和漢三才圖會卷第三十八 獸類 熊(くま) (ツキノワグマ・ヒグマ)
くま
熊【音雄】
★ 【和名久萬】
ヒヨン
[やぶちゃん注:★部分に上図の篆文が入る。]
本綱熊生山谷如大豕而竪目人足黒色性輕捷好攀縁
上高木見人則顛倒自投于地冬蟄入穴春乃出春夏臕
肥時皮厚筋弩毎升木引氣或墮地自快俗呼跌臕冬月
蟄時不食饑則舐其掌故其美在掌謂之熊蹯其行山中
雖數千里必有跧伏之所在石巖枯木謂之熊舘其性惡
穢物及傷殘捕者置此物于穴則合穴自死或爲棘刺所
傷出穴爪之至骨卽斃也性惡鹽食之卽死又云熊居樹
孔中人擊樹呼爲子路則起不呼則不動也
熊膽【苦寒】治時氣熱盛變爲黃疽者暑月久痢心痛治諸
疳驚癇瘈瘲退熱清心平肝明目【惡防己地黃】
膽春近首夏在腹秋在左足冬在右足熊膽多僞以米粒
許㸃水中運轉如飛者眞餘亦轉但緩爾◦又眞者善辟塵
試之以浄水一噐塵幕其上投膽米許則凝塵豁然而開
爲家
新六白雪のふる木のうつほすみかとてみ山の熊も冬篭る也
△按熊在深山中出於松前者最多全體黒而胸上有白
毛如偃月俗稱月輪常以手掩之獵人窺其月輪刺之
則斃若不然則挫刀鎗其强勢不可敵也其生子也甚
容易以自手抓出故人用熊掌置臨産傍亦取安産之
義矣
陳眉公秘笈云熊得人輙搔人喉若腋令笑人仆舌舐
靣血以爲快人屏氣陽乃棄去還視之再三人蘇欲起
逃去追而扼之山民習其狀能脫于死
近頃於津輕山中捕一大熊其掌徑三尺爪一尺許體
毛脫兀希有之大熊也凡熊膽春夏則痩小黒色帶黃
秋冬則肥大而深黒色也取之有數品鐵砲擊取者陷
阬生捕者並膽全追捕者次之穴捕者又次之【投木撅於穴則
能忿攫之取藉尻數木盈穴則終窮迫而出穴仍殺之謂之穴捕以勞倦其膽痩劣也】試法㸃水
運轉徹底爲一線黃黒光色其味苦微辛甘氣腥也猿
膽亦爲線然不能運轉且赤黒色而不光味苦氣惡也
【又偽作者有數品】
熊膽膜有八重穿取其膽肉盛身肉造成者難辯
又有墨與油和煎染紙爲袋別用熊骨黃栢五倍子【三種】
濃煎爲膏盛件袋晒檐閒如鉤柹漸乾而推扁作之
熊皮 造泥障坐褥及鞘袋等賞之正黒色美亞于獵虎
其黃白色者最珍
*
くま
熊【音、「雄」。】
★ 【和名、「久萬」。】
ヒヨン
[やぶちゃん注:★部分に上図の篆文が入る。]
「本綱」、熊、山谷に生ず。大なる豕〔(ぶた)〕のごとくにして、竪目〔(たてめ)〕[やぶちゃん注:意味不明。人のようでなく、丸いことを言っているか。]、人の足〔のごとし〕。黒色。性、輕捷にして[やぶちゃん注:身軽且つ敏捷で。]、好みて攀縁〔(はんえん)し〕[やぶちゃん注:物に縋って攀じ登り。]、高木に上〔(のぼ)〕る。人を見るときは、則ち、顛倒し、自ら地に投ず。冬は蟄(すごも)り、穴に入る。春は乃〔(すなは)ち〕出づ。春夏、〔身の〕臕(あぶら)[やぶちゃん注:「臕」は、肥えて肥っていることの形容で、ここは「脂」に同じ。]肥えたる時、皮、厚く、筋[やぶちゃん注:筋肉。]、弩〔(ど)たり〕[やぶちゃん注:意味不明。大きな弓の絃のごとくだぶついていることを指すか。]。毎〔(つね)〕に木に升〔(のぼ)〕る[やぶちゃん注:「登」に同じ。]ときは、氣を引き[やぶちゃん注:大気を身体全体に吸い込み。]、或いは、地に墮ち、自〔(おのづか)〕ら快〔(こころよ)〕しとす。俗に「跌-臕(くまのあそび)」[やぶちゃん注:「跌」(音「テツ」)は「躓く・足を踏み外す」の意で腑に落ちるものの、何故、先の意しかない「臕」をその後に使つてこの意とするかは不明。]と呼ぶ。冬月、蟄する時は、食(ものくら)はず。饑うるときは、則ち、其の掌(たなごゝろ)を舐(ねぶ)る。故に、其の美〔(うまし)は〕[やぶちゃん注:有意な栄養分は。]掌に在り。之れを「熊蹯(ゆうばん)」[やぶちゃん注:「蹯」は獣の足(ここは四肢ととってよかろう)の裏の意。]と謂ふ。其れ、山中を行くこと、數千里[やぶちゃん注:明代の一里は五百五十九・八メートルであるから、一千里は五百五十九・八キロメートル。]と雖も、必ず、跧伏〔(せんぶく)〕の所[やぶちゃん注:腹這うための場所。]を有〔し〕て、石巖・枯木〔、そこ〕に在り。之れを「熊舘〔ゆうかん)〕」と謂ふ。其の性、穢(けが)れたる物及び傷〔つき〕殘〔(そこな)ふこと〕を惡〔(にく)〕む。捕る者、此(これら)の〔穢れ物及び熊の身體を損傷し得る〕物を穴に置くときは、則ち、穴に〔てこれらのものに〕合〔ひて〕、自〔(おのづか)〕ら死す。或いは、棘刺〔(きよくし)〕の爲に[やぶちゃん注:鋭い棘(とげ)が刺さったために。]、傷〔つけらるれば〕、穴を出で、之れに爪〔を立てて、それ、〕骨に至れば、卽ち斃〔(たふ)〕る。性、鹽を惡〔(い)〕む。之れを食へば、卽ち、死す。又、云ふ、『熊、樹の孔〔(あな)〕の中に居〔(を)〕る〔に〕、人、樹を擊ちて、呼んで「子路。」と爲〔(す)〕れば、則ち、起つ。呼ばざれば、則ち、動かず』〔と〕。
熊膽(くまのゐ)【苦、寒。】時氣の熱、盛んにして、變じて、黃疽〔→黃疸〕と爲〔(な)〕る者、暑月〔(しよげつ)の〕久痢・心痛を治す。諸疳・驚癇・瘈瘲〔(けいしよう)〕を治し、熱を退〔(のぞ)〕き、心を清し、肝を平〔(たいら)かに〕し、目を明〔かにす〕【防已〔(ばうい)〕・地黃〔(ぢわう)〕を惡〔(い)〕む。】。
膽、春は首に近く、夏は腹に在り、秋は左足に在り、冬は右足に在る。熊の膽、僞〔(にせもの)〕多し。米粒許(ほど)を以つて水中に㸃ずるに、運〔(めぐ)り〕轉じて、飛ぶがごとき者、眞なり。餘は亦、轉〔(ころ)〕ぶ〔に〕但だ緩きのみ。又、眞なる者、善く塵を辟〔(さ)〕く。之れを試みるに、浄水一噐を以つて、塵を其の上に幕〔(ばく)〕し[やぶちゃん注:撒き。]、膽、米許(ほど)を投ずるときは、則ち、凝塵[やぶちゃん注:水面を蔽って固まっていた塵が。]、豁然として開く[やぶちゃん注:パッと周囲に散って、澄んだ水面が開く。]。
爲家
「新六」
白雪のふる木のうつぼすみかとて
み山の熊も冬篭る也
△按ずるに、熊、深山の中に在り。松前[やぶちゃん注:松前藩の松前城城下町であった、現在の北海道南部の渡島半島南西部、渡島総合振興局管内の松前町(まつまえちょう)附近(グーグル・マップ・データ)。]に出づる者、最〔も〕多し。全體、黒くして胸の上に白毛有り、偃月〔(えんげつ/はんげつ)〕のごとし。俗に「月の輪」と稱す。常に手を以つて之れを掩〔(おほ)〕ふ。獵人、其の月の輪を窺ひ、之れを刺せば、則ち、斃〔(たふ)〕す。若〔(も)〕し、然らざれば、則ち、刀鎗を挫(くじ)く。其の强勢、敵すべからざるなり。其の子を生(う)むこと、甚だ容-易〔(やす)〕く、自〔らの〕手を以つて抓〔(つま)み〕出だす。故に、人、熊の掌を用ひて、臨産の傍らに置く。亦、安産の義を取る〔ものなり〕[やぶちゃん注:安産を祈る呪物・お守りという意味を持つものである。]。
陳眉公〔が〕「秘笈〔(ひきふ)〕」に云はく、『熊、人を得れば、輙〔(すなは)〕ち、人の喉若し〔く〕は腋を搔きて、笑はせしめて、人、仆(たを[やぶちゃん注:ママ。])れば、舌にて〔人の〕靣〔(おもて)〕の血を舐〔(ねぶ)るを〕以つて快(こゝろよ)しと爲す。人、氣陽を屏(しりぞ)ければ[やぶちゃん注:呼吸が止まるか、ごく微かになってしまうと]、乃〔(すなは)ち〕、〔その人を〕棄(す)て去り〔→れども、又〕、還りて之れを視ること、再三なり。人、蘇(よみがへ)りて起ちて逃げ去らんと欲〔さば〕、追ひて之れを扼〔(つか)〕む。山民、其の狀(ありさま)を習ひて、能く死を脫す』〔と〕[やぶちゃん注:最後の部分は所謂、熊に襲われたら「死んだふり」をして死地を脱するという例の嘘っぱちの噂である。]。
近頃、津輕の山中に於いて、一の大熊を捕へ、其の掌、徑り三尺、爪、一尺許り。體毛、脫け兀(は)げて、希有の大熊なり。凡そ、熊の膽、春夏、則ち、痩せ小さく、黒色〔に〕黃を帶ぶ。秋冬、則ち肥大して深黒色なり。之れを取〔る法に〕數品〔(すひん)〕[やぶちゃん注:数種類。]有り。鐵砲にて擊ち取る者、陷阬(をとしあな)にて生け捕る者、並びに、膽、全し。追ひ捕ふる者、之れに次ぐ。「穴捕〔(あなどり)〕」の者、又、之れに次ぐ【木・撅〔(くひ)〕[やぶちゃん注:杭。]を穴に投〔ずれば〕、則ち、能く忿〔(いか)り〕て之れを攫(〔つ〕か)み取りて尻に藉(し)き、數木、穴に盈(み)ち、則ち、終〔(つひ)〕に窮迫して、穴を出づ。仍つて、之れを殺す。之れを「穴捕」と謂ふ。勞〔れ〕倦〔(う)み〕するを以つて、其の膽、痩せて劣れるなり。】。〔熊の膽の眞贋を〕試みる法、水に㸃じ、轉〔び〕運〔(ゆ)きて〕底に徹〔(とほ)〕り、一線、黃黒〔に〕光〔れる〕色を爲す。其の味、苦くして微〔かに〕辛甘〔(しんかん)〕、氣〔(かざ)〕、腥〔(なまぐ)〕さし。猿の膽も亦、線を爲す。然れども、運轉〔すること〕能はず、且つ、赤黒色にして、光らず、味〔も〕苦く、氣、惡〔しき〕なり【又、偽り作る者、數品、有り。】。
熊〔の〕膽の膜、八重〔(やえ)〕有り[やぶちゃん注:八つの層がある。]。其の膽の肉を穿ち取りて、身の肉を盛りて造〔り〕成〔したる僞(にせ)〕者、辯〔(わきま)〕へ難し。
又、墨と油と〔を〕和(ま)ぜ煎じて、紙に染めて、袋と爲す。別に熊の骨・黃栢〔(わうばく)〕・五倍子〔(ぬるで)〕【三種。】を用ひて、濃く煎じて膏と爲して、件〔(くだん)〕の袋に盛り、檐(のき)の閒に晒〔(さら)〕し、鉤-柹〔(つるしがき)〕のごとく〔し〕、漸々(やうやう)乾きて推〔(お)して〕扁〔(たひら)にし〕、之れを作る。
熊皮 泥-障(あをり[やぶちゃん注:ママ。])・坐褥(しきがは)[やぶちゃん注:敷革。]及び鞘(さや)袋等に造りて、之れを賞す。正黒色〔にして〕美〔しく〕、獵虎(らつこ)に亞(つ)ぐ。其の黃白色なる者、最も珍し。
[やぶちゃん注:本邦に棲息するのは、
食肉目クマ科クマ属ツキノワグマ亜種ニホンツキノワグマ Ursus thibetanus japonicus(本州及び四国。九州では絶滅(最後の九州での捕獲は一九五七年で、二〇一二年に九州の絶滅危惧リストからも抹消されている。二〇一五年に二件の目撃例があったが、アナグマ或いはイノシシの誤認かとされる)
及び北海道に(本文の松前産はそれ)、
クマ属ヒグマ亜種エゾヒグマ Ursus arctos yesoensis
が棲息する。但し、前半は「本草綱目」であるので、中国にはツキノワグマの亜種である、
チベットツキノワグマ Ursus thibetanus thibetanus((雲南省南西部・四川省北西部・青海省南部・チベット自治区南東部)
タイワンツキノワグマ Ursus thibetanus formosanus(台湾)
シセンツキノワグマUrsus thibetanus mupinensis(青海省・甘粛省・陝西省からチベット自治区・広西チワン族自治区・広東省・浙江省)
ウスリーツキノワグマUrsus thibetanus ussuricus(中国北東部)
が棲息し、さらに一部(極東の東北部と西方山岳地帯)にヒグマの亜種が棲むので、それらも挙げておく必要がある。冒頭では本邦産種の代表としてウィキの「ニホンツキノワグマ」を引いておく。体長は百二十~百五十センチメートル。尾長は六~十一センチメートル。体重は♂で六十~百二十キログラム、♀で四十~八十キログラム程度で、『大陸産に比べ』ると、『小型である。最大の記録は』一九六七『年に宮城県で捕獲された』二百二十『キログラムの個体で、近年にも』二〇〇一『年に山形県で体長』百六十五『センチメートル、体重』二百『キログラムの記録が報告されている。肩が隆起せず、背の方が高い。全身の毛衣は黒いが、稀に赤褐色や濃褐色の個体もいる。胸部に三日月形やアルファベットの「V」字状の白い斑紋が入り(無い個体もいる)、旧属名Selenarctos(月のクマの意)や和名の由来になっている』。『本州及び四国の森林に生息し、九州では絶滅したとされる』。『夜行性で、昼間は樹洞や岩の割れ目』や『洞窟などで休むが』、『果実がある時期は昼間に活動することもある』。『夏季には標高』二千『メートル以上の場所でも生活するが、冬季になると標高の低い場所へ移動し』、『冬眠する。食性は植物食傾向の強い雑食で、果実、芽、昆虫、魚、動物の死骸などを食べる』。『以前はヒグマと違い、大型動物を捕食することはほとんどないと考えられていたが、近年では猛禽類(イヌワシ)の雛や大型草食獣(ニホンカモシカやニホンジカ)などを捕獲して食べたりする映像が研究者や観光客により撮影されることから、環境により』、『動物を捕獲して食料とする肉食の傾向も存在すると考えられ』ており、秋田県鹿角(かづの)市熊取平(くまとりたい)一帯では二〇一六年の五~六月にかけてツキノワグマが次々と人を襲い、四人が死亡し、人体の一部が食われている(詳しくはウィキの「十和利山熊襲撃事件」を参照)。人肉の味を知った個体は再び人を餌として襲う可能性が頗る高く、本事件では複数の個体が人肉を食らっており、射殺された一頭(♀)の体内からは人肉が見つかっているが(研究家はこの人食い熊を鹿角のイニシャルをとって「スーパーK」と呼んでいる)、向後も高い警戒が必要である。概ね、二『頭の幼獣を産む。授乳期間は』三『か月半。幼獣は生後』一『週間で開眼し、生後』二~三『年は母親と生活する。生後』三~四『年で性成熟する。寿命は』二十四『年で、飼育下の寿命は約』三十三『年である』とある。
「★」の篆文であるが、大修館書店「廣漢和辭典」の「熊」の解字によれば、「能」+「黑」の省略+「肱」の省略の音声などとするが、同時に『この字形は不明な点が多い』としつつ、『能はくまの象形』で、『黑はくろいの意、肱はひじの意。ひじを自由に動かし、木に登り、えさをとる黒くまの意か』と記す。
「熊、樹の孔の中に居る〔に〕、人、樹を擊ちて、呼んで「子路。」と爲〔(す)〕れば、則、起つ。呼ばざれば、則ち、動かず」サイト「Yoshimi Arts」内の、陶芸家上出惠悟氏の「熊について」によれば、「子路(しろ)」は熊の異名とし、陶淵明(一部或いは全部が偽作ともされる)の六朝時代の『志怪小説集「捜神後記(続捜神記)」の中に、「熊無穴有居大樹孔中者 東土呼熊子路」という記述があり、また』、『江戸時代の獣肉屋でも子路と書いて「くま」と読ませていた』『(寺門静軒著「江戸繁盛記」)』とあり、『論語に詳しい方はご存知と思いますが、子路とは孔門十哲の一人仲由のことで、子路という異称の由来は、熊が住処とした樹の「孔」と孔子の「孔」をもじった言葉遊びからの洒落です』と意味を解明されておられる。以下、上出氏の述懐がとてもしみじみとしていいので引用させて戴く。
《引用開始》
子路のことなら中島敦の小説「弟子」(昭和十八年発表)で主人公として描かれており、私はこの小説を幾度と読み感動しています。子路は子供がそのまま大人になった様な直情径行な性格から度々孔子に叱られます。激越でしかし素直な子路はまこと獣のように美しく、これを読むと熊と子路を結びつけた人の気持ちが腹に落ちるように理解できます。物語の最後、子路は主君を救う為に反逆者のいる広庭へと単身跳び込み、気高くも無残に殺されてしまいます。孔門の後輩、子羔と共にその場から遁れることも出来た子路が子羔に声を荒げた「何の為に難を避ける?」という言葉が私の心の中で何度も反復されました。「何の為に難を避ける?」。里に現れる熊は一体どのような気持ちで里に降りて行くのだろう。私の中でその熊と子路の姿が妙に重なり始めました。日常生活でも植木を熊と見間違えたり、車のヘッドライトの影に熊を見たり、空に浮かぶ雲を見て熊を思ったり、実際に会えないかと山へ行ってみたり、北海道を旅したりと熊の痕跡をっています。結局のところ私はなぜ熊なのかと自分でも判らないまま熊を心に宿してしまったのです。
《引用終了》
「捜神後記」のそれは「第十一巻補遺」の以下。
*
熊無穴、居大樹孔中。東土呼熊爲子路。以物擊樹云、「子路可起。」。於是便下。不呼、則不動也。
*
寺門静軒の「江戸繁盛記」のそれは「初編」のここ(国立国会図書館デジタルコレクションの画像)の右頁の三行目。
「熊膽(くまのゐ)」ウィキの「熊胆」を引く。『熊胆(ゆうたん)は、クマ由来の動物性の生薬のこと。熊の胆(くまのい)ともいう。古来より中国で用いられ、日本では飛鳥時代から利用されているとされ、材料は、クマの胆嚢(たんのう)であり、乾燥させて造られる。健胃効果や利胆作用など消化器系全般の薬として用いられる。苦みが強い。漢方薬の原料にもなる。「熊胆丸」(ゆうたんがん)、「熊胆圓」(ゆうたんえん:熊胆円、熊膽圓)がしられる』。『古くからアイヌ民族の間でも珍重され、胆嚢を挟んで干す専用の道具(ニンケティェプ)がある。東北のマタギにも同様の道具がある』。『熊胆の効能や用法は中国から日本に伝えられ、飛鳥時代から利用され始めたとされる熊の胆は、奈良時代には越中で「調」(税の一種)として収められてもいた。江戸時代になると』、『処方薬として一般に広がり、東北の諸藩では熊胆の公定価格を定めたり、秋田藩では薬として販売することに力を入れていたという。熊胆は他の動物胆に比べ』、『湿潤せず』、『製薬(加工)しやすかったという』。『熊胆配合薬は、鎌倉時代から明治期までに、「奇応丸」、「反魂丹」、「救命丸」、「六神丸」などと色々と作られていた(現代は、熊胆から処方を代えている場合がある』『)。また、富山では江戸時代から「富山の薬売り」が熊胆とその含有薬を売り歩いた』。『北海道先住民のアイヌにとっても』、『ヒグマから取れる熊胆や熊脂(ゆうし)などは欠かせない薬であった。和人の支配下に置かれてからは、ヒグマが捕獲されると』、『松前藩の役人が』、『毛皮と熊胆に封印し、毛皮は武将の陣羽織となり、熊胆は内地に運ばれた。アイヌに残るのは肉だけであった。熊胆は、仲買人の手を経て』、『薬種商に流れ、松前藩を大いに潤した。明治期になっても、アイヌが捕獲したヒグマの熊胆は貴重な製薬原料とされた』。『昔から知られる熊胆の鑑定法、昔から知られる効能は』「一本堂薬選」に『詳しい』。『青森津軽地方でも、西目屋村の目屋マタギは「ユウタン」、鰺ヶ沢町赤石川流域の赤石マタギは「カケカラ」と呼んだ』。『熊胆に限らず、クマは体の部位の至る所が薬用とされ、頭骨や血液、腸内の糞までもが利用されていた』。『主成分は胆汁酸代謝物のタウロウルソデオキシコール酸』『の他、各種胆汁酸代謝物やコレステロールなどが含まれている』。『古来、日本は熊胆を利用しつつも』、『クマの個体数が維持されており、世界的にみても珍しい』とある。
「時氣の熱、盛んにして、變じて、黃疽と爲〔(な)〕る者」東洋文庫訳では『時気熱(はやりねつ)』(流行性感冒?)『が激しく変じて黄』疸(東洋文庫は「疳」と誤植している)『(おうだん)となったもの』と訳してある。
「暑月〔(しよげつ)の〕久痢」夏期の慢性的下痢症状。
「心痛」胸痛。前の「暑月」は「久痢」のみに係っていると読むべきであろう。
「諸疳」「疳の虫」によって発症するとされた、小児性の多様な疾患。夜泣きや「ひきつけ」などの発作を起こす小児性神経症や、身体が痩せて腹が膨満してくるような小児性慢性胃腸病。
「驚癇」癲癇。
「瘈瘲〔(けいしよう)〕」漢方で、外感熱病・癲癇・破傷風などの症状として見られる、筋肉が引き攣(つ)るような病態を指す。
「防已〔(ばうい)〕」落葉性蔓植物であるキンポウゲ目ツヅラフジジ(葛藤)科ツヅラフジ属オオツヅラフジ Sinomenium acutum から製した生薬名。ウィキの「オオツヅラフジ」によれば、『オオツヅラフジの蔓性の茎と根茎は生薬「防已」(ぼうい)(日本薬局方での定義)であり、鎮痛、利尿作用などがある』。『木防已湯(もくぼういとう)、防已茯苓湯(ぼういぶくりょうとう)などの漢方方剤に配合される。有効成分はアルカロイドのシノメニン(sinomenine)など。 作用が強力なので、用法を間違えると』、『中枢神経麻痺などの中毒を起こす』。『中国では防已をオオツヅラフジではなくウマノスズクサ科』(コショウ目ウマノスズクサ(馬の鈴草)科 Aristolochiaceae:本邦で一般的なのはウマノスズクサ科 Aristolochioideae 亜科ウマノスズクサ属ウマノスズクサ Aristolochia debilis)『の植物としていることがある。このウマノスズクサ科の植物の防已はアリストロキア酸という物質を含み、これが重大な腎障害を引き起こすことがある』(発癌性も認められる)。『このため』、『中国の健康食品や漢方薬には十分注意する必要がある』ともあるから、明珍の言っているのは後者の可能性もある。なお、東洋文庫訳は『防己(ぼうき)』としており、致命的な誤判読をやらかしている。
「地黃〔(ぢわう)〕」キク亜綱ゴマノハグサ目ゴマノハグサ科アカヤジオウ属アカヤジオウ Rehmannia glutinosa の根から製した生薬。カタルポールなどのイリドイド配糖体を多く含んでおり、内服薬としての利用では補血・強壮・止血作用が、外用では腫れ物の熱を取り、肉芽の形成作用を有する。
「惡〔(い)〕む」薬物として合わせて使ってはいけないことを指す。
「爲家」「新六」「白雪のふる木のうつぼすみかとてみ山の熊も冬篭る也」藤原定家の子藤原為家の「新撰六帖題和歌集」(「新撰和歌六帖」とも呼ぶ。六巻。藤原家良(衣笠家良:いえよし)・為家・知家・信実・光俊の五人が、仁治四・寛元元(一二四三)年から翌年頃にかけて詠まれた和歌二千六百三十五首を収めた、類題和歌集。奇矯で特異な歌風を特徴とする)の「第二 山」に載る。「日文研」の「和歌データベース」で校合済み。「うつぼ」は「うつほ」でもよい。漢字表記は「空」で、「岩・幹などの内部が空(から)になっている場所・部分、空洞の意。
「松前に出づる者、最〔も〕多し」ニホンツキノワグマは北海道には棲息しないので、この松前の個体はツキノワグマとは別種の、クマ属ヒグマ亜種エゾヒグマ Ursus arctos yesoensis である。但し、『全體、黒くして胸の上に白毛有り、偃月〔(えんげつ/はんげつ)〕のごとし。俗に「月の輪」と稱す』とあるのは誤りではない。ウィキの「ヒグマ」によれば、『頸部や前胸部に長方形様の白色がある個体』があり、ニホンツキノワグマと同じく『月の輪』と呼ばれているからである。以下、同ウィキを引く。『日本に生息する陸上動物としては最大の動物である』。『ヒグマの亜種であるウスリーヒグマ(Ursus arctos lasiotus)と同亜種とする説もある』。『北海道の森林および原野に分布する。夏季から秋季にかけての時期は中山帯と高山帯にも活動領域を広げる。石狩西部と天塩、増毛の地域個体群は、絶滅のおそれがある地域個体群(LP)に指定されている』。『江戸時代末期から明治時代初期』(一八六五年~一八六八年)『にかけては、集落などのように人が多い地域を除けば、北海道全域が本種の生息域であったといわれている』。『オホーツク文化期の末期』(十三世紀)『までは利尻島と礼文島にも生息していたようである』。『ヒグマ種の化石がブラキストン線(津軽海峡)以南の本州と四国、九州の約』一『万年前の更新世末期の地層から発掘されており、本州以南にもヒグマ種が生息していたようである』。『成獣の大きさはオスとメスとで異なり、オスの方が大き』い性的二型で、体長は♂が約一・九~二・三メートル、♀が約一・六~一・八メートル。体重は♂で約百二十~二百五十キログラム、♀で約百五十~百六十キログラム。四百八十キログラムの個体もいる。『近年の記録に残されている最大の個体では』、体重は♂の五百二十キログラム(二〇〇七年・えりも町・推定十七歳)、♀の百六十キログラム(一九八五年・推定八~九歳)で、体長では♂が二百四十三センチメートル(一九八〇年、推定十四~十五歳)、♀が百八十六センチメートル(一九八五年・推定八~九歳)である。『毛色は褐色から黒色まで個体により様々であり』、『その色合いごとに名称が付けられている。黄褐色系の個体は金毛』。『白色系の個体は銀毛。頸部や前胸部に長方形様の白色がある個体は月の輪。また夏毛は刺毛で構成されており、冬毛は刺毛と綿毛で構成されている』。『新生子の大きさは、体長が』二十五~三十五センチメートル、体重は三百~六百グラム。『視力はなく、歯も生えていない。体毛は、産毛がまばらに生えている』。『本種の行動は、発情期と子育て期以外は単独行動である。活動時間帯は昼夜を問わず一定していない。休息場所は特に決まっておらず、気に入った場所で休息する。本種は犬掻きによる泳ぎが得意である。若い本種は木登りも得意であるが』、『それは体重が軽いためである』。『本種は手をよく使い、手の爪が伸びる速さは足の爪が伸びる速さの約』二『倍である。これは手をよく使うために手の爪の摩耗が速く、摩耗した爪を補うために速く伸びるものと推考できる。また後肢で』二『本足立もする』。『活動期間は、春から晩秋・初冬にかけての期間で、活動地域は平野部から高山帯に至るまで様々な地域で活動する。餌となる植物を得られない残雪(春)や降雪による積雪(晩秋・初冬)の多い地域にはおらず、植物を採食できる地域に移動している。越冬のために巣穴に籠る時期は晩秋から初冬にかけての時期で、出産は越冬期間中に行われる』。『寿命は、野生下では約』三十『歳』。『食性は雑食性である。 植物性のものを食べる目的は二つあり、一つは栄養を摂取するため。もう一つは便秘予防や消化促進のためである。本種が前者の目的で摂取する植物は、栄養素を多量に含むフキやセリ科などの草と木の実である。本種は植物繊維を分解して栄養素に変換する機構を備えておらず、また草食動物のように植物繊維を分解して栄養素に変換する腸内細菌と共棲していない。そのため本種がスゲ類』『などの植物繊維の多い植物を摂取する目的は後者である。本種は様々な動物性のものを摂取するが、主に鳥類と哺乳類、昆虫類、水棲動物ではザリガニやサケ、その他の魚類である。鳥類と哺乳類の場合は既に死亡しているものを食べ、捕食することは珍しい。本種は共食いをすることがある。摂取した昆虫類やザリカニの外骨格、羽毛、獣毛などは分解できず、未消化のまま排泄される。本種の食性は非常に多様性に富み、人が食べることができるものは元より、それ以外のもの食べることができ、樹脂も食べる。草類は約』六十『種類、木の実が約』四十『種類、動物が約』三十『種類である』(中略)。『家畜や人を捕食することもある』。『本種がこれらを食べるときは内臓から食べ始めるという通説は誤りである。本種は最初に筋肉から食べ始め、最後に四肢を食べるが、肘から先の部分と膝から先の部分は食べないことが多い。頭部はなおのこと』、『食べないことが多い』(本邦でのヒグマの襲撃によるヒト死亡例でも首だけが残されていたケースが見られる)。『成獣は相手を威嚇する時に「ウオー」「グオー」「フー」などの鳴き声を発声する。鳴き声以外にも歯を鳴らしたり、足で地面を擦るなどして音を出して威嚇する』。『新生子や子グマは「ビャー」「ピャー」「ギャー」などと鳴く』。『発情期は初夏から夏にかけての期間。妊娠期間は約』八『ヶ月間で、翌年の越冬期間中に巣穴で出産する。産仔数は』一~三『頭。子育てはメスだけで行う』。『越冬期間中に出産と母乳による子育てをするため、春に巣穴から出る頃には母グマの体重は約』三十%『減少している』。『新生子は視力や歯などがない。生後』六『週目に聴力を得て』、七『週目に視力を得る。生後』四『ヶ月で乳歯が生え、母グマと同じものを食べるようになる』一~二『歳になると親離れする。子グマが繁殖できるようになるのは』四~五『歳で、最年少の記録は』三『歳』。三十『歳ぐらいまで繁殖が可能である』。『越冬用の巣穴は山の斜面に横穴を掘り、縦穴は掘らない。他の個体が前回の越冬に使用した穴を使用することもある。岩穴や樹洞を使うことは滅多にない。独立して行動する年齢になった本種は複数個の巣穴を持っており、その使い方は個体により様々』で、『巣穴に籠る時期は晩秋から初冬にかけての期間であるが、積雪とは関係がない』。『冬籠り中の体温は活動時期より』四~五『度下がる』。『動物園などでの飼育下では、本種を冬籠りさせないことができる』。『また、冬ごもりさせる動物園もある』。『本種は樹木に登って木の実を食べることがあるが、そのときに熊棚(くまだな)ができる場合がある』。『本種が樹上で木の実がなっている枝を手繰り寄せたときに枝が折れることがあり、折れた枝は本種の臀部の下に敷く習性があり、枝の数が多くなると棚のようになるので、これを熊棚という』。一九八〇『年代まではエゾヒグマが農作物を荒らすことは少なかったが』、一九九〇『年代後半から』二〇〇〇『年代にかけて農作物を食べるエゾヒグマが増加した』。『その理由として、農業従事者の減少によって畑などに人が入ることが少なくなったため、クマが畑や人を警戒しなくなったことが挙げられている』。『本種による農業被害額は年間で』一『億円を超えると推定されている』。但し、『ツキノワグマと違って』、『林業被害は報告されていない』。『家畜が襲われる被害は』一九七〇『年代以降』、『大きく減少している』。『エゾヒグマと遭遇することで人が襲われ、負傷もしくは死亡する事例もたびたび発生している』。「札幌丘珠(おかだま)事件」(明治一一(一八七八)年・死者四名(嬰児一名を含む))、「三毛別(さんけべつ)羆事件」(大正四(一九一五)年・死者七名(内一人は妊婦))、「石狩沼田(ぬまた)幌新(ほろしん)事件」(大正一二(一九二三)年・死者五名)、「福岡大学ワンダーフォーゲル部ヒグマ事件」(昭和四五(一九七〇)年・死者三名)など(総ての事件で熊による食人が行われている。リンクは各ウィキ。なお、最後のリンク先には『野生動物研究家の木村盛武』の、山行中にヒグマに遭遇した場合の襲われないための『ヒグマがあさった荷物を取り返してはいけない』・『ヒグマに遭遇したらすぐに下山しなければいけない』・『ヒグマに背を向けて逃げてはいけない』・『事前にヒグマに出会った時の対処法をチェックしておかなければならない』・『ヒグマは時間や天候に関係無く行動する』という五箇条が示されてある)、『複数の被害を出した事例も少なくない』。『本州のツキノワグマの場合』、『偶発的に人間を殺傷してしまう例がほとんどであるが、ヒグマの場合、上記の事件では集団』としてのヒト個体群を『捕食対象として認識し、計画的に執念深く追尾し、捕らえ、捕食し、さらに遺体を持ち帰り』、『食用として保存までしている』。「駆除と保護」の項は略す。『駆除だけに頼らずに被害防止と共存を実現するためのさまざまな取り組みも』二〇〇〇『年代以降に北海道各地で行われ始め』、二〇〇〇『年には「渡島半島地域ヒグマ保護管理計画」が策定され、科学的なエゾヒグマの保護管理政策が実施されている』。『自然遺産に指定されている知床でも「知床ヒグマ保護管理計画」の策定に向けた取り組みが進められている』。しかし一方で、一九九〇『年に春熊駆除が廃止され』、『ヒグマを取り巻く環境が保護へと転換されてから』十五~二十年以上が経過した二〇〇〇年代には、逆に『人に対する恐怖経験が全くない世代のエゾヒグマが現れるようにな』り、『こうしたクマは「新世代クマ」と呼ばれ、大きな問題となっている』。『新世代クマとみられるエゾヒグマが住宅地に出没する事例も』、『季節を問わず』、『発生して』おり、『こうした状況になると、警察によるパトロールや周辺学校での集団下校、遊歩道や公園の閉鎖が行われたり、住民が外出を控えるようになったりと』、『物々しい騒然とした事態となる』。二〇一一年十月には、『千歳市や札幌市の市街地でクマが相次いで目撃され』、『大きく報道された』とある。なお、次項は「羆」である。
「常に手を以つて之れを掩〔(おほ)〕ふ。獵人、其の月の輪を窺ひ、之れを刺せば、則ち、斃〔(たふ)〕す」ニホンツキノワグマのもヒグマの「月の輪」にも、そのような習性や弱点はないと思われる。
「陳眉公」明末の書家・画家として知られる陳継儒(一五五八年~一六三九年)の号。同じ書画家董其昌(とうきしょう)の親友としても知られる。
「秘笈〔(ひきふ)〕」陳継儒が、収集した秘蔵書を校訂・刊行した叢書「宝顔堂秘笈」のことか。
「人の喉若し〔く〕は腋を搔きて、笑はせしめ」無論、こんな阿呆な習性も、勿論、ない。
「黃栢〔(わうばく)〕」落葉高木アジア東北部の山地に自生し、日本全土にも植生する、ムクロジ目ミカン科キハダ属キハダ Phellodendron amurense の樹皮から製した生薬。薬用名は通常は「黄檗(オウバク)」が知られ、「黄柏」とも書く。ウィキの「キハダ」によれば、『樹皮をコルク質から剥ぎ取り、コルク質・外樹皮を取り除いて乾燥させると』、『生薬の黄柏となる。黄柏にはベルベリンを始めとする薬用成分が含まれ、強い抗菌作用を持つといわれる。チフス、コレラ、赤痢などの病原菌に対して効能がある。主に健胃整腸剤として用いられ、陀羅尼助、百草などの薬に配合されている。また強い苦味のため、眠気覚ましとしても用いられたといわれているほか、中皮を粉末にし』、『酢と練って』、『打撲や腰痛等の患部に貼』り、『また』、『黄連解毒湯、加味解毒湯などの漢方方剤に含まれる。日本薬局方においては、本種と同属植物を黄柏の基原植物としている』。『アイヌは、熟した果実を香辛料として用いている』とある。
「五倍子〔(ぬるで)〕」東南アジアから東アジア各地に自生し、本邦のほぼ全土に植生する落葉高木、ムクロジ目ウルシ科ヌルデ(白膠木)属ヌルデ変種ヌルデ Rhus javanica var. chinensis の虫癭(ちゅうえい)から製した薬物。ウィキの「ヌルデ」等によれば、同種の葉にヌルデシロアブラムシ(昆虫綱半翅(カメムシ)目同翅(ヨコバイ)亜目吻亜目アブラムシ上科アブラムシ科ワタアブラ亜科ゴバイシアブラ属Schlechtendalia chinensis)が寄生すると、大きな虫癭が生じるが、その中には黒紫色のアブラムシが多数、詰まっており、その虫癭全体にタンニンが豊富に含まれていることから、それを以って「皮鞣(なめ)し」に用いられたり、黒色染料の原料とし(染め物では空五倍子色とよばれる伝統的な色を作り出す)、また、インキや白髪染の原料になる他、かつては既婚女性及び十八歳以上の未婚女性の一般的習慣であった「お歯黒」(鉄漿)にも使用され、『また、生薬として五倍子(ごばいし)あるいは付子(ふし)と呼ばれ、腫れ物、歯痛などに用いられた。但し、猛毒のあるトリカブトの根も「付子」』(ぶす)と書くので、『混同しないよう』、『注意を要する』。他に『ヌルデの果実は』「塩麩子(えんぶし)」『といい、下痢や咳の薬として用いられた。この実はイカル』(スズメ目アトリ科イカル属イカル Eophona personata)『などの鳥が好んで食べる』ともある。
「泥-障(あをり)」「障泥」とも書くが、歴史的仮名遣は「はふり」が正しい。馬具の付属具の名で、鞍橋(くらぼね)の四緒手(しおで)に結び垂らし、馬の汗や蹴上げる泥を防ぐためのもの。下鞍(したぐら)の小さい「大和鞍」や「水干鞍」に用い、毛皮や皺革(しぼかわ)で円形に作るのを例としたが、武官は方形とし、「尺(さく)の障泥(あおり)」と呼んで用いた。場所と形が頭に浮かばぬ方は、参照した小学館「デジタル大辞泉」の「あおり」の解説の下の画像をクリックされたい。
「獵虎(らつこ)」哺乳綱食肉目イタチ科カワウソ亜科ラッコ属ラッコ Enhydra lutris。ウィキの「ラッコ」によれば、『日本では平安時代には「独犴」の皮が陸奥国の交易雑物とされており、この独犴が本種を指すのではないかと言われている。陸奥国で獲れたのか、北海道方面から得たのかは不明である。江戸時代の地誌には、三陸海岸の気仙の海島に「海獺」が出るというものと』、『見たことがないというものとがある』。嘗て、『千島列島や北海道の襟裳岬から東部の沿岸に生息していたが、毛皮ブームによ』『る乱獲によって』、『ほぼ絶滅してしまった。このため、明治時代には珍しい動物保護法「臘虎膃肭獣猟獲取締法」』(明治の末年の明治四五(一九一二)年)『が施行され、今日に至っている』とある。なお、本「獸類」(巻第三十八)の最終項は「獵虎」である。]
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