柳田國男 山島民譚集 原文・訓読・附オリジナル注「河童駒引」(30) 「猿舞由緖」(2)
《原文》
世ノ中太平ト成リテ牛ガ增加シテ馬ガ減少シ、而モ猿屋ノ眷屬ハ次第ニ國々ニ多クナリシ結果トシテ、由緖ヲ重ンジ馬ヲ大切ニスル大名タチガ猿舞師ヲ扶持シテアリシ時代ニスラ、彼等ハ既ニ人ノ厩ノミヲ譽メテハ暮スコト能ハザリシナリ。況ヤ今ハ生活ノ烈シキ新時代ナリ。轉業廢業ヲ敢テスルニ非ザレバ則チ追々ト所謂猿芝居ノ方ニ力ヲ用ヰ、猿ニ女ノ鬘ナドヲ被ラセテ、馬以外ノ者ノ心ヲ樂シマシメネバナラヌハ自然ノ傾向也。但シ世ノ季ニナリテモ昔ト變ラザルコト唯一ツアリ。【猿屋家筋】卽チ猿牽ノ職業ガ終始一定ノ家筋ニ限ラレテアルコト是ナリ。此ハ必ズシモ此職ノ下賤ナルガ爲ニハ非ザルべシ。人間ニ似タリト言フトモ到底猿ハ獸ナリ。之ヲ教育シテ舞ヲ舞ハシムル迄ニハ多クノ口傳ト練熟トヲ必要トス。誰ニテモ卽座ニ猿屋トナルト云フコトハ不可能ナリ。加之厩ノ祈禱ニハ猿ノ舞ト共ニ更ニ六ツカシキ修法アリ。【馬醫】昔ハ猿引ガ馬相及ビ馬醫ノ術ヲ兼ネ行ヒシガ如シ。卽チ近キ頃マデ博勞ノ徒ノ從事セシ職務ナリ。【勝善神】猿舞ト馬醫トノ間ニ分業ガ行ハレテ後モ、尚猿屋等ハ此種ノ故實ニ通ジタリシ上ニ、更ニ厩ノ神トシテ勝善神ト云フ神ヲ祀リ、勝善經ト云フ經ヲ讀ムガ其常ノ任務ナリシナリ〔猿屋惣左衞門傳書〕。勝善又ハ蒼前ト云フ神ハ奧羽地方ノ村里ニ於テ馬ノ保護者トシテ今モ崇祀セラル。【葦毛馬】其由來ハ不明ナレドモ、自分ノ推測ニテハ驄騚(ソウゼン)卽チ葦毛四白ノ馬ナラント思フ。葦毛ハ古來ノ馬書ニモ七驄八白トアリテ、齡八歳ニ達スレバ白馬トナル。馬ノ最モ靈異ナルモノト認メラレ、多クノ地方ニ於ケル馬ノ神ノ正體ナリ。厩師ノ猿牽ハ言ハヾ之ニ仕フル巫祝ニシテ、現今ノ思想ニ於ケル遊藝人ニテハ非ザリシナラン。西京ニテハ因幡堂藥師ノ町ニ住スル山本七郞右衞門、及ビ伏見ニ住スル猿牽ノ如キモ、晴ノ儀式ニハ裝束ヲ着ケテ出頭セリ〔遠碧軒記上〕。併シ片田舍ノ猿牽例ヘバ甲州西山梨郡千塚(ちづか)村ノ守山野太夫ノ如キハ、刀ヲ差シ麻上下ヲ着テ其上ニ袈裟ヲ掛ケタリト云フ〔裏見寒話四〕。其出立チノ此ノ如ク頗ル異樣ノモノナリシヲ見テモ、伊達ヤ物好キニテハ無カリシコトヲ察スルニ足レリ。
《訓読》
世の中、太平と成りて、牛が增加して馬が減少し、而も猿屋の眷屬は次第に國々に多くなりし結果として、由緖を重んじ、馬を大切にする大名たちが、猿舞師を扶持してありし時代にすら、彼等は既に、人の厩のみを譽めては、暮すこと、能はざりしなり。況や今は生活の烈しき新時代なり。轉業・廢業を敢へてするに非ざれば、則ち、追々と、所謂、猿芝居の方に力を用ゐ、猿に女の鬘(かつら)などを被らせて、馬以外の者の心を樂しましめねばならぬは、自然の傾向なり。但し、世の季(すゑ)になりても昔と變らざること、唯だ一つあり。【猿屋家筋】卽ち、猿牽の職業が終始一定の家筋に限られてあること、是れなり。此れは必ずしも此の職の下賤なるが爲には非ざるべし。人間に似たりと言ふとも、到底、猿は獸なり。之れを教育して、舞ひを舞はしむるまでには、多くの口傳と、練熟とを必要とす。誰にても卽座に猿屋となると云ふことは不可能なり。加之(しかのみならず)、厩の祈禱には猿の舞ひと共に更に六(む)つかしき修法あり。【馬醫】昔は猿引が馬相(ばさう)及び馬醫の術を兼ね行ひしがごとし。卽ち、近き頃まで、博勞(ばくらう)の徒の從事せし職務なり。【勝善神】猿舞ひと馬醫との間に分業が行はれて後も、尚、猿屋等(ら)は此の種の故實に通じたりし上に、更に厩の神として「勝善神」と云ふ神を祀り、「勝善經」と云ふ經を讀むが、其の常の任務なりしなり〔猿屋惣左衞門傳書〕。「勝善」又は「蒼前(さうぜん)」と云ふ神は奧羽地方の村里に於いて馬の保護者として今も崇祀(すうし)せらる。【葦毛馬】其の由來は不明なれども、自分の推測にては「驄騚(そうぜん)」、卽ち、「葦毛四白(あしげしはく)」の馬ならんと思ふ。葦毛は古來の馬書にも「七驄八白(しちそうはつぱく)」とありて、齡(よはひ)八歳に達すれば白馬となる。馬の最も靈異なるものと認められ、多くの地方に於ける馬の神の正體なり。厩師(まやし)の猿牽は言はゞ、之れに仕ふる巫祝(ふしゆく)にして、現今の思想に於ける遊藝人にては非ざりしならん。西京にては因幡堂(いなばだう)藥師の町に住する山本七郞右衞門、及び伏見に住する猿牽のごときも、晴(はれ)の儀式には裝束を着けて出頭せり〔「遠碧軒記」上〕。併(しか)し、片田舍の猿牽、例へば、甲州西山梨郡千塚村の守山野太夫のごときは、刀を差し、麻上下(あさかみしも)を着て、其の上に、袈裟を掛けたり、と云ふ〔「裏見寒話」四〕。其の出立(いでた)ちの、此(か)くのごとく頗る異樣のものなりしを見ても、伊達(だて)や物好きにては無かりしことを察するに足れり。
[やぶちゃん注:「猿舞師」「猿芝居」「猿牽」ここいらでウィキの「猿まわし」他を引いておこう。『猿回し(さるまわし)とは、猿使いの口上や太鼓の音に合わせて猿が踊りや寸劇などを見せる大道芸の一種。猿飼、猿曳、猿舞、野猿まわしなどとも呼ばれている』。『発掘された粘土板に書かれた楔形文字から』四千五百『年前のメソポタミア文明に猿回しが職業としてあったことがわかっている』。『猿を使った芸は日本へは奈良時代に中国から伝わったとされている。昔から馬の守護神と考えられてきた猿を使った芸は、武家での厩舎の悪魔払いや厄病除けの祈祷の際に重宝され、初春の門付(予祝芸能)を司るものとして、御所や高家への出入りも許されていた。それが室町時代以降から徐々に宗教性を失い、猿の芸のみが独立して、季節に関係なく大道芸として普及していった』。『インドでは賤民が馬と共に猿を連れて芸を見せるという風習が有った』。『江戸時代には、全国各地の城下町や在方に存在し、「猿曳(猿引、猿牽)」「猿飼」「猿屋」などの呼称で呼ばれる猿まわし師の集団が存在し、地方や都市への巡業も行った。近世期の猿引の一部は賤視身分で、風俗統制や身分差別が敷かれることもあった。当時、猿まわし師は猿飼(さるかい)と呼ばれ、旅籠に泊まることが許されず、地方巡業の際はその土地の長吏や猿飼の家に泊まらなければならなかった』。『新春の厩の禊ぎのために宮中に赴く者は大和』、『もしくは』、『京の者』で、『幕府へは尾張、三河、遠江の者と決まっていた』。『猿まわしの本来の職掌は、牛馬舎とくに厩(うまや)の祈祷にあった。猿は馬や牛の病気を祓い、健康を守る力をもつとする信仰・思想があり、そのために猿まわしは猿を連れあるき、牛馬舎の前で舞わせたのである。大道や広場、各家の軒先で猿に芸をさせ、見物料を取ることは、そこから派生した芸能であった』。『明治以降は、多くの猿まわし師が転業を余儀なくされ、江戸・紀州・周防の』三『系統が残されて活動した。大正時代に東京で廻しているのは主に山口県熊毛郡の者だった』。『昭和初期になると、猿まわしを営むのは、ほぼ山口県光市浅江高州地域のみとなり、この地域の芸人集団が全国に猿まわしの巡業を行なうようになった』。『猿まわし師には「親方」と「子方」があり、子方は猿まわし芸を演じるのみで、調教は親方が行なっていた』。『高州の猿まわしは、明治時代後半から大正時代にかけてもっとも盛んだったが、昭和に入ると徐々に衰え始める。職業としての厳しさ、「大道芸である猿まわしが道路交通法に違反している」ことによる警察の厳しい取締り、テキ屋の圧迫などから、昭和』三十年代(一九五五年~一九六四年)に『猿まわしは』一旦、『絶滅した』。しかし、一九七〇年に『小沢昭一が消えゆく日本の放浪芸の調査中に』、『光市の猿まわしと出合ったことをきっかけに』、昭和五三(一九七八)年、『周防猿まわしの会が猿まわしを復活させ、現在は再び人気芸能となっている』とある。「猿回しが登場する作品」の項。浄瑠璃「近頃河原達引」(世話物。三巻。為川宗輔・奈河七五三助(ながわしめすけ)らの合作。天明二(一七八二) 年春に江戸外記座初演とされる。元禄一六(一七〇三)年に起きた、「おしゅん庄兵衛」(劇中では「おしゅん伝兵衛」)の心中事件に,元文三(一七三八)年に四条河原で起きた公家侍と所司代家来の喧嘩と、親孝行な猿廻しが表彰を受けた話題を絡ませて脚色したもの。「猿廻し与次郎」の家の悲劇を描く「堀河猿廻し」の段は、世話浄瑠璃の代表曲の一つとされ、今日でもしばしば上演される。ここは「ブリタニカ国際大百科事典」に拠った)では、『主人公の遊女の兄として猿回しの与次郎が登場し、盲目の母を助ける孝行者として描かれる。この話は』上記の通り、『実話を元に創作されたもので、ある心中事件があ』ったことに、『京都の東堀川に住んでいた丹後屋佐吉という猿回しが盲目の母親に孝行を尽くしたことで表彰され、それらを題材に作られ』ている。『与次郎というのは京都の非人頭の通称で、享保年間に名高かった「叩きの与次郎(門口で扇を叩きながら祝言や歌を披露して生活する人たちのことで、京都悲田院の与次郎が始めたことからそう呼ばれた)」から名を借りて使われた』とある。次にウィキの「ニホンザル」の「馬と猿、猿曳き」『日本には古来、猿は馬を守る守護者であるとする伝承があった。たとえば「猿は馬の病気を防ぐ」として、大名屋敷などでは厩において猿を舞わせる習慣があった』『が、こうした猿の舞を生業とする猿曳き(後の猿回し)は、柳田國男によれば、元来』、「馬医」『をも生業に兼ねていた』(本文)。『柳田はまた「厩猿(まやざる)」と呼ばれる習俗を紹介している。これは東北地方に見られる風習で、馬(や牛)の健康、安産、厩の火除けなどを願って猿の頭蓋骨や手、あるいは絵札などを厩に飾るもの』で、『柳田によれば』、『これは非常に古い伝統で、元来は実物の猿を厩につないでいたものだった』。『厩に猿を飼う風習は古く』、「梁塵秘抄」や「古今著聞集」にも例があることは先行する注で示した。また、『類似の習俗は中国やタイにもあったという』とある。
「馬相(ばさう)」馬の相(そう)を見て、占うところの、柳田國男の言うところの、馬限定で呪術を行う「巫祝」(ふしゅく)のこと。
「博勞(ばくらう)」(現代仮名遣「ばくろう」)は「伯楽」「馬喰」とも書き、本邦では牛馬の仲買人を指す。「伯楽」は古代中国の馬の鑑定の達人とも、また馬を守護する星の名ともされ、転じて、村々を回って農家から牛馬を買い集め、各地の牛馬市などでこれを売り捌く者をさして呼んだ。また、獣医の普及以前には、牛馬の「血取り」(牛馬の健康観察を行うとともに蹄の手入れ・焼き鏝(ごて)で膝頭の外側を焼くなどの予防医療を行うこと)や疾患治療などを業とした者にも「伯楽」の字が当てられたが、この場合は「はくらく」と呼んだようである。但し、両者ともに馬相鑑定の技術に優れていることが必要で、もともと両者は兼ね行われていたらしく、その分化は極めて曖昧である、と「ブリタニカ国際大百科事典」の「博労」にはあった。柳田の謂いの通りである。我々はどこかで馬による運送を生業とした「馬引(うまひき)」を博労と呼ぶと勘違いしている向きがあるように私には思われる。
「勝善神」「蒼前(さうぜん)」小学館「日本大百科全書」の「蒼前様(そうぜんさま)」によれば、『馬の保護神で』、「勝善」「正善」「宗善」「総善」など、『いろいろに』言われ、また表記さ『れている。牛馬の守護神というのは全国各地にあるが、蒼前というのは東日本』、特に『東北地方に多く信仰されている』もので、『岩手県の各郡では、月日は土地によって異なるが、蒼前神の祭日にはお供えをあげ、馬をきれいに飾って参詣』『する。また馬の子が生まれたときは、御神酒(おみき)をあげ』、『近所の人を招いて祝うという。秋田県仙北郡では、正月中に猿丸太夫(さるまるだゆう)と』名乗る『厩(うまや)祭りの祈祷師』が来て『祈祷をする。蒼前様は、家の中の大黒柱や、居間にあがる敷き板の上方に棚を設けて祀』『ってある』ことが『多い』とある。
「勝善經」このような経典があるとは私には思われないので、恐らくは神仏習合時代、陰陽道の系統から生み出された呪言的なものではないかと推察する。
「驄騚(そうぜん)」「葦毛四白(あしげしはく)」中文サイトの「説文解字注」に、「驄」は『馬靑白襍毛也。白毛與靑毛相閒則爲淺靑。俗所謂葱白色』とあり、「騚」は中文サイトの辞書に『四蹄全白的馬。又叫踏雪馬』とあるから、これは葦毛で四肢が白い馬のことを指すものと思われる。「葦毛」は既注であるが、再掲すると、馬を区別する最大の指標である毛色の名で、栗毛(地色が黒みを帯びた褐色で、鬣(たてがみ)と尾が赤褐色のもの)・青毛(濃い青みを帯びた黒色のもの)・鹿毛(かげ:体は鹿に似た褐色で、鬣・尾・足の下部などが黒いもの)の毛色に、年齢につれて、白い毛が混じってきたものを指す。
「七驄八白(しちそうはつぱく)」前の「四」は四肢であろうが、ここは年齢となっているから、七歳の「葦毛四白」が、今一つ年を取ると「八白」という霊的存在になることを指しているようである。
「厩師(まやし)」当初、「うまやし」と読みを振ったが、先のウィキの引用に従って「まやし」としておいた。「馬屋」は確かに「まや」とも読む。但し、柳田國男がどこでこの読みを出しているかは、今のところ確認出来ない。見出し次第、追記する。
「因幡堂(いなばだう)藥師の町」現在の京都府京都市下京区松原通烏丸東入る上る因幡堂町(ちょう)の真言宗福聚山平等寺(びょうどうじ:本尊薬師如来)周辺のことか(グーグル・マップ・データ)。
「甲州西山梨郡千塚村」現在の山梨県甲府市千塚附近(グーグル・マップ・データ)であろう。
「裏見寒話」江戸中期の甲府勤番士野田市右衛門成方(のだいちざえもんしげかた)が、凡そ三十年に亙って甲斐国で見聞したものを綴った地誌。宝暦二(一七五二)年序。「国文研データセット」の原著画像の、この右頁末に当該部が載る。]