ハリネズミ科ハリネズミ亜科 Erinaceinae のハリネズミ類。ヨーロッパ・アフリカ・中近東・日本を除く東アジア・ロシア・インドに自然分布し、五属十六種が知られている。時珍が言うのは、ハリネズミ属アムールハリネズミ Erinaceus amurensis か。

「獅子」既出既注

「騶虞〔(すうぐ)〕」既出既注。次の独立項。

「駮〔(はく)〕」幻想地理書「山海経」によれば、中曲山に棲息し、体は白い馬に似るが、虎の四肢を持ち、頭に一本の角を持ち、鳴き声は太鼓を叩いたような太い声で、鋭い牙を持ち(「山海経」はそこで「虎の牙」とする)、猛獣を喰い殺す。また、剣難を防ぐ能力を持つとされる。次の次の独立項。

「黃腰」次の次の次の独立項の「(こく)」の異名。「本草綱目」では、豹(ネコ目ネコ科ヒョウ属ヒョウ Panthera pardus)に似ているが、小さく、腰から上は黄、下は黒で、形は犬に似ているとする一方、身体は鼬(いたち)で、首は狸とし、形は小さいが、虎・牛・鹿を食ひ、さらに、成長すると母を食べると記すから、聖獣ではない。

「渠搜」不詳。中文サイトでは獣の名とはするものの、詳細を記さない。西域の国名ではあるが、それではない。

「勢〔(せい)〕」威勢。

「五雜組」既出既注。なお、原文を確認したが、ここで二重鍵括弧を附した部分の内、最後の二人の壮士による部分は同じ七巻からではあるが、別の部分からの引用である。

「黐(とりもち)を以つて地に布(し)き、及び、〔その〕横に〔なる〕道の側に〔も〕〔黐を〕施す者有り」後に「下ることを得ず」とあるから、やはり、前のシークエンスと同じ、崖の斜面を指していることが判る。

「地に據〔(よ)〕りて」平地、ここは後文から、「人家のある場所」の意。

「胡(えびす)」中国人が北方・西方の異民族を呼んだ語。戦国時代には内モンゴルに居住した異民族を指したが、秦・漢代には、主として匈奴を示すようになったが、パミール以西のイラン系民族、特にソグド人も「胡」とよばれ、魏晋南北朝時代以後は、専ら、ソグド人の意味に用いられた。なお、胡桃(くるみ)、胡麻(ごま)などの漢語は、これらがトルキスタンから中国へ齎されたことを示している(ここは小学館「日本大百科全書」に拠った)。ここは明の「五雑組」の記載であるから、西方のソグド人の住む領域を指す。

「六帖」「から國〔(くに)〕の虎ふすといふ山にだに旅にはやどる物とこそきけ」「古今和歌六帖」十世紀の終わり近くの円融・花山・一条天皇の頃の成立か(貞元元(九七六)年から永延元(九八七)年まで、又は永観元(九八三)年までの間が一応の目安とされる)とされる私撰和歌集。その「第二 山」に載る。作者不詳。或いは、女が男に泊まってゆくことを誘った艶歌であろうか。

「瘡疥」発疹。

「驚癇」癲癇。

「溫瘧〔(うんぎやく)〕」強い熱感が出るが、悪寒がないか、少ない症状を指す。

「虎膽〔(こたん)〕」小学館「日本国語大辞典」に虎の肺臓又は肝臓とする。

「疳痢」小児に特徴的に見られる神経性の下痢か。

『「日本紀」、欽明帝六年……』以下の「日本書紀」原文は欽明天皇六(五四五)年十一月の記事。

   *

冬十一月。膳臣巴提便還自百濟言。臣被遣使。妻子相逐去。行至百濟濱。【濱。海濱也。】日晚停宿。小兒忽亡、不知所之。其夜大雪。天曉始求、有虎連跡。臣乃帶刀擐甲。尋至巖岫。拔刀曰。敬受絲綸、劬勞陸海、櫛風沐雨、藉草班荊者。爲愛其子、令紹父業也。惟汝威神。愛子一也。今夜兒亡。追蹤覓至。不畏亡命。欲報故來。既而其虎進前、開口欲噬。巴提便忽申左手。執其虎舌。右手刺殺。剥取皮還。

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ウィキの引用に出た「宇治拾遺物語」のそれは、百五十六話の「遣唐使の子虎に食わるゝ事」(巻一二の二〇)の以下。

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 今は昔、遣唐使にて、唐(もろこし)にわたりける人の十ばかりなる子を、え見であるまじかりければ、具して渡りぬ。さて、過(すぐ)しける程に、雪の高くふりたりける日、ありきもせでゐたりけるに、この兒のあそびに出でて去ぬるが、遲く歸へりければ、怪しと思ひて、出でて見れば、足形(あしがた)、後(うしろ)の方(かた)から、蹈みて行きたるにそひて、大なる犬の足形ありて、それよりこの兒(ちご)の足形、見えず。山ざまに行きたるを見て、『こらは虎の食ひて行きけるなめり』と思ふに、せん方なく悲しくて、太刀を拔きて、足形を尋ねて、山の方に行きてみれば、岩屋の口に、この兒を食ひ殺して、腹をねぶりて臥せり。太刀を持ち)て走り寄れば、え逃げていかで、かい屈まりてゐたるを、太刀にて頭を打てば、鯉(こひ)の頭(かしら)をわるやうに割れぬ。つぎに、また、そばざまに食はんとて、走り寄る背中を打てば、せぼねを打ち切りて、くたくたとなしつ。

 さて、子をば死なせたれども、脇にかい挾みて、家に歸りたれば、その國の人々、見て怖(お)ぢあさむ[やぶちゃん注:恐れ呆れる。]こと、かぎりなし。

 唐の人は、虎にあひては逃ぐることだにかたきに、かく、虎をば打ち殺して、子を取り返して來たれば、唐の人は、いみじきことに言ひて、「なほ日本の國には、兵(つはもの)の方(かた)は、ならびなき國なり」と、めでけれど、子、死にければ、何にかはせん。

   *

明らかに「日本書紀」の記事を改変したものである。

「膳臣巴提便(かしはでのはです[やぶちゃん注:ママ。正しくは「かしはでのおみはすび」。])」「膳臣」は元は天皇の供御の料理や神への供饌に奉仕した職であるが、後に軍事や外交にも従事した。この「膳巴提便」(現代仮名遣「かしわでのはすび」)は「日本書紀」のここにみえる武人。無論、子は虎に食われたのであり、これはその勇猛果敢な報復譚の記載である。

「文祿年中、秀吉公の軍、朝鮮に在りて」秀吉の第一次朝鮮侵略である「文禄の役」は文禄元(一五九二)年に始まって翌年に休戦。現在、加藤清正が虎退治の主人公となっているが、本来は黒田長政とその家臣の逸話で、後世に清正のすり替えられたものである。]

2019/03/04

和漢三才圖會卷第三十八 獸類 白澤(はくたく) (仮想聖獣)

 

Hakutaku

 

    澤獸

白澤

 

ベツ ツユ

 

三才圖會云東望山有澤獸一名白澤能言語王者有德

明照幽遠則至昔黃帝巡狩至東海此獸有言爲時除害

 

 

    澤獸

白澤

 

ベツ ツユ

 

「三才圖會」に云はく、『東望山に澤獸有り、一名、白澤。能く言語〔を成〕し、王者、有德〔(うとく)〕にして、明照幽遠なるときは、則ち、至る。昔、黃帝、巡狩〔(じゆんしゆ)〕して、東海に至りたまふ。此の獸、言〔(げん)〕有りて、時の爲に、害を除く』〔と〕。

 

[やぶちゃん注:人語を解し、万物に精通するとされる仮想聖獣ウィキの「白澤より引く。良安が引くように、「三才図会」(後掲する)に『よると、東望山に白澤と呼ぶ獣が住んでいた。白澤は人間の言葉を操り、治めるものが有徳であれば』、『姿をみせたと言う』。なお、「佩文韻府」「淵鑑類函」では、これを「山海経」からの『引用とするが、実際の』「山海経」には『このような文はない』。『徳の高い為政者の治世に姿を現すのは麒麟(きりん)や鳳凰(ほうおう)に似ている』。『医学などの祖とされる中国の伝説上の三皇五帝の一人である』『黄帝が東海地方を巡行したおりに、恒山に登ったあとに訪れた海辺で出会った』『と言われる。白澤は鳳凰や麒麟、白澤は吉兆の印としても知られ』、一万千五百二十種に『及ぶ天下の妖異鬼神について語り』、『世の害を除くため』、『忠言した』『と伝えられる』。『古くは』「三才図会」に『その姿が記され、日本では』「和漢三才図会」にも『描かれているが、獅子に似た姿である』。『鳥山石燕は』「今昔百鬼拾遺」で『これを取り上げているが、その姿は』一『対の牛に似た角をいただき、下顎に山羊髭を蓄え、額にも瞳を持つ』三『眼、更には左右の胴体に』三『眼を描き入れており、併せて』九『眼として描いている』(ウィキ当該画像)。『白澤が』三『眼以上の眼を持つ姿は石燕以降と推測され、それより前には』三『眼以上の眼は確認できない。たとえば』、「怪奇鳥獣図巻」『(出版は江戸時代だが』、『より古い中国の書物を参考に描かれた可能性が高い)の白澤は』二『眼である。この白澤は、麒麟の体躯を頑丈にしたような姿で描かれている』。『白澤は徳の高い為政者の治世に姿を現すとされることと、病魔よけになると信じられていることから、為政者は身近に白澤に関するものを置いた。中国の皇帝は護衛隊の先頭に「白澤旗」を掲げたといわれる』。『また、日光東照宮拝殿の将軍着座の間の杉戸に白澤の絵が描かれている』。先に述べたように黄帝は白澤に出逢って親しく語り合ったが、『黄帝はこれを部下に書き取らせた。この書を』「白澤図」という。『ここでいう妖異鬼神とは人に災いをもたらす病魔や天災の象徴であり、白澤図にはそれらへの対処法も記述されており、単なる図録ではなく』、『今でいうところの防災マニュアルのようなものである』。『また、後世、白澤の絵は厄よけになると信仰され、日本でも江戸時代には道中のお守りとして身につけたり、病魔よけに枕元においたりした』。「本草綱目」は『獅(ライオン)の別名を「白澤」とする説について言及している』『(その記述があるのは』「説文解字」だと『されているが確認できない』)。但し、「瑞応図」を『元に、獅と白澤は異なる』、『と結論づけている』とある。また、Ru_pブログ「の「見たかった『白澤図』には、かなり古い碑文の図と拓本らしきものが掲げられており、碑文も電子化されており、その図の様態及び使用されている漢字字体から見て、その原版(碑か木版か)は不明ながら、相当に古い時代のものであるように思われるとあり、非常に興味深い。そこでブログ主は、『頭や足先は虎かライオン風』で、見た目は『猫科か』と推測されておられる。必見。

 

『「三才圖會」に云はく……国立国会図書館デジタルコレクションの画像頁)解説。図の印象は麒麟や獅子の同類と見える。

「東望山」の「獬豸かいち)と出所が同じ。東洋文庫割注には、江西省とする。「江西省東望山」でグル・マップ・データにかけると、離れた二ヶ所が掛かる。まあ、このものも実在しないんだから、いいか。

「明照幽遠」はっきりと正邪を見分け、思慮が奥深いこと。

「巡狩」巡守とも書く。古代中国において、天子が天下を巡って、狩猟による練兵の傍ら、諸国の政治を視察したことを指す。黄帝は世にあるあらゆる植物を自ら食(は)み、その有用性を調べ尽くしたとされるので、「巡狩」は文字通り、腑に落ちる謂いではある、と私は一人、合点してはいる。]

2019/03/03

和漢三才圖會卷第三十八 獸類 獬豸(かいち) (仮想聖獣)

 

Kaiti

 

かいち    𧳊𧳋【廣雅】 獬廌

 𧣾 神羊

獬豸【解池】

 

キヤイツウ

 

三才圖會云東望山有獬豸神獸也能觸邪狀如羊一角

四足王者獄訟平則至

文云神人以獬廌遺黃帝帝曰何食何處曰食薦春夏

處水澤秋冬處松栢一云似鹿一角能別曲直皐陶治獄

其罪疑者令觸之故法冠有獬豸冠之名

五雜組云諸獸中獨獬豸不經見神羊之名見於神異經

其言妄誕不足信攻歷代五行四夷志如麒麟獅子扶拔

騶虞角端史不書而獬豸無聞焉則世固未曽有此獸

也自楚文王服獬豸冠而漢因之相沿至今動以喩執法

之臣亦無謂矣

 

 

かいち    𧳊𧳋〔(かいち)〕【「廣雅」。】

       獬廌〔(かいたい)〕

 𧣾〔(かいち)〕 神羊

獬豸【〔音、〕「解池」。】

 

キヤイツウ

 

「三才圖會」に云はく、『東望山に獬豸有り、神獸なり。能く邪に觸〔(しよく)す〕[やぶちゃん注:邪悪な対象に反応する。]。狀、羊のごとく、一角・四足。王者の獄訟[やぶちゃん注:処罰・訴訟の裁定。]、平らかなるときは[やぶちゃん注:公平である時に。]、則ち、至る[やぶちゃん注:姿を表わす。]』〔と〕。

文」に云はく、『神人、獬廌を以つて黃帝に遺〔(つか)〕はす。帝、曰はく、「何をか食ひ、何〔(いづ)〕くにか處〔(を)〕る」〔と〕。曰はく、「薦〔(こも)〕を食ひ、春・夏〔は〕水澤に處り、秋・冬、松栢〔(しようはく)〕[やぶちゃん注:常緑高木の総称。]の處る」〔と〕。一つに云はく、「鹿に似て、一角。能く曲直を別〔(わか)〕つ[やぶちゃん注:曲がったこととまっすぐなこと、則ち、ことの正不正を正確に弁別する。]。皐陶〔(こうとう)〕、獄(う〔つ〕たへ)を治むるに、其の罪、疑はしき者は、之れに觸れしむ。故に、法冠に獬豸冠〔(かいちくわん)〕の名、有り』〔と〕。

「五雜組」に云はく、『諸獸の中〔(うち)〕、獨り、獬豸〔のみ〕經〔(けい)〕に見へず[やぶちゃん注:ママ。以下同じ。]。「神羊」の名は「神異經〔(しんいきやう)〕」に見へて〔ゆるも〕、其の言〔(げん)〕、妄誕〔(ばうたん)〕[やぶちゃん注:根拠のない話。「まうたん(もうたん)」と読んでもよい。]にして、信ずるに足らず。歷代の五行・四夷志を攻〔(しら)ぶ〕るに[やぶちゃん注:調べてみたが。]、麒麟・獅子・扶拔〔(ふばつ)〕・騶虞(すうぐう[やぶちゃん注:ママ。原典のルビは「スウクウ」。])・角端のごときは、史〔書に〕書〔(かく)〕をえずして、獬豸〔のみ〕聞くこと、無し。則ち、世に固〔(もと)〕に〔より〕此の獸、未だ曽つて有らざるなり。楚の文王より、獬豸の冠を服して、漢、之れに因りて相ひ沿(したが)ふ。今に至りて、動-以(やゝもす)れば、法を執るの臣を喩(たと)ふ〔も〕亦、謂(いはれ)無し[やぶちゃん注:(存在しない架空の獣である以上)何の根拠も、また、ないのである。]』〔と〕。

[やぶちゃん注:中国の伝説上の動物。「獬豸」は拼音で「xiè zhì」(シィエ・ヂィー)。ウィキの「獬豸」より引く。『日本の狛犬の起源とも』言われる。「論衡」(後漢の王充(二七年~一世紀紀末頃)が著した全三十巻から成る思想書)の『記載から、姿は大きいものは牛、小さいものはヒツジに似ているとされる。全身には濃くて黒い体毛が覆う。頭の真ん中には長い一角を持つことから一角獣とも呼ばれ、この角を折った者は死ぬと言われる。麒麟に似ている。水辺に住むのを好む。人の紛争が起きると、角を使って理が通っていない一方を突き倒す(その後』、『突き倒した人を食べるという伝説もある)。次第にカイチはより正義感のある性格付けがなされてゆき、正義や公正を象徴する祥獣(瑞獣の一種)となった』。『獬豸の「豸」の字は、足の無い虫や背中の長い獣を意味する同音字で、本来は「廌」と書く。「廌」は「法治(灋治)」の「治」と同音であり、「法(灋)」の正字にも含まれていることから、古くから中国人は「法治」の精神をカイチを使って表現した』。『古代中国では法律を執行する役人が被った帽子(法冠)に獬豸が飾られ、獬豸冠(かいちかん 獬冠』『とも)と称した。清の時代の役人の着物にも獬豸が刺繍されていた。また副葬品としてカイチの工芸品を選ぶ人もいた。寺ではカイチの化身としてヒツジを飼育した』。『台湾に移住した漢人は「法治」の精神をカイチを使って表現することを伝え、正義や公正を象徴する祥獣(瑞獣の一種)となった。現在、中華民国国防部憲兵の腕章に採用されている』。また、『カイチは朝鮮半島にも伝わり、ヘテ』『とよばれる。ヘテは漢字で書く場合には「海駝」と当て字される。漢字のカイチが朝鮮語ではヘチ』『又はヘテ』『と読まれる』。『中国との違いは、羊や牛の姿ではなく』、『獅子形であることと、大抵の場合、頭に角を持たないことである。が、文献上の知識では』、『朝鮮でも一角獣であると認識されており、なぜ造形された実際の像となると』、『角がなくなることが多いのかは不明である』。『真贋を見極める能力があるとされ、その石像は魔除けとして建造物の門前などに置かれることがある』。『韓国では製菓会社の企業名に用いられるなど親しまれている。また、ソウル特別市はヘテの語源である「ヘチ」を』二『代目のシンボルにしている』とある。

 

「廣雅」三国時代の字書。張揖(ちょうゆう)著。 全十巻。魏の太和年間(二二七年~二三二年)の成立。「爾雅」と同系統の、所謂、古い訓詁字書。「爾雅」の旧目に拠りつつ、さらに他の諸書から広く内容をとったので「広雅」と称した。隋代、時の煬帝の諱を避けて「博雅」と改めたことがあり、今日でも両様に呼ばれる。清の王念孫の「広雅疏証」が注釈書として優れる(「ブリタニカ国際大百科事典」に拠る)。

『「三才圖會」に云はく……』国立国会図書館デジタルコレクションの画像のこちらが図こちらが解説

「東望山」東洋文庫割注には、江西省とする。「江西省東望山」でグーグル・マップ・データと、。まあ、実在しないんだから、いいか。

文」「説文解字」現存する中国最古の字書。後漢の許慎(三〇年~一二四年)著。全十五巻。小篆文字九千三百五十三字を五百四十部に分類し、それぞれ、字形と字義を訓釈する。文字構成の説明を「象形」・「指事」・「会意」・「形声」・「転注」・「仮借」の六書(りくしょ)と呼ばれる原理を用いた、中国文字学の基本的古典。清朝の考証学で重視され、段玉裁の「説文解字注」や朱駿声の「説文通訓定声」などが出た。

「黃帝」中国古代の伝説上の帝王。三皇五帝(三皇は燧人(すいじん)・伏羲(ふっき)・神農(或いは女媧(じょか)を数えることもあり、別に天皇・地皇・人皇とするケースももある)、五帝は黄帝・顓頊(せんぎょく)・嚳(こく) ・堯(ぎょう)・舜(しゅん)とするのが一般的ではあるが、こちらも命数には数説がある三皇五帝説の確かな成立は戦国時代であった)の一人。姓は公孫。軒轅氏とも、有熊氏(ゆうゆうし)ともいう。蚩尤(しゆう)の乱を平定し、推されて天子となり、舟車・家屋・衣服・弓矢・文字を初めて作り、音律を定め、医術を教えたとされる。

「薦〔(こも)〕」単子葉植物綱イネ目イネ科エールハルタ亜科 Ehrhartoideae イネ連マコモ属マコモ(真菰)Zizania latifolia。沼・河川・湖など水辺に群生する。成長すると、大型になり、人の背ほどにもなる。花期は夏から秋で、雌花は黄緑色、雄花は紫色。葉脈は平行。日本を含む東アジア・東南アジアに広く植生する。

「皐陶〔(こうとう)〕」先の注で掲げた五帝の伝説の聖王堯・舜の時代に公平な裁判を行ったとされる、やはり伝説上の人物。ウィキの「皋陶によれば(「皋」は「皐」の字の本字)、『司法をつかさどる官吏(司空・司寇)として力をふるったといい、どのような事件に対しても公平な裁決につとめたとされる。その判決には、正しい者を判別して示すという霊獣である獬豸(かいち)を使った』『ともいい、後の時代に司法官のかぶる帽子を獬豸冠(かいちかん)と称することの由来にもなっている』。『日本では、皋陶の像が神像のようなあつかいで祀られていたこともあるようだが、何の像か分からなくなってしまい、いつの間にか閻魔の像として取り扱われてしまった例もあるという』とある。

「五雜組」既出既注

「神異經〔(しんいきやう)〕」後漢末に東方朔が著したとされる、中国の神話集成。

「歷代の五行・四夷志」「五行」が五行説について記された各種の博物学書の謂いであろう。「四夷志」の「四夷」は古代中国において自国を「中華」と自尊称したのに対して、四方の異民族を指して「東夷」・「西戎(せいじゅう)」・「南蛮」・「北狄(ほくてき)」と賤称したその総称であるから、「四夷志」とはそうした中国の辺縁及びその外地の四方の地誌書群のことであろう。

「麒麟」既出既注

「獅子」既出既注

「扶拔〔(ふばつ)〕」Q&Aサイトの回答に「漢書」「後漢書」に、後漢の粛宗孝章帝の章和元年(西暦八七年)是歳の条に、『西域長史班超が莎車を擊ち、之れを大破す。月氏国が遣使して扶抜・師子を獻ず」とあって、「後漢書」注に『麟に似て角無し』とあるのみで、それ以上に詳しいことは判らないとしつつ、回答者はそこで、献上したとある以上、仮想動物とは思われず、所謂、ジラフ(Giraffe)、哺乳綱鯨偶蹄目キリン科キリン属キリン Giraffa Camelopardalis か、或いはその仲間ではないかと考えている、と述べておられた。

「騶虞(すうぐう)」この漢字では「すうぐ」或いは「すうご」としか読めない。伝説上の生き物で「騶吾(すうご)」とも書く。ウィキの「騶虞によれば、『品格を持った仁徳を示す瑞獣とされ仁獣と称される』。『中国の文献では一般的に騶虞は、仁徳をもった君主が現れたときに姿を見せる瑞獣として描かれている。姿は虎のようだが』、『性質穏健で獣を捕食しない』とする。「説文解字」では、『尾が体よりも長く、黒い斑点を持つ色の白い虎のようなかたちをしていると描写されている』。「山海経」の『「海内北経」に記載されている騶吾は騶虞とおなじものであると見られており、「騶虞」という表記で記されている文献もある』。『騶吾は体に五彩の色をそなえた虎のような大きさの獣で、尾が体よりも長いとされる』。「三才図会」には、『周の文王の時代に姿を現わした』『という伝承が記されている。明の永楽帝の時代には、開封で捕らえられた騶虞が皇帝に贈られたという記録がある。また山東での目撃談もあったという。この目撃談は黄河の水が澄んだことや、ベンガルまで派遣された鄭和艦隊の分遣隊がキリンを持ち帰ったことなどと併せて瑞祥とされた』。『騶虞の語が登場する最古の例は』「周礼」の『「春官」で』、また、「詩経」に『収められた一篇「騶虞」の題およびその一節』『などもあるが、ここで述べられている騶虞とは狩猟に関することを司る役人の職名(騶人・虞人)』であって、『仁獣としての存在を意味しているかどうかは疑わしいと魯詩学派(漢の時代に』出現した「詩経」解釈学派の一つ)『では説かれていた』。『仁獣である証しとして、肉として食べるのは自然と死んだ獣のみで、生活をしている獣を狩り捕って食べることはないとされている。また、草木などに対しても同様で必用以上に踏み荒らして移動をすることをしないとい』。『同様に獣を捕食しないとされる中国に伝わる霊獣には酋耳(しゅうじ)というものもある』。『オランダの中国学者ヤン・ユリウス・ローデウェイク・ドイフェンダック』(Jan Julius Lodewijk Duyvendak 一八八九年~一九五四年)『は、白い体に黒い模様をもつという記述から』、『永楽帝に贈られたという騶虞はジャイアントパンダ』(哺乳綱食肉目クマ科ジャイアントパンダ属ジャイアントパンダ Ailuropoda melanoleuca『ではなかったか』と一九三〇年代に『主張している。日本ではあまりとりあげられていないが、欧米などでは彼の主張に追随して現在の著述家のなかにも騶虞はもともとジャイアントパンダを指していたものではないかと考える者がいる』とある。「騶虞」はやはり「すうぐう」で、三項後に出るので、そこに至ったら、以上はそちらにそのまま転写する。

「角端」個人ブログ「プロメテウスによれば、『角端は中国の古代伝説中の祥瑞の獣名で、形状は鹿に似て』、『翼を持ち』、『パンダほどの大きさです。鼻に角が一本ついており、一日に一万八千里を行くことができ、さらに四方の言語に精通していると言います。このため邪を避ける目的も兼ねて芸術作品にも多く登場しており、またの名を甪端(ろくたん)とも言い漢代頃からその名が見られるようになっています』。「宋書」の「符瑞志下」には、「『甪端は日に一万八千里行き四方の言語を知り名君の在位に明るく、遠方の物事にも明るく則ち書を奉ると現れる』」『とあります』。『甪端は端端、端とも言います。獬豸、豸莫、独角獣などと形状は似ていますが、これらは別々の神獣です。麒麟の頭に獅子の体で翼があり、独角、長尾、四爪で、上唇が特に長く前に伸びている者上向きに巻いている者など様々なタイプがいます。甪端は宋代の神獣の彫刻を代表する形状であり、様々な皇帝の陵墓にその姿が見られています。彫刻に見られる甪端は重厚で胸が突き出ており鼻の端にある一本の角が誇張されて獅子が吠えているように見え』、『気勢を上げています』。『翼を持つ神獣の形状は古くはペルシャやギリシャなどで見られています。翼は飛行のためと言うよりも神性を示すための象徴として用いられています。この翼を持った神獣は歴代の皇帝たちに愛されました。ある文献によると、頭に角が一本ある神獣を麒麟と言い、二本あると避邪、角がないものを天禄と呼ぶ、と記載されています。しかし、彫刻に用いられる形状にはそれほど厳格な規則はなく、宋の時代の甪端の形状は南北朝から唐にかけて麒麟や天禄、翼馬などの特徴が加えられて変化していきました。この甪端の特徴は明、清の諸陵石に刻まれた麒麟にも継承されています』。『史書中の甪端の記述には外見に関して三種類の記述があります。一つは豚型で、二つ目は麒麟が田、三つめは牛型です。実際には』「史記」の「司馬相如列伝」には、「獣則ち麒麟、甪端」と『あり、昔の人たちは甪端を古くから祥瑞の神獣として用いてきました』。『甪端は麒麟に似ていますが』、『麒麟ではなく、形状は豚や牛に近いです。麒麟自体は毛皮を持った動物の長であるとされています。漢代や唐代には甪端は様々な効能をもたらすとされていましたが、神格化は行われておらず』、『宋代になると』、『甪端はさらに神秘的な存在にされていきました。この時期に祥瑞の属性を付加された上に』、『翼や巻いた唇などが付け加えられるようになりました』。『甪端の造形は天禄や避邪などとの共通点が見て取れ、工芸ではその特徴が脈々と継承されています。明清時代になると宋代に変化して独特になってしまった形状の漢や唐代への回帰が起こり元の麒麟に近い形状に戻っていきました。つまり、宋代の甪端はその形状のみならず地位も独特で、この時代特有のものとなっています』。また、『甪端の角を用いて弓を作ったと言う話が残っており』、「後漢書」の「鮮卑伝」には、「野馬、原羊、甪端牛の角を以って弓を為し、俗にいう角端弓である。」『とあります。この場合、甪端は牛として描かれています。甪端牛は古代の鮮卑の異獣名であり、形状は牛に似ており』、『角は鼻の上にあったので甪端牛の名前はこれに因んでいます』とある。]

蒲原有明 有明集(初版・正規表現版) 鐘は鳴り出づ

 

 鐘は鳴り出づ

 

『火(ひ)はいづこぞ』と女(め)の童(わらは)、――

『見(み)よ、伽藍(がらん)ぞ』と子(こ)の母(はゝ)は、――

父(ちゝ)は『いぶかし、この夜(よ)に』と。

  (鐘(かね)は鳴(な)り出(い)づ、梵音(ぼんおん)に、――

        紅蓮(ぐれん)のひびき。)

 

『伽藍(がらん)のやねに火(ひ)ぞあそぶ、

ああ鳩(はと)の火(ひ)か、熖(ほのほ)か』と、

つくづく見入(みい)る女(め)の童(わらは)。

  (鐘(かね)は叫(さけ)びぬ、梵音(ぼんおん)に、――

        無明(むみやう)のあらし。)

 

『火(ひ)は火(ひ)を呼(よ)びぬ、今(いま)、垂木(たるき)、

今(いま)また棟木(むなぎ)、――末世(まつせ)の火(ひ)、

見(み)よ』と父(ちゝ)いふ、『皆(みな)火(ひ)なり。』

  (鐘(かね)はとどろく、梵音(ぼんおん)に、――

        苦熱(くねつ)のいたみ。)

 

『火(ひ)はいかにして莊嚴(しやうごん)の

伽藍(がらん)を燒(や)く』と子(こ)の母(はゝ)は、――

父(ちゝ)は『いぶかし誰(た)が業(わざ)』と。

  (鐘(かね)は嘆(なげ)きぬ、梵音(ぼんおん)に、――

        癡毒(ちどく)のといき。)

 

『熖(ほのほ)は流(なが)れ、火(ひ)は湧(わ)きぬ、

ああ鳩(はと)の巢(す)』と女(め)の童(わらは)、――

父(ちゝ)は『燒(や)くるか、人(ひと)の巢(す)』と。

  (鐘(かね)はふるへぬ、梵音(ぼんおん)に――

         壞劫(ゑごふ)のなやみ。)

 

『熖(ほのほ)の獅子座(ししざ)火(ひ)に宣(の)らす

如來(によらい)の金口(こんく)われ聞(き)く』と、

走(はし)りすがひて叫(さけ)ぶ人。

  (鐘(かね)はわななく、梵音(ぼんおん)に、――

         虛妄(こまう)のもだえ。)

 

『火(ひ)は内(うち)よりぞ、佛燈(ぶつとう)は、

末法(まつはふ)の世(よ)か、佛殿(ぶつでん)を

燒(や)く』と、罵(ののし)り謗(そし)る人。

  (鐘(かね)はすさみぬ、梵音(ぼんおん)に、――

         毗嵐(びらん)のいぶき。)

 

『鐘樓(しゆろう)に火(ひ)こそ移(うつ)りたれ、

今(いま)か、今(いま)か』と、狂(くる)ふ人(ひと)、――

『鐘(かね)の音(ね)燃(も)ゆ』と女(め)の童(わらは)。

  (鐘(かね)は(た)え入(い)る。梵音(ぼんおん)に、――

         無間(むげん)のおそれ。)

 

『母(はゝ)よ、明日(あす)よりいづこにて

あそばむ』と、また女(め)の童(わらは)、――

母(はゝ)は『猛火(みやうくわ)も沈(しづ)みぬ』と。

  (鐘(かね)は殘りぬ、梵音(ぼんおん)に、――

         欲流(よくる)のしめり。)

 

『父(ちゝ)よ、わが鳩(はと)燒(や)け失(う)せぬ、

火(ひ)こそ嫉(ねた)め』と女(め)の童(わらは)、――

父(ちゝ)は『遁(のが)れぬ、後(あと)追(お)へ』と。

  (鐘(かね)はにほひぬ、梵音(ぼんおん)に、――

         出離(しゆつり)のもだし。)

 

[やぶちゃん注:珍しい、仏教色の異様に濃い、叙事詩的詩篇である。

「毗嵐(びらん)」仏教用語。「毘嵐風(びらんぷう)」「毘藍婆(びらんば)」等とも言い、この世の終わりに吹いて、全てを破壊し尽くすとされる、強く激しい暴風の謂い。

「欲流(よくる)」仏教用語らしい。欲望が内心の善を洗い流してしまうことを言うか。]

蒲原有明 有明集(初版・正規表現版) やまうど

 

 やまうど

 

やまうどは微(かす)かに呻(うめ)く、わなわなと

胸(むね)にはむすぶ雙(さう)の手(て)や、

 をみなよ、その手(て)を………

やまうどは寢(ね)がへるけはひ。

 

やまうどの枕(まくら)を暗(くら)く寂(さび)しげに

燈火(ともしび)くもる夜(よる)の室(むろ)、

 をみなよ、照(て)らしぬ………

やまうどは汗(あせ)す、額(ひたひ)に。

 

やまうどは何(なに)をかもとむ、呼息(いき)づかひ

いと苦(くる)しげに呟(つぶ)やける、

 をみなよ、聞(き)け、問(と)へ………

やまうどの唇(くちびる)褪(あ)せぬ。

 

やまうどの眼(まなこ)は轉(まろ)び沈(しづ)み入(い)り、

きしめぐらしき惱(なや)ましさ、

 をみなよ、靜(しづ)かに………

やまうどに夜(よる)の氣(け)熟(う)みぬ。

 

やまうどは落居(おちゐ)ぬ眠(ねぶ)り、蟀谷(こめかみ)の

脈(すぢ)ひよめきて、また弛(ゆる)ぶ、

 をみなよ、あな、あな………

やまうどの面(おもて)ほほゑむ。

 

やまうどをこの束(つか)の間(ま)に、(その人(ひと)の

妻(つま)たる三年(みとせ))、いかに見(み)る、

 をみなよ、畏(おそ)れな………

やまうどの夢(ゆめ)は罅(ひゞ)きぬ。

 

やまうどの枕(まくら)をかへよ、舊(ふ)りぬるも

なほ新(あら)たなる布(ぬの)ありや、

 をみなよ、いづくに………

やまうどに燈火(ともしび)滅(き)えぬ。

 

[やぶちゃん注:総てのリーダは九点。第三連冒頭の「やまうどは何(なに)をかもとむ、呼息(いき)づかひ」は底本では「やとうどは何(なに)をかもとむ、呼息(いき)づかひ」。明らかな誤植で、底本の「名著復刻 詩歌文学館 紫陽花セット」の解説書の野田宇太郎氏の解説にある、有明から渡された正誤表に従い、特異的に呈した。同じ仕儀を「さしめぐらしき惱(なや)ましさ、」(底本は「きしめぐらしき惱(なや)ましさ、」)と、「脈(すぢ)ひよめきて、また弛(ゆる)ぶ、」(底本は「脈(すぢ)びよめきて、また弛(ゆる)ぶ、」)で施した「やまうど」は「山人」のこと。]

蒲原有明 有明集(初版・正規表現版) 序のしらべ

 

 

 序のしらべ

 

  一

 

華(はな)やかに夕日(ゆふひ)は、かしこ、

矛杉(ほこすぎ)を、檜(ひ)のつらなみを、

華(はな)やかに映(うつ)しいでたる。

 (見よ、空の遠(をち)、

  夕暮(ゆふぐれ)かけて雲(くも)すきぬ。)

 

なからより上(うへ)を木(き)の幹(みき)、

叢葉(むらは)こずゑ、ふとあからかに、

なからより樹(こ)のもと暗(くら)く。

 (今(いま)、空(そら)のうへ

  冬(ふゆ)をなやらふ風(かぜ)のおと。)

 

夢(ゆめ)なりや、木々(きぎ)のいただき、

仰(あ)ふぐ眼(め)に瞳(ひとみ)ぞ歌(うた)ふ、

夢(ゆめ)なりや、夢(ゆめ)のかがやき。

 (雲(くも)と風(かぜ)とは

  春(はる)を迎(むか)ふる夕(ゆふ)あらび。)

 

  二

 

わが脚(あし)は冷(つめ)たき地(つち)に

うゑられぬ、をぐらき惱(なや)み、

わが脚(あし)は重(おも)し、たゆたし。――

  冷(つめ)たき地(つち)は

  遁(のが)れもえせぬ「死」の獄(ひとや)。

 

かぐよへるめぐみのかげに

冥(みやう)をぬく「おもひ」の上枝(ほつえ)、

かぐよへる天(あめ)のみすがたや。――

  めぐみのかげは

  闇(やみ)の絃(いと)彈(ひ)く序(じよ)のしらべ。

 

歡喜(よろこび)のまぢかしや、わが

望(のぞみ)の苑(その)、光(ひかり)の流(ながれ)、

歡喜(よろこび)の朝(あした)をまため。――

  まぢかしや、それ

  夜(よ)は荒(すさ)ぶとも、喘(あへ)ぐとも。

 

  三

 

うつつなる春(はる)に遇(あ)ひなば

甲(かん)の黃(き)や、乙(おつ)の紫(むらさき)、

うつつなる夢(ゆめ)にわが身(み)も、――

  あはれ身(み)はまた

  魂(たま)の常磐(ときは)にしたしまむ。

 

翌(あす)となり、今日(けふ)うれひを

琴(きん)のすみれ、箜篌(くご)のもくれん、

翌(あす)となりて興(きやう)じいでなば、――

  さらばこころは

  いかが燻(くゆ)らむ、追憶(おもひで)に。

 

闇(やみ)おちぬ、今(いま)はた空(むな)し、

世(よ)や、われや、ただひとつらに、

闇(やみ)おちぬ、闇(やみ)のくるめき、――

  かくて望(のぞみ)の

  緖(を)をこそまどへ、(た)えにきと。

 

[やぶちゃん注:「二」の第二連の「めぐみのかげは」は底本では「めくみのかげは」であるが、「青空文庫」版(底本は昭和四三(一九六八)年講談社刊「日本現代文学全集」第二十二巻「土井晚翠・薄田泣菫・蒲原有明・伊良子清白・横瀬夜雨集」)では「めぐみ」となっており、「めくみ」では躓くので、誤植と断じ、特異的に訂した。

2019/03/02

蒲原有明 有明集(初版・正規表現版) 晚秋

 

 晚 秋

 

ささやきて去(い)にける影(かげ)や、

盞(さかづき)にしたみし酒(さけ)は

(飮(の)みさしぬ)、あはれ惱(なや)まし、

澁(しぶ)りたる愁(うれひ)に濁(にご)る。

 

ささやきて去(い)にける影(かげ)や、

おとづれも今(いま)はた(た)えぬ、

ほど過(す)ぎて風(かぜ)もあらぬに

ひえびえと膚(はだへ)粟(あは)だつ。

 

うらがれの園(その)にしとれる

石(いし)づくゑ、琢(みが)ける面(おも)の

薄鈍(うすにば)み曇(くも)るわびしさ、――

「歡樂(よろこび)」は待(ま)てどかへらず。

 

雲(くも)は、見(み)よ、空(そら)のわづらひ、

吹(ふ)き棄(は)つる命(いのち)のかたみ――

「悲(かなしみ)」の螺(かひ)かとばかり

晝(ひる)の月、痕(あと)こそ痛(いた)め。

 

かくてまた薄(うす)らぎ弱(よは)る

日(ひ)のひそみ、風(かぜ)のおとろへ、

黃(き)に默(もだ)す公孫樹(いてふ)の、はたや

灰(はい)ばめる楊(やなぎ)の落葉(おちば)。

 

一叢(ひとむら)の薔薇(さうび)は、かしこ、

凋(しぼ)みゆく花(はな)の褪色(あせいろ)、

くづをるる埋(うも)れこころぞ

土(つち)の香(か)の寂(さび)れに咽(むせ)ぶ。

 

空(そら)だのめ、何(なに)をかは待(ま)つ、――

いつしかに日和(ひより)かはりて

雨(あめ)もよひ、やや蒸(む)しぬれば、

秋(あき)は今(いま)ふとき呼息(いき)しぬ。

 

わりなくも聲(こゑ)になやめる

盞(さかづき)の玻璃(はり)の嘆(なげ)きと

うつろへる薔薇(さうび)の歌(うた)と、

かかる日(ひ)を名殘(なごり)のしらべ。

 

[やぶちゃん注:第六連最終行の「土(つち)の香(か)の寂(さび)れに咽(むせ)ぶ。」の「寂(さび)れに」は底本では「寂(さび)れは」。底本の「名著復刻 詩歌文学館 紫陽花セット」の解説書の野田宇太郎氏の解説にある、有明から渡された正誤表に従い、特異的に呈した。

「しとれる」「濕(しと)れる」で、「しっとりと濡れている・湿り気を含んでいる」の意。]

蒲原有明 有明集(初版・正規表現版) 皐月の歌

 

 皐月の歌

 

雲(くも)は今(いま)たゆらにわたる、

ああ皐月(さつき)、――雲の麝香(じやかう)よ、

麥(むぎ)の香(か)もあたりに薰(くん)ず、

麥(むぎ)の香(か)の波折(なをり)のたゆた。

 

日(ひ)は醉(ゑ)ひぬ、綠(みどり)は蒸(む)しぬ、

ゆをびかに野(の)はうるみたり、

揚雲雀(あげひばり)――阿剌吉(アラキ)のみ魂(たま)、

軟風(なよかぜ)や輕(かろ)き舞(まひ)ぎぬ。

 

見(み)よ、瑞枝(みづえ)、若葉(わかば)のゆらぎ、

ゆらめける梢(こずゑ)のひまを

靑空(あをぞら)や孔雀(くじやく)の尾羽(をばね)、――

數(かず)の珠(たま)、瑠璃(るり)のつらなみ。

 

皐月野(さつきの)の胸(むね)のときめき――

節(ふし)ゆるきにほひの歌(うた)ぞ

日(ひ)に蒸(む)して、綠(みどり)に醉(ゑ)ひて、

たよたよと傳(つた)ひゆきぬる。

 

[やぶちゃん注:「阿剌吉(アラキ)」小学館「日本国語大辞典」によれば、オランダ語「arak」(アラック)で、『江戸時代、オランダから渡来した酒。アルコールに香気をつけたもの、あるいは、丁子、肉桂、ういきょうなどを焼酎につけたものという。アラキざけ』とある。しかし、有明の「阿剌吉(アラキ)のみ魂(たま)」という表現は逐語的には採りにくい。同辞典の用例を見るに、松尾芭蕉編の延宝六(一六七八)年の「桃青三百韻附両吟二百韻」に『花に嵐あらきちんたをあたためて』(信章)『胸につかへし霞はれ行く』(信徳)とある例を見るに(「ちんた」は「チンタ酒」で、やはりポルトガル語の「vinho tinto」に基づく、ポルトガルから伝来した「赤ぶどう酒」のことを指す語である)、これは単に「あらし」に「アラキ」(「荒き」、アルコール度が高い強烈な酒のイメージ)を掛けたものであろう。しかし、ここで有明が「荒御魂(あらみたま)」を雲雀に比喩したとするのは、とてものことに困難であり、寧ろ、これは第一連の「雲の麝香(じやかう)よ」と同じで、皐月の空に舞い上がる揚げ雲雀の飛翔と囀りを、度数の高い酒のキュンとくる感じにメタファーしたものと私は採る。大方の御叱正を俟つ。

蒲原有明 有明集(初版・正規表現版) 橡の雨

 

  

 

遠方(をちかた)の樹立(こだち)に、あはれ、

皐月雨(さつきあめ)煙(けぶ)れる奧(おく)に、薄(うす)き日(ひ)は

射(さ)すともなしに漲(みなぎ)りて

綠(みどり)に浮(うか)び霑(うるほ)へる黃金(こがね)のいぶき。

 

わが道(みち)は雨(あめ)の中(なか)なり、

汗(あせ)ばめる額(ひたひ)を吹(ふ)きて軟風(なよかぜ)は

蒸(む)しぬ、――心(こゝろ)の惱(なや)ましさ、

雨(あめ)に濡(ぬ)れたる礫(こいし)みち、色(いろ)蒼白(あをじろ)く。

 

熟々(つくづく)と彼方(かなた)を見(み)れば

金蓮(こんれん)の光(ひかり)を刻(きざ)む精舍(しやうじや)かと、

夢(ゆめ)も明(あか)るき森(もり)つづき、――

さあれ、ここには長坂(ながさか)の下(くだ)りぞ暗(くら)き。

 

わが道(さか)は溝(みぞ)に沿(そ)ひたり、

その溝(みぞ)を水(みづ)は濁(にご)りぬ、をりをりは

泥(どろ)に塗(まみ)れし素足(すあし)して

賤(いや)しきものの過(す)がひゆく醉(ゑ)ひしれざまや。

 

ここにこそ幽欝(いぶせき)はあれ、

かたへなる蔭(かげ)に一樹(ひとき)の橡若葉(とちわかば)、

廣葉(ひろは)はひとり曇(くも)りなく、

雨(あめ)も綠(みどり)に、さと濺(そゝ)ぎ、たたと滴(したゝ)る。

 

[やぶちゃん注:第三連最終行の「さあれ、ここには長坂(ながさか)の」の「ここには」は底本では「ここは」。底本の「名著復刻 詩歌文学館 紫陽花セット」の解説書の野田宇太郎氏の解説にある、有明から渡された正誤表に従い、特異的に呈した。

「橡」「橡若葉(とちわかば)」ムクロジ目ムクロジ科トチノキ属トチノキ Aesculus turbinataウィキの「トチノキによれば、『近縁種でヨーロッパ産のセイヨウトチノキ』Aesculus hippocastanum『が、フランス語名』マロニエ(marronnier)『としてよく知られている』。『落葉性の高木で、温帯の落葉広葉樹林の重要な構成種の一つ。水気を好み、適度に湿気のある肥沃な土壌で育つ。谷間では、より低い標高から出現することもある』『大木に成長し』、樹高二十五メートル、直径一メートルを『超えるものが少なくない。葉も非常に大きく、全体の長さは』五十センチメートル『にもなる。長い葉柄の先に倒卵形の小葉』五~七『枚を掌状につけ(掌状複葉)、葉は枝先に集まって着く』。五月から六月にかけて、『葉の間から穂状の花が現れる。穂は高く立ち上がり、個々の花と花びらはさほど大きくないが、雄しべが伸び、全体としてはにぎやかで目立つ姿である。花は白』から『薄い紅色』を呈する。『初秋に至り、実がみのる。ツバキの実に似た果実は、熟すにつれて厚い果皮が割れ、少数の種子を落とす。種子は大きさ、艶、形ともにクリに似ているが、色は濃く、球状をしている』。『日本では東日本を中心に分布し、特に東北地方に顕著に見られる』。『木材として利用される。木質は芯が黄金がかった黄色で、周辺は白色調。綺麗な杢目がでることが多い。また真っ直ぐ伸びる木ではないので変化に富んだ木材となりやすい。比較的乾燥しにくい木材ではあるが、乾燥が進むと割れやすいのが欠点である。巨木になり、大材が得られるのでかつては臼や木鉢の材料にされたが、昭和中期以降は一枚板のテーブルに使用されることが多い。乱伐が原因で産出量が減り』、二十一『世紀頃にはウォールナットなどと同じ銘木級の高価な木材となっている』。『種子はデンプンやタンパク質を多く含み、「栃の実」として渋抜きして食用になる。食用の歴史は古く、縄文時代の遺跡からも出土している。渋抜き』に『手間がかかり、長期間流水に浸す、大量の灰汁で煮るなど』、『高度な技術が必要だが、かつては耕地に恵まれない山村ではヒエやドングリと共に主食の一角を成し、常食しない地域でも飢饉の際の食料(救荒作物)として重宝され、天井裏に備蓄しておく民家もあった。積雪量が多く、稲作が難しい中部地方の山岳地帯では、盛んにトチの実の採取、保存が行われていた。そのために森林の伐採の時にもトチノキは保護され、私有の山林であってもトチノキの勝手な伐採を禁じていた藩もある。また、各地に残る「栃谷」や「栃ノ谷」などの地名も、食用植物として重視されていたことの証拠と言えよう。山村の食糧事情が好転した現在では、食料としての役目を終えたトチノキは伐採され』、『木材とされる一方で、渋抜きしたトチの実をもち米と共に搗いた栃餅(とちもち)が現在でも郷土食として受け継がれ、土産物にもなっている』。『粉にひいたトチの実を麺棒で伸ばしてつくる栃麺は、固まりやすく迅速に作業しなければならず、これを栃麺棒を振るうという。これと、慌てることを意味する「とちめく」を擬人化した「とちめく坊」から「狼狽坊」(栃麺棒、とちめんぼう)と呼ぶようになり』、『「狼狽坊を食らう」が略されて「面食らう」という動詞が出来たとされている』。『花はミツバチが好んで吸蜜に訪れ、養蜂の蜜源植物としても重要であったが、拡大造林政策などによって低山帯が一面針葉樹の人工林と化していき、トチノキなどが多い森林は減少し』、『日本の養蜂に大きな打撃を与えた』。『そのほか、街路樹に用いられる。パリの街路樹のマロニエは、セイヨウトチノキといわれ実のさやに刺がある。また、マロニエと米国産のアカバナトチノキ』Aesculus pavia『を交配したベニバナトチノキ』Aesculus × carneaも街路樹として使用される。日本では大正時代から街路樹として採用されるようになった。しかし』、『湿気のある土地を好むため、東京などの大都市とは相性が悪い』とある。水気との親和性の高い樹木であるから、本篇でのそれも非常に高いことが判る。]

2019/03/01

和漢三才圖會卷第三十八 獸類 獅子(しし) (ライオンをモデルとした仮想獣類)

 

Sisi

 

 

しゝ   狻猊 虓【音】

 

獅子

 

スウツウ

 

本綱獅爲百獸長出西域狀如虎而小也黃色亦如金色

猱狗而頭大尾長亦有青色者銅頭鐵額鈎爪鋸牙

昂鼻目光如電吼聲如雷有耏髯牡者尾上茸毛大如斗

日走五百里爲毛蟲長怒則威在齒喜則威在尾毎一吼

則百獸辟易馬皆溺血拉虎吞貔裂犀分象其食諸禽獸

以氣吹之羽毛紛落其毛入牛羊馬乳中皆化成水雖死

後虎豹不敢食西域畜之七日内取其未開目者調習之

若稍長則難馴矣其屎極臭赤黒色

                 慈鎭

 拾玉位山浮世にこそは下るとも獅子の座にのる身とも成なん

博物志魏武帝至白狼山見物如狸跳至獅子頭殺之唐

史髙宗時伽毘耶國獻天鐵獸能擒獅象則獅雖猛悍又

有制之者也

 

 

しゝ   狻猊〔(さんげい)〕

     虓〔(こう)〕【音、[やぶちゃん注:欠字]。】

獅子

 

スウツウ

 

「本綱」、獅〔(しし)〕、百獸の長たり。西域に出づ。狀〔(かたち)〕、虎のごとくして、小さし。黃色〔も〕亦、金色の猱狗(むくいぬ)のごとくにして、頭、大きく、尾、長し。亦た、青色の者も有り。銅〔(あかがね)〕の頭〔(かしら)〕、鐵〔(くろがね)〕の額〔(ひたひ)〕、鈎〔(かぎ)〕の爪、鋸〔(のこぎり)〕の牙、〔(た)てる〕耳、昂〔(たか)き〕鼻[やぶちゃん注:高く盛り上がった鼻。]。目の光り、電〔(いなづま)〕のごとく、吼〔(ほ)ゆ〕る聲〔もまた〕雷〔(かみなり)〕のごとし。耏-髯〔(ほほひげ)〕有り。牡は尾の上に茸毛〔(じようまう)〕[やぶちゃん注:白い綿毛。]有り、〔その〕大いさ、斗〔(とます)〕のごとし。日々に走ること、五百里。毛ある蟲〔(ちう)〕[やぶちゃん注:人を含む動物全般の謂い。]の長(をさ)たり。怒るときは、則ち、威〔(い)は〕齒に在り、喜ぶときは、則ち、威〔は〕尾に在る。毎〔(つね)〕に一吼〔(いつく)〕すれば、則ち、百獸、辟易す。馬、皆、溺血〔(ちのいばりをなが)〕す。虎を拉(とりひし)ぎ、貔〔(ひ)〕[やぶちゃん注:貔貅(ひきゅう)。伝説上の猛獣の名。]を吞み、犀を裂(さ)き、象を分〔(わか)〕つ[やぶちゃん注:真っ二つにしてしまう。]。其れ、諸禽獸を食ふに、氣を以つて之れを吹かば、羽毛、其の毛を紛落〔(ふんらく)〕す[やぶちゃん注:乱れ散るように脱落してしまう。]。〔また、獅子の毛は、其れ、〕牛・羊・馬の乳の中に入れば、皆、化して水と成る。死して後と雖も、虎・豹、敢へて食はず。西域に〔ては〕之れを畜(か)ふ。七日の内、其の未だ目を開〔(ひら)〕かざる者を取り、之れを調習〔(てうしゆう)〕す。若〔(も)〕し、稍〔(やや)〕長ずれば、則ち、馴れ難し。其の屎〔(くそ)〕、極めて臭く、赤黒色〔たり〕。

                 慈鎭

 「拾玉」

   位山(くらゐやま)浮き世にこそは下(くだ)るとも

      獅子の座にのる身とも成りなん

「博物志」〔に〕、『魏の武帝、白狼山に至り、物を見る〔に〕、狸〔(たぬき)〕のごとき〔もの〕、跳〔(と)〕んで、獅子の頭に至り、之れを殺す』〔と〕。「唐史」に、『髙宗の時、伽毘耶〔(カビヤ)〕國より「天鐵獸」を獻ずる。〔これ、〕能く獅・象を擒(と)る』といふときは、則ち、獅、猛悍〔(まうかん)〕[やぶちゃん注:気性が荒くて獰猛であること。]と雖も、又、之れを制する者、有るなり。

[やぶちゃん注:所謂、哺乳綱食肉目ネコ科ヒョウ属ライオン Panthera leo(紀元前一〇〇年頃まではインドからアラビア・アフリカに広く分布したが、現在ではアフリカ中部とインドの一部(インドの個体群は絶滅が危惧されている)にのみに分布する)がモデルとなって想像された伝説上の生物。本邦の神社にある左右の狛犬のうちでも角がないものがそれ。但し、伝承過程での幾つかの混淆があり、ここでも冒頭に異名として挙がる「狻猊〔(さんげい)〕」は「獅子」とは別種の獣とする説がありウィキの「狻猊」によれば、「爾雅」(じが:現存する中国最古の類語辞典・語釈辞典。春秋戦国時代以降に行われた古典語義解釈を漢初(前漢は紀元前二〇六年から紀元後八年まで)の学者が整理補充したものと考えられている)の「釈獣」本文には「狻麑」として見え、猫(さんびょう:毛色が薄い虎の類、或いは豹の一種とも言う)に似て、虎や豹を食うとあるものの、郭璞(かくはく 二七六年~三二四年:西晋・東晋の文学者)の注では、早くもそれを「獅子」のこととしている。「穆天子伝(ぼくてんしでん)」(周の穆王の伝記を中心とした全六巻から成る歴史書であるが、成立年も作者も不詳の奇書)『には「狻猊は五百里を走る」と』ある。『漢訳仏典でも狻猊は獅子の別名として使われ』、玄奘訳の「大菩薩蔵経」(「大宝積経」の「菩薩蔵会」)に、『「喬答摩(ガウタマ)種狻猊頷、無畏猶如師子王。」といい』、「玄応音義」では『「狻猊は獅子のことで、サンスクリットでは僧訶(シンハ)という」とする』。『仏陀はしばしば獅子にたとえられるため、仏陀のすわる場所を「獅子座」と呼ぶことがある』。『ここから高僧の座る場所も「獅子座」あるいは「猊座」といい、「猊座の下(もと)に居る者」という意味で、高僧の尊称や、高僧に送る手紙の脇付けは「猊下」となった』。『銅鏡、各神獣鏡の意匠、特に唐の時代に作られた「海獣葡萄鏡」に多数見受けられる瑞獣を海獣または狻猊と呼ぶことがある。なお、海獣とは砂漠の向こうに住む「海外の獣」という意味であるという』。『明代には竜が生んだ九匹の子である竜生九子(りゅうせいきゅうし)の一匹とされ』、楊慎の「升庵外集」に『よれば、獅子に似た姿で』(と、明代にはまたしても「獅子」とは別種となっているのである)、『煙や火を好み、故に香炉の脚の意匠にされるという』。なお、『「狻」の読みは、しばしば』、『つくりの「夋」に引かれて百姓読み』(漢字熟語の誤読様態の一種。形声文字の音符((つくり)や(あし)の部分)につられた読み方を勝手にしてしまうことを指す)『した「シュン」との表記が散見されるが、反切は』「唐韻」で『素官切』、「集韻」などでは『蘇官』『とあり、「サン」が正しい(酸と同音)』と注記がある。小学館「日本大百科全書」の「獅子」では『猛獣ライオンlionの称』としつつも、文化的な側面をコンパクトに纏めているので、それを引く。『「師子」とも書く。古来百獣の王とされ、たたえて「獅子王」ともよんだ。その威容および迅速勇猛な性質から、多くの民族において力や権威、王権などの象徴となっている。東アジアでは、これをもとに想像上の獣が考えられた。仏教では、文殊菩薩』『の乗り物であり、「獅子吼(く)」は、獅子の咆哮』『が百獣を威服させるところから、釈迦』『の説法を比喩』『する。「獅子座」は仏の座席、転じて高僧の座をいう。獅子には悪魔を圧する霊力があると信じられたために、門や扉の守護物とする習俗が生じ、日本でも、神社の社前や宮中の鎮子(ちんし)』「ちんじ」「ちんす」とも読む。調度品の一つで、室内の敷物・帳(とばり)・軸物などが風に煽られないように押さえる重(おも)し、風鎮や文鎮などのこと)『に、狛犬』『と対をなして獅子の像を置き魔除』『けとした。新年や祭礼に「獅子頭(がしら)」をかぶって舞う「獅子舞」も、悪霊退散の呪術』『であり、日本へは中国から伝来した。なお、「唐(から)獅子」(外国の獣(しし)の意)は、絵画彫刻に装飾化した獅子をいう場合があり、ことに牡丹(ぼたん)の花との配合はもっとも絢爛(けんらん)豪華な意匠である』とある。

 

「虓〔(こう)〕」この漢字は現在、「嘯(うそぶ)く。虎が吼(ほ)える、また、その声」、「怒る。虎が怒る」、「獅子」の意などがあるとする(大修館「廣漢和辭典」)。

「金色の猱狗(むくいぬ)」実際のライオンを考えると、金色の毛がふさふさと垂れた尨犬(むくいぬ)というのは言い得て妙ではある。

〔(た)てる〕耳」東洋文庫訳は『垂れた耳』としてはいるのであるが、やや疑問があり、かく訓じた。この「」、大修館「廣漢和辭典」を引くと、音「テフ(チョウ)」では確かに「耳の垂れさがる形容とはあるのだが、これを音「ダク・チャク」と読んだ場合は、真逆の「耳のたつ形容」であるとあるからなのである。付図の獅子の耳は分明でないので証左にならぬが、何枚かの絵図を拡大して見てみると、耳穴が前に向いて開いて見えているようなものが多い(則ち、耳介は垂れておらず、体に対しては外側を体側に貼り付けるように立っているのである)し、彫像化されたものや神社の狛犬と並ぶ獅子も耳はしっかり有意に立っている。何より、本邦の獅子舞の耳は可動式である者が多く、それは寧ろ、ピンと立つのを獅子の持つ鋭敏・敏感さの象徴としていると言える。それらを考えた時、寧ろ、これは「垂れる」ではなく、「立つ」の意なのではないかという確信を持ったのである。大方の御叱正を俟つものではある。

「斗〔(とます)〕」明代の一斗は十七リットル。現在の普通の酒樽の一斗樽は十八リットル。

「日々に走ること、五百里」明代の一里は五百五十九・八メートルしかないから、二百八十キロメートル弱。「日々」は「毎日」の意ととり、機械的に一日二十四時間で割ると、時速十一・六六キロメートルとなる。因みに、モデルであるライオンの瞬間最高速度は時速八十キロメートルにも達するものの、持続力はなく、群れで狩りをするのは、そうしないと駿足のガゼルなどには簡単に逃げられてしまうからである。また、ライオンは寝ている時間の方が長い。例えば、トラと比べても、トラの方が速い。だから、トラは単独で狩りをするのである。

「貔〔(ひ)〕」貔貅(ひきゅう)。伝説上の猛獣の名。図像はウィキの「貔貅」を見られたい。

「羽毛、其の毛」鳥の羽や獣の体毛、その総ての毛が。

「其の屎〔(くそ)〕、極めて臭く、赤黒色〔たり〕」「本草綱目」ではこの後に、「主治」として、『服之、破宿血、殺百蟲。燒之、去鬼氣【藏器】』と薬効を記す。しかし、唐代の段成式の「酉陽雜爼」の「巻十六 毛篇」(獣類のパート)の冒頭の「師子」(=獅子)を見ると、昔から生薬「蘇合香」は「獅子の糞」であると言われているとあるものの、同書の今村与志雄訳注本(一九八一年東洋文庫刊)では、それは梁の陶弘景(時珍が「本草綱目」でよく彼の説を引く)が記した当時の俗説であって、「蘇合香」とは「獅子の糞」ではなく、ユキノシタ目マンサク科フウ(楓)属ソゴウコウノキ(蘇合香の木)Liquidambar orientalis の樹脂であるとある(疥癬治療等に効果があるとする)。因みに、「楓」は本木本属フウ属の正漢字で、実は我々がムクロジ目ムクロジ科カエデ属 Acer に当てている「楓」、カエデ類の漢字は、正しくは「槭」なのである。

「慈鎭」「拾玉」「位山(くらゐやま)浮き世にこそは下(くだ)るとも獅子の座にのる身とも成りなん」「拾玉集」。歴史書「愚管抄」の作者として知られる、平安末から鎌倉初期の天台僧慈円(久寿二(一一五五)年~嘉禄元(一二二五)年:摂政関白藤原忠通の子で、摂政関白九条兼実は同母兄天台座主就任は四度に亙った。「慈鎭」(和尚)は諡号)の私家集。慈円の死後百年近く経った、鎌倉末から南北朝期の嘉暦三(一三二八)年から興国七/貞和二(一三四六)年の間に伏見天皇の皇子で青蓮院門跡・天台座主を務めた尊円法親王が編纂したもので、歌の他に散文も収める。一首の校訂は同書を所持しないので不能。【2019年3月3日一部削除・追記】いつも種々の記事で情報を戴くT氏より、国文学研究資料館の同歌集の当該の画像を戴いた(私はADSLで、見るのに異様に時間が掛かるので使用しない)。そこでは、

 位山うき世にこそは下るとも獅子の座にゐる身とも也なん

で「のる」ではなく、「ゐる」あった。

「博物志」十巻。もとは三国時代の魏から西晋にかけての政治家で博物学者であった張華(二三二年~三〇〇年)が撰したものであるが、散佚してしまい、後代、諸書に記された引用を集めたものが残る。東洋文庫の書名注には、『博学な著者が、山川や不思議な動植物・物名などについて様々な珍しい話を集めて記した書』とする。

「魏の武帝」後漢末の武将で政治家・詩人で、後漢の丞相から魏王となった、三国時代の魏の基礎を作ったかの曹操(一五五年~二二〇年)のこと。

「白狼山」現在の遼寧省朝陽市カラチン左翼モンゴル族自治県の附近(グーグル・マップ・データ)。ここは後漢末の二〇七年に、曹操と中国北部の異民族烏桓(うがん)との間で行われた「白狼山の戦い」で知られる。曹操軍は烏桓を打ち破り、この戦いで烏桓勢力は大幅に弱体化、後に魏や鮮卑の部族に吸収されることとなった。曰くつきの地であり、これが、この戦さの前の出来事なら、このタヌキみたような不詳の小動物が、獅子の頭に噛みついてそれを倒したというのは、曹操の「白狼山の戦い」での圧倒的勝利や後に魏王となることを予言するものとして作話されたものででもあったのであろう。

『「唐史」に……』東洋文庫の注に(太字は底本では傍点「ヽ」)『新・旧『唐書』高宗紀及び五行志には記載がない。なお『酉陽雜爼』(巻一六毛篇)に、「高宗のとき、加毘国から天鉄熊を献上した。白象・獅子をつかまえられた」とある』とする。しかし、残念ながら「加毘葉国」は前掲の今村氏の東洋文庫訳注でも未詳である。]

蒲原有明 有明集(初版・正規表現版) かかる日を冬もこそゆけ

 

 かかる日を冬もこそゆけ

 

ゆをびぬる日南(ひなた)のかをり、

かかる日(ひ)を冬(ふゆ)もこそゆけ、

柔(やは)らげる物(もの)かげの雪(ゆき)、

枝(えだ)ゆらぐ垣(かき)のいちじゆく。

 

かかる日(ひ)を、噫(あゝ)、かかる日(ひ)を

待(ま)ちわびぬ、わびしきわが世(よ)、

寂寞(じやくまく)の胸(むね)の日南(ひなた)を

ゆをびぬる思(おも)ひのかをり。

 

幽(かす)かにも水沼(みぬま)の遠(をち)を

水禽(みづとり)の羽音(はおと)の調(しらべ)。

 

ひときほひ、嵐(あらし)はまたも

靑空(あをぞら)の淵(ふち)にすさべば

その面(おも)は氷(ひ)の泡(あわ)だちて

銀(しろがね)の色(いろ)に燦(きら)めく。

 

冬(ふゆ)はいま終(はて)のいぶきか、

常盤木(ときはぎ)は深(ふか)くをめきぬ、

いちじゆくの枝(えだ)はたゆらに

音無(おとなし)の夢(ゆめ)のさゆらぎ。

 

かくて後(のち)、時(とき)の靜(しづ)けさ、

かかる日(ひ)を冬(ふゆ)もこそゆけ、

春(はる)の酵母(もと)――雪(ゆき)のしたみに

かぐはしの思(おも)ひは沸(わ)きぬ。

 

しかすがに水沼(みぬま)のあなた、

水禽(みづとり)の羽音(はおと)のわかれ。

 

[やぶちゃん注:「ゆをびぬる」はママ。「ゆほびぬる」が歴史的仮名遣としては正しい。形容動詞ナリ活用「ゆほびやかなり」(現代仮名遣は「ゆおびか」。「広々としているさま・ゆったりとして穏やかなさま」の意。「源氏物語」に既に用例がある)をかなり強引に動詞化し、それに完了或いは強意の助動詞「ぬ」の連体形をつけたもの。「ゆほびぬる」と訂そうとも思ったが、そうしても多くの読者はこの語に不審を持ち、注を見るであろうから、ここは敢えてママとした。

「いちじゆく」無花果(いちじく:バラ目クワ科イチジク属イチジク Ficus carica)は「いちじゆく(いちじゅく)」とも呼ぶ。

「ひときほひ」「一競(ひときほ)ひ」であろう。「競(きほ)ふ」には「木の葉などが争(あらそ)うかのように散り乱れる」の意があり、それの名詞化した「きほひ」には「激しい勢い」の意がある。ここは動詞の連用形ではなく、後者に接頭語「一(ひと)」(ここは「常と異なった」の意であろう)が付加された名詞と採る。

「常盤木(ときはぎ)」常緑広葉樹。松・杉・椎・樫・楠など。

「酵母(もと)」ここでは判らないが、底本では視覚的に問題がある。「もと」のルビは「酵」の字の右に纏めて附いて「母」に掛かっていないからである。しかし無論、この「もと」は「酵母」二字へのルビであるのは言うまでもない。

蒲原有明 有明集(初版・正規表現版) 碑銘

 

 碑 銘

 

 

  其一

 

よろこびぬ、倦(う)みぬ、

爭(あらそ)ひぬ、厭(あ)きぬ。

 

生命(いのち)の根(ね)白(しろ)く

死(し)の實(み)こそにほへ。

 

眠(ねぶり)なり、つえぬ、

墮(お)ちぬまを吸(す)ひぬ。

 

  其二

 

ここよりは路(みち)もなし、

やすし、はた路(みち)の岐(わかれ)も。

 

蒼白(あをじろ)き啜泣(すすりな)き、

聲(こゑ)罅(ひび)くゑまひの狹霧(さぎり)。

 

魂(たま)と魂(たま)あひ寄(よ)るや、

寂寞(じやくまく)の、あはれ、晶玉(しやうぎよく)。

 

死(し)はなべて價(あたひ)のきはみ、

得難(えがた)しや、されど終(つひ)には。

 

  其三

 

人々(ひとびと)よ、奧津城(おくつき)の冷(つめ)たき碣(いし)を、

われを、いざ、蹈(ふ)みて立(た)て。烏許(をこ)の輩(ともがら)、

盲(めし)ひたり、躓(つまづ)かめ、將來(ゆくすゑ)遠(とほ)く

つづきたる階(きざはし)の、われも一段(ひときだ)。

 

  其四

 

肉(にく)は、靈(れい)は、

二(ふた)つのちから、

 

生(せい)は、死(し)はよ、

眞砥(まと)の堅石(かたいし)、

 

硏(みが)きいづれ、

摩尼(まに)の金剛(こんがう)。

 

あざれし肉(にく)

「神(かみ)」の牲(いけにへ)。

 

虛(むな)しき靈(れい)

「蝮(まむし)」の智(さとり)。

 

肉(にく)の肉(にく)を

われは今(いま)おぼゆ。

 

覺(さ)めよ、「人(ひと)」は

靈(れい)の靈(れい)。

 

[やぶちゃん注:「つえぬ」ヤ行下二段の自動詞「つゆ」(潰ゆ)であろう。所謂、今も私たちが「夢がついえた」と使う「初めに予定していた計画や楽観的希望などが上手く行かず,すっかり駄目になる」の意の「完全に永遠の眠りに堕ちることとなった、総ては終わってしまった」のそれであると私は採る。

「聲(こゑ)罅(ひび)く」声が罅割れが広がるように不吉に広く、走り、響く、の意で採る。

「ゑまひ」微笑(ほほえみ)。

「狹霧(さぎり)」霧。「さ」は単に語調をえる接頭語で「狹」は当て字。

「摩尼(まに)」既出既注。サンスクリット語「マニ」の漢音写。「球」「宝球」などと訳される。「宝石」を指し、転じて仏法の真理に譬える。]

蒲原有明 有明集(初版・正規表現版) どくだみ

 

 どくだみ

 

皐月(さつき)を溝(みぞ)の穢(けが)れ水(みづ)

かぐろみ蒸(む)して沸(わ)きそふや、

小舍(こや)、廢屋(あばらや)のかたかげに

草(くさ)どくだみは(花(はな)白(しろ)き

單瓣(ひとへ)ぞ四片(よひら))、朝(あさ)ゆふべ、

朽木(くちき)を出(い)でて日(ひ)に障(さや)る

羽蟻(はあり)の骸(から)の墓(はか)どころ、

暗(くら)きにほひにしたしみぬ。

 

いかなる罪(つみ)の凶會日(くゑにち)に

結(むす)びそめたる種(たね)ならむ、

花(はな)どくだみや、統譜(うぢぶみ)の

系(すぢ)をたださば、こは刹利(せつり)、

須陀羅(しゆだら)にあらぬさまかたち、――

花の四片(よひら)は白蓮華(びやくれんげ)、

葉(は)はまろらかに、さはあれど

色(いろ)のおもてぞ濁(にご)りたる。

 

穢(けが)れて臭(くさ)き醜草(しこぐさ)の、

その類葉(るゐえふ)のひとつには

誰(た)が教(おし)へけむ、去(さ)りあへぬ

怨嫉(をんしつ)の鬼(おに)根(ね)に纒(まと)ひ、

生(お)ひかはる芽(め)を咀(のろ)ふにか、

これや曼陀羅(まだら)に織(お)り入(い)れて、

淨土(じやうど)をしめす實相(じつさう)の

花(はな)ともなさむ本來(もと)の性(さが)。

 

噫(ああ)、眇目(めうもく)の陰陽師(おむみやうじ)、

古(ふ)りし「烏(からす)」にまかせなむ、

過去(くわこ)にうけにしどくだみの

占(うら)に知(し)らるる業(ごふ)の象(かた)。

正眼(まさめ)に見(み)れば、道(みち)を得(え)て、

ひとり罪負(つみお)ふ法類(ほふるゐ)や

花(はな)には蘂(ずゐ)ぞ輝(かがや)ける、

闇(くら)きを照(て)らす火(ひ)の匂(にほ)ひ。

 

寶鐸(はうちやく)のこゑ曇(くも)りたる

皐月(さつき)にこもり、刻々(こくこく)の

「死(し)」は物(もの)かげに降(ふ)り濺(そそ)ぎ、

膿(うな)わく溝(みぞ)の穢(けが)れ水(みづ)、

朽木(くちき)を出(い)でて日(ひ)に障(さや)る

羽蟻(はあり)は骸(から)を、どくだみの

(單瓣(ひとへ)四片(よひら)の白蓮華(びやくれんげ))、

花(はな)に足(た)らへる奧津城(おくつき)に。

 

[やぶちゃん注:第三連末の「性(さが)。」は底本では「性(せい)」。底本の「名著復刻 詩歌文学館 紫陽花セット」の解説書の野田宇太郎氏の解説にある、有明から渡された正誤表に従い、特異的に呈した。


「怨嫉(をんしつ)の鬼(おに)根(ね)に纒(まと)ひ、」の「鬼(おに)」は底本では「あに」とルビする。しかし、「鬼」に「あに」の読みはなく、激しく躓く。因みに、パラルビのパラルビの「青空文庫」版(底本は昭和四三(一九六八)年講談社刊「日本現代文学全集」第二十二巻「土井晚翠・薄田泣菫・蒲原有明・伊良子清白・横瀬夜雨集」)では、「鬼」にも「根」にもルビをしない。さすれば、これは「おに」の植字ミスであると断じ、特異的に訂した。
「曼陀羅(まだら)」のルビはママ。「まんだら」の撥音「ん」が表記されない形で、「源氏物語」等に「まだら」と普通に見られる。音数律を保持する効果もある。「眇目(めうもく)」のルビはママ。「眇目」は通常は「べうもく(びょうもく)」と読んで「片目・独眼」の意(他に「意識的に瞳を片寄せた横目」の意があり、呪的ポーズの一つではあるが、ここは本来の片目が見えないの意で採る)であるが、「眇」の音には別に「メウ(ミョウ)」の読みがあるので誤りではない。

「どくだみ」被子植物門双子葉植物綱コショウ(胡椒)目ドクダミ科ドクダミ属ドクダミ Houttuynia cordata。古くは「之布岐(しぶき)」と呼んだ。「どくだみ」は「毒矯み」(毒を抑える)の意に基づく。傷つけた際の特有の臭気から嫌われるが(私はドクダミの花が大好きだ)、古くから、民間薬として生の葉を揉んで腫物に貼ったり,煎じて利尿剤や駆虫剤とし、食用にもなる。本邦では「十薬」の異名を持つが、これは「ドクダミで馬を飼育すると、十種の薬に相当する効果がある」とされたことから生まれたと言われる。

「凶會日(くゑにち)」陰陽道で、干支の組合せに基づく凶日、悪日。例えば、旧暦正月では庚戌・辛卯・甲寅、二月では己卯・乙卯・辛酉の日が、これに当たるとされ、二十四種ある。

「刹利(せつり)」「刹帝利」の略。刹帝利はサンスクリット語「クシャトリヤ」の漢音写。古代インドに於ける四姓(バルナ:四種姓)の一つ。最高の婆羅門(バラモン)族の次に位するもので、王族及び士族の階級。

「須陀羅(しゆだら)」同じくバルナの最下層(第四位)の身分(隷属民)を指す「シュードラ」の漢音写。

「烏(からす)」陰陽師は呪法に式神(しきがみ)を使役するが、通常、目に見えない彼らは時にカラスに変身する。

「寶鐸(はうちやく)」「はうたく(ほうたく)」とも読む。堂塔の軒の四隅などに飾りとして吊るす大形の金属製の風鈴。風鐸(ふうたく)。

「膿(うな)」「膿(うみ)」に同じ。「日本書紀」の「神代上」の「則膿沸蟲流」の水戸本の訓読に「則ち膿(うな)沸(わ)き、蟲(うじ)流(たか)る」とある。]

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