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2019/03/15

譚海 卷之三 (「和哥宗匠家」の続き)

(目録に立項なし。前の「和哥宗匠家」の続き)

○爲家卿の末二條家と稱し、世々撰者の跡を繼(つぎ)相傳(さうでん)有(あり)しが、中古以來其家斷絶して二條家なし、世俗に二條家と稱するは、其家のを傳へたる斗(ばか)り也、二條家とはいひがたし、二條流と稱すべき事也。當時爲家卿の末は、上下冷泉家ばかり殘れり。剩(あまつさ)へ下冷泉家も他の人家督相續ありし故、今にては上冷泉家斗り爲家卿より血脈(けちみやく)相傳して斷絶なく、撰者の跡は只此一家なり。殊に爲家卿の後室阿佛尼其家の傳書を傳(つたへ)られて、上冷泉代々相傳ありし故、彼家には古書ことごとくありしを、近世冷泉家に放蕩の人有て、重代の書籍等を沽却(こきやく)せられしより、往々人間(じんかん)に散在したる事に成(なり)たり。仍(よつ)て其家の文庫敕封せられ、其人といへどもうかゞひ見る事あたはず。上冷泉家に敕封開覽といふ事有て、其人五十になれば敕使を玉はりて開封有、一生涯先祖の書籍披見を許さるゝ也。卒去あれば又封ぜられて見る事あはず[やぶちゃん注:「あたはず」の脱字か。]。享保年中萬葉集の長歌・短歌の事を、定家卿しるし置(おか)せられし眞蹟を、江戸の町人なら屋安左衞門といふ者買取所持せしを、公儀へ獻ぜしに、有德院公方樣、冷泉家の舊物なればとて、則(すなはち)爲久卿へ下し賜り、御禮として長歌を詠(よみ)て奉られし事有。此外爲家卿眞蹟の僻案抄(へきあんせう)などと云(いふ)もの、往々人間に有(ある)は、みな彼家の什器の散落せる也。

[やぶちゃん注:「爲家卿」藤原定家の三男である権大納言民部卿藤原為家(建久九(一一九八)年~建治元(一二七五)年)。母は内大臣西園寺実宗(さねむね)の娘。当初、蹴鞠により後鳥羽・順徳両院の寵を被ったことから、父定家を悲しませたが、建保(一二一三年~一二一九年)の頃から歌作に努め、「為家卿千首」を詠じ、慈円より励まされ、歌道家継承の志を新たにして精進を始めた。知家(蓮性(れんしょう))や光俊(真観)ら、反御子左(みこひだり)派の抵抗にも遇ったが、よくその地位を守った。後嵯峨院の撰集下命により、建長三(一二五一)年に「続(しょく)後撰和歌集」を撰し、その後、再度、単独撰集の命を受けたが、後に基家・家良(中途で逝去)・行家・光俊が撰者に追任され、文永二(一二六五)年に「続古今和歌集」を撰進した。その子為氏・為教・為相により、歌道家の三家分立となった。歌風は温雅平明にして「中道の人」として崇敬され、その「制の詞(ことば)」「稽古」の思想は、御子左歌学の継承であったとはいえ、中世を通じ、その及ぼした影響は大きいものがあった。絵画にも秀でた(以上は小学館「日本大百科全書」に拠った)。底本の竹内利美氏の「爲家卿の末」の注には、定家の『長子為氏が二条家、次子の為教が京極家、三子の為相が冷泉家を、それぞれおこし、和歌の流祖となった。阿仏尼』(貞応元(一二二二)年?~弘安六(一二八三)年:女房名は安嘉門院四条又は右衛門佐。桓武平氏大掾氏流の平維茂の長男である平繁貞の子孫奥山度繁(のりしげ)の娘(または養女とも)。安嘉門院(後堀河天皇准母)に仕え、出仕中、十代で初恋失恋の失意から出家を決意して尼となったが、その後も世俗との関わりを持ち続け、三十歳の頃、藤原為家の側室となり、冷泉為相らを産んだ)『は為家の側室で、為相の母であったから、冷泉家に多く和歌の伝書が伝えられた。二条・京極両家はその後絶えて、冷泉家のみか近世までつづき、さらに為相四代の孫為伊』(ためまさ)『の子持為が分派して下冷泉家となった。そして、為相の正統も上冷泉家と呼ばれるに至った』とされる。

「沽却(こきやく)」売り払うこと。売却。

享保年中」一七一六年~一七三六年。

「なら屋安左衞門」奈良屋茂左衛門(もざえもん ?~正徳四(一七四一)年)は元禄時代、一代で富豪に成り上がった材木商。略称「奈良茂(ならも)」。豪商「紀文」と並び称せられた。姓は神田、名は勝豊、剃髪して安休と号した。「茂左衛門」は代々の通称で、勝豊は四代目。日光東照宮修築の際、材木調達を請け負い、濡れ手に粟の大儲けをしたとされる。以後、寺社を盛んに建立した徳川綱吉の治世の時流に乗り、幕府の材木御用達(ごようたし)として巨富を積んだ。綱吉が没した翌年の宝永七(一七一〇)年には材木商を廃業し、安楽に暮らせる貸家業に転じた。死後の遺産は十三万二千両余で、内訳は家屋敷三十ヶ所(沽券高四万四千両余)、現金約四万八千両、貸金四万両であった。この莫大な遺産は長男広と次男勝屋が遊興に耽って散財したが、紀文のように完全には没落せず、幕末まで中流の江戸町人として面目を保ち存続した(小学館「日本大百科全書」に拠る)。

「有德院公方」徳川吉宗。

爲久卿」上冷泉家第十四代当主冷泉為久(貞享三(一六八六)年~寛保元(一七四一)年)。正二位権大納言。武家伝奏を務めた。

「僻案抄」鎌倉時代の和歌注釈書。一巻。藤原定家著。嘉禄二(一二二六)年成立。父俊成から受けた口伝を含め、「古今和歌集」・「後撰和歌集」・「拾遺和歌集」の三代集の難語を考証・注解したもの。「僻案集」とも呼ぶ。]

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