和漢三才圖會卷第三十八 獸類 獬豸(かいち) (仮想聖獣)
かいち 𧳊𧳋【廣雅】 獬廌
觟𧣾 神羊
獬豸【解池】
キヤイツウ
三才圖會云東望山有獬豸神獸也能觸邪狀如羊一角
四足王者獄訟平則至
說文云神人以獬廌遺黃帝帝曰何食何處曰食薦春夏
處水澤秋冬處松栢一云似鹿一角能別曲直皐陶治獄
其罪疑者令觸之故法冠有獬豸冠之名
五雜組云諸獸中獨獬豸不經見神羊之名見於神異經
其言妄誕不足信攻歷代五行四夷志如麒麟獅子扶拔
騶虞角端史不絕書而獬豸無聞焉則世固未曽有此獸
也自楚文王服獬豸冠而漢因之相沿至今動以喩執法
之臣亦無謂矣
*
かいち 𧳊𧳋〔(かいち)〕【「廣雅」。】
獬廌〔(かいたい)〕
觟𧣾〔(かいち)〕 神羊
獬豸【〔音、〕「解池」。】
キヤイツウ
「三才圖會」に云はく、『東望山に獬豸有り、神獸なり。能く邪に觸〔(しよく)す〕[やぶちゃん注:邪悪な対象に反応する。]。狀、羊のごとく、一角・四足。王者の獄訟[やぶちゃん注:処罰・訴訟の裁定。]、平らかなるときは[やぶちゃん注:公平である時に。]、則ち、至る[やぶちゃん注:姿を表わす。]』〔と〕。
「說文」に云はく、『神人、獬廌を以つて黃帝に遺〔(つか)〕はす。帝、曰はく、「何をか食ひ、何〔(いづ)〕くにか處〔(を)〕る」〔と〕。曰はく、「薦〔(こも)〕を食ひ、春・夏〔は〕水澤に處り、秋・冬、松栢〔(しようはく)〕[やぶちゃん注:常緑高木の総称。]の處る」〔と〕。一つに云はく、「鹿に似て、一角。能く曲直を別〔(わか)〕つ[やぶちゃん注:曲がったこととまっすぐなこと、則ち、ことの正不正を正確に弁別する。]。皐陶〔(こうとう)〕、獄(う〔つ〕たへ)を治むるに、其の罪、疑はしき者は、之れに觸れしむ。故に、法冠に獬豸冠〔(かいちくわん)〕の名、有り』〔と〕。
「五雜組」に云はく、『諸獸の中〔(うち)〕、獨り、獬豸〔のみ〕經〔(けい)〕に見へず[やぶちゃん注:ママ。以下同じ。]。「神羊」の名は「神異經〔(しんいきやう)〕」に見へて〔→ゆるも〕、其の言〔(げん)〕、妄誕〔(ばうたん)〕[やぶちゃん注:根拠のない話。「まうたん(もうたん)」と読んでもよい。]にして、信ずるに足らず。歷代の五行・四夷志を攻〔(しら)ぶ〕るに[やぶちゃん注:調べてみたが。]、麒麟・獅子・扶拔〔(ふばつ)〕・騶虞(すうぐう[やぶちゃん注:ママ。原典のルビは「スウクウ」。])・角端のごときは、史〔書に〕書〔(かく)〕を絕えずして、獬豸〔のみ〕聞くこと、無し。則ち、世に固〔(もと)〕に〔→より〕此の獸、未だ曽つて有らざるなり。楚の文王より、獬豸の冠を服して、漢、之れに因りて相ひ沿(したが)ふ。今に至りて、動-以(やゝもす)れば、法を執るの臣を喩(たと)ふ〔も〕亦、謂(いはれ)無し[やぶちゃん注:(存在しない架空の獣である以上)何の根拠も、また、ないのである。]』〔と〕。
[やぶちゃん注:中国の伝説上の動物。「獬豸」は拼音で「xiè zhì」(シィエ・ヂィー)。ウィキの「獬豸」より引く。『日本の狛犬の起源とも』言われる。「論衡」(後漢の王充(二七年~一世紀紀末頃)が著した全三十巻から成る思想書)の『記載から、姿は大きいものは牛、小さいものはヒツジに似ているとされる。全身には濃くて黒い体毛が覆う。頭の真ん中には長い一角を持つことから一角獣とも呼ばれ、この角を折った者は死ぬと言われる。麒麟に似ている。水辺に住むのを好む。人の紛争が起きると、角を使って理が通っていない一方を突き倒す(その後』、『突き倒した人を食べるという伝説もある)。次第にカイチはより正義感のある性格付けがなされてゆき、正義や公正を象徴する祥獣(瑞獣の一種)となった』。『獬豸の「豸」の字は、足の無い虫や背中の長い獣を意味する同音字で、本来は「廌」と書く。「廌」は「法治(灋治)」の「治」と同音であり、「法(灋)」の正字にも含まれていることから、古くから中国人は「法治」の精神をカイチを使って表現した』。『古代中国では法律を執行する役人が被った帽子(法冠)に獬豸が飾られ、獬豸冠(かいちかん 獬冠』『とも)と称した。清の時代の役人の着物にも獬豸が刺繍されていた。また副葬品としてカイチの工芸品を選ぶ人もいた。寺ではカイチの化身としてヒツジを飼育した』。『台湾に移住した漢人は「法治」の精神をカイチを使って表現することを伝え、正義や公正を象徴する祥獣(瑞獣の一種)となった。現在、中華民国国防部憲兵の腕章に採用されている』。また、『カイチは朝鮮半島にも伝わり、ヘテ』『とよばれる。ヘテは漢字で書く場合には「海駝」と当て字される。漢字のカイチが朝鮮語ではヘチ』『又はヘテ』『と読まれる』。『中国との違いは、羊や牛の姿ではなく』、『獅子形であることと、大抵の場合、頭に角を持たないことである。が、文献上の知識では』、『朝鮮でも一角獣であると認識されており、なぜ造形された実際の像となると』、『角がなくなることが多いのかは不明である』。『真贋を見極める能力があるとされ、その石像は魔除けとして建造物の門前などに置かれることがある』。『韓国では製菓会社の企業名に用いられるなど親しまれている。また、ソウル特別市はヘテの語源である「ヘチ」を』二『代目のシンボルにしている』とある。
「廣雅」三国時代の字書。張揖(ちょうゆう)著。 全十巻。魏の太和年間(二二七年~二三二年)の成立。「爾雅」と同系統の、所謂、古い訓詁字書。「爾雅」の旧目に拠りつつ、さらに他の諸書から広く内容をとったので「広雅」と称した。隋代、時の煬帝の諱を避けて「博雅」と改めたことがあり、今日でも両様に呼ばれる。清の王念孫の「広雅疏証」が注釈書として優れる(「ブリタニカ国際大百科事典」に拠る)。
『「三才圖會」に云はく……』国立国会図書館デジタルコレクションの画像のこちらが図、こちらが解説。
「東望山」東洋文庫割注には、江西省とする。「江西省東望山」でグーグル・マップ・データにかけると、離れた二ヶ所が掛かる。まあ、実在しないんだから、いいか。
「說文」「説文解字」現存する中国最古の字書。後漢の許慎(三〇年~一二四年)著。全十五巻。小篆文字九千三百五十三字を五百四十部に分類し、それぞれ、字形と字義を訓釈する。文字構成の説明を「象形」・「指事」・「会意」・「形声」・「転注」・「仮借」の六書(りくしょ)と呼ばれる原理を用いた、中国文字学の基本的古典。清朝の考証学で重視され、段玉裁の「説文解字注」や朱駿声の「説文通訓定声」などが出た。
「黃帝」中国古代の伝説上の帝王。三皇五帝(三皇は燧人(すいじん)・伏羲(ふっき)・神農(或いは女媧(じょか)を数えることもあり、別に天皇・地皇・人皇とするケースももある)、五帝は黄帝・顓頊(せんぎょく)・嚳(こく) ・堯(ぎょう)・舜(しゅん)とするのが一般的ではあるが、こちらも命数には数説がある三皇五帝説の確かな成立は戦国時代であった)の一人。姓は公孫。軒轅氏とも、有熊氏(ゆうゆうし)ともいう。蚩尤(しゆう)の乱を平定し、推されて天子となり、舟車・家屋・衣服・弓矢・文字を初めて作り、音律を定め、医術を教えたとされる。
「薦〔(こも)〕」単子葉植物綱イネ目イネ科エールハルタ亜科 Ehrhartoideae イネ連マコモ属マコモ(真菰)Zizania
latifolia。沼・河川・湖など水辺に群生する。成長すると、大型になり、人の背ほどにもなる。花期は夏から秋で、雌花は黄緑色、雄花は紫色。葉脈は平行。日本を含む東アジア・東南アジアに広く植生する。
「皐陶〔(こうとう)〕」先の注で掲げた五帝の伝説の聖王堯・舜の時代に公平な裁判を行ったとされる、やはり伝説上の人物。ウィキの「皋陶」によれば(「皋」は「皐」の字の本字)、『司法をつかさどる官吏(司空・司寇)として力をふるったといい、どのような事件に対しても公平な裁決につとめたとされる。その判決には、正しい者を判別して示すという霊獣である獬豸(かいち)を使った』『ともいい、後の時代に司法官のかぶる帽子を獬豸冠(かいちかん)と称することの由来にもなっている』。『日本では、皋陶の像が神像のようなあつかいで祀られていたこともあるようだが、何の像か分からなくなってしまい、いつの間にか閻魔の像として取り扱われてしまった例もあるという』とある。
「五雜組」既出既注。
「神異經〔(しんいきやう)〕」後漢末に東方朔が著したとされる、中国の神話集成。
「歷代の五行・四夷志」「五行」が五行説について記された各種の博物学書の謂いであろう。「四夷志」の「四夷」は古代中国において自国を「中華」と自尊称したのに対して、四方の異民族を指して「東夷」・「西戎(せいじゅう)」・「南蛮」・「北狄(ほくてき)」と賤称したその総称であるから、「四夷志」とはそうした中国の辺縁及びその外地の四方の地誌書群のことであろう。
「麒麟」既出既注。
「獅子」既出既注。
「扶拔〔(ふばつ)〕」Q&Aサイトの回答に「漢書」「後漢書」に、後漢の粛宗孝章帝の章和元年(西暦八七年)是歳の条に、『西域長史班超が莎車を擊ち、之れを大破す。月氏国が遣使して扶抜・師子を獻ず」とあって、「後漢書」注に『麟に似て角無し』とあるのみで、それ以上に詳しいことは判らないとしつつ、回答者はそこで、献上したとある以上、仮想動物とは思われず、所謂、ジラフ(Giraffe)、哺乳綱鯨偶蹄目キリン科キリン属キリン Giraffa Camelopardalis か、或いはその仲間ではないかと考えている、と述べておられた。
「騶虞(すうぐう)」この漢字では「すうぐ」或いは「すうご」としか読めない。伝説上の生き物で「騶吾(すうご)」とも書く。ウィキの「騶虞」によれば、『品格を持った仁徳を示す瑞獣とされ仁獣と称される』。『中国の文献では一般的に騶虞は、仁徳をもった君主が現れたときに姿を見せる瑞獣として描かれている。姿は虎のようだが』、『性質穏健で獣を捕食しない』とする。「説文解字」では、『尾が体よりも長く、黒い斑点を持つ色の白い虎のようなかたちをしていると描写されている』。「山海経」の『「海内北経」に記載されている騶吾は騶虞とおなじものであると見られており、「騶虞」という表記で記されている文献もある』。『騶吾は体に五彩の色をそなえた虎のような大きさの獣で、尾が体よりも長いとされる』。「三才図会」には、『周の文王の時代に姿を現わした』『という伝承が記されている。明の永楽帝の時代には、開封で捕らえられた騶虞が皇帝に贈られたという記録がある。また山東での目撃談もあったという。この目撃談は黄河の水が澄んだことや、ベンガルまで派遣された鄭和艦隊の分遣隊がキリンを持ち帰ったことなどと併せて瑞祥とされた』。『騶虞の語が登場する最古の例は』「周礼」の『「春官」で』、また、「詩経」に『収められた一篇「騶虞」の題およびその一節』『などもあるが、ここで述べられている騶虞とは狩猟に関することを司る役人の職名(騶人・虞人)』であって、『仁獣としての存在を意味しているかどうかは疑わしいと魯詩学派(漢の時代に』出現した「詩経」解釈学派の一つ)『では説かれていた』。『仁獣である証しとして、肉として食べるのは自然と死んだ獣のみで、生活をしている獣を狩り捕って食べることはないとされている。また、草木などに対しても同様で必用以上に踏み荒らして移動をすることをしないとい』。『同様に獣を捕食しないとされる中国に伝わる霊獣には酋耳(しゅうじ)というものもある』。『オランダの中国学者ヤン・ユリウス・ローデウェイク・ドイフェンダック』(Jan Julius Lodewijk Duyvendak 一八八九年~一九五四年)『は、白い体に黒い模様をもつという記述から』、『永楽帝に贈られたという騶虞はジャイアントパンダ』(哺乳綱食肉目クマ科ジャイアントパンダ属ジャイアントパンダ Ailuropoda
melanoleuca)『ではなかったか』と一九三〇年代に『主張している。日本ではあまりとりあげられていないが、欧米などでは彼の主張に追随して現在の著述家のなかにも騶虞はもともとジャイアントパンダを指していたものではないかと考える者がいる』とある。
「角端」個人ブログ「プロメテウス」のこちらによれば、『角端は中国の古代伝説中の祥瑞の獣名で、形状は鹿に似て』、『翼を持ち』、『パンダほどの大きさです。鼻に角が一本ついており、一日に一万八千里を行くことができ、さらに四方の言語に精通していると言います。このため邪を避ける目的も兼ねて芸術作品にも多く登場しており、またの名を甪端(ろくたん)とも言い漢代頃からその名が見られるようになっています』。「宋書」の「符瑞志下」には、「『甪端は日に一万八千里行き四方の言語を知り名君の在位に明るく、遠方の物事にも明るく則ち書を奉ると現れる』」『とあります』。『甪端は端端、畣端とも言います。獬豸、豸莫、独角獣などと形状は似ていますが、これらは別々の神獣です。麒麟の頭に獅子の体で翼があり、独角、長尾、四爪で、上唇が特に長く前に伸びている者上向きに巻いている者など様々なタイプがいます。甪端は宋代の神獣の彫刻を代表する形状であり、様々な皇帝の陵墓にその姿が見られています。彫刻に見られる甪端は重厚で胸が突き出ており鼻の端にある一本の角が誇張されて獅子が吠えているように見え』、『気勢を上げています』。『翼を持つ神獣の形状は古くはペルシャやギリシャなどで見られています。翼は飛行のためと言うよりも神性を示すための象徴として用いられています。この翼を持った神獣は歴代の皇帝たちに愛されました。ある文献によると、頭に角が一本ある神獣を麒麟と言い、二本あると避邪、角がないものを天禄と呼ぶ、と記載されています。しかし、彫刻に用いられる形状にはそれほど厳格な規則はなく、宋の時代の甪端の形状は南北朝から唐にかけて麒麟や天禄、翼馬などの特徴が加えられて変化していきました。この甪端の特徴は明、清の諸陵石に刻まれた麒麟にも継承されています』。『史書中の甪端の記述には外見に関して三種類の記述があります。一つは豚型で、二つ目は麒麟が田、三つめは牛型です。実際には』「史記」の「司馬相如列伝」には、「獣則ち麒麟、甪端」と『あり、昔の人たちは甪端を古くから祥瑞の神獣として用いてきました』。『甪端は麒麟に似ていますが』、『麒麟ではなく、形状は豚や牛に近いです。麒麟自体は毛皮を持った動物の長であるとされています。漢代や唐代には甪端は様々な効能をもたらすとされていましたが、神格化は行われておらず』、『宋代になると』、『甪端はさらに神秘的な存在にされていきました。この時期に祥瑞の属性を付加された上に』、『翼や巻いた唇などが付け加えられるようになりました』。『甪端の造形は天禄や避邪などとの共通点が見て取れ、工芸ではその特徴が脈々と継承されています。明清時代になると宋代に変化して独特になってしまった形状の漢や唐代への回帰が起こり元の麒麟に近い形状に戻っていきました。つまり、宋代の甪端はその形状のみならず地位も独特で、この時代特有のものとなっています』。また、『甪端の角を用いて弓を作ったと言う話が残っており』、「後漢書」の「鮮卑伝」には、「野馬、原羊、甪端牛の角を以って弓を為し、俗にいう角端弓である。」『とあります。この場合、甪端は牛として描かれています。甪端牛は古代の鮮卑の異獣名であり、形状は牛に似ており』、『角は鼻の上にあったので甪端牛の名前はこれに因んでいます』とある。]
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