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2019/03/08

柳田國男 山島民譚集 原文・訓読・附オリジナル注「河童駒引」(28) 「馬櫪神ト馬步神」(2)

 

《原文》

 サテ何故ニ猿ヲ厩ニ繋ゲバ馬ノ爲ニ善カリシカ。【猿ハ馬飼】肥後ノ阿蘇ニテハ馬ハ元來猿ノ飼フべキモノナリト云フ。人間ハ猿ニ學ビテ始メテ馬ヲ牽クコトヲ知レリ。其故ニ今モ馬屋ハ申ノ方ニ向ケテ建テ、百姓ハ決シテ猿ヲ殺スコト無シ。野飼ノ駒ニ猿ガ耳ヲ摑ミテ乘レルヲ見タル人少ナカラズトナリ〔鄕土硏究一卷二號〕。他ノ地方ニモ此類ノ口碑存スルヤ否ヤ未ダ之ヲ詳カニセズ。古ク輸入シタル支那書ノ記事ニモ、或ハ猢猻瘟疫ノ氣ヲ去ルト云ヒ〔補註相驥經六所引畜養本草〕、獼猴ノ皮ハ馬ノ疫氣ヲ掌ルト稱シ〔同上證類本草〕、能ク惡ヲ避ケ疥癬ヲ去ルト云ヒ〔同上虎幹經〕、又ハ常ニ獼猴ヲ馬坊ニ繋ゲバ惡ヲ辟ケ百病ヲ消スナドトモアリテ〔同上圖像馬經及爾雅翼〕、其理由トスル所區々ニシテ且ツ曖昧ナレド、結局其效用ハ災ヲ免カルト云フ、消極的ノモノナルコトニ一致セリ。【馬醫】古クハ東晉ノ大將軍趙固ナル者アリ。馬醫中ノ扁鵲トモ言フべキ道士郭撲[やぶちゃん注:ママ。]ノ力ニ由リテ、愛馬ノ危キ命ヲ取リ留メタリ。此馬ハ不思議ノ病ニ罹リテ俄カニ狂ヒ死セシヲ、人ガ三十人長キ桿ヲ持チテ三十里東ノ方ノ森林ニ入リ、其桿ヲ以テ森ノ樹ヲ叩ケバ猿ニ似タル一疋ノ獸現ハレ出ヅ。其獸ヲ連レ來リテ死馬ノ前ニ置ケバ、鼻ヲ馬ノ軀(ムクロ)ニ當テヽ息ヲ吸ヒ、馬ハ忽チニシテ蘇生スト云ヘリ〔獨異志〕。郭撲ノ時代ハ卽チ「パンチヤタントラ」ガ印度ニ於テ編述セラレ、又菩薩本行經ガ支那ニ於テ飜譯セラレタル時代ナリ。而モ佛典ノ厩ノ猿ニハ何ノ爲ニ之ヲ繋グカヲ明セザルニ反シテ、道士教ノ行法トシテハ此ノ如ク記述セラレタリ。【馬ノ神】馬ニ災ヲ與フル神アルコトハ更ニ其以前ヨリノ支那ノ信仰ナリシニ似タリ。馬步ト云フガ卽チ其神ノ名ニシテ、每年冬季ニ厩ノ司ノ之ヲ祭リシコト周禮校人ノ章ニ見ユ。馬步神ノ步ハ酺ニ同ジ。【蝗ノ神】馬ノ病又ハ田ノ蟲ノ發生シタル時ニ祭ルベキ災害ノ神ナリ〔補註相驥經七〕。後世趙宋ノ代ニ至リテハ馬步神ニ對シテ馬櫪神ガ祭ラレ、民間ノ信仰ハ善惡二道ノ分立ヲ示セリ。【サル木】馬櫪神ノ櫪ハ厩ニ於テ馬ヲ繋グ木ノコトニシテ、日本ニテハ之ヲ「サル木」ト云フ。此神ノ像ハ人ノ形ニシテ兩手ニ劍ヲ持チ、兩足ノ下ニ猿ト鶺鴒トヲ踏ミテ立ツト云ヘリ〔塵添壒囊抄三〕。猿ハ則チ災害ヲ除クト云フ神ノ力ヲ表現シタルモノナランガ、鶺鴒ハ全ク其趣旨ヲ解スル能ハズ。或ハ是レ馬ノ神ト水ノ神トノ相互關係ヲ推測セシムべキ材料ニハ非ザルカ。未ダ旁證ヲ知ラズト雖一應之ヲ假定シテ進マント欲ス。馬櫪神ト云フ唐ノ神ハ我邦ニモ正シク之ヲ輸入セリ。【馬力神】例ヘバ野州ノ大蘆川ノ谷、武州秩父ノ山村ナドニ於テ、馬力神ト刻シタル路傍ノ石塔ノ近年ノ建設ニ係ル者ヲ見ル。是レ察スルニ馬ニ牽カシムル荷車ヲ人ノ曳ク人力ニ對シテ馬力ト呼ブニ至リシ新時代ノ一轉訛ニシテ、馬樫神ノ神號ガ文字無キ平民ノ耳ニ馴レタル語ナリシ證トスルニ足ル。【勝善神】陸奧三(サンノヘ)郡三大字川守田村元木平(モトキダイ)ノ宗善ノ祠ハ、明治維新後改メテ馬力神社ト稱ス。寬保三年ニ立テタル春砂國(ハルシヤコク)ノ名馬ノ碑アリ。【名馬長壽】中央ニ馬頭觀世尊ト刻シ、其傍ニ鹿毛二百九歳[やぶちゃん注:ママ。碑文誤読か。後注する。]長五尺九寸五分トアリ。天和二年ニ四代將軍ヨリ贈ラレタル「ハルシヤ」ノ種馬ニテ、死後此地ニ瘞メ今モ正月十六日之ヲ祭ル。塚ノ上ニ南向ノ松アリ。馬ノ靈故國ヲ慕フガ故ニ枝葉皆南ニ靡ケルナリト云ヘリ〔糠部五郡小史〕。

 

《訓読》

[やぶちゃん注:二箇所の「郭撲」(かくはく)の誤字を訂した。]

 さて、何故に猿を厩に繋げば馬の爲に善(よ)かりしか。【猿は馬飼(うまかひ)】肥後の阿蘇にては、「馬は元來、猿の飼ふべきものなり」と云ふ。人間は猿に學びて、始めて馬を牽くことを知れり。其の故に今も馬屋は申(さる)[やぶちゃん注:南西。]の方に向けて建て、百姓は、決して、猿を殺すこと、無し。野飼ひの駒に、猿が耳を摑(つか)みて乘れるを見たる人、少なからず、となり〔『鄕土硏究』一卷二號〕。他の地方にも此の類ひの口碑、存するや否や、未だ之れを詳かにせず。古く輸入したる支那書の記事にも、或いは、猢猻(こそん)[やぶちゃん注:猿の異名。]、瘟疫(をんえき)[やぶちゃん注:高熱を発する流行病。]の氣を去ると云ひ〔「補註相驥經(さういきやう)」六所引「畜養本草」〕、獼猴(びこう)の皮は馬の疫氣を掌(つかさど)ると稱し〔同上「證類本草」〕、能く惡を避け、疥癬(かいせん)を去ると云ひ〔同上「虎幹經」〕、又は、常に獼猴を馬坊に繋げば惡を辟(さ)け、百病を消す、などともありて〔同上「圖像馬經」及び「爾雅翼」〕、其の理由とする所、區々にして[やぶちゃん注:さまざまで。]且つ曖昧なれど、結局、其の效用は災ひを免(まぬ)かると云ふ、消極的のものなることに一致せり。【馬醫】古くは東晉[やぶちゃん注:三一七年~四二〇年。]の大將軍趙固なる者あり。馬醫中の扁鵲(へんじやく)とも言ふべき道士郭璞(かくはく)の力に由りて、愛馬の危(あやふ)き命を取り留めたり。此の馬は不思議の病ひに罹りて、俄かに狂ひ死(じに)せし、人が三十人、長き桿(さを)[やぶちゃん注:竿。]を持ちて、三十里[やぶちゃん注:東晋期の一里は四百四十・一メートルであるから、十七キロ半強。]東の方の森林に入り、其の桿を以つて、森の樹を叩けば、猿に似たる一疋の獸(けもの)、現はれ出づ。其の獸を連れ來りて、死馬の前に置けば、鼻を馬の軀(むくろ)に當てゝ息を吸ひ、馬は忽ちにして蘇生す、と云へり〔「獨異志」〕。郭璞の時代は、卽ち、「パンチヤタントラ」が印度に於いて編述せられ、又、「菩薩本行經」が支那に於いて飜譯せられたる時代なり。而も佛典の厩の猿には何の爲に之れを繋ぐかを明せざるに反して、道士教の行法としては此(か)くごとく記述せられたり。【馬の神】馬に災ひを與ふる神あることは、更に其れ以前よりの支那の信仰なりしに似たり。「馬步(ばほ)」と云ふが、卽ち、其の神の名にして、每年冬季に厩の司(つかさ)の之れを祭りしこと、「周禮(しゆらい)」「校人(こうじん)」の章に見ゆ。馬步神(ばほじん)の「步」は「酺(ほ)」[やぶちゃん注:「災害の神」の意。]に同じ。【蝗(いなご)の神】馬の病ひ、又は、田の蟲の發生したる時に祭るべき災害の神なり〔「補註相驥經」七〕。後世、趙宋[やぶちゃん注:「宋」に同じ。九六〇年~一二七九年。]の代に至りては、馬步神に對して「馬櫪神(ばれきじん)」が祭られ、民間の信仰は善惡二道の分立を示せり。【サル木】馬櫪神の「櫪」は厩に於いて馬を繋ぐ木のことにして、日本にては之れを「サル木」と云ふ。此の神の像は人の形にして、兩手に劍を持ち、兩足の下に猿と鶺鴒(せきれい)とを踏みて立つ、と云へり〔「塵添壒囊抄(ぢんてんあいなうせう)」三〕。猿は、則ち、災害を除くと云ふ神の力を表現したるものならんが、鶺鴒は全く其の趣旨を解する能はず。或いは是れ、「馬の神」と「水の神」との相互關係を推測せしむべき材料には非ざるか。未だ旁證(ばうしよう)を知らずと雖も、一應、之れを假定して進まんと欲す。馬櫪神と云ふ唐(もろこし)の神は我が邦(くに)にも正(まさ)しく之れを輸入せり。【馬力神(ばりきしん)】例へば野州の大蘆川(おほあしがは)の谷、武州秩父の山村などに於いて、「馬力神」と刻したる路傍の石塔の近年の建設に係る者を見る。是れ、察するに、馬に牽かしむる荷車を、人の曳く人力(じんりき)に對して、馬力と呼ぶに至りし新時代の一轉訛にして、馬樫神の神號が文字無き平民の耳に馴れたる語なりし證(あかし)とするに足る。【勝善神(そうぜんしん)】陸奧三(さんのへ)郡三大字川守田(かはもりた)村元木平(もときだい)の宗善(そうぜん)の祠(ほこら)は、明治維新後、改めて馬力神社と稱す。寬保三年[やぶちゃん注:一七四三年。]に立てたる春砂國(はるしやこく)の名馬の碑あり。【名馬長壽】中央に馬頭觀世尊と刻し、其の傍らに、「鹿毛(かげ)二百九歳長(たけ)五尺九寸五分」とあり。天和二年[やぶちゃん注:一六八二年。しかしこの年は第五代将軍徳川綱吉の治世であり、以下と矛盾する。他にも矛盾有り。後注する。]に四代將軍[やぶちゃん注:徳川家綱。おかしい。]より贈られたる「ハルシヤ」の種馬にて、死後、此の地に瘞(うづ)め、今も正月十六日、之れを祭る。塚の上に南向きの松あり。馬の靈、故國を慕ふが故に、枝葉、皆、南に靡(なび)けるなり、と云へり〔「糠部(ぬかのぶ)五郡小史」〕。

[やぶちゃん注:「疥癬(かいせん)」皮膚に穿孔して寄生するコナダニ亜目ヒゼンダニ科Sarcoptes 属ヒゼンダニ変種ヒゼンダニ(ヒト寄生固有種)Sarcoptes scabiei var. hominisによって引き起こされる皮膚疾患。

「趙固」(?~三一九年)は、西晋(二六五年~三一七年)から五胡十六国時代東晋の武将。なお、以下の話の出典を柳田は記していないが、恐らくは「捜神記」巻三の二十二に基づくものと思われる(捜神後記」の巻三の六二にも同内容のやや長いものが載るが、柳田が拠ったのは前者の以下である)。

   *

 趙固所乘馬忽死、甚悲惜之、以問郭璞。璞曰、「可遣數十人持竹竿、東行三十里、有山林陵樹、便攪打之、當有一物出。急宜持歸。」。於是如言、果得一物。似猿。持歸、入門、見死馬、跳樑走往死馬頭、噓吸其鼻。頃之、馬卽能起。奮迅嘶鳴、飲食如常。亦不復見向物。固「奇之・」、厚加資給。

   *

勝手流で訓読する。

   *

 趙固、乘る所の馬、忽ち、死せば、甚だ悲しみ、之れを惜しみ、以つて郭璞に問ふ。璞、曰はく、「數十人をして竹竿を持たせ遣すべし。東に行くこと、三十里、山林陵樹[やぶちゃん注:丘のようになった林。]有り、便(すなは)ち、之れを攪(か)き打てば、當に、一物、出べし。急ぎ宜しく持ち歸るべし。」と。是(ここ)に於いて、言(げん)のごとく、果して一物を得。猿に似たり。持ち歸り、門に入れば、死馬を見るや、跳樑して走りて死馬の頭(かうべ)に往き、其の鼻を噓吸(きよきふ)す[やぶちゃん注:息を吸ったり吐いたりする。]。頃-之(しばら)くして、馬、卽ち、能く起(た)つ。奮迅して嘶-鳴(いなな)き、飲食、常のごとし。亦、復(ふたた)び向(さ)きの物を見ず[やぶちゃん注:同時に、(周りを見回しても)その猿に似た生き物は姿を消していた。]。固(もと)より、「之れ、奇なり。」と、厚く資給を加へり[やぶちゃん注:郭璞に沢山の謝礼が贈られた。]。

   *

「扁鵲(へんじやく)」戦国時代(紀元前四〇三年~紀元前二二一年)の伝説的名医。姓は秦、名は越人。渤海郡(現在の河北省)の人。長桑君の弟子で、その医書と秘伝の口伝を受けたとされる。春秋時代の 虢(かく)の太子の急病を救って名を得たという。但し、その伝説は、紀元前八世紀から紀元前七世紀~紀元前四世紀に亙っており、定かではない。耆婆(きば:古代インドの名医)と並んで、「名医」の代名詞とされ、ここもその用法。

「道士郭璞(かくはく)」(二七六年~三二四年)は東晋の文人。字(あざな)は景純。聞喜県(現在の山西省内)の人。博学で詩文の才に恵まれ、当時の有力者に重用され、東晋建国に寄与した王敦(おうとん 二六六年~三二四年)の参軍書記となったが、王敦の謀反に反対して殺された。「晋書」巻七十二の本伝には、特に彼の五行・天文・卜筮(ぼくぜい)に関する優れた能力についての記録が見える。詩人としても一流で、その代表作「遊仙詩」(全十四首)は、道家の立場から神仙を求める思想詩としての深みがあり、高く評価される。学者としては、「爾雅」・「方言」・「穆天子伝(ぼくてんしでん)」・「山海経」などの古典に注を施し、現在、なお益するところが多い(ここは小学館「日本大百科全書」に拠った)。

「猿に似たる一疋の獸(けもの)」ということは、通常の猿類に似てはいるものの、妖猿の類いともとれる。

「パンチヤタントラ」古代インドのサンスクリット語で書かれた説話集。題名は「五巻の物語」の意。原本は散逸して現存せず、作者・成立年ともに不詳。五五〇年頃、一伝本が中世ペルシア語のパフラビー語に翻訳されたという。「朋友の分離」・「朋友の獲得」・「鴉と梟の争闘」・「獲得したものの喪失」・「思慮なき行為」の五巻から成る。カシミールに伝わる「タントラーキヤーイカ」は、その最も古い形を伝えるものとされ、「ヒトーパデーシャ」もベンガルに伝わる一本である。世界各地に広く伝播し、その内容・形式は東西の説話文学に多大の影響を与えている(ここは「ブリタニカ国際大百科事典」に拠った)。

「菩薩本行經」「本縁部」と呼ばれるグループに属し、四世紀頃の訳出かとされる。全二十八話で、ジャカータカ(前世の物語の意。漢訳では「闍陀迦」「闍多伽」等と表記する)が中心で、弟子の前生物語等も含まれている。小乗・大乗に共通な内容が多いが、全体には大乗的色彩が濃い。現世利益に関する内容が多いのも特徴とする(鈴木出版の「仏教説話大系」第十一巻の「比喩と因縁」三に拠った)。

「馬步(ばほ)」「馬步神(ばほじん)」前段の私の注も参照されたい。

「馬櫪神(ばれきじん)」前段の私の注も参照されたい。ネットで拾った「北斎漫画」の馬術の項の最初に出る「馬櫪尊神」図も掲げた

『「櫪」は厩に於いて馬を繋ぐ木のこと』「櫪」の字は馬屋の床(ゆか)に順序良く並べた板、則ち、「厩の根太(ねだ)」が原義。馬関連では、「飼い葉桶・馬草桶」の意もある。

『災害を除くと云ふ神の力を表現したるものならんが、鶺鴒は全く其の趣旨を解する能はず。或いは是れ、「馬の神」と「水の神」との相互關係を推測せしむべき材料には非ざるか』前段の私の注も参照されたい。柳田國男の仮説は、或いは、セキレイ類が多く水辺に住むことからの連想であろう。

「野州の大蘆川(おほあしがは)」現在の栃木県中南部の鹿沼市を流れる。ここ(グーグル・マップ・データ)。

『「馬力神」と刻したる路傍の石塔』四季歩氏のブログ「四季歩のつれづれ」の「馬力神(ばりきしん)/日本の神々の話」によれば、『記紀などの神話に登場する神でなく、民俗信仰によるもの』で、柳田が指示する通り、『栃木県を中心とする北関東地方から南東北地方で江戸末期から昭和初期まで盛んだった風習で、愛馬の冥福を祈り石碑を建てるもの』とあり、『ネットで見つかる記事で推測すると、範囲は宮城県、茨城県、栃木県と思われ』、『埼玉県、東京都では、私は見かけたことが無い』とある。「日本民俗大辞典」(福田アジオ他編。一九九九年川弘文館刊)『によると、「馬の守護神。自然石に馬力神と刻んだ石塔が栃木県や宮城県で見られるが、その大部分は愛馬の供養のために造立されたもので、神名のほか、紀年銘と造立者を記すだけのものが多い。馬力神の石塔は栃木県下都賀郡壬生町南犬飼北坪の』嘉永四(一八五一)年の『例が現在知られる最古のもので、幕末に出現し、明治時代にもっとも多く造立された。」と説明があり』、『たとえば栃木県では』、「下野の野仏 緊急碑塔類調査報告(一九七三年栃木県教育委員会編)『の塔碑類一覧で調べると』、『県内に』実に二百七十四基も『の馬力神があることがわかります』とされ、『「馬頭観音」や「馬頭観世音」の石碑と同様の信仰心理に成り立っているものだろう』と推定されておられる(碑の画像有り)。

「勝善神」「ブリタニカ国際大百科事典」の「蒼前様(そうぜんさま)」によれば、馬の守護神で、「勝善様」「相染様」とも書く。「そうぜん」は、葦毛四白の馬とする説、爪揃神(そうぜんしん:馬の爪=蹄を切ることを「爪揃(ソウゼン)を取る」と呼ぶから、その際の傷の癒えや感染を防ぐ神の謂いであろう)の意とする説がある。主に東日本にその信仰は分布し、厩のそばに竈(かまど)を築き、その上に農具を並べ、この神を祀る長野県東筑摩郡の例、正月に猿丸太夫(厩祭(うまやまつり)の祈祷師)が祈祷し、また馬の売買のときに博労(ばくろう)がこの神に御神酒を供える東北地方の例などがある。さらに東北地方では馬を持つ人たちで作る講があり、この講を「そうぜん講」と呼ぶ、とあった。

「陸奧三(さんのへ)郡三大字川守田(かはもりた)村元木平(もときだい)の宗善(そうぜん)の祠(ほこら)は、明治維新後、改めて馬力神社と稱す」現在の青森県三戸郡三戸町(まち)川守田(かはもりた)下比良(しもひら)にある馬暦神社(グーグル・マップ・データ)である。ビナヤカ氏のブログ「奥羽*温故知新」の「『馬暦(ばれき)神社』と『唐馬(からうま)の碑』」がよい。そこには安政三(一八五六)年の「三戸通神社仏閣書上帳」『に「蒼前堂」とある』とされ、寛保三(一七四三)年、『ペルシャ馬の埋葬地に供養碑を建立して、馬頭観世尊として祀ったものという』とあり、『昭和二十一』(一九四六)『年』に『現社名に改称』とあるから、或いは、明治期からそれまでは、「馬力神社」と名乗っていたのかも知れない。視認出来る『県指定史跡「唐馬の碑」』の説明版画像もあるので、日本語部分を電子化しておく(アラビア数字は漢数字に代え、英文の表記から読みを補っておいた)。

   *

   唐馬(からうま)の碑

享保一〇年(一七二五)八代将軍吉宗にオランダ人の献上したペルシャ(春砂)馬が、南部藩に下付された。藩ではこれを住谷野(すみやの)に放牧し、種馬として馬匹の改良を図ったが、九歳で死んだので関係者はこれを悼み三葉の松を植え墓印とした。人々は馬の神としてあがめ、参詣の人が絶えなかったので、元野馬別当の石井玉葉(いしいぎょくよう)が追善のため寛保三年(一七四三)にこの碑を建てて弔った。この碑は日本産馬史上においても、外国馬に関しての最古の史料として有名である。

   *

「馬匹」は「ばひつ」で、一匹・二匹と数えるところから馬の別称。以上から、「糠部(ぬかのぶ)五郡小史」の記載にはトンデモない錯誤が多重してあることが判る(「糠部五郡小史」に当たることが出来ないので、柳田國男の錯誤ではなく、そちらの錯誤と述べおくこととする)

「鹿毛(かげ)」一般に茶褐色の毛を持つ馬のことを指す。家畜馬・野生馬を問わず、最も一般的に見られる毛色。

「二百九歳」ナンジャア? コリャアッツ? 先のビナヤカ氏のブログ「奥羽*温故知新」の「『馬暦(ばれき)神社』と『唐馬(からうま)の碑』」には、『供養碑は「唐馬の碑」と称され、正面に「寛保三癸亥天(梵字)奉新造馬頭観世尊 二月十七日」』とあり、『左側面に「鹿毛白九歳長四尺九寸五分 異国春砂」とあり、施主は石井玉葉である』とある。「白九歳」が正しいわけで、柳田國男の頭書「名馬長壽」もトンデモアカン違いあったことが判るのである。

「長(たけ)五尺九寸五分」一メートル八十・五センチメートル。「寸(き)」であろうから、脚の先から肩までの高さで、国産馬の標準は四尺が「一寸(き)」であるから、当時の日本人から見て、異様に大きいことが判る。但し、戦国大名伊達氏第十七代当主で仙台藩初代藩主となった伊達政宗(永禄一〇(一五六七)年~寛永一三(一六三六)年)は、ウィキの「ウマによれば、『南部駒の産地を支配した伊達政宗は、ペルシャ種馬を導入して在来種の改良を行ったと伝えられている』とあるから、必ずしもこの駿足の巨馬は初見ではなかったのかも知れない。]

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