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2019/03/31

原民喜 夢の器

 

[やぶちゃん注:昭和一三(一九三八)年十一月号『三田文學』初出。

 底本は一九七八年青土社刊原民喜全集「Ⅰ」を用いたが(底本では「拾遺作品集Ⅰ」のパートに配してある)、以上の書誌データや歴史的仮名遣表記で拗音・促音表記がないという事実及び原民喜の幾つかの自筆原稿を独自に電子化してきた私の経験に照らして(彼は戦後の作品でも原稿では歴史的仮名遣と正字体を概ね用いている)、漢字を概ね恣意的に正字化することが、原民喜自身の原稿原型に総体としてより近づくと考え、今までの私のカテゴリ「原民喜」のポリシー通り、そのように恣意的に処理した。

 幾つかの気になる語に先に注を附す。

 第一段落。

「米搗螇蚸」は「こめつきばつた(こめつきばった)」と読む。コメツキバッタは、①捕まえて後脚を揃えて持つと、体を上下に動かすのが、米を搗く姿を思わせることから、お馴染みのショウリョウバッタ(昆虫綱直翅(バッタ)目雑弁(バッタ)亜目バッタ下目バッタ上科バッタ科ショウリョウバッタ亜科Acridini 族ショウリョウバッタ属ショウリョウバッタ Acrida cinerea)の別名であるが、一方で、②やはりお馴染みの、仰向けにすると、頭部と胸部の関節を急速に動かしてパチンと振り上げて跳ね、元に戻る能力を有する小型甲虫コメツキムシ類(鞘翅(コウチュウ)目多食(カブトムシ)亜目コメツキムシ上科コメツキムシ科 Elateridae。この動作が米を搗くそれに似ていることに由来するが、種群の総称通称であってコメツキムシという種はいない)に属する多数のコメツキムシ類の別名でもある。ここでは孰れとも判然としないが、私はコメツキムシ類をコメツキバッタと呼んだことは経験上無く、一読した際は前者のショウリョウバッタととった。複数の個人記事を確認すると、広島地方では後者コメツキムシは、恐らくその音から「ペキン」と呼ばれることが多いこと、やや西の福岡ではショウリョウバッタを「コメツキバッタ」と呼ぶとする記載を確認出来たので、私はやはりショウリョウバッタでとることとする。

・その直後に出る「孩子」は中国語で「子供」の意で、サイト「ふりがな文庫」の「孩子」では「あかご」「わらし」「おさなご」「がいし」の複数の著名作家の用例を掲げるが、文脈上、後の二つはそぐわず、「あかご」もおかしい感じがする。「わらし」は主に東北地方の方言であり(同用例の作者佐左木俊郎は宮城出身)、これもピンとこない。私はシークエンスからも「こども」と読んでおく

・やはりその直後に出る「膃肭臍」は「おつとせい(おっとせい)」で、哺乳綱食肉(ネコ)目イヌ亜目鰭脚下目アシカ科オットセイ亜科 Arctocephalinae のオットセイ類を指す。因みに、本邦で現認し得る(日本海及び太平洋側は銚子沖辺りから以北)野生のそれは、キタオットセイ属キタオットセイ Callorhinus ursinus のみである。

・「ボイル」voile。強撚糸(きようねんし)で粗く織った薄地の布。夏服やシャツに使用する。

 最終段落。

・「セル」「セル地」のこと(但し、「地」は当て字)。「セル」はオランダ語「serge」の略で、布地の「セルジ」のこと(「セル地」という発音の偶然から「セル」と短縮された)。梳毛糸(そもうし:ウールをくしけずって長い繊維にし、それを綺麗に平行にそろえた糸)を使った、和服用の薄手の毛織物。サージ。

 因みに、本篇は現在、ネット上では公開されていないものと思われる。【2019年3月31日公開 藪野直史】]

 

 夢の器

 

 露子は廊下の曲角で靑木先生と出違つた。先生は「ホウ」と輕い息をして露子の前に立留まつた。すると廊下に添つた左右の教室のドアが遠くまで花瓣のやうに開いて、そこからひとりづつ女學生の顏が覗いた。みんな露子を珍しさうに眺めてゐるらしかつた。もう私はとつくに結婚して居るのに、と思ふと露子は何だか無性に腹立たしく、恥しかつた。それで耳の附根まで眞赫になりながら先生の前にもぢもぢしてゐた。「あのひとよ」と誰かが囁いた。その聲は近所のおかみさんの聲だつた。急に露子は嚇として、「あなたがいけないからです」と靑木先生の兩肩を押へつけると、ぐらんぐらん左右に搖すぶつた。先生はべらべらの紙人形のやうに搖さぶられて居た。そのうちに露子は先生を苦しめてゐるのに喫驚して[やぶちゃん注:「びつくりして」。]手を緩めた。靑木先生の眼球はほんとうに辛らさうに黑く顫へて居た。恰度、小さな弟が死ぬる時の眼つきだつた。それに紙人形になつてゐる顏から眼ばかり圓々と生きてゐるのだから。露子は半信半疑で、これは夢をみてゐるらしいとおもつた。しかし動悸が高まつてゆくと、どこかで鐘の音が聞えて來て、やがて廊下は女學生の顏で一杯になつてしまつた。もう露子もそのなかの一人になりきつて居た。露子の友達がキヤツキヤツと叫んで我勝ちに走つて行くのは、誰かが運動場の處に氣違が來てると云つたからだ。その氣違なら露子も同窓會の時一度見たのだつたが、皆が走つて行くのに誘はれて露子も走り續けた。氣違はもう一同を待兼ねて居たとみえて、皆の姿が集まると、ニコニコ笑つてお叩儀をした。これが一級上の優等生の林さんの變り果てた姿かと思ふと、露子は淚が出さうになるのだつた。ところが林さんの方は如何にも得意で嬉し相に、皆の方へ秋波を送りながら、「學校、面白いわね」と片言を喋つた。忽ち、皆はキヤツ! と大袈裟な笑ひに捲込まれ、どの生徒も、どの生徒も米搗螇蚸のやうに腰を折つては笑ひ狂つた。すると林さんはもの靜かに笑ひながら、もう次に云ふ言葉を想ひ着いてゐるらしい。一同の笑ひが靜まつたのを見計らつて、「皆さんは、孩子産みますか」と眞顏で訊ねた。そして懷から小さな枕を取出して、大切さうに抱へてみせるので、もう皆は笑はなくなつた。「あのひとも結婚してから苦勞が重なつて、到頭あんなになつたのです」と、露子の側に立つてゐる光子が話しかけた。何時の間にか女學生達は消えて、光子と二人きりで眺めてゐるのだつた。……氣違の女は運動場の砂の上に膃肭臍の恰好で蹲つてしまつた。そして、もう動かうとしないので、それは海岸の巖のやうに想はれ出した。いくらか靑味をおびた硝子が嵌められてゐるのは額緣の景色かもしれなかつた。ふと露子は自分の今居る病室の壁に掛けられてゐる額を眺めてゐるのに氣附いた。それは新綠の丘の上に茫と圓味をおびた紫色の山が姿を顏はしてゐる繪だつた。が、今、山の後にあたる靑空が時々、晴くなつて慄へるので、露子はまだ氣が遠くなるやうだつた。たしかに、山の裏側から白い靄のやうなものが匐ひ出して來た。視ると、それは彼女がむかし愛玩してゐた西洋人形とそつくりの、ボイルの服着てゐて、顏は櫻んぼうのやうに小さかつたが、限界がきちんと見え、何ともいへない優しい素振りで、今ふわりと額緣の中から二三寸拔け出して來た。露子は何だか相手が不吉な使ひのやうに思はれて、ぢつとりと汗ばみながら怕く悲しくなつた。しかし相手は恍惚とした小さな貌で露子に微笑を投げかけてゐるのだ。そして、まるで鞦韆[やぶちゃん注:「ぶらんこ」。]の綱が伸びて來るやうに無造作に露子の顏へ對つて走つて來た。

 はつと愕いた時には、もう相手は消えてゐたが、眼の前には附添の看護婦の白衣の袖が近づいて居た。看護婦の香川さんは何時ものやうに默つて檢溫器を露子の脇の下に差入れたが、ふと彼女の額を掌で輕く撫でながら、「大分汗をおかきですね」と呟いた。「ああ」と富子は少し靑ざめた聲で應へた。「さつき私は何か唸つてゐなかつた」「いいえ、靜かにおやすみで御座いました、何か怕い夢でも御覽でしたの」「ああ」と露子は子供のやうな聲で頷いた。「あのね、あそこの額緣から小さな魔法使がすーつと出て來たの」と、露子は看護婦の顏を視凝めた。看護婦は急に何かはつと驚いた容子であつたが、「その魔法使の顏はこんな顏ですか」と露子を覗き込むと、看護婦はさつきの魔法使になつてしまつた。あああ、と露子は悶絕した。すると、すぐ近くで樂隊の音がして、魔法使の鞦韆は嵐のなかの舟のやうに左右に搖られてキリキリ舞つた。その苦痛が露子にも直接響いて來るので、あああと彼女は唸りつづけた。私はまだ夢をみて魘れて[やぶちゃん注:「うなされて」。]ゐるのにちがひない……香川さんの意地わる……。露子はきれぎれにそんなことを思ひつきながら、苦しみが鎭まるのを祈つた。……やがて、不思議な鞦韆は後を絕つて、遠くの方から頻りに彼女の名を呼ぶものがあつた。今度こそほんとに目が覺めたやうな氣持だつた。しかし、眼の前がまだ雨降のやうに薄暗く、體もぐつたり疲れてゐた。そこへ光子が大變怒つた顏でふらりと現れて來た。「何處へ行つてゐたのです、人が折角話しかけてゐると、すーつと消えてしまつて」と光子は云つた。露子も喫驚して、さいぜんからの續きを憶ひ出さうとしたが、あたりの樣子からしてもう變つて居た。光子は苦情云つてしまふと[やぶちゃん注:ママ。「苦情を」の「を」の脱字であろう。]、すぐに氣が輕くなつて、今度は露子の機嫌をとらうとするのだつた。「あれ、あんな綺麗な露が」と、光子は廊下の窓から半身を乘出して、外の方を指差した。露子が光子の肩の脇から覗き込むと、そこは講堂の入口の庭で、若竹の纖細い[やぶちゃん注:「かぼそい」。底本は「纖」は「繊」で、経験上から言うと、民喜はその「繊」の字体を使用しているかも知れない。]枝に小糠雨が降灑いでゐて、枝に宿る露の玉は螢に似た光を放つてゐた。「露つてあんなに美しいものかしら、まるで生れて始めて見るやうな氣が致しますわ」と光子は柔かな聲で話しかけた。露子は不思議に惱ましく、何か胸の邊が茫として、頭も柔かくなりすぎた。すると、ふわふわの[やぶちゃん注:ママ。]靄のなかに膃肭臍の姿が閃いた。露子ははつとして林さんのことを憶ひ出した……。

 ところが、其處へ級長の林さんが先頭になつて、一級上のクラスが整列して進んで來たので、露子は茫然としてしまつた。級長の林さんはきつと薄い唇を結んで、脇目も振らず講堂の方へ步いて行き、それに續く上級生達が露子の脇を通り過ぎると、少し冷たい風が過ぎて行くやうであつた。列が杜切れたかと思ふと、暫くして、今度は露子のクラスの生徒がやつて來て、くすくす笑ふ聲が洩れた。見ると列のなかにほ、ちやんと光子の顏まである。そのうちに何時の間にか露子も列のなかに加はつてゐて、後から光子に肩を叩かれた。もう列は講堂の入口へ來てゐた。遠くの白い壁に掛けてある額が、それは露子の死んだ父の肖像だつた。ピアノの上には露子が飼つてゐた白猫が蹲つてゐた。室内は生徒の顏で一杯になり、何かそはそはと愉快さうな空氣が漾つた。氣がつくと、先生達の椅子の列のなかに、露子の夫が澄し込んで腰掛けてゐた。中央の壇上の大きな臂掛椅子の上には露子の叔父の今中さんが毛皮の外套を着て腰掛けてゐた。今中さんは行儀惡く長靴の膝を組合はせてゐて、それに外套の上に大きなダリアに似た勳章を吊下げてゐたが、露子は叔父が勳章なんか持つてはゐない筈だし、また何かいたづらをするのではないかと冷々した。しかし叔父さんは如何にも欣しさうに皆の方へ時々、懷しげな笑ひを投げかけた。すると、生徒達はもう待ちきれなくなつたやうにパチパチと盛んに拍手を送つた。到頭、叔父は椅子から巨體を浮上がらせて、テーブルの處へやつて來た。拍手はいま割れるばかりになつた。叔父は悠々と水差からコップに水を汲んで飮み、ポケツトからハンカチを出さうとしたがなかなか出て來ず、何か黑い塊りをテーブルの上に置いた。「ピストルよ、ピストル」と生徒達の囁きがあちこちで聞えた。やつと叔父はハンカチを取出して、それで口髭を一拭きすると、ちらつと惡戲氣[やぶちゃん注:「いたづらけ(いたずらっけ)」。]の笑みを浮べた。「さて、皆さん、私は本校から派遣されて、遠く、かのアフリカへ行つて來たものであります」皆はそれだけ聽くと、くすくす笑ひ出した。露子は叔父がいよいよ出鱈目を喋り出すので恥しくなつた。「アフリカと申しますと、ライオンや、虎や、獅子や、象、水牛、河馬……」と、叔父は愈[やぶちゃん注:「いよいよ」。]圖に乘つて、「ところが、なかんづく、特に、面白い動物中の動物、白熊を生捕にして持つて歸りましたから、只今卽刻御覽に入れます」……その時、ピアノ上の白猫が立上つて、叔父のテーブルの前に來た。白猫はゴロゴ咽喉を鳴らしながら頻りに叔父に對つて笑ひかけてゐる。それは何だか亡くなつた叔母の顏に似て來て、露子は奇妙にもの哀しくなつた。叔父は叔父で、白猫の動作を默つて視守つた儘、もう剽輕な表情を引込めてしまつた。次第に叔父の額には思慮の皺が寄り、瞳はしょぼしょぼと瞬いた。猫は懷しさうに叔父の胸許に身をすり寄せ、「あなた樣」と、はつきり人間の言葉を放つた。叔父はすつかり感動したらしく、「ううん」と重苦しい聲を洩らした。「お前でも人間の言葉がわかるのか」「ええ、私も立派に人間と會話が出來ます」「儂は今迄それを知らなかつた、ああ、さうだ、これも神樣の御意といふものだ」さう云つて叔父は兩手を空に擧げて祈るやうな恰好をした。講堂は今、しーんとしてしまつて、誰ももう居なかつた。……露子はすつかり叔父の動作に惹きつけられて、靜かに壇上の叔父を視凝めた。すると今迄叔父だと思つてゐたのは、先日ここの病室に訪れて呉れた牧師の今中さんだつた。牧師の方でも、露子の熱心な瞳に氣づいた。「あなたはその儘にしてゐらつしやい、起上らなくとも寢たままでもお祈りは出來ます」と、牧師は露子を靜かに瞰下し[やぶちゃん注:「みおろし」。「かんかしながら」でもよいが、硬過ぎる。]ながら語つた。「あああ、私は一體どうなるのでせう」と、露子は自分が依然としてベツトに橫はつてゐるのを知つて、悲しくなつた。「靜かな氣持でゐらつしやい、懷疑や焦躁は惡魔の侶[やぶちゃん注:「とも」。]です」牧師はゆつくりと太い眉に力を籠めて應へた。「あなたがゐらして下さる間は私も救はれたやうな氣持になれます。ですけれどお歸りになつたすぐ後で、もう私は駄目になつてしまふのです、駄目ですわ、駄目ですわ、こんなに私は弱つてしまつてゐて、淋しいのです」と露子は聲をあげて泣き出してしまつた。相手は無言のまま凝と彼女の歔欷[やぶちゃん注:「きよき(きょき)」。すすり泣き。むせび泣き。]を聞いて居て呉れた。露子は段々氣持が宥められて[やぶちゃん注:「なだめられて」。]、今はただ甘えて泣いてゐるやうに思へた。相手はまだ立去らうとしないで露子を瞰下してゐた。もう露子は泣いてはゐなかつた、むしろ何かを期待するやうな心地だつた。すると、相手は傍にゐる看護婦に輕く合圖した。檢溫器が露子から取上げられ、醫者の掌に渡された。醫者は體溫表をちよつと眺めてゐたが、やがて、露子を勞はるやうな口調で云つた。「だんだん快方へ向つてゐます、もう一週間もすれば退院出來ませう」露子は急に淚が出るほど嬉しくなつた。何も彼もが胸に痞へて[やぶちゃん注:「つかへて」。]、それで容易に言葉は出なかつた。すると看護婦が、「もう一週間すれば櫻が咲いて恰度お花見頃ですわね」と云つた。露子は目の前が眩しく、櫻の模樣がちらついた。それでは退院する時の晴着を母に云つて取寄せて貰はうかしら……と思ふと、變なことに、その着物なら既に以前からこの病室へ取寄せてあり、今も壁に掛けられてゐるのだつた。

 露子はがつかりして氣持が崩れ、息の根も塞がりさうになつてしまつた。今、病室には誰も居なくて、廊下の方も森としてゐた。夜なのか晝なのか時刻も不明で、生暖かい空氣が頻りに藻搔いてゐた。時々、キヤツ! と叫び聲がすると、後はまたしーんとしてしまふ。突然、寢てゐる寢臺が鐵の腕を伸して、後から彼女に飛掛つて來た。そして寢臺は鐵の腕を縮め、ぐんぐん彼女を締めつけて行つた。もう救ひを求めようにも、聲は出なかつた。いいえ、これはやつぱし夢にちがひない、それなら何も怕がらなくてもいいはずだ……露子はぐつたりと疲れた頭で考へてゐた。こんな氣持の惡い夢でなく、もつと面白い綺麗な夢を、あのさつきの講堂で叔父さんがお話して呉れるやうな夢でもいいし、もう一度學校へ後戾りしてみたい、……學校の講堂の、さつきは雨が降つて、笹の葉がまるで螢みたいだつた……。何時の間にか露子の背中に嚙みついてゐた寢臺は力を失つて、それと氣づいた時には、彼女の體は石塊のやうにぐらぐらした闇の底へ墜ちて行くのだつた。

 やがて、房子の體は實家の二階の瓦の上に墜ちてしまつた。非常に睡むたかつたが、彼女は瓦を踏んで窓から六疊の部屋の方へ這入つて行つた。そして疊の上に寢轉ぶと、すぐ睡れさうになつた。今度の夢はここから始まるらしく、何だか自分でそれを知つてゐるのが氣持惡く、どうにもならないことのやうであつた。ぢつと寢轉んでゐると、額の方に窓の靑空が眩しく感じられ、すぐ近所の鑄掛屋でブリキを叩く音がだるさうに響いて來た。時折、表の通りを地響をたてて自動車が通つた。隣の庭の赤松の枝で雀が頻りに囀り出したのは夕方に近づいたしるしらしかつた。そして露子はいくらか饑じく[やぶちゃん注:「ひもじく」。]なつて來た。寢轉んでゐるすぐ枕頭の方には勉強机があつて、その机の上にスケツチブツクが放つてあつた。そのスケツチブツクの白い頁がすぐ露子の瞼の上に漾つて來た。露子は寢轉んだまま、一生懸命その白い頁の上に日記を書き出した。大變みごとな文章がすらすらと綴られて行き、自づと彼女の睫[やぶちゃん注:「まつげ」。]には淚が溢れて來た。もう頁はすつかり塞がつて行つた。が、ふと彼女はこの儘その日記を夢の中で失ふのが惜しく思はれて來た。これは早く目を覺して、枕頭の日記帳へ書きとめておきたかつた。……暫く藻搔いた揚句、彼女はベットの枕頭へ手を伸して、漸く日記帳を取出した。それは入院以來つけて來た日記だつたが、もう久しく忘れられた儘になつてゐるのだつた。彼女は寢たままで、胸の上の日記帳を展げて、ぼんやり眺めた。氣がつくと、何時の間にか誰かが亂暴な文字で一杯にいたづら書をしてゐるのだ。妙に腹立たしく、頰まで火照つて來たが、亂暴な文字の意味は一向に讀めなかつた。それで氣持は惑つて來たが、ふと兩手で支へてゐる日記帳に重みがないのがをかしく思へた。すると、今迄日記帳だと思つてゐたのは、小さな玩具の草履だった。それに露子の兩手はちやんと蒲團の下に在つて、草履は勝手に彼女の顏の上に浮いてゐるのだつた。もしかすると、天井の電燈が熱の所爲で草履に見えるのかもしれない。だが草履の表にははつきりと苺の模樣が着いてゐて、緖は水色だつた。ぼんやりとも靄のやうなものが草履の後に見え出して、速かに草履は誰かの指で動かされた。「氣がついたかね」と夫の聲がした。何時の間にか夫は彼女のベツトの側の椅子に腰掛けてゐた。夫は玩具の草履をポケツトに收めると、タバコを取出して火を點けた。「あなたは何時上陸なさつたのです」と露子は訝しげに眼を細めた。夫はそれには應へないで、ぼんやりと煙草を銜へたまま、何かうつろな面持だつた。すぐ目の前に居ながら、まるで氣持は無限に離れてゐる、ただ拔け殼だけが今もここにある……その日頃からの想ひが仄かに露子に甦つて來た。すると夫も露子の氣持を覺つたのか、更に他所他所しい表情になつて行く。このままではもう間もなく消えて行くに違ひないと露子は思つた。非常に濟まない氣持がこの時になつて彼女に湧いた。しかし、既に形を失ひかけた人物は今、最後の光芒を放ちながら、ヂリヂリと蠟燭の燃え盡きる音をたてた。急に彼女の胸は高く低く波打ち出した。寢臺のまはりには暗黑の海の波が荒れ狂つた。すると、彼女の寢臺はビユーと唸りを發するとともに、高く高く天井の方へ舞上つた。それから暫くはぐるぐると病室のなかを飛移つてゐたが、やがて再び元の位置に据つた[やぶちゃん注:「すはつた(すわった)」。]。その時には夫の姿はもう完全に失はれてゐた。

 彼女は荒れ狂ふ寢臺にすつかり脅え、眼は虛しく天井を瞻あげた[やぶちゃん注:「みあげた」。]。すると今、病室はさながら水槽の底のやうに想へて、露子は刻々に溺れゆく自分を怪しんだ。物凄い速力で水は流れ、そのなかにもう體は木の葉のやうに押流された。次第に水の流れは緩くなつた。そして露子はどうやら、橋の下を今潛つてゐるやうに思へた。橋杙[やぶちゃん注:「はしぐひ(はしぐい)」。「杙」は「杭」に同じい。]の影が靑い水の層から伸び上つてゐる方は、眩しい靑空で、石崖のまはりの水は冷んやりとして渦捲いてゐた。しかし、仄かに靑い水を透して眺められる橋の姿は、何だか病室の寢臺の脚に似てゐた。さう思ふと、川底までが病室の黑光りする床に異らなかつた。だが、頭の上の方をゴロゴロと荷車が通つたり、下駄の行替ふ[やぶちゃん注:「ゆきかふ(ゆきかう)」。行き交う。]音がするのは、橋の下にゐるやうだつた。……暫くすると、露子の眼の前に小さな鮒が泳いで來た。鮒は露子の鼻先に來てとまり、それから、ひらりと身をかはして、壁に掛けてある着物の裾へ泳いで行つた。見ると、露子の晴着は小さな水の泡が一杯ついてゐて、海草のやうにゆるやかに搖らいでゐた。鮒は袂の下を潛り拔けると、まつすぐ露子の方へ泳いで來た。その眼球がたしか、友達の光子だつた。「氣がついて」と相手の鮒は話しかけた。どうやら露子も鮒になつてゐるらしいのに氣づいた。すると、全身から白い膜のやうなものが、ふわりと脫ち[やぶちゃん注:「ぬけおち」。或いは「おち」。]、急に露子は身輕さを覺えた。光子はずんずん面白さうに泳ぎ續けた。露子は自分も泳げるものかしらとまだ躊躇してゐたが、光子の後を追はうと決心すると、案外樂に泳げ出した。すると急に嬉しくなつたので、態と斜に泳いでみたり、くるりと廻轉してみたり、嬉しさはいよいよ募り、もう凝として居られなくなつた。「早く早く外へ出てしまひませう」と、光子に囁き二人は囘轉窓から廊下の方へ飛出した。廊下の向から恰度回診の醫者が看護婦や助手を連れてぞろぞろやつて來た。見つかりはすまいかしらと露子は一寸心配したが、光子は一向平氣でお醫者の鼻先を掠めて行つた。それで露子も皆の頭の上を泳ぎ拔け、早速光子の後を追つた。廊下は既に盡きて、バルコニーに來てゐた。そこからは往來の一部が見渡せるのだつた。露子はもう夢中で明るい往來の方へ跳出した[やぶちゃん注:「をどりだした」。]。後から光子の何か云ふ聲が聞えた。が、露子はもうそれに耳を貸してゐる暇はなかつた。早く、早く、逃げ出して、と風が耳朶[やぶちゃん注:「みみたぶ」(音なら「じだ」)であるが、ここは二字で「みみ」と当て訓していると読む。]で唸る。嬉しくて嬉しくて、何しろもう急がなければならなかつた。後から光子が追駈けて來るらしいことまで頻りに面白く、そして體はいよいよ速かに泳げて行けるのだつた。

 風が後から彼女を押すやうに吹いて來ると、彼女の鰭はふわふわ[やぶちゃん注:ママ。]搖れて、身は輕く街の上を飛んだ。あんまり上に浮いてはまだ心細いので、お腹の浮袋を調節すると、今度はずんずん下に沈めた。それで、もうすつかり自信がつき、また空高く舞上つた。街はそこから一目に見渡せた。煙突や高いビルがすぐ下に、そしてアスフアルトの路は遠くに、人は豆粒のやうに緩く步いて居た。もう連れの光子は何處にも見えなかつた。彼女はやつぱし浮々して、頻りに嬉しく、向に自分の實家の庭の綠が見えて來ると、一直線に突進して行つた。だが門の少し手前まで來た時、急に呼吸切[やぶちゃん注:「いきぎれ」。]がして、動悸が烈しくなつた。まだ病氣なのに無理しなきやよかつたと思ふうちに、目が眩んで、體が石のやうになると、溝の中へ墮ちてしまつた。……やがて溝の上に人の顏が覗いた。次第に胸は烈しく痛み、露子は今、醫者に注射されてゐるやうな氣持だつた。しづかに眼をひらいて見ると、しかし、溝の上に居るのは弟だつた。露子は喘ぎながら弟の名を呼んでみたが、弟は亂暴に彼女を握締めると、家の内へ駈込んだ。それから臺所の處で彼女をバケツの中に放り込むと、家の中から皆が出て來て、てんでにバケツを覗き込んだ。皆がガヤガヤ騷ぎながらバケツを取圍むと、バケツは下の三和土[やぶちゃん注:「たたき」。]に響いて搖れた。搖れてゐる水を隔てて、母の顏や弟達の姿や亡くなつた父の顏が朧に見えた。小さな弟はバケツの柄を把へて、ガチヤガチヤ鳴らして居たが、ふと掌を突込んで水の中の露子を摑へようとし出した。露子は一生懸命逃げ廻つたが、紅葉ほどの掌はなかなか小癪に追駈けて來た。「こらツ、こらツ」と、弟の指は刃物のやうであつた。露子はぐつたり疲れて、情なくおろおろして身を縮めてゐた。すると、こんな風な身の上は何かの物語で以前讀んだことがあるのをふと憶ひ出した。それから何でもずつと昔やはりこれに似たことがあつたやうに思へた。さう思ひながら縮み上つた眼で、上の方を覗ふと、バケツの緣の處には、確かにもう一人別の露子が覗き込んでゐるのだつた。そのもう一人の露子は娘のやうなセルの着物着てゐて、何だか昔撮した寫眞に似てゐた。露子はその女が頻りに氣になり、ひそかに妬ましく感じた。そのうちに弟達が何か喧嘩し出した。下の弟はワーと大聲で泣き喚くと同時にバケツをひつくりかへしてしまつた。あつと思つた時、水はだだーと流れ去り、もう自分は何處へ消えて行つたのかわからなくなつた。……が、暫くして氣がつくと、顚覆したバケツを取圍んで、皆と臺所の處に居るのだつた。露子はそこに居る自分が何だか幻のやうな氣持がして、どうなるのやら心許なかつた。やはり露子は病院のベツトに寢てゐるらしく思へた。が、さう思ふうちにも、臺所の樣子は次第に變り、さつきから騷いでゐた人々の姿も可也異つて來た。何時の間にか中央には大きなテーブルが据ゑてあり、人々はそのまはりを取圍んで立つてゐるのだつた。テーブルの上の大きなガラスの器を長い火箸で搔き廻してゐるのは靑木先生だつた。先生はさつきから頻りに講義をしてゐたらしかつたが、ふと露子の方に目をやると、はたと口を噤んでしまつた。それからもう困つたらしく、片手で首のあたりを撫でて暫く俯向いてゐた。あちこちで忍び笑ひが生じ、靑木先生は愈まごついてしまつた。ところが、先生の後に何時の間にか校長先生がのそつと現れて來た。今度は校長先生が代つて喋り出すらしく思へた。「今度はそれではいよいよ結婚式の實習に移ります」と校長先生は氣取つて挨拶した。すると、皆はパチパチと拍手を送つた。露子は何だか羞しく、胸騷が生じてゐると、カーネーシヨンの花束を持たされた。拍手はまた頻りに湧いて、周圍が一層浮々して來た。すると彼女の前に盛裝の女が現れて、淑やかにお叩儀をした。露子は眼を伏せて自分の襟もとを視ると、白い衣裳を着せられてゐた。生徒達は一勢に讚美歌を合唱し出した。一人俯向いて、露子はテーブルの方を眺めた。テーブルの上の器からは頻りにブクブクと泡が立つてゐた。合唱はいよいよ高潮し、房子はそれを聽いてゐると、次第に昏倒しさうになるのだつた。それで彼女は一心にテーブルの方のガラスの器を眺めた。器から泡立つ液體は今、大方盡きようとしてゐた。しかし、耳許の騷ぎは愈盛んになり、彼女の名を呼ぶ聲や、笑ひ聲や、啜り泣きが入混つて聞かれた。そのうちに天井から、さーつと萬國旗が張られると、再び割れるばかりの拍手が起つた。「神樣、神樣、いいえ、私は……」露子は胸のうちで呟いたかと思ふと、忽ち全身の力が消えて行つた。

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