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2019/03/26

國木田獨步の日記「欺かざるの日記」及び書簡内の俳句群(一部は私は詩篇と推定する)

 


○國木田獨步日記「欺かざるの記」所収の俳句


[やぶちゃん注:以下は学研の「國木田獨步全集」增訂版(全十卷+別卷)の「第九卷」(昭和五三(一九七八)三月刊)の解題で、日記・書簡中の短歌・俳句が抽出再録されている中から、俳句を抜き出し、同全集の当該日記(第六卷及び第七卷)で確認の上、電子化した。]


朝な朝な起き出でゝみる冬景色


[やぶちゃん注:明治二六(一八九三)年十二月十七日の条の二行目に記す。國木田獨步満二十三歳。一行目は『近來天甚だ寒く、月漸く冷なり』と記し、この句を掲げた後、『ぶらぶらなすなく暮す此頃、なすなしと雖もなさんと欲するの熱情は愈〻燃ゆる也』と記し、続いて『昨日生徒を合手にナシヨナル第二を教へ居たる時、突然自ら客觀して思はず自笑せり。朽つる命、何を爲さんとするぞ。』(「合手」はママ)/(改行)『今朝めさめて頭を舉げてガラス越しに灘山の背後朝輝の天に漲ぎるを望む忽然として感ずらく嗚呼、大なる美なる確かなる此自然、吾は人なり、爾の中に生く、爾老ひず、吾豈老ひんや、吾あに死せんやと』(「老ひ」はママ)『然り「自然」は一致なり、古來幾億の生命、此自然が呑吐したる現象に非ずや、吾も人なり、安ぜよ、吾甚だ獨立を感ず然り吾甚だ吾がソールの獨立を感ず』(「ソール」は「soul」であろう)/『要するに吾ソールを此自然の中に見出す也』『ソールソール 汝は自由なり、自然なり、獨立なり。』(傍線は右)と記している。獨步はこの直前の同年十月、大分県佐伯(さえき:後に訛りの実発音の「さいき」に改称し、現在の公称も佐伯(さいき)市)町にあった私立鶴谷学館の英語と数学(代数学)の教師兼教頭として赴任していた(小学校卒業後の子弟を対象とした中等以上の教育を行う補助教育機関。德富蘇峰と矢野龍溪の紹介による。但し、十ヶ月後の翌年七月末を以って退職した)。]



野邊のすそ、川邊に一ツ
           住家あり。


月かげに、すかして見れば
           茅屋なり。


誰れが住む、住む人は誰れ
           問ふまでもなし。


名も知れぬ、名もなき(浮世の)
           人々ならめ。


[やぶちゃん注:以上《四句》は明治二七(一八九四)年六月十三日の条に記されてある。当日の日記冒頭には、『昨夜船を蕃匠の流に泛べ月光に掉[やぶちゃん注:ママ。]して、富永氏を灘村の校舍に訪ひぬ。同舟者は尾間、山口、收二の三人。吾を加へて四人。』/『月明、流れに滿ち山岳の影、倒さまに水に落ち來四顧寂々、ああかも湖面をゆくが如し。』/『歸來、此の美景、眼にのころ、心に生く』『吾は美を信ぜんことを欲す。』(太字は底本全集「第七卷」では傍点「◦」)/『わきには吾只た[やぶちゃん注:ママ。]美の力を信じたり、曰く美を信ず。と。是れ非なり。』/『寂漠、幽遠、光明、暗澹の世界。吾が生、こゝに在り。古人の生こゝに消へぬ[やぶちゃん注:ママ。]。吾、何處に適歸せん。』/『四顧茫々然。嗚呼吾信仰を欲す。』/『虛榮、小我、比較、焦念、束縛の衣よ去れ』/『信仰、自由、大我、眞實の生命よ來れ』とあった後に、実際には以上は、罫線に挟まれる形で、間に明らかな短歌風の一首を挟み、


   *


野邊のすそ、川邊に一ツ
           住家あり。
月かげに、すかして見れば
           茅屋なり。
誰れが住む、住む人は誰れ
           問ふまでもなし。
世に生れ、貧しくそだち、哀れにも
           寂びしく暮す、一家なり。
名も知れぬ、名もなき(浮世の)
           人々ならめ。


   *


となっているのである。全集「第九卷」の「解題」では、これらを五つに分離し、無理矢理、俳句と短歌に分けているのであるが、しかし、これはどう見ても、俳句+短歌一首、ではなく、纏まったソリッドな五七調の一詩篇と読む方が正しいとしか私には思えない。


「富永」は鶴谷学館の生徒富永德麿。独歩の退職帰京に伴い上京し、牧師となった。「收二」は獨步の実弟。なお、御存じない方のために言っておくと、獨步は熱心なクリスチャンであった。同学館では彼を尊崇する生徒がいた一方、その熱烈な信仰を毛嫌いする生徒も有意におり、後者は彼を排斥する運動行動に出たりしていた。そうした中、この時、獨步は既に学館を辞職して東京へ帰る意志を固めていた。


もぐらもち土をもたぐる狹霧かな。


[やぶちゃん注:明治二九(一八九六)年十一月二十六日の条に記されてある。句の前に『今日は終日狹霧たちこめて野も林も永久の夢に入りたらんごとく靜かなりき。午後獨り散步に出かけ犬を伴ひぬ。默視し、水流を睇視して空想に馳せたり。をりをり時雨の落葉の上をわたりゆく樣の靜けさ。』(「睇視」(ていし)は「目を細めて見ること」或いは「横目で見ること」であるが、前者でよかろう)。「林の奥に座して四顧)としてこの句が示され、後に『狹霧の靜寂を歌ひたる也』と記す。この年の四月、結婚から五ヶ月にして佐々城信子に逃げられて離縁しており、九月に渋谷(現在の渋谷駅の直近)に転居、この前月十月二十六日には名作「武藏野」の構想が既に成っていたことが日記から判る。一方、先の引用の後、には罫線を引いた後に、『信子を懷ふて和歌及び新體詩成れり。』と記している。和歌は後掲する当該首がある。「新體詩」は発表年月日の判っているものの中で、直近のものである「森に入る」「聞くや戀人」が、その一部に当たるのではないか、とは推理可能ではある。]


 


○國木田獨步書簡所収の俳句(日記「欺かざるの記」と重出するものは除く)


[やぶちゃん注:以下は学研の「國木田獨步全集」增訂版(全十卷+別卷)の「第九卷」(昭和五三(一九七八)三月刊)の解題で、日記・書簡中の短歌・俳句が抽出再録されている中から、俳句を抜き出し、同全集の書簡(第五卷)で確認の上、電子化した。]


東海の富士を枕にあくび哉


[やぶちゃん注:明治二三(一八九〇)年八月十五日相模小田原消印の田村三治宛書簡より(底本全集書簡番号六)。句に続けて『(まくらと云ふ題で)』(太字は底本では傍点「ヽ」)と記す。國木田獨步満二十九歳で、東京専門学校(現在の早稲田大学の前身)英語普通科第二年級。小田原は学年末休業中の旅行滞在(但し、底本全集年譜ではそれを八月四日から八日としており、不審)。前に『夏の暑さにつれ、堪へ兼て、うつらうつらの宵の間(ま)にあらうれしやな、うれしの□□□□、夢かまぼろし(三月あとに主のたよりをあらうれしやなあふぐ團扇の風で聞く、(うちわと云ふはうた)』(太字は底本では傍点「ヽ」。「うちわ」はママ。取消線は抹消部、□は底本の判読不能字と思われる)とあり、句の後に有意な字下げで、『こんなめそめそしき事は此れでよす!』とある。なお、底本では句を含め、一部が崩しの変体仮名であるが、表記出来ないので正字化した。]


わが宿は星滿つ夜(よる)の
      琵琶湖かな


[やぶちゃん注:明治二六(一八九三)年七月二十五日武蔵東京麹町消印の大久保余所五郞(よそごろう)宛書簡より(底本全集書簡番号三二)。書簡本文から、大久保が琵琶湖を綴った先行書簡に想を得た想像吟であることが判り、句の後に『僕が寓所の窓より滿天の星影輝〻たるを望み且つ遠く湖上の夜を想ふ時は心耳遙かに磯打つ波の音を聞くの思。眼底直ちに星空たれて水面に連なるの想ありとの意に候』とある。大久保は独歩の友人で後の第二次松方内閣で勅任参事を務めた。筆名を湖州と称し、「家康と直弼」など(リンク先は国立国会図書館デジタルコレクション)、文筆にも優れた。芥川龍之介に「大久保湖州」がある(リンク先は「青空文庫」。但し、新字旧仮名)。]


友なくば何が都の秋の月


[やぶちゃん注:明治二七(一八九四)年五月十六日附クレジットで、大分県佐伯町発信の中桐確太郞宛書簡より(底本全集書簡番号六九)。前に注した鶴谷学館教頭時代のもので、句の直後に学生の國木田獨步に対する排斥運動は『已にトツクニをさまり候今は八九名の有爲の靑年小生を愛し小生を信じ小生も亦た心を盡して職に當り、甚だ幸福の有樣に御座候間御安心あれ』と記しているが、実際にはこの二日前には上京の相談を知人・生徒らと行っており、既に辞任の意志は固まりつつあった。]

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