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2019/03/14

鎌倉妙本寺懷古 國木田獨步

 

  鎌倉妙本寺懷古

 

夕日(ゆふひ)いざよふ妙本寺(めうほんじ)

法威(ほふゐ)のあとを弔(とむら)へば

芙蓉(ふよう)の花(はな)の影(かげ)さびて

我世(わがよ)の末(すゑ)をなげくかな

 

法(のり)よ、おきてよ、人(ひと)の子(こ)よ

時(とき)の力(ちから)をいかにせん

永劫(えいごふ)の神(かみ)またたきて

金宇玉殿(きんうぎよくでん)いたずらに

懷古(くわいこ)の客(きやく)を誘(さそ)ふかな

梢(こずゑ)の鳩(はと)の歌(うた)ふらく

ありし昔(むかし)も今(いま)も尚(な)ほ

夕日(ゆふひ)いざなふ妙本寺(めうほんじ)

芙蓉(ふよう)の花(はな)は美(び)なるかな

 

[やぶちゃん注:明治四〇(一九〇七)年三月一日発行の『新古文林』に「獨步生」の署名で載る。この雑誌『新古文林』というのは、獨步が明治三六(一九〇三)年三月に立ち上げた敬業社発行とする雑誌『東洋畫報』(國木田哲夫編輯)が同年九月に『近時畫報』と改題した『時代に力を入れ、同社の經濟的破綻の後を引きうけた獨步社の時にも、引きつづいて出していた雜誌であ』った。因みに、『獨步社の發足は明治三十九年八月であり』それが破産して彼自身が経済的困窮に堕ち入るのは僅か九ヶ月後の、『翌年四月であつた』(底本全集第二巻解題から引用)。なお、これに先立つ明治三一(一八九八)年、獨步は近々に下宿(東京麹町)していた折りの、隣家の娘榎本治(はる)と結婚している。

 妙本寺は現在の鎌倉市大町にある日蓮宗本山(霊跡寺院)長興山妙本(グーグル・マップ・データ)。鎌倉駅から最も近くで静謐さを味わえる古刹で、私も偏愛する十二所の光触寺に次いで、最も訪れた回数の多い寺である。ここには、鎌倉時代初期に北条氏と並ぶ権力を持った比企能員(よしかず)一族の屋敷があり、初代執権北条時政が主導した凄惨な「比企能員の変」の舞台となった跡地である。『比企能員は、源頼朝に仕えた御家人で、頼朝の乳母・比企尼の養子にあたり、妻は』第二代将軍『源頼家の乳母、娘の若狭局は頼家の妻となり』、『頼家の子・一幡を生むなど、源氏とは深い関係を持った。このため、頼朝の妻・北条政子の実家である北条氏とは対立するようにな』り、建仁三(一二〇三)年に『頼家が病気で倒れると、次の将軍を誰にするかで、千幡(後の源実朝)を推す北条氏と、若狭局が生んだ一幡を推す比企氏の間で争いが起きた。能員は頼家と北条氏討伐を謀るが』、逆に『察知され、名越で殺害され、比企一族は』この比企谷(ひきがやつ)の谷戸(小御所と呼んだ)に籠って、『北条氏らの軍勢と戦うが』、『敗れ、屋敷に火を放って自害した』。『若狭局は』、山門を入った参道から左手に奥にある蛇苦止(じゃくし)の池に『身を投げて自害し、一幡も戦火の中で死んだ。能員の末子であった能本(よしもと)『は生き残り、後に京都へ行き、順徳天皇に仕え、承久の乱で順徳天皇が配流になると、佐渡まで供をした。彼の姪にあたる竹御所(源頼家の娘)が』第四『代将軍九条頼経の妻になったことから』、『許されて鎌倉に帰った』が、年(文暦元(一二三四)年、『竹御所は出産時に死去』してしまうが、彼女は持仏像であった『釈迦如来像を祀るため、新釈迦堂の建立を遺言』し、嘉禎元(一二三五)年、ここに『新釈迦堂が建立』され、『竹御所は新釈迦堂のその下に葬られ』ている。寛元元(一二四三)年、『仙覚が新釈迦堂の寺住となる』が、彼はここで寛元四年に「万葉集」の校訂を成し遂げている。建長五(一二五三)年、『能本は日蓮に帰依』し、文応元(一二六〇)年、能本は父以下の一族の『菩提を弔うため、日蓮に屋敷を献上し』、『法華堂を建立』し、『これが、妙本寺の前身』となった。『その後、日蓮の弟子・日朗が妙本寺を継承し』て『以後、日蓮宗の重要な拠点となった。池上本門寺と当山は両山一首制で一人の住職が管理していた。江戸時代には池上本門寺に住職がおり』、『当山は司務職として本行院の住職が管理し』、この『両山一首制は』昭和一六(一九四一)年『まで続いた。江戸初期の弾圧までは』、日蓮宗のファンダメンタリズムで、江戸幕府が禁制とした『不受不施派の末寺を多く抱えて』おり、その数は二十六寺にも及び、『末寺の』六十八%をも『占めていた』。なお、本詩篇には後に『曲がつき、戦前の教科書に採用されて親しまれていた』(以上はウィキの「妙本に拠る)。私の記事には妙本寺について記したものが数多あるが、新編鎌倉志卷之七の「妙本寺〔附比企谷 比企能員舊跡 竹御所〕」及び、「鎌倉攬勝考卷之六」の「妙本寺」がよかろう。また、「比企能員の変」については、北條九代記 將軍賴家卿御病惱 付 比企判官討たる 竝 比企四郎一幡公を抱きて火中に入りて死すをお薦めする。因みに、本寺を愛した以後の近現代の文学者は多く、中でもよく知られるのは、中原中也と小林秀雄の、この寺の名木であった海棠のロケーションから始まる小林の追懐した、しみじみとした哀感に富むエピソードで、それも私の『詩集「在りし日の歌」正規表現復元版)後記 中原中也の注で電子化している。是非、読まれたい。

 さて、所持する染谷孝哉著「鎌倉もうひとつの貌」(一九八〇年蒼海出版刊)によれば、『どこやら高校の寮歌を思わせるような調子の』本篇について、詩人日夏耿之介は「明治浪漫文學史」(一九五一年中央公論社刊)の中で、『「詩人的直情のまつしぐらな直叙の心持ちよさに乗つてその全体としての詩のバランスが部分一の瑕瑾を意とせぬやうにならしむる妙」があるから「人の胸をうつ」のだと、おしみない讃辞を呈している』とし、さらに、本篇『「鎌倉抄本寺懐古」はいつ』妙本寺を『訪れた時の懐古だったのか。国木田独歩には二度その機会があったはずである。一八九五(明治二八)年一一月一一日、ようやくの思いで佐々城信子と結婚式をあげ、一九日になって逗子に間借りの新居を構えた。翌日、鎌倉笹目ケ谷の星野天知の家にいる、信子の従妹・星良子(のちの相馬黒光、新宿・中村屋創業者夫人)を新妻とともにたずねている。このおりのことは、黒光の回想記『黙移』に書かれている。独歩夫婦は翌年三月七日まで逗子暮しをしている。民友社員の独歩も休日には、信子と鎌倉散歩をこころみたのではあるまいか。これがそのひとつ。一九〇二(明治三五)年二月八日、友人の斎藤弔花、原田東風らと坂ノ下に家を借りて、妻子を東京に残したまま男ばかりの共同生活をはじめた。やがて妻と長女と生まれたばかりの長男(虎雄)を呼びよせる。この時がそのふたつである。独歩の妙本寺懐古は、信子とつれだっての散策のおりのことであるようにどうしても私には思われる』と詠唱時期を推定をされている。信子への未練たらたらであった彼にして、私もその推定を、概ね、支持するものである。]

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