山中 國木田獨步
山 中
山路たどれば煙が見ゆる
谷の小川に藁流る
何處の誰がおすみやるか
峰の松風さびしかろ
[やぶちゃん注:「山中」の読みは確定出来ないが、隠逸詩的「迷ひ家(が)」的雰囲気からは「さんちゆう」がよかろう。初出は『國民新聞』明治二八(一八九五)年八月十六日附で、標題は「獨步吟」で、無題。次の「沖の小島」と併載された。初出では「小川に藁流る」が「小川に藁がある」となっている。さても、このクレジットを見ればお判りの通り、これが本「獨步吟」詩群の中の最初の発表作であった(無論、これ以前にも単発的に「頭巾二つ」「失戀兵士」等の詩篇は発表されており、それは底本の後の「拾遺」パートにある)。この翌日の同じ『國民新聞』に「獨步吟(二)」(先に公開した「夏の夜」に改題されて「抒情詩」の「獨步吟」に収載。因みに、言っておかねばならないことは、「抒情詩」の「獨步吟」内での詩篇の並びは編年ではない点である。お間違いなきように。そのためにも私は初出のクレジットを示しているのである)・「友に與ふ」(「獨步吟」には収録されなかった。底本の後の「拾遺」パートにある)・「獨步吟(三)」(同前)が発表されている。底本の中島健藏氏の解題によれば、これら、『『國民新聞』に出た七篇の署名は、いずれも「てつぷ」であった。彼が國木田哲夫の哲夫から、鐡斧、あるいは鐡斧生、そして「てつぷ」という假名を作つて用ひたのは、これが初めてでない』。しかしながら、『國木田獨步の「獨步」は、まだ署名には用ひられず、作品の題名の「獨步吟」がまづあらはれたわけである。詩の總題としての「獨步吟」がつづいて用ひられ、やがて「獨步吟客」といふ筆名が生れ、つひに「國木田獨步」となるのである』と述べておられる。即ち、詩篇に限って署名を辿って確認してみると、「抒情詩」刊行時点では、國木田獨步は國木田獨步ではなかったのであり、「獨步吟」とは「獨り步みて吟じたる詩篇」という一般名詞を総標題としての固有名詞化したに過ぎないものであることが判るのである。中島氏の記載を確認する限りでは、「獨步吟客」の署名は、後の詞華集「靑葉集」に改題されて所収される「久方の空」の初出、明治三〇(一八九七)年五月発行『國民之友』に発表した「高峰吟」から或いはその直前辺りから使用されたものと思われるのである。同年の八月十日発行の『文藝俱樂部』に彼は名品小説「源おぢ」(発表時は「源叔父」)を発表しているが、雑誌表紙及び目次には「國木田獨步」の署名で載るものの、本文には「獨步吟客」とすることからも、この時期を國木田獨步(当時満二十六歳)のペン・ネーム誕生時期としてよいと私は思う。]