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2019/03/07

ブログ・アクセス1200000突破記念 原民喜 面影

 

[やぶちゃん注:昭和一七(一九四二)年二月号『三田文學』初出。

 底本は一九七八年青土社刊原民喜全集「Ⅰ」を用いたが(底本では「拾遺作品集Ⅰ」のパートに配してある)、以上の書誌データや歴史的仮名遣表記で拗音・促音表記がないという事実及び原民喜の幾つかの自筆原稿を独自に電子化してきた私の経験に照らして(彼は戦後の作品でも原稿では歴史的仮名遣と正字体を概ね用いている)、漢字を概ね恣意的に正字化することが、原民喜自身の原稿原型に総体としてより近づくと考え、今までの私のカテゴリ「原民喜」のポリシー通り、そのように恣意的に処理した。

 思うに、本篇の主人公の青年のモデルは、一九三六(昭和十一)年八月一日から八月十六日にかけて行われたベルリン・オリンピックに出場した人物かと思われる。但し、無論のこと、ウィキの「1936年ベルリンオリンピックの日本選手団には「良雄」という名の選手の名は、ない。それを穿鑿してみる気も私には起こらない。

 不思議な構成と二人称の語りが限りない哀感を醸し出す絶品の掌品である。

 因みに、本篇は現在、ネット上では公開されていないものと思われる。

 なお、本電子化は花幻忌(三月十三日)を前にすると同時に、2006年5月18日のニフティのブログ・アクセス解析開始以来、本ブログがつい、数分前、1200000アクセスを突破した記念として公開する。【2019年3月7日 藪野直史】]

 

  面 影

 

 良雄や 良雄や 良雄や

 夜なかの雜沓する驛で、聲をかぎりに號んだ[やぶちゃん注:「さけんだ」。]、わたしの姿をおまへは憶えてゐてくれるだらう。おまへの眼に燒きつけられた、あれがわたしの最後の姿だつたのだね。泣き腫れたわたしの眼にはおまへの顏の輪廓がただ白く霞んでゐたが、それがわたしの最後の眼に殘つたおまへだつたのだね。わたしはうれしかつた、うれしかつたのではない、たまらなかつたのだ、こころがおののいてばかりゐた。

 

 おまへが日本を離れてからはわたしは一夏をラヂオの前に坐りつめた。伯林の消息に胸ををどらし、おまへの名が出て來はすまいかと、そればかりを氣にしてゐた。わたしにはわけも分らないスポーツのことであつた。なんとももどかしいかぎりであつた。あんまりおまへの便りがないのでもしか脚氣にでもなつたのではないかと、心配でたまらなくなつた。それでも日本の選手が勝つ度にわたしは吻とした。あのよろこびのなかにきつとおまへも加はつてゐるのだらうと、ゆめのやうにおもつた。

 ひどく美しい靑空の下に赤や白のユニホーム姿が並んでゐるグラフもゆめのやうにおもへたものだ。そのうちに秋になつた。こんどはゆめではなくおまへはほんとに我が家へ戾つて來る。わたしは指折り數へて、その日を心強く待つた。おまへを乘せた船はもう印度洋を渡つたといふ、おまへを乘せた船はシンガポールに着いたといふ、おまへを乘せた船はあと一週間で神へ歸つて來るといふ、そんなうれしいたよりをききながらも、わたしはわたしをどうにも出來なかつたのだね。とうとうわたしはおまへの歸りも待たずに死んで行つてしまつた。

 おまへの船が神港に着いた時、わたしはもう燒かれて骨になつてゐた。あの賑やかな歡迎の嵐の中から、ひよつくりおまへは片隅へ攫はれて行つた。おまへの兄からわたしが死んだことを聞かされても、おまへは啞のやうに默つてゐた。やがておまへは汽車に乘せられて、鄕里へ戾つて來た。おまへが戾つて來た家にはわたしの新しい位牌と死顏を撮つた寫眞が待つてゐた。それを掌にしておまへははらはらと淚を零した。がつかりしたことであらう。わたしは遠くではらはらするばかりだつた。

 それでもその晚おまへは部屋一杯にお土産の品を取出して竝べた。獨逸製のカメラやチエツコスロバキヤの繪葉書や、巴里のコンパクトやシンガポールの鰐の剝製から支那の墨まで、いろんなものがあつた。そんなにどつさり持つて歸つたものをわたしに見せたかつたのだらうに、おまへのあてもわたしのあてもすつかりはづれてしまつた。

 おまへはあてがはづれたやうな顏で間もなく上京してしまつた。それから後のことはわたしにはもうどうにもならないことだつた。わたしは遠くからはらはらするばかりだつた。わたしはおろおろと祈りつづけた。

 わたしがなくなつてからおまへの氣持はだんだん欝いで[やぶちゃん注:「ふさいで」。]荒んでいくやうであつた。おまへが性の知れない女と交際つたり、洒に溺れてゆくやうになつたのもその頃からだ。その度にわたしはどうしていいのか分らなかつた。もともとわたしが甘やかしすぎて育てたためかもしれなかつたけど、おまへはほかの子と違つて父親の顏も憶えてゐない不愍の子だ。片親だけで育てられてやつと一人前になりかかつた頃またわたしといふものを亡くしてしまつたのだ。オリンピツクへ出發する際の際までおまへはわたしを呶鳴り散らしたりした。そんな我儘なおまへのことだ。そのおまへの我儘のはけ口が急に無くなつてしまつたのだ。おまへは世間と衝突したり、荒廢の底に沈んだ揚句には、おまへはわたしの亡き名を呼んでくれた。お母さん、よく思ひきり撲らしてくれましたと、おまへはそつとわたしに呼びかけてくれた。おまへはわたしの命日を每月ちやんと憶えてゐてくれた。そんな風なおまへが世間からだんだん惡く云はれてゐると、おまへは自分でさう思ひ込んだ。そしておまへの眼つきは悲哀の怒りに燃えてゐた。

 そのうちに支那事變が始まつたのだつた[やぶちゃん注:昭和一二(一九三七)年七月七日の「盧溝橋事件」を発端として開始した。]。天にかはりて不義を打つ[やぶちゃん注:軍歌「日本陸軍」(大和田建樹作詞・深沢登代吉作曲)の第一番第一節。明治三七(一九〇四)年七月発表。ウィキを見られたい。レコードが聴ける。]……あれはわたしが若い頃憶え込んだ勇しい歌の一つだ。おまへも微かに憶えてはゐないか。雪の降つた朝、わたしはおまへを炬燵に入れて、おまへの小さな頭にはすつぼり蒲團をかむせて、そして、節おもしろく歌つた。歡呼の聲に送られて今やいで立つ父母の國と。さうすると、おまへは小さな掌を振つて、やはり浮き立つたものだ。あれはおまへの子守唄の一つだつた。雪の降つた朝、何か勇み立たうとする氣持で、わたしは若い日をとりもどしたやうに歌つたものだ。その歌があちらでもこちらでも歌はれだした。事變は愈進んで行つた。その頃から、おまへは今日の日あるを覺悟してゐたのであらうか、おまへの顏の底には決意の表情が潛められてゐた。しかし、若い日をせめて學生の間は思ひきり遊べと、おまへは自分で自分に決めてしまつたね。そして墮落學生の頽廢記錄、おまへは自分で自分を苦しめて行つた。おまへは疲れてアパートの部屋に戾ると押入からわたしの舊い手紙を取出して、皺を伸して讀みかへし、何がなし淚ぐんだりしてゐた。おまへはその以前送金が多いと苦情云つてやつたわたしの手紙に合掌して、アルバムに貼つてしまつた。わたしが生きてゐたら、おまへはわたしにあたりちらしたに違ひない、そんな風に何か苦しいことに苛まれてゐるおまへの顏であつた。あれはわたしの三回忌のあとさきのことだつた。おまへが選手を廢めてしまつたのもその頃だつたね。それから後もおまへの破綻の多い、しかし、二度と返らぬ日々が續いて行つた。おまへは二度と返らぬ日々を惱み樂しみながら生きて行つた。

 そして、おまへは卒業と同時に就職すると、檢査では甲種合格になつたのだつたね。わたしの家からもせめて一人は御奉公に出したいと思つてゐた、わたしの願ひがかなつたのだ。それにしてもおまへは小學校では心臟辨膜病と診斷された位だから、運動を控へるやうにわたしは度々云つたものだ。それをおまへはおまへで體が惡けりや態と運動してやると云つて、とうとうそのうちにスポーツがおまへの生命となつたほどだから、おまへの體は奇蹟のやうに立派になつた。おまへの體格は誰にも劣らないほどもう立派になつたものだ。しかし、おまへが一人前になるまでにはどんなにわたしはハラハラしたことか。おもへばまだ昨日のやうに鮮かな出來事がある。京都の姉の處へわたしがおまへを連れて行つたのはおまへが七つ位の時のことだつた。おまへは支那料理屋で胡椒の甁を弄んでゐた拍子に、蓋がとれて、胡椒が眼に這入つた。お前は痛がつて泣き叫ぶ、わたしはどうしていいのかわからない。突嗟におまへを疊の上にねぢ伏せて、おまへの眼をわたしはわたしの舌で舐め𢌞した。おまへの眼の粉がすつかり吸ひとれる迄、わたしは夢中で胡椒を吞みこんだものだ。そんなことを一つ一つおまへはとても憶えてはゐないだらうが……。

 この春、おまへの緣談が纏まりかけた時、おまへは珍しいほど乘氣になつてゐた。ところが先方で神樣に判斷して貰つたと云つて斷つて來ると、おまへはもうけろりとしてゐた。これも亡き母上の意志なのだらうと、おまへはきつぱりと前方を睥んで[やぶちゃん注:「にらんで」。]進んだ。おまへが考へてゐることはもう前方にしかなかつたのだ。

 その日がそしてとうとう[やぶちゃん注:ママ。]やつて來たのだね。おまへは明日入營するのだ。おまへは近くまた日本を離れて遠方へ行くだらう。何處へ行かうと、最後の最後まで、おまへはわたしのことを忘れはすまい。

 良雄や 良雄や 良雄や

 わたしの聲を限りに叫ぶ見送りの聲が聞えますか。

 

 良雄さんもとうとう明日は入營ですか。わたしはお招きされたので、汽車に乘つて今夜やつて參りました。實は日どりを一日間違へて送別祝ひには間にあはなかつたのです。そのかはり今夜はしんみりと過せます。

 何から申上げていいのやら、わたしはただただ茫とするばつかしです。ここへ參つたのも久し振りで三年になりますか四年日になりますか、隨分御無沙汰してをりました。伺つてみれば、やはり同じやうに家があつて、わたしの住み慣れた臺所が御座います。そして見違るやうに大きくなられた良雄さんが居られます。わたしはもう何も彼も夢ではないかと思へるのです。昔のことが夢なら今の今も夢ではないかと胸は一杯に塞がられます。こんなに心が弱くなつたのも身體が衰へて、もう老さき短かい身の上のためでせう。折角おめでたい明日の入營に泣いたりしてはいけないと思つてをります。おばんはあなたを見送りするまでは泣くまいと誓つてをります。でも、やはり年寄は昔のことが思ひ出されてなりません。あなたが生れられた時、お産の手傳に行つたのもこのおばんです。あなたはまだ誕生を迎へられないうちに、お父さんとお別れになりました。お父さんのお葬ひの時もわたしは手傳に參りました。その頃はもうわたしも配偶と死別れてをりましたが、まだまだ體は元氣でしたよ。供米の四斗俵を一人で抱へて男の人を驚かしたことさへ御座います。あなたのお父さんが亡くなられてから、あなたのお母さんが亡くなられるまで、ざつと二十年以上もわたしはここの家で暮したのです。良雄さんのことなら、おばんは何から何まで知つてゐるつもりです。

 あなたに匙でお粥を食べさせたのも、背に負つてお守りしたのもみんなこのわたしです。あなたが箸を使へるやうになつた時あなたはぎつちよの癖がありましたね。その癖を直さうとして隨分おばんは教へてあげましたよ。それでどうやら箸だけは右手で使へるやうにしてあげました。が、やはりあなたは左手の方が都合よささうでした。妙なものでその左利[やぶちゃん注:「ひだりきき」。]があなたのスポーツでは重寶がられたと云ひますね。さう云へばあなたは日月ボール[やぶちゃん注:剣玉のこと。]でも何でも左手で器用にやられました。日月ボールと云へばよくあんなに流行つたものです。それから片足をのつけて走る木の車、あれも隨分流行りましたね。片手に日月ボールを持つたあなたを連れて、練兵場へ兵隊さんを見に行つたのも、たつた昨日のやうな氣持がします。ほんとにあの頃はわたしもまだ元氣だつたし、何だか今も懷しくてたまりません。

 あの頃あなたは練兵場で馬の側へ行くと、よく怕がられましたが、今でもやはり馬が怕いのでせうか。さう、一度あなたは魚屋の鱧[やぶちゃん注:「はも」。]を弄つてゐて指を嚙まれたこともありましたね。

 それからあなたが小學校へ行かれるやうになると、だんだん腕白小僧になられました。あなたの姉さん達を泣かせたり、近所の子供を撲つたり、どうかするともうその頃からおばんも負ける位でした。ほんとに手に負へなくなつたのは、あなたが中學生になられてからです。あなたの兄さん達は中學生になるとみんなもう大人しくなられたのに、あなたばかりは何時までも腕白でした。お母さんの腕をパチパチ叩いて怒らしたり、わたしの腕をねぢ上げて泣かせたり、それがあなたの力は並大抵の力ではなかつたのですもの、ほんとにみんな弱らされましたよ。

 さうかと思へばわたしが折角作つてあげた食事が氣に入らないと、「おばん」とあなたは大聲で呶鳴ります。「おばんうどん貰つて來い」と、三度に一度はきつとかうです。またいつでも夏になると、「おばん、アイスキヤンデー買つて來い」とかう云はれました。大學生になられても夏休みにお歸りになると、やはりアイスキヤンデーでしたね。

 あゝあなたは休暇でお歸りの時はわたしにまで土産を下さいました。

 あなたが中耳炎で入院されたのはオリンピツクへ行かれる前の年でしたかしら、あの頃はわたしの身の上にも不幸が重なつてをりましたが、あの折ずつと病院で附添したのもわたしです。あの時、あなたはわたしの息子の不幸をしみじみ聞いて下さいました。わたしの息子が出來心から犯した罪を、それよりこのわたしの苦しさを、淚ぐんで聞いて下さいましたね。そして人間はみんな罪深いのだと、あなたはさう云つて慰めて下さいました。それからあそこではこんなこともありましたね。あなたは「向うの山に猿が三匹通るが……」といふ歌をわたしに歌へと請(せが)まれました。むかしあなたを寢つかせる時よく歌つた歌です。それを大學生のあなたがわたしに歌へと仰しやるのです。わたしは馬鹿らしくてお斷りするとあなたはどうしても歌へと仰しやつて承知されません。とうとう[やぶちゃん注:ママ。]「向うの山に……」をやらされました。

 それからあなたは女の寫眞を四、五枚取出してわたしに見せ、いいだらうどれが好きかとあなたは云はれました。この別嬪さんたちは何ですと聞くと、いや何でもないさ、とあなたはつまんなさうに云はれました。隨分大人になられたと、あの時も思つたものですが今度お目にかかると、又一段と立派になつてをられます。あなたがお母さんの臨終に間にあはず四五日違ひでオリンピツクからお歸りになつた時のことも思ひ出します。あの時わたしはあなたのために早速小豆を焚いてあげましたよ。うん、日本の小豆かとあなたは滿足さうに召上つた。

 ああ、今夜も隨分遲くなりました。明日はお早いのですからもうお休みなさいませ。明日の朝御飯は久し振りでわたしが給仕してあげます。あゝ、それからあなたの好きな煙草、光を土産に持つて參りました。立派な兵隊さんになつて下さい。立派な兵隊さんになつて下さい。おばんは嬉しう御座いますよ。

 

 十二月一日。緊張した面持で良雄は小學校の校庭に立つてゐた。他所の町から來た訓練服の靑年が六人、良雄は一番端に立つてゐた。その後には見送りの人が一杯詰めかけてゐた。やがて萬歳が三唱された。良雄達は引率されて練兵場の方へ向かつた。ごく身内の見送り人がその後に從いて[やぶちゃん注:「ついて」。]ぞろぞろと進んだ。一行の足なみは速く、もう練兵場の中に來てゐた。聯隊へ行く櫻並木があつた。ここからさきはもう見送りの人々も這入れないのであつた。良雄達は前方を向いて、とつとと步いてゐた。しかし、ふと振返ると、今迄送つて來た人々が遠くに一塊りになつて立留まつてゐる。兄、姉、嫂、甥、おばん、それらの顏に交つて、良雄はちらりと母の姿を見たやうな氣がした。

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