和漢三才圖會卷第三十八 獸類 白澤(はくたく) (仮想聖獣)
澤獸
白澤
ベツ ツユ
三才圖會云東望山有澤獸一名白澤能言語王者有德
明照幽遠則至昔黃帝巡狩至東海此獸有言爲時除害
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澤獸
白澤
ベツ ツユ
「三才圖會」に云はく、『東望山に澤獸有り、一名、白澤。能く言語〔を成〕し、王者、有德〔(うとく)〕にして、明照幽遠なるときは、則ち、至る。昔、黃帝、巡狩〔(じゆんしゆ)〕して、東海に至りたまふ。此の獸、言〔(げん)〕有りて、時の爲に、害を除く』〔と〕。
[やぶちゃん注:人語を解し、万物に精通するとされる仮想聖獣。ウィキの「白澤」より引く。良安が引くように、「三才図会」(後掲する)に『よると、東望山に白澤と呼ぶ獣が住んでいた。白澤は人間の言葉を操り、治めるものが有徳であれば』、『姿をみせたと言う』。なお、「佩文韻府」「淵鑑類函」では、これを「山海経」からの『引用とするが、実際の』「山海経」には『このような文はない』。『徳の高い為政者の治世に姿を現すのは麒麟(きりん)や鳳凰(ほうおう)に似ている』。『医学などの祖とされる中国の伝説上の三皇五帝の一人である』『黄帝が東海地方を巡行したおりに、恒山に登ったあとに訪れた海辺で出会った』『と言われる。白澤は鳳凰や麒麟、白澤は吉兆の印としても知られ』、一万千五百二十種に『及ぶ天下の妖異鬼神について語り』、『世の害を除くため』、『忠言した』『と伝えられる』。『古くは』「三才図会」に『その姿が記され、日本では』「和漢三才図会」にも『描かれているが、獅子に似た姿である』。『鳥山石燕は』「今昔百鬼拾遺」で『これを取り上げているが、その姿は』一『対の牛に似た角をいただき、下顎に山羊髭を蓄え、額にも瞳を持つ』三『眼、更には左右の胴体に』三『眼を描き入れており、併せて』九『眼として描いている』(同ウィキの当該画像)。『白澤が』三『眼以上の眼を持つ姿は石燕以降と推測され、それより前には』三『眼以上の眼は確認できない。たとえば』、「怪奇鳥獣図巻」『(出版は江戸時代だが』、『より古い中国の書物を参考に描かれた可能性が高い)の白澤は』二『眼である。この白澤は、麒麟の体躯を頑丈にしたような姿で描かれている』。『白澤は徳の高い為政者の治世に姿を現すとされることと、病魔よけになると信じられていることから、為政者は身近に白澤に関するものを置いた。中国の皇帝は護衛隊の先頭に「白澤旗」を掲げたといわれる』。『また、日光東照宮拝殿の将軍着座の間の杉戸に白澤の絵が描かれている』。先に述べたように黄帝は白澤に出逢って親しく語り合ったが、『黄帝はこれを部下に書き取らせた。この書を』「白澤図」という。『ここでいう妖異鬼神とは人に災いをもたらす病魔や天災の象徴であり、白澤図にはそれらへの対処法も記述されており、単なる図録ではなく』、『今でいうところの防災マニュアルのようなものである』。『また、後世、白澤の絵は厄よけになると信仰され、日本でも江戸時代には道中のお守りとして身につけたり、病魔よけに枕元においたりした』。「本草綱目」は『獅(ライオン)の別名を「白澤」とする説について言及している』『(その記述があるのは』「説文解字」だと『されているが確認できない』)。但し、「瑞応図」を『元に、獅と白澤は異なる』、『と結論づけている』とある。また、Ru_p氏のブログ「≫自★遊☆猫★道≪」の「見たかった『白澤図』」には、かなり古い碑文の図と拓本らしきものが掲げられており、碑文も電子化されており、その図の様態及び使用されている漢字字体から見て、その原版(碑か木版か)は不明ながら、相当に古い時代のものであるように思われるとあり、非常に興味深い。そこでブログ主は、『頭や足先は虎かライオン風』で、見た目は『猫科か』と推測されておられる。必見。
『「三才圖會」に云はく……』国立国会図書館デジタルコレクションの画像のこちら(左頁)に図と解説が載る。図の印象は麒麟や獅子の同類と見える。
「東望山」前項の「獬豸(かいち)」と出所が同じ。東洋文庫割注には、江西省とする。「江西省東望山」でグーグル・マップ・データにかけると、離れた二ヶ所が掛かる。まあ、このものも実在しないんだから、いいか。
「明照幽遠」はっきりと正邪を見分け、思慮が奥深いこと。
「巡狩」巡守とも書く。古代中国において、天子が天下を巡って、狩猟による練兵の傍ら、諸国の政治を視察したことを指す。黄帝は世にあるあらゆる植物を自ら食(は)み、その有用性を調べ尽くしたとされるので、「巡狩」は文字通り、腑に落ちる謂いではある、と私は一人、合点してはいる。]
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