うれしき祈禱 國木田獨步
うれしき祈禱
朝(あさ)な朝な
われにうれしきいのりあり
祈(いの)りにいはく鳴呼(あゝ)吾(わ)が神(かみ)!
『彼女(かのぢよ)に安(やす)きを給(たま)へかし』
アヽ此(この)祈り
いかにうれしきいのりぞや。
人(ひと)なき室(へや)に淚(なみだ)と共(とも)に祈(いの)るなり
『彼女(かのぢよ)の上(うへ)を守(まも)れかし』
[やぶちゃん注:五行目の「祈り」にルビがないのはママ。以下に電子化するのは、底本の「詩」パートの「遺稿」パートより。既に記した通り、國木田獨步は明治四一(一九〇八)年六月二十三日、午後八時四〇分、入院していた茅ヶ崎市南湖院にて肺結核のため(最初の兆候は既に明治三十九年末にあった)、満三十六歳と十ヶ月逝去した。本篇以下の三篇(後の「暮鐘」と「五月雨」)は、その五ヶ月後の明治四一(一九〇八)年十一月十九日附『讀賣新聞』に「故國木田獨步」の名で掲載された詩篇である。本篇は後の「獨步遺文」の中に「嬉しき祈」という標題で所収されているが、それは大きな異同があるので、以下に示す。
*
うれしき祈
朝(あさ)な朝な夕な夕な
我にうれしき祈りあり
祈りに曰く、あゝ吾神!
彼女の上を守れかし!
われを見捨てし彼女の上に
肉にも靈(たま)にも安きを賜へ
あゝ此祈!
いかにうれしき祈りぞや
人なき室にたゞ一人
淚と共に祈るなり!
*
言わずもがなであるが、これによって本篇の「彼女」が前妻佐々城信子であろうことは推察される。但し、それ以前、獨步二十歳前後に、石崎トミとの悲恋(トミの両親が独歩があまりにも熱心なクリスチャンであったことに反対した故ともされる)があり、彼女もそこに含まれるものと考える方がより正しいと私は思っている。なお、後の「暮鐘」と「五月雨」の二篇は「獨步遺文」には所収されていない。]
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