失戀兵士 國木田獨步
失 戀 兵 士
一
樂(たの)しき夢(ゆめ)もあだなりき。
いざ左(さ)らば、
ますら武夫(たけを)が思(おも)ひでに、
此身一つを國(くに)の牲(にへ)、
臺灣(たいわん)さして急(いそ)がなん。
二
單衣(ひとえ)の戎衣、身に輕(か)ろく、
戀(こひ)も情(なさけ)もあとに見て、
骨(ほね)を埋(うづ)めん、雲山萬里の土(つち)。
雨(あめ)にむせばん、秋風身に沁(し)むの時(とき)、
願(ねが)ふは國(くに)のほまれのみ。
いざ左(さ)らば、
壯士、一去(きよ)、また歸(かへ)りこず。
臺灣(たいわん)さして急がなん。
三
舷に倚(よ)つて富嶽(ふがく)を望(のぞ)み、
一たび哭辭(こくじ)を告げて鄕國(きやうこく)と別れん。
漫々(まんまん)たる大海(たいかい)、今より汝にまかす。
面(めん)を拂(はら)ふ八重(やへ)の潮路(しほぢ)の朝風(あさかぜ)に、
あだなる夢(ゆめ)を拭(ぬぐ)ひすて、
いざ左らば、
悲歌(ひか)三たびあがり、富嶽(ふがく)二たび見へず。
壯士(さうし)一たび去(さ)つて、
また歸(かへ)り來(きた)らず。
臺灣(たいわん)さして急(いそ)がなん。
[やぶちゃん注:読み(パラルビ)はママ。明治二八(一八九五)年七月三十日附『國民新聞』での発表。署名は「てつぷ」(哲夫の音で彼のペン・ネームの一つ)。日清戦争の結果、「下関条約」によって台湾は清朝から日本に明治二八(一八九五)年四月十七日に割譲された。ウィキの「日本統治時代の台湾」によれば、『この時期、台湾総督府は軍事行動を前面に出した強硬な統治政策を打ち出し、台湾居民の抵抗運動を招いた。それらは武力行使による犠牲者を生み出し』ていたとある。一見、ナショナリズムを高揚するような詩篇でありながら、標題が目に止まる。無論、「失戀」とは故国日本での活躍を閉ざされた者が、日本を女性に見立てたものとも採れるようにも思えるが、しかし「樂(たの)しき夢(ゆめ)もあだなりき」「あだなる夢(ゆめ)を拭(ぬぐ)ひすて」と繰り返されるその吐露は、実は本篇が実際の「失戀」の結果として、自棄的に死を求めて戦さ場へと彷徨せんとする男の訣別としてあることを示しており、そもそもが、詩篇中に出る「哭辭」とは、本来、亡き人の殯宮(もがりのみや)や墓の前でその人の業績や記憶を追懐し、慟哭しつつ詠むところの言辞を指す(哀歌・挽歌。英語の「lament」)ものである。「壯士」(壮士や騎士にとって、失恋は不可逆的な一つの〈死〉であり、死でなくてはならぬものである)の姿は、実は、浪漫主義者國木田獨步の隠蔽された姿であることが垣間見えるのである。]