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2019/03/30

原民喜 動物園

 

[やぶちゃん注:昭和一三(一九三八)年十月号『慶應クラブ』初出。

 底本は一九七八年青土社刊原民喜全集「Ⅰ」を用いたが(底本では「拾遺作品集Ⅰ」のパートに配してある)、以上の書誌データや歴史的仮名遣表記で拗音・促音表記が殆んどないという事実及び原民喜の幾つかの自筆原稿を独自に電子化してきた私の経験に照らして(彼は戦後の作品でも原稿では歴史的仮名遣と正字体を概ね用いている)、漢字を概ね恣意的に正字化することが、原民喜自身の原稿原型に総体としてより近づくと考え、今までの私のカテゴリ「原民喜」のポリシー通り、そのように恣意的に処理した。

 二段落目の「矢野動物園といふ巡囘興行」についは、吉村大樹氏の論文(卒業論文)「江戸時代の見世物小屋―見世物となった舶来鳥獣―」のこちらによれば、後の「矢野サーカス」の前身である「矢野巡回動物園」のこととする。『矢野巡回動物園は一八九〇年代半ばに、矢野岩太が創立し、香川県を拠点にヤマネコ一匹の見世物から始まった』。『阿久根巖(一九八八年)によると、矢野動物園を本格的にするために、矢野岩太は、ライオンを買い付けるためにドイツ行きを決意して神戸まで行くが、中田和平という動物商の紹介で、ベルグマン商会を経て、ハーゲンベック動物園からライオン購入の商談がまとまり渡航しなくても、輸入できるようになり、このライオンによって、矢野巡回動物園は大当たりするのであると言っている』。『それは、明治四十年(一九〇七年)の話で、それまでの矢野巡回動物園は、ヒョウや虎などを購入して、本格的な動物園へとしてきたが、ドイツから来たライオンにより』、『全国で人気が出て、当時の人々もライオンをいままで見た人が少なく』。『このライオンの人気によって矢野巡回動物園は第二の動物園を組織して、日本列島を二手に分けて巡回してい』った。『第二の動物園の方は、矢野岩太の甥にあたる矢野庄太郎が館主としてまかされ、本部の動物園と区別するために動物館という名称にして、看板の猛獣にキリマンジャロ産のライオンがいたのであったが』、『この二つの巡回動物園が存在したのは、明治四十二年初めから、四十五年頃までのようだった』。『この、明治四十二年から四十五年の間に本部の動物園の方は朝鮮へ渡って興行をしたとされ、第二の動物園の方は長崎の出島などで興行をしたが』、『その他に関する資料が残っていないのである』(明治四五(一九一二)年当時、原民喜は満六~七歳で、同年四月に広島師範付属小学校に入学しているから、辛うじて辻褄が合う)。『そして、大正五年(一九一六年)に矢野巡回動物園のサーカス部門をスタートをさせる』。『この矢野巡回動物園のサーカス部門は、矢野サーカスとして活動し、初代団長に第二の動物園の館主であった矢野庄太郎であり、彼を団長に置いたのは、 木下サーカス』『の団長で庄太郎の兄である木下唯助であった』。『その後、矢野巡回動物園は矢野岩太が大正十五年(一九二六年)五月七日にこの世を去ったため』、『木下唯助、矢野庄太郎の長兄の金助が動物園を継ぐことにな』ったが、『動物の死など』、『不運が重なった矢野巡回動物園は昭和三年(一九二八年)に解散してしまった』。『残った矢野サーカスの方は』、『戦後になって徐々に衰退の道を歩み』、『平成八年(一九九六年)に八十年の歴史に幕を下ろした』とある。

 また、六段落目の「二度日に動物園へ行つたのはハーゲンベツク・サーカスが來た春」とあるのは、野生動物を扱うドイツ人商人でヨーロッパ各地の動物園やサーカスなどに動物を提供し、柵のない放養式展示の近代的動物園を作ったことでも知られるカール・ハーゲンベック(Carl Hagenbeck 一八四四年~一九一三年)の名を冠したサーカス、「ハーゲンベック・サーカス」(Hagenbeck-Wallace Circus)の来日を指し、これは昭和八(一九三三)年のことであった(同年三月十七日から五月十日まで芝区芝橋(芝浦製作所跡)に於て興行が行われた。原民喜満二十七歳。貞恵との結婚はまさにこの年の三月であった)。なお、日本で「サーカス」の名が使われるようになるのは、この時以後のことである。

 最終段落にある「上野科學博物館」は関東大震災の復興事業の一環として、昭和六(一九三一)年九月に「東京科學博物館本館」として竣工したもの。現在の国立科学博物館上野本館。

 因みに、本篇は現在、ネット上では公開されていないものと思われる。【2019年3月30日公開 藪野直史】]

 

 

 動物園

 

 先日、鄕里の兄の許へ行くと「子供達が強請むから[やぶちゃん注:「せがむから」。]、この春休みには皆を連れて東京見物に行くぞ」と兄は云つてゐた。子供といふのは尋常六年と二年と一年生の三人だが、「どうして東京へ行つてみたいのか」と試みに私が尋ねたら、「動物園が見たいのだ」とたちどころに答へた。そんなに動物園が見たいかなあと私は今更のやうに感心した。

 尤も私も子供の頃には、矢野動物園といふ巡囘興行が街に來たのを、眼を輝かしながら、狹苦しい檻と板の間の通路を人混に押されて行つたものだが、夜のことで檻の動物はよく觀察出來ず、ただ動物のいきれと啼聲に滿足して歸つた。殊にライオンの啼聲は氣に入つて、その後しばしば模倣し、ある晚も往來に面した戶の處で、メガホンでそれをやつてゐると、親類の人が通りかかつて、ほんとにライオンがゐるのかと思つて呉れた。それと前後して、私はサーカスで縞馬といふものを始めて見たが、あの夏、裸で遊んでゐると急に寒氣がして目が昏み、白い湯氣のなかをその縞馬が走り出したので大變苦しかつた。

 二年生の甥は廣島から宮島まで自動車に乘せられたら、ふらふらになつて醉つてしまつたといふから、東京まで十五時間の旅はさぞ難儀だらうと思へる。六年生の甥も汽車に弱いので、「誰が今度は一番に醉ふかな」と云はれても、子供達は動物園のことで氣持は一杯らしい。さう云へば、日曜日の省線電車に、父親の手に縋つて、眼を輝かしてゐる神經質の子供は、あれは大抵、動物園へ行くのかもしれない。

 

 私も久しく東京へ住んでゐたが、その間、二度しか上野動物園を訪れなかつた。今は、千葉の方へ住んでゐるので、動物園行きも容易でないが、何故、學生時代、氣持が鬱屈した折など、單純に眼を輝かして、動物園へ行くことを思ひつかなかつたのだらう。すればきつと、動物達の素直なまなざしによつて慰められたにちがひない。

 私が最初、上野動物園見物をしたのは、受驗に上京した歲でその春塾を卒業した兄に連れられて行つた譯なのだが、――一時に受ける東京の印象が過剩だつたため――ただ池のところに金網が張つてあつて、澤山の鳥類がやかましく啼いてゐたのだけが頭に殘つてゐる。たしか、櫻が滿開だつたと思ふ。

 二度日に動物園へ行つたのはハーゲンベツク・サーカスが來た春で、恰度東京見物に來た妹を連れて、萬國婦人子供博覽會を見た序に立寄つたのだつた。嫁入前の妹は、それでなくても彼女はものごとを笑ふ癖があつたが、大槪の動物を見てはくすくす笑ふのだつた。河馬が水槽のなかで大きな口をぱくりと開いて、生のキヤベツの塊りを受取ると、忽ちキヤベツは齒間に碎かれ破片が顎から水に落ちるのを、私は面白く眺めた。それから、あの麗かな春の陽を受けて、岩の上を往つたり來たり、一定の距離を同じ動作で繰返してゐる白熊を見ると、妹はまた噴き出したが、私ははからずも或る舊友を連想してしまつた。その友は昔、私の下宿を訪れる度に、廊下のところで一度私の部屋の障子をピシヤリと開け、ピシヤリと閉ぢ、七八囘開けたり閉ぢたり、廊下と疊を交互に踏んでみて、それから始めて、部屋に道入つて來るのだがすぐには疊の上に坐らうとしないで、神祕的な眼をしながら暫く足踏をして兩手を痙攣させるのであつた。

 いろんな動物のなかでも、狐の眼は燃えてゐて凄かつた。やはり狐は化けることが出來るのかもしれないと私は思つた。妹は白い蛇がゐるのを見て笑つたが、私は『雨月物語』を想ひ出して、それもー寸不思議な感銘だつた。――私達はその日、人と動物と砂挨に醉つてしまつた。

 

 去年、私ははじめて上野の科學博物館を見物したが、あそこの二階に陳列してある剝製の動物にも私は感心した。玻璃戶越しに眺める、死んだ動物の姿は剝製だから眼球はガラスか何かだらうが、凡そ何といふ優しいもの靜かな表情をしてゐるのだらう、ほのぼのとして、生きとし生けるものが懷しくなるのであつた。

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