國木田獨步 俳句(二句)
冠掛けて菊千本の主かな 獨步
眼鏡かけて我に髯なき恨哉 獨步
[やぶちゃん注:以上の二句は、学研の「國木田獨步全集」增訂版(全十卷+別卷)の「第十卷」(昭和五三(一九七八)三月刊)に別刷の投げ込み冊子で挿入されてある全十六ページから成る「学習研究社版 國木田獨步全集第十卷 補遺 追加」(発行者署名は『学習研究社 国木田独歩全集編纂委員会事務局』(新字はママ))の「ⅹⅰ」ページ(全集追加ノンブル『追619』)に『句』として、載る俳句である。同全集本文には俳句パートは存在しない。但し、同全集「第九卷」の解題で日記・書簡中の短歌・俳句が抽出再録されているので、後にそこから俳句を抜き出して電子化することとする。前者「冠掛けて菊千本の主かな」は、明治三五(一九〇二)年九月二十九日発行の雑誌『太平洋』に、後者「眼鏡かけて我に髯なき恨哉」は同年十二月十五日発行の同じ『太平洋』に掲載されたものである。國木田獨步満三十一歳の折りの句である。國木田獨步は前年明治三十四年三月に作品集「武藏野」を発表していたが、同作品集はその当時の文壇では評価されなかった。しかし、その年末に「牛肉と馬鈴薯」(十一月『小天地』)、この年には「鎌倉夫人」(十・十一月『太平洋』)・「酒中日記」(十一月『文藝界』)を書き、翌明治三十六年に「運命論者」(三月『山比古』・「正直者」(十月『新著文藝』)を発表するに及んで、自然主義の先駆者となった(但し、この時に至っても、文壇は未だ紅・露(尾崎紅葉と幸田露伴)全盛期で、國木田獨步はとてものことに文学で生計を立てられるような状態にはなかった)。因みに、この雑誌『太平洋』というのは週刊誌で、盟友田山花袋が編集していた(この明治三十五年に編集主任に就任)。花袋はまさしくこの年の五月に、本邦に於けるゾライズムの代表作ともされる名篇「重右衛門の最後」を新声社の月刊新作叢誌『アカツキ』の第五編として発表し、小説家としてのデビューを飾っていた。]

