たき火 國木田獨步 《詩篇》
た き 火
一
逗子の砂やま草かれて
夕日さびしく殘るなり
沖の片帆の影ながく
小坪の浦はほどちかし
箱根足柄、雪はれて
こがねの雲を戴きぬ
ゆふばえ映る汐ひがた
飛びこふ千鳥こゑ寒し
落葉たゞよふさとがはの
葦間にのこるうすこほり
ふみて碎きて飛びたちぬ
羽音したかし、しぎ一羽
小舟こぐ手もたゆみたり
富士の高峰をみかへりて
今日も暮れぬとふな人の
歌はきくべしたび人も
二
濱邊につどふわらべあり
みるま忽ちおのがじゝ
水際あさりてゆきゝせり
拾ひし木々を積み上げぬ
潮風さむし身に沁めば
わらべは小枝をりそへて
たき火いそぎぬあやにくに
ひろひし木々はうるほへり
かたみに吹けど煙たち
たばしる淚ふきあへず
かたみに笑ふ際(ひま)くれて
かはたれ時となりにけり
ゆふぞら晴れて星一つ
影をさやかに映すなり
干潟の千鳥みえわかず
相模の灘は暮れにけり
三
節ありあはれ歌のごと
童は水際にたちならび
「伊豆のやま人ふきおくれ
野火をいざのふ風あらば」
鬼火か、あらず、いさり火か
伊豆の山こそやけそめぬ
冬のたび人ゆきくれて
のぞみて泣くはこの火なり
わらべは指してうれしげに
もろ聲あはせうたひけり
「伊豆のやま人ふきおくれ
野火をいざのふ風あらば」
かはたれ時の濱遠く
罪なき聲はたゞよひぬ
海の女神はこたへせり
みち來る汐はさゝやきて
四
童のかへり遲しとて
母なる一人よびたてぬ
「夕暮さむしいつまでか
淋しき濱にあそぶぞと」
稚きわらべげにもとて
砂山さしてかけゆきぬ
つゞく友どちそのまゝに
たき火をすてゝ走りたり
かしらの童ふりかへり
濱のこなたを見下しぬ
風は炎をいざなひて
今しも荒く燃えたちぬ
うれしとのみは思へども
童はそこに居ならびて
わが火もえぬと叫びつゝ
家路をさして馳せさりぬ
五
海暮れ野くれ山くれて
冬のさびしき夜となりぬ
逗子の濱邊は人げなく
あるじなき火の影あかし
と見る、人あり近寄りぬ
足おと重したび人か
たき火慕ふは袖ひぢて
かはかす間(ひま)もなかりしか
火影にうつる顏くろく
額にきざむ皺ふかく
六十路にあまる髯枯れて
衣のすそはやぶれたり
ふるさと遠くたびねして
ゆくえも知らずさすらふか
ゆめは枯野にさめやすく
草をまくらの老の身か
六
あはれ此火よたがわざぞ
かたじけなしとかざす手は
炎まぢかくふるひたり
まなざしにぶく見まはしぬ
身うちの氷とけそめて
心ゆたかになりにけり
燃ゆる炎のかなたには
昔のわが身うかびたり
なぎさゆたかに滿ち來なる
汐はまさごとしたしみて
さゝやく音はおのづから
おきながなみだ誘ひけり
仰ぐ大ぞら星さえて
霜をつゝめる天の河
伊豆の岬をゆびさしぬ
天のはるばる人こひし
七
ひぢし衣もかはきたり
殘りすくなに燃えつきぬ
たき火の炎かすかなり
おきな今はと、杖とりぬ
小坪のかたは道くらし
ゆき去りかねしたび人は
あとふりかへりたゝずみつ
たき火のぬしをことぶきぬ
有明ちかく月さえて
逗子のうら人ゆめふかし
伊豆の孫やま火はきえて
いさり火のみぞのこるなる
里の童がたきし火は
さすらふ人の足跡は
とこしへの波おともなく
夜半のみち汐かき消しぬ
[やぶちゃん注:初出は『反省雜誌』(後の『中央公論』の前身誌)明治三〇(一八九七)年八月。詞華集「新體詩集 山高水長」の國木田獨步のパートは本篇を以って終わっている。
「一」の第三連の初行「落葉たゞよふさとがはの」の「さとがは」は「里川」で、「田舎の川」の意。後に述べる小説「たき火」から「御最後川」の旧異名を河口付近に持つ、現在の、逗子海岸南端で海に開く田越(たごえ)川(グーグル・マップ・データ)であることが判る。リンクの地図上の河口の南側に「国木田独歩文学碑」とあるのは、まさに実に本篇冒頭の「逗子の砂やま草かれて」/「夕日さびしく殘るなり」/「沖の片帆の影ながく」/「小坪の浦はほどちかし」の四行が彫られた碑があるのである。なお、川の異名「御最後川」(御最期とも表記する)は「平家物語」の「六代斬られ」で知られる「六代御前」、平宗盛嫡男維盛嫡男で平清盛の曾孫である平高清(承安三(一一七三)年~建久十(一一九九)年:六代は幼名で平正盛から直系六代に当たることからの命名)が、この田越川河畔で処刑されたことに因む。ご存じない方は、私のサイトの「新編鎌倉志卷之七」の「〇多古江河〔附御最後川〕」の本文や私の注、或いは手っ取り早くなら、私のブログの「『風俗畫報』臨時増刊「江島・鵠沼・逗子・金澤名所圖會」より逗子の部 田越川」又は「『風俗畫報』臨時増刊「江島・鵠沼・逗子・金澤名所圖會」より逗子の部 六代御前墓」を見られたい。
「一」の同連の最終行「羽音したかし、しぎ一羽」の「羽音したかし」は「はをと/し/たか(高)し」で、「し」は強意の副助詞である。
「二」の第二連の「たき火いそぎぬあやにくに」の「あやにくに」は、「間の悪いことに」の意で、「ひろひし木々はうるほへり」(湿っていた)と繋がる。
「二」の第三連の一行目「かたみに吹けど煙たち」の「煙」は、後に述べる小説「たき火」の中のルビから、「けむり」と読むこととする。
「二」の同連の三行目「かたみに笑ふ際(ひま)くれて」の「際(ひま)くれて」は、思うに「余裕を見せて」の意ではなかろうかと私は思う。
「三」の第二連の「鬼火か、あらず、いさり火か」/「伊豆の山こそやけそめぬ」/「冬のたび人ゆきくれて」/「のぞみて泣くはこの火なり」というのは、一読、夕日の余光が木間隠れに見えることかと思ったりするかも知れぬが、少なくとも後に述べる小説「たき火」で『はげに相模灣を隔てゝ、一點二點の火、鬼火かと怪しまるゝばかり、明滅し、動搖せり。これ正(まさ)しく伊豆の山人(やまびと)、野火を放ちしなり。冬の旅人の日暮(ひく)れて途遠きを思ふ時、遙かに望みて泣くは實(げ)に此火なり』と述べている。歳末のこの時期、しかも陽が落ちて後に伊豆の山人が野焼きをするというのには、やや私は不審が残りはするのであるが、言い添えておく。
最終連の「伊豆の孫やま」は「伊豆の連山」の意。
同最終連の「夜半」は音数律からも、後に述べる小説「たき火」からも、「よは(よわ)」である。
さて、國木田獨步の代表作で満載された彼の第一作品集「武藏野」(明治三四(一九〇一)年三月民友社刊)を愛する方は、一読、というより、標題「たき火」を見た瞬間に、そこに収録された散文詩風の忘れ難い名篇「たき火」を想起されるであろうし、詩篇を読み進めれば、同じシチュエーションを用いていることが判然とする。しかし、この小説(と称して区別しておく)「たき火」は、明治二九(一八九六)年十一月発行の『國民之友』に「鐡夫生」の署名で発表されたもので、少なくとも本詩篇よりも先に発表されているものなのである。
本詩篇と対照するため、この後、ここで正規表現で同小説「たき火」を次に急遽、電子化した。]