雜吟『小萩が岡よ、秋風よ』 國木田獨步
雜吟『小萩が岡よ、秋風よ』
小萩が岡よ、秋風よ、
故鄕戀し、路遠し。
都のちまた降る雨に、
ゆきかふ人のあと絕えて、
こみぞ流るゝ水の色に、
亡せにし友を懷ふかな。
小萩が岡よ、故鄕よ、
都のちまたさすらひて、
われいつまでかあくがれん。
[やぶちゃん注:標題は底本編者によるもので、総標題に一行目を添えたもので、本篇は無題。初出は明治三〇(一八九七)年十二月十日発行の『國民之友』で、この後の、頭に同様の「雜吟」と附した無題の四篇とともに全五篇が纏めて同日の同誌に掲載されている。署名は「江聲樓主人」。
「故鄕」の「小萩が岡」は不明。ウィキの「国木田独歩」(二重鍵括弧はそれであるが、記載に問題があり過ぎるので、全集年譜で補整した)等によれば、國木田獨步の出生地(狭義の故郷)は下総国(千葉)の銚子であるが、満三歳で母と上京しており、ここではないと思われる。國木田獨步は明治四(一八七一)年八月三十日、『国木田貞臣』・(通称、専八。文政一三(一八三〇)年生)と淡路まん(天保一四(一八四四)年生。彼女は同年陰暦十二月二十七日生まれで、新暦では一八四三年は終わっている)の『子として、千葉県銚子に生まれた。父・専八は、旧龍野藩士で榎本武揚討伐後に銚子沖で避難し、吉野屋という旅籠でしばらく療養していた。そこで奉公していた、まんという女性と知りあい、独歩が生まれた。この時、『専八は国元に妻子を残しており、まんも離縁した米穀商の雅治(次)郎』(全集年譜では「亡夫」とあり、父専八の戸籍簿では「權次郎」である)『との間にできた連れ子がいたとされる。独歩は、戸籍上は雅治郎の子となっているが、その他の資料から判断して、父は専八であるらしい』。明治七(一八七四)年七月に専八は一足先に単身上京、翌八月以降に、まんも『独歩を伴い上京し、東京下谷徒士町脇坂旧藩邸内に一家を構えた』(専八は明治九(一八七六)年五月に国元の妻とくと『正式に離婚が成立している』(ウィキがそれを一八九九年とするのは誤り)。翌明治八年六月、『専八は司法省の役人となり、中国地方各地を転任したため、独歩は』五『歳から』十六『歳まで山口、萩、広島、岩国などに住んだ』。『自らの出生の秘密について思い悩み、性格形成に大きく影響したとみられる。錦見小学校簡易学科、山口今道小学校を経て、山口中学校に入学』(入学と同時に寄宿舎に入った)、『同級の今井忠治』(今井は明治一九(一八八六)年十月退校願を提出し許可されている)『と親交を結んだ』。明治二〇(一八八七)年、『学制改革のために』規則上、上級学校を目指すには編入が非常に上手くない状態となってしまうため、『退学すると、父の反対を受けたものの』、『今井の勧めで上京』し、『翌年』五月『に東京専門学校(現在の早稲田大学)英語普通科に入学し』ている。これらから「故鄕」というのは、萩か山口ではないかとは取り敢えず踏むけれども、「小萩が岡」は固有名詞ではないらしく、検索してもヒットしない。お手上げ。識者の御教授を乞う。]
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