蒲原有明 有明集(初版・正規表現版) かかる日を冬もこそゆけ
かかる日を冬もこそゆけ
ゆをびぬる日南(ひなた)のかをり、
かかる日(ひ)を冬(ふゆ)もこそゆけ、
柔(やは)らげる物(もの)かげの雪(ゆき)、
枝(えだ)ゆらぐ垣(かき)のいちじゆく。
かかる日(ひ)を、噫(あゝ)、かかる日(ひ)を
待(ま)ちわびぬ、わびしきわが世(よ)、
寂寞(じやくまく)の胸(むね)の日南(ひなた)を
ゆをびぬる思(おも)ひのかをり。
幽(かす)かにも水沼(みぬま)の遠(をち)を
水禽(みづとり)の羽音(はおと)の調(しらべ)。
ひときほひ、嵐(あらし)はまたも
靑空(あをぞら)の淵(ふち)にすさべば
その面(おも)は氷(ひ)の泡(あわ)だちて
銀(しろがね)の色(いろ)に燦(きら)めく。
冬(ふゆ)はいま終(はて)のいぶきか、
常盤木(ときはぎ)は深(ふか)くをめきぬ、
いちじゆくの枝(えだ)はたゆらに
音無(おとなし)の夢(ゆめ)のさゆらぎ。
かくて後(のち)、時(とき)の靜(しづ)けさ、
かかる日(ひ)を冬(ふゆ)もこそゆけ、
春(はる)の酵母(もと)――雪(ゆき)のしたみに
かぐはしの思(おも)ひは沸(わ)きぬ。
しかすがに水沼(みぬま)のあなた、
水禽(みづとり)の羽音(はおと)のわかれ。
[やぶちゃん注:「ゆをびぬる」はママ。「ゆほびぬる」が歴史的仮名遣としては正しい。形容動詞ナリ活用「ゆほびやかなり」(現代仮名遣は「ゆおびか」。「広々としているさま・ゆったりとして穏やかなさま」の意。「源氏物語」に既に用例がある)をかなり強引に動詞化し、それに完了或いは強意の助動詞「ぬ」の連体形をつけたもの。「ゆほびぬる」と訂そうとも思ったが、そうしても多くの読者はこの語に不審を持ち、注を見るであろうから、ここは敢えてママとした。
「いちじゆく」無花果(いちじく:バラ目クワ科イチジク属イチジク Ficus
carica)は「いちじゆく(いちじゅく)」とも呼ぶ。
「ひときほひ」「一競(ひときほ)ひ」であろう。「競(きほ)ふ」には「木の葉などが争(あらそ)うかのように散り乱れる」の意があり、それの名詞化した「きほひ」には「激しい勢い」の意がある。ここは動詞の連用形ではなく、後者に接頭語「一(ひと)」(ここは「常と異なった」の意であろう)が付加された名詞と採る。
「常盤木(ときはぎ)」常緑広葉樹。松・杉・椎・樫・楠など。
「酵母(もと)」ここでは判らないが、底本では視覚的に問題がある。「もと」のルビは「酵」の字の右に纏めて附いて「母」に掛かっていないからである。しかし無論、この「もと」は「酵母」二字へのルビであるのは言うまでもない。]
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