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2019/03/30

原民喜 狼狽

 

[やぶちゃん注:昭和一一(一九三六)年十月号『作品』初出。

 底本は一九七八年青土社刊原民喜全集「Ⅰ」を用いたが(底本では「拾遺作品集Ⅰ」のパートに配してある)、以上の書誌データや歴史的仮名遣表記で拗音・促音表記が殆んどないという事実及び原民喜の幾つかの自筆原稿を独自に電子化してきた私の経験に照らして(彼は戦後の作品でも原稿では歴史的仮名遣と正字体を概ね用いている)、漢字を概ね恣意的に正字化することが、原民喜自身の原稿原型に総体としてより近づくと考え、今までの私のカテゴリ「原民喜」のポリシー通り、そのように恣意的に処理した。

 太字は底本では傍点「ヽ」。踊り字「〱」は正字化した。

 因みに、本篇は現在、ネット上では公開されていないものと思われる。【2019年3月30日公開 藪野直史】]

 

 狼 狽

 

 數學の教師、山根高彦は或る朝日が覺めてみると何の異狀もなかつた。彼は何時もの癖でラヂオ體操をやり、朝飯を食べると、元氣に溢れた顏で登校し、朝禮でまた體操をやり、教員室で幾何の教科書を取ると、第一時間目の三年生の教室へ颯爽と出向いた。彼は二階の階段を昇るのに二段づつ一呼吸にやつて、そこの教室のドアの引手に指が觸れるまでに何秒かかるか計算して知つてゐたが、それはこれまで殆ど一秒も狂はなかつたほど正確な動作だつた。で、今もその正確な動作でさつと引手を引き、教壇に登ると、顎をカラーの方へ引寄せ眼をパチりと瞬くと、一勢に生徒が立上つてお叩頭(じぎ)をした。そこで彼はチヨークを執つて、黑板の方へ對つた。彼はピタゴラスの定理を教へるつもりで定規を黑板にあてがつて新しいチヨークを勢よく引いた。すると、あんまり勢がよかつたので、チョーク[やぶちゃん注:拗音表記ママ。]がポキリと折れ、定規が歪んだ。

「誰だ、今舌を出したのは、高橋だらう」と彼は電光石火の早技(わざ)で皆の方へ向きかはつた。高橋と名指された生徒は眞赤になつてぶるぶる慄へた。この生徒はクラスでもおとなしい、ごく眞面目な男なのだが、どう云ふ譯でその時舌を出したのかわからなかつた。いや、それよりも山根高彦の背中に眼が着いてゐない限り、黑板に對つて[やぶちゃん注:「むかつて」。]ゐながら後の方の樣子が手にとる如く解るはずがない。それだのに高橋あさつき片方の眼を塞ぎなから舌を出したのを見た。

「君はどうも陰日向があるね、先生が黑板の方を向いてゐれば何したつてわからないと思ふと大間違ひだよ。僕にはちやんと靈感で以てわかる」と彼はいささか得意さうに生徒達を見渡した。と、皆の顏に奇妙な感嘆の色が浮んで、一瞬水を打つたやうにあたりが靜まつた。急に彼はとんでもないことを喋り出したのに氣が着いて、また黑板の方へ向き直つた。しかし、どうも如何云ふ[やぶちゃん注:「どういふ」。]譯でああ云ふことが解つたのか、皆目彼にも解らなかつたので、實に變てこな氣分がした。彼はその考へを追拂ふつもりで、今度は靜かにチョーク[やぶちゃん注:拗音表記はママ。]でもつて線を描き始めた。ところが、それもほんの二三秒で、彼はまた不思議なことを口走つた。

「今また舌を出してるのは森田だな、先生を試(ため)さうとしたつて駄目だよ」さう云ひながら、今度は向きかはりもせず、悠々と線を引いて行つた。すると、森田と云はれる生徒は今迄出してゐた舌を氣まりわるげに引込めると、呆然として山根先生の背中を視凝めた。その背は着古されて少し光り出した黑の背廣で覆はれてゐたが、そこには何の變哲もなかつた。そのうちに山根先生は三角形を描き了へると、皆の方へ向き直つた。そして、もうその時にはすつかり平素の態度にかへつた樣子で、ピタゴラスの定理を喋り出した。その時間はこれで何ごともなく過ぎた。

 山根高彦先生はけろりとした顏で教員室へ戾り、バツトを一服やりながら運動場の方を眺めてゐた。恰度その時、博物の教師が近づいて來て、マツチを貸して呉れと手眞似をした。この教師は日頃から山根高彦を若僧扱ひにしてゐたが、今手眞似でやつたのは輕蔑からではなく、實は彼の子供が大病で昨夜も碌に睡れなかつたためひどく疲勞してゐたのだつた。博物の教師は味氣ない表情でチエリーに火を點けると、山根高彦に對つて淋しい微笑を送つた。その微笑の底には何かぞつとするものが漾つてゐるやうに想はれた。

 

「お疲れでせうね、坊ちやんが病氣では……」と山根高彦はごく平凡なことを云つて相手を慰めるつもりらしかつた。

「しかしもう追つきませんよ、お宅の坊ちやんはたつた今亡くなられましたもの」。

「え……君は……」と博物の教師は二三步後ずさりしながら、親指と人差指の間に挾んでゐた煙草に力を入れたため、煙草は折れて曲つた。その半分折れてぶらぶらしてゐる煙草を慄はせながら、彼は相手を視凝めたまま口がこはばつて言葉がきけなかつた。と、その時小使が現れた。

「大村先生、お電話です」。

 電話と聞いてこの教師の表情はさつと變つた。そこで忌々しげに煙草を放ると、彼はあたふたと出て行つた。ところがものの二三分もたたぬうちに、博物の教師はがつかりした顏で教員室へ戾つて來た。それから風呂敷包を纏めながら、一生懸命で何度も結び目を結び替へてゐるのは、淚を隱さうと努めてゐるためらしかつた。

「御愁傷でせう」と山根高彦は背後からしんみりした口調で話しかけた。すると、相手はヒヒヒヒと、鋭い笑聲を立てながら眼からパラパラと淚を落した。恰度その時授業のベルが鳴つた。

 山根高彦は心殘りの儘、廊下へ飛出したが、今度は階段を一呼吸に二段づつ昇つては行かなかつた。何故かわからないが、山根高彦は憂鬱な顏つきであつた。しかし、教壇へ立つと彼はまた顎をカラーの方へ引寄せて、眼をパチクリさせた。そして普通の顏つきで授業を開始した。幸にその時間は自分で自分に呆れたり、驚くやうな變なことがらもなく過ぎて行つた。そして、その次の時間も、また次の時間も、無事であつたため、終に山根高彦は、今朝ほどの不思泰な靈感なぞ全く何かのはずみに過ぎなかつたのだ、と安心して差程氣に留めないやうになつた。

 彼が授業が終ると、とにかく晴々して、大股ですつすつと步きながら、今始めて呼吸をするやうに樂しさうに、午後のひんやりした日蔭の空氣を吸つてみた。すると何時もながら牛肉屋の看板や、自動車のガレージなどのある見馴れた巷の光景が、何か人生の意義に充滿してゐるやうに山根高彦には感じられるのであつた。彼はそこで、戀人のことを想ひ出し、その想ひを獨樂のやうに頭のなかで廻しながら下宿屋へ戾つた。

 下宿屋の二階で山根高彦は暫くの間疊の上に寢轉んだ儘、ぼんやり天井を眺めてゐた。ところが、そこから四五丁さきの道路を今彼のところへ對つて、吉井と云ふ彼の舊友が鳥打帽を被つて、時々所在無さげに頰を撫でながら、何故か控へ目に步いて來るのが、山根高彦にははつきり感じられた。で、何故吉井がああ云ふ姿でやつて來るのかと云ふに、つまり吉井は煙草錢を借りに彼のところへ來る筈なのだが、三十錢貸して欲しいと云ふに違ひなかつた。突然、吉井はついでに五十錢借らうかなと考へたが、吉井の後からやつて來た洋裝の女が彼を追越すと、チエと舌打ちして、やはり三十錢でいいな、と決めてしまつた。――かう云ふ風に山根高彦の腦裡には一つ一つ吉井の樣子が映つて來たが、彼はここでまた自分がとんでもない狀態に陷つてゐるのを意識した。が、相手が吉井であるだけに多少の安心と興味に牽かれて、なほもさうした觀察を續けて行くと、吉井は靴の先で小石を蹴りながら速かに足並みを早めて、さつきの女を追越すと、もう彼の下宿の玄關のところまで來てしまつたのだつた。で、山根高彦はともかく起上つて、玄關先まで出て行つた。

 彼が玄關へ行つたのと、吉井が其處の格子戶を開けたのが同時だつたので、吉井は一瞬面喰つた。が、山根高彦はにこにこ笑ひながら云つた。

「今、君が來るだらうと思つてたところなのだ、まあ上り給へ」。

 吉井は部屋に入ると、默つて鳥打帽を弄(いじく)つてゐたが、眼は絕えず山根高彦の机の上にあるバットの箱に注がれてゐた。山根高彦が煙草に火を點けたのをきつかけに吉井は始めて口をきいた。

「僕にも一本呉れ給へ」。

「いや、始めからそのつもりで來たのだらう、遠慮し給ふな。それから……」と云つて、山根高彦は財布を取出すと、机の上に三十錢並べた。

「これ、とつてをき給へ」。

「? 的中だ、どうも僕この頃不景氣でね」。

「噓つき給へ、君は先週競馬へ行つて損したのだよ」。

「ハハハハ、僕がそれやつてるのをもう知つてたのか、でも妙だなあ、何處から考へたつて君に知れる筈なんかないと思つてたのに。」

「フン――」と、この時山根高彦は深い吐息をついて、何かに感嘆したやうな顏をした。するとその感嘆は忽ち吉井にも傳染した。

「フン――君には神通力が出來たな、君は神樣だよ」。

 神樣と聞くや否や、山根高彦は赫と顏面に朱を注いで怒鳴つた。

「馬鹿野郞、神樣とは何事だ! 神樣が君、中等教員の、それもこんな若僧であつて耐るか[やぶちゃん注:「たまるか」。]、神樣が君、下宿の四疊半で南京豆食つてるなぞと云ふ例[やぶちゃん注:「ためし」。]が何處にあるか」。

「いや、少くとも君は神憑[やぶちゃん注:「かみつき」と訓じておく。]になつたのだよ」。

「何だと! 神憑ぢや! 僕は巫女のやうなものになつたのか。僕は數學の教師だからさう云ふことは望んでないのだ。あんまり變なこと云ひ觸らしでもすると承知しないぞ。それでなくてもこの頃は世間がうるさくて何事も控へ目にすべき時勢だらう。それを君、僕が神憑なぞになつてるなんて、大それたことを想像してもらひたくないな、一つや二つ當推量が的中したからつて、それは君、偶然の一致と云ふものさ。とにかく、面白くないから今日はこれで歸つて呉れ給へ」と、山根高彦は不思議に怒り出した。

「まあ、さう怒らないで一勝負やらうぢやないか」と吉井は碁盤を顎で指差した。が、山根高彦は一そう嚴(いか)つい顏に化してしまつた。

「ねえ、久し振りぢやないか」と、吉井はヂヤラヂヤラ碁石を並べて彼の氣を惹かうとした。

「駄目だ、君が負けるのは解つてるから今日はもう歸れ」。

「へえ、君も妙な男だなあ」と吉井も少しむつとして座を立上つた。

 相手が去ると、山根高彦は大急ぎで抽匣[やぶちゃん注:「ひきだし」」。]から懷中鏡を出すと、自分の顏を調べ出した。山根高彦の容貌はごく類型的な、親しみ易い、賴母しさうな顏で、右の眼の下に黑子(ほくろ)があつたが、それとても無いよりかましにちがひなかつた。しかし彼が調べ出したのはそんな既知の事柄ではなかった。何か奇蹟的な變化がもしや顏に現れてはゐまいかと、暫くは呼吸を殺して鏡と睥み合つた[やぶちゃん注:「にらみあつた」。]。ところが、山根高彦は急に鏡を放ると、あツと叫んでしまつた。それは彼の顏に奇蹟が現れてゐたからではなかつた。いや、何の奇蹟も起つてゐないための恐怖であつた。これがこの際、假りに鼻が三インチ[やぶちゃん注:七・六センチメートル。]も突起してゐたとか、頭に後光が射したとか云ふのなら、山根高彦も頷けただらう。事實は平々凡々な、何の神聖さもない人間の面で、しかも、それがさつき吉井を怒鳴りつけたため額に浮んだ靜脈の跡が、みつともなくも消えてゐなかつた。

 ――これがこれとは何ごとか! と山根高彦は再び興奮しながら怒り出した。

 ――全然五里霧中だ。第一僕は一介の數學の教師で、微塵も僭越な氣持は持ち合はせてゐない。それが、かう云ふ平凡な面で神樣にならうものなら、それは神聖を瀆すと云ふものだ。神樣と云ふものは偉大な、何と云ふか、つまりその、名稱を超越し給ふ存在なのだ。ところで、今日はその自分に魔がさすとでも云ふのか、他人の餘計な事柄が見えたり、聞こえたりして困るが、どうもああ云ふ癖はよくないから徹頭徹尾抑制しなきやいかん。ああ云ふ癖が募りつのると、今に自分はとんでもない破目に陷る……。

 山根高彦が一通り自分の氣持を整理しかけた時、一人の婦人が訪れて來た。彼はその大柄な、派手な顏をした婦人を一瞥した時、奇妙に自分を恥しく思つたが、ははあ、また困つたことが出來たなと呟いた。勿論、彼にはその婦人が、今日彼が教壇から二回目に叱りつけた森田と云ふ生徒の母親であることも、彼女が息子から今日の話を開いて早速やつて來たことも、一體何を相談に來たのかも、すつかり前以て感知されてしまつたので、非常な努力を以て呆け面を粧はなければならなかつた。で、知れきつたことを尤らしい顏で、ハア、ハアと聞かされてゐるのが、如何にも彼女に氣の毒してるやうに思へたので、そいつを意識すまいと、山根高彦は相手の膝に纏(まつは)る友禪模樣の曲線を一つ一つ丹念に眺めてゐた。そのうちに森田の母親はいよいよ相談の本筋へ入つて來た。

「實は私の主人の話で御座いますが、どうもこの頃商賣が思はしくないので株に手を出してゐるので御座います。それで一つ是非先生に御智惠を拜借致したいと思ひまして今日お伺ひしたやうな次第なのです。」

「そいつは困りますなあ。僕は御存知の通り數學の教師ですが、そのことなら一つ經濟學の先生にでもお聞きになつたら如何がです」。

「いいえ、もうそんな呑氣なこと云つてはゐられないので御座います。主人はこれまで損ばかりやり通して來ましたのに、まだ性懲りもなく、今に芽を出すなんて申してゐるので御座いますが、このまま行つたら一體私達はどうなるので御座いませうか。一そのこと破産するならするでしてしまへばさつぱり致しますが、今のやうにぢりぢりと落目になつて行つたのでは何だかあんまり殘酷ぎるやうで御座います。ほんとにこの頃では先生の前でお話しするのも恥しう御座いますが、そのため私は時々癇癪が起きて自殺したくなるので御座います。」

 それから彼女は今にも癇癪を起しさうな氣配を見せながら喋り續けた。

「恰度幸なことに今日子供から先生のお話を伺ひましたので、これこそは神樣の救ひだと信じました。何でも先生は不思議な神通力をお持ちださうですが、どうかこの憐れな私どもにも少し分けてやつて下さいまし。この際のことですから私はもう絕對先生の御言葉を信賴致したう御座います」。

「ハハハ、今日のあれですか、あれはほんの座興ですよ」。

「いいえ、あれが座興なら、なほさらのことです。とにかく今私のお縋り申したい方は先生一人なので御座います。先生はつまり神樣なので御座います」。

「僕が神樣? そんな輕卒なことは云はないで下さい」。

「いいえ、いいえ、先生は神樣です。隱したつて逃げたつて、神樣は神樣です」。

「違ひます、そいつは人違ひと云ふものですよ。僕はつまり數學の先生ですよ」。

「いいえ、數學の話では御座いません。私は今こんなにお願ひしてゐるのではありませんか、どうか神樣になつ下さいまし。」

「さう矢鱈に神樣になれる筈がない」。

「いいえ、なれます、なれます、現に現に先生は神樣ぢやありませんか」。

 彼女はもう少しで泣き出しさうで、もう眼頭は興奮のために淚が潤つてゐた。その有樣を見ると、山根高彦は何時までもかうして婦人と爭つてゐるのが增々氣の毒になつた。それにもう山根高彦にはこの婦人の主人が今度は株で大儲けすることがちやんと解つてゐたので、どうしても一言云つてやり度くなつた。

「よろしい、ぢやあこれだけ申上げませう。あなたの御主人は今にきつと大成功なさいますよ、大成功、さうですね、正確なところ三十二萬圓は儲かりませう。」

 三十二萬圓と聞くと、この婦人は暫くきよとんとした顏で山根高彦を視凝めてゐたが、ハラハラと淚を落すと、急に彼の肩に抱きついて山根高彦をまるで戀人のやうに搖さぶつた。「ああ、神樣、ああ、神樣」と、彼女は恰度猫のやうに咽喉を鳴らして喚いた。そのうちにこの婦人はやつと普通の樣子にかへると、

「さきほどはどうも御無理を申上げたり、取亂したりして失禮致しました。でもどうかお許し下さいませ、ほんとに有難う御座いました。いづれ成功の曉にはきつとお禮に伺ひますとして、早速このことは早く主人の耳に入れて勵ましてやりたいと思ひますので、今日はこれで失禮させて戴きます」と、何度もお叩頭しながらいそいそと歸つて行つた。

 その婦人が殘して行つた、なまめかしい化粧品の香ひを空氣のなかに嗅いで、山根高彦は甚だ不機嫌であつた。到頭強制的に神樣にされてしまつたことや、自分の意志に反して彼女に助言を與へたことが、思へば思ふほど殘念であつた。そこで彼は窓を開けて空氣を入れ替へると、深呼吸をして、机の前に正座した。

 ――神樣! と彼は祈り出した。これは一體、どう云ふ譯なので御座いませうか。どう云ふ譯で私が神樣にならなきやならぬので御座いませうか、そいつからして解せない次第です。第一に、その、いや、どうも順序なぞ立てないで申上げたい。小生は數學の教師で因數分解とか、軌跡とか云ふことに就いてなら誰にも教授出來ます。それに小生はもともと大して大それた野心は抱かない男だと云ふことも神樣じゃ夙に御存知の筈である。もつとも、これまで折疊式下駄箱とか、ライター附蝙蝠傘とか云ふ品を發明して特許を獲らうとしましたが、どちらも間が拔けてゐると云ふので一笑に附せられたが、あれは考へてみると成程間が拔けてゐました。しかし大體に於きまして、小生は今の生活に滿足し、撥溂たる氣分で暮してゐるのであります。ただ、あそこの中學の教頭が、象像先生のことですが[やぶちゃん注:「象像」は一応、「しやうざう(しょうぞう)」と読んでおく。但し、そんな姓や名があるとは知らぬが。]、その多少、皮肉屋で黑を赤だと云つたり、猫を犬だと云つて強情で困りものですが、それもまあ比較的小生なんかには當つて來ないので感謝してゐる次第です。小生はまだ獨身ですが、その一寸恥しいやうな氣持も致しますが、つまり、その、誰にもあることで、一人の戀人が御座いまして、その娘と小生は既に婚約の間柄なので御座います。一寸こましやくれた可愛い娘で、それが小生のまあ、謂はば永遠の女性なので御座います。で、まあまあ、之を要するに、どうやら神樣のお蔭で以つてこれまでは順調にものごとが進行してゐましたので、行々は彼女の産んだ子供の教育費だけは出せるやうに精出して貯金するつもりであつたので御座います。ところが、どうも今日起りました數々の不可解な現象は一體、これはどう解釋したらいいのでせう。あれは神樣の御意志で御座いませうか。どうも、さうとは信じかねる點が多いやうに小生には感じられますが、……。第一、神樣が誰か人間の形體に於いて現はれたくおぼしめしになるなら、何も小生如き靑二才をお選びになる必要はないかと愚考致します。しかし假りそめにも神樣の御意志を拜得した以上、あくまでこの惱み多き人生に光明を與へるべく努力するのが男子の義務で御座いませうが、どうも小生は御免蒙りたいのであります。何? それが卑怯だ? いや、卑怯と云はれたつて、何と云はれたつて、小生は既に申上げた通り、つまりその、微分析分[やぶちゃん注:ママ。]とか、タンゼン[やぶちゃん注:ママ。]・コタンゼントとか云ふことを取扱つて、嬶と仲よく暮したい以上に何の野心もないので御座います。

 それに小生として最も理解に苦しみまする點は、突飛な豫感が忽ち實現すると云ふことです。大體背中に眼がない以上、後の樣子が微細に解るなぞと云ふことは、どうも穩かでない現象かと思ひます。どう云ふ譯でああしたことが解るのか自分で了解出來ない以上、結局僕はぞつとするばかりです。さうです、何だかこの人生にはぞつとするものが視え始めました。神樣、かうしてお祈りしてゐる最中にも小生には今ここの下宿屋の臺所で夕餉の支度に何を拵へてゐるかが、ありありと眼に浮んで來ます。今晚は大根の煮附に揚がついてゐて、いや、それは今焚いてゐる匂ひがするから解るのではないのです。それならもう一つ別の皿に、殼のままの卵が出る筈ですが、あれなんか解らない筈ですし、それから、ほら、今、おかみさんが頭髮が痒くなつて、簪で自棄に突(つつ)いてゐるのが見えますが、疊や天井が小生の視線を遮つてゐる以上、何と云つても不合理なことだと思ひます。とにかく、かう何もかも微に入り細に亘り、直感され出しては小生は全く神經衰弱になりさうです。病的な男なら、さうしたことも喜ぶかも知れませんが、小生としてはむしろ迷惑千万の話です。小生は既に何度も申上げました通り、全智全能なぞにはなりたくないのです。第-、いや、もう祈りだか愚痴だか、しどろもどろになつてしまひましたが、何卒この心の狼狽のほどをお察し下さい。

 山根高彦が一通り祈禱を了へたところへ、女中が夕餉の膳を運んで來た。それはさつき彼が神樣に云つてのけた通り、大根の煮附と生卵であつた。が、山根高彦はもうかうした惡魔の飜弄には多少あきらめを感じた。たつた今も、女中がその食膳を持つて來る途中、廊下の廻り角で、如何云ふ[やぶちゃん注:「どういふ」。]わけでか、その女中はぺろりと舌を出して皿の大根を舐めたのであるが、山根高彦は何だか嚴肅な顏つきをして、その女中が舐めたところの大根をむしやむしや食べ始めた。

 

 山根高彦先生は間もなく世間から神樣にされた。噂は噂を呼んで彼の豫言の名聲は赫々と輝きはじめた[やぶちゃん注:「赫々」は「かくかく」或いは「かつかく(かっかく)」で、「華々(はなばな)しい功名を挙げるさま」「光り輝くさま」を言う。]。もとより豫言は百發百中であつたが、彼はそれ故鬱陶しかつた。もともと親切な先生で、人から賴まれては餘儀なく相談相手になるのではあつたが、やれ私の姪が今度産むはずの兒は男か女かと云ふ質問や、世間にはどうも好奇心のありあまる男女が多いものとみえて、私の隣りの家の主人の顏は高慢ちきで癪で耐らないが、あいつを何とかして監獄へぶちこむ方法はないものか――なぞと云ふ猛烈なものもあつた。さう云ふ豫言を求められる度に、山根高彦は何か罪惡を犯してゐるやうな、呵責を感じ、非常に面白くない不安に惱まされるのであつた。そして人々は彼の顏や態度が嚴肅になるに隨ひ、增々彼を信仰し出すやうになつた。

 さて、人々はみな山根高彦の豫言を信賴し、利用し、感謝するのであつたが、ここに最も悲しむべきたつた一人の例外があつた、それは誰あらう、山根高彦の永遠の女、つまり彼の許嫁であつた。彼女は山根高彦の名聲が高まれば高まるほど、彼を信じなくなつた。いや、この女は始めから山根高彦先生を信じても、愛してもゐなかつたらしいのである。彼女が彼と交際し出す以前に、彼女は既に他の男達を知つてゐた。それだから彼女は非常に輕薄な氣分で彼と婚約を結んだまでで、何も山根高彦を本氣で愛してなぞゐなかつたのだ。「もし、あの男がほんとに神樣なら、私の本心がわからないなんて變だわ」と彼女は鼻に輕蔑の小皺を寄せて笑ふのであつた。ところが、既にさうした一切のことがらは、山根高彦にはすつかり遠くから透視されてゐたのであるが、彼は暫く、ぢつとその屈辱に堪へた。さうした間にも結婚の日はどしどし近づいて來た。彼は時々その女の家を訪問しては、出來るだけ彼女の魂を正しい方向へ導かうとしむけたのであるが、彼女は心にもない甘い言葉や、笑顏で彼を嘲弄するばかりであつた。山根高彦はここでもまた人生のぞつとするものに觸れ、人の世の罪深かきに泣かされるのであつたが、結婚の日はあと一日となつた。すると、彼女はどうでもかうでもあの男がこの婚約を履行しようとするなら、するで、私には考へがある、と決心してしまつた。彼女の頭にその考へが閃いたのと同じ瞬間に山根高彦はそれを知つたので、あツと聲を放つて轉倒しさうになつた。あの女は俺と結婚して、そしてゆくゆくはこの俺をそつと殺さうと考へたな! 實に恐しいことだ。何と云ふ滅茶苦茶な思想だ、もはやこれは絕體絕命の現實だ。俺はさて何處へ逃げたらいいのか、この己れ故、人一人に罪を犯さすよりか、己は己の故鄕が戀しくなつた。

 そして、翌朝、美しい秋の朝日が射す物干棚で、山根高彦は首を縊つてゐた。

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