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2019/04/30

酒吞み唄 伊良子清白

 

酒吞み唄

 

上戶(じやうご)神樣下戶(げこ)乞食

上戶御宮(おみや)に鎭座まします

下戶は伊丹(いたみ)の薦(こも)かぶり

樽に目鼻のへのへのもへの

ごろりころげる道の上

上戶はあれど下戶はない

下戶のたてた倉もない

上戶長生き五百八十年

七福神はいづれも揃うてお酒吞み

天の美祿と申すとかや

八千代の樽酒でさく

花見て月見て雪見て暮らす

     いつも正月

醉うてのむ酒とうたらり

鳴るは瀧の水

瀧の水さへ酒に成る

酒のみ櫓を押しや船が浮かれる

うかれるうかれる

海も山も踊り出す

踊り出したら縱橫無盡

天下におそるる敵はない

世界に憎い奴もない

やつさ飮め飮め

一寸先や闇よ

のまにや甘露(かんろ)が水に成る

 

[やぶちゃん注:初出未詳。

「下戶は伊丹(いたみ)の薦(こも)かぶり」初行で酒の飲めない「下戶(げこ)」を「乞食」と比し、「上戶(じやうご)」の「神樣」は「御宮(おみや)に鎭座まします」と振ったので、「下戶(げこ)」の「乞食」をかく「道」に物貰いする「薦(こも)かぶり」(乞食の異称蔑称)でさらに言い換え、それに酒樽として知られる「伊丹」の四斗樽を盛り飾る「薦(こも)」を掛けたもの。]

屑屋の籠 伊良子清白

 

屑屋の籠

 

八千八聲のほととぎす

     路地(ろぢ)で啼く

 屑屋の籠はおもしろや

女の痴話文(ちわぶみ)まづ可笑し

三下(みくだ)り半は

投げのなさけのあとはかなしや

引き裂いた

寫眞をえこそ燒きもせで

大象も繫ぐ丈(たけ)なす黑髮は

 

色慾の奴(やつこ)ひたすらに

     憂身(うきみ)を寠(やつ)す

さつても笑止の

     紅(あか)い手がらが

秋の枯葉と色槌せて

月も盈(み)ち缺け

櫛の小割(こわ)れは緣起でないよ

男もすなる白粉の壺

とかくうき世はぎあまんの

破(わ)れもの用心さつしやりませ

練物(ねりもの)の

珊瑚の珠は土臭い

鬼一口の餡ころと

見たい小さい阿婆(あば)の髷(わげ)

靑丹(あをに)よしレーヨンもまじる

     絲の縒屑(よりくづ)

光る針、チクリ、

ねぶたい眼をさます

ランプの下の暗がりに

はばかりあるもの選り分けて

寶探しは七福神

その筆頭(ふでがしら)夷(えびす)の三郞

えびで鯛釣る

山吹色が

そりやこそ出たぞ

 

[やぶちゃん注:初出未詳。変わった対象・素材を使ってうまく捻り、なかなか面白く作っている。私自身、十全に説明するほど理解しているわけではないが、やや艶笑的な含み(暗示)もあるように思われる。

「八千八聲」は「はつせんやこゑ(はっせんやこえ)」と読む。「八千八声啼いて血を吐く杜鵑(ほととぎす)」の成句で知られ、ホトトギス(カッコウ目カッコウ科カッコウ属ホトトギス Cuculus poliocephalus)がしきりに鳴く時の声をいう語。

「練物(ねりもの)の」「珊瑚の珠」江戸時代の昔から珊瑚に似せた、鉱物粉末や樹脂、私の記憶するところでは卵白などを練っては偽の珊瑚玉を作ったものである。現在は合成樹脂のそれも横行している。

「阿婆(あば)」「すれっからし」「世間ずれしていて厚かましい」「身持ちが悪い」の意の、本来は男女共通に使用される語。ここはそうした女。

「筆頭(ふでがしら)」韻律から訓じたに過ぎぬと私は読む。

「夷(えびす)の三郞」七福神の恵比須のこと。日本神話の蛭子神(ひるこのかみ)は伊耶那岐・伊耶那美の第三子であるとされるが、「蛭子」の字面及び「えびす」も「ひるこ」もともに海に関わる神であることから、両神が混同されたものであろう、と小学館「日本国語大辞典」にはある。]

秋曉 伊良子清白

 

秋 曉

 

赤い日一つ

くろい島三つ

白い帆五つ

靑い海七つ

夜明けは六時

 

[やぶちゃん注:初出未詳。]

寢鵜捕り 伊良子清白

 

寢鵜捕り

 

島のお月夜

  ころころ寢鵜(ねう)

羽根にうづめて

  首がない

 

島の岩窟(いはや)の

  お月さんはくらい

寢鵜は巢にねる

  うづくまる

 

寢鵜を捕る船

  月夜に來るよ

棹をさしさし

  音もせず

 

寢鵜を捕るには

  女がとるよ

白いをんなの

  手がとるよ

 

寢鵜はころころ

  月夜も知らず

ほわり抱かれた

  手も知らず

 

寢鵜はとられて

  月夜の船で

黑い羽根伸(の)す

  首あげる

 

寢鵜の啼ごゑ

  波々こえて

月の遠潮

  よびかける

 

[やぶちゃん注:初出未詳。この「寢鵜捕り」というのは、恐らく嘗つて伊勢湾で行われていた鵜飼用のウミウ(カツオドリ目ウ科ウ属ウミウ Phalacrocorax capillatus)の捕獲を指すものと思われる。ウィキの「長良川鵜飼」によれば、岐阜県岐阜市の長良川で毎年五月十一日から十月十五日まで行われる長良川鵜飼で用いる鵜は、嘗て、『昭和初期までは伊勢湾』の『海鵜を捕獲していたが、現在は茨城県日立市の鵜の岬で捕獲している』とあるからである。伊良子清白のこれは嘱目か。ロケーション位置を特定出来ればいいのだが。鳥羽近辺でも行われていた可能性は高いと思う。識者の御教授を乞う。]

大護摩詣り 伊良子清白

 

大護摩詣り

 

竹の籠頭にのせて

楊梅賣(やまももうり)が

今日も海邊の里に來る

梅雨(つゆ)明けの

焦(こ)げつくやうな炎天に

海は紺靑(こんじやう)燃える潮(しほ)

世義寺(せぎでら)の

大護摩(おほごま)焚(た)く日なり

海見れば

高々と旗はうつくし

ほのぼのと白帆は涼し

島々の

船の賑はひ

こどもも乘せて

護摩じやごまじやと

ほたえてゆくよ

 

註 世義寺は宇治山田市にある古刹、護摩の供養は陰曆六月七日に行はる。

 

[やぶちゃん注:以上の注は底本では本文ポイント一字下げでポイント落ちであるが、ブラウザの不具合を考えて、引き上げた。初出未詳。

「楊梅(やまもも)」ブナ目ヤマモモ科ヤマモモ属ヤマモモ Morella rubra。六月頃、黒赤色の果実を結び、甘酸っぱく、生で食べられる。

「世義寺(せぎでら)」三重県伊勢市岡本にある教王山(きょうおうざん)神宮寺宝金剛院世義寺(グーグル・マップ・データ)。現在は毎年七月七日の七夕の「柴燈大護摩(さいとうおおごま)」、通称「ごまさん」と、子どもの命名の祈祷で知られる。参照したウィキの「世義寺」によれば、『以前は大護摩で火渡りが行われたが、一般人には危険であるとして』二十『世紀末に廃止された』。『護摩札による祈願成就と護摩木の授与が行なわれ、護摩木は農地の虫除けや家屋の魔除けになるという』とある。]

柳田國男 山島民譚集 原文・訓読・附オリジナル注「馬蹄石」(16) 「駒形權現」(2)

 

《原文》

 駒形ト云フ神ハ、必ズシモ延喜式ナドヲ搜索セズトモ、現代諸國ノ平地ニイクラモ之ヲ祀リテアルコトハ事實ナリ。但シ其分布ガ東北ヨリモ寧ロ關東ノ諸國ニ多キハ、多分ハ箱根ノ感化影響ナルべシ。而シテ山城朝初期ノ駒形神ガ如何ナル御神ナリシカハ不明トシテモ、近世ノ駒形權現ガ馬ト深キ關係アリシコトハ爭フ能ハズトス。【箱根緣起】箱根ニハ今ヨリ四百五十年前ノ緣起殘存ス。鎌倉時代ノ記錄ニ基キテ起草ストアリテ、ホボ又吾妻鏡ノ記事トモー致スレドモ、其神ノ由來ニ至リテハ固ヨリ本居平田兩大人ノ神道ニテハ之ヲ說明スル能ハザルト同時ニ、佛敎ヨリ言フモ尙且ツ一種ノ異端ナリシガ如ク、密宗ノ曼陀羅思想ヲ以テ辛クシテ之ト聯絡ヲ保チ得タリシ姿アリ。【仙人】最初此山ニ三代三人ノ異人出現ス。其名ヲ聖占仙人利行上人及ビ玄利老人ト謂フ。聖占ハ高麗權現即チ駒形神、利行ハ能善神、玄利ハ即チ高根神(タカネジン)ナリ。【比丘尼】此山ニハ右ノ三神ニ奉仕スル爲ニ多クノ修驗者ト比丘尼ト住ミタリト云フコトナルガ、彼等ハ果シテ本山當山ノ行人タチノ如ク、佛道ニ染メ上ゲタル者ナリシカ否カハ疑問ナリ。山ヲ降リテ村々ニ勸請セラレシ駒形ニモ、頗ル後世ノ富士行者ノ如キ面目ヲ存セシ者アリキ。【御生題】例ヘバ相州酒勾(サカワ)村ノ鎭守駒形社ノ如キ、祭神ヲ鸕鷀草葺不合尊ト稱シテ木ノ御立像ヲ安置スル外ニ、別當寺ニ御生題(ミシヤウダイ)ト稱スル銅鏡ニ鑄出シタル神像アリ。唐服ヲ著タル仙人ノ如キ姿ニシテ、其鏡ハ普通ノ懸佛ト云フ物ト同ジカレドモ、兩側ノ紐附ノ耳ニ當ル場所ニ奇怪ナル人ノ顏ヲ鑄出シ、裏面ニハ天文二十二年駒形大權現御生題ト刻シタリキ〔新編相模風土記〕。御生題ハ勿論御正體ノコトナランモ、兎ニ角ニ一種異樣ナル信仰ノ對象ナリ。甲州其他ノ地方ニ御生題山ト云フ高山アリ。中古修驗道ノ遺跡ナラント思ヘド、土地ノ人モ多クハ地名ノ由來ヲ說明スルコト能ハズ。

 

《訓読》

 駒形と云ふ神は、必ずしも「延喜式」などを搜索せずとも、現代諸國の平地に、いくらも之れを祀りてあることは事實なり。但し、其の分布が、東北よりも、寧ろ關東の諸國に多きは、多分は、箱根の感化・影響なるべし。而して、山城朝初期の駒形神が如何なる御神なりしかは不明としても、近世の駒形權現が馬と深き關係ありしことは、爭ふ能はずとす。【箱根緣起】箱根には今より四百五十年前の緣起、殘存す。鎌倉時代の記錄に基きて起草すとありて、ほぼ又、「吾妻鏡」の記事ともー致すれども、其の神の由來に至りては、固(もと)より、本居(もとをり)・平田兩大人(だいじん)の神道にては、之れを說明する能はざると同時に、佛敎より言ふも、尙且つ一種の異端なりしがごとく、密宗の曼陀羅(まんだら)思想を以つて、辛(から)くして、之れと聯絡を保ち得たりし姿あり。【仙人】最初、此の山に、三代三人の異人、出現す。其の名を「聖占(せいせん)仙人」・「利行(りぎやう)上人」及び「玄利(げんり)老人」と謂ふ。「聖占」は「高麗(こま)權現」、即ち、「駒形神」、「利行」は「能善神(のうぜんしん)」、「玄利」は、即ち、「高根神(たかねじん)」なり。【比丘尼(びくに)】此の山には、右の三神に奉仕する爲めに、多くの修驗者と比丘尼と、住みたりと云ふことなるが、彼等は果して本山・當山の行人(ぎやうにん)たちのごとく、佛道に染め上げたる者なりしか否かは、疑問なり。山を降りて、村々に勸請せられし駒形にも、頗る後世の富士行者のごとき面目(めんぼく)を存せし者、ありき。【御生題(みしやうだい)】例へば、相州酒勾(さかわ)村の鎭守駒形社のごとき、祭神を「鸕鷀草葺不合尊(うがやふきあへずのみこと)」と稱して木の御立像を安置する外に、別當寺に「御生題(みしやうだい)」と稱する銅鏡に鑄出したる神像あり。唐服(たうふく)を著たる仙人のごとき姿にして、其の鏡は普通の懸佛(かけぼとけ)と云ふ物と同じかれども、兩側の紐附(ひもつき)の耳に當る場所に、奇怪なる人の顏を鑄出し、裏面には「天文二十二年[やぶちゃん注:一五五三年。]駒形大權現御生題」と刻したりき〔「新編相模風土記」〕。「御生題」は、勿論、「御正體(みしやうたい)」のことならんも、兎に角に、一種異樣なる信仰の對象なり。甲州其の他の地方に「御生題山」と云ふ高山あり。中古修驗道の遺跡ならんと思へど、土地の人も多くは地名の由來を說明すること能はず。

[やぶちゃん注:「山城朝初期」平安京初期。

「今より四百五十年前」本書は大正三(一九一四)年刊であるから、室町最末期の寛正五(一四六四)年前後か。但し、現在の箱根神社にある「筥根山縁起并序」は建久二(一一九一)年に箱根権現別当行実が編纂したものとされ、これだと七百二十三年前だが? ところが、「有鄰」の「座談会 箱根神社とその遺宝」こちらを読むと、これとは別に通称「箱根権現縁起」と言われる「箱根権現縁起絵巻」(最初の部分は欠落しており、正式名称は不明)という重要文化財指定の絵巻があり、そこに箱根権現の縁起が示されてあるとあるのだが、しかし、それも鎌倉末期の成立とあるのだ(因みに、座談会の後のこちらには、箱根神社は豊臣秀吉によって社殿は全部焼かれてしまったと書いてもあった)。後者のことを言っていることが以下の三異人(正体を柳田國男は簡単に言い換えて明かしているけれど、私にはこういう異名同定学は何かよう分らんがのぅ?)の内容から判るが、それでも不審やなぁ? 或いは、当時は「四百五十年前」の作と過少に推定されていたんかなぁ? ともかくもここに書かれているのは公式の「箱根元宮」や、こたつむり氏のサイト内のこちらにも書かれてある。「四百五十年前」意味分らん!?!

『「吾妻鏡」の記事』前段参照。

「本居(もとをり)」本居宣長。

「平田」平田篤胤。

「利行(りぎやう)上人」これ、ネット上を調べると、公式も個人も皆、「利行丈人」とかいてあるんですけど? 柳田國男の誤字?

「御生題(みしやうだい)」後注に見る通り、「新編相摸國風土記稿」では「御正體」(「みしょうたい」(現代仮名遣)とも読む。御神体。また、狭義には、神仏習合の考えによって神体である鏡に本地仏の像を示した鏡像又は懸仏を意味する)の誤りとする。

「相州酒勾(さかわ)村の鎭守駒形社」現在の神奈川県小田原市酒匂にある酒匂神社(合祀? 但し、以下の引用に出る持分とする「南藏寺」は東一キロメートルに現存する)らしい。「神奈川県神社庁」公式サイト内のこちらに「駒形神社」を併記する。ちょっと興味が湧いたので調べたところ、「新編相摸國風土記稿卷之三十六 村里部 足柄下郡卷之十五」の「酒勾村」に図入りであった。国立国会図書館デジタルコレクションの「大日本地誌大系」版のこちら図も国立国会図書館デジタルコレクションの画像をトリミングして使用した。割注は〔 〕で示した。

   *

○駒形社 村の鎭守なり、 祭神鸕鷀茅葺不合尊、〔木立像、長二尺〕又當社御生題と〔按ずるに、正體の誤なるべし〕號して、銅鏡面に像を鑄出せしものを、別當寺に置、天文廿二年、岡部出雲守廣定の寄附する所なり、其圖左の如し、

Sakawakomagatakakebotoke

[やぶちゃん注:「裏」の刻印は以下。

   奉寄進

 駒形第權現御生題

 相州西郡酒匂鄕代官

 ?部出雲守廣定

  天文廿二七月二日]

同時小島左衛門太郎正吉も又生題二面を寄附す、こは中古失へり、〔村民德右衛門家乘に、其銘の寫あり奉寄進駒形大權現御生題、相州西郡酒勾鄕、旦那小島左衛門太郎正吉、天文廿二癸丑七月二日、德右衛門は卽正吉が裔なり、〕按ずるに、【北條役帳】幻庵内室の知行中に、四十貫二百五十文酒勾内駒形分と見ゆ、則當社の事なり、本地十一面觀音、〔別當寺の本尊是なり、〕例祭七月七日、〔當社及八幡の神輿を舁て村内を巡行す〕元和七年、領主阿部備中守正次、先規に任せ供免五石を寄附す、〔德右衛門家乘に、寄附狀の案あり、曰、相州西群酒勾鄕、駒形權現社領之事、田畑五石地也、但御供免、御祭免、御造家免、右之分如前々相違有間鋪者也、元和七年十二月、阿部備中守内、内藤覺右衛門印、下宮理右衛門印、小島主水へ參とあり、〕今も社地の外供免五石六斗餘の除地を附す、幣殿・拜殿等あり、 寬永五年の鰐口を掲ぐ、社地に供所及神木古松一株あり、【圍一丈八尺】南藏寺の持、[やぶちゃん注:以下、摂社・末社の記載は略す。]

   *

しかして、これ、存在しないのが、実に惜しい。

「鸕鷀草葺不合尊(うがやふきあへずのみこと)」彦火火出見尊(山幸彦)の子。母は豊玉姫。「日本書紀」によれば、彼が誕生した産屋は全て鸕-鶿(う)の羽を茅(かや)代りにして葺いたが、屋根の頂上部分をいまだふき合わせぬうちに生まれ、茅に包まれ、波瀲(なぎさ)に棄てられたとする(ウィキの「ウガヤフキアエズ」に拠った)。

「甲州」「御生題山」山梨県都留市と南都留郡道志村に跨る御正体山(みしょうたいやま/さん)のことか(グーグル・マップ・データ)。ウィキの「御正体山」によれば、『古くは養蚕の神の山として敬われた。江戸時代後期の』文化一〇(一八一三)年に『美濃の僧妙心が入山し、人々の信仰を集めた』。文化十四年に』『妙心は山中で入定する。妙心のおひしゃり(ミイラ)は山内の上人堂に祀られていたが、明治の廃仏毀釈によって山からおろされてしまった。京都の博覧会などに展示されるなどした後、故郷である岐阜県揖斐川町の横蔵寺に祀られている』。『山頂には御正体権現が祀られ、都留市小野に里宮である若宮神社がある。「正体」という言葉は本来、「日本のカミガミは仮の姿であり、その正体はインドの仏である」と主張する本地垂迹説に由来する仏教用語』(但し、ここには要出典要請が掛けられている)とも言い、『他方』、『「権現」は、同じく仏教用語で、インドの仏が仮の姿で、つまり日本のカミとして現れたものを意味する』とも言う(同前の要請有り)。『従って、「正体」と「権現」は相互に相容れない概念であると考えられ、山頂に祀られた「御正体権現」に仏教もしくは神道の教理上いかなる位置づけが与えられているのかは明らかでない』とある。]

和漢三才図会巻第三十九 鼠類 ※(「※」=「鼠」+「番」)(しろねずみ) (ドブネズミ及びハツカネズミのアルビノ或いは白色個体)

 

Sironezumi

 

 

しろねすみ  白鼠

【音樊】

[やぶちゃん注:「※」=「鼠」+「番」。]

 

△按※白鼠也非老鼠變色者而自一種也故往往見小

 ※然不多人以爲福祥且謂大黒天使會有之者多出

 於米倉

 

 

しろねずみ  白鼠

【音「樊〔(バン)〕」。】

[やぶちゃん注:「※」=「鼠」+「番」。]

 

△按ずるに、※〔は〕白鼠なり。老鼠〔の〕色を變ずる者に非ずして、自〔(おのづか)〕ら一種なり。故に往往、小〔さき〕※を見る。然れども多からず。人、以つて福祥と爲し、且つ、「大黒天の使ひ」と謂ふ。會(たまたま)之れ有るは、多く、米倉より出づ。

[やぶちゃん注:小学館「大辞泉」では、毛が白いネズミで、福の神の大黒 の使者といわれ、古来、吉兆とされたとしつつ、一番にドブネズミ(齧歯目リス亜目ネズミ下目ネズミ上科ネズミ科クマネズミ属ドブネズミ Rattus norvegicus)の飼養白変種(アルビノ(albino)でないものも含まれるという)で動物実験用、「だいこくねずみ」「ラッテ」(ラット(rat)と同じであろう)とし、二番目にハツカネズミ(ネズミ科ハツカネズミ属ハツカネズミ Mus musculus)の飼養白変種(アルビノ)で「マウス」(mouseとする。なお、京都大学准教授で実験動物学専攻の庫本高志氏の公式サイト内の「江戸時代の鼠ガイドブックを解説」を見ると(庫本氏の考証論文も読めるPDF)のであるが、英文で読み解く元気が今の私にはない)、やはり、江戸時代に愛玩用として飼養されていたのは(前の「鼠」の注で荒俣宏氏の引用で既出)上記の二種(或いはそのまた改良品種)であることが判る。

「大黒天の使ひ」「大黒天」は小学館「日本大百科全書」によれば、元来は『ヒンドゥー教の主神の一つで、青黒い身体をもつ破壊神としてのシバ神(大自在天)の別名であり、仏教に入ったもの。サンスクリット語のマハーカーラ』の漢『訳で、摩訶迦羅(まかから)と音写。マハーカーラは偉大な黒い神、偉大な時間(=破壊者)を意味する。密教では大自在天の眷属』『で三宝』『を愛し、飲食を豊かにする神で黒色忿怒』『相を示し、胎蔵界曼荼羅』『の外金剛部に入れられている。七福神の一つ』。『中国南部では床几』『に腰を掛け』、『金袋を持つ姿になり、諸寺の厨房』『に祀』『られた。わが国の大黒天はこの系統で、最澄』『によってもたらされ、天台宗の寺院を中心に祀られたのがその始まりといわれる。その後、台所の守護神から福の神としての色彩を強め、七福神の一つとなり、頭巾』『をかぶり左肩に大袋を背負い、右手に小槌』『を持って米俵を踏まえるといった現在よくみられる姿になる。商売繁盛を願う商家はもとより、農家においても田の神として信仰を集めている。民間に流布するには天台宗などの働きかけもあったが、音韻や容姿の類似から大国主命』『と重ねて受け入れられたことが大きな要因といえよう。また、近世に隆盛をみた大黒舞いの芸人も大きな役割を果たしたようである。大黒柱などの名とともに親しまれており、東北地方では大黒の年取りと称して』、十二『月に二股』『大根を供える行事が営まれている』とある。荒俣宏氏は「世界大博物図鑑 5 哺乳類」(一九八八年平凡社刊)の「ネズミ」で、『ネズミが大黒天と結ばれたのは』、『一説にこの神が大国主神(おおくにぬしのかみ)と混同されたことによと』も言うとされ、「古事記」で、『大穴牟遅神(おおなむちのかみ)(大国主神)が野火に囲まれた』際、『ネズミに地下の空洞を教えてもらい』、『難をのがれたという話がみえる』が、『ところが大国主神は』、『その名や俵をかついだ姿が似ている大黒天としだいに混同され』、『大国主神の命を救ったネズミが大黒天の使いと考えられるようになったらしい』と述べておられる。]

太平百物語卷二 十八 小栗栖のばけ物の事

Ogurusu


   ○十八 小栗栖(おぐるす)のばけ物の事

 山城の國小栗栖といふ所に、化物住むと專ら沙汰しけるに、或夜の事なりし、醍醐の九郞次郞といふ者の宅へ、其近邊の若者ども、集まりて夜咄しをしけるが、折から秋の長き夜(よ)なれば、樣々の咄しをしける次で、彼(かの)小栗栖のばけ物ばなしを仕出(しいだ)し、

「おそろしき事なり。」

なんど、とりどり申し合(あひ)ければ、其座に八郞といふ者ありて、いふやう、

「何条(なんでう)、ばけ物という者、あらんや。われ、小栗栖に行かんに、若(もし)、ばけ物出(いで)なば、とらまへて連歸(つれかへ)り、いづれもへ、土產にせん。」

と廣言(くはうげん)すれば、人々、いふ。

「さあらば、今宵、彼(かの)所に行(ゆく)べきや。心得ず。」

といふに、八郞、聞(きゝ)て、

「安き事なり。われ行て參るべし。何にても印(しるし)を出(いだ)されよ。」

といへば、

「さらば。」

とて、「不敵の八郞」と書付(かきつけ)て、札を渡し、

「これを彼所に立置(たておき)て歸らるべし。然るにおゐては、今宵の夜食、御身の望みに任せん。」

といふほどに、八郞、ゑつぼ入[やぶちゃん注:「いり」。]、さまざま料理好(りやうりごの)みして、彼札を引(ひつ)かたげ、小栗栖にぞ、急ぎける。

 さて、小栗栖にもなりければ、あたりを、

「きつ。」

と見廻すに、目に遮ぎる物もなければ、

『さもこそ。』

と、おもひて、彼札を㙒中(のなか)に立置(たておき)、歸らんとせし時、うしろの方より、

「八郞、まて。」

とぞ、聲、かけたる。

『扨(さて)は。聞ゆる化物、ござんなれ。』

と、大脇指(わきざし)の鍔元(つばもと)くつろげ、大音聲(だいおんじやう)にいひけるは、

「いかなる者なれば、わが名をしりて呼(よぶ)ぞ。其正体を顯はすべし。」

といひければ、いづくともなく、こたへていはく、

「我は、此所(ところ)に年久しく住(すむ)者なり。何故、かゝる怪しき札を立(たて)たる。急ぎ持(もち)て歸るべし。おこと、無益(むやく)のかけろくして、爰(こゝ)に來(きた)る事、わが眷属ども、先達(さきだつ)て、しらせたり。よしなき武邊(ぶへん)を立(たて)んとせば、目に物、見せん。」

と、のゝしりけり。

 八郞、したゝか者なれば、打わらつていひけるは、

「あら、ことごとしの化物殿(ばけものどの)や。われ、其札(そのふだ)を取るまじきか、いかなる物をか見せけるぞ。出(いだ)せ、出だせ。」

と嘲(あざ)ければ、

「やらやら、にくき廣言かな。」

と、いふ儘に、さも、すさまじき毛のはへたる腕(うで)斗(ばかり)をさしいだし、八郞が髻(もとゞ)り、中(ちう)に引(ひつ)さげ、ゆかんとす。

「心得たり。」

とて、刀を、

「すらり。」

とぬき放し、かいなを、

「丁(てう)。」

ど、切りければ、

「あつ。」

と、さけびて、消失(きへうせ[やぶちゃん注:ママ。以下同じ。])たり。

 八郞は㙒中に、

「どう。」

ど、落(おち)けるが、大聲上(あげ)ていひけるは、

「扨々、卑怯なる化者かな。何とてはやく消(きへ)たるぞ、形(かた)ちを見せずは、只今、出(いだ)せし腕(うで)なりとも出(いだ)すべし。取(とり)て歸りて、土產にせん。」

と、飽(あく)までに罵(のゝし)れども、八郞が勇氣にやおそれけん、何(なに)の返答(こたへ)もせざりければ、

「今は、長居して詮なし。」

と、いにしへの綱(つな)[やぶちゃん注:大江山の酒呑童子退治や京都の一条戻橋の上で鬼の腕を源氏の名刀「髭切(ひげきり)」で切り落としたとされる渡辺綱(天暦七(九五三)年~万寿二(一〇二五)年)。]におとらぬ心地して、いさみ進んで歸りけるが、向ふの方より六十斗の老婆(うば)壱人、出できたり。

 八らふにむかひ、いひけるは、

「いかに。私殿(わどの)は、只今、小栗栖にて、かぎりなき手柄をし玉ひける事よ。今こそ九郞次郞殿方に、夜食、結構して、御待(まち)あらんに、早々(はやはや)、いざなひ參らん。」

とて、八郞がゑりくび、摑んで、虛空にあがるを、八郞、すかさず、太刀ぬきそばめ、彼(かの)婆(うば)を切りはらへば、うばは、八郞を抛(なげ)すて、いづくともなく、失(うせ)けるが、八郞は、九郞次郞がざしきの椽(ゑん)にぞ、落(おち)たりける。

 ありあふ人々、此音におどろき、立出(たちいで)、みれば、八郞、絕入(ぜつじゆ)してこそ、居たりけり。

「こは、いかに。」

と、うち集(あつま)り、顏に水濯ぎて呼(よび)おこしければ、やうやう正氣に成(なり)けるが、髮は化者にむしられて、偏(ひとへ)に童子の頭(かしら)の如くなりしかば、皆々、大きにあきれ、とかくする内、夜(よ)はほのぼのと明(あけ)はなれて、夜食は、あだとなりにける。

[やぶちゃん注:百物語系怪談にポピュラーに出るお馴染みの話柄である。

「小栗栖」現在の京都市伏見区東部の一地区。「おぐりす」とも言う。山科盆地西縁の東山山地南東麓に当たり、伏見から近江に向かう街道が通ずる。天正一〇(一五八二)年六月、「山崎の合戦」で豊臣秀吉に敗れた明智光秀が、近江の坂本城に逃れる途中、この地で土民の竹槍に刺されて最期を遂げたとされる場所である(ここは小学館「日本大百科全書」に拠った。醍醐寺(伏見区醍醐東大路町(ちょう))のある醍醐地区の西南方の、この中央附近(グーグル・マップ・データ)。現在も小栗栖を冠した地名が点在する。

「かけろく」「賭け禄」で、金品を賭けて勝負すること。]

冬 の 山 伊良子清白

 

冬 の 山

 

金銀瑠璃の

鞍(くら)置(お)いて

冬の山々

雪をまつ

 

[やぶちゃん注:初出未詳。]

靑いみかんが 伊良子清白

靑いみかんが

 

靑い蜜柑が枝の上

靑いみかんは靑いまま

靑いみかんに雪がふる

靑い蜜柑は雪にもならず

 

[やぶちゃん注:初出未詳。]

參宮ぶね 伊良子清白

 

參宮ぶね

 

磯は西風

  裙帶菜(わかめ)干す

 

山はつつじの

  花ざかり

 

昨日の雨の

  水たまり

 

燕が泥を

  掬(すく)ひとる

 

旗で飾つた

  參宮(さんぐ)ぶね

 

遠い紀州の

  船も來た

 

[やぶちゃん注:初出は昭和三(一九二八)年七月発行の『詩神』。初出標題は「參宮船」で、各連の前に一字下げで「一」から「六」の数字数字が配された構成となっており、一部の漢字に読みが附されたり、「裙帶菜(わかめ)」が「わかめ」、最終「六」の「參宮(さんぐ)ぶね」が「參宮船(さんぐぶね)」である以外は有意な差を認めないので初出は示さない。嘱目はツツジの満開から見て、四月の中・下旬と読んだ(三重県の観光情報でも確認)。

「參宮船(さんぐぶね)」船による一般参拝客のお伊勢参りは江戸時代に盛んであったが、陸路の整備によって近代に入って殆んど見られなくなった。ここは漁業従事者たちの船によるそれの景であろう。江戸時代よりの上陸地点は伊勢神宮の東北の勢田川の河口であった(グーグル・マップ・データ。右上。左下に伊勢神宮)。

「裙帶菜(わかめ)」「裙帶」は「くんたい」(撥音無表記で「くたい」とも書く)は平安後期(十一~十二世紀頃)の公家の女房らが、晴れの装束の際に裳の腰に附けて、左右に垂らした紐を指す。中国風に真似たもので、羅などの薄布でつくられた。異なった色が相半ばするのを特色し、八世紀頃の裾(きょ)に付属していた飾りの縁が独立して装飾化したものと考えられており、後の女房装束の小腰(こごし:裳の大腰の左右に取り附けて後ろに長く引き垂らした二本の飾り紐)はその遺制という。グーグル画像検索「裙帯」をリンクさせておく。不等毛植物門褐藻綱コンブ目チガイソ科ワカメ属ワカメ Undaria pinnatifida の直喩異名としては腑に落ちるものではあり、貝原益軒も「大和本草卷之八 草之四 裙蔕菜(ワカメ)」で標題にこれを用いているおり、『處々の海中に多し。二月にとる。伊勢の海に産するを好しとす』と述べており(リンク先で私はかなり詳細なワカメ注を行っているので参照されたい)、現代中国語でワカメ(ワカメの原産分布は本邦を中心とし(本来は植生しなかったのは北海道東部と同北部及び和歌山県熊野から鹿児島県に至る太平洋岸であるが、すでにそれらの場所にも棲息域を広げて晋三も羨ましがるであろう強力な全国区勢力となっている)、朝鮮半島南部まで。但し、現代ではタンカーのバラスト水で胞子が世界中に運ばれてしまい、深刻な優勢侵入外来種となって生態系を致命的に破壊している)は「裙带菜」と書くのであるが(ワカメの中文ウィキを見よ)、しかし、私はこの異名は、思うにそう古いものではないのではないかと考えている。少なくとも、採取し、生で食してきた一般国民の表記異名ではあり得ない(裙帯なんざ、みんな、見たことねえもん)。宮下章氏の「ものと人間の文化史 11・海藻」(一九七四年法政大学出版局刊)の第二章「古代人の海藻」の「(二)海藻の漢名と和名」の「藻(モ・ハ)」の項によると、源順の「和名類聚鈔」が編纂『されるより少なくとも二、三百年前から、古代日本の人々は「海藻」の文字に「ニギメ」(ワカメ)の和名を当てるという誤りをおかしてしまった』とする一方、諸海藻名の末尾に多く見られる「メ」は『布のほか「女」「芽」にも通』ずるとされ、また、後の「海藻(ニギメ・ワカメ)」の項では、『和名抄は、唐書が藻類の総称とする「海藻」をニギメと読む誤りをおかしたが、反面で「和布」という和製文字を示してくれた。また、ニギメのほかに「ワカメ」という呼び方も示してくれた。たとえば、延喜式では海藻をニギメ、和布をワカメ、万葉集では稚海藻をワカメ、和海藻をニギメと読ませている』。『ニギメとワカメとは別種でなく、ニギメの若芽がワカメである。古くから若芽が喜ばれたと見えて、中世に入るころには「ニギメ」は消えてしまう。「メ」は藻類の総称だが、「和布刈(めかり)」の神事や人麻呂の』歌(「万葉集」巻第七・一二二七番。上記リンク先で和歌を提示してある)などでも、「海和刈」(めかり)は『ニギメの意味にも使われていた』とある。平安中期の「一代要記」、平安後期の「東大寺文書」でも「和布」である。則ち、本邦の上古の上流階級に於けるワカメの呼称に於いても今、も現役の「和布」こそが最も普通であったのである。なお、宮下氏の同書によれば、『糸ワカメは、三重県の答志島辺を中心として志摩名産とされたもので』、『ミチ(葉』状部『の中央の茎状のすじ)をとり去り、乾燥してのち、こもに包んで約三〇分後にとりだし、手で一枚ずつもみ上げて箸状にしておくと白い粉を吹く。江戸時代から伊勢参宮みやげとされたものである』とある。この詩篇を読みながら、干されたワカメの景の向うに、そうした漁民の仕事を想起する時、この詩篇は正しくワイドに立体的な映像として現前すると言える(太字は私が附した。言い忘れが、私は海藻フリークでもある)。]

2019/04/29

和漢三才図会巻第三十九 鼠類 始動 / 目録・鼠(総論部)

寺島良安「和漢三才図会」の「巻第三十九 鼠類」の電子化注を、新たにブログ・カテゴリ「和漢三才図会巻第三十九 鼠類」を作って始動する。

私は既に、こちらのサイトHTML版で、

卷第四十  寓類 恠類

及び、

卷第四十五 龍蛇部 龍類 蛇類

卷第四十六 介甲部 龜類 鼈類 蟹類

卷第四十七 介貝部

卷第四十八 魚部 河湖有鱗魚

卷第四十九 魚部 江海有鱗魚

卷第五十  魚部 河湖無鱗魚

卷第五十一 魚部 江海無鱗魚

及び

卷第九十七 水草部 藻類 苔類

を、また、ブログ・カテゴリ「和漢三才圖會 蟲類」で、

卷第五十二 蟲部 卵生類

卷第五十三 蟲部 化生類

卷第五十四 蟲部 濕生類

を、新しいものとして、ブログ・カテゴリ「和漢三才圖會 鳥類」で、

卷第四十一 禽部 水禽類

卷第四十二 禽部 原禽類

卷第四十三 禽部 林禽類

卷第四十四 禽部 山禽類

を、そして直近の最新のものとして、

三十七 畜類

卷第三十八 獸類

を完全電子化注している。余すところ、同書の動物類は、この「卷三十九 鼠類」の一巻のみとなった。但し、「卷第四十 寓類 恠類」の後にある短い「獸の用」については未電子化なので、便宜上、このカテゴリの最後で電子化注することとする。

 思えば、私が以上の中で最初に電子化注を開始したのは、「卷第四十七 介貝部」で、それは実に十二年半前、二〇〇七年四月二十八日のことであった。

 当時は、偏愛する海産生物パートの完成だけでも、正直、自信がなく、まさか、ここまで辿り着くとは夢にも思わなかった。それも幾人かの方のエールゆえであった。その数少ない方の中には、チョウザメの本邦での本格商品化飼育と販売を立ち上げられながら、東日本大地震によって頓挫された方や、某国立大学名誉教授で日本有数の魚類学者(既に鬼籍に入られた)の方もおられた。ここに改めてその方々に謝意を表したい。

 総て、底本及び凡例は以上に準ずる(「卷第四十六 介甲部 龜類 鼈類 蟹類」の冒頭注を参照されたい)が、HTML版での、原文の熟語記号の漢字間のダッシュや頁の柱、注のあることを示す下線は五月蠅いだけなので、これを省略することとし、また、漢字は異体字との判別に迷う場合は原則、正字で示すこととする(この間、文字コードの進歩で多くの漢字を表記出来るようになったのは夢のようだ)。また、私が恣意的に送った送り仮名の一部は特に記号で示さない(これも五月蠅くなるからである。但し、原典にない訓読補塡用の字句は従来通り、〔 〕で示し、難読字で読みを補った場合も〔( )〕で示した。今までも成した仕儀だが、良安の訓点が誤りである場合に読みづらくなるので、誤字の後に私が正しいと思う字を誤った(と判断したもの)「■」の後に〔→□〕のように補うこともしている(読みは注を極力減らすために、本文で意味が消化出来るように、恣意的に和訓による当て読みをした箇所がある。その中には東洋文庫版現代語訳等を参考にさせて戴いた箇所もある)。原典の清音を濁音化した場合(非常に多い)も特に断らない)。ポイントの違いは、一部を除いて同ポイントとした。本文は原則、原典原文を視認しながら、総て私がタイプしている。活字を読み込んだものではない(私は平凡社東洋文庫版の現代語訳しか所持していない。但し、本邦や中文サイトの「本草綱目」の電子化原文を加工素材とした箇所はある)。なお、良安は「鼠」の字の「臼」の下部を「鼡」の三つの(かんむり)を除去した略字で総て(今までも)書いているが、表記出来ないし、私は激しい生理的嫌悪感を持つ字(実は原典を見ているだけでも気持ちが悪くなる)なので総てを正字「鼠」で示した。なお、ニフティのブログ・メンテナンスによって表示出来ない漢字が増えた。ワードで製作中は普通に表示されているのは勿論、ここでの投稿画面やプレビューでは表記出来ていても、本投稿すると「?」になるものも存在することが判った。毎回、点検してはいるが、新しい投稿で、本文中に突然、何の注もなしに「?」があった場合は、お教え戴けると助かる。即座に字注を入れる。よろしくお願い申し上げる。【2019年4月30日始動 藪野直史】

 

和漢三才圖會卷第三十九目録

 卷之三十九

  鼠類

[やぶちゃん注:原本の大標題は実際には「和漢三才圖會卷第三十九之四十目録」で、後ろに「卷之四十」「寓類 恠類」「獸之用」の目録が続くのであるが、ここは既に示した通り、「和漢三才圖會 卷第四十 寓類 恠類」の冒頭で電子化済みなので、「寓類 恠類」の部分を省略して、かくした。以下は原典では三段組で字は大きい(目録では今までも大きくしていないので、ここもそれに従う)。ここではルビは原典通りのひらがな或いはカタカナを後に丸括弧で示した(「ねすみ」と総て清音であるのは総てママである。ここでは一部の不審を持たれるであろう箇所を除いて、注しない。]

 

鼠(ねすみ)

※1(しろねすみ)[やぶちゃん注:「※1」=「鼠」+「番」。]

鼷(あまくちねすみ)

鼩鼱(はつかねすみ)

※2※3(つらねこ)[やぶちゃん注:「※2」=「鼠」+「离」。「※3」=「鼠」+「曷」。]

鼨(とらふねすみ)

水鼠(みつねすみ)

火鼠(ひねすみ)

䶄(またらねすみ)

蟨鼠(けつそ)【附鼵(トツ)】

食蛇鼠(へびくらいねすみ)[やぶちゃん注:「い」はママ。]

麝香鼠(じやかうねすみ)

鼢(うころもち) 【鼧鼥(ダハツ)】

隱鼠(ぶたねすみ)

鼫鼠(りす)

貂(てん)

黃鼠(きいろねすみ)

䶉 【附 鼯鼠 出于原禽下】[やぶちゃん注:ルビは排除して示した。ルビを含めて訓読すると、「附〔(つけた)〕り 鼯鼠(ノフスマ) 原禽の下に出〔(いだ)〕す。」。]

猬(けはりねすみ)

鼬(いたち)

 

  獸之用

牝牡(めを)

角(つの)

牙(きば)

蹄(ひづめ)

蹯(けものゝたなこゝろ)〕 【※(ミヅカキ)】[やぶちゃん注:「※」=(「凪」-「止」)+(中)「ム」。]

皮(かは)

肉(にく)

 

 

和漢三才圖會卷第三十九

      攝陽 城醫法橋寺島良安尚順

  鼠類

 

Nezumi



 

ねすみ    䶆鼠 家鹿

       首鼠 老鼠

【音暑】

★     【鼠字象其頭

       齒腹尾之形】

チユイ   【和名禰須美】

[やぶちゃん注:★部分に上図の篆文が入る。大修館書店「廣漢和辭典」の解字によれば、『尾の長いねずみの形にかたどり、ねずみ・ねずみのように穴にすむ動物の意を表す』(これはリス類に「栗鼠」とするのが腑に落ちる)。『音形上は貯などに通じ、ものを引きこんでたくわえる動物であろう』とある。]

 

本綱鼠其類頗繁形似兔而小青黒色有四齒而無牙長

鬚露眼前爪四後爪五尾文如織而無毛長與身等五臟

俱全肝有七葉膽在肝之短葉間大如黃豆正白色貼而

不埀鼠孕一月而生多者六七子魚食巴豆而死鼠食巴

豆而肥【魚字疑當作鳥乎鳶鴉犬等食巴豆至死】鼠食鹽而身輕食砒而卽死

玉樞星散爲鼠在卦爲☶艮其聲猶喞喞凡鼠壽三百歳

善憑人而卜名曰仲能知一年中吉㐫及千里外事鼠性

多疑出穴不果【惠州獠民取鼠初生閉目未有毛者以蜜養之用獻親貴挾而食之謂之蜜喞】

鼠肉【甘熱】 治小兒疳腹大貪食者【黃泥裹燒熟去骨取肉和豉汁作羹食之莫食

 骨甚瘦人】出箭鏃入肉【取鼠一枚肉薄批焙研毎服二錢熱酒下瘡痒則出矣凡入藥皆用牡鼠】

鼠膽 㸃目治青盲雀目不見物滴耳治聾【卒聾者不過三度久年者側臥入耳盡膽一箇須臾汁從下耳出初時益聾十日乃聾瘥矣】

鼠印 卽外腎也【上有文似印】令人媚悅【正朔端午七夕十一二月以子時向北刮

取陰乾盛青囊男左女右繫臂上人見之無不懽悅所求如心也】

鼠糞 入藥用牡鼠屎【兩頭尖者是也】爲厥陰血分藥【有小毒食中誤食令

 人目黃成黃疸】治馬咬狗咬猫咬成瘡者【燒末傅之】

                  俊賴

 夫木我か賴む草の根をはむ鼠そと思へは月のうらめしきかな

△按鼠豫知人之科擧遷居毎夜舉床上席間微塵則有

 應往昔帝遷都時鼠先移至【詳于日本紀】酉陽雜組云人夜

 臥無故失髻者鼠妖也又鼠有着人及牛馬而晝夜不

 避無奈之何也唯用咒術宜禳除

 鼠咬用胡椒末傅之【凡鼠所咬人禁食小豆愈後亦食小豆則痛再發】性畏菎

 蒻用生菎蒻水煉塞鼠穴則不出

鼠糞【有毒】 養小鳥之餌誤入食之鳥皆死又鏽腐鐵噐鼠

 屎塗新小刀表安於醋桶上得醋氣一宿刮去之肌如

 古刄凡鼠屎尿損絹紙以可知

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野鼠【一名田鼠】 形狀不異家鼠而別種也在田野竊食菽穀

 人捕之切尾瑞【傅灰止其血】養之豫令飢毎教之爲汲水或

 書使之形勢勝於家鼠之黠乞丐出市衢使之糊錢也

 既載五雜組則和漢共然矣【月令云田鼠化爲鴽之田鼠非此鼴也】

 

 

ねずみ    䶆鼠〔(すいそ)〕

       家鹿〔(かろく)〕

       首鼠 老鼠

【音「暑」。】

★     【「鼠」の字、其の頭・齒・腹・

       尾の形に象〔(かたど)〕る。】

チユイ   【和名「禰須美」。】

[やぶちゃん注:「鼠」は別の音で「ショ」(現代仮名遣)があり、現代中国音でも孰れも同音「shǔ」(シゥー)である。]

 

「本綱」、鼠、其の類、頗〔(すこぶ)〕る繁〔(おほ)〕し。形、兔に似て、小さく、青黒色。四齒、有りて、牙、無く、長き鬚、露(あらは)なる眼〔(まなこ)〕、前の爪、四つ、後の爪、五つ。尾の文(あや)織〔れ〕るがごとくにして、毛、無く、長さ、身と等(ひと)し。五臟、俱〔(とも)〕に全〔(まつた)〕し。肝に七葉有り。膽(たん)は肝の短葉の間に在りて、大いさ、黃豆〔(だいづ)〕[やぶちゃん注:大豆の別名。]のごとく、正白色、貼〔(てん)〕じて埀れず。鼠、孕(はら)みて一月にして生ず。多き者、六、七子なり。魚は巴豆〔(はづ)〕を食ひて死す。鼠は巴豆を食ひて肥ゆ【「魚」の字は疑ふらくは、當に「鳥」に作るべきか。鳶・鴉・犬等、巴豆を食へば、死に至る。】鼠、鹽を食ひて、身、輕く、砒〔(ひ)〕[やぶちゃん注:砒素。]を食へば、而して、卽ち、死す。

玉樞星(ぎよくすうせい)、散じて鼠と爲る。卦に在る、「☶」・艮〔(コン/うしとら)〕と爲す〔と〕。其の聲、猶ほ「喞喞(ツエツエツ)」と云ふがごとし。凡そ、鼠の壽、三百歳にして、善〔(よ)〕く、人に憑きて、卜〔(うらな)〕ふ。〔かく成れる老妖鼠を〕名づけて「仲」と曰ふ。能く一年〔(ひととせ)の〕中〔(うち)〕の吉㐫[やぶちゃん注:「凶」の異体字。]及び千里の外〔の〕事を知る。鼠、性、疑ひ多く、穴を出づるに、果〔(あらは)〕さず[やぶちゃん注:なかなかその全身の姿を見せようとしない。]【惠州[やぶちゃん注:広東。]の獠〔(りよう)〕民[やぶちゃん注:中国南方の異民族の名。後注参照。]鼠の初生の、目を閉ぢ、未だ毛の有らざる者を取りて、蜜を以つて之れを養ひ、用ひて、親貴[やぶちゃん注:目上の親族や地位の高い人々。]に獻ず。〔親貴なる人々は箸にて〕挾みて之を食ふ。之れを「蜜喞〔(みつひつ)〕」と謂ふ。】。

鼠の肉【甘、熱。】 小兒の疳〔や〕腹〔の〕大〔きくして〕食を貪る者[やぶちゃん注:病的な過食障害者。]を治す【黃泥〔(くわうでい)〕[やぶちゃん注:シルト(silt)状の黄土の泥。]に裹み、燒き熟し、骨を去り、肉を取り、豉汁〔(みそしる)〕を和〔(あ)〕へ、羹〔(あつもの)〕と作〔(な)〕して、之れを食ふ。骨を食ふ〔こと〕莫し。甚だ人を瘦せさす。】箭(や)の鏃(ね〔/やじり〕)の肉に入るを出だす【鼠一枚の肉を取り、薄く批〔(たた)〕き、焙〔(あぶ)〕り、研〔(けづ)〕る。毎服二錢[やぶちゃん注:明代の一銭は三・七五グラム。]を熱酒〔(かんざけ)〕にて下〔(のみくだ)〕す。瘡〔(きず)〕の痒〔(かゆ)〕きときは、則ち、〔それ、〕出づ。凡そ、藥に入るるに、皆、牡鼠を用ふ。】。

鼠の膽〔(たん/い)〕 目に㸃じて青-盲(あきしり)[やぶちゃん注:音「セイマウ(セイモウ)」。目が尋常に開(あ)いているのに物の見えない眼病。]・雀目(とりめ)にて、物、見えざるを治す。耳に滴〔(つ)く〕れば、聾を治す【卒〔に〕聾〔たりし〕者[やぶちゃん注:急に耳が全く聴こえなくなった患者。]〔には〕、三度を過ぎず、久しき年の〔聾〕者にては、側に臥せしめ耳に入れ〔るに〕、膽一箇を盡して、須-臾(しばら)くして、汁、下の耳より出づ。〔その處方をせし〕初〔めの〕時〔には〕、益々、聾〔するも〕、十日にして、乃〔(すなは)〕ち、聾、瘥〔(い)〕ゆ。】。

鼠の印〔(いん)〕 卽ち、外腎(へのこ)[やぶちゃん注:陰茎。但し、陰茎骨であろう。]なり【上に文〔(もん)〕有りて印に似たり。】人をして媚悅〔(びえつ)〕せしむ[やぶちゃん注:催淫効果を惹起させる。]【正朔[やぶちゃん注:元日。]・端午・七夕〔及び〕十一〔月〕・二月の子〔(ね)〕の時、北に向ひ、刮〔(こそ)〕ぎ取り[やぶちゃん注:これは直後の陰干しから見て、生きた鼠からちょん切ることを指していると読む。]、陰乾し、青き囊〔(ふくろ)〕に盛り、男は左〔(ひだ)り〕、女は右〔の〕臂〔(ひじ)〕の上に繫ぐ。人、之れを見ば、懽悅〔(くわんえつ)〕[やぶちゃん注:ここは性的に恍惚となり、相手を求めたくなるということ。]せざるといふこと無く、所むるところ、心のごとくなり。】。

鼠の糞 藥に入るるには牡鼠の屎〔(くそ)〕を用ふ【〔屎の〕兩頭、尖れる者、是れなり。】。厥陰血分の藥と爲す【小毒、有り。食中に誤食〔せば〕、人をして目を黃〔に〕し、黃疸を成す。】。馬〔の〕咬〔(かみきず)〕・狗〔の〕咬・猫〔の〕咬、瘡〔(かさ)〕を成せる者を治す【燒〔きて〕末〔にして〕之れを傅〔(つ)〕く。】。

                  俊賴

 「夫木」

   我が賴む草の根をはむ鼠ぞと

      思へば月のうらめしきかな

△按ずるに、鼠、豫(あらかじ)め、人の科擧〔(かきよ)〕・遷居を知る。毎夜、床〔(ゆか)〕の上に、席(たゝみ)[やぶちゃん注:ここでは中国の官吏登用試験の科挙とはっきり出してしまっており、畳ではおかしい。これは「むしろ」と訓ずるべきであろう。]の間〔(あひだ)〕の微塵を舉ぐれば、則ち、應〔(わう)〕有り〔と〕[やぶちゃん注:「合格の見込みがあるとする」の意。]。往昔、帝〔(みかど)〕、遷都(せんと)の時、鼠、先づ、移り至る【「日本紀」に詳かなり。】〔と〕。「酉陽雜組」に云はく、『人、夜、臥し、故無くして髻(もとゞり)を失するは、鼠の妖なり』〔と〕。又、鼠、人及牛馬に着(つ)くこと有りて、〔これ、〕晝夜を避けず〔憑けば〕、之れ、奈何(いかん)ともすること無し。唯だ、咒術(まじなひ)を用ひて、宜しく禳(はら)い[やぶちゃん注:ママ。]除(の)くべし。

 鼠の咬〔(か)み〕たるには、胡椒の末を用ひ、之れを傅く【凡そ、鼠に咬まれたる人、小豆を食ふを禁ず。愈えて後、亦、小豆を食へば、則ち、痛み、再發す。】。〔鼠は〕、性、菎蒻〔(こんにやく)〕を畏る。生(なま)菎蒻を用ひ、水煉〔(みづねり)し〕て、鼠の穴を塞げば、則ち、出でず。

鼠の糞【有毒。】 小鳥を養ふの餌に、誤りて入り、之れを食へば、鳥、皆、死す。又、鐵噐〔(てつき)〕をして鏽(さ)び腐(くさ)らかす。鼠の屎、新しき小刀〔(さすが)〕の表に塗り、醋〔(す)〕桶の上に安〔(お)〕き、醋の氣(かざ)を得ること、一宿、之れ[やぶちゃん注:塗った鼠の糞。]を刮〔(こそ)〕げ去れば、〔小刀の〕肌、古刄(ふるは)のごとし。凡そ、鼠の屎・尿〔(ゆばり)〕、絹紙〔(けんし)〕を損(そこ)なふ〔こと〕、以つて知るべし。

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野鼠【一名「田鼠」。】 形狀、家鼠に異〔(こと)〕ならずして、而〔れども〕別種なり。田野に在りて、菽〔(まめ)〕・穀を竊〔(ぬす)み〕食ふ。人、之れを捕へ、尾の瑞を切り【灰を傅〔(つ)〕け、其の血を止む。】、之れを養ひ、豫(あらかじ)め、飢へ[やぶちゃん注:ママ。]しめ、毎〔(つね)〕に之に教へて、水汲〔(みづく)〕みを爲させ、或いは書使(ふみづかい[やぶちゃん注:ママ。])の形勢(ありさま)をせしむ。〔これ、〕家鼠の黠(こざかし)き[やぶちゃん注:本漢字は「悪賢い」の意がある。]より勝れり。乞丐〔(こつがい)〕[やぶちゃん注:乞食。]、市衢(〔いち〕つじ)[やぶちゃん注:市街地の辻。]に出でて、之れを使はして錢を糊(もろ)ふ[やぶちゃん注:貰う。]ことや、既に「五雜組」に載す。則ち、和漢共に然るか【「月令〔(がつりやう)〕」に云はく、『田鼠、化して鴽〔(じよ)〕と爲る』の「田鼠」は此れに非ず。「鼴(うごろもち)」[やぶちゃん注:モグラ。本巻の後の方に独立項で後掲される。]なり。】。

[やぶちゃん注:動物界 Animalia 脊索動物門 Chordata 脊椎動物亜門 Vertebrata 哺乳綱 Mammalia 齧歯(ネズミ)目 Rodentia ネズミ亜目 Myomorpha のネズミ上科 Muroidea・トビネズミ上科 Dipodoidea・ヤマネ上科 Gliroidea の属するネズミ類の総論。世界で凡そ千三百種(或いは千六十五種から千八百種とも)棲息する一大生物種群を成し、ヒトが滅んでもゴキブリと並んで生存し続ける種群とされる。ウィキの「ネズミ」によれば、その『ほとんどが夜行性で』、『門歯が一生伸び続けるという』齧歯(げっし)類の『特徴を持っているため、常に何か硬いものを(必ずしも食物としてではなく)かじって前歯をすり減らす習性がある。硬いものをかじらないまま放置しておくと、伸びた前歯が口をふさぐ形になり食べ物が口に入らなくなってしまい』、『餓死してしまう』。『世界中のほとんどあらゆる場所に生息して』おり、『ネズミ上科のほとんどの種が、丸い耳、とがった鼻先、長い尻尾といった、よく似た外観上の特徴をもち、外観から種を見分けることは難しい。このため、頭骨や歯によって識別がなされている』。『繁殖力が旺盛で』、『ハツカネズミなどのネズミは一度の出産で』六~八『匹生むことが出来、わずか』三~四『週間程度で性成熟し子供が産めるようになる』。『世界的にネズミは有史以前から人間が収穫した後の穀物を盗んで食べる害獣である。農作業において自然の鳥獣が』、時折り、『田畑に食物を食べに出てくるのは自然なことであり、人間が自然の恵みによって間接的に自然から食料を得ているという意識のもとでは、そうした鳥獣は殺して駆除すべき対象ではなく、殺さずに追い払う対象であった。しかし、収穫後の穀物は自然と切り離された人間の所有物であり、それを食べるネズミは古今東西』、『忌み嫌われてきた』。哲学者で博物学者でもあった『アリストテレス』(紀元前三八四年~紀元前三二二年)の「博物誌」では『農作物に害をなすことが述べられているとともに、塩を舐めているだけで交尾をしなくても受胎すると考えられていて、繁殖力が強い事は知られていた。中世のヨーロッパでは、ネズミは不吉な象徴でありペストなどの伝染病を運んでくると考えられていた(実際、ペストの媒介動物である)。欧米では「ゾウはネズミが天敵」と信じられていた(ネズミはゾウの長い鼻に潜り込んで窒息死させると言われていた)。これは単なる迷信などではなく、ネズミは自分より体の大きなものであっても襲うことがあるためである。人間の乳児や病人などはネズミにかじられてしまうことが多々あった。飢饉などで動けなくなり』、『周囲も看病をできなかった弱った人間がネズミにかじられて指を失った事例などは世界中にある』。『また、ドブネズミ、クマネズミ、ハツカネズミの』三『種はイエネズミと呼ばれ、人間社会にとってもっとも身近なネズミである。現代でも病原体を媒介したり』、『樹木や建物、電気機器などの内部や通信ケーブルなどをかじったりして』、『人間に直接・間接の害を与える衛生害獣であり、駆除の対象となっている』。『日本列島では縄文時代の貝塚において、微小な動物遺体の水洗選別を行った際』、『ネズミの骨が回収されている』。『これらはアカネズミ・ヒメネズミなど森林性の小型のネズミ類であり、狩猟対象獣であるイノシシ・シカ・タヌキなどに比べて微量であるため』、『食用ではなかったと考えられて』おり、『貝塚から出土する動物遺体にはネズミの齧り跡が認められることもある』。『東京都北区に所在する七社神社裏貝塚では、魚骨・貝殻などが廃棄されていた縄文後期前葉の土坑内部からハタネズミ・アカネズミで構成される大量のネズミが出土している』。『ゴミ坑から出土したことから食用であることも想定されるが、全身の部位が残っている個体が多く、焼けた形跡も見られない。このため食用ではなく、縄文人の採集生活において、堅果や加工品を食糧とする森林性のネズミは競合関係にあり、このため』、『駆除を目的としてゴミ坑に廃棄しており、また土坑は落とし穴として機能していた可能性も考えられている』。『弥生時代にもネズミが存在した痕跡が見られる』。『静岡県静岡市に所在する登呂遺跡における発掘調査により出土した楕円形・蓋状の木製品は、その後の類似した木製品の出土事例の増加により、食料貯蔵庫である高床倉庫の柱に設置するネズミ返しであるとする説が提唱された』。『高床倉庫のネズミ返しは』、『取り付け位置・ネズミの種類からクマネズミ属のクマネズミ・ドブネズミには通用せず』、『ハタネズミを対象としたものであり、クマネズミ属は弥生時代には渡来していなかったとする説もある』。『一方で、奈良県磯城郡田原本町唐古に所在する唐古・鍵遺跡では弥生時代のドブネズミが出土している』。『また、唐古・鍵遺跡から出土した壺形土器には』四『本の掻き傷が見られ、大きさ・本数からネズミの爪跡であると考えられている』。『ドブネズミは東南アジアを起源とするクマネズミ属であり、世界中に進出している』。『一般に集落の形成期にはハタネズミ・アカネズミなどの野ネズミが多く出土し、集落の成長に伴い』、『人家の周辺に生息するドブネズミが出現し、さらに集落が衰退すると再び野ネズミが増加するという』。『唐古・鍵遺跡における出土事例から、弥生時代には稲作農耕の開始に伴』って『渡来したとする説がある』。『従来、日本列島へのネズミの渡来は飛鳥時代に遣唐使の往来に』随伴して『渡来したとする説や』、『江戸時代に至って渡来したとする説もあったが、唐古・鍵遺跡の事例により、これを遡って弥生時代には渡来していたと考えられている』。『石川県金沢市に所在する畝田ナベタ遺跡から出土した平安時代(』九『世紀)の木簡にはネズミ歯形が認められてる』。『この木簡は籾の付札で、穀倉を棲家とするネズミが存在していたと考えられている』。『平安時代には宇多天皇』の日記「寛平御記」などの『文献資料において』、『ネコの飼育に関する記録が見られ、仏典などを守るため』、『ネズミの天敵であるネコが導入されたとする説もある』。『日本語の「ネズミ」という言葉について、過去に以下のような語源説が唱えられ』ている。①『「ネ」は「ヌ」に通じ「ヌスミ」の意味。盗みをする動物であることから』(「日本釈名」)。②『「寝盗」。寝ている間に盗みをする動物であることから』(「和訓栞」)。③『「ネ」は「根の国」の「根=暗いところ」、「スミ」は「棲む」。暗いところに棲む動物であることから』(「東雅」)といったものである。「日本神話のネズミ」の項。「古事記」の『根の国の段にネズミが登場する。大国主命』は、素戔嗚命から、三『番目の試練として、荒野に向けて放った鏑矢を取って来るように言われる。矢を探して野の中に入ると』、素戔嗚命は『野に火を付け、大国主命は野火に囲まれて窮地におちいる。その時、一匹のネズミが現れて、「内はほらほら、外はすぶすぶ。」(内はホラ穴だ、外はすぼんでる。)と告げる。大国主命が、その穴に隠れて火をやり過ごすと、ネズミは探していた矢をくわえて来た。こうしてネズミの助けにより、大国主命はこの試練を乗り切ることができた』とあり、また、後、『仏教の神である大黒天(だいこくてん)は、後に大国主命と習合して、七福神としても祀られるが、ネズミを使者としている。ネズミが使者とされる理由については一般に、大黒天の乗る米俵や、ネズミが大国主命を助けた事に由来するといわれる。しかし、中国や西域では毘沙門天』『がネズミを眷属としており、大黒天は毘沙門天とは非常に近しい関係にあったので、ネズミとの関係は日本以前に遡るとも言われる』。『ヒンドゥー教の神・クベーラが仏教に取り込まれ』、『毘沙門天となるが、クベーラは宝石を吐くマングースを眷属としており、中国や西域ではマングースがネズミに置き換わった』のであった、とある(学名は以下の項の種考証で示すこととし、ここでは挿入を一切やめたが、引用元に詳細な分類表がある)。

「巴豆」キントラノオ目トウダイグサ科ハズ亜科ハズ連ハズ属ハズ Croton tigliumウィキの「ハズ」によれば、『英名の Croton(クロトン)でも呼ばれるが、日本語でクロトンという場合は同科クロトンノキ属の Codiaeum variegatum を指すこともある』。『種子から取れる油はハズ油(クロトン油)と呼ばれ、属名のついたクロトン酸のほか、オレイン酸・パルミチン酸・チグリン酸・ホルボールなどのエステルを含む。ハズ油は皮膚につくと炎症を起こす』。『巴豆は』中国の古い本草薬学書のバイブルともいうべき、「神農本草経下品」や「金匱要略(きんきようりゃく)」にも『掲載されている漢方薬であり、強力な峻下』(しゅんげ:非常に強い下剤効果を言う)作用がある』。『日本では毒薬または劇薬に指定』『されているため、通常は使用されない』とある。台湾・中国南部・東南アジアの熱帯原産で、高さ約三メートル。葉は柄を持ち、長さ六~一〇センチメートルの長卵形で、縁に鋸歯があり、色は黄緑色だが、青銅色・橙色になるものがある。雌雄同株。雄花は緑色の五弁花で、枝先の総状花序の上部につき、雌花はその下部にあって花弁はない。果実は倒卵形で高さ約三センチメートルである(ここは小学館「日本国語大辞典」に拠った)。「株式会社ウチダ和漢薬」公式サイト内の「生薬の玉手箱」の「ハズ(巴豆)」によれば、本邦では、「御預ケ御薬草木書付控」に享保六(一七二一年)に『巴豆が貝母・沙参などとともに長崎から小石川薬園に移されたという記録があり』『江戸時代中期にはすでに国内に導入されてい』たとし、また「古方薬品考」には『薩州産あり、薬舗には未だ出ず」という『内容の記載があり』、『巴豆として一般に流通するほどの供給がなかったことがうかがえ』るとする。『現在でも屋久島を北限として分布してい』るものの、『生薬としては利用されていない』模様であるとある。

「砒〔(ひ)〕」砒素(厳密には、その酸化物である三酸化二砒素(As2O3。「三酸化砒素」とも呼ぶ)を主成分とする)は本邦ではまさに殺鼠剤として江戸時代から「石見銀山」や「猫いらず」の名で知られ、毒殺・自殺用の薬物としても使用された。ウィキの「石見銀山ねずみ捕り」等によれば、『石見国笹ヶ谷鉱山で銅などと共に採掘された砒石すなわち硫砒鉄鉱(砒素などを含む)を焼成して作られた』。但し、『実際の「石見銀山」では産出され』ず、その生産地についても異説が多いが、『その知名度の高さにあやか』って、かく呼ばれた。『毒薬として落語・歌舞伎・怪談などにも登場する』。『元禄期には銀山の産出が減る一方で、その後も笹ヶ谷からの殺鼠剤販売が続き』、『名前が一人歩きするようになった』『と考えられている』とある。私などは黒澤明の「赤ひげ」(東宝・昭和四〇(一九六五)年公開)の長坊(長次)の挿話が強烈に結びついている。

「玉樞星(ぎよくすうせい)」東洋文庫訳注に、「本草綱目」の「鼠」の項の「集解」で、時珍が「春秋緯運斗樞」『という緯書を引いて述べている言葉である。緯書は経書に仮託して禍福吉凶や予言などを記したものである』が、『現在からみれば』、『奇異にうつる記事が多い』とあり、検索を掛けても腑に落ちる解説がない。ここまでとする。

「喞喞(ツエツエツ)」この「喞」(音は正しくは「ショク・ソク」)「鳴く・すだく・虫が集まって鳴く」の意があり、「喞喞」も、そのオノマトペイアとしてよく使われるが、別に実は「かこつ・不平を言って嘆く」の意がある。猜疑心の塊りと言う鼠にしてこれはまた、隠れた意味がありそうな感じがしてくる。

『鼠の壽、三百歳にして、善〔(よ)〕く、人に憑きて、卜〔(うらな)〕ふ。〔かく成れる老妖鼠を〕名づけて「仲」と曰ふ』東洋文庫注に晋の葛洪(二八三年~三四三年)の神仙術書「抱朴子」の「対俗」に「百歲鼠色白、善意ㇾ人而ト、名曰くㇾ仲」とある、とする。数字の合わないのは、誇張癖の中国人には百も三百も同じだと言っておけば事足りよう。

「獠〔(りよう)〕」鼠を食べるからって忌避してはいけない。平凡社「世界大百科事典」によれば、漢の武帝は当初、南越討伐の拠点として、のちには大月氏と連合して匈奴を討つために、中国南西部、現在の貴州省附近の「夜郎(やろう)」を重視し、紀元前一一一年に牀柯(そうか)郡を配置し、その長を王に封じたが、彼らは逆に前漢代を通じて、反乱を繰り返した。彼らは日本の「桃太郎説話」と酷似する「竹生始祖伝説」を持ち、また、彼らの後裔ともされる獠(僚)族は、干闌(かんらん)とよばれる高床式住居に住んだばかりか、銅鼓を製作し、しかもそれを本邦固有の銅鐸のように埋納するなど、日本の民族・文化との緊密な繋がりを思わせる民族であるとある。

「蜜喞〔(みつひつ)〕」南方熊楠の「十二支考 鼠に関する民俗と信念」の最後の部分で、人の鼠食(ねづみしょく)に触れた中に(一九八四年平凡社刊「南方熊楠選集」第二巻を底本とした)、

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支那では漢の蔵洪や晋の王載の妻李氏が城を守り、蘇武が胡地に節を守った時、鼠を食うたという。しかし『尹文子』に、周人、鼠のいまだ腊(乾肉)とされないものを璞というとあるそうだから考えると、『徒然草』に名高い鰹同前、最初食用され、中頃排斥され、その後また食わるるに及んだものか。唐の張鷟(ちょうさく)の『朝野僉載』に、嶺南の獠民、鼠の児、目明かず、全身赤く蠕(うごめ)くものに、蜜を飼い、箸で夾み取って咬むと、喞々(しつしつ)の声をなす、これを蜜喞(みつしつ)といって賞翫する、とあり。『類函』に引いた『雲南志』に、広南の儂人、飲食美味なし、常に鼷鼠の塩漬を食う、とあり。明の李時珍が、嶺南の人は、鼠を食えど、その名を忌んで家鹿と謂う、と言った。して見ると鼠は支那で立派な上饌ではない。

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と出るのを参照に本文を補った。因みに、この南方熊楠の作品には本「鼠類」の漢名が、これまた、ぞろぞろ出る。

「久しき年の〔聾〕者にては、側に臥せしめ耳に入れ〔るに〕、膽一箇を盡して、須-臾(しばら)くして、汁、下の耳より出づ」って! あり得ないでショウ!!!

「俊賴」「夫木」「我が賴む草の根をはむ鼠ぞと思へば月のうらめしきかな」源俊頼(天喜三(一〇五五)年~大治四(一一二九)年)は平安後期の貴族・歌人で、宇多源氏。家集「散木奇歌集」や歌学書「俊頼髄脳」でとみに知られる。ウィキの「源俊頼」によれば、『堀河院歌壇の中心人物として活躍し、多くの歌合に作者・判者として参加すると共に』、「堀河院百首」を『企画・推進した』。天治元(一一二四)年には『白河法皇の命により』、「金葉和歌集」を撰集している。『藤原基俊と共に当時の歌壇の中心的存在で』、『歌風としては、革新的な歌を詠むことで知られた』とある。本歌は「夫木和歌抄」の「巻二十七 雑九」に所収。「日文研」の「和歌データベース」で校合済み。よく判らぬが、これ、或いは「我が」(わか)は「和歌」に掛けてあり、自身が頼むその敷島の言の葉の「草」の道の、その「根」を食(は)む鼠とさらに掛けているのかも知れないな、とは思った。

『帝〔(みかど)〕、遷都(せんと)の時、鼠、先づ、移り至る【「日本紀」に詳かなり。】』「日本書紀」の大化元(六四五)年十二月癸卯(みずのとう)の条。

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冬十二月乙未朔癸卯。天皇遷都難波長柄豐碕。老人等相謂之曰。自春至夏鼠向難波。遷都之兆也。

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因みに、「大化」は皇極天皇四年六月十九日(ユリウス暦六四五年七月十七日)の孝徳天皇即位の時から実施されたもので、これが日本で元号が使われた最初である。但し、これ以外にも、白雉五(六五四)年正月一日の条に、『夜。鼠向倭都而遷』とあり、また同年十二月一日にも『老者。語之曰。鼠向倭都、遷都之兆也』とし、さらに天智天皇五(六六六)年の冬の条にも『京都之鼠向近江移』とあって、なかなかプレ遷都演出のレギュラー出演の感がある。

『「酉陽雜組」に云はく……』中唐の詩人段成式(八〇三年?~八六三年?)の膨大な随筆「酉陽雑組(ゆうようざっそ)」(「酉陽雑俎」とも書く)の「巻十六 広動植之一」の以下。

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人夜臥無故失髻者、鼠妖也。

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「鼠の咬〔(か)み〕たる」れっきとした「鼠咬症(rat-bite fever)」があることを認識されたい。これは異なる二種の原因菌により発症する別の感染症の総称で、ちゃんとした個別の人獣共通感染症の一つなのである。ウィキの「鼠咬症」によれば、「鼠咬熱」とも呼ばれる。『鼠咬症スピロヘータ感染症』及び『モニリホルム連鎖桿菌感染症』の二種の病気『が存在する』。『鼠咬症スピロヘータ感染症の原因菌はSpirillum minus、モニリホルム連鎖桿菌感染症の原因菌はStreptobacillus moniliformis(ストレプトバチルス・モニリホルム)』で、『ヒトはネズミの咬傷により感染する。日本では前者による疾病が多い』。『前者では感染』一~二『週間後に発熱、咬傷部の潰瘍、局所リンパ節の腫脹。後者では感染』十『日以内に発熱、頭痛、多発性関節炎、局所リンパ節の腫脹。両者とも心内膜炎、肺炎、肝炎などを発症することもある。両者とも一般にネズミに対しては無症状』である。

「菎蒻〔(こんにやく)〕」単子葉植物綱オモダカ目サトイモ科コンニャク属コンニャク Amorphophallus konjac。忌避関係は不詳。ただ、生のコンニャクイモの根茎はえぐみが強く鼠でさえ食わないというのはよく言われることではある。しかし、試みに調べてみると、ちゃんと保存していた種芋のコンニャクが齧られたという食害被害を訴えている方がいた。

「鼠の屎・尿〔(ゆばり)〕」種によって差があるが、概ね、ネズミの尿は強烈な刺激臭を持ち、病原菌も多く含まれている。

「野鼠」山林・農耕地・雑林等に棲息するネズミ類の総称通称。本邦ではアカネズミ(ネズミ科アカネズミ属アカネズミ Apodemus speciosus)・ヒメネズミ(ネズミ科アカネズミ属

ヒメネズミ Apodemus argenteus)・カヤネズミ(ネズミ科カヤネズミ属カヤネズミ Micromys minutus)・エゾヤチネズミ(キヌゲネズミ科ミズハタネズミ亜科ヤチネズミ属タイリクヤチネズミ亜種エゾヤチネズミMyodes rufocanus bedfordiae)・ヤチネズミ(谷地鼠:キヌゲネズミ科ハタネズミ亜科ヤチネズミ族ビロードネズミ属ヤチネズミ Eothenomys andersoni:日本固有種)・ハタネズミ(ネズミ上科キヌゲネズミ科ハタネズミ亜科ハタネズミ属ハタネズミMicrotus montebelli:日本固有種)・スミスネズミ(ネズミ科ビロードネズミ属スミスネズミ Eothenomys smithii:日本固有種)など、多くの種が含まれる。

「家鼠」現代に於いて、人家やその周辺に棲息するネズミ類の一般通称総称であるが、本邦ではドブネズミ(ネズミ科クマネズミ属ドブネズミ Rattus norvegicus)・クマネズミ(ネズミ科クマネズミ属クマネズミ Rattus rattus)・ハツカネズミ(ネズミ科ハツカネズミ属ハツカネズミ Mus musculus)の三種類にほぼ限られる。但し、クマネズミは江戸時代には「田鼠(たねずみ)」と呼んでいたから、ここに限っては括弧書きとすべきかもしれない。特に、後の芸をするネズミというのは、どうも私にはハツカネズミか或いはその近縁種のように思えてならないからである。なお、荒俣宏氏の「世界大博物図鑑 5 哺乳類」(一九八八年平凡社刊)の「ネズミ」によれば、本邦では江戸の宝暦期(一七五一年~一七六四年)頃から『ハツカネズミ系の変種コマネズミの飼育が京都・大阪を中心に流行した』が、この『コマネズミは中国産のナンキンネズミ』(ハツカネズミの飼養白変種)『をもとに日本で作られたもの』で、『ちなみにナンキンネズミの初渡来は承応』三(一六五四)年『のことという』。『これは内耳に遺伝的な奇形があ』るため、『体を独楽(こま)のように回転させる』習性があった『ためにその名がつ』けられ、天明七(一七八七)年頃には、『このネズミの交配の方法や』、『ハツカネズミの突然変異種がどのような系統的交配によって生ずるかを記した小冊子』「珍翫鼠育草(ちんがんそだてぐさ)」『(元本では鼠の字は読まれていない)が刊行されて』おり、『この本はハツカネズミの遺伝の形式にまでふれている点で』、『時代に大きく先駆けた書物であった』。『ちなみに同書によれば』、『毛色のようネズミをつくるためには』、『芸のへたなものを選んだほうがよいと』ある、とある。これはまさにその頃、ネズミに芸をさせることを庶民が好んだことを示していると言える。

「五雜組」「五雜俎」とも表記する。明の謝肇淛(しゃちょうせい)が撰した歴史考証を含む随筆。全十六巻(天部二巻・地部二巻・人部四巻・物部四巻・事部四巻)。書名は元は古い楽府(がふ)題で、それに「各種の彩(いろどり)を以って布を織る」という自在な対象と考証の比喩の意を掛けた。主たる部分は筆者の読書の心得であるが、国事や歴史の考証も多く含む。一六一六年に刻本されたが、本文で遼東の女真が、後日、明の災いになるであろうという見解を記していたため、清代になって中国では閲覧が禁じられてしまい、中華民国になってやっと復刻されて一般に読まれるようになるという数奇な経緯を持つ。以下は同書の「人部二」の以下。

   *

長安丐者、有犬戲猴戲、近有鼠戲。鼠至頑、非可教者、不知何以習之至是。

   *

「月令〔(がつりやう)〕」「礼記」の「月令」(がつりょう)篇(月毎の自然現象・古式行事・儀式及び種々の農事指針などを記したもの。そうした記載の一般名詞としても用いる)。以下はこれ。

   *

桐始華、田鼠化爲鴽、虹始見、萍始生。

   *

この「鴽」には東洋文庫訳では割注で、『家鳩もしくはふなしうずら』とする。ところが、既に電子化注した和漢三才圖會第四十二 原禽類 鶉(うづら)(ウズラ)」には「鴽」に良安は「かやくき」というルビを振っているのである(但し、そこでも東洋文庫版は『ふなしうずら』と訳ルビしてある)。現行ではフナシウズラは「鶕」で、鳥綱チドリ目ミフウズラ(三斑鶉)科ミフウズラ属ミフウズラ Turnix suscitator の旧名であり、「ウズラ」とはつくものの、真正のキジ目キジ科ウズラ属ウズラ Coturnix japonica とは全く縁遠い種である。中国南部から台湾・東南アジア・インドに分布し、本邦には南西諸島に留鳥として分布するのみである。されば、そこで良安が「かやくき」と和名表記したそれは、種としての「フナシウズラ」ではないと私は考えた。「かやくき」は、調べてみると、「鷃」の漢字を当ててあり、これはウズラとは無関係な(この漢字を「うずら」と読ませているケースはあるが)、スズメ目スズメ亜目イワヒバリ科カヤクグリ属カヤクグリ Prunella rubida の異名であることが、小学館「日本国語大辞典」で判明した。しかも上記の「鶉」の次の項が「和漢三才図会」の「鷃(かやくき)」なのであった(但し、そこには『鷃者鶉之屬』(「本草綱目」引用)とはある)。この日中の同定比定生物の齟齬のループから抜け出るのはなかなかに至難の技ではある。軽々に比定は出来ない。]

柳田國男 山島民譚集 原文・訓読・附オリジナル注「馬蹄石」(15) 「駒形權現」(1)

 

《原文》

駒形權現  [やぶちゃん注:二字空けはママ。]【勝善神】駿府淺間社ノ社人ノ唱言ニ、所謂關東ノ「ソウゼン」奧ノ「ソウゼン」、奧羽ニテ弘ク拜マルヽ「オコマサマ」ハ、今日村々ノ百姓ガ之ヲ何ト稱フルカヲ問ハズ、表向ノ名稱ハ殆ド皆今ハ駒形神社トナレリ。此ハ明治ノ復古思想ノ一種ノ發露ニシテ、奧羽ノ「オコマ」信仰ノ中心タル膽澤郡ノ駒ケ嶽ガ、即延喜式内ノ駒形神社ナルべシト謂フ地方誌ノ說ヲ公認シ、之ニ由リテ名ヲ正シ迷信ヲ改メントセシ神祇官(じんぎくわん)ノ目的ニハヨク合セリ。奧州ノ駒形神ハ成程古シ。神名帳ノ發表ヨリ五十餘年前ニ、既ニ神階ヲ正五位ニ進メラレタル記事アリ〔文德實錄仁壽元年九月二日條〕。【箱根權現】箱根ノ駒ケ嶽ニ祀ラルヽ駒形權現ノ如キモ、安貞二年ノ火災ノ記事ニ、ソレヨリ又五百年前ノ創立トアレドモ〔吾妻鏡〕、此ハ要スルニ所謂緣起ノ主張ニシテ、實ハ足柄越ノ閉塞シ此山道ノ開カレテヨリ後、奧州ニ往來スル旅人ニ由リテ運搬セラレタル信仰ナリシカモ知レズ。兎ニ角ニ此ノ如ク古キ神ナレバ、其名ノ由來ヲ解說スルコトハ容易ノ業ニハ非ズ。即チ假令駒ノ一字ガ共通ナリトテ、馬ノ保護者ニシテ兼ネテ蠶ノ神タル今ノ「オコマサマ」ヲ、駒形神社ト改メ稱フルノ正シキカ否カハ、今直チニ決スルコト能ハザル難問題ナリ。自分ノ信ズル限ニテハ、少ナクモ駒形ト云フ語ノ解釋トシテハ、地名辭書等ニ採用シタル觀迹聞老志以下ノ通說ハ疑ヲ容ルヽ餘地アリ。雪ナリ岩ナリ其形狀ガ駒ニ似タルガ故ニ駒形ト謂フナリト說クハ、恐クハ形ト云フ文字ニ拘泥シタル意見ナルべシ。駒ニ似タル「カタチ」ヲ以テ駒形ト稱スルハ、昔ノ造語法トシテハ不自然ナリ。【手形】「カタ」ハヤハリ押型ナドノ型ニシテ、手形ノ形ト同ジク物ノ上ニ印サレタル跡ヲ意味スルモノト解スべシ。【駒形ハ足形】而シテ馬ガ其跡ヲ留ムト云フニハ言フ迄モ無ク其蹄ヲ以テセザルべカラズ。サレバ古代ノ奧州ノ駒形神モ亦多クノ社ノ神々ノヤウニ、祭ノ日ニ神馬ニ騎リテ降ラレタルガ、其馬ノ痕跡殊ニ鮮カニ岩カ何カノ上ニ殘リシ爲ニ、頗ル地方ノ信仰ヲ繫ギ、從ヒテ其御神ノ名トモ爲リシカト思ハル。始メテ社ヲ建ツルト同時ニ又ハソレヨリモ以前カラ、駒形ハ其地ノ地名ナリシヲ、神ノ御名ニモ及シタリト見ルモ差支無シ。勿論此ハ駒形神社ノ名ノ由來ヲ想像シタル迄ニテ、其後色々ノ神祕ガ附加ヘラレ、或ハ本然ノ信仰ニ多少ノ變動ヲ及スニ至リシコトモ、決シテ無シトハ言フ能ハザルナリ。

 

《訓読》

駒形權現  【勝善神(そうぜんしん)】駿府淺間(せんげん)社の社人の唱言(となへごと)に、所謂、關東の「ソウゼン」奧の「ソウゼン」、奧羽にて弘く拜まるゝ「オコマサマ」は、今日、村々の百姓が之れを何と稱ふるかを問はず、表向きの名稱は、殆んど皆、今は駒形神社となれり。此れは、明治の復古思想の一種の發露にして、奧羽の「オコマ」信仰の中心たる膽澤(いざは)郡の駒ケ嶽が、即ち「延喜式」内の駒形神社なるべし、と謂ふ地方誌の說を公認し、之れに由りて、『名を正し』、迷信を改めんとせし神祇官の目的にはよく合(がう)せり。奧州の駒形神は、成程、古し。「神名帳(じんみやうちやう)」の發表より五十餘年前に、既に神階を正五位に進められたる記事あり〔「文德實錄」仁壽元年[やぶちゃん注:八五一年。]九月二日條〕。【箱根權現】箱根の駒ケ嶽に祀らるゝ駒形權現のごときも、安貞二年[やぶちゃん注:一二二八年。]の火災の記事に、それより又、五百年前の創立とあれども〔「吾妻鏡」〕、此れは要するに、所謂、緣起の主張にして、實は、足柄越えの閉塞し、此の山道の開かれてより後、奧州に往來する旅人に由りて、運搬せられたる信仰なりしかも知れず。兎に角に、此くのごとく古き神なれば、其の名の由來を解說することは容易の業(わざ)には非ず。即ち、假令(たとひ)、「駒」の一字が共通なりとて、馬の保護者にして、兼ねて、蠶(かいこ)の神たる今の「オコマサマ」を、駒形神社と改め稱ふるの正しきか否かは、今、直ちに決すること能はざる難問題なり。自分の信ずる限りにては、少なくも、「駒形」と云ふ語の解釋としては、「地名辭書」等に採用したる「觀迹聞老志」以下の通說は、疑ひを容るゝ餘地、あり。雪なり、岩なり、其の形狀が「駒」に似たるが故に「駒形」と謂ふなりと說くは、恐らくは「形」と云ふ文字に拘泥したる意見なるべし。駒に似たる「かたち」を以つて「駒形」と稱するは、昔の造語法としては不自然なり。【手形】「かた」は、やはり、「押型」などの「型」にして、「手形」の「形」と同じく、「物の上に印(しる)されたる跡」を意味するものと解すべし。【駒形は足形】而して、馬が其の「跡」を留むと云ふには、言ふまでも無く、其の「蹄(ひづめ)」を以つて、せざるべからず。されば古代の奧州の駒形神も亦、多くの社の神々のやうに、祭の日に神馬に騎(の)りて降(くだ)られたるが、其の馬の痕跡、殊に鮮かに、岩か何かの上に殘りし爲めに、頗(すこぶ)る地方の信仰を繫ぎ、從ひて、其の御神の名とも爲りしかと思はる。始めて社を建つると同時に、又は、それよりも以前から、「駒形」は其の地の地名なりしを、神の御名にも及ぼしたりと見るも、差し支へ無し。勿論、此れは、駒形神社の名の由來を想像したるまでにて、其の後、色々の神祕が附け加へられ、或いは、本然の信仰に多少の變動を及ぼすに至りしことも、決して無しとは言ふ能はざるなり。

[やぶちゃん注:本段落の柳田國男の見解には細部に至るまで私は非常に共感出来る。

「勝善神(そうぜんしん)」既出既注

「駿府淺間(せんげん)社」現在の静岡市葵区宮ケ崎町にある静岡浅間神社(グーグル・マップ・データ)は神部(かんべ)神社(祭神は駿河国開拓の祖神ともされる大己貴命。崇神天皇の時代(約二千百年前)の鎮座と伝えられ、「延喜式」(「弘仁式」・「貞観式」以降の律令の施行細則を取捨して集大成したもの。全五十巻。延喜五(九〇五)年、醍醐天皇の勅により、藤原時平・忠平らが編集。延長五(九二七)年に成立、康保四(九六七)年に施行された)内小社。国府が定められてからは国司崇敬の神社となり、平安時代より駿河国の総社とされた)・浅間神社・大歳御祖神社(祭神は大歳御祖命(おおとしみおやのみこと=神大市比売命(かむおおいちひめ))。応神天皇の時代(約千七百年前)の鎮座と伝えられ、元々は安倍川河畔の安倍の市(古代の市場)の守護神であった。古くは「奈古屋神社」と称された。「延喜式」内小社)の三社からなり、戦後まで三社は独立した神社であった(現在は一つの法人格扱い)。浅間神社の祭神は木之花咲耶姫命で、延喜元(九〇一)年、醍醐天皇の勅願により、富士山本宮浅間大社より、総社神部神社の隣りに勧請され、以来、「冨士新宮」として崇敬されてきた(以上は主にウィキの「静岡浅間神社」に拠った)。但し、柳田國男の言っている祝詞が狭義のこの神社のそれであるかどうかは私には分らない。

「神祇官」律令制で朝廷の祭祀を掌り、諸国の官社を総轄した、太政官(だいじょうかん)と並んだ中央最高官庁は、平安後期にはその機能を失い、室町時代には吉田家がこれに代わっていたが、明治維新政府は慶応四(一八六八)年閏四月に太政官(だじょうかん)七官の一つの官庁として復活させ、宗教統制による国民教化を担当させた。明治四(一八七一)年には神祇省と改称したが、翌年に教部省となり(この時、神祇官は事実上廃止されているものと思われる)、それも明治一〇(一八七七)年一月に廃止され、当該機能は内務省社寺局へ移された。明治三三(一九〇〇)年四月に神社局と宗教局の二つに分離したが、敗戦後の昭和二二(一九四七)年五月三日に施行された「日本国憲法」の理念に基づき、同年末、GHQの指令により、内務省は廃止され、神道部門は宗教法人神社本庁として外に出された。

「神名帳」ここは「延喜式神名帳」を指す。既に注した延長五(九二七)年に纏められた「延喜式」の巻九と巻十のことで、当時、「官社」に指定されていた全国の神社一覧を指す。

「箱根の駒ケ嶽に祀らるゝ駒形權現」神奈川県足柄下郡箱根町元箱根の箱根駒ヶ岳(標高千三百二十七メートル)の山頂にある現在、箱根神社所轄の箱根元宮(グーグル・マップ・データ)。「箱根神社」の同宮の解説によれば、『駒ヶ岳は北に霊峰神山を拝し、古代祭祀=山岳信仰が行われたところ』で、『その起源は、今から凡そ』二千四百『年前、人皇五代孝昭(こうしょう)天皇の御代、聖占仙人(しょうぜんしょうにん)が、神山に鎮まります山神の威徳を感應し、駒ヶ岳山頂に神仙宮を開き、次いで利行丈人、玄利老人により、神山を天津神籬(あまつひもろぎ)とし、駒ヶ岳を天津磐境(あまついわさか)として祭祀したのに始まる』。『爾来、御神威は天下に輝き渡り、歴世の天皇の崇敬と庶民の信仰をあつめ、敬仰登拝する者跡を断たず、人皇』二十九『代欽明』『天皇の御代に佛教が渡来して』以来、『神佛習合して、修験』『者等が練行苦行する霊場として有名になった』。『奈良時代、人皇』四十六『代孝謙』『天皇の御代、高僧の万巻(まんがん)上人が入峰し、霊夢をうけて箱根三所権現として奉斎。天平宝字元』(七五七)年に『山麓の芦ノ湖畔に社殿を造営し、里宮としたのが』、『現在の箱根神社である』とあり、「史跡 馬降石(ばこうせき)」の項には、『注連縄を張ってあるのは馬降石といい、白馬に乗って神様が降臨』『された岩と傳えられる』。『石の上の穴は降馬の折の蹄跡で、穴にたまる水は旱天にも枯れたことがないと傳えられる不思議な岩』であり、『また』、『参道の右側には馬乗石(ばじょうせき)があり、白馬の信仰を今に残している。此の山の七名石の一つとされている』とある。

『安貞二年の火災の記事に、それより又、五百年前の創立とあれども〔「吾妻鏡」〕』「吾妻鏡」の記載は以下。まず、同年十月十八日の箱根社焼亡の記載。

   *

十八日戊午。昨日午尅。筥根社壇燒亡之由。馳參申之。當社垂跡以來。未有回祿之例云々。依之。御作事可延引否。及評議。如助教。駿河前司。隱岐入道。後藤左衞門尉。凝群議。依風顚倒屋々被取立之條不可有其憚云々。無御侍幷中門廊條。頗似荒癈之體也。早可被急御造作之由。人々申之云々。

○やぶちゃんの書き下し文

十八日戊午(つちのえむま)。昨日の午の尅(こく)、筥根の社壇、燒亡の由、馳せ參じ之れを申す。當社は垂跡(すいじやく)以來、未だ回祿の例有らずと云々。

之れに依つて、御作事[やぶちゃん注:実はこの直前の十月七日に颱風が鎌倉を襲い、御所の侍所や中門の廊部分と竹の御所(第二代将軍源頼家の娘鞠子(或いは媄子(よしこ)とも)の侍控所が転覆し、諸亭も数多く破損していた。]は延引すべきや否や、評議に及ぶ。風に依て顚倒の屋々を取り立て被る之條、其の憚り有る不可と云々。」助教[やぶちゃん注:中原師員(もろかず)。評定衆(以下も同じ)。]・駿河前司(三浦義村)・隱岐入道(二階堂行村)・後藤左衞門尉[やぶちゃん注:後藤基綱。]のごとき、群議を凝らす。風に依つて顚倒せる屋々を取り立つるの條、其の憚り有るべからずと云々。

御侍幷びに中門の廊無きの條、頗る荒癈の體(てい)に似る也。早く御造作を急がるべきの由、人々、之れを申すと云々。

   *

とあり、次いで、翌十一月の条に、

   *

九日己卯。筥根山神社佛閣火災事。滿月上人草創當山以後五百餘歳。未有此例。當于斯時回祿。武州頗以御歎息。仍今日潛有解謝之儀。又被捧願書云々。

○やぶちゃんの書き下し文

九日己夘(つちのとう)。筥根山神社の佛閣火災の事、滿月(まんげつ)上人、當山を草創以後五百餘歳、未だ此の例、有らず。斯(こ)の時に當りて回祿すること、武州[やぶちゃん注:執権北条泰時。]、頗る以つて御歎息あり。仍つて、今日、潛かに解謝の儀、有り(かいしや)[やぶちゃん注:政道が正しくないことがこの火災を齎したと考えて、神に陳謝する儀式を内密に執り行ったことを指す。以下の「願書」のその願文(がんもん)である。]。又、願書を捧げらると云々。

   *

とあって、早くもこの時の二十八日に『筥根社、上棟す』(社殿の新築のそれ)とあって、翌十二月三日には『筥根社遷宮の事』について評定が行われ、同十二月二十八日に新築社殿が完成し、恙なく遷宮が行われたとある。]

太平百物語卷二 十七 榮六娘を殺して出家せし事

 

   ○十七 榮六娘を殺して出家せし事

 讃岐の國に榮六とて、心たくましき者あり。

 或夜、一里斗(ばかり)の堤(つゝみ)を越(こへ[やぶちゃん注:ママ。])て、朋友の方に行(ゆき)けるが、丑三つ過(すぐ)る比(ころ)、又、此堤づたひに歸りけるに、すこし酒きげんにて、心おもしろく、小哥(こうた)などうたひ、何心なく通りけるが、道の眞中(まんなか)に大き成[やぶちゃん注:「なる」。]古狸、前後もしらず臥居(ふしゐ)たり。

 榮六、此体(てい)をみて、

「扨々、にくきふるまひ哉。わらはが通る道筋に、かく狼籍なる風情こそ安からね。」

と傍(そば)ちかくさしより、持(もち)たる杖にて、したゝかぶちければ、狸、目覚(めざめ)て、肝をつぶし、一さんに迯走(にげはし)りければ、

「扨々、能(よき)氣味かな。」

とて、打笑ひて通りけるが、程なく宿に着きて表を叩きければ、今年十二歳になりける一人むすめ、頓(やが)て起き出でて戶口を明(あけ)しかば、榮六、悦び、

「家來は能(よく)ふせりて起(おき)もあがらぬに、やさしくも待(まち)うけたり。」

とて、手を取り、ふしどに入りけるに、爰(こゝ)にも、わが娘、心よく、臥し居たり。

 榮六、ふしぎにおもひ、ふり皈(かへ)りみれば、只今、戶口を明たる娘、うしろに、有。

 一人(ひとり)のむすめ、俄(にはか)に二人となりければ、榮六、大きに驚き、

『こは、いかにぞや。此内、壱人、ぜひ、變化(へんげ)ならん。』

と、おもひながら、何(いづ)れをそれと分(わき)がたく、暫く樣子をうかゞひ、案じ煩ひけるに、表を明けたるむすめのいふやう、

「われ、父上の歸り玉ふを迎ひに出でし間に、何國(いづく)の女やらん、我が臥(ふし)たる跡に、ふしけるこそ、安からね。はやはや、おひ出(いだ)したびたまへ。」

といふ聲に、臥たる娘、目を覚(さま)し、

「父上は、只今、歸り給ひけるかや。それなる女子(おなご[やぶちゃん注:ママ。])は、何方(いづかた)より伴ひかへり玉ふ。」

といふに、榮六、いよいよ、こゝろ迷ひ、二人の娘が顏かたちを、つくづく守りうかゞふに、いづれ、少しも違(たが)はねば、榮六、今はせん方なく、あきれ果てゝ居(ゐ)たりしが、能(よく)々、おもひめぐらす程、

『戸を明たる社(こそ)、化者(ばけもの)ならめ。』

と覺悟して、其儘(そのまゝ)、刀、ぬき放し、只、一太刀に切付(きりつく)れば、

「あつ。」

と叫びて、たふれしが、臥たる娘、此体(てい)を見て、忽ち、すさまじき狸と變じ、

「かうかう。」

と啼きて逃出(にげいづ)る所を、榮六、

『南無三宝(なみさんぼう)。』

とおもひながら、すかさず追詰(おつつめ)、すぐさまに切こめば、此狸、運や盡(つき)たりけん、眞向(まつかう)を切(きら)れて、聲をも立(たて)得ず死しければ、榮六、刀をかしこに捨(すて)、娘が側に走り寄(より)、さめざめと泣(なき)ていひけるは、

「我、はやまりて汝を殺せし不便(びん)さよ。ゆるしてくれ。」

とさけびしが、此むすめ、深手なれば、たまらずして、終に空しくなりぬ。

 榮六、娘が死骸に取り付き、くどきけるは、

「おことが母、先だちて『娘をたのむ』といひ置(おき)たる言葉も、無下になしけるよ。今は、此世に、望みなし。」

とて、これを菩提の種(たね)として、其儘、髻(もとゞろ)おし切、桑門(よすてびと)と成て、彼(かの)むすめの跡をぞ、吊(とむら)ひけるとかや。

 げに、狐・たぬきの類ひ、咎(とが)なきに、おどし苦しめまじき事にこそ。

[やぶちゃん注:「おひ出(いだ)したびたまへ」「追ひ出し賜び給へ」「たびたまふ」は動詞の連用形(或いはそれに「て」の付いた形)に付いて、「~して下さる」の意を添えるもので、補助動詞的用法で、殆んどが、このように命令形で用いられる。動詞「たぶ」の連用形に尊敬の補助動詞「たまふ」が接合した畳語的語彙である。中世以降の出現であろう。

「かうかう」この啼き声は普通、狐のオノマトペイアとして用いることの方が多い。実際のタヌキの啼き声は音写するなら、「キャウウウーーーン」「キュウーーーン」「クゥーーーン」である。なお、私の「和漢三才圖會卷第三十八 獸類 貍」も参照されたい。

「桑門(よすてびと)」出家修行者のこと。サンスクリット語の「シュラマナ」の漢音写。「沙門(しゃもん)」とも音写するほか、「勤息(ごんそく)」「静志」などとも意訳する。翻訳仏典においては「沙門」が頻出するが、本邦ではこの「桑門」が比較的多く用いられた。その場合、名利を捨て、出家した聖(ひじり)や遁世僧を意味することが多い。本来は、非バラモン教の自由な立場で出家修行に努める者の総称で、強い意志で禁欲生活を送り、閑静な場所で瞑想を行い、真理を目指す者であり、釈尊もそうした一人であった(以上は「WEB版新纂浄土宗大辞典」のこちらに拠った)。]

雁、雁 伊良子清白

 

雁、雁

 

雁(がん)、雁(がん)おまへは

  どこへ行く

 

北へ行くなら

  加賀のくに

 

防風の萠える

  砂山に

 

かはりはないか

  いうておくれ

 

[やぶちゃん注:初出は昭和三(一九二八)年七月発行の『詩神』であるが、初出標題は「雁」一字である。

「防風」はセリ目セリ科ハマボウフウ属ハマボウフウ Glehnia littoralis のこと。海岸の砂地に植生し、浜風に耐えるために根茎は太く長い。葉は羽状の複葉で厚く、放射状に広がる。夏、茎の頂きに白色の小花を密集させる。香りのよい若葉は刺身の褄、根は本邦では民間薬として解熱・鎮痛に用いる。「伊勢防風」とも呼ぶ。中医の正統な漢方生薬である「ボウフウ」は同じセリ科 Apiaceae ではあるが、全くの別属であるボウフウ属ボウフウ Saposhnikovia divaricata の根及び根茎由来(発汗・解熱・鎮痛・鎮痙作用を有する)であって全くの別物である。

 初出は四部構成。以下に示す。

   *

 

 

 

雁(がん)、おまへは

  どこへ行く

 

 

北(きたへ行(ゆ)くなら

  加賀(かが)の國

 

 

防風(ぼうふ)の萠(も)える

  砂山に

 

 

かはりいないと

いふとくれ。

 

   *]

遠い熊野の 伊良子清白

 

遠い熊野の

 

遠い熊野の

   沖合で

月の夜更に

   錨打つ

 

七里御濱(みはま)の

   荒濱も

波は靜かや

   人の聲

 

空は月夜の

   玉霰

しきりに人の

   喚(よ)びたつる

 

波の起臥(おきふし)

   からころと

轆轤(ろくろ)まはしの

   帆をおろす

 

[やぶちゃん注:初出未詳。前後の一連の小唄風詩篇と同時期と考えてよかろう。

「七里御濱」「しちりみはま」と読み、現在の三重県熊野市から三重県最南端の南牟婁郡紀宝町(きほうちょう)はにかけて熊野灘に面した浜の固有名。旧熊野古道の伊勢路の一部。ここ(グーグル・マップ・データ)。鳥羽からは海路実測で百三十キロメートルを有に超えあり、直線距離でも百三キロメートル(浜の中間部の南牟婁郡御浜町基準)ある。

「轆轤」「絞車(きょうしゃ)」とも呼ぶ船具。平安後期以降、大型和船の艫(とも)やぐら内部の左右に設けて、帆・伝馬船・碇・重量荷物などの上げ下ろしに用いた船具。巻胴・轆轤棒・轆轤座:身縄・しゃじき棒・飛蝉などからなり(全体の形状や各部については引用したネットの小学館「精選版 日本国語大辞典」の附図を参照)、今日のウインチに相当する。]

ねたか起きぬか 伊良子清白

 

ねたか起きぬか

 

ねたか起きぬか

  萱野の貉(むじな)

 よいそらよい

沖の夜繩を

  鮫がとる

 

岳(たけ)の朝西風(あさにし)

  飛び出せ螇蚸(ばつた)

 よいそらよい

濱の鰯(いわし)を

  鮪(しび)が逐ふ

 

[やぶちゃん注:これは本底本のこのパートの親本である昭和四(一九二九)年十一月十五日新潮社刊「現代詩人全集 第四巻 伊良子清白集」が刊行される七ヶ月前、改造社から出版された「現代日本文学全集」(昭和四(一九二七)年四月十五日刊)第三十七篇の「現代日本詩・漢詩集」の部の「伊良子清白篇」に初出された特異点の詩篇である(この刊行の五日前には梓書房から詩集「孔雀船」の再刻版が刊行されている)。なお、改造社本の同篇には、他に「孔雀船」から「秋和の里」・「漂泊」・「月光日光」・「不開の間」・「安乘の稚兒」・「鬼の語」・「五月野」・「初陣」の全九篇が載せられてある。無論、初出時も伊良子清白は鳥羽にあったから、その景と考えてよい。初出では標題の「ねたか起きぬか」が「寢たか起きぬか」、詩篇初行が「寢(ね)たか起(お)きぬか」となっている。

「貉(むじな)」貍(たぬき)、則ち、食肉目イヌ科タヌキ属タヌキ亜種ホンドタヌキ Nyctereutes procyonoides viverrinus ととっておく。本邦の民俗社会では古くから、穴熊(本邦固有種である食肉目イヌ型亜目クマ下目イタチ小目イタチ上科イタチ科アナグマ属ニホンアナグマ Meles anakuma)や、白鼻芯(食肉目ネコ型亜目ジャコウネコ科パームシベット亜科ハクビシン属ハクビシン Paguma larvata)を指したり、これらの種を区別することなく、総称する名称として使用することが多いが、アナグマとの混淆はいいとしても、後者ハクビシンは私は本来、本邦には棲息せず、後代(江戸時代或いは明治期)に移入された外来種ではないかと考えているので含めない。さらに言うと、アナグマはしばしばタヌキにそっくりだとされるが、私は面相が全く違うと感ずる。私はアナグマは民俗社会ではタヌキとゝネツして独立的にメジャーな存在であるとは決して思わない人間である。従って私はこの「貉」はタヌキ(アナグマを無意識的に含むとしてもよい)とするのである。私の「和漢三才圖會卷第三十八 獸類 貍」及び同「貉」をどうぞ!

「岳(たけ)」朝熊ヶ岳(あさくまだけ)。朝熊山(あさまやま)。前の「七つ飛島」の伊良子清白の「註」及び私の注を参照。

「螇蚸(ばつた)」節足動物門昆虫綱直翅(バッタ)目雑弁(バッタ)亜目 Caelifera のバッタ類。

「鰯(いわし)」本邦では、条鰭綱ニシン目ニシン亜目 Clupeoidei の、ニシン科ニシン亜科マイワシ属マイワシ Sardinops melanostictus・ウルメイワシ亜科ウルメイワシ属ウルメイワシ Etrumeus teres 及びカタクチイワシ科カタクチイワシ亜科カタクチイワシ属カタクチイワシ Engraulis japonica の三種を「鰯(イワシ)」と呼んでいる。

「鮪(しび)」漢字からマグロ(条鰭綱スズキ目サバ科マグロ族マグロ属 Thunnus)に類する分類学的に真正な、「ホンマグロ」と呼ばれることの多いスズキ目サバ亜目サバ科サバ亜科マグロ族マグロ属クロマグロ Thunnus orientalis を想起する者が多いが、確かにそれも指すものの、本邦で古くより使われている「鮪(しび)」は魚体の似た複数のマグロ属の種を指し、他に、「キハダマグロ」とも呼ばれるマグロ属キハダ Thunnus albacares や、マグロ族マグロ属 Thunnus 亜属ビンナガ Thunnus alalunga を含む。なお、「鮪(しび)」は「古事記」「日本書紀」「万葉集」に既に「鮪」の字が出、「日本書紀」武烈天皇即位前記の部分に、その読み方を「滋寐(しび)」としてある非常に古い語である。]

2019/04/28

七つ飛島 伊良子清白

 

七つ飛島

 

七つ飛島

  靑剛樹(いまめ)の茂り

  裾は砂濱 春の波

   ぎいとんぎいとん

   櫂なら來い櫓なら來い

   ぎいとんぎいとん

 

七つ飛島

  阿久瀨(あぐせ)を越えて

  沖は白帆の 伊勢の海

   ぎいとんぎいとん

   櫂なら來い櫓なら來い

   ぎいとんぎいとん

 

七つ飛島

  長山、尾山、

  おだま、けないし、御前島(ごぜんじま)

  おむら、坊主で 七つじま

   ぎいとんぎいとん

   櫂なら來い櫓なら來い

   ぎいとんぎいとん

 

七つ飛島

  二見の浦は

  かもめ一聲 羽根の下

   ぎいとんぎいとん

   櫂なら來い櫓なら來い

   ぎいとんぎいとん

 

七つ飛島

  千疊敷岩で

  可愛いお方と ふのり摘み

   ぎいとんぎいとん

   櫂なら來い櫓なら來い

   ぎいとんぎいとん

 

七つ飛島

  朝熊岳(あさま)を眺め

  今日も煙が 三すぢたつ

   ぎいとんぎいとん

   櫂なら來い櫓なら來い

   ぎいとんぎいとん

 

七つ飛島

  親神子神

  なぜに逢はれぬ 波と風

   ぎいとんぎいとん

   櫂なら來い櫓なら來い

   ぎいとんぎいとん

 

七つ飛島

  まはれば一里

  裏の洞門 潮が鳴る

   ぎいとんぎいとん

   櫂なら來い櫓なら來い

   ぎいとんぎいとん

 

七つ飛島。二見の浦鳥羽間に在る七つの群嶼。

阿久瀨。群嶼の外海一帶の淺瀨。

朝熊岳。古い「よさ節」に「さまよあれ見よ朝熊の山を……中略……はなれがたなき此山の、ぢんの煙が、三すぢ立つ」とあり。岳頂金剛證寺あり。

親神子神、飛島七嶼は何れも神體として俚人の尊崇篤し。

 

[やぶちゃん注:初出不詳であるが、言わずもがなであるが、鳥羽での作。則ち、既に示した通り、大正一一(一九二二)年九月十二日から、ここの底本親本である新潮社版「伊良子清白集」刊行の昭和四(一九二九)年十一月以前の作となる。以下、本大パート「笹結び」最後の「冬が來たとて」まで総て同じなので、これを以ってこの創作時期指定は示さないなお、最後の注は底本では、「註」は詩篇本文の一字分下げ位置で、後に一字空けで一行目(『七つ飛島。二見の浦鳥羽間に在る七つの群嶼。』)があり、二行目(『阿久瀨。群嶼の外海一帶の渡瀨。』)以降は註の一字分が下げとなり、以下、註全部がそれに倣い、「朝熊岳」は底本では三行及ぶが二行目と三行目は一字上っている。ブログ・ブラウザの不具合を考え、以上のように処理した。

「七つ飛島」国土地理院図の「飛島」とのみ記す、この東西に並ぶ諸島。現在の三重県鳥羽市桃取町飛島に総ての島が含まれる。グーグル・マップ・データの航空写真のこの位置のこのサイズで辛うじて、伊良子清白の註する「二見の浦鳥羽間に在る七つの群嶼」(「群嶼」は「ぐんしよ(ぐんしょ)」で「嶼」は「島嶼」の熟語でお判りの通り、「島」は大きな、「嶼」は小さな島を指す漢字である)が判るはずである。諸島の上に「飛島」の文字が出、左上端に二見ヶ浦にある「二見興玉神社」が、右端中央に「鳥羽湾」の文字が視認出来る。さても問題はこれらの、伊良子清白が言う七つの島の名とどれがそれなのかが地図好きの私には気になった。伊良子清白は第三連で七つの島を挙げて、「長山」島・「尾山」島・「おだま」島・「けないし」島・「御前島(ごぜんじま)」・「おむら」島・「坊主」島と名数としているのだが、まず、これが西から或いは東からの島の順列呼名である保証はどこにもない。しかも、国土地理院図を見ると、大まかに島影を想像して数えれば、七か八つ、ごく小さなものを含めると十九を数え得る。但し、ここで清白が言い、現地でもそう呼称していたのであろう「七つ島」は陸から見た、見た目の島影を数えたもので、何となく国土地理院図を眺めていると、きっとここは纏まるからと推測されて、凡そ七つというのは腑に落ちる数ではあると私は思った。しかしそれで納得は出来ない。さらに調べて見たところ、この飛島諸島の南の端から真南の、湾に面した、三重県伊勢市二見町松下の伊勢志摩国立公園内の「池の浦 旅荘 海の蝶」の公式サイト(地図はここに有)内に、「飛島の全ての島の名称」というページを発見した(同旅荘のスタッフの一人「地下のホシ」氏の記事)。それによると、「鳥羽市史」上巻によると、『淡良伎(あわらぎ)島=小浜の前海中にある七ツ島の総称で、大小七個の島が東西に相並び、飛んで踏みこえる状態のため、通称を飛島ともいわれる』、『と記述されており、また、淡良伎島のことは、神宮の贄海(にえうみ)神事のとき』、『謳(うた)われる三首の歌の一つに「淡良伎や、島は七島と、申せども、不毛島加(けなしか)てては、八島なりけり」とあり、不毛(けなし)島は、やはり飛島に並んでいる島で、草木が生えない。飛島の個々の名称については『鳥羽誌』に「大村・ボウス・御膳島・同・カマダ・長山・大山」と記されている。飛島はまた、志摩国旧図に「州浮(すうき)島」とも書かれている』、『と記述されています。この記述の中で私は、飛島はどう見ても』七『つしかないのに、なぜ』八『島なのか。残りの』一『つの島はどれだろうか。御膳島の次の「同」と「カマダ」はどれなのか気になります。「カマダ」は御膳島の右側にある小島でしょうか。「同」は不明です』。『図書館にございます、神宮文庫所蔵の「志摩國圖」を見ますと、飛島が』八『つ同じ大きさで並んで描かれています。そして、海上保安庁の「世界測地系」を見ますと、御膳島は「御前島」、不毛島は「ケナシ」と記されています』。『以上の事をまとめますと、島名は』『左から、大村島、ボウス島、御前島、カマダ島、長山島、大山島、ケナシ』島と『なります』とあったのである(太字下線は私が附した)。毎日、この旅荘の位置で飛島の島々を眺めつつ、お仕事をなされておられる方の記事であるから、「七つ島」は東から、

大村島・ボウス島・御前島・カマダ島・長山島・大山島・ケナシ(島)

であることは間違いない。ただ、記事の中の「志摩國圖」というのがひどく気になった。調べみたところ、同一の絵図かどうかはわからないが、江戸幕府の命によって作られた「天保國繪圖」(天保九(一八三八)年完成)の志摩国のパート部分を「国立公文書館」の「デジタルアーカイブ」(重要文化財(国絵図等)内に発見、細部を拡大して見ると、あったのだ! 東から、飛島諸島相当するところに、東から、八つ、

大村・小山・御膳嶋・小山・長山・尾山・小けなし・大けなし

とあったのである! しかも「大村」島だけがちょっと大きめで、あとは似たり寄ったりのいい加減に似たような大きさで描かれているから、恐らくはブログを書かれた方が見たものも同系列のものなのだろうと推測する。今一度、伊良子清白のそれを示すと、

長山島・尾山島・おだま島・けないし島・御前島・おむら島・坊主島

で、順列ではないことが明らかになる。しかし、それは実は当然なのだ。清白は韻律を整えるためにこれらの七つ島の名を組み変えたに過ぎないないからである。気になるのは呼称の相異ではある。しかし、清白の「おだま島」はブログ主の「カマダ島」や古地図の二つの「小山」島(名前がダブっているのは作成者のいい加減さに過ぎないだろう。漁師はちゃんと区別していた。そうでなくては板子一枚下は地獄の彼らの命に係わるからである)と音の親和性があるし、「けないし島」は明らかに、西の端の「ケナシ」で(ここは小さな島が、ちょっと離れて二つのやや大きな島と中くらいとがあり、そこにまた小さいの(五つ)がごちゃごちゃっとあり、陸からは或いは一つに見えるのかも知れない。「おむら島」は「大村島」であろうし、「坊主島」は「ボウス島」(古地図の東から二つ目の「小山」)であろう。清白は土地の者ではない。土地の訛りを聴き取り違えた可能性もある。以上が私の机上の飛島小旅行であった。何時か、ここに泊まって見たくなったな……

【2019年5月2日追記】昨日、東京湾を友人のヨットでクルーズさせて貰った。その折り、冊子型の海図を見ることが出来、そこに飛島諸島があった。総ての島に名は載っていなかったが新しい発見があった。先のブログ主が「ボウス島」と読んでいる、大村島と御前島の間にある、ごくごく丸い小さな島には、海図では、

飛島

とあったのである。ご報告まで。

「靑剛樹(いまめ)」ブナ目ブナ科コナラ属アカガシ亜属アラカシ Quercus glauca のことか。この木は現代中国語で「青剛櫟」と書く。ウィキの「アラカシ」によれば、『常緑広葉樹。クロガシ、ナラバガシともいう』。『樹皮は黒っぽい灰色』。『葉は楕円形で硬く、中央から先にあらい鋸歯がある。裏面は粉を吹いたように白い』。『開花期は』四・五『月で、雌雄異花』。『果実(堅果)は、いわゆるドングリのひとつになる。殻斗(ドングリの入っている台のような部分)は環状である』。『中国、台湾、日本(本州東北以南、四国、九州)に分布する』。『人里近くの雑木林に多く見られる。照葉樹林の構成種であるが、人為的攪乱にも強く、人手が入った二次林に特に多』く、『照葉樹林そのものがほとんど残っていない場所でも、この種は比較的よく見られる』。『公園や学校にもよく植栽されている。木は建築材として利用される』。『大きな木になると、樹皮の傷口から虫が入り、これにカブトムシやクワガタムシが集まることがあり、クヌギほどではないが、そのような昆虫を見るのによい木である』とある。

「阿久瀨(あぐせ)」この辺りか(グーグル・マップ・データ航空写真)。

「千疊敷岩」不詳。飛島諸島のどこかの島の海食台の通称か。

「ふのり」紅色植物門紅藻綱スギノリ目フノリ科フノリ属の海藻で、本邦にはハナフノリ Gloiopeltis complanata・フクロフノリ Gloiopeltis furcata・マフノリ Gloiopeltis tenax の三種が植生する。布海苔・布苔・布糊などと書く。一般的に食用とするのはマフノリとフクロフノリで、ウィキの「フノリ」によれば、『マフノリはホンフノリと呼ばれることもある』。『岩礁海岸の潮間帯上部で、岩に付着器を張り付けて生息する。日本全国の海岸で広く見られる』。二月~四月が『採取期で、寒い時のものほど』、『風味が良いといわれる。採取したフノリの多くは天日乾燥され』、『市場に出回るが、少量は生のまま、または塩蔵品として出回ることもある』。『乾燥フノリは数分間水に浸して戻し、刺身のつまや味噌汁の具、蕎麦のつなぎ(へぎそば)などに用いられる。お湯に長時間つけると』、『溶けて粘性が出るので注意が必要である』。『近年、フノリはダイエット食品として注目されている。また、フノリの粘性の元となる多糖質に抗がん作用があるとか』、『血中コレステロールを下げる作用があるなどという見解を持つものもおり、フノリの成分を使った健康食品なども開発されている』。『一方、フノリは古く』『は食用よりも糊としての用途のほうが主であった。フノリをよく煮て溶かすと、細胞壁を構成する多糖類がゾル化してドロドロの糊状になる。これは、漆喰の材料の』一『つとして用いられ、強い壁を作るのに役立てられていた』のである。『ただし、フノリ液の接着力はあまり強くはない。このため、接着剤としての糊ではなく、織物の仕上げの糊付けに用いられる用途が多かった。「布糊」という名称はこれに由来するものと思われる。また、相撲力士の廻しの下につける下がりを糊付けするのに用いられたりもする』。『その他、フノリの粘液は洗髪に用いられたり、化粧品の付着剤としての用途もある。また、和紙に絵具や雲母などの装飾をつける時に用いられることもある』とある。何を隠そう、海藻フリークの私の中でも、ランキングの高いこれまた大好物であって、現在も常時、三袋ほどを保存して欠かさない。先般、西伊豆で買って生も食べたが、フノリに関しては、乾したもの、しかも、ガタイの大きくない細目のもの、ともかく北のものの方が風味がある。

脚注「朝熊岳(あさま)」三重県伊勢市及び鳥羽市に跨る朝熊山(あさまやま)。正式名称は「朝熊ヶ岳(あさまがたけ)」。標高は北峰で五百五十五メートル。ウィキの「朝熊岳」によれば、「三国地誌」では『「岳(たけ)」とも記され、伊勢市近辺で「岳」は朝熊山を意味する』という。『紀伊半島から太平洋に突き出た志摩半島の最高峰で、山頂付近は初日の出の名所である。朝熊山は伊勢志摩を代表する霊山として知られる』。「延喜太神宮式」などに『「朝熊(あさくま)」とあるように』、『「あさくま」が本来の読みであり、音が約され』、『「あさま」となったと考えられる。なお、「あさくま」との読みは伊勢神宮摂社の朝熊神社に残っている』。『「あさくま」の語源として、浅隈(川の浅瀬を意味する古語)に由来する説(度会清在』「旧蹟聞書」『)が有力とされる。ほかに、この地を訪れた空海の前に』、『朝に熊が』、『夕に虚空菩薩が現れたという伝説による説(金剛證寺伝)、朝熊神社の祭神である葦津姫(別名木華開耶姫)の通音に由来するという説(度会延経)などがある』とある。清白が註で言うように、山頂付近に臨済宗金剛證寺(創建は六世紀半ばに欽明天皇が僧暁台に命じて明星堂を建てたのが初めといわれているものの定かでない。天長二(八二五)年に空海が真言密教道場として当寺を中興したと伝えられており、長く修験道の道場であった。明徳三(一三九二)年に鎌倉建長寺第五世の仏地禅師東岳文昱(ぶんいく)が再興に尽力し、これによって東岳文昱を開山第一世として臨済宗に改宗した。参照したウィキの「金剛證寺」によれば、『朝熊山付近では江戸期以降、宗派を問わず』、『葬儀ののち』、『朝熊山に登り、金剛證寺奥の院に塔婆を立て供養する「岳参り」「岳詣(たけもうで)」などと呼ばれる風習がある』とある)がある。

「親神子神」不詳。飛島になんらかの神話があるものか? 或いは朝熊神社の祭神である木花之佐久夜毘売(このはなのさくやびめ:大山津見神の娘)の天孫の寿命短縮神話と関係するか(見当違いだと意味がないので説明はしない。知らぬ方はウィキの「コノハナノサクヤビメ」などを参照されたい。

「裏の洞門」不詳。飛島諸島のどこかに海食台があるなら、海食洞もあってよい。]

太平百物語卷二 十六 玉木蔭右衞門鎌倉にて難に逢ひし事

Kobukurozakanokai 

   ○十六 玉木蔭右衞門鎌倉にて難に逢ひし事

 九州に玉木蔭右衞門といふ侍あり。

 一年(ひとゝせ)、主君の御供して登られけるが、とし比(ごろ)、鎌倉の方(かた)に心ざしありて、御いとまを願はれけるに、早速の御免、有り難く、供者(ずさ/けらい[やぶちゃん注:ママ。後も同じ。])壱人召具(めしぐ)して、日比、飼ひ馴れし栗毛の馬(むま)にうち乘(のり)、かまくらに赴きしが、小袋坂(こぶくろざか)といふ所にて、日、すでに暮れかゝりしが、折からの星月夜(ほしづきよ)も、

「所がら。」

とて、一入(ひとしほ)、興(けう)まさり、いにしへの歌人(うたびと)の、ことの葉草(はぐさ)をおもひ出(いで)て、いと面白く行(ゆき)ける所に、道のほとりの山路(やまぢ)より、裝束(しやうぞく)異形(ゐぎやう[やぶちゃん注:ママ。])の人、來つて、蔭右衞門にむかひ、申けるは、

「われらが主人、御身の日暮れて道を急ぎ玉ふをしりて、御宿(やど)を參らせん爲に、わらはを迎ひに參らせぬ。いざ、させ給へ。」

といふに、蔭右衞門がいふやう、

「こは、おもひもふけぬ[やぶちゃん注:ママ。後も同じ。]御事かな。御身の主人(しゆじん)は此所の首長(しゆちやう/かしら)なるや。」

と尋ねければ、答へていふ、

「長(ちやう)にはあらず。されども、家、富(とみ)さかへて、おほくの從者(ずさ)を持(もち)けるが、御身のごとき旅人(りよじん)を、いたはり玉ふ。」

と、いふ。

「扨(さて)は。御こゝろざしの程、淺からず。」

とて、此(この)者と伴ひ行(ゆく)に、山に入る事、百步(ひやくほ/あゆみ[やぶちゃん注:この左ルビは「步」のみに附く。後も同じ。])ばかりにして、一つの大門(だいもん)あり、朱塗(しゆぬり)にして、甚だ高し。人、多く守り居て、偏(ひとへ)に國君(こくぐん[やぶちゃん注:ママ。])のごとし。

 此所にて、馬(むま)より下(おり)て行く所を、此馬、蔭右衞門が袂(たもと)を喰(くは)へて、しきりに、留(とゞ)む。

 蔭右衞門、其故をさとらずして、あざわらひ、從者(ずさ/けらい)と共に殘し置きて、又、廿步(にじつほ/あゆみ)斗(ばかり)ゆけば、中門に至る。

 彼(かの)者、いふ、

「しばらく、是れに待(まち)玉へ。」

とて、一人、内に入しが、程なく、衣冠(ゐくわん[やぶちゃん注:ママ。])せし人、兩人(りやうにん)きたりて、蔭右衞門を誘ひ入(いり)ぬ。

 内の体(てい)をみるに、主人とおぼしき人、身に裘(かはごろも)を着(ちやく)し、面色(めんしよく)より相好(さうがふ[やぶちゃん注:ママ。])に至るまで、常の人には、事、かはりぬ。

 夫(それ)より有あふ臣下、次第に列(つらな)り、坐す。

 蔭右衞門、此有樣(ありさま)をみて、おもはず、拜す。

 時に、主人のいはく、

「われ、此所に住(すむ)事、久し。たまたま、御身の通る事をしりて、迎へ入たり。これ、饗應(もてなさ)んが爲なり。」

と、いふ。

 蔭右衞門、拜謝すれば、やがて、酒宴をまふく。

 其器物(うつはもの)、皆、めづらしき物どもなり。主人、興に乘じ、左右の臣下にいふやう、

「かゝるめづらかなる客人(まらうど)を、など、なぐさめ參らせずや。」

と、いへば、

「畏(かしこま)り奉る。」

とて、御前に集(あつま)る。

 其人々をみれば、其形(かた)ち、黑き裝束あり、錦(にしき)を著(ちやく)し、白き冠(かんぶ[やぶちゃん注:ママ。])り、又は、靑き衣、まだらなる衣裳ありて、いづれも酒を酌(くみ)かはし、音樂を奏す。

 蔭右衞門も興に乘じける所に、錦を著(き)たる者、蔭右衞門にいふやう、

「われは未(いまだ)夜食(やしよく)せず。客人(きやくじん)、われに與へよ。」

と、いふ。

 蔭右衞門がいはく、

「君の望み玉はん食物(しよくもつ)、此所にして、われ、いかで求めん。」

といへば、

「いや。わが望む所は外(ほか)になし。只、御身の肉をくらはしめ玉へ。別の味ひを求(もとめ)る事、なし。」

と、いふ。

 蔭右衞門、大きに驚き、急に退(しりぞ)かんとすれば、黑き衣(ころも)着たる者、笑つていはく、

「客人(きやくじん)、おどろく事なかれ。われらは、さきに、足下(そこ)の下人と馬(むま)とを、わけて喰(くら)ひしゆへに、食(しよく)に飽(あき)たり。はやはや、御身を與へ玉へ。」

と、いふ。

 蔭右衞門、いよいよ色を變じ、

『こは、そも、變化(へんげ)の者にたばかられけるぞ。』

と、おもひながら、すべき樣なく、網切(あきれ)たる所に、主人、此体(てい)をみて、いはく、

「汝等、何とて客人(まらうど)の心にさかふや。」

と、しかりければ、錦をきたる者、わらつて、

「これ、戲(たはふ)れなり。」

とて、退(しりぞ)きしが、しばらくありて、外(ほか)より、入り來(きた)る者あり。

 其形(かた)ち、頭(かしら)、ながく、五体の丸き者なりしが、主人にむかひ、いふ様、

「われ、常に占卜(せんぼく/うらなひ)を好む。主人の愁ひ、此客人(きやくじん)に有る事を、しる。早く、ころし玉へ。」

と、すゝむ。

 主人、怒つていはく、

「此悅びに何の災(わざはひ)あらん。」

 卜者(ぼくしや/うらなひ)、なげきていふ、

「殺し玉はずんば、御身をはじめ、此所にありあふ者、一人も生(いく)る事、叶ふべからず。其時、おもひ知り玉へ。」

と、いふ。

 主人、大きに怒つて、終に卜者(ぼくしや)を殺す。

 夜(よ)更(ふ)くるにしたがつて、皆々、大きに醉(ゑひ)て、たふれ臥(ふせ)ば、蔭右衞門も、心氣(しんき)つかれて、眠(ねふ)らんとする時、天、まさに裂(さけ)んとして、忽ち、目(め)、覚(さ)め、あたりをみれば、大ひなる巖(いはほ)の中(うと)に、ふせり。

 其中に種(しゆ)々の調度(てうど)、あり。

 一つの大猿(おほざる)、かたち、人の如くなるが、醉(ゑひ)て、地に伏す。

 これ、主人なり。

 其次は、劫(かう)經たる熊、白き頭(かしら)の狼、毛の禿(はげ)たる狸、或は狐、鹿、猪、いづれも共に酔(ゑひ)ふして、正体(しやうだい[やぶちゃん注:ママ。])、なし。

 其傍(かたはら)に、ひとつの龜、死しゐたり。

 是、さきの卜者(ぼくしや)なり。

 こなたをみれば、家來と馬(むま)とを取りくらひて、頭(かしら)と手足、すこし、のこれり。

 蔭右衞門、十方(とほう)[やぶちゃん注:総てママ。]に暮(くれ)ながら、すべき樣なく、ひそかにしのび遁(のが)れいで、里にかけ付、所の長(ちやう/かしら)に告(つげ)て、地頭(ぢとう)に、

「かく。」

と訴ふれば、頓(やが)て、數(す)百人の若者どもをかり催し、武具を帶(たい)して、かけ來り、彼(かの)山中(さんちう)に分入(わけいれ)ば、大將の大猿、此音におどろき覚(さめ)て、大ひに叫んで、いはく、

「卜者(ぼくしや)がいさめを用ひずして、今、かくのごとし。」

と、いふ内に、はや、其いはほを打碎(うちくだ)き、手に手に弓・鐵砲をもつて、悉(ことごとく)平治(へいぢ)しければ、蔭右衞門は虎口(こかう)の難をのがれ、剩(あまつさ)へ、家來と馬(むま)の敵(かたき)を眼前(がんぜん)に取つて、人々に一禮し、辛(から)ふじて[やぶちゃん注:ママ。]靏(つる)が岡に至りしとかや。

[やぶちゃん注:さても私のテリトリーにしてフリークの鎌倉が舞台の異類変化オン・パレードの怪異譚とは頗る珍しい特異点の一話である。

「玉木蔭右衞門」不詳。「衞」の字は総てが「串」のような極端な奇妙な略字(恐らくはこれ(リンク先は「グリフウィキ」の当該字の画像ページ)の更なる略字で「ヱ」の原型)で表記不能であるため、正字で示した。

「栗毛」馬の毛色の名。地肌が赤黒く、鬣(たてがみ)と尾が赤茶色を呈しているもの。品種改良の結果、出現したもの。

「小袋坂(こぶくろざか)」水戸光圀の「新編鎌倉志卷之二」には、

   *

○巨福呂坂 巨福路(コフクロ)〔或作小袋路或作禮又作呂(或は「小袋路」(コフクロ)に作る。「路」或は「禮」に作る。又は「呂」に作る)。〕坂(サカ)は、雪下(ユキノシタ)より建長寺の前へいづる切通(キリトヲシなり)。【太平記】幷【神明鏡】に、新田義貞(ニツタヨシサダ)、鎌倉合戰の時、堀口美濃の守貞滿(サダミツ)を、巨福呂坂(コフクロサカ)へ指向(サシムケ)らると有は、此所にはあらず。市場村(イチバムラ)の西に、巨福呂谷)コフクロガヤ)と云所あり。是を指(サ)すなり。則、此道筋(ミチスヂ)なり。此の所ろは、巨福呂谷(コフクロガヤ)へ行(ユ)く坂(サカ)の名なり。【太平記】【神明鏡】をも、巨福呂谷(コフクロガヤ)となして見るべし。古老の云、此の邊より市場村(イチバムラ)の邊までを、巨福呂谷(コフクロガヤ)と云。故に建長寺を巨福山(コフクサン)と云也と。【鎌倉九代記】に、新田義興(ヨシヲキ)・脇屋義治(ワキヤヨシハル)、鎌倉に攻入(セメイ)りし時、基氏方(モトウヂガタ)の兵、小袋坂(コブクロサカ)・假粧坂(ケワヒサカ)に集りて堅(カタ)めたりとあるは、市場村(イチバムラ)の西を云(イ)ふには非ず。則ち、此の所ろを指(サ)すなり。義興(ヨシヲキ)、義治(ヨシハル)、已に源氏山(ゲンジヤマ)へ登り、鶴が岡山(ヤマ)へ登るとあるを以て知る也。

   *

とある。旧の巨福呂坂(現在の住所地名ではこの表記)は、近代に掘削して切通しになっている県道二十一号の被覆天上のあるトンネルのあそこではなく、その南西直近を南西直近の尾根の上を通る、かなりきつい山越え道であった。国土地理院図で説明すると、まさにこの部分の「巨福呂坂(二)」と言う地番が書かれてある右側、同図を少し拡大すると、旧道の南側の痕跡が判り、そのどん詰ったところに「巨福呂坂」と書いてあるのが、南側の坂の上ったところで、ここから北西へ伸びて、そこで現在の県道の掘削以前の尾根を越えて、円応寺前・建長寺門前で現行の県道のある道と一致していたものと推定される。現行、一般に車で鎌倉に入る場合は、この県道を使うのが普通であるが、鎌倉時代のこのルートは山越えでしかも狭く、鎌倉合戦の時も北からの攻め手は北鎌倉の浄智寺から西に迂回し、化粧坂(けわいざか)から侵入を試みたのは、そのためである。

 さて、次に本ロケーション、猿(ましら)を首魁とする異類の巣窟であるが、三ヶ所が候補地として考えられる。巨福呂坂で呼びとめられたとすると、先の国土地理院図で示した箇所をやや引いてグーグル・マップ・データの航空写真画像で示すと、こことなるが、一つは、ここから東北方向に尾根を伝って建長寺の南東・鶴ヶ岡八幡宮の北西の山林である。但し、そこの南東部(鶴岡八幡宮の北西の谷戸)は候補外となる。何故なら、そこは二十五坊ヶ谷(やつ)と言って、今は人家も少ない閑静な谷で観光客は行かないところ乍ら、ここにはかつて鶴岡八幡宮寺の供僧寺院の集合である二十五坊がみっちりあったからである(明治の廃仏毀釈で総て消失した。詳しくは私の「新編鎌倉志卷之一」を参照されたい。他人からの拝借であるが、絵図や写真もある)。この尾根筋は十王岩を経て天園に向かい、所謂、「百八やぐら」へも通ずるから、本話のロケーション(この最後に現れる岩窟は鎌倉の人工の墳墓である「やぐら」の一つである可能性がすこぶる高い)には最も都合がよく、東北方向へ尾根を詰めれば詰めるほど、人里から有意に離れるからである。他の二つは、反対の西方向で、一つは私の愛する本尊のある浄光明寺の裏山であるが、ここは人里に近過ぎるし、自然林の範囲が狭い。今一つは、西北へ少し行った現在の横須賀線のトンネルの上の尾根で、ここまで行きつけば、今も、まず、普通の人が立ち入らぬ山林地ではあるが、ここに辿り着くためには、鎌倉時代からあった人作の亀ヶ谷坂を横切らねばならないので、私は無理があると考える。以上から、このロケーションは最初に挙げた一帯であると比定するものである。

『星月夜(ほしづきよ)も、「所がら。」とて』具体的な対象物としては鎌倉市坂ノ下の極楽寺坂切通しの鎌倉側手前の登り口右側にある、鎌倉十井(せい)の一つとされる「星月夜の井」があり、現存するが(グーグル・マップ・データ)、まあ、見るべきものはない。「新編鎌倉志卷之六」これは私の「『風俗畫報』臨時増刊「鎌倉江の島名所圖會」 星月夜井/虛空藏堂――(脱漏分+山本松谷挿絵)」を読まれるがよかろう。尤も、リンク先のそれは「新編鎌倉志卷之六」巻頭の「〇星月夜井〔附虗空藏堂〕」の無批判な引き写しなのであるが。要は、それらに記されている鎌倉のこの地名(これは井戸の名というよりもここら辺りの旧地名である。以下の引用参照)の名を詠み込んだとされる「後堀河百首」の常陸の一首、

 我ひとり鎌倉山を越へ行けば、星月夜こそうれしかりけれ

とか、堯慧の「北國紀行」の、

    極樂寺へ至るほとに、いとくらき山間

    に、星月夜といふ所あり、むかし此邊

    に星の御堂とて侍りきなど、古き僧の

    申侍りしかは、

 今もなほ星月夜こそのこるらめ寺なき谷の闇の燈

などを蔭右衛門は、坂の上で実際の降るような星空を眺めながら、想起して興じたのである。ということは彼には相応にその素養もあったらしい。

「國君(こくぐん)」一国の王。

「此馬、蔭右衞門が袂(たもと)を喰(くは)へて、しきりに、留(とゞ)む」忠実なる智ある同じ獣として、彼らの臭いを嗅ぎ知って、異形の変化(へんげ)と察知したのである。何と、忠たらんや!

「裘(かはごろも)」獣類の毛皮で出来た衣服。まんず、彼自身が大猿ですから。

「相好(さうがふ)」顔つき。正しい歴史的仮名遣は「さうがう」。

[やぶちゃん注:ママ。])に至るまで、常の人には、事、かはりぬ。

「黑き裝束あり」最後に出る(以下同じ)「熊」であろう。

「白き冠(かんぶ[やぶちゃん注:ママ。])り」なのは「白き頭の狼」であろう。

「靑き衣」不詳。古文の「青」は概ね暗い藍色であるから、それの白っぽいものなら、「貍」か。或いは妖狐の類いは青「狐」有り得よう。さらに白が強いのなら、挿絵にしか出ない(後姿)兎かも知れぬ。挿絵のそれは手前右奥が熊で、その前が白狼、中に兎で、左に控えているのが狸か。ちょっと鼬(いたち)か獺(かわうそ)のようでもあり、彼らの絵は本文に今一つ対応していない感じで、絵も上手くない(動物の顔がどれも下手だ。兎を背後から描いたのも顔を描くのが厭だったからではないか)。

「まだらなる衣裳」「鹿」であろう。

「網切(あきれ)たる」「江戸文庫」版は「あきれたる」と平仮名で、「徳川文芸類聚」版では「惘切(あきれ)たる」となっていて意味の通る(「惘」は「呆れる」の意)表記だが、私の底本としている原本は逆立ちしても「惘」には見えない「網」の崩し字である。それで表示した。

「卜者(ぼくしや/うらなひ)」これが「龜」(かめ)なわけで、亀卜(きぼく)と絡めるのは如何にも嵌まり過ぎていて、微苦笑せざるを得ない。これ以下の展開、忠臣伍子胥(ごししょ)と凡愚の呉王夫差の趣きがある。

「熊」昨日完遂した「和漢三才圖會卷第三十八 獸類」の「熊」の項をどうぞ!

「狼」「和漢三才圖會卷第三十八 獸類 狼」をどうぞ!

「狸」「和漢三才圖會卷第三十八 獸類 貍」をどうぞ!

「狐」「和漢三才圖會卷第三十八 獸類 狐」をどうぞ!

「鹿」「和漢三才圖會卷第三十八 獸類 鹿」をどうぞ!

「猪」「和漢三才圖會卷第三十八 獸類 猪」をどうぞ!

「地頭(ぢとう)」江戸時代のそれは知行取りの旗本。また、各藩で知行地を与えられ、租税徴収の権を持っていた家臣を指す。鎌倉は前者。多数人に分割されていた。

「靏(つる)が岡」現在の鶴岡八幡宮。私の推定したロケーションなら、バッチ、グー!]

2019/04/27

和漢三才圖會卷第三十八 獸類 獵虎(らつこ) (ラッコ) / 巻第三十八 獣類~完遂

Rakko

 

 

 

らつこ 【正字未詳】

獵虎

 

△按獵虎蝦夷島東北海中有島名獵虎島此物多有之

 常入水食魚或出島奔走疾如飛大如野猪而頸短亦

 似猪頸脚矮島人剥皮待蝦夷人交易其毛純黒甚柔

 軟左右摩之無順逆有黒中白毛少交者爲官家之褥

 其美無比之者價最貴重也其全體無見生者人以皮

 形察之耳其皮送長崎而中華人争求疑此本艸綱目

 所謂木狗之屬也【木狗見于前】

祢豆布

△按此亦蝦夷海中有之大四五尺黒色

 毛短疎其皮薄不堪爲褥止毛履或爲

 鞍飾亞熊障泥然不上品

[やぶちゃん注:「山祢豆布獺」の前には、通常、附録項の場合に必ず附帯する縦罫がなく、「獵虎」本文から直に繋がっている。また、以上の前の二行は底本では「山獺」の大項目の下に一字下げ二行で記されてある。最終の「鞍飾亞熊障泥然不上品」のみは上辺から一字下げである。]

 

 

らつこ 【正字、未だ詳らかならず。】

獵虎

 

△按ずるに、獵虎、蝦夷(ゑぞ)が島の東北の海中に、島、有り、「獵虎島」と名づく。此の物、多く、之れ、有り。常に水に入りて魚を食ひ、或いは島に出でて、奔走す。疾〔(はや)〕きこと飛ぶがごとし。大いさ、野猪(ゐのしゝ)のごとく、頸、短く、亦、猪(ゐのしゝ)の頸(くび)に似たり。脚、矮(ひき)し[やぶちゃん注:低い。]。島人、皮を剥ぎ、蝦夷〔の〕人を待ちて、交易す。其の毛、純黒、甚だ柔にして、左右〔に〕之れを摩(なづ)るに、順・逆、無し[やぶちゃん注:どちらから撫ぜても全く毛が逆立つことがなく、手に滑らかに従う。]。黒き中に、白き毛、少し交じる者、有り、官家〔(かんけ)〕[やぶちゃん注:通常は朝廷を指すが、ここは幕府も含めて考えるべきであろう。]の褥〔(しとね)〕と爲す。其の美、之れに比する者、無し。價〔(あたい)〕も最も貴重なり[やぶちゃん注:非常に高価である。]。其の全體、生きたる者を見る人、無し。皮の形を以つて、之れを察するのみ。其の皮、長崎に送りて、中華(もろこし)の人、争ひ求む。疑ふらくは此れ、「本艸綱目」に、所謂〔(いはゆ)〕る、「木狗〔(もくく)〕」の屬なり【「木狗」、前に見ゆ。】。

祢豆布(ねつぷ)

△按ずるに、此れも亦、蝦夷の海中に之れ有り。大いさ、四、五尺、黒色にして、毛、短く、疎〔にして〕[やぶちゃん注:粗くて。]、其の皮〔も〕、薄く、褥〔(しとね)〕と爲るに堪へず。止(たゞ)毛の履〔(はきもの)〕、或いは鞍の飾りと爲す。熊(くま)の障泥(あをり)に亞(つ)ぐ。然れども、上品ならず。

[やぶちゃん注:一属一種の食肉目イタチ科カワウソ亜科ラッコ属ラッコ Enhydra lutris。三亜種いるが、本邦に関わるのは、Enhydra lutris lutris(基亜種。千島列島・コマンドルスキー諸島(カムチャツカ半島の東百七十五キロメートルに位置する諸島)に分布。大型で頭骨が幅広く、吻部が短い)と Enhydra lutris kenyoni(アリューシャン列島からアラスカ州南部に原産。基亜種に比べて頭骨が短く、吻が長い)の二亜種である(私が後者を挙げる理由は宮澤賢治の名作「銀河鉄道の夜」のジョバンニのお母さんの台詞「お父さんはこの次はおまへにラツコの上着をもつてくるといつたねえ。」やザネリらが彼を冷やかすのに言う「ジヨバンニ、お父さんから、ラツコの上着が來るよ。」のラッコが或いは後者のそれである可能性を考えるからである)ウィキの「ラッコ」によれば、『イタチ科』 Mustelidae『のうちで水棲に進化したのが』、『カワウソ類(カワウソ亜科)』Lutrinae『であるが、その中から海洋に進出して、陸に依存』せずとも、『棲息可能なまでの本格的な適応』『を遂げた唯一の現生種』『が、ラッコ属であり、ラッコである。氷河期を迎えた北太平洋西部海域におけるコンブの出現と適応放散がもたらした新たな生態系が、ラッコの出現および適応放散と密接に関係すると考えられている』(但し、以上の以上の引用部全体に要出典要請がかけられており、個人の意見である可能性がある)。体長は一メートルから一メートル三十センチメートル、尾長二十五~三十七センチメートルで、体重は♂で二十二~四十五キログラム、♀で十五~三十二キログラム』と、『イタチ科』では現生で『最大種』である。『尾は短く』、『扁平』で、『尾の基部には臭腺(肛門腺)を持たない。体毛密度が高く、哺乳類のなかでも最も高い部類に入る』。一『平方センチメートル』当たり十『万本以上の柔らかい下毛(綿毛)が密生』し、全身で八億本にも及ぶ『体毛が全身に生えている』。『潜水する時も綿毛の間に空気の層ができることで、寒冷な海洋でも生息することができる』。『これは』六立方センチメートル『の皮膚にヒトの頭髪すべてが生えているのと同等である。全身をくまなく毛繕いするために』、『柔軟な体』と『皮膚を具えている。体色は赤褐色や濃褐色・黒と変異が大きく、頭部や喉・胸部は灰色や黄白色』。『吻部には洞毛』(血洞毛。哺乳類の、主に口吻にある、毛状の感覚器官。所謂、犬や猫の「ヒゲ」と呼称する感覚毛のこと)『が密生する。幼獣は全身が黄褐色、亜成獣は全身が濃褐色の体毛で被われる』。『吻端の体毛がない裸出部(鼻鏡)は菱形』。『臼歯は扁平で幅広く、貝類や甲殻類を噛み砕くことに適している』。『大臼歯は大型で丸みを帯び、固い獲物を噛み砕くことに適している。前肢は小型で、指の境目は不明瞭』。『爪は引っ込めることができる』。『後肢は鰭状』。『水分は海水を飲むことで補い、浄化のため』、『腎臓の大きさはカワウソ類の平均的な大きさの』二『倍にもなる』。『海洋の沿岸部に生息し、主に海岸から』一『キロメートル以内の場所に生息する』。『主に岩場が近くにあり、海藻が繁茂した環境に生息する』。『海岸から』十キロメートル『以内の沿岸域に生息する。陸上に上がることは稀であるが、天候が荒れた日には上がることもある。単独で生活するが』、『繁殖期にはペアで生活する』。『休息時には数十頭から数百頭の個体が集合することもある』。『数十頭からなる群れを形成し、生活する。昼行性で、夜間になると』、『波のない入江などで』『海藻を体に巻きつけて海流に流されないようにして休む』。『生息密度が高く』、『人間による攪乱のない地域では、陸上で休むこともある』。『防寒効果を維持するため、頻繁に毛繕いをし、毛皮を清潔に保っている。幼獣の毛繕いは母親が行う。主に水深』二十『メートルまで潜水するが、水深』九十七『メートルまで潜水した例もある』。『主に』五十二~九十『秒間の潜水を行うが、最長で約』四『分の潜水を行った例もある』。『貝類、甲殻類、ウニ類などを食べる』。『これらがいなければ』、『魚類を食べることもある』。『獲物は前肢で捕えることが多い』。『硬い獲物は歯や前肢を使い、中身をこじあけて食べる』。『貝類やウニ類は胸部や腹部の上に石を乗せ、それに叩きつけて割り中身だけを食べることもある』。『このため』、『霊長類を除いた道具を使う哺乳類として紹介されることもある』。『魚を捕らえるのは苦手とする説もある』。『亜種カリフォルニアラッコ』(Enhydra lutris nereis:カリフォルニア州に分布するが、以前はチャンネル諸島(フランスのコタンタン半島(映画で知られたシェルブールや人類が破滅する事故を起こしかけた核廃棄物貯蔵施設のあるラ・アグーがある)西方沖合の英国海峡に浮かぶ諸島)やバハ・カリフォルニア(メキシコ)にかけても分布していた。頭骨の幅が狭く、吻が三亜種の中で最も長い)『では道具を使い』、『貝類を割る行動が』、『比較的』、『確認されているものの、主に柔らかい獲物を食べる亜種アラスカラッコでは』、『道具を使って貝類を割ることは稀とされる。なお、動物園などで飼育されているラッコの場合は自然界には無い道具を使用するほか』、『水槽のガラスに貝殻を叩きつけることも確認されており、日本の豊橋総合動植物公園では強化ガラスを叩きつけすぎて』、『強化ガラスにヒビが入った例も確認されている。また』、『貝類を食べる際の石等の道具や食べ切れなかったアサリ等は』、脇『腹のたるみをポケットにして、しまいこんでおく癖がある』。『ラッコが長く生息する海域ではウニが食い尽くされて、主に貝類を捕食するようになるといわれる。そういった生態から漁業被害を訴えられることもあるが、ウニが増えると』、『コンブなどの海藻が食い尽くされる弊害があり、ラッコが生息することでそれを防ぐ効果もある』。『交尾、出産は海上で行う。春になると』、『雄は雌に交尾のアピールをし、雌の承諾が得られると』、『並んで仰向けになって波間に浮かぶ。雄は交尾の際、体勢を維持するために雌の鼻を噛む。たいていはすぐに治る軽症で済むが、稀に傷が悪化し、食物を食べられなくなることなどで命を落としてしまうケースもある。雄は交尾が済むと』、『別の雌を探しにいき、子育てに参加することはない。妊娠期間は』六ヶ月半~九ヶ月で、一回に一頭、まれに二頭の『幼獣を産む』。『腹の上に仔を乗せながら、海上で仔育てを行う。幼獣は親が狩りをしている間、波間に浮かんで親が戻ってくるのを待つ。このときは無防備になり、ホホジロザメ』(軟骨魚綱板鰓亜綱ネズミザメ目ネズミザメ科ホホジロザメ属ホホジロザメ Carcharodon carcharias)『に約』一『割の幼獣が捕食されてしまう。幼獣は親から食べられる物の区別や道具の使い方を習う。成長したラッコは気に入った特定の石を保持し、潜る際には錘(おもし)に使う』。『属名Enhydra』(エンヒドラ)『は「水に棲む」』の意で、『古代ギリシア語の「〜の中で、中に」』と「水」を意味する語を合成したものであり、種小名lutris』(ルトリス)『は「カワウソに似た」の意』である。『現在の標準和名「ラッコ」は、近世の日本における標準的な本草学名に由来し、さらにそれは』、『アイヌ語で本種を意味する』rakko『にまで起源を辿れる』。『その「ラッコ」』の本来の『発音の高低アクセントは頭部にあったが、現在は平坦ないし語尾に付ける事例が多い』。『^高低アクセント表示が特徴となっている』三省堂の「明解国語辞典」の一九八九年刊の第四版では、『両方』のアクセントが併記されているが、『現在はNHKなどにおいても頭部に高低アクセントをつけることは僅少である』。『毛皮が利用されることもあった』。十八『世紀以降にロシア人が東方進出した理由の一つに本種の毛皮採集が挙げられる』。十八~十九世紀の乱獲により、二十『世紀初頭にはラッコの個体数は絶滅寸前にまで減少した』その後、海世界的には海洋汚染・異常気象・感染症の蔓延などにより、個体数が減少したが、種々の保護政策によって、現在は『生息数を徐々に回復し』つつある。『アラスカやアリューシャン列島ではキタオットセイ』(食肉目イヌ亜目鰭脚下目アシカ科キタオットセイ属キタオットセイ Callorhinus ursinus)『・トド』(アシカ科トド属トド Eumetopias jubatus)『・ゼニガタアザラシ』(鰭脚下目アザラシ科ゴマフアザラシ属ゼニガタアザラシ Phoca vitulina)『などの鰭脚類が減少したことにより』、『それらを捕食していたシャチ』(哺乳綱鯨偶蹄目マイルカ科シャチ亜科シャチ属シャチ Orcinus orca)『が本種を襲う』ケース『が増加し』、九十%近くが捕食されてしまう事態となった。二〇〇四から二〇一二年に於ける生息数は十二万五千八百三十一頭『と推定されている』。但し、『再定着した歯舞群島では』、一九九〇『年代以降』、『生息数が増加し、ここから北海道東岸へ来遊する個体もいると考えられ』、『生息数は増加傾向にある』。『第二次世界大戦以降は』一九七三『年に浜中町』(北海道釧路総合振興局管内の厚岸郡にある町。ここ(グーグル・マップ・データ))『で発見例があり』、一九九〇『年代以降は北海道東岸・襟裳岬でも発見例が増加している』。二〇〇二『年以降に襟裳岬近海で』二~三頭、二〇〇九年以降に釧路川河口で』一『頭が定着し、浜中町・大黒島』(北海道厚岸郡厚岸町にある島。ここ(グーグル・マップ・データ)。面積は約一平方キロメートル、標高百五メートル。現在。定住者はいないが、コンブ漁期のみ、番屋で過ごす世帯が一軒のみ存在する)『・納沙布岬では』一~二『頭の継続的な観察例』が、二〇一〇『年に納沙布岬で』六『頭の観察例がある』。『一方で』、一九九〇『年代以降は定置網や刺網による混獲も増加し、死亡例も発生している』。『鰭脚類などと比べると』、『体が小さく皮下脂肪が相対的に薄いため』、タンカー事故の油などで『体毛が汚染される』と、『防寒効果が低下して凍死し、また、体毛の間に蓄えられた空気がなくなり、浮力が減少して溺死した』りもする。『アワビ、ウニなどを捕食する害獣と見なされることもある』が、『国際条約などで保護動物となっている場合が多いので』、『地域の都合で駆除など』は『できない』。「シートン動物記」では、『本来は海辺で生活する陸棲動物であり、日光浴をしている群れをごく当たり前に見ることができたらしい。その頃は』、『人間に対する警戒心も無かったため、瞬く間に狩り尽くされてしまい、現在のような生態になっ』てしまった『と記されている』。『日本では平安時代には「独犴」の皮が陸奥国の交易雑物とされており、この独犴が本種を指すのではないかと言われている。陸奥国で獲れたのか、北海道方面から得たのかは不明である。江戸時代の地誌には、三陸海岸の気仙の海島に「海獺」が出るというものと』、『見たことがないというものとがある』。『かつて千島列島や北海道の襟裳岬から東部の沿岸に生息していたが、毛皮ブームによ』る『乱獲によって』、『ほぼ絶滅してしまった。このため、明治時代には珍しい動物保護法』「臘虎膃肭獣(らっこおっとせい)猟獲取締法」(明治四五(一九一二)年)『が施行され、今日に至っている』とある。……あぁ……昔……江ノ島水族館のマリンランドにいた……芸までしていたなぁ……教員になった始めの頃に訪ねてきた高校時代の後輩の女性と見たなぁ……可愛かったなぁ……あぁ……遠い遠い思い出だ…………

『蝦夷(ゑぞ)が島の東北の海中に、島、有り、「獵虎島」と名づく』現在の千島(クリル)列島南部にあるロシア統治下の火山島である得撫島(ウルップとう)の日本での古名。ロシア名はウループ(Остров)島、英語表記は Urup。日本では古くは「得生」の字を当てたり,「ラッコ島」とも呼ばれた。択捉(えとろふ)島の北東に位置し,長さ百十七キロメートル、幅二十キロメートル、面積は約千四百二十平方キロメートル。ここ(グーグル・マップ・データ)。以上は主文を平凡社「世界大百科事典」に拠った。

『「木狗〔(もくく)〕」の屬なり【「木狗」、前に見ゆ。】』「和漢三才圖會卷第三十八 獸類 木狗(もつく)(インドシナヒョウの黒色変異個体)」を見られたい。私の同定比定からは絶対にあり得ない。良安の誤りである。

「障泥(あをり)」既出既注であるが、歴史的仮名遣は「はふり」が正しい。馬具の付属具の名で、鞍橋(くらぼね)の四緒手(しおで)に結び垂らし、馬の汗や蹴上げる泥を防ぐためのもの。下鞍(したぐら)の小さい「大和鞍」や「水干鞍」に用い、毛皮や皺革(しぼかわ)で円形に作るのを例としたが、武官は方形とし、「尺(さく)の障泥(あおり)」と呼んで用いた。場所と形が頭に浮かばぬ方は、参照した小学館「デジタル大辞泉」の「あおり」の解説の下の画像をクリックされたい。

「祢豆布(ねつぷ)」「祢」は「禰」の略字であるが、生物種は分らん! 良安の書き方からは何らかの文献記載があるだろうに、検索で掛かってこない!! クソ!!! これで「巻第三十八 獣類」は終わるってえのに!!!! 識者の御教授を切に乞う!!!!!

和漢三才圖會卷第三十八 獸類 水豹(あざらし) (アザラシ)

Azarasi

 

 

 

あさらし

      【和名 阿左良之】

水豹

 

本綱豹有水陸二種而海中豹名水豹文選西京賦謂搤

水豹者是也

△按蝦夷海中有水豹大四五尺灰白色有豹文剥皮販

 于松前其皮薄毛短而不堪用

 

 

あざらし

      【和名「阿左良之」。】

水豹

 

「本綱」、豹に水陸の二種有りて、海中の豹を「水豹」と名づく。「文選〔(もんぜん)〕」の「西京の賦」に『水豹を搤〔(とら)〕ふ』と謂ふは、是れなり。

△按ずるに、蝦夷(ゑぞ)の海中に水豹有り。大いさ、四、五尺。灰白色にして、豹の文、有り。皮を剥ぎて松前に販〔(う)〕る〔も〕、其の皮、薄く、毛、短くして用ふるに堪へず。

[やぶちゃん注:食肉目イヌ亜目鰭脚下目アザラシ科 Phocidae のアザラシ類。十属十九種から成る。ウィキの「アザラシ」によれば、『北海道ではアイヌ語より「トッカリ」とも呼ばれている』。『アザラシには』成獣でも体重五十キログラム程度にしかならない、ワモンアザラシ(アザラシ科 Pusa 属ワモンアザラシ Pusa hispida):輪紋海豹。背中側に灰色の地に灰褐色から黒色の斑紋があり、斑紋は明灰色が縁取りされており、この点でゴマフアザラシ(後出)の模様とは異なる)から、三・七トンにも『及ぶミナミゾウアザラシ』(ゾウアザラシ属ミナミゾウアザラシ Mirounga leonina)『までおりその体は変化に富む。体格については多くの種で雌雄にそれほど顕著な差は無いが、ミナミゾウアザラシではオスの体重はメスの』十倍にもなる甚だしい性的二型として知られるが、『逆にモンクアザラシ』(アザラシ科モンクアザラシ属Monachus)『やヒョウアザラシ』(一属一種。ヒョウアザラシ属ヒョウアザラシ Hydrurga leptonyx)『ではメスのほうがオスより大きい』。『首は短く、四肢には』五『本指があり』、『指の間には水かきが』あって、鰭に『変化している。アザラシの前』鰭『のうち』、『空気中に露出している部分はヒトの手首より先の部分にあたる』。『アザラシは優れた潜水能力をもつことで知られている。キタゾウアザラシ』は実に千五百メートルの超深海にまで『潜水した記録がある。鼻腔を閉じることができ、肺の中の空気をほとんどすべて吐き出すことで』、『高い水圧に耐えられるなど、潜水に適応した特徴をもつ』。『かつて、アザラシはイタチ』(イヌ亜目イタチ科イタチ亜科イタチ属 Mustela)『との共通祖先から分岐し、アシカ』(イヌ亜目鰭脚下目アシカ科アシカ亜科 Otariinae)『はクマ』(イヌ亜目クマ下目クマ小目クマ科 Ursidae)『との共通祖先から分岐し、収斂進化によって類似した形態を獲得したとする』二『系統説が主流であったが、近年は分子系統学的研究により、いずれもクマに近い共通の祖先をもつという単系統説が主流になっている』。『北極圏から熱帯、南極まで幅広い海域に生息』し、『頭蓋骨や四肢骨の特徴からモンクアザラシ亜科』Monachinae『とアザラシ亜科』Phocinae『に分けられる。モンクアザラシ亜科に属する種は主に南半球に、アザラシ亜科に分類される種は北半球に生息する』。『アザラシはホッキョクグマ』(クマ科クマ亜科クマ属ホッキョクグマ Ursus maritimus)『の主食となっており、その食料の』実に九『割をアザラシが占める』。『ホッキョクグマの嗅覚は優れており』、十キロメートル程度『離れた場所からでも』、『アザラシの匂いを嗅ぎつけることができるとする説もある』。『日本近海では北海道を中心にゴマフアザラシ』(ゴマフアザラシ属ゴマフアザラシ Phoca largha:胡麻斑海豹。背面が灰色の地に黒い斑(まだら)模様が散らばる)・ワモンアザラシ(前掲)・『ゼニガタアザラシ』(ゴマフアザラシ属ゼニガタアザラシ Phoca vitulina:和名は黒地に白い穴あき銭のような斑紋を持つことに由来する))・『クラカケアザラシ』(ゴマフアザラシ属クラカケアザラシ Phoca fasciata:成獣の♂には、暗褐色から黒色の地に首・前肢・腰を取り巻く白い有意に太い帯があり、これが、馬具の鞍を掛けたように見えるので「鞍掛海豹」の和名がついた)・『アゴヒゲアザラシの』(アゴヒゲアザラシ属アゴヒゲアザラシ Erignathus barbatus:名の通り、他のアザラシに比べ、ヒゲがよく発達しているが、このヒゲは実は顎からではなく、上唇付近から生えている)五『種のアザラシが見られる』(太字は私が附した。以下同じ)。なお、『日本近海』の『彼らは「すみわけ」をしているように見える。大雑把に言うと』、『ワモンアザラシは氷や流氷の多い地域に多く、大型プランクトンと小型魚類を食べている。アゴヒゲアザラシは流氷の移動する浅い海域を好み底性の魚類やカニ・貝を食べている。ゴマフアザラシとクラカケアザラシはこれらより南に分布し、冬から春にかけては』、『流氷上で出産する。流氷期が終わると』、『ゴマフアザラシは分散して沿岸で生活するが』、『クラカケアザラシは外洋で回遊する。ゼニガタアザラシはその南に分布し』、『流氷のあまり来ない北海道から千島列島の』、『結氷しない地域で暮らす。以上が日本近海のアザラシの分布の定説であるが』、二〇〇二『年に東京都の多摩川に出現し』て『日本を騒がせたアゴヒゲアザラシのタマちゃんのように』、『定説どおりに動かないアザラシの個体も少数おり、日本各地に出現するケースも稀にある』。『アザラシの夫婦形式は一雄一雌型のゴマフアザラシのような種もいる一方、ミナミゾウアザラシは一夫多妻型、ハーレムを作る種もおり』、『多様である』。『アザラシは陸上』若しくは『海氷上で出産する。一産一仔で妊娠期間はほとんどの種で一年である。新生児の産毛は保護色になっている種も多い。すなわち』、『海氷上で出産する種(ゴマフアザラシ・ワモンアザラシなど)は白色の産毛を持って産まれてくる』。『アザラシは一般的に魚やイカなどを食べている』が、『種によって食物に偏りがある』。『アザラシを含む鰭脚類の眼球は陸生の食肉類に比べて大きい。南半球ではロスアザラシ』(ロスアザラシ属ロスアザラシ Ommatophoca rossii)が、『北半球ではクラカケアザラシが特に大きい。網膜には色を識別する錐体はなく』、『明るさを感じる桿体だけなので』、『彼らに色の概念は無い。なお』、『陸上にアザラシがいる際、目の下が濡れて泣いているように見えるときがあるが、これは涙を鼻腔に流す鼻涙管が無いためで』、『ヒトのように泣いているわけではない』。『両極地方の暗い水の中で魚を取らなければならない種もおり、視覚以外の感覚も鋭い。アザラシには耳たぶは無いが』、『目の横に耳の穴がある。ゴマフアザラシなどのいくつかの種では』、『水中でクリック音を発してエコロケーション』(echolocation:反響定位)『を行っている。また』、『飼育下のアザラシでも』、『周囲の物音に敏感に反応する様子を観察する事ができる』。『アザラシの母親が自分の子供を見分けるための重要な情報』は『匂いであると言われている。なお』、『アザラシと近縁のアシカ科でも親が子を確認するのに嗅覚が使われている』。『アシカとは外見がよく似ているが、いくつか明確な相違点が見られる』。まず、『アシカには耳たぶがあるが、アザラシの耳は穴が開いているだけである』。次に、『アシカは後肢に比較して前肢が発達している。泳ぐ際の主たる推進力は前肢から得て左右の後肢を同調させて泳ぐ。逆に、アザラシは後肢が発達しており、泳ぐ際には前肢は体側に添えるのみで、左右の後肢を交互に動かして推進力を得る』。第三に、『陸上における移動を見ても異なっている。アシカは後肢を前方に折り曲げ、主に前肢を使って陸上を『歩く』ことができる。一方、アザラシは後肢を前方に折り曲げることはできず、前肢もあまり発達していないので『歩く』ことはできない。前肢を補助的に使いながら全身を蠕動させ、イモムシのように移動する』のである。『このような差異もあって、かつてアザラシ類とアシカ・セイウチ類は異なる祖先からそれぞれ独自に進化したとみられていたが、研究が進んだことで』、鰭脚類は古第三紀(漸新世前期:六千六百万年前から二千三百三万年前まで)から中新世(二千三百万年前から約五百万年前)前期に棲息していた『アンフィキオン類』(食肉目アンフィキオン科†Amphicyon)『(クマに近い化石種の系統)から進化した共通の祖先を持ったグループであることがわかっている』。『日本では古くからアザラシ猟が行われてきた。北海道の先住民であるアイヌ民族や開拓期の入植者も利用した。皮は水濡れに強く、馬の手綱やかんじきの紐に好んで使われた。また脂肪は照明用に燃やされた』。『昭和以降になると』、『皮が』スキー・シール(ski seal:スキーによる登行時、スキー板の底面に貼り付け、後方に滑らないようにする毛羽だったテープ状の物。クライミングスキン(climbing skin)とも呼ぶ)や鞄の『材料になったり、脂肪から石鹸が作られたりした。昭和』三十『年代以降は』土産物の『革製品の材料として多く捕獲された。この頃になると』、『猟も大規模になり』、『北海道近海からサハリン沖にまで及んだ。最盛期の年間捕獲頭数は』二千五百『頭ほどと推定されている。その後、環境保護の流れが盛んになり』、『ファッションの材料としての需要の低迷、ソ連の』二百『海里水域経済水域宣言、輸入アザラシ皮の流入等の理由により』、『昭和』五十『年代には商業的なアザラシ猟は終わりを迎えた』。『現在では北海道の限られた地域で有害獣駆除を目的としてわずかな数が捕獲されているのみである』とある。

「文選」六朝時代の梁の昭明太子の編になる詩文選集。全六十巻。五三〇年頃成立。周から梁に到る約一千年間の詩文の選集で、収録された作者は百三十名、作品は七百六十編に上ぼる。「賦」・「詩」・「騒」(韻文体の一種。社会や政治に対する憂憤を述べたもの。屈原の「離騒」に由来する呼称)に始まり、弔文・祭文に到る、三十九の文体に分類し、各文体内では作者の年代順に配列されている。編集方針は、編者の序によれば。道徳的実用的観点よりも、芸術的観点から文学を評価して選んだもので、その結果として賦五十六編・詩四百三十五首が選ばれ,この二群だけで全体の六割以上を占める。本書はその後、文学を志す人の必読の書として広く流布し、唐の李善の注を始め、多くの注釈が出て、「文選」学が出来たほどで、日本にも早く伝わり、王朝文学に大きな影響を与えた(以上は「ブリタニカ国際大百科事典」に拠った)。

「西京の賦」後漢代の政治家で科学者でもあった張衡(七八年~一三九年)の作品。全文はこれ(中文ウィキソース)。

「搤〔(とら)〕ふ」この漢字は「摑む」「捕える」「押さえる」の意。]

太平百物語卷二 十五 吉田吉郞化物に逢ひし事

   ○十五 吉田吉郞化物に逢ひし事

 中京(なかぎやう)に吉田吉郞といふ者あり。

 或夜、子の刻ばかりに、五条醒井(さめがい[やぶちゃん注:ママ。])を通りけるに、うしろより、しづかに步み來る者、あり。

 ふりかえりみれば、年のほど、七、八才斗(ばかり)なる童子なり。

 吉郞、あやしくおもひ、童子にむかひ、

「いかに、小伜(こせがれ)、此くらき夜(よ)の、しかも更行(ふけゆき)て、おのれ壱人、何國(いづく)へか行く。」

と、いひければ、わらは、答へて、

「我は、何(いつ)も、此所を通る者なり。我(わが)形(かた)ちの、ちいさく幼きが、御氣に參らずば、いざや、大きく成(なり)申さん。」

とて、其儘(まゝ)、六尺餘りの大童(おほわらは)となり、吉郞をにらみけるに、吉郞、元來、しれ者にて、

「さこそおもひし。」

とて、大脇指(わきざし)を、

「すらり。」

と引ぬき、橫樣に切り付ければ、頓(やが)て形は消失(きえうせ)たり。

 吉郞、あざ笑ひて過(すぎ)ける所に、又、向ふより、いと誮(やさ)しき女、壱人、出(いで)きたり、吉郞が傍(そば)ちかく、寄(より)そひ、

「いかに。其方(そなた)樣へ、物申さん。われは四条あたりの者なるが、只今、其樣(さま)、すさまじき大坊主に行(ゆき)あひ、餘りのおそろしさに、これ迄、やうやう迯(にげ)きたりぬ。あはれ、御情(なさけ)に、われを誘(いざな)ひ玉へ。」

と、誠しやかに、いふ。

 吉郞、此女の体(てい)を、つくづく見て、

『これ、誠の女にては有(ある)まじ、今の化者(ばけもの)が無念さに、又、我をたばかるならん。』

と、おもひながら、さあらぬ体(てい)にて、

「いざ、伴ひ申さん。」

と、少(すこし)もゆだんをせずして行けるが、吉郞、女にむかひ、

「其大坊主(おほぼうず)は、いか樣成[やぶちゃん注:「やうなる」。]者にて侍りしや。」

とゝへば、此女、袖、かき合せて、

「さん候ふ。其坊主が姿は、かやうにこそはべりし。」

とて、さしも美しかりし女、忽ち、壱丈斗の古(ふる)入道となり、面(おもて)の眞中(まんなか)に車輪のごとくなる眼(まなこ)、壱つ、ひからし、吉郞を、

「はつた。」

と、ねめしを、すかさず、脇指、ぬき放し、

『柄(つか)も碎け。』

と切付(きりつく)れば、切られて迯(にぐ)るを、追(おひ)つむれば、門(もん)の際(きは)にて漂(たゞよ)ふ所を、拜み打(うち)に切りこみしに、彼(かの)ばけ物は消失(きへうせ[やぶちゃん注:ママ。])て、大石(だいせき)にぞ切付たり。

 吉郞、前後を、よくよく、見定め、

「今は恐るゝ事あらじ。」

と、氣色(きしよく)ぼうて[やぶちゃん注:ママ。]、宿に歸りしが、夜明(よあ)けて、人々に語り、彼(かの)脇指、取出(とりいだ)し見てあれば、悉く、刄(やいば)、こぼれてげり。

 されども、不敵なりしゆへに、災(わざはひ)はなかりしとぞ。

[やぶちゃん注:「中京(なかぎやう)」近世、京都の中心部を成した商業地域を指し、二条から四条までの附近を称した。元禄期(一六八八年~一七〇四年)頃からこの呼称は用いられた(小学館「日本国語大辞典」に拠る)。本「太平百物語」は享保一七(一七三三)年の板行であるから、本話柄はごく直近の都市伝説(urban legend)ということになる。

「五条醒井(さめがい)」この附近(グーグル・マップ・データ)だが、現在、南北にあった醒井通は、この五条通以南では西隣りの堀川通が東よりに拡張されたため、これと重なって消滅してしまっている。

「頓(やが)て」そのまま。

「誮(やさ)しき」「優しき」に同じい。「優美である・上品で美しい」の意。

「四条」現在位置より北。

「門(もん)」国書刊行会「江戸文庫」版ではルビに『もの』と振る。不審。

「拜み打(うち)」刀の柄(つか)を両手で握り、頭上高く振り被って、上から下に一気に斬り下げること。

「氣色(きしよく)ぼうて」気色(けしき)ばんで。ここは「得意げに意気込んで・気負い込んだ顔つきになって」の意。]

鰹船の唄 伊良子清白

 

鰹船の唄

 

見える大海(だいかい)

  八丈が島は

朝日夕日の

  くもらぬところ

 

海は急流

  鰹の川に

釣竿(はね)で飛び込む

  黑瀨川

 

志摩の漁師は

  荒灘稼ぎ

命知らずの

  海知らず

 

風は靑東風(あをごち)

  汽笛のしらべ

浪の白雪

  納涼(すずみ)ぶね

 

をとこ旱(ひで)りは

  龍宮城よ

赤いふどしの

  丸裸

 

鷗(ごめ)がついたで

  鰹はまたい

とろり流れる

  壺の魚

 

竿の穗先は

  秋野の薄

海の太陽

  魚が降る

 

夜とも晝とも

  わからぬ世界

魚を抱きこむ

  腋(わき)の下

 

金銀瑠璃の

  魚島を

船に築くとは

  おもしろや

 

えいやえいやで

  ほりこむ氷室(ひむろ)

千里風吹きや

  帆のうなり

 

靑い海原

  疊でござる

船で大の字

  高鼾き

 

かへる凱旋

  波間を分けて

のつと顏出す

  富士の山

 

船は着く着く

  朝日の湊

濱にや赤兒(あかご)も

  這うて出る

 

志摩の波切(なきり)の

  大王崎の松に

並ぶ男の

  勇兄(いなせ)ぶり

 

[やぶちゃん注:初出不詳であるが、鳥羽での作。則ち、既に示した通り、大正一一(一九二二)年九月十二日から、ここの底本親本である新潮社版「伊良子清白集」刊行の昭和四(一九二九)年十一月以前の作となる。「だいかい」はママ。「釣竿(はね)」「はね」は「釣竿」二字へのルビ。

「黑瀨川」は言わずもがなであるが、黒潮の換喩。

「鷗(ごめ)」は「かもめ」(チドリ目カモメ科カモメ属カモメ Larus canus)の方言。Q&Aサイトの回答に東北地方では「ごめ」はウミネコ(チドリ目カモメ亜目カモメ科カモメ属ウミネコ Larus crassirostris)のことを指し、土地の漁師達は「ゴメ」と呼んで大切にするとあり、これは「かもめ」→「かごめ」(加護女)→「ごめ」と訛った言葉らしいとし、「神の加護」の意味を籠めるとし、「神の使い姫」という呼び方もあるという。「ゴメ」は漁船に方角や魚の在り処(か)を教えて呉れ、羅針盤や魚群探知機のなかった時代には重要な存在であり、そうした古えより「神の使い姫」として、大切にされてきたとあった。小学館「日本国語大辞典」には「かもめ」の方言として「かごめ」を志摩・南伊勢の採取とし掲げており、そもそもが「かもめ」は「かごめ」(幼鳥の斑紋が籠の目のように見えることが由来とされる)であったので方言という謂いそのものが正しくない。なお、カモメとウミネコの違いを述べておくと、カモメ(標準全長四十五(四十~四十六)センチメートル・翼開長百十~百二十五センチメートル)よりもウミネコの方が一回り大きく(標準全長四十七(四十四~四十八)センチメートル・翼開長百二十~百二十八センチメートル)、ウミネコの方が厳つい感じを与える。最も簡単な識別法は嘴の違いで、こちらの識別ノートによれば(写真有り)、『ウミネコの嘴は、大型カモメ類に比べて細いため、かなり長く感じられます。そして、黄色い嘴の先端が赤、黒と色が付いているので、明瞭です』。『カモメの嘴はウミネコに比べるとあきらかに短く、そして黄色い嘴の途中に黒い斑がぼんやりあるだけです。たまに黒い斑の周囲が、赤っぽく見える事がありますが、ウミネコのようにはっきりした色ではありません』。『従って、嘴を見ただけで両者は識別可能です』とあり、また、『次に顔つきですが、ウミネコの虹彩は淡色で、目つきが鋭く見えます。また、頭の形も角張っています』それに対し、『カモメは淡色のものもいますが、概して虹彩は暗色で、頭も丸く全体的に大人しく見えます』。『また、ウミネコの換羽時期は早く』、二『月には斑がない真っ白な頭の夏羽の個体が見られます(地域差はあると思います)。これは遠目にも明瞭に識別できます』。『背の色はウミネコの方が濃く、オオセグロカモメ』(カモメ属オオセグロカモメ Larus schistisagus)『より少し薄いくらいです。カモメはセグロカモメ』(カモメ属セグロカモメ Larus argentatus)『とほぼ同じです』。『また足の色は両者とも黄色ですが、ウミネコの黄色は赤みがあり、絵の具で言うクロームイエローなのに対して、カモメは白っぽい黄色で、レモン色と言う感じです』。『カモメ類は成鳥になるまでは尾に黒い帯がある種が多いのですが、ウミネコだけは成鳥になっても』、『尾に黒い帯があるのが特徴です』。『この点は、飛んでいるカモメ類を識別する際には最大のポイントになります』。『さらに一番の両者の違いは、ウミネコが留鳥だと言う』ことで、『カモメ類の中で日本で繁殖するのは、北海道で繁殖するオオセグロカモメの他にはウミネコしかありません。従って他のカモメ類が北へ帰って、秋に戻ってくるまでの間に見られるカモメ類は』総て『ウミネコと言う』こと『になります。まあ、夏場はアジサシ類』(カモメ科アジサシ亜科アジサシ属 Sterna のアジサシ Sterna hirundo など)『が見られますので、そちらとの比較が必要になるかも知れませんが、前述したように飛んでいる事の多いアジサシは尾が二またに分かれていますので、一目瞭然です』とある。……あぁ、先日、富山の新湊の観光船でカモメの餌やりをした折り、俺の指を切った奴は、嘴から、ウミネコだったわけだな……

「壺」船内の生簀。

「志摩の波切(なきり)の」「大王崎」現在の三重県志摩市大王町(ちょう)波切(なきり)の大王崎(グーグル・マップ・データ)。]

霰 伊良子清白

 

 

やるせなや

  軒の、玉霰

うけて見るまの

  手の掌(ひら)を

流れておちる

  もとの水

假りのすがたは

  人かいな

 

[やぶちゃん注:初出は明治三二(一八九九)年十二月発行『よしあし草』で「きりの海」の総標題で別詩篇「きりの海」と併載。署名は「すゞしろのや」。本昭和四(一九二九)年新潮社刊「現代詩人全集 第四巻 伊良子清白集」に収録(改変部有り。以下参照)された詩篇の中では最も古いものである。初出は以下。

   *

 

 

やるせなや軒の、玉霰

うけて見るまの手の掌を

流れておつるもとの水、

假りのすがたは人かいな。

 

髑髏の霜が化粧なら、

卒塔婆小町の舞の手は

穴目穴目や枯芒、

まだ懲りずまに招くとは。

 

   *

「穴目穴目や枯芒、」は、しばしば説話に見られる見られる〈髑髏の眼窩に芒の穂〉をイメージしたが、どうもそれらしい。小町伝承にもそれがあることが、個人ブログ「忍山 諦の写真で綴る趣味のブログ」の「吾れ死なば焼くな埋むな野に晒せ~小町ゆかりの寺(2)」で、小町所縁の寺のの一つで「小町寺」の通称で知られる、京都市上京区静市(しずいち)市原町(いちはらちょう)にある天台宗如意山(にょいさん)補陀洛寺(ふだらくじ)(グーグル・マップ・データ)について書かれた記事の中で、『階段の下に設置されている京都謡曲史跡保存会の案内板によると』、『「遠く陸奥路まで漂泊の身を運んだ一世の美人小野小町も、年老いて容色も衰えた身を、ここ市原野に、昔、父が住んでいたなつかしさから、荒れ果てた生家を訪れ、そこで朽木の倒れるように、あえなくなるが、弔う人とてもなく、風雨に晒される小町の髑髏から生い育った一本の芒(すすき)が風にふるえていた。この伝説に因んで穴目のススキ、老衰した小町像や、少将の通魂塚がつくられている」』『と記されている』。『言い伝えにによると、小町は』天慶八(九〇〇)年に』、

 吾れ死なば燒くな埋むな野に晒せ

    瘦せたる犬の腹肥やせ

『の辞世の歌を残してこの地で亡くなり、その遺骸は本人の望みどおり』、『野に晒らされたという』。『後年、恵心僧都源信がこの地を訪れたとき、「目が痛い」という声がしたので見ると、野晒しになった一体の遺骸の眼窩を貫くようにススキが生い出ていたので、これを拭き取り供養したと』も言われる。『この穴目のススキの話は謡曲の題材ともなっているが、果たして史実なのか、それとも後年の創作にかかるものかは確かめようがない』。『境内には小町の供養塔』『と深草少将の供養塔』『がある』とある。今度、行ってみたい。]

2019/04/26

巖間の白百合 すゞしろのや(伊良子清白) 原本底本電子化版・附オリジナル注

 

巖間の白百合

 

  

 

波の穗あかく海燃えて、

 西にくづるゝ夕雲の、

  名殘はまよふ岩の上、

   今日の別を告ぐるらむ。

南の洋にたゞよへる、

 百千の島は一つらの、

  潮のけぶりやつゝみたる、

  うかぶ翠も見えわかず。

[やぶちゃん注:「洋」はここは「うみ」と読んでおく。]

晝は光におほはれて、

 さやかにめにも入らざりし、

  火を吐く峯のひらめきは、

   闇の沖べをぞ照したる。

岬の岩にくだけ散る、

 浪のしぶきは高けれど、

  翅休めぬ大鳥の、

   歸るを追はむ力なし。

大龜うかぶ湊江の、

 陰に散りうく花片は、

  浪に環をつくれども、

   またみだれ行く潮の泡。

イヤライ草の漂ふを、

 摘む兒の影も見えざれば、

  下に群れよるうろくづの、

   鰭こそ水をさわがすれ。

[やぶちゃん注:「イヤライ草」不詳。「下に群れよるうろくづの」とあるから、海面に普通に浮遊しているのを見かける海藻と思われるが、異名としても海藻フリークの私でさえ聴いたことも見たこともない。翻って、塵(ごみ)のように漂う、人の「嫌らふ」或いは「居遣(や)る」(そこにあるのを押し遣る)ような役立たずの雑藻のことかとも考えたが、それでは次行の「摘む兒の影も見えざれば」が齟齬する。「イヤライ草」は食用や藻塩用に「摘む」(但し、海面を漂う海藻を「摘む」とは言うのは不適切な表現と思う)海藻だということになる。これらの条件を最もよくクリアー出来るのは、不等毛植物門褐藻綱ヒバマタ目ホンダワラ科 Sargassaceae のホンダワラ属ホンダワラ Sargassum fulvellum やホンダワラ属アカモク Sargassum horneri であるが、伊良子清白は後の明治三七(一九〇四)年一月発表の「海の聲山の聲」では、それを、万葉以来の美しい異名「莫告藻(なのりそ)」を用いている。「イヤライ草」とは如何にも厭な響きの語であるが、或いは「言ひやる」ことを「嫌(いや)がる」の謂いと解するなら、「名乗りそ」の意と妙に繋がるような気がしないでもない。ただ、しないでもないと消極的に思うだけで、それを執り立てて主張したくもない。お手上げ。識者の御教授を乞う。]

胡沙吹く風を葉に浴びて、

 玉を累ぬる香蕉の、

  このみは莢をはしりけむ、

   こぼれし豆の色ぞ美き。

[やぶちゃん注:「胡沙」中国で塞外の胡国から来る砂塵の意であるが、ここは大陸の砂塵でよかろう。「香蕉」「かうせう(こうしょう)」と読み、バナナ(単子葉植物綱ショウガ目バショウ科バショウ属 Musa の内で果実を食用とするもの)の漢名。]

橫たふ幹はをろちなす、

 パンダナの樹のうねれるが、

  潮にひたりてあまたゝび、

   貝の住處(すみか)となるやらむ。

 

橫たふ幹はをろちなす、

 パンダナの樹のうねれるが、

  潮にひたりてあまたゝび、

   貝の佳處(すみか)となるやらむ。

[やぶちゃん注:「パンダナの樹」「パンダナス」で、単子葉植物綱タコノキ目タコノキ科タコノキ属 Pandanus のタコノキ類を指すが、同属タコノキ Pandanus boninensis、或いは同属で葉の鋸歯が小さいアダン Pandanus odoratissimus を挙げておけばよかろうとは思うのだが、どうも気になるのは、伊良子清白が「潮にひたりてあまたゝび」「貝の佳處(すみか)となるやらむ」と続けていることで、これは私はどうも、清白は、海岸沿岸の陸地に植生するタコノキ類と、マングローブを形成する、潮間帯に植生して板根を広げる汽水域を好む耐海水性のヒルギ類(双子葉植物綱キントラノオ目ヒルギ(蛭木)科 Rhizophoraceae:例えば、メヒルギ属メヒルギ Kandelia obovata・オヒルギ属オヒルギ Bruguiera gymnorhiza等)を一緒くたにして誤認しているように思われてならない。タコノキ類は実を好物とする、ほぼ完全な陸棲性甲殻類(成体は産卵時以外は水に入らない)であるヤシガニ(甲殻綱 十脚(エビ)目エビ亜目異尾(ヤドカリ)下目ヤドカリ上科オカヤドカリ科ヤシガニ属ヤシガニ Birgus latro)の根の周囲が棲み家にはなり得るが、貝のそれにはなり得ないし、後者はパンダナスとは縁もゆかりもなく、「パンダナ」とは決して呼ばないからである。

凉しき暮を一しきり、

 飛魚の群飛びめぐる、

  珊瑚の礁の水底に、

   低く映れる棕櫚の影。

なみほの白き磯際に、

 獨木の舟をつなぎすて、

  かこは家路に歸りけむ、

   たゞ棹のみぞのこりたる。

[やぶちゃん注:「獨木」「まるき」(丸木)と当て訓していよう。]

深き林は紫の、

 うすき烟にとざされて、

  聲を競ひし百鳥の、

   白日の歌はすぎにけり。

[やぶちゃん注:「白日」「まひる」と読んでおく。]

塵だにすゑぬ眞砂路の、

 翠の陰をとめくれば、

  新芽は枝をうちたれて、

   老木をつゝむ葉のしげみ。

[やぶちゃん注:二〇〇三年岩波書店刊平出隆編集「伊良子清白全集」第一巻では「つゞむ」であるが、「約む」で「縮めさせるようにする」の謂いでは無理がある。原本(後注参照)に拠った。]

池に臨める椰子葺の、

 軒端のすだれ風見えて、

  欄干による嶋の王、

   夕立つ雲を仰ぐらむ。

[やぶちゃん注:「欄干」「おばしま」。]

白き小石を並べたる、

 床には布ける新筵、

  皿にあふるゝ野のこのみ、

   山のこのみぞ珍らしき。

夕げをよぶや女の童、

 肩にかけたる花束の、

  花ひそやかにうちそよぎ、

   媚ぶるに馴れしうしろ影。

[やぶちゃん注:「媚ぶる」「こぶる」。]

水草かくれにひそみたる、

 池のうろくづ尾を赤み、

  玉も拾はむ砂の上に、

   人なつかしく來るかな。

母なる君と手をひきて、

 岸邊をあゆむ姬皇子の、

  たけなす髮にこゝろなく、

   はらりと散りし花一瓣(よ)。

[やぶちゃん注:「よ」は万葉語で「花びら」。]

拂ひし花は池水に、

 たゞよひうかぶ一葉舟、

  二人の君は凉しさを、

   語らひながらかへりけむ。

折しも近き高峰より、

 たちまち雨の篠つきて、

  木々の梢を洗ひ去り、

   浴びをいづる森の花。

[やぶちゃん注:「をいづる」不審。「生ひ出づる」か。だとしたら「おひいづる」でなくてはおかしい。]

名殘の雫陰におち、

 眞砂にまろぶ露の珠、

  あたりをぐらくなるまゝに、

   かはほり飛ぶや羽廣き。

森の遠近かゞり火の、

 ほのめきわたる木下闇、

  吹なす笛の聲きけば、

   しらべゆかしき暮の歌。

 

 みどりのかげに

    かくれすみ

 夕手まねく

    人はたぞ

 白雨もりを

    あらふとき

[やぶちゃん注:「白雨」は明るい空から降る雨・俄か雨のこと。「はくう」では韻律が崩れるので「ゆふだち」と当て訓しているか。]

 花のをだまき

    散るらんか

 草にこやせる

    あだ人の

 ざれしかうべを

    ふまんより

 かゞりに燒ける

    ニーの實の

[やぶちゃん注:「ニー」不詳。但し、南洋諸島ではココヤシ(単子葉類植物綱ヤシ目ヤシ科ココヤシ属ココヤシ Cocos nucifera をニウ(Niu)と呼ぶから(アメリカ人の方の日本語による個人サイト「マウイ島からアロハ」のこちらを参照)、それではなかろうか?]

 はしりいでゝも

    きたりなむ

 あつくももゆる

    手のひらを

 きみのうなじに

    われはまかせむ

 

   

 

クンナツト花手にまきて、

 くちを漱がむ池水に。

[やぶちゃん注:「クンナツト」不詳。先のココヤシは英語で「Coconut palm」で音が近くはある。]

谷かけくだる白玉は、

 を指にさむく觸るゝかな。

分髮肩をすぐればか、

 おぞや浪間にひたりたり。

神にさゝぐる菓を、

 供へまつらむ夕なれば、

いはほの前にぬかづきて、

 所のうたをことあげむ。

[やぶちゃん注:「菓」の読みは「くだもの」か。]

 

 島のさつをら

    さきくあれ

[やぶちゃん注:「さつを」は「猟男・猟夫」で漁師のこと。]

 海のいさり男

    やすけかれ

 棕櫚の林に

    風ふきて

 夢路すゞしき

    あしたより

 大蟹のぼる

    白濵の

 月たゞ細き

    夕まで

 谷の小川の

    せゝらぎを

 絃なき琴と

    きゝなして

 ふかき林の

    山陰に

 かれずも神よ

    まもりませ

[やぶちゃん注:「かれずも」は「離(か)れずも」か。]

 夜ざりくれば

    やわらかき

[やぶちゃん注:ママ。]

 草のしとねを

    ふみわけて

 風はふかねど

    おのづから

 木々よりおつる

    露にぬれ

 かの新しく

    咲きいでし

 花のかをりを

    なつかしみ

 胡桃みのれる

    山裾の

 うす紫の

    のべをこえ

 老葉若葉の

    かさなれる

 椰子の林に

    あそびませ

 朝は鮮きを

    たてまつり

[やぶちゃん注:前行は「あさはあざきを」と読んでおく。]

 夕はニーを

    供ふれど

 われをとめこの

    﨟げて

 あまりに面

    なまめけば

 まつりのころも

    まとへども

 かしこき神の

    みまへかな

 山の端うすく

    黑ずみて

 光をまとふ

    笹緣の

[やぶちゃん注:「ささへり」「ささべり」で、本来は、衣服の縁や袋物・茣蓙の縁(へり)を補強や装飾の目的で布や扁平な組紐で細く縁取ったものを言うが、ここは山の端の夕景の換喩。]

 色こまやかに

    そめなすは

 今月影や

    いづるらむ

 虹のうき橋

    とだえして

 森より森に

    雨はれぬ

 つゆあきらかに

    みえそめつ

 ひかり仰ぐも

    ちかからし

 誰が吹く笛ぞ

    さはやかに

 をりにあひたる

    しらべなり

 風の千條の

    細絲の

[やぶちゃん注:「千條」「ちすぢ」。]

 みだれてなびく

    峯の雲

 底湧き回る

    千々の浪

 碎けて空に

    うつるかな

 山の彼方の

    かゞやきは

 玉の梢や

    匂ふらむ

 藐姑射の宮の

    み園生の

[やぶちゃん注:「藐姑射」は「はこや」と読み、小学館「日本国語大辞典」によれば、「藐」は「邈」と同じで「遙か遠い」意、「姑射」は山の名。元来は「遙かなる姑射の山」の意であるが、「荘子」の「逍遥遊」によって、合わせて山名の如く用いられるようになったもので、中国で不老不死の仙人が住むとされた想像上の山を指すこととなった。]

 七つの寳

    八重垣の

 花の臺や

    そびえたる

 天のうき舟

    かぢとりて

 はつるよしもが

    よもぎ島

[やぶちゃん注:「果つる由もが」か。「行き着いた果てのところが所謂」の意か。「よもぎ島」は蓬莱山のこと。]

 尾上の木立

    あざやかに

 巖のうへに

    あらはれて

 百たび鍊れる

    久方の

 月の鏡は

    かゝりたり

 靜かにのぼる

    影見れば

 下づ枝は橫に

[やぶちゃん注:「づ」はママ。]

    中つ枝は

 幹をかすめて

    すぢかひに

 また直くのみ

    のぶれども

[やぶちゃん注:「またますくのみ」(再びひたすらに真っ直ぐに)か。]

 千枝にわかるゝ

    上つ枝は

 月の桂の

    陰さして

 風にもまるゝ

    葉のそよぎ

 一つ一つに

    てらすめり

 今やはなれん

    木々のうへ

 小さくなり行く

    月影の

 めぐりはうすき

    色の彩

 霓ぞたまきを

    ゑがきたる

[やぶちゃん注:「霓」は龍の名で音「ゲイ」であるが、ここは古来、それと認知された虹を指し、「にじ」と訓じているように思われる。]

 月のみ神の

    みめぐみの

 光あまねき

    島のうへ

 高きみ影に

    ぬかづきて

いざやいのりの

    うたををはらん

 

女蘿にとざす岩穴の、

 白晝のごとくかゞやきて。

[やぶちゃん注:「女蘿」「ぢよら(じょら)」は、樹皮に附着して懸垂する糸状の地衣類の一群の総称である猿麻桛(さるおがせ:菌界子嚢菌門チャシブゴケ菌綱チャシブゴケ目ウメノキゴケ科サルオガセ属 Usnea)の漢名。]

本は一本枝ごとに、

 七百咲くてふ百合の花。

花のうてなの紫の、

 色うつぐしみ來る鳥の、

五彩(ごさい)の翅しをるゝは、

 神こそ天降りゐますらめ。

[やぶちゃん注:「うづくしみ」の濁音はママ。]

 

白玉なせる房ごとに、

 つゆこきみだるよのゆるぎ。

[やぶちゃん注:「露放(こ)き(或いは「扱(こ)き」)亂る節(よ)の搖ぎ」か?]

洞にひそめる遠つ世の、

 黑き風もや通ふらむ。

手をだにふれなば祟るべき、

 花は一瓣もちらねども、

少女さびすとわが胸に、

 さゝば大神やどりなむ。

[やぶちゃん注:「一瓣」は前に出た。「ひとよ」と読む。]

二つの翼生ふるれば、

 虹のみ橋に袖ふりて。

櫻八重咲く敷島の、

 五百重の浪に嘯かむ。

[やぶちゃん注:「五百重」は「いほへ」。「嘯かむ」は「うそぶかむ」。]

老いぬ藥を授からば、

 牡丹匂へるもろこしの、

大城の庭のあし鶴を、

 友にや雲に乘りてこむ。

[やぶちゃん注:「大城」「おほき」と読んでおく。「あし鶴」は仙界に相応しい脚のごくほっそりした鶴のことか。少なくとも、その和名を持つツルはいない。]

こは仙人の夢ににて、

 神さびたりなあまりにも。

長き裳裾は曳かねども、

 われ姬皇子の玉簪。

[やぶちゃん注:「玉簪」「たまかざし」であろう。]

足乳の母の御手にだに、

 ぬかせまつるはまれらなる。

[やぶちゃん注:「形容動詞「稀らなり」の連体形。]

大宮内にうまれては、

 產衣ゆたかにはぐくまれ。

現女神とめでられて、

 いつき少女となりぬるを。

[やぶちゃん注:「現女神」韻律から「あらひとがみ」と読んでおく。]

黃金花咲く西島の、

 王子のみもとにかしづきて。

珊瑚の舟の纜を、

 さゝらぐ浪に解き放ち。

[やぶちゃん注:「纜」「ともづな」。]

瑠璃なす海にこぎいでゝ、

 桂の棹をさしぬとも。

太刀とりなるゝをのこゞの、

 强きかひなにいだかれて。

頸環の玉のくだけなば、

 かよわき胸のたへざらむ。

舟のへさきをめぐらして、

 椰子のこかげにかへる時。

しだり尾長き赤はしの、

 鳥の囀いたましく。

[やぶちゃん注:「はし」は「嘴」。]

面そむくる宮ぬちに、

 羅の袖ぬれもせば。

[やぶちゃん注:「羅」「うすぎぬ」。]

風の一葉とうらぶれて、

 寢覺の床やつらからむ。

母のかふこのまゆごもり、

 つまれぬ花とみををへば。

[やぶちゃん注:「こ」は「蠶」。「みををへば」は「身を負へば」。]

鮫に槍うつあらし男の、

 淺き思にをしまれて。

深山のこのみあだにのみ、

 おちてくちぬといはれんも。

百合のうてなの室ごとに、

 かくれましぬる大神の、

ひろきこゝろにかなひてぞ、

 幸長しへに盡きざらむ。

[やぶちゃん注:「室」読みはいろいろ考えられるが、私は「へや」と読む。「長しへに」「とこしへに」。]

さばかり神のまもります、

 われは思へばいつの夜か、

分髮祝ふさかもりの、

 うたげのともし輝きて、

父がしたしく銀の、

 環をうでにかけしをり。

なれは年月大神に、

 いのりてこそはうまれしか。

月影白きさむしろに、

 椰子は繪のごと影を曳き、

星あまたゝび空を行く、

 夜半に產聲あげしなり。

ゆめおろそかに思ふなと、

 をしへたまひしこともあり。

さらば神の子わが衣に、

 百合の花ひらさしぬとも。

[やぶちゃん注:「花ひら」の清音はママ。]

すがたよそほふためならば、

 とがめたまはじ大神も。

こゝろおちゐてひそやかに、

 女蘿の隙ゆ二ひらを、

摘みとりてこそ柔かき、

 乳房のうへにかざしけれ。

淸きかほりは龍のすむ、

 宮居の壺の酒ならむ。

ましろの色は織女が、

 たちし千ひろのきぬならむ。

雲の夕凝るいたゞきに、

 よろづの山を見るごとく。

みかどの位さづかりて、

 冠戴く朝のごと。

戰の庭に笛吹きて、

 城にをのこをよぶがごと。

望はるけき天地に、

 あやしくあがるわが心。

御空仰げば七星は、

 紫金の色をあらためて、

芭蕉の幹の廣き葉の、

 かさなるうへに影をなげ。

西にかたぶく明星は、

 寂しき天の戶をいでゝ、

沈める船の帆ばしらを、

 うちてくだくる浪にすみ。

雲にまよへる三つ星は、

 若き光を包めども、

岬を洗ふ黑潮の、

 うづまくうへやてらすらむ。

戀草茂る天上の、

 銀河の水に風立ちて、

深き泉の濃紫、

 流るゝ星の花を吹き。

紅葉の渡狹霧こめ、

 つらき別の朝のごと。

步は遲き彥星の、

 錦の衣ほころびて、

高き通路牽く牛の、

 はづなは浪にぬれにけり。

夜のみ神の月影は、

 こよひ圓かにみちたらひ、

ほがらほがらと大空の、

 風にのりてや渡るらむ。

雲の浪間にたゞよひて、

 夜すがら西に流れたり。

ひろき光のはろはろと、

 千里の色ぞ輝ける。

[やぶちゃん注:「はろはろと」清音はママ。]

白き翼に弓ひきて、

 誰か國土(くぬち)に射おとさむ。

森の木の間の葉を茂み、

 影こそ近くさまよへれ。

月の光を身にあびて、

 星の雫を袖にうけ、

わけ髮ながくなびかせて、

 高くかゝれる空の海の、

はてなき橋の下かげに、

 男神女神の名をよべば。

晝の男神の行く道の、

 村立つ雲に弦伏せて、

紅の目の浪間より、

 光の白箭放てども、

星の炬火たきすてゝ、

 夜は獵夫のかへりこず。

[やぶちゃん注:「炬火」は「たいまつ」。松明。「獵夫」は前に従い、「さつを」と読んでおく。]

萬の光衰へて、

 炎はきゆる流れ星。

照せる月にくらぶれば、

 塵ひぢにだにまさらんや。

[やぶちゃん注:「ひぢ」は「泥」。]

こよひみ神のうてなより、

 白百合の花二よこひ。

さやけき影を前にして、

 まほにむかへばをみなごの、

あがるこゝろをおさへかね、

 胸の波こそたちまされ。

みどりのかげにいこふとも、

 白日の夢をむすぶとも、

白雨森をあらふとも、

 いそべの浪にかつぐとも、

海に立ちたる紅の、

 火柱の火をさけえんや。

朝は東に羽をふり、

 夕は西に勝鬨の、

豊旗雲をなびかせて、

 休む時なき日の軍。

天の炎をなげかけて、

 やきはらへども椰子の原。

廣き葉裏に月さゝば、

 よみがへるらん島と海。

み神のおはす望月の、

 かゞやく宮ゆ吹きおちて、

夕ざりくれば遠近の、

 百千の小枝うちそよぎ。

この島國もをしからぬ、

 涼しき風はたちぬめり。

あゝ電のびらめきて、

 いかづちのなる天雲の、

上に烈しき火柱の、

 たけき力にくらべ見て、

雲井冴やけく照りわたる、

 月のみ神のたゞへごとせむ。

[やぶちゃん注:「たゞへごと」「稱(ただ)へごと」。讃辞。祝詞に濁音で出る。]

 

   

 

朝の月のほのぼのと、

 棕櫚の葉末に白む時、

  塒はなるゝ鳥の歌、

   別の袖のつらき哉。

石を拾ひて夕月の、

 沈める池になげやれば、

  一つ一つに輪をまして、

   果(はて)は岸邊にきえにけり。

夜渡る月の夜を寒み、

 八重の照妙かさぬれど、

  朝吹く風にぬぎ去れば、

   白日の月やのこるらむ。

[やぶちゃん注:「照妙」は「てるたゑ」で、「一本に繋がった輪状の綱」を指し、ここは言わば、神に捧げる幣帛の一種であろう。]

弓張月をたとふれば、

 水草に伏す鰐ざめの、

  鱗の銀をふるふごと、

   光は雲を破るかな。

望の月夜に舟うけて、

 月の鏡をのせ行くに、

  汐馴衣袖びぢて、

   月も島根をめぐりけり。

下弦(げげん)の月の弦にふれ、

 潮は岩に響けども、

  岩燕飛ぶ曉を、

   驚きさむる人ぞなき。

[やぶちゃん注:「げげん」のルビはママ。]

椰子の林の葉のかげに、

 よるよる沈む月影は、

  珊瑚の磯の波間より、

   さしのぼりたる月ならむ。

宿る陰なき洋に、

 ひとり漂ふ月なれば、

  かぢをたえたる大空を、

   ほがらほがらとわたるらむ。

[やぶちゃん注:「洋」ここは「おほうみ」と読んでおく。]

紅淡き東雲の、

 產湯の上にうつれども、

  砂をおほへば夢もなき、

   廣野の墓をてらすなり。

かけたる月も來ん夜の、

 滿ちくる影の月なれば、

遠き昔も今の世も、

 月こそとはにさやかなれ。

 

 *  *  *  *

   *  *  *  *

 

 かゞみととげる

    おもてより、

 ほそきけぶりの

    たなびきて、

 ひかりかくさふ

    つきのみや。

 花の香たへに

    咲きにほふ、

 大木のかつら

    みきさけて、

 みるみる月は

    かけにけり。

 月のみうたを

    とのふれど、

[やぶちゃん注:「となふ」(唱ふ)の音変化であろう。]

 たかきみやゐに

    かよはねば、

 くらくなり行く

    天地や。

 天の河瀨の

    夕波は、

 みふねのともに

    かゝれども、

 八重のさぎりの

    ひらかんや。

 あかがねなせる

    あらがねの、

 こりてはながれ

    ながれては、

 うづまきかへる

    月のおも。

 かゞやきわたる

    もちづきの、

 花のみやゐは

    とこやみの、

 よみぢの水に

    沈みたり。

 月の底より

    わきいづる、

 くろき炎は

    ときのまに、

 千尺の上に

    もえあがり。

 火を吐く山の

    いただきの、

 洞よりのぼる

    こむらさき、

 むらさきうすき

    色なせり。

大綿津見の

    なみのうへに、

 影をやどしゝ

    もち月も、

 み空の月と

    わかれけむ。

 たつのみやこの

    たかとのゝ、

 とばりをまける

    乙姬の、

 袂の玉と

    かくれけり。

 七百の百合の

    花をだに、

 むねにさゝずは

    をとめごの、

 ひめにかくまで

    たゝらんや。

 いたくにごれる

    人のよを、

 にくみたまひて

    とこしへに、

 月はきえさせ

    たまひけむ。

 星のひかりの

    夕より、

 つゆおきまさる

    あしたまで、

 椰子のこかげを

    もるゝとも。

 百千のかゞり

    あつめたる、

 焰の花の

 flame tree

    山陰に、

 夜すがらさきて

    もゆるとも。

[やぶちゃん注:ブログでは上手くゆかぬが、「焰の花」三字の左に英文「flame tree」がルビ大で記されてある。わざわざかく振ったのは、異国シークエンスの篝火の換喩であると同時に、伊良子清白は実在するflame tree」、オーストラリア原産の双子葉植物綱ビワモドキ亜綱アオイ目アオギリ科ブラキキトン属ゴウシュウアオギリBrachychiton acerifolium をも、出来れば、読者にイメージして貰いたかったからではなかろうか? 個人サイト「GKZ植物事典」の「ゴウシュウアオギリ」によれば、『花茎も真っ赤であり、花も真っ赤』で、『ベル型の小花を見せる』とあり、さらに『我が国への渡来時期不詳』とする。但し、国内では温室でしか見られないようだが、一目見ると、その鮮烈な赤さに忘れ難い木ではあるのだ。グーグル画像検索「Brachychiton acerifoliusを見られたい。]

 月なき園の

    山河は、

 繪にかく花の

    色香にて、

 活きたる泉

    わかざらむ。

 みそらの海の

    星くづの、

 よろづの光

    あらはれて、

 かくれし月をや

    たづぬらん。

 漣しげき

    白はまの、

 玉採小舟

    籠をおもみ、

 水に沈みし

    玉のごと。

 天の河原の

    かつぎ女は、

 髮を結びて

    かつげども、

 浪の五百重の

    底深み。

 うき藻みだるゝ

    あじろ木に、

 かゝれる月の

    鏡こそ、

 影もとゞめず

    碎けけれ。

 

 *  *  *  *

   *  *  *  *

 

島のかゞりは雲をやく、

 焰俄にもえあがり、

  空にうつりて金粉を、

   散らす火の子のしげき哉。

織るがごとくに火の影は、

 東に西にはせみだれ、

  亡び行く夜の俤を、

   さやかに見する凄じさ。

こゝらの臣を引き具して、

 こゞしき岩根ふみさくみ、

  島の岬にこゝろざす、

   王の姿ぞ雄々しかる。

誰か贈りし束總の、

 綠の紐のはし長く、

  鞘は黑ざや燒太刀を、

   今もはかせと帶びにたり。

鞘を拂へば拂ふ每、

 千度八千度よろづたび、

  見るとも朱の血汐には、

   あくを知らざる業物も。

[やぶちゃん注:「業物」「わざもの」。]

み空の闇をきり開く、

 降魔の劍にあらざれば、

  紫電みだるゝ太刀の面、

   匂ふみだれもなにかせむ。

白き珊瑚を織りにたる、

 祈の庭の冠は、

  紅き珊瑚の緣とりて、

   輝く珠もちりばめず。

花鳥の影草の像、

 ところせきまでゑらせたる、

  常のよそひににざればか、

   いと淸げにも見えにけり。

前に後に列なめて、

 王に從ふ兵者は、

  生れぬさきに勝つといふ、

   敎をうけて來りけり。

いくさの庭に旗樹てゝ、

 鬨をつくれば谷答へ、

  山鳴り蛟龍舞ひいでゝ、

   靡かぬ草もなかりけむ。

[やぶちゃん注:「蛟龍」は「みづち」と訓じておく。]

並めたる槍の穗先より、

 白き光芒の湧きいでゝ、

  くらきみ空に入る見れば、

   小さき星ぞきらめける。

[やぶちゃん注:「光芒」は二字で「ひかり」と読んでよう。]

千々のかゞりの紅は、

 吹きくる風を火に帶びて、

  森の木立の一面を、

   燒き拂へるにことならず。

かゞりの下にゆきなづみ、

 險しといふな兵者よ、

  幼き折におぼえたる、

   ざれ歌一つうたへかし。

 

 大蟹小蟹

    谷のこ川におりてきて

 甲はぬがれず

    ぬがねばならず

 橫に這ふたが

    落度で御座ろ

 をしへて下され

    すぐな道

 どうせうぞいな

    泡もふかれず

 めもたてられず

    瀧は千丈

 壺は藍

    岸の椰子の木

 ねいろとすれば

    波が洗ふて

 ゆりおこす

    ゆりおこす

 おこすのが

    とんと面白う御座る

 椰子ぢやなし

    口に善惡ない

 大蟹小蟹

    發矢とあたる

 椰子の實で

    大事な甲を

 わつたげな

    われたと思ふたら

 ぬげたげな

    大きな甲は石に成れ

    小さな甲は貝になれ

 

つゞらをりなす山越の、

 椰子の枯葉を分けくれば、

  ふむに音なき夜の道、

   たゞかゞり火ぞおつるなる。

山を下りれば荒磯の、

 きり岸高く海見えて、

  かさなり伏せる岩の上、

   水鳥の糞(まり)たゞ白き。

幾百年の大濤や、

 破りすてけむ巖の門、

  くゞるにかづらとざせるを、

   かゞりにやきてすぎ行きぬ。

半ばたふれし木々の幹、

 石より石に根は匍ひて、

  洗ふにまかす磯の浪、

   いつまですがる危さぞ。

人は通はぬわだなかの、

 潮の滿干にたゞよひて、

  沈むともなき島の群、

   根は奈落より生ふるらん。

末をひたせる大空に、

 たけりてのぼる沖つ浪、

  嵐に迷ふ舟人は、

   棹をとゞむるひまやなき。

岬に着けば兵者は、

 ひとしく岸になみ立ちて、

  王をめぐらす圓陣を、

   最とおごそかに築きたり。

[やぶちゃん注:「最と」は韻律から「もと」と訓じていよう。]

冠をぬぎて岩におき、

 祭の檀設(つくゑ)設へつ、

  新菰の上をおもむろに、

   王は正しく進みけり。

[やぶちゃん注:「設へつ」は韻律から「こしらへつ」と訓じているように思う。「新菰の上を」は韻律から「あらこものへを」であろう。]

東の方をおろがめば、

 輝ぎわたる星の群、

  並めたる槍の穗を拂ふ、

   沖つ汐風ほの白し。

赤きかゞりをうちふりて、

 荒ぶる浪にさしかざし、

  繡身したるあらし男は、

   あたりの闇を警めぬ。

[やぶちゃん注「繡身」「いれずみ」であろう。「警めぬ」「いましめぬ」。]

とり帶く太刀を兩の手に、

 高く捧げて禮ををへ、

  王まづ歌をとのふれば、

   つゞきて合す兵等。

[やぶちゃん注:「帶く」「はく」(佩く)。]

壇の上は山の花、

 野の鳥海の白玉の、

  こゝろこめたる齊物(いつきもの)、

   めづらかなるを陳ねたり。

[やぶちゃん注:「齊物」は供物。「陳ね」「つらね」。]

谷の八谷の奧ふかく、

 潜める風も吹きくらん、

  坂の七坂未遠く、

   おりゐる雲も舞ひいでむ。

天にとゞかば天の果、

 地にひゞかば地の底、

  とよもしふるふ祈歌、

   祭の御庭開かれぬ。

  ○

谷のかゞりは遠近の、

 塒の鳥をおどろかし、

  たぎつ早瀨にうつろひて、

   炎ぞおつる靑き淵。

森の木の間の縵幕の、

 火影を帶びて張られしは、

  かくれし月をいさめんと、

   少女が舞の庭ならむ。

[やぶちゃん注:「縵幕」岩波版全集は『幔幕』としているが、これは誤字ではない。]

瀧のながれに身をひたし、

 肌を淨むるをとめらが、

  花のたまきに小夜風の、

   しつかに來てはさはるなり。

林の奧のやかたにて、

 舞の衣をよそほへば、

  耳輪の金に後れ毛の、

   二すぢ三すぢ迷ひつゝ。

椰子の枯葉をたきくべて、

 かゞり色ます火の影や、

  木の下闇のくまぐまの、

   小草の露も見ゆるなり。

笛は林の風と吹き、

 皷は岸の浪とうち、

  かくれし月もあこがれて、

   迷ひいでなむしらべあり。

舞の少女のいでたちは、

 かしらにかざす忍草、

  長き若葉は肩に垂れ、

   みどりの髮をかくしたり。

[やぶちゃん注:本邦でなら、樹木の樹皮上に植生する着生植物のシダ植物門シノブ科シノブ属シノブDavallia mariesii でよいが、仮想される南洋なので、シノブ属にとどめておく。]

たけの袂を飾へし、

 一さし舞へば舞ふごとに、

  玉うち觸れて黃金を、

   つちに擲つ響あり。

環の花の白玉は、

 木の間の螢とちりばめて、

  紅皮の靴のまさごぢを、

   ふむに輕くも見ゆるかな。

[やぶちゃん注:「環」「たまき」。「まさごじ」は「眞砂路」。砂地の道。]

火影に背き歌謠ひ、

 裳裾を曳きて露にぬれ、

  空より峯に白鳥の、

   舞ふが如くに舞ひ遊ぶ。

淸けきまみも輝きて、

 花の面は朱を帶び、

  かつらの草のゆるびては、

   白き眞砂におつるかな。

破れよ皷とうちしきり、

 管もさけよと笛を吹き、

  林の奧の山彥の、

   答ふる聲に競ひけり。

舞へば流るゝ流るれば、

 淚にけがす花の面、

  あつき血しほは身にもえて、

   狂ひもいでむこゝろかな。

羽しもたねば大空に、

 のぼりもえせずうろくづの、

  鰭しなければ海底に、

   潜みもあヘず月影を、

    いかなる鄕に探るべき。

天に沖りしかゞり火も、

 さすが焰の衰へて、

  一つ消ゆればつきづきに、

   見えずなり行く島の陰、

    夜の光の亡ぶべき、

     終の時は來りけり。

[やぶちゃん注:「沖りし」は「ひひりし(ひいりし)」と読み、「ひらひらと舞い上がる・高く飛び上がる」の上代からの古語。]

仰げば遠き久方の、

 雲の通路風死して、

  草木は萎へ葉は黃ばみ、

   谷の峽に危くも、

    黑き月たゞかゝりたり。

  ○

 群たつ雲の

    廣ごりて、

 墨をながせる

    天つそら、

 ほしのひかりも

    きえにけり。

 ひらめきわたる

    稻妻は、

 裂けし雲間を

    彩りて、

 奇しき形を

    あらはしぬ。

 あやめもわかぬ

    闇路より、

 けたゝましくも

    聲たてゝ、

 林をよぎる

    何の鳥。

 きりをふくめる

    小夜風の、

 いとひやゝかに

    吹きくれば、

 おのゝきふるふ

    松の枝。

 闇とこしへに

    とざしては、

 はるゝ時なき

    月の蝕、

 夜の光は

    ほろびたり。

 沖つ藻邊つ藻

    なびきよる、

 島の岬の

    うへにして、

 かくれし月を

    おろがみし。

 王もいまはや

    みまつりの、

 にはをけがすに

    たへかねて、

 宮居にかへり

    たまひけり。

 東にひかり

    西宮に、

 ひらめきかへし

    稻妻の、

 すさまじくのみ

    なりぬれば。

 夜は小夜中と

    更け行けど、

 ねぶるともなき

    島人の、

 むねはおそれに

    おほはれぬ。

 白くのこれる

    炬火を、

 かこみてたてる

    人のおも、

 うなだれてのみ

    かたらはず。

 天の河原に

    沈みてし、

 月の光は

    さながらに、

 夜の電と

    なりにけり。

 芭蕉の廣葉に

    うつりては、

 くだけてはしる

    白光の、

 行衛や人の

    世にあらず。

 高くたちたる

    岩が根を、

 ひらめきくだる

    幾千條、

 海の底にや

    入りぬらむ。

 すさまじかりし

    稻妻も、

 たゞ一しきり

    をさまれば、

 こたびはさらに

    色深く、

 開かぬ闇に

    襲はれぬ。

 

   

 

 一葉のふねを

    海にうけ、

 神の御贄と

    たゞよへる、

 姬の袂や

    ぬるゝらん。

 櫂とり馴れで

    白浪の、

 立つをおそれん

    くらき夜に、

 珊瑚のしまを

    さまよふか。

 岬をあらふ

    黑潮の、

 渦まくうへに

    ながされて、

 千尋の底に

    しづみなば。

 月の光は

    さゝずとも、

 さめぬねぶりの

    とこしへに、

 破れぬ夢を

    結びつゝ。

 靡く玉藻の

    影見えて、

 梅の花貝

    みだれ散る、

 錦の床に

    こやすらむ。

[やぶちゃん注:「梅の花貝」私の守備範囲なので注せずにはおられない。本邦に和名として実在する二枚貝である。斧足綱異歯亜綱ツキガイ科ウメノハナガイ亜科 Pillucina属ウメノハナガイPillucina pisidium。殻長六・五ミリメートル、殻高六ミリメートル、殻径五ミリメートルの小型種。殻は球状で、やや堅固。殻表は白色又は淡黄色で、殻頂より腹縁へ分枝状の放射肋があるが、中央部が滑らかになっていることもある。殻内面も白色で、外套線は彎入せず、腹縁は細かく刻まれている。北海道南部から朝鮮半島南部に分布し、内湾の潮間帯の砂泥底に普通に見られる。但し、英文サイトの生物データサイトの採集箇所を調べてみると、フィリピンやニューギニアの西方の島で見つかっているから、南洋でも問題ない。ただ、名前の割に如何にも小さくえ地味な貝ではある(私は形状が好きだが)。グーグル画像検索「Pillucina pisidiumをリンクしておく。]

 二つの百合の

    花びらの、

 しつかにむねを

    はなれては、

 かたみを

    うみにのこすとも。

 ねみだれ髮を

    かゝぐとて、

 紅潮しゝ

    かほばせの、

 花なる君は

    かへらじな。

 土星(ほし)が省くてふ

[やぶちゃん注:「ほし」は「土星」二字へのルビ。]

    帶解きて、

 日の行く道を

    東より、

 西に橫ぎる

    天津風。

 千里の旅を

    夜もおちず、

 月のみ舟に

    うちのりて、

 きみがころもを

    なびけんに。

 海の香たかく

    星とびて、

 南にきゆる

    天の花、

 わがたましひの

    こゝちせむ。

 さすが少女の

    父をこひ、

 母を慕ひて

    あくるまで、

 舟になくとも

    潮けぶり。

 曉深く

    とざしこめ、

 かゞり火きゆる

    島陰の、

 しるしの椰子も

    見えざらむ。

 綾の袴も

    みだれずに、

 蟬の羽袖も

    やれずして、

 知らぬ浦曲に

    舟はてば。

[やぶちゃん注:「浦曲」は「うらわ」。海岸の湾曲した所。浦廻(うらみ)のこと。上代語で「み」とよむべき「廻」を旧訓で「わ」と誤って読んだために生じた語である。]

 玉の小筥の

    ひめごとを、

 知らぬをのこは

    おどろきて、

 龍のしろをや

    たづぬらむ。

 さもあらばあれ

    ひとみなの、

 なみだは海に

    ながれいで、

 安けき里に

    おくりなむ。

 いそべに立ちて

    手をあげよ、

 手はあぐれども

    八重の浪、

 舟の帆影は

    かくれたり。

 

 *  *  *  *  *

   *  *  *  *

 

[やぶちゃん注:明治三三(一九〇〇)年七月十五日内外出版協会刊になる河井酔茗編の『文庫』派のアンソロジー「詩美幽韻」の巻頭に配された伊良子清白の長詩(元の物語性を全く排除してしまった小唄風の蟹のパートが「大蟹小蟹」の標題で昭和四(一九二九)年新潮社刊「現代詩人全集 第四巻 伊良子清白集」に改題収録されているのは、これを読んでしまうと、何かひどく哀しい気持ちがしてくる)。

 なお、本詩篇に限っては、今までの底本である、二〇〇三年岩波書店刊平出隆編集「伊良子清白全集」第一巻をOCRで読み込んで、加工用データとしては使用させて貰ったものの、底本としては、「早稲田大学図書館古典籍総合データベース」にある「詩美幽韻」原本の画像を視認して電子化した。表記は漢字字体や記号を含め、岩波版全集ではなく、原本に拠った(同じ底本のはずであるが、電子化して見ると、異なる箇所が複数あった)。但し、原本は画像を見て戴くと一目瞭然であるが、各パート間を空けずに、太字やポイント違いや字間空けを施す形を採っており、しかも二段組であるために、一部の行の頭の揃えが異なっていたりする。その辺りは岩波版全集を参考に補正を加えてある。また、一部に私のオリジナルな注を挟んでおいた。【2019年6月9日追記:注の一部を改稿した。】

大蟹小蟹 伊良子清白

 

大蟹小蟹

 

大蟹小蟹

 谷の小川におりてきて

甲はぬがれず

 ぬがねばならず

橫に這うたが

  落度(おちど)で御座る

をしへて下され

  すぐな道

どうせうぞいな

  泡もふかれず

   めもたてられず

瀧は千丈

  壺は藍

岸の椰子の木

  ねいろとすれば

波が洗うて

  ゆりおこす

   ゆりおこす

おこすのが

  とんと面白う御座る

椰子ぢやなし

  口に善惡(さが)ない

大蟹小蟹

  發矢(はつし)とあたる

椰子の實で

  大事な甲を

わつたげな

  われたと思うたら

ぬげたげな

  大きな甲は石になれ

  小さな甲は貝になれ

 

[やぶちゃん注:初出は明治三三(一九〇〇)年七月内外出版協会刊の、河井酔茗編になる『文庫』派のアンソロジー「詩美幽韻」初出であるが、本篇は同書巻頭に配されてある長篇詩「巖間の白百合」(署名「すゞしろのや」)の中の、三分の二ほど進行したところに出る、本文が「大蟹小蟹」で始まるパート(当該部は前後一行空けとなっている)を独立させて題を附し、一部表記を変えた作品である。次で、「巖間の白百合」全篇を現物画像を元にオリジナルに電子化する(但し、恐ろしく長い詩篇なので時間がかかる。悪しからず)

 なお、本篇に登場する蟹は、初出「巖間の白百合」を読むに、ロケーションは想像された南洋の島と思しいのだが、伊良子清白は実際には既に述べた通り、台湾には一時期住み、その後にボルネオ行きを希望はしたものの、叶わず、狭義の意味での南洋には行っていない。さすれば、伊良子清白がモデルとして考えた本邦産の実在種を考えると、私は高い確率で、

甲殻亜門軟甲(エビ)綱十脚(エビ)目抱卵(エビ)亜目短尾(カニ)下目イワガニ上科ベンケイガニ科アカテガニ属アカテガニ Chiromantes haematocheir

であると思う。それは本種が本邦では嘗ては普通に見られ、海岸から遠く離れた、しかも高所(時に人家にさえ)にまで登る、乾燥に強い性質を持つこと、成体個体は甲幅三センチメートル前後にまで達し、性的二型で♂の方が♀より大きいこと、伊良子清白に縁の深い紀伊半島にも多く見られ、私自身、十年ほど前、新宮市熊野速玉大社の摂社で、巨石ゴトビキ岩を御神体とする神倉神社(グーグル・マップ・データ)へ行った折り、標高百二十メートルの急勾配の道すがら(海や川は近い。彼らの幼生は海水がないと生育出来ない)、大小の彼らを沢山見て興奮した記憶があるからである。

2019/04/25

和漢三才圖會卷第三十八 獸類 胡獱(とど) (トド)

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とゝ   海驢【天木集】

     【別有海驢與

      此不同】

胡獱

   【胡者夷之名獱

    者大獺之名也】

     【俗云登土】

[やぶちゃん注:「獱」は底本では、総て、(つくり)が「濵」の(つくり)であるが、正字で示した。「獺」も今までと同じく正字で示した。]

 

△按胡獱松前海中有之形色氣味共似膃肭而大也

 但以齒辨之【膃肭下齒二行胡獱齒如尋常】好眠常寢於水上亦奇也

 本草所謂海獺【出於前】一類乎蓋海獺膃肭阿茂悉平胡

 獱之四種同類異物也特以膃肭人賞之故以胡獱僞

 充膃肭獸

               衣笠内大臣

  夫木わが戀はとどのねなかれさめやらぬ夢なりなから絕えやはてなん

 

 

とゞ   海驢【「天木集」。】

     【別に「海驢」有る〔も〕、

      此れと同じからず。】

胡獱

   【「胡」とは「夷」の名なり。「獱」とは

    大獺〔(おほかはうそ)〕の名なり。】

     【俗に云ふ、「登土」。】

 

△按ずるに、胡獱、松前の海中に之れ有り。形・色・氣味、共に、膃肭〔(をつとつ)〕[やぶちゃん注:オットセイ。]に似て大なり。但し、齒を以つて、之れを辨ず【膃肭は、下の齒、二行〔(ふたくだり)〕、胡獱は齒は尋-常(つね)のごとし。】好んで眠る。常に水上に寢るも亦、奇なり。「本草」に謂ふ所の「海獺〔(うみうそ)〕」【前に出づ。】、一類か。蓋し、海獺(うみうそ)・膃肭(をつとつ)・阿茂悉平(あおもしつぺい)・胡獱(とど)の四種、同類異物なり。特に膃肭を以つて、人、之れを賞す。故に、胡獱を以つて僞り、膃肭獸に充〔(あ)〕つ。

               衣笠〔の〕内大臣

 「夫木」

   わが戀はとどのねなかがれさめやらぬ

      夢なりながら絕えやはてなん

[やぶちゃん注:一属一種の食肉目アシカ科トド属トド Eumetopias jubatusウィキの「トド」によれば、「トド」という和名は、アイヌ語の「トント」に由来するもので、『これは「無毛の毛皮」つまり「なめし革」を意味する』。『トドそのものは、アイヌ語で』「エタシペ」と『呼ばれる。日本各地にトド岩という地名も散見されるが、過去においては日本ではトドとアシカ(ニホンアシカ)は必ずしも区別されておらず、アシカをトドと呼ぶ事も度々みられ、本州以南のトド岩の主はアシカであったようである』とある。北太平洋・オホーツク海・日本海(朝鮮半島北部から北海道島牧郡以北)・ベーリング海に分布し、『繁殖地は千島列島やアリューシャン列島』から『カムチャツカ半島東部、カリフォルニア州にかけての地域に点在する』。『日本には』十月から翌年五月に『千島列島の個体群が、北海道沿岸域(礼文島』から『積丹岬にかけて、根室海峡など)へ回遊する』。最大全長は三メートル三十センチメートルで、体重は♂で一トンにも達するが、♀は三百五キログラムで極端な性的二型を示す。アシカ科では最大種。『背面の毛衣は淡黄褐色、腹面の毛衣は黒褐色』、『四肢(鰭)は黒く、体毛で被われない』。『出産直後の幼獣は全長』一メートルで、体重は十八~二十二キログラム、♂の『成獣は額が隆起し、後頭部の体毛が伸長し』て、鬣(たてがみ)状を呈し、『種小名 jubatus は「たてがみがある」の意』である。『上半身が肥大化する』。『海岸から』三十『キロメートル以内の海域に生息』し、『昼間は岩礁海岸で休む』。『食性は動物食で、魚類(カサゴ、シシャモ、スケトウダラ、ヒラメ、ホッケ、マダラ、メバルなど)、軟体動物(イカ、ミズダコ)などを食べる』。五~七月に『なると』、♂が『上陸して縄張りを形成し、数頭から数十頭の』♀と『ハーレムを形成する』。『主に』六『月に』、一『回に』一『頭の幼獣を産む』。『授乳期間は』一~二年で、♂は生後三~四年、♀は生後四~五年で『性成熟する』とある。

「天木集」「夫木集」の誤字。何度も出、本項の最後にも出している「夫木和歌抄」のこと。

「別に「海驢」有る〔も〕、此れと同じからず」小学館「日本国語大辞典」では、これに「あしか」と当て訓し、一番目に狭義のアシカ(ニホンアシカ)に当て、他に「うみおそ」「うみうそ」「みち」という呼称を示す。しかし、二番目に、鰭脚目アシカ科の哺乳類の総称とし、トド・オットセイなども含まれる、としている。後者は多分に近世以降の意義規定のように思われるものの、寺島良安がここを敢えて「とど」としたのは、江戸初期に於いて、「海驢」を「とど」と読むのが普通の一解釈としてあったことを示している。但し、最後の注も必ず参照されたい。

「胡」「夷」孰れも国境外の未開地の意。

「大獺〔(おほかはうそ)〕」先行する「獸類 獺(かはうそ)」には「大獺」はない。カワウソの大型個体と採っておく。

「海獺〔(うみうそ)〕」「【前に出づ。】」先行する「獸類 海獺(うみうそ)」を見よ。そこの注で考証した通り、アシカ類或いは、本邦産ならば、ニホンアシカに同定した。

「阿茂悉平(あおもしつぺい)」前の「獸類 膃肭臍(をつとせい)」に膃肭臍の『小さき者を「阿毛悉乎(あもしつぺい)」と名づく』とある。キタオットセイの若年個体と採る。

「同類異物なり」以上から、必ずしも異物という良安の見解には賛同しない。

「特に膃肭を以つて、人、之れを賞す」ここは肉ではなく、毛革を指していよう。

「衣笠〔の〕内大臣」「夫木」「わが戀はとどのねなかがれさめやらぬ夢なりながら絕えやはてなん」衣笠(藤原)家良(建久三(一一九二)年~文永元(一二六四)年)は鎌倉時代の公卿で歌人。正二位・内大臣に至った。藤原定家に師事し、「万代和歌集」を藤原光俊と共撰し、「続古今和歌集」の撰者にも加わり、「新勅撰和歌集」以下の勅撰集に百十八首が入集している。但し、「夫木和歌抄」のそれは、「日文研」の「和歌データベース」では、巻三十六の「雑十八」にある(同ページの通し番号17063歌)、

 わかこひはみちのねなかれさめやらぬゆめなりなからたえやはてなむ

で、これは、

 我が戀は海驢(みち)の寢流れ覺めやらぬ夢なりながらえや果てなむ

であって「とど」とは読んでいない。この「みち」に後世、「海驢」を当てたものが流布し(小学館「日本国語大辞典」の「馬驢」に引かれた本歌がまさにそうなっている)、それを良安は「とど」と読んだのである。

和漢三才圖會卷第三十八 獸類 膃肭臍(をつとせい) (キタオットセイ)

Otutosei

 

 

 

をつとせい 骨豽 海狗

      【肭豽貀

        三字同】

膃肭臍

      【胡人呼之曰

       阿慈勃他伱】

 

本綱膃肭臍諸説區多女直國撒馬兒罕朝鮮突厥國等

北海有之又如三佛齋國南海亦有之毛色似狐尾形似

魚足形似狗而無前兩足呼其外腎曰臍者連臍取之也

膃肭臍【甘大溫】 補中益腎氣暖腰膝又治驚狂癇疾

△按膃肭奧州松前海中有之大者二三尺全體魚類而

 有毛乃此魚與獸半者矣頭似猫而口尖有眼鼻而無

 耳埀止有小孔其齒上一行下二行相双長短齟齬其

 尾有岐如金魚尾而黒色耑各有五岐其表中間有三

 針而堅似爪其毛色似鼬毛而根稍黒無手足而近尾

 兩脇有鰭蹼而黒色宛如足然此鰭而非足本草諸註

 爲有足而無前足者未見生者憶見之誤也有牡牝難

 辨以外腎有無別之其外腎長四五寸太如小指陰乾

 黒色性好睡眠土人以小者最賞美之五六月生子此

 時泛海上食小鰯蓋外腎連臍取之說亦不然矣凡狗

 食之則毛脫皮爛至死以可知性大温也其小者名阿

 毛悉乎虛寒人食其肉暖腰足松前人以爲美饌猶是

 肥前人嗜鼈也

 

 

をつとせい 骨豽〔(こつどつ)〕

      海狗〔(かいく)〕

      【「肭」「豽」「貀〔(どつ)〕」

       の三字、同じ。】

膃肭臍

      【胡人、之れを呼びて曰ふ、

       「阿慈勃他伱〔(あじぼたに)〕」。】

 

「本綱」、膃肭臍、諸説、區〔區(まちまち)にして、又、〕多し。女直國〔(ぢよちよくこく)〕[やぶちゃん注:「女直」は「女眞」(ジュルチン)に同じ。中国東北部、満洲の松花江一帯から外興安嶺(スタノヴォイ山脈)以南の外満州にかけて居住していたツングース系民族の当時の現有支配地域。]・撒馬兒罕〔(サマルカンド)〕[やぶちゃん注:ウズベキスタンの古都。但し、内陸(ここ。グーグル・マップ・データ)でおかしい。]・朝鮮・突厥〔(とつけつ)〕國[やぶちゃん注:六世紀に中央ユーラシアにあったテュルク系遊牧国家。但し、当が国家の占有域は海洋に面していないので前ろ同じく、おかしい。前と合わせて、交易品の集合地・経由地として挙げたものであろう。]等、北海に之れ有り。又、三佛齋(サフサイ)國[やぶちゃん注:七世紀にマラッカ海峡を支配して東西貿易で重要な位置を占めるようになったスマトラ島のマレー系海上交易国家であったシュリーヴィジャヤ王国。]のごとき南海にも亦、之れ有り。毛の色、狐に似て、尾の形(なり)魚に似る。足の形、狗〔(いぬ)〕に似て、前の兩足、無し。其の外腎(へのこ)[やぶちゃん注:陰茎。]を呼んで「臍〔(せい)〕」と曰ふは、臍〔(へそ)〕を連〔(つら)ね〕て、之れを取ればなり。

膃肭臍【甘、大温。】 中[やぶちゃん注:中胃。消化器系。]を補し、腎氣を益し、腰・膝を暖かにし、又、驚狂[やぶちゃん注:痙攣などを伴う心身性の劇症型発作のようである。]・癇疾[やぶちゃん注:神経過敏による痙攣など、特に小児に多い「癇の虫」等の精神疾患を指す。]を治す。

△按ずるに、膃肭、奧州松前の海中に之れ有り。大なる者、二、三尺。全體、魚類にして、而〔れども〕、毛、有り。乃〔(すなは)ち〕、此れ、魚と獸と〔の〕半ばなる者なり。頭、猫に似て、口、尖り、眼・鼻有りて、耳埀(みゝたぶ)、無く、止(たゞ)、小孔有るのみ。其の齒、上(〔う〕へ)に一〔(ひと)〕行(くだ)り、下に二行〔(ふたくだり)〕、相ひ双〔(なら)び〕て、長短、齟-齬(くいちが[やぶちゃん注:ママ。])ふ。其の尾に岐〔(また)〕有り、金魚の尾のごとくして、黒色、耑〔(はし)〕[やぶちゃん注:「端」に同じ。]〔に〕各々、五〔つの〕岐(また)有り。其の表の中間に三〔つの〕針有りて、堅くして、爪に似たり。其の毛色、鼬(いたち)の毛に似て、根、稍〔(やや)〕黒し。手足無くして、尾に近き兩脇に、鰭(ひれ)・蹼(みづかき)有りて、黒色、宛(さなが)ら、足のごとく然り。此れ、鰭にして、足に非らず。「本草」の諸註、『足、有りて、前足、無し』と爲るは、未だ生きたる者を見ざる、憶見の誤りなり。牡牝、有る〔も〕、辨じ難く、外腎の有無を以つて、之れを別〔(わか)〕つ。其の外腎、長さ四、五寸。太(ふと)さ、小指のごとく。陰乾にして黒色〔たり〕。性、好みて睡眠す[やぶちゃん注:彼らは実際、海中でも眠ることが出来る。後注の引用部の最初の太字部を参照。]。土人、小さき者を以つて、最も之れを賞美す。五、六月、子を生む。此の時、海の上に泛〔(うか)〕んで[やぶちゃん注:ママ。]、小鰯〔(こいわし)〕を食ふ。蓋し、外腎、臍を連ねて之れを取るの說、亦、然からず。凡そ、狗〔(いぬ)〕、之れを食へば、則ち、毛、脫(ぬ)け、皮、爛(たゞ)れて、死に至る。以つて、性〔(しやう)〕、大温なることを知るべし。其の小さき者を「阿毛悉乎(あもしつぺい)」と名づく。虛寒の人、其の肉を食ひて、腰・足を暖む。松前の人、以つて、美饌〔(びせん)〕[やぶちゃん注:御馳走。]と爲す。猶ほ、是れ、肥前[やぶちゃん注:現在の佐賀県。]の人、鼈〔(すつぽん)〕を嗜〔(たしな)む〕がごときなり[やぶちゃん注:現行も佐賀はスッポンの名産地で料理も有名。]。

[やぶちゃん注:食肉目イヌ亜目鰭脚下目アシカ科オットセイ亜科 Arctocephalinae のキタオットセイ属キタオットセイ Callorhinus ursinus、及びミナミオットセイ属 Arctocephalus(八種)を指すが、本邦には前者のみで、しかも日本はキタオットセイの南限とされる。但し、ミナミオットセイ属は調べる限りでは、生息域が限定されており、「本草綱目」の引用のそれも概ねキタオットセイ(或いはお得意の海棲哺乳類一緒くた)のように思われる。ウィキの「オットセイ」を引く。『一匹のオスが複数のメスを独占しハーレム』(トルコ語:harem:イスラム社会における女性の居室の意)『を形成する。ハーレムは一般に海岸に近い場所に形成される。メスをめぐる戦いに敗れたオスは、まとまって群れを作って生活する。その場合、居住地は内陸に入った不便な場所となる場合が多い。若いオスでは戦いに敗れても、戦いの訓練を積み体格が大きくなるまで待ち』、『改めて戦いに挑む場合もあるが、多くのオスは再挑戦をする気力を失い、メスとの交尾の機会を持てずに』、『同性の集団生活において生涯を終える』。『耳たぶがある、四脚で体を支えて陸上を移動できる、前脚を鳥の翼のように羽ばたくことによって遊泳するなど、アシカ科特有の特徴をもつ』。『アシカよりは若干小ぶりで、ビロード状の体毛が密生していることがオットセイの特徴である。オットセイの毛は、ごわごわとしたアザラシと異なり、つやつやとして柔らかく、暖かく、防寒性、装飾性に優れている』。『食性としては魚、タコ、エビを主食としているが、地域的にはペンギンを捕食する場合もあることが報告されている』。『陸上だけでなく、水中でも睡眠を行う。この時、右脳を覚醒させたまま、左脳を眠らせることができる。陸上で眠る時は、人間と同様の方法で眠る』(太字下線は私が附した。以下同じ)。『海の生き物だが、海水ではなく淡水でも生育可能である。いくつかの水族館では、オットセイを淡水で飼育している場合もある』。『高価な毛皮や、さらには陰茎や睾丸(生薬名:海狗腎)が精力剤などの漢方薬材料として珍重されたため、乱獲により生息数が激減した。江戸時代初期の慶長』一五(一六一〇)年と、二年後の慶長十七年、『蝦夷地の松前慶広が徳川家康に海狗腎を二回に』亙って『献上し、家康の薬の調合に使用されたという記録も残っている』(「当代記」)『オットセイはアイヌ語で「onnep」(オンネプ)とよばれていた。それが中国語で「膃肭」と音訳され、そのペニスは「膃肭臍」(おっとせい)と呼ばれ精力剤とされていた。現代の中国語ではオットセイは膃肭獣 wànàshòu ワナショウと呼ばれていて、アイヌ語onnepに由来する膃肭 wànà ワナの部分は』、『もっぱら「(身動きも不自由となるほどの)デブ」という意味で使われている。後に日本ではペニスの部位だけを指す「膃肭臍(おっとせい)」という生薬名が、この動物全体を指す言葉になった』らしい。『また、英語ではfur seal(毛皮アザラシ)と呼ばれ、アザラシよりも質の良い毛皮が取れるため、この名前がついたといわれている』。『日本海や銚子沖の太平洋が、キタオットセイ属の南限といわれる。たまに日本海側や北海道、東北地方の海岸に死体や、生きたまま漂着することがある』とある。

 なお、ヴィジュアルに識別法を覚えたい方のために、動物サイト「マランダー」の「これはちょっと難しい?アシカとオットセイの違いを比べてみよう」と、序でに、より基本の「似てると思ってたら意外と違う?アザラシとアシカの違いについて学んでみよう」をリンクさせておく。

「阿慈勃他伱〔(あじぼたに)〕」最後の「伱」は「儞」「爾」と同字だが、意味不明。ただ、調べているうちに、既知のサイト「山海経動物記」の「鯥(ロク)」に非常に興味深い記載を見出した。「鯥」は幻想地誌「山海経」の「南山経」に、

   *

東三百里祗山、多水、無草木。有魚焉、其狀如牛、陵居、蛇尾有翼、其羽在下、其音如留牛、其名曰鯥、冬死而夏生、食之無腫疾。

   *

という、トンデモ怪魚なのだが(訳はリンク先にある)、サイト主はこのモデル動物にオットセイを候補として挙げている。中国の古文献の膃肭臍の記載を調べた上での堅実な仮説で、非常に面白い。是非、お読みあれ!

「阿毛悉乎(あもしつぺい)」松江重頼編の俳論書「毛吹草」(正保二(一六四五)年刊)にも載るが、語源不詳。]

柳田國男 山島民譚集 原文・訓読・附オリジナル注「馬蹄石」(14) 「駒ケ嶽」(4)

 

《原文》

 岩代耶麻郡金川村ノ駒形山ハ、山ノ南ニ草木ノ生ゼザル砂石ノ地アリテ、恰モ逸馬ノ形ニ似タル故ニ駒形山ト名ヅケタリト稱ス〔新編會津風土記〕。山ノ樹木ノ特ニ茂レル部分、例ヘバ富嶽南側ノ鶴ケ芝ノ如キ、或ハ永ク物ノ成長セザル部分ガ、何カノ形狀ニ類似シタリト云フハ、事ニ由ルト幾分ノ人作ヲ加ヘタルモノナリトモ言ヒ得べシ。京ノ東山ノ大文字又ハ北山ノ妙法ナドハ、其最モ著シキ例ナリ。併シナガラ雪ノ消エヌ消エタト云フガ如キハ正シク天然ノ現象ナリ。故ニ遠クヨリ望ム人ガ意ヲ以テ迎ヘタル解說ト言フノ他ナキナリ。越後絲魚川邊ニ牛形ト稱スルハ、季春山中雪消エノ時殘ル形ノ牛ニ似タルモノナリ。飯豐山(イヒデサン)ニハ乘物形アリ、肩輿ノ形ニ似タリ。【鍬形】粟ヲ蒔ク頃殘雪ノ僧形ヲ爲スヲ名ヅケテ粟蒔入道ト謂ヒ、菱嶽ノ殘雪ノ鍬ノ形狀ニ似タルヲ鍬形ト稱スルガ如キ、皆同ジ類ナリ〔以上越後野志十九〕。【農牛農鳥】富士ノ白雪ノ解ケ殘リタル形ヲ、駿河ヨリ見テ農男、甲斐ノ方ヨリ農牛農鳥ナドト謂ヒ、之ヲ望ミテ農事ニ取掛ルガ如キ亦然リ。或ハ南面ニ在リテハ農馬ニ見ユト爲シ、牛ト馬ト自然ニ陰陽兩位ノ方角ヲ表ハスモノナリト言ヒシ人アリ〔甲斐國志三十五〕。サマデノ理窟ハ無キマデモ、農耕ト關係アリト考ヘシコトハ右等ノ名稱ヲ見テモ明白ナリ。【人形山】越中礪波(トナミ)ノ奧ナル人形山ハ、殘雪ノ形ガ二人手ヲ連ネテ立ツガ如ク見ユ。其雪ノ次第ニ融ケテ結ビシ手ヲ離ス頃ヨリ、木樵獵人ハ山ニ入リテ差支ナシト信ジ居タリ〔地名辭書〕。是レ即チ障神(サヘノカミ)ノ思想ヲ表示スル者ナルべシ。【名ノ附會】何レニシテモ遠方ニ在ル物ノ形ハ見ヤウ次第如何ヤウニモ見エ。[やぶちゃん注:句点ママ。訓読では読点に代える。]天井板ノ節穴ガ眼球ノヤウニ思ハレタリ、障子ノ雨ノ痕ガ影法師ト見エタリスル例ハ多シ。仍テ自分ノ考フル所ニテハ、前ニ列記スルガ如キ馬ノ形像說ハ、駒ケ嶽又ハ駒形山ト云フ地名アリテ後、次第ニ土地ノ人ガシカ看倣スヤウニナリシナラント認ム。即チ神馬ヲ崇祀スル信仰ノ方ガ、此傳說ヨリ一段ト古キモノニテハ非ザルカト思ヘリ。若シ然ラズトスレバ、平地ニ於ケル駒形又ハ馬神ノ信仰ハ、全然別口ノモノトナリ了ル結果ヲ見ルべキナリ。

 

《訓読》

 岩代耶麻(やま)郡金川村の駒形山は、山の南に草木の生ぜざる砂石の地ありて、恰(あたか)も逸馬(いつば)の形に似たる故に駒形山と名づけたりと稱す〔「新編會津風土記」〕。山の樹木の特に茂れる部分、例へば富嶽南側の鶴ケ芝のごとき、或いは、永く物の成長せざる部分が、何かの形狀に類似したりと云ふは、事(こと)に由(よ)ると、幾分の人作(じんさく)を加へたるものなりとも言ひ得べし。京の東山の大文字又は北山の妙法などは、其の最も著しき例なり。併しながら、雪の消えぬ消えたと云ふがごときは、正(まさ)しく天然の現象なり。故に、遠くより望む人が、意を以つて迎へたる解說と言ふの他なきなり。越後絲魚川邊に「牛形(うしがた)」と稱するは、季春、山中雪消えの時、殘る形の牛に似たるものなり。飯豐山(いひでさん)には「乘物形(のりものがた)」あり、肩輿(かたこし)の形に似たり。【鍬形(くはがた)】粟(あわ)を蒔く頃、殘雪の僧形(そうぎやう)を爲すを、名づけて「粟蒔入道(あはまきにふだう)」と謂ひ、菱嶽(ひしだけ)の殘雪の、鍬の形狀に似たるを「鍬形」と稱するがごとき、皆、同じ類ひなり〔以上「越後野志」十九〕。【農牛(のううし)・農鳥(のうとり)】富士の白雪(しらゆき)の解け殘りたる形を、駿河より見て「農男(のうをとこ)」、甲斐の方より「農牛」・「農鳥」などと謂ひ、之れを望みて、農事に取り掛るがごとき、亦、然り。或いは、南面に在りては「農馬(のううま)」に見ゆと爲し、牛と馬と、自然に陰陽兩位の方角を表はすものなり、と言ひし人あり〔「甲斐國志」三十五〕。さまでの理窟は無きまでも、農耕と關係ありと考へしことは、右等(みぎなど)の名稱を見ても明白なり。【人形山(にんぎやうざん)】越中礪波(となみ)の奧なる人形山は、殘雪の形が、二人、手を連ねて立つがごとく見ゆ。其の雪の、次第に融けて、結びし手を離す頃より、木樵(きこり)・獵人(かりうど)は山に入りて差し支へなしと信じ居たり〔「地名辭書」〕。是れ、即ち、「障神(さへのかみ)」の思想を表示する者なるべし。【名の附會】何れにしても、遠方に在る物の形は、見やう次第、如何やうにも見え、天井板の節穴が眼球のやうに思はれたり、障子の雨の痕が影法師と見えたりする例は多し。仍(より)て、自分の考ふる所にては、前に列記するがごとき馬の形像說(ぎやうざうせつ)は、駒ケ嶽又は駒形山と云ふ地名ありて後(のち)、次第に、土地の人が、しか、看倣(みな)すやうになりしならんと認む。即ち、神馬を崇祀(すうし)する信仰の方が、此の傳說より、一段と古きものにては非ざるかと思へり。若(も)し然らずとすれば、平地に於ける駒形又は馬神(うまがみ)の信仰は、全然、別口(べつくち)のものとなり了(をは)る結果を見るべきなり。

[やぶちゃん注:「岩代耶麻(やま)郡金川村の駒形山」「駒ヶ岳ファンクラブ ブログ」の「駒の話シリーズ 32:幻の駒ヶ岳」に「岩代耶麻郡金川村駒形山(福島県喜多方市塩川町)」として推定標高三百・六メートルとするのがそれである。文化六(一八〇九)年成立の「新編会津風土記」に、『「駒形山、金川むら十町余りにあり、此山の南面、草木生ぜざる沙面の地、其形逸馬に似たり、故に名づく」とある。さらに古くは、農業用水用の堰の竣工を記録した文書(』応永二(一三九五)年のものに、『「新関は、大もちさかの井とやの下、駒かたのつづき」と駒形山が登場している』。『江戸期の金川村は、明治には金橋村から駒形村、さらに塩川町へ、平成に入ると喜多方市となっている。現地には駒形小学校、駒形堰や駒形神社など駒形の名称は残っている。金川村の駒形山について』、「河東町史」下巻(昭和五八(一九八三)年刊)には、『「源義家の伝説より生まれた駒形山」と述べている。この源義家伝説は』、「塩川町史」(昭和四一(一九六六)年刊)に、『「義家が父頼義とともに』、永承六(一〇五一)年の「前九年の役」『に際し、往路の中継基地として、今日の塩川市街の北方に』、『かなり長期に駐留した。それは源屋、鍛冶屋敷の地名や、民間伝承で知ることができる」と述べて』あり、「河東町史」は』『また、現在の東京電力第』四『発電所の裏山』(三百・六メートル)『の駒形山については、第』四『発電所は猪苗代水力電気(株)と東京電燈(株)によって大正』一五(一九二六)年に『完成した。この工事にて赤い肌を出し、荒れた駒形山には、完成後』、『会社の手に』よって、『桜や松・つつじなどが植えられ』、『駒形公園が造成されたと記述している。この駒形公園は花見や遠足で賑わいを呈していたようだが、今は手入れも』されず、『無残な状態である』。『第』四『発電所の工事以前に金川発電所(現在』は『無人)が東北電化(株)によって大正』八(一九一九)『年に竣工している。この金川発電所の右隣に駒形神社の表参道および昭和』三(一九二八)『年銘の石柱がある。そして駒形山の中腹には駒形神社があった。この神社は源義家伝説が生まれた大昔から鎮座していたのであろうが、今日では礎石を残すのみである。駒ヶ岳、駒形山、駒形神社が姿を消してゆく実例がここで見られる』として、最後に『なお、民俗学者の柳田國男もその著』「山島民譚集」で『この駒形山を紹介している』とあるから、間違いない。その他、「得さんのページ」の「喜多方発・駒形山を甦らせたい。」の情報を綜合すると、現在の福島県喜多方市塩川町(まち)金橋にある猪苗代第四発電所の真裏にあるピークで一致しているから、国土地理院図のここの二百九十四メートルのピークではないかと推定する。

「逸馬(いつば)」駿馬のことであろう。

「富嶽南側の鶴ケ芝」【2019年4月27日改稿】不詳としていたが、いつも情報を頂くT氏より、静岡県富士市本市場の富士市の公共複合施設である「フィランセ」(グーグル・マップ・データ)の西側の民家の玄関先に「鶴芝の碑」があると、「日本観光協会」公式サイト内の「鶴芝の碑」(写真有り)を紹介戴いた。それによれば、『ここから富士山を眺めると、山腹に一羽の鶴が舞うように見える部分があるため』、『鶴芝といわれた。京の画家蘆州が鶴を描き、江戸の儒者亀田鵬齋が賛を寄せたものを、文政』三(一八二〇)年に『土地の人々が碑として、間の宿本市場に建てた』とあり、別の、サイト「碑像マップ」の「鶴芝の碑」には、『鶴芝の碑(鶴の茶屋跡) 文政』三年『盧州画、亀田鵬斎讃』、但し、『現在は拓本禁止』とし、『鶴芝は』、『春先』、『富士山に現れる残雪を鶴に見立てたもの(農鳥)』とあった(後者のページには詳細地図があり、富士山麓の「鶴形」残雪の写真等もある。必見!)

「京の東山の大文字」「北山の妙法」現在、八月十六日、盆の精霊送りとして行われている京都五山の送り火のこと。東山に「大」の字が浮かび上がり、続いて松ケ崎に「妙」・「法」、西賀茂に船形、大北山に左大文字、嵯峨に「鳥居」形が灯もる。私は見たことがない。「京都観光オフィッシャルサイト」こちらで画像や非常に詳しい解説が見られる。

「飯豐山(いひでさん)」山形県西置賜郡小国町・新潟県東蒲原郡阿賀町・福島県喜多方市に跨る標高二千百五・一メートルの飯豊(いいで)山。ここ(グーグル・マップ・データ)。

「肩輿(かたこし)」轅 (ながえ) を肩に担ぐ輿。「けんよ」と読んでもよい。

「菱嶽(ひしだけ)」上越市安塚(やすづか)区の長野県との県境近くにある独立峰菱ヶ岳(ひしがたけ)か。標高千百二十九・一メートル。ここ(グーグル・マップ・データ)。

「農男(のうをとこ)」小学館「日本国語大辞典」の「農男」に、遠くの山の雪が次第に消えて、黒い山肌の形が人のように見えるのを、農夫に譬えて言った語とし、「羇旅漫録」から『宝永山の方、凹(なかくぼき)ところに、人の形のごとく雪ののこることあり。これを農男と称」すと引く。

「牛と馬と、自然に陰陽兩位の方角を表はすものなり」「和漢三才圖會卷第三十七 畜類 牛(うし)(ウシ或いはウシ亜科の種を含む)」に、『其の性、順なり。乾陽を馬と爲し、坤陰を牛と爲す。故に馬の蹄は圓く、牛の蹄は坼〔(さ)け〕たり。馬、病むときは、則ち、臥す。陰、勝てばなり。牛、病めば、則ち、立つ。陽、勝てばなり。馬、起つときは、前足を先〔(さき)〕にし、臥すときは後足を先す。陽に從ふなり。牛、起つときは、後足を先にし、臥すときは、前足を先す。陰に從ふなり』とある。

「人形山(にんぎやうざん)」「越中礪波(となみ)の奧なる人形山」富山県南砺市(五箇山地域)と岐阜県白川村(白川郷)に跨る人形山(グーグル・マップ・データ)。標高千七百二十六メートル。ウィキの「人形山」によれば、『五箇山地域には』、『この人形山にまつわる悲しい伝説(昔話)があ』るとし、『実際に山腹には』二『人の幼子が手をつないで踊っているかのような、残雪による人形の形をした雪形が現れ、山名の由来となって』おり、『古くは「ひとがたやま」と呼ばれていた』とあって以下の話が載る。『昔』、『この山の麓に信心深い山姥と二人の娘が暮らしていた』。三『人は泰澄が創建したとされる白山権現堂を拝んでいた。ある日』、『山姥が薪を採りに女人禁制であった山に入ったところ、小枝を跳ねて目を痛めてしまう。二人の娘が熱心にお祈りし、権現様からのお告げで山上の病に効く湯に山姥を背負って通ったところ』、『目が治った。ある朝』、『山上に権現様がいるのに二人が気づき』、『山頂にお参りしたが、下山途中に山が荒れ』、遂に『麓の山姥のところへ』二人は『戻らなかった。春が来て』、『山の雪解けが進むと、山肌の残雪が二人の娘が手をつないでいる形に見え、この山が人形山と呼ばれるようになった』という話である。『左甚五郎が木の人形を彫り、それに入魂して山地を開拓した後』、『ここに埋葬したとする説も伝えられている』(これは河童に代えた類話も知られる)。

「障神(さへのかみ)」塞(さえ)の神に同じい。ウィキの「岐の神」(くなどのかみ)を引いておく。『岐の神(クナド、くなど、くなと』『のかみ)、とは、古より牛馬守護の神、豊穣の神としてはもとより、禊、魔除け、厄除け、道中安全の神として信仰されている。 日本の民間信仰において、疫病・災害などをもたらす悪神・悪霊が聚落に入るのを防ぐとされる神である。また、久那土は』「くなぐ」、即ち、『交合・婚姻を意味するものという説もある』。異名・異表記が多いが、本来、『「くなど」は「来な処」すなわち「きてはならない所」の意味』で、『もとは、道の分岐点、峠、あるいは村境などで、外からの外敵や悪霊の侵入をふせぐ神である』。『道祖神の原型の』一『つとされる』、『読みを』「ふなと」・「ふなどのかみ」とも『されるのは、「フ」の音が「ク」の音と互いに転じやすいためとする説がある』。『以下のように、意味から転じた読みが多い。岐(ちまた、巷、衢とも書く)または辻(つじ)におわすとの意味で、巷の神(ちまたのかみ)または辻の神(つじのかみ)』、『峠の神、みちのかみとも言う。また、障害や災難から村人を防ぐとの意味で、さえ、さい -のかみ(障の神、塞の神)』。『さらに「塞ぐ」の意味から転じて幸の神、生殖の神、縁結びの神、手向けの神の意味を併せるところもある』。「古事記」の『神産みの段において、黄泉から帰還したイザナギが禊をする際、脱ぎ捨てた褌から道俣神(ちまたのかみ)が化生したとして』おり、この神は「日本書紀」や「古語拾遺」では、「サルタヒコ」と『同神としている。また』、「古事記伝」では「延喜式」にある『「道饗祭祝詞(みちあえのまつりのりと』『)」の八衢比古(やちまたひこ)、八衢比売(やちまたひめ)と同神であるとしている』。「日本書紀」では、『黄泉津平坂(よもつひらさか)で、イザナミから逃げるイザナギが「これ以上は来るな」と言って投げた杖から来名戸祖神(くなとのさえのかみ)が化生したとしている。これは』、「古事記」にあっては、『最初に投げた杖から化生した神を衝立船戸神(つきたつふなどのかみ)としている』。『なお、道祖神は道教から由来した庚申信仰と習合して青面金剛が置かれ、「かのえさる」を転じて神道の猿田彦神とも習合した』。『治安が安定してくる平安後期以降は、往来に置かれた道祖神は道標(みちしるべ)としての役割を持つようにな』り、さらに『仏教の説く六道輪廻の概念から生じた末法思想を背景に、六道に迷った衆生を救う地蔵菩薩信仰が民間で盛んとなり』、そこに『六地蔵が置かれるようにもなった』とある。

「天井板の節穴が眼球のやうに思はれたり、障子の雨の痕が影法師と見えたりする例」心霊写真や神霊現象でお馴染みの心理現象、「パレイドリア(Pareidolia)」(視覚刺激や聴覚刺激に於いて普段からよく知ったパターンを本来そこに存在しないにも拘わらず、知覚認識してしまう現象)や「シミュラクラ(Simulacra)」(ヒトの目には三つの点が集まった図形を人の顔と見るようにプログラムされているという脳の働き。類像現象)である。]

太平百物語卷二 十四 十作ゆうれひに賴まれし事

 

   ○十四 十作(じうさく)ゆうれひに賴まれし事

 大坂上本町(うへほんまち)に、每夜每夜、ゆうれひ[やぶちゃん注:標題ともにママ。以下同じ。]出(いづ)ると沙汰して、夜(よ)更(ふけ)ぬれば、人、おそれて通らざりしが、或夜、十作といふ者、幾兵衞(いくびやうへ[やぶちゃん注:ママ。])といふ者を伴ひ、此所を通りけるに、谷町(たにまち)といふ所にて、うしろの方(かた)より、女の聲にて、二人の者を呼(よび)かけゝれば、十作、幾兵衞にいふやう、

「これは。聞(きゝ)およぶ此所の幽㚑(ゆふれひ)ならん。」

とて、兩人、ふり歸り見れ共、目に遮る者なければ、又、十間(けん)ばかりも行(ゆく)に、已前のごとくに呼しかば、立留(たちど)まりて、能(よく)々見るに、年の比(ころ)、二十(はたち)斗(ばかり)なる女の、色靑ざめたるが、腰より下(しも)はなくして、髮をみだし、さめざめと泣(なき)ゐたり。

 幾兵衞、おく病者なれば、是を見るより、

「わつ。」

と、さけびて、倒れふす。

 されども、十作、强氣(がうき)の者にて、少(すこし)も恐れず、ふみ留(とゞま)りて、いはく、

「何者なれば、われらを呼ぶぞ。近くよらば、切(きつ)てすてん。」

と、氣色(きしよく)ぼうて[やぶちゃん注:ママ。]身がまへすれば、此女、こたへて、

「さん候ふ。我は此あたりの者にて候ひしが、嫉妬の爲に、それのおく方(がた)に殺されたり。されば、其瞋恚(しんゐ[やぶちゃん注:ママ。])、はれやらず、夜每(よごと)に此所に出(いで)て、人を待(まち)て呼(よべ)ども、皆、わが姿におそれて、答ふる人、なし。御身、幸ひに言葉をかはし玉ふ嬉しさよ。願はくは、我(わが)力となり玉へ。」

と、云ふ。

 十作がいはく、

「我、何としてか此事をなさん。今は恨みをはれ玉へ。跡をねんごろにとふてまいらせん[やぶちゃん注:ママ。]。」

といふ。

 幽㚑、よろこびずして[やぶちゃん注:ママ。]、いふやう、

「賴(たのみ)參らする事、外(ほか)ならず。わが腹に子をやどりしが、死せずして、胎内(たいない)、甚(はなはだ)、くるし。おことの刄(やいば)を以て、わが腹を、やぶりてたび候へ。必ず、おそれ玉ふな。」

といふに、流石(さすが)の十作も氣味わるければ、かぶりをふりて、

「左樣の事は、おもひもよらず。免(ゆる)し玉へ。」

と迯(にげ)ごしらへすれば、ゆうれひ、いと恨めしげなる顏(かほ)ばせにて、

「若(もし)、此事かなへ玉はずば、永く御身に付(つき)そひて、恨(うらみ)をいはん。」

といふにぞ、十作も、今はぜひなく、脇ざし、引ぬき、かのゆうれひの傍(そば)へおそろしながら近々と寄(より)て、胴腹(どうばら)をたちやぶれば、

「うれしや。今は、わが本望(ほんもう)は達(たつ)するものを。」

と、いふかとおもへば、姿は、其儘(そのまゝ)、消うせけり。

 十作、いそぎ、幾兵衞を呼(よび)おこし、肩に引(ふつ)かけて、一さんに迯歸りしが、其後(そのゝち)はいかゞなりけんも、しらずかし。

[やぶちゃん注:「大坂上本町(うへほんまち)」現在の大阪府大阪市天王寺区上本町附近(グーグル・マップ・データ。以下同じ)。

「十間(けん)」約十八メートル。

「谷町(たにまち)」大阪府大阪市中央区谷町附近。先の上本町の北西直近。

「氣色(きしよく)ぼうて」気色(けしき)ばんで。「ぼうて」の用法や転訛は私は知らない。

「瞋恚(しんゐ)」歴史的仮名遣は「しんい」でよい。連声で「しんに」とも発音し、仏教の三毒(貪(どん)・瞋(じん)・痴(ち))・十悪などの一つに数える、自分の心に違(たが)うものを怒り怨むことを言う。

「迯(にげ)ごしらへすれば」「逃げ拵へ」。今にも逃げようとしたところが。]

神田田植唄 伊良子清白

 

神田田植唄

 

   

婿見嫁見よ御田(おんた)の田植

近鄕近在皆出た出たぞ

しかもすぐつた若衆と娘

晴の田植じや劣らずまけず

 

   

 

今日の吉(よ)い日の御田植はじめ

早苗(さなへ)取りましよ瑞穗(みづほ)のくにの

空は薄照り御田植日和(ひより)

水も豐かに流れ入る

 

   

 

紅色(べに)の笠紐お十七八は

聲も美(よ)い美いお顏も美い美い

手甲脛巾(はばき)は紺地の木綿

泥はついても身はきよい

 

   

 

男よ御田の若衆

露の玉苗綠にそよぐ

姿ばかりか情(なさけ)も意地も

村の譽れの名代(なだ)がそろた

 

   

 

賴みますぞよ苗取る人等

秋は見渡す穗に穗が咲いて

穰(みの)る千粒(つぼ)萬粒(つぼ)とても

みんな田植がはじめじや程に

 

   

 

苗は御寶千五百(ちいほ)の秋の

神の鏡の御田に插む

歌は流れる磯打つ浪か

苗は見る見る田に繁る

 

   

 

めでためでたの御田の苗は

うゑた若苗葉に葉がさして

根株はりましよ土深々と

伸びる本末(もとすゑ)百姓の手柄

 

   

 

早苗早苗に水みちみちて

映るみどり葉(ば)漣波(さざなみ)わたる

やあれさ早少女(さをとめ)笠ぬぐよ

植ゑた御田は綾錦

      あやにしき

 

神のよろこび雲舞ひ立ちて

鷺も下り候神山(みやま)の使

歌ひをさめて植ゑ納め

うゑた御田は綾錦

      あやにしき

 

[やぶちゃん注:初出未詳。前の「大漁參り」と並べられると、つい鳥羽での作かと思いたくなる。]

大漁參り 伊良子清白

 

大漁參り

 

東の村の娘さん

紅(べに)の裲襠(うちかけ)紅の帶

笠はすげ笠一文字

一さし舞うて神柄め

 

西の村の娘さん

自の裲襠(うちかけ)白の帶

笠は塗笠三度笠

一ふし歌うて神納め

 

玉のいさごの廣前を

しんづしんと步み寄り

大漁祝(たいれふいはひ)の御初穗(おはつほ)を

 

二人ではこぶ生(い)きざかな

正月二日(むつきふつか)の空たかく

銀の細鉤(ほそばり)お月さん

ちらりはらりと撒くやうに

きよめの雪が降り出した

 

[やぶちゃん注:初出未詳。行事から見て、やはり素材は鳥羽での景と私は読みたい。とするならば、その嘱目自体は「船は進む」の注で考証した、大正一一(一九二二)年九月十二日から昭和四(一九二九)年十一月以前を候補と出来るであろう。

「廣前」(ひろまへ)は「神の前」を憚って言う敬語。神社の前庭の謂い。

「しんづしんと」「しんづしんづと」の略。副詞「靜靜と」「しづしづと」の変化した語で、語り物の口調としてよく用いられる。

「生(い)きざ」は活魚の意の「生き魚(ざかな)」の略であろう。]

葦刈 伊良子清白

 

  笹 結 び

 

   *

「いたいけのしたるものあり、張子の顏や塗り稚兒しゆ、くしや結びに笹結び、やましな結びに風車、瓢簞に宿る山雀、胡桃にふける友鳥、虎斑の犬ころ、起上り小法師振鼓、手鞠や踊ろ黃櫨(はじ)小弓」(能狂言小歌)

 

[やぶちゃん注:以下、昭和四(一九二九)年新潮社刊「現代詩人全集 第四巻 伊良子清白集」の「笹結び」という歌謡或いは小唄風のオリジナル詩群二十一篇から成るパートに入る。これらは、少なくとも纏まったものとして短期にソリッドな群作として全篇が発表されたものではない(一部は初出が判明しているが、冒頭の「葦刈」が明治三三(一九〇〇)年発表であるのに対し、八番目の「寢たか起きぬか」は昭和四(一九二九)年発表である)。但し、創作自体はある時期に集中して行った可能性は高いようには思われる。今まで大パート名は注で示すだけに留めたのだが、ここは以上のように添書きがあるため、ここに添えて示した。

 引かれた「能狂言小歌」というのは、「ブリタニカ国際大百科事典」によれば、『能狂言のなかで歌われる小歌。狂言の流派によって』、『歌そのものや歌詞に異同があるが』、『各流の古い書きとめの類から集められた曲は約 』百八十『曲』あり、『狂言が固定化された室町時代末期から江戸時代初期の小歌と共通する点があり』、『当時の歌謡を考えるうえで大切な資料』とされる。室町後期の永正一五(一五一八)年に編せられた歌謡集「閑吟集」などとの関係性は、『一概にいえないが』、『曲によっては』「閑吟集」よりも『新しく』、『江戸時代初期の歌謡を取入れている場合もある』とある。「日本芸術文化振興会」のサイト「文化デジタルライブラリー」のこちらで、「花子」と「柴垣」の実際の小歌を試聴出来る。そこには『ゆったりとしたテンポで、独特の美しい節回しを持ち、「ユリ」という細やかな揺れを付けながらうたわれ』るとある。私はその方面に疎いのであるが、サイト「京都和文華の会」の「狂言歌謡はおもしろい」の権藤芳氏の「狂言歌謡について」の解説が非常に詳しく、そこに示された茂山千之丞 構成・演出「室町歌謡組曲 遊びをせむとや」の冒頭部に出る「幼けしたる物」のパートに伊良子清白が引いた『幼けしたる物あり』/『張子の顔や 塗り稚児』/『しゅくしゃ結びに 笹結び』/『山科結びに 風車』/『瓢箪に宿る 山雀』/『鼓にふける 友鳥』/『虎斑の狗児』/『起き上がり小法師 振り鼓』/『手鞠や 踊る毬 小弓』と出る。

 歌の趣旨はよく判らぬが、よくみると、ただの無心な幼気(いたいけ)なそれの「もの尽くし」だけでもないように見える。例えば、「瓢簞に宿る山雀、胡桃にふける友鳥」の部分は「閑吟集」の百四十八番目の「我をなかなか放せ 山雀(やまがら)とても 和御料(わごりやう)の胡桃(くるみ)でもなし」を確信犯でインスパイアしているようにも見える。岩波文庫「閑吟集」の浅野建二氏の校注では、『山雀は遊女風情の女自身、胡桃(山雀の好物)は山雀の縁語で』「来る身」を掛けており、『縁を絶(た)つことを願った女の歌であろうか』とされ、『一首は「いっそのことわたしを自由ににして下さいな。たとえ山雀のような浮かれ女でも、全く籠の中の鳥同然、あなたが』「来る」『のを待つ』「身」『ではないのですもの」という意』とあるからである。

「笹結び」パート表題にもなっているこれは帯の結び方の一つで、team-osubachi2氏の「丘の上から通信」の『半幅帯「笹結び」』が写真・結び方の丁寧なイラスト附きで判り易い。

「しゆ」はお稚児の口紅の「朱」であろう。

「くしや結び」やはり帯の結び方であろうが、不明。先の組曲の表記からは無造作にクシャっとむすんだようなものか?

「やましな結び」(「山科」か?)も不明。

「風車」はやはり帯の結び方の一法で、「きものデビューnavi」の「浴衣にぴったりの帯の結び方 かざぐるま♪」に連続写真で結び方が示されてある。

「瓢簞」「へうたん(ひょうたん)」で被子植物門双子葉植物綱スミレ目ウリ科ユウガオ変種ヒョウタン Lagenaria siceraria var. gourda

「山雀」スズメ目スズメ亜目シジュウカラ科シジュウカラ属ヤマガラ Parus varius。本邦では、本種専用の「ヤマガラかご」を使って、既に平安時代には飼育されていたことを示す文献が遺されている。学習能力が高いため、芸を仕込むことができ、覚えさせた芸は江戸時代に盛んに披露された。恐らく、私がそれを縁日で見た記憶を持つ最後の世代であろう。

「胡桃」双子葉植物綱ブナ目クルミ科クルミ属のオニグルミ Juglans mandshurica var. sachalinensis・ヒメグルミ Juglans mandshurica var. cordiformis の実。

「友鳥」「ともどり」。連れだって飛ぶ鳥。ここは「閑吟集」から前の山雀のそれであろう。

「虎斑」「とらふ」。

「起上り小法師」「おきあがりこぼし」(或いは「おきあがりこばうし(おきあがりこぼうし)」。言わずもがな、達磨 の形などに作った人形の底に錘を附け、倒れても、すぐに起き上がるようにした玩具。

「振鼓」「ふりつづみ」でんでん太鼓。本来は舞楽などで用いられる正式な楽器で、それに似せて小型に作った玩具がそれ。

「黃櫨(はじ)小弓」「はじこゆみ」。ハゼノキ(双子葉植物綱ムクロジ目ウルシ科ウルシ属ハゼノキ Toxicodendron succedaneum)でつくった子供用の玩具の弓。但し、ハゼノキは実際の和弓の素材でもある。]

 

 

葦 刈

 

三島菅笠かづくとて

髮も結ばぬ浪花女の

紅燃ゆる木綿襷(ゆふだすき)

葦を刈ろとて船に棹

 

まだ有明(ありあけ)の色冴えて

空にはのこる月の鎌

波間にならす葦のかま

唄はにや寒し唄はいや

 

月に背くが暗からば

笠を脫(ぬ)ぎやれ笠の紐

ばらりと解きやれ浪花潟(なにはがた)

蓑毛(みのけ)みだして鷺のたつ

 

染めて甲斐なき花色ごろも

波が濡(ぬら)せば潮がしむ

さまに見せうとて帶くけて

しぶきかかればあとがつく

 

同じ手ぶりもたをやかに

花のかんばせはぢらひて

うつむきがちや紫の

眉をかくした水のおも

 

棹取り馴るる川口を

對(つゐ)の菅笠うちつれて

さしこそのぼれ聲々に

をりもをりとてあげ潮を

 

やれさて葦は刈りてそろ

和泉(いづみ)河内路(かはちぢ)津(つ)の國の

空も一つやくだかけ啼いて

浪花堀江の日が今のぼる

 

[やぶちゃん注:明治三三(一九〇〇)年一月二十八日発行の『よしあし草』第二十二号初出。初出標題は雑誌名と同じ「よしあし草」で、署名は「すゞしろのや」。同誌は「関西青年文学会」(明治三十年七月創刊。当初は「浪華青年文学界」の機関誌)が発刊した文芸誌。「八木書店」のこちらの解説によれば、『関西における新しい文学運動の先駆として、中村吉蔵・高須梅渓が発起し』、『小年文集』・『文庫』・『新声』など『への投書家を中心に創立された』もので、『会の発展とともに誌面も充実し、『小林天眠・河井酔茗・伊良子清白・中山梟庵・堀部靖文・山川延峰・横瀬夜雨ら』が投稿し、『その顔ぶれは多彩で』、『途中』、『会の名称を関西青年文学会と改め、通巻二十七号まで発行され、次いで発行所を矢島誠進堂に移し、雑誌』『わか紫』と統合し、誌名を『関西文学』と改称、『通巻七号(臨時増刊号「初がすみ」を含む)を発行し』た。『与謝野鉄幹は詩歌欄で活躍し、晶子も小舟女という筆名でその初期の作品を発表、柳浪門下の新人永井荷風が処女作「濁りそめ」を載せているのも注目され』るとある。それにしても、雑誌名と同題の詩篇を堂々と投稿するというのは、私は尊大としか思えない。しかも全集年譜の著作年表のデータを見ると、彼は明治三十一年十一月(詩)からの投稿者で、翌年は本雑誌のみに五回投稿(短歌三回・短歌評一回・俳句二回・詩篇一回(二篇))しているものの、毎号投稿しているわけでもない。私が編集者なら、作品内容の可否は別として、まず微苦笑せざるを得ない。

「帶くけて」よく判らぬ。「絎(く)ける」は「くけ縫い(布の端を折り込み、表側に縫い目が見えないように縫うこと)をする」の意であるから、帯の縫い目を見えぬようにたくし込むことを指すか。

「くだかけ」「かけ」は万葉時代からの鷄(にわとり)の称で、「くたかけ」「くだかけ」は平安以後の同種への本来は蔑称異名。個人ブログ「古代史に登場する鳥」の「古代史に登場する鳥(1)―ニワトリ―」によれば、柿澤亮三・菅原浩編著「鳥名の由来辞典」によれば』『「かけ」は鳴き声に由来する』とし、『ニワトリの雅語に「くだかけ」があるが、本来、「くだ」は、「朽ちた」の意。「くだかけ」は「腐れ鶏」のことで、鶏が早く鳴いて、夜訪ねて来ていた男が、早くに家を出て行ってしまったため、女が怒って罵った言葉』とされ「伊勢物語」『が出典。後世、それが、みやびな言葉に転化したと言』う、とある。

 初出は以下。最終連が有意に異なる。

   *

 

よしあし草

 

三島菅笠かつぐとて、

髮もむすばぬ浪華女の、

紅もゆる木綿たすき、

あしを刈ろとて舟に棹。

 

まだあかつきの霧深く、

空にはのこる月の鎌、

波間にならす葦の鎌、

歌はにや寒し歌もいや。

 

月にそむくがくらからば、

笠をぬぎやれ笠の紐、

ばらりと解きやれ浪華がた、

蓑毛(みのけ)みだして鷺のたつ、

 

染めて甲斐なきあゐ鼠、

波が濡(ぬら)せば潮がしむ。

とのに見せうとて帶くけて、

波がぬらせば色がつく。

 

同じ手ぶりもたをやかに、

花の面をはぢらひて、

うつむきがちや葦のそな、

風がさはれば散るものを、

 

棹操り馴るゝ川口を、

對(つゐ)の菅打揃ひ、

さしこそのぼれ朝の潮、

ちぎれちぎれの雲とびて。

 

細き黃雲は和泉路に、

廣い白雲河内路に、

長い赤雲津の國に、

わかれわかれや葦刈も、

こゝろこゝろに皈りけり。

 

   *

「そな」は不詳。連体詞の「そな」(「そこな」の転)で「そこにいる・そこの」の意かとも思ったが、あまりうまく繋がらぬ。因みに、ブッポウソウ目カワセミ科カワセミ亜科カワセミ属カワセミ Alcedo atthis の異名に「そな」があり、前に「鷺」を出しているので、それも考えたが、やはりピンとこない。お手上げ。]

2019/04/24

和漢三才圖會卷第三十八 獸類 海鹿(あしか) (前と同じくアシカ類・ニホンアシカ)

Asika

 

 

 

あしか 阿之加

 

海鹿

 

△按海鹿卽海獺也但本草謂頭如馬者差耳紀州有海

 鹿島多群居毎好眠上島上鼾睡唯一頭撿四方若漁

 舟來則誘起悉轉入水中潜游甚速而難捕其肉亦不

 甘美唯熬油爲燈油耳西國處處亦有之其聲畧似犬

 如言於宇蓋海獺海鹿一物重出備考合

                  仲正

  家集我戀はあしかをねらふゑそ舩のよりみよらすみ波間をそ待

 

 

あしか 阿之加

 

海鹿

 

△按ずるに、海鹿、卽ち、海獺〔(うみうそ)〕なり。但し、「本草」に『頭、馬のごとし』と謂ふは差(たが)ふのみ。紀州に「海鹿島(あしかじま)」有りて、多く群居す。毎〔(つね)〕に眠りを好みて、島の上に上がり、鼾-睡(いびきか)く。唯だ一頭、四方を撿(み)て、若〔(も)〕し、漁舟、來たれば、則ち、誘(さそ)ひ起(をこ[やぶちゃん注:ママ。])して、悉く、水中に轉(ころ)び入る。潜(〔も〕ぐ)り游(をよ[やぶちゃん注:ママ。])ぐこと、甚だ速くして、捕(とら)へ難し。其の肉、亦、甘美ならず、唯だ、熬〔(い)〕りたる油、燈油に爲るのみ。西國、處處にも亦、之れ有り。其の聲、畧(ち)と、犬に似て、「於宇〔(おう)〕」と言ふがごとし。蓋し、海獺・海鹿〔は〕一物〔なれど〕、重ねて出だして、考〔へ〕合〔はす〕に備ふ。

                  仲正

  「家集」

    我が戀はあしかをねらふゑぞ舩の

       よりみよらずみ波間をぞ待つ

[やぶちゃん注:前の「海獺」の注でさんざん考証したように、ここは最早、良安の評言のみであり、良安の認識を支持して、本邦の本草書記載として「海獺」と同じ食肉目イヌ亜目鰭脚下目アシカ科アシカ亜科アシカ属ニニホンアシカ Zalophus japonicus に比定同定する。

「海鹿島(あしかじま)」和歌山県日高郡由良町(ゆらちょう)大引(おおびき)にある海鹿島(グーグル・マップ・データ)。谷川健一の「列島縦断地名逍遥」(二〇一〇年冨山房インターナショナル刊)によれば、『享保十五年(一七三〇)には百頭、安政三年(一八五六)には二百五十頭が確認された(二本歴史地名大系『和歌山県の地名』)』が、『このアシカも明治十年』(一八七七)『年頃にはまったく姿を消してしまった』とある(「和漢三才図会」は正徳二(一七一二)年の成立)。

「仲正」「家集」「我が戀はあしかをねらふゑぞ舩のよりみよらずみ波間をぞ待つ」「中正」は、かの鵺退治で知られ、以仁王(もちひとおう)の宣旨を得て平家に最初の反旗を挙げた功労者源頼政の父である源仲政(生没年未詳)の別名である。家集としては「蓬屋集」があったが、現存せず、今、伝わり、良安が参照したのであろう「源仲正集」は後世の編輯になるものである。但し、この一首は「夫木和歌抄」の「巻三十三 雑十五」に再録されていたので、「日文研」の「和歌データベース」で校合出来た。水垣久氏のサイト「やまとうた」の「歌枕紀行 蝦夷」に採り上げられており、そこでは「寄舟戀」という題詠であることが判る。水垣氏の解説に、本歌は『「えぞ」という語が用いられた最初期の例』で、『作者は源三位頼政の父、白河院の時代の人である。平安時代後期、和人と蝦夷の交易は盛んになっていたが、蝦夷にまつわるさまざまな風聞が都人の耳にまで届いていたことが窺える』とある。]

和漢三才圖會卷第三十八 獸類 海獺(うみうそ) (アシカ類・ニホンアシカ)

Umiuso

 

 

うみうそ  川獺海獺山獺

       之三種有之

海獺

    【卽是此云海鹿也

     重出于後】

[やぶちゃん注:良安は「獺」の(つくり)を総て「頼」とするが、総て正字で表記した。]

 

本綱海獺生海中似獺而大如犬脚下有皮如胼拇毛着

水不濡頭如馬自腰以下似蝙蝠其毛似獺大者五六十

斤肉可烹食又有海牛海馬海驢等皮毛在陸地皆候風

潮猶能毛起

△按海獺處處有海中狀獸與魚相半者其大者六七尺

 頭靣至肩類牝鹿而耳小眼大有利齒背身毛細密而

 短微赤土器色美兩䰇末黒似手是以下腹大肥尻

 窄有尾長二寸許似龜尾而黒夾尾有䰇黒色縱有五

 㽟近耑前一寸許處有黒刺爪欲立行則開擴之以爲

 足出肩以上於水靣則似獸也欲潜游則窄伸之如魚

 尾然

山獺

 一名挿翹出廣州其性淫毒山中有此物凡牝

 獸皆避去其陰莖以爲補助要藥然不載形狀

[やぶちゃん注:「山獺」の前には通常附録項の場合に必ず附帯する縦罫がなく、「海獺」本文から直に繋がっている。また、以上の二行は底本では「山獺」の大項目の下に一字下げ二行で記されてある。]

 

 

うみうそ  川獺(かはうそ)・海獺・

       山獺の三種、之れ、有り。

海獺

    【卽ち、是れ、此〔(か)く〕

     云ふ、「海鹿〔(あしか)〕」なり。

     重ねて後に出づ。】

[やぶちゃん注:「海鹿」は次項で「あしか」とルビする。ここの割注も無論、良安の注意喚起のそれで、次の「海鹿」では、その冒頭で良安は、『海鹿卽海獺也(海鹿(あしか)は、卽ち、海獺(うみうそ)なり』として、本種と同一であると断じているのである。]

 

「本綱」、海獺、海中に生ず。獺に似て、大いさ、犬のごとし。脚の下に、皮、有り、胼拇〔(べんぼ)〕[やぶちゃん注:胼胝(たこ)のような親指のようなものの謂い。]のごとし。毛、水に着きて〔も〕濡(ぬ)れず。頭は馬のごとく、腰より以下は蝙蝠(かはもり)に似たり。其の毛、獺に似る。大なる者、五、六十斤[やぶちゃん注:明代の一斤は五百九十六・八二グラムであるから、三十キログラム弱から三十六キログラム弱。]。肉、烹て食ふべし。又、海牛・海馬・海驢等、有り。皮毛、陸地に在りて、皆、風潮〔(ふうてう)〕を候〔(うかが)〕ふ。猶ほ、能く、毛、起つがごとし。

△按ずるに、海獺、處處、海中に有り。狀、獸と魚と相ひ半ばする者〔なり〕。其の大なる者、六、七尺。頭・靣〔より〕肩に至〔つては〕牝鹿(めじか)に類して、耳、小さく、眼、大きく、利〔(と)き〕齒、有り。背身の毛、細密にして短くして微赤、土器(かはらけ)色にして美(うつく)し。兩の䰇(ひれ)[やぶちゃん注:「鬐」「鰭」の異体字。]の末、黒く、手に似る。是れより以下、腹、大きに肥え、尻、窄(すぼ)く、尾、有り〔て〕長さ二寸許り、龜の尾に似て黒し。尾を夾(はさ)んで、䰇、有り、黒色。縱(たて)に五つの㽟うね)有り、〔その〕耑(はし)[やぶちゃん注:端。]に近く、前一寸許りの處〔に〕黒〔き〕刺爪〔(きよくさう)〕有り。立行せんと欲すれば、則ち、之れを開(ひら)き、擴(ひろ)げて、以つて足と爲す。肩以上を水靣に出だす〔によつて〕、則ち、獸に似たり。潜游せんと欲すれば、則ち、之れを窄〔(すぼ)く〕伸ばして、魚の尾のごとく〔して〕然り。

山獺(やまうそ)

一名、「挿翹〔(さうぎやう)〕」。廣州[やぶちゃん注:広東・広西地方。]に出づ。其の性、淫毒なり。山中に此の物有れば、凡そ、牝〔(めす)の〕獸、皆、避け去る。其の陰莖、以つて補助の要藥と爲〔(な)〕す。然れども、形狀を載せず。

[やぶちゃん注:食肉目イヌ亜目鰭脚下目アシカ科アシカ亜科 Otariinae のアシカ類。漢字では現行「海驢」「葦鹿」等と表記するが、ここ以降、海棲哺乳類に入ると、呼称や良安の比定同定にもブレが生ずる。しかしこれは今でも同じなのであり、以下に引くウィキの「アシカ」の冒頭からして既に、上記の分類群をアシカ類と示しながらも、但し、『現状』、「アシカ」と呼ぶ生物対象(群)『の範囲は文脈により』、『揺らぎがある。最も広義にはアシカ科』科 Otariidae『の総称であるが、アシカ科、アシカ科には一般的にオットセイ』(オットセイ亜科 Arctocephalinae)・『トド』(アシカ科トド属トド Eumetopias jubatus)・『オタリア』(アシカ亜科オタリア属オタリア Otaria flavescens)『も含まれ、これ等(特にオットセイ)を別扱いとする場合もある。さらに狭義の意味で、アシカ属』一『属を意味することもある』とあるからである。以下、「定義」の項。『アシカの定義には揺らぎがあり、狭義』のそれ『から順に』、『次のようになる』。

 『歴史的な資料(たとえば』「日本後紀」や本「和漢三才図会」)『においてアシカ(あしか、海驢、葦鹿)に言及している場合』、それは、ほぼ例外なく、既に日本人が絶滅させてしまったと考えられるアシカ科アシカ属ニホンアシカ Zalophus japonicusであり、『これがこの言葉の原義ということになる』。

 次のレベルでは、『アシカ科アシカ属の総称』で、これには絶滅種である『ニホンアシカ』、及び北アメリカ大陸西岸を生息域とする『カリフォルニアアシカ』(アシカ属カリフォルニアアシカ Zalophus californianus)と、ガラパゴス諸島の固有種である『ガラパゴスアシカ』(Zalophus wollebaeki)の三『種が属する。なお、アシカ属に』一『種か』二『種しか認めない説もあり、それらの説に則る場合は「アシカとはアシカ科の』一『種のことである」や「アシカとはニホンアシカとカリフォルニアアシカの』二『種の総称である」(カリフォルニアアシカにガラパゴスアシカを含んでいる)と表現されることもあるが、意味するところは同じである』。

 その次のレベルが、非生物学的な、『和名に「〜アシカ」と付く種の総称』で、『アシカ属に加え、オーストラリアアシカ』(アシカ亜科Neophoca属オーストラリアアシカNeophoca cinerea)『とニュージーランドアシカ』(アシカ科ニュージーランドアシカ属ニュージーランドアシカ Phocarctos hookeri)『を含む。ただし』、これは『分類学的なグループでも』、『系統学的なグループでもない』。

 さらに汎称とされるのが、『アシカ科アシカ亜科の総称』に加えて、『オタリアとトドを含』めてしまうものである。日本人には違和感がある群だが、『英語の「シーライオン sea lion」はほぼこの意味である。ただし、アシカ亜科は単系統ではなく』、『系統学的には否定されたグループであり』、これらは『「長い体毛を持たない」以外に顕著な共通点はない』、古典的博物学的呼称と言える。

 その上のタクソンで『アシカ科の総称』となると、『さらにオットセイ』が含まれることになる。

なお、『セイウチ』(鰭脚下目セイウチ科セイウチ属セイウチ Odobenus rosmarus)『やアザラシ』(鰭脚下目アザラシ科 Phocidae)『はアシカ科にも含まれず』、『別科である。そのため、「アシカとアザラシの違い」について語られるとき、アシカとはアシカ科のことである。いっぽう、「アシカとオットセイの違い」について語られるときは、アシカとはアシカ亜科か、(アシカ亜科とオットセイ亜科の違いとして語れることはほとんどないので)もっと狭くアシカ属のことである』とある。ともかくも、良安の言っている「あしか」とは、『北海道を除く』、『日本本土近海に生息するアシカ類は、絶滅したと見られるニホンアシカのみであり、この語も本来はニホンアシカを指したものである』以上、ニホンアシカ Zalophus japonicusを限定的に指すと考えねばならない。『「あしか」の語源は「葦鹿」で「葦(アシ)の生えているところにいるシカ」の意味であるという。古くは「海(あま)鹿」説もあったが、アクセントから否定されている』。『奈良時代には「みち」と呼ばれていた。他に異名として「うみおそ(うみうそ)」「うみかぶろ」がある。うみおそは海にいるカワウソ、うみかぶろは海にいる禿の意である』。『佐渡島ではこの「うみかぶろ」(海禿)の名で妖怪視されており、両津港近辺の海でよく人を騙したという伝承がある』とある。但し、良安の引用する「本草綱目」の場合は事態が変わってくる。それは、記載内容から、まず明らかに複数の海棲哺乳類を一緒くたにして語り、しかもそれらを一種、彼ら本草学者の悪癖である〈ためにする分類〉によって、恣意的にして致命的に再分類し、別な漢名を与えてしまっているからである。私はそこまで踏み込む気持ちは全く、ない。それは中国の博物史家がやるべき仕事であるからである。

「川獺(かはうそ)」既出既注

「山獺」これは川・海とに「獺」(邦語なら「をそ」「おそ」)が居るのだから、山にも居なくてはならないという、何が何でも分類して対応させねば気が済まない中国古来の五行思想の悪しき部分が生んだ幻獣としか思えない。なお、Q&Aサイトの回答に、朝鮮語にはテン(朝鮮半島に棲息しているとならば、食肉目イヌ亜目イタチ科イタチ亜科テン属テン亜種コウライテン Martes melampus coreensis か)の類又はタヌキ(イヌ亜目イヌ科タヌキ属タヌキ Nyctereutes procyonoides)を指す漢風の名称に、「山獺(サンダル)」という単語があるとあった。

「海牛」哺乳綱アフリカ獣上目海牛(ジュゴン)目Sirenia のジュゴン科 Dugongidae・マナティー科 Trichechidae の属するカイギュウ類。特にヒトが滅ぼしてしまった巨大海棲哺乳類であったジュゴン科†ステラーカイギュウ亜科ステラーカイギュウ属ステラーカイギュウ Hydrodamalis gigas を挙げずにはいられない。繰り返すのはやめるが、例えば「獸類 犛牛(らいぎう)(ヤク)」の私の注の「海牛」の部分を読まれたい。

「海馬」タツノオトシゴの異名は問題外として、これは「セイウチ」・「トド」・「アシカ科のアシカ類(上記の通り、オットセイ・トド等を含み、アザラシやセイウチ等を含まない)」・上記の二番目の「アシカ」類・最も狭義の「ニホンアシカ」の異名であったし、ジュゴンを誤ってかく呼称した事例もある。

「海驢」調べて見たが、前の「海馬」とほぼ同じで差別化する気にならなかった。

「皮毛、陸地に在りて、皆、風潮〔(ふうてう)〕を候〔(うかが)〕ふ。猶ほ、能く、毛、起つがごとし」東洋文庫訳では、『皮毛は陸地にあってはいずれも風潮をうかがって』、『よく毛が起(た)つ』とある。「風潮」は風と潮(しお)、或いは、風によって起こる潮の流れを指す。海の生き物だったから、共感呪術で陸にあってもそれを感じてそうした動きを成すという五行思想的謂いか。

「其の陰莖、以つて補助の要藥と爲〔(な)〕す」先のQ&Aサイトの答えに、陰茎や『骨水獺を薬にするとの』ことだが、『日本野生生物研究センターの江戸時代の産物帳から過去の動物の分布を研究した資料には山獺は出てい』ないともあった。実在生物種も比定し得ず、その陰茎の生薬ときた日にゃ、流石に調べる気にもならん。因みに、薬になる陰茎とすると、陰茎骨である可能性が高いように思われるのだが(まあ、海綿体組織でも生薬にはなろうが)、ウィキの「陰茎骨」によれば、『陰茎骨(いんけいこつ)とは哺乳類の陰茎の亀頭内部に存在する骨である。バキュラム(baculum)とも呼ぶ』。『陰茎骨を持つのはサル目』(=霊長目 Primates)『(ヒト』(霊長目直鼻猿亜目狭鼻下目ヒト上科ヒト科ヒト亜科ヒト族ヒト亜族ヒト属ヒト Homo sapiens)・『クモザル属』(直鼻猿亜目真猿下目広鼻小目クモザル科クモザル属 Ateles)・『ウーリーモンキー属』(クモザル科クモザル亜科ウーリーモンキー属 Lagothrix)・『メガネザル属』(直鼻猿亜目メガネザル下目メガネザル科メガネザル属 Tarsius)『などを除く)、ネコ目』(=食肉目 Carnivora)『(ジャコウネコ科』(ネコ型亜目ジャコウネコ科 Viverridae)『の一部やハイエナ科』(ネコ亜目ハイエナ科 Hyaenidae)『を除く)、コウモリ目』(翼手(コウモリ)目 Chiroptera)『(一部の種を除く)、ネズミ目』(真主齧上目グリレス大目 Glires 齧歯(ネズミ)目 Rodentia)・『モグラ目』(=食虫目 Insectivora)『などで』、陰茎骨を持たない哺乳類は、『有袋類』(=有袋上目 Marsupialia)『単孔類』(=原獣亜綱カモノハシ目 Monotremata)・『ウサギ目』(Lagomorpha)『(アメリカナキウサギ』(ナキウサギ科ナキウサギ属 Pika 亜属アメリカナキウサギ Ochotona princeps)『にはある』『)、サル目の一部』(上記を見よ)『ネコ目の一部』、『コウモリ目の一部、鯨偶蹄目(クジラウシ目)』(鯨偶蹄目 Cetartiodactyla)・『ウマ目』(Perissodactyla)・『ゾウ目』(=長鼻目 Proboscidea)・『ジュゴン目』(=海牛目 Sirenia)『などは陰茎骨を持たない』とあり、『陰茎骨は亀頭内の尿道の上付近にあり、他の骨と連結しておらず』、『孤立している。陰茎骨の形やサイズは分類群によって様々である』。『役割はまだはっきり分かっていないが、交尾時に機能すると考えられる。例えば、挿入時は未勃起で挿入後に海綿体が膨張するイヌ科では、陰茎骨があることで非勃起状態での挿入が容易になる。サル目やネコ目(食肉目)では交尾の時間が長い種は陰茎骨が長い傾向がある』、『高緯度に生息する種ほど』、『陰茎骨が長い傾向がある』。『ゴリラ』(ヒト科ゴリラ属 Gorilla)が一センチ二ミリのごく短い『陰茎骨しか持たないことに示されるように、必ずしも体躯の大きな種が長大な陰茎骨を持つとは限らない。また、陰茎における陰茎骨の割合や海綿体の大きさや陰茎の膨張率は分類群によって様々であるので、陰茎骨の長さと陰茎の長さは異なる』。『コウモリ類などでは』、『しばしば酷似する近似種間で陰茎骨の形態が著しく異なるため、形態分類学で重要視されている』とあった。まあ、この薬方も類感呪術的で、まがまがしいから私の探究心はここまでである。では。]

老年 伊良子清白

 

老 年

 

景色がよいので

生業(なりはひ)が出來ぬ

來る波は一つ一つ誘惑し

鷗は女の顏の白さで會釋する

 

景色がよいので

生業が出來ぬ

海を見れば恍惚(うつとり)する

ぼんやりしてゐる間に

他人(ひと)はどんどん追ひ越してしまふ

 

景色がよいので

生業が出來ぬ

日のほこり月のあくた

景色がつもつて

雅致(がち)ある老人に成つた

 

[やぶちゃん注:「船は進む」の私の冒頭注を必ず参照されたい。本篇を以って昭和四(一九二九)年新潮社刊「現代詩人全集 第四巻 伊良子清白集」の大パート「南風の海」は終わっている。「生業(なりはひ)が出來ぬ」というのはその「雅致(がち)ある老人に成つた」人物であるが、漁師か? 因みに、新潮社のそれが刊行された当時でも伊良子清白は五十二歳であり、「老人」と自己表現する年とは私には思われないし、ここで清白自身を主人公に設定してしまうと、医業の「生業が出來ぬ」の意味の採り方が何とも難しくなってしまう。但し、その老人の生きざまに自身の理想像を投影してはいると私は読む。]

凍死の漁夫 伊良子清白

 

凍死の漁夫

 

雪が降つて來た四方から

靑い蝶が羽搏く

淦(あか)の上につもる金銀

水(か)ん子の魚は沈んで動かぬ

 

兄弟(きやうだい)釣りはやめようじやないか

夜明けは近い

東の方の紫は

遠い茜紅(あかね)であるかも知れぬ

 

風も波もないが

しんしんたる寒さではある

燈明臺は凍てたのか燻(くす)ぶつてゐる

暗い海は一面の雪だ

 

船の船首(みよし)に誰か立つてゐる

雪の夜の雪女郞が

目の前にあらはれた

兄弟(きやうだい)おいらは死なねばならぬ

 

甘い睡りの寒さが來た

ふりしきる雪が船をうづめぬ前に

兄弟二人は帆綱で

からだを縛(しば)つておかう

 

ひき潮時の海は今

沖の方に渦を卷いてゐる

日の出の島においらは

死んで着くであらう

 

註 大正十五年一月十五日未明、二人の漁夫年若うして伊勢灣外石鏡沖に凍死す、そを悼みてこの詩をつくる。

 

[やぶちゃん注:「船は進む」の私の冒頭注を必ず参照されたい。最後の注は、全体が底本では詩篇本文の一字下げポイント落ちで、二行に亙っており、二行目は「註」の字の位置の一字下から始まっている。ブログ・ブラウザでの不具合を考えて上記のように配した。「大正十五年」一九二六年。日付まで示された伊良子清白にして特異点の海難事故死した若き漁師二人に対する追悼詩であるが、調べて見たが、残念ながら、当時の天候や事故記事は見出せなかった。医師であったから、或いは伊良子清白は彼らの遺体を検死したものかも知れないなどと私は考えた。なお、その検索の途中、「リクルート」(グループ)公式サイト内の観光サイトの「漂泊の詩人伊良子清白の家」を発見した。移築であるが、伊良子清白の診療所兼住居であった建物だそうである。JR鳥羽駅のすぐ近くにあり、見学無料とあって、投稿者による多くの写真が見られる。今度行ったら、是非、見たい。

「石鏡」「いじか」と読む。現在の三重県鳥羽市石鏡町(グーグル・マップ・データ)。因みに、「船は進む」の私の冒頭注でも述べたが、この石鏡は私は行ったことがないのに、よく知っている場所なのだ。それは私の偏愛する昭和二九(一九五四)年の「ゴジラ」(私はサイトで「やぶちゃんのトンデモ授業案:メタファーとしてのゴジラ 藪野直史」を公開している程度には同作に対してフリークである。なお、この「メタファーとしてのゴジラ」は現役の宗教民俗学者の論文(橋本章彦氏「露呈するエゴイズム ――『ゴジラ』(一九五四)を考える」)にも引用された)の「大戸島」のロケ地だからなのである。

「淦(あか)」「浛」「垢」とも書く。船の外板の合せ目などから浸み込んできて船底に溜まる水。また、荒天で船体に「あか」の道が出来て浸入してくる水や、打ち込む波で溜まった水をも称す。「あか水」「ふなゆ」「ゆ」とも言う。梵語の「閼伽(あか)」(仏前に供える水)が語源とも言われ、中世には生まれていた。小学館「日本国語大辞典」に拠った)。

「水(か)ん子」平凡社「世界大百科事典」の「かんこ船」を見ると、『北陸・山陰海岸に多い小型漁船。瀬戸内や九州の北西部にも少しは見られた。多くは』矧(はぎ)板(板の側面を接合させて作った幅の広い板)の五『枚仕立てで,長さ』七~八メートル、『肩幅』一・二メートル『程度の』小舟で『手漕ぎで』、『帆はもたない。〈かんこ〉の語義は明らかでない』が、『西日本の太平洋岸には漁船の〈いけま〉の部分を〈かんこ〉といっているところがあ』る、とあった。この「いけま」とは「活間」で、船の中に設えた「生簀(いけす)」のことを指すから、さすれば、ここはその「いけま」を「かんこ」と呼んでいることが判り、映像もはっきりと見えてきた。]

小さい風景 伊良子清白

 

小さい風景

 

帆を張つて春風の筋を――

片手で櫓を握り

片手で一本釣をあやしてゐる

皺くちやの手の側(はた)を通る

「おい、何が釣れるかい」

「赤遍羅(あかべら)さ」

「またいものをつるな」

蔑(さげす)むのか慰むのか

船頭の聲も風景に成つて了ふ

だまつて顏をあげた老漁夫――

無數の浪が

べちやくちやべちやくちや

春の海は

じつに賑やかい

 

[やぶちゃん注:「船は進む」の私の冒頭注を必ず参照されたい。

「赤遍羅(あかべら)」条鰭綱棘鰭上目スズキ目ベラ亜目ベラ科カンムリベラ亜科キュウセン(求仙)属キュウセン Parajulis poecilopterus の異名。若い頃、父とよく鱚釣りに行ったが、キュウセンは外道としてしょっちゅう掛かってきて、嫌われた者ではあった。関東ではまず食用にしないが(華やかな多色混じりの体色が却って気持ちが悪いと嫌われるのかも知れない)、関西では好まれて高値で取引されており、個人的にも私は美味いと感じる。

「またいものをつるな」検索を掛けると、四日市市西部で「無難だ」という意味で「またい」を使うとあった。小学館「日本国語大辞典」の「またい」(全い)を引くと、意味の中に「馬鹿げているさま・愚鈍であるさま」とあり、方言欄を見ると、尾張・三重県尾鷲で「確実である」とあり(これは前の「無難だ」と強く親和する表現と言える)、三重県松阪で「人の好い」、三重県名賀郡で「きびきびしない・気が弱い・おとなしく愚鈍である」等とある。キュウセンは磯の根つきの個体群も多く、海岸端の普通の釣りでもかなり容易に釣ることが出来る。さすれば、船頭が茶化して「こりゃまた、無難な(阿呆くさい)雑魚を釣ってるんだな」と揶揄した感じを含むとすれば、腑に落ちる。]

暴風雨の日に 伊良子清白

 

暴風雨の日に

 

暴風雨が村落を襲ふ

一本の草一粒の砂をも殘さず

もろもろのいとなみを無(な)みして

押し流しふみにじる

 

山嶽を海洋を平野を

鏽銹(さび)を沈澱(おどみ)を染斑(しみ)を

吹き上げ吹き下ろし

洗ひ轉(まろ)ろがし淸めつくす

 

白晝を黑夜(こくや)に變じ

人間を自然に奪還する

暴風雨の叫喚に

淸亮(せいりやう)な角笛(かく)の響がある

 

溷濁(こんだく)の騷擾の破滅の

殺戮の間に

一道(だう)の金氣(きんき)立ち昇り

萬物蘇生の額(ぬか)を現はす

 

はてしもない空洞(うつろ)を

風雨は吹き荒(すさ)ぶ

明日(あす)の日の太陽は

香(かん)ばしく輝くであらう

 

[やぶちゃん注:「船は進む」の私の冒頭注を必ず参照されたい。

「金氣(きんき)」五行の「金」は冷徹・堅固・確実な性質を表わし、何よりここはロケーションの時制である「秋」が「金」に配されていること、それが収獲・豊饒・再生を象徴させるように表現されているものと私は読む。]

祈 伊良子清白

 

 

塵のみ積る

 冬の巷(ちまた)に

ただ一筋の

 小川流れて

晝夜(ひるよる)絕えず

 祈るなり

 いのるなり

 

[やぶちゃん注:創作時期推定については、「船は進む」の私の冒頭注を参照されたい。

乞食 伊良子清白

 

乞 食

 

垢(あか)の佛よ乞食(こつじき)は

よにひもじさは堪へがたし

ただ一すぢに食を乞ふ

まことなるこそ佛なれ

 

[やぶちゃん注:創作時期推定については、「船は進む」の私の冒頭注を参照されたい。

雨後 伊良子清白

 

雨 後

 

午前二時――

雨の上がつたあとの木々の滴り

どこかで御詠歌の鉦(かね)の音

また餘勢をのこす波のひびき

そして海から海へ

劈(つんざ)くが如き海鳥の叫號

一つ一つ星があらはれて

離々たる雲の姿

うしろの山には

晴天の風が起つてゐる

 

[やぶちゃん注:「船は進む」の私の冒頭注を必ず参照されたい。

「御詠歌」霊場巡りの巡礼や浄土宗の信者などが、鈴を振りながら、哀調を帯びた節回しで声を引いて歌う、仏の徳などを讃えた歌。「詠歌」は、もともとは単に「歌を詠むこと」「和歌を声に出して歌うこと・作ること」を意味するが、それが限定された「御詠歌」となる背景には、特に中世に於ける仏教と和歌との密接な関係があると見られ、その発生は室町以後と推定されている。伝承上では西国三十三番札所に残る三十五の御詠歌の源を花山院に求めるが、これは疑わしい(小学館「日本国語大辞典」に拠った)。]

晚凉 伊良子清白

 

晚 凉

 

夕暮の、滿潮の

渦卷がはじまつた

山をも浸(ひた)す

さし汐の勢ひは

漁村の壯觀だ

 

ところどころ鰡(ぼら)が飛んで

峽灣は靜かに暮れる

兩岸の木立が

くつきりとあらはれて

水が明るい

 

[やぶちゃん注:「船は進む」の私の冒頭注を必ず参照されたい。

「鰡(ぼら)」条鰭綱ボラ目ボラ科ボラ属ボラ Mugil cephalus。ボラはよく海面上に跳ね上がり、時に体長の二~三倍もの高さまで跳躍する。私も海釣りでしばしば体験した(因みに、恐らく私が釣り上げた魚では、高校時代に父と行った新湊港の岸辺で釣った三十センチメートル超のボラが最大であった。あの時の強烈な引きは今も忘れ難い。釣り上げる間に釣り人が何人も寄って来たが、魚を見て「なんじゃい、ボラか」と皆、去って行ったのだが、何となくボラが可哀想な気がしたのも忘れられない。因みに彼は、亡き母が味噌煮込みにしてくれ、美味しく戴いた)この現象については、周囲の物の動きや音に驚いてするという説、或いは、水中の酸素が欠乏しているため、はたまた、その運動衝撃を以って体表に付着した寄生虫を落とすなどという諸説があるが、未だ解明には至っていない(一部でウィキの「ボラ」を参照した)。]

帆が通る 伊良子清白

 

帆が通る

 

浦をすれすれに

明るい帆が通る

(大きな白い花びらの漂着)

面梶(おもかぢ)!

船長の若々しい雄叫(をたけ)び

ぎい、ごとん! 梶の軋(きし)み

帆がくるりとまはつて

船は巧みに暗礁(しま)をかはした

急湍(はやせ)の外のどよみ

甲板で働く水夫の姿は

舞臺の上の俳優の科(しぐさ)を見るやう

順風!

滿潮!

びゆんびゆん帆綱が鳴る

船首(みよし)は潮を截(き)つて急流を作る

船は山に向つてぐんぐん迫つて來る

海深(かいしん)を測る鉛錘の光りが

振り子のやうに水面を叩く

鷗が輪を描(か)きわをかき

灰色の腹を見せ見せ

ぎあぎあ啼き乍ら

船に尾(つ)いて行く

取梶!

帆がばたつく

ぎい!

物の響は靜かだ

船は山を離れて、沖へ

かもめは空しい海を

低う掬(すく)つて飛ぶ

 

[やぶちゃん注:「船は進む」の私の冒頭注を必ず参照されたい。

「暗礁(しま)」「しま」は「暗礁」二字へのルビ。

「海深(かいしん)を測る鉛錘の光りが」「海深(かいしん)」のそれから、この「鉛錘」はもう、「おもり」ではなく、「えんすい」と音読みしたい。]

船は進む 伊良子清白

 

船は進む

 

山と積まれた蛸壺殼(つぼがら)で

松の幹はかくれてゐる

胸をはだけた此庭の眺望(みはらし)は

午前の太陽が香ばしい

沖のうねりの强い朝だ

近い颱風を豫感させる日だ

銀綠の島々は

もう睡たさうな徽暈を帶びてゐる

 

見よ、生活が

傳統から力づけられ

戀愛から彩られ

信仰から燃やされて

大洋のただ中に

何の不安もなく

人達は突き進む

 

[やぶちゃん注:ロケーションを知りたいが、「蛸壺殻」と「島々」と、伊良子清白の居住歴を見るに、三重県の鳥羽の景である可能性が高いように思われる。「鳥羽市観光課」の公式サイト内のこちらによれば、『かってはタコガメ漁だけで生活ができると言われるほど、タコ漁業が盛んであった。鮹漁は、年間を通じて行われるが、最盛期は麦が穂を見せはじめる頃から夏にかけての「ノボリダコ」と、秋から冬にかけての「オチダコ」と呼ばれる時期の』二『回である。タコガメは、常滑の素焼きのカメが使用されてきたが、近年ではプラスチックのものになってきている。島内で捕れたタコを、島の女性達が加工した「潮騒タコ」は隠れた島の特産品として人気が高い』とある。してみると、この口語詩は一つ、彼が当時の三重県志摩郡鳥羽町大字小浜に転居して村医(翌年には小浜小学校校医にもなっている)として診療所に住んだ大正一一(一九二二)年九月十二日から、本篇が所収される新潮社の「現代詩人全集 第四巻 伊良子清白集」の刊行された昭和四(一九二九)年十一月までの閉区間の約七年間の秋が有力な創作時期となるようには思われる。以下、本集の大パート「南風の海」の最終篇「老年」までの海をロケーションとする総てが(二篇そうでないものがあるが、それが中に挟まっているのはやはり同時期の作と採ってよいように思われる)、その時期のそのロケーションであると、私は確信している。それは、後に出る詩篇「凍死の漁夫」の後註に『大正十五年一月十五日未明、二人の漁夫年若うして伊勢灣外石鏡沖に凍死す、そを悼みてこの詩をつくる』と伊良子清白が記していることが、大きな証左となろう。「石鏡」はこれで「いじか」と読み、これは現在の三重県鳥羽市石鏡(いじか)町を指すここ。グーグル・マップ・データ)からである。因みに、この石鏡は私は行ったことがないのに、よく知っている場所なのだ。かの偏愛する昭和二九(一九五四)年の「ゴジラ」の「大戸島」のロケ地だからなのである。

「蛸壺殼(つぼがら)」「つぼがら」は「蛸壺殼」三字へのルビなので注意されたい。

「微暈」見慣れぬ熟語であるが、「びうん」と音読みしておく。微かに暈が(かさ)がかかったようにぼんやりして見えることではあろう。]

太平百物語卷二 十三 或禪僧愛宕山にて天狗問答の事




Atagoyamanotengu


   ○十三 或禪僧愛宕山(あたごさん)にて天狗問答の事

 或禪僧の【故ありて其名を顯はさず。】、道德、目出度かりしが、一年(ひとゝせ)、愛宕山にまふで玉ひて、薄暮(はくぼ/くれかた)の比(ころ)、下山し給ひしに、峠の半(なかば)にて、道にふみ迷ひ給ひ、あらぬ方(かた)に深(ふか)入し給ひけるが、其あたり、奇麗に洒掃(さいさう/さうじ)して、麥藁(むぎわら)を敷置(しきおき)たり。

 此僧、おぼしけるは、

『げに。此所は、人跡たへて、住む人あるべくも見へざるに、かゝる有りさまこそ、不思議なれ。いか樣、聞(きゝ)およぶ、天狗の住(すみ)所にや。』

と、上の方をあふぎ見玉へば、其たけ、一丈斗(ばかり)に、橫のわたり二丈斗もあらんとおもふ大石(たいせき)の有りしが、偏(ひとへ)に石工(せきかう)の刻みなしたる如く、いと美(うつ)くしかりしかば、

「いざや、登りて見ん。」

と攀(よぢ)のぼり玉へば、上の方は甚だ平(たいらか[やぶちゃん注:ママ。])にして、板敷(いたじき)のごとくなりしほどに、

「幸(さいわい[やぶちゃん注:ママ。])の事哉。今宵は通夜(よもすがら)、此所に坐禪して、明けなば、下山せんものを。」

と、石上(せきしやう)に座具を敷(しき)、おこなひすまして居玉ひける。

 しばらくあつて、冷風(りやうふう)、

「さつ。」

と、ふききたり、此僧の頭上を、大勢、かけありく音して、いふやう、

「いかに、御坊(おんぼう)、何とて、わが住(すむ)所に來たりて安坐するや。歸へれ、歸へれ。」

と大音聲(だいおんじやう)にのゝしりけれ共、此僧は、見上げもやらず、兩眼(りやうがん)を閉(とぢ)て、心靜(こゝろしづか)に「陀羅尼(だらに)」を唱へておはしければ、又、

「どつ。」

と、わらひて、いふ樣、

「此坊主は、何をつぶやくぞ。今少(すこし)、聲を上(あげ)て、いへ。われら、汝がいふ所の經文、能(よく)、しれり。讀(よみ)てきかせん。」

とぞ、どよめきける。

 其時、此僧、眼(まなこ)をひらき、答(こたへ)て申さく、

「我慢增上(がまんぞうじやう)の汝等が、何とて、わが正法(しやうぼう)成(なる)經文を誦せんや。されども、望(のぞみ)によつて、讀み上(あぐ)るなり。一句にても口眞似(くちまね)をせば、われ、汝等が爲に、命(いのち)を失ふべし。」

とおほせければ、しきりに、

「よめ、よめ。」

といふほどに、其時、御僧、「光明眞言(くはうみやうしんごん)」を十遍斗、

「さらさら。」

と讀み上げ玉ひしが、天狗ども、これを一句もよむ事あたはずして、

「どつ。」

と、わらふて、退散しけり。

 御僧、うちわらひ玉ひて、又、默然と座禪しゐ玉ひけるが、夜も程なく明ぬれば、道を求めて、元(もと)きし方(かた)に出玉ひ、下山したまひける。

 さしも、飛行自在(ひぎやうじざい)の魔性(ましやう)なれども、道德つよき名僧には、敵對する事、叶はずとかや。

 西國(さいこく)渡海の舩中(せんちう)にて、坂田氏(さかたうじ)の何某(なにがし)、かたりし儘(まゝ)、爰(こゝ)に記(しる)し侍る。

[やぶちゃん注:【 】は底本では二行割注。挿絵の左手上方の迦楼羅(かるら)っぽいそれは天狗の眷属である烏天狗。ウィキの「烏天狗」によれば、『大天狗と同じく山伏装束で、烏のような嘴をした顔をしており、自在に飛翔することが可能だとされる伝説上の生物。小天狗、青天狗とも呼ばれる。烏と名前がついているが、猛禽類と似た羽毛に覆われているものが多い』。『剣術に秀で、鞍馬山の烏天狗は幼少の牛若丸に剣を教えたともいわれている。また、神通力にも秀で、昔は都まで降りてきて猛威を振るったともされる。中世以降の日本では、天狗といえば猛禽類の姿の天狗のことを指し、鼻の高い天狗は、近代に入ってから主流となったものである』。『和歌山県御坊市では、烏天狗のものとされるミイラが厨子に入れられて保存されている。江戸時代から明治時代にかけ、修験者たちがこれを担ぎ、利益を説きながら諸国を回ったといわれる』。二〇〇七年に『保存事業の一環として行われた調査の際、トンビとみられる鳥の骨と粘土で作られた人造物であることが判明している』。『もっとも、天狗のミイラに関しては科学鑑定がなされる以前にも懐疑的な意見があり、平賀源内の「天狗髑髏鑑定縁起」では』、『そもそも不老不死とされる天狗の骨がなぜあるのだ』、『という意見を問う者もあったということが記されている』。『天狗は、一説には仏法を守護する八部衆の一、迦楼羅天が変化したものともいわれる。カルラはインド神話に出てくる巨鳥で、金色の翼を持ち頭に如意宝珠を頂き、つねに火焔を吐き、龍を常食としているとされる。 奈良の興福寺の八部衆像では、迦楼羅天には翼が無いが』、『しかし、京都の三十三間堂の二十八部衆の迦楼羅天は一般的な烏天狗のイメージそのものである』とある。ウィキには「天狗」や、天狗の大元締めとも言える「大天狗」も別ページとしてあるので参照されたい。

「愛宕山」は数あれど、まずは全国に約九百社余りある愛宕神社の総本社で、現在の京都府京都市右京区嵯峨愛宕町(ちょう)にある愛宕神社のある愛宕山(グーグル・マップ・データ。当時の山城国と丹波の国境に位置し、標高は九百二十四メートル)ととるべきであろう。神仏習合期に於いては、ここは修験道の道場として信仰を集め、既に九世紀には霊山とされており、「奥の院」(現在の若宮)には愛宕山の天狗の太郎坊が祀られていた。

「一丈」は三・〇三メートル。

「陀羅尼(だらに)」本来は、「よく総ての物事を摂取して保持し、忘失させない念慧(ねんえ)の力」を指す、サンスクリット語「ダーラニー」の漢音写。「保持すること」「保持するもの」の意とされる。元来は一種の記憶術を指し、一つの事柄を記憶することによって、あらゆる事柄を連想して忘れぬようにすることを言う。謂わば、その最初の代表されるキー・ワードとも言えようか。通常、長句のものを「陀羅尼」、数句からなる短いものを「真言」、一字二字などのものを「種子(しゅじ)」と称する場合が多い。「大智度論」巻五には、「聞持(もんじ)陀羅尼」(耳に聞いたこと総てを忘れない)・「分別知(ふんべつち)陀羅尼」(あらゆるものを正しく分別する)・「入音声(にゅうおんじょう)陀羅尼」(あらゆる音声によっても揺るがない)の三種の陀羅尼を説き、略説すれば、五百陀羅尼門が、広説すれば、無量の陀羅尼門があるとする。また、「瑜伽師地論(ゆがしじろん)」巻四十五には、「法陀羅尼」・「義陀羅尼」・「呪陀羅尼」・「能得菩薩忍陀羅尼」の四種の陀羅尼が挙げられている。諸尊や修法に応じて、陀羅尼が誦持(じゅじ)され、密教では祖師の供養や亡者の冥福を祈るために「尊勝陀羅尼」を誦持するが、その法会を「陀羅尼会」という(以上は主文を小学館「日本大百科全書」に拠った)。

「我慢增上(がまんぞうじやう)」この場合の「我慢」は仏教の煩悩の一つで、「強い自己意識から起こす慢心のこと」を指し、「增上」は「増上慢」(未熟であるのに、仏法の悟りを身につけたと誇ること。転じて今、「自分を過信して思い上がること」の意となった)で、四字一語として強調していると採ってよかろう。

「一句にても口眞似(くちまね)をせば、われ、汝等が爲に、命(いのち)を失ふべし」一句でも正しく応じて唱えることが出来たとならば、拙僧はお前らのために命を亡くして構わぬ。

「光明眞言(くはうみやうしんごん)」真言密教で唱える呪文の一つ。大日如来の真言で、また、一切仏菩薩の総呪でもある。「唵(おん)・阿謨伽(あぼきゃ)・尾盧左曩(べいろしゃのう)・摩訶母捺羅(まかぼだら)・麽尼(まに)・鉢曇摩(はんどま)・忸婆羅(じんばら)・波羅波利多耶(はらばりたや)・吽(うん)」。これを唱えると、一切の罪業が除かれるとされ、また、この真言を以って加持した土砂を死者にかけると、生前の罪障が滅するとされる。詳しくは「不空大灌頂光真言」と言い、略して「光言」とも呼ぶ。平安時代以来、「光明真言法」で唱えられたが、殊に中世、新興仏教の念仏や唱題の易行道に対抗して、旧仏教側が念仏に優るものとして普及に努めた。その結果、この光明真言の信仰が浄土思想と結びついて流布し、中世の石卒塔婆にも刻まれるなど、広く盛行して、土俗化した(ここは小学館「日本国語大辞典」に拠った)。

[語誌]平安時代以来、光明真言法でとなえられたが、殊に中世、新興仏教の念仏や唱題の易行道に対抗して、旧仏教側が念仏に優るものとして普及に努めた。その結果、この光明真言の信仰が浄土思想と結びついて流布し、中世の石卒塔婆にも刻まれるなど広く盛行して、土俗化した。

「坂田氏(さかたうじ)の何某(なにがし)」不詳。聞書きとして変化を加えている。本「太平百物語」の作者、なかなか芸が細かい。]

2019/04/23

和漢三才圖會卷第三十八 獸類 獺(かはうそ) (カワウソ)

Kawauso 

かはうそ 水狗

水獺

     【和名宇曽

      今云川宇

      曾別有海

      曾宇山宇

      曾故以

シユイタ  別之】

[やぶちゃん注:良安は「獺」の(つくり)を総て「頼」とするが、総て正字で表記した。] 

本綱水獺江湖多有之狀似小狐而毛色青黒若故紫帛

似狗膚如伏翼長尾四足俱短頭與身尾皆褊大者身與

尾長三尺餘水居食魚能知水信爲穴鄕人以占潦旱如

鵲巢知風也正月十月獺兩祭魚知報本反始也熊食鹽

死獺飮酒而斃是物之性也今漁舟徃徃馴畜使之捕魚

獱獺 卽獺之大者頸如馬身似蝙蝠或云獱獺無雌以

 猨爲雌故云猨鳴而獺候

獺肉【甘鹹寒】 治疫氣溫病及牛馬時行病女子經脉不通

 大小便秘【但熱症宜冷症不佳】

獺肝【甘溫有毒但肉寒肝溫】 諸畜肝葉皆有定數惟獺肝一月一葉

 十二月十二葉其間又有退葉用之者須驗治虛勞咳

 嗽傳尸病【以肝一具陰乾爲末水服方寸匕日三以瘥爲度】

獺膽【苦寒】 治眼翳黒花飛蠅上下視物不明入㸃藥中也

 又以獺膽塗盃唇使酒稍髙于盞靣

△按獺溪澗池河之淵灣或巖石間爲穴出食魚游水上

 時以砲擊取之性捷勁牙堅故闘犬却喫殺犬或云老

 鰡變成獺故獺胸下亦有肉臼又鮎變成獺但鰡變者

 口圓鮎變者口扁也【人有見其半分變者】鰡則海魚若謂江海獺

 乃鰡之變溪湖獺乃鮎變則可矣乎恐俗說也

獺皮 作褥及履屧産母帶之易産【毛甚柔軟微似獵虎而毛短形小不堪用】 

 

かはうそ 水狗〔(すいく)〕

水獺

     【和名「宇曽〔(うそ)」。今、

      云ふ、「川宇曾」。別に

      「海宇曾」・「山宇曾」有り。

シユイタ  故に以つて之れを別〔(わか)〕つ。】 

「本綱」、水獺、江湖、多く之れ有り。狀、小狐に似て、毛色、青黒。故〔(ふる)〕き紫の帛(きぬ)のごとし。狗〔(いぬ)〕の膚〔(はだへ)〕に似て、伏翼(かはもり)[やぶちゃん注:「蝙蝠(こうもり)」に同じ。]のごとし。長き尾、四足俱に短く、頭と身と尾、皆、褊〔(せま)〕し。大なる者は、身と尾と、長さ三尺餘り。水居して魚を食ふ。能く水信[やぶちゃん注:水の変化の予兆。]を知り、穴を爲〔(つく)〕る。鄕人〔(さとびと)〕、〔それを見て〕以つて潦〔(にはわづみ)〕[やぶちゃん注:大雨。]・旱〔(ひでり)〕を占ふ。鵲〔(かささぎ)〕の巢の風を知るごときなり。正月・十月、獺、兩〔(ふた)〕たび[やぶちゃん注:年に二度の意。]、魚を祭る。知、本〔(ほん)〕を報い、始めに反〔(かへ)〕るを知るなり。熊は鹽を食ひて死し、獺は酒を飮みて斃〔(たふ)〕る。是れ、物の性〔(しやう)〕なり。今、漁舟、徃徃〔にして〕馴(な)れ畜(か)ひて之れをして魚を捕へしむ。

獱獺〔(ひんだつ)〕 卽ち、獺の大なる者。頸、馬のごとく、身、蝙蝠(かはもり)に似たり。或いは云ふ、「獱獺、雌、無く、猨〔(さる)〕[やぶちゃん注:猿。]を以つて雌と爲す。故に云ふ、『猨、鳴きて、獺、候〔(うかが)ふ〕』〔と〕」〔と〕。

獺の肉【甘、鹹。寒。】 疫氣・溫病[やぶちゃん注:発熱性の急性伝染病の総称。]及び牛馬の時行(はやり)病ひ、女子の經脉不通、大小便の秘〔せる〕[やぶちゃん注:便秘。]を治す【但し熱症に〔は〕宜しく〔も〕、冷症〔には〕佳ならず。】。

獺〔の〕肝【甘、溫。毒、有り。但し、肉は寒、肝は溫〔なり〕。】 諸畜の肝葉は、皆、定數、有り。惟だ、獺の肝、一月一葉〔にして〕、十二月には十二葉あり。其の間、又、退葉、有り。之れを用ふる者〔は〕須らく驗(こゝろ)むべし。虛勞[やぶちゃん注:過労による衰弱。]・咳嗽〔(がいさう)〕[やぶちゃん注:咳や痰。]・傳尸病〔(でんしびやう)〕[やぶちゃん注:伝染性である結核性の諸疾患。]を治す【肝一具を以つて陰乾し、末と爲し、水〔にて〕服す。方寸〔の〕匕〔(さじ)〕、日に三たび、瘥〔(い)〕ゆを以つて度と爲す[やぶちゃん注:服用を止める。]。】。

獺の膽(ゐ[やぶちゃん注:ママ。])【苦。寒。】 眼〔の〕翳〔(かす)みて〕黒〔き〕花飛ぶ蠅〔のごときものの〕上り下り、物を視ること明ならざるを、㸃藥の中に入るるべし。又、獺の膽を以つて、盃〔(さかづき)〕の唇(くち)に塗り、酒をして、稍〔(やや)〕盞〔(さかづき)〕の靣より髙からしむ。

△按ずるに、獺、溪澗・池河の淵〔や〕灣、或いは巖石の間〔に〕穴を爲〔(つく)〕り、出でて、魚を食ふ。水上を游(をよ)ぐ[やぶちゃん注:ママ。]時、砲を以つて、之れを擊ち取る。性、捷勁〔(せふけい)〕[やぶちゃん注:動きが敏捷でしかも体力強靭であること。]にして、牙、堅し。故に犬と闘へば、却つて、犬を喫(か)み殺す。或いは云はく、老鰡(しくちぼら)、變じて、獺と成る。故に獺の胸の下に亦、肉〔の〕臼〔(うす)〕、有り。又、鮎(なまづ)變じて、獺と成る。但し、鰡〔(ぼら)〕の變じたる者は、口、圓〔(まろ)〕く、鮎の變じたるは、口、扁(ひらた)しとなり【人、其れ、半分、變じたる者を見たる有り〔と〕。】。鰡は則ち、海魚なり。若〔(も)〕し、江海の獺は乃〔(すなは)〕ち、鰡の變、溪湖の獺は、乃ち、鮎の變、と謂はゞ、則ち、可ならんか。恐らくは〔これ〕俗說なり。

獺(うそ)の皮 褥(しとね)及び履屧〔(くつのしきもの)〕[やぶちゃん注:靴の中の敷き物。]に作る。産母、之れを帶びて、産、易し【毛〔は〕甚だ柔軟にして微〔(かす)かにて〕、獵虎〔(らつこ)〕に似れども、毛、短く、形、小にして、用に堪へず。】。

[やぶちゃん注:「本草綱目」のそれは、食肉目イタチ科カワウソ属ユーラシアカワウソ Lutra lutra、本邦のそれは日本人が滅ぼしたユーラシアカワウソ亜種ニホンカワウソ Lutra lutra nipponウィキの「ニホンカワウソ」を引く。『明治時代までは礼文島、北海道、本州、四国、九州、壱岐島、対馬、五島列島まで日本中の陸地から島々に至るまで広く棲息していたが、乱獲や開発によって棲息数が激減』、昭和三(一九二八)年には、『狩猟の対象外となった。しかしその後も棲息数は減少を続け』、一九三〇年代から昭和二五(一九五〇)年にかけて、『棲息が確認された地域は北海道、青森県東津軽郡油川町、秋田県仙北郡角館町檜木内川、山形県朝日山地、栃木県大田原市箒川および日光市西ノ湖、埼玉県、山梨県中巨摩郡宮本村荒川、長野県、奈良県吉野郡下北山村、和歌山県、兵庫県神崎郡川辺村、揖保郡越部村栗栖川および淡路島、四国地方、大分県のみとなった。しかし、本州及び九州本土の個体群はいずれも孤立した個体群であったため』、昭和二九(一九五四)年『頃までに絶滅したとみられ』る。『本州最後の個体群は、和歌山県和歌山市友ヶ島で』昭和二九(一九五四)年に『確認された個体群であったが、特に保護されることなく』、『絶滅した』、『北海道産亜種』であるLutra lutra whileleyi(和名がつけられる前に我々が絶滅させてしまった。「エゾカワウソ」と呼ばわってやりたい)も、昭和三〇(一九五五)年に『斜里郡斜里川で捕獲されたのが最後の捕獲例であ』った。『そのため』、『ニホンカワウソの分布域は、四国地方の愛媛県および高知県のみとな』ってしまい、『最後の捕獲例は』、昭和五〇(一九七五)年四月八日、『愛媛県宇和島市九島で保護されたもので、その後は捕獲されていない。ニホンカワウソが生きた姿で最後に発見されたのは高知県須崎市の新荘川におけるもので』、昭和五四(一九七九)年六月の目撃で、この新荘川では昭和六一(一九八六)年十月に、『ニホンカワウソの死体が発見されているが、これ以降』、『棲息の確認は得られていない』。なお、『樺太(サハリン)南端部の能登呂半島には』、二〇一七年『現在でもカワウソが棲息しているが』、これを絶滅した『北海道産亜種(Lutra lutra whileleyi)と同一種であると分類する専門家も』いる。体長は六十四.五~八十二センチメートル、尾長三十五~五十六センチメートル、体重五~十一キログラムで、『外部計測値は韓国産のユーラシアカワウソとほぼ同じだが、頭骨形状に特徴があ』り、『眼を水面から出して警戒できるよう、眼と鼻孔が顔の上方にあった』、また、『鼻孔は水中で閉じることができ』、『毛皮は二層からなり、外側に見える部分は粗い差毛、内側は細かい綿毛であった。差毛は水中で水に濡れて綿毛を覆い、綿毛に水が浸入するのを防いだ。このことにより』、『水中での体温消耗を防ぐ効果があった。この良質な毛皮を目的とした乱獲が、絶滅の要因となった』。『河川の中下流域、砂浜や磯などの沿岸部に単独で棲息し』、『主に夜行性で、魚類、テナガエビ、カニ、カエルなどを食べていた』。一『頭の行動域は十数』キロメートル『にもおよび、この中に「泊まり場」と呼ばれる生活の拠点(岸辺近くの大木の根元の穴や岩の割れ目、茂みなど)を』三、四箇所持っており、『縄張り宣言のために、定期的に岩や草むらの上など目立つ位置に糞をする習性があった』。『春から初夏にかけて水中で交尾を行い』、六十一~六十三『日の妊娠期間を経て』、二~五『頭の仔を産んでいたと考えられている。仔は生後』五十六日ほどで『巣から出るようになり、親が来年に新たな繁殖を開始するころに独立していたと推定される』。『人間にとって身近な存在であり、河童伝説の原型になったと考えられているほか、カワウソそのものも伝承に登場する。また、アイヌ語では「エサマン」と呼ばれ、アイヌの伝承にもしばしば登場している。七十二候の一つ(雨水初候)で獺祭魚(春になり』、『カワウソが漁を』始め、『魚を捕らえること)とある』。『江戸時代の料理書』「料理物語」には『「獣の部」において「川うそ」の名が記載されており、かつては食用となっていたとみられる』。『ニホンカワウソは保温力に優れている毛皮や肺結核の薬となる』とされた『肝臓を目的として、明治から昭和初期にかけて乱獲が進んだ』(本文にも結核の特効薬とするそれが出る)。『そのため北海道では』、明治三九(一九〇六)年『当時』、『年間』八百九十一『頭のカワウソが捕獲されていたが』、たった十二年後の大正七(一九一八)年には、『年間』七『頭にまで減少した』。『このような乱獲が日本全国で行われたため』、昭和三(一九二八)年、遅まきながら、『ニホンカワウソは日本全国で狩猟禁止となっ』た。而して昭和二九(一九五四)年『時点で、ニホンカワウソは北海道、紀伊半島と愛媛県の瀬戸内海から宇和海にかけての沿岸部、高知県南西部の沿岸部および室戸岬周辺にわずかに棲息域を残すのみとなったが、農薬や排水による水質悪化、高度経済成長期における周辺地域の開発、河川の護岸工事等により、棲息数の減少に更なる拍車がかかった。さらに、漁具による溺死や生簀の食害を防ぐための駆除も大きな打撃となった』。『最後の個体群は当初』、『猟師だけが知っていたもので』、結局それも『密猟されていた』のであった、とある。妖怪としての妖獣「かわおそ」については、本日、私が公開した「太平百物語卷二 十一 緖方勝次郞獺(かはうそ)を射留めし事」の私の注を参照されたい。

 因みに、「獺」は「をそ(おそ)」とも呼ばれるが、小学館「日本国語大辞典」によれば、これは「かはをそ」「かわうそ」の略で、その語源説には「うををす」「ををす」(魚食)の略(「大言海」)、「おそる」(畏懼)と同根(「和句解」・「東雅」)、獣のくせに水中に入って魚を捕える獣にあるまじき「偽」(うそ)の存在の義(「名言通」)、妖獣譚でよく人を襲(おそ)うところから(「紫門和語類集」)、水底を住居とすることからの「こ」の反切(「名語記」)が示されてある。しかしどれも信じ難い。原形に獣・幻獣の「をそ」を探索すべきであろう。

「鵲〔(かささぎ)〕の巢の風を知るごときなり」東洋文庫注によれば、「淮南子」の「繆稱訓(びょうしょうくん)」に、

   *

鵲巢知風之所起、獺穴知水之高下。暈目知晏。陰階知雨。

   *

とあるとする。

「知、本〔(ほん)〕を報い、始めに反〔(かへ)〕るを知るなり」魚を殺生して生きている自分の存在を自覚し、天にその生贄を捧げて獺祭を行い、自己の無惨な生き方を自覚し、その在り方を原型に戻すことをちゃんと弁えているのである。

「熊は鹽を食ひて死し」先行する「熊(くま)」に記載があった。

「今、漁舟、徃徃〔にして〕馴(な)れ畜(か)ひて之れをして魚を捕へしむ」俄かに示せないが、カウワソを飼養して、鵜飼のように川魚を捕獲していたとする古記録を確かに読んだ。発見し次第、追記する。

「獱獺〔(ひんだつ)〕」変異個体か、幻獣であろう。同定する気になれない。

「候〔(うかが)ふ〕」東洋文庫訳は「やってくる」と訳す。採らない。

「之れを用ふる者〔は〕須らく驗(こゝろ)むべし」は以下の「治虛勞・咳嗽〔(がいさう)〕・傳尸病〔(でんしびやう)〕を治す」に係ると読んでおく。但し、中文本草書でこういう形の構文はあまりないようには思われ、或いは、前の肝臓が毎月一枚増加するが、時に、それが、減ることもある、ということを獺の肝臓を薬として、解剖して得る本草家は、剖検時にしっかりとその現象を確かめて見よと言っていると採る方が自然ではある。

「眼〔の〕翳〔(かす)みて〕黒〔き〕花飛ぶ蠅〔のごときものの〕上り下り、物を視ること明ならざる」典型的な眼疾患である飛蚊(ひぶん)症である。尋常性のそれも多いが(私も幼少期から馴染みである)、突然、多量に五月蠅く感ずるほどに発生する場合は、網膜剥離の前兆であるから、早急な治療が必要である。

「稍〔(やや)〕盞〔(さかづき)〕の靣より髙からしむ」表面張力で酒が盃から有意に盛り上がるぐらいに入れることを指す。

「老鰡(しくちぼら)」これはボラ(条鰭綱ボラ目ボラ科ボラ属ボラ Mugil cephalus)ではなく、ボラ科メナダ属メナダ Liza haematocheilus である。完全生育個体では体長が一メートルに及び大型で、背面は青色、腹面は銀白色。同属の近縁種との違いとしては、上唇が下方に曲がっていて、口を閉じると外部に露出してみえること、脂瞼(しけん)と呼ばれるコンタクト・レンズ状の器官が発達していないことがボラとの識別点として挙げられる。東洋文庫はこの「老鰡」の「鰡」にのみ『ぼら』とルビしており、老成したボラと採っていて、少なくとも個々の部分での訳としては致命的な誤りである。

「故に獺の胸の下に亦、肉〔の〕臼〔(うす)〕、有り」ボラ属 Mugil の多くの成魚は、胃が発達しており、胃の幽門部(ヒトの十二指腸に繋がる胃の部分)が体表から見ても、あたかも「出臍(でべそ)」のように突き出ている。現在も市場ではこれを「うす(臼)」と称したり、或いは、それを切り出した形が算盤の珠(たま)に似ていることから、「そろばんだま」と呼んだりする。一般的には焼くか揚げて食べる。食ったことがあるが、ホルモンの「ミノ」のような食感で私は好きだ。

「鮎(なまづ)」言わずもがな、中国語の「鮎」はナマズしか指さない。アユは「香魚」である。

「獵虎〔(らつこ)〕」食肉目イタチ科カワウソ亜科ラッコ属ラッコ Enhydra lutris。独立項として本巻の最後に出るので、そこで詳述する。]

柳田國男 山島民譚集 原文・訓読・附オリジナル注「馬蹄石」(13) 「駒ケ嶽」(3)

 

《原文》

 サテ此ヨリ愈駒ケ嶽ノ本論ニ入ラント欲スルナリ。諸國ノ名山ニ駒ケ嶽ト云フモノ多キハ人ノ善ク知ル所ナリ。【嶽又ハ岳】「ダケ」ハ只ノ山又ハ峯ト云フ語トハ別ニシテ、神山又ハ靈山ヲ意味スル日本語カト思ハル。蟲送リ又ハ雨風祭ニ山ニ神ヲ送ルヲ「ダケノボリ」ト云フコト奧州ニ多シ。東國ニテハ秩父甲州ナドノ御嶽、木曾ノ御岳山ノ類アリ。沖繩ニ於テモ「ダケ」ハ悉ク神ノ山ナリ。駒ケ嶽ト云フガ如キ山ノ名ハ、固ヨリ偶然ニ出デ來ルべキ者ニ非ズ。故ニ今ノ人ガ此ニ無頓著ナルトハ正反對ニ、昔ノ人ハ色々ト其命名ノ由來ヲ說明セント試ミタリ。駒ケ嶽ニ駒ノ住ムト云フ說ハ、北海道渡島ノ駒ケ嶽ニモ存ス。文政八年ノ八月松前侯ノ御隱居、人ヲ彼地ニ遣ハシ其噂ノ實否ヲ確メシム。【野馬】其報告ハ區々ニシテ或ハ靑ト栗毛ト二頭ノ牝馬ヲ見タルハ、野飼ノ逸シ去リテ幸ニ熊ノ害ヲ免レシナラント言ヒ、又ハ古來一雙ノ神馬住ムト傳ヘタレバ、試ミニ牝馬ヲ繋ギ置キテ之ヲ誘ハント獻策セシモノアリ〔兎園小說別集上〕。併シ此等ハ山ノ名先ヅ知ラレテ後ニ生ジタル想像ノ產物ナリトモ見ルコトヲ得べシ。見キモ見ザリキモ要スルニ個々ノ人ノ言ナレバナリ。木曾ノ駒ケ嶽ニ於テハ、或ハ中腹以上ノ雪ノ中ニ先ヅ消エテ黑ク見ユル箇處、駒ガ草食ム形ニ見ユルガ故ト云ヒ〔本朝俗諺志〕、又ハ此山ノ東面ニ駒ノ形ヲシタル大石アリテ、春ハ此石ノ處ヨリ雪消ヘ始ムルガ爲ニ名ヅクトモ云フ〔新著聞集〕。會津槍枝岐(ヒノエマタ)ノ駒ケ嶽ニテハ之ト反對ニ、夏秋ノ際消エ殘リタル雪ノ形駒ニ似タリト稱シ、越後南魚沼郡室谷ノ奧ナル駒ケ嶽ニモ同ジ說アリ〔地名辭書〕。同國西頸城(にしくびき)郡今井村ノ駒ケ嶽ハ信濃トノ境ノ山ナリ。山中ノ洞ニ駒ノ形狀アリテ明ラカニ存ス。故ニ山ノ名トス。【石馬】俚俗ノ說ニ源義經ノ馬此ニ至リ石ニ化スト云ヘリ〔越後野志六〕。陸中膽澤郡ノ駒ケ嶽ハ彼地方馬神信仰ノ中心タリ。神馬今モ此山中ニ住ムト云ヒ、昔名馬ノ骨ヲ此山頂ニ埋メタリト傳ヘ、或ハ又殘雪ノ形ガ駒ノ形ニ似タル故ノ名ナリトモ稱ス〔奧羽觀迹聞老誌〕。前ニ擧ゲタル鐵製ノ馬ノ像モ、此峯續キノ赤澤山ニ在ルナリ。

 

《訓読》

 さて、此れより、愈々、「駒ケ嶽」の本論に入らんと欲するなり。諸國の名山に駒ケ嶽と云ふもの多きは人の善く知る所なり。【嶽又は岳】「だけ」は只の「山」又は「峯」と云ふ語とは別にして、「神山」又は「靈山」を意味する日本語かと思はる。「蟲送り」又は「雨風祭(あめかぜまつり)」に、山に神を送るを「だけのぼり」と云ふこと、奧州に多し。東國にては、秩父・甲州などの御嶽(みたけ)、木曾の御岳山(おんたけさん)の類ひあり。沖繩に於いても「だけ」は悉く、神の山なり。駒ケ嶽と云ふがごとき山の名は、固より偶然に出で來たるべき者に非ず。故に、今の人が此れに無頓著なるとは正反對に、昔の人は、色々と其の命名の由來を說明せんと試みたり。駒ケ嶽に駒の住むと云ふ說は、北海道渡島の駒ケ嶽にも存す。文政八年[やぶちゃん注:一八二五年。]の八月、松前侯の御隱居、人を彼の地に遣はし、其の噂の實否を確めしむ。【野馬】其の報告は區々(まちまち)にして、或いは、靑と栗毛と二頭の牝馬を見たるは、野飼(のがひ)の逸(いつ)し去りて、幸ひに熊の害を免れしならんと言ひ、又は、古來、一雙の神馬住むと傳へたれば、試みに牝馬を繋ぎ置きて、之れを誘はんと獻策せしものあり〔「兎園小說別集」上〕。併し、此等は、山の名、先づ、知られて、後に生じたる想像の產物なり、とも見ることを得べし。見きも、見ざりきも、要するに、個々の人の言(いひ)なればなり。木曾の駒け嶽に於いては、或いは、中腹以上の雪の中に、先づ、消えて、黑く見ゆる箇處(かしよ)、駒が草食む形に見ゆるが故と云ひ〔「本朝俗諺志」〕、又は、此の山の東面に、駒の形をしたる大石ありて、春は此の石の處より、雪、消へ始むるが爲めに名づく、とも云ふ〔「新著聞集」〕。會津槍枝岐(ひのえまた)の駒ケ嶽にては之れと反對に、夏秋の際、消え殘りたる雪の形、駒に似たりと稱し、越後南魚沼郡室谷の奧なる駒ケ嶽にも同じ說あり〔「地名辭書」〕。同國西頸城郡今井村の駒ケ嶽は信濃との境の山なり。山中の洞(ほら)に駒の形狀ありて、明らかに存す。故に山の名とす。【石馬】俚俗の說に、源義經の馬、此に至り、石に化す、と云へり〔「越後野志」六〕。陸中膽澤(いざは)郡の駒ケ嶽は、彼(か)の地方、馬神(うまがみ)信仰の中心たり。神馬、今も此の山中に住むと云ひ、昔、名馬の骨を此の山頂に埋めたりと傳へ、或いは又、殘雪の形が駒の形に似たる故の名なりとも稱す〔「奧羽觀迹聞老誌(おううかんせきぶんらうし)」〕。前に擧げたる鐵製の馬の像も、此の峯續きの赤澤山に在るなり。

[やぶちゃん注:「蟲送り」主として稲の害虫(浮塵子(うんか:昆虫綱半翅(カメムシ)目同翅(ヨコバイ)亜目 Homoptera に属する一群で、特にその中のハゴロモ(ウンカ)上科Fulgoroidea或いはその中のウンカ科Delphacidae に属する種群が多い。セミに似るが、体長は一センチメートル以下で、触角の基部が太い。日本に約百種棲息し、多くはイネ科植物を食べる。ウンカ科 Sogatella 属セジロウンカSogatella furcifera・ウンカ科トビイロウンカ属トビイロウンカ Nilaparvata lugens・ウンカ科Laodelphax 属ヒメトビウンカ Laodelphax striatellus が代表的な食害種)や、二化螟蛾(鱗翅目チョウ目ツトガ(苞蛾)科ツトガ亜科メイガ科Chilo suppressalis):和名は本邦の大部分の地域で成虫が年に二回発生することに拠る)の幼虫等)を村外に追放する呪術的な行事。毎年初夏の頃、定期的に行う例と、害虫が大発生した時に臨時に行うものとがある。一例を示すと、稲虫を数匹とって藁苞に入れ、松明(たいまつ)を先頭にして行列を組み、鉦や太鼓を叩きながら、田の畦道を巡って村境まで送って行く。そこで藁苞を投げ捨てたり、焼き捨てたり、川に流したりする。理屈からいえば、村外に追放しても隣村に押し付けることになるが、村の小宇宙の外は他界であり、見えなくなったものは、消滅した、と考えたのである。「風邪の神送り」や「厄病送り」などと一連の行事で、呪術のなかでは鎮送呪術に含まれる。害虫は実在のものであるが、非業の死を遂げた人の霊が浮遊霊となり、それが害虫と化したという御霊信仰的側面もあって、非業の死を遂げたと伝えられる平安末期の武将斎藤別当実盛の霊が祟って虫害を齎すという故事に付会させて、帯刀の侍姿の藁人形(実盛人形)を担ぎ歩く所もある。虫送りを「さねもり祭り」などと呼ぶのはそれに由来する。初夏の風物の一つとして、子供の行事にしていた所も多い。近年は農薬の普及に伴って虫害も少なくなり、この行事も急速に消滅してしまった(以上は主文を小学館「日本大百科全書」に拠り、生物種はオリジナルに附した)。

「雨風祭(あめかぜまつり)」前の「虫送り」の風水害版。風雨の害を避けるために行われる呪術的行事。通常は男女二体の形代(かたしろ)の人形を村境まで送って行き、捨てたり焼いたりする。特に東北地方での呼称。私の「佐々木(鏡石)喜善・述/柳田國男・(編)著「遠野物語」(初版・正字正仮名版) 一〇九 雨風祭」も見られたい。

「だけのぼり」フレーズ検索「だけのぼり 風雨祭 東北」を掛けたが、確認出来ない。

「秩父・甲州などの御嶽(みたけ)」「秩父」のそれは埼玉県秩父市と秩父郡小鹿野町との境にある御岳山(おんたけさん:標高千八十・四メートル。木曽御嶽山の王滝口を開いた普寛上人が開山した)。「甲州」のそれは赤石山脈(南アルプス)北端の山梨県北杜市と長野県伊那市に跨る甲斐駒ヶ岳(標高二千九百六十七メートル)。

「木曾の御岳山(おんたけさん)」長野県木曽郡木曽町王滝村と岐阜県下呂市及び高山市に跨る標高三千六十七メートルの御嶽山

「北海道渡島の駒ケ嶽」現在の北海道森町・鹿部町・七飯町に跨る標高千百三十一メートルの北海道駒ヶ岳。渡島半島のランド・マーク。江戸時代の旧称は内浦岳。ここ(グーグル・マップ・データ。以下同じ)。この山の名に関して言えば、大沼方面から見たそれが、馬が嘶いている姿に似ていることに由来すると言われている。これウィキの「北海道駒ヶ岳」の同方面からの画像)。私はこの山容がとても好きである。

「文政八年の八月、松前侯の御隱居……」これは割注にある通り、「兎園小説」シリーズの中の、滝澤馬琴一人の編集になる概ね彼による考証随筆「兎園小説別集」の上巻の中の一条「内浦駒ケ岳神馬紀事」に基づく記載である。「松前侯の御隱居」というのは蝦夷地松前藩第八代藩主松前道広(宝暦四(一七五四)年~天保三(一八三二)年)のこと。ウィキの「松前道広」によれば、寛政四(一七九二)年に隠居し、長男章広に家督を譲っているが、九年後の文化四(一八〇七)年、藩主時代の海防への対応や元来の遊興癖を咎められて幕府から謹慎(永蟄居)を命ぜられた(この背景には元家臣の讒言があったともされる。文政五(一八二一)年にこれは解かれた)。当時、満七十一であったこの爺さん、大の馬好きで、駒ヶ岳の神馬の話を聴き、興味津々、ここにある通り、藩内の者を使って情報を収集、牝馬を囮にして捕獲を試みようとしたりしたのを、以前から江戸で知り合いであった馬琴が聴き付け、手紙をものして(原書簡が引用されてある)、古今の神馬の祟りの例などを挙げて遠回しに諌めた顚末が記されてある。「幸ひに熊の害を免れしならん」の部分は、百姓が放牧していた馬が逃げ出し、岳の中段より上に登ってしまった、極めて人目につきにくい個体で、また『駒ケ岳は靈山の事故、山の德によつて熊にも取られ申さず』と記している。

「新著聞集」前に引いた「早稲田大学図書館古典籍総合データベース」のこちらで原典当該部(終りの部分がそれ)が読める。

「會津槍枝岐(ひのえまた)の駒ケ嶽」福島県南会津郡檜枝岐村にある標高二千百三十三メートルの会津駒ヶ岳

「越後南魚沼郡室谷の奧なる駒ケ嶽」新潟県南魚沼市と魚沼市に跨る標高二千三メートルの越後駒ヶ岳。「室谷」(「むろだに」か)の地名は現認出来ない。

「同國西頸城郡今井村の駒ケ嶽」現在の新潟県糸魚川市市野々(いちのの)の奥にある標高千四百八十七・四メートルの頸城駒ヶ岳

「陸中膽澤(いざは)郡の駒ケ嶽」「前に擧げたる鐵製の馬の像も、此の峯續きの赤澤山に在るなり」本条の冒頭の段落の「赤澤山」の注で私が指摘した、岩手県胆沢郡北上市和賀町の標高千百二十九・八メートルの駒ヶ岳である。やはり、そこで私が推理した通り、この峰続きの地図上では無名のピークの孰れかが、「赤澤山」なのであった。

裸 伊良子清白

 

 

裸の女は裸を大きくし

凉しい濱をむさぼつてあるく

裸のをとこは風の中

裸を吹きとばしてゐる

 

裸のをんなははだかのままで

はだかの冷えるまで凉み

夜更けの幮(かや)の底でも

裸丸出しで寢てゐる

裸の女を抱いてねる

はだかのをとこは勝ち誇つてゐる

裸に罪があるか――

罪は人がつくり、裸は神が造る

 

[やぶちゃん注:こんな一篇をあの「孔雀船」の伊良子清白がものしているのはすこぶる面白い。

「幮(かや)」「蚊帳(かや)」に同じい。]

海風はげし 伊良子清白

 

海風はげし

 

海軟風――

飛び沙魚(はぜ)の類ひである

數限りなく濱からのぼつて來る

海の風には鱗の觸感がある

巖石の匀ひがある

帆は城廓である

城廓は戶を開く、海の風に――

赫耶姬(かぐやひめ)は竹から產れる

アフロデイテは海泡からうまれる

おお

この風に

わたしの耳から

靑い壯麗の侏儒(こびと)がうまれる

 

[やぶちゃん注:「飛び沙魚(はぜ)」生物種としては、条鰭綱スズキ目ハゼ亜目ハゼ科オキスデルシス亜科トビハゼ属トビハゼ Periophthalmus modestus であるが、ここは一行でその「海」からの「軟風」の直喩である。]

子供の憂鬱 伊良子清白

 

子供の憂鬱

 

海連の學校で

子供が憂鬱に成る

お山の大將は

山から下りて來た

 

海の子が

海から逃げて來た

海邊の山が

子供を憂鬱にした

 

のろい蛆(うじ)が

かしこい蝶に成る

海邊の學校で

かしこい子供が憂鬱である

 

[やぶちゃん注:面白い一篇である。]

洞窟の神 伊良子清白

 

洞窟の神

 

注連繩(しめなは)延(は)へし島の洞窟に

憂鬱の淸水滴る

陰森として魍魎棲む奧所(おくが)よ

海檜葉(うみひば)の蔓(はびこ)る絕壁を

船蟲の族群り上下す

新裝の砂汀は

晴れ渡る海面に輝けども

古代の怒濤を深く刻(きざ)める

老顏の洞窟はひたぶるに

日(ひ)の鋭(と)き香(か)をいとひて

腹立たしき澁面をつくれり

 

畏怖の鏡の前にすゑられ

赤兒(せきじ)の心にをののく漁人は

原始の威靈を直(ひた)と感ず

したたる淸水(しみづ)はげしく打つ

 

[やぶちゃん注:初出未詳だが、ロケ地を切に知りたくなる一篇である。

「延(は)へし」延ばして張った。「延(は)ふ」はハ行四段活用の動詞で、「地面や壁面に沿って延びる」の意。延縄(はえなわ)等で今も生きる読みである。

「魍魎」はロケーションと韻律から、水神を意味する「みずは」と読んでいよう。

「海檜葉(うみひば)」不詳。海岸の絶壁で「蔓(はびこ)る」と形容する草木を私は知らない。識者の御教授を乞う。

「族」「うから」と読んでいよう。

「砂汀」ルビを振らないから「さてい」と読んでおく。砂浜のこと。

「赤兒(せきじ)の心にをののく漁人は」純朴な心ゆえに洞窟の神に慄(おのの)いている漁師たちは。「赤子(せきし)の心」(生まれたままの純真で偽りのない心・赤子(あかご)のような心)に同じで、「孟子」「離婁 下」の「大人 (たいじん)とは其の赤子の心を失はざる者 なり」に基づく語。]

太平百物語卷二 十二 小僧天狗につかまれし事

     ○十二 小僧天狗につかまれし事

 さぬきの國に、照本寺といへる日蓮宗の寺あり。

 ある時、「うたづ」といふ所へ、用の事ありて、眞可(しんが)といふ小僧を使(つかひ)にやりけるが、其歸へるさ、「ばくち谷」といふ所を通りしに、俄に、風一頻(ひとしき)りして、何者ともしらず、眞可を虛空につかみ行(ゆき)ぬ。

 眞可、いとおそろしくおもひて、「法花經」の「普門品(ふもんぼん)」を高らかに唱へしに、後(うしろ)よりも同じくこれを唱へしまゝ、眞可、さかしく心得て、終りより始へ讀(よみ)もどしけるに、障碍(しやうげ)の者、これを讀(よむ)事、あたはず。

 無念の事にやおもひけん、此眞可が上帶(うはおび)にしける繻巾(しゆきん)をほどきて、おもふ樣に引しばり、かの照本寺の椽(ゑん)[やぶちゃん注:漢字・読みともにママ。後も同じ。]にすてゝ歸りしが、眞可は猶も高らかに、「普門品」を唱へけるに、寺中(じちう)、これを聞(きゝ)つけて、やがて、椽にかけ出(いで)みれば、眞可なり。

 人々、おどろき、上人に「かく」と告げしらせければ、上人、やがて立出(たちいで)、つくづくと見定め、しづかに、眞可が聲に合はせて、同じく「普門品」を讀誦ありければ、ふしぎや、此繻巾、忽ち、ぬけて、眞可、別義なく本心(ほんしん)なりければ、上人、其ゆへを尋(たづね)給ふに、眞可、しかじかのよしをかたれば、上人もいぶかしくおぼして、かの繻巾を取上げ見給ふに、さまざまにむすぼふれて、紐の端(はし)、いかに求むれども、見へず。

 あたりの人々、これをみて、きゐ[やぶちゃん注:ママ。「奇異」。]のおもひをなしけるが、今に此寺にありて、世の人、これを「天狗の繩(なは)」と稱(しやう)じて[やぶちゃん注:ママ。]、もてはやしけるとぞ。

[やぶちゃん注:「さぬきの國」「照本寺」現在の香川県丸亀市南条町(まち)に法華宗本門流(日蓮系宗派の一つ。日蓮宗も江戸時代までは正式は法華宗と名乗っていた)の本照寺があるが(グーグル・マップ・データ。以下同じ)、「香川県立図書館」公式サイト内の「地域の本棚」の「三 丸亀を行く」(「香川の文学散歩」(平成四(一九九二)年香川県高等学校国語教育研究会刊)の電子化)では、『塩飽町交差点を西に進んで』、『すぐの四差路を北に進むと右側に本照寺がある。菅生堂人惠忠の『怪異』の舞台となった寺である』と断定している。

「うたづ」香川県綾歌(あやうた)郡宇多津町(ちょう)。本照寺からは直線で二、三キロ圏内で近い。

「ばくち谷」不詳であるが、宇多津町の南西の町境部分に「青ノ山」という小さな山塊(標高二百二十四メートル)があり、その西の山腹を国土地理院図で見ると、三本の谷川が現在も流れていることが確認出来る。本照寺からのルートを考えると、「谷」を形成し得る地形はここ以外にはまず認められないから(他は現行ではほとんどが平地である。但し、宇田津町東北境には二つの丘陵部があるから、そこである可能性もないとは言えない)、私はこの辺りと考えてよいのではないかと思う。

『「法花經」の「普門品(ふもんぼん)」』「法華経」第二十五品「観世音菩薩普門品」の略称。別出して一巻とした「観音経」に同じ。「法華経」ではこれだけを読誦することが多い。鳩摩羅什(くまらじゅう:六朝期の中央アジア亀玆(きじ)国の僧)が散文を、闍那崛多(じゃなくった:北インドのガンダーラの訳経僧。北周から隋の時代に来朝して仏典を漢訳した)が韻文を漢訳したものを合せたものが、中国・日本で広く読誦されてきた。観世音菩薩が神通力をもって教えを示し、種々に身を変えて人々を救済することを説く。観音を心に念じ、その名を称えれば、いかなる苦難からも逃れることが出来ることを説いて、観音を信仰すべきことを勧めている(主に「ブリタニカ国際大百科事典」に拠った)。

「さかしく心得て」知恵を働かせて思い至り。

「終りより始へ讀(よみ)もどしけるに」「法華経」を逆に音読したのである。常に読誦している経で、同経は漢字を音で読むので、それを逆に読むことは必ずしも困難なことではない。一種の呪法である。

「障碍(しやうげ)の者」仏法を侮る魔の存在。逆読はそうした存在にとっては呪的な効力を発揮し、魅入られてしまうことから逃れられると真可は考えたのであろう。この時点で、真可は脅かしている物の怪が何者であるかは認識していないから、かく言ったのである。というか、それが果たして「天狗」であったかどうかは実は分らぬのである。その他の魔性のもの、妖怪であったのかも知れない。

「上帶(うはおび)にしける繻巾(しゆきん)」「繻」は絹の端布(はしぎれ)で、「巾」は、この場合、同じく布(きれ)であり、余り絹を用いた紐のようにも思われるが、一方で、これは「繻子」(しゅす:繻子織り(縦糸と横糸とが、交差する箇所が連続することなく、縦糸又は横糸だけが表に現れるような織り方。一般に縦糸の浮きが多く、斜文織りよりさらに光沢がある)のことを指しているのかも知れない。繻子は女帯や羽織裏などに用いるもので、修行僧が使うには贅沢ではあるが。

「椽(ゑん)」本字は本来は「垂木(たるき)」(家の棟から軒に渡して屋根を支える材木)を指すが、古くから「縁」の代字として慣用され、近代作家なども頻りに「縁側」の意で用いることが多い。

「さまざまにむすぼふれて、紐の端(はし)、いかに求むれども、見へず」『世の人、これを「天狗の繩(なは)」と稱(しやう)じて、もてはやしける』変化(へんげ)の物が癇癪を起してやらかした呪的な緊縛法なのであろうが、先に述べた通り、その変化を「天狗」としたのは巷の人々の憶測に過ぎない。まあ、知恵がなければ、そんな複雑な縛り方は出来ぬし、真可を虚空に投げ、本寺に投げ込むというのも如何にも天狗らしくはある。]

2019/04/22

世界は

世界は――追懐は当然如く「今、一度……」の惨めな浪漫主義もあろうはず無く何処かの詩人面(づら)した輩の「絶対の孤独」もあろうはずなく植木等の諧謔もない「ハイ」「ソレマデ」という民俗学用語のカタカナ表記の一般名詞化による埋没的殺戮に過ぎなかった――と――私はそう今日此の頃実感している

太平百物語卷二 十一 緖方勝次郞獺(かはうそ)を射留めし事

Ogatakatujirou

    ○十一 緖方勝次郞獺(かはうそ)を射留めし事

 山城の國に緖方勝次郞といふ侍あり。

 或時、あふみの國彥根に行くとて、㙒州川(やすがは)を通りけるが、折ふし、秋の末つ方、冬のけしきをあらはして、落葉ちりしく水の面(おも)、見るに、こゝろもすみわたりければ、旅のこゝろをよみはべりける。

   やす川といかでか名にはながしけん

    くるしきせのみありとおもふに

かく口ずさみつゝ行く所に、むかふの方に、小舩(こぶね)一艘こぎ來る者あり。

 見れば、みめうつくしき童子なりしが、身には木の葉・もくづなどをかづきてゐたり。

 勝次郞、あやしくおもひて、

「いかなる人ぞ。」

と尋(たづね)ければ、

「これは此あたりに住(すむ)者なり。御身も此舟に乘(のり)給へかし。共に逍遙して樂しまん。」

といふ。

 勝次郞、其體(てい)を能(よく)々みるに、

『これ、人間にあらず。』

と思惟(しゆひ[やぶちゃん注:ママ。])して、やがて嶲(たづさ)へたりし弓矢おつ取、引しぼりてぞ、

「ひやう。」

ど、はなつ。

 あやまたず、此童子が胸にあたるに、忽ち、獺となりて、卽座に死(しゝ)たりしが、舟とおぼしきも、皆、木の葉にてぞ有(あり)ける。

『さればこそ。』

とおもふ所へ、又、壱人、陸(くが)の方より、老女、きたり、勝次郞をまねきて申さく、

「おこと、只今、童子の舟に乘りたるを見玉はずや。」

と。

 勝次郞、荅(こた)へて、

「それは、はや、とく行き過ぎたり。」

といひて、向ふの方へやり過(すご)し、又、弓を引堅め、

「はた。」

と、ゐければ[やぶちゃん注:ママ。]、頭(かうべ)にあたると見へし。

 頓(やが)て、老たる獺となりて、一聲(ひとこゑ)、

「あつ。」

と、さけびて、死しけり。

 勝次郞、二疋のかはうそを取て、所の人々にみせければ、皆々、大きによろこび、云(いひ)けるは、

「此年比(このとしごろ)、かやうに美童・美女に化(け)して、おほく旅人(りよじん)をたばかり、喰殺(くひころ)し侍りしに、今よりしては、此あはれをみる事あるまじければ、有がたくこそさふらへ。」

とて、打よりて、勝次郞を拜みけるとかや。

[やぶちゃん注:「獺」日本人が滅ぼしてしまった哺乳綱食肉(ネコ)目イタチ科カワウソ亜科カワウソ属ユーラシアカワウソ亜種ニホンカワウソ Lutra lutra nippon は古くより怪異を起こす動物として信ぜられた。中国でも例外ではなく、それは私「柴田宵曲 續妖異博物館 獺」にも取り上げられてある(リンク先は私の電子化注)。ウィキの「カウウソ」の「伝承の中のカワウソ」によれば、『日本や中国の伝承では、キツネやタヌキ同様に人を化かすとされていた。石川県能都地方で』、二十『歳くらいの美女や碁盤縞の着物姿の子供に化け、誰かと声をかけられると、人間なら「オラヤ」と答えるところを「アラヤ」と答え、どこの者か尋ねられると「カワイ」などと意味不明な答を返すといったものから』、『加賀』『で、城の堀に住むカワウソが女に化けて、寄って来た男を食い殺したような恐ろしい話もある』。江戸時代には「裏見寒話」「太平百物語」「四不語録」などの『怪談、随筆、物語でもカワウソの怪異が語られており、前述のように美女に化けたカワウソが男を殺す話がある』。『広島県安佐郡沼田町(現・広島市)の伝説では「伴(とも)のカワウソ」「阿戸(あと)のカワウソ」といって、カワウソが坊主に化けて通行人のもとに現れ、相手が近づいたり』、『上を見上げたりすると、どんどん背が伸びて見上げるような大坊主になったという』。『青森県津軽地方では人間に憑くものともいわれ、カワウソに憑かれた者は精魂が抜けたようで元気がなくなるといわれた』。『また、生首に化けて』、『川の漁の網にかかって化かすともいわれた』。『石川県鹿島郡や羽咋郡では』、「かぶそ」又は「かわそ」の『名で妖怪視され、夜道を歩く人の提灯の火を消したり、人間の言葉を話したり』、十八、九歳の『美女に化けて人をたぶらかしたり、人を化かして』は『石や木の根と相撲をとらせたりといった悪戯をしたという』。『人の言葉も話し、道行く人を呼び止めることもあったという』。『石川や高知県などでは河童の一種ともいわれ、カワウソと相撲をとったなどの話が伝わっている』。『北陸地方、紀州、四国などではカワウソ自体が河童の一種として妖怪視された』。室町時代の国語辞典の一種である「下学集」には、『河童について最古のものと見られる記述があり、「獺(かわうそ)老いて河童(かはらふ)に成る」と述べられている』。『アイヌの昔話では、ウラシベツ(北海道網走市浦士別)で、カワウソの魔物が人間に化け、美しい娘のいる家に現れ、その娘を殺して魂を奪って妻にしようとする話がある』。『中国では、日本同様に美女に化けるカワウソの話が、「捜神記」・「甄異志(しんいし)」などの『古書にある』(先の私の柴田宵曲のそれを参照されたい)。『朝鮮半島にはカワウソとの異類婚姻譚が伝わっている。李座首(イ・ザス)という土豪には娘がいたが、未婚のまま妊娠したので李座首が娘を問い詰めると、毎晩』、『四つ足の動物が通ってくるという。そこで娘に絹の糸玉を渡し、獣の足に結びつけるよう命じた。翌朝糸を辿ってみると』、『糸は池の中に向かっている。そこで村人に池の水を汲出させると』、『糸はカワウソの足に結びついていたので』、『それを殺した。やがて娘が生んだ子供は黄色(または赤)い髪の男の子で武勇と泳ぎに優れ』、三『人の子をもうけたが』、『末の子が後の清朝太祖ヌルハチである』とする。『ベトナムにもカワウソとの異類婚姻譚が伝わっている。丁朝を建てた丁部領(ディン・ボ・リン)は、母親が水浴びをしているときにかわうそと交わって出来た子であり、父の丁公著はそれを知らずに育てたという伝承がある』とある。ここにあるように、河童との親和性が強く、人間に化けるところは、狐狸の類いとの古来からの共通性が認められるが、生物としての彼らを滅亡させてしまった以上、最早、彼らは化けようがなくなったのだと考えるとき、私は一抹の寂しさを感じざるを得ない。

「㙒州川(やすがは)」野洲川は琵琶湖へ流入する河川では最長で、「近江太郎」の通称を持つ。鈴鹿山脈の御在所山(標高千二百十メートル)に発し、甲賀(こうか)市を西に流れ、湖南市南東と甲賀市の境界付近で杣川(そまがわ)が合流する。ここ(グーグル・マップ・データ)。ウィキの「野洲川」に拠った。

「もくづ」「藻屑」。ここはロケーションから、淡水産の水草類や藻類の類い。]

和漢三才圖會卷第三十八 獸類 兔(うさぎ) (ウサギ)

Usagi

 

 

うさぎ 明眎  婏【子】

    舍迦【梵書】

★   【和名 宇

     佐木】

トウ

[やぶちゃん注:★の部分に上記の画像の篆文が入る。]

 

本綱兔處處有之爲食品之上味大如貍毛褐形如鼠而

尾短耳大而鋭上唇缺而無脾長鬚而前足短尻有九孔

趺居趫捷善走䑛雄豪而孕五月而吐子【或謂兔無雄而中秋望月中顧

兔以孕者不經之說】目不瞬而瞭然【故名明眎】兔者明月之精【白毛者入藥可】

兔以潦爲鼈鼈以旱爲兔熒惑星不明則雉生兔

㚟【音綽】 似兔而大青色首與兔同足與鹿同

肉【甘寒】補中益氣止渴去兒豌豆瘡【凡食兔可去尻八月至十月可食薑

 芥橘及雞肉忌與兔同食】

兔血【鹹寒】 凉血活血催生易産解胎毒不患痘瘡

兔腦髓 又催生神藥【以上藥方見于本草附方】生塗皸凍瘡能治

兔皮毛【臘月收之】 治難産及胞衣不出餘血搶心脹刺欲死

 者極騐【燒灰酒服方寸匕】兔毛敗筆【燒灰】治小便不通及産難

                  慈圓

 拾玉何となく通ふ兔もあはれなり片岡山の庵の垣根に

△按兔善走如飛而登山則愈速下山則稍遲所以前足

 短也毎雖熟睡不閉眼黒睛瞭然

傳燈錄云兔渡川則浮馬渡及半象徹底截流

宋史云王者德盛則赤兔見王者敬耆老則白兔見然今

毎白兎有之北國之兔白者多稱越後兔者形小而潔白

可愛毎食蔬穀而能馴尋常兔性狡而難馴

 

 うさぎ 明眎〔(めいし)〕

    婏〔(ふ)〕【子。】

    舍迦〔(しやか)〕【梵書。】

★      【和名「宇佐木」。】

トウ

 「本綱」、兔、處處に之れ有りて、食品の上味と爲す。大いさ、貍のごとく、毛、褐なり。形、鼠のごとくして、尾、短く、耳、大にして鋭なり。上唇、缺けて、脾[やぶちゃん注:漢方で言う架空の消化器系。現代医学の脾臓とは関係がない。]、無し。長き鬚ありて、前足、短し。尻に九つの孔有り。趺居〔(ふきよ)〕して[やぶちゃん注:両高気後脚の甲を股の上に置いて座り。東洋文庫訳割注を参考にした。]、趫(あし)[やぶちゃん注:実際にはこの漢字も「素早い」の意。]、捷(はや)く、善く走る。雄の豪(け)[やぶちゃん注:時珍の「毫」の誤字か。毛。]䑛めて孕む。五つ月[やぶちゃん注:五ヶ月。]にして子を吐く【或いは、「兔は雄無くして、中秋、望〔(もち)〕の月の中の兔を顧みて、以つて孕む」と謂ふは、不經〔(ふけい)〕[やぶちゃん注:常軌を逸すること。道理に外れること。]の說なり。】。目、瞬(またゝきせ)ずして瞭然たり。【故に「明眎」と名づく。】兔は明月の精〔なり〕【白毛の者、藥に入るるに可なり。】。兔、潦(にはたづみ)[やぶちゃん注:大雨の水。]を以つて鼈〔(すつぽん)〕と爲り、鼈は旱(ひでり)を以つて兔と爲る。熒惑星〔(けいわくせい)〕、明らかならざれば、則ち、雉〔(きじ)〕、兔を生ず。

㚟【音「綽〔(シユク)〕」。】 兔に似て、大なり。青色なる首〔は〕兔と同じく、足は鹿と同じ。

肉【甘、寒。】中[やぶちゃん注:脾胃。消化器系。]を補し、氣を益し、渴きを止め、兒の豌豆瘡(もがさ)[やぶちゃん注:疱瘡(天然痘)の古名。]を去る【凡そ、兔を食ふときは、尻を去るべし。八月より十月に至る〔まで〕食ひて可なり。薑芥〔(きようかい)〕・橘〔(たちばな)〕及び雞〔(にはとり)の〕肉、兔との同食を忌む。】。

兔〔の〕血【鹹、寒。】 血を凉〔しく〕し、血を活す。生〔氣〕を催(はや)め、産を易くし、胎毒を解す。痘瘡を患はず。

兔〔の〕腦髓 又、催生〔(さいせい)〕の神藥〔なり〕【以上の藥方、「本草」の「附方」に見ゆ。】。生〔(なま)〕にて皸(ひゞ)に塗り、凍瘡(しもやけ)を能く治す。

兔〔の〕皮毛【臘月[やぶちゃん注:陰暦十二月の異名。]、之れを收む。】 難産及び胞衣〔(えな)〕の出でざるを治す。餘血〔の〕心〔臟〕を搶〔(つ)〕く[やぶちゃん注:突く。撞く。]もの、脹刺して死せん欲(す)る者、極めて騐〔(げん)あり〕[やぶちゃん注:「驗」に同じい。]【灰に燒きて酒にて方寸の匕〔(さじ)ほど〕を服す。】。兔の毛〔にて製したる〕敗筆(ふるふで)[やぶちゃん注:兎の毛で作った筆が古くなったもの。]【燒き灰とす。】〔は〕小便〔の〕不通及び難産を治す。

                  慈圓

 「拾玉」

   何となく通ふ兔もあはれなり

      片岡山の庵〔(いほ)〕の垣根に

△按ずるに、兔、善く走りて、飛ぶがごとく、山に登るときは、則ち、愈々、速し。山を下るときは、則ち、稍〔(やや)〕遲し。前足の短き所以〔(しよい)〕なり。毎〔(つね)〕に、熟睡すと雖も、眼を閉ぢずして、黒睛(くろまなこ)、瞭然たり。

「傳燈錄」に云はく、『兔、川を渡るときは、則ち、浮く。馬の渡るには、半ばに及ぶ。象〔の渡るときは〕、〔川〕底に徹(いた)り、流れを截〔(き)〕る』〔と〕。

「宋史」に云はく、『王者、德、盛なるときは、則ち、赤兔、見〔(あら)〕はる。王者、耆老〔(としより)〕を敬すれば、則ち、白兔、見はる』〔と〕。然〔れども〕、今、毎〔(つね)〕に白兎、之れ、有り。北國の兔に白き者、多し。「越後兔」と稱せる者、形、小さくして、潔白、愛すべし。毎に蔬〔(やさい)〕・穀を食ひて、能く馴るゝ。尋常の兔、性、狡〔(ずる)〕くして馴れ難し。

[やぶちゃん注:南極大陸や一部の離島を除く世界中の陸地に分布している(但し、オーストラリア大陸やマダガスカル島には元来は棲息していなかった)哺乳綱ウサギ目ウサギ科ウサギ亜科 Leporinae のウサギ類。以下、今回は主に小学館「日本大百科全書」より引く(但し、分類学上の和名の一部で他の資料を参考にした)。『ウサギ目 Lagomorpha は最近まで齧歯』『目Rodentiaのなかの亜目とされていたが、齧歯類が』四『本の切歯(門歯)』『があるのに対して、上あごの大きな』一『対の切歯の背方に小形に退化した』一『対の切歯が余分にあることを最大の特徴として区別され、現在では別の目とされている』。『一般にウサギとよばれている』ウサギ亜科 Leporinae には『ノウサギやカイウサギが含まれる。イエウサギの名でもよばれるカイウサギ rabbit はこの亜科に属するが、いわゆるノウサギ hare と属を異にし』(ノウサギ属 Lepus)、『本来ヨーロッパ中部および南部、アフリカ北部にかけて生息していたアナウサギrabbit(』アナウサギ属『ヨーロッパアナウサギOryctolagus cuniculus)を馴化』させ『たもので、世界各地で改良、飼育されている』。『ノウサギ類は、アナウサギ類に比べ』、『前肢がやや長いため、座ったときの姿勢が斜めになる。穴を掘らずに地上に巣をつくり、そこに子を産む。生まれたばかりの子は、毛が生えそろっていて、目も見え、すぐに歩き回ることができる。ノウサギ類は、オーストラリア、ニュージーランドなどを除き、世界中ほとんどの地域でごく普通にみられる。たとえば、北極圏やアラスカにはホッキョクノウサギ Lepus arcticus やアラスカノウサギ L. othus が、また、ヨーロッパに共通のノウサギとしてヨーロッパノウサギ L. europaeus が分布するなど、多種が広く生息する。日本には、北海道にエゾユキウサギ(エゾノウサギ)L. timidus ainu がいるほか、ノウサギ L. brachyurus の』四『亜種、すなわち、本州の日本海側と東北地方にトウホクノウサギ(エチゴウサギ)L. b. angustidens が、福島県の太平洋沿岸地方より南の本州、四国、九州地方にキュウシュウノウサギ L. b. brachyurus が、さらに隠岐』『と佐渡島に、それぞれオキノウサギ L. b. okiensis とサドノウサギ L. b. lyoni があり、合計』五『種が生息する。エゾユキウサギ』Lepus timidus ainu『と他の』四『種とは異なるノウサギ亜属に属し、エゾユキウサギは、ヨーロッパ、シベリア、モンゴル、中国東北部、樺太』『(サハリン)など亜寒帯から寒帯にかけて広くすんでいるユキウサギ』Lepus timidus『の亜種である。ユキウサギは本種、亜種とも冬になると』、『被毛が純白になる。一方、別の亜属に分類されるトウホクノウサギ』L. b. angustidens や『サドノウサギも冬毛は純白になるが、白くならないキュウシュウノウサギ』L. b. brachyurusや『オキノウサギ』L. b. okiensis『と同一グループとされる。世界でこれと同じ亜属に属するウサギは、中国東北部の東部とウスリー地方の狭い地域に分布するマンシュウノウサギ L. mandchuricus だけである』。『アナウサギ類は、ノウサギ類に比べ』、『前肢が短いため、座ったときの姿勢が低く、体が地面と平行になる。さらにアナウサギの名のとおり、地中に穴を掘って巣をつくり、群れをなして生活する。この地下街は、「ウサギの町」と称されるほど大規模な巣穴となる。妊娠した雌は分娩』『用の巣をここにつくり、生まれた子は、目が開いて』おらず、『赤裸であることもノウサギと異なっている』。『ローマ人たちは、壁に囲われた庭に、とらえたヨーロッパアナウサギを飼育していた。アナウサギはノウサギと異なり、このような人為的な環境下でも子を産み育てるから、数は増え、食肉用として飼育された。中世になると、帆船によって広く世界の各地に運ばれていった。これは、航海中の食糧を求める手段として、各航路の島々にヨーロッパアナウサギをカイウサギとして土着させるためであった。一般的環境、つまり気候や、餌』『となる植生が適し、さらに害敵(肉食獣など)がいない土地では急速にその数を増していった。オーストラリア大陸には元来』、『アナウサギ類は生息していなかったが』、一八五九年に、『ビクトリア州に導入されると、たちまちその数を増やし』一八九〇年頃には、『この地域におけるアナウサギの数は』二千『万頭と推定されるようになった。アナウサギの餌は草や若木の樹皮、畑の農作物であるから、被害は膨大なものになり、手に負えぬ』厄介者に『なった。害を防ぐため、さまざまな手段が実施されたが、効果はなかった』が、一九五〇年頃から、『ウサギの粘液腫』『ウイルス(全身皮下に腫瘤』『を形成し、死亡率が高く、伝染力も強い)を用いた駆除法が成功し、近年はその被害も少なくなってきて』は『いる』という。『日本には、奄美』『大島、徳之島特産の』アマミノクロウサギ属『アマミノクロウサギ Pentalagus furnessi がおり、特別天然記念物に指定されている。穴を掘って巣をつくるところはアナウサギ類に似るが、耳の長さは半分以下で、体全体もずんぐりしている。アマミノクロウサギは「生きている化石」とよばれる動物の一種で、近縁としてメキシコ市近くの山にいる』メキシコウサギ属『メキシコウサギ Romerolagus diazzi と』、『アフリカ南部にいるアカウサギ属のプロノウサギ Pronolagus crassicaudatus などとともにムカシウサギ亜科Palaeolaginaeに分類されている』。『カイウサギは、ヨーロッパアナウサギを馴養することに始まった。その後、大きさ、毛色、毛の長さ、毛の手触りなど、多様な変異を利用し、選抜淘汰』『を繰り返して、多くの品種を作出してきた。用途によって、毛用種、肉用種、毛皮用種、肉・毛皮兼用種、愛玩』『用種に分けられる』。『毛用種としてはアンゴラ』(Angora rabbit)『がよく知られている。トルコのアンゴラ地方が原産といわれ、イギリスやフランスで改良されたものが現在』、『飼養されている』。『白色毛がもっとも商品価値が高く、高級な織物や毛糸に加工される』。『肉用種としてはベルジアンノウサギ Belgian hare や、フレミッシュジャイアント Flemish giant などがある。前者はベルギー原産で体重』三・六『キログラム、ノウサギに似た毛色をしているのでこの名がある。後者は「フランダースの巨体種」の名のとおりフランス原産で、体重は』六・七『キログラムにもなる。毛色は鉄灰色、淡褐色などさまざまである』。『毛皮用種としてはチンチラ Chinchilla やレッキス Rex などがある。両者ともフランス原産』である。『兼用種は肉・毛皮両方を目的につくられ』、『兼用種にはニュージーランドホワイト New Zealand white や日本白色種がある』。『後者は日本でもっとも多く飼育されている白色種で』、『起源は明らかではないが、おそらく明治初期に輸入された外来種との交配によってつくられたアルビノと考えられている。そのため』、『以前は地方によって体形、大きさに差があり、大形をメリケン、中形をイタリアン、小形を南京(ナンキン)とよんでいたが、第二次世界大戦後』、『統一され、体重は生後』八ヶ月で四・八『キログラムを標準とする。肉と毛皮との兼用種として改良されてきたため、毛皮の質と大きさの点で優秀な品種である』。『愛玩用種としてはヒマラヤン Himalayan やダッチ Dutch が』おり、『前者はヒマラヤ地方原産といわれており、体重』一・三『キログラムの小形で、白色毛に、顔面、耳、四肢端が黒色の毛色である。後者はオランダ原産で、黒色、青色、チョコレート色などの被毛であり、胸の周りには帯をかけたような白色毛がある。体重は』二『キログラム前後である』。『餌』『は青草、乾草、野菜、穀類を与える。水は自由に飲めるようにする。とくに乾草給与時や、夏季、分娩後や哺乳中には水分が不足しやすい。ウサギは体に比べて』、『大きな胃と盲腸があって』、『大食である。成長期には』一『日に体重の』一~三『割の餌を食べる。ウサギの奇妙な習性に食糞』『がある。普通にみられる糞と、ねばねばした膜に包まれた糞を交互に排出するが、後者が排出されると、自分の口を肛門』『に近づけて吸い込み、かまずに飲み込む。この糞を食べさせないようにすると、しだいに貧血症状を呈し、やがて死亡する。これからもわかるように、排出物というよりも』、『餌といえるほどにタンパク質やビタミン』B12『が多く含まれていて、ウサギの健康維持にたいへん役だっている』。『ウサギをつかむときには、背中の真ん中より』、『やや前方の皮を大づかみにする。両耳を持ってつり下げるようなことをしてはいけない。粗暴に扱ったり、苦痛を与えると、普段鳴かないウサギも、キイキイと甲高い声を出す。おそらく恐怖のための悲鳴であろう』。『ウサギは生後』八ヶ月から『繁殖に用いられる。野生のウサギには繁殖季節があるが、カイウサギには認められない。また、自然排卵をしないで交尾刺激によって排卵が誘発される。この型の排卵はネコやイタチ類にみられる。妊娠期間は』三十一~三十二日で、一回の分娩で六、七頭の『子を産む。母親は分娩後、非常に神経質になり、興奮して子を食い殺すこともあるので安静にしておく。ウサギの乳汁は牛乳より栄養に富み』、『赤裸の子も早く育』ち、六~七『週齢で離乳する』。『ウサギは暑さに対して弱いばかりでなく、病気に対する抵抗力が一般的に弱い。とくにかかりやすい病気として、原虫によるコクシジウム症』(コクシジウムはアルベオラータ上門 Alveolataアピコンプレックス門 Apicomplexa コクシジウム綱 Coccidea に属する原生生物の一群で、人間・家畜・家禽に対して重大な疾患を引き起こすものが多く含まれるが、単に「コクシジウム」と言った場合は特にアイメリア科アイメリア属 Eimeria の原虫を指すことが多く、これが腸管内に寄生して下痢を起こさせるのがそれである)、『細菌による伝染性鼻炎、ぬれた草(とくにマメ科植物)の多食による鼓張症などがある』。『日本において家畜としてウサギが飼養されるようになったのは明治時代からで、中国やアメリカなどから輸入され、当初は愛玩用として飼われていた。防寒具としての毛皮、食用としての肉が軍需用物資として使用されるようになって急激に飼育数が増大した。これはアメリカへの毛皮輸出を含めた』、大正七(一九一八)年の『農林省の養兎(ようと)の奨励による。飼育数増大とともに各地で毛皮・肉兼用種への改良が行われ、現在日本白色種とよばれるものができた。日本におけるウサギの飼育頭数は、軍の盛衰と運命をともにし、一時は』六百『万頭も飼育されていたが、第二次世界大戦の終戦とともに激減した。なお、日本ではウサギ類を古来』「一羽」「二羽」『とも数えるが、これは獣肉食を忌み、鳥に擬したためである』。『毛皮は軽く保温力に富むので』、『オーバー、襟巻などに、アンゴラの毛はセーターや織物になる。肉もよく利用されるが、ほとんどは輸入されたものである。利用面で近年忘れられないことは、医学、生物学、農学などの研究に供試されることで、年間数十万頭が利用されている』。『ウサギの肉は食用としてもよく用いられる。野ウサギの肉はやや固く一種の臭みがあるが、家ウサギの肉は柔らかく、味も淡白である。ウサギ肉のタンパク質は、粘着性や保水性がよいので、プレスハムやソーセージのような肉加工品のつなぎとしてよく使われた。ウサギの肉は、鶏肉に似ているので、鶏肉に準じて各種料理に広く用いることができる。ただ、においにややくせがあるので、香辛料はいくらか強めに使うほうがよい。栄養的には、ウサギの肉はタンパク質が』二十%『と多く、反対に脂質は』六%『程度で他の肉より少ない傾向がある』。「古事記」の「因幡の白兎」や、「鳥獣戯画」に『描かれているおどけたウサギなど、古来』、『ウサギは人間と密接な関係をもつ小動物と受け取られてきた。「かちかち山」や「兎と亀』『」などの動物説話が広く知られている一方、一見』、『おとなしそうなウサギが』、『逆に相手をだます主人公となるような類話も少なくない。その舞台を語るのか、赤兎山(あかうさぎやま)、兎平(うさぎだいら)、兎跳(うさぎっぱね)など、ウサギにちなむ地名が全国各地に分布する。また』、『時期や天候の予知にも関係し、山ひだの雪形が三匹ウサギになると、苗代に籾種(もみだね)を播』『くとする所や、時化(しけ)の前兆となる白波をウサギ波とよんでいる所が日本海沿岸に広くみられる。ウサギの害に悩む山村の人々は、シバツツミとよばれる杉葉を田畑の周囲に巡らしたり、ガッタリ(水受けと杵(きね)とが相互に上がったり落ちたりする仕掛けの米搗』『き臼』『)の発する音をウサギ除』『けとした。雪国の猟師たちは、新雪上に描かれたテンカクシ、ミチキリなどと特称される四肢の跡を目安に狩りをしたが、なかでも、棒切れあるいはワラダ、シブタなどといわれる猟具を』、『ウサギの潜む穴の上へ投げ飛ばし、空を切る音と影の威嚇』『効果によって生け捕りにする猟法は、注目に値する。また、ウサギは月夜の晩に逃げるとか、その肉を妊婦が食べると兎唇』『(口唇裂)の子が生まれる、などの俗信も少なくない』。『ヨーロッパ、とりわけフランスでは、家畜ウサギは食用としてニワトリと並び賞味されているが、一方の野生のノウサギは、世界各地で民話の登場人物として親しまれてきた。そのイメージの多くは、すばしこくて少々悪賢く、いたずら好きだが、ときには人にだまされるという共通性をもっている。アフリカ(とくにサバンナの草原地帯)の民話では、ウサギはトリック』・『スターとして活躍し、ハイエナなどがウサギにかつがれる。ナイジェリアのジュクン人の民話では、ウサギは王の召使いとして人々との仲介者となったり、未知の作物や鍛冶』『の技術を人々にもたらす文化英雄の役割を演じるほか、詐術によって世の中を混乱させたり、王の人間としての正体を暴いてみせたりする。またいたずら者のウサギは「相棒ラビット」などのアフリカ系アメリカ人の民話にも生き続けている』とある。

「鼈〔(すつぽん)〕」爬虫綱カメ目潜頸亜目スッポン上科スッポン科スッポン亜科キョクトウスッポン属ニホンスッポン Pelodiscus sinensis。同種は中国・日本・台湾・朝鮮半島・ロシア南東部・東南アジアに広く棲息する。本邦産種を亜種Pelodiscus sinensis japonicusとする説もある。

「熒惑星〔(けいわくせい)〕」火星の非常に古い異名。

「雉〔(きじ)〕」鳥綱キジ目キジ科キジ属キジ Phasianus versicolor。この辺り、ウサギがスッポンになり、スッポンがウサギになり、星の影響でキジがウサギを産んじゃったりと、まんず、凄いね!

「㚟」不詳。幻獣染みている。

「薑芥〔(きようかい)〕」中国の本草書「神農本草経」(「鼠實」)や東洋文庫訳の割注(「めづみ草」)によれば、シソ目シソ科イヌハッカ属ケイガイ Schizonepeta tenuifolia のこととなる。ウィキの「ケイガイ」によれば、『薬用植物』とし、『中国原産の草本で花期は初夏から夏』。『花穂は発汗、解熱、鎮痛、止血作用などがあり、日本薬局方に生薬「荊芥(ケイガイ)」として収録されている。荊芥連翹湯(けいがいれんぎょうとう)、十味敗毒湯(じゅうみはいどくとう)などの漢方方剤に配合される。「アリタソウ」という別名がある。ただし、本種はシソ科であり、アカザ科のアリタソウとは全く別の物である』とある。

「橘〔(たちばな)〕」ここは「本草綱目」の記載であるから、バラ亜綱ムクロジ目ミカン科ミカン亜科ミカン属 Citrus のミカン類としか言えない。これを種としての「タチバナ」、ミカン属タチバナ(橘)Citrus tachibana ととってはいけない。同種は本邦に古くから自生している本邦の柑橘類固有種であるからである。近縁種にコウライタチバナ(高麗橘)Citrus nipponokoreana があるものの、これは現在、山口県萩市と韓国の済州島にのみしか自生してない(萩市の自生群は絶滅危惧IA類に指定されて国天然記念物)。

「生〔氣〕を催(はや)め」ここは訓点がおかしいので、独自に読んだ。「催生〔(さいせい)〕」と同じく、健全な生気を促進させるの謂いではあろう。

「脹刺して」意味不明。腹部が膨満して、刺すような痛みがあるということか?

「方寸の匕(さじ)」東洋文庫訳では割注で『茶さじ一杯』とする。

「兔の毛〔にて製したる〕敗筆(ふるふで)【燒き灰とす。】〔は〕小便〔の〕不通及び難産を治す」何らかの類感呪術と思われるが、最早、その謂れが判らぬ。

「慈圓」「拾玉」「何となく通ふ兔もあはれなり片岡山の庵〔(いほ)〕の垣根に」本歌は「夫木和歌抄」の「巻二十七 雑九」にも所収されていたので、「日文研」の「和歌データベース」で校合出来た。

「傳燈錄」「景德傳燈錄」。北宋の道原によって編纂された過去七仏から禅僧及びその他の僧千七百人の伝記を収録している(但し、実際に伝のあるものは九百六十五人だけ)。全三十巻。景徳元(一〇〇四)年に道原が朝廷に上呈し、楊億等の校正を経て、一〇一一年に続蔵に入蔵を許されて天下に流布するようになったため、当代の年号をとって、かく呼ばれるようになった。これ以降、中国の禅宗では、同様の伝記類の刊行が相次ぎ、それがやがて「公案」へと発展したとされる。参照したウィキの「景徳傳燈録」によれば、『現在もなお、禅宗を研究する上で代表的な資料であり、必ず学ぶべきものとされるが、内容は必ずしも史実とは限らない部分もある』とある。う~ん、確かに、この兎と馬と象の謂いは、これ、博物学的というより、まさに公案っぽいがね!

「宋史」「宋書」が正しい。中国二十四史の一つで、南朝宋の正史。全百巻。南朝梁の沈約(しんやく)が撰し、四八八年に完成した。

「越後兔」冒頭解説に出た、本邦産ノウサギの亜種の一つであるトウホクノウサギ Lepus brachyurus angustidens のこと。現在も「エチゴノウサギ」の異名が生きている。本州中部以北に棲息し、頭胴長は五十センチメートル内外。]

夜半の星 伊良子清白

 

夜半の星

 

天半(てんぱん)音無く

東海をのぼる星あり

八月上浣

冷露を浴びて

磯岸(きがん)に立つ

舟人(まなびと)はいと目敏(めざと)くて

すでに錨を拔きつ

暗黑の海なだらかにして

たたなはる四山死せり

淸き旦(あした)の來らんまで

なほここだくの時ぞあらん

萬象結びて蕾の如く

ひたすら祈願の夜半なり

 

[やぶちゃん注:次に注する「上浣」や「磯岸(きがん)」の伊良子清白にして特異な音読み、海と「たたなはる四山」(「疊(たた)なはる」は「幾重にも重なっている・重なり合って連なった」の意)のロケーションから、私は前の「聖廟春歌(媽姐詣での歌)」及び「大嵙崁悲曲(大溪街懷古)」に続く、台湾での嘱目吟がもとではないかと踏む。

「上浣」「じやうくわん(じょうかん)」と読み、上旬に同じい。「浣」は「濯(すす)ぐ」意で、唐代の制度では月の内、十日ごとに官吏に休暇を与え、自宅で入浴させたところから、十日を単位として「浣」或いは「澣(カン)」と称した。

「ここだくの時ぞあらん」「ここだくの」は「幾許(ここだ)くの」で、「相応に長い時間がまだあるようだ」の意。]

大嵙崁悲曲(大溪街懷古) 伊良子清白

 

大嵙崁悲曲

 (大溪街懷古)

 

大嵙崁城(だいこかんじやう)の石疊(せきるゐ)から

臭木(くさぎ)が生え綠珊瑚が茂り

日本が攻めた時の激情が產んだ

赤い生々(なまなま)しい傳說は消えた

仙人掌(しやぼてん)の籬(まがき)

栴檀(せんだん)の花が紫に薰(く)ゆつて

滿地の草露

星を踏む夜の引き明け

蕃山の煙仄(ほの)白く

耿々と南下する大溪

阿旦葉(あたんば)のおほひかぶさつた片蔭から

金の耳環の少女は

靑鷺のやうに

蹌踉と浮び出で

畫眉(ぐわび)ふすふすと

火を點ずる時

廢墟の一角

刑死人らしい志士の幽靈は

日の出前につつましく

朝の齋飯(とき)をうけるのです

 

[やぶちゃん注:素材とした体験地や、その推定時制は前の「聖廟春歌」の私の注を参照されたい。

「大嵙崁城(だいこかんじやう)」現在の桃園市大溪區中央路に「大溪古城遺跡」(グーグル・マップ・データ。以下同じ)があるが、この附近か。同データの画像を見ると、石組の建物が並ぶのが判り、その西直近を大漢溪という川が流れ(後に出る「大溪」である)、その対岸には「大溪大嵙崁人工湿地」という名の地域が確認出来る。

「臭木(くさぎ)」シソ目シソ科クサギ属クサギ Clerodendrum trichotomum。日当たりのよい原野などによく見られ、和名は葉に悪臭があることに由来する。中国・朝鮮及び日本全国に分布する。現代中国語の漢名は「海州常山」「臭梧桐」。

「綠珊瑚」キントラノオ目トウダイグサ科トウダイグサ属ミドリサンゴ Euphorbia tirucalliウィキの「ミドリサンゴ」によれば、『観賞用に栽培される。アフリカ東部周辺の乾燥地の原産と考えられるが、世界の熱帯に広く帰化している。ただし文献によってはインド原産でそこからアフリカ全土に定着したのではないかとするものもあり』、『原産地に関してははっきりとしていない』。なお、『この植物に含まれる乳液は、少なくとも人間にとっては有害なもので』、『全株、特に乳液に発がん作用のあるジテルペンエステルのホルボールエステル類などが含まれ』、『毒性が強いので注意を要する。目に入ると炎症を起こして』『激しい痛みを、皮膚につくと皮膚炎を、誤食すると吐き気、嘔吐、下痢を引き起こす場合があり』、『危険である。皮膚に乳液が付着した場合には、石鹸と水で念入りに洗浄すべきであ』り、『目に入った場合の対処方法としては、人の乳を用いるのが有効であるともいわれる』とある。ウィキには移入先に台湾が含まれていないが、同種或いは同属種と思われるものが、石垣島に移入されて植生していることがネット記載から判るので、台湾に植生していてもおかしくはないと思われる。

「日本が攻めた時」「日清戦争」の結果、「下関条約」によって台湾が清朝から日本に割譲されたのは明治二八(一八九五)年四月十七日であるが、これは台湾の人々にとっては侵略であり、占領に他ならなかった。その初期に於いて、ウィキの「日本統治時代の台湾」によれば、『台湾総督府は軍事行動を前面に出した強硬な統治政策を打ち出し、台湾居民の抵抗運動を招いた。それらは武力行使による犠牲者を生み出した』とある。

「仙人掌(しやぼてん)」ナデシコ目サボテン科 Cactaceae のサボテン類。

「栴檀(せんだん)」本邦にも植生するムクロジ目センダン科センダン属センダン Melia azedarach と採ってよかろう。

「蕃山」(ばんざん)台北に同名の山があるが、ロケーションから違う。とすれば、「蕃」は一般名詞で、その場合、「草木が生い茂る」の意で採れる。別に「蛮」に通じ、未開の異民族や、それらの人々の住む未開の地の意があるが、伊良子清白の名誉のために私は前の意で採っておくことにする。

「阿旦葉(あたんば)」単子葉植物綱タコノキ目タコノキ科タコノキ属アダン Pandanus odoratissimus の葉。

「蹌踉」「さうらう(そうろう)」と読み、「足元がしっかりせず、よろめくさま」を言う。ここは単にイメージとしてのそれであるが、纏足の少女を想起させる。ウィキの「纏足」によれば、『中国大陸からの移住者が多く住んでいた台湾でも纏足は行われていたが、日本統治時代初期に台湾総督府が辮髪・アヘンとならぶ台湾の悪習であると位置づけ、追放運動を行ったため』、『廃れた』とあるから、既に若い少女のそれはなかったかも知れぬものの(伊良子清白が台湾に渡ったのは明治四三(一九一〇)年五月)、この後半部は一種の幻想世界への誘(いざな)いであるから、私は纏足の幼さの残る少女の娼婦、私の偏愛する芥川龍之介の「南京の基督」(大正九(一九二〇)年七月発表。リンク先は私の古い電子テクスト)の少女「宋金花」をイメージしてしまうのである。

「畫眉(ぐわび)」眉墨で眉を描くこと。また、その眉。転じて美人をも指す。そこに「ふすふすと」「火」が点ぜられるというシークエンスは強烈に妖なるもの凄さを持っている。

「廢墟の一角」「刑死人らしい志士の幽靈」無論、日本兵によって殺戮された若き台湾の青年志士である。ここも私は直ちに、芥川龍之介の名篇「湖南の扇」(リンク先は私の電子テクスト)を思い出さずにはいられない。

「齋飯(とき)」仏教では僧の戒律として、本来は正午を過ぎての食事を禁じており、食事は日に午前中に一度のみ許される(しかし、それでは実際には身が持たないので、時間内の正式な午前の食事を「斎食(さいじき)」「斎(とき)」と呼び、時間外の補食を「非時食(ひじじき)」「非時(ひじ)」と呼んだ。それらの語が時刻に関わるものであったところから、後に仏教では食事を「とき」と呼ぶようになった。さすれば、「とき」には「僧侶や修行者が戒に従って、正午前にとる正式な食事」又は「精進料理」、広く「法会の際に供される施食(せじき)」、果ては「法会や仏事の俗な呼称」になったが、ここはその本来の午前中の一度きりの「とき」の「斎料(ときりょう)」として殺された若き志士への少女の供物の意味で用いている。]

聖廟春歌(媽姐詣での歌) 伊良子清白

 

聖廟春歌

 (媽姐詣での歌)

 

   

 

華麗艶美な太陽に迎へられ

草の赤子(あかご)が鈴振り鈴ふり

血に慘(にじ)む荒野(あれの)の旅

蜜のやうな靈廟(れいべう)の地に

到り着いた恍惚の夕

「臺灣」は

航海から上陸した

南瀛(なんえい)の艶姿(えんば)

媽姐(まそ)の羽(は)がひの下で

暖(ぬ)くめられかい割れた

靑い白鳥の卵である

 

   

 

また參籠(さんろう)の夜半

裂帛(れつぱく)の女の肉聲が

赤い悲鳴の胡琴(こきん)から

金の鋭匙(えいび)で

絕美な嗟嘆(さたん)を剔(えぐ)り取る時

「臺灣」は

苦練(くれん)の花の香(にほ)ひに咽(むせ)んで

珠の廻廊(わたどの)月暗く

晝燭の影に鬼集(すだ)き

飛龍の浮彫(うきぼり)の

冷たい楹柱(はしら)にすがつて

銅鐡(てつ)の淚で

泣いて居るのを見る

 

   

 

夜は明け放れ

雪白の巖(いただき)は

東方に爽やか

寶玉の川水を掬(むす)んで

靑藍(せいらん)の旗に

陣容を改めた

露結ぶ月餠(げつぺい)を獻じて

最高神を敬せよ

莊嚴美麗の樓宮に

「臺灣」は

星の葡萄に飾られ

鬱蒼と茂つて

冨貴(ふうき)の相を具(そな)へ

不死の神靈に抱かれて

紅顏朱の如き

壯士と成つた

 

[やぶちゃん注:ここからは昭和四(一九二九)年新潮社刊「現代詩人全集 第四巻 伊良子清白集」の第三パート「南風の海」の電子化に入る。本大パート「南風の海」は同集の大パート「五月野」(詩集「孔雀船」からの九篇抜粋)と次の「鷗の歌」に続くもので、本「聖廟春歌」から「老年」までの全十七篇を収録するが、この十七篇は総て校異記載がない。則ち、初出も不明である。従って、この注は以下では繰り返さない。但し、本篇はロケーションが明らかに台湾であることから、創作時期は別として、実際の体験は、底本全集年譜から、伊良子清白が明治四三(一九一〇)年五月に台湾に渡って台湾総督府直轄の台中病院内科部に勤務して以降、日本に帰国するまでのそれに基づく。その後、同総督府台中監獄医務所長(明治四十五年四月)・同府防疫医(台北医院と台北監獄医務所の双方に勤務。大正五(一九一六)年七月から二月初めまで)を経て、同大正五年三月頃には大嵙崁(だいこかん:現在の中華民国(台湾)桃園市市轄区である大渓(たいけい)区(グーグル・マップ・データ)の日本占領当時の旧称)に移住して開業(次の詩篇「大嵙崁悲曲」はそこでの感懐を元に懐古して創作されたものと思われる)したが、十一月には台北に戻り、医務室を経営(同府鉄道部医務嘱託兼務)、翌大正六年十二月には北ボルネオのタワオへの移住を考え(診療所医師として単身赴任が条件であった)、翌年には渡航するはずであったが、南洋開発組合の中の有力者の一人の、個人的な横槍によって移住が承認されず、万事休すとなる。大正七年三月末、思い立って、台中・台南・橋頭・阿猴を旅し、同年四月上旬、内地帰還を決意、妻幾美(きみ)とともに四月十九日に神戸に入港している。以上、この明治四三(一九一〇)年五月から大正七(一九一八)年四月上旬までの約八年間が伊良子清白の台湾体験の閉区間である。本篇は詩篇の内容から、明治四三(一九一〇)年五月に台湾渡航直後の嘱目をもとにしていると読める。五月で「春歌」はやや遅い感はあるが、新天地での始まり、媽姐への祝歌として相応しいと私は思う。篇中の「一」~「三」のそれは太字ゴシックである。

「媽姐」ウィキの「媽姐」によれば、『媽祖(まそ)は、航海・漁業の守護神として、中国沿海部を中心に信仰を集める道教の女神。尊号としては、則天武后と同じ天后が付せられ、もっとも地位の高い神ともされる。その他には天妃、天上聖母、娘媽がある。台湾・福建省・潮州で特に強い信仰を集め、日本でもオトタチバナヒメ信仰と混淆しつつ』、『広まった』。中国語では、『親しみをこめて媽祖婆・阿媽などと呼ぶ場合もあ』り、『天上聖母、天妃娘娘、海神娘娘、媽祖菩薩などともいう』。『「媽」の音は漢音「ボ」・呉音「モ」で、「マ」の音は漢和辞典にはない』。しかし、中国語では「」(マァー:一声。高い音程を保ちながら、そのまま伸ばす)であり、台湾語でも「」(マァー:三声。中音から始め、ゆっくりと低音に移動し、一気に中音に戻す音)である。『媽祖は宋代に実在した官吏の娘、黙娘が神となったものであるとされている。黙娘は』建隆元(九六〇)年、『興化軍莆田県湄州島の都巡林愿の六女として生まれた。幼少の頃から才気煥発で信仰心も篤かったが』、十六『歳の頃に神通力を得』、『村人の病を治すなどの奇跡を起こし』、『「通賢霊女」と呼ばれ』て『崇められた。しかし』、二十八『歳の時』、『父が海難に遭い』、『行方知れずとな』ってしまい、『これに悲嘆した黙娘は旅立ち、その後、峨嵋山の山頂で仙人に誘われ』、『神となったという伝承が伝わっている』。『なお、父を探しに船を出し』たが、『遭難したという伝承もある。福建連江県にある媽祖島(馬祖列島、現在の南竿島とされる)に黙娘の遺体が打ち上げられたという伝承が残り、列島の名前の由来ともなっている』。『媽祖信仰の盛んな浙江省の舟山群島(舟山市)には』、『普陀山・洛迦山があり』、『渡海祈願の神としての観音菩薩との習合現象も見られる。もともとは天竺南方にあったとされる普陀落山と同一視された』ものである。『媽祖は千里眼(せんりがん)と順風耳(じゅんぷうじ)の二神を脇に付き従えている。この二神はもともと悪神であったが、媽祖によって調伏され』て『改心し、以降』、『媽祖の随神となった』とされる。以下、「各地の信仰」の「台湾」の項。『台湾には福建南部から移住した開拓民が多数存在した。これらの移民は媽祖を祀って航海中の安全を祈り、無事に台湾島へ到着した事を感謝し』、『台湾島内に媽祖の廟祠を建てた。このため』、『台湾では媽祖が広く信奉され、もっとも台湾で親しまれている神と評される事も多い』。『台湾最初の官建の「天后宮」は台南市にある大天后宮であり、国家一級古蹟に指定された』。しかし、『この媽祖信仰は日本統治時代末期に台湾総督府の方針によって一時』、『規制された。なお』、台北最大規模であった台北にあった彼女を祀る「天后宮」は一九〇八年(明治四一年)に台湾総督府によって撤去されてしまい、『かわりに博物館(』現在の『国立台湾博物館)が建てられた』(同博物館は台北市中正區のここ(グーグル・マップ・データ))。『日本統治の終了後は再び活発な信仰を呼び、新しい廟祠も数多く建立されるようになった。なお毎年旧暦の』三月二十三日は『媽祖の誕生日とされ、台湾全土の媽祖廟で盛大な祭りが開催されている』とある。この下線太字部から考えると、伊良子清白は見たのは、この「天后宮」ではあり得ないことになる。私は当初、日本からの渡航船は台北に着くものとばかり考えていたが、彼が務めたのは台中であるから、或いはこれは、船が台北を経由後、台中へ行き、そこで下船して、台中にあった媽姐の廟を訪れたものかも知れない。台中市には彼女を祀った「大甲鎮瀾宮」(俗称で「大甲媽祖廟」「大甲媽」と称し、清の一七三〇年に創建され、現在の中華民国臺中市大甲區順天路にある。グーグル・マップ・データ。同データの画像を見ると、その絢爛さと今も続く信仰の厚さがよく判る)がある。伊良子清白が見たのはここかも知れない。

「南瀛(なんえい)」「瀛」には「大海」「広い海」の意味もあるが、台湾の古地名として「南瀛」があり、その昔、そこには多くの文人が集まっていたともいう。これは台湾の南部(或いは狭義の台南地区)の総称でもあるようで、現在も台南大内区には「南瀛天文教育園区」という施設地区がある。

「艶姿(えんば)」漢語の国に来た伊良子清白にして初めての土地なればこそ従って使った言葉(音)であろう。

「媽姐(まそ)の羽(は)がひの下で」媽姐の守護下にあることの比喩表現と採れるが、媽姐には「天妃(てんぴ)」「天后聖母(てんこうしょうも)」の異名もあるから、羽があっても一向におかしくはないであろう。

「鋭匙(えいび)」現行、鋭匙(えいひ)と呼び、先端がスプーン状になっている、病巣の掻破や骨の組織の除去などの際に使用する医療器具の呼称であるから、医師である伊良子清白には馴染みの語ではなかったか。

「楹柱(はしら)」「はしら」は「楹柱」二字へのルビ。「楹」は「丸く太い柱」の意で、聖廟のそれを指している。

「銅鐡(てつ)」「てつ」は「銅鐡」二字へのルビ。

「靑藍(せいらん)の旗」青や藍は中国の伝統色である。]

2019/04/21

南の家北の家 伊良子清白 (『白鳩』発表の別ヴァージョンの抜粋改作版)

 

南の家北の家

 

  

二歲木(さいぎ)低く山を蔽ひて

蕈(くさびら)かくるゝ草の上に

獅子の形(かたち)したる巨巖(おほいは)

幾つとなく峙(そばだ)ち

霜に飽きたる紅葉(もみぢ)の樹々は

谿(たに)と言はず嶺と言はず

麓と言はず染め盡して

朝な朝な雄鹿の群の角振り立てゝ

彼方の岸より此方の岸に

白く泡立つ水を越えて

早瀨の石を啼き渡る頃

茨に閉せる古き祠(ほこら)は

扉の鋲に露をふきて

百歲曇らぬ神の鏡

月輪懸(かゝ)ると社壇に見えぬ

 

祠の北の椋(むく)の大樹(をほき)を

右に曲りて坂を下れば

半ば岩窟(いはや)半ば黑木

萱(かや)を葺きたる杣小屋(そまごや)あり

祠の南の竹林(たけばやし)過ぎて

雞(とり)の聲朗らにきこえ

こはまた紅葉(もみぢ)の懷子(ふところご)とも

いふ可く景有る藁屋(わらや)立てり

北には母持つ若人(わかうど)一人(ひとり)

山に育ちて火性(ひしやう)の星の

今年二十(はたち)の腕を揮ひ

額の汗もて神人人(しんじんびと)に

廣く下せし生活(たつき)の物を

正しき價(しろ)もて我手に受けぬ

南はあらき父の手より

成長(ひとゝなり)たるわかき處女

春秋(はるあき)司(つかさ)の二人の姬の

形(かたち)を具したる面(おもて)花やかに

竹割る父の業(わざ)を助けて

優(いう)なる手籠を編みし事あり

元來(もとより)兩家は往來(ゆきゝ)繁く

親戚(みより)のごとき交際(なからひ)なれば

彼に枯木を集めし折は

此(これ)に水汲み湯をたてゝ待ち

此に蕨の飯炊(いひかし)ぐ間に

彼は煤けし瓢(ふすべ)を拭きぬ

二條(ふたすぢ)三條林を穿ち

山の諸所(こちごち)印(つ)けたる道は

平和の神の守らせ給ひ

妙(たへ)なる草木の花の香匂ふ

見れば高山(たかやま)雪を帶びて

塔(あらゝぎ)聳ゆる雲の飾(かざり)

餘流(なごり)は遙かに國を傳ひ

煙(けぶり)の廣野を前に盡きぬ

村里(むらさと)遠近(をちこち)森に倚りて

燦爛(きらゝ)の白壁千々に輝き

河の帶もて珠と貫きぬ

山の瞳か二つの家は

げにこの木暗(こぐれ)に世を見るものは

二つの家の圓(まろ)き窓のみ

されど紅(あか)き日(ひ)扇(あふぎ)を閉ぢて

夜(よ)の黑幕を垂るゝに及び

戶を固くして眠りし後(のち)は

天(そら)に彫める不滅の文字(もんじ)

銀河の砂(いさこ)岸に溢れて

星の宴の場(には)とぞ成れる

  

斯(かゝ)る詩卷(しくわん)の紙(かみ)を年(とし)に

三百あまり繰りかへしつゝ

其繪は曾て變らざりき

されば人の世神の攝理

恆河(ごうが)の砂も乾く時は

撫子花咲き雲雀巢(す)ぐひて

趣味ある草野と變る習ひ

人の心にこぼるゝ種を

培ふ造化の力いみじく

今見よ二人の靈(れい)のうごき

日は深秋(ふけあき)の林の奧に

沈(しづ)みの名殘(なごり)を葉末に染めて

目路(めぢ)皆黃ばめる雜木(ざふき)の夕(ゆふべ)

折ふし老木(おいき)の幹にもたれ

互(かたみ)に若きが心うつす

忘我(わすれが)の境(さかひ)を光明(ひかり)流れ[やぶちゃん注:「ひかり」は「光明」の二字へのルビ。]

此時睦(むつみ)の魂(たま)は合ひ

常春(とこはる)百千(ももち)の花のさかり

騎りの御國(みくに)に遊びけらし

眼(まな)ざしおぼろに霞を帶びて

たゆげにまきたる頸(うなじ)のめぐり

男の腕(かひな)は鬢(びん)をおせど

夢見る少女(をとめ)の眼(まみ)の上に

彌生の空なる彩を曳きて

あこがれ限りも知らずげなる

渴きは面(おもて)の色に見えぬ

こは美はしき戀の掛繪

山路(やまぢ)の紅葉(ももぢば)框(わく)を組みぬ

斯くてぞ小女(をとめ)は山に入りて

日每に枯枝集むと號(なの)り

男は木屑を道に撒きて

戀人迷はんしるべと成しぬ

蜘蛛の網小女(をとめ)の顏にかゝり

茨は木樵(きこり)の指を染めて

人里(ひとざと)離れし奧所(おくが)乍ら

戀にはさはりの絕えぬを泣きぬ

いつしか紅葉(もみぢば)霜に敗れ

空癖(そらぐせ)時雨の冬に成れば

谷川(たにがは)淺く乾瀨(からせ)をつくり

岩壺の澄みたる水に

底深く沈む木の枝(ゑだ)

瀨の魚は簗(やな)の破れの流れを上り

石疊(いしだゝみ)木(き)の陰(かげ)暗き淵に津(とま)り

草村の蟲は穴を求めて赤土の

雨無き所霜負(しもまけ)の枯生(かれふ)に隱る

物を燒く竃の烟

白くのみ立のぼりつゝ

その烟棚引く時は

軒を行く一村時雨

冬籠(ふゆごもり)木部屋(きべや)の屋根を

杉皮に厚く繕ひ

大雪の用心すると

置石の數を減らしつ

葡萄畠(ぶだうはたけ)竹棚(たけだな)解きて

古蓙(ふるござ)に幹を被ひぬ

裏木戶に釘打つ音は

からびたる山に木精(こだま)し

猪垣(しゝがき)の石冬ざれて

ふくれたる野鳩ぞとまる

唐臼(からうす)を門(かど)より下ろし

南の軒を支へて

きたかぜあふせ

北風の荒るゝを防ぎぬ

鷄(にはとり)は藪を求食(あさ)りて

枯殘る菊を啄み

くゝと啼きて人につかねば

捨飼(すてがひ)の世話なかりしも

藪寒く冬來(く)るまゝに

仕事場に上ぼる日多く

籠に伏せて籠の窓開けて

餌(え)を撒く要(よう)なき手數(てかず)[やぶちゃん注:「餌(え)」はママ。]

山かげは日の影薄く

張付(はりづけ)の糊は乾かず

藪の前(まへ)風强くして

干飯(ほしいひ)の席(むしろ)ぞ卷かる

炭俵空(あ)きたる燃(もや)し

爐の灰を換へてやおかん

菅笠の紐を固くし

蓑の緖(を)も結(むす)ひなほしたり[やぶちゃん注:「結(むす)ひ」はママ。]

數多き仕事の中に

山里は冬早くして

雪もよひ雲惡しき日も

珍(めづ)らかん思はざりける[やぶちゃん注:「珍(めづ)らかん」はママ。]

 

[やぶちゃん注:前の「山家冬景(斷章)(「南の家北の家」より拔抄)」で注した通り、明治三三(一九〇〇)年十一月発行の二冊及び十二月発行の一冊の『文庫』に三回に分割して発表された長篇の物語詩「南の家北の家」を、抜粋して手を加えた、明治三九(一九〇六)年四月発行の『白鳩』掲載版の改作版「南の家北の家」である。元は題と上・下を除き、詩行本文ほぼ総ルビであるが、流石に、初出のそれも電子化したし、断章抜粋版も示したからには、一部のルビは五月蠅いだけであるから、私の判断で、振れると感じたもののみのパラルビで電子化した。なお、本篇を以って、昭和四(一九二九)年新潮社刊「現代詩人全集 第四巻 伊良子清白集」の、「避暑の歌」に始まった大パート「鷗の歌」は終わっている。]

山家冬景(斷章) (「南の家北の家」より拔抄) 伊良子清白

 

山家冬景(斷章)

 (「南の家北の家」より拔抄)

 

 

    ×

 

山の家は紅葉散りしより

色の彩(あや)剝(は)げたるあとの

荒彫の木偶(でく)の如く

常盤木の葉のみ黑みて

谷川の水は瘦せ

底深く沈む木の枝

衣(きぬ)浣(あら)ふ手の皹(ひび)いたく

水桶を擔(かた)げて登る

坂路に草履は滑(す)べる

さし覗く岩角高く

舞ひ下る落葉頻りなり

瀨の魚は梁の破れの流れを上り

石疊(いしだたみ)木の蔭暖(ぬく)き淵にぞ津(とま)る

草村の蟲は穴を求めて

赤土の雨無き所

霜負(しもまけ)の枯生に陰る

荊薪(おぴろ)たく竃の煙[やぶちゃん注:「おぴろ」は不詳。薪(たきぎ)のこととは思われる。]

白くのみ立のぼりつつ

その煙棚曳く時は

軒を行く一村しぐれ

冬籠(ふゆごもり)木部屋の屋根を

杉皮に厚く繕ひ

大雪の用心すると

置石(おきいし)の數を減らしつ

葡萄畠竹棚解きて

古茣蓙(ふるござ)に幹を被ひぬ

裏木戶に釘打つおとは

からびたる山に木精(こだま)し

猪垣(ししがき)の石冬ざれて

ふくれたる野鳩ぞとまる

雞は藪を求食(あさ)りて

枯れ殘る菊を啄(ついば)み

くくと噴きて人につかねば

拾飼(すてがひ)の世話なかりしも

藪寒く冬來るままに

仕事場に上ぼる日多く

籠(こ)に伏せて籠の窓開けて

餌(ゑさ)を撒く要なき手數

山陰は日の影うすく

張付の糊は乾かず

藪の前風强くして

病葉(わくらば)の枯笹捲かる

南壁干菜(ほしな)黃ばみて

唐辛子の紅(あか)きとほめき

冬乍ら小鳥來にけり

日だまりに針箱運び

何くれと繼(つぎ)を集めつ

剪刀(はさみ)の音ききゐたりけり

 

   ×

 

其夜の風は雪と成りて

後夜(ごや)すぐる頃はたと凪(な)ぎぬ

背戶(せど)の林に木の折るる音

谷の峽間(はざま)に猿の叫ぶ聲

一時(ひととき)斷えては一時續き

なほしんしんと積る雪に

老の寢醒の母は起(た)ちて

雨戶の隙より外をすかし

 

ほのかに煙る空を覗けば

霏々(ひゝ)として降る六つの花

夜は混沌の雪に閉ぢて

幽か(かす)に遠き闇の彼方

鄰の雞(かけ)は時をつくりて

まだ夜の深きを人に告げぬ

彿名(みな)を唱へて枕に就けば

雪の明りにいよいよ暗く

わが兒の寢姿さながら夢の

花の臺(うてな)に見たる如く

深き追懷(おもひで)老いたる人の

袖は慈愛の淚にぬれぬ

 

   ×

 

姿勝(すぐ)れし山の少女(をとめ)の

火影(ほかげ)に榮(は)ゆる白き面(おもて)は

春の陽炎(かげろふ)珠あたたかに

大空わたる白鵠(くぐひ)のとりか[やぶちゃん注:「白鵠(くぐひ)」白鳥(ハクチョウ)のこと。]

その時雪は少歇(をや)みと成りて

風一煽(あふ)り山より下ろし

竹の葉雪をふるひおとせば

後に彈(はじ)く幹の力に

三本(もと)四本(もと)强く打たれて

戛々(あつかつ)と鳴る琅玕(らうかん)靑く

頽雪狼籍竹影婆娑

皆紅(くれなゐ)の爐火に映(うつ)りぬ

 

[やぶちゃん注:標題から判る通り、既に電子化した、明治三三(一九〇〇)年十一月発行の二冊及び十二月発行の一冊の『文庫』に三回に分割して発表された長篇の物語詩「南の家北の家」を抜粋して手を加えて、改題したものである。伊良子清白はよほど本長篇詩に思い入れがあったものらしく、初出の電子化注でも示したように、複数回の抄出改作を行っている。次回、その別な改作版「南の家北の家」(明治三九(一九〇六)年四月発行の『白鳩』掲載版)を電子化する。]

太平百物語卷二 十 千々古といふばけ物の事

 

太平百物語卷之二

    ○十 千々古(ちゞこ)といふばけ物の事

 或城下の事なりし。大手御門の前に、「ちゞこ」といふばけもの、毎夜毎夜、出づるよしをいひ傳へて、日暮(ひぐれ)ては、往來の人、搦(からめ)手の御門へ廻りて、用の事はとゝのへける。

 然るに、其家中に小河多助とて、不敵の若侍ありけるが、

『彼(かの)「ちゞこ」を見屆(とゞけ)ばや。』

とおもひ、ひそかに夜(よ)に入て、大手の御門の前に行き、爰(こゝ)かしこ、うかゞひみるに、げに、人のいふに違(たが)はず、ばけ物こそ出(いで)たれ。

 其形(かた)ちを、よくよくみれば、鞠(まり)の如くなる物にて、地に落(おち)ては、又、中(ちう)にあがり、西に行き、東に走る。動く度(たび)に、何やらん、物の音、しけり。

 多介、ふしぎにおもひ、心靜(しづか)に樣子を見定め、さあらぬ躰(てい)にて、其邊りを行過(ゆきすぎ)る時、彼(かの)ばけ物、多介が前後を飛(とび)上り、とびさがりて、程なく、多介が頭に、

「どう。」

ど、落(おつ)るを、すかさず、刀を、

「すらり。」

と、ぬき取(とり)、手ばしかく切付(きりつけ)ければ、きられて、地にぞおちたりける。

 多介、やがて、飛かゝり、引(ひつ)とらまへて、膝(ひざ)に敷き、大音聲(おんじやう)にのゝしりけるは、

「音に聞へし『千々古』の化物こそ仕留(しとめ)たれ。出合(ではへ)や、出合や、人々。」

と、聲をばかりに呼(よば)はりければ、其邊の家々より、手に手に挑灯(ちやうちん)ともし、つれ、

「御手柄(てがら)にさふらふ。」

とて、立寄(たちより)、その正体(しやうたい)をみるに、化者(ばけもの)にはあらで、誠(まこと)の鞠(まり)なり。

 引(ひき)さきて、内(うち)をみれば、ちいさき鈴を入置(いれおき)たりければ、多介を始め、人々、あきれて、はては、大きにわらひ合(あひ)けり。

 後(のち)にきけば、しれ者共(ども)が工(たく)みて、兩方より繩を張(はり)、此まりを中(ちう)にゆひ付(つけ)、夜な夜な、人をおどし、戲(たはぶ)れけるとぞ。

[やぶちゃん注:本書で初めての擬似怪談でそれも、やや変な連中(それも複数)がやらかした、迷惑極まりない新妖怪系の都市伝説(urban legend)である。

「千々古(ちゞこ)」不詳。どうも、本作の本話のオリジナルな人造似非妖怪名のようである。或いは、以下の意味の類似性からは、その犯行グループが面白がって作って流した名前のような気さえしてくる。恐らくは、近世口語として既に発生していたであろう、「縮(ちぢ)こまる・縮かまる」(自動詞ラ行四段。「人や動物が体を丸めて小さくなる。縮まる」。小学館「日本国語大辞典」の古文の使用例では江戸末期の人情本「春色恵の花」(天保七(一八三六)年であるが(本「太平百物語」は享保一七(一七三三)年刊)、現在の方言では「かがむ・しゃがむ・蹲(うずくま)る」等の意でも東北地方などで各地に見られることから、発生はもっと古いと思われる。或いはそのプレ単語表現が元かも知れない)の意味を含ませたものであろうと思われる。

「手ばしかく」不詳。但し、思うに、これは「手ばしこく」で、「素早い」の意の「手捷(てばし)こし」という形容詞ク活用の連用形「てばしこく」の誤用か、訛りではないかと私は考える。

「挑灯(ちやうちん)ともし、つれ」「つれ」は「連れ」でラ行下二段活用の連用形で、「おのおの提灯を灯して、連れ立ってやって来て」の意。]

太平百物語卷一 九 經文の功力にて化者の難遁れし事

Kyoumonkuriki

    ○九 經文の功力(くりき)にて化者(ばけもの)の難遁(のが)れし事

 或僧、丹波の國を修行せられける時、「村雲(むらくも)の山」といふ所にて、日、暮れければ、上の峠に家(いへ)のありしを求めて、宿(やど)をこひけるに、年の比(ころ)、十二、三斗(ばかり)なる童一人出でて、宿をゆるしぬ。

 内に入りてみれば、あるじは七十あまりの姥(うば)なりけらし。

 其顏(かほ)ばせ、世にすさまじく、目のうちは水晶を磨きたるが如くなりしが、此僧をみて、

「につこ。」

と笑ひて、いひけるは、

「旅僧(りよそう)は何方(いづかた)より、いづくへゆかせ玉ふぞ。」

と問ふ。僧、こたへて、

「われらは何國(いづく)をそれと定むる事、なし。出家の事にさふらへば、命の限りは國々を廻(めぐ)り侍る。」

と申されければ、姥、聞きて、

「扨(さて)は、やさしき御志しにて社(こそ)候へ。今宵は、わらはが家(いへ)に明させ玉へ。見ぐるしく候へど、あれに、一間(ひとま)の候。」

とて、さきの童子にあなひさせければ、此僧も心をやすんじ、一間に入しが、折しも、軒の透間(すきま)より月の影、幽(かす)かにさし渡りければ、

   秋の雨なごりの空ははれやらで

     なを村雲の山の端の月

[やぶちゃん注:「なを」はママ。]

とよみしむかしのことの葉までも、いとゞあはれにおもひいでられ、心靜(しづか)に御經を讀誦(どくじゆ)し居(ゐ)けるに、夜(よ)も更行(ふけゆき)て、納戶(なんど)の内(うち)に、物くらふ音の聞へしが[やぶちゃん注:ママ。]、偏(ひとへ)に、魚(うを)などの骨を、かむやうに聞へしほどに、此僧、あやしみおもひて、杉の戶の間(ひま)より、そと、のぞき見れば、死人(しにん)の腕を取つて、

「ひた。」

と喰(くら)ひけるが、肉の所は、わけて、童子にあたへ、骨と覚しき所は、姥、取くらひぬ。

 此僧、此ありさまを見て、大きにおどろき、

『扨は、世に聞ゆる「山うば」ならめ。此人を喰(くひ)おはらば、終(つゐ[やぶちゃん注:ママ。])には、われらをも取りくらはん。』

とおもふに、肝(きも)・たましゐも身にそはず、あきれはてゝ居(ゐ)たりしが、

『とても、遁(のが)れんとすとも、かなふまじ。所詮、此所に露命(ろめい)を落さんこそ安からめ。』

と思ひ極めて、一心不乱に御經を讀誦し、更に餘念もなかりしが、此姥、死人どもを喰(くら)ひしまひて後(のち)、童子に、いふ。

「何(なに)と、食(しよく)に飽(あき)たるや。」

と。

 童子、かぶりをふりて、

「未(いまだ)あかず。」

といへば、姥、点頭(うなづい)て、

「さこそあらめ。明日(あす)は又、飽くまで喰(くら)はせんに。待(まち)候へ。」

といふ。

 童子、こたへて、

「こよひ、宿まいらせし客僧こそ、肉あひもふとくて、味よからんに、与へ玉へ。」

と、いふ。

 姥がいはく、

「我もさはおもへど、宵より少しもまどろまずして、偏(ひとへ)に經文をのみ誦しゐ侍る程に、我(われ)、いとまを得ず。」

と、いふ。

 此僧、始終を聞(きゝ)て、いよいよ、身心(しんじん)、安からず、偏(ひとへ)に死出(しで)の山路(やまぢ)に迷(まよひ)たる亡者の、ごくそつに逢(あへ)る心地して、いと淺ましくおもひ、猶も、高らかに御經を讀上(よみあげ)ければ、童子、重(かさね)て、いふ。

「いかに經文を讀むとも、われ、行(ゆき)て、喰殺(くひころ)さん。」

と、進み行を、姥、おさへて、いはく、

「汝が及ぶ所にあらず。さあらば、我、行きて、先(まづ)、試みん。」

とて、かの僧の傍(そば)ちかく伺ひ寄(より)しを、此僧、しらぬ顏にて、眼(まなこ)を閉(とぢ)、いよいよ、御經、怠る事、なし。

 時に此姥、折りをみて、飛びかゝつて喰付(くひつか)んとせしが、此僧の姿、俄(にはか)に不動尊の形(かた)ちに見へて[やぶちゃん注:ママ。]、いとおそろしかりければ、中(なか)々、寄(より)もつかれぬに、讀み上ぐる經文の聲、姥(うば)が身節(みふし)にこたへて、殊(こと)なふ苦しかりければ、力(ちから)なく退(しりぞ)きしが、兎角する内、夜もしらじらと明けければ、此僧は、何となく、

「緣あらば、又、參らん。」

などいひて、此宿を出(いで)ければ、姥も童子も、名殘(なごり)おしげに、見おくりしが、辛(から)きいのちを助りて、何事なくぞ、出でられける。

 これ、偏(ひとへ)に經文の功德(くどく)とぞ、聞(きく)人、感を催しける。

 今も此國には、かゝるおそろしきものゝ有(ある)よし、聞へ侍りぬ。

 

太平百物語卷之一終

[やぶちゃん注:「丹波の國」「村雲(むらくも)の山」諸情報を勘案すると、恐らくは兵庫県篠山市東本荘字城山の西の、この「松ヶ鼻」の東北の、この地図の(国土地理院図)中央の小さなピーク(標高三百三十一メートル)ではないかと思われる(グーグル・マップ・データの航空写真はこちら)。

「秋の雨なごりの空ははれやらで」「なを村雲の山の端の月」「とよみしむかしのことの葉」とくれば、誰か知られた歌人の一首であろう、それらしい歌ではある、などということになるのであるが、知らない。少なくとも八代集にはない。主人公は僧なので、西行も調べてはみたが、なさそうだ。そもそもが「秋の雨」という歌い出しは、近代短歌ならまだしも、何となく洗練された古形の感じじゃあないように思われる。私は和歌嫌いなので、ご存じの方は御教授願いたい。]

太平百物語卷一 八 調介姿繪の女と契りし事

 

    ○八 調介(てうすけ)姿繪(すがたゑ)の女と契りし事

 出雲に調介といふ大百姓あり。

 或日、朋友の許(もと)に罷(まか)りて、世上の物がたりをし居けるが、床のかけ物をみれば、いと美しき女の姿繪なり。調介、傍(そば)ちかく寄(より)て見るに、其うるはしさ、生(いけ)るが如くなりければ、やゝみとれ居たり。

 亭[やぶちゃん注:ママ。](あるじ)のいふ、

「いかに、調介殿。世には名畫もある物かな。われ、近比(ちかごろ)、都に登りしに、或人、所持したりしを所望し、求め來りし。」

と語る。

 調介がいふ、

「誠に。かゝる美女、若(もし)、人間にあらば、われ、財寶を擲(なげう)つとも、おしからじ。」

といひければ、亭主(あるじ)、此よしを聞、調介が傍ちかく寄(より)て、いふ樣、

「実(まこと)、さ樣に覺し召(めさ)ば、我、常に聞きおける祕術あり、試(こゝろみ)になして見給ふべきや。」

といふ。

 調介、笑つて、

「いかなる事にや。」

とゝへば、

「されば。此繪を、人間になすの奇術なり。」

といふを、調介、きゝて、

「御身はわれをあざむき玉ふや。これ、おそらくは戲言(たはごと)ならん。」

と、曾(かつ)て信ぜず。

 亭主(あるじ)のいはく、

「われも、未だ、其眞僞をしらずといへども、此術傳へし事は眞実なり。然ども、御身のごとく、疑(うたがひ)の心つよくして、其行(おこなひ)、努(ゆめ)々、行はれず。貴殿、ふかく此繪に執著(しうぢやく)するゆへ[やぶちゃん注:ママ。]申たる也。强(あなが)ちに勸め申には、あらず。」

といふに、調介、亭主を拜して、

「これ、わが過(あやまち)なり。願はくは、其術を授け玉へ。」

と、おもひ入て、こひければ、

「然る上は傳ふべし。わがいふ所を、よく、つとめたまへ。まづ、此繪を御身に與ふるなれば、私宅(したく)に歸りて、密室に閉籠(とぢこも)り、此繪にむかつて、『眞(しん)々』と呼(よび)玉ふ事、每昼夜、百日し玉へ。此事、一日も怠り給ふべからず。扨、百日滿(まん)ずる時に、此繪、かならず、應(おふ/こたへ)ぜん。其時、八年の古酒(こしゆ)をもつて、其顏に灌(そゝ)ぎ給へ。掛繪(かけゑ)をはなれて、人間とならん。穴(あな)かしこ、此行ひ、人に見せ給ふべからず。」

と敎へければ、調介、斜(なのめ)ならず、よろこび、

「是、わが一生の本望(ほんもう)、君が高思(かうおん)、重(かさね)て報ぜん。」

とて、頓(やが)て、わが家(や)に歸り、おしへのごとく、百日、丁寧に勤しかば、ふしぎや、此繪、調介に、言葉をかはす。

 時に、八年の古酒をもつて、面(おもて)に灌ぎしかば、忽ち、掛繪をはなれて、飛(とび)出たり。

 調介、試(こゝろみ)に、先(まづ)、飮食(いんしよく/のみくひ)をさせけるに、常の人に変る事なく、よく、物いひ、打ゑみければ、調介、かぎりなくよろこび、此女と、ふかく契り、年(とし)月をかさねければ、終(つひ)に一子(いつし)を儲(まふ)けたり。

 調介、いよいよ、いとおしみ、彼(かの)傳へし朋友の許(もと)に數の寶をおくりて、恩を謝しけるが、其後、石見(いはみ)より、調介が從弟(いとこ)進兵衞といふもの、訪(とぶら)ひ來りて、山海隔(さんかいへだ)てし疎遠を語り、互ひの無事をよろこびけるが、調介が妻子をみて、其みめ能[やぶちゃん注:「よく」。]、淸らかなるを誉めて、

「何方(いづかた)より迎へ玉ひし。今迄、しらせ玉はぬこそ、遺恨なれ。」

といふに、調介、小聲になりて、「しかじか」のよしを委(くは)しく語りければ、進兵衞、始終をきゝ、大きにおどろき、

「是、天理に違(たが)へり。おそらくは妖術ならん。われ、幸(さいはひ)に希有(けう)の名劍を帶(たい)せり。しばらく、御身にかし與へん。必ず、此妖婦を殺し玉へ。害(がい)し玉はずは、後、大きなる災(わざはひ)あらん。くれぐれ、まどひて、執着(しうぢやく)したまふな。」

と、にがにが敷[やぶちゃん注:「しく」。]いひしに、調介も『此事、如何(いかゞ)』と、未(いまだ)決せざりしが、まづ、進兵衞が心ざし、背(そむき)がたくして、彼(かの)名劍を預り置ぬ。

 其後、此妻、調介にむかひて申けるは、

「われは、是、南方(なんぼう)に住む地仙(ちせん)なり。たまたま、御身に招かれ、此年(とし)月、契りまいらせしに[やぶちゃん注:ママ。]、はからずも、進兵衞の言葉によりて、御身にうたがはれ參らせぬ。然る上は、われ、此所に留(とゞま)る事、あたはず。」

とて、彼(かの)一子を抱(いだき)て、はじめ、調介が灌ぎたる古酒を、悉く、吐(はき)いだし、空中に去(さり)ければ、調介、かぎりなくおしみかなしめども、甲斐なかりけり。

 餘りの戀しさに、彼(かの)掛物の巢(す)を取出し、見けるに、ふしぎや、此女、彼(かの)一子を抱きて、歷然たり。

 調介、おどろき、よくよくみれば、母子(ぼし)ともに繪なり。

 餘りふしぎの事におもひて、或博識の僧に、さんげして、事の樣(やう)を尋(たづね)ければ、此僧のいはく、

「かゝる例(ためし)、唐土(もろこし)の書にも似たる事あれば、わが朝にも有るまじき事にあらず。」

と宣ひけるとかや。

 不思議なりし事にこそ。

 

[やぶちゃん注:「掛物の巢(す)を取出し」の「巢」が判らぬ。何らかの漢字の誤記を考えたが、諸本、孰れも「巢」「巣」である。或いは、「その女性がもともと居たところ」の意でかく用いているのかも知れない。

 既に同工異曲でハッピー・エンドの「御伽百物語卷之四 繪の婦人に契る」を電子化注しているが、その最後で示した、元末の一三六六年に書かれた陶宗儀の随筆「輟耕録」巻十一にある幻想譚「鬼室」の後半部が本話の種本である。そこでは、白文でしか示さなかったので、ここで訓読を試みておく(「早稲田大学図書館古典籍総合データベース」にある承応元(一六五二)年版「輟耕録」に附された訓点を参考にしたが、従っていない部分もある。注は総てオリジナル。私は専門家ではないから、くれぐれも御自身で原文に当たられんことを)。太字部分がそれである。

   *

溫州は監郡の某の一女、笄(かんざし)せる及ぶも、未だ室を岀でず。貌、美しくして、性も慧なり。父母の鍾愛する所の者なり。疾ひを以つて卒す。畫工に命じて其の像を寫す。歲序(さいじよ)[やぶちゃん注:毎年の命日の意であろう。]には張り設けて哭奠(こくでん)[やぶちゃん注:朝夕の弔いであろう。]。常の時には、則ち、之れを庋置(きど)す[やぶちゃん注:棚に仕舞い置くことか。]。任、滿ちて、偶(たまたま)取り去ることを忘る。新しき監郡、復た是の屋に居す。其の子、未だ婚せず。忽ち、此れを得て、心竊(ひそ)かに念じて曰はく、

「妻を娶ること、能く是(か)くのごとくんば、平生(へいぜい)の願ひ事、足らん。」

と。因つて以つて臥室に懸け、一夕、其れ軸中より下り榻(ねだい)に詣でて、前に敍すこと、殷勤なるを見て、遂に與(とも)に好合す。此れより、夜をして來らざる無し。半載(はんとし)を踰(へ)て、形狀、羸弱(るいじやく)す[やぶちゃん注:衰え弱ってしまった。]。父母、詰めて責む。實を以つて告ぐ。且つ云はく、

「必ず、深夜に至れば去ることは、五鼓[やぶちゃん注:午前三時又は四時から二時間を指す。]を以つてす。或いは、佳果を齎(もたら)して我に啖(く)はしむ。我、荅(こた)ふるに餠を與ふ。餌を、則ち、堅く郤(あふ)ぎて[やぶちゃん注:「仰ぎて」で読んだ。]、食はず」

と。父母、其れをして此(ここ)に番せしむ[やぶちゃん注:彼女が餅を食おうとしないことを「番」=大事な意味のある「節目」と捉えた、の意か。]。

「須らく、力(ちから)して、之れを勸むべし。」

と。既にして、女、辭すること得ずして、咽(の)むことを爲す。少-許(しばらく)して、天、漸(やうや)く明く。竟に去らず。宛然として人たるのみ。特に言語すること能はざるのみ。遂に眞(まこと)に夫婦と爲る。而して病ひも亦、恙無し。

 此の事、余、童子の時、之れを聞き、甚だ熟す[やぶちゃん注:深く思いに耽ったものだ。]。『惜しいかな、兩(ふたり)の監郡の名を記す能はざることを』と。近ごろ、杜荀鶴が「松窓雜記」を讀むに、云はく、

『唐の進士趙顏、畫工の處に於いて一つの軟障(ぜんじやう)[やぶちゃん注:装飾を兼ねた障屏用の幕で、柱の間・御簾の内側に掛け、彩色や絵を施した。]の圖を得。一婦人、甚だ麗顏なり。畫工に謂ひて曰はく、

「世に、其れ、無き人なり。如(も)し、生ぜしむべくんば、余、願はくは、納めて妻と爲さん。」

と。工、曰はく、

「余が神畫なり。此れ亦、名、有り。『眞眞』と曰ふ。其の名を呼ぶこと、百日晝夜、歇(た)えざれば、卽ち必ず、之れに應ず。應ざば、則ち、百家の綵灰酒(さいくわいしゆ)[やぶちゃん注:中文サイトを見るに、ここを代表的出典とする伝説の名酒とする。]を以つて之れに灌げば、必ず、活す。」

と。顏、其の言のごとくす。乃(すなは)ち、應じて曰はく、

「諾。」

と。急ぎ、百家の綵灰酒を以つて、之れに灌ぐ。遂に活して下(くだ)り步みて、言ひて笑ひ、飮食すること、常のごとし。終[やぶちゃん注:その年の末。]、一兒を生む。兒の年、兩たり[やぶちゃん注:一年で普通の子の二年分成長したことを指す。]。友人、曰はく、

「此れ、妖なり。必ず、君の與(ため)に患ひを爲さん。余に、神劒、有り。之れを斬るべし。」

と。其の夕べ、顏に劒を遺す。劒、纔(わづ)かに室が顏に及ぶ[やぶちゃん注:妻の目にとまった。]。眞眞、乃ち、曰く、

「妾(わらは)は南嶽の地仙(ちせん)なり。無何(むか)にして[やぶちゃん注:ちょっと。]人の爲めに妾の形を畫がかる。君、又、妾の名を呼ぶ。既にして君が願ひを奪はず[やぶちゃん注:叶えてやった。]。今、妾を疑ふ。妾、住むべからず。」

と言ひ訖(おは)りて、其の子を攜(たづさ)へて、却(しりぞ)きて軟障(ぜんじやう)に上(のぼ)る。其の障を覩(み)るに、惟だ一孩子を添ふのみ。皆、是れ、畫たり』と。

 讀み竟(おは)りて、轉じて、舊聞を懷ふ。巳に三十餘年、若(も)し、杜公が書く所、虛(うそ)ならざれば、則ち、監郡が子の異遇も、之れ有らん。

   *]

卯の花降し 清白(伊良子清白)

 

卯の花降し

 

卯の花降ししとしとと

しめりがちなる燈火に

西の國なるうた人の

すぐれし歌を誦し行けば

 

傷ましかりし我が戀の

悲しき節を歌ふとて

皆うるはしき手弱女の

淚の袖によそへたり

 

春の牧場に笛吹きて

獵の童を戀ふるあり

秋の落葉を片敷きて

仇の世嗣をしたふあり

 

龍の宮居をぬけいでゝ

うみにうかべる少女あり

雪の山路を下りきて

冷き石を抱くあり

 

ことこそかはれさまざまに

うきを籠めたる物語

物の思に堪へかねて

書を擲ち外を見れば

 

顏靑白きうた人は

闇の中よりあらはれて

「わが戀人やなやむらん

なげく勿れ」と告げにけり

 

[やぶちゃん注:初出は明治三八(一九〇五)年九月発行の『文庫』。初出では総標題「短夜」のもとに、本「卯の花降し」と前に電子化した「散步」の二篇を掲げる。署名は「清白」。本篇をここで電子化したのは、底本と差別化するためでもある。底本では本篇は「未収録詩篇」(これは詩集「孔雀船」(明治三九(一九〇六)年五月刊)及び昭和四(一九二九)年新潮社刊「現代詩人全集 第四巻 伊良子清白集」の二種の著作に「未収録」の「詩篇」の謂いである)パートに離れて載り、初出で並べられたという事実を意識しない限り、共時的に読むことがは出来ないからである。是非とも、本篇を読み、後、戻って、「散步」の初出を読まれたい。そうした時、初めて時の推移、「短夜」の夏へと向かう一種の爽快感が漂ってくるように思われるのである。たまにはこういう変則の電子化をやらかしたく思うのである。それぐらいの手間で、初出を味わって戴くのも、これまた、一興と存ずる。

「卯の花降し」は「うのはなくだし」と読む。陰暦四月頃に降る、ちょうど咲いているせっかくの卯の花を散らせてしまうほどに続く長雨を指す。「卯の花腐(くた)し」とも呼び、春雨と梅雨の間の、本格的な梅雨の前触れ、「走り梅雨」のことを指す。私は「うのはなくたし」の「腐し」の漢字表記が嫌いなので、これは視覚的には好ましい。]

散步 清白(伊良子清白)

 

散 步

 

稻の靑葉の丈伸びて

畦(あぜ)に水越す六月の

草生(くさふ)の上はことさらに

このごろ蝶の數多き

 

綠の雲の屯(たむろ)する

林の奧に宿しめて

なくほととぎす大空は

ふるふが如くとよむなり

 

秩父の山の靑あらし

幾村々を渡り來て

新桑繭(にひくはまゆ)や河沿ひの

絲とる家も吹きにけり

 

轍(わだち)の跡をとめくれば

樹立にかこむ一廓(くるわ)

空しき庭に火はもえて

栗の花散る門構(かどがま)へ

 

螢逐ふ兒が夜は競(きそ)ふ

澤べの橋にかかる時

知りたる人の會釋(ゑしやく)して

いづこに行くと尋ねけり

 

[やぶちゃん注:初出は明治三八(一九〇五)年九月発行の『文庫』。署名は「清白」。初出では総標題「短夜」のもとに、「卯の花降し」と本篇の二篇を掲げる。「卯の花降し」は次で電子化する。

「新桑繭(にひくはまゆ)」。新しい桑の葉で育った繭。今年の蚕の繭。「にひぐはまゆ・にひぐはまよ」とも読む、万葉語。

 初出形は以下。

   *

 

散 步

 

稻のあを葉のたけのびて

畦(あぜ)に水こす六月の

芝生の上はことさらに

このごろ蝶の數多き

 

綠の雲の屯(たむろ)する

林々に宿しめて

やまほとゝぎす一つ一つ

ことなる歌をなのるかな

 

秩父の山の靑嵐

幾村々を渡りきて

今日や巢立ちし鳩の子の

弱き翅にもかゝるらん

 

轍(わだち)の跡をとめくれば

木立に圍む一廓(くるわ)

空しき家に火は焚えて

栗の花散る裏の庭

 

螢追ふ子が夜は競(きそ)ふ

澤邊の橋にかかる時

知りたる人の會釋(ゑしやく)して

いづこに行くと尋ねけり

 

   *]

2019/04/20

柳田國男 山島民譚集 原文・訓読・附オリジナル注「馬蹄石」(12) 「駒ケ嶽」(2)

 

《原文》

 深山ノ奧ニ於テ生キタル白馬ヲ見タリト云フ話モ亦多シ。紀州熊野ノ安堵峯(アンドミネ)ノ中腹ニ、千疊ト云ヒテ數町ノ間草ノ低ク連ナリタル平アリ。如法ノ荒山中ナルニモ拘ラズ、古キ土器ノ破片ト共ニ古代ノ戰爭ニ關スル口碑ノ斷片ヲ殘存ス。其一區域ヲ或ハ馬ノ馬場ト名ヅク。時トシテ白馬ノ馳セアリクヲ目擊セシ者アリ〔南方熊楠氏報〕。【神馬足跡】薩摩日置都田布施村ノ金峯山ニモ、山中ニ權現ノ神馬住ミテ、其姿ハ見タル人無ケレドモ、社殿又ハ社頭ノ土ニ蹄ノ跡ヲ殘シ行クコトアリ〔三國名勝圖會〕。美作ノ瀧谷山妙願寺ハ本尊ハ阿彌陀ニシテ靈異多シ。近所出火ノ節ハ堂ノ前ニテ馬七八疋ニ乘リタル者集リ何ヤラ囁ク如ク本堂ニ聞エ、又馬ノ足跡ヲ土ノ上ニ殘スト云フ〔山陽美作記上〕。【山中ノ馬】木曾ノ駒ケ嶽ニ不思議ノ駒ノ居ルコトハ頗ル有名ナル話ナリ。或ハ至ツテ小ナル馬ニシテ狗ホドノ足跡ヲ土ノ上ニ留ムト謂ヒ〔蕗原拾葉所錄天明登攀記〕、或ハ又偉大ナル葦毛ノ馬ノ、尾モ鬣モ垂レテ地ニ曳キ、眼ノ光ハ鏡ヲ懸ケタルガ如ク怖シキガ、人影ヲ見ナガラ靜々ト嶺ノ中央マデ昇リ行ク程ニ、俄カニ雲立チ蔽ヒ行方ヲ知ラズ、其蹄ノ痕ヲ見レバ尺以上アリキト云フ說アリ〔新著聞集所引寬文四年登攀記〕。今若シ此等ノ傳說ニ基キテ馬ニ似タル一種ノ野獸ノ分布ヲ推測スル人アラバ、ソハ多クノ山中ノ馬ノ毛色白カリシト云フ事實ヲ過當ニ輕視スル者ナリ。日本ノ山ニハ白色ノ動物ハソウハ居ラヌ筈ナレバナリ。自分ノ信ズル所ニ依レバ、白馬ハ即チ山ノ神ノ馬ナリ。【山ノ神田ノ神】麓ノ里人時トシテ之ヲ見タリト云フ傳說ハ、ヤハリ亦山神ガ里ニ降リテ祭ヲ享クルト云フ信仰ノ崩レタルモノナルべシ。山ノ神ト田ノ神トハ同ジ神ナリト云フ信仰ハ、弘ク全國ニ分布スル所ノモノナルガ、伊賀ナドニテハ秋ノ收穫ガ終リテ後、田ノ神山ニ入リテ山ノ神ト爲リ、正月七日ノ日ヨリ山神ハ再ビ里ニ降リテ田ノ神トナルト云フ。【鍵引】此日ニハ多クノ村ニ鍵引ト云フ神事アリ。神木ニ注連ヲ結ヒ頌文(ジユモン)ヲ唱ヘツヽ田面ノ方へ之ヲ曳クワザヲ爲スナリ〔伊水溫故〕。【山神祭日】神ノ出入リノ日ハ地方ニ由リテ異同アリ。木曾ノ妻籠山口ノ邊ニテハ、舊曆二月ト十月ノ七日ヲ以テ山ノ講ノ日ト稱シ、山ノ神ヲ祭ル。甲府ノ山神社ノ緣日ハ正月ト十月トノ十七日ナルガ〔甲陽記〕、甲州ノ在方ニテハ十月十日ヲ以テ田ノ神ヲ祭ル〔裏見寒話〕。肥後ノ菊池ノ河原(カワハル)村大字木庭(コバ)ニテハ十一月九日ニ山ノ神ヲ祭ル〔菊池風土記〕。佐渡ニテハ二月九日ヲ山ノ神ノ日トシテ山ニ入ルコトヲ愼ミ、矢根石ノ天ヨリ降ルモ此日ニ在リト信ズ〔佐渡志五及ビ鏃石考〕。【十二神】越後魚沼地方ニテハ一般ニ二月十二日ニテ、從ツテ山神ノ祭ヲ十二講ト呼ビ〔浦佐組年中行事〕、明治以後ハ一般ニ山神祠ノ名ヲ十二神社ト改メタリ〔北魚沼郡誌〕。會津ノ山村ニ於テハ、或ハ正月十七日ニ山神講ヲ營ミ、又ハ二月九日ヲ山ノ神ノ木算ヘト稱シテ戒メテ山ニ入ラヌ例モアレド、多クハ亦正月十二日ヲ以テ其祭日ト爲シ、十二山神ト云フ祠モ處々ニ多シ〔新編會津風土記〕。十二日ヲ用ヰル風ハ隨分廣ク行ハレ、磐城相馬領ノ如キモ亦然リ〔奧相志〕。秋田縣ニテハ平鹿郡山内村大字平野澤ノ田ノ神ナド、四月ト十二月トノ十二日ニ古クヨリ之ヲ祭リシノミナラズ〔雪乃出羽路〕、今モ槪シテ二月ト十月トノ十二日ヲ以テ山ノ神田ノ神交代ノ日ト爲セリ〔山方石之助氏報〕。此地方ニハ北部ハ津輕堺ノ田代嶽、南ハ雄勝ノ東鳥海山ヲ以テ共ニ田ノ神ノ祭場ト爲セリ。【大山祇】田ノ神ヲ高山ノ頂ニ祀ルハ一見不思議ノ如クナレド、出羽ナドニテ山ノ神ト云フハ單ニ山ニ住ム神ノ義ニシテ、大山祇ニハ限ラザリシ由ナレバ〔雪乃出羽路〕、田ノ神任務終リテ靜カニ山中ニ休息シタマフヲ、往キテ迎フルノ意味ナリシナラン。此等ノ事實ヲ考ヘ合ストキハ、深山ノ白馬モ以前ハ右ノ如クー定ノ日ヲ以テ里人ニ現ハレシニハ非ザルカ。駿河ノ奧山ナル安倍郡梅ケ島村ノ舊家市川氏ニ、繪馬ノ古板木ヲ藏ス。モトハ二枚アリキ。【日待】新曆五月ト十一月ト春秋二季ノ日待ノ日ニ、村民此板木ヲ借リテ紙ニ刷リ其畫ヲ村社ノ前ニ貼リ置クヲ習トセリ。【歸リ馬】馬ノ畫ハ右向ト左向トノ二種ニテ、今殘レル板木ノ左向ナルハ之ヲ歸リ馬ト呼ビ、秋ノ祭ニ用ヰラルヽモノナリ〔仙梅日記〕。陸中遠野ニモ之ニ似タル繪馬ノ板木ヲ刷リテ出ス家多シ。春ノ農事ノ始マルニ先ダチテ之ヲ乞ヒテ田ノ水口ニ立テ神ヲ祭ルト云ヘリ〔佐々木繁氏談〕。【出駒入駒】カノ繪錢ノ出駒入駒ガ、之ト關係アリヤ否ヤハ兎モ角モ、此馬ノ田ノ神山ノ神ノ乘用ナリシコトノミハ、先ヅハ疑ヲ容ルヽノ餘地ナカルべシ。二月初午ノ祭ノ如キモ、今ハ狐ノ緣ノミ深クナリタレドモ、古クハ山ニ人ル日ノ祭ナリシコト、古歌ヲ以テ之ヲ證スルニ難カラズ。【白色ノ忌】常陸那珂郡柳河(ヤナガハ)村附近ニテハ、二月八日ノ午前ト十二月八日ノ午後ヨリト、白キ物ヲ屋外ニ出スコトヲ戒ムル俗信アリ〔人類學會雜誌第百五十九號〕。此日ハ他ノ地方ト同樣ニ山ニ入ルコトヲ愼ムヲ見レバ、即チ亦山神ノ祭日ニシテ、白キ物ヲ忌ムハ則チ白馬ヲ村ニ飼ハザルト同趣旨ノ風習ナルコトヲ知ル。

 

《訓読》

 深山の奧に於いて、生きたる白馬を見たり、と云ふ話も亦、多し。紀州熊野の安堵峯(あんどみね)の中腹に、「千疊」と云ひて、數町の間[やぶちゃん注:一町は約百九メートルだから、六掛けで六百五十五メートルほどか。]、草の低く連なりたる平(たいら)あり。如法(によほふ)の[やぶちゃん注:そこらにある普通の。]荒山中(あらやまなか)なるにも拘らず、古き土器の破片と共に、古代の戰爭に關する口碑の斷片を殘存す。其の一區域を或いは「馬の馬場」と名づく。時として、白馬の馳せありくを目擊せし者あり〔南方熊楠氏報〕。【神馬足跡】薩摩日置(ひおき)都田布施(たぶせ)村の金峯山(きんぽうざん)にも、山中に權現の神馬住みて、其の姿は見たる人無けれども、社殿又は社頭の土に蹄(ひづめ)の跡を殘し行くことあり〔「三國名勝圖會」〕。美作(みまさか)の瀧谷山妙願寺は、本尊は阿彌陀にして、靈異、多し。近所出火の節は、堂の前にて、馬七、八疋に乘りたる者、集まり、何やら、囁(ささや)くごとく、本堂に聞こえ、又、馬の足跡を土の上に殘すと云ふ〔「山陽美作記」上〕。【山中の馬】木曾の駒ケ嶽に不思議の駒の居(ゐ)ることは、頗る有名なる話なり。或いは、至つて小なる馬にして、狗(いぬ)ほどの足跡を土の上に留むと謂ひ〔「蕗原拾葉」所錄「天明登攀記」〕、或いは又、偉大なる葦毛の馬の、尾も鬣(たてがみ)も、垂れて、地に曳き、眼の光は、鏡を懸けたるがごとく怖しきが、人影を見ながら、靜々(しづしづ)と嶺の中央まで昇り行く程に、俄かに、雲、立ち蔽ひ、行方を知らず、其の蹄の痕を見れば、尺以上ありき、と云ふ說あり〔「新著聞集」所引「寬文四年登攀記」〕。今、若(も)し、此等の傳說に基きて、馬に似たる一種の野獸の分布を推測する人あらば、そは、多くの山中の馬の毛色、白かりしと云ふ事實を、過當(かたう)に[やぶちゃん注:許容されるレベルを越えて過剰に。]輕視する者なり。日本の山には、白色の動物は、そうは居らぬ筈なればなり。自分の信ずる所に依れば、白馬は、即ち、「山の神」の馬なり。【山の神・田の神】麓の里人、時として之れを見たり、と云ふ傳說は、やはり亦、山神(やまがみ)が里に降(くだ)りて祭を享(う)くると云ふ信仰の、崩れたるものなるべし。『「山の神」と「田の神」とは同じ神なり』と云ふ信仰は、弘(ひろ)く全國に分布する所のものなるが、伊賀などにては、秋の收穫が終りて後、「田の神」、山に入りて「山の神」と爲り、正月七日の日より、「山神」は再び里に降りて「田の神」となると云ふ。【鍵引(かぎひき)】此の日には多くの村に「鍵引」と云ふ神事あり。神木(しんぼく)に注連(しめ)を結(ゆ)ひ、頌文(じゆもん)を唱へつゝ、田面(たのも)の方へ、之れを曳くわざを爲すなり〔「伊水溫故」〕。【山神祭日】神の出入りの日は地方に由りて異同あり。木曾の妻籠(つまごめ)・山口の邊りにては、舊曆二月と十月の七日を以つて「山の講の日」と稱し、「山の神」を祭る。甲府の山神社の緣日は正月と十月との十七日なるが〔「甲陽記」〕、甲州の在方にては、十月十日を以つて「田の神」を祭る〔「裏見寒話」〕。肥後の菊池の河原(かわはる)村大字木庭(こば)にては十一月九日に「山の神」を祭る〔「菊池風土記」〕。佐渡にては二月九日を「山の神」の日として、山に入ることを愼み、「矢根石(やのねのいし)、天より降るも此の日に在り」と信ず〔「佐渡志」五及び「鏃石考(ぞくせきかう)」〕。【十二神】越後魚沼地方にては一般に二月十二日にて、從つて、「山神」の祭を「十二講」と呼び〔「浦佐組(うらさぐみ)年中行事」〕、明治以後は、一般に、山神祠(やまがみのほこら[やぶちゃん注:私がこれを音で読むのが厭なのでかく当て訓した。])の名を「十二神社」と改めたり〔「北魚沼郡誌」〕。會津の山村に於いては、或いは、正月十七日に「山神講(やまがみこう)」を營み、又は、二月九日を「山の神の木算(きかぞ)へ」と稱して、戒めて、山に入らぬ例もあれど、多くは亦、正月十二日を以つて、其の祭日と爲し、「十二山神(やまのかみ)」と云ふ祠も處々に多し〔「新編會津風土記」〕。十二日を用ゐる風(ふう)は隨分、廣く行はれ、磐城相馬領のごときも亦、然り〔「奧相志(おうさうし)」〕。秋田縣にては平鹿郡山内(さんない)村大字平野澤の「田の神」など、四月と十二月との十二日に、古くより之れを祭りしのみならず〔「雪乃出羽路」〕、今も、槪して、二月と十月との十二日を以つて、『山の神」・「田の神」交代の日』と爲せり〔山方石之助氏報〕。此の地方には、北部は津輕堺(さかひ)の田代嶽、南は雄勝(をがち)の東鳥海山(ちがちちやうかいさん)を以て共に田の神の祭場と爲せり。【大山祇(おほやまづみ)】「田の神」を高山の頂(いただき)に祀るは、一見、不思議のごとくなれど、出羽などにて「山の神」と云ふは、單に山に住む神の義にして、大山祇には限らざりし由なれば〔「雪乃出羽路」〕、「田の神」、任務終りて、靜かに山中に休息したまふを、往きて迎ふるの意味なりしならん。此等の事實を考へ合すときは、深山の白馬も、以前は右のごとく、ー定の日を以つて、里人に現はれしには非ざるか。駿河の奧山なる安倍郡梅ケ島村の舊家市川氏に、繪馬の古板木を藏す。もとは二枚ありき。【日待(ひまち)[やぶちゃん注:村の近隣の仲間が特定の日に集まり、夜を徹して籠り明かす行事。通常は家々で交代に宿を務め、各家からは主人又は主婦が一人ずつ参加する。小規模の信仰的行事(講)で、飲食をともにして楽しく過ごすのが通例である。]】新曆五月と十一月と春秋二季の日待の日に、村民、此の板木を借りて、紙に刷り、其の畫(ゑ)を村社の前に貼り置くを習ひとせり。【歸り馬】馬の畫は、右向きと左向きとの二種にて、今、殘れる板木の左向きなるは、之れを「歸り馬」と呼び、秋の祭に用ゐらるゝものなり〔「仙梅日記」〕。陸中遠野にも、之れに似たる繪馬の板木を刷りて出だす家、多し。春の農事の始まるに先だちて、之れを乞ひて、田の水口(みなぐち)に立て、神を祭ると云へり〔佐々木繁氏談[やぶちゃん注:「遠野物語」の原作者佐々木喜善のペン・ネーム。]〕。【出駒(でごま)・入駒(いりごま)】かの繪錢(ゑせん)の出駒・入駒が、之れと關係ありや否やは兎も角も、此の馬の、「田の神」・「山の神」の乘用なりしことのみは、先づは疑ひを容るゝの餘地、なかるべし。二月初午(はつうま)の祭のごときも、今は狐の緣のみ深くなりたれども、古くは、山に人る日の祭なりしこと、古歌を以つて之れを證するに難からず。【白色の忌】常陸那珂郡柳河(やながは)村附近にては、二月八日の午前と十二月八日の午後よりと、白き物を屋外に出すことを戒むる俗信あり〔『人類學會雜誌』第百五十九號〕。此の日は他の地方と同樣に、山に入ることを愼むを見れば、即ち亦、「山神」の祭日にして、白き物を忌むは、則ち、白馬を村に飼はざると同趣旨の風習なることを知る。

[やぶちゃん注:「紀州熊野の安堵峯(あんどみね)」奈良県吉野郡十津川村上湯川(和歌山県境ごく直近)にある標高千百八十四メートルの安堵山(あんどさん)(国土地理院図)。次注も参照されたい

「南方熊楠氏報」当該内容の部分は確認出来なかったが、明治四四(一九一一)年四月二十二日附の南方熊楠の柳田國男宛書簡で恐らく(書き方から)始めて南方が柳田にこの「安堵峯」の話をしており、その後もここで得た伝承を柳田宛の書簡で披露しているから、この時期に南方から得た情報であろうと思われる。因みに、当該書簡で南方は、この峰の名前について、『西牟婁郡兵生(ひょうぜ)』は『二川村の大字』で、『ここに当国』(紀伊国)『第一の難所安堵が峰あり、護良親王ここまで逃げのびたまい安堵せるゆえ安堵が峰という』と由来を記している。

「薩摩日置(ひおき)都田布施(たぶせ)村の金峯山(きんぽうざん)」は鹿児島県南さつま市金峰町(ちょう)尾下(おくだり)他にある本岳・東岳・北岳からなる標高六百三十六メートル(北岳)の連山。地元では美人が寝た横顔に見えることから「美人岳」という別名で親しまれる。山頂直下西に金峰神社がある。ここ(グーグル・マップ・データ)。

「美作(みまさか)の瀧谷山妙願寺」不詳。岡山県津山市戸川町に浄土真宗妙願寺があるが、ここは通称は「鶴山御坊」で、山号は「法雲山」で違う。但し、本尊は阿弥陀如来(浄土真宗だから当然)で、この寺、美作国の触頭(ふれがしら)を務めた有力な寺ではある。「山陽美作記」に当たらぬと判らぬ。

「木曾の駒ケ嶽」長野県上松町・木曽町・宮田村の境界にそびえる標高二千九百五十六メートル山で、木曽山脈(中央アルプス)の最高峰。ここ(グーグル・マップ・データ)。言わずもがなであるが、「駒」を名に持つ山は概ね、融雪期の山肌に現れる馬型をした残雪に基づき(山容の場合もある)、ここ木曽駒ヶ岳でも雪解け期には幾つかの雪形が見られ、それらが古くから農業の目安にされてきた経緯がある。特に山名の元にもなった駒(馬)は中岳(標高二千九百二十五メートル)の山腹に現われるものを特に指す。

『「新著聞集」所引「寬文四年登攀記」』同書「勝蹟編篇第六」の「信州駒が岳馬化して雲に入る」。寛文四年は一六六四年。「早稲田大学図書館古典籍総合データベース」のこちらで原典当該部が読める。

「馬に似たる一種の野獸の分布を推測する人あらば」柳田先生、そんな人は、いませんよ。そんな動物、いませんもの。

「日本の山には、白色の動物は、そうは居らぬ筈なればなり」柳田先生、冬毛のライチョウ(キジ目キジ科ライチョウ属ライチョウ Lagopus muta)、食肉目イヌ亜目イタチ科イタチ亜科テン属テン亜種ホンドテン Martes melampus melampus の冬毛は頭部が灰白色或いは白出、尾の先端も白いですし、特に鯨偶蹄目反芻亜目 Pecora 下目ウシ科ヤギ亜科ヤギ族カモシカ属ニホンカモシカ Capricornis crispus には全身が白い個体もいますぜ?!

「鍵引(かぎひき)」個人ブログ「愛しきものたち」の「伊賀市 西高倉の山の神(カギヒキ)」に解説と写真が載る(地図有り)。それによれば、『三重県伊賀地方やその南部、名張や大和高原域では「山の神」信仰が根強く残り、この地域では山の神を迎えるために殆ど「鍵引き神事」を行うので「山始め」を単に「カギヒキ」と呼び習わしている』。『「鍵引き神事」は山の神を「田の神」として里に迎え入れるために木枝の鍵手で引き寄せる神事で』「『山の神と共々』、『農作物や銭金や糸錦も村へと引き寄せよ』」『と祈って今尚』、『行われている』。『その現場には中々』、『出遭う事は出来』ない『が、その場所を後から訪ねることは出来』るとして、『先ずは』、『滋賀県甲賀市に程近い伊賀市の北端、御斎峠(おとぎ峠)に近い高倉神社一の鳥居と共に有る』、その『神事の行われる「山の口」の大ケヤキ』の写真が示される(神事の痕跡が明瞭)。『この地、西高倉の「カギヒキ」は例年』一月七日『に行われ、「東の国の銭金この国へ引き寄せよ、西の国の糸錦この国へ引き寄せよ、チョイサ、チョイサ」と唱えられると言う』。『両部鳥居脇に立つ「山の口」の大ケヤキと呼ばれる欅の巨木に縄の片方が巻きつけられ、鍵引神事の樫の葉をつけた鍵状の枝がたくさん付けられている』。『又』、『この西高倉では、縄は掛け渡されることなく』、『片方は切られて地表に打ち捨てられているが、これにはどういう意味が有るのか解らない』とある。検索では他の地方のそれも散見される。

「木曾の妻籠(つまごめ)」現在の長野県木曽郡南木曽町妻籠宿(グーグル・マップ・データ。以下同じ)。

「山口」岐阜県中津川市山口。県境を越えるが、実は妻籠の西直近。

「肥後の菊池の河原(かわはる)村大字木庭(こば)」旧上益城(かみましき)郡河原(かわはら)村、現在の熊本県阿蘇郡西原村河原の内であることしか判らない。この「かわはる」の読みも不審。郷土史研究家の御教授を乞う。

「矢根石(やのねのいし)、天より降るも此の日に在り」「矢根石(やのねのいし)」本邦では、縄文時代に弓矢の使用とともに現われ、縄文から弥生時代を通じて主に狩猟具として使われた剥片石器を指す。材料は黒曜石・粘板岩・頁岩が多い。ここで改めて説明するより、私の「北越奇談 巻之二 俗説十有七奇 (パート1 其一「神樂嶽の神樂」 其二「箭ノ根石」(Ⅰ))」「同パート2」「同パート3」を見られた方がビジュアル的にも手っ取り早い。なお、ここにあるように、これらを神々の武器と採り、暴雨風や落雷或いは禁忌を破る者が出た時、天からそれが振ってくると信じた、石器天降説は古くからあった。

「鏃石考(ぞくせきかう)」書名注は附けない約束だが、これは私の好きなの奇石収集家で本草学者であった木内石亭(きのうちせきてい 享保九(一七二五)年~文化五(一八〇八)年)の著作である。

「浦佐組(うらさぐみ)年中行事」「文化庁」公式サイト内の「浦佐毘沙門堂の裸押合(はだかおしあい)の習俗」で、宝暦(一七五一年~一七六四年)期に書かれた当地域の記録資料であることが判った。

『「山神」の祭を「十二講」と呼び』「十二山神(やまのかみ)」菊地章太氏の論文「十二山ノ神の信仰と祖霊観」(「上」・「中」・「下」・「拾遺」四部構成で孰れも総てPDFでダウン・ロード出来る)が非常に詳しい。

「磐城相馬領」現在の福島県相馬市・南相馬市・双葉郡の内の、旧標葉(しめは)郡と旧相馬郡に相当する(リンクはそれぞれのウィキで、そこにある旧郡域図で位置が判る)。

「平鹿郡山内(さんない)村大字平野澤」現在の秋田県横手市山内(さんない)平野沢

「北部は津輕堺(さかひ)の田代嶽、南は雄勝(をがち)の東鳥海山(ちがちちやうかいさん)を以て共に田の神の祭場と爲せり」「田代岳」は秋田県大館市早口で、標高千百七十八メートル。「東鳥海山」は別名「権現山」で標高七百七十七メートルで、その名は単に山容が西方の鳥海山に似ていることによるもの。秋田県湯沢市相川麓沢

「大山祇(おほやまづみ)」大山祇の神。小学館「日本大百科全書」より引く。狭義には、『記紀神話で』伊耶那岐・伊耶那美『の子、また磐長姫(いわながひめ)・木花開耶姫(このはなさくやひめ)の父として語られる神』で、「古事記」では「大山津見神」、「伊予国風土記」逸文では「大山積神」と『記す。本居宣長』は「古事記伝」の中で、『山津見とは山津持(やまつもち)、すなわち』、『山を持ち、つかさどる神のことであるという賀茂真淵』『の説を紹介している』。「伊予国風土記逸文では、『仁徳』『天皇のとき』、百済『国より渡来、初め摂津国御島(みしま)(大阪府三島)に座し、のち』、『伊予国御島(愛媛県今治』『市大三島(おおみしま)町)に移り、現在の大山祇』『神社に祀』『られたと記し』、「釈日本紀」では、『現在の静岡県三島市大宮町の三嶋』『大社の祭神としても記している』。但し、現在、各地の神社に祀られてある大山祇神は、そうした神話とは関係なのない、広義の意の「山の神」として一般に信仰されてきた神である、とある。

「安倍郡梅ケ島村」現在の静岡市葵区梅ヶ島

「二月初午(はつうま)の祭のごときも、今は狐の緣のみ深くなりたれども」初午は本来その年の豊作祈願が原型であたが、それに稲荷信仰が強く結びついた結果、専ら、稲荷社の祭りのように転じてしまったものである。

「常陸那珂郡柳河(やながは)村」茨城県の旧那珂郡にかつて存在した村であるが、現在、村域は、ひたちなか市・那珂市・水戸市の三つに分離している。この附近(旧村名を継いでいる水戸市柳河町をポイントした)。

太平百物語卷一 七 天狗すまふを取りし事

 

    ○七 天狗すまふを取りし事

 安藝の國いつくしまにて、一年(ひとゝせ)、相撲(すまふ)ありしが、諸國より名を得たるすまふ取り、おほく集まりければ、見物羣(ぐん)をなしけり。

 すでに相撲も五日めになりて、

「大関をとらす。」

と觸れければ、見物、一入(ひとしほ)いやまし、錐(きり)を立つベき地もなかりしが、其日のすまふも段々すみて、既に、大関、出(いで)たりしに、寄(より)の形屋(かたや)に、たれあつて、相手にならんといふ者、なければ、しばらく時をぞ、うつしける。

 然るに、年の比(ころ)、五十斗なる、いろ、靑ざめたる男、出(いで)ていふやう、

「今日(こんにち)の相撲は、大関殿の御すまふをこそ見まほしくて、たれたれも參りたれ、これ程、大勢集まり玉ひて、すゝむ人のなきこそ、ぶ興(けう)なれ。それがし、年寄(より)て御(おん)相手にはならずとも、いで、一番取申さん。」

といひければ、大関をはじめ、諸見物に至るまで、

「かゝるおのこ[やぶちゃん注:ママ。]が、何として、小ずまふの一番も取べき。あら、片腹いたきいひ事や。」

と、座中、一同にどよめきけるが、暫くありて、行司、立出(たちいで)、申すやう、

「是は奇特(きどく)の御事ながら、年來(ねんらい)、相撲に馴れたる者だに、御身の年ごろとなれば、すまふはとられぬ物なり。殊に、是れは、此度(たび)の大関にて、日(につ)本に名を得し、大兵(ひやう)なり。さればこそ、御覽ぜよ、はやりおの衆(しゆ)中さへ、心おくして、時、うつりぬ。必(かならず)、無用にし玉へ。」

といふ。

 此男、大きに腹をたて、

「すまふは時の拍子なり、必、弱きが負(まく)るにあらず、强きが勝つにも定めがたし、われらも少しは覚へのあればこそ、望みもしぬ。いかに行司の仰せにても、ぜひぜひ、とらでは、叶ふまじ。」

と、中々ひき入るけしきなければ、大関、甚(はなはだ)ぶ興し、

「われ、おほくの相撲を取りしに、終(つひ)にかゝる老ぼれの相手に成りたる事、なし。此すまふは、取まじ。」

といふに、此親仁(おやぢ)、

「とらずんば、此座をさらじ。」

と、土俵にすはつて、動かねば、諸見物は同音に、

「いざや、其おやぢが意地(ゐぢ)ばるに、引とらへて、打殺せ。」

とぞ、ひしめきける。

 大関、今は是非なく、立出(たちいで)、

「おのれ、中[やぶちゃん注:「宙(ちう)」の意。]につかんで、うき目をみせん。」

と立かゝれば、此男も、進みよる。

 行司、團(うちは)を引くといなや、双方、やがて、

「むず。」

と、組む。

 諸見物は、息をつめ、

「あはや、親仁が打殺(うちころ)されん、不便(びん)や。」

と、どよめきける。

 案のごとく、大関、兩手をさしのべ、此男を中(ちう)に引提(ひつさげ)、自由自在にふり廻し、目より高くさし上て、大地(ぢ)に、

「どう。」

ど、なげけるを、中(ちう)にて、反(かへ)りて、

「すつく。」

と立(たて)ば、大関、いかつて、又、引つかみ、なげんとせし兩手を取りて、いだき、しめ、中々、ちつとも、動かさず。

 大関、少(すこし)漂(たゞよ)ふ所を[やぶちゃん注:少しだけ体勢を崩しかけたとろを。]、右へまろばし、左へまはし、褌(よつい[やぶちゃん注:ママ。後注参照。])をつかんで、中(ちう)にさし上げ、大音上げていひけるは、

「いかに旁(かたがた[やぶちゃん注:「方々」に同じで、複数の人々に対して敬意を表して呼ぶ言い方。])、わが[やぶちゃん注:私が。]、『年寄りて物數寄(ものずき)』と御笑ひ侍れども、相撲には、はや、勝(かち)たるぞ。」

と、又、二、三遍ふり廻し、大地(だいぢ)へ、

「どう。」

ど、打付(つく)れば、起(おき)もあがらず、絕入(たへいり[やぶちゃん注:ママ。])たり。

 有合(ありあふ)所の[やぶちゃん注:そこに居合わせた総ての。]すまふ取より、諸見物に至るまで、

「案(あん)に相違(さうゐ)。」

と、おどろき、騷ぎ、

「にくき親仁が仕業(しわざ)哉(かな)。それ、迯(にが)すな。」

といふ程こそあれ、東西の相撲取、四方より取まはし、

「爰(こゝ)よ。」

「かしこ。」

と、搜すれども、いづち、行(ゆき)けん、其場に、見へず。

 はては、大きに喧嘩となり、南北に逃(にげ)はしり、泣(なき)さけぶ聲、おびたゞしかりしが、よくよく後(のち)にきけば、大関が餘り傍若無人(ぼうぢやくぶじん)なりしを、天狗のにくみて、かくは、はからひけるとかや。

[やぶちゃん注:「褌(よつい)」国立国会図書館蔵本底本の国書刊行会の「江戸文庫」版ではルビを振っていないが、私の底本としている原典(「早稲田大学図書館古典籍総合データベース」の原板本の当該頁)を見ると、「ふんどし」ではなく、「よつい」とルビされてある。調べてみると、小学館「日本国語大辞典」で解明出来た。正しくは「よつゐ」で漢字表記は「四井」「四居」でこれは、「四辻」と同義とあり、「四辻」の項で二番目の意味として、『相撲のまわしの腰のうしろで結んだところ。三つ辻。よつい。よつゆい』とある。恐らく、「江戸文庫」版の本篇を読んでいる読者は誰もがここを「ふんどし」と読んでいるはずで、これは私自身も目から鱗のルビなのであった。――「ふんどし」をつかんで宙に差し上げ――ではなく「よつゐ」をつかんで宙に差し上げ――の方が遙かに原映像を活写しているからである! 私には大発見であった!!!

君の眼を見るごとに 伊良子清白

 

君の眼を見るごとに

 

君の眼を見るごとに

君のことばを聽くごとに

君の柔手(やはで)をとるごとに

君の唱歌をきくごとに

我てふもののいつとなく

君のこころに流れ入り

瀧(たぎ)つ早瀨のさらさらと

光りを帶びて見ゆるかな

 

[やぶちゃん注:初出は明治三八(一九〇五)年九月発行の『文庫』であるが、初出では総標題「小詩二篇」のもとに、先の「北のはて」とともに本篇を「無題」として収め、署名も単に「清白」である。初出では題名以外に最終行が「月を帶びても見ゆるかな」となっている点が有意な相違点である。]

北のはて 清白(伊良子清白)

 

北のはて

 

北のはて千島の國土(くぬち)

濃き霧の去來(いざよふ)ふあたり

夏七月(ふづき)雪厚肥えて

赤熱の目も力なし

 

父母(たらちね)の古巢をいでて

水くむと通ふ細路

夕づつの照らせる下に

夷曲(えぞぶり)を悲しくうたふ

 

深沼(ふけぬま)の水のおもてに

くろぐろとうかぶ唐松

山祇(やまづみ)の棲める谿間(たにま)に

木魂して震ふ響よ

 

丈(たけ)低き落葉松林(からまつばやし)

一刷毛の雲と連なり

深碧(ふかみどり)湖遠く

さかしまに樹立をうつす

 

常春(とこはる)の國の幻影(まぼろし)

南(みんなみ)の海の白帆は

夕雲の中に漂泊(たゞよ)ひ

珊瑚珠の柱ぞ見ゆる

 

[やぶちゃん注:初出は明治三八(一九〇五)年九月発行の『文庫』であるが、初出では総標題「小詩二篇」のもとに、本「北のはて」と次に電子化する「君の眼をみるごとに」の原詩「無題」を収める。署名は「清白」。初出形の第二連以降を連の順列変更を含めて大幅に書き変えている。

「父母(たらちね)」はママ。「父母」二字に対して「たらちね」とルビする。古語には「たらちね」で「父母・両親」の意がある。

 以下が初出形。

    *

 

北のはて

 

北のはて千島の國土(くぬち)

濃き霧の去來(いざよふ)ふあたり

夏七月(ふづき)雪厚肥えて

赤熱の目も力なし

 

丈低き落葉松(からまつ)林

一刷毛の雲と連り

深碧湖遠く

さかしまに樹立を映(うつ)す

 

此土に處女(をとめ)と生れ

南に船を見る目は

常春(とこはる)の國を慕ひて

大海(おほうみ)に淚を落す

 

父母(たらちね)の古巢をいでゝ

水くみに通ふ細路

夕つゞの照らせる下に

夷曲(えぞぶり)を悲しくうたふ

 

古沼の水の面に

くろぐろとうかぶ唐松

山祇の棲める谿間に

こだまして冴ゆる響よ

 

    *]

淨瑠璃姬 清白(伊良子清白) (附・初出形)

 

淨瑠璃姬

 

 

   

 

矢矧(やはぎ)の長(ちやう)の愛娘(まなむすめ)

淨瑠璃姬と諢名(あだな)せし

巫女(みこ)の一人はこのうちに

最(い)と年若の少女なり

 

姉君たちの體(てい)たらく

鳩に交(まじ)りて殿(でん)に飛び

燃ゆるが如き緋の袴

古き簾(すだれ)の裾に曳く

 

巫女年壯(さう)に心冷え

陰陽(をんめう)の術(じゆつ)授かりて

巫覡(いちこ)の窟(いは)の木伊乃(みいら)かな

髮は骨より生ひいでて

 

痛みや也縣珠肉に生(わ)く

千尋(ちひろ)の底も泥あかく

紅藻(べにも)色づき丈(たけ)伸びて

神しろしめす春はあり

 

見よ美しの巫女(かんなぎ)が

男の胸の火に觸れて

燒けずば燒けん焦(こが)れんと

物の誘はばいかならん

 

淨きは淨く業(ごふ)に墮(お)ち

人を蠱(まど)はす蝙蝠(かはほり)の

老巫(いちこ)の谷に投げられて

立つ期(ご)もあらぬ不具者(かたはもの)

 

しかずわれらは黑髮の

長きを市の女(め)に結(ゆ)はせ

丹塗(にぬり)の鈴の柄は折りて

杉の木叢(こむら)をのがれんか

 

火桶圍みてしとやかに

坐せし三人(みたり)のをとめごは

彼が激しき熱情に

破船(はせん)に遭ひしここちしつ

 

   

 

女怪(によくわい)の君か蛇性(じやしやう)の淫か

美しきもの怪ならば

黑髮長く角生ふる

女餓鬼(めがき)の口にくらはれん

 

牛若丸とよばれたる

美少は佐保の川添柳

雲を帶びたる朝姿

腰にさしたる小刀(さすが)かな

 

蓼(たで)に親しむ鮎鮓(あゆずし)の

淨瑠璃姬を戀ひ慕ひ

顏もほてるや若盛り

親の許さぬ文(ふみ)千束(ちづか)

 

幽鬼(すだま)の如く家を出で

春日(かすが)の森に來て見れば

馬醉木(あしび)花咲く朝明けの

岡には鹿の啼きにけり

 

雪消(ゆきげ)の澤に袖長の

眉紫の山姬が

十五の鏡たて列ね

姿うつすを目に見たり

 

肩にかけたる藤娘

地に曳く程の花房を

霧のまぎれに曳きすてて

朱(あけ)は御垣(みかき)にのこりけり

 

今は心も恍惚(ほれぼれ)と

海山こえて里こえて

神樂(かぐら)のひびき舞殿(まひどの)の

階(きざはし)近く來りけり

 

若紫の元結(もとゆひ)や

髮もほどけて面(おもて)にかかり

その中空の蜻蛉蟲(あきつむし)

千々にみだるる身のうつつなや

 

[やぶちゃん注:初出は明治三五(一九〇二)年十二月発行の『文庫』であるが、初出では総標題「霜柱」のもとに、既に電子化した「野衾」と本「淨瑠璃姫」及び「秋和の里」の三篇を掲げてある。署名は「清白」。初出形は全一段(上記のような上下二段構成をとらない)で、それを激しく書き変えている。以下に初出を示す。

   *

 

淨瑠璃姬

 

矢矧(やはぎ)の長(ちやう)の愛娘(まなむすめ)

淨瑠璃姬とあだ名せし

巫女(みこ)の一人はこのうちに

最も年若の少女なり

 

浮世を知らぬ巫女なれば

胸はきよしといふ勿れ

花は少女の物なれば

折らでかなはぬ時あらん

 

姉君たちのていたらく

鳩にまじりて殿(でん)に飛び

燃ゆるが如き緋の袴

靑き簾の裾に牽く

 

巫女年壯(さう)に、心冷え

陰陽(をんめう)の術(じゆつ)授かりて

巫覡(いちこ)の窟(くつ)の木伊乃(みいら)かな

我等の末は皆かくぞ

 

痛みや、胸(こゝ)を撫でさすり

童女(どうによ)の昔たらちねと

祭、見に來し夢を迫ひ

乍ち神に驚きつ

 

見よ、美しの巫女(かんなぎ)が

男の胸の火に觸れて

燒けずば燒けん焦(こが)れんと

物の誘はゞいかにせん

 

淨きは淨く業(ごふ)に墮(お)ち

人を蠱(まど)はすうそつきの

老巫(いちこ)の谷に投げられて

立つ期(ご)も知らぬ不具者(かたはもの)

 

しかずや、われ等黑髮の

長きを市の女(め)に結(ゆ)はせ

丹塗(にぬり)のあしだなげうちて

杉の木叢(こむら)をのがれんか

 

火桶圍みてしとやかに

坐せし三人(みたり)の少女子は

彼が激しき熱情に

破船(はせん)にあひし心地しつ

 

外面(そとも)は竹の玉霰

冬の威こゝにあらはれて

燈火白く氷るらし

少女も終に默したり

 

さばれ三人の持つ鍵は

早鏽び朽ちて役立たず

盲ひたりける悲しさよ―

我身の歌を火の中に―

 

女怪(によくわい)の君といふ勿れ

美しきもの怪ならば

小說多き少女子の

命は正(しやう)の化物ぞ

 

牛若丸とよばれたる

美少は奇良の若葉陰

雲を帶びたる佐保川の

淸(きよ)けき岸に生まれたり

 

蓼(たで)に親しむ鮎鮓(あゆずし)の

淨瑠璃姬と戀慕ひ

顏もほてるや若盛り

親の許さぬ文(ふみ)千束(ちづか)

 

五條の橋に辨慶と

鎬削りし御曹司

其正眞の我ならば

ひらりとこゝの垣越えて

 

さてもお通(つう)の物語り

假名(かりな)の姬の主ならば

十二の鏡並み立てゝ

優しの姿うつすもの

 

巫女に召されて家を出で

春日の森に來て見れば

雪消(ゆきげ)の澤に袖長の

あなあやにくの者ありき

 

あなあやにくの者ありき

髮や、若衆の立姿

掟ぞ、彼は戰きて

少女の群にかききえつ

 

咒詛(のろひ)はこの子拙かり

大熱鐡を鎔(とろ)ろかすを

劫(こう)經て知るは聖(せい)の業(わざ)

さもなく知るは可憐の子

 

その時よりぞ少女子の

胸はいたくもみだれしか

淨瑠璃姬のゆゑよしを

知る人絕えてあらざりき

 

   *

初出のダッシュ一字分表記はママ。「奇良」というのは分らない。「奇良」で形容詞の語幹への当て字と考えたり、地名として調べたりしてみたが、判らない。しかしこれは現在の奈良県北部の奈良市及び大和郡山市を流れる佐保川の近くの景であり、そこに生まれた牛若丸、源義経を語る段である。私はてっきり義経の生地は京都とばかり思っていたが、調べてみると、現在の奈良県奈良市大柳生町説(リンクはグーグル・マップ・データ)があることを知った(個人ブログ「義経伝説を追う」の「牛若丸誕生の地(奈良県)」を見よ。但し、この大柳生町には佐保川は流れていない。佐保川はずっと南西である)。してみると、これは或いは初出誌の「奈良」の誤植なのではあるまいか? 大方の御叱正を俟つ。

2019/04/19

和漢三才圖會卷第三十八 獸類 檮杌(たうこつ)・獌(ばん)・猾(かつ) (総て幻獣)

Toukotu

  

 

 

たうこつ  倒壽

 

檮杌

      【頑凶而無疇匹

       曰檮杌此獸然

タ◦ウキユイ  故名之乎】

 

三才圖會云檮杌【一名倒壽】獸之至惡者好闘至死不却西荒

中獸也狀如虎毛長三尺餘人靣虎爪口牙一丈八尺獲

人食之獸闘終不退却惟而已

――――――――――――――――――――――

【音萬】

[やぶちゃん注:以下は原典では項目名の下に三行で記されてある。]

三才圖會云獌獸之長者【一名獌狿】以其長故从曼

从延大獸而似狸長百尋

字彙云貙似貍而大立秋日祭獸一名獌

――――――――――――――――――――――

【音滑】

[やぶちゃん注:同前。但し、四行目の良安の評言は頭から。]

本綱曰海中有獸名曰猾其髓入油中油卽活

水不可救止以酒噴之卽滅不可于屋下收故

曰水中生火非猾髓而莫能也【樟腦亦能水中生火】

△按猾不載形狀蓋檮杌獌之類本朝未曽有之物

 

 

たうこつ  倒壽〔(たうじゆ)〕

 

檮杌

      【頑凶にして、疇匹〔(ちうひつ〕)

       無きを、檮杌と曰ひ、此の獸、

ウキユイ  然り。故に之れを名づくか。】

[やぶちゃん注:「疇匹」とは「自分と同じ類いの仲間・輩(ともがら)」の意で、仲間がいない孤独な獣だというのである。何だか……淋しそうだな……。]

 

「三才圖會」に云はく、『檮杌【一名「倒壽」。】、獸の至惡なる者なり。好〔んで〕闘〔ひ〕、死に至るも、却〔(さ)〕らず。西荒〔(せいこう)〕[やぶちゃん注:中国西方の未開地。]

〔の〕中の獸なり。狀、虎のごとく、毛の長さ三尺餘。人靣にして、虎の爪・口なり。牙、一丈八尺。人を獲り、之れを食〔(くら)〕ふ。獸の闘ひて終(つひ)に退き却らざるは、惟〔(こ)〕れのみ』〔と〕。

――――――――――――――――――――――

〔(ばん)〕【音「萬」。】

「三才圖會」に云はく、『獌、獸の長者〔なり〕【一名「獌狿〔(ばんえん)〕」。】。其の長きを以つて、故に「曼」に从〔(したが)〕ひ、「延」に从ふ。大獸にして、狸に似たり。長さ、百尋(ひろ)あり。

「字彙」に云はく、『貙は貍に似て、大なり。立秋の日、獸を祭る。一名「獌」』〔と〕。

――――――――――――――――――――――

【音「滑」。】

「本綱」に曰はく、『海中に、獸、有り。名づけて「猾」と曰ふ。其の髓、油の中に入るれば、油、卽ち、水を活〔(わか)〕し、救ふべからず。止(たゞ)酒を以つて之れを噴(ふ)くときは、卽ち、滅す。屋の下に收むべからず。故に曰ふ、「水中に火を生ずること、猾の髓に非ざれば、能〔(よ)〕くすること莫し」と【樟腦も亦、能く水中に火を生ず。】』〔と〕。

△按ずるに、猾〔は〕形狀を載せず。蓋し、檮杌・獌の類ひ〔ならん〕。本朝には未曽有〔(みぞう)〕の物なるべし。

[やぶちゃん注:三種ともに幻獣でモデル動物は、なしとしておく。ウィキの「檮杌」には、『中国神話に登場する怪物の一つ。四凶』(聖王舜によって中原の四方に流された四柱の悪神とされる存在。ウィキの「四凶」によれば、「書経」と「春秋左氏伝」に『記されているが、内容は各々異なる。四罪と同一視されることが多いが』、「春秋左氏伝」の文公十八年(紀元前六〇九年)に『記されているものが一般的で』、そこでは、『大きな犬の姿をした「渾沌」(こんとん)』、『羊身人面で目がわきの下にある「饕餮」(とうてつ)』、『翼の生えた虎「窮奇」(きゅうき)』、『人面虎足で猪の牙を持つ「檮杌(とうこつ)」』を挙げる)『虎に似た体に人の頭を持っており、猪のような長い牙と、長い尻尾を持って』おり、『尊大かつ頑固な性格で、荒野の中を好き勝手に暴れ回り、戦う時は退却することを知らずに死ぬまで戦う』。『常に天下の平和を乱そうと考えて』おり、『「難訓(なんくん。「教え難い」の意)」という別名がある』。前漢の東方朔の作とされる「神異経」には、「西方荒中有焉、其狀如虎而犬毛、長二尺、人面虎足、猪口牙、尾長一丈八尺、攪亂荒中、名檮杌、一名傲狠、一名難訓」とある、とする。

『「三才圖會」に云はく……』檮杌のそれはこの左頁(国立国会図書館デジタルコレクションの画像)。

「獌」音の「バン」は大修館書店「廣漢和辭典」の当該字の、大きな獣とする部分の「獌狿(バンエン)」の読みに従った(同辞書にはその前で「狼の一種」及び「狸の一種」とはある)中文サイトの解説では伝説上の獣で、狼の一種とするが、「百尋」(「三才図会」の成立したのは明代であるが、「尋」は中国では古代(戦国頃まで)に使用されたきりで後には使用されなかった。使用された当時の一尋は八尺で一メートル八十センチとされるから、体長百八十メートルの狼や狸は同定することこれ能はずである。

『「三才圖會」に云はく……』のそれはこの左頁(同前)。

「字彙」明の梅膺祚(ばいようそ)の撰になる字書。一六一五年刊。三万三千百七十九字の漢字を二百十四の部首に分け、部首の配列及び部首内部の漢字配列は、孰れも筆画の数により、各字の下には古典や古字書を引用して字義を記す。検索し易く、便利な字書として広く用いられた。この字書で一つの完成を見た筆画順漢字配列法は、清の「康煕字典」以後、本邦の漢和字典にも受け継がれ、字書史上、大きな意味を持つ字書である(ここは主に小学館の「日本大百科全書」を参考にした)。

「立秋の日、獸を祭る」老婆心乍ら、獣の獌が生贄を供えて天に祭りするのである。

「猾」海棲哺乳類という設定だが、その「髓」(骨髄と採っておく)を、「油の中に」投ずると、その油(水は液体としての油のことか)を沸騰させて、手におえない状態になると言い、そうなった時には酒をそれに吹きかけると沸騰がやむ、だから昔から、「水中で火を起こさせようとすれば、猾の骨髄を用いる以外にはよい方法は他にない」というのだが、これ、何だか、言っている意味が今一つ腑に落ちない。しかし、ともかくも、その「猾の骨髄」なる物質が、油或いは水激しい化学反応を起こすというのであろう。想起したのは爆発的熱反応を示す消石灰(水酸化カルシウム)や金属ナトリウム、及び、海というところからはメタンハイドレートmethane hydrateである(私は中学生の時、理科部(海塩粒子班)で、理科教師が戸棚の奥を整理する内、古い試料の中に少量の金属ナトリウムを発見し、処分するのを見学させて貰ったことがある。小指の頭ほどで既に劣化していたようであったが、シャーレの中で少量の水に浮かべると、激しい炎を上げながら、くるくると回るのに息を呑んだのを今も忘れない)。但し、大修館書店「廣漢和辭典」の「猾」を見ると、海獣の名とし、「正字通」を引き、そこには「猾には骨がなく、虎の口に入っても、虎は噛み砕くことが出来ない。そのまま猾はやすやすと虎の消化器官の中に入り込み、その虎の内側から噛みつく」という、とんでもないことが書いてあるのである。しかし、この海獣を虎が食うというのも、ちと不自然ではなかろうかとは思う。

「樟腦」クスノキ目クスノキ科ニッケイ属クスノキ Cinnamomum camphoraの精油の主成分である分子式 C10H16Oで表される二環性モノテルペンケトン(monoterpene ketone)の一種。「能く水中に火を生ず」ることは残念ながらないけれど、思い出すよね、小さな時にやった「樟脳舟(しょうのうぶね)」「協和界面科学株式会社」公式サイト内のこちらから引用しておくよ。『小さな模型舟の船尾にショウノウの塊を付けておくと、舟を水に浮かべたときに勝手に走り回る現象』だ。『「ショウノウ」というと防虫剤の匂いを思い出す方もいらっしゃるでしょうが、最近ではp(パラ)ジクロロベンゼンなどにその役目を奪われてしまいましたので、入手しにくいかもしれません』。『(なお、いずれも口に入れると有害ですので、食べないように。)』『こショウノウの分子は、水をはじく疎水基と、水になじむ親水基を持っています。舟の船尾に取り付けられたショウノウの塊が分解して、分子が水面に移ると、疎水基を上にして単分子の膜を形成します。舟の後方ではショウノウの単分子膜ができ、舟の前方には水面があります。物質は表面張力により、その面積を少なくしようとします。この場合、水の表面張力はショウノウよりも高いため、水面の面積の方がより小さくなろうとする力が強いのです。したがって、ショウノウと水の境目は水のほうへ引き寄せられます。そして、その境目にある舟も、一緒に引っ張られてしまうため動きます。また船尾のショウノウはどんどん溶け出していきますから、ますますショウノウの表面は広げられてしまいます』。『ショウノウにはじかれて動いているように見えますが、実際は水の表面張力によって引っ張られているわけです。しかしこの舟も、水面が完全にショウノウ分子で覆われてしまうと、動かなくなります』。

「本朝には未曽有〔(みぞう)〕の物なるべし」本朝には未だ嘗つて存在したことがない動物と言ってよい。良安先生、謙虚やねぇ。そうそう、偉そうな麻生先生、「みぞう」でっせ、「みぞゆう」じゃあ、ありまへんで。

葡萄の房 清白(伊良子清白)

 

葡萄の房

 

暮れ行く秋のたのしさを

語らふごとく睦まじく

葡萄は房に集りぬ

夕陽照らせる野の畠に

 

されどわが眼にとまりしは

風やおとせる草の間に

腐れはてたるくだものの

見るかげもなきそれなりき

 

愛は祕密のささやきか

さにはあらずと思へども

室に洩れたる繼子(ままこ)等を

見れば憎惡(にくみ)の疵(きず)はあり

 

棚にかかれる紫の

葡萄の房は幸あれど

情の犧牲(いけにへ)眼の下は

土も被(おほ)はぬ墓場なり

 

腐れしものはいとはしき

形を人に示せども

おのがすぐ世(せ)にくらべ見て

淚を灑(そそ)げつたなさに

 

愛は憎惡(にくみ)にあらねども

憎惡の砦(とりで)築かずば

安きを知らぬ果實(くだもの)の

葡萄の房ぞ罪多き

 

[やぶちゃん注:明治三五(一九〇二)年七月発行の『文庫』初出で総標題「葉分の月」の中の一篇(前の「三人の少女」の私の注を参照)。署名は「清白」。初出とは有意な相違を私は認めない。伊良子清白が意識しているかどうかは別として、「聖書」の「創世記」の、例のエデンの園の「禁断の木の実」はウィキの「禁断の果実」によれば、『しばしばリンゴとされるが、これはラテン語で「善悪の知識の木」の悪の部分にあたる「malus」』(マールス)『は「邪悪な」を意味する形容詞だが、リンゴも「malus」になるため、取り違えてしまったか、二重の意味が故意に含まれていると読み取ってしまったものとされ』、『東欧のスラブ語圏では、ブドウとされる事が多い。ユダヤ教神秘思想の書籍』「ゾーハル」『でも、禁断の木の実をブドウとしている』とある。伊良子清白は後年の大正七(一九一八)年三月、妻の幾美(きみ)とともに『永く近づこうとしてきたキリスト教に帰依し』(底本全集年譜に拠る)、洗礼を受けている。]

太平百物語卷一 六 愚全ばけ物の難を遁れし事

Guzen

  

    ○六 愚全ばけ物の難を遁れし事

 備中に愚全といへる沙門あり。

 年比(としごろ)、都の方に志しありて、此春、おもひ立(たち)けるが、播磨の書寫山へも次でながら參詣しけるに、下山の比(ころ)、山中にて日(ひ)暮(くれ)ければ、其あたりなる辻堂に立寄(たちより)、『一夜(ひとよ)を明さばや』とおもひ、通夜(よもすがら)、念佛して居られけるに、年のほど、十八、九斗(ばかり)なる女一人、何國(いづく)ともなく來りて、愚全にむかひ、いふ樣、

「それに入らせ玉ふは、御僧(おんそう)と見參らせて候。一夜のほど、此方(こなた)へ來り玉へ、御宿(おんやど)をかしまいらせん。」

といふに、折しも餘寒(よかん)、身にしみ、堪がたかりければ、

「誠に、御こゝろざし、有りがたく候。」

とて、打連(うちつれ)て行ければ、一つの庵(いほり)に入りぬ。

 愚全、家内(かない)を見廻すに、此わかき女の外、人、一人もなし。

 愚全、心におもひけるは、

『かゝる所に一宿せん事、心よからぬ事かな。』

と思ひながら、力なくしてゐられけるに、此女、愚全にいふやう、

「御覽のごとく、わらは事、獨ずみのやもめなれば、たれを力にすべき便(よすが)なし。御身、夫婦となりて、われに力をそへ玉へ。」

と、傍(そば)ちかく寄そへば、愚全、興を覺(さま)し、

「こは、おもひよらぬ仰(おほせ)かな。われは元來(もとより)出家の身なれば、假初(かりそめ)の戲(たはむれ)だに、仏のいましめ給ふぞかし。あなかしこ、筋なき事、な宣(のたま)ひそ。」

と、にがにがしくいへば、此女、うちわらひて、

「さないひ給ひそ。出家も美童を愛し給ふうへは、女とても何か苦しう候べき。」

といひければ、愚全、こたへて、

「さればとよ。童子は成長にしたがひて、愛著(あいぢやく)のこゝろ、はなるゝものにて、殊に子孫相續の因緣なく、女の道とは格別なり。其上、女は五障(しやう)三從(じう)(/いつのさはりみつのしたがひ)の苦しみありて、仏のいませ給ふぞ。」

と、さも、すげなくぞ申ける。

 此女、つくづく聞きて、

「實(げに)、さる事も侍るやらん。」

とて、其儘、十四、五斗なる美童と變じ、愚全が傍へすゝみ寄(より)、

「われこそ、佛のゆるし給ふ童子なり。情(なさけ)をかけて給はれ。」

といふ。

 愚全、此有樣をみて、

『これ、察する所、化物(ばけもの)なり。』

とおもひながら、荅(こた)へていはく、

「實(げに)。それとても、道德めでたき知識の事なり。愚僧がごとき蒙昧(もうまい)の身は、童子とても、かなひがたし。」

といへば、其時、童子、氣色かはり、

「扨々、にくや。おのれが舌頭(ぜつとう/したのさき)の聞まゝに、樣々にいひ遁(のが)るゝ腹たちさよ。いで、其義ならば、喰殺(くひころ)さん。」

とて、頓(やが)て大き成坊主となりて、愚全を一口に吞まんとす。

 其時、愚全は眼を閉(とぢ)、一心に「仁王經(にんわうきやう)」を修(しゆ)しければ、此妙音(みやうおん)におそれをなし、消(けす)が如くに失せけるが、彼(かの)庵と見へしも、いつしか、㙒原(のばら)となりて、愚全、茫然と四方をみれば、よは、はや、東よりしらみ渡りしほどに、夫(それ)より、やうやう下山し、都の方(かた)に急がれけるとなり。

[やぶちゃん注:「愚全」不詳。

「備中」現在の岡山県西部に相当する。

「播磨の書寫山」兵庫県姫路市書写(しょしゃ)にある書写山(しょしゃざん:標高三百七十一メートル)にある天台宗の名刹書寫山圓教寺(えんぎょうじ:この地図(グーグル・マップ・データ)の北部一帯総て。引用の後に出る「如意輪寺」を下方でフラグした)。私は同寺に行ったこともなく、演劇の発声練習の早口言葉「書写山の社僧正」の莫迦の一つ覚え状態であるから、ウィキの「圓教寺」を引くと、『西国三十三所のうち最大規模の寺院で、「西の比叡山」と呼ばれるほど』、『寺格は高く、中世には、比叡山、大山とともに天台宗の三大道場と称された巨刹である』。『京都から遠い土地にありながら、皇族や貴族の信仰も篤く、訪れる天皇・法皇も多かった』。『境内は、仁王門から十妙院にかけての「東谷」、摩尼殿(観音堂)を中心とした「中谷」、』三『つの堂(三之堂)や奥の院のある「西谷」に区分される』。『伽藍がある』『書写山は』現在、『兵庫県指定の書写山鳥獣保護区(特別保護地区)に指定されている』。『室町時代の応永』五(一三九八)年『から明治維新まで』、『女人禁制であったため、女性は東坂参道の入口にある女人堂(現・如意輪寺)』ここ。グーグル・マップ・データ航空写真。既に書写山山麓の平地部分直近であるが、本話が室町以前の時制設定であるとは凡そ考えられないので、愚全が女の出現自体を全く問題にしていない以上、この附近より下方の場所をロケーションとすると考えねばならぬ『に札を納めて帰った』。創建は康保三(九六六)年、『性空』(しょうくう)『の創建と伝えられる』が、『もとは素盞嗚命が山頂に降り立ち、一宿したという故事により、「素盞ノ杣」といわれ、性空入山以前より』、『その地に祠が祀られていたといわれる。山号の由来は』、『この「素盞(すさ)」からのものといわれ、姫路市と合併する以前は、飾磨郡曽左』(そさ)『村と呼ばれていたが、この「曽左』『」も素盞に由来する』。『創建当初は「書写寺」と称した。仏説において書写山は、釈迦如来による霊鷲山』(りょうじゅせん:インドのビハール州のほぼ中央に位置する山で、釈迦はここで「無量寿経」や「法華経」を説いたとされる)『の一握の土で作られたと伝えられ、「書寫山」の字が当てられたのは、その山がまさに霊鷲山を「書き写した」ように似ることによるといわれる』。『また一つに、その名は、山上の僧が一心に経典を書写する姿に、山麓の人たちが崇敬をもって称したとも伝えられる』とある。現在、『国の史跡に指定されている圓教寺の境内は』、『姫路市街の北方およそ』八キロメートル『に位置する書写山の山上一帯を占め、境内地は東西に長く広がる。市街地から近く、標高も』『それほど高くないが』、現在でも『境内地には自然環境が良好に保持され、山岳寺院の様相を呈する』とあるから、特にロケーションとして不自然ではない

「餘寒(よかん)」冒頭に「此」(この)「春」と合った通りで、余寒は旧暦の立春(旧暦の節分の翌日で新暦の二月四日頃)を過ぎて寒が明けても、なお残る寒さを指す。則ち、物語内時制の設定はそれ以降の二月中上・中旬かと読めよう。

「五障(しやう)三從(じう)(/いつのさはりみつのしたがひ)」既に述べた通り、左右の読み(というか、左のそれは意訳訓)が振られているのであるが、右のそれは「五」「三」には振っていないため、以上のような仕儀とした。「五障三從」の内の「五障」は女性が生得として身に持ってしまっているとされた仏法に従うに致命的な五種の障り、則ち、「法華経」に説くところの、女性は仏教の守護神である天部の梵天王帝釈天や、魔王(欲界第六天他化自在天にあって仏道修行を妨げるという魔王波旬)、転輪聖王(てんりんじょうおう:須弥山の四洲を統治するとされる最も優れた聖王で、一説に未来に阿弥陀仏となることを約束されたともする)は勿論、「仏」そのものになることは出来ないことを指す。女性がもっているこれらを、月の光を蔽う霞や雲に譬えて「五障の霞(雲・氷)」などとも称した。従って女は変生男子(へんじょうなんし)、男に生まれ変わらなければ、極楽浄土へは往けないというというのが、実は本来の仏教の女性観なのである。原始仏教以来より胚胎している仏教の、それこそ致命的な女性蔑視の思想である。次の三従(さんしょう)は、幼時は親に、結婚すれば夫に、老いては子に、それぞれ従えとするもので、先の「五障」と連用させて、仏教で女性が従うべきものとされた属性と規範を指す。

「仁王經(にんわうきやう)」「仁王般若経」とも称される。仏教に於ける国王のあり方について述べた経典。ウィキの「仁王経」によれば、主な内容は、『釈尊が舎衛国の波斯匿王との問答形式によって説かれた教典で、六波羅蜜のうちの般若波羅蜜を受持し』、『講説することで、災難を滅除し』、『国家が安泰となるとされ、般若経典としては異質の内容を含んでいる』。永く宮中に於いての『公共的呪術儀礼としての役目を』担った側面を持つ経典で、後には広く『災禍を除く』呪的経文となったようである。]

2019/04/18

柳田國男 山島民譚集 原文・訓読・附オリジナル注「馬蹄石」(11) 「駒ケ嶽」(1)

 

《原文》

駒ケ嶽 又白馬ノミヲ神ト祀リタル社アリ。【駒形神】例ヘバ武藏北足立郡尾間木(ヲマキ)村大字中尾ノ駒形神社ハ、神體ハ三軀ノ白駒ニシテ長各六寸バカリ、本地ハ正觀音ニオハシマス〔新編武藏風土記稿〕。【黑駒】羽後秋田郡山崎ト云フ處ノ白旗明神ニハ、末社ニ白駒ノ神ト黑駒ノ神トアリテ、牛馬ノ病ニ禱リテ驗アリ〔風俗問狀答〕。磐城相馬中村ノ太田神社ハ土地ノ人ハ妙見樣ト云フ。有名ナル野馬追(ノマオヒ)ノ祭ヲ行フ社ナルガ、其社ノ神モ毛色ハ不明ナレドモ一ノ龍馬ナリ。【龍馬ト星ノ神】昔平將門逆心ノ時、一夜客星落チテ化シテ龍馬トナル。之ヲ妙見菩薩ト尊崇シテ土地ノ鎭守ト爲スト傳フ〔行脚隨筆上〕。【石馬】越前大野郡ノ穴馬谷(アナマダニ)ニテハ、岩穴ノ遙カ奧ニ石馬ヲ祀リテアリ。乃チ穴馬ト云フ村ノ名ノ起原ナルガ、此石馬ハ人作ノ物ニ非ザルガ如シ。上下穴馬村ハ以前ノ郡上(クジヤウ)領ニシテ、九頭龍川ノ源頭十里ニ亙リタル山村ナリ。ヨクヨクノ旱年ニハ此洞ノ奧ニ入込ミ、鞭ヲ以テ石ノ馬ヲ打ツトキハ必ズ雨降ル。但シ其鞭ヲ執リタル者ハ遲クモ三年ノ内ニ死スルガ故ニ、八十九十ノ老翁ヲ賴ミテ其役ヲ勤メサセタリト云フ〔笈挨隨筆八、有斐齋劄記〕。陸中腹膽澤郡金ケ崎村大字西根ノ赤澤山ノ頂上ニハ、鐵ヲ以テ鑄タル二體ノ馬ノ像アリキ〔仙臺封内風土記〕。如何ナル信仰ニ基ケルモノナルカハ知ラズ、此山ニハ又天狗佛ト稱スル羽ノ生エタル佛像ヲモ安置シテアリキト云フコトナリ。

 

《訓読》

駒ケ嶽 又、白馬のみを神と祀りたる社あり。【駒形神】例へば、武藏北足立郡尾間木(をまき)村大字中尾の駒形神社は、神體は三軀(さんく)の白駒にして、長さ各六寸ばかり、本地は正觀音(しやうかんのん)におはします〔「新編武藏風土記稿」〕。【黑駒】羽後秋田郡山崎と云ふ處の白旗明神には、末社に白駒の神と黑駒の神とありて、牛馬の病ひに禱(いの)りて驗(げん)あり〔「風俗問狀答」〕。磐城相馬中村の太田神社は、土地の人は「妙見樣」と云ふ。有名なる「野馬追(のまおひ)の祭」を行ふ社なるが、其の社の神も、毛色は不明なれども一つの龍馬(りゆうめ)なり。【龍馬と星の神】昔、平將門逆心の時、一夜、客星(かくせい)[やぶちゃん注:流星。]落ちて、化して龍馬となる。之れを妙見菩薩と尊崇して、土地の鎭守と爲すと傳ふ〔「行脚隨筆」上〕。【石馬】越前大野郡の穴馬谷(あなまだに)にては、岩穴の遙か奧に石馬を祀りてあり。乃(すなは)ち、「穴馬」と云ふ村の名の起原なるが、此の石馬は人作(じさく)の物に非ざるがごとし。上・下穴馬村は以前の郡上(くじやう)領にして、九頭龍川の源頭、十里に亙りたる山村なり。よくよくの旱年(ひでりどし)には、此の洞の奧に入り込み、鞭を以つて、石の馬を打つときは、必ず、雨、降る。但し、其の鞭を執りたる者は、遲くも三年の内に死するが故に、八十、九十の老翁を賴みて、其の役を勤めさせたりと云ふ〔「笈挨隨筆」八、「有斐齋劄記(いうひさいさつき)」〕。陸中膽澤(いざわ)郡金ケ崎村大字西根の赤澤山の頂上には、鐵を以つて鑄たる二體の馬の像ありき〔「仙臺封内風土記」〕。如何なる信仰に基けるものなるかは知らず、此の山には又、「天狗佛」と稱する羽の生えたる佛像をも安置してありきと云ふことなり。

[やぶちゃん注:「龍馬(りゆうめ)」この熟語は本書ではここで初めて出現する。小学館「日本国語大辞典」の「りゅうめ(龍馬)」の項に、「メ」は「馬」の呉音、「バ」は漢音、「マ」は慣用音とし、『きわめてすぐれた駿足の馬。たつのうま。りゅうば。りょうめ。りょうば』とする。無論、ルビがないから(「ちくま文庫」もルビなし)、柳田國男がこれを現代仮名遣で「りゅうば」「りょうめ」「りょうば」或いは坂本竜馬よろしく「りょうま」(同辞書はこれも掲げて「見よ見出し」で「りょうめ」を指示している)と読んいなかったどうかは判らない。しかし、とならば、ここは天下の「日本国語大辞典」に従い、「りゆうめ(りゅうめ)」と読みを統一しておくのが無難と判断した。以後、特別な場合を除いて、一切振らないつもりであるが、ここでそれを特に注しておくことにした。なお、以上の注記は2019年6月8日に特に追加注したものである。

「武藏北足立郡尾間木(をまき)村大字中尾の駒形神社」現在の埼玉県さいたま市緑区中尾地区には、中尾神社とその北方に駒形権現神社須賀神社本殿があるが、孰れもここに言う駒形神社と関係を持ちながら(体のいい合祀)、その大元である本来の駒形神社があったのはこの孰れの地でもないように思われる。但し、この旧中尾地区内(現在の中尾はここ)に字駒形があり、そこにあったらしいことは幾つかの記載から判明した。しかし、調べる限りでは、この「神體」とする「三軀(さんく)の白駒にして、長さ各六寸ばかり」のそれは見当たらない。識者の御教授を乞うものである。【2019年4月20日追記】いつものT氏が情報がお寄せ下さった。それに従って追記する。「新編武藏風土記稿」の「足立郡巻九」の「中尾村 吉祥寺」の条に「吉祥寺天台宗川越仙波中院末寶珠山十林院と號す」とした後、こちら(国立国会図書館デジタルコレクションの画像。右ページ一行目。前記記載はこの前のコマ)に(カタカナをひらがなに代え、句読点を添えた)、

   *

駒形權現社【大門の入口にあり。神體は白駒にて、三軀あり。長三寸許、本地佛正觀音を安せり。】

   *

とある。さらに、個人ブログ「なお爺のひとり言」の「東浦和とその周辺 26 天台宗吉祥寺」の十枚目の写真の「駒形権現神社須賀神社本殿」の解説板(吉祥寺とさいたま市教育委員会署名)の冒頭に、

   *

 この神社本殿は、現在のプラザイーストの地にありましたが、明治時代以降、中尾神社への合祀(ごうし)や道路の改修により、二度の移転を経て、現在の地に至りました。権現神社の御神体(ごしんたい)は三頭の白馬像、須賀神社の御神体は神輿(みこし)といわれています。

   *

と書かれてあることから、埼玉県さいたま市緑区中尾の「プラザイースト」がある場所が柳田國男の言う「駒形神社」の旧地であることが判明した(現在の吉祥寺持の「駒形権現神社須賀神社本殿」のある位置から、国道四百六十三号を跨いだ、西南百四十三メートルほどの位置)。また、以上の解説版の書き方から、権現神社の神体である三頭の白馬像は現存しないか、残っていても非公開であると考えられる。

「羽後秋田郡山崎と云ふ處の白旗明神」。【2019年4月20日追記】同じくT氏が情報がお寄せ下さった。以下にメール本文を一部加工して示す。

   《引用開始》

「風俗問狀答」には、

   *

秋田六郡神佛之部

七月

一六日 白籏明神祭

秋田の郡山崎の里にあり、神職は三田氏、此日境内に角力の勝負あり、參詣多し。又、末社に白駒の神、黑駒の神有、牛馬の病を祈る、しるし有り。

   *

とあり、同じ文章が、「秋田叢書」第三巻の「六郡祭事記」の七月の条[やぶちゃん注:国立国会図書館デジタルコレクションの当該部の画像。]にも書かれています。

場所は「秋田の郡山崎の里」としかないので手こずりましたが、ほぼ確定と思われる場所は、秋田市外旭川水口(みのくち)字山崎にある白幡(しらはた)神社[やぶちゃん注:ここ。グーグル・マップ・データ。]で、「秋田県神社庁」公式サイト内の同神社の記載に、例祭を八月十六日とし、境内神社として黒駒神社とあるのが決め手です(旧暦の祭を一ヶ月ずらしたものと考えられます)。リンク先には、白幡神社は『創立年代不詳』とし、長祿元(一四五七)年に『川尻館再興』、『天徳寺山に構築されていた白坂館(白坂右近太夫の居城)の守護神』とあり、明治六(一八七三)年七月に『村社になる』とあります。なお、この「字山崎」はウィキの「外旭川」を見ると、町村合併でも水口字山崎は残されていたことが判ります。

   《引用終了》

またT氏のお世話になった。心から御礼申し上げる。

[やぶちゃん注:「武藏北足立郡尾間木(をまき)村大字中尾の駒形神社」現在の埼玉県さいたま市緑区中尾地区には、中尾神社とその北方に駒形権現神社須賀神社本殿があるが、孰れもここに言う駒形神社と関係を持ちながら(体のいい合祀)、その大元である本来の駒形神社があったのはこの孰れの地でもないように思われる。但し、この旧中尾地区内(現在の中尾はここ)に字駒形があり、そこにあったらしいことは幾つかの記載から判明した。しかし、調べる限りでは、この「神體」とする「三軀(さんく)の白駒にして、長さ各六寸ばかり」のそれは見当たらない。識者の御教授を乞うものである。【2019年4月20日追記】いつものT氏が情報がお寄せ下さった。それに従って追記する。「新編武藏風土記稿」の「足立郡巻九」の「中尾村 吉祥寺」の条に「吉祥寺天台宗川越仙波中院末寶珠山十林院と號す」とした後、こちら(国立国会図書館デジタルコレクションの画像。右ページ一行目。前記記載はこの前のコマ)に(カタカナをひらがなに代え、句読点を添えた)、

   *

駒形權現社【大門の入口にあり。神體は白駒にて、三軀あり。長三寸許、本地佛正観音を安せり。】

   *

とある。さらに、個人ブログ「なお爺のひとり言」の「東浦和とその周辺 26 天台宗吉祥寺」の十枚目の写真の「駒形権現神社須賀神社本殿」の解説板(吉祥寺とさいたま市教育委員会署名)の冒頭に、

   *

 この神社本殿は、現在のプラザイーストの地にありましたが、明治時代以降、中尾神社への合祀(ごうし)や道路の改修により、二度の移転を経て、現在の地に至りました。権現神社の御神体(ごしんたい)は三頭の白馬像、須賀神社の御神体は神輿(みこし)といわれています。

   *

と書かれてあることから、埼玉県さいたま市緑区中尾の「プラザイースト」がある場所が柳田國男の言う「駒形神社」の旧地であることが判明した(現在の吉祥寺持の「駒形権現神社須賀神社本殿」のある位置から、国道四百六十三号を跨いだ、西南百四十三メートルほどの位置)。また、以上の解説版の書き方から、権現神社の神体である三頭の白馬像は現存しないか、残っていても非公開であると考えられる。

「羽後秋田郡山崎と云ふ處の白旗明神」。【2019年4月20日追記】同じくT氏が情報がお寄せ下さった。以下にメール本文を一部加工して示す。

   《引用開始》

「風俗問狀答」には、

   *

秋田六郡神佛之部

七月

一六日 白籏明神祭

秋田の郡山崎の里にあり、神職は三田氏、此日境内に角力の勝負あり、參詣多し。又、末社に白駒の神、黑駒の神有、牛馬の病を祈る、しるし有り。

   *

とあり、同じ文章が、「秋田叢書」第三巻の「六郡祭事記」の七月の条[やぶちゃん注:国立国会図書館デジタルコレクションの当該部の画像。]にも書かれています。

場所は「秋田の郡山崎の里」としかないので手こずりましたが、ほぼ確定と思われる場所は、秋田市外旭川水口(みのくち)字山崎にある白幡(しらはた)神社[やぶちゃん注:ここ。グーグル・マップ・データ。]で、「秋田県神社庁」公式サイト内の同神社の記載に、例祭を八月十六日とし、境内神社として黒駒神社とあるのが決め手です(旧暦の祭を一ヶ月ずらしたものと考えられます)。リンク先には、白幡神社は『創立年代不詳』とし、長祿元(一四五七)年に『川尻館再興』、『天徳寺山に構築されていた白坂館(白坂右近太夫の居城)の守護神』とあり、明治六(一八七三)年七月に『村社になる』とあります。なお、この「字山崎」はウィキの「外旭川」を見ると、町村合併でも水口字山崎は残されていたことが判ります。

   《引用終了》

またT氏のお世話になった。心から御礼申し上げる。

「磐城相馬中村の太田神社」福島県南相馬市原町区(はらまちく)中太田字舘腰(たてこし)にある相馬太田神社

「野馬追(のまおひ)の祭」ウィキの「相馬野馬追」によれば、『相馬野馬追』『は、福島県相馬市中村地区を初めとする同県浜通り北部(旧相馬氏領。藩政下では中村藩)で行われる相馬中村神社、相馬太田神社、相馬小高神社の三つの妙見社の祭礼である』。『馬を追う野馬懸、南相馬市原町区に所在する雲雀ヶ原祭場地において行われる甲冑競馬と神旗争奪戦、街を騎馬武者が行進するお行列などの神事からな』り、『東北地方の夏祭りのさきがけと見なされ、東北六大祭りの』一『つとして紹介される場合もある』。『起源は、鎌倉開府前に、相馬氏の遠祖である平将門』『が、領内の下総国相馬郡小金原(現在の千葉県松戸市)に野生馬を放し、敵兵に見立てて軍事訓練をした事に始まると言われている』。『鎌倉幕府成立後はこういった軍事訓練』を『一切取り締ま』ったが、『この相馬野馬追はあくまで神事という名目でまかり通ったため、脈々と続けられた』。「戊辰戦争」で『中村藩が明治政府に敗北して廃藩置県により消滅すると』、明治五(一八七二)年に『旧中村藩内の野馬がすべて狩り獲られてしまい、野馬追も消滅した。しかし、原町の相馬太田神社が中心となって野馬追祭の再興を図り』、明治一一(一八七八)年には、『内務省の許可が得られて野馬追が復活した。祭りのハイライトの甲冑競馬および神旗争奪戦は、戊辰戦争後の祭事である』。『相馬氏は将門の伝統を継承し、捕えた馬を神への捧げ物として、相馬氏の守護神である「妙見大菩薩」に奉納した』。『これが現在「野馬懸」に継承されている。この祭の時に流れる民謡『相馬流れ山』は、中村相馬氏の祖である相馬重胤が住んでいた下総国葛飾郡流山郷』『(現在の千葉県流山市)に因んでいる』とある。

「越前大野郡の穴馬谷(あなまだに)」旧福井県大野郡和泉(いずみ)村、現在の福井県大野市朝日のこの附近。サイト「日本歴史地名大系ジャーナル」の「地名拾遺3」の「第10回 穴馬 【あなま】 轆轤師が定着し、落人伝説をはぐくんだ風土」が詳しいが、ここに出る「石馬」については触れられていない。岩窟や石の馬は最早、存在しないのだろうか?【2019年4月27日追記】何時も情報を頂くT氏が、それらしい岩窟として「白馬洞」を指摘して下さった。大野市内の「和泉自治会」公式サイト内の「白馬洞」のページに、『大野市箱ケ瀬にある、北陸では珍しい鍾乳洞』で、『穴馬伝説の発祥の地、穴馬村の地名のいわれの地である』。『洞穴は上下に長いのが特徴で、竜宮城へ通じているともいわれているが、実際には九頭竜湖につながってい』るとし、『その昔、洞窟の中から突然に白馬が飛び出し、九頭竜の流れに沿って真っ白なたてがみを、朝風になびかせながら雄々しい姿で走り、大野市勝原の馬返し隧道あたりから引き返し、飛騨を経て』、木曽の『駒ケ岳に消え去ったという伝説により、白馬洞、馬返し、穴馬の名称が生まれたと言われてい』るとある残念ながら、現在は崩落の危険があることから閉鎖されているとあるため、石馬が現存するかどうかは不明である)。同サイト内の地図で位置(「白馬洞跡」とある)が確認出来る。九頭竜湖の東北岸近くで、グーグル・マップ・データではこの中央位置附近である。なお、T氏によると、この白馬伝説の書かれた本の名などは見当たらないとのことであった。

『「笈挨隨筆」八』ちょっと判り難いので言っておくと、巻之八の「神泉苑」の雨乞の関連で文中に出る。そこでは、『美濃の郡上西に穴馬村という山に穴あり。深さ三里、中に馬有り』として以下の話が載る。

「陸中膽澤(いざわ)郡金ケ崎村大字西根の赤澤山」現在の岩手県胆沢郡金ケ崎町西根はここ。「赤澤山」というのは国土地理院図でも見当たらないが、一つ気になるのは、同地区の西の境界のごく直近にある岩手県胆沢郡北上市和賀町岩崎新田の駒形神社奥宮という駒ヶ岳のピーク(標高千百二十九・八メートル)で、「遠野文化研究センター」公式サイト内の「駒形神社奥宮」を見ると、奥宮の堂内には『白馬と黒馬の神像が祀られていました。藩政時代には白馬が盛岡藩・黒馬が仙台藩の神像だったと聞きますが、藩境が取り払われた現在はどうなのでしょうか。それに白馬が親子です』。『なにか意味があるのか気になります』。『現在このお駒堂を守っている水沢駒形神社の山下宮司によると、「晴れを願う時は白い馬に、雨を願う時は黒い馬に祈る」らしく、晴れを望む人が多かったので白馬の神像を二体奉納したのだそうです』。『水も晴天も農業には欠かせないものです。お駒堂から見下ろす北上盆地は黄金色で、昔の今も人々が変わらず願い続けている通りの実りの秋の風景でした』。『盛岡・仙台両藩の水争いの出発地点から豊作を見守るお駒さまたちも安心していることでしょう』とあって、現在の新しい馬の像の写真があるのである。或いはこれが柳田國男がここで言うそれなのではないか? と思わせるのである。柳田は「鐵を以つて鑄たる二體の馬の像ありき」と過去の助動詞を用いているから、或いは、これがその後裔なのかも知れないと感じるのである。但し、遂にここ或いはこの周辺に赤沢山は現認出来なかったし、「天狗佛」も検索ではヒットしなかった。これもまた、識者の御教授に委ねるしかあるまい。【2019年4月27日追記】T氏から非常に興味深い膨大な考証と情報を頂戴した。ほぼそのメールそのままで以下に引用させて戴く。

   《引用開始》

 小生の今の考えは、「栗原郡栗駒山の山腹の寺社の話がコンガラガッテ膽澤郡金ケ崎村の話」と誤認したものと思っています。柳田氏は引用元を尊重し、「澤郡金ケ崎村大字西根ノ」と記載しています。「仙臺封内風土記」(田邊希文著。明和九・安永元(一七七二)年完成)の当該記述は「封内風土記」の「巻之十九」の「膽澤郡西根邑」の項(同書の立国会図書館デジタルコレクションの画像の110コマから112コマの記載)ですが、そのなかで「但有一古老……以下」の部分は、一寸、問題??な記載です。

[やぶちゃん注:以下、同部分のT氏による電子化に一部で私が手を加えた。後も同じ。]

   *

山一。 駒形山。或稱峯◦駒嶽◦駒形。封内名跡志曰。山嶽峻峻西跨仙北。北跨南部。東南蟠栗原◦磐井◦膽澤三郡之高山。而言其所一ㇾ及。則西根◦水澤◦桃岡◦永德寺數邑。遶山麓也。不ㇾ詳ㇾ祀何神。後世鄕隣失其傳來。依駒形之字。推安馬頭觀音。號御駒山馬峯寺。可ㇾ謂馳上世神明之旨矣[やぶちゃん注:返り点「三」はママ。]。是亦淫祠之甚者也。今問之鄕里。而無分明解說者。尤可ㇾ憂焉。(ここまでは「膽澤郡西根邑」の話で間違いありません)但有一古老。說曰。此峯巒絕頂曰大日嶽。亞ㇾ之者曰駒形。半腹有叢祠神馬(コマノ)社。往古有神駒。而常遊山岳。雪毛霞暈。殪[やぶちゃん注:音「アイ」。死ぬこと。]後瘞[やぶちゃん注:「うづむ」。]之峯頂。立ㇾ祠祭ㇾ之。故稱神馬嶽。神名帳所ㇾ謂。駒形神社是也。其山峻極。至晩夏宿雪猶不未ㇾ消。其殘雪之狀。自然爲奔馬迅電之勢。而如ㇾ具首尾耳鬣脚蹄之形也。人以爲ラク是乃精神生氣之妙。自然所ㇾ現于玆矣。今望之近隣境之山頭。則果現然如其所一ㇾ傳。於ㇾ是爲地名。又山間有岩窟。濶三尺。高一丈。長二間許。内藏銅臺。置馬首佛(バトウクワンヲン)◦大日◦虛空藏。一里餘而山下。有往昔寺址。相傳。平城帝。大同中。釋慈覺開基。號滿德山寶福寺。今荒廢。鄰大岳而有ㇾ山。曰赤澤山。山上有鐵駒二頭。長四寸。又有鐵佛。背後負兩翼。土人曰之天狗佛。共在山頭。其峯山岳地勢形氣渾非凡境焉。(ここから先行著書の批評、と言うよりも、実は否定部分となります)後世以此山岳歌林所ㇾ詠栗駒山也。非ㇾ是。歌林稱栗駒山。而所ㇾ詠者。在栗原郡沼倉邑者是也。其地朴樹亦多。質之土地。其山勢。亦相等栗原郡中駒岳。其山高大以栗文字推ㇾ之。以ㇾ在栗原郡而須ㇾ稱之栗駒山。於社號。亦栗原乃稱駒形根。在此郡乃但稱駒形。視者辨焉。

   *

とあって「山に雪形がある。最高峰が大日嶽で第二峰が駒形である」と云っています。(栗駒山??)最後部の「非ㇾ是。歌林稱栗駒山。」以下は、先行の「奧羽觀蹟聞老志」(佐久間洞巖著。享保四(一七一九)年完成)の「卷之十」の「膽澤郡栗駒山」の記載(歌枕「くりこま」主題)への批評で「場所が違う」と言っています。「奥羽観蹟聞老志」は義経伝説の丁寧なサイトを作っておられる佐藤弘弥氏の、「仙台叢書」第十五巻の国字表記「奥羽観蹟聞老志巻之十」の「胆沢郡」の「栗駒山」で読むことができます。

 栗駒山と駒形山については、小関純夫のサイトの「文献からみた栗駒山名の定着過程」の「1.はじめに」に、『江戸時代中期に製作された『仙台領際絵図』や他の文献では、栗駒山は本来の雪形の出る1573m峰を「駒ヶ嶽」と呼んでいた。また、最高峰1627.7mは「大日嶽」として区別していた。それがどうして栗駒山という山名に定着していったのだろうか』とあり、同「3.仙台領内の絵図」の「膽澤郡・栗駒山」の項に『このなかで、栗駒山は栗原郡(巻之八)ではなく膽澤郡(巻之十)に記載してある。延喜式神名帳に載っている駒形神社を山中に祭っていて、現在の焼石連峰に属する駒ヶ岳をさすことが分かる。そして、この駒ヶ岳を仙北、磐井、栗原にまたがる広大な山域としてとらえている。しかし、絶頂は大日嶽としている。残雪が奔走する馬の形をしていることや、山中の岩窟に馬頭観音、大日如来、虚空蔵菩薩の仏像が祭ってあることなどは、現在の栗駒山の記述のようにもとれる』。『この膽澤郡には「酢川岳」の記載もあり、奥羽の両境にまたがる大岳で、温泉があることを紹介している。そして「日本三代実録」から』、仁徳天皇六一(三七三)年に『温泉神に従五位を授くと引用している。一方、栗原郡の記述では、駒形根神社が神名帳に載っていることだけを紹介している。従って、須川温泉側から行く駒形根神社の口伝を、膽澤郡にある駒形神社のものと記述したのかもしれない』とあり、「奧羽觀蹟聞老志」の「膽澤郡 栗駒山」の記載は「栗原郡栗駒山」の話を混ぜている可能性が高いことを指摘されています。

 序でに、膽澤郡駒形神社の少し吃驚な話を紹介しておきます。

 江戸時代には駒形山上の奥宮と里宮(女人参拝ができるように)があった。ともに観音堂と思われていた(神仏習合時代ですから)。「封内風土記」[やぶちゃん注:国立国会図書館デジタルコレクションの当該頁画像。]では、

   *

佛宇凡八。  觀音堂四。 其一。在駒嶽仙臺◦南部封境之間。是以兩主相輿修補造營其堂宇[やぶちゃん注:原書の返り点がおかしいので訂した。]。傳云。仁明帝。嘉祥三年。慈覺大師造ㇾ之。希文按。延喜式神名帳所ㇾ謂。駒形神社是也。士俗誤傳以本地佛爲ㇾ主稱觀音。處處神社以佛名稱ㇾ之者。其類多。 其二。號御堂。山上禁婦人之登拜。故建堂於山麓。使婦人拜一ㇾ之。

   *

各地の神社を踏破・紹介されておられる玄松子さんのサイト「玄松子の記録」の、岩手県奥州市水沢区中上野町にある「駒形神社」[やぶちゃん注:陸中國一之宮駒形神社。ここ(グーグル・マップ・データ)。]の記載の中に、現在は『岩手県奥州市水沢区』の『水沢駅の南西』一キロメートル『ほどの水沢公園の一角に鎮座』するが、『当社は』、もとは『奥宮のある駒ケ岳山頂に鎮座していたが、参拝』が『不便であるため、明治』三六(一九〇三)『年に鹽竃神社境内に遷座された。鹽竃神社は、境内別宮として祀られていた春日神社に合祀され、鹽竃神社と名を変えて、春日神社の名は消滅した。玉突き事故のような、事の顛末』。「参拝のしおり」の「本社について」にも、『当社の社地は』、『もと』、『塩釜神社の鎮定地であったが、明治四』(一八七一)『年五月十四日』、『国幣小社に列せられた時、里宮、奥宮ともに交通不便の地にあるため』、『県知事等の参向することもできかねる為、当時』、『水沢県庁の所在地であった現社殿を仮遥拝所とした。さらに明治七年』、『社殿を大いに修理し』、『正式の遥拝所とした』とありました。

 明治の「そこのけそこのけ延喜式記載の式内社」の地上げと県幹部への忖度??? 塩釜神社は伊達藩時代の金ケ崎付近領主が旧地より勧請した神社であったのに、です。……「春日神社の名は消滅した」……後ろ建てなく無念…………

   《引用終了》

何時もながら頭が下がりっぱなしになる御協力を頂いた。改めてT氏に心より感謝申し上げます。

三人の少女 伊良子清白 (附・初出形)

 

三人の少女

 

末のをとめを譬ふれば

雪の中なるうめの花

操(みさを)に生くるをんなごの

氣高(けだか)き形具へたり

 

中のをとめをながむれば

夏の野に咲く白百合の

髮も面(おもて)も淸らにて

つゆのけがれもなかりけり

 

姉のをとめの風情こそ

霧のまぎれの女郞花(をみなへし)

風にもたへぬすがたにて

いとどか弱く見えにけり

 

三人のみなる湯の槽(ふね)に

春はおぼろの宵にして

油乏しきともし火は

けぶりの如くてらしけり

 

あけもみどりもぬぎすてて

生(なし)のままなる天(あめ)の子等

出湯(いでゆ)の波の泡沫(うたかた)に

今も生(あ)れしと疑はる

 

神代ながらに湧き出づる

靈(くし)ふる泉音澄みて

三つの花瓣(はなびら)花の子が

膚(はだへ)は消ゆと見ゆるかな

 

窻のひまより腕(ただむき)と

圍(まろ)き肩とをてらしけり

もとより弱き影なれば

月のさすとは知らざらむ

 

うつくしきものらこころせよ

獵矢(さつや)手挾(たばさ)み愛の子が

高きに翔(か)けり兵(ひやう)と射ば

こよひの程もやすからじ

 

三人のうちの誰が子をか

幸(さち)とさだめて射向はん

月の村雲見えがくれ

クピドは空にうかぶなり

 

長き黑髮すゑ濡(ひ)ぢて

神は解くともをとめ子よ

しづく白珠(しらたま)波越えて

をさなきものに箭(や)は立たじ

 

[やぶちゃん注:明治三五(一九〇二)年七月発行の『文庫』初出であるが、初出形からは後半が大きく改変されてある。後で初出形を示す。なお、初出は総標題「葉分けの月」で次の「葡萄の房」と「卜」(「うらなひ」か「ぼく」かは不明)で、後者の「卜」を改題改作したものである。

「生(なし)のままなる」「生(な)す」を名詞化し、「生まれたままの裸形となって」の意。

「クピド」Cupid。ローマ神話のキューピッド。

 初出は以下。

   *

 

三人の少女

 

末のをとめをたとふれば

雪の中なる梅の花

操(みさを)に生くるをんなごの

氣高(けだか)き形備へたり

 

中の少女をたとふれば

夏の野に咲く百合の花

髮も面(おもて)も淸らにて

珠を展べたるごとくなり

 

姉のをとめの風情こそ

霧のまぎれの女郞花(をみなへし)

つゆにも堪へぬ姿にて

いとゞかよわく見えにけり

 

三人のみなる湯の槽(ふね)に

春はおぼろの宵にして

油乏(ともし)きともし火は

をとめの面を照らしけり

 

あけも綠もぬぎすてゝ

生(なし)のままなる天(あめ)の子等

愛を波うつ湯のおもに

生(あ)れしもいでしとうたがはる

 

昔は鳩の箭の傷を

癒したりてふ野の泉

三つの蕾の花のこが

今は肌を洗ふかな

 

かたみに小さき手の掌を

ゆゑゆゑしくも集め見て

何に卜ふ行末の

幸は誰が子に宿るらむ

 

氣高きものとかよわきと

淸らのものとおのがじゝ

稟けし姿はかはれども

誰か幸無きものあらむ

 

美しき子ようらなひの

まだ見ぬ夢を追ふなかれ

湯のもにうかぶ浮像の

かりの戲れをなにかせむ

 

窓のひまより腕(たゞむき)と

圓き肩とをてらしたり

もとより弱きかげなれば

月のさすとも知らざらむ

 

長き黑髮すゑひぢて

母は解くともをとめ子よ

をさなすがたのなんたちに

湯の香のいかでそまり得む

 

   *

初出形の「稟けし」は「うけし」と読む。「浮像」は「うたかた」(泡沫)と訓じていよう。「なんたち」は「汝達」の短縮訓。明治期の作品ではしばしば見られる。]

太平百物語卷一 五 春德坊狐に化されし事

    ○五 春德坊狐に化されし事

 下京に順光寺といへる寺あり。

 或る夜、下男(しもおとこ[やぶちゃん注:ママ。])とおぼしき者壱人(いちにん)、挑灯をともし來たり、

「某(それがし)は久㙒(ひさの)屋可十郞方より參り候。主人、『召使ひの女、相果(あいはて)申すに付(つき)、今夜の内、㙒送り仕り度(たき)儘(まゝ)、御弟子の内、御壱人、御越(おんこし)下さるべし。則(すなはち)、御迎(むかひ)の爲、私を指越(さしこし)候ふ。」

と申しければ、住持、此よしを聞(きゝ)、

「心得候。」

とて、春德といへる弟子をつかはしけるが、子の刻も過ぎ、丑の刻になりても、春德、かへらず。

 住持、ふしぎにおもひ、彼の久㙒屋へ人をつかはし、樣子を尋(たづね)させけるに、可十郞、此よしをきゝ、おどろき、申しけるは、

「此方(このほう)には死人なし。元來、家來もつかはさず。若(もし)、所たがひ侍るにや。」

といひければ、

「こは、ふしぎ。」

とて、急ぎ、寺に歸り、住持に「かく」と告ければ、

「さればこそ。」

とて、さはぎ立(だち)、手分けをして方々と尋步(たづねあり)きけるに、夜明の比(ころ)ほひ、五条西洞院にて見付出(みつけいだ)し、頓(やが)て連れ歸りけるが、住持、あきれて、

「何國(いづく)へ行きし。」

と尋ねられしかば、

「さん候、未(いまだ)可十邸宅に行つかぬうちに、夜(よ)明(あけ)候ひける。」

といひければ、

「扨は。きつねの所爲(しわざ)ならめ。」

と、はては、大わらひになりて、はたしぬ。

[やぶちゃん注:「順光寺」不詳。

「五条西洞院」この辺り(グーグル・マップ・データ)。

「はたしぬ」「果たしぬ」で「お終(しま)いとなったのであった」の意。]

和漢三才圖會卷第三十八 獸類 黒眚(しい) (幻獣)

Sii

 

 

 

しい

 

黒眚

 

震澤長語云大明成化十二年京師有物如狸如犬倐然

[やぶちゃん注:「大明」は原典では「太朋」であるが、流石に訂した。]

如風或傷人靣噬手足一夜數十發負黒氣來俗名黒眚

△按元祿十四年和州吉野郡山中有獸狀似狼而大高

 四尺長五尺許有白黒赤皂彪班之數品尾如牛蒡根

 鋭頭尖喙牙上下各二如鼠牙齒如牛齒眼竪脚太而

[やぶちゃん注:「喙」は「啄」であるが、おかしいので訂した。東洋文庫訳も「喙」とする。]

 有蹼走速如飛所觸者傷人靣手足及喉遇之人俯倒

 則不噬而去用銃弓不能射之用阱取得數十而止【俗呼

 名志於宇】蓋黒眚之屬乎

 

 

しい

 

黒眚

 

「震澤長語〔(しんたくちやうご)〕」に云はく、『大明の成化十二年[やぶちゃん注:一四七六年。]、京師[やぶちゃん注:当時の明の首都は既に南京から北京に移っている(遷都は一四二一年)。]〔に〕物有り、狸のごとく、犬のごとし。倐然〔(しゆくぜん)〕として[やぶちゃん注:忽ち。]、風のごとく〔來たりて〕、或いは人靣を傷(きずつ)け、手足を噬〔(か)〕む。一夜〔にして〕數十、發〔(おこ)〕る。黒〔き〕氣を負ふ。〔故に〕俗に「黒眚」と名づく』〔と〕。

△按ずるに、元祿十四年[やぶちゃん注:一七〇一年。]、和州吉野郡〔の〕山中〔に〕獸有り、狀〔(かたち)〕、狼に似て、大きく、高〔(た)〕け四尺、長さ五尺許り。白黒〔(びやくこく)〕・赤皂〔(あかぐろ)〕・彪班〔(ひようまだら)〕の數品〔(すひん)あり〕、尾、牛蒡〔(ごばう)の〕根のごとく、鋭き頭、尖れる喙〔(くちさき)〕、牙、上下各二つ〔ありて〕鼠の牙のごとく、齒は牛の齒ごとく、眼〔(まなこ)〕、竪〔(たて)〕にして、脚、太くして蹼(みづかき)有り。走-速(はし)ること飛ぶがごとく、觸るる所の者、人靣・手足及び喉〔(のど)〕を傷つくる。之れに遇ひ、人、俯〔(うつむ)〕き〔て〕倒〔(たふ)〕るれば、則ち、噬まずして去る。銃・弓を用ひて〔も〕之れを射ること能はず。阱(をとしあな[やぶちゃん注:ママ。]を用ひて、數十を取り得て、止む【俗に呼びて「志於宇〔(しおう)〕」と名づく。】。蓋し、黒眚の屬か。

[やぶちゃん注:幻獣。挿絵を見てもモデル動物も思い浮かばない。良安の附言に挙げるものは、ごく直近(本書は正徳二(一七一二)年頃成立であるから、僅か十年前の事件である)の出現と捕獲事例であって、それは明らかに実在する獣として述べられているのであるが、当該し得る動物も私には浮かばない(狼の特殊な毛色の個体群にしてもバラエティに富み過ぎていて実在感がない)。但し、私は一読、銃や弓で狙撃出来ない点(落とし穴で獲れるというのは除外する)、人の顔面・手足・頸部前面等を傷つける点、疾風のように敏捷である点から、

「鎌鼬(かまいたち)」

を第一に、次いで

「頽馬(だいば)」

を想起したことを述べておきたい。それぞれ、さんざん電子化したし、私の見解も語ってきた。まんず、概要なら、「柴田宵曲 續妖異博物館 鎌鼬」を読まれたく、続いて「想山著聞奇集 卷の貮 鎌鼬の事」を、また、後者については「想山著聞奇集 卷の壹 頽馬の事」を見られんことを強くお薦めしたい。但し、「鎌鼬」も「頽馬」も落とし穴で捕えることが出来る実在獣ではない。因みに、ウィキの「シイ(妖怪)」があるので以下に引用はしておくが、この内容は私にとっては(珍しく)散漫な印象で頗る不満足なものである。『シイ』(引用元には漢字で「青」及び、原文部分で字注として述べた、上が「生」で下が「月」の字を表示してあるが、後者は私の現在のブログでは文字化けして表示出来ない)『は、日本の妖怪。和歌山県、広島県、山口県、福岡県に伝わる。姿はイタチに似ており、牛や馬などを襲うという』。「日本国語大辞典」「広辞苑」の『記述によると、シイは筑紫国(福岡県)や周防国(山口県)などに伝わる怪獣で、その姿はイタチに似ており、夜になると』、『人家に侵入し』、『家畜の牛や馬を害する存在であるという』。江戸時代の本草書「大和本草」や本「和漢三才図会」、随筆「斎諧俗談」等には、『シイに「黒』(上記下線で説明した漢字)『」という漢字表記をあてている』。貝原益軒の「大和本草」の『解説によると、周防国(現・山口県)や筑紫国(現・福岡県)におり、やはり牛馬に害をなすもので、賢い上に素早いので』、『なかなか捕えることはできないとある』「中村学園大学」公式サイト内の同大「図書館」の「貝原益軒アーカイブ」「大和本草」の「巻之十六」(PDF)の十二コマ目から十三コマ目にかけて載る。良安と同じく完全に実在する害獣として記載しており、益軒は筑紫にも所々でこの獣がいると断言している(彼は生涯の殆どを福岡で過ごした)。しかし同時に近年までこの動物がいることを知らず、最近になって狩りするようになったと言っている、正直、「なにこれ?」って感じ。益軒は「養生訓」で有名だが、本草家としては杜撰が多く、小野蘭山の「本草綱目啓蒙」は実はこの「大和本草」が誤りだらけであることに腹を立てた蘭山がそれを批判する目的をも以って作られたものである。「斎諧俗談」では『奈良県吉野郡にいるものとされ、人間はこれに触れただけで顔、手足、喉まで傷つけられるとある』(「斎諧俗談」のそれは巻五に載るが、「和漢三才図会」の記載を順序を入れ替えて剽窃したものでしかない。同書は引用元を伏せてしばしばそうしたことをやらかす要注意の作品である)。『和歌山県有田郡廣村(現・広川町)や広島県山県郡では、シイを「ヤマアラシ」ともいって、毛を逆立てる姿を牛がたいへん恐れるので、牛を飼う者は牛に前進させる際に「後ろにシイがいるぞ」という意味で「シイシイ」と命令するのだという』。山口県『大津郡長門市では田で牛を使う際』、五月五日に『牛を使う、田植え時期に牛に牛具を付けたまま川を渡す、女に牛具を持たせる』五月五日から『八朔』(旧暦八月一日のこと)『までの間に』、『ほかの村の牛を率いれるといった行為がタブーとされており、これらを破ると』、『シイが憑いて牛を食い殺すといわれた』(この事例は私にはすこぶる「頽馬」との親和性がある内容と考えている)。福岡県『直方市にある福智山ダムには、地元に伝わるシイ(しいらく)の伝承を伝える石碑が建てられている』。『この』幻獣は、『本来は中国の伝承にある怪物の名であり、宋時代の書』「鉄囲山叢談」によると、その『一種として「黒漢」というものが』北宋の『宣和年間』(一一一九年~一一二五年)『の洛陽に現れ、人間のようだが』、『色は黒く、人を噛むことを好み、幼い子供をさらって食らい、その出現は戦乱や亡国の兆しとして恐れられていたとある』、また、明代の「粤西叢戴」では、『この類として「妖』(同前の字)『」というものが、夜になると』、『人家に侵入して女を犯し、時に星のごとく、黒気のごとく、火の屑のようにもなるとある』。『江戸期の書物にある』それ『は、日本の正体不明の怪物に』、『この中国の』その『名を』ただ『当てはめたに過ぎないとの説もある』とある。

「震澤長語〔(しんたくちやうご)〕」明の王鏊(おうごう)撰。東洋文庫の書名注によれば、『十三項目に分けて事物を考訂したもの』とある。中文サイトでやっと見つけた。上巻の以下。

   *

成化中。京師黑眚見、相傳若有物如狸或如犬、其行如風、倐忽無定、或傷人面、或嚙人手足。一夜數十發、或在城東、又在城西、又在南北、訛言相驚不已。一日上御奉天門、視朝、侍衛忽驚擾、兩班亦喧亂、上欲起、懷恩按之、頃之乃定。自是日、遣内豎出詗。汪直、時在遣中、數言事、由是得幸。遂立西廠、使偵外事廷臣、多被戮辱、漸及大臣、大學士。商輅兵部尚書項忠皆以事去都。御史牟俸亦被逮、或徃南京、或徃北邊、威權赫奕倐忽徃來不測人、以爲黑眚之應也。

   *

よく判らないが、ともかくも神出鬼没であることは取り敢えず判るわな。]

太平百物語卷一 四 富次郎娘虵に苦しめられし事

 

    ○四 富次郎娘虵(へび)に苦しめられし事

Tomijiroumusume

 越前の國に富次郎とて、代々分限(ぶんげん)にして、けんぞくも數多(あまた)持(もち)たる人、有り。

 此富次郎、一人(ひとり)の娘をもてり。今年十五才なりけるが、夫婦の寵愛、殊にすぐれ、生(むま)れ付(つき)もいと尋常にして、甚(はなはだ)みめよく、常に敷嶋(しきしま)の道に心をよせ、明暮(あけくれ)、琴を彈じて、兩親の心をなぐさめける。

 或時、座敷の緣に出て、庭の氣色を詠(ながめ)けるに、折節、初春(はつはる)の事なれば、梅(むめ)に木づたふ鶯の、おのが時(とき)得し風情(ふぜい)にて、飛びかふ樣のいとおかしかりければ、

    わがやどの梅(むめ)がえになくうぐひすは

     風のたよりに香をやとめまし

と口ずさみけると、母おや、聞きて、

「げにおもしろくつゞけ玉ふ物かな。御身の言の葉にて、わらはも、おもひより侍る。」

とて、取りあへず、

    春風の誘ふ垣ねの梅(むめ)が枝に

     なきてうつろふ鶯のこゑ

かく詠(ゑひ)じられければ、此娘、聞きて、

「実(げ)によくいひかなへさせたまひける哉。」

と、互に親子、心をなぐさめ樂しみ居(ゐ)ける所に、むかふの樹木(じゆぼく)の陰より、時ならぬ小虵(こへび)壱疋(いつひき)、

「するする。」

といでゝ、此娘の傍(そば)へはひ上(あが)るほどに、

「あらおそろしや。」

と、内にかけいれば、虵も同じく付(つい)て入(いる)。

 人々、あはて立出(たちいで)て、杖をもつて、追(おひ)はらへども、少しも、さらず、此娘の行方(ゆくかた)に、したがひ行く。

 母人(はゝびと)、大(おほ)きにかなしみ、夫(おつと[やぶちゃん注:ママ。])に

「かく。」

と告げければ、富次郎、大きにおどろき、從者(ずさ)を呼(よび)て取捨(とりすて)させけるに、何(いづ)くより來(きた)るともなく、頓(やが)て立歸(たちかへ)りて娘の傍(そば)にあり。

 幾度(いくたび)すてゝも、元のごとく歸りしかば、ぜひなく打殺(うちころ)させて、遙かの谷に捨(すて)けるに、又、立ち歸りて、もとの如し。

「こはいかに。」

と、切(きれ)ども、突(つけ)ども、生歸(いきかへ)り、生歸りて、中々(なかなか)娘の傍を放れやらず。

 兩親をはじめ、家内の人々、

「如何(いかゞ)はせん。」

と嘆かれける。

 娘もいと淺ましくおもひて、次第次第によはり果(はて)、朝夕(てうせき)の食事とてもすゝまねば、今は命もあやうく見へければ、諸寺諸社への祈禱、山伏・ひじりの咒詛(まじなひ)、殘る所なく心を盡せども、更に其(その)驗(しるし)もあらざれば、只いたづらに娘の死するを守り居(ゐ)ける。

 然るに當國永平寺の長老、ひそかに此事を聞(きゝ)給ひ、不便(びん)の事におぼし召し、富次郎が宅(たく)に御入有りて、娘の樣躰(やうだい)・虵がふるまひを、づくづくと[やぶちゃん注:ママ。]御覽あり、娘に仰せけるやうは、

「御身、座を立て、向ふの方(かた)に步(あゆ)み行べし。」

と。

 仰せにしたがひ、やうやう人に扶(たすけ)られ、二十(にじつ)步(ほ/あゆみ)斗(ばかり)行くに、虵も同じくしたがひ行く。

 娘、とまれば、虵も、とまる。

 時に長老、又、

「こなたへ。」

とおほせけるに、娘、歸れば、虵も、同じく立歸る所を、長老、衣の袖にかくし持玉(もちたま)ひし、壱尺餘りの木刀(ぼくたう)にて、此虵が敷居をこゆる所を、つよくおさへ玉へば、虵、行(ゆく)事能(あた)はずして、此木刀を遁(のが)れんと、身をもだへける程(ほど)、いよいよ強く押へたまへば、術(じゆつ)なくや有りけん、頓(やが)てふり歸り、木刀に喰付(くひつく)所を、右にひかへ持(もち)玉ひし小劔(こつるぎ)をもつて、頭を「丁(てう)」ど、打ち落し給ひ、

「はやはや、何方(いづかた)へも捨(すつ)べし。」

と。

 仰せにまかせ、下人等(ら)、急ぎ野邊(のべ)に捨(すて)ける。

 其時、長老、宣(のたま)ひけるは、

「最早、此後(こののち)、來たる事、努々(ゆめゆめ)あるべからず。此幾月日(いくつきひ)の苦しみ、兩親のなげき、おもひやり侍るなり。今よりしては、心やすかれ。」

とて、御歸寺(ごきじ)ありければ、富次郎夫婦は、餘りの事の有難さに、なみだをながして、御後影(おんうしろかげ)を伏拜(ふしおが)みけるが、其後(そのゝち)は、此虵、ふたゝび、きたらず、娘も日を經て本復(ほんぶく)し、元のごとくになりしかば、兩親はいふにおよばず、一門所緣の人々迄、悦ぶ事、かぎりなし。

「誠に有難き御僧かな。」

とて、聞く人、感淚をながしける。

[やぶちゃん注:以下の筆者評の部分は底本では文字が有意に小さく、全体が本文の二字相当の下げとなっているが、ブラウザの不具合を考えて引き揚げた。]

評じて曰(いはく)、虵、木刀に喰付(くひつき)たる内、しばらく娘の事を忘れたり。其執心(しうしん)のさりし所を、害し給ふゆへに、ふたゝび、娘に付事、能はず。是(これ)、倂(しか)しながら、知識(ちしき)の行ひにて、凡情(ぼんじやう)のおよぶ所にあらず。誠に、此一箇(いつこ)に限らず、萬(よろづ)の事におよぼして、益(ゑき[やぶちゃん注:ママ。])ある事、少なからず。諸人、能(よく)思ふべし。

[やぶちゃん注:おぞましき異類恋慕譚に、鎌倉新仏教のチャンピオンたる禅宗僧が、その蛇の執心の意識をずらすことで退治するという仕掛けを施し、気味の悪さを和歌で和らげてあるこの一篇、私などには、江戸時代の臨済中興の祖とされる名僧白隠慧鶴(えかく 貞享二(一六八六)年~明和五(一七六九)年)の逸話とされる、地獄を問う武士をけんもほろろに追い返して怒らせ、禅師を斬らんとしたその瞬間、彼に向って「それぞ地獄!」と応じた変形公案と同工異曲のようには思われる(白隠はまさに「太平百物語」の板行された享保一七(一七三二)年当時の同時代人である)ものの、なかなかに成功している怪談で、まず「太平百物語」の一つのクライマックスと言える。第四話目にこれを配し、しかも異例な作者の評言を添えるなど、筆者の自信作であったことは疑いない。但し、プロトタイプは恐らく中国の伝奇か志怪小説であろう。なお、この一条は既に「柴田宵曲 妖異博物館 執念の轉化」の注で電子化しているが、今回は底本を変えたので、一からやり直した。柴田宵曲はかなり綿密に本話を梗概訳しているので、そちらも見られたい。

「敷嶋(しきしま)の道」歌道のこと。これを「敷島の道」と呼ぶようになったのは、存外、新しいようだ。田中久三氏のサイト「亦不知其所終」の「敷島の道」の考証が興味深い。それによれば、歌学用語としての定着は鎌倉後期のようである。]

太平百物語卷一 三 眞田山の狐伏見へ登りし事

 

    ○三 眞田山(さなだやま)の狐伏見へ登りし事

Sanadayamanokitune_4

 伏見に德地屋(とくぢや)といふ穀物(こくもの)問(とい[やぶちゃん注:ママ。])屋あり。或日の事なりしが、五十斗(ばかり)の女壱人、此みせの先に立ちやすらひ居(ゐ)けるが、風呂敷包より藁苞(わらつと)を取出(とりいだ)していふやう、

「わらはゝ、大坂より京へのぼる者なり。此苞は大事の物に候ふまゝ、厠(かはや)へ參り申すうち、しばらく是(これ)に御預り置給はれ。」

といふにぞ、

「子細候はじ。」

とて許容して預り置(おき)しが、一時(とき)斗になりても、此女、見へこず。

「こは。わすれて上京せしにや。大事の物といひしが。」

なんど、寄合、いひあへりしを、主人、聞付(ききつけ)、おくより出ていひけるは、

「しらぬ人の物、須臾(しばらく)も預る事、卒爾(そつじ)の至りなり。」

とて、大きに叱り、其あたりなる厠ごとに尋(たづね)させけれども、敢て見へねば、

「又々たづね來(きた)るまで大事にして置べし。」

とて、庭の片脇(かたわき)に持行(もちゆき)、桶をかぶせ、犬・猫の用心をして置けるに、亥の刻ばかりとおもふ比(ころ)、此桶、そろそろとゆるぎ出(いだ)しけるを、下女が見付けて、うちおどろき、

「あれあれ、桶の步き侍る。」

といひければ、家内(かない)の男女(なんによ)、おそれ合、身をちゞめて守りゐる内、此桶、次第に宙に上(あが)るとぞ見えし。

 小坊主、壱人、立出(たちいで)しが、次第次第に大きになりて、七尺有餘(ゆうよ)の大入道となり、

「あら窮屈や。」

といひて、四方を見廻す其眼(まなこ)のすさまじさ、偏(ひとへ)に車輪のごとくなりければ、女・わらべはいふに及ばず、さしもに若き男までも、一度に、

「わつ。」

とさけびて迯吟(にげさまよ)ふ。

 されども、亭主は心剛(こゝろがう)る男にて、脇指(わきざし)おつ取、飛(とん)で出(いで)、彼(かの)大入道を、

「はつた。」

とねめ、

「おのれ。いかなる變化(へんげ)なれば、我家(わがいへ)に來りて、かく人を惱ます。はやく此所(このところ)を立ちさるべし。ぜひ、災(わざはひ)をなさんとならば、今(いま)、目の前に切(きつ)て捨てん。」

と、勢ひかうでいひければ、入道がいはく、

「われは大坂眞田山に年を經る狐なり。此家(このいへ)の者、頃日(このごろ)、わが住(すむ)所に來りて、出(いで)入りする穴に、小便をし、穢(けが)したるがにくさに、跡をしたふて登り、此所の桃山に住む狐を賴みて、今朝(こんてう)、たばかり入たり。はやはや、其者を出すべし。さもなくば、家内殘らず仇(あだ)をなさん。」

といふ。

 亭主、此よしを聞(きゝ)、

「頃日(このごろ)大坂へ下(くだ)せし者は太次兵衞(たじびやうへ[やぶちゃん注:ママ。])なり。」

とて、呼出(よびいだ)して、事のやうすを尋ねければ、太次兵衞、ふるひふるひ這出(はひいで)て、

「誠に、仰せのごとく、眞田山見物に罷りて、木陰なる所に、何心なく、小便いたし候ひき。しらぬ事にてさふらへば、御ゆるし下さるべし。」

と、色を變じてなげきければ、亭主、入道にむかひ、

「樣子は、なんぢ、今(いま)聞く通りなり。しらざれば、力なし。ゆるして、はやはや歸るべし。」

といふ。

 入道がいはく、

「然らばいのちを助くべし。此(この)過代(くはだい)として、わが住(すむ)穴に、三日が内(うち)、赤飯(あかめし)と油ものを備へ來(きた)るべし。此事、違(たが)ふにおいては、汝が皮肉に入りて、命を取(とる)べきぞ。」

といふに、

「其義(そのぎ)ならば、いと安き事なり。明日(みやうにち)より三日の内、朝暮(てうぼ)備へ申さん。」

と請合(うけあひ)しかば、忽ち、形ちは、消え失せたり。

 それよりして三日の内、朝暮、彼(かの)所に備へければ、太次兵衞が身の上、無事にをさまりけるとかや。

[やぶちゃん注:「太平百物語」のここまでの巻頭三話は総て妖狐譚で、作者の計算された構成意図が窺える。狐の博物誌は、ごく最近電子化注した「和漢三才圖會卷第三十八 獸類 狐(きつね)(キツネ)」をお薦めする。

「眞田山」現在の大阪市天王寺区の大阪城の南方にある小さな丘。「大坂冬の陣」の際、真田幸村が陣を構えた所とされる。ここ(グーグル・マップ・データ。大阪府大阪市天王寺区玉造本町の宰相山公園をドットした。宰相山は真田山の別名)。ここから伏見までは直線でも三十六キロメートルある。

「一時」現在の二時間相当。

「卒爾」十分な判断をせず、軽々しい行動をとること。軽率。

「亥の刻」現在の午後十時の前後二時間頃。挿絵師は本文を読んで描いていると思われるから、おくどさん(竈)では飯が炊かれているのは、当時の商家の雇い人たちの夕食か。されば彼らの夕飯は著しく遅かったことが窺われるではないか。

「七尺」二メートル十二センチ。

「吟(さまよ)ふ」当て訓としては不審。「吟」にはこのシーンに相応しい意味では「呻(うめ)く」・「嘆く」・「泣き叫ぶ」等があるが、「彷徨(さまよ)う」の意はない。

「桃山」伏見桃山。この附近(グーグル・マップ・データ。京阪電気鉄道京阪本線の「伏見桃山駅」をドットした)。狐が住まうのだから、地図の東北の、伏見桃山城跡や明治天皇陵がある辺りであろう。

「たばかり入たり」(「入(いり)たり」)「謀(たばか)る」は「計略をめぐらして騙(だま)す。誑(たぶら)かす」。本話の前の一連の変事・怪異を総て示す。さすれば、五十歳ほどの老女は助力を頼んだ桃山の狐が変じたものと読める。

「赤飯(あかめし)」赤飯(せきはん)。供物としての赤飯の起原はよく判っていないが、ウィキの「赤飯」によれば、『古代より赤い色には邪気を祓う力があるとされ、例えば墓室の壁画など呪術的なものに辰砂が多く使われ、また、日本神話の賀茂別雷命や比売多多良伊須気余理比売出生の話に丹塗矢(破魔矢の神話的起源)の伝承があることからも窺える。また、神道は稲作信仰を基盤として持ち(田の神など)、米はとても価値の高い食糧と考えられてきた。このため、古代には赤米』『を蒸したものを神に供える風習があったようである(現在でもこの風習は各地の神社に残っている)。その際に、お供えのお下がりとして、人間も赤米を食べていたと想像される。米の源流を辿ると、インディカ種とジャポニカ種に辿り着く。インディカ種は赤っぽい色をしており、ジャポニカ種は白である。縄文時代末期に日本に初めて渡ってきた米はこの』二『種の中間の種類で、ちょうど赤飯くらいの色だった。この米を、日本人は江戸時代になる前まで食べていた。しかし、稲作技術の発展による品種改良でより収量が多く作りやすい米が出てきたこと、食味の劣る赤米を領主が嫌って年貢として収納することができなかったことから、次第に赤米は雑草稲として排除されるようになった。だが』、『赤いご飯を食べる風習自体は生き続け、白い米に身近な食材である小豆等で色付けする方法が取られるようになったと考えられる。赤飯にゴマを乗せるのは、白いご飯を赤くしたことを神様にゴマかすためである』という。『現在は、祭りや誕生祝いなど吉事に赤飯を炊く風習が一般的である。しかし、江戸時代の文献』「萩原随筆」には、『「凶事ニ赤飯ヲ用ユルコト民間ノナラワシ」と記されており』、『凶事に赤飯を炊く風習がこの頃には既にあった』。『凶事に赤飯を炊く理由は不明ではあるが、赤色が邪気を祓う効果がある事を期待したためという説や、いわゆる「縁起直し」という期待を込めて赤飯が炊かれたとも考えられる。また、古くは凶事に赤飯を食べていたものが何らかの理由で吉事に食べるように反転したという説もある』。『伝承や歴史が明白となっている部分では、少なくとも』十二『世紀には赤飯が供養に使われていたという事である。赤飯は宗教的な意味合いも強く、赤飯を用いた「赤飯供養」という風習が存在する』とあるから、稲荷信仰よりも以前に赤飯を供物とする習俗は存在したのであり、動物生態学的にもキツネが赤飯を好むものではない。

「油もの」「油揚げ」ではない。油で揚げたものである。当初の稲荷信仰ではキツネが好む鼠を油で揚げたものが供物とされていたが、仏教の殺生禁断から油揚げに変わったに過ぎず、くどいが、肉食であるキツネが特に油揚げを好むわけではない。但し、キツネは肉食に近い雑食性であり、飢えていれば、赤飯や油揚げも食う。]

郭公の歌 伊良子清白 (附初出形)

 

郭公の歌

 

莊嚴美麗の夕日影

一ひらの雲羽搏き入らば

極樂鳥と身をかへん

汝は醜き冥府(よみ)の鳥

 

たとへば蘭の花を啄(ついば)み

巖(いはほ)の上に尾羽を伸す

快樂(けらく)の鳥にくらぶれば

汝は人に馴れ難き

 

生れて鳥の郭公(ほととぎす)

盲(めしひ)の鳥にあらねども

めしひの鳥のごとくにて

人厭はしき風情(ふぜい)あり

 

番(つがひ)はなれぬ金絲雀(かなりや)の

人に飼はるる歌鳥は

手にさへのりて囀れど

汝はにくき小鳥かな

 

汝はにくき鳥なれど

雨にくるひてをやみなく

木かげにさけぶ聲きけば

心は千々にむしられぬ

 

ああ暗黑と光明の

二つのかげをより交(ま)ぜて

林をゆすり山をとよもし

みち渡り行く夕暮の聲

 

[やぶちゃん注:明治三四(一九〇一)年八月一日発行の『明星』(第十五号)初出(署名は「伊良子清白」で、底本全集の「著作年表」に載るデータでは、彼がこの署名を用いた最初の公開作品である)であるが、初出形からは大きな改変が行われている。後で初出形を示す。

 言わずもがなであるが、標題中の「郭公」は「ほととぎす」と読んでいる。本邦の古文ではこれを「くわくこう」(かっこう)と読むことはなく、あくまでカッコウ目カッコウ科カッコウ属ホトトギス Cuculus poliocephalus を指すのであり、カッコウ目カッコウ科カッコウ属カッコウ Cuculus canorus はその棲息域が温暖地の森林であったことから、少なくとも文芸対象としては全く認知されていなかったのである。例えば、同志社女子大学公式サイト内のコラム『「ほととぎす」をめぐって』を見られたい。流石に江戸中期の正徳二(一七一二)年頃成立した寺島良安の画期的な博物学書「和漢三才図会」には、「第四十三 林禽類 杜鵑(ほととぎす)」でホトトギスが、同巻「第四十三 林禽類 鳲鳩(ふふどり・つつどり)(カッコウ)」「第四十三 林禽類 加豆古宇鳥(かつこうどり)(カッコウ?)」でカッコウ或いはカッコウ類らしきものが分別されて登場するが(リンク先は総て私の電子化注)、後の二者は良安の附言部(△印以降)が短いのを見ても、江戸中期の段階でさえも本草学的(良安は医師)にすこぶるマイナーであったことが判る。

「極樂鳥」これは種としてのそれ(スズメ目スズメ亜目カラス上科フウチョウ(風鳥)科 Paradisaeidae のフウチョウ類の異名。「和漢三才圖會卷第四十四 山禽類 風鳥(ふうちやう)(フウチョウ)」を参照)ではなく、後の「醜き冥府(よみ)の鳥」対として出したに過ぎない。後の「快樂(けらく)の鳥」も同義と採る。

「汝は醜き冥府(よみ)の鳥」先に示した同志社女子大学公式サイト内のコラム『「ほととぎす」をめぐって』にも、『中国の故事に由来するものは「死・魂・悲しみ」のイメージをひきずっているとされています』。ホトトギスの異名の一つの『「しでの田長」は』、『本来』、『身分の低い「賎(しづ)の田長」だったようですが、それが「死出」に変化したことで、「田植え」のみならず』、『冥界と往来するイメージまで付与されました』とあるように、主に中国伝来の不吉な鳥としての文化が纏いついている彼らにとっては不幸な経緯がある。それについては、「和漢三才圖會第四十三 林禽類 杜鵑(ほととぎす)」の本文や私の注を参照されたい。昼夜を問わず鳴くことが、ある種の五月蠅さと冥界との以降的時空間に啼く不吉な鳥と理解された可能性も高いと私は考えている。

「生れて鳥の郭公(ほととぎす)」/「盲(めしひ)の鳥にあらねども」/「めしひの鳥のごとくにて」/「人厭はしき風情(ふぜい)あり」恐らく伊良子清白はここでは知られたホトトギス前世譚として知られる「時鳥(ほととぎす)と兄弟」等と呼ばれる説話を念頭に置いているものと思う。小学館「日本大百科全書」の「時鳥と兄弟」から引く(下線太字は私が附した)。『昔話。鳥の前生が人間であったことを主題にする鳥の由来譚』『の一つ。兄弟がいる。弟が山芋』『をとってくる。兄にはうまい下のほうを食べさせ、自分はまずい上のほうを食べる。疑い深い兄は、弟がうまいところを食べているのではないかと思い、弟ののどを突き切った。山芋のまずいところばかり出てくる。兄は後悔してホトトギスになり、「オトノドツッキッタ」(弟ののどを突き切った)と鳴いている、という話である。弟はモズになり、兄のために虫などを木の枝に挿しておくという伝えが付随している話もある。兄が弟を疑う伏線として、兄は盲目であったとか、異母兄弟であったとか説く例も多い(私は盲目設定としてこの話を知っている)。『「継子(ままこ)話」の形をとるものもあり、ホトトギスの托卵(たくらん)性から「継子話」として語られた時期がある』の『かもしれない。端午』『の節供に山薬(さんやく)と称して山芋をとってきて食べる習慣があった地方では、それに結び付けて説いている。類話は中国貴州省のミャオ族にもある。「ペェア」(兄さん)と鳴く鳥の由来で、兄は魚をとってくると、弟には身を与え、自分は頭を食べていたが、弟は兄がうまいほうを食べていると思い、兄を川に突き落とす。頭がまずいことを知った弟は兄を探し求めて鳥になったという。日本にも福島県に魚の例があり、注目される。兄弟の葛藤』『を主題にした鳥の由来譚はマケドニアやアルバニアにもある』とある。

「金絲雀(かなりや)」スズメ目アトリ科カナリア属カナリア Serinus canaria。野生種はアゾレス諸島(大西洋の中央部(マカロネシア)にある九つの島からなる群島。ポルトガル領)・カナリア諸島(アフリカ大陸北西沿岸に近い大西洋上の七つの島からなる群島。スペイン領)・マデイラ諸島(ポルトガルの首都リスボンから南西に約一千キロメートルのマカロネシアにある四つの島からなる群島。ポルトガル領)で、名のカナリアは原産地の一つであるカナリア諸島による。

 初出形は以下。

   *

 

郭公の歌

 

羽(はね)の和毛(にこげ)に雨うたば

あつき血潮の胸冷えむ

もとより人に隱れゐて

葉陰に洩らす歌の聲

 

たとへば枇杷を啄みて

上毛(うはげ)の艶(つや)の羽をのす

快樂(けらく)の鳥に比ぶれば

汝(なんぢ)は人に馴れ難き

 

生れて鳥の郭公

めしひの鳥にあらねども

めしひの鳥のごとくにて

人いとはしき風情あり

 

巢なき鳥ぞと笑はれて

耻らふらしき雛ならば

手にさへ乘りて囀れど

汝はにくき小鳥かな

 

逆立つ毛には瀧つ瀨の

雨ふりそそぎ身のうちの

肉ことごとく波立ちて

とまり危き木々(きゞ)の枝

 

鳥屋(とや)にかくるゝ鷄の

雌(め)にもおとれる小さき身の

闇(やみ)いと深き夕暮も

恐を知らず啼けるかな

 

汝はにくき鳥なれど

雨にくるひてをやみなく

木かげに歌ふ聲きけば

心は千千(ちぢ)にむしられぬ

 

   *

初出の「巢なき鳥ぞと笑はれて」とは托卵の習性を指す。]

2019/04/17

追伸

現物標本よりも精密な模造の方が遙かに金がかかるし、技術も不可欠だ。何より、実物は厳粛であると同時に、より科学的に教育的であることは言うまでもない。言っとくぜ! 実物の標本があって「何が悪い!」と。因みに、母と俺と妻の肉体は慶応大学に献体だ。医学部志望の誰彼は俺を切刻んで学ぶのだ。俺はそこでちゃらけた奴が俺の耳を切って「壁に耳あり」とやらかしたとしても、「全然いいぜ」と言える人間なのだ――

胸糞悪い最下劣なタイプ標本とは、実人骨なんぞではなく、偉そうにして生きて人民を支配して「日本人」の代表――タイプ種然としている誰彼そのものだろう。そいつらこそ今、廃棄されるべきおぞましい対象物である。

生物室の髑髏

先日来の報道を聴きながら、思い出すことがある。私が最初に勤務した学校の(別に言っても構わないが、それが下らぬ官庁の大騒ぎになってあの校長やらが大騒ぎをすると……♪ふふふ♪……困るかも知れぬから……言わぬこととしよう)生物教官室にあった頭骨標本は、インドの女性の実物標本であった(報道ではインドから輸入された標本が多数あったとあった)。私の尊敬した甲殻類を専門で学ばれた生物教師(故人)は、その頭蓋骨の人物の名前も教えてくれた。合宿でその部屋に泊まる時は、その標本に蔽いをかけて見ないようにしていると言われておられたのを思い出す。私はそれを聴きながら、梶井基次郎の「愛撫」を思い出していたことも遠い昔に呼び返したことも(リンク先は私の古い電子テクスト)。

私は醫科の小使といふものが、解剖のあとの死體の首を土に埋めて置いて髑髏を作り、學生と祕密の取引をするといふことを聞いてゐたので、非常に嫌な氣になつた。何もそんな奴に賴まなくたつていいぢやないか。そして女といふものの、そんなことにかけての、無神經さや殘酷さを、今更のやうに憎み出した。しかしそれが外國で流行つてゐるといふことについては、自分もなにかそんなことを、婦人雜誌か新聞かで讀んでゐたやうな氣がした。――

……高等學校の……生物學教室に……印度の女性の頭蓋骨が……ある…………ああ……さても「此の世のものでない休息が傳はつて來る」ではないか…………

太平百物語卷一 二 馬士八九郞狐におどされし事

 

    ○二 馬士(むまかた)八九郞狐におどされし事

 大坂久寶寺町(きうほうじまち)に八九郞といふ馬士あり。或る日、牧方(ひらかた)まで馬に荷付けて行しが、歸るさ、守口(もりぐち)より日暮けり。時は霜月下旬の事なれば、寒風、面(おもて)を打(うち)て、いとさむかりしかば、茶店(さてん)によりて、茶椀酒をかたぶけ、醉ひきげんに寒氣(かんき)をわすれ、小歌(こうた)つぶやきて歸りける所に、年比六十斗(ばかり)の禪門、八九郞をよびかけ、

「いかに馬士(まご)殿、われは、今宵、大坂へ行(ゆく)者なり。老足、甚(はなはだ)道に倦(うみ)たり。其馬かして乘せ玉へ。」

といふ。八九郞聞きて、

「價(あたひ)はいかほど出(いだ)さるゝや。酒手あらば、のせん。」

といふ。禪門がいふ、

「御覽の通り、貧僧なり。心安くして、乘(のせ)給へ。」

といへば、

「さらば、乘り候へ。」

と彼(かの)馬にうち乘せ、四、五丁斗、行く所に、うしろの方より、大勢の聲として、

「其馬、まて。」

とぞ、どよめきける。

 八九郞、『何事やらん』と顧りみれば、武具(ものゝぐ)せし者、四、五人かけ來り、此馬に追付(おひつく)といなや、彼(かの)禪門を馬より取つて引(ひき)おろし、

「扨々、にくき坊主めかな。」

とて、引縛りければ、八九郞、仰天し、馬を馳(はせ)て逃げけるに、

「其馬とまれ。」

と、口々にいふ聲、しきりなれば、『南無三寶(なむさんぼう)』とおもひ、やがて、馬にとび乘(のり)、息をばかりに追(おつ)たつれば、跡より追ひ來るこゑ、次第次第に遠ざかりしまゝ、やうやうに心をやすんじ、片町(かたまち)まできたりて、しるべの方(かた)にかけ入(いり)、大汗をながして、しかじかのよしを語れば、亭主もおどろき、いぶかりしが、後(のち)に能(よく)々きけば、狐どもが八九郞をばかしけるとぞ。

[やぶちゃん注:「馬」は総て「むま」と読んでいるので、そのように読まれたい。

「大坂久寶寺町(きうほうじまち)」現在、大阪府大阪市中央区に内久宝寺町・北久宝寺町・南久宝寺町があるから、この附近(グーグル・マップ・データ。以下同じ。北と南のそれは中央附近に現認出来る)である。大阪城の南西の町屋である。

「牧方(ひらかた)」ママ。「徳川文芸類聚」版では「枚方」と訂するが、「江戸文庫」(国立国会図書館蔵本を親本とする)も「牧方」である。怪談話では虚構性を暗示させるためにしばしばこうした意識的仕儀が行われることがある。大阪府枚方市。直線でも二十キロメートルはあるから、荷駄で往復では日も暮れよう。

「守口(もりぐち)」大阪府守口市は丁度、中間点に当たる。

「心安くして」親切なる志しを以って。

「さらば、乘り候へ」禅僧であるから、布施のつもりでただで乗せたのである。酒に酔った心地よさも手伝ってはいるが、八九郎はこだわりを見せておらず、すんなりと引き受けており、優しい市井の民の一人なのである。こうした設定は前の金目当ての藪医者松岡同雪なんどとは異なり、読む庶民も八九郎に親和性を抱いて読み、主人公とともに狐に化かされることを「能狂言」の登場人物のように一緒に気持ちよく楽しむのである。

「四、五丁」約四百三十七~五百四十五メートル。

「片町」大阪府大阪市都島区片町であろう。大阪城北詰である。]

和漢三才圖會卷第三十八 獸類 狼(おほかみ) (ヨーロッパオオカミ・ニホンオオカミ・エゾオオカミ)

Ookami

 

 

 

おほかみ  毛狗   獾【牡】

        狼【牝】 獥【子】

        【和名於

ラン       保加美】

 

本綱狼處處有之豺屬也穴居形大如犬而鋭頭尖喙白

頰駢脇高前廣後脚不甚高能食雞鴨鼠物其色雜黃黒

亦有蒼灰色者其聲能大能小能作兒啼以魅人其久鳴

其膓直故鳴則後竅皆沸而糞爲烽烟直上不斜其性善

顧而食戾踐藉老則其胡如袋所以跋胡疐尾進退兩患

其象上應奎星【駢音緶聯也與骿同謂肋骨連合爲一也晉文公駢脇者是也】

肉【鹹熱】 補益五臟厚腸胃腹有冷積者宜食【味勝狐犬】

狼牙佩之辟邪惡氣 狼喉靨治噎病【日乾爲末每半錢入飯内食之妙】

狼皮暖人辟邪惡氣 狼尾繫馬胸前辟邪氣令馬不驚

 月淸世の中に虎狼も何ならす人の口こそなほ增りけれ

△按狼春夏出山家竊食鳥獸及人物秋冬穴居性能知

 機若欲獵則深匿不出四趾有蹯而能渉水或齅砲火

 繩之氣則遠避去夜有行人跳越其首上數回人如恐

 怖轉倒則噬食稱之送狼【人不怖又不敵者無害】故行山野人常

 攜火繩也狼見人屍必跳超其上尿之而後食之

五雜組云江南多豺虎江北多狼狼雖猛不如虎而貪殘

過之不時入村落竊取小兒銜之而趨豺凡遇一獸遂之

雖數晝夜不舎必得而後已故虎豹常以比君子而豺狼

比小人也

――――――――――――――――――――――

狼狽 狼前二足長後二足短狽前二足短後二足長狼

 無狽不行狽亦無狼不行若相離則進退不得

△按二物相依頼者蟨與蛩蛩【見鼠部】蝦與水母【見魚部】知母

 與黃栢【見木部】狼與狽亦然矣而狽未知其何物

 

 

おほかみ  毛狗

        獾〔(くわん)〕【牡。】

        狼【牝。】 獥〔(げき)〕【子。】

        【和名「於保加美」。】

ラン

 

「本綱」、狼、處處に之れ有り、豺〔(やまいぬ)〕の屬なり。穴居す。形・大いさ、犬のごとくにして、鋭き頭、尖れる喙〔(くちさき)〕、白き頰、駢(つらな)れる脇(わき)、高き前、廣き後脚〔は〕甚だ〔は〕高からず。能く雞・鴨・鼠〔の〕物を食ふ。其の色、雜す。黃黒、亦、蒼灰色の者有り。其の聲、能く大に〔成し〕、能く小に〔成し〕、〔また、〕能く兒の啼くを作〔(な)〕して、以つて人を魅(ばか)す。其れ、久しく鳴〔かば〕、其の膓(はらわた)、直(すぐ)なる故に〔長く〕鳴くときは、則ち、後(うしろ)の竅(あな)、皆、沸(わい)て[やぶちゃん注:ママ。]、糞、烽-烟〔(のろし)〕と爲〔(な)〕る。〔その烟は〕直〔ちに〕上りて斜〔(なのめ)〕ならず。其の性、善く顧(かへりみ)て、食ふときは、戾り踐〔(ふ)〕み〔て〕藉〔(しや)〕す[やぶちゃん注:踏み躙(にじ)ってから、やおら、食う。]。老するときは、則ち、其の胡(ゑぶくろ)、袋のごとし。所以〔(ゆゑ)〕に胡を跋(ふ)み、尾に疐(つまづ)く、進退、兩〔(ふた)〕つながら、患ふ。其の象(〔かた〕ち)、上(〔か〕み)〔の〕奎星〔(けいせい)〕に應ず【「駢」は音「緶〔(ベン)〕」、「聯〔(レン/つならる)〕」なり。「骿」と同じ。肋骨の連なり〔て〕合し、一に爲れるを謂ふなり。晉の文公〔の〕駢脇とは是れなり。】。

肉【鹹、熱。】 五臟を補益し、腸胃を厚くし、腹〔に〕冷積有る者、宜しく食ふべし【味、狐・犬に勝れり。】。

狼〔の〕牙〔は〕之れを佩ぶれば、邪惡の氣を辟〔(さ)〕く。 狼〔の〕喉靨[やぶちゃん注:「のどぼとけ」か。東洋文庫訳でも疑問符附きでそう割注する。]〔は〕噎-病〔(つかえ)〕を治す【日に乾し、末と爲し、每半錢[やぶちゃん注:明代の一銭は三・七五グラム。]、飯の内に入れ、之れを食へば妙なり。】。

狼〔の〕皮〔は〕人を暖め、邪惡の氣を辟く。 狼〔の〕尾〔は〕馬の胸の前に繫げ、邪氣を辟け、馬をして驚かさざらしむ。

 「月淸」

   世の中に虎狼も何ならず

      人の口こそなほ增さりけれ

△按ずるに、狼、春夏は山家に出でて、鳥獸及び人・物を竊(ぬす)み食〔(くら)〕ふ。秋冬は穴居す。性、能く、機を知り、若〔(も)〕し、〔人、〕獵せんと欲せば、則ち、深く匿(かく)れて出でず。四つの趾〔(あし)〕、蹯〔(バン/みづかき)〕[やぶちゃん注:ここは以前に出た「蹼(みづかき)」の意である。]有りて、能く水を渉〔(わた)〕る。或いは、砲の火繩の氣(かざ)を齅(か)ぎて、則ち、遠く避け、去る。夜、行く人有れば、其の首の上を跳(と)び越(こ)えること、數回にして、人、如〔(も)〕し、恐怖して轉倒すれば、則ち、噬〔か〕み食〔(くら)〕ふ。之れを稱して「送り狼」と〔謂ふ〕【人、怖れず、又、敵せざれば、害、無し。】。故に山野を行く人、常に火繩を攜(たづさ)へしむなり。狼、人の屍〔(しかばね)〕を見ば、必ず、其の上を跳び超え、之れに尿〔(ゆばり)〕して後、之れを食ふ。

「五雜組」に云はく、『江南には、豺・虎、多く、江北には、狼、多し。狼、猛しと雖も、虎にしかずして、而〔れども〕、貪殘なること[やぶちゃん注:貪欲で残忍なところは。]、之れに過ぐ。不時に[やぶちゃん注:思いもかけない時に。]村落に入り、小兒を竊〔(ぬす)〕み取り、之れを銜〔(くは)〕へて趨〔(はし)〕る。〔また、〕豺、凡そ、一〔つの〕獸に遇へば、之れを遂ふこと、數晝夜と雖も、舎〔(す)〕てず[やぶちゃん注:決して追跡を諦めない。]、必ず、得て後に已む[やぶちゃん注:獲物を確保して初めて走るのをやめる。]。故に、虎・豹は常に以つて君子に比す。而〔れども〕豺・狼は小人に比すなり』〔と〕。

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狼狽〔(らうばい)〕 狼は、前の二足、長く、後ろの二足、短し。狽は、前の二足、短く、後ろの二足、長し。狼、狽、無ければ、行かず、狽も亦、狼、無ければ、行かず。若〔(も)〕し、相ひ離るれば、則ち、進退、得ず。

△按ずるに、二物、相ひ依頼〔する〕者は、「蟨〔(けつ)〕」と「蛩蛩〔(きようきよう)〕」【「鼠部」に見ゆ。】、「蝦(ゑび)」と「水母(くらげ)」【「魚部」に見ゆ。】、「知母〔(ちぼ)〕」と「黃栢〔(くわうはく)〕」【「木部」に見ゆ。】〔等にして、〕狼と狽も亦、然り。而〔れども〕「狽」は、未だ其の何物といふことを知らず。

[やぶちゃん注:中国に分布するものは、哺乳綱食肉目イヌ亜目イヌ科イヌ亜科イヌ属タイリクオオカミ亜種ヨーロッパオオカミCanis lupus lupus。本邦に棲息していたが、我々が絶滅させてしまったのは、同じくタイリクオオカミ亜種ニホンオオカミCanis lupus hodophilax(北海道と樺太を除く日本列島に棲息していた)と、同亜種エゾオオカミ Canis lupus hattai(樺太と北海道に棲息していた)である。ウィキの「ニホンオオカミ」を引いておく。『生態は絶滅前の正確な資料がなく、ほとんど分かっていない』。『薄明薄暮性で、北海道に生息していたエゾオオカミと違って』、『大規模な群れを作らず』二頭・三頭から十頭『程度の群れで行動した。主にニホンジカ』(鯨偶蹄目シカ科シカ属ニホンジカ Cervus nippon)『を獲物としていたが、人里に出現し飼い犬や馬を襲うこともあった(特に馬の生産が盛んであった盛岡では被害が多かった)。遠吠えをする習性があり、近距離でなら障子などが震えるほどの声だったといわれる。山峰に広がるススキの原などにある岩穴を巣とし、そこで』三『頭ほどの子を産んだ。自らのテリトリーに入った人間の後ろを監視する様に付いて来る習性があったとされる。また』、この習性から、『hodophilax(道を守る者)という亜種名の元となった』。『一説にはヤマイヌ』(これは現在は本ニホンオオカミと山にいる野犬とを混同したものの呼称と考えるのが主流である)『の他にオオカメ(オオカミの訛り)』『と呼ばれる痩身で長毛のタイプもいたようである。シーボルトは両方』を『飼育していたが、オオカメとヤマイヌの頭骨はほぼ同様であり』、オランダの動物学者コンラート・ヤコブ・テミンク(Coenraad Jacob Temminck 一七七八年~一八五八年:シーボルトの「日本動物誌」(Fauna japonica 一八四四年~一八五〇年)の編纂作業ではドイツの動物学者ヘルマン・シュレーゲル(Hermann Schlegel 一八〇四年~一八八四年)とともに脊椎動物を担当しており、日本産大型脊椎動物はテミンクとシュレーゲルによって学名が命名されたものが多い)『はオオカメはヤマイヌと家犬の雑種と判断した。オオカメが亜種であった可能性も否定出来ないが』、『今となっては不明である』。『日本列島では縄文時代早期から家畜としてのイヌが存在し、縄文犬と呼ばれている』。『縄文犬は縄文早期には体高』四十五『センチメートル程度、縄文後期・晩期には体高』四十『センチメートルで、猟犬として用いられていた』。『弥生時代には』、『大陸から縄文犬と形質の異なる弥生犬が導入されるが、縄文犬・弥生犬ともに東アジア地域でオオカミから家畜化されたイヌであると考えられており、日本列島内においてニホンオオカミが家畜化された可能性は』、『形態学的・遺伝学的にも否定されている』。『なお、縄文時代にはニホンオオカミの遺体を加工した装身具が存在し、千葉県の庚塚遺跡からは縄文前期の上顎犬歯製の牙製垂飾が出土している』。『日本の狼に関する記録を集成した平岩米吉の著作によると、狼が山間のみならず』、『家屋にも侵入して人を襲った記録』『がしばしば現れる。また北越地方の生活史を記した』「北越雪譜」や、『富山・飛騨地方の古文書にも狼害について具体的な記述』『が現れている』。『奥多摩の武蔵御嶽神社や秩父の三峯神社を中心とする中部・関東山間部など』、『日本では魔除けや憑き物落とし、獣害除けなどの霊験をもつ狼信仰が存在する。各地の神社に祭られている犬神や大口の真神(おおくちのまかみ、または、おおぐちのまがみ)についてもニホンオオカミであるとされる。これは、山間部を中心とする農村では日常的な獣害が存在し、食害を引き起こす野生動物を食べるオオカミが神聖視されたことに由来する』。「遠野物語」の『記述には、「字山口・字本宿では、山峰様を祀り、終わると衣川へ送って行かなければならず、これを怠って送り届けなかった家は、馬が一夜の内にことごとく狼に食い殺されることがあった」と伝えられており、神に使わされて祟る役割が見られる』。『ニホンオオカミ絶滅の原因については確定していないが、おおむね狂犬病やジステンパー(明治後には西洋犬の導入に伴い流行)など』、『家畜伝染病と人為的な駆除、開発による餌資源の減少や生息地の分断などの要因が複合したものであると考えられている』。『江戸時代の』享保一七(一七三二)年頃には、『ニホンオオカミの間で狂犬病が流行しており、オオカミによる襲撃の増加が駆除に拍車をかけていたと考えられている。また、日本では山間部を中心に狼信仰が存在し、魔除けや憑き物落としの加持祈祷にオオカミ頭骨などの遺骸が用いられている。江戸後期から明治初期には狼信仰が流行した時期にあたり、狼遺骸の需要も捕殺に拍車をかけた要因のひとつであると考えられている』。『なお』、明治二五(一八九二)年六月まで、『上野動物園でニホンオオカミを飼育していたという記録があるが』、『写真は残されていない。当時は、その後』十『年ほどで絶滅するとは考えられていなかった』のであった。生存説を唱える人がいるが、私はそういう連中の非生態学的な主張は絶対に信じない。ウィキには「オオカミの再導入」もあるが、ヒトはどれだけ生態系を破壊したら気が済むのかという気がするだけである。

「豺〔(やまいぬ)〕」前項「豺(やまいぬ)(ドール(アカオオカミ))」を参照されたい。

「高き前、廣き後脚〔は〕甚だ〔は〕高からず」ウィキの「オオカミ」によれば、『姿勢においては』、『頭部の位置がイヌに比べて低く、頭部から背中にかけては』、『地面に対して水平である』とあり、後半の部分は腑に落ちる。「高き前」というのは、索敵する際の伸び上がった姿勢を指しているように私には思え、これもまた腑に落ちる

「其れ、久しく鳴〔かば〕、其の膓(はらわた)、直(すぐ)なる故に〔長く〕鳴くときは、則ち、後(うしろ)の竅(あな)、皆、沸(わい)て、糞、烽烟と爲〔(な)〕る。〔その烟は〕直〔ちに〕上りて斜〔(なのめ)〕ならず」この部分、東洋文庫訳では『沸く。』と切って、以下を人はその狼の『糞を烽烟(のろし)に使う。煙は真直ぐ上って斜めにならない』と訳しているが、「本草綱目」を見てもそうは読めないし、時珍の訓点も上記の通りである。これは、言っている科学的な意味は全く判らないけれども、

――狼の腸は捩じれることなく真っ直ぐであるため、長く吠え続けると、腸の中で食ったものが醗酵或いは熱を持ち、遂には燻り出してしまい、遂には、肛門から出た糞から煙が立ち昇り出す。その煙は真っ直ぐに立ち昇って決してぶれて斜めになったりはしない不思議な煙である(その特異性を以って、古来、人は戦時の烽火(のろし)として使用するのである)。

という意味で採る。因みに、たまたま今朝、妻が見ていた忍術絡みのドキュメントのテレビ番組で、実際にオオカミの糞を燃やす実験が行われているのを見た。普通のものを燃やすのと煙の立ち方には変化はなかった。しかし、実験者が耐えられなくなるほど「臭い」のだそうで、臭気測定器では振り切れて計測出来ないほどのものであった。その臭いは恐らく一~二キロメートル圏内でも容易に人が感知出来るだろうと実験者は述べていた。そうか! それが! それでこその「狼煙」なんだ! と一人合点したものである。

「胡(ゑぶくろ)」餌嚢。この場合は胃であろう。老成個体では甚だしい胃下垂を起こすというのである。というより、これは腸の捻転のような症状にしか見えないのだが。

「其の象(〔かた〕ち)、上(〔か〕み)〔の〕奎星〔(けいせい)〕に應ず」東洋文庫訳では、『その占いの象は天の奎星(けいせい[やぶちゃん注:ルビ。])(トカキボシ[やぶちゃん注:本文割注。])と照応する』とある。「奎」は玄武七宿の一つで、現在のアンドロメダ座西部に当たり、距星(二十八宿の各宿の基準点となる星)はアンドロメダ座ζ(ゼータ)星に相当するという。

「晉の文公〔の〕駢脇」春秋時代の晋の君主文公(紀元前六九六年~紀元前六二八年/在位:紀元前六三六年~紀元前六二八年)は諱の重耳(ちょうじ)で知られる、春秋五覇の代表格の覇者。晋の公子であったが、国内の内紛を避けて、十九年もの間、諸国を放浪した後、帰国して君主となって天下の覇権を握り、斉の桓公と並んで斉桓晋文と称された。彼は駢脇(肋骨が分かれず、総てが繋がって一枚の板のように見える骨奇形。或いは見かけ上で外見はそう見えただけのことかも知れない)であったという。これは「春秋左氏伝」の僖公二十三年(紀元前六三七年)の条の出る話で、以下。公子重耳が曹の国を訪れた時のことである。

   *

及曹、曹共公聞其駢脇、慾觀其裸。浴、薄而觀之。僖負羈之妻、「吾觀晉公子之從者、皆足以相國。若以相夫子必反其國。反其國、必得志於諸侯。得志於諸侯而誅無禮、曹其首也。子盍蚤自貳焉。」乃饋盤飧寘璧焉。公子受飧反璧。

   *

勝手流で訓読して見ると、

   *

 曹に及ぶ。曹の共公。其の駢脇(べんきよう)なるを聞きて、其の裸を觀んと慾し、浴するとき、薄(せま)りて、之れを觀る[やぶちゃん注:岩波文庫の小倉善彦氏の訳では『簾(すだれ)の外からのぞいた』とある。]。僖負羈(きふき)[やぶちゃん注:曹の大夫の名。]の妻、曰はく、「吾れ、晉の公子の從者を觀るに、皆、以つて、國に相(しやう)たるに足れり。若(も)し、以つて、夫子(ふうし)を相(たす)たけんとせば、必ず其の國に反(かへ)らん。其の國に反らば、必ず、志(こころざし)を諸侯に得ん。志を諸侯に得、而して無禮を誅(ちゆう)せんとせば、曹は其の首(はじめ)たらん。子、盍(なん)ぞ蚤(はや)く、自ら貳(そ)はざらんや[やぶちゃん注:親しく挨拶なさらないのか。]。」と。乃(すなは)ち、盤飧(はんそん)を饋(おく)り、璧(へき)を寘(お)く[やぶちゃん注:食膳を差し入れ、その膳の中に賄賂としての璧玉を包み入れておいた。]。公子、飧を受け、璧は反(かへ)したり。

   *

である。歴史上は、この年終わりか、翌年には重耳は晋公の座に就いているようだ(実に六十二歳の新君主であった)から、僖負羈の妻の観察は正鵠を射ていたのである。因みに、そういう盤状肋骨の奇形があるかないかは知らないが、例えば、私の嘗つての同僚で、尊敬した生物の先輩教師は、肋骨の最下部が左右ともに一本足りない奇形であられた。

「冷積」東洋文庫訳割注によれば、『体内に慢性の硬結があって』、『胃腸の働きのにぶっている』症状を指すとある。

「噎-病〔(つかえ)〕」「膈噎(かくいつ)」が知られた症状で、胸の辺りが痞(つか)える症状を示す疾患のこと。食道狭窄症・食道癌等に相当するか。

「月淸」「世の中に虎狼も何ならず人の口こそなほ增さりけれ」既出既注の九条良経(嘉応元(一一六九)年~元久三(一二〇六)年)の家集「秋篠月清集」の「巻一 十題百首」の中の一首。「日文研」の「和歌データベース」で校合済み。

「送り狼」ウィキの「送り犬」を引いておく。『送り犬(おくりいぬ)は、日本の妖怪の一種。東北地方から九州に至るまで各地で送り犬の話は存在するが、地域によっては犬ではなく狼であったり、その行動に若干の違いがある。単に山犬(やまいぬ)、狼(おおかみ)とも呼ばれる』。『夜中に山道を歩くと』、『後ろからぴたりとついてくる犬が送り犬である。もし何かの拍子で転んでしまうと』、『たちまち食い殺されてしまうが、転んでも「どっこいしょ」と座ったように見せかけたり、「しんどいわ」と』、『ため息交じりに座り』、『転んだのではなく』、『少し休憩をとる振りをすれば』、『襲いかかってこない。ここまでは各地とも共通だが、犬が体当たりをして突き倒そうとする、転んでしまうと』、『どこからともなく犬の群れが現れ襲いかかってくる等』、『地域によって犬の行動には違いがある』。『また、無事に山道を抜けた後の話がある地域もある。例えば、もし無事に山道を抜けることが出来たら』、『「さよなら」とか「お見送りありがとう」と一言声をかけてやると』、『犬は後を追ってくることがなくなるという話や、家に帰ったら』、『まず』、『足を洗い』、『帰路の無事を感謝して』、『何か一品送り犬に捧げてやると』、『送り犬は帰っていくという話がある』。『昭和初期の文献である「小県郡民譚集」(小山眞夫著)には『以下のような話がある。長野県の塩田(現・上田市)に住む女が、出産のために夫のもとを離れて実家に戻る途中、山道で産気づき、その場で子供を産み落とした。夜になって何匹もの送り犬が集まり、女は恐れつつ「食うなら食ってくれ」と言ったが、送り犬は襲いかかるどころか、山中の狼から母子を守っていた。やがて送り犬の』一『匹が、夫を引っぱって来た。夫は妻と子に再会し、送り犬に赤飯を振舞ったという。長野の南佐久郡小海町では、山犬は送り犬と迎え犬に分けられ、送り犬はこの塩田の事例のように人を守るが、迎え犬は人を襲うといわれる』。関東地方から近畿地方にかけての地域と、高知県には「送り狼」が伝わるという。『送り犬同様、夜の山道や峠道を行く人の後をついてくるとして恐れられる妖怪であり、転んだ人を食い殺すなどといわれるが、正しく対処すると』、『逆に周囲からその人を守ってくれるともいう』「本朝食鑑」に『よれば、送り狼に歯向かわずに命乞いをすれば、山中の獣の害から守ってくれるとある』(ここに本「和漢三才図会」の梗概が載るが、略す)。『他にも、声をかけたり、落ち着いて煙草をふかしたりすると』、『襲われずに家まで送り届けてくれ、お礼に好物の食べ物や草履の片方などをあげると、満足して帰って行くともいう』。『伊豆半島や埼玉県戸田市には、送り犬の仲間とされる送り鼬(おくりいたち)の伝承がある。同様に夜道を歩く人を追って来る妖怪で、草履を投げつけてやると、それを咥えて帰って行くという』。なお、ニホンオオカミには人間を監視する目的で、人についてくる習性があったとされ、妖怪研究家の村上健司は「送り狼は、実際にはニホンオオカミそのものを指しており、怪異を起こしたり、人を守ったりといった妖怪としての伝承は、ニホンオオカミの行動や習性を人間が都合の良いように解釈したに過ぎない」という主旨の仮説を主張している、とある。因みに、『好意を装いつつも害心を抱く者や、女の後をつけ狙う男のことを「送り狼」と呼ぶのは、この送り狼の妖怪伝承が由来である』ともある。

「五雜組」既出既注

「狼狽〔(らうばい)〕」以下の、アラ松ちゃん出臍が宙返りするほどの仰天の記載に思わず狼狽する人が多いのではないかと思うのだが、大修館書店「廣漢和辭典」の「狽」にはその通りのことがちゃんと記されてある(後に『一説に、生まれながらに一本足または二本の足がなく、互いに助けあわねば行けぬことをいう』とあってここに書かれたことが、「集韻」「正字通」に書かれていることが示されてある)のである。それを知ってまた狼狽する人も多かろう。しかしまあ、比翼鳥の例もありますさかい。

「蟨〔(けつ)〕」思うに実在するモデル獣がいるとは思われるのであるが、大修館書店「廣漢和辭典」には「ねずみ」とした後に、『前足が短くて走ることができず、常に蛩蛩(キョウキョウ)巨虚という獣と同居して、そのために食を取り、危難が迫るとその背に負われて逃げるという』『獣の名』とする。

「蛩蛩〔(きようきよう)〕」北海に住むとされた馬に似た想像上の動物。

『「鼠部」に見ゆ』次の巻第三十九の「鼠類」の中の「蟨鼠」の項。そこで以上の生物も、また、考証することとする。

『「蝦(えび)」と「水母(くらげ)」【「魚部」に見ゆ。】』「和漢三才圖會 卷第五十一 魚類 江海無鱗魚」の「䖳(くらげ)」で、『「本綱」に、海䖳〔(くらげ)〕は、形ち、渾然として凝結し、其の色、紅紫、口・眼、無く、腹の下に、物、有り。絮〔(しよ)[やぶちゃん注:綿。]〕を懸〔けたるが〕ごとし。羣蝦〔(むれえび)〕、之れに附きて、其の涎沫〔(よだれ)〕を咂(す)[やぶちゃん注:「吸」に同じ。]ふ』(以下略)とあるのを指す。その「羣蝦、之に附きて」に私は以下のように注した。『まず浮かぶのはエビの方ではなくて、鉢虫綱根口クラゲ目イボクラゲ科エビクラゲ Netrostoma setouchianaだ。ここで共生するエビは、特定種のエビではないようである(ただ研究されていないだけで特定種かも知れない)が、好んで鉢虫・ヒドロ虫類及びクシクラゲ類・サルパ類に寄生するエビとなれば、節足動物門大顎亜門甲殻綱エビ亜綱エビ下綱フクロエビ上目端脚目(ヨコエビ目)クラゲノミ亜目 Hyperiideaに属するクラゲノミHyperiame medusarumやオオタルマワシPhronima stebbingi、ウミノミ類辺りが挙げられよう』とやらかしている。なお、それとは別に「和漢三才圖會 卷第四十七 介貝部」の「海鏡(うみかゞみ)(私は斧足綱異歯亜綱マルスダレガイ目マルスダレガイ科カガミガイカガミガイDosinia japonica(リンク先の注の Phacosoma japonicum はシノニム)に同定した)の「本草綱目」の引用の中に、『海鏡は、南海に生ず。兩片相合して形を成す。殻圓く鏡のごとし。中、甚だ瑩滑、日光に映ずるに雲母(きらゝ)のごとし。内に少しの肉有り。蚌胎のごとく、腹に寄居蟲(がうな)有り。大いさ、豆のごとし。状、蟹のごとし。海鏡飢うれば、則ち出でて食らい[やぶちゃん字注:ママ。]、入れば、則ち、海鏡も亦、飽(あ)く。郭璞が所謂〔(いはゆ)〕る『瑣※が腹には蟹、水母(くらげ)の目には鰕(えび)』と云ふは、卽ち、此れなり』(「※」=「王」+「吉」)ともある(この「瑣※」は「瑣蛣」と同じで「寄居蟹」を指す古語であるが、この場合は勿論、ヤドカリ類ではなく、ピンノ類などの短尾下目(カニ類)のカクレガニ科 Pinnotheridae の寄生性のカクレガニ類を示している)。あぁ、懐かしいな……もう、十一年以上も前だ……あの頃は、なんとまあ、無心に無邪気に、楽しくやっていたことだろう……

『「知母〔(ちぼ)〕」と「黃栢〔(くわうはく)〕」【「木部」に見ゆ。】』これは巻第八十三の「喬木類」の巻頭にある「黃蘗(わうへき/きはだ)」のここ(国立国会図書館デジタルコレクションの中近堂版「和漢三才図会」の当該解説部分。画像を視認右側端の一行)。そこには訓読すると、 

   *

黃蘗、知母〔(ちも)〕、無ければ、猶ほ水母(くらげ)の蝦(ゑび)無きがごとし。

   *

とある。「黃檗(きはだ)」はムクロジ目ミカン科キハダ属キハダ Phellodendron amurense で、「知母」は単子葉植物綱キジカクシ目キジカクシ科リュウゼツラン亜科ハナスゲ属ハナスゲ Anemarrhena asphodeloides を指す。但し、この部分、リンク先のその後を見ると、漢方としての作用を述べていることが判り、植物体としてのキハダとハナスゲがともに植生しないと共に生存出来ないという意味ではないことが判明する。そもそもが「知母」というのは現行ではハナスゲの根茎の生薬名である(消炎・解熱・鎮静・利尿作用を有する)。キハダの方も樹皮の乾燥させたものを「黄檗(オウバク)」と呼び強い抗菌作用を持つとされ、他に健胃整腸・眠気覚まし・湿布薬として使用される。二種のその効果を塩梅してこそ漢方では薬となると言っているのを、「黄蘗に知母がなければ、それは丁度、水母に海老がいないのと同じである」と言い換えているのである。東洋文庫訳では『水母に蝦』の訳に後注して、『水母と蝦は共生し、蝦は水母の涎(よだれ)を飲んで生き、その代り水母の眼の役割をして水母の移動に力を貸しているいるという。また黄柏は腎経血分の薬、知母は腎経気分の薬で、相俟って効力を発揮する』とある。但し、言っておくと、前に示したクラゲ類とエビ及び甲殻類は共生などしていない。あれは寄生(或いは私が否定したい用語で言えばクラゲに益の全くない(害は必ずあると私は考えるので否定したいのである)「片利共生」)クラゲにとって迷惑千万な「寄生」に過ぎない。

『「狽」は、未だ其の何物といふことを知らず』儂も知らんとですばい、良安先生。

「太平百物語」始動 / 太平百物語卷之一 壱 松岡同雪狐に化されし事

[やぶちゃん注:ブログ・カテゴリ「怪奇談集」で「太平百物語」を始動する。

「太平百物語」は菅生堂人恵忠居士(「かんしょうどうじんえちゅうこじ」(現代的仮名遣)と読んでおく。「菅生堂」の読みは「序」にある)なる人物の百物語系浮世草子怪談集で高木幸助画。享保一七(一七三三)年大坂心斎橋の書林河内屋宇兵衛を版元とする新刊で、五巻五十話。末尾に「以上前編終 後編跡より出し申候」とあり、百物語を期す気持ちがあったか、なかったか。しかし乍ら、五十話目は「百物語をして立身せし事」で、一応、これで完結したつもりであったようである。よく知られていないので一言言っておくと、百物語系怪談本で百話を完遂していて現存する近世以前のものは、実は「諸國百物語」ただ一書しかない(リンク先は私の挿絵附き完全電子化百話(注附き))

 底本は「早稲田大学図書館古典籍総合データベース」の原板本を用い、国立国会図書館デジタルコレクションの「徳川文芸類聚」第四所収の活字本で校合した。但し、加工データとして国書刊行会の「叢書江戸文庫」第二巻「百物語怪談集成」所収のものを(国立国会図書館蔵本を親本とする)OCRで読み込んだものを使用した。底本は多くの読みが附されてあるが、五月蠅いので、私が読みが振れると判断したものだけのパラルビとした。踊り字「〱」「〲」は正字或いは「々」に代えた。句読点等の記号は「江戸文庫」版を参考にしつつも、オリジナルに大幅に追加してある。原本はベタであるが、読み易さを考え、適宜改行を加え、今までもそうであるが、会話文は勿論、心内語やオノマトペイアも準じて二重鍵括弧や鍵括弧で概ね改行して示した(これは私が怪談を読むに非常に効果的と考えているリズム・ブレイクの仕儀でもある)。そのため、各話の冒頭は一字下げとし(底本にはない)、改行部も同様の仕儀を行った。漢字で正字か俗字か迷うものは、正字で示した。なお、読み等の一部の清音を濁音にしてある。読みで「/」で二つ示したものは、前者が右、後者が左に添えられた読みである。挿絵は、「叢書江戸文庫」版のそれをトリミングして用いた。

 冒頭にある「冠首」の序(「山中散人 祐佐(ゆうすけ)」の署名があるが、作者の仮託で、別名或いは本名であろう。姓は「伴(ばん)」とも)と各巻の頭に附された目次は最後に一括して示すこととする。【2019年4月17日始動 藪野直史】]

 

太平百物語卷之一

     ○壱 松岡同雪狐に化されし事

Matuokadousetu

 津の國の片ほとりに、松岡同雪といふ㙒巫醫師(やぶくすし)あり。心、あくまで貧慾なる男なりしかば、人々、うとみて、療治もはかばかしからず、明暮れの竈(かまど)さびしく暮しけるが、一年(ひとゝせ)、風邪麻疹(かぜはしか)はやりて、何國(いづく)の浦も醫者と名付(なづく)るに隙(ひま)なるはなかりき。此同雪も、ことしはふしぎに病家(びやうか)おほくて、晝夜りやうじに隙なかりしが、或夜、表の戶をあらけなく叩きけるゆへに、

「誰なるや。」

と問ふに、

「これは此あたりの者にて候。一子、麻疹にて甚(はなはだ)惱(なやみ)けるが、只今、俄に目を見つめたり。頃日(このごろ)、賴み參らせし醫師は、他の急病に行給ひて間に合(あは)ず、夜分と申し、近比(ちかごろ)御苦勞の御事ながら、只今、御出(おんいで)下さるべし。」

と、実(げに)余儀なく申すにぞ、

「此あたりとは、いかなる人ぞ。」

と尋ねければ、

「それも御出候へばしれ申なり。則(すなはち)、御迎(むかひ)の籠を爲持(もたせ)たり。はやはや。」

と申にぞ、

「さらば行て參らせん。わが療治にて今宵の難を救ひなば、藥料銀五枚、御越(こし)あれ。」

といふに、

「其段は仰せにや及び候。」

とて、頓(やが)て駕籠に打乘(うちのせ)、飛ぶがごとくに馳行(はせいき[やぶちゃん注:ママ。])しが、

「さらば、此所にて侍(さふ)らふ。」

とて、駕籠の戶をひらけば、大きなる屋敷なり。大慾心(だいよくしん)の同雪、銀五枚と約せし事を悔み、

「かゝる所ならば、金十兩といふべきものを。」

と、未(いまだ)病人をも見ずして、貪る事を先だて、頭(かしら)をかきて奧に通れば、やがて病人の傍(そば)に伴ひ行きて、まづ樣躰(やうだい)みせけるに、同雪、病人をみて、

「扨(さて)々、夥敷(おびたゞしき)はしかの出樣(でやう)かな。」

と、脈を取、身躰(しんたい)より足をなでゝ、大きにおどろき、

「是れは。はや、事切(きれ)たり。扨々、殘心(ざんしん)なり。」

といふに、介抱の人々、いふ、

「たとひ左樣に候とも、折角、御出被下(いでくだされ)候上(うへ)は、ぜひに、御藥を下し給はれ。」

と、口々にいふほどに、

「然らば、一貼(てう)調藥申て見ん。」

と、駕籠に入來(いれきた)りし藥箱を取よせ、頭をかたぶけ調合し、

「はやはや、これを与へ玉へ。」

と指出(さしいだ)だすに、其あたりには、人、壱人も、なし。

「こはいかに。」

とあきれ果(はて)、彼(かの)ふしたる病人を、能(よく)々みれば、人にはあらで、石佛(いしぼとけ)なり。

 同雪、大きに仰天し、あたりをとくと見廻せば、さしも結構なりし屋敷と思へしは、墓原(はかはら)にて、卒都婆木(そとばぎ)、いくつも並べたり。

「扨は狐の所爲(しよゐ/しわざ)ならん。」

と、やうやう心付ける内に、夜はしらしらと明わたれば、自身、藥箱を引(ひつ)かたげ、頭をかゝへて、ほうほう、わが家に迯げかへりしが、其後(そのゝち)は、これにこりて、夜(よ)に入りては、いかなる急病にも、なかなかゆかざりけるとなん。

[やぶちゃん注:「上方講談師・旭堂南海に語る大阪怪談百物語」のパンフレットPDF)に、本話を元に改変した怪談講談が載る(現代語)が、そこでは、この話のロケーションを『大阪市上本町から谷町が舞台』とし、エンディングになかなかニクい捻りが施されてある。是非、ご覧あれ。

「風邪麻疹(かぜはしか)」「麻疹(はしか)」は、最初の三~四日の間は咳や鼻水・目脂(めやに)などが出、普通の流行性感冒と区別がつかない。ここはそうした症状から一語で読みを与えておいた。なお、「はしか」は麻疹ウイルス(ウイルス第五群(一本鎖RNA―鎖)ノネガウイルス目パラミクソウイルス科パラミクソウイルス亜科モルビリウイルス属 Morbillivirus 麻疹ウイルス Measles morbillivirus)による急性熱性発疹性感染症で、呼称は中国由来で、発疹が麻の実のように見えることによる。]

戀の使 伊良子清白 (附・初出形「柳の芽」)

 

戀 の 使

 

日の午(ひる)ごとに尾を擴げ

步む孔雀の盛なる

戀は歷史に殘りたり

われは小さき地上の芽

 

垣根に生ふる鳳仙花

節(ふし)くれ立ちし莖よりぞ

爪紅(つまくれなゐ)は咲きにける

戀はすべてを女王とす

 

わがこひ小さく紅(べに)を帶び

ふふめる程のをさなさに

戀の使は箭(や)を番(つが)へ

兵(ひやう)と射てこそ立ちにけれ

 

[やぶちゃん注:明治三四(一九〇一)年十月発行の『明星』初出。初出標題は「柳の芽」であるが、初出形から大きな改変が行われている。以下に初出形を示す。

   *

 

柳 の 芽

 

甘き泉に醉ひぬらん

若き泉に醉ひぬらん

醉ふ戀ならば美しく

瞳の色は輝かむ

 

日の午ごとに尾を擴げ

步む孔雀の盛なる

戀は歷史に殘りたり

われは小さき柳の芽

 

垣根に植ゑし鳳仙花

節くれだちし垂よりぞ

匂へる花は咲きにける

戀はすべてを女王とす

 

衆落は森に隱るれど

胸におほはん羽もなき

人の戀こそあらはなれ

風もて冷やす魔やあらむ

 

戀は苦しき戀にして

卽ち物の極みなる

彼方の空を仰ぎたる

わが目はにぶく曇りたり

 

   *

 なお、この年に与謝野鉄幹(鉄幹は不倫)と晶子は正式に結婚するが、先立つ三月に二人を誹謗中傷する怪文書「文壇照魔鏡」なるものが横浜から出回り、小島烏水・山崎紫紅とともに伊良子清白がその作者ではないか、というあらぬ嫌疑がかけられていた(これは前年の八月に鉄幹と晶子の二人が出逢い、不倫恋愛(鉄幹には妻子があった)としてスキャンダル化してゆくに従い、清白は鉄幹を離れたことと関係しているように思われる)。その結果、『明星』への寄稿は同年八月・九月とあったものの、この十月を以って終り、以降は絶え、鉄幹・晶子とは絶縁状態となってしまう。それは四年後の明治三八(一九〇五)年十一月の烏水・河井酔茗との与謝野邸訪問で解けまで続いた(底本全集年譜に拠る)。]

新月 清白(伊良子清白)

 

 新 月

  (短唱四篇)

 

 

   ○

 

たださすところ朝日子の

夕入るところ新月(にひづき)の

山に育ちてをとめごは

牧(まき)のうなゐとなりにけり

 

熊の毛皮を打敷きて

ねぶるは誰ぞ山のうへ

澄みてかがやく星ならで

をとめをまもるものぞなき

 

   ○

 

薔薇の花はかなしみて

冷たき土にこぼれけり

わびしくくらくためいきの

音ぞ幽(かす)かにもれくなる

 

こひのさつ矢のとぶごとく

みそらを鳥のとびきたる

彼方の空にきえゆきて

聲こそのこれほととぎす

 

   ○

 

世のすねものよのろはれて

小田にかくるるすねものよ

月の女神を垣間(かいま)見て

なれも醜くなりぬるか

 

五月雨ふりて空くらく

月の光の見えぬ時

歌よむことはゆるされて

小田にかくるるわび人よ

 

   ○

 

處女マリアのあらはれて

千々の寶を賜ひけり

ことにすぐれてめでたきは

稚兒のおもわの美はしさ

 

二人の姉は雲にのり

ひとりの姉は草に立ち

御空の雨にうるほひて

稚兒守ると見えにけり

 

[やぶちゃん注:明治三六(一九〇三)年六月発行の『文庫』初出。署名は「清白」。

「うなゐ」は既に注したが、「髫」「髫髪」で、元は「項 (うな) 居 (ゐ) 」の意かと推定され、昔、七、八歳の童児の髪を項(うなじ)の辺りで結んで垂らさせた髪型或いは女児の髪を襟首の附近で切り下げておいた「うない髪」のことで、本来は転じて「幼女」を指すが、ここはその上限を遙かに延ばした少女・乙女・処女の謂いで用いている。

「さつ矢」は「獵矢」「幸矢」で「狩猟に用いる矢」の意。「さちや」とも呼ぶ、万葉以来の古語。

 初出形は以下。

   *

 

 新 月

 

たださすところ朝日子の

夕入るところ夕月の

山に育ちてをとめごは

牧(まき)のうなゐとなりにけり

 

熊の毛皮を打敷きて

ねぶるは誰ぞ山のうへ

澄みてかがやく星ならで

をとめをまもるものぞなき

 

   ○

 

薔薇の花はかなしみて

冷たき土にこぼれけり

わびしくくらくため息の

音ぞ幽(かす)かにもれくなる

 

一聲なきてほとゝぎす

彼方の空に飛び去りぬ

戀のさつ矢のとぶごとく

かなたの空にとびさりぬ

 

   ○

 

世のすねものよ咒はれて

小田にかくるるすねものよ

月の女神を垣間みて

なれも醜くなりぬるか

 

五月雨ふりて空くらく

月の光の見えぬ時

歌詠むことはゆるされて

小田にかくるるわび人よ

 

   ○

 

處女マリアのあらはれて

千々の寶を賜ひけり

ことにすぐれてめでたきは

稚兒のおもわの美はしさ

 

二人の姉は雲にのり

ひとりのあねは草にたち

御空の雨にうるほひて

稚兒守ると見えにけり

 

   *]

2019/04/16

和漢三才圖會卷第三十八 獸類 豺(やまいぬ) (ドール(アカオオカミ))

Yamainu 

 

やまいぬ  犲狗 

【音儕】

      【俗云也

ツアイ    末以奴】 

本綱豺處處山中有之狼屬也似狗而頗白前矮後高而

長尾其體細痩而健猛其毛黃褐色而鬇鬡其牙如錐而

噬物群行虎亦畏之喜食羊其聲如犬人惡之以爲引魅

不祥其氣臊臭可惡世傳狗爲豺之舅見狗輒跪亦相制

耳月令云九月豺乃祭獸可謂才故字從才

△按豺【俗云山狗】狀似狗而以足有蹯如狼足爲異山行人怖

 之甚於狼 

 

やまいぬ  犲狗〔(さいく)〕 

【音「儕〔(サイ)〕」。】

      【俗に云ふ、「也末以奴」。】

ツアイ 

「本綱」、豺は處處の山中に之れ有り、狼の屬なり。狗に似て、頗る白し。前、矮〔(ひき)〕く、後ろ、高くして、長き尾たり。其の體、細痩〔(さいそう)〕にして、健〔やかにして〕猛し。其の毛、黃褐色にして、鬇鬡〔(さうなう)〕[やぶちゃん注:毛髪が乱れること。現代仮名遣では「ソウノウ」。]其の牙、錐のごとくにして、物を噬〔(か)〕む。群行して、虎も亦、之れを畏る。喜んで羊を食ふ。其の聲、犬のごとし。人、之れを惡〔(にく)〕む。以つて引魅不祥〔(いんびふしやう)〕[やぶちゃん注:人を惑わす不吉なる存在。]〔のものと〕と爲〔せばなり〕。其の氣〔(かざ)〕臊臭〔(なまぐさ)〕く惡むべし。世に傳ふ、「狗は豺の舅(をぢ)[やぶちゃん注:この場合は伯(叔)父。]たり。〔さればこそ〕狗を見〔るとき〕は、輒ち、跪〔(ひざまづ)〕く」〔と〕。〔されど、それは〕亦、相ひ制するのみ〔なり〕[やぶちゃん注:狼類である彼らが互いに牽制し合っているのを誤解しているだけのことである。]。「月令〔(がつりやう)〕」に云はく、『九月、豺、乃ち、獸を祭る』〔と〕。才〔あり〕と謂ふべし。故に、字、「才」に從ふ。

△按ずるに、豺【俗に云ふ、「山狗」。】狀、狗に似て、足に蹯〔(ばん)〕[やぶちゃん注:何度も注したように「蹯」の字は「足の裏」の意であるが、所謂、掌に相当する、肉球を特徴として、有意に周りと区別出来る部位があることを示す。]有り、狼の足のごとくなるを以つて異と爲す。山行の人、之れを怖るること、狼より甚だし。

[やぶちゃん注:和訓「やまいぬ」は「山犬」だろうし、そもそもが現行、この「豺」の漢字は中国では、ユーラシア大陸の東部(中国・朝鮮半島・東南アジア・ロシア南東部)と同大陸の中央部から南部(モンゴル・ネパール・インド・バングラデシュ・ブータン等)に棲息するイヌ科イヌ亜科イヌ族ドール属ドール Cuon alpinus別名アカオオカミ(赤狼)、英名「Dhole」に当てられており、叙述も以下に見るドールの生態によく一致する(以下の下線太字部など)。ウィキの「ドール」によれば(下線太字は私が附した)、体長は七十五~百十三センチメートル、尾長は二十八~五十センチメートル、肩高四十二~五十五センチメートルで、体重は♂で十五~二十キログラム、♀で十~十七キログラム。『背面の毛衣は主に赤褐色、腹面の毛衣は淡褐色や黄白色』。『尾の先端は黒い体毛で被われる』。『鼻面は太くて短い』。『指趾は』四『本』。『乳頭数は』十二~十六個である。『森林などに』棲息する『昼行性』動物であるが、『夜間に活動(特に月夜)する事もある』。五~十二『頭からなるメスが多い家族群を基にした群れを形成し生活するが』、『複数の群れが合わさった約』四十『頭の群れを形成する事もある』。『狩りを始める前や狩りが失敗した時には互いに鳴き声をあげ、群れを集結させる』。『群れは排泄場所を共有し、これにより』、『他の群れに対して縄張りを主張する効果があり』、『嗅覚が重要なコミュニケーション手段だと考えられている』。『食性は動物食傾向の強い雑食で』、シカやヤギ類などの『哺乳類、爬虫類、昆虫、果実、動物の死骸などを食べる』。『獲物は臭いで追跡し、丈の長い草などで目視できない場合は直立したり』、『跳躍して獲物を探す事もある』。『横一列に隊列を組み、逃げ出した獲物を襲う』。アクシスジカ(鯨偶蹄目反芻亜目シカ科シカ亜科アクシスジカ属アクシスジカ Axis axis:南アジア地域に分布。インドを中心にバングラデシュ・ネパール・ブータンを原産地とする)『などの大型の獲物は他の個体が開けた場所で待ち伏せ、背後から腹や尻のような柔らかい場所に噛みつき』、『内臓を引き裂いて倒す』。『また』、『群れでトラやヒョウなどから獲物を奪う事もある』。『繁殖形態は胎生。妊娠期間は』六十~七十日。『土手に掘った穴、岩の隙間、他の動物の巣穴などで』、十一月から翌年の四月に一回に二~九『頭の幼獣を産む』。『繁殖は群れ内で』一『頭のメスのみが行う』。『授乳期間は』二ヶ月で、『群れの中には母親と一緒に巣穴の見張りを行ったり、母親や幼獣に獲物を吐き戻して運搬する個体がいる』。『幼獣は生後』十四日で目を開く。生後二~三ヶ月で『巣穴の外に出』、生後五ヶ月で『群れの後を追うようになり』、生後七~八ヶ月で『狩りに加わる』。『生後』一『年で性成熟する』。『生息地では』彼らドールの得物の『狩り』方が『残忍とみなされたり』、ヒトの狩猟の『競合相手として』も『敬遠され、報奨金をかけられたり』、『毒餌で駆除される事もあった』。『開発による生息地の破壊、駆除、伝染病(狂犬病、ジステンパー)などにより』、『生息数は減少している』とある。なお、食肉(ネコ)目 イヌ亜目イヌ下目イヌ科イヌ亜科イヌ族イヌ属タイリクオオカミ亜種イエイヌ Canis lupus familiaris の野生化した個体と採るのはやめておく。動物学や環境用語でそうした野生化した犬の内、巷間に見られる「野良犬」と異なり、ヒト依存性を持たない個体や個体群の野犬(やけん)を「ノイヌ」と表示するのは、見ただけで私は虫唾が走る。彼らはもと、ヒトに飼われた犬であったのであり、「イヌ」と区別されて「ノイヌ」と別種の表記されて差別される筋合いの存在じゃあないからだ。彼らは確かに「和漢三才圖會卷第三十七 畜類 狗(ゑぬ いぬ)(イヌ)」であるからである。

「月令〔(がつりやう)〕」「礼記(らいき)」の「月令」篇。月毎の自然現象・古式行事・儀式及び種々の農事指針などを記したもの。「季秋之月」(陰暦九月の条)の以下に出る。

   *

鴻雁來賓、爵入大水爲蛤。鞠有黃華、豺乃祭獸戮禽。

(鴻・雁、賓(ひん)として來たり、爵(じやく:音通で「雀」)大水に入りて蛤と爲る。鞠(=菊)に、黃華、有り、豺、乃(すなは)ち、獸を祭りて禽を戮(りく)す。)

   *

この「祭」とは「天に生贄を供えて祭る」ことを指す。

「才〔あり〕と謂ふべし。故に、字、「才」に從ふ」いやいや! 大修館書店「廣漢和辭典」の「豺」の解字によれば、(つくり)の「才」は「切る・食い切る」で、「食い千切る」の意ですぜ。

柳田國男 山島民譚集 原文・訓読・附オリジナル注「馬蹄石」(10) 「馬ニ騎リテ天降ル神」(5)

 

《原文》

 保呂羽山ノ神樂ノ歌ガ、梓巫ノ徒ヨリ學ビシモノニ非ザルコトハ、亦之ヲ立證スルコト難カラズ。【田植歌】岩代會津ノ伊佐須美神社ノ田植歌十二段ノ中ニモ

  繫ギタヤ繫ギタヤ、葦毛ノ駒ヲ繫イダ。

  白葦毛ノ白ノ駒ヲ、高天原ニ繫イダ。

  大明神ノ召サウトテ、葦毛ノ駒ヲ早ウ引ク。

[やぶちゃん注:以上の歌は底本では全体が二字下げで、改行せずに繋がっている。ブラウザでの不具合を考え、かく改行した。]

ト云フ歌アリ〔中古雜唱集〕。然ラバ海ノ都ト此世トノ交通ニ鰐ヲ用ヰシト同ジク、天ト地トノ往來ニハ特ニ靈アル白ノ駒ヲ選バレシモノニテ、從ヒテ人間ノ雜役ニハ之ヲ用ヰルコトヲ遠慮セシモ尤モ自然ノ事ト謂フべシ。人ノ靈ニ在リテハ矢口ノ渡ノ新田義興ノ如キモ、尙又白キ馬ニ乘リテ靑空鮮カニ現ハレタリ。【白旗】空ヲ行クモノ山ヨリ降ル者ヲ白カリシト想像スルハ、單ニ詩トシテ美シキノミニ非ズ、多クノ白旗傳說ナドト共ニ、先年西洋ニテ流行セシ所謂天然現象說ヨリ之ヲ解釋スルモ亦差支無シ。日本ニ於テハ佛敎ノ方ニモ多ク此傳說ヲ利用シタリトオボシ。支那ニテモ始メテ經文ヲ輸入セシ馬ノ白カリシコトヲ言ヘド、此ヨリモ今一段我邦ノハ之卜緣深シ。昔信濃ノ筑摩ノ湯ノ村ニ住ム信心者ノ夢ニ、明日ハ觀世音此湯ニ入浴ニ來ルべシト云フ豫告アリ。年ハ三十前後、髯黑ク綾藺笠(アヤヰガサ)ヲ著テ、節黑ナル胡箙(ヤナグヒ)ニ皮ヲ卷キタル弓ヲ持チ、紺ノ襖(アヲ)ニ夏毛ノ行縢(ムキバキ)ヲハキ、葦毛ノ馬ニ乘リタル人ガ觀音ナリト敎ヘラル。卽チ法(カタ)ノ如キ田舍者ノ風俗ナリ。翌日ニナリテ果シテ其通リノ人來リタレバ、一同有難ガリテ之ヲ拜ム。其男ハ元來觀世音ニハ非ザリシ故、勿論非常ニ面喰ヒタリシモ、根ガ氣ノ善キ御侍ト見エテ、サテハ身共ハ觀音デ御座ツタカト、此ガ菩提ノ種トナリテ直チニ剃髮シテ法師トナリ了ル〔宇治拾遺物語六〕。上野國ノ馬頭主ト云フ武士ナリキト云ヘリ。【馬頭觀音】上野ハ下野ノ誤聞ナルカモ知レザレド、兎ニ角馬頭觀音ノ信仰ヲ聯想セズニハ過グシ難キ一話ナリ。

 

《訓読》

 保呂羽山(ほろはやま)の神樂の歌が、梓巫(あづさみこ)の徒より學びしものに非ざることは、亦、之れを立證すること難からず。【田植歌】岩代會津の伊佐須美(いさすみ)神社の田植歌十二段の中にも

  繫ぎたや繫ぎたや、葦毛の駒を繫いだ。

  白葦毛の白の駒を、高天原(たかまのはら)に繫いだ。

  大明神の召さうとて、葦毛の駒を早う引く。

[やぶちゃん注:以上の歌は底本では全体が二字下げで、改行せずに繋がっている。ブラウザでの不具合を考え、かく改行した。]

と云ふ歌あり〔「中古雜唱集」〕。然らば、海の都と此の世との交通に鰐(わに)[やぶちゃん注:鮫。]を用ゐしと同じく、天と地との往來には、特に靈ある白の駒を選ばれしものにて、從ひて、人間の雜役には之れを用ゐることを遠慮せしも、尤も自然の事と謂ふべし。人の靈に在りては、「矢口の渡し」の新田義興のごときも、尙、又、白き馬に乘りて、靑空、鮮かに現はれたり。【白旗】空を行くもの、山より降る者を白かりしと想像するは、單に詩として美しきのみに非ず、多くの白旗傳說などと共に、先年、西洋にて流行せし、所謂、「天然現象說」より之れを解釋するも亦、差し支へ無し。日本に於いては、佛敎の方にも多く此の傳說を利用したりとおぼし。支那にても、始めて經文を輸入せし馬の白かりしことを言へど、此れよりも今一段、我が邦のは之れと、緣、深し。昔、信濃の筑摩の湯の村に住む信心者の夢に、「明日は、觀世音、此の湯に入浴に來たるべし」と云ふ豫告あり。「年は三十前後、髯(ひげ)黑く、綾藺笠(あやゐがさ)を著けて、節黑(ふしぐろ)なる胡箙(やなぐひ)に、皮を卷きたる弓を持ち、紺の襖(あを)に、夏毛の行縢(むきばき)をはき、葦毛の馬に乘りたる人が觀音なり」と敎へらる。卽ち、法(かた)のごとき田舍者の風俗なり。翌日になりて、果して其の通りの人來たりたれば、一同、有り難がりて、之れを拜む。其の男は元來、觀世音には非ざりし故、勿論、非常に面喰ひたりしも、根が氣の善き御侍と見えて、「さては。身共(みども)は觀音で御座つたか」と、此れが菩提の種となりて、直ちに剃髮して法師となり了(おは)る〔「宇治拾遺物語」六〕。上野國(かうづけのくに)の馬頭主(ばとうぬし)と云ふ武士なりきと云へり。【馬頭觀音】上野は下野(しもつけ)の誤聞なるかも知れざれど、兎に角、馬頭觀音の信仰を聯想せずには過ぐし難き一話なり。

[やぶちゃん注:「岩代會津の伊佐須美(いさすみ)神社」現在の福島県大沼郡会津美里町宮林甲にある伊佐須美神社(同神社公式サイトの地図)。ここで柳田國男が挙げる「田植歌」は同神社で現在も七月十二日に催される「御田植祭」のそれで、公式サイトによれば、『この祭りは伊佐須美神社最大の祭りであると同時に、伊勢神宮の朝田植、熱田神宮の夕田植と並び、伊佐須美神社の昼田植と称され、日本三大「御田植祭」の一つと数えられています』。『地元の小中学生など町民が町中を掛け声響かせながら練り歩く勇壮な「獅子追い」から始まり、農家の長男が女装して踊る伝統の「早乙女踊り」が奉納され、そのほか「神輿渡御」「田植え式」が繰り広げられます』。『三町青年会(第一仲若・上若・北若)が率いる太鼓台が一堂に会す太鼓台宮登りや、佐布川地区の長男に代々継承され、早乙女に扮して踊る早乙女踊、仮面獅子を先頭に群童が町内を駆け巡る獅子追神事、古代歌謡「催馬楽」が詠われる中、神子人形と共に進む神輿渡御などは必見です』とあり、現在、国重要無形民俗文化財に指定されている。

『「矢口の渡し」の新田義興のごときも、尙、又、白き馬に乘りて、靑空、鮮かに現はれたり』新田義興(元弘元/元徳三(一三三一)年~正平一三/延文三(一三五八)年)は南北朝時代の武将。父は新田義貞。南朝方に属した。従五位下・左兵衛佐。正平七/文和元 (一三五二)年に弟義宗とともに関東で足利方と戦い、一時は鎌倉を占拠したが、後、多摩川の矢口ノ渡しで敵に謀られて自死した。ここはそれを脚色した浄瑠璃「神霊矢口渡(しんれいやぐちのわたし)」の四段目の「頓兵衛住家の段」で馬に乗った義興の霊が出現するシーンを指して言っているものと思われる(私は同作は未読未見。ウィキの「神霊矢口渡」を参照した)。

「天然現象說」気象及び光学的自然現象。

「信濃の筑摩の湯の村に住む信心者の夢に……」「宇治拾遺物語」の「信濃國筑摩(つくま)の湯に、觀音、沐浴(もくよくの)事」。以下。

   *

 今は昔、信濃國に筑摩(つくま)の湯といふ所に、萬(よろづ)の人の浴(あ)みける藥湯(くすりゆ)あり。そのわたりなる人の夢に見るやう、

「明日(あす)の午(むま)の時に、觀音、湯浴み給ふべし。」

といふ。

「いかやうにてか、おはしまさんずる。」

と問ふに、いらふるやう、

「年、三十ばかりの男の、鬚(ひげ)黑きが、綾藺笠(あやゐがさ)[やぶちゃん注:藺草(いぐさ)を綾織りに編み、裏に布を張った笠。中央に髻(もとどり)を入れる巾子形(こじがた)という突出部があり、その周囲に藍革(あいかわ)と赤革の帯を垂らして飾りとする。武士が狩猟・旅行・流鏑馬などの際に着用した。]きて、ふし黑なる胡籙(やなぐひ)[やぶちゃん注:矢の柄の節の下を漆で黒く塗った矢を差した箙(えびら:矢を盛って背負う器具。)]、皮卷きたる弓持ちて、紺の襖(あを)[やぶちゃん注:ここは狩衣と同義。]着たるが、夏毛の行縢(むかばき)[やぶちゃん注:夏季に捕えた鹿の毛革(この時期には黄色に白い斑点が鮮やかに出る)で作った、乗馬時に騎手が腰に附けて前に垂らした着用具。]はきて、葦毛(あしげ)の馬に乘りてなん來べき。それを觀音と知り奉るべし。」

といふと見て、夢さめぬ。

 驚きて、夜明けて、人々に告げまはしければ、人々、聞きつぎて、その湯に集まる事、限りなし。湯をかへ、めぐりを掃除(さうぢ)し、しめ[やぶちゃん注:注連縄。]を引き、花香(くわかう)を奉りて、居集(ゐあつ)まりて待ち奉る。

 やうやう午(むま)の時過ぎ、未(ひつじ)[やぶちゃん注:午後二時頃。]になる程に、ただ、この夢に見えつるに露(つゆ)違(たが)はず見ゆる男の、顏より始め、着たる物、馬、何かにいたるまで夢に見しに違はず。萬の人、にはかに立ちて額(ぬか)をつく。

 この男、大きに驚きて、心も得ざりければ、萬の人に問へども、ただ拜みに拜みて、その事といふ人なし。僧のありけるが、手を摺りて額(ひたひ)にあてて、拜み入りたるがもとへ寄りて、

「こはいかなる事ぞ。おのれを見て、かやうに拜み給ふは。」

と、こなまりたる[やぶちゃん注:少し訛った。]聲にて、問ふ。

 この僧、人の夢に見えけるやうを語る時、この男、いふやう、

「おのれは、さいつころ、狩りをして、馬より落ちて、右の腕(かひな)をうち折りたれば、それをゆでんとて、まうで來たるなり。」

といひて、と行きかう行きする程に、人々、尻(しり)に立ちて、拜(をが)みののしる。

 男、しわびて[やぶちゃん注:どうにも対応に困って。]、『我が身は、さは、觀音にこそありけれ。ここは法師になりなん』と思ひて、弓・胡籙(やなぐひ)・太刀(たち)・刀、切り捨てて、法師になりぬ。

 かくなるを見て、萬の人、泣きあはれがる。

 さて、見知りたる人出で來ていふやう、

「あはれ、かれは上野國(かむづけのくに)におはする、『ばとうぬし』にこそいましけれ。」

といふを聞きて、これが名をば、「馬頭觀音」とぞいひける。

 法師になりて後(のち)、橫川(よかは)に登りて、かてう僧都[やぶちゃん注:覚超か。源信の弟子。長元七(一〇三四)年、七十五で入寂。]の弟子になりて、橫川に住みけり。その後(のち)は土佐國に去(い)にけりとなむ。

   *

本文は「新潮古典文学集成」の大島武彦校注「宇治拾遺物語」(昭和六〇(一九八五)年刊)及び岩波文庫渡辺綱也校訂(一九五一年刊)の二種を参考にし、注は一部で前者の頭注を参考にした。この話は「今昔物語集」の巻第十九「信濃國王藤(わうどう)観音出家語第十一」(信濃國王藤(わうどう)、観音出家する語(こと)第十一。「やたがらすナビ」のこちらで読める)や「古本説話集」の六十九(同じく「やたがらすナビ」のこちらで読める)に同話が収められてある。観音や地蔵は現世利益の菩薩であることから、人間の姿に垂迹すると信じられていたらしいと大島氏の評注にあった。

「上野は下野の誤聞なるかも知れざれど」根拠不詳。識者の御教授を乞う。]

函山雜興 伊良子清白

 

函山雜興

 

 

  塔 の 澤

 

   ○

七湯の秋は白萩の

咲くにまかせて闌(た)けぬれど

軒(のき)にともしのゆらぐ時

すだれにすずし山の風

   ○

木犀(もくせい)匀ふ欄干に

倚れるを友とよびとめて

おなじ浴衣のうしろ影

見知らぬ人のふりむきぬ

 

 

  阿育王山

 

驪山にまさる秋の色

古りにし寺をたづぬれば

杉の林のおくにして

蜩なくや岩だたみ

萩も芒(すすき)もみ佛の

小甁の花の手向草(たむけぐさ)

くちし扉の蜘蛛のいと

おちて聲ある秋の風

 

  湯本廓外

 

秋は灰なす雲下りて

落つる日うすき川上の

杉の林の杣(そま)が家(や)に

山栗燒くかたつ煙

 

  塔の澤途上

 

蘆の湖遠くして

水は寂しき早川の

流れのおくをたづぬれば

箱根八里の秋の風

 

  北條早雲墳

 

苔に蒸したるおくつきの

塵を拂ひてわが友が

捧げし花は萎(しぼ)むとも

深きおもひを饗(う)けよ君

 

  早 雲 寺

 

蕎麥の畠に日はさして

あきつ飛び交ふ早雲寺

鐘樓の軒(のき)を秋風の

すぐれば奇(く)しき響あり

 

  箱根舊道

 

葛の花さく谷沿ひを

夕暮急ぐ山駕よ

雲の紅(くれなゐ)ある程を

宿(しゆく)まで行くか潮(うみ)見にと

 

  玉 簾 瀧

 

岩ほをくだり岩におち

瀧の千條(ちすぢ)の白いとの

かかりて細き水すだれ

 

秋の羽振る山風は

木々のこずゑをそよがせて

聲も寂しき水すだれ

 

[やぶちゃん注:明治三三(一九〇〇)年十月発行の『文庫』初出。署名は「無名氏」。校異によれば、初出では冒頭の「塔の澤」の二連目が、『「塔の澤途上」の後に入る』とある。ということは、

   *

 

  塔の澤途上

 

蘆の湖遠くして

水は寂しき早川の

流れのおくをたづぬれば

箱根八里の秋の風

 

木犀(もくせい)匀ふ欄干に

倚れるを友とよびとめて

おなじ浴衣のうしろ影

見知らぬ人のふりむきぬ

 

   *

となっているということであろう。その他には有意な異同を認めないので、初出全体は示さない。]

鶴 伊良子清白

 

 

鶴は舞ふ小松の山に

松は今花總立(そうだ)ちに

耿々(こうこう)と鶴は游びて

靑白き焰曳くなり

 

鶴の聲玉を碎きて

惜しむなし百(もも)たび唳(な)くを

若き光空にみなぎり

山の端(は)に雲なかりけり

 

舞ひのぼるまた空たかく

たかくして動かざりけり

うららかや天の錦(にしき)に

晝見ゆる星と如くに

 

[やぶちゃん注:底本「校異」に記載なし。創作年不詳。]

七騎落 伊良子清白

 

七 騎 落

 

兵衞佐賴朝(ひやうゑのすけ)は昨日

石橋山の合戰にうち負け

味方無勢(ぶぜい)にある間

主從七騎也眞鶴ケ崎より

安房國洲(す)の崎を志して落ち行きける

相模の國早川尻の沖合にて

俄かに風起り波立ちて

舟足いとど進まざりけり

先づ一番に田代殿申さるるには

この馬は稀有(けう)のものに候

五臟太(ぶと)に尾髮(をがみ)飽くまで足りたるに

聞ゆる逸物(いちもつ)

岩石をきらはず、風雨を凌ぎて

白轡をはませ、白覆輪の鞍は

連雀掛(れんじやくがけ)の鞦(しりがひ)の

銀絲を組みて乘つたるは

我君大將軍

馬は「波」といふ白月毛にて候

さて二番には新開次郞

日頃藝術(わざ)にかけては

朧氣ならず强弓(がうきゆう)の精兵(せいびやう)

矢つぎ早の手利(てきき)に候へども

この波風はさてさて恰つくき風情のものにて候かな

また三番には土屋の三郞

佐殿(すけどの)世に出で給ひて

日本國を打ち從へ

將軍の宣旨(せんじ)にあづかり給はば

今日の僻事(ひがごと)に、やつがれなんど

龍宮海底の追捕使に被(なさ)れなば

其後(そののち)、波風平らぎ候ふべし

四番には土佐坊

僧形(そうぎやう)には似氣(にげ)なく候へども

大魚我等を吞み候ふまへに

鱶魚(ふか)にてもあれ、鮫、鯨にてもあれ

手捕にして君の御感(ぎよかん)に預らん

五番には土肥の實平

樽搖れの旨さに

一定(いちぢやう)あつぱれ飮料と存じ候

せめて船底の澱(おり)にても賜はらば

海神たちまちに醉ひ痴(し)れ

航海安穩(あんのん)に候はん

六番には同じく遠平

容顏美麗の少年にて

いと幼なげに申しけるは

貴人照臨と承はるか

管絃の法樂(ほふらく)亂(らう)がはし

われ等橫笛(やうでう)の袋もて

汝の器包まばいかに

艫板には岡崎四郞

老體なれば鬚髮(しゆはつ)輝き

四時(しいじ)の果の冬なれば

海にこもごも雪降りぬ

面白や、萬箇目前(ばんこもくぜん)の境界

懸河滿々(けんがたうたう)たり、汨々(こつこつ)たり

旗を卷き劍(つるぎ)を硏(と)ぐ

海の見參と人も見よ

かくて七騎の人々口々に

僻事(ひがごと)いひて戲れける

佐殿は舶(へ)さきにおはして

一言(ひとこと)ものたまはず

八幡大菩薩を念じ給ひけるが

其の後風やみ波しづまりて

夢のやうにまぼろしの

洲(す)の崎(さき)にこそ着き給ひけれ

 

この詩はウーランドのカール王航海の飜案にして、盛衰記、曾我物語、謠曲七騎落より用語を擇出補用せり。卽ち創作にあらず、會合などの唱ひ物にとの試みなり。

[やぶちゃん注:以上のポイント落ちの後書きは、底本では全体が詩篇本文ポイントの一字下げとなっている。]

 

[やぶちゃん注:明治四〇(一九〇七)年七月日発行『文庫』初出。初出は句読点が無暗に多用されている。但し、特に有意な改変はないので初出形は示さない。「ウーランド」はドイツ後期ロマン主義のシュワーベン詩派の代表的詩人であるルートビヒ・ウーラント(Ludwig Uhland 一七八七年~一八六二年)のことか。「カール王航海」というのは不詳。

 シークエンス時制は「石橋山の戦い」で頼朝が破れて遁走した、翌日(治承四年八月二四日(ユリウス暦一一八〇年九月十五日)以降の、八月下旬。「吾妻鏡」によれば、真鶴出帆は八月二十八日、実際は絶体絶命の秘密裏の脱出行であって、ごく小型の小舟で従者は土肥実平のみであったことは言うまでもない(こんなに武者がぞろぞろ乗っていたんでは目立ってしゃあない!)。翌日二十九日、安房平北(へいほく)郡獵嶋(りょうしま)に着いている(現在の安房郡鋸南町(きょなんまち)竜島(りゅうしま)(グーグル・マップ・データ))。前後の簡略な経緯は私の「北條九代記 右大將賴朝創業」を読まれたい。

 本篇の登場人物は源氏方のオール・スター・キャストで華やか過ぎるのであるが、このシチュエーションは能「七騎落」(しちきおち:作者未詳。石橋山の合戦に敗れた頼朝一行は船で房総の方へ逃げ落ちようとしたが、主従の数が源氏に不吉な八騎であることから、土肥実平の子遠平を陸上に残して出る。翌日、和田義盛が遠平を助けて連れてきたので、一同は喜びの酒宴を催すという筋立て。「あさかのユーユークラブ 謡曲研究会」のこちらが解説以外に詞章も電子化されていてよい)のメンバーに基づくものである(同謡曲では当初の登場人物は源頼朝・土肥実平・土肥太郎遠平・新開次郎忠氏・土屋三郎宗達・田代冠者信綱・土佐坊昌俊・岡崎四郎義実)。彼らは実際に孰れも頼朝挙兵時の直参の兵者(つわもの)である。

「橫笛(やうでう)」現代仮名遣「ようじょう」。歴史的仮名遣では「やうぢやう」とも書く。「横笛(よこぶへ)」の音「ワウテキ」が「王敵」に通じるのを忌んで読み変えたものとされる。

「汨々(こつこつ)たり」「汨」は水が速く流れるさま、或いは、波の音のオノマトペイア。]

2019/04/15

柳田國男 山島民譚集 原文・訓読・附オリジナル注「馬蹄石」(9) 「馬ニ騎リテ天降ル神」(4)

 

《原文》

 神垂迹ノ起原ハ決シテ後世ノ緣起ニ說クガ如キ明確ノモノニ非ザリシハ勿論ナリ。分身自在ノ天竺ノ佛タチトハ異ナリ、本ノ社アル神々ニ於テハ決シテ勸請ノ地ニ永逗留ハシタマハズ、一定ノ日ニ降リテ祭ヲ享ケヤガテ又還リ往キタマヒシナリ。所謂每朝神拜ノ思想起リテ後、如在ノ神ハ終ニ常在ノ神トナリ、狹ク小サキ祠ノ中ヲ以テ神ノ住所ノ如ク考フル者出デ來レリ。是レ決シテ本來ノ信仰ニハ非ザリシナリ。【神馬用途】阿波ニ於ケル丹生明神ハ其馬ヲ殘シテ往カレタルガ、抑神馬ノ神ニ用立チシハ全ク其往來ノ此ノ如ク繁カリシ爲ナリ。此說ハ必ズシモ根據ニ乏シキ臆說ニハ非ズ。沖繩諸島ノ如キハ、今モ村々ノ神ハ甚ダ多ク社ノ數ハ甚ダ少ナシ。【嶽】年々日ヲ定メテ神ノ降ル場處ヲ「ダケ」又ハ「オガン」ト謂フ。高山ノ頂又ハ人ノ蹈マザル一區ノ林地ナリ。「オガン」ハ即チ拜林ニシテ此處ニ於テ神ヲ祭リ拜スルナリ。【ウポツ山】大島ニ於テハ之ヲ「オガミ」山、又ハ「ウポツ」云ヒ、祭ノ日ニハ此山ヨリ出デテ又此山ニ歸ル。神馬ニ乘リテ現ハルヽコモ亦稀ナラズト云ヘリ〔人類學會雜誌第百九十五號昇氏〕。【山ノ神】遙カニ懸離レタル羽後ノ平鹿郡ノ保呂羽(ホロハ)神社ハ、東北地方ニ於テ威力ノ最モ盛ナル山ノ神ノ一ナリ。十一月七日ノ祭ニ歌フ神樂ノ曲ノ章句ニ

  東方(アヅマ)ヨリ今ゾ寄リマス長濱ノ葦毛ノ駒ニ手綱ヨリカケ

[やぶちゃん注:原典、歌は各字の間が少し開いている。以下の引用歌も同じ。]

ト云フ歌アリ〔風俗問狀答〕。「ヨリカケ」ハ「ユリカケ」ノ轉訛ナルべシ。寄リマストハ神靈ガ巫女ニ託シタマフ事ナリ。【梓巫】其神ガ葦毛ノ駒ニ乘リ長濱ヅタヒニ東ノ方ヨリ降ラルルサマヲ歌ヒタルモノナルガ、此歌ハ中央部ノ諸國ニテハ所謂梓神子(アヅサミコ)ノ歌トシテ傳ヘラレタリ。鴉鷺合戰物語ニ、「カンナギ」梅染ノ小袖ヲ着テ座敷ニ直リ、梓ノ弓ヲ打扣キテ天淸淨地淸淨ヲ唱ヘ、只今寄セ來タル所ノ亡者ノ冥路(ヨミヂ)ノ談リ、正シク聞カセタマヘト言ヒテ歌フ歌、

  ヨリ人ハ今ゾ寄リマス長濱ヤ葦毛ノ駒ニ手綱ユリカケ

トアリ〔嬉遊笑覽所引〕。謠ノ葵ノ上ニ神子ガ六條ノ御息所(ミヤスドコロ)ノ口ヲ寄セントシテ唱フル詞モ之ト全ク同樣ナリ。之ニ由リ見レバ人ノ生靈亡靈モ亦馬ニ乘リ來タリテ巫女ニ託セシナリ。巫女ヲ「ヨリマシ」又ハ「ヨリマサ」ト云フコトハ社ノ神子モ所謂縣神子(アガタミコ)モ區別無カリキ。後者ノ梓ヲ業トスル者ノ如キハ單ニ拜處ヲ一定セザル移動的ノ巫女ト云フニ過ギズ。【賴政】例ノ賴政塚ノ傳說ノ如キハ恐クハ此徒ノ名ヨリ起リシモノナラン。同ジ保呂羽山ノ神樂ノ曲ニ、

  ヨリマサバ今寄リマサネサハラ木ノサハラノ山ニサハリ隈ナク

ト云フモアリ。寄ルトナラバ直チニ寄リタマヘト言フ意味ナルヲ、誤リテ神靈又ハ託女其物ヲ「ヨリマサ」ト謂フト解シタル結果、其祭場ヲ以テ源三位入道ノ首塚ナリトスルガ如キ說ハ起リシナルべシ。

 

《訓読》

 神垂迹(すいじやく)の起原は、決して、後世の緣起に說くがごとき明確のものに非ざりしは、勿論なり。分身自在の天竺の佛たちとは異なり、本(もと)の社ある神々に於ては、決して勸請の地に永逗留(ながとうりう)はしたまはず、一定の日に降(くだ)りて、祭を享(う)け、やがて又、還り往きたまひしなり。所謂、每朝神拜の思想起りて後、如在(によざい)の神は終に常在の神となり、狹く小さき祠の中を以つて、神の住所のごとく考ふる者、出で來たれり。是れ、決して、本來の信仰には非ざりしなり。【神馬用途】阿波に於ける丹生(にふ)明神は其の馬を殘して往かれたるが、抑々(そもそも)神馬の神に用立ちしは、全く、其の往來の此くのごとく繁かりし爲めなり。此の說は、必ずしも根據に乏しき臆說には非ず。沖繩諸島のごときは、今も村々の神は甚だ多く、社の數は甚だ少なし。【嶽】年々、日を定めて神の降る場處を「ダケ」又は「オガン」と謂ふ。高山の頂(いただき)、又は、人の蹈まざる一區の林地なり。「オガン」は、即ち、「拜林(はいりん)」にして、此處に於いて神を祭り、拜するなり。【ウポツ山】大島に於ては之れを「オガミ」山、又は「ウポツ」云ひ、祭の日には此の山より出でて、又、此の山に歸る。神馬に乘りて現はるゝ、こも亦、稀れならずと云へり〔『人類學會雜誌』第百九十五號・昇氏〕。【山の神】遙かに懸け離れたる羽後の平鹿郡の保呂羽(ほろは)神社は、東北地方に於いて威力の最も盛んなる山の神の一つなり。十一月七日の祭に歌ふ神樂(かぐら)の曲の章句に

  東方(あづま)より今ぞ寄ります長濱の葦毛の駒に手綱よりかけ

[やぶちゃん注:原典、歌は各字の間が少し開いている。以下の引用歌も同じ。]

と云ふ歌あり〔「風俗問狀答」〕。「よりかけ」は「ゆりかけ」の轉訛なるべし。「寄ります」とは神靈が巫女に託したまふ事なり。【梓巫(あづさみこ)】其の神が葦毛の駒に乘り、長濱づたひに東の方より降らるるさまを歌ひたるものなるが、此の歌は中央部の諸國にては、所謂、梓神子(あづさみこ)の歌として傳へられたり。「鴉鷺合戰物語(あろかつせんものがたり)」に、「かんなぎ」、梅染(うめぞめ)の小袖を着て、座敷に直(なほ)り、梓の弓を打ち扣(たた)きて『天、淸淨、地、淸淨』を唱へ、『只今、寄せ來たる所の亡者の冥路(よみぢ)の談(かた)り、正しく聞かせたまへ』と言ひて歌ふ歌、

  より人は今ぞ寄ります長濱や葦毛の駒に手綱ゆりかけ

とあり〔「嬉遊笑覽」所引〕。謠(うたひ)の「葵の上」に神子(みこ)が六條の御息所(みやすどころ)の口を寄せんとして唱ふる詞も之れと全く同樣なり。之れに由り、見れば、人の生靈・亡靈も亦、馬に乘り來たりて、巫女に託せしなり。巫女を「よりまし」又は「よりまさ」と云ふことは、社の神子も、所謂、「縣神子(あがたみこ)」も、區別、無かりき。後者の梓を業(なりはひ)とする者のごときは、單に拜處を一定せざる、移動的の巫女と云ふに過ぎず。【賴政】例の賴政塚の傳說のごときは、恐らくは、此の徒(と)の名より起りしものならん。同じ保呂羽山の神樂の曲に、

  よりまさば今寄りまさねさはら木のさはらの山にさはり隈なく

と云ふもあり。『寄るとならば、直ちに寄りたまへ』と言ふ意味なるを、誤りて神靈又は託女(たくぢよ)其の物を「よりまさ」と謂ふと解したる結果、其の祭場を以つて「源三位入道の首塚なり」とするがごとき說は起りしなるべし。

[やぶちゃん注:「羽後の平鹿郡の保呂羽(ほろは)神社」現在の秋田県横手市大森町八沢木字保呂羽山(グーグル・マップ・データ)にある保呂羽山波宇志別神社(ほろわさんはうしわけじんじゃ)。社伝によれば天平宝字元(七五七)年に大友吉親が大和国吉野金峰山の蔵王権現を勧請し、現在地に創建したとする。秋田県に所在する式内社三社の内の一つで、中世には修験道の霊地として周囲より崇敬を集めていた。ここで柳田國男が言う「十一月七日の祭に歌ふ神樂」というのは、現在、重要無形民俗文化財に指定されている。文化庁のデータベースの「保呂羽山の霜月神楽」によれば、『平鹿郡大森町波宇志別神社の十一月七日の祭りに行なわれる湯立』(ゆたて)『神楽の一種で、保呂羽山、御岳、高岡の三山の神霊を勧請して、神主家の神楽座において、古風な神事芸が徹宵して行なわれる。祭壇近くに二つの湯釜を置き、天井には種々の形の幣やしめ縄を張りめぐらす。まず』、『神おろし、招魂、祝詞などの前行事の後、「五調子」「湯加持」「天道舞」「伊勢舞」「保呂羽山舞」などの曲がつぎつぎに舞われる。この芸能は湯立神楽として、組織が大きく、形式もよく整い、地方的にも特色あるものである』とある。

「風俗問狀答」「諸國風俗問狀答」(しょこくふうぞくといじょうこたえ)。江戸末期に、幕府の御用学者であった屋代弘賢が、諸国に、風俗に関する木版刷りの質問状を送って答えを求めた。それが風俗問状であり、それに対する答書が風俗問状答である。後世、散逸していた答書を集成して「諸国」の文字を冠した。屋代弘賢は宝暦八(一七五八)年生まれ、天保一二(一八四一)年に八十四歳で死去、最終的な地位は表御右筆勘定格であった。問状の発送は文化一〇(一八一三)年から二、三年の間であったろうと推測されているが、発送の目的や発送先、答書の数などは明らかでない。「古今要覧稿」の資料集めのためではないかとされている。柳田國男は本作発表の二年後の大正五(一九一六)年、それまでに五種ほどの答書の存在を知って、民俗の通信調査として先駆的な業績を評価し、未発見の答書の発掘を呼びかけた。現在までに二十一種(別に異本一種)が発見されている(以上は小学館「日本大百科全書」に拠った)。

「鴉鷺合戰物語(あろかつせんものがたり)」室町期の物語で動物同士を擬人化した擬似軍記物の異類小説である。一条兼良作とも伝えられる。祇園林の鴉である東市佐(ひがしのいちのすけ)真玄(まくろ)が、中鴨(なかかも)の森の鷺である山城守津守正素(つもりまさもと)の娘を思い染め、所望するが、拒まれ、仲間を集めて中鴨を攻める。黒い鳥の真玄方には鵄(とび)出羽法橋(ほっきょう)や鶏(にわとり)漏刻博士が、白い鳥の正素方には鶴(つるの)紀伊守や青鷺信濃守らが集い、一大合戦となるが、結局、鴉方が敗れ、鴉の真玄は高野山に登り、仏法僧の手で出家、勝者の正素も、ともに念仏修行するという筋(以上は小学館「日本大百科全書」に拠った)。

『謠(うたひ)の「葵の上」』能「葵上」(あおいのうえ)は世阿弥の伝書「申楽談儀」にも記載があり、近江猿楽系の古作を世阿弥が改作した曲とされる。出典は「源氏物語」の「葵」の帖で、高貴な女性の心理の深層に潜む嫉妬の恐ろしさを、みごとな詞章・作曲・華麗な演出の妙で見せる名作。物の怪に苦しむ光源氏の正妻葵上は、舞台先に延べられた一枚の小袖で表現する。臣下の者が巫女(ツレ)を呼び出し、祟っている者の正体を現わす呪法を命じる。六条御息所の生霊(前シテ)が登場、昨日の花は今日の夢となった元皇太子妃としての華やかな生活との別れや光の愛の衰えを嘆き、興奮に身を委ねて葵上を打ち据え、賀茂の祭で葵上から屈辱を受けたその破(や)れ車に乗せて、彼女を連れ去ろうとする。病状の急変に横川小聖(よかわのこひじり:ワキ)が招かれ、祈り始めると、鬼形(きぎょう)となった生霊(後シテ)が現われ、法力と争い、葵上を取り殺そうとするが、ついに屈服し、恨みの心を捨てて終わる(以上は小学館「日本大百科全書」に拠った)。]

和漢三才圖會卷第三十八 獸類 木狗(もつく) (インドシナヒョウの黒色変異個体)

Mokku

 

 

 

もつく 玄豹

 

木狗

 

モツ ケ◦ウ

 

本綱木狗在廣東山中形如黒狗能登木其皮爲衣褥能

運動氣血元世祖有足疾取以爲袴人遂貴重之此前所

未聞也又蜀川西有玄狗大如狗黒色尾亦如狗其皮作

裘褥甚暖冬月遠行用其皮包肉食數日猶温彼土亦珍

貴之【此亦木狗之屬】

△按疑此獵虎之屬乎【獵虎見于後】

 

 

もつく 玄豹

 

木狗

 

モツ ケ

 

「本綱」、木狗、廣東(かんたう[やぶちゃん注:ママ。広東省。ここ(ウィキの「広東省」の地図)。])の山中に在り。形、黒き狗のごとし。能く木に登る。其の皮、衣・褥〔(しとね)〕に爲〔(な)〕り〔て〕、能く氣血を運動す[やぶちゃん注:気や血流をよく動かして身体を健康にする。]。元の世祖、足の疾〔(やま)〕ひ、有り。〔これを〕取りて、以つて、袴〔(はかま)〕と爲せり。〔故に〕、人、遂に之れを貴重とす。〔このこと、〕此れより前〔には〕未だ聞かざる所なり。又、蜀の川の西に、玄狗、有り。大いさ、狗のごとくにして、黒色、尾も亦、狗のごとく、其の皮、裘〔(かはごろも)〕・褥と作〔(な)さば〕、甚だ暖かなり。冬月、遠く行く〔に〕、其の皮を用ひて肉食を包めば、數日〔(すじつ)〕、猶ほ、温かなり。彼の土にも亦、之れを珍貴とす【此れも亦、木狗の屬なり。】。

△按ずるに、疑ふらくは此れ、獵虎(らつこ)の屬か【「獵虎」は後に見ゆ。】。

[やぶちゃん注:これは叙述から、ネコ目ネコ科 Pantherini 族ヒョウ属ヒョウ Panthera pardus の劣性遺伝により突然変異した黒変種の黒豹で、特に中国の広東地方となれば、亜種インドシナヒョウ Panthera pardus delacouri(東南アジア・中国南部に分布)でよかろうかい。ウィキの「ヒョウ」によれば、その発生機序は全くの突然変異であることから、『親兄弟が通常のヒョウであっても発生』し、また、『クロヒョウもヒョウ特有の斑紋を有しており』、『赤外線』を『照射』することで、それを視認することが『できることが分かっている』とある。しかし、普通に視認しても、よく見ると、豹柄は確認出来る。black Leopard」出掛けたグーグル画像検索を見られたい。「黒いジャガーやないんかい?!」とツッコミ入れはる関西の豹柄姐(あね)さんがおると困るから言うときますと、「姐さん、ジャガー(ヒョウ属ジャガー Panthera onca)は新大陸産(北アメリカ南部と南アメリカ大陸)にしかおりませんのや」

「元の世祖」元王朝の初代皇帝(大ハーン)クビライ(漢字表記・忽必烈 一二一五年~一二九四年)。彼が足に疾患があったことは知らない。識者の御教授を乞う。

「蜀」現在の四川省、特に成都付近の古称。やや北ではあるが、インドシナヒョウの棲息域に辛うじてかかる。]

和漢三才圖會卷第三十八 獸類 獾(くわん) (同じくアナグマ)

Kan

 

 

 

くはん  狗獾 天狗

      狟【獾同】

【音歡】

 

ハアン

[やぶちゃん注:「くはん」はママ。歴史的仮名遣では「くわん」である。]

 

本綱獾【狗獾】貒【豬獾】二種相似而畧殊似小狗而肥尖喙

矮足短毛深毛褐色其皮可爲裘領食虫蟻瓜果

三才圖會云獾與貉同穴居獾之出入以貉爲導其皮可

以禦風

 

 

くはん  狗獾〔(くくわん)〕

     天狗〔(てんく)〕

     狟〔(くわん)〕【「獾」と同じ。】

【音「歡」。】

 

ハアン

 

「本綱」、獾【狗獾。】〔と〕貒〔(み)〕【豬獾〔(ちよくわん)〕。】〔は〕、二種、相ひ似て、畧(〔ほ〕ぼ)〔同じくするも〕殊なり〔→殊(ことな)ることあり〕[やぶちゃん注:少し違った部分がある。]。小〔さき〕狗〔(いぬ)〕に似て、肥え、尖りたる喙〔(くちさき)〕、矮〔(ちいさ)〕き足、短き毛〔→尾〕[やぶちゃん注:原典の「本草綱目」に従い、訂した。]。深き毛、褐色。其の皮、裘〔(かはごろも)の〕領〔(えり)〕と爲すべし。虫・蟻・瓜・果〔實〕を食ふ。

「三才圖會」に云はく、『獾と貉と、穴を同じうして居〔(を)〕る。獾の出入、貉を以つて導(みちびき)と爲す。其の皮、以つて、風を禦〔(ふせ)〕ぐべし』〔と〕。

[やぶちゃん注:先の「貒」で示した如く、これも食肉目イヌ型亜目クマ下目イタチ小目イタチ上科イタチ科アナグマ属アジアアナグマ Meles leucurus(ユーラシア大陸中部(中央部を除く)に広く分布)の異名に過ぎないと考える。

「天狗〔(てんく)〕」「三才図会」を見ていたら、「天狗」という別種がおったで?!ここの右頁。国立国会図書館デジタルコレクションの画像)。それによれば、「陰山に獣がおり、形状は狸に似て、首が白い。名付けて「天狗」と言う。蛇を食う。其の啼き声は猫のようである。これを身に佩びていれば、凶事を防ぐことが出来る」とあるね。

『「三才圖會」に云はく……』「狗獾」で、ここの左頁(同前)。]

和漢三才圖會卷第三十八 獸類 貒(み) (同じくアナグマ)

Mi

 

 

 

み     獾㹠 豬獾

      䝏【子】

【音端】

 

トワン   【和名美】

 

本綱貒山野間穴居狀似小豬㹠形體肥而行鈍其足蹯〔(ばん)〕

【蹯者足掌也】其跡※1【※1者指頭跡也】其耳聾見人乃走短足短毛尖喙

[やぶちゃん注:「※1」=(「凪」-「止」)+(中)「ム」。]

褐毛頭連尾毛一道黒能孔地食蟲蟻瓜果其肉帶土氣

皮毛不如狗獾

肉【甘酸平】 治水脹久不瘥埀死者作※2食下水大効【野獸中惟

[やぶちゃん注:「※2」=「羹」の「美」を「火」に代えた字体。煮た羹(あつもの)。スープ。]

貒肉最甘美益痩人】

 

 

み     獾㹠〔(くわんとん)〕

      豬獾〔(ちよくわん)〕

      䝏〔(ろう)〕【子。】

【音「端」。】

 

トワン   【和名「美」。】

 

「本綱」、貒、山野の間に穴居す。狀、小さき豬-㹠〔(ぶたのこ)〕に似て、形體、肥えて、行くこと、鈍〔(にぶ)〕し。其の足、蹯〔(ばん)〕【「蹯」は「足の掌」なり。】[やぶちゃん注:「蹯」の字は「足の裏」の意であるが、所謂、掌に相当する、肉球を特徴として、有意に周りと区別出来る部位があることを示す。]、其の跡、※1[やぶちゃん注:「※1」=(「凪」-「止」)+(中)「ム」。]あり【「※1」は「指の頭の跡」なり。】。其の耳、聾〔(ろう)〕にして、人を見るとき、乃〔(すなは)ち〕、走る。短き足、短き毛、尖りたる喙〔(くちさき)〕にして、褐毛、頭より尾に連なり、毛〔の〕一道、黒し。能く地に孔〔(あな)〕して蟲・蟻・瓜・果〔實〕を食ふ。其の肉、土氣を帶ぶ。皮毛、狗獾〔(くくわん)〕[やぶちゃん注:やはり同じアナグマ。]に如〔(し)〕かず。

肉【甘・酸、平。】 水-脹〔(すいしゆ)[やぶちゃん注:水腫。]〕、久しく瘥〔(い)〕えずして死に埀(なんなん)〔とし〕たる者を治す。※2(あつもの)[やぶちゃん注:「※2」=「羹」の「美」を「火」に代えた字体。煮た羹(あつもの)。スープ。]と作〔(な)して〕食〔へば〕、水を下し[やぶちゃん注:過剰な水分を排泄させて。]、大いに効あり【野獸の中、惟だ、貒の肉、最も甘く美にして、痩せたる人に益あり。】。

[やぶちゃん注:これも前の「貉」に同じく食肉目イヌ型亜目クマ下目イタチ小目イタチ上科イタチ科アナグマ属アジアアナグマ Meles leucurus(ユーラシア大陸中部(中央部を除く)に広く分布)の異名に過ぎないと考える。良安も細分類化に困ったものであろう、評言もしていない。洋の東西を問わず、古典的博物学では個体変異レベルのものまで安易に異種とするケースが多く見られ、多数の種に分類鑑定することこそが真の学者の在り方であるかのように考えられていた節がある(形態観察に基づく差異を以って近代分類学が成り立っており、神経症的なまでにいたずらに細分化されていったこともこれに通ずる)。そうした悪弊を積み重ねた結果、それが当然の如くなり、寧ろ、これとこれは異名同種であるなどと主張すると、批判を食らう傾向さえあったようにも感じられる。その最たるものが、この狸(たぬき)狢(むじな)そしてこの貒(み/まみ)であり、ここに「狗」と出、次にまたまた立項されてしまう「」(音「カン」)なのであった。

和漢三才圖會卷第三十八 獸類 貉(むじな) (アナグマ)



Mujina

  

むしな   與獾同穴異

      處故字從各

      說文作貈

【音鶴】

      【和名無

ホツ     之奈】

 

本綱貉生山野間狀如貍頭鋭鼻尖班色其毛深厚溫滑

可爲裘服日伏夜出捕食蟲物出則獾隨之其性好睡人

或見之以竹叩醒已而復寐故人好睡者謂之狢睡又言

其非好睡乃耳聾也故見人乃趨走

△按日本紀推古帝【三十五年】陸奧有貉化人以歌之

 

 

むじな   獾(をほをほかみ)と

      穴を同〔じくするも〕、

      處を異にす。故に、字、

      「各」に從ふ。

      「說文」、「貈」に作る。

【音「鶴」。】

      【和名「無之奈」。】

ホツ

[やぶちゃん注:「獾(をほをほかみ)」は大狼(おおおおかみ)のこと。但し、この和訓は正しくない。後注参照。]

 

「本綱」、貉、山野の間に生ず。狀、貍〔(たぬき)〕のごとく、頭、鋭〔(とが)〕り、鼻、尖にして、班〔(まだら)〕色。其の毛、深く厚く、溫〔かく〕滑〔(なめら)か〕にして、裘(〔かはごろ〕も)に爲〔(つく)〕り服すべし[やぶちゃん注:着るとよい。]。日〔(ひ〕る)は伏し、夜は出でて、蟲物[やぶちゃん注:ここは広汎な動物、昆虫や節足動物・爬虫類・鳥類・鼠類等を指す。]を捕り食らふ。出づるときは、則ち、獾、之れに隨ひ、其の性、睡ることを好みて、人、或いは之れを見て、竹を以つて叩(たゝ)き醒すに、已にして復た寐る。故に、人〔の〕好みて睡れる者を、之れ、「狢睡」[やぶちゃん注:所謂、「狸寝入り」である。]と謂ふ。又、言ふ、「其れ、好みて睡るに非ず。乃ち、耳の聾〔(らう)〕なればなり。故に、人〔を〕見るときは、乃〔(すなは)〕ち、趨走〔(すうそう)〕す[やぶちゃん注:走って逃げる。]。

△按ずるに、「日本紀」推古帝【三十五年[やぶちゃん注:六二七年]。】、『陸奧〔に〕、貉、有りて、人に化けて、以つて、之れ、歌〔(うたうた)〕ふ』〔と〕。

[やぶちゃん注:食肉目イヌ型亜目クマ下目イタチ小目イタチ上科イタチ科アナグマ属アジアアナグマ Meles leucurus(ユーラシア大陸中部(中央部を除く)に広く分布)及び本邦固有種ニホンアナグマ Meles anakuma に同定する。本邦の民俗社会では古くからタヌキ(=イヌ科タヌキ属亜種ホンドタヌキ Nyctereutes procyonoides viverrinus)やハクビシン(食肉目ネコ型亜目ジャコウネコ科パームシベット亜科ハクビシン(白鼻芯)属ハクビシン Paguma larvata)を指したり、これらの種を区別することなく、総称する名称として使用することが多いが、前者との混淆はいいとして、後者ハクビシンは私は本来、本邦には棲息せず、後代(江戸時代或いは明治期)に移入された外来種ではないかと考えているので含めない。アナグマはしばしばタヌキにそっくりだとされるが、私は面相が全く違うと思う。ウィキの「ニホンアナグマ」を引く。『指は前肢、後肢ともに』五『本あり、親指はほかの』四『本の指から離れていて、爪は鋭い。体型はずんぐりしている。 食性はタヌキとほとんど同じである』(動植物性の雑食)。『特にミミズやコガネムシの幼虫を好み、土を掘り出して食べる。 巣穴は自分で掘る』溜め糞(先行する「貍」の注を参照)『をする習性があるが、タヌキのような大規模なものではなく、規模は小さい。本種は擬死(狸寝入り)をし、薄目を開けて動かずにいる』。『日本の本州、四国、小豆島、九州地域の里山に棲息する』。十一月下旬から四月『中旬まで冬眠するが、地域によっては冬眠しないこともある』。体長は四十~六十センチメートル程度で、尾長は十一・六~十四・一センチメートル、体重十二~十三キログラムであるが、『地域や個体差により、かなり異なる』。長く『アナグマMeles melesの亜種とされていたが』、二〇〇二『年に陰茎骨の形状から独立種とする説が提唱された』(私はそれに従う)。一『日の平均気温が』摂氏十度を『超える頃になると』、『冬眠から目覚める。春から夏にかけては子育ての時期であり、夏になると』、『子どもを巣穴の外に出すようになる。秋になると』、『子どもは親と同じくらいの大きさまで成長し、冬眠に備えて食欲が増進し、体重が増加する。秋は子別れの時期でもある。冬季は約』五『ヶ月間冬眠するが、睡眠は浅い』・『秋は子別れの時期であるが、母親はメスの子ども(娘)を』一『頭だけ残して一緒に生活し、翌年に子どもを出産した』際には、『娘に出産した子どもの世話をさせることがある。娘は母親が出産した子どもの世話をするだけでなく、母親用の食物を用意することもある。これらの行為は』、『娘が出産して母親になったときのための子育ての訓練になっていると考えられる』。『巣穴は地下で複雑につながっており、出入口が複数あり、出入口は掘られた土で盛り上がっている。巣穴の規模が大きいため』、『巣穴全体をセットと呼び、セットの出入口は多いものでは』五十『個を超えると推測される。セットは』一『頭の個体のみによって作られたのではなく、その家族により何世代にもわたって作られている。春先になると』、『新しい出入口の穴が数個増え、セット全体の出入口が増えていく。巣穴の出入口の形態は、横に広がる楕円形をしていて、出入口は倒木や樹木の根、草むらなどで隠されている。巣穴の掘削方法は、穴の中から前足で土を押し出し、押し出したあとにはアクセス』・『トレンチと呼ばれる溝ができる。セットには崖の途中などに』、『突然』、『開いている裏口のような穴が存在することもある』(この驚くべき広大な巣穴構造が、「本草綱目」にある、「」(後述)という別の生物と穴を同じくしつつも、中では各個に棲み分けしているというトンデモ誤認を生み出したものと考えられる)。『巣材として草を根から引き抜いて使用していると推測される。巣材が大雨などで濡れると、昼に穴の外に出して乾燥させて夜に穴に戻す、という話もある』とある。なお、本文に出る「擬死」現象について、ウィキの「擬死」の一部を引いておく。『被食者が身動きすると攻撃が続き殺されるのに対して、動かないでいると攻撃をやめる事が多いという。彼らは断定を避けながらも擬死がある程度の効果を持つ事を示唆している』。本邦では、『ニホンアナグマやホンドタヌキ、エゾタヌキなど』が、哺乳類の擬死行動としてよく知られてきた。『脊椎動物の擬死(thanatosis)は、動物催眠(animal hypnosis)、または、持続性不動状態(tonic immobility)と呼ばれることもある』。『動物は自らの意志で擬死(死にまね。death feigning, playing possum)をするのではなく、擬死は刺激に対する反射行動である。哺乳類では、タヌキやニホンアナグマ、リス、モルモット、オポッサムなどが擬死をする。 擬死を引き起こす条件や擬死中の姿勢、擬死の持続時間は動物によって様々である』。『イワン・パブロフは脊椎動物の擬死の機構を次のように説明している』。『「不自然な姿勢におかれた動物がもとの姿勢に戻ろうとしたときに抵抗にあい、その抵抗に打ち勝つことができない場合にはニューロンの過剰興奮を静めるための超限制止がかかってくる」(イワン・パブロフ)』。『拘束刺激は擬死を引き起こす刺激の一つである。カエルやハトなどは強制的に仰向けの姿勢をしばらく保持すると不動状態になる。また、オポッサムはコヨーテに捕獲されると』、『身体を丸めた姿勢になって擬死をする』。『本種が擬死を行うことによる利点として、身体の損傷の防止と捕食者からの逃避が考えられる。擬死は捕食者に捕えられたときなどに起こる。捕食者から逃げられそうにない状況下で無理に暴れると疲労するだけでなく、身体を損傷する危険がある。捕食者は被食者』『が急に動かなくなると力を緩める傾向がある。このような時に捕食者から逃避できる可能性が生まれる。この機会を活かすためには身体の損傷を防ぐ必要がある』。『擬死中の動物は、ある姿勢を保持したまま不動になる。その姿勢は動物により様々である。ただ、不動状態のときの姿勢は普段の姿勢とは異なる不自然な姿勢である。動物は外力によって姿勢を変えられると、すぐに元の姿勢を維持しようして動作する。この動作を抵抗反射(resistance reflex)という。しかし、擬死の状態では抵抗反射の機能が急に低下して、不自然な姿勢がそのまま持続する。このような現象をカタレプシー(catalepsy)という。カタレプシーは擬死中の動物すべてにあてはまる特徴である。擬死の持続時間は、甲虫類以外は数分から数十分で、擬死からの覚醒は突然起こる。擬死中の動物に対して機械的な刺激(棒で突つくなど)を与えると覚醒する(甲虫類は逆に擬死が長期化する)。擬死中は呼吸数が低下し、また、様々な刺激に対する反応も低下する。擬死中の動物の筋肉は通常の静止状態の筋肉と比較してその固さに違いがあり、筋肉が硬直している。そのため、同じ姿勢を長時間維持することが可能となる』とある。

」中国で大狼だと、食肉目イヌ亜目イヌ科イヌ亜科イヌ属ヨーロッパオオカミCanis lupus lupus の大型固体となろうが、オオカミとアナグマが同居する可能性はない。ただ、オオカミの巣穴も見た目は恐らくアナグマの巣によく似ているであろうから、良安は或いはそこから逆に「」の同定を誤ったもかも知れない。現行、中国ではこの「」はアナグマ属ヨーロッパアナグマ Meles meles に当てられている(中国には棲息しない)。さらに興味深いのは「狼」という熟語があって、これは現代中国で、食肉目イタチ科クズリ属クズリ Gulo gulo を指すという事実である。グズリの棲息域は中国では東北部に辛うじて掛かっており、アナグマより遙かに大きく、しかも獰猛であるから、「大狼」っぽいではないか。良安のいい加減な当て訓で、却って楽しい智のドライヴが出来た。

『「各」に從ふ』「貉」の(つくり)の「各」、は同じ穴に棲みながら、それぞれ「各」々棲み分けしているからだ、というのである。まあ、落語見たような話としては面白い。

『「日本紀」推古帝……』「日本書紀」の推古天皇三十五年二月の条に出る。

   *

三十五年春二月。陸奥國有狢化人以歌之。

   *]

泉のほとり 伊良子清白

 

泉のほとり

 

わが心奇異の思す

また同じ道に出でたり

砂山の南の麓

さわさわと泉の音す

 

家求めまたよぢ登る

西の方天(あま)つ日(ひ)おはす

ごうごうと海の響は

くらうなる心を醒す

 

三たびまた泉にいでぬ

これはこれ人とる水か

金精(こんじやう)の棲むときくなる

北の海波間も近し

 

一つづつ破るる泡は

蠱惑(まどはし)がつぶやくごとし

まなこ張り驚かされて

我はしばしそこに佇む

 

いつのまにうまいしにけむ

束(つか)のまといふ程なりき

さめごこちよき風吹きぬ

足らずげに泡はつぶやく

 

恍惚と心とられて

聲ききぬいといと淸き

人にあらぬ艶美(あて)なるものを

想像す氣の衰へに

 

四たびめは家にかへりぬ

白壁はあからめもせず

さりげなく裝ひするも

わが心ときめきにけり

 

[やぶちゃん注:明治三九(一九〇六)年一月一日発行『文庫』初出。初出時は前の「琴の音」とともに総標題「北の海」で併載。

「金精(こんじやう)」男根の形でシンボライズされる金精神(こんせいしん)の異名。民俗社会では泉は女陰にシンボルされ、泉が枯れずに湧き続けるように男根である金精神を祀ることがある。

「うまい」漢字では「熟寝」と当て、快く眠ること。ぐっすり眠ること。因みに、古くは男女の共寝に用いた名詞である。

 初出形は以下。

   *

 

泉のほとり

 

わが心奇異の思す

また同じ道に出でたり

砂山の南の麓

さわさわと泉の音す

 

家求めまたよぢ登る

西の方天(あま)つ日(ひ)在(おは)す

ごうごうと海の響は

くらう成(な)る心を醒す

 

三たびまた泉にいでぬ

これはこれ人とる水か

金精(こんじやう)の棲むときくなる

北の海波間も近し

 

一つづつ破るる泡は

蠱惑(まどはし)がつぶやくごとし

眼(まなこ)はり驚(おどろか)されて

我はしばしそこに佇む

 

いつのまにうまいしをらん

束(つか)の間(ま)といふ程なりき

よき心地(こゝち)眠(ねぶり)はさめぬ

廣野(ひろの)なりわが家(や)を思(おも)ふ

 

恍惚と心とられて

聲ききぬいといと淸き

人にあらぬあてなるものを

想像す氣の衰へに

 

四たびめは家(いへ)に歸(かへ)りぬ

白壁はまみに映(うつ)りて

さりげなく裝ひするも

わが心(こゝろ)ときめきゐたり

 

   *]

琴の音 伊良子清白

 

琴 の 音

 

梨の花月にこぼれて

千里(ちさと)まで霞む春の夜

岸に沿ひ流るる琴の

二つなき響をききぬ

 

古き世の物語めき

美しき追憶(おもひで)となる

琴の音(ね)はみそらにのぼる

まどかなる月の村雲

 

人の世はあやにくのもの

心憎き今宵の業(わざ)も

彈(ひ)く人は彈くとも思はず

きく人はきくとも知らず

 

ただ響くむねの創痍(いたで)に

反響(こだま)する淸搔(きよがき)のおと

幽(かす)かなれど漂ふわたり

けしきだち荒野と成りぬ

 

[やぶちゃん注:明治三九(一九〇六)年一月一日発行『文庫』初出。初出時は次の「泉のほとり」とともに総標題「北の海」で併載。初出形は以下。最終連が大きく異なるが、初出のそれは少しく意味が採りにくく、改作の方がよい。

   *

 

琴 の 音

 

梨の花月にこぼれて

千里(ちさと)まで霞む春の夜

岸に沿ひ流るる琴の

二つなき響をききぬ

 

古き世の物語めき

美しき追懷(おもひで)となる

琴の音(ね)は今(いま)さかりなり

誰(た)が家(いへ)のすさびなるらん

 

人の世はあやにくのもの

心憎き今宵の業(わざ)も

彈(ひ)く人は彈くとも思はず

きく人はきくとも思(おも)はず――

 

傷(やぶ)れたる胸に創痍(いたで)に

たゞ一人(ひとり)反響(こだま)する兒は

かすかなれど荒(あら)き響(ひゞき)を

よゝとしもつい啼(な)きゐたり

 

   *]

落葉の歌 清白(伊良子清白)

 

落葉の歌

 

冬は美晴(びせい)の日ぞ多き

東京の天(てん)朝な朝な

不二を篩(ふる)ひて山の手の

庭は落葉の頻りなり

 

夜におき結ぶ初霜に

濃きもうすきも色かへて

日出でぬひまのきららかさ

箒(ははき)知らぬが眺めなり

 

いくさをはりて凱旋の

日に日にきこゆらつばの音(ね)

御旗たてたる軒端(のきば)より

降るも金(こがね)の木の葉かな

 

街巷(ちまた)をはさむ篠(すず)かけの

梢はすきて灯(ひ)の海の

彼方は明かし流れ入る

堆葉(うずは)は河と疑はる

 

斗牛(とぎう)の間暗うして

曇りがちなる星の空

急ぐ落葉の頃なれば

ちぎれし雲のみだれとぶ

 

十年(ととせ)も束の間すぎさりて

馴るるに早き佗住みの

窓を隔ててさらさらと

落つる木の葉をなつかしむ

 

[やぶちゃん注:明治三九(一九〇六)年一月一日発行『文庫』初出。署名は「清白」。伊良子清白満二十八歳。この前年の五月末、鳥取市の漢学者森本歓一・なかの長女で鳥取県女子師範学校附属小学校訓導であった幾美(えみ)と結婚、翌六月二十七日、当時、勤務していた帝国生命保険の保険検査医として東京へ転任、新妻とともに旧赤坂区新町四丁目に新居を構えた(現在の港区赤坂のこの中央附近と推定される。富士山は西南西に当たる)。日露戦争はその二ヶ月後の九月一日に休戦、翌月十月十四日にポーツマス条約批准によって終結している。

「斗牛」二十八宿の斗宿と牛宿。斗は射手座の一部、牛は山羊座の一部で、ともに南方の天にある。

 初出は以下。最終連を大きく改変している。

   *

 

 

落葉の歌

 

冬は美晴(びせい)の日ぞ多き

東京の天、朝な朝な

不二を篩(ふる)ひて山の手の

庭は落葉の頻なり

 

夜におき結ぶ初霜に

濃きも淡きも色更へて

日出でぬまのきららかさ

箒(ははき)知らぬが眺なり

 

戰終りて凱旋の

日に日にきこゆ町の内

御旗樹てたる軒端(のきば)より

降るも金(こがね)の木の葉かな

 

街巷を挾む櫻木の

果は夕の鐘の海

音を慕ひて流れ入る

堆葉(うずは)は河と疑はる

 

斗牛(とぎう)の間暗くして

曇りがちなる星の空

急ぐ落葉の頃なれば

しめらぬ雲の亂れ飛ぶ

 

時雨のあめか木の葉かと

うたひし古歌を思ひいで

枕欹て蕭々と

落つる響を聽けるかな

 

   *

初出最終連の「欹て」は「そばだて」。]

2019/04/14

無題 清白(伊良子清白)

 

無 題

 

世に落魄(おちぶれ)し貴人(あてびと)の

艶(つや)ある鬚を刎(は)ねし時

戰(いくさ)に行くと大力の

たぶさの紐をときしとき

啞と成りたる童女(わははめ)の

五月雨髮(さみだれがみ)を剃りし時

山を出でたる顏黑の

行者に鐡をあてし時

刑(しおき)に迫る罪人の

臨終(いまは)の髮を斷(た)ちしとき

江戶の男は泣きながら

剃刀硏(と)ぎてゐたりけり

 

[やぶちゃん注:初出は明治三八(一九〇五)年一月発行『文庫』であるが、初出では総標題「冬の夜」のもとに「月光日光」「漂泊」(孰れも「孔雀船」所収)及び本「無題」の三篇を掲げてある。署名は「清白」。初出は以下。

   *

 

無 題

 

世に落魄(おちぶれ)し貴人(あてびと)の

艶(つや)ある鬚を刎(は)ねし時

戰(いくさ)に行くと大力の

たぶさの紐を解きし時

啞と成りたる童女(わははめ)の

五月雨髮(さみだれがみ)を剃りし時

山を出でたる顏黑の

行者に鐡をあてし時

刑(しおき)に迫る罪人の

臨終(いまは)の髮をたちし時

江戶の男は情(なさけ)無き

業(わざ)もするぞと思ひけり

 

   *]

海の聲山の聲 (抜粋改作版)

 

海の聲山の聲

 

  序 歌

 

鞠(まり)つく女(め)の兒(こ)手をやめて

虹よ虹よといふ聲に

窓を開けば西日さす

山に錦はかかりけり

 

家ことごとく虹ならば

歌ことごとく玉ならん

かく口ずさむ折からに

虹のかがやきいひしらず

 

もとより家は埴生(はにふ)にて

名もなき賤の物狂(ものぐるひ)

破(や)れたる窓にうづくまり

破れたる歌の作者なり

 

たまたま虹の現はれて

さびしき家を照らせども

なにとこしへにわが歌は

掃きて捨つべきあくたのみ

 

  上 の 卷

 

   

 

道は古びぬ二名島(ふたなじま)

土佐の沖より流れきて

紀路に渦卷く日の岬

潮の岬にさわぎては

底に破れし浮城(うきしろ)の

鋼鐡(はがね)の板も碎くらん

五月雨(さみだれ)降れば荒れまさる

那智の御瀑(みたき)の末にして

泥を二つに分つ時

黃ばめる海を衝(つ)き進み

香(かぐ)の木の實を積み載せて

大冬海を直走(ひたばし)る

牟婁(むろ)の大人(おとな)の耳朶(ほだれ)にも

頻吹(しぶき)をかけて嘲笑(あざわら)ふ

海の流の黑潮は

今霜月の波頭

科戶(しなど)の風も吹き止みて

晴れわたりたる海の門(と)を

玉藻流るる日もすがら

顏赤黑きいさり男が

沖の海幸(うみさち)卜(うらな)はん

河の面は輝きて

志摩の岬を藍染の

緩(ゆる)き流れと成しぬかな

 

加賀の白山(しらやま)黑百合の

咲き絕ゆる間の長冬を

時じく空の惡くして

波路險(けは)はしき時化(しけ)續き

雪持つ風に吹き閉づる

海の一村うづもれて

橇(そり)も通はずなりぬれば

磯に幽鬼(すだま)の走るぞと

泣く子をおどす三越路の

北の雪國荒るる時

暗をはなれて光ある

秋津島根の表國

榕樹(あこう)繁れる屋久島の

南の果の海所(うみが)より

親潮ぬるむ陸奥(みちのく)や

黃金花咲く山根まで

伊豆の七島(ななしま)海境(うなざか)の

道の傘隈(かさぐま)大灘に

音も騷がぬ常世波(とこよなみ)

船は百日(ももか)を漂ひて

梶緖もとらぬ物ぐさの

蹲居(うづゐ)の膝やゆるぶらむ

 

登れば高き石階(きざはし)の

寺院(じゐん)の柱午(ご)に中(あた)り

圍(まろき)き光の輪を帶びて

誰荒彫の龍頭(たつがしら)

海に向ひて氣を吹くも

弱き炎のいかにして

下に沈める靑波の

凝れる膏(あぶら)を熔(と)き得べき

 

見渡す限りわだつみは

凪(な)ぎかへりたる秋日和

いはば淨めしちりひぢの

波の化生(けしやう)の鳥ならで

白きをかへす羽もなし

 

鐘樓に上ぼり杵(きね)をとり

力の限り撞(つ)く時に

白き壁より白き壁

波切(なきり)一村分限者(ぶげんじや)の

家の榎(えのき)に傳はれば

共鳴(ともなり)したる大木の

うめきは海にひろごりて

波の寐魂(ねだま)と成りにけり

 

此樓にして空を看る

西五ケ國雲の影

東五ケ國雪の花

南は靑き海にして

日本七十灘の内

十三灘を湛へたり

 

國誌傳へていひけらく

此寺巖(いは)の頂に

雲を帶びたる一つ星

危くかかる風情にて

夏の黑ばえ冬の朔風(きた)

雨と風とに晒(ざ)れにけり

 

秋更け渡る此頃を

美童の沙彌(しやみ)の現はれて

さと開きたる諸扉(もろとびら)

海の粧(よそほひ)花なれば

錆びたる鋲(びやう)もうごめきて

瞽(めし)ひたる身を悶ゆめり

 

師の坊いでて慇懃の

禮をつくすも嬉しきに

引いて艶蕗(つはぶき)黃(き)を潑(ち)らす

趣味ある庭を前にして

語る雄々しき物語

 

   

 

客人(まれびと)知るや海士(あま)の子が

十三歲になりぬれば

はじめていづる海の上に

腕は鋼鐡(はがね)の弓にして

それ一葉(えふ)の船の影

眼は精兵(せいびやう)の箭(や)に似たり

阿呍(あうん)の息の出入(いでいり)も

引く櫓押す櫓の右左

左に押せば日の惠

右にかへせば月の恩

海の獲物を積み載せて

水を蹴立つる驀地(ましぐら)や

空の景色のかはる時

海の備へは成りにけり

こは甲斐ありし初陣(うひぢん)ぞ

疾(と)く陣立をととのへよ

風雨(あらし)も起れ波も立て

わが胸板にぐさと立つ

一矢もあらば興ならん

生れしままの柔肌(やははだ)に

些(ちと)の疵だにあらざれば

兄者人(あにじやびと)にや氣壓(けお)されん

來れといひて聲高に

どつと笑へば海原の

果にあたりて貝鉦(かひがね)や

軍鼓(いくさつすみ)のどよめきに

旗さし物の白曇(しらぐもり)

曇りはてたるいくさ場の

流をみだる船の脚

いかり易きは件(とも)の男(を)の

嵐高浪手を擴げ

鷲摑みとぞきほひ來る

くぐりぬけたる少年の

頸(うなじ)は母が手に撫でし

產毛(うぶげ)の痕やそれならぬ

岬の岩を漕ぎ繞り

舷(ふなべり)うちてたはぶれし

幼きときにくらぶれば

ひととなりたるわが兒よと

流石に父はあらし男の

猛(たけ)き心も鈍るらん

其時浪は捲き立ちて

うしろにかへる闇打に

ともに立ちたるいたいけの

背(そびら)をうてばよろめきて

のめり伏したる板のうへ

また起きあがり海を見て

さてもきたなき眷族(けんぞく)の

ほこる手並はそれしきか

初手合(はつてあはせ)の見參(けんざん)に

恥なきもののい哀(あはれ)さよ

退(まか)れといひて勇ましく

艪のかけ聲にかけ合はす

幼き聲を侮りて

しかみ面なるはやて雲

脚空(あしぞら)ざまに下ろしきて

たちまち船をとり卷けば

黑白(あやめ)もわかぬ槍襖

篠つく雨の頻りなり

これにおそれぬ海の男の

船は天路(あまぢ)の彗星

直指(たださ)す方を衝(つ)き進み

波に泡立つ尾を曳きぬ

しばし程經て波すざり

風片陰に成りぬれば

かけ並べたる楯板の

苫(とま)に亂るる玉霰(たまあられ)

あたれば落ちて消えにけり

矢種盡きたる痴(し)れものの

今は苦しき敗軍(まけいくさ)

投げてつぶての目つぶしに

虛勢を張るか事可笑(をか)し

行けと叫びて押しきれば

家路は近し艪の力

安乘岬(あのりみさき)の燈臺は

美しき眼をしばたたき

人戀ふらしき風情なり

今は海路も暮れはてて

里のいそべに着きぬれば

濡れたる衣乾(ほ)しあヘず

をどりて運ぶ海の幸

 

聞きねと語るわが僧の

炭(す)びつの炭をつぐ時よ

魚見(うをみ)の小屋の貝が音(ね)に

海士の囀(さへづり)かしましく

かごを戴き女のこらも

網引(あびき)に急ぐ聲すなり

 

 

  下 の 卷

 

   

 

時雨るる頃の空なれば

雲の色こそ定らね

虹に夕日にもみぢ葉に

刷毛(はけ)持つ神ぞ忙しき

 

岩切り通し行く水の

岸は花崗(みかげ)の波の花

たまたま淸水滲みては

根花生ひたり苔まじり

[やぶちゃん注:「根花」東北地方でワラビの根茎から精製した蕨粉(わらびこ)のこと「根花」とは言うが、意味が通らない。これは初出から見ても意味から見ても「根芹」の伊良子清白の誤字か、底本親本の新潮社のそれの誤植であろう。]

 

鹿(しし)追ふ子等が行き難(なや)む

流の石は圓(まろ)くして

蹄の痕もとどまらぬ

時雨の雨ぞ新なる

 

波越す岩に羽うちて

鶺鴒(せきれい)かける谷の上

流れ葉(は)嘴(はし)を掠め去る

瀧津早瀨(たきつはさせ)の水は疾(と)し

 

   

 

鉾杉(ほこすぎ)立てる宮川の

源近く分け入れば

昨日の夢のわだつみは

八重立つ雲ときえにけり

 

草分衣(くさわけごろも)霜白く

故鄕戀ふる旅人が

枕に通ふ山の聲

海のこゑとやきこゆらん

 

白日(まひる)の落葉小夜(さよ)の風

秋は暮こそ侘しけれ

深山の奧に菴(いほり)して

誰かきくらん山の聲

 

海の子われは荻(をぎ)葺(ふ)きて

網干す家をこのめばか

眞梶(まかぢ)繁貫(しゞぬぎ)帆綱くむ

海士(あま)の業(わざ)こそこひしけれ

 

海の子われはわだつみの

廣き景色をこのめばか

汐汲車汲み囃(はや)す

海の歌こそこひしけれ

 

今海遠く船見えず

何を思はむ渡會(わたらひ)の

南、熊野の空にして

雲の徂徠(ゆきき)や眺むべき

 

熊野の浦の島根には

浪こそ來よれ深みどり

うみの綠に比ぶれば

檜は黑し杉は濃し

森の下草秋花に

せめてはしのぶ海の色

 

熊野の浦のしまねには

鯨潮吹く其潮の

漂ふ限り泡立ちて

鶚(みさご)も下りぬ海原の

荒き景色を目に見ては

細谷川の八十隈(やそぐま)に

かかれる瀑(たき)も何かせん

 

   

 

今朝立ちいでて宮川の

水のほとりに佇(たたず)むに

流れて落つる河浪の

岩に轟き瀨に叫び

岸の木魂(こだま)と伴ひて

秋の悲曲を奏しけり

 

木々の落葉に葬りし

虫の骸(から)だに朽ちぬれば

岩を劈(つんざ)く鵯鳥(ひよどり)の

流れを越ゆるこゑならで

生きたるものの音もなし

 

見れば河床(かはどこ)荒れだちて

拳を固め肩を張り

人に鎧はあるものを

これは素肌の爭ひに

かたみにひるむ氣色なし

 

蛤仔(あさり)蟶貝(まてがひ)蛤(はまぐり)の

白くざれたる濱にして

花の籠(かたみ)に拾ふらん

海の樂み數盡きず

何とて山の峽間(はざま)には

秋の笹栗ゑみわれて

空しく水に沈むらん

 

   

 

岩ほをつたひ攀ぢ上ぼり

靑垣淵をうかがふに

獺(をそ)も返さむ斷崖(きりぎし)の

高さをくだる蔦蘿(つたかづら)

下に漂ふ靑波の

澱(よど)みに浮ぶ泡もなし

 

生命の影のさす每に

渦卷きたちぬ廣がりぬ

波色增しぬ漲りぬ

底ひに人を誘ふなる

常世(とこよ)の關はなかなかに

物も祕(ひそ)めず岩床の

隈に隱るる鰭(はた)のもの

陰行く群もさやかなり

 

知らずや月の夜半の秋

柝(たく)擊(う)つ老(おい)が白髮(しらかみ)も

氷りはつらん置霜(おくしも)の

寒き細路折れ下り

渡しの舟の艪を操りて

瘦せたる影やきえぎえに

浮ぶ彼方の水の末

 

知らずや木々も雪の朝

六つの花片飛び散れば

氷柱(つらら)かかれる岩廂(いはびさし)

棹(さも)もすべりて三吉野の

故鄕思ふ筏師が

蓑(みの)や拂はんかげもなき

狹き峽間の淵の上

 

   

 

仰げばすでに空晴れて

霧立ち迷ふ山の襞(ひだ)

秋の錦の紅葉(もみぢば)は

あらゆる山を染め成して

とはの沈默(しじま)のゐずまひを

くづせと着せしごとくなり

 

山走りして白雲の

黃雲にまじる境より

きらめきいづる日の光

山の眞額(まひたひ)かがやくも

海のごとくにけしきだち

わらひどよめき脚をあげ

よろこび躍るさまもなし

 

さてもあたりの山々は

或は頭を擡(もた)げつつ

あるは頸(うなじ)を屈(かゞ)めつつ

雲の脇息(ひぢつき)脇(わき)にして

眠ると見ゆる姿かな

 

   

 

今日栗谷(くりだに)の里に入り

櫛田(くしだ)の河も川上の

七日市(なのかのいち)を志す

草鞋の紐のとけ易き

 

蕎麥は苅りたる山畑の

あぜに折れ伏す枯尾花

返り咲する丹(に)つつじの

色褪せたるも寂しかり

 

登りて原と成る所

高きに處(を)りて眺むれば

行水(ゆくみづ)低し谷の底

巖を穿ち石を蹴る

白斑(しらふ)も見えず征矢(そや)の羽

岸に轟き瀨に叫ぶ

鍛工(かぬち)も打たず石の砧(とこ)

長き磐船(いはふね)方(けた)にして

盛(も)るか水銀(みづがね)きららかに

重みに底ひ窪むらん

 

それ輝くは光のみ

流れず行かず下に凝り

身を縮めたる鳥自物(とりじもの)

海の鷗のていたらく

石に嵌めたる象眼の

工(たくみ)を誰か爭はむ

ああ水煙湧き返る

水の勢いかなれば

山の尾上(をのへ)を行きかへる

人の眼に淀むらん

 

   

 

そも此川の源は

圖の境の岩襖

名も大臺の麓なる

眞冬の領(りやう)を流れいで

涼石(すずし)の洞にぬけ通ふ

大和の風におはれつつ

七里七村領内の

紙漉(かみす)く子等が皹(あかぎれ)の

手をだにこえて注ぐめり

栗谷川と落ち合ひて

夜ただねぶらぬ物語

一葉の水を潛(くぐ)るにも

千々のよろこび籠るらん

片陰篠生(すずふ)春されば

花の女神の杯(さかづき)の

椿葉がくれ咲きいでて

春雨重る川添の

稚樹(わかぎ)の枝の淺綠

下を流るる大河の

胸に綴れる瓔珞(やうらく)も

花緩やかに流れては

渦卷き入るる淵もなし

若し夫れ翼(つばさ)紀伊の國

一たび海をあふりなば

伊勢の國土は(くぬち)は潮煙

千年(ちとせ)の曆(こよみ)飜へる

野後(のじり)の宮の杉の木に

かかりみだるる秋の雲

多氣(たげ)の谷には火を擦りて

燃ゆる檜の林かな

神領(じんりやう)東足引の

山田が原に駈け下る

水の諸脛(もろはぎ)健やかに

岸をどよもす風神(ふうじん)の

短き臑(すね)も何かせん

 

   

 

杉の林の木下闇(こしたやみ)

雨もあらしも常(とこ)にして

晴るる間もなき窈冥門(かぐろど)の

神の荒びを誰か知る

 

谷に生命を刻(きざ)みては

月を見ぬ國の流れ星

名も無き花の紫に

瘦せたる莖をたふしたり

 

岨の細道幾廻り

嶮はしき坂をとめくれば

小霧の奧に幻の

動くを見たり氣疎(けうと)くも

 

それか深山の山賊(やまだち)が

こもる巖屋の石疊

霧の毛皮をかづぎては

靈(くし)ふる夢も多からん

 

蘿(かづら)犇(ひつし)とかけ結ぶ

不斷の封の固ければ

焚火(たきび)の煙しらじらと

立ちものぼらず岩の上

 

冬は小蓑(こみの)を欲しげなる

猿は面をあらはせど

馴れては殊に山人(やまびと)の

絕えてそれとも覺(さと)らざり

 

ここをよぎれば山めぐり

そがひになりて朗らかに

林もつきぬ久方の

雲の滿干(みちひ)の澪標(みをつくし)

尾上の巖を仰ぐかな

 

   

 

今頂上(いただき)に登り立ち

嚴に倚りて眺むれば

太初(はじめ)よ未だ剖(わか)れざる

混沌(おぼろ)の形現はして

早く成りたる人の子の

不具(かたは)を嘲(あざ)む形姿(なりすがた)

高山續き大臺(おほだい)の

鰾膠(にべ)なき峯を見放(みさ)くれば

うつる時世の蠱物(まじもの)の

雲も及ばず聳ゆめり

西高見山二ケ國の

境の山を隨へて

天津御國の號令の

あらば起(た)たんの身構へも

千年をあまた過ぎにけり

池木屋山(いけぎややま)の頂上(いただき)は

大和國原打ち渡し

あなときのまに積りぬと

古き都に降りしきる

錆(さび)に眼をさらすらん

 

北の方なる白星(しらぼし)は

八十年(やそとせ)過ぎて人の世に

はじめて影を落すとか

はてなき空にうつ伏して

身じろきもせぬ山なれど

天(てん)の齡(よはひ)に比ぶれば

またたく隙を飛びすぐる

日影の身にも似たらずや

 

ありと名のりて宇宙(ひさかた)の

いたるところに顯(あら)はるる

時より時の燭火(ともしび)の

ひかりを點(とも)すそのものよ

今も昔も雄叫(をたけ)びて

こはあらずてふ燒金(やきがね)を

かれの額に捺(お)し得たる

不死身(ふじみ)の猛者(もさ)のあらざるよ

 

見ればいつしか黃を帶びて

とくかはりたる山の色

人の眼の鈍くして

そのけぢめだにわかねども

かつては白き濤を揚(あ)げ

かつては紅き火を飛ばし

一つの命過ぎぬれば

一つの命あらはれて

今は凝りたる其すがた

ただ束(つか)の間の光にも

直指(たださ)す方よひしめきて

完全(またき)を得んと色に出て

音に出て物を思ふかな

 

人は健氣(けなげ)に戰ひぬ

血に塗(まみ)れたる其衣

白き柩(ひつぎ)に代ふるには

あまりにやすきいけにへよ

聖(ひじり)の書(ふみ)を高あげて

渇きは堪へぬ唇に

濃き一と雫かかりなば

ころすも絕えてうらみじに

學術(まなび)よ詩歌(うた)よ教法(をしへ)さへ

ただ一と時の榮(さかえ)にて

朽つるに人の得堪へんや

 

櫟林(くぬぎばやし)の捨沓(すてぐつ)に

巢ぐふは山の鶯か

求食(あさ)り後れてうゑ死ぬも

心臟(こころ)は霜に消えもせで

落葉の下に殘るらん

わが居る岩は白草(しろぐさ)の

九十九(つくも)の髮をはららかし

物を怨ずるさまにして

もしはすてたる山姥(やまうば)の

化(な)りいでたるとおどろきて

坂を下ればあわただし

われはあまりに空想(ゆめ)の兒と

まなこを拭ひうち仰ぎ

またとどまりし山路かな

 

甕(かめ)を碎きて悲しめる

童女(どうによ)をわれの妻として

こもらばいかにうれしきと

おもひし谷ははるかにて

いまだ山脈(やまなみ)驚かず

四つの界(さかひ)に寂寥(さびしさ)の

漂ふ限り雲なれば

止(や)んぬるかなや名も戀も

快樂(けらく)も醉(ゑひ)も一にぎり

すてて立ちけり

  冷えし足蹠(あうら)に

 

[やぶちゃん注:これは既に電子化した明治三七(一九〇四)年一月一日発行『文庫』に発表された「海の聲山の聲」(「序歌の一」「序歌の二」「上の卷」(内で「一」及び「二」に分かれる)「下の卷」(内で「一」から「九」に分かれる)の大パート四篇から成る長詩)の、「序歌の一」と「上の卷」の「二」から最後までの部分を独立させ、内容に手を加えた新潮社版「伊良子清白集」所収のものである。表記違いはもとより、表現自体或いはシチュエーションそのものを有意に変更している部分も認められる。比較されたい。]

梅崎春生 ルネタの市民兵 (サイト版公開)

最近、梅崎春生のテクスト化を無沙汰していたので、「ルネタの市民兵」を電子化しようかと、ネットに先行するそれがないことを確認していたところ、ふと、『梅崎春生「ルネタの市民兵」―〈川俳会〉ブログ』というのが気になって開いて見たところが、コメント欄に『既に電子化されている主要作品以外も、早く電子化して欲しいものです』。『下の個人サイトでも、この作品はまだ電子化されていないようですし……』とあって、その下にはなんと私のブログ・カテゴリ「梅崎春生」がリンクされているのであった。

これは……「意気に感ず」と言わずんばなるまい!

さても本未明から今までかけて、電子化した。当初はブログでの分割電子化を考えていたが、それでは上記の御仁の御希望に応えるには失礼と存じ、久しぶりにサイト版ルビ附きで作成した。 以下である。

梅崎春生「ルネタの市民兵」

2019/04/13

和漢三才圖會卷第三十八 獸類 狐(きつね) (キツネ)

Kitune

 

 

 

きつね 射干【俗稱】

 

【音胡】

    【和名抄狐木

     豆禰射干也

     關中呼爲野

     干語訛也蓋

フウ   野干別獸也】

 

本綱狐北方最多今江南亦有之江東無之形似小黃狗

而鼻尖尾大日伏于穴夜出竊食聲如嬰兒氣極臊烈其

性疑疑則不可以合類故狐字從孤常疑審聽故捕者多

用罠蓋妖獸鬼所乘也有三德其色中和小前大後有黃

黒白三種白色者尤稀也尾白錢文者亦佳其腋毛純白

謂之狐白共毛皮可爲裘狐死則首丘狐善聽氷或云狐

有媚珠或云狐至百歳禮北斗變爲男婦以惑人又能擊

尾以出火或云狐魅畏狗千年老狐以千年枯木燃照則

見眞形犀角置穴狐不敢歸

凡狐魅之狀見人或叉手有禮或祇揖無度或静處獨語

或裸形見人也

狐肉【甘溫】 治瘡疥補虛損及五臟邪氣【作臛或生作膾食但可去首】

狐膽【臘月收之】 治人卒死【雄狐膽】温水研灌入喉卽活【移時者無及矣】

狐血 解酒毒以狐血漬黍米麥門冬【陰乾爲丸】飮時以一丸

 置舌下含之令人不醉

                  爲顯

 夫木花を見る道のほとりの古狐かりの色にや人惑ふらん

△按本朝狐諸國有之唯四國【伊豫土佐阿波讃岐】無之耳凡狐多

 壽經數百歳者多而皆稱人間之俗名【如大和源九郞近江小左衞門

 是也】相傳狐者倉稻魂之神使也天下狐悉參仕洛之稻

 荷社矣人建稻荷祠而祭狐其所祭者位異于他狐凡

 狐患則聲如小児啼喜則聲壺敲性畏犬若犬逐之窘

 迫則必屁其氣惡臭而犬亦不能近之將爲妖必載髑

 髏拜北斗則化爲人【見于陳眉公秘笈】惑人報仇亦能謝恩好

 物小豆飯油熬物

 試狐魅其邪氣入肩脇皮膚間必有塊診其脉浮沈不

 定其拇指多震也能察之者刺火鍼則去或先疑似之

 閒煎樒葉令服之狐妖者不曾吃眞病者雖嫌臭味而

 能吃

 狐有花山家能勢家之二派相傳云往昔有狐狩老狐

 將捕急迯隱花山殿乘輿中乞赦遂得免矣能勢何某

 亦雖時異而助死之趣相同共狐誓曰至子孫永宜謝

 厚恩也自此于今有狐魅人則以二家之符置閨傍乃

 魅去平愈其固約人亦可愧也又能守死如有人生割

 狐腹取膽然不動不目逃刳盡臟腑後死此乃首丘之

 理乎

三才圖會云狐古淫婦所化其名曰紫善聽氷河氷合時

聽氷下水無聲乃行

 相傳近衞帝有侍女名玉藻帝會不豫醫療無効使安

 倍泰成禳之占以爲玉藻之障碑卽令玉藻持幣祝之

 玉藻怖捐幣而去化爲白狐入下野那須野害人多於

 是使義純【三浦介】廣常【上總介】驅之狐又化石【殺生石也詳于下野國

 之下】信州諏訪湖水冬月氷合而人馬行氷上春氷漸解

 徃來止其始行也始止也皆窺見狐往來爲的

三才圖會云北山有黒狐卽神獸也王者能致太平則見

四夷來貢周成王時嘗有之

 元明天皇【和銅四年】伊賀獻黒狐【同五年】丹波獻黒狐元正天

 皇【靈龜元年】遠江獻白狐【養老五年】甲斐獻白狐皆以爲祥瑞

玄中記云狐五十歳能變化百歳爲美女爲神巫爲丈夫

與女子交接千歳能知千里外事卽與天通爲天狐

五雜組云齋晉燕趙之墟狐魅最多然亦不爲患北人往

往習之亦猶嶺南人與蛇共處也狐千歳始與天通不爲

魅矣其魅人者多取人精氣以成内丹然則其不魅婦人

何也曰狐陰類也得陽乃成故雖牡狐必托之女以惑男

子也然不爲大害南方猴多爲魅

 狐托於人也強氣者則不能托蓋邪氣乘虛入之謂也

 初如傷寒瘴瘧類但譫語有異耳以咒術靈符禳之則

 病人詈語宿意此乃將去之表也既解去時忽倒臥熟

 睡一二日勿呼起自身寤則安

 

 

きつね 射干(やかん)【俗稱。】

 

【音「胡」。】

    【「和名抄」に、『狐は木豆禰、

     射干なり。關中に呼ぶに、

     野干と爲すは語の訛りなり』

     〔と〕。蓋し、野干は別獸な

フウ   り。】

 

「本綱」、狐は北方に最も多し。今、江南にも亦、之れ有り。江東には之れ無し。形、小さき黃なる狗〔(いぬ)〕に似て、鼻、尖り、尾、大(ふと)く、日(〔ひ〕る)は穴に伏し、夜は出でて食を竊〔(ぬす)〕む。聲、嬰兒のごとし。氣(かざ)、極めて臊-烈(なまぐさ)し。其の性、疑ふ。疑ふときは、則ち、以つて合類〔(がふるゐ)〕すべからず[やぶちゃん注:その結果、同類とともに行動することが出来ない。]。故に「狐」の字、「孤」に從ふ。常に疑ひて審〔(つまびら)〕かに聽く。故に捕るをば、多く、罠(わな)を用ふ。蓋し、妖獸にして、鬼の乘〔(じやう)〕ずる所なり[やぶちゃん注:この場合の「鬼」は]。〔然れども、〕三德[やぶちゃん注:儒学で言う「智・仁・勇」。]、有り。其の色、中和〔ちゆうわ〕にして[やぶちゃん注:特定の色に強くは片寄らずに穏やかであること。]、〔身は〕小前大後なり。黃・黒・白の三種有り。白色なる者、尤も稀れなり。尾に白錢の文有る者も亦、佳なり。其の腋の毛、純白〔なる者を〕之れ、「狐白」と謂ふ。共に毛皮、裘(かはごろも)に爲すべし。狐、死するときは、則ち、〔住みし〕丘を首〔(かうべ)〕にす。狐、善く氷〔(こほり)〕を聽く。或いは云〔はく〕、「狐に媚珠〔(びしゆ)〕[やぶちゃん注:人を惑わす妖しい輝きを持った宝珠。]有り」〔と〕。或いは云〔はく〕、「狐、百歳に至れば北斗[やぶちゃん注:北斗七星。]を禮し、變じて男婦と爲り、以つて人を惑はす」〔と〕。又、「能く尾を擊ちて、以つて火を出だす」〔と〕。或いは云はく、「狐魅〔(こみ)〕[やぶちゃん注:ここは「狐が化けること」或いは「妖狐」の意。直後の次の段落に出る「狐魅(きつねつき)」とは明らかに違った用法であるから、明確に区別して読まねばならないと思う(その点で東洋文庫訳がここに『きつねつき』のルビを附しているのは私は従えない。]、狗〔(いぬ)〕を畏る、千年の老狐、〔人、〕千年の枯木を以つて燃(も)し、〔それを以つて〕照すときは、則ち、眞形〔(しんぎやう)〕を見〔(あらは)〕す。犀の角を穴に置けば、狐、敢へて歸らず。

凡そ、狐魅(きつねつき)の狀(ありさま)[やぶちゃん注:この訓読は特異点。良安は殆んどの場面で「かたち」と訓じている。]、人を見るに、或いは手を叉〔にして〕禮〔する〕有り、或いは、祇(たゞ)揖〔(いふ)〕すること、度〔(たび)〕無し[やぶちゃん注:「揖」は中国の古式の礼の一つで、両手を胸の前で組んでそれを上下したり、前に進めたりする礼を指す。「度〔(たび)〕無し」(「たび」は「ど」でもよいとは思う)は決まった回数が無い、則ち、何時までも繰り返す、の謂いである。]。或いは、静なる處にて、獨語す。或いは、裸(はだか)の形〔(なり)〕にて人に見〔(まみ)〕ゆなり。

狐の肉【甘、溫。】 瘡疥〔(さうかい)〕[やぶちゃん注:広く発疹性の皮膚疾患を指す。]を治す。虛損及び五臟の邪氣〔による虛損を〕補ふ【臛(にもの)に作〔(な)〕し、或いは生にて膾(なます)に作して食ふ。但し、首を去るべし。】。

狐〔の〕膽〔(い)〕【臘月、之れを收む。】 人の卒死を治す【雄狐の膽。】温水にて、研〔(す)れるものを〕灌ぐ。〔それ、〕喉に入らば、卽ち、活す【時の移れる者は及ぶこと無し。】[やぶちゃん注:人の急死した場合でもこれを蘇生させる【それには雄狐の胆(い)でなくてはならない。】。温水を注ぎながら擂り砕いたものを、服用させる。それが咽喉に入った瞬間、忽ち、生き返る【但し、頓死してから有意に時間が経過してしまった場合は生き返らすことは出来ない。】。]

狐〔の〕血 酒毒を解す。狐の血を以つて、黍〔(きび)〕・米・麥門冬〔(ばくもんとう)〕を漬け【陰乾しし、丸と爲す。】、飮む時は一丸を以つて舌の下に置き、之れを含めば、人をして醉はしめざらしむ。

                  爲顯

 「夫木」

   花を見る道のほとりの古狐

      かりの色にや人惑ふらん

△按ずるに、本朝、狐、諸國に之れ有り。唯だ、四國【伊豫・土佐・阿波・讃岐。】には之れ無きのみ。凡そ、狐は多壽〔にして〕數百歳を經る者多くして、皆、人間の俗名を稱(なの)る【大和の「源九郞」、近江の「小左衞門」のごとき、是れなり。】。相ひ傳ふ、狐は「倉稻魂(うかのみたま)」の神使なり。天下の狐、悉く洛の稻荷社に參仕す。人、稻荷の祠(ほこら)を建てて、狐を祭る。其の祭らるゝ所の者は、位〔(くらゐ)〕、他の狐に異〔(こと)なる〕なり。凡そ、狐、患ふるときは、則ち、聲、小児の啼くがごとし。喜ぶときは、則ち、聲、壺を敲(たゝ)くがごとし。性、犬を畏る。若〔(も)〕し、犬、之れを逐ひて、窘迫〔(きんぱく)〕なれば[やぶちゃん注:迫られて苦しみ困った場合には。]、則ち、必ず、屁(へひ)る。其の氣(かざ)、惡(わ)る臭(くさ)くして、犬も亦、之れに近づくこと能はず。將に妖(ばけ)を爲さんとする〔ときは〕必ず髑髏(しやれかうべ)を載いて[やぶちゃん注:ママ。]、北斗を拜し、則ち、化(ばけ)て人と爲〔(な)〕る【陳眉公の「秘笈〔(ひきふ)〕」に見えたり。】人を惑はし、仇〔(あだ)〕を報ひ〔しも〕、亦、能く恩を謝す。小豆飯(あづきめし)・油熬(あぶらあげ)の物を好む。

 狐魅(きつねつき)を試るに、其の邪氣、肩〔の〕脇〔の〕皮膚の間に入り、必ず、塊(かたまり)、有り。其の脉[やぶちゃん注:「脈」に同じ。]を診るに、浮沈、定まらず[やぶちゃん注:脈搏が一定しない。]。其の拇指(をほゆび)、多くは震(ふる)ふなり。能く之れを察する者、火鍼〔(くわしん)〕[やぶちゃん注:火で熱した鍼(はり)。鍼術に「古代九鍼」の一つとして実際にある技法。]刺すときは、則ち、去る。或いは、先づ、疑似の閒に〔ある時は〕[やぶちゃん注:真正の狐憑きであるか、或いは別の疾患であるか、区別がつかない時には。]、樒(しきみ)の葉を煎じて之れを服せしめば、狐妖の者は曾つて吃〔(くら)〕はず、眞〔(まこと)〕の病ひの者は、臭味〔(くさみ)〕を嫌〔(きら)ふ〕と雖も、能く吃〔(きつ)〕す。

 狐〔を司るとせる家〕に花山家・能勢〔(のせ)〕家の二派有り。相ひ傳へて云はく、往昔、狐狩り有りしとき、老狐、將に捕(と)られんとし、急ぎ迯(にげ)て花山殿の乘〔れる〕輿の中に隱れて、赦〔(ゆるし)〕を乞ひ、遂に免るゝを得。能勢の何某(なにがし)も亦、時、異なりと雖も、死を助けたるの趣き、相ひ同じ。共に、狐、誓ひて曰はく、「子孫に至りて、永く、宜しく厚恩を謝すべきなり」〔と〕。此れより今に于〔(おい)て〕、狐魅〔(きつねつき)〕の人有るときは、則ち、二家の符を以つて閨〔(ねや)〕の傍らに置けば、乃〔(すなは)〕ち、魅〔(つきもの)〕、去りて、平愈す。其の固〔き〕約、人も亦、愧〔(は)〕づべし。又、能く死を守る[やぶちゃん注:死に臨む際の態度が甚だ立派であることを言う。]。如〔(も)〕し、人、有りて、生きながら、狐の腹を割〔(さ)き〕、膽を取ること〔あれど〕、然れども、動かず、目、逃〔(のが)す〕まじかず[やぶちゃん注:目を逸らさず。但し、訓読には自信はない。]、臟腑を刳(さ)き盡(つく)されて、後、死す。此れ、乃ち、丘を首するの理〔(ことわり)〕か。

「三才圖會」に云はく、『狐は、古へ、淫婦の化する所〔なり〕、其の名を「紫〔(し)〕」と曰ふ。善く氷を聽く。河の氷、合〔(あ)〕ふ時[やぶちゃん注:氷結する時。]、氷を聽きて、下水、聲無きときは、乃ち、行く』〔と〕。

 相ひ傳ふ、近衞の帝、侍女有り、「玉藻」と名づく。帝、會(たまたま)不豫〔(ふよ)〕[やぶちゃん注:天子の病気。「不例」に同じ。]にして、醫療、効、無く、安倍の泰成をして之れを禳(はら)はせしめば[やぶちゃん注:「禳」は「祓」に同じい。]、占ひて、以つて玉藻の障碑〔→障碍〔(さはり)〕〕と爲す。卽ち、玉藻をして幣〔(みてぐら)〕を持たしめ、之れを祝す[やぶちゃん注:祈らせた。]。〔然れども、〕玉藻、怖れて、幣を捐(す)てゝ去り、化して白狐と爲る。下野〔(しもつけ)〕の那須野に入り、人を害すること、多し。是に於いて、義純【三浦介。】廣常【上總介。】をして之れを驅らしむ。狐、又、石に化す【「殺生石〔(せつしやうせき)〕」なり。下野國の下に詳らかなり。】信州諏訪の湖水、冬月は、氷、合して、人馬、氷の上を行く。春、氷、漸く解けて、徃來、止む。其の始めて行くや、始めて止まるや、皆、見狐の往來を窺がひ、的〔(めあて)〕と爲す。

「三才圖會」に云はく、『北山〔(ほくさん)〕に黒狐有り。卽ち、神獸なり。王者、能く太平を致すときは、則ち、見〔(あら)は〕れて、四夷、來貢す。周の成王の時、嘗つて之れ有り』〔と〕。

 元明天皇【和銅四年[やぶちゃん注:七一一年。]。】、伊賀より黒狐を獻ず【同五年。】丹波より黒狐を獻ず。元正天皇【靈龜元年[やぶちゃん注:七一五年。]。】遠江より白狐を獻ず。【養老五年[やぶちゃん注:七二一年。]。】、甲斐より白狐を獻ず。皆、以つて祥瑞と爲せり。

「玄中記」に云はく、『狐、五十歳にして能く變化〔(へんげ)〕す。百歳にして美女と爲り、神巫〔(かんなぎ)〕と爲り、丈夫〔(ますらを)〕と爲る。女子と交-接(つる)む。千歳にして能く千里の外〔の〕事を知り、卽ち、天と通じ、「天狐」と爲る』〔と〕。

「五雜組」に云はく、『齋・晉・燕・趙の墟〔(あと)〕には、狐魅、最も多し。然れども亦、患〔(わざはひ)〕を爲さず。北人、往往〔にして〕之れに習(な)れる[やぶちゃん注:日常的な対象として特に気にしない。]。〔これ〕亦、猶ほ、嶺南の人、蛇と共に處〔(す)め〕るがごときなり。狐、千歳にして始めて天と通じて、魅(ばか)すことは爲さず。其の人に魅〔(つ)く〕者、多く、人の精氣を取り、以つて、内丹を〔→と〕成す。然れども、則ち、其の婦人を魅(ばか)さゞるは何ぞや、曰はく、狐は陰類なり。陽を得、乃ち、成る。故に牡(を)狐と雖も、必ず、之れ、女に托(かゝは)りて以つて男子を惑はすなり。然れども、大害を爲さず。南方には、猴(さる)、多く魅〔(み)〕を爲す』〔と〕。

狐、人に托(つ)く[やぶちゃん注:「憑く」。]こと、強氣〔(がうき)〕[やぶちゃん注:精神力が強い、引いては、陰気の狐に対して、陽気がすこぶる強いことを言う。]なる者に〔は〕、則ち、托(つ)くこと能はず。蓋し、邪氣、虛に乘じて入るるの謂ひなり。初めは、傷寒・瘴瘧〔(しやうぎやく)〕の類ひのごとく、但し、譫語〔(うはごと)〕に異なること有るのみ。咒術・靈符を以つて之れを禳〔(はら)〕ふ〔に〕、則ち、病人、詈(のゝし)り、宿意〔(しゆくい)〕を語る[やぶちゃん注:その人物に憑りつい、その積年の恨み(「宿意」は「宿怨」の同じい)。]。此れ、乃ち、將に去(い)なんとするの表はれなり[やぶちゃん注:憑いた狐が去らずにはいられない状態に至っている現われなのである。]。既に解〔(ぬ)〕け去る時、忽ち、倒れ臥し、熟睡すること、一、二日。呼び起こすこと、勿かれ。自身、寤〔(さ)〕むれば、則ち、安し[やぶちゃん注:憑き物はいなくなって平癒している。]。

[やぶちゃん注:食肉(ネコ)目イヌ科イヌ亜科 Caninae に属する広義のキツネ類(「~キツネ」の和名を持つ世界的属群)には六属あるが、本邦に棲息し、中国にも分布するそれは一種で、キツネ属アカギツネ Vulpes vulpes であり、ここはそれでカバー出来る(日本列島周辺では北海道・樺太にアカギツネ亜種キタキツネ Vulpes vulpes schrencki が、列島のそれ以外の地域に亜種ホンドギツネ Vulpes vulpes japonica が、千島列島にはベニキツネ Vulpes vulpes splendidissima などの亜種が分布している)。ウィキの「アカギツネ」によれば、体長四十五・五~八十六・五センチメートル、尾長三十~五十六センチメートル。『体色は普通、赤錆色で腹側は白く、黒い耳の先端と足、フサフサした尾の先端の白が目立つ。赤の度合いは真紅から金色と幅があり、実際によく見てみると、各々の個体の毛は赤、茶色、黒、白の条の入った斑模様か』茶色の野生色である。『野生においては、さらに別の』二『つの色が見られることもある。一つは銀または黒で、野生の個体の』一〇%、『養殖される個体のほとんどを占める。およそ』三〇%『の個体には、さらに黒い模様があり、通常は肩と背部の中央下側に、縞として現われる。このパターンは背中に十字架を作るため、このようなキツネは「十字ギツネ」と呼ばれる。家畜化された養殖のアカギツネには、斑や縞などを含むあらゆる色がみられる』。『目は金から黄で、ネコ科動物のような縦に裂けた瞳を持つ。その素早さもあり、アカギツネは「猫のようなイヌ科」と形容される。長いフサフサとした尾は、身軽な跳躍の際にバランスをとるのに役立つ。獲物を捕えたり捕食者から逃れたりするための走る速度は時速』五十キロメートル『に及ぶ』。『成獣の体重は』二・七~六・八キログラム『になるが、地域により異なり、ヨーロッパの個体は北アメリカの個体より大きくなる』。『秋と冬には、より厚い毛皮である「冬毛」を生やし、寒冷な環境に対応する。春が始まると』、『この毛皮は抜け落ち、夏場は短い「夏毛」で過ごす』。『日本に生息するホンドギツネとキタキツネを比較すると、ホンドギツネの方が毛色がより暗褐色で』、『体長がやや小さい。足先が黒くなく、キタキツネが大陸のアカギツネと同じ頭骨を持つのに対し、ホンドギツネの頭骨は微妙に異なることや、キタキツネの乳頭が』八『または』六『個であるのに対し、ホンドギツネは』十『または』八『個と多いことから、亜種ではなく』、『日本固有の新種である可能性もある』。『大草原や低木地から森林まで、アカギツネは多様な生物群系で見られる。低緯度地域に最も適しているが、極北にまで進出し、ツンドラ地域ではホッキョクギツネと直接競争関係にある。欧米では郊外や都市部でさえ見かけることができ、害獣であるアライグマと縄張りを共有する。アカギツネは齧歯類・ウサギ・昆虫類・果実・ミミズ・卵・鳥類、その他小動物を食べる』。四十二『本の強力な歯でそれらを捕らえ』、一日で五百グラムから一キログラムの『食物を摂取する。都市区域でも庭や荒地で齧歯類や鳥を狩ることはあるが、主に家庭のゴミに頼っていると思われる。稀にホッキョクギツネの子供を狩る場合もある』。『イヌ科でありながら、体の特徴や行動がネコに似ているとされており、その理由は効率的に齧歯類を捕らえるという共通の目的による、収斂進化の結果と言われている』。『さまざまな生息地に応じて、さまざまな習性を持つ』。『主に薄明活動性で』あるが、『人間の手の入った(人工照明のある)区域では夜行性になりがちである。つまり、夜間と黄昏時に最も活動的である。狩りは単独で行うのが普通であり、食べきれない獲物を獲た場合は、それを埋める』。『普通は各々の縄張りを持ち、単独で生活し、冬にのみペアを形成し』、『生活する。縄張りの面積は』五十平方キロメートル『程と考えられており、食料の豊富な場所ではより狭く』(十二平方キロメートル以下)に『なる。縄張り内には複数の巣穴があり、これらはマーモット・アナウサギなどの別の動物が掘ったものも含まれ』、時には『平和的に捕食動物と巣穴を共有することもある』。『より大きなメインの巣穴が居住・出産・子育てに使われ、縄張り中にある小さな巣穴は、緊急用と食糧貯蔵の目的がある。しばしば一連のトンネルはメインの巣穴につながる。本種』一頭当たりでは、『尾の真下にある臭腺の特有の』臭いによって『マーキングされた』、概ね一平方キロメートル『の土地を必要とするとされる』。『冬になると、主に一夫一婦制でペアを作り、毎年』四~六『匹を協力して育てる。仔ギツネの天敵は猛禽類だが、約』八~十ヶ月で成熟し、『巣立つ。しかし、『あまり調査』は進んいないが、『複婚(一夫多妻・一妻多夫)の習性もある。複婚の証拠として、繁殖期の雄に余分な移動が見られること(さらなる相手を探しているとみられる)と、雄の行動圏が複数の雌の行動圏と重複することがある。成獣』十『匹以上の「群生」もあ』り、『このような変化は、食物のような重要な資源の手に入りやすさと関連があると考えられている』。『この「群生」の習性の理由はあまり解明されておらず、非ブリーダー(繁殖に直接関わらない群れのメンバー)の存在が一腹の仔の生存率を押し上げると信じる研究者がある一方で、有意な違いは見られないとも言われ、またそのような群生状態は、餌の過剰供給によって自発的に作られるともいう』。『社会的に、狐のコミュニケーションは身体言語とさまざまな発声によってなされる。「キャンキャンキャン」と』三『回鳴く呼び声から、人間の叫び声を想起させる悲鳴に至るまで、その鳴き声は非常に多様で変化に富む。においによっても連絡をとり合い、縄張りの境界は糞と尿で付けられる。求愛行動は、二匹の鳴き交わし、急ターンを伴う追いかけっこ、互いに向き合い』、『後足で立ち上がるダンスで構成されている。まれにオスからメスへ小動物がプレゼントされることもある。個体同士の優劣は互いに口を開いて大きさを比べあうことで決定してしまい、直接攻撃することを極力』、『避ける。負けた方は「ヒー」と鳴いて腹をよじる格好で地に伏す。求愛を受けたメスが拒絶するときもこのパターンである。また』、『口の大きさを比べ合うような仕草は挨拶として兄弟同士でもしきりに行う』。『キツネの研究で学位を得た博物学者のデビッド・マクドナルド(David Macdonald)はキツネの鳴き声について、音域はおよそ』五『オクターブで、強弱を組み合わせて様々なバリエーションがあり、古い研究では』二十『の分類例があるが、大別すれば、コンタクト』・『コールとインストラクションに別れ、どちらにも属さないものがいくつかあると述べている。コンタクト』・『コールは個体同士の位置確認の鳴き声で、比較的位置が近い場合の「コンコンコン」「コッコッコッ」のような』三『音節の挨拶があり、遠くなるに従い「ウォウウォウウォウ」と』三『から』五『節の吼え声が相互に交わされるようになるという。また』別な『分析では』、『一匹ずつ声が異なっているのが確認されている。大人の個体が幼い個体に向かって「フーフー」と挨拶すると、子ギツネは尾を振って耳を寝かせ』、『口を引く仕草をする。一方』、『インストラクションは、二匹が接近しているときの鳴き声で、劣位が発する高い「クンクン」という声、優位が発する低く太い「コッコッコッ」という声(ゲカーリング』(gekkering)『)があり、ゲカーリングは子ギツネが食事中に、接近しすぎた兄弟に向かって発せられたり、連れ合いのメスに別のオスが近づいた時、オスが発して牽制するときに発せられたりする。どちらにも属さないものの代表として、けたたましい単音節の「ウァー」「ギャー」がある。この声は主にメスの声とされ、まれにオスも発し、他の個体は見ているだけで、返事はしない。その意味については繁殖期に頻繁に発せられるため、オス達を召集する意味ではないかという説がある』。『キツネは食べきれないネズミを埋める習性があるが、飼いならされた複数の個体を使った実験により、翌日』、九〇%『の確率で掘り出すことに成功したことが確認されている。埋めたキツネと別の個体が最初のキツネが埋めた発見する割合は』二五%『程度に低下し、同じ個体でも、埋めた穴の』二~三『メートル横に別のネズミを埋めると発見率が』二五%『に低下することから、嗅覚ではなく、キツネは埋めた獲物の穴をかなり正確に記憶しているといわれている。また』、ある雌個体の観察では『穴の場所を記憶するだけでなく、中の獲物の種類まで記憶する能力があ』ったともされる。『繁殖期はその広大な生息域によって異なり、南方では』十二~一月、中緯度では一~二月、北方では二~四月と『なる。雌は日ごとの発情周期を』一~六『日間続け、排卵は自動的になされる。交接はやかましく、時間は通常』五分から二十分、三十分『以上かかる場合もある。雌は複数の雄を交尾の候補とするが(権利を得るために互いに戦い)、最終的に一匹の雄に決定する』。『雄は雌が出産する前後、餌を与える一方で、雌は仔狐と共に育児室』『で待つ。一腹の仔の平均数は』五『匹だが、多い時には』十三『匹に及ぶ。新生仔は目が見えず、体重は約』百五十グラムで、『生後』二『週間で目が開き』、五『週間で巣穴の外へ出てきて』、十『週間で完全に乳離れする』。『同年の秋に仔狐は独り立ちして、自らの縄張りを必要とする。性成熟までの期間は』十『ヶ月。寿命は飼育下で』十二『年だが、野生ではたいてい』三『年程度である』とある。次にウィキの「キツネ」の一部を引く。まず、「日本人とキツネの関係」の項。『キツネを精霊・妖怪とみなす民族はいくつかあるが、特に日本(大和民族)においては文化・信仰と言えるほど』、『キツネに対して親密である。キツネは人を化かすいたずら好きの動物と考えられたり、それとは逆に』、宇迦之御魂神(うかのみたまのかみ:名前の「うか」は「穀物・食物」の意で穀物神。また「うか」は「うけ」(食物)の古形で、特に「稲霊(いなだま)」を表わし、「御」は「神秘」「神聖」の意、「魂」は「霊」であって全体として「稲に宿る神秘な霊」と考えられている。「古事記」では素戔嗚命が櫛名田比売の次に娶った神大市比売(かむおおいちひめ)との間に生まれたとする)『の神使として信仰されたりしている。アイヌの間でもチロンヌプ(キタキツネ)は人間に災難などの予兆を伝える神獣、あるいは人間に化けて悪戯をする者とされていた。キツネが化けた人間にサッチポロ(乾しイクラ)を食べさせれば、歯に粘り付いたイクラの粒を取ろうと口に手を入れているうちに正体を表すという。日本における鳴き声の聞きなしについては、古来は「キツ」「ケツ」と表現されており、近代からは「コン」「コンコン」が専ら用いられている。「コン」「コンコン」については』、『親が子を呼ぶ時の鳴き声に由来していると報告されている』。『また、キツネは特に油揚げを好むという伝承にちなみ、稲荷神を祭る神社では、油揚げや稲荷寿司などが供え物とされることがある。ここから、嘗ての江戸表を中心とした東国一般においての「きつねうどん」「きつねそば」などの「きつね」という言葉は、その食品に油揚げが入っていることを示す』『(畿内を中心とした西国では蕎麦に関してはたぬきと呼ばれる場合がある)』。狐の「語源」の項。『諸説あるが』、「大言海」では、『古来のなき声の表す「ケツケツ」「キツキツ」と神道系の敬称を表す「ネ」が結びついたと説明している』。「万葉集」巻第十六の、長忌寸意吉麿(ながのいみきおきまろ)の一首(三八二四番)に、

 さし鍋(なべ)に湯沸かせ子ども櫟津(いちひつ)の檜橋(ひばし)より來む狐(きつね)に浴(あ)むせむ

以上の引用はリンク先の表記に疑問があるので、所持する「万葉集」で独自に電子化した。「さし鍋(なべ)」柄のついた鍋。「櫟(いちひ)」現在の大和郡山市の東方、天理市櫟本(いちのもと)の西方の古地名。「津」とあるからには渡し場(佐保川の旧流域か)があったのであろう。この中央附近(グーグル・マップ・データ)。「ひつ」は「櫃」に掛けており、「橋」は「箸」を掛けている。「來む」の「こむ」には狐の鳴き声「こん」を掛ける。この一首は、後書きがあり、宴会の席上、狐の声がし、皆が、狐・宴席にあった物品・土地の景物を読み込んで歌を作れ、と請われて作者が作歌した旨の記載がある

『という、鍋とキツネを詠んだ即興歌が残っており、日本では古代より「キツ」と呼んでいたことを示す資料が残っている』。『仏教系の説では』「日本霊異記」や、『その話を転記した』「今昔物語集」では「來つ寢」という』『語呂合わせが語源と説明している。平安時代に編纂された日本最古の辞書である』「和名類聚抄」には(後で原文を引く)「狐」「『韻は(コ)日本の読み(きつね)中国の伝説では』百『歳になると女に化ける妖怪に変化する。」という説明があり、平安時代には、既にきつねと発音していたことが分かる』。『日本の狩猟時代の考古学的資料によると、キツネの犬歯に穴を開けて首にかけた、約』五千五百『年前の装飾品』や、『キツネの下顎骨に穴を開け、彩色された護符のような、縄文前期の(網走市大洞穴遺跡)ペンダント』『が発掘されている。しかし、福井県などでは、キツネの生息域でありながら、貝塚の中に様々な獣骨が見つかる中』、『キツネだけが全く出てこない』ともされる。『日本人がキツネを稲と関連させた起源は、文化人類学的推察にもとづく農耕民族の必然だったとする必然起因説と、歴史学的手法に基づいて推察して、神の名に「狐」を宛てたことによるとする、誤解起因説の』二『通りがあって特定はされておらず、その後大陸より渡来した秦氏の勢力によって、キツネは稲荷神の眷属に収まったという流れになっている』。『稲作には、穀物を食するネズミや、田の土手に穴を開けて水を抜くハタネズミが与える被害がつきまとう。稲作が始まってから江戸時代までの間に、日本人はキツネがネズミの天敵であることに注目し、キツネの尿のついた石にネズミに対する忌避効果がある事に気づき、田の付近に祠を設置して、油揚げ等で餌付けすることで、忌避効果を持続させる摂理があることを経験から学んで、信仰と共にキツネを大切にする文化を獲得した』。『日本古来の世界観は山はそれ自体が山神であって、山神から派生する古木も石も獣(キツネ)もまた神であるという思想が基としてあると言われている』。『民間伝承の狐神信仰の発生がいつ始まったかの特定は難しいとした上で、発生の順番から考えて、土地が開墾される以前にキツネが生息しており、畏敬された狐神と稲荷の結合は、田の神信仰と稲荷の結合に先立つであろうと言われている』。『一方、稲荷神社の神は、宇迦之御霊神、別名、御食神(みけつがみ)であって、三狐神と書き誤って、日本中に誤解が定着したという説も、根強く有力な説である』。『正史に狐の記事が記載されたのは』、「日本書紀」の斉明天皇三(六五七)年に『石見に現れた白狐の記事であり』、『伝記に狐が記載されたのは』「日本霊異記」欽明天皇の時代(五四〇年~五七一年)『とされている』。『キツネが騙す、化ける妖怪の一種であるという概念は、仏教と共に伝来』(五五二年辺り)『したもので、中国の九尾狐の伝説に影響されたものである』。『以下は日本の文化におけるキツネの歴史の大まかな流れである』。『弥生時代、日本に本格的な稲作がもたらされるにつれネズミが繁殖し、同時にそれを捕食してくれるキツネやオオカミが豊作をもたらす益獣となった』。『柳田國男は、稲の生育周期とキツネの出没周期の合致から、キツネを神聖視したという民間信仰が独自に芽生えたと言う説を述べている。必然起因説はその発展系と見られる』。『御饌津神(みけつ)が誤って三狐神と書かれたという説が定説である。しかし秦氏が土着民への懐柔策として使用させたとの説もある。大和時代に入り』、『朝廷が勢力を拡大する中、抵抗する土着の神を持つ民を排除し、狐と呼んで蔑視していた』。『土着の農民は、独自の「山の神―田の神」を信仰しており、狐をその先触れとする文化があったものの』、欽明天皇期に『伊勢と交易を行い、後に国庫の管理者となる程の秦氏の経済的な勢力に押され、元は「田の神―山の神」の祠であった場所が秦氏の神社になった事に、農民たちは旧来の神を祭りながらも抗えなかったであろうと言われている』。『秦氏の稲荷の眷属の狐は「命婦(みょうぶ)」と呼ばれ、命婦の位を持っているが、最初からそのような位を持っていた訳ではないということは、伏見稲荷の縁起によって示されている』。『こうして土着の神は豊穣をもたらす荒神的な性格から「宇迦之御魂大神」の「稲荷」として認識され、シンボルである狐自体は眷属に納まったと考えられる』。『鍛冶屋に信仰される金屋子神』(かなやこかみ)『は、白い狐に乗って現れるとの伝説が有る』。『天照皇大御神は豊葦原瑞穂国(日本国)を豊穣の地にせよと豊受明神に命じたため、豊受明神は多くの狐たちに命じ、稲の種を各地に蒔かせたと言われている』。『平安時代、空海により中国から本格的に密教がもたらされ、キツネは仏典に登場する野干(やかん)の名でも呼ばれるようになる。後には白狐に乗ったダキニ天と、狐を眷属とした稲荷が同一視されることとなる。説話の中で多い、人に化ける悪いキツネが僧によって降参する(仏の勝利)という図式は、ダキニ天の生い立ちそのものである。このころから狐に悪狐が登場し、ある種の精神病を狐の仕業とし、法力で治せるものと宣伝された。また密教では狐霊が使われ呪術が行われた。このようにしてキツネが化ける妖怪(妖狐)であるというイメージが民衆に定着した』。『このような状態はかなり後世まで続いたが、キツネは大衆に憎まれる存在とはならなかった。江戸時代に入り』、『商業が発達するにつれて、稲荷神は豊作と商売繁盛の神としてもてはやされるようになり、民間信仰の対象として伏見のキツネの土偶を神棚に祭る風習が産まれた』。『明治政府が不敬としてキツネの土偶の製造を禁じると、細々と生産されていたネコの土偶が大流行し』、『定番商品(招き猫)となった。狐霊に白黒赤金銀があるように招き猫にも白黒赤金が存在するのは』、『そのためである』。『社の裏手にキツネの巣穴があるような稲荷は多く見られることから、キツネの巣穴を供養する風習が江戸時代から昭和にかけて全国各地に広がっていたことが判る。キツネの巣穴に食べ物を供える習慣は穴施行、寒施行となって現在も残っている。またそのような由来を持つ狐塚(田の神の祭場)も数多くある。安倍晴明で有名な葛葉稲荷神社の裏手には石組みの行場が残っている』。『明治時代に入り、廃仏毀釈の運動が起こり、稲荷神社は少数の仏教系と、多数の神道系に分かれた』。『キツネ(狐)が霊獣として伝えられる歴史は非常に古く』、「日本霊異記」には『すでにキツネの話が記されている。美濃大野郡の男が広野で』一『人の美女に出会い、結ばれて子をなすが、女はキツネの化けた姿で、犬に正体を悟られて野に帰ってしまう。しかし男はキツネに、「なんじ我を忘れたか、子までなせし仲ではないか、来つ寝(来て寝よ)」と言った。なお、これを元本に発展させた』「今昔物語集」にも『この話は収録され、キツネの語源としている。キツネは、人間との婚姻譚において語られることが多く、後、「葛の葉」や「信太妻(しのだづま)」伝承を経て、古浄瑠璃「信田妻(しのだづま)」において、『異類婚姻によって生まれた子の超越的能力というモティーフが、稀代の陰陽師』『安倍晴明の出生となって完成される』のである。『「狐」は、蜘蛛、蛇などと同じく』、『大和朝廷側から見た被差別民であったという見方もある。彼らは、大和朝廷が勢力を伸ばす段階で先住の地を追われた人々であり、人ではない者として動物の名称で呼ばれたという見方である。彼らが、害をもたらす存在として扱われる場合、それは朝廷側の、自分たちが追い出した異民族が復讐してくるのではという恐怖心の現れであると考えられる。また、動物が不思議な能力(特殊能力)を持つというのは、異民族が持つ特殊な技術を暗に意味している場合がある。この考え方に沿えば、異類婚姻は、それらの人々との婚姻を意味することになる。つまり』、『女が身元を偽って(化けて)婚姻したものの里が暴かれ、子の将来を案じて消えてしまった物語と解される』。『キツネの子が神秘的能力をもつというのは、稲荷の神の使いとして親しまれてきたキツネが、元来は農耕神として信仰され、豊穣や富のシンボルであったことに由来するものである。狐婚姻の類話には、正体を知られて別れたキツネの女が、農繁期に帰ってきて田仕事で夫を助けると、稲がよく実るようになったという話がある。また江戸の王子では、大晦日の夜、関八州のキツネが集い、無数の狐火が飛んだというが、里人はその動きで豊作の吉凶を占ったと伝えられており、落語「王子の狐」のモチーフとなっている』。『人間を助ける役割を果たすキツネの側面は、かつてキツネが、農耕神信仰において重要な役割を果たしていたことの名残りであるといえ、江戸大窪百人町など、郊外にある野原に出没する特定のキツネは名前をつけて呼ばれ、人間を化かすが、災害や変事を報らせることもあった』。『岐阜県の老狐「ヤジロウギツネ」は、僧に化けて、高潔な人物の人柄を賞揚したという。群馬県の「コウアンギツネ」もこの類で、 白頭の翁となり、自ら』百二十八『歳と述べ、常に仏説で人を教諭し、吉凶禍福や将来を予言した。千葉県飯高壇林の境内に住みついた「デンパチギツネ」も、若者に化けて勉学に勤しんでいる。その他、静岡県の「オタケギツネ」は、大勢の人々に出す膳が足りない場合にお願いに行くと、膳をそろえてくれるといわれていた』(これは椀貸伝承の一変形である)。『岩手県九戸のアラズマイ平に棲む白狐は、村の子どもと仲がよく、一緒に遊んでいたという。また、鳥取県の御城山に祭られている「キョウゾウボウギツネ」は、城に仕え、江戸との間を』二、三『日で往復したと伝えられている』。宝暦三(一七五三)年八月、『江戸の八丁堀本多家に、日暮れから諸道具を運び込み、九ツ前、提灯数十ばかりに前後数十人の守護を連れた鋲打ちの女乗物が、本多家の門をくぐった』五、六千石の『婚礼の体であったが、本多家の人は誰も知らなかったという。このような「キツネノヨメイリ」には必ずにわか雨が降るとされるが、やはりこれも降雨を司る農業神の性質であろう』。『しかし、農耕信仰がすたれるにつれ、キツネが狡猾者として登場することも多くなり』、「今昔物語集」でも「高陽川の狐、女と変じて馬の尻に乗りし語」では、夕に若い女に化けたキツネが、馬に乗った人に声をかけて乗せてもらうが』、四、五『町ばかり行ったところでキツネになって「こうこう」と鳴いたとある』(これは「今昔物語集」の「巻第二十七」の「高陽川狐變女乘馬尻語第四十一」(「高陽川(こうやがは)の狐、女に變じて馬の尻ぶ乘りたる語(こと)第四十一)。「やたがらすナビ」のこちらでカタカナをひらがなに直した原文が読める)。「行脚怪談袋」には、『僧が団子を喰おうとするキツネを杖で打ったら、翌日そのキツネが大名行列に化けて仕返しをしたという話がある』(私は既に「行脚怪談袋 五の卷 嵐雪上州館橋に至る事 僧狐に化さるゝ事」で電子化注している)。『ほかにも』「太平百物語」に、『京都伏見の穀物問屋へ女がやって来て、桶を預けていった。ところがその桶の中から、大坂真田山のキツネと名乗る大入道が現われて、この家の者が日ごろ自分の住まいに小便をして汚すと苦情を述べた。そこで主人は入道に詫びて』、三『日間』、『赤飯と油ものをキツネのすみかの穴に供えて許しを乞うたという』(近日、「太平百物語」の電子化をブログ・カテゴリ「怪奇談集」で開始するので暫し待たれよ)。『キツネは女に化けることが多いとされるが、これはキツネが陰陽五行思想において土行、特に八卦では「艮」』(うしとら)『に割り当てられることから』、『陰気の獣であるとされ、後世になって「狐は女に化けて陽の存在である男に近づくものである」という認識が定着してしまったためと考えられる。関西・中国地方で有名なのは「おさん狐」である。このキツネは美女に化けて男女の仲を裂きにくる妖怪で、嫉妬深く』、『男が手を焼くという話が多数残っている。キツネが化けた女はよく見ると、闇夜でも着物の柄がはっきり見えるといわれていた。女の他、男はもちろん、月や日、妖怪、石、木、電柱、灯籠、馬やネコ、家屋、汽車に化けるほか、雨(狐の嫁入り)や雪のような自然現象を起こす等、実にバリエーションに富んでいる』。『霊狐には階級があるとされ、住む場所、妖力によって「地狐」、「天狐」、「空狐」などに分類される。長崎県五島列島でいう「テンコー(天狐)」は、 憑いた者に神通力を与えるが、これに反して「ジコー(地狐)」の方はたわいのないものといわれる』。『妖怪の狐は九尾の狐など尾が分かれていることを特徴とすることがある。九尾の狐は』「山海経」では『「その状は、狐の如くで九つの尾、その声は嬰児の様、よく人を喰う。食った者は邪気に襲われぬ」という。日本ではその正体が九尾の狐とされる玉藻前(たまものまえ)の物語が有名である』。『狐信仰の変種であり、日本独自の現象として、「狐憑き(きつねつき)」が存在する。狸、蛇、犬神憑きなどに比べ』、『シェアが広く、全国的(沖縄等を除く)に見られ、かつ根強い。狐憑きは、精神薄弱者や暗示にかかりやすい女性たちの間に多く見られる発作性』・『ヒステリー性精神病と説明され、実際に自らキツネとなって、さまざまなことを口走ったり、動作をしたりするという話が、平安時代ごろから文献に述べられている。行者や神職などが、「松葉いぶし」や、キツネの恐れる犬に全身をなめさせるといった方法で、キツネを落とす呪術を行っていた』。『狐憑きで有名なものは、長篠を中心に語り伝えられる「おとら狐」で、「長篠のおとら狐」とか「長篠の御城狐」などと呼ばれていた。おとら狐は、病人や、時には健康な人にも憑くことがあって、憑いた人の口を借りて』「長篠の戦い」の『物語を語る。櫓』『に上がって合戦を見物しているときに、流れ弾に当たって左目を失明し、その後』、『左足を狙撃されたため、おとら狐にとり憑かれた人は、左の目から目やにを出して、左足の痛みを訴えるという』。『狐憑きの一種に「狐持ち」という現象があり、狐持ちの家系の者はキツネの霊を駆使して人を呪うという迷信があった。「飯綱(いづな、イイズナ)使い」と呼ぶ地方もあり、管狐(くだぎつね)や、オサキ、人狐(ニンコ)を操ると信じられていた。これらの狐霊は、人に憑いて憎む相手を病気にしたり、呪いをかけたりすることができると信じられてきた。狐持ちの家系の者はこの迷信のため差別され、自由な結婚も認められなかった。現在でもなお、忌み嫌われている地方がある』。『キツネにまつわる俗信には、日暮れに新しい草履(ぞうり)をはくとキツネに化かされるというものがあり、かなり広い地域で信じられていた。下駄はもちろん靴でも、新しい履き物は必ず朝におろさなければならないとされ、夕方、新品を履かねばならないときは、裏底に灰か墨を塗らねばならないといわれている』。『キツネに化かされないためには、眉に唾をつけるとよいというが、これは、キツネに化かされるのは眉毛の数を読まれるからだと信じられていたためである。真偽の疑わしいものを「眉唾物(まゆつばもの)」というゆえんである』。『また、得体の知れない燐光を「狐火」と呼び、「狐に化かされた」として、説明のつかない不思議な現象一般をキツネの仕業とすることも多かった。 しかし、化けるにしろ報復譚にしろ、キツネの話はどこかユーモラスで、悪なる存在というよりは、むしろトリックスター的な性格が強い』とある。

「射干(やかん)」「野干は別獸なり」ウィキの「野干」を引く。『野干(やかん)とは漢仏典に登場する野獣(正確には』「干」は「犭」に「干」で「犴」。この字体を正確に知らない当時の人たちにより、「野干」の『表記も多く存在するので間違いではない)。射干(じゃかん、しゃかん、やかん)豻(がん、かん)、野犴(やかん:犴は野生の犬のような類の動物、キツネやジャッカルなども宛てられる)とも。狡猾な獣として描かれる。中国では狐に似た正体不明の獣とされるが、日本では狐の異名として用いられることが多い』。『唐の』「本草拾遺」に『よると、「仏経に野干あり。これは悪獣にして、青黄色で狗(いぬ)に似て、人を食らい、よく木に登る。」といわれ、宋の』「翻訳名義集」では、『「狐に似て、より形は小さく、群行・夜鳴すること狼の如し。」とされる』。「正字通」には『「豻、胡犬なり。狐に似て黒く、よく虎豹を食らい、猟人これを恐れる。」とある』。『元は梵語の「シュリガーラ」』『を語源とし、インド仏典を漢訳する際に「野干」と音訳されたものである。他に』「悉伽羅」「射干」「夜干」とも『音訳された。この動物は元々インドにおいてジャッカル(この名称も元は梵語に由来する)』(「野干」の正体は食肉目イヌ科イヌ亜科イヌ属に属するジャッカル類である。ジャッカルはキンイロジャッカル Canis aureus(南アジア・中央アジア・西アジア・東南ヨーロッパ・北アフリカ・東アフリカに棲息)・セグロジャッカル Canis mesomelas(南部アフリカ)・ヨコスジジャッカル Canis adustus(中部アフリカ)・アビシニアジャッカル Canis simensis(エチオピアに棲息。アビシニアオオカミなどとも呼び、ジャッカルに含めないこともある)がいる)『を指していたが、中国にはそれが生息していなかったため、狐や貂(てん)、豺(ドール)』(一属一種の食肉目イヌ科ドール属ドール Cuon alpinus。別名をアカオオカミ(赤狼)とも呼ぶ)『との混同がみられ、日本においては主に狐そのものを指すようになる』。『インドでジャッカルは尸林』(しりん:遺体を火葬したり、遺棄した林。放置されたり、焼け残った遺体は鳥獣の餌となった)『を徘徊して供物を盗んだり、屍肉を喰う不吉な獣として知られていたため、カーリーやチャームンダー(ドゥルガー分身の七母神の』一『人)など、尸林に居住する女神の象徴となった。また、インド仏教においても野干は閻魔七母天の眷属とされた』。明治四三(一九一〇)年、『南方熊楠が、漢訳仏典の野干は梵語「スルガーラ」(英語』Jackal『「ジャッカル」・アラビア語「シャガール」)の音写である旨を、『東京人類学雑誌』に発表し』ている。『日本では当初、主に仏教や陰陽道など知識階級の間で狐の異名として使われた。平安初期の』「日本霊異記』」の上巻第二「狐爲妻令生子緣」『には、狐が人間の女に化けて男の妻となり、子供もできたが、正体がばれたときに男から「来つ寝よ」(きつねよ)と言われ「キツネ」という名が出来たとする説話が収録されているが、そこでも狐のことを文中で「野干」と記す例が確認出来る』。「拾芥抄」には『「野干鳴吉凶」』『として狐の鳴き声によって吉凶を占うことがらについても記されている』「吾妻鏡」には、『野干(狐)によって名刀の行方が知れなくなったこと』(建仁元(一二〇一)年五月十四日の条)『が書かれていたりするほか、江戸時代以後には一般的にも書籍などを通じて「狐の異名」として野干という語は使用されて来た。その他、各地の民話でも狐の別名として野干が登場する』。「大和本草」などの『本草学の書物などでは』、『漢籍の説を引いて、「形小さく、尾は大なり。よく木に登る。狐は形』、『大なり。」と、狐と野干は大きさが違う』、『とされているので』、『別の生物であるという説を載せている』。『また、日本の密教においては、閻魔天の眷属の女鬼・荼枳尼(だきに)が野干の化身であると解釈され』、『平安時代以後、野干=狐にまたがる姿の荼枳尼天となる。この日本独特の荼枳尼天の解釈はやがて豊饒や福徳をもたらすという利益の面や狐(野干)に乗っているという点から稲荷神と習合したり、天狗信仰と結び付いて飯綱権現や秋葉権現、狗賓などが誕生した』。『能では狐の精をあらわした能面を「野干」と呼んでおり』、「殺生石」「小鍛冶」など、『狐が登場する曲で使用されている』。「殺生石」に『登場する狐の役名も「野干の精」などと表記され』ている、とある。

『「和名抄」に、『狐は木豆禰、射干なり。關中に呼ぶに、野干と爲すは語の訛りなり』〔と〕』。「和名類聚鈔」の「巻十八」の「毛群部第二十九 毛群名第二百三十四」に、

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狐 考聲「切韻」云、『狐【音「胡」。和名「木豆禰」。】獣名、射干也。關中呼爲「野干」語、訛也』。孫愐「切韻」云、『狐能爲妖恠、至百歳化爲女也。』。

(狐 考聲「切韻」に云はく、『狐【音「胡(コ)」。「岐豆禰(きつね)」。】は獸の名にして射干(しやかん)なり。關中には呼びて「野干(やかん)」と爲すは、語の訛りなり。』と。孫愐「切韻」に云はく、『狐は能(よ)く妖怪と爲り、百歳に至りて化けて女と爲る者なりと。)

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とある。「關中」は漢文の項羽と劉邦でお馴染みの、函谷関の西側の地域、現在の陝西省渭水盆地の西安(旧長安)を中心とした一帯の呼称。春秋戦国時代の秦の領地であり、その後の前漢や唐もこの地に首都を置いたので、都や首都圏の意ともなった。

「〔住みし〕丘を首〔(かうべ)〕にす」狐死に際しては、自身が住み馴れた丘に敬意をこめて、首を向けて死ぬ。東洋文庫注に、『死に際してもうろたえず、節度を失わない態度をほめたもの』で、出典は「礼記」とする。同書の「檀弓(だんぐう)上」の以下である。

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大公封於營丘、比及五世、皆反葬於周。君子曰、「樂樂其所自生、禮不忘其本。古之人有言曰、『狐死正丘首。仁也』。」。

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「善く氷〔(こほり)〕を聽く」目には見えない、氷の下の状態(厚く張ったり、表面だけでその下には氷が未だ張っていないこと、さらには後に記すように、春になって氷が融け始めることも事前に極めて敏感に認知することが出来ることを指す。

「北斗」中国では北斗星は天帝の乗り物と見立てたり、北斗七星を司る「北斗星君」(「死」(寿命)を司る冥界の王)という神がいるなどと考えた。

「黍〔(きび)〕」単子葉植物綱イネ目イネ科キビ属キビ Panicum miliaceum

「麥門冬〔(ばくもんとう)〕」単子葉植物綱キジカクシ目キジカクシ科スズラン亜科 Ophiopogonae 連ジャノヒゲ属ジャノヒゲ Ophiopogon japonicus の根の生薬名。現行ではこれで「バクモンドウ」と濁る。鎮咳・強壮などに用いる。

「爲顯」「夫木」「花を見る道のほとりの古狐かりの色にや人惑ふらん」藤原為顕(生没年未詳)は藤原定家の三男為家の子。二条為氏・京極為教の弟、冷泉為相の兄に当たる。従五位上・侍従。歌学書「竹園抄」の原著者で、作歌は「続拾遺和歌集」などに入る。永仁三(一二九五)年までの事績が確認されている。

「四國【伊豫・土佐・阿波・讃岐。】には之れ無きのみ」現在では、個体数は少なく、ある程度まで限定された一帯にではあるが(学術的調査では高知県と愛媛県の境に集中するとされる。但し、香川県で捕獲したという本人の記事(いちろー氏ブログ「いちろーのブログ~とりあえずその日のこと~」の「キツネ捕まえたよ! 香川県にもキツネがいたよ!」。捕獲したキツネの画像も有る。しかも香川県の環境森林部みどり保全課野生生物グループの担当者の話では県内での捕獲報告は時々あるとある)も発見した)、四国にキツネ(=ホンドギツネ)は棲息している

「陳眉公」明末の書家・画家として知られる陳継儒(一五五八年~一六三九年)の号。同じ書画家董其昌(とうきしょう)の親友としても知られる。

「秘笈〔(ひきふ)〕」陳継儒が、収集した秘蔵書を校訂・刊行した叢書「宝顔堂秘笈」のことか。

「油熬(あぶらあげ)の物」単品の「油揚げ」ではなく、油で揚げた物一般である。

「樒(しきみ)」アウストロバイレヤ目 Austrobaileyalesマツブサ科シキミ属シキミ Illicium anisatumウィキの「シキミ」によれば、シキミは『俗にハナノキ・ハナシバ・コウシバ・仏前草と』も言い、『空海が青蓮華の代用として密教の修法に使った。青蓮花は天竺の無熱池にあるとされ、その花に似ているので仏前の供養用に使われた』とある。なお、仏前供養でお馴染みな割には、あまり知られていないと思うので引用しておくと、シキミは『花や葉、実、さらに根から茎にいたるまでの全てが毒成分を含む。特に、種子に』猛毒の神経毒であるアニサチン(anisatin)『などの有毒物質を含み、特に果実に多く、食用すると』、『死亡する可能性がある程度に有毒である』。『実際』に『事故が多いため、シキミの実は植物としては唯一、毒物及び劇物取締法により劇物に指定』『されている』ことは知っておいてよい。

「花山家」花山院家。藤原北家師実流嫡流。京極摂政藤原師実の次男家忠を家祖とし、家名は家忠が舅から花山院第(東一条殿)を伝領したことに拠る。

「能勢〔(のせ)〕家」摂津国の北摂地方の封建領主で清和源氏頼光流を称した能勢氏か。

『「三才圖會」に云はく……』図はここの左側、解説は次のコマの右側(国立国会図書館デジタルコレクションの画像)。

『其の名を「紫〔(し)〕」と曰ふ』妖狐の別名に「阿紫」がある。「紫」は神仙の色であり、この「阿紫」のあどは明らかに女の名っぽいから、違和感はない。

「近衞の帝」近衛天皇(在位:永治元(一一四二)年~久寿二(一一五五)年)。但し、以下のリンク先で判る通り、伝説の「玉藻の前」は同時代の鳥羽上皇(康和五(一一〇三)年~保元元(一一五六)年)の寵姫であったとされる。まあ、どうでもいいか。

「玉藻」妖狐のチャンピオン、中国から飛んで来た九尾狐。ウィキの「玉藻前」(たまものまえ)を読まれたい。

「安倍の泰成」鳥羽上皇附きの陰陽師。これも話によって安倍泰親とも安倍晴明ともなったりする。安倍晴明の五代の孫に当たる安倍泰親(天永元(一一一〇)年~寿永二(一一八三)年?)なら、まだいいが、ゴースト・バスターのチャンピオン安倍晴明(延喜二一(九二一)年~寛弘二(一〇〇五)年)では時代が全く合わぬ。

「義純【三浦介。】」三浦義明(寛治六(一〇九二)年~治承四(一一八〇)年)。平安末期の相模国三浦郡衣笠城の武将。三浦荘(現在の神奈川県横須賀市)の在庁官人で、桓武平氏の平良文を祖とする三浦氏の一族。後の鎌倉幕府の重臣となる三浦義村の祖父。

「廣常【上總介。】」上総広常(?~寿永二(一一八四)年)は房総平氏惣領家頭首で、源頼朝の挙兵に応じて平氏との戦いに臨んだ関東きっての名将。梶原景時の讒言により、頼朝の命で、景時が鎌倉の十二所(じゅうにそ)の広常の館を訪れ、碁をしている最中に謀殺した。これも玉藻の前の祟りかも知れんね。

「殺生石」] 栃木県那須郡那須町、那須岳の寄生火山御段山の東腹にある溶岩。嘗つて付近の硫気孔から有毒ガスが噴出して、そこに近づく蜂や蝶などの動物が多く死んだ。伝説によれば、鳥羽天皇の寵姫玉藻前に化けた金毛九尾の狐が、安倍泰成に正体を見破られ、三浦介義明に射止められて石と化したが、未だ恨みを以って生類の殺生を続けたが、後の至徳二(一三八五)年、玄翁和尚によって打ち砕かれ、成仏したとも伝える。ウィキの「殺生石」を参照されたい。

『「三才圖會」に云はく、『北山〔(ほくさん)〕に黒狐有り……』ここの右(国立国会図書館デジタルコレクションの画像)。

「四夷、來貢す」中国の四方の境域外の異民族が、この黒狐を恭順の証しとして貢納した。

「周の成王」周の第二代の王で武王の子であった姫誦(ひじゅ)のこと。「成王」とは諡号ではなく、生前からの称号。在位は紀元前一〇四二年から紀元前一〇二一年。父の武王の後を継いで即位するも、僅か二年で崩御してしまった。ウィキの「成王(周)」によれば、『当時は』未だ『周の政治体制は安定しておらず、殷の帝辛(紂王)の子の武庚(禄父)や』、『成王の叔父(武王の弟。管叔鮮と蔡叔度)たちの謀反などが相次ぎ、国情は極めて不安定であった』。『成王誦は即位した時はまだ幼少であったので、実際の政務は母の邑姜、叔父の周公旦(魯の開祖)、太公望呂尚(斉の開祖)、召公奭』(せき)『(燕の開祖)らが後見した』。『成長すると、自ら政務を執』ったが、「史記」の「周本紀」に『よると、若くして崩御したと記されている』。『子の釗』(しゅう)『(康王)が後を継いだ。彼の代までが周の確立期であった(成康の治)』とある。

「元明天皇……」以下はる菅野真道らが延暦一六(七九七)年に完成させた「続(しょく)日本紀」の記載。

「玄中記」西晋(二六五年~三一六年)の郭璞(かくはく)の著わした博物誌であるが、散佚、部分が引用で残る。

「神巫〔(かんなぎ)〕」「いちこ」との呼び、「市子」「巫子」等とも書く。呪文を唱えて生き霊や死霊を呼び出し、自身に憑依させ、死後の様子や未来の事などを知らせることを職業とした女。「口寄せ」。また、広義の「巫女(みこ)」を言う。後世、神前で神楽を奏する舞い姫をも指した。

「五雜組」「五雜俎」とも表記する。明の謝肇淛(しゃちょうせい)が撰した歴史考証を含む随筆。全十六巻(天部二巻・地部二巻・人部四巻・物部四巻・事部四巻)。書名は元は古い楽府(がふ)題で、それに「各種の彩(いろどり)を以って布を織る」という自在な対象と考証の比喩の意を掛けた。主たる部分は筆者の読書の心得であるが、国事や歴史の考証も多く含む。一六一六年に刻本されたが、本文で遼東の女真が、後日、明の災いになるであろうという見解を記していたため、清代になって中国では閲覧が禁じられてしまい、中華民国になってやっと復刻されて一般に読まれるようになるという数奇な経緯を持つ。

「齋」現在の山東省の一部に相当する。

「晉」現在の山西省の一部に相当する。

「燕」現在の河北省に相当する。

「趙」現在の山西省と河北省の一部に相当する。

「嶺南」中国南部の南嶺山脈よりも南の地方の広域総称。現在の広東省・広西チワン族自治区・海南省の全域と、湖南省・江西省の一部に相当する(部分的には「華南」と重なっている)。参照したウィキの「嶺南」地図(キャプションに『華南/嶺南の諸都市。なお』、『福建省(かつての閩)は、多くの場合』、『嶺南には含まれない』ともある)。

「蛇と共に處〔(す)め〕るがごときなり」蛇と日常的に居住空間を一(いつ)にし、特に蛇を意識せずに生活しているのと同じである。

「南方には、猴(さる)、多く魅〔(み)〕を爲す」南方では(狐よりも)猿の類いが多く人を化かし、その被害は猿よりも有意に甚大である、という謂いである。

「傷寒」漢方で体外の環境変化によって経絡が冒された状態を指す。特に発熱し、悪寒が激しく、しかも汗が出ない症状で、現在の悪性の流行性感冒、或いは、腸チフスの類いを指すようである。

「瘴瘧〔(しやうぎやく)〕」概ね、その土地特有の「瘴」気(しょうき:目に見えない悪しき邪気)によって、一日二日といったように、日を隔てて周期的間歇的に悪寒・戦慄と発熱を繰り返すような病状を指す。紀元前から中国で知られていた病気で、「湿瘧(しつぎゃく)」「痎瘧(がいぎゃく)」など、多くの病名が記載されている。他の病気(限定的な伝染性風土病など)も含まれていたとは思われるが、その主体はマラリアと考えられている。

「譫語〔(うはごと)〕に異なること有るのみ」頻りに譫言(うわごと)を言うという点だけが、通常の疾患とは異なるだけである、の意。だから、狐憑きはそれらと判別が難しい、というのである。]。

昔物語 伊良子清白 (附 清白(伊良子清白)「柑子の歌」初出形推定復元)

 

昔 物 語

 

花橘(はなたちばな)の香をかげば

昔めかしき紋所

築地(ついぢ)の瓦古寺に

藤原の繪卷ありやなし

 

落花をふみてとひよるに

今をさかりの深見草(ふかみぐさ)

傘を立てたる振舞は

心憎くも見えにけり

 

九十九(つくも)に近き枯尼(かれあま)の

草を毮(むし)りてありけるが

春暮れ方の絲遊(いという)に

まぎれも入らん風情(ふぜい)なり

 

市の子ならぬ髮形

高貴の姬のあらはれて

﨟(らふ)たき姿輩(ともがら)の

若き心を壓したり

 

五月(さつき)の沼の苅菰(かりごも)と

亂れし時世の事なれば

都を避けて里住みの

やんごとなきもおはしけむ

 

今其寺は跡もなく

わらびに添へて嵯峨人の

うまれをほこる筍(たかんな)の

名所となりて候ひぬ

 

[やぶちゃん注:初出は明治三六(一九〇三)年五月発行の『文庫』であるが、そこでは総標題(校異の解説から推定)を「柑子の歌」とし、その中に本「昔物語」を含めた二部(同前の推定)一篇として構成されたものであった。署名は「清白」。その「柑子の歌」の部分を独立させたものが前に電子化した「柑子の歌」である。

「深見草」ここでは、ユキノシタ目ボタン科ボタン属ボタン Paeonia suffruticosa のこと。

「絲遊(いという)」ルビ表記はママ。「陽炎(かげろう)」の古い異名 。小学館「大辞泉」によれば、『語源未詳で、歴史的仮名遣いを「いとゆふ」とするのは、平安時代以来の慣用』とし、さらに本語は、『晩秋の晴天の日にクモが糸を吐きながら空中を飛び、その糸が光に屈折してゆらゆらと光って見える現象が原義で、漢詩にいう遊糸もそれであるという』とある。

 前の「柑子の歌」も含めた完全初出形は以下。底本校異に従い復元したが、標題「柑子の歌」及び「昔物語」の配置位置が校異では分らないので、差別化するために、相互の題の位置とポイントを意図的に変えておいた。実際にはこうではない可能性が高いので注意されたい。

   *

 

柑子の歌

 

媼(おうな)市路(いちぢ)に鬻ぎよる

手藍(てかご)のこのみ手にとれば

千重の敷浪(しきなみ)末遠く

こは常春(とこはる)の百濟物

 

一日柑子(かうじ)の山に入り

草のふき屋に摘みためし

年のみのりに驚きて

南の國の富を見き

 

霜月鯨(いさな)よりそめて

湊々(みなとみなと)の潮高く

曉闇(くら)き荒灘を

みだれて浮ぶ寶船

 

花の都の商人(あきびと)が

千函(ちばこ)の玉を開きては

巷に糶を競(きそ)ふ時

山はみのりに輝かん

 

色と彩(あや)との天(てん)にして

染むるこのみを見渡せば

霞かぎらふ南(みんなみ)の

黃金(こがね)の國は冬もなし

 

直(たゞ)さす日影美しき

光や凝(こ)りて實(みの)るなる

陰ほの白くうなゐらが

柑子採るてふ紀路の山

 

  昔 物 語

 

花橘(はなたちばな)の香をかげば

昔幽しき紋所

築地くずれし古寺に

小町の繪卷ありやなし

 

落花をふみてとひよるに

今をさかりの深見草(ふかみぐさ)

傘を立てたる振舞は

心憎くも見えにけり

 

九十九(つくも)に近き枯尼(かれあま)の

草を挘りて候が

春暮れ方の絲遊(いという)に

まぎれも入らん風情(ふぜい)なり

 

市の子ならぬ髮形

高貴の姬のあらはれて

﨟(らふ)たき姿輩(ともがら)の

若き心を壓したり

 

五月(さつき)の沼の苅菰(かりごも)と

亂れし時の事なれば

都を避けて里住みの

やんごとなきもおはしけむ

 

今其寺は跡もなく

わらびにそへて嵯峨人の

產(うまれ)をほこる筍(たかんな)の

名所と成りて候ひぬ

 

   *

 初出の「柑子の歌」の「糶」は恐らく「せり」と訓じている。この漢字は原義は「うりよね」「だしよね」で「売りに出す米」又は「穀物を売り出すこと」の意であるが、ここはそこから派生した広義の問屋や市での「競(せり)」「競売(せりうり)」で、その声の意である。また、「うなゐ」は「髫」「髫髪」で、元は「項 (うな) 居 (ゐ) 」の意かと推定され、昔、七、八歳の童児の髪を項(うなじ)の辺りで結んで垂らさせた髪型或いは女児の髪を襟首の附近で切り下げておいた「うない髪」のことで、本来は転じて「幼女」を指すが、ここはその上限を遙かに延ばした少女・乙女・処女の謂いで用いている。

 同じく初出の「昔物語」の「幽しき」は「かそけし」と読む。]

柑子の歌 伊良子清白

 

柑子の歌

 

媼(おうな)市路(いちぢ)に鬻(ひさぎ)ぎよぶ

手藍(てかご)のこのみ手にとれば

千重の敷浪(しきなみ)末遠く

こは常春(とこはる)のくだらもの

 

一日柑子(かうじ)の山に入り

草の葺屋に摘みためし

年のみのりに驚きて

南の國の富を見き

 

霜月勇魚(いさな)よりそめて

湊々(みなとみなと)の潮高く

曉闇(くら)き荒灘を

みだれてはしる柑子船

 

花のみやこの商人(あきびと)が

千函(ちばこ)の寶開きては

年の設(まうけ)を競(きそ)ふ時

山のみのりは戶に入らん

 

色と彩(あや)との天(てん)にして

染むるこのみを見渡せば

霞かぎらふ南(みんなみ)の

黃金(こがね)の國は冬もなし

 

直刺(たださ)す日影美しき

光や凝(こ)りて實(みの)るなる

陰ほの白くをとめらが

柑子採るてふ紀路の山

 

[やぶちゃん注:初出は明治三六(一九〇三)年五月発行の『文庫』であるが(署名「清白」)、そこでは総標題(校異の解説から推定)を本篇と同じ「柑子の歌」とし、その中に次に電子化する「昔物語」を含めた二部(同前の推定)一篇として構成されたものであった。その「柑子の歌」の部分を独立させたものが本篇であるらしい。初出形は次の「昔物語」の注で復元する

「柑子」読みは「かうじ」(こうじ)で、バラ亜綱ムクロジ目ミカン科ミカン亜科ミカン属 Citrus の通称であり、ここは時代幻想であるから、そのレベル或いはお馴染みのキシュウミカン Citrus kinokuni などをイメージして良いとは思う。但し、次注を必ず参照されたい。

「くだらもの」「百濟物」(初出表記)であるが、百済からミカンの大本(おおもと)の原種が渡来したとか、或いは読者である我々に「百済」国が「常春の」「南の國」とイメージされるか、と問われれば、首を傾げざるを得ない。さればこの「くだらもの」の「くだら」とは海の彼方の「南の國」で「常春の」パラダイスとして漠然と意識された「無何有の郷」「ユートピア」という言い換えとして捉えた方がよいように初読時には私は思った。しかし、調べてみると、ミカンの内、本邦に古くから自生している本邦の柑橘類固有種であるミカン属タチバナ(橘)Citrus tachibana の近縁種にコウライタチバナ(高麗橘)Citrus nipponokoreana が存在し、山口県萩市と韓国の済州島にのみ自生していること(萩市の自生群は絶滅危惧IA類に指定されて国天然記念物)、済州島は耽羅国という独立国であったが、四世紀頃には百済に朝貢しており、十五世紀初頭頃までは事実上の独立的在地支配層は健在であって(李氏朝鮮王朝に入って、全羅道に組み込まれ、後には流刑地の一つとなってしまう)、済州島を古えの邦人が「百済」と認識することには不審感はないこと、さらに済州島は対馬海流の影響を受けて、大陸性気候で冬の寒さが厳しい韓国の中では最も気候が温暖であり、事実、その暖かさをを利用して韓国で唯一のミカンの産地となっていること(この部分はウィキの「済州島」に記載がある)を考えると、済州島=百済=「常春の」「南の國」と認識することには何ら無理がないと私は思うのである。因みに、本邦の最も古い柑橘類の記載(推定同定)は、ウィキの「ウンシュウミカン」の「ミカンの歴史」によれば、「古事記」及び「日本書紀」で、『「垂仁天皇の命を受け』て『常世の国に遣わされた田道間守』(たじまもり)『が非時香菓(ときじくのかくのみ)の実と枝を持ち帰った(中略)非時香菓とは今の橘である」(『「日本書紀」の『訳)との記述がある。ここでの「橘」は』、『タチバナであるともダイダイ』(ミカン属ダイダイ Citrus aurantium)『であるとも小ミカン(キシュウミカン)であるとも言われており、定かではない』ともある。この常世の国が済州島であったとしても私には全く違和感がないのである。反論のある方は、受けて立つ。]

2019/04/12

柳田國男 山島民譚集 原文・訓読・附オリジナル注「馬蹄石」(8) 「馬ニ騎リテ天降ル神」(3)

 

《原文》

 蓋シ都鄙多クノ神體ノ製作ハ比較的後代ノモノナリトスルモ、其形狀特性ノ如キハ漫然タル空想ニ由リテ新タニ之ヲ附加セシモノニハ非ズシテ、ヤハリ神ノ示現ニ關スル當初ノ歷史ヲ表ハサント力メシモノナラン。【神ノ降臨】其證據ニハ神ガ馬ニ騎リテ降臨シタマヒシコトヲ傳說スル場合ニハ、其馬ノ毛モ亦多クハ白ナリ。【神ノ林】前ニ述べタル一二ノ例ノ外ニ、美作苫田郡一宮村大字西田邊ノ駒林ハ、慶雲三年ニ中山神ガ白馬ニ乘リテ來現セラレタル故跡ナリ。二町ヲ隔テヽ上林ト下林トアリ。其年ノ九月二十三日ニ神ハ此林ヨリ五町北ノ霧山ト云フ處ニ入リタマフ云々。林ヲ駒林ト云フコト、竝ビニ例年九月ノ神事ニ白馬ヲ用ヰルハ其爲ナリ〔作陽志〕。新羅ノ大昔ニ蘇伐公ガ白馬ノ林間ニ跪拜スルヲ見テ、卵ニ籠レル赫居世ヲ拾上ゲシト云フ話モ何ト無ク思ヒ合サル。日本ニテモ淸キ林ニハ此類ノ神話多シ。【境塚】伊勢ノ飯南郡川俣谷、即チ今日ノ宮前村大字作瀧(サクダキ)ニテハ、村ノ境ニ祓塚(ハラヒヅカ)アリテ其北ヲ賀瀨川流ル。其川ノ中流ニ立ツ大石ノ上ニ、昔天照大御神白馬ニ騎リテ降リタマヒ、國ノ堺ヲ定メタマヘリト云フ口碑アリ〔勢陽俚諺十〕。此石ハモトハ多分白クシテ馬ノ形ニ似タリシガ故ニ斯ル傳說ヲ生ゼシナルべシ。【石馬】阿波名西郡神領村白桃名(シロモヽミヤウ)ノ一部ヲバ御馬原ト謂ヒ、丹生(ニフ)明神ノ乘捨テラレシト云フ石馬アリ。鞍鐙皆具シテ膝折伏セテ見返リタル形、ヨク見レバ鬣ノ筋マデアリアリトシテ、些シ遠クヨリ望メバ誠ニ生ノ馬ノ通リナリ。此地ハ元ヨリ村ノ山野ナルガ、村人此石ヲ尊崇シテ木草ヲ採ラヌ爲ニ、自然ニ林ヲ爲シテ終ニ石馬ヲ遠望スル能ハズ。【老翁】傳ヘ謂フ昔一人ノ老翁白馬ニ乘リテ此原ノ柴刈男ニ現ハレ、我ハ大和ノ丹生明神ナリ、由アリテ跡ヲ此地ニ垂レ五穀ヲ守ルべシト仰セラレ、乃チ天ニ歸リタマフ。神馬ハ之ニ伴フコト能ハズ、御跡ヲ顧ミツヽ石ト化シタルガ即チ是ナリ〔燈下錄〕。【熊野權現】岩代河沼郡堂島村大字熊野堂(クマンダウ)ノ熊野三社ハ、數多キ奧羽ノ熊野ノ中ニテモ殊ニ有難キ神ナリ。八幡太郞義家戰捷ヲ祈ル爲ニ建立セシ社ナリト傳フ。【駒形】其折ニ愛馬ノ連錢葦毛ヲ奉納シテ神馬トシ之ヲ駒形原ニ放牧ス。此葦毛ハ後ニ天ニ昇リ雲中ニ嘶クコト七日、仍テ之ヲ馬頭觀音ト祀リ、更ニ此原ニモ右ノ三社ヲ勸請ス。【三寶荒神】今ノ耶麻郡鹽川村ノ三寶荒神社ハ即チ是ナリト云フ〔新編會津風土記所引緣起〕。三寶荒神ハ竃ノ神ナリ。馬ト竈トノ關係アルコトハ前ニモ一タビ之ヲ述ブ。後段ニモ猶詳カニ攻究セント欲スル所ナリ。

 

《訓読》

 蓋し、都鄙、多くの神體の製作は、比較的、後代のものなりとするも、其の形狀・特性のごときは、漫然たる空想に由りて新たに之れを附加せしものには非ずして、やはり、神の示現(じげん)に關する當初の歷史を表はさんと力(つと)めしものならん。【神の降臨】其の證據には、神が馬に騎りて降臨したまひしことを傳說する場合には、其の馬の毛も亦、多くは白なり。【神の林】前に述べたる一二の例の外に、美作(みまさか)苫田(とまた)郡一宮(いちのみや)村大字西田邊(にしたなべ)の駒林は、慶雲三年[やぶちゃん注:七〇六年。]に中山神が白馬に乘りて來現(らいげん)せられたる故跡なり。二町を隔てゝ上林と下林とあり。其の年の九月二十三日に、神は此の林より五町北の霧山と云ふ處に入りたまふ云々。林を駒林と云ふこと、竝びに例年九月の神事に白馬を用ゐるは其の爲なり〔「作陽志」〕。新羅の大昔に、蘇伐公(そばつこう)が白馬の林間に跪拜(きはい)するを見て、卵に籠(こも)れる赫居世(かくきよせい)を拾ひ上げしと云ふ話も、何と無く思ひ合さる。日本にても、淸き林には此の類ひの神話、多し。【境塚(さかひづか)】伊勢の飯南(いひなん)郡川俣谷、即ち、今日の宮前村大字作瀧(さくだき)にては、村の境に祓塚(はらひづか)ありて、其の北を、賀瀨川、流る。其の川の中流に立つ大石の上に、昔、天照大御神(あまてらすおほみかみ)、白馬に騎りて降りたまひ、國の堺を定めたまへりと云ふ口碑あり〔「勢陽俚諺」十〕。此の石は、もとは、多分、白くして、馬の形に似たりしが故に斯(かか)る傳說を生ぜしなるべし。【石馬】阿波名西(みやうさい)郡神領村(じんりやうそん)白桃名(しろもゝみやう)の一部をば「御馬原」と謂ひ、丹生(にふ)明神の乘り捨てられしと云ふ石馬あり。鞍・鐙(あぶみ)、皆、具して、膝、折り伏せて見返りたる形、よく見れば鬣(たてがみ)の筋までありありとして、些(すこ)し遠くより望めば、誠に生(なま)の馬の通りなり。此の地は、元より村の山野なるが、村人、此の石を尊崇して、木草(きくさ)を採らぬ爲めに、自然に林を爲して、終に石馬を遠望する能はず。【老翁】傳へ謂ふ、昔、一人の老翁、白馬に乘りて此の原の柴刈男(しばかりをとこ)に現はれ、「我は大和の丹生明神なり、由ありて、跡を此の地に垂れ、五穀を守るべし」と仰せられ、乃(すなは)ち、天に歸りたまふ。神馬は之れに伴ふこと能はず、御跡(みあと)を顧みつゝ、石と化したるが、即ち、是れなり〔「燈下錄」〕。【熊野權現】岩代河沼(かはぬま)郡堂島村大字熊野堂(くまんだう)の熊野三社は、數多き奧羽の熊野の中にても、殊に有り難き神なり。八幡太郞義家、戰捷(せんせふ)[やぶちゃん注:戦勝に同じい。]を祈る爲めに建立せし社なりと傳ふ。【駒形】其の折りに、愛馬の連錢葦毛(れんせ(ぜ)んあしげ)[やぶちゃん注:葦毛に銭を並べたような灰白色のまだら模様のあるもの。グーグル画像検索「連銭葦毛」をリンクさせておく。]を奉納して神馬とし、之れを「駒形原」に放牧す。此の葦毛は後に天に昇り、雲中に嘶(いなな)くこと七日、仍(より)て之れを馬頭觀音と祀り、更に、此の原にも右の三社を勸請す。【三寶荒神】今の耶麻(やま)郡鹽川村の三寶荒神社は、即ち、是れなりと云ふ〔「新編會津風土記」所引「緣起」〕。三寶荒神は竃(かまど)の神なり。馬と竈との關係あることは前にも一たび之れを述ぶ。後段にも猶ほ、詳らかに攻究せんと欲する所なり。

[やぶちゃん注:「美作(みまさか)苫田(とまた)郡一宮(いちのみや)村大字西田邊(にしたなべ)の駒林」岡山県津山市西田辺(グーグル・マップ・データ。以下同じ)。「駒林」は現認出来ない。

「中山神」現在は「なかやま」と呼ばれるが、昔は「ちうさん」であったらしい。前の西田辺の南西近くの、現在の岡山県津山市東一宮に美作國一之宮中山神社があるが、これはサイト「玄松子の記憶」の同神社の記載によれば、『備前と備中の堺の山』である『吉備の中山から勧請したもので、美作国が備前国から分立した和銅六(七一三)年四月三日に創立されたらしい。但し、社伝では慶雲四(七〇七)年『四月三日の創祀とされている』。『吉備の中山には、備中一宮の吉備津神社と備前一宮の吉備津彦神社がある』とされ、さらに、『チウサンの音読みに関して、中国『山海経』に登場する鉄の国・中山経の影響とする説がある』。『祭神は、現在、鏡作神とされているが、金山彦命とする説もあり、産鉄の神である』とする。加えて興味深いことに、「今昔物語」や「宇治拾遺物語」に『「中山の猿神」として登場する猿神社は、境内の後方』五十メートル『の岩の上にあり、崇敬者の奉納した赤い猿の縫ぐるみが多く祀られている』。『昔、中山の猿神に、娘の生贄を捧げていたが、ある猟師が、犬をけしかけ、この猿を殺してしまった。その時、猿神が宮司に神がかり、

「今後、生贄を止める」と誓ったという』とあるのである。猿である。柳田國男の本書での考証と関係があるかどうかは分らぬが、「馬」と「猿」の親和性の強さが窺える話ではないか。

「上林」位置や読み不詳。「下林」との関係で、「うへばやし」と「しもばやし」と仮に読んでおく。

「霧山」現在の岡山県津山市西田辺霧山であろう。列石・巨石の古代遺跡があることがサイト「遺跡ウォーカー」の「霧山遺跡」(地図有り)で判明。

「蘇伐公(そばつこう)」次注参照。

「卵に籠(こも)れる赫居世(かくきよせい)」赫居世居西干(きょせいかん 紀元前六九年?~紀元後四年)は斯蘆(しろ)国(新羅の初名)の初代の王(在位:紀元前五七年?~四年)。姓を朴、名を赫居世とする。ウィキの「赫居世居西干」によると、「三国史記」の「新羅本紀」に『よれば、辰韓の今の慶州一帯には古朝鮮』『の遺民が山合に住んでおり、楊山村(後の梁部もしくは及梁部)・高墟村(後の沙梁部)・珍支村(後の本彼部)・大樹村(後の漸梁部もしくは牟梁部)・加利村(後の漢祇部)・高耶村(後の習比部)という』六『つの村を作っていた。この六つの村を新羅六部(または辰韓六部』『)と呼ぶ』。『楊山の麓の蘿井(慶州市塔里に比定される)の林で、馬が跪いて嘶いていることに気がついた高墟村の長の蘇伐都利(ソボルトリ)』(これが「蘇伐公(そばつこう)」である)『がその場所に行くと、馬が消えてあとには大きい卵があった。その卵を割ると』、『中から男の子が出てきた』『ので、村長たちはこれを育てた』、十『歳を過ぎるころには人となりが優れていたので、出生が神がかりでもあったために』六『村の長は彼を推戴して王とした。このとき赫居世は』十三『歳であり、前漢の五鳳元年(前』五七『年)のことという。即位するとともに居西干と名乗り、国号を徐那伐(ソナボル)といった。王となって』五『年、閼英井の傍に現れた龍(娑蘇夫人)の左脇(』「三国史記」では右脇とする『)から幼女が生まれた。娑蘇夫人がこれを神異に感じて、育て上げて井戸の名にちなんで閼英と名づけた。成長して人徳を備え、容姿も優れていたので、赫居世は彼女を王妃に迎え入れた。閼英夫人は行いが正しく、よく内助の功に努めたので、人々は赫居世と閼英夫人とを二聖と称した』。「三国遺事」の「王暦」「新羅始祖赫居世」の『条の伝える建国神話は、骨子は』「三国史記」と『同じであるが』、『細部に違いがみられ』、『天から降りてきた』六『村の長が有徳の王を求めて評議していたところ、霊気が蘿井の麓に下ったので見に行った。白馬が跪いている様が伺えたが、そこには紫(青色)の卵があっただけで、馬は人の姿を見ると嘶いて天に昇った。卵を割ってみると中から男の子が現れ出て、その容姿は優れていた。村長たちは男の子を沐浴させると、体の中から光が出てきた。鳥や獣は舞い踊り、地は震え、日月の光は清らかであった。このことに因んで赫居世王と名づけ、居瑟邯』『(きょしつかん、コスルガム)と号した。王となったとき赫居世は』十三『歳であり、同時に同じく神秘的な出生をした閼英を王妃とし、国号を徐羅伐(ソラボル)・徐伐(ソボル)』『とした。国号についてはあるいは斯羅(シラ)・斯盧(シロ』『)ともいう』。「三国遺事」や「三国遺事」に『よると、中国の王室の娘娑蘇夫人が、夫がいないのに妊娠したので海を渡り、中国から辰韓にたどり着き、赫居世居西干とその妃閼英夫人を生んだ』。『在位』六十一『年にして』『死去し、虵陵に葬られたという』「三国遺事」に『よれば、赫居世が死んで昇天して』七『日後に、遺体が地に落ちてバラバラになった。国人がこれを集めて葬ろうとしたが』、『大虵(大蛇)に阻まれたのでバラバラとなった五体をそれぞれに葬って五つの陵とした。そのために王陵を虵陵という』。『赫は朴と同音(パルク)で新羅語の光明の意、居世は吉支(キシ=王)と同音として、光明王(もしくは聖王)の意味とする説、「赫」は辰韓の語で瓠の意味とする説、「赫居」と日本語のヒコ(日子)やホコ(矛)との関係をみる説等がある』、「三国遺事」の『指定する訓によれば』、『「世」の字は「内」と読み「赫居世」は世の中を照らす意味という』。「三国遺事」に『よれば、生まれ出た卵が瓠(ひさご)の様な大きさだったため、辰韓の語で瓠を意味する「バク」を姓としたという。そのため、同時期に新羅の宰相を務め、瓠を腰にぶら下げて海を渡ってきたことから瓠公(ホゴン)と称された倭人と同定する、またはその同族とする説がある』。『また』、『赫居世の名の頭音「赫居」または「赫」が同音であるため』、『そのまま「朴」になったとも考えられている』とある。人の起原や昔話の古形(例えば「かくや姫」等)には卵生説話は洋の東西を問わず、かなり見られるものである。

「伊勢の飯南(いひなん)郡川俣谷」「今日の宮前村大字作瀧(さくだき)」現在の三重県松阪(まつさか)市飯高町(いいたかちょう)作滝(さくだき)

「祓塚(はらひづか)」久保憲一氏のブログ「私、水廼舎學人です」の「榊塚(お祓塚)」によって現存することが判った。それによれば、国道百六十六『号線、旧作滝村と旧赤桶村の境界に「立て道」が通っています』。『この道の延長線上に「お祓塚」と呼ばれる塚があります』(『他にもう一つ』、『「お休み塚」という塚もあります』)。『そのまた延長線上の川中に』、『国分け伝説の「礫(つぶて)石」があるのです』。『これらを結ぶ線が昔々伊勢神宮領と大和領間の国境だったのです』。『おそらくこのお祓塚でお祓いをして神宮領と大和領を行き来したのでしょう』。『この辺一帯は「久保切」と言い、私の先祖が住んでいたとも言われています』。『亡父は此処から多くの土器やヤジリを収集しました』。『今この一帯は縄文遺跡「宮の東遺跡」とも呼ばれています』。『この「お祓塚」は別名「榊塚」とも言われており、どうやら明治の末頃まで榊の大木が繁っていたそうです』。『もはや榊の木はなく、茶の木が塚を覆っています』。さても『「榊」の語源は「逆木」であった、というお話』があり、『柳田國男「日本の伝説」(昭和』一五(一九四〇)年三國書房刊)『によると』、三十『年ほど前までは、この男石(礫石のこと)の近くに、古い大きな榊の木が、神に祀られてありました』。『伊勢の神様が神馬に乗り、榊の枝を鞭にしておいでになつたのを、ちよつと地に挿して置かれたものが、そのまま成長して大木になつた』。『それ故に枝はことごとく下の方を向いて伸びてゐるといひました』。『この木を「さかき」といふのも、逆木の意味で、ここがはじまりであつたと土地の人はいつております』とある。地図上では恐らくこの附近に存在するものと思われる(「礫石」の表示と画像有り)。

「賀瀨川」不詳、不審。作滝地区の北を流れるのは櫛田川であり、この名は倭姫命が櫛を落としたことに由来する古名で、「賀瀨川」という別名は持たない模様である。支流の名か? 「勢陽俚諺」の十巻を見ればいいのであろうが、三箇所の画像データは検索が出来ず、探すのにあまりに時間がかかるので諦めた。悪しからず。

「石馬」「いしうま」か「せきば」か読みに迷う。

「阿波名西(みやうさい)郡神領村(じんりやうそん)白桃名(しろもゝみやう)」awa-otoko 氏のブログ「awa-otoko’s blog」の「大宜都比売命の御馬石(神山町 神領)」に、『古より神石として尊信せるのみならず、その古伝と能く符号せるを見れば、即ち大宜都比売命』(おおげつひめ:伊耶那岐・伊耶那美の子で、素戔嗚尊に惨殺された食物神の女神)『の来臨の霊地にして、阿波の国 開開闢の原地と考えられるべし』という前置きの後、『神山町神領』『上一宮大粟神社から南にある丹生というところに神代から伝わっている「御馬石」というものがあります』。『口碑によると』、『神代の昔、大宜都比売命が粟の国へ御来臨の時の遺跡で、即ち大神の乗用にあてられた神馬が化して石になったものと言い伝えられ、俗に御馬と称えて尊信されているのであります』。『この御馬石は昔より阿波に伝わる数々の文献に記載され、多くの参拝者があったと伝わります』。『●「丹生内有石、形似臥馬、名馬石。」(阿波志)』。『●「名西郡神領村の内白桃といふところに、馬石あり、其形は、彫りなせる馬の如し。大きさ常體の馬ほどなり。色は、薄黒く、河原毛に類す。尤も、鞍置馬にて、手綱まで粲にて、野中に乗り捨てたる形なり。」(阿州奇事雑話)』。『●「御馬石は、名西郡神領村御馬原といふところにあり、鞍鐙など、皆具して、膝を折り、伏し、見かへりたる形、少し遠ざけ見れば、誠に生けるかと疑はる。此所、野原ありしを、神石をかしこみて、木草を刈らず、自ら林をなし、遠方より今は見えざりし。即ち、近くに見るに、馬石の自然にして独座せり、首尾、鬣すぢなど妙なり。」(燈火録)』。『●「當村丹生内山へ大神御出あらせられる。(中略)其節、御馬に召され、候處、折節天火(をりふしてんか)にて、頻りに御馬近く山焼け来り、候に付、御召馬を石となし給ひける』。『今、其名馬の姿に相顕はれ、これを御馬石と申し、唯今、舊跡に御座候云々。」(上一宮大粟神社 神官 阿部氏に伝わる舊記)』と引用され、『このように数々の文献に記されていた御馬石に興味が湧くのは私にとって必然。阿波開闢の地をこの目で実際に見てみようと現地の方に聞きこみを開始致しました』とあって、苦心惨憺の末、遂に! 山中に、その御馬石(ポニーのような石がある!)を発見されるに至る過程が、写真附きで記されてあるのである! 必見!!! 位置としては現在の徳島県名西郡神山町(かみやまちょう)のこの附近であろうかと思われる。

「丹生(にふ)明神」「播磨国風土記」逸文に見える神で、和歌山県かつらぎ町の丹生都比売(にうつひめ)神社の祭神。丹生都比売神・爾保都比売命(にほつひめのみこと)とも呼ぶ。伊耶那岐の娘とも、天照大神の妹ともされる。水銀産出に関わる神で、高野山の地主神として高野明神とともに祀られるているという。但し、前注引用の大宜都比売とは異なる神である。

「岩代河沼郡堂島村大字熊野堂(くまんだう)の熊野三社」現在の福島県会津若松市河東町(かわひがしまち)熊野堂(くまのどう)村内甲(むらうちこう)にある熊野神社であろう。

「駒形原」「耶麻(やま)郡鹽川村」自信はないが、或いは候補地の一つは福島県喜多方市塩川町新江木字駒形附近(ここはYahoo!地図データ)ではないか?  但し、「三寶荒神社」らしきものは現認出来ない。]

和漢三才圖會卷第三十八 獸類 風貍(かぜたぬき) (モデル動物:ヒヨケザル)

Kazedanuki

 

 

 

かぜたぬき 風母  平猴

      風生獸 狤※

風貍

      【和名加世太奴木】

フヲンリイ

[やぶちゃん注:「※」=「犭」+「屈」。]

 

本綱風狸大如貍如獺其狀如猿猴而小其目赤其尾短

如無其色青黃而黒其文如豹或云一身無毛惟自鼻至

尾一道有青毛廣寸計長三四分其尿如乳汁其性食蜘

蛛亦啖薰陸香晝則蜷伏不動如螬夜則因風騰躍其捷

越巖過樹如鳥飛空中人網得之見人則如羞而叩頭乞

憐之態人撾擊之倐然死矣以口向風須臾復活惟碎其

骨破其腦乃死一云刀斫不入火焚不焦打之如皮囊雖

鐵擊其頭破得風復起惟用石菖蒲塞其鼻卽死也

△按風狸嶺南山林中多有而未聞在于本朝

 

 

かぜたぬき 風母  平猴〔(へいこう)〕

      風生獸 狤※〔(きつくつ)〕

風貍

      【和名「加世太奴木」。】

フヲンリイ

[やぶちゃん注:「※」=「犭」+「屈」。]

 

「本綱」、風狸は大いさ、貍のごとく、獺〔(かはうそ)〕のごとし。其の狀、猿猴のごとくにして、小さく、其の目、赤く、其の尾、短く、無きがごとし。其の色、青黃にして黒し。其の文、豹のごとく、或いは云ふ、「一身に毛無く、惟だ鼻より尾に至り、一道、青き毛、有り」〔と〕。廣さ、寸計り、長さ、三、四分。其の尿〔(ゆばり)〕、乳汁のごとく、其の性、蜘蛛を食ふ。亦、薰陸香〔(くんりくかう)〕を啖〔(くら)〕ふ。晝(〔ひ〕る)は、則ち、蜷〔(とぐろま)きて〕伏し、動か〔ざること〕螬(すくもむし)のごとく、夜、則ち、風に因りて、騰(のぼ)り躍り、其の捷(はや)きこと、巖〔(いはほ)〕を越へ[やぶちゃん注:ママ。]、樹を過〔(よ)〕ぎり、鳥の空中を飛ぶがごとし。人、網し、之れを得て、〔それ、〕人を見るときは、則ち、羞〔ずるが〕ごとし。而して頭を叩き、憐(あはれ)みを乞ふの態(ありさま)〔を成す〕。人、之れを撾(うちたた)き擊するときは、倐然〔(しゆくぜん)〕として[やぶちゃん注:忽ち。]死す。口を以つて風に向くときは、須臾〔(しゆゆ)〕にして[やぶちゃん注:程無く。]、復た活〔(い)け〕り。惟だ、其の骨を碎き、其の腦を破れば、乃〔(すなは)〕ち、死す。一つに云ふ、「刀〔にて〕斫〔(き)るも、刃、〕入らず、火に焚(た)きて〔も〕焦(こが)れず、之れを打つに、皮囊(〔かは〕ぶくろ)のごとし。鐵にて其の頭を擊ち、破ると雖も、風を得れば、復た起く。惟だ、石菖蒲〔(せきしやうぶ)〕を用ひて其の鼻を塞げば、卽ち、死す」〔と〕。

△按ずるに、風狸、嶺南[やぶちゃん注:中国南部の「五嶺」(南嶺山脈)よりも南の地方の広域総称。現在の広東省・広西チワン族自治区・海南省の全域と湖南省・江西省の一部に相当する。]の山林の中、多く有りて、未だ本朝に在ることを聞かず。

[やぶちゃん注:図の様態からは猿の一種のように見え、記載の一部もそれらしい行動(人に命乞いをするような態度)をとるとするものの、殺しても風が吹けば蘇生し、通常では傷つけることさえも出来ないとあっては、幻獣とする他はないように見えるが、実は現行ではモデル生物として東南アジアの熱帯地方に棲息する「日避猿」(或いは「蝙蝠猿」)と呼ばれる、哺乳綱真主齧上目ヒヨケザル目 Dermoptera のフィリピンヒヨケザル Cynocephalus volans とマレーヒヨケザル Cynocephalus variegatus(以上二種のみが現生種)を同定比定する見解がある(ウィキの「風を見よ)。ウィキの「ヒヨケザル」によれば、『ヒヨケザルの属名 Cynocephalus は、「イヌの頭」という意味のラテン語から来ている。和名で「サル」の語がつくのは、キツネザルに似た頭部の外見による』もので、形態的には食虫類や翼手類に似ており、系統的にも近いとされ、動物学的には現在は狭義の猿の一種とはしない(『以前から知られていた絶滅』した真主齧上目プレシアダピス目 Plesiadapiformes パロモミス科 Paromomyidae『の化石に、ヒヨケザルの手の骨と同様な特徴が発見された。これにより、従来』、『プレシアダピス目に含められていたパロモミス科はヒヨケザルの仲間(皮翼類)に移されたが、同時に、このパロモミス類を含む皮翼類を、従来のような独立した目から格下げしてサル目(霊長目)に含め、直鼻猿亜目・曲鼻猿亜目と並ぶ第』三『の亜目(ヒヨケザル亜目/皮翼亜目)とする説もあった』が、『近年』で『はその説は否定されている』)。『ヒヨケザルは樹上に生息する』、体長約三十五~四十センチメートル、体重一~二キログラムの『ネコくらいの大きさの動物である。体格は細身で、四肢は比較的長く、前脚と後脚がほぼ同じ長さをしている。頭部は小さく、両目が(ヒトを含むサル類と同様)顔の正面に位置しており、遠近感をとらえる能力に優れている。これらの特徴は、木々の間を滑空するのに適したものである』。『ヒヨケザルの最大の特徴は、首から手足、そして尾の先端にかけて、飛膜と呼ばれる膜をもつことである。この飛膜を広げることで』百メートル『以上(最高記録』百三十六メートル『)滑空し、森林の樹から樹へと移動している。飛膜をもつ動物としては、他にもネズミ目(齧歯類)のムササビ、モモンガやフクロネズミ目(有袋類)のフクロモモンガなどが知られているが、いずれも飛膜は前肢と後肢のあいだにあるのみで、首から尾にわたるヒヨケザルのものほど発達した飛膜をもつ動物はほかにいない。コウモリのようにはばたくことはないが、滑空中に尾を動かして後肢と尾の間の飛膜で扇いで推進力を生み』、『滑空距離を伸ばしている』。『また』、『五本の指にも膜があり、指を動かして広げたり縮めたり手首を回したりすることで、空気の抵抗を変え、飛ぶ方向を変えることができる。首周りの三角形状の飛膜は、飛んでいるとき膜のへりに』二『本の渦の流れができる。飛膜が三角形の場合は渦の流れは』四『本になる。背中側に生まれたこの流れが、膜の上の気流を整える。その為スピードが落ちても落下することがない』とされるらしい。『サルのような対向する親指をもたず、力も強くないため、木登りは苦手である。小さく鋭い爪を樹皮に引っ掛けて、ゆっくりと木をよじ登る姿は、ひどく不器用そうに見える。しかし、空中では非常に有能である。高度のロスを最小限に保ちながら、木々の間を滑空する。ヒヨケザルが食べる植物は森中に散らばっている上に、好物の若葉は木の高いところにあるので、滑空は効率的な移動手段であると言える』。『ヒヨケザルは臆病な動物であり、夜行性でもあるため、その生態はほとんど知られていない。草食性であり、よく発達した胃をもつ(中に消化を助けるバクテリアが棲んでいる)ため、木の葉を消化することができる。葉、若芽、花、樹液などを主食としており、恐らく果実も食べていると考えられる。切れ目の入った扁平なクシ状の特殊な形状をした下顎切歯をもつ』『が、この切歯で樹液や果汁などを濾しとって食べる』。『また、同時に毛づくろいにも用いていると考えられている。こうした形状の切歯は、他の哺乳類には例がない』。『ヒヨケザルは特定の寝ぐらを持たないため、子育ての際は、子供を包むように飛膜を広げ』、『世話をする。また、子供が母親の排出する糞を舐めるのは、ここで自らの胃の中のバクテリアを取り込むためである』とある。なお、根岸鎮衛の「耳囊 巻之十 風狸の事」のことでは(リンク先は私の電子化訳注。実はそこで本項は電子化済みなのであるが、今回は全くゼロからやり直してある)、本邦にも風狸がいるとするが、これはモモンガやムササビの誤認であろう(但し、「耳囊」では鳥を捕食するとあるが、孰れも種も鳥は食わない(果実・若枝・樹皮・昆虫が捕食対象)なので要注意)。時珍の叙述の幻想性はヒヨケザルが中国に棲息しないことから、その南方外にいて、猿のようで、しかも皮膜を持っていて飛翔するという伝聞が、さらに奇体な不死的妖獣化を促したものと考えてよかろう。

「薫陸香」呉音で「くんろく(っ)こう」とも読み、「くろく」「なんばんまつやに」などとも呼ばれる。インド・イランなどに産する樹の脂(やに)の一種で、盛夏に砂上に流れ出でて固まり、石のようになったものを指し、香料・薬用とする。乳頭状のものは「乳香」(狭義にはムクロジ目カンラン科ボスウェリア属 Boswelliaの常緑高木から採取されるそれを指す)という(ここまでは主に小学館「日本国語大辞典」に拠る)。なお、平凡社の「世界大百科事典」の「香料」には、インドで加工された種々の樹脂系香料が西方と東アジア、特に中国へ送られ、五~六世紀の中国人は、これを「薫陸香」と称し、インドとペルシアから伝来する樹脂系香料として珍重した旨の記載がある。

「螬(すくもむし)」地中にいる甲虫類の幼虫を指す語であるが、主にコガネムシ類(鞘翅(コウチュウ)目多食(カブトムシ)亜目コガネムシ下目コガネムシ上科コガネムシ科 Scarabaeidae)の幼虫をいう。地虫(じむし)。

「火に焚(た)きて〔も〕焦(こが)れず、之れを打つに、皮囊(〔かは〕ぶくろ)のごとし」この叙述は、あたかも本邦の「竹取物語」にも出る「火鼠の皮袋」ではないか?! しかも、あれは中国伝来と騙られている。無論、実在するそれは鉱物の石綿であるが。

「石菖蒲」単子葉植物綱ショウブ目ショウブ科ショウブ属セキショウ(石菖)Acorus gramineus。常緑多年草で根茎はよく分枝する。葉は根茎上に二列につき、線形で長さ三十~五十センチメートル、中央脈は目立たない。三~五月、花茎を出し、細長い肉穂花序をつける。花茎には、葉と同形の包葉が接続してつく。水辺の岩上や砂礫地に群生し、本邦では本州から九州に植生し、韓国済州島・中国・ベトナム・インドに分布する。]

赤インキ 清白(伊良子清白)

 

赤インキ

 

一日都の町にいで

赤きインキを求めしが

物にまぎれて妹の

玩具(おもちや)の中に忘れけり

 

赤きは魔性(ましやう)、柔らかき

おゆびの先に觸れてより

擅(ほし)いままにも掌(てのひら)の

淸きを染めて憚らず

 

とまる蒼蠅(さばへ)のあとにさへ

玉なす汗は涌くものを

毒ある色の沁(し)みいらば

幼きものは安からじ

 

其子怪しく熱を病み

惱めるさまも見えずして

七歲(ななつ)といふに兒櫻(こざくら)の

花の蕾は萎(しぼ)みけり

 

執(しふ)ねき祟、白妙の

柩衣(かけき)に色を認めしが

兄の犧牲(いけにへ)幼きは

眠るが如く逝きにけり

 

[やぶちゃん注:初出は明治三六(一九〇三)年二月発行の『文庫』であるが(署名は「清白」)、総標題「淡雪」のもとに本原型「赤インク」(本新潮社刊「現代詩人全集 第四巻 伊良子清白集」に収録の際に「赤インキ」と表記を変えた)と先に掲げた「花賣」の二篇を収録している。初出は特に大きな異同を認めないが、思うところあって、以下に掲げる。

   *

 

赤インク

 

一日洛(みやこ)の町に出で

赤きインクを求めしが

物にまぎれて妹の

玩具(おもちや)のなかに忘れけり

 

赤きは魔性、柔き

をゆびの先に觸れてより

擅まゝにも掌(てのひら)の

淸きを染めて憚らず

 

とまる蒼蠅(さばへ)のあとにさへ

玉なす汗は涌くものを

毒ある色の沁(し)みいらば

幼きものは安からじ

 

其子怪しく熱を病み

惱める樣も見えずして

七歲(ななつ)といふに兒櫻(こざくら)の

花の蕾は萎(しぼ)みけり

 

執(しふ)ねき祟、白妙の

柩衣(かけき)に色を認めしが

兄の犧牲、幼きは

眠るが如く逝きにけり

 

   *]

美女 清白(伊良子清白)

 

美 女

 

米(よね)の白きと手弱女(たをやめ)の

白きといづれまさりたる

米は精(しら)げて飯(いひ)となり

飯(いひ)はしらげて人となる

 

米の千町田(ちまちだ)水の花

その水上の月淸く

白き膚(はだへ)の歷々(ありあり)と

物もかけざる立ち姿

 

硏(と)ぎすましたる月の面(おも)

皎々(かうかう)として山を照らし

水のくはし女(め)ただひとり

岩間にはだを洗ふなり

 

うなじただむきゐさらひも

霞流るるししつきの

ただ彫刻(ほりもの)の白はちす

風にたわむがごとくにて

 

水の千筋(ちすぢ)を肩にかけ

月にさらしてまたおとす

水の主(あるじ)のたをやめは

夜ただ流れに身を浸(つ)けて

 

[やぶちゃん注:明治三六(一九〇三)年一月十五日発行の『文庫』初出(署名は「清白」)。
「くはし女(め)」は「麗(くは)し女(め)」「くはし」は「詳し」と同語源で「繊細で微妙に美しい」の意。
「ただむき」は「腕(ただむき)」で、肘から手首までの間の腕(うで)のこと。
「ゐさらひ」は現代仮名遣「いさらい」で漢字表記は「臀・尻」、臀部のこと。
「ししつき」「肉附」で人、特に女性の体の肉の附き具合、「肉づき」のこと。
 初出は以下。後半が大きく異なる。「いゝ」は総てママ。「滸」は「ほとり」と訓じていよう。

   *

美 女

 

米(よね)の白きと手弱女(たをやめ)の

白きといづれまさりたる

米は精(しら)けて飯(いゝ)となり

飯(いゝ)は精(しら)けて人となる

 

千筋の絲の白絲の

水の滸の美女(くはしめ)は

白き膚(はだへ)の歷々(ありあり)と

物もかけざる立姿

 

霞流るゝしゝつきの

玉をのべたる柔はだに

岸の白萩ゆりのはな

と渡る月ぞ映りたる

 

丈なす髮をしぼりつゝ

淸きおもわにふりかへる

美女(びぢよ)のゑまひにさそはれて

いくつ蕾は開くらん

 

深山の奧にすみわたる

月の光はさやかにて

谷の彼方に山猨(やまをとこ)

手を拍つ響幽かなり

 

   *

「山猨(やまをとこ)」の「猨」(音「ヱン」・訓「さる・ましら」)はヒト以外の霊長類の広汎なサル類を総称する語であるが、この「山猨(やまをとこ)」は伊良子清白は恐らく、中国の多分に伝説的な怪猿・妖猿としての山男的な「玃」(カク/やまこ)のことを想定して言っているように思う。詳しくは私の寺島良安の「和漢三才圖會 卷第四十 寓類 恠類」の「玃(やまこ)」を読まれたい。そこに掲げられた図は普通の猿のようにしか見えないが、明に李時珍の「本草綱目」の引用には、『玃は老猴(らうこう)なり。猴に似て大きく、色、蒼黑。能く人行(じんかう)して、善く人・物を攫持(かくじ)し、又、善く顧盼(こへん)す。純牡(ぼ)にして牝無し。善く人の婦女を攝し、偶を爲して子を生む』と引く。外形は猿の老成したもののようであるが、雄しかいない幻獣である。「攫持」は「攫(つか)み持ち取る」(文脈上は「人をさらう」の意で、ここもそれで採ってよいが、「攫」を「人をさらう」という確信犯的意味で当てるのはあくまで国訓である)。「顧盼」(「こはん」と読んでもよい)は「振り返り見る」の意。「善く人の婦女を攝し、偶を爲して子を生む」の「攝」は「摂取」のそれ、「偶を爲す」は「連れ合いとなる」で、「しばしば人間の婦女子を誘拐し、交合をなして、子を孕ませる」の意である。本シークエンスでは手を叩く音だけの出演であるが、なかなか、いい。因みに、ウィキの「玃猿」はそれである。よく纏めてある。そこでは晋の文人葛洪、(二八三年~三四三年)の神仙術の古典「抱朴子」には、八百年生きた獼猴(みこう:現行では一般に哺乳綱獣亜綱霊長目直鼻猿亜目オナガザル科オナガザル亜科マカク属アカゲザル Macaca mulatta を指す)が「猨」となり、さらに五百年生きて「玃猿」になるとあると記す。]

2019/04/11

和漢三才圖會卷第三十八 獸類 貍(たぬき) (タヌキ・ホンドダヌキ)

 

Tanuki

 

 

 

たぬき   野貓 ※1【子】

【音釐】

      【和名太奴木】

リイ

[やぶちゃん注:「※1」=「豸」+「隶」。]

 

本綱狸有數種大小如狐毛雜黃黒有班其足蹯其跡※2

[やぶちゃん注:「※2」=(「凪」-「止」)+(中)「ム」。]

貓貍 如貓而圓頭太尾善竊雞鴨其氣臭肉不可食

虎貍 有班如※3虎而尖頭方口善食蟲鼠果實其肉不

[やぶちゃん注:「※3」=「犭」+「區」。]

 臭可食

九節貍 似虎貍尾有黒白錢文相間其皮可供裘領

五面貍【一名牛尾貍】 南方間有之白靣而尾似牛專上樹木

 食百果冬月極肥其肉藏糟珍品又捕畜之鼠帖伏不

 敢出也

※4【音迅】 似貓貍而極絕小黃班色居澤中食蟲鼠及草根

[やぶちゃん注:「※4」=「犭」+「卂」。]

又靈貓【一名香貍】貍之屬也【見于各條】又登州島上有海貍貍頭而

 魚尾也

狸肉【甘平】治痔及鼠瘻作※5臛不過三頓甚妙【凡食貍可去正脊】

[やぶちゃん注:「※5」=「羹」の「美」を「火」に代えた字体。]

                  寂蓮

 人住まて鐘も音せぬ古寺に狸のみこそ鼓打ちけれ

△按狸有數種而淡黒色背文如八字者名八文字狸皆

 脚短而走不速登樹甚速其穴夏則奧卑下冬則奧高

 上老狸能變化妖恠與狐同常竄土穴出盗食果穀及

 雞鴨與猫同屬故名之野猫或鼓腹自樂謂之狸腹鼓

 或入山家坐爐邊向火乘暖則陰囊埀延廣大於身也

 貍皮可爲鞴

 

 

たぬき   野貓〔(やびやう)〕

      ※1〔(し)〕【子。】

【音、「釐〔(リ)〕」。】

      【和名、「太奴木」。】

リイ

[やぶちゃん注:「※1」=「豸」+「隶」。]

 

「本綱」、狸は數種有り、大小、狐のごとし。毛、黃黒を雜〔(まぢ)〕へ、班〔(まだら)〕有り。其の足、蹯〔(ばん)〕[やぶちゃん注:本字は「足の裏」の意であるが、所謂、掌に相当する、肉球を特徴として、有意に周りと区別出来る部位があることを示す。]あり。其の跡、※2(みづかき)あり[やぶちゃん注:「※2」=(「凪」-「止」)+(中)「ム」。「※2」は「禸」と同字で「獣類、特に狐・狸・穴熊などの足跡」の意であるが、良安のそれは字義としては誤りとは言え、決して違和感がないというか、瓢簞から駒で、生物学的には正鵠を射ているのである。食肉目の指には、通常、鉤爪がついていて、猫の足などに見られる肉球が見られるが、その指間にはまさに蹼(みずかき)のように見える皮膜があるからである。東洋文庫訳は割注で『指の頭』とするが、この漢字自体にはそのような限定的な意味はないから、寧ろ、良安の当て訓の方が腑に落ち、科学的にも正当なのである。]

貓貍〔(びやうり)〕 貓〔(ねこ)〕のごとくにして、圓〔(まろ)〕き頭〔(かしら)〕、太(ふと)き尾。善く雞〔(にはとり)〕・鴨〔(かも)〕を竊〔(ぬす)〕む。其の氣〔(かざ)〕、臭く、肉、食ふべからず。

虎貍 班、有り。※3虎〔(ちよこ)〕[やぶちゃん注:「※3」=「犭」+「區」。中国の伝承上の怪獣(中文辞書に拠る)。大きさは狗(く:犬、或いは熊・虎のなどの子。小形の獣の総称)ほどで、貍(り:この場合はタヌキではなく、山猫の類いを指すようである)のような紋様があるとされる。]のごとくにして、頭、尖(とが)る。方なる口〔にして〕、善く蟲・鼠・果實を食ふ。其の肉、臭からず、食ふべし。

九節貍 虎貍に似て、尾、黒白〔(こくびやく)〕の錢文、有り〔て〕相ひ間(まじ)る。其の皮、裘(かはごろも)の領(えり)[やぶちゃん注:襟。]に供すべし。

五面貍【一名「牛尾貍」。】 南方に間(まゝ)之れ有り。白靣〔(はくめん)〕にして、尾、牛に似たる〔ものにして〕、專ら樹木に上り、百果を食ふ。冬月、極めて肥〔(こや)〕す。其の肉、糟〔(かす)〕に藏〔(つけ)〕て珍品とす。又、之れを捕(とら)へ〔て〕畜(か)ふ〔に〕、鼠、帖〔→怖れ〕伏して敢へて出でざるなり。

※4【音「迅」。】[やぶちゃん注:「※4」=「犭」+「卂」。] 貓貍に似て、極めて絕小〔たり〕。黃〔の〕班色。澤〔の〕中に居りて、蟲・鼠及び草の根を食ふ。

又、靈貓(じやかうねこ)【一名「香貍」。】〔は〕、貍〔(たぬき)〕の屬なり【各條を見よ。】。又、登州島の上に「海貍」有り。貍の頭にして、魚の尾なり。

狸〔の〕肉【甘、平。】 痔及び鼠瘻〔(そろう)〕を治す。※5-臛(にもの)[やぶちゃん注:「※5」=「羹」の「美」を「火」に代えた字体。煮た羹(あつもの)。スープ。]に作〔(な)さば〕、三頓〔(とん)〕に過ぎず〔して〕[やぶちゃん注:三度、服用しただけで。]甚だ妙なり【凡そ、貍を食ふに、正脊〔(せいせき)〕[やぶちゃん注:背骨の部分。]を去るべし。】。

                  寂蓮

 人住まで鐘も音せぬ古寺に狸のみこそ鼓打ちけれ

△按ずるに、狸、數種有りて、淡黒色、背の文「八」の字のごとくなる者、「八文字狸〔(はちもんじだぬき)〕」と名づく。皆、脚、短くして、走ること、速(はや)からず〔→ざるも〕、樹に登ること、甚だ速きなり。其の穴、夏は則ち、奧、卑(ひ)きく下〔(さが)〕り[やぶちゃん注:低く地下に下がっていて。]、冬は則ち、奧、高く上〔(あが)〕る。老〔いたる〕狸、能く變化〔(へんげ)〕して妖恠〔となる〕。〔これ、〕狐と同じ。常に土の穴に竄(かく)れて、出でて、果・穀及び雞・鴨を盗み食ふ。〔これ、〕猫と屬を同じくす。故に之れを「野猫」と〔も〕名づく。或いは、腹を鼓〔(つづみ)〕にして、自ら、樂しむ。之れを「狸の腹鼓」と謂ふ。或いは、山家に入りて、爐邊に坐し、火に向ふ。暖かに〔なるに〕乘ずれば、則ち、陰囊(ふぐり)、埀れ延ばすこと、身より廣大なり。貍の皮、鞴〔(ふいご)〕〔に〕爲〔(つく)〕るべし。

[やぶちゃん注:食肉目イヌ科タヌキ属 タヌキ Nyctereutes procyonoides。本邦のそれは亜種ホンドタヌキ Nyctereutes procyonoides viverrinus で、本州・四国・九州に棲息している固有亜種(佐渡島・壱岐島・屋久島などの島に棲息する本亜種は人為的に移入された個体で、北海道の一部に棲息するエゾタヌキ(Nyctereutes procyonides albusは地理的亜種である。大陸産には幾つかの亜種がいるようではあるが、「本草綱目」の掲げる「貓貍」・「九節貍」・「五面貍」(別名「牛尾貍」)・「※4」(「※4」=「犭」+「卂」)というのは、如何にも記載が怪しく(まあ、貍だから「妖しく」と言い直してもよい)、そうした亜種の中の一種というよりも、何だか全くの別種の獣類のように見受けられる。但し、無論、それらの後注するように、ちゃんと同定したので見られたい。ウィキの「タヌキ」の一部を引く。『湖などの水辺で』も、下生えの『深い環境を好む』。『日本の例では河川や湖・海岸などの周辺にある広葉樹と針葉樹の混交林を好む』。『シベリアの例では河川や小さい湖の周辺にある沼地や草原・藪地・広葉樹林などを好み、タイガは避ける』。『夜行性だが、人間の影響がない環境では昼間でも活動する』。『単独もしくはペアで生活する。ペアは相手が死ぬまで解消されない。行動圏は地域・季節などによって非常に変異が大きい』。五十『ヘクタール程度の行動域をもつが、複数の個体の行動域が重複しているため、特に縄張りというものはもっていないようである。泳ぎはうまく、日本では本土から金華山までの約』七百『メートルを泳いだと考えられる例がある』。『少なくとも日本では高さ』百五十『センチメートルの金網フェンスのよじ登りに成功した報告例がある』。『巣穴は自分で掘るだけでなく、自然に開いた穴やアナグマ類やキツネ類の巣穴も利用し、積み藁や廃屋などの人工物を利用することもある』。『本種には複数の個体が特定の場所に糞をする「ため糞(ふん)」という習性がある』。一『頭のタヌキの行動範囲の中には、約』十『か所の』溜め『糞場があり』、『一晩の餌場巡回で、そのうちの』二、三ヶ『所を使う』。溜め『糞場には、大きいところになると』、直径五十センチメートル、高さ二十センチメートルもの『糞が積もっているという。ため糞は、そのにおいによって、地域の個体同士の情報交換に役立っていると思われる。糞場のことを「ごーや」や「つか」と呼ぶ地方がある』。『死んだふり、寝たふりをするという意味の「たぬき寝入り(擬死)」とよばれる言葉は、猟師が猟銃を撃った』際、『その銃声に驚いてタヌキは弾がかすりもしていないのに気絶してしまい、猟師が獲物をしとめたと思って持ち去ろうと油断すると、タヌキは息を吹き返し』、『そのまま逃げ去っていってしまうというタヌキの非常に臆病な性格からきている』と一般的には言われている。なお、『「タヌキ」という言葉は、この「たぬき寝入り」を「タマヌキ(魂の抜けた状態)」と呼んだのが語源であるという説がある』。『長い剛毛と密生した柔毛の組み合わせで、湿地の茂みの中も自由に行動でき、水生昆虫や魚介類など水生動物も捕食する。足の指の間の皮膜は、泥地の歩行や遊泳など水辺での活動を容易にする』。『温暖な地域に生息する個体に冬眠の習性はないが、秋になると』、『冬に備えて脂肪を蓄え、体重を五十%『ほども増加させる。積雪の多い寒冷地では、冬期に穴ごもりする』『ことが多い。タヌキのずんぐりしたイメージは、冬毛の長い上毛による部分も大きく、夏毛のタヌキは意外にスリムである』。『食性は雑食で、齧歯類、鳥類やその卵、両生類、魚類、昆虫、多足類、甲殻類、軟体動物、動物の死骸、植物の葉、芽、果実、堅果、漿果、種子などを食べる』。『木に登ってカキやビワの果実を食べたり、人家近くで残飯を漁ることもある』。『捕食者はタイリクオオカミ・イヌ・オオヤマネコ・クズリ』(哺乳綱食肉目イタチ科クズリ属クズリ Gulo gulo:別名をクロアナグマとも呼ぶ。私の好きな映画「X-Men」のウルヴァリン(Wolverine:この英名の語源は不詳であるが、一説に「wolver(「wolf」+「er」で「狼のように振る舞う人」或いは「狼狩りをする人」の意)に接尾辞「ing」(「〜に属する」の意)がついて派生したものとも言う)である。中国北部(黒竜江省・内モンゴル自治区・新疆ウイグル自治区)・モンゴル・ロシア・スウェーデン・ノルウェー・フィンランド・カナダ・アメリカ合衆国西部に棲息する)『・イヌワシ・オオワシ・ワシミミズクなどが挙げられる』。『発情期は』一~三月で、一頭の♀に対して三、四頭の♂が『集まり、ペアが形成されると』、『周囲や互いに尿をかけて臭いをつける』。陰茎は♀の膣内で膨張し、『射精するまで抜けなくなり、尻合わせのような姿勢で交尾(交尾結合』『)を行う』。『妊娠期間は』五十九~六十四日で、五~七頭の『幼獣を産むが、最大』、十九『頭の幼獣を産んだ例もある』。『授乳期間は』一ヶ月半から二ヶ月で、生後九~十一ヶ月で『性成熟するが、繁殖を開始するのは生後』二~三『年以降が多い』。『タヌキは人家近くの里山でもたびたび見かけられ、日本では古くから親しまれてきた野生動物である。昔話やことわざにも登場するが、そのわりに、他の動物との識別は、必ずしも明確にはされてこなかった』。タヌキと最も混同され易い動物はアナグマ(食肉目イヌ型亜目クマ下目イタチ小目イタチ上科イタチ科アナグマ属 Meles)『であり、「タヌキ」「ムジナ(貉)」「マミ(猯)」といった異称のうちのいずれが、タヌキやアナグマ、あるいはアナグマと同じイタチ科のテン』(イタチ科イタチ亜科テン属テン Martes melampus)『やジャコウネコ科のハクビシン』(食肉目ネコ型亜目ジャコウネコ科パームシベット亜科ハクビシン(白鼻芯)属ハクビシン Paguma larvata)『のような動物のうちのいずれを指すのかは、地方によっても細かく異なり、注意を要する』。『たとえば、関東周辺の農村部には、今もタヌキを「ムジナ」と呼ぶ地域が多い。山形県の一部には「ホンムジナ」とよぶ地域もあった。栃木県の一部では、「ムジナ」といえばタヌキを指し、逆に「タヌキ」の名がアナグマを指す。タヌキとアナグマを区別せず、一括して「ムジナ」と呼ぶ地域もある。タヌキの背には不明瞭な十字模様があるため、タヌキを「十字ムジナ」ということもある』(本文の「八文字貍」はその系統の呼称)。『その他の地方名として、「アナッポ」、「アナホリ」、「カイネホリ」、「ダンザ」、「トンチボー」、「ハチムジナ」、「バンブク」、「ボーズ」、「マメダ」、「ヨモノ」などがあり、行動、外観、伝承などに基づいた呼び方であろうことが分かる』。『近年、本来の生息地である山林が開発により減少しているため、生ゴミ等食事に困らない都市部への流入が進んでおり、排水溝のような狭いところを住み家にする習性もあって、街中で見かけることも珍しくない』(私も横浜緑ヶ丘高校で、名前ばかりの顧問であったバスケットボール部の合宿中、夜の校内を闊歩する奴(きゃつ)に校長室の真ん前でバッタリ遭遇したことがある。私の完全オリジナル実録怪談集「淵藪志異」の「十」で擬古文化しているので楽しまれたい。一九九九年のことである)。『また、当歳のタヌキは経験不足から自動車の前照灯にすくんでしまう習性があり、交通事故に遭う件数が非常に多い』(私が小学生の頃は私の家の近くを走る県道(藤沢―渡内線)の、山肌が露わになっていた切通しで、何度も轢死体となった彼らを見たものである)。『特に高速道路では事故死する動物の約』四『割を占め、群を抜いて多い』。『このため、タヌキが多く出没する地域の高速道路に於いて、動物の注意を促す標識にタヌキの図案を用いているところが多い。また、高速道路に限らず、地方の民家の少ない道路などでも事故が絶えない。事故に遭わないよう、道路をくぐる動物用トンネルが設置されているところもある』。「狸」という漢字は、本来、ヤマネコ(食肉目ネコ亜目ネコ科ネコ亜科ネコ属ヨーロッパヤマネコ Felis silvestris Prionailurus 属ベンガルヤマネコ Prionailurus bengalensis等を中心とした中型の哺乳獣類を広汎に表わすものであった。しかし、『日本にはごく限られた地域にしかヤマネコ類が生息しないため、中世に入って、「狸」の字を「たぬき」という語(実際にはタヌキやアナグマを指す)に当てるように整理されていったと考えられる』。「本草和名」に『家狸、一名「猫」』と『あるのは』、『中国の用例にならったものだろうが』、実際、「狸」が「山猫(やまねこ)」なら、「家猫(いえねこ)」は確かに「家狸」となる道理ではある。だいたいからして「本草綱目」自体でも先の「和漢三才圖會卷第三十八 獸類 貓(ねこ)(ネコ)」に出たように、「猫」を「家貍」とするのである。『このような混乱が尾を引いたものか』、本「和漢三才図会」では、『逆にタヌキの名として「野猫」』(正確には「野貓」であるが、「貓」は「猫」であるから問題ない)『と記している』と本書をちょっぴり引用している。

「貓貍〔(びやうり)〕」ヤマネコの類か、野犬・野良猫の類であろう。

「虎貍」似ているという対象の「※3虎〔(ちよこ)〕」(「※3」=「犭」+「區」)が幻獣であるから、まともに同定する気になれない。しかし、「頭」が「尖(とが)』っていて、『方なる口』(口辺部が角ばっている)というのは、アナグマ、本邦なら、アナグマ属ニホンアナグマ Meles anakuma に相応しい気はする。但し、「和漢三才図会」はこの後に「貉(むじな)」と、さらに「貒(み)」(まみ)を独立項として立てちゃって呉れているのである。

「九節貍」どうも現行では既に「靈貓(じやかうねこ)(ジャコウネコ)」でちらっと出した、食肉目ネコ型亜目ジャコウネコ科ジャコウネコ属インドジャコウネコViverra zibethaにこの漢名を与えているようである。

「五面貍」「牛尾貍」中文サイトを見ると、宋代の著作には、これを食肉目ネコ型亜目ジャコウネコ科パームシベット亜科ハクビシン属ハクビシン Paguma larvata と同じとするものがあるようである。グーグル画像検索「Paguma larvataを見られたいが、この叙述の形態(白い顔と牛の尾)や食性の内容は、実際のハクビシンの生態とよく一致するのである。

「其の肉、糟〔(かす)〕に藏〔(つけ)〕て珍品とす」ウィキの「ハクビシン」によれば、『中国南部では、広東料理、広西料理、雲南料理、安徽料理などの食材として煮込み料理などに用いられている。独特の臭みがあるため、ニンニク、醤油などを用い、濃厚な味にするのが普通。満漢全席でも中国梨と煮た「梨片果子狸」という料理が出された記録が残っている。日本のハンターによれば、肉はとても美味であるといわれている』とある。糟漬けは臭み抜きの効果がある

「之れを捕(とら)へ〔て〕畜(か)ふ〔に〕、鼠、帖〔→怖れ〕伏して敢へて出でざるなり」ハクビシンの習性の内、夜行性であること、外敵に襲われると肛門腺から臭いのある液を分泌して威嚇すること、食性が雑食性で小動物も対象であること(但し、植物食中心の雑食性であって普段は果実・野菜・種子などを摂餌し、特に果実を好む点で、やはりこの「五面貍」の叙述と一致を見る)また、毎晩同じ通路を辿って侵入するためにハクビシン用の獣道(けものみ)が形成されること等が、明らかに家鼠の類と競合する要素を強く持っているといってよいように思われ、これは私には腑に落ちる。

「※4」「※4」=「犭」+「卂」。中文サイトで、これを「黃鼠狼」とし、食肉目イタチ科イタチ亜科イタチ属チョウセンイタチ Mustela sibirica に同定している記事を見出せたウィキの「チョウセンイタチ」によれば、『中国では』、『その色から』「黄鼬」と呼び、また顔は『ネズミと似て』いて、『尻尾は狼のよう』であるということから、「黄鼠狼」の別名で呼ぶ、とあり、さらに俗名の「黄大仙」は、鼬の直立姿が『道教の修行者』、所謂、『仙人の瞑想や祈り』の姿と『似ているところから名付けられた』とあり、『ユーラシア大陸北部、ヨーロッパ東部、ヒマラヤ北部からシベリアにかけて、中国、朝鮮半島、台湾に広く分布する。日本での天然分布域は対馬だけである。また日本においては、九州、四国、本州中部地方以南、九州周辺のいくつかの島に移入している』。『全身が、やや褐色がかった山吹色の体毛に覆われ』、『額中央部から鼻にかけて濃褐色の斑紋がある』。『ニホンイタチ』(Mustela itatsi)『と比べ、特に雄は大型になり、尾率が』五十%『を越える』。『周辺に農耕地や林が残された住宅地、農村周辺、山麓部にかけて生息する。沢の下流部を除き、あまり山間部に入り込まないことが知られている。大阪市などでは、住宅密集地でも生息している場所がある』。『ネズミ類や鳥類、甲殻類、魚などを食べるが、秋にはカキなどの果実類も食べる。ニホンイタチに比べ、植物質を多く食べる』とある。

「靈貓(じやかうねこ)」「香貍」「貍〔(たぬき)〕の屬なり【各條を見よ。】」先行する「靈貓(じやかうねこ)(ジャコウネコ)」を見られたい。こういう「本草綱目」のダブりの部分をもっとすっきりとカットすべきであると思います! 良安先生!

「登州島」山東半島東部の山東省烟台市が昔の「登州」であるから、その北の渤海中央部に点在する廟島諸島を指すか。

「海貍」「貍の頭にして、魚の尾なり」「海狸」は齧歯目ビーバー形亜目ビーバー科ビーバー属 Castor を指す漢名であるが、ビーバーはご承知の通り、海棲ではなく、淡水に棲息するので、現在は殆んどこの漢字表記は用いられない(現代中国語でも「河狸」である)。また、そもそもがビーバーはヨーロッパと北アメリカにしか棲息しないから、ビーバーではない。「海狸鼠」でカピパラ(私の偏愛動物)に次ぐ巨大鼠であるヌートリア(齧歯(ネズミ)目ヤマアラシ亜目テンジクネズミ上科ヌートリア科ヌートリア属ヌートリア Myocastor coypus)を指しもするが、彼らも南アメリカ原産の淡水棲息種であるから、ヌートリアでもないでは何か? 候補は海生哺乳類に幾らもあるが、山東半島までやってくることが出来るという棲息域の条件、巨大ではないであろう(そう言っていない)ことから見て、私は食肉目アシカ亜目アザラシ科 Phocidae のアザラシ類の内、ハイイロアザラシ属ハイイロアザラシ Halichoerus grypus を最有力同定候補として掲げたい

「鼠瘻(そろう)」頸部にできた腫瘍で、漢方では「瘰癧(るいれき)」と同じで、頸部リンパ節が数珠状に腫れる結核症状の特異型の一つを指す。感染巣から結核菌が運ばれて発生する。現在は結核性頸部リンパ節炎とか頸部リンパ節結核と呼ぶ。

「寂蓮」「人住まで鐘も音せぬ古寺に狸のみこそ鼓打ちけれ」書かれていないが、「夫木和歌抄」の「巻二十七 雑九」に載る寂蓮法師の一首。「日文研」の「和歌データベース」で校合済み。

「老〔いたる〕狸、能く變化〔(へんげ)〕して妖恠〔となる〕」ウィキに「化け狸」もあるが、汎論的で面白みに欠く。私は化け狸気譚がことのほか好きで(特に佐渡の「団三郎狸」は親衛隊レベルで愛している!)、有象無象かなりの量の電子化をしていて、枚挙に遑がない。通読してそこそこ面白く、「命」の団三郎狸の出るものは、「柴田宵曲 續妖異博物館 診療綺譚」であろうが、正直言うと、現地直伝の「佐渡怪談藻鹽草 鶴子の三郎兵衞狸の行列を見し事」同「窪田松慶療治に行事」同「寺田何某怪異に逢ふ事」を読まれんことを切に望む。さてもまた、何よりも哀感を持った名篇は「想山著聞奇集 卷の四」の「古狸、人に化て來る事 幷、非業の死を知て遁れ避ざる事」で、未読の方には、是非、お薦めの逸品である。

ブログ1210000アクセス突破記念 原民喜「華燭」/「沈丁花」 二篇併載

 

[やぶちゃん注:「華燭」は昭和一四(一九三九)年五月号『三田文學』の初出で、後に併載した「沈丁花」は同じ年の翌月の六月号『三田文學』に初出する別々な独立作品であるが、一読されればお判り戴ける通り、内容的に続篇的印象が極めて濃厚なものであるので、特異的に併せて電子化した。

 底本は一九七八年青土社刊原民喜全集「Ⅰ」を用いたが(底本では「拾遺作品集Ⅰ」のパートに配してある)、以上の書誌データや歴史的仮名遣表記で拗音・促音表記がないという事実及び原民喜の幾つかの自筆原稿を独自に電子化してきた私の経験に照らして(彼は戦後の作品でも原稿では歴史的仮名遣と正字体を概ね用いている)、漢字を概ね恣意的に正字化することが、原民喜自身の原稿原型に総体としてより近づくと考え、今までの私のカテゴリ「原民喜」のポリシー通り、そのように恣意的に処理した。但し、「華燭」では底本自体の中で「灯」と「燈」が混在して使用されていることから、それは民喜の区別使用(但し、シチュエーションから見ると、単なる気紛れの書き癖でしかない可能性もある)と捉え、そのままで示した。

 やや読むに戸惑うかも知れない読みや躓く語、及び、作品のモデル背景その他について、オリジナルに挿入割注や後注してある。

 因みに、本篇二篇は現在、ネット上では公開されていないものと思われる。

 本二篇の電子テクストは2006年5月18日のニフティのブログ・アクセス解析開始以来、本ブログが1210000アクセスを突破した記念として公開する。【2019年4月11日 藪野直史】]

 

 華 燭

 

 その前の晚、家の座敷に嫁入道具が運ばれて來た。運んで來た人々や、親類緣者が集まつてざつと酒盛がすむと、てんでに座敷に陳列された品々を見て步き、暫く何の彼のと批評するのであつた。しかし、肝腎な明日もあることだし、あんまり遲くなつてもいけないので、一同は早目に解散した。

 駿二はぐるりと嫁入道具に取圍まれた座敷のまんなかに寢間を敷いてもらつて寢た。灯を消すと隣室の薄明りが緣側の方から洩れて來て、簞笥や長持が茫とした巨大な姿で聳えてゐるので、谷底にでも寢てゐるやうな感じであつた。駿二は酒の醉もあつたが、つとめて落着かうとしてゐたので、やがて大海原へ浮ぶ船のやうな放心狀態で、すやすやと鼾をかきだした。

 ものの一時間も熟睡んだ[やぶちゃん注:「まどろんだ」。]かと思ふと、緣側の方を誰かとんとんと忙しさうに步いてゆく音で眼がさめた。氣がつくと障子の方が大變明るく、隣室には煌々と燈が點されてゐるのだ。何かしめやかなひそひそ話が續いてゐたが、突然、「ワハハそれはその」と、學務課長の木村氏の大聲に變つた。駿二はさつきの連中がまた改めて酒盛をはじめたのだらうと思つて、あまり氣にすまいとした。ところが向の連中はとうとう「駿二、駿二」と襖越しに聲をかけた。「もう一度起きて來て飮めよ」と、兄が呼んでゐるのだつた。それで駿二はめんどくさいとは思つたが寢卷の上に著物を重ねて、のそのそと隣室へ這入つて行つた。

 やはりさつきの連中が女も男も車座になつて、大きな靑磁の皿に並べられた半透明の肉のやうなものを食つてゐるのだつた。銚子が向の壁際へ四五十本林立してゐるところをみると、駿二は何だか凄いやうな氣持がした。「これを食べると溫まるから食べておきなさい」と、母が皿の肉を箸で摘んでくれた。嚙んでみると、何だかぐにやぐにやして味は不明瞭だつた。「駿二さん」と、彼の脇に坐つてゐる彼より大分若い從弟が話しかけた。「一體、あなたはどういふつもりで結婚なんかするのですか」駿二はその男とこの前も父の法事の時やはり隣り合はせて、大變酒豪の上にしつこく絡んで來られて弱つたことがあつたので、「どういふつもりと云つて何も……」と詰つてゐると、相手はすぐに彼の言葉を繼いで、「それ見給へ、何もはつきりした見徹しもないくせに、世間並に結婚なんかする。成程、君は大學は卒業したかもしれんが、現にまだ無職ではないか。經濟的に獨立も出來ない癖に女房なんか抱へ込んでまるきし、人間がなつてはゐない」と、駿二の方へ詰寄つて來る。すると駿二の其向でうつらうつらとしながら聞耳を立ててゐたらしい木村氏が突然、赤く爛れた眼を開いて、「さうだ、さうだ」と相槌を打つた。「さうだ、駿二、貴樣は實にけしからんぞ! 愚圖で、間拔けで、無責任で、まるで零だ!」と、媒酌人の木村氏は今にも彼に飛掛りさうな氣勢を示した。「申譯けありません」と、駿二は誰にといふことなしにぴよこんと頭を下げた。「ワハハ何? 申譯ありませんか。成程なあ、こいつは乙な返答だ。まあまあ、今いぢめるのは少し時機尚早だな。なにしろ明日は芽出度いのだからなあ」すると駿二の姉が妹の方を顧みながら云つた。「ええ、まあまあ、いぢめるのはこれからぽつりぽつりで充分ですよ。何しろ私達だつて身に憶えのあることだし、今度こそは小姑の立場として腹癒[やぶちゃん注:「はらいせ」。]が出來ると思ふと、痛快よ」そして何か蓮葉な表情でお互に意を通じ合つてゐた。駿二は自分の姉妹達が實に變なことを云合つてゐるので呆然としてゐると、「駿二君」と、橫合から聲を掛けられた。さつきは來てゐなかつた筈の三等郵便局長の叔父が羽織袴で控へてゐた。叔父は駿二に盃を勸め、それから、木村氏の方へ向きながら、一人合點な口調で、「何せ、これは芽出度いですな。肉親眷屬合相寄つて、お互にいぢめたり、いぢめられたりしてゆくところに人間が練れて行くといふものでせうな」と頻りに辨じ立てた。見ると木村氏の夫人は木村氏の側で銚子を持つたまま居睡りをしてゐたが、「姐さん、お銚子」と、木村氏に頰をつつかれて、ぽつと腫れぼつたい瞳を開いた。駿二はそのあどけない姿が何だかおでん屋の娘に似てゐるなと思つてゐると、木村氏の夫人は退儀さうに小さなあくびをして、誰彼に酒を注いで廻る。そのうちに室内は轟々と笑聲や放歌や勝手な熱で充滿して來た。今、室の片隅の方では駿二の友達が四五人、一人のマダムを取圍んで何か面白さうにうち興じてゐたが、「あの、どら息子がね今度……」と、一人が話し出すと、「あんな生活力のない男が結婚するかと思ふと俺はまさに憂鬱だ」と、一人は忌々しさうに顏を顰め、「それにしても、あんな野郞のところへ來る女房はさぞ悲慘だらうな」「ええ、それは全く女のひとが可哀相だわ」と、マダムが大溜息をつくと、「義憤に燃えるぞ」と、一人は氣色ばんで起立しかけたが、「まあ待ち給へ」と一人が頤を撫でながら制し、それから低い聲で何か打合はせてゐたが、突然一同はワハハハと痛快さうに笑ひだした。すると、この時まで駿二の脇でぐつたり頭を垂れて睡つてゐた從弟が急にブルブルと醉が覺めたらしく眼を開き、「おい! 何だと! とにかくビール持つて來い!」と、呶鳴り散らした。そのためにあたりの空氣はすつかり白らけて來た。「さあ、これからもう一ぺん花嫁の衣裳でも見せてもらひませう」と、駿二の姉は妹を誘つて立上つた。それをきつかけに人々はみんな坐を立つて、ぞろぞろと隣の座敷の方へ行つた。何時の間にか駿二の寢間はとりかたづけてあつて、座敷は眞晝のやうに明るい電球が點されてゐた。駿二の姉と妹はそこに集まりて來た女達に兢賣の品でも示すやうな調子で、勝手に簞笥の中から衣裳を引張り出して、景氣よく振舞つた。姉は刺繡入りの丸帶を掌に繰展げて、「これはどう。疵ものではありません」と、云ふと皆は面白さうにワハハと笑つた。「でも、その帶の模樣はモラルがないと思ふわ」と、妹は口を插んだが、その言葉は反響を呼ばなかつた。姉は今度は簞笥の戸棚から湯婆を發見した。「おや、おや、まあ、まあ、ゆ、た、ん、ぽ」と、姉は嬉し相に湯婆を搖すぶつてみた。どうも不思議なことにはその湯婆はばちやばちやと音がするのであつた。かういふ發見に刺戟されたためか、今迄ぼんやりと見物してゐた駿二の弟が、今度は單獨で本箱の中を引搔廻した。中學生の弟は一番にアルバムを持出して忙しげにパラパラとめくつてゆく。駿二はその側へ行つて覗き込んだが、同じやうな制服を着た女學生の寫眞はかりが現れ、どれが自分の嫁になる人物なのかわからなかつた。その時まで何といふことなしに、陳列品をこまごまと見て步いてゐた母が、駿二の耳許へ來て、「大槪よく揃つてはゐるが、盥が無いね」と呟いた。駿二は自分の落度のやうにちよつと情ない氣持がした。そこへまた從弟がやつて來て、「ね、ね、君、君、こんなに嫁入仕度ばつかし派手であつても、肝腎かなめの君が素寒貧では何にもならないではないか。この嫁入道具を收めて置くだけの家もない身分では結局、簞笥、長持、下駄箱の類など、ここの家の倉であくびをするばつかしだ。この矛盾を君はてんで氣づかないのか」と難詰して來る。駿二は今更のやうに座敷の品々を見渡したが、何とも返答が出來なかつた。恰度その時、家の老婆が箒を持つて來て、座敷を掃きだした。「さあさあ、何時までもそんなところへ突立つてゐないで、歸つておやすみなさい」と老婆に云はれると、從弟は案外素直に引退がつた。まだ誰か二三人寢呆け顏で簞笥の前に佇んでほそぼそと話してゐたが、それらも何時の間にか自然と姿を消した。そこで駿二は老婆が延べてくれたらしい蒲團の上に、漸く手足を伸して橫はることが出來た。灯はもう消されてあつたが、隣室の薄ら明りがどういふものか少し氣になり、今度は芯からは睡れさうになかつた。それでも眼は自然に塞ぎ、早春の深夜のなまめいた空氣の中にうつらうつらと氣持は遙かになつて行つた。

 暫くすると、突然玄關脇で電話のベルがけたたましく鳴出した。駿二は夜具の下でふと目を見開いたが、皆よく熟睡してゐるためか、ベルは何時までたつても鳴歇まない。とうとう彼はまた寢卷の上に著物を引掛けると、座敷の方から出て行つて受話器をとつた。「もしもし、駿二さんですか」と、受話器は駿二がまだ何とも云はないうちに喋り出した。「一體、あなたは誰です」と、駿二はむつとした聲で訊ねた。「あら、わかんないの、ひどいわ」と、女の聲は浮々してゐる。「名前をおつしやい、名前を」と、彼が焦々して訊ねると、「ハハハ、名前なんか御座いませんよ、わたしはただの女です」さう云つて、ぷつんと電話は切れてしまつた。彼は何だか愚弄された後の味氣なさに暫く悄然と玄關に佇んでゐると、表の戶にどたんと何か突當たる音がした。その瞬間、彼はピクつと背筋に冷感を覺えた。ぢつと聞耳を立ててゐたが、しかし、誰もやつて來る氣配はなかつた。駿二は再び座敷に引戾し[やぶちゃん注:「ひきかへし」と訓じていよう。]、頭からすつぽり夜具を被つて睡つた。

 朝がたふと素晴しい夢をみて駿二は目が覺めた。何だか昨夜は隨分といろんな奇怪があつたやうだつたが、その割りには睡眠も足りてゐた。今日はどうやら天氣も快晴らしく、屋根の方で雀の囀りが聞える。暫くぼんやりと床の中で怠けてゐると、まるで駿二は少年の昔へ還つてゆくやうな氣持がした。枕邊にある昨夜運ばれて來た夥しい嫁入道具を寢た儘眺めてゐるとそれがまた姉の昔の嫁入を想はせた。すると、その時するすると襖が半分開いて、姉の顏が現れたので、駿二はおやと思つた。姉は何時の間にか丸髷を結つてゐて、大層氣張つてゐる容子だつた。姉は駿二がまだ寢てゐるのを何か珍しさうに眺めてゐたが、やがて無言のままその襖を閉ぢた。

 間もなく駿二は着物を着替へて起上つた。洗面所の方へ行くと、そこでは妹がこれも何時の間にか丸髷を結つてゐた。妹は自分の髮恰好に腹が立つらしく、顰面してすぢやりで鬢を修繕してゐたが[やぶちゃん注:「すぢやり」は不詳。或いは「筋」は細い「髪」の意で、「やり」は「遣り」或いは「槍」で、単独一本の簪或いは簪状の髪撫で・髪直しをする道具のことか。識者の御教授を乞う。]、その側では妹婿がいかにも嬉しさうに丸髷の手入れを見物してゐるのだつた。妹婿は駿二を見ると齒を剝出して笑つた。その時、緣側の方から近所に住んでゐる叔母がやつて來たが、駿二にむかつて大きな聲で、「おめでたう」と云つた。駿二はぴよこんと頭を下げた。次いて、今度は玄關の方から郵便局長の叔父夫妻がトランクを提げてやつて來た。叔母同志は早速何か喋り合つて賑々しく着物を着替へたり足袋を穿いたりした。二人の叔母の盛裝が出來上つた頃には、家の内は人々が入替り立替り現れた。遂に木村氏も現れた。木村氏はモーニング姿で駿二に輕く微笑した。從弟も紋附姿でやつて來た。彼は駿二を認めると格式ばつて、「おめでたう」と挨拶した。昨夜とは形勢がまるで變つてゐて、駿二は何とはなしに嬉しいやうな奇妙な感じがした。絕えず家の内が騷然としてゐるので一時間はずんずん過ぎて行つた。姉も妹も叔母達もみんな交互に鏡の前へ行つては熱心に風采を整へてゐた。駿二はそれを手持無沙汰に見物してゐると、兄が側へやつて來て、「おい、おい、婿さん、婿さん、婿さんの支度がまだ出來てゐないぢやないか。早く紋附を着給へ。もう式の時刻が來ぞ[やぶちゃん注:ママ。「來るぞ」の脱字か。]」と急きたてた。そこで駿二は妹に手傳つてもらつて、袴や羽織を着けた。鯱張つた身に着かない感じで扇子などを弄つてゐると、表にはもう自動車がやつて來た。

 一番に兄と義兄と義弟と駿二とが自動車に乘込んだ。自動車は街はづれの公園の中にある神社の方へ對つて[やぶちゃん注:「むかつて」。]走り出した。「まだ時間はありますか」と、義弟が訊ねた。義兄は腕時計をめくつて見せ、「まだ大丈夫」と、大きく頷いた。自動車は橋を渡つて、向うに公園の老樹や靑い小山が見えて來る。路傍や空地に枯草の黃色い日南[やぶちゃん注:「ひなみ」或いは「ひなた」で「日向」のことである。]が出來てゐて、澄んだ空氣の中には何か鋭い線が光つてゐた。やがて自動車は小さな堀の中の石橋を渡り、山麓にある神社の境内で停まつた。四人が地面へ降りると、向の社殿の方には恰度今、式が濟んだらしい他所の二組が屯してゐて、花嫁とおぼしきものと、介錯の女の姿は目立つたが、その他の連中はみな一樣な服裝で、どれが婿なのか遠くから見わけもつかなかつた。駿二達は控所の方へ上り、白い布を掛けたテーブルの前に陣どつた。神社のすぐ後が山の崖になつてゐるので冷えるらしく、義兄は火鉢で掌を炙りながら頻りに寒がつた。そのうちに二臺の自動車が入口の方へ來て停まつた。一臺はシルクハツトの木村氏や山高帽の郵便局長などで、もう一臺は駿二の母や丸髷の姉や妹達であつた。それからまた一臺やつて來たが、今度は駿二の叔母や叔父達であつた。かうして婿の方の人員は既に揃つたらしかつたが、嫁の方の軍勢はまだ一向姿を現さなかつた。さつき式の濟んだ連中が今自動車で歸つて行つた。「遲いなあ」と、木村氏は時計を捻りながら呟いた。すると、自動車が二臺境内に現はれた。皆の眼は一樣にその方角に注いだ。白い衣裳を着て、白い被衣[やぶちゃん注:「かづき」或いは「かつぎ」。]を被つてゐる女と、それに附添ふ黑衣の女がまづ駿二の眼にも這入つた。誰が誰やらわからないながら紋附姿の男女が八九人威勢よく步き、こちらとは反對側の控所の方へ進んで行き、白い被衣を被つた女と介錯はのろのろとその後から步いてゐた。

 もう間もなく式が始まる時刻で、今迄小聲で話し合つてゐた人々も暫し沈默した。駿二は何がなし木村氏の口鬚を眺めた。チツクでよく揃へて尖らせてゐる鬚がいかにも改まつた感じであつた。それから今度は母を眺めた。人中へ出るとのぼせる癖のある母は頻りにハンケチで紋附の膝のあたりを拂つてゐた。廊下の方から足音がして、白い裝束をした男が「どうぞ」と一同へ挨拶した。一同は立上つて、ぞろぞろとその男の後から從いて行つた。板の間の白い布を掛けた二列のテーブルの片方の端へ駿二の席があつた。正面は開け放しになつてゐて、山の崖の一部が見え、岩の中に神棚はしつらへてあつた。何處からともしれず琴の音がして、天井の色紙や榊がさらさらと搖れてゐた。そこは控への間より更に冷々としてゐた。間もなく、白裝束の男に導かれ先頭に白い被衣を被つた女と介琶それ違いて八九人の紋附がぞろぞろと入場して來た。それらの人々は駿二と向ひ合はせのテーブルに着席した。白衣の女は被衣の下に顏を伏せてゐて、薄い被衣が重たさうに見えた。駿二が向のテーブルの男達の顏を見ると、向でも駿二をじろじろと眺めてゐるのだつた。初めて見るやうな顏や、何處かで見たことのあるやうな顏が並んでゐた。神主が現れて、儀式は徐々に進行して行つた。駿二がぼんやりと神主の立居振舞を見てゐると、神主はやがて大きな紙を展げて朗讀しだした。次いて木村氏が誓詞を讀み上げた。それが終つたかと思ふと、緋の袴を穿いた白衣の少女が何か捧げて駿二の前に置いた。それから又何か運んで來た。見ると土器の盃が据ゑてある三方であつた。神主の合圖に從つて、駿二はその上の盃を掌にした。少女は銚子から盃の上にかすかに土器が濕る程度の液體を注いだ。それを駿二が唇にあてて下に置くと、少女は向のテーブルの新婦の方へ持つて行つた。それから再び駿二のところへ持つて來て、また新婦の方へ持つて行つた。漸く土器の持運びが終ると、今度は榊の枝を駿二の前に持つて來た。神主が新郞新婦に起立を命じた。どうなることかと駿二は起立してゐると、神主が號令を掛け、駿二は岩の方の神棚へ對つて、ぴよこんとお叩儀をして席に戾つた。

 儀式はそれからまだ暫く續いた。一段落終つて、席の入替りがあり、又盃が運ばれて來た。兩方の親戚の姓が木村氏によつて、次々に紹介されて行つた。その頃になると、皆の顏もいくらか寬ぎの色が漾ひ、駿二も吻としたやうな氣持だつた。そして式は當然終つたのであつた。

 控への間に引返すと、皆は急に活氣づいて、次に控へてゐる宴會のために動作も浮々して來た。宴會は神社と道路を隔てて向ひ合はせになつてゐる料理屋で行はれるので、皆はてんでにその家の方へ步いて行つた。駿二も兄達に從いて行くと、玄關には下足番が控へてゐて、廊下には火鉢と座布團が一盃並べてあるので、これは大變な盛會らしかつた。控への座敷へ這入ると、そこの部屋には式の時には居なかつた人の顏が段々現れた。近所の人の顏や、駿二が久振りに憶ひ出すやうな顏で狹い部屋は賑はつた。やがて、女中の案内で大廣間の方へ皆は導かれた。

 大廣間の舞臺の脇に金屛風が立てられ、そこに駿二の席があつた。その左右が嫁と母の席らしかつたが、どうしたものかなかなか姿を見せない。それで駿二ひとりがぽつねんと屛風を背にしてその離れ島のやうな坐蒲團の上に坐り、小さな火鉢で掌を炙つてゐると、向の席ではもう笑聲や盃のやりとりが始まつてゐた。見渡せばずらりと並んだ人々の顏が遠くまでぐるりと大廣間を取卷いてゐて、何千ワツトのシヤンデリアが煌々と輝いてゐる。駿二はどうも自分の結婚式にしてはあまり盛大すぎるので稍不安になつて來た。そのうちに舞臺の方では幕が上つて、舞踊が始まり、大廣間は賑はひに滿ちて來た。駿二は自分の前の膳を見下したが、伊勢海老、鯛など贅美を極めた料理も、どうも窮屈で箸がつけられない。すると遙か斜橫の方の席から今迄彼を觀察してゐたらしい叔母連中や姉妹が駿二に聲を掛けて、にこにこ笑ひ出した。「少しはお飮みなさい」と、姉は駿二の方へ盃を運ばせた。駿二が四つの盃を一つ一つ乾してゐると、何時の間にか母がやつて來て、「あんまり飮むといけませんよ」と、注意した。それから母は駿二をしみじみと眺めて、何か云ひたげであつたが、「はじめて主人からきかされる言葉は生涯、身に沁みるものだから、お前も今夜は何か云ふことがあつたら、云ひきかせておやりなさい」と、云ひ殘すと、忙しげに席を立つて何處かへ行つてしまつた。駿二は、それでは一つ何か立派な格言でもないかしら、と思つたが、思ひつかず、それに、前に一度見合ひの席で逢つた時も遂に口もきけなかつた相手に、そもそも今夜は何といつて話を始めたらいいのか頻りと思ひ惑つた。

 暫くすると、駿二の正面に郵便局長の叔父がやつて來てぺつたり坐つた。叔父はもう大分御機嫌らしく、德利をふらつかせながら駿二に盃を勸めた。「飮み給へ、駿二君。なにしろ芽出度い。なあに遠慮はいらん。しつかり勇氣を出して人生を邁進することぢや」と、叔父はひとり合點に頷いては駿二に盃を勸める。すると、その橫に學務課長の木村氏がやつて來てこれまた昨夜以上に矍鑠たる醉顏で、「處世訓を云つてきかせる。先んずれば則ち人を制し後るれば則ち人に制せらる、だ。君のやうに愚圖愚圖してゐると女房にまで侮られるぞ。いいか、結婚は格鬪だ。見給へ、向ふに並んでゐる幾組の夫婦たちだつてみんな火の中、水の中を潛り拔けた猛者だ」と、木村氏もまた駿二を激勵するのであつた。駿二も盃を重ねてゐるうち大分醉つたらしかつたが、見渡せば丸髷の重さうな妹はまだ若かつたが、そこに並んでゐる多くの連中は大槪年寄で、夫婦喧嘩の數を重ねて來たらしい錚錚たる面構へであつた。そのうち今迄、姿を現さなかつた花嫁が駿二の母に連れられて座敷にやつて來ると、一人一人に挨拶して廻つてゐたが、その衣裳がさつきとは變つてゐるので駿二は珍しげに遠くから眺めてゐた。挨拶がすむと花嫁と母はまた、すつと消えて行つたが、間もなく母が駿二のところへやつて來て、手招いた。

 駿二が母の後に從いて廊下を曲り、別の小さな部屋へ行つてみると、そこには花嫁と駿二の姉がぺたんと坐つてゐた。駿二が這入つて行くと、花嫁は橫眼を使つて彼を眺めた。この前見た時より、彼女は大變別嬪のやうに思へた。「それでは、さきに三人で歸つてゐなさい」と、母が云つてゐるうちに、「自動車がまゐりました」と、女中が云つて來た。駿二と花嫁と駿二の姉は並んで自動車に腰掛けた。夜の闇の中に樹木の肌がライトに照らし出されて白く現れた。駿二は側にゐる花嫁をなるべく意識すまいとして先んずれば人を制すを繰返してゐた。

 それから間もなく自動車は駿二の家の前に停まつた。老婆や嫂や中學生の弟達がみんな珍しさうに花嫁を出迎へた。どういふものか駿二の嫁は家へ上つてからも、ぢつと淋しさうに口をきかず俯向いてゐるので、間もなく人々は退散し、駿二と彼女だけが應接室に殘された。大きなテーブルを隔てて、無言のまま腰掛けてゐると、駿二は段々氣まりが惡くなつて來た。早く何とか云はなければ、一生ものが云へなくなるかもしれない。それなのに相手は相變らず眼を伏して、高島田の首を重さうに縮めてゐる。ああして相手はぢつとこちらを觀察してゐるのかもしれないし、腹の中ではもうそろそろ侮りだしたのだらうと、駿二は氣が氣でなかつた。火の中、水の中だと、駿二は自分の踵で自分の足を蹴りながら、

「オイ!」と呶鳴つた。あんまり大きな聲だつたので自分ながら喫驚したが、もうどうなりとなれと思つた。

「君は何といふ名前だ?」

 その瞬間、阿呆なことを聞く奴と腹の中で思つたが、花嫁は默々と顏をあげて彼の方を見るばかりだつた。駿二はまた氣が氣でなかつた。よろしい、それならば格鬪だ。

「オイ!」と、今度は前よりもつと大聲で呶鳴つた。

「何とか云へ! 何とか!」

 花嫁は猶も平然として駿二を眺めてゐたが、やがて紅唇をひらいて、

「なんですか! おたんちん!」

 と、奇妙な一言を發した。

 おたんちん、それは今日はじめて聞く言葉であつて、どういふ意味なのか駿二にはわからなかつたが、ああ、遂に自分はおたんちんといふものなのかなあ、と、駿二はキヨトンとした顏で、怒れる花嫁をうち眺めた。

 

[やぶちゃん注:原民喜は本篇の書かれる六年前の昭和八(一九三三)年三月に貞恵と見合結婚している(但し、実は民喜は少年時代、少女の頃の彼女に逢っている。『吾亦紅 原民喜 (恣意的正字化版) 附やぶちゃん注 「葡萄の朝」』を読まれたい)。]

 

 

 

 沈丁花

 

 三日目に春二は結婚式の時と同じ服裝で、その上にトンビを着て、朝の街を步いてゐた。花嫁は春二の母に連れられて、お禮まはりをしてゐて、それが濟んでから寫眞屋で彼とおちあふことになつてゐた。春二は家を出る時、その寫眞屋が何處にある町かと母にしつこく訊ね、さきに寫眞屋へ行つたら何といつたらいいのかと、そんなこともひとから敎へてもらはねば安心出來なかつた。往來に出てみると、朝日が薄すら照つてゐて、氣持は爽やかになつてゐた。それでずんずんいい加減な方角にむかつて步いてゐると、靑山寫眞館といふ看板がある前を通り越して、暫くして氣がついた。急に春二は硬直した氣持になり、玄關先のベルを押した。

「どうぞ、お二階へお上り下さい」と黑い上張を着た男が出て來て、春二を二階へ導かうとした。

「まだ、あとから連れが來ますから」と、彼は辨解した。

「承知致しました、とにかくお二階でお待ちになつて下さい」と、寫眞屋は頷いて引退つた。

 控への間では小さな女學生が二人腰掛けてゐた。春二はその女學生に冷やかされはすまいかと思つたが、もうその時にはトンビを脫いでゐた。紋附袴のぎこちない姿で、春二はソフアに腰掛けた。彼は焦々して落着かず、頻りにタバコを吸つてみた。花嫁はなかなかやつて來なかつた。今、母に連れられて近所を囘禮してゐる、さわ子のことを思ふと、春二はかすかに氣が揉めるのだつた。

 その時、誰か二階へ上つて來た。視ると女學生の連れらしい一人がやつて來て、「今日はやめて、この次にしませうよ」と話し合つてゐたが、やがて二人を誘ふて出て行つた。春二はテーブルの上の寫眞帳をめくつて、ぼんやり眺めだした。漸く母の聲が階下できこえた。彼は晴れがましい氣持にかへつた。母に從つて、さわ子はなよなよと裳をひきずるやうにしてやつて來た。食慾がないといつて殆ど何も食べようとはしない彼女は、別に衰へもせず、お白粉で整へられた、高島田の顏はおつとりしてゐた。

 寫眞屋がやつて來て、準備を始めた。春二とさわ子は並んで立たされた。ふと見ると、隣の室の入口のカーテンが四、五寸開いてゐて、そこに鳥籠があつた。窓から射す陽の光を浴びて、二羽の小鳥はうれしさうに羽ぶるひをしてゐる。春二はそれをさわ子に見せてやりたいと思つたが、彼女は眞面目くさつて、寫眞師の方を向いてゐた。寫眞機はもう用意されてゐた。黑衣の男は春二の側へやつて來て何度も姿勢を訂正した。彼はだんだん窮屈になつた。愈々撮影といふ際になつて、寫眞師はまた春二の正面にやつて來た。それから彼は春二の胸の邊を眺めてゐたが、

「どうもこれは裏がへしになつてゐますな」と、羽織の紐に掌をかけた。再び寫眞師は位置に戾つた。輕い唸りがして、撮影は終つた。

 寫眞が濟むと、春二達はさわ子の里へ出掛けて行くことになつてゐた。春二は家に戾つて、紋附を洋服に着替へた。晝餉が濟むと、もう自動車がやつて來た。

 母とさわ子と叔母と春二の四人は急いで驛のホームを步いた。列車は空いてゐて、四人は一處に席をとつた。窓から這入つて來る風は淸々してゐたが、母は不安げに車内を見渡してゐた。さわ子はうつとりと沈默してゐた。春二はかうして母や叔母達と旅をした記憶が子供の昔にあつたやうに思へた。汽車は新鮮な空氣の中を走り、靑く尖つた溪流がすぐ側に見えて來た。母と叔母はお喋りをつづけ、春二とさわ子は默りつづけてゐた。二時間あまりして、汽車は山間の小驛に停まつた。そこが春二のはじめて訪れるさわ子の里であつた。

 ホームに降りると、先日式の時居た男の人や、見知らぬ人々が近づいて來た。廣場に自動車が待たされてゐて、春二達はそれに乘せられた。

「窓が少しあきませんかしら、どうも顏が火照りますから」と春二の母は辛らさうに云つた。同車した男の人が栓を捻つて、窓から少し風が這入つて來た。自動車は寂れた家並の中をぐるぐる走りだしたかと思ふと、五分と經たぬ間に、一軒の家の門で停まつた。そこがさわ子の實家であつた。

 家に着いた途端にさわ子の姿は見えなくなつてゐたが、春二と彼の母は座敷の方へ導かれて行つた。簷の深いどつしりした家で、夕刻近い座敷に坐らされてゐると、冷んやりして來た。暫くして、さわ子の母親が茶菓を運んで來た。彼女はテーブルの上に茶碗を置くと、

「粗茶で御座いますが召上り下さい」と、鄭重な口調で春二の母に勸め、それから春二にも同じ文句ですすめた。彼は何かかしこまつた氣分でお茶を飮んでみた。

 やがて春二はさわ子の母親に案内されて、長い廊下を廻り風呂へ這入つた。湯はひつそりとしてゐて、近くで沈丁花の匂ひがしてゐた。着物に着替へて座敷へ戾ると、片隅で母と叔母が火鉢にあたつてゐた。

「暗くならないうちに少し外の景色を見せてもらひませう」と、叔母は春二と母を誘つた。裏口から下駄を穿いて、細い露次を通り拔けると、すぐに畑道に出た。麥畑が淡く暖かい色を橫たへてゐる向に小川の白い石崖が見え、大きなトタン屋根の上には岩に似た小山がによつと聳えてゐて、空が紫色に變つてゐた。なだらかな低い山の方に星が二つ三つ輝いてゐた。すぐ近くで牛の啼聲がしてゐた。家の方を振向くと、土藏のむかふに酒造會社の煙突があつた。

 座敷へ引返すと、電燈が點いてゐて、食膳が整へられてゐた。もう、さわ子の家の家族はみんな坐つてゐたが、さわ子だけは姿を見せなかつた。義兄は頻りに春二に酒をすすめた。

「この土地で造る酒は決して飮んで頭が痛くなりません」と、云はれるので、春二もいい氣になつて飮んだ。

「春二さん、あんたが五つか六つの頃でしたでせう、私がその叔母さんのところへ下宿してゐたのは」と、義兄は話しだした。さういへば、春二は最初から見憶えのある顏のやうに思へてゐた。春二は醉ぱらつた頭で遠い昔を囘想してゐた。叔母の家の机の上にある懷中時計の秒針がチクチク動くのを不思議に思つて視守つてゐたことがあるのだつた。春二がぼんやりして、座敷を眺めてゐると、廊下の方にはしやいだ聲がして、さわ子が現れた。見ると、何時の間に變つたのか、高島田の花嫁であつた彼女は、今は束髮の娘になつてゐた。動作や言葉も急に活々(いきいき)してゐた。

「お飮みなさい、お酌してあげます」と、さわ子は銚子を持つて春二の前に坐つた。何だか春二は恐縮しながら盃を受けた。

 氣がつくと、もうかなり夜更らしく、外はしーんとしてゐた。

「さあ、離れの方へ行きませう」と、さわ子は春二を誘つて、裏口から下駄を揃へた。

「溝があるから足もとに注意しなさい」と、さわ子は懷中電燈で露次の闇を照らした。春二は何處へつれて行かれるのやら、今は朦朧とした氣分で從いて行つた。水の音がしてゐるやうであつた。間もなく石段があつて、そこを上ると小さな庭のむかうに燈の點いた障子が見えた。そこが離れであつた。壁も天井も荒屋の趣で、中央にはぬくぬくと炬燵がしっらへてあつた。

「炬燵へあたりませう」と、さわ子は嬉しさうに炬燵へねそべつた。春二は今更珍しさうにあたりを見廻した。さわ子のほかには誰もゐない夜更のあばら屋であつた。さわ子は小娘のやうにお喋りになつてゐた。

 その翌日、義母の案内で春二はそこから數里奧の山寺を見物した。妻は家で留守番をしてゐた。春二と母と叔母達は自動車に乘り、うねつた山道を搖られた。山頂に近づいた頃、微雨が落ちて來た。自動車を降りると、澄んだ山の靈氣が匂つて來た。靜かにせせらぎの音が聞え、春さきの黃色つぼい樹の花が點々と煙つてゐた。

 

 春二の家へ戾つて來た翌朝、さわ子は座敷で母や嫂と一緖に旅先へ送り出す荷拵へをしてゐた。持つて來た嫁入道具の中から春二の貧しい住居に應はしいだけの品々が選ばれてゐた。春二は炬燵にあたつてぼんやりしてゐた。翌日はもう春二達は旅に出る手筈であつた。

 晝食後、春二がまた炬燵に引込んでゐると、さわ子がやつて來て、

「これからお父さんのお墓へまゐりませう」と、云ひだした。春二はちよつと妙な氣がしたが、默つてトンビを着た。門を出ると中學生の弟が從いて來た。三人はぶらぶら麗かな街を步いた。寺へ來ると、さわ子はハンドバツクの中から珠數をとり出して、父の墓に合掌した。春二は帽子をとつてぴよこんとお叩儀をした。

「少し散步してみようか」と、春二は云つた。寺から少し行くと橋があつて、その川を渡ると公園になつてゐる。先日、結婚式が行はれた神社もそこにあるのだつた。その邊は昔から春二がひとりでよく散步した場所だつた。神社の前を通り過ぎてみると、今日は結婚式もなささうで、ひつそりしてゐた。そこから少し行くと練兵場がある。もう柳も芽ぐんでゐた。遠くの山脈は靑かつた。その邊の景色は昔と少しも變ってゐなかつた。それから春二達は川の堤に出て、橋の袂まで來た。ふと、橋の下を見ると貸ボートの旗が出てゐた。

「ボートに乘つてみようか」と、春二は突然云ひだした。日はもう傾きさうだし、水はまだ寒さうだつた。

「乘つてみませう」と、さわ子はすぐに同意してしまつた。三人は橋の脇の石段を下りて、貸ボートのところへ行つた。春二の弟が默々とオールを漕ぎだした。春二は對ひ合つてゐるさわ子の顏が風に吹かれてゐるのを眺めた。移動する兩岸の上の空が淡く暮色に染められてゐた。ポシヤつと方向を變へようとしたオールが水を跳返した。水はさわ子の袂に散つた。「大丈夫」と云ひながら、さわ子は袂の水を絞つた。ボートを降りると、日はとつぷり暮れてゐた。

 

 その日は何となしに朝から忙しい氣持であつた。重な荷物は昨日發送されてゐたが、汽車に持つて乘るこまごましたものをさわ子は取揃へてゐた。姉妹や親戚からの餞別の品がトランクのまはりに束ねてあつた。春二はぼんやりと二階の窓に腰掛けて、外を眺めた。よく晴れた空がうらうらと續いてゐて、瓦の上には陽炎が感じられるのだつた。

 晝餉が終つたかと思ふと、もう時刻が迫つてゐた。家には姉夫妻に妹、叔母などが見送りのためにやつて來た。母も兄も嫂もあわただしげに外出着に着替へた。春二は緊張した面持で、重いトランクを提げてみた。そのうちに自動車が來て一同はどかどかと乘込んだ。今、見殘してゆく巷はピカピカ光つてゐた。驛はひどく混雜してゐたが、人混の中に親戚の顏もあつた。列車に乘込むまで春二は頰が火照りつづけてゐたが、やがて席が定まつて窓の外を見ると漸く見送りの人々の顏に氣づいた。大勢の顏に對つてさわ子は一人一人聲をかけてゐる。春二は默々と明るい眼ざしになつてゐた。發車のベルが鳴り、汽車は構内を出て行つた。

 急に窓の外が明るくなり、もう見送りの人々も見えなかつた。空いた二等車の席に春二はさわ子と對ひ合つて腰掛けてゐた。さわ子の膝の上の派手な着物の模樣や、帶どめに明るい外光は降灑いだ。彼女は急に快活になり、よく喋りだした。春二も今吻とした氣持であつた。さわ子はトランクを開いて、今朝妹から餞別に貰つた菓子箱の水引をはづした。金、銀、赤、綠、紫の紙に包まれたチヨコレートであつた。彼女はそれを掌で掬ひハンケチに包んだ。

 急行列車は先日さわ子の里へ行つた際と同じ軌道を走つてゐた。あれはまだ一昨日のことだが、もう大分前の出來事のやうにも思へた。外の景色も今日は眩しすぎる位だつた。

 やがて見憶えのある靑い溪流が見え隱れした。さわ子は上氣したやうな顏になり、通過する小驛を數へた。

「そら今度は私のところの驛よ、誰か見送つてゐてくれるかもしれないから、ちよつと向へ行つてみますよ」

 さう云つて、さわ子は席を立つて昇降口の方へ行つた。列車は速度を緩め、今その驛を通過するらしかつた。春二は窓から外を凝視めたが何もわからなかつた。間もなくさわ子は笑ひながら席に戾つて來た。

「誰かゐた?」

「ゐましたよ、弟が家の外で手を振つてゐたのよ」

「それでわかつた?」

 彼女は滿足さうに領いた。

 空が靑く潤んで睡むさうになつてゐた。汽車は山間を拔けて、海岸附近の家並が見えて來た。そして間もなく一つの驛に停車したが、すぐに發車のベルが鳴響いた。すると誰かあわただしく車内に乘込んで來た。

「お母さん」と、さわ子は歡聲をあげた。

「やあれのう」と、彼女の母は嵩張つた風呂敷包を抱へて、息をきらせながらさわ子の前へやつて來た。そして彼女の母は忙しさうに風呂敷包を披いた。

「この海苔はあまり上等でないから焚いて佃煮につくるといいよ、奈良漬も持つて來たげた、汽車辨當二つ買つておいたよ、葉書もある、さいさい便りを貰ひたいから持つて來ましたぞ」

 さう云ひながら彼女の母は一つ一つさわ子に手渡した。それからも絕えず急いでいろんなことを喋りつづけた。

「すぐに便りを頂戴」

「さわ子は理窟屋ですが、まあまあよろしく賴みます」

 そのうちに汽車は間もなく次の驛へ停車した。「さよなら、元氣でね」と、云ひ殘すとさわ子の母は立上つて降りて行つた。さわ子の母はホームから汽車の方を眺めてゐたが、ふとアイスクリーム屋をみつけると、呼びとめて、二つのクリームを窓の方へ差出した。

 

[やぶちゃん後注:貞恵は本「沈丁花」が発表された三ヶ月後の昭和一四(一九三九)年九月に喀血した(推定。糖尿病(発症年齢と症状からⅠ型と推定される)も患っていた)。それ以降、民喜の作品発表は減ってゆくこととなる。貞恵は昭和一九(一九四四)年九月、重い糖尿病と肺結核のために亡くなった。そして、その十一ヶ月後、民喜は広島の実家で被爆した。以下は、「原民喜についての私のある感懐」で既に記したものであるが、ここに再度、掲げておく。

 原民喜の被爆を綴った「夏の花」の冒頭は、

   *

 私は街に出て花を買ふと、妻の墓を訪れようと思つた。ポケツトには佛壇からとり出した線香が一束あつた。八月十五日は妻にとつて初盆にあたるのだが、それまでこのふるさとの街が無事かどうかは疑はしかつた。恰度、休電日ではあつたが、朝から花をもつて街を步いてゐる男は、私のほかに見あたらなかつた。その花は何といふ名稱なのか知らないが、黃色の小瓣の可憐な野趣帶び、いかにも夏の花らしかつた。

 炎天に曝されてゐる墓石に水を打ち、その花を二つに分けて左右の花たてに差すと、墓のおもてが何となく淸々しくなつたやうで、私はしばらく花と石に視入つた。この墓の下には妻ばかりか、父母の骨も納まつてゐるのだつた。持つて來た線香にマツチをつけ、默禮を濟ますと私はかたはらの井戸で水を吞んだ。それから、饒津(にぎつ)公園の方を廻つて家に戾つたのであるが、その日も、その翌日も、私のポケツトは線香の匂がしみこんでゐた。原子爆彈に襲はれたのは、その翌々日のことであつた。

   *

で始まる。これは無論、事実であるが、彼が被爆当日から起筆しなかったのは、決して題名「夏の花」のための小手先の伏線ではなかったことは言うまでもない。

 彼の中の、後の「遙かな旅」(『女性改造』昭和二六(一九五一)年二月号初出。民喜はこの翌月の三月十三日に鉄道自殺した。リンク先は私の電子化注)で回顧されて告白されている、

   *

もし妻と死別れたら、一年間だけ生き残らう、悲しい美しい一冊の詩集を書き残すために……

という被爆以前の遙か前からの思いこそが、この書き出しを確かに選ばせたのである。

 我々は原民喜を、専ら、「被爆文学者」「『水ヲ下サイ』の被爆詩人」として認知し、多くの読者はそれを当然のこととしている。恐らく、向後も彼はそうした《原爆の詩人》として認識され続け、「被爆体験を独特の詩やストイックな文体で稀有の描出を成した悲劇の詩人」として記憶され続けることは間違いない。

 彼の盟友であった遠藤周作が四十年以上前のTVのインタビューの中で、原民喜のことを回想し――戦後、一緒に神保町を歩いていた時、彼がいなくなったので振り返ってみたら、立ち止まった彼が、交差点の都電の架線から激しく迸る火花を、固まったようになって、凝っと、見つめ続けているのを見出し、被爆の瞬間が彼の中にフラッシュ・バックし続けている、と強く感じた――といった思い出を述べておられたのを思い出す。

 原民喜は妻貞恵の死によって激しい孤独と悲哀のただ中に突き落とされた。それは、『一年後には死のう』という嘗ての自身の思いを呪文のように心内で繰り返し呟き、しかもそれを現実の目標とするほどに、鞏固な、痛烈な、《確信犯の覚悟》であったのだと私は思う。

 しかし、その一年後の、彼の定めた《生死の糊代(のりしろ)》の場面に於いて、彼を恐るべき原爆体験が襲ったのであった。

 しかも、戦後、彼は「夏の花」以後の著作を以って、文壇や読者や文化人らから「被爆詩人」「原爆文学者」という名を奉じられてしまった。

 愛妻貞恵の死から生じた死への強い傾斜志向に加え、それに、意識上、不幸にしてダイレクトに繋がる形での、被爆の地獄絵を超絶した体験は、彼をして激しいPTSDPost Traumatic Stress Disorder:心的外傷後ストレス障害)に陥らせたことは、最早、誰も否定しないであろう。遠藤の見たそれは、まさにその病態の一つであると私は思っている。

 私は何が言いたいのか?

 それは、彼を自死に追い込んでしまった責任の有意なある部分は、彼を純粋な詩人・小説家としてではなく、悲惨で稀有な被爆体験をした「悲劇的被爆文学作家」としてレッテルし、彼に対し、意識的にも無意識的にも、そうした「被爆文学」の「生産」を要請し続けた文壇や文化人、ひいては、そうしたものを求め続けた読者――人間たちにこそあったのだと私は思うのである。

 彼は確かに被爆以前から愛妻を失ったことによる強い自死願望があったし、さらに溯れば、それ以前の独身時には、放蕩の末、昭和七(一九三二)年の夏、長光太宅での発作的なカルチモン自殺未遂なども起している。

 しかし、だからと言って、我々の恣意的な彼への被爆詩人レッテル化という彼にとっての致命的決定打が正当化されるわけではない。

 彼は決して著名な「原爆詩人」などにはなりたくはなかったし、そんな素振りは彼の一言一句にさえ現れてはいない

 彼は

「悲しい美しい一冊の詩集を書き残した一人の孤独な――或いは人々から惨めとさえ言われるような詩人」

としてこの世から消えて行きたかったのである。「雲雀」のように…………

それをかくも祭り上げてしまったのは我々、読者、戦後の日本人なのである。

 我々は

――詩人原民喜を虐殺した一人――

なのである。

 我々はその償いのためにも――《被爆以前の詩人原民喜》を――原爆関連作品以外の作家原民喜にもスポットを当て――味わい――後代へと伝えてゆくべき義務と責任がある――

と私は今、大真面目に考えているのである。]

柳田國男 山島民譚集 原文・訓読・附オリジナル注「馬蹄石」(7) 「馬ニ騎リテ天降ル神」(1)

 

《原文》

馬ニ騎リテ天降ル神 或家又ハ或地方ニ於テ白馬又ハ葦毛ヲ飼ハザル風習ハ、何レモ神祇ノ信仰ニ基クモノナルコトハ略確實ナルガ、其由來ニ至リテハ表裏相容レザル二種ノ說明アリ。即チ一ハ白馬ハ神ノ乘用ナルガ故ト謂ヒ、他ノ一ハ神此毛ノ馬ヲ好ミタマハズト謂フモノナリ。神ガ白馬ヲ好ミタマハヌ故ニ氏子モ之ヲ嫌フト云フ說ハ、近世ノ人ニハ通用宜シケレドモ、ソレダケニ思想新シト見エタリ。有馬又ハ讚岐ニ於テ別段ノ來歷ヲ必要トシタルヲ見テモ明ラカナルガ如ク、淸クシテ美シキ白馬ヲ神ノ惡ミタマフト云フハ何分ニモ不自然ナリ。【齋忌】此ハ疑無ク忌ト云フ語ノ意味ガ時世ト共ニ變遷シタル結果ニシテ、多クノ森塚巖石等ニ就キテモ之ニ似タル例アリ、即チ元ハ神ノ物トシテ其淸淨ヲ穢スマジトシタル忌ヨリ、轉ジテ神ガ枝葉ヤ土石ヲ採リ去ルヲ惜シムト云フ風ニ考ヘシト同ジク、神ガ凡人ノ之ヲ持ツヲ忌ムヲ自分モ欲セラレザルガ故ト察スルニ至リシナリ。多クノ社ノ神ガ白キ馬ノ嫌ヒデ無カリシ證據ハ今更之ヲ列擧スルニモ及ブマジ。神馬トシテ之ヲ奉納スル風習ハ弘ク行ハレ居タリシノミナラズ、御神體ニモ騎馬ノ像イクラモ有リテ、其馬ノ毛色若シ分明ナリトスレバ大抵ハ白ナリ。【騎馬神像】此序ニ言ハンニ、諸國ノ御神體ニ騎馬ノモノ多キハ決シテ輕々ニ見ルべキ現象ニハ非ズ。佛像ニモ勝軍地藏ノ如キハ必ズ馬上ノ御姿ナリ。此等ハ中世ノ武家ガ今ノ人ヨリモ馬ヲ愛シタリシ爲ナドト簡單ニ解釋シ去ル事能ハザル事實ナリ。

 

《訓読》

馬に騎(の)りて天降(あまくだ)る神 或る家又は或る地方に於いて、白馬又は葦毛を飼はざる風習は、何れも神祇の信仰に基づくものなることは略(ほぼ)確實なるが、其の由來に至りては、表裏相容れざる二種の說明あり。即ち、一つは「白馬は神の乘用なるが故」と謂ひ、他の一つは「神、此の毛の馬を好みたまはず」と謂ふものなり。神が白馬を好みたまはぬ故に、氏子も之れを嫌ふと云ふ說は、近世の人には通用宜(よろ)しけれども、それだけに「思想、新し」と見えたり。有馬又は讚岐に於いて別段の來歷を必要としたるを見ても明らかなるがごとく、淸くして美しき白馬を神の惡(にく)みたまふと云ふは、何分にも不自然なり。【齋忌(さいき)】此れは疑ひ無く「忌(いみ)」と云ふ語の意味が、時世と共に變遷したる結果にして、多くの森塚・巖石(いはほいし)等に就きても之れに似たる例あり。即ち、元は神の物として其の淸淨を穢(けが)すまじとしたる忌(いみ)より、轉じて、神が枝葉や土石を採り去るを惜しむと云ふ風に考へしと同じく、神が、凡人の之れを持つを忌むを、自分も欲せられざるが故と察するに至りしなり。多くの社の神が白き馬の嫌ひで無かりし證據は、今更、之れを列擧するにも及ぶまじ。神馬として之れを奉納する風習は弘く行はれ居たりしのみならず、御神體にも、騎馬の像、いくらも有りて、其の馬の毛色、若(も)し、分明なりとすれば、大抵は「白」なり。【騎馬神像】此の序でに言はんに、諸國の御神體に騎馬のもの多きは、決して輕々に見るべき現象には非ず。佛像にも勝軍地藏(しようぐんぢざう)のごときは、必ず、馬上の御姿なり。此等は中世の武家が今の人よりも馬を愛したりし爲め、などと簡單に解釋し去る事、能はざる事實なり。

[やぶちゃん注:「齋忌」狭義には祭りの前に行う物忌み、神を迎えるために心身を清浄にした生活を送ることを指す。

「勝軍地藏」時代的には鎌倉時代以後に武家の間で信仰された、これに祈れば戦に勝つという地蔵の一種。小学館「日本国語大辞典」には、『一説に、坂上田村麻呂が東征のとき、戦勝を祈って作ったことからおこったという地蔵菩薩。鎧、兜をつけ、右手に錫杖を、左手に如意宝珠をもち、軍馬にまたがっているもの。これを拝むと、戦いに勝ち、宿業・飢饉などをまぬがれるという』とする。]

淺間の煙 清白(伊良子清白) (附・初出形)

 

淺間の煙

 

 

    その一

 

おく霜早き信濃路の

關より西は紅葉(もみぢ)して

秋か御空(みそら)の鮮かに

けぶり色濃き淺間山

 

低くつらなる唐松の

梢に暮の日はさして

斜におとす雁金の

翅(つばさ)に白き野路の風

 

木賊(とくさ)刈る子が行きなづむ

蓼科(たでしな)山は靑くして

佐久の平(たひら)に伏(こや)したる

八十(やそ)の里わは霞みたり

 

   その二

 

から松がくり行く駒の

いななく聲も秋にして

岩船山の頂に

一つらかかる雁(かり)の文字

 

佐久の手兒奈(てこな)が面影は

笠に深みて見えねども

をとめさびすと花染の

帶は可憐(あはれ)に結びたり

 

牧にすさびの草の笛

手綱曳く子が戀となる

空はさやけき秋の風

淺間のけぶりまた高し

 

   その三

 

眞柴(ましば)樵(こ)り積み山の名の

雲の光もうすひ嶺(ね)の

紅葉折る日となりぬれば

秋のみぞれぞ降り止まぬ

 

醜(しこ)の國土(くぬち)の早蕨(さわらび)の

萠ゆるは達し佐久の子等

八十(やそ)の日おちず淺間野の

石の細徑(こみち)になくらんか

 

   その四

 

そのうた古き追分の

ふしは淸(さや)けき露の玉

朝野通へば晴となり

夕野かへれば雨となる

 

東上野西信濃

空は一つや淺間山

東に下(くだ)れば風となり

西にのぼれば雲となる

 

[やぶちゃん注:初出は明治三六(一九〇三)年一月一日発行の『文庫』であるが、初出では署名「清白」で、総標題「山岳雜詩」のもとに、「陰の卷」(「孔雀船」で「鬼の語」と改題して収録)と前の「山頂」及び本篇の原型「淺間の烟」(新潮社刊「現代詩人全集 第四巻 伊良子清白集」に再録するに際して「淺間の煙」と表記を変えた)の全三篇を収録する。初出は以下。後半が改変され(上記の「その二」以下)、多量のカット部分がある。

   *

 

淺間の烟(七首)

 

置く霜早き信濃路の

關より西は紅葉(もみぢ)して

秋か、御空の鮮かに

煙いろ濃き淺間山

 

低く連なる唐松の

梢に暮の日はさして

斜におつる雁金の

翅をこゆる野路の風

 

木賊(とくさ)刈る子が行き難(なづ)む

蓼科(たでしな)山は靑くして

佐久の平(たひら)に伏(こや)したる

八十(やそ)の里わは霞みたり

  ○

月の世遠き譚

雲の杵搗く碓氷ねの

紅葉折る目となりぬれば

秋のみぞれの降りやまぬ

 

醜(しこ)の園土(くぬち)の早わらびを

春はもたらす佐久の子等

八十の日落ちず淺間野の

石の徑(こみち)になくらんか

  ○

落葉(から)松がくり行く駒の

嘶く聲も秋にして

岩船山の頂に

一つらかゝる雁の文字

 

佐久の手兒奈(てこな)が面影は

笠に深みて見えねども

乙女さびすと花染の

帶は可憐(あはれ)に結びたり

 

牧にすさびの草の笛

手綱曳く子が戀と成る

空は淸(さや)けき秋の風

淺間のけぶりまた高し

  ○

其歌古き追分の

節は淸(さや)けき露の玉

朝野通へば雲と成り

夕野通へば雨と成る

 

淺間のけぶり立たぬ日を

卯花かげに來ては啼く

惡しき聲のほとゝぎす

山の御魂にあらざるか

  ○

富士の女神と神集ひ

火雨ふらして醜國を

八百日八百夜と淨めけん

若き姿の淺間山

 

佐久の廣野に眠りたる

千曲乙女の面影は

猛き炎を夢みつゝ

今も淸(さ)やかに流れたり

  ○

雉子鳴き立つ原中に

淺間の煙仰ぐ時

草刈る童瞳には

天つ焰や宿るらん

 

秀才(ずさい)は草にあらはれて

眞玉ゆらゝに玉ゆらに

いみじき歌を殘すらん

朝、童は小草刈る

  ○

待路誰の子の眞白玉

野べに山べにおきわたす

けぶり朝にたちぬとも

さもあれ秋は露の秋

 

隱れてきゆる逃水に

思ひは遠し旅の空

けぶり夕に立ちぬとも

さもあれ秋は露の秋

 

   *

初出の「秀才(すさい)」の「す」は「しう」の実際の拗音に発音したと思われる音を直音の仮名で表記する直音(ちょくおん)表記と呼ばれる現象で、実発音の「者(しゃ)」「主(しゅ)」を「さ」「す」と書く類い。中古・中世に多く見られる。古典でお馴染みの「従者(ずさ)」、「貫主(かんす)」と表記している、あれである。]

山頂 清白(伊良子清白)

 

山 頂

 

雷(いかづち)棲める八重雲の

底や下(しも)つ界(よ)人の國

雪の生絹(すずし)によそはれて

彼れに聳ゆる高御座(たかみくら)

 

休まず眠らず疲れざる

嵐に巖は削られて

丈(たけ)なす氷柱(つらら)きららかに

卯の花縅(おどし)甲(よろ)ひたり

 

大空渡る嚴山(いづやま)の

夢の圈帳(とばり)を排(お)し分けて

岩の鞴(たた)をましぐらに

猛くも下る瀧津瀨よ

 

夜な夜な星は美しき

花のたまきをつくるらん

たぐりもよせん天の幕

我手の骨の晶(あき)らかに

 

浮霧深く立つままに

山の荒魂(あらたま)あらはれて

同じ姿のおぼろおぼろ

かつ手をつなぎあそぶかな

 

たちまち日影かがやきて

山ほがらかに晴れわたる

削水(けづりひ)なせる綿雲の

漂ふ限り和(なご)やかに

 

海の底ひに沈鐘の

祕める影を見るごとく

はるかの谷に橫はる

杉の木叢(こむら)のただ黑く

 

振放(ふりさ)け見れば白妙の

塔(あららぎ)高くあらはれて

西に東に群山(むらやま)の

爭ひ立てる姿かな

 

ああわが魂の漲るを

誰れかとどむる力ある

年經る龍(たつ)よ我が友よ

しばし谷間に眠れかし

 

時來て天に沖(のぼ)らんに

われもむくろをぬけいでて

いみじき歌をうたひつつ

なれが背(そびら)に騎(の)り行かむ

 

[やぶちゃん注:初出は明治三六(一九〇三)年一月一日発行の『文庫』であるが、初出では署名「清白」で、総標題「山岳雜詩」のもとに、「陰の卷」(「孔雀船」で「鬼の語」と改題して収録)と本「山頂」及び次で電子化する「淺間の烟」(新潮社刊「現代詩人全集 第四巻 伊良子清白集」に再録するに際して「淺間の煙」と表記を変えた)の全三篇を収録する。初出は以下。

   *

 

山 頂

 

雷(いかづち)棲める八重雲の

底や、下つ界(よ)人の國

雪の生絹(すずし)によそはれて

彼れに聳ゆる高御座(たかみくら)

 

休まず眠らず疲れざる

嵐に巖は削られて

丈(たけ)なす氷柱(つらら)きららかに

卯の花縅おどし甲ひたり

 

大空渡る嚴山(いづやま)の

夢の圈(たまき)をかけいでゝ

底津岩根もどよもさん

猛き姿の瀧津瀨よ

 

夜な夜な星は美しき

花のたまきを作るらん

たぐりもよせん天の帳(まく)

我手の骨の晶(あき)らかに

 

浮霧深く立つままに

山の荒魂(あらたま)あらはれて

同じ姿のおぼろおぼろ

かつ手をとりてあそぶかな

 

たちまち日影かがやきて

山ほがらにはれわたる

削水(けづりひ)なせる綿雲の

漂ふ限り和(なご)らかに

 

海の底ひにつり鐘の

沈める影を見るごとく

はるかの谷に橫はる

杉の木叢(こむら)のただ黑く

 

振放(ふりさ)け見れば白妙の

塔(あららぎ)高くあらはれて

西に東に群山(むらやま)の

爭ひ立てる姿かな

 

ああわが魂の漲るを

誰れかとどむる力ある

年經る龍(たつ)よ我が友よ

しばし谷間に眠れかし

 

時來て天に登らんに

われもむくろをぬけいでて

いみじき歌をうたひつつ

なれが脊(そびら)に騎(の)り行かむ

 

   *]

鷲の歌 清白(伊良子清白)

 

鷲 の 歌

 

荒るる心臟(こころ)に亂れ入る

血管(ちくだ)の流れ波立ちて

夕べ塒にかへりくる

勝鬨たかし鳥の歌

 

谷の大蛇(おろち)と爭ひて

翼も摧(くだ)く戰ひの

榮(さかえ)を飾る夕燒は

山の鷲鳥(してう)を驕(おご)らしむ

 

拳(こぶし)は强く目は敏(さと)く

翼あぐれば風となり

翼おろせば雲となる

鷲の姿の雄々しさよ

 

漲り落つる大瀑布

飛沫(しぶき)の中につつまれて

眼(まなこ)もきゆる十丈の

杉の頂塒(ねぐら)あり

 

影纖雲(ほそぐも)とおとし來て

梢の上に休らへば

胸の血潮のしたたりて

綠の枝を染めにけり

 

猛然として高く飛び

渦まきかへす黑雲の

彼方の底に舞ひくだる

一聲悲し鷲の鳥

 

[やぶちゃん注:初出は明治三六(一九〇三)年二月発行の『文庫』。署名は「清白」。初出は以下。

   *

 

鷲 の 歌

 

荒るる心臟(こころ)に亂れ入る

血管(ちくだ)の流れ波立ちて

夕べ塒にかへりくる

勝鬨たかし鳥の歌

 

谷の蛇(おろち)と爭ひて

翼も摧(くだ)く戰ひの

深山の奥の生活は

鷲鳥の胸を踴らしむ

 

拳(こぶし)は强く目は利(さと)く

翼あぐれば風となり

翼おろせば雲となる

鷲の姿の雄々しさよ

 

漲り落つる大瀑布

飛沫(しぶき)の中につつまれて

眼(まなこ)もきゆる千丈の

杉の梢に巢くひたり

 

影纖雲(ほそぐも)と落し來て

梢の上に休らへば

胸の血汐のしたゝりて

綠の草を染めにけり

 

心は猛(もう)に氣はたてく

哀しき歌を歌はざる

今はの鷲の沈默を

渦まきかくす黑き雲

 

   *]

2019/04/10

野衾 清白(伊良子清白)

 

野 衾

 

魔性の獸野衾(のぶすま)に

命取らるる人々を

希有(けう)がる少女(をとめ)野にいでて

癒えざる創(きず)を身に負ひぬ

 

丈(たけ)なす袖を飜へし

たちまち胸にとび入りて

あまき血潮に飽くときく

譫言(うはさ)は盡くる日もあらず

 

われは少女を戒めて

夕べの道に出でしめず

百日(ももか)經(た)つ頃かのものは

庭の茂みに見出されぬ

 

餓ゑたるらしく仰向けに

瘦せたる妖(えう)は死にてあり

人は來りて口々に

不思議を語りかへりけり

 

恰もその日妹は

われに來りて私語(ささや)きつ

母の形見の小懷劍(こわきざし)

ほろ刅(は)はいたく缺けてあり

 

妻を妹と呼ぶことの

ここに可笑しき制度(さだめ)かな

流石に彼は女性(をんなご)の

祟(たたり)をいたく恐るめり

 

かつて梅散る春の夜に

手をとり交はし立ちし時

林の奧に怪(け)の物を

見しは二人の祕密(ひそ)にして

 

[やぶちゃん注:初出は明治三五(一九〇二)年十二月発行の『文庫』であるが、そこでは総標題「霜柱」として本「野衾」・「淨瑠璃姬」(後に掲げる)・「秋和の里」を三篇を収める。署名は「清白」。初出とは特に有意な相違を私は認めない。

「野衾」「飛倉(とびくら)」とも呼ぶ、江戸に伝わる妖怪の一種。ウィキの「野衾を引いておく。『ムササビのような姿をしていると言われ』、実際のムササビ(齧歯(ネズミ)目リス亜目リス科リス亜科モモンガ族ムササビ属ホオジロムササビ Petaurista leucogenys:日本固有種)やモモンガ(モモンガ族モモンガ属ニホンモモンガ Pteromys momonga:日本固有種)の『異称として』も『野衾の名が用いられることもある』。妖怪としてのその伝承は、『木の実を食べるほか、火を食べる、人や動物の生き血を吸うともいう。江戸時代の奇談集』「梅翁随筆」(作者不詳。寛政年間(一七八九年~一八〇一年)の巷談見聞を纏めたもの)には、『江戸でネコを襲ったり』、『血を吸ったりする獣がおり、その獣を殺したところ、イタチのような姿で』、『左右に羽のようで羽でないものを備えており、ある人が「深山に住む野ぶすまとはこれだ」と教えたとある』。『空を飛んで来て、人の目や口を覆うともいい』、『江戸時代の古書』「狂歌百物語」(嘉永六(一八五三)年に刊行された百物語怪談会を模した狂歌絵本)には『「飛倉」の名で、人の顔を覆う姿が描かれている』(引用元に画像有り)。享保年間(一七一六年~一七三六年)の随筆「本朝世事談綺」には、『野衾が夜に人の持つ松明を剪(き)って消し、その火を吹くので妖怪として恐れられたとの記述がある』。『江戸時代の奇談集』「絵本百物語」(天保一二(一八四一)年刊の奇談集)によれば、『長い年月を経たコウモリが妖怪化したものとされ』、先の「狂歌百物語」の『「飛倉」はコウモリのような姿で描かれている』。『歌川国芳による浮世絵』「美家本武藏丹波の國の山中にて年ふる野衾を斬圖」『として、剣豪・宮本武蔵がコウモリ状の野衾を山中で退治する姿が描かれているが、史実ではなく、武蔵の諸国武者修行の話を脚色したものとされる』(引用元に画像有り)。『ムササビは日中は木の洞などにこもり、夜に空中を滑空するという生態が怪しまれたことから、実在のムササビそのものが野衾として妖怪視されていたという説もある』。『また、ムササビやモモンガは暗視能力に長けるため、夜間での滑空中』、『松明や提灯の火に目が眩んで着地を誤り、その際に人間の頭にへばりつく様子を人間側が妖怪に襲われたと誤認し、怪異の事例として語ったともいう』。『鳥山石燕の妖怪画集』「今昔画図続百鬼」(安永八(一七七九)年刊)の『「野衾」の解説文にも「野衾は鼯(むささび)の事なり」と記述がある』。「和漢三才図会」の『「鼠類」の巻に鼯鼠という項目が有り』「むささひ」「のふすま」と『読み仮名が振られている。「鼯鼠は毛色と形はほぼ鼠に似て肉の翼有り。原禽類の伏翼(コウモリの事)に詳しい」と記されている』(「和漢三才図会」の「鼠類」は近日、電子化注に入る。後者は「和漢三才圖會第四十二 原禽類 伏翼(かうもり)(コウモリ)」で電子化注済み)。『「原禽類」の巻には』「䴎鼠」という『項目が有り』、「むささひ」「もみ」「のふすま」「ももか」『と読み仮名が振られている。記されている生態は』「爾雅注疏卷十」の『「鼯鼠」と同じ。呼び名については「俗に野衾と言う。関東では毛毛加と言う。西の国にては板折敷と言う」と記されている』(正確には私の「和漢三才圖會第四十二 原禽類 鼠(むささび・ももか)(ムササビ・モモンガを、是非、見られたい)。石燕の「今昔画図続百鬼」にある『妖怪「百々爺」』(ももんじい)『は、この野衾が老いたものだという説もあ』り、また、「絵本百物語」では、『野衾がさらに年を経ると、山地乳』(やまちち)『という妖怪になるとされる』。「絵本百物語」には、『野衾は同書に登場する妖怪「野鉄砲」と同一のもので、猯(まみ)という獣が老いて妖怪化したものともされている』。『妖怪研究家多田克己によれば、猯とは本来はタヌキの異称だが、当時は』「和漢三才図会」等においても、『「狸」と「猯」が別々の獣と扱われており』(直近で電子化する)、『ムササビもまた』、『猯と呼ばれたことがあることから、これらが混同された結果として生まれた伝承とされる』。『高知県幡多郡にも、発音は同じだが』、『漢字表記の異なる「野襖」という妖怪の伝承があるが、これは福岡県の妖怪として知られる塗壁のように、路上に現れて通行人の行く手を阻むものであり、文献によっては「野衾」と「野襖」が混同されている事例も見られる』とある。]

夜行列車で……

大学4年の夏、ゼミの合宿の帰り、深夜の誰も乗っていない上越線の鈍行に渋川から乗り込み、富山方向に帰ろうとした。
誰も乗っていない――そこに三十ほどの青年が前の車両からやってきた。
山歩きの格好をしているが、何も持っていない。
「ここ空いてますか?」
と私のボックス席の向いを指差した。
当然、空いているから「はい」と答えるしかない。
「山登りをしようときたのですが、リュック一式を盗まれましてね……」
と彼は言った。
そうして、彼は、ぽつりぽつりと、身の上話をし始めた……
「……自分は元航空自衛隊のパイロットだったんですがね……練習中に……エンジンにトラブルが起きたのです……」
「……後ろの座席に上官が乗っていたんですが、即座に『脱出しろ!』と言うのです……」
「……躊躇していましたが、再度、命ぜられて、脱出用のレバーを引きました……」
「……でも……上官は何故か……脱出出来なかった……装置に不具合があったのかどうか……私には……分りません……」
その事故は知っていた。
数年前の日本海上空での事故であった。
パイロットが助かり、指導教官が亡くなったことも覚えていた。
……そのまま……彼は黙って……真っ暗な窓の外を……見詰めていた…………


暴風雨の日老樹の將に倒れんとするを望みて 清白(伊良子清白)

 

暴風雨の日老樹の將に

 倒れんとするを望みて

 

吹く風强し梢より

幹より飛ぶは何ものぞ

ああ我ならず他(よそ)の樹の

折れて過ぎ行く姿のみ

吹く風烈し根の方に

くづるる音は何ものぞ

ああ我ならず他(よそ)の樹の

裂けて倒れし響のみ

諸肩(もろがた)强くふるはせて

老木の杉は立ちにけり

胸にたばしる風の音

背(そびら)にそそぐ雨の瀧

終日(ひねもす)あらし吹くままに

杉は髻(もとどり)解きすてて

行く雲深し野の上に

秋を亂るる大童(おほわらは)

さかんなるかな暮れかかる

夕べの淵に臨みたる

命(いのち)の猛者(もさ)の立姿

傷手(いたで)に我ぞ淚流るる

 

[やぶちゃん注:初出は明治三五(一九〇二)年十一月発行の『文庫』。署名は「清白」。初出とは特に有意な相違を私は認めない。]

歌の女神 清白(伊良子清白)

 

歌の女神

 

興(きよう)は流るる水のごと

花をうつして花を動かす

うたはとどまる花のごと

水に映(うつ)りて水を逐ふ

 

歌作るには興(きよう)ほしく

興(きよう)えしをりは歌なつかし

天にめをとの星もあれど

歌と興とは並び得ず

 

市(いち)に買ひしは女郎花(をみなへし)

庭のすすきの露分けて

うつしうゑても歌は成らず

花は見る見る枯れんとす

 

ともし火くらく紙展(の)べて

歌書く筆のたどたどし

こよひは月夜淸くして

こころに波も起りこず

 

成れるは人の目に觸れて

あしきながらも姿あり

成らずすてたる歌反古(うたほご)の

うすきは風に破れたる

 

まなこふさぎて物思ふ

やみの彼方に誰がためぞ

歌の女神のはれやかに

いそぎ給ふを拜したり

 

[やぶちゃん注:初出は明治三五(一九〇二)年十月発行の『文庫』。署名は「清白」。以下に初出形を示す。

   *

 

歌の女神

 

興(きよう)は流るる水のごと

花をうごかし花にゆく

うたはとゞまる花の如

水に靡きて水を追ふ

 

歌作るには興(きよう)ほしく

興(きよう)えしをりは歌こひし

天に姉妹の星あれど

歌と興とは並び得ず

 

市(いち)に買ひしは女郎花(をみなへし)

友のうゑしは萩の花

狹き庭にも露みちて

うた面白き秋は來ぬ

 

ともし燈くらく紙展(の)べて

歌かく筆のたどたどし

こよひは月夜淸らにて

こゝろに波もおこりこず

 

成れるは人の目にふれて

惡しきながらに姿あり

成らですてたる歌反古(うたほご)の

うたは我身をうらむらむ

 

眼ふさぎて物思ふ

闇の彼方に誰が爲ぞ

歌の女神のはれやかに

いそぎたまふを拜したり

 

   *]

言靈 清白(伊良子清白) (附 初出形)

 

言 靈

 

水草(みくさ)を追ひて牧人(まきびと)の

うつり住みたるいにしへの

遠きその世に言靈(ことだま)は

幸(さき)はふ國をえらびたり

 

北にむかへば海荒れて

天(そら)もくもれり松柏の

黑き梢の蔽ふところ

ここの言葉はにごりたり

 

南に行けば鰐鮫の

棲み古る流れ深林(ふかばやし)

物みな燃ゆる熱帶の

ここの言葉は訛りたり

 

牧場みどりのグリースと

桂にほへるローマンと

かがやき昇る日の本と

ここに言葉は榮えたり

 

花おのづから咲きいでて

鳥おのづから啼き交はし

日は照らせどもあたたかき

ここに言葉はさかえたり

 

冠(かぶり)に百合花(ゆり)を插す如く

樂と詩(うた)とは國民(くにたみ)が

國を頌(ほ)めたることばにて

よろこび四方に溢れたり

 

見ればなつかしグリースの

古き匠が家の集

きけば慕はしローマンの

名ある樂師が歌の卷

 

詩(うた)の聖(ひじり)は聲あげて

湖(うみ)のほとりにうまれたり

世を驚かす伶人は

祭のにはにあらはれぬ

 

薔薇(しやうび)の花にこと寄せて

戀を歌ひし世捨て人

地獄の曲におそはれて

胡弓をすてし少年子

 

二つの蛇のまつはへる

鞭を手にするヘルメスが

幼(いと)けなかりし目に觸れて

琴をつくりし龜の甲

 

古きその世の罪と罰

天(あめ)の火盤(ひざら)をぬすみたる

プロメトイスの物語

神の工(たくみ)のオフイツト

 

國は亡びてそのかみの

帝(みかど)の輦(くるま)絕えぬれど

葡萄畠の破垣(やれがき)に

言葉はなほも殘りけり

 

綾にかしこし敷島の

大和島根の神國に

俸へ來たりし神寶(かんだから)

誰れ言靈(ことだま)を仰がざる

 

わが故鄕(ふるさと)は東(ひんがし)の

海に千重(ちへ)敷く波の花

四方の春風ふきよせて

匀ふ言葉となりにけり

 

わが故鄕は黃金なす

足穗(たりほ)のいねのたなつもの

豐年(とよどし)祝ふ國民(くにたみ)の

言葉は今も賑はへり

 

わが故鄕はあし笛の

澄みたるしらべ誰か吹く

浦の船唄白波も

言葉あるこそうれしけれ

 

[やぶちゃん注:初出は明治三五(一九〇二)年十月発行の『文庫』。署名は「清白」。

「グリース」前に「牧場」とするから、「grease」で、生きた家畜たちの柔らかな獣脂の視覚的嗅覚的イメージであろう。

「桂」これは香りのよい木材として万葉の古えから知られるユキノシタ目カツラ科カツラ属カツラ Cercidiphyllum japonicum

「ローマン」roman(フランス語)。浪漫。

「伶人」楽師。

「ヘルメス」(ラテン文字転写:Hermēs)ギリシア神話の神々の伝令役の青年神で、商売・盗み・賭博・競技・旅人の守護神とされるほか、雄弁と音楽の神でもあり、竪琴・笛や数・アルファベット・度量衡などを発明し、火の起こし方を発見した知恵者ともされる。プロメーテウスと並んでギリシア神話のトリックスター的存在であり、文化英雄としての面を有するが、霊魂を冥界に導く役割をも持っている。手には翼を有し、柄に二匹の蛇が絡みついている伝令使の杖「ケーリュケイオン」(kērukeion:カドゥケウス:cādūceus、長母音を省略して、杖の意)を持つ。ここで伊良子清白の言う「鞭」はその杖のこと。

「幼(いと)けなかりし目に觸れて」「琴をつくりし龜の甲」前注でも参考にしたウィキの「ヘルメース」によれば、『ヘルメースは早朝に生まれ、昼にゆりかごから抜け出すと、まもなくアポローンの飼っていた雄牛』五十『頭を盗んだ』。『ヘルメースは自身の足跡を偽装し、さらに証拠の品を燃やして雄牛たちを後ろ向きに歩かせ、牛舎から出た形跡をなくしてしまった』。『翌日、牛たちがいないことに気付いたアポローンは不思議な足跡に戸惑うが、占いによりヘルメースが犯人だと知る』。『激怒したアポローンはヘルメースを見つけ、牛を返すように迫るが、ヘルメースは「生まれたばかりの自分にできる訳がない」とうそぶき、ゼウスの前に引き立てられても「嘘のつき方も知らない」と言った』。『それを見たゼウスはヘルメースに泥棒と嘘の才能があることを見抜き、ヘルメースに対してアポローンに牛を返すように勧めた』。『ヘルメースは牛を返すが』、『アポローンは納得いか』なかった。すると、『ヘルメースは生まれた直後(牛を盗んだ帰りとも)に洞穴で捕らえた亀の甲羅に』、『羊の腸を張って作った竪琴を奏でた』。『それが欲しくなったアポローンは牛と竪琴を交換してヘルメースを許し、さらに』、『ヘルメースが葦笛をこしらえると、アポローンは友好の証として自身の持つケーリュケイオンの杖をヘルメースに贈った(牛はヘルメースが全て殺したため、交換したのはケーリュケイオンだけとする説も』あり『殺した牛の腸を竪琴の材料に使ったとも』言われる)、この時、『アポローンとお互いに必要な物を交換したことからヘルメースは商売の神と呼ばれ、生まれた直後に各地を飛び回ったことから旅の神にもなった』とある。

「プロメトイス」ギリシア神話に登場する男神で、タイタンの一柱であるプロメテウス(Promētheús)。ウィキの「プロメーテウス」によれば、『ゼウスの反対を押し切り、天界の火を盗んで人類に与えた存在として知られる。また人間を創造したとも言われ』、先のヘルメスと『並んで』、『ギリシア神話におけるトリックスター的存在であり、文化英雄としての面を有する』とある。『ゼウスが人間と神を区別しようと考えた際、プロメーテウスはその役割を自分に任せて欲しいと懇願し了承を得た。彼は大きな牛を殺して二つに分け、一方は肉と内臓を食べられない皮で包み』、『もう一方は骨の周りに脂身を巻きつけて美味しそうに見せた。そしてゼウスを呼ぶと、どちらかを神々の取り分として選ぶよう求めた。プロメーテウスはゼウスが美味しそうに見える脂身に巻かれた骨を選び、人間の取り分が美味しくて栄養のある肉や内臓になるように計画していた。ゼウスは騙されて脂身に包まれた骨を選んでしまい、怒って人類から火を取り上げた』。『この時から人間は、肉や内臓のように』、『死ねば』、『すぐに腐ってなくなってしまう運命を持つようになった』。『ゼウスはさらに人類から火を取り上げたが、プロメーテウスは、自然界の猛威や寒さに怯える人類を哀れみ、火があれば、暖をとることもでき、調理も出来ると考え』、鍛冶神『ヘーパイストスの作業場の炉の中にオオウイキョウ』(セリ目セリ科オオウイキョウ属オオウイキョウ Ferula communis)を火口(ほくち)として『入れて点火し』、『それを地上に持って来て人類に「火」を渡した。人類は火を基盤とした文明や技術など多くの恩恵を受けたが、同時にゼウスの予言通り、その火を使って武器を作り』、『戦争を始めるに至った』。『これに怒ったゼウスは、権力の神クラトスと暴力の神ビアーに命じ』、『プロメーテウスをカウカーソス山の山頂に磔にさせ、生きながらにして』、『毎日』、『肝臓を鷲についばまれる責め苦を強いた。プロメーテウスは不死であるため、彼の肝臓は夜中に再生し、のちにヘーラクレースにより解放されるまで拷問が行われていた。その刑期は』三『万年であった』とある。

「オフイツト」「off it」か。「off one's head」の短縮刑の口語・俗語で「酔って・狂って・夢中になって」の意であるから、伊良子清白は「酔狂な振る舞い」の意で用いているか。

「輦(くるま)」本邦では音「レン」で読むのが普通。天皇が乗用する輿(こし)の一つ。行幸の際に方形の屋形を載せた轅(ながえ)を駕輿丁(かよちょう)が担ぐ形のもの。屋根に金銅の鳳凰を置くものを「鳳輦」、宝珠形を置くものを「葱花(そうか)輦」と呼ぶが、前者が天皇の正式の乗用の輿である。

 初出形は以下。かなり原型と異なる

   *

 

言 靈

 

水草(みくさ)を追ひて牧人(まきびと)の

うつり住みたるいにしへの

遠きその世に言靈(ことだま)は

幸(さきは)ふ國をえらびたり

 

北にむかへば海荒れて

天(そら)もくもれり松杉の

黑き梢の蔽ふところ

ここの言葉はにごりたり

 

南に行けば鰐ざめの

棲み古る流れ深林(ふかばやし)

物みな燃ゆる熱國(あつくに)の

ここの言葉は訛りたり

 

牧場みどりのグリースと

桂にほへるローマンと

かがやき昇る日の本と

ここに言葉は榮えたり

 

日は暖かに野を照らし

花は深くも咲きいでて

鳥は長閑に啼き交はし

こゝに言葉は榮えたり

 

冠に百合花(ゆり)をさすごとく

樂と詩(うた)とは國民(くにたみ)が

國を頌(ほ)めたることばにて

よろこび四方に溢れたり

天(てん)に酒星あるところ

地に酒泉湧くところ

うましみくにの言靈は

さきはふ限りさきはひぬ

 

見ればなつかしグリースの

古き匠が家の集

きけば慕はしローマンの

名ある樂師がうたの卷

 

これ靑丹よし奈良すぎて

山城霞む鴨の川

都の錦たれか織る

 

詩(うた)の聖(ひじり)は聲あげて

湖(うみ)のほとりにうまれたり

世を驚かす伶人は

祭のにはにあらはれぬ

 

薔薇(しやうび)の花にこと寄せて

戀を歌ひし世捨て人

地獄の曲におそはれて

胡弓をすてし少年子

 

二つの蛇のまつはへる

鞭を手にするヘルメスが

幼(いと)けなかりし目に觸れて

琴をつくりし龜の甲

 

古きその世の罪と罰

天(あめ)の火盤(ひざら)をぬすみたる

プロメトイスの物語

神の工(たくみ)のヲフイツト

 

國は亡びてそのかみの

帝(みかど)の輦(くるま)絕えぬれど

葡萄畠の破垣(やれがき)に

言葉はなほも殘りけり

 

綾に畏し敷島の

大和島根の神國に

俸へ來たりし神寶(かんだから)

誰れ言靈(ことだま)を仰がざる

 

勅撰の集代々を經て

廿一代花紅葉

秀でし人の名を誦して

文の林を辿りみる

 

木播の里の隱家に

それ蟬丸が四つの絲

命をからむ蔦蘿

芭蕉は岐蘇の句に老いぬ

 

誰れ故鄕を思はざる

誰れ故鄕の言の葉の

舌に甘きを思はざる

あゝ歸らなむ歸らなむ

 

窓をひらけば國原の

樂しき鄕は穗に滿ちて

豐年祝ふ國民の

今言の葉は賑へり

 

   *

初出中の「木播」は京都府宇治市木幡(こばた)か(グーグル・マップ・データ。但し、ここだとすると読みは確定出来ない。「こばた」(住所表示の読み)以外に「こわた」「こはた」の読みが今も併存するからである)。蟬丸がここに隠棲したとする伝承があるのか。ウィキの「蝉丸」によれば、「平家物語」巻十の「海道下り」では、醍醐天皇の第四宮として、山科の四宮河原(現在の京都市山科区を南流する四宮川と東西に走る東海道が交差するあたりに広がっていた河原)に住んだとはある。「岐蘇の句」の「岐蘇」は「木曾」の古表記。芭蕉の「老いぬ」とするその句は、言わずもがな、前行で下の句が示されたそれ、則ち、「更科紀行」に載る、

 桟橋(かけはし)や命をからむ蔦葛(つたかづら)

であることは言うまでもない。同紀行のこのロケーション自体は、芭蕉満四十四歳、貞亨五(一六八八)年八月十一日頃に当たる。]

2019/04/09

和漢三才圖會卷第三十八 獸類 貓(ねこ) (ネコ)

Neko

 

 

 

ねこ   家貍

【音苗】

     金花貓【出月令廣

      義猫爲

      妖者也】

ミヤ◦ウ

 

本綱貓其名自呼捕鼠小獸也有黃黒白駁數色貍身而

虎靣柔毛而利齒以尾長腰短目如金銀及上齶多稜者

爲良其睛可定時【子午卯酉如一線 丑未辰戌如棗核 寅申巳亥如滿月 其時時睛形變也】

其鼻端常冷惟夏至一日則煖性畏寒而不畏暑能晝地

卜食隨月旬上下囓鼠首尾皆與虎同其孕也兩月而生

一乳數子但有自食之者俗傳牝猫無牡但以竹箒掃背

數次則孕或用斗覆貓於竃前以刷箒頭擊斗祝竈神而

求之亦孕此與以雞子祝竈而抱雛者相同俱理之不可

推者也貓有病以烏藥水灌之甚良世傳薄荷醉貓死貓

引竹物類相感然耳

猫尿 諸蟲入耳滴入之卽出取尿法以薑或蒜擦牙鼻

或生葱紝鼻中卽遺出

                  仲正

 夫木眞葛原下はひありくのら猫のなつき難は妹が心よ

万寳全書云猫純黃純白純黒者佳

△按猫春牡喚牝秋牝喚牡而乳大抵春秋二度生子秋

 子多難育性畏寒也凡六十日而産生一七日始開眼

 經三旬始自食飯【其吸乳之間糞溺皆母猫舐尽令不汚至獨食物則自行糞處】過一

 月半猫重可十兩則離乳能育凡十有余年老牡猫有

 妖爲災者相傳純黃赤毛者多作妖惟於暗室以手逆

 撫背毛則放光或舐油者是當爲恠之表也凡犬毎嫉

 猫噬殺不欲吃其肉止殺棄耳不如猫嗜鼠也

 凡病猫用烏藥或生硫黃汁或鰊魚泥鰌天蓼子皆能

 治又方用胡椒末【以水爲丸】猫雖苦其辛味能能愈【甚神効】但捉

 頭引上之露脚爪者不治如躄則灸尾根立愈猫食鳥

 貝膓則耳缺落往往試之然

三才圖會云猫耳經捕鼠後則有缺如鋸如虎食人而鋸

耳也酉陽雜組云猫洗靣過耳則客至其黒猫闇中逆循

其毛若火星

 

 

ねこ      家貍〔(かり)〕

【音、「苗」。】

        金花貓(ねこまた)

        【「月令廣義〔(がつりやう

         こうぎ)〕」に出づ。『猫、

         妖を爲す者なり』〔と〕。】

ミヤ

 

「本綱」、貓、其の名、自ら呼びて、鼠を捕ふ小獸なり。黃・黒・白・駁〔(ぶち)〕の數色有り。貍の身にして、虎の靣〔(おもて)〕、柔き毛にして、利〔(と)〕き齒あり。尾、長く、腰、短く、目〔は〕金銀のごとく、及び上齶(うはあご)に稜(かど)多き者を以つて、良と爲す。其の睛(ひとみ)時を定むべし【子・午・卯・酉は一線のごとし。丑・未・辰・戌は棗〔(なつめ)の〕核〔(さね)〕のごとし。寅・申・巳・亥は滿月のごとし。其の時時、睛の形、變ずるなり。】。其の鼻の端、常に冷ゆる。惟だ、夏至の一日は、則ち、煖かなり。性、寒を畏れて暑を畏れず。能く地に晝〔(かく)〕して、食を卜〔(うらな)〕ふ。月〔の〕旬に隨ひて上下の鼠の首尾を囓〔(かじ)〕る〔ことは〕、皆、虎と同じ。其の孕むや、兩月〔(ふたつき)〕にして生ず。一乳〔に〕數子あり[やぶちゃん注:一回の出産で数匹の子を産む。]。但し、自ら之れを食〔ら〕ふ者、有り。俗に傳ふ、「牝猫。牡、無きに但〔(ただ)〕竹箒〔(たけははき)〕を以つて、背を掃(は)く〔こと〕數次にして、則ち、孕みす。或いは斗(ます)を用ひて貓を竃の前に覆ひ、刷箒〔(はけははき)〕の頭を以つて斗〔(ます)〕を擊ち、竈神に祝ひて之れを求めても亦、孕みす。此れ、雞子を以つて竈を祝ひて雛を抱〔(いだ)〕く者と、相ひ同じ〔なり〕。俱に理〔(ことはり)〕の推すべからざる者なり。貓、病ひ有れば、烏藥の水を以つて之れに灌ぎて、甚だ良し。世に傳ふ、「薄荷、貓を醉はし、死貓、竹を引く」〔てふ〕物の類ひ、相ひ感じて然るのみ。

猫の尿(いばり) 諸蟲、耳に入るに、之れを滴り入れば、卽ち、出づ。尿を取る法〔は〕薑〔(しやうが)〕或いは蒜〔(にんにく)〕を以つて牙・鼻に擦(す)り、或いは、生の葱(ひともじ)を鼻の中に紝〔れば〕、卽ち遺〔(や)り〕出づ。

                  仲正

 「夫木」

   眞葛原〔(まくづはら)〕下〔(した)〕はひありくのら猫の

      なつき難きは妹〔(いも)〕が心よ

「万寳全書〔(ばんほうぜんしよ〕」に云はく、『猫、純黃・純白・純黒なる者、佳なり』〔と〕。

△按ずるに、猫、春は、牡、牝を喚〔(よ)〕び、秋は、牝、牡を喚びて乳(つる)む。大抵、春・秋、二度、子を生む。〔然れども〕秋の子は、多く、育ち難し。性、寒を畏ればなり。凡そ六十日にして産す。生れて一七日(ひとなぬか)にして、始めて、眼を開き、三旬[やぶちゃん注:三十日。]を經て、始めて自ら飯を食ふ【其の乳を吸ふの間の糞・溺〔(ゆばり)〕は、皆、母猫、舐め尽して汚さざらしむ。獨り物を食ふに至りて、則ち、自ら糞〔する〕處に行く。】一月半を過ぎ、猫の重さ、十兩[やぶちゃん注:明代換算で三百七十三グラム。]ばかり〔となれば〕、則ち、乳を離れて、能く育む。凡そ十有余年の老牡猫は、妖(ば)けて災ひを爲す者、有り。相ひ傳ふ、「純黃赤毛の者、多くは、妖を作す。惟だ、暗室に於いて手を以つて背の毛を逆さに撫でて、則ち、光りを放ち、或いは、油を舐める者、是れ、當に恠を爲すべきの表はれなり」〔と〕。凡そ、犬、毎〔(つね)に〕猫を嫉〔(ねた)〕み、噬〔(く)ひ〕殺す。其の肉を吃〔(くら)は〕んと欲するにあらず。止(たゞ)殺し棄(す)つるのみ。猫の鼠を嗜〔(この)〕むがごとくならざるなり。

凡そ病〔める〕猫には「烏藥」を用ひ、或いは生の「硫黃汁」或いは鰊-魚(にしん)・泥鰌(どぢやう)・天蓼子(またゝび)〔も〕皆、能く治す。又〔の〕方〔(はう)に〕、胡椒の末を用ふ【水を以つて丸と爲す。】。猫、其の辛味に苦しむと雖も、能く愈〔(い)〕ゆ【甚だ神効〔あり〕。】。但〔し〕、頭を捉(とら)へて之れを引き上げ、脚の爪を露〔(あら)〕はす者、治せず。如〔(も)〕し、躄(こしぬけ)[やぶちゃん注:腰抜け。]に〔なれるもの〕は、則ち、尾の根に灸して立ちどころに愈ゆ。猫、鳥貝(とりがい[やぶちゃん注:ママ。])の膓(わた)を食ふときは、則ち、耳、缺け落つ。往往〔にして〕之れを試みるに、然り。

「三才圖會」に云はく、『猫の耳、鼠を捕ることを經て後、則ち、缺〔(か)け〕有りて、鋸〔(のこ)〕のごとし。虎、人を食〔(くら)〕ひて鋸の耳となるがごときなり』〔と〕。「酉陽雜組」に云はく、『猫、靣〔(かほ)〕を洗ひて、耳を過ぐるときは、則ち、客、至る。其の黒猫、闇-中(くらがり)に、逆に其の毛を循〔(めぐら)さば〕火〔の〕星〔の出づるが〕ごとし』〔と〕。

[やぶちゃん注:食肉目ネコ亜目ネコ科ネコ属ヨーロッパヤマネコ亜種イエネコ Felis silvestris catusいやいや! それにしても! この寺島良安の引用と評言の記載は最初から最後まで徹頭徹尾飽きさせず面白い! 面白過ぎる! 古典的な伝統的博物学の手法で民俗学的「猫」観を記述しているからである。こんな痛快な「ネコ学」を読んでしまうと、辛気臭い生物学的猫記述など引用する気が完全に失せる。ウィキの「ネコ」でも何でもお読みになられるがよい。にしても、良安がネコを「獣類」に入れて、「畜類」としなかったのは興味深い(鼠を捕らせるのに飼えば、立派に蓄類だのに)。彼の当時の観察からも、猫は飼育されても決して人に阿(おもね)ることの少ない野性の属性を損じていないと感じさせたのであろうか。

「家貍〔(かり)〕」「貍」は「狸」に同じ。食肉目イヌ科タヌキ属タヌキ Nyctereutes procyonoides

「貓【音、「苗」。】」拼音「māo」(マァォ)。「貓、其の名、自ら呼」ぶというのが腑に落ちる。

「金花貓(ねこまた)」無論、この「ねこまた」は良安の当て訓で、標題項目でこうした漢名に敢えて猫の妖怪「ねこまた」(猫又)というルビを振るのは珍しい。ウィキの「猫又」によれば、『中国では日本より古く隋時代には「猫鬼(びょうき)」「金花猫」といった怪猫の話が伝えられていたが、日本においては鎌倉』『前期の藤原定家による』「明月記」の』『天福元』(一二三三)年八月二日の『記事に、南都(現・奈良県)で「猫胯」が一晩で数人の人間を食い殺したという記述がある。これが、猫又が文献上に登場した初出とされており、猫又は山中の獣として語られていた』、但し、「明月記」の「猫又」は『容姿について「目はネコのごとく、体は大きい犬のようだった」と記されていることから、ネコの化け物かどうかを疑問視する声もあり』、『人間が「猫跨病」という病気に苦しんだという記述があるため、狂犬病にかかった獣がその実体との解釈もある』。また、鎌倉末期の随筆「徒然草」(元弘元(一三三一)年頃成立)にも『「奥山に、猫またといふものありて、人を食ふなると人の言ひけるに……」と記されている』のはご存じ通りで、既に江戸後半には、化け猫の漢名として「金花貓」は市民権を得ていたようである。私の電子化した諸テキストでも化け猫の話は枚挙に遑がないのだが、まあ、「柴田宵曲 妖異博物館 化け猫」でもリンクしておこうか。

「月令廣義〔(がつりやうこうぎ)〕」東洋文庫訳の「書名注」によれば、『二十五巻。明の馮誼(ふうぎ)撰。前半は文帝への上奏文、後半は弟子との問答で、政治・道徳について論じた書』とある。

「子」凡そ午後十一時頃から午前一時頃。別説もあるが、これが一般的(以下同じ)。

「午」凡そ午前十一時頃から午後一時頃。

「卯」凡そ午前五時頃から午前七時頃。

「酉」凡そ午後五時頃から午後七時頃。

「丑」凡そ午前一時頃から午前三時頃。

「未」凡そ午後一時頃から午後三時頃。

「辰」凡そ午前七時頃から午前九時頃。

「戌」凡そ午後七時頃から午後九時頃

「棗〔(なつめ)〕」バラ目クロウメモドキ科ナツメ属ナツメ Ziziphus jujuba。その果実は核果で長さ二センチメートルほどの卵型を呈する。

「寅」凡そ午前 三時頃から午前 四時頃。

「申」凡そ午後 三時頃から午前 五時頃。

「巳」凡そ午前 九時頃から午前十一時頃。

「亥」凡そ午後 九時頃から午後十一時頃。以上、二十四時間の完全対称時間枠が割り当てられていることが判る。

「地に晝〔(かく)〕して、食を卜〔(うらな)〕ふ」地面に爪で何か絵か図形のようなものを描いて得られる餌食の在処(ありか)を占う。

「月〔の〕旬に隨ひて上下の鼠の首尾を囓〔(かじ)〕る」一ヶ月の上・中・下旬。それに合わせて、主食である鼠を頭から食うか、尾から食うかが、鼠の習性の中で喰らう作法として厳密に定められてあるというのである。

「皆、虎と同じ」先行する「虎」の項に、『虎、衝破〔(しようは)〕を知り[やぶちゃん注:敵を倒すに有利な方角と時を知って。]、能く〔それを〕地に畫〔(ゑをか)き〕て、奇・偶を觀て[やぶちゃん注:対象の奇数と偶数を判じて。陰陽説では奇数は陽で、偶数は陰。]、以つて食〔(くひもの)〕を卜(うらな)ひ、〔その〕物〔を食ふに〕、月旬の上・下に隨ひて、其の〔獲物の〕首・尾を囓〔(かじ)〕る〔ことを變ふる〕』とあった。虎は哺乳綱食肉目ネコ科ヒョウ属トラ Panthera tigris だから、まんず、類縁種だからね。

「斗(ます)を用ひて貓を竃の前に覆ひ、刷箒〔(はけははき)〕の頭を以つて斗〔(ます)〕を擊ち、竈神に祝ひて之れを求めても亦、孕みす。此れ、與雞子を以つて竈を祝ひて雛を抱〔(いだ)〕く者〔あること〕を以つて相ひ同じ〔なり〕」時珍は「俱に理〔(ことはり)〕の推すべからざる者なり」と人智の理論を超越した玄妙な意味を掲げて終わっているのでるが、柳田國男ならテツテ的に、一本、論文を書くこと請け合いだ。

「此れ、雞子を以つて竈を祝ひて雛を抱〔(いだ)〕く者と、相ひ同じ〔なり〕」東洋文庫訳の補注に、「本草綱目」の「禽部 原禽類」の「雞」には、『民間の俗説として、雄が』いないのに産まれた『鷄卵はそれを竈に告げ』て『祈っ』た上で『孵(ふ)化させると』、『雛が孵る、とある』とあるのを指す。「俚人畜鷄無雄即以鷄卵告竈而伏出之」がその原文である。

「烏藥」中国中部原産のクスノキ目クスノキ科クロモジ属クロモジ節テンダイウヤク(天台鳥薬)Lindera strychnifoli。古く秦の始皇帝が不老長寿の霊薬を求めて徐福を日本に派遣したのは有名だが、この時の霊薬の候補がこのテンダイウヤクであるともされている漢方では。主に塊根(かいこん)部を乾燥したものを生薬で「鳥薬」「天台鳥薬」と呼ぶ(後者はは中国の天台山(浙江省東部の天台県の北方にある霊山。最高峰は華頂峰で標高千百三十八メートル)で産出されるものが最も効き目があって貴重とされることに由来する。神経性胃腸炎・腸管の癒着による軽度の通過障害などに見られる、臍周辺の疼痛・腹鳴・泥状便などの症状に効果があるとされ、月経痛にも用いる。日常的には芳香性健胃薬・鎮痛薬として健胃整腸・腸蠕動促進作用を持つとする。また、新鮮な葉は揉み潰して油で炒め、関節リューマチや打撲傷に塗布して効果があるという。

「死貓、竹を引く」今一つ、どのような怪異のシチュエーションを指すのか不明。識者の御教授を乞う。

「紝〔れば〕」読み不詳。この字は「機を織る・紡(つむ)ぐ」の意であるから、今一つ意味が採れない。東洋文庫訳は『鼻の中につっこむと』と訳している。シチュエーションとして穏当ではあるが、そう訳してよい根拠が判らない。紡いだ形のような葱を機織の梭のように指し込むというのは、迂遠な解釈で、容易には受け入れ難い。

「遺〔(や)り〕出づ」洩らし出す。

「仲正」「夫木」「眞葛原〔(まくづはら)〕下〔(した)〕はひありくのら猫のなつき難きは妹〔(いも)〕が心よ」「仲正」は源仲正(生没年不詳)平安末期の武士で歌人。清和源氏。三河守源頼綱と中納言君(小一条院敦明親王の娘)の子。六位の蔵人より下総、下野の国司を経て、兵庫頭に至った。父より歌才を受け継ぎ、「金葉和歌集」以下の勅撰集に十五首が入集している。「日文研」の「和歌データベース」の「夫木和歌抄で見ると、「巻二十七 雑九」の一首であるが、そこでは

 まくすはら したはひありくのらねこの なつけかたきは いもかこころか

「なつき」「なつけ」に異同が認められる。自動詞と他動詞の違いで、受け取った印象がかなり違う。個人的には「なつき」がいいけれど、まあ、多分、「なつけ」だろうなあ。

「万寳全書」東洋文庫訳の「書名注」に、『無名氏撰。清の毛煥文増補の『増補万宝全書』がある。三十巻。百科事典のたぐい』とある。

「生れて一七日(ひとなぬか)にして、始めて、眼を開き」東洋文庫(五書肆版)ではここを『十七日』とする。しかし、ネコのサイトを見るに、仔猫の両目が開く正しい期間は平均生後十日前後とされるとあり、「一七日」、生まれてから七日後で当日を数えなければ、八日で、現行のそれに近く、東洋文庫のそれは長過ぎる。

「凡そ、犬、毎〔(つね)に〕猫を嫉〔(ねた)〕み、噬〔(く)ひ〕殺す。其の肉を吃〔(くら)は〕んと欲するにあらず。止(たゞ)殺し棄(す)つるのみ」私は寡聞にしてそうした事実を知らない。

「鰊-魚(にしん)」条鰭綱ニシン目ニシン科ニシン属ニシン Clupea pallasii

「泥鰌(どぢやう)」条鰭綱骨鰾上目コイ目ドジョウ科ドジョウ属ドジョウ Misgurnus anguillicaudatus

「天蓼子(またゝび)」ツバキ目マタタビ科マタタビ属マタタビ Actinidia polygamaウィキの「マタタビ」によれば、『効果に個体差はあるものの、ネコ科の動物は揮発性のマタタビラクトンと総称される臭気物質イリドミルメシン、アクチニジン、プレゴンなど』『に恍惚を感じることで知られており、イエネコがマタタビに強い反応を示すさまから「猫に木天蓼」ということわざが生まれた。ライオンやトラなどネコ科の大型動物も』、『イエネコ同様』、『マタタビの臭気に特有の反応を示す。なおマタタビ以外にも、同様にネコ科の動物に恍惚感を与える植物としてイヌハッカ』(キク亜綱シソ目シソ科イヌハッカ属イヌハッカ Nepeta catariaウィキの「イヌハッカ」によれば、種小名の『カタリア(cataria)はラテン語で』「猫」に関わる『意味があり、また英名の』「Catnip」には『「猫が噛む草」という意味がある。その名の通り、イヌハッカの精油にはネペタラクトンという猫を興奮させる物質が含まれている。猫がからだをなすりつけるので、イヌハッカを栽培する際には荒らされることも多いが、この葉をつめたものは猫の玩具としても売られている』とある)『がある』とある。

「猫、鳥貝(とりがい[やぶちゃん注:ママ。])の膓(わた)を食ふときは、則ち、耳、缺け落つ。往往〔にして〕之れを試みるに、然り」トリガイ斧足(二枚貝)綱マルスダレガイ目ザルガイ科トリガイ属トリガイ Fulvia mutica であるが、これはイカサマ話ではなく、事実である。光アレルギー(光過敏症)による炎症による劇症型症状である。現在これは、内臓に含まれているクロロフィルa(葉緑素)の部分分解物ピロフェオフォーバイドa pyropheophorbide a )やフェオフォーバイドa Pheophorbide a )が原因物質となって発症する光アレルギー(光過敏症)の結果であることが分かっている。サザエやアワビの摂餌した海藻類の葉緑素は分解され、これらの物質が特に中腸腺(軟体動物や節足動消化器の一部。脊椎動物の肝臓と膵臓の機能を統合したような消化酵素分泌器官)に蓄積する。特にその中腸線が黒みがかった濃緑色になる春先頃(二月から五月にかけて)、毒性が最も高まるとする(ラットの場合、五ミリグラムの投与で耳が炎症を越して腐り落ち、更に光を強くしたところ死亡したという)。なお、なぜ耳なのかと言えば、毛が薄いために太陽光に皮膚が曝されやすく、その結果、当該物質が活性化し、強烈な炎症作用を引き起すからと考えられる。これについては、さんざん書いてきた。例えば、「大和本草卷之十四 水蟲 介類 鳥貝」を見られたい。]

和漢三才圖會卷第三十八 獸類 靈貓(じやかうねこ) (ジャコウネコ)

Jyakouneko

 

 

 

じやかうねこ 靈貍 香貍

       神貍 類

靈貓

      【俗云麝香猫】

リンメウ

 

本綱靈貓在南方山谷狀如貍其文如金錢豹有髦自能

爲牝牡自孕而生故食之者不妬其陰糞溺皆香如麝功

亦相似

△按靈猫【俗云麝香猫】咬※吧及天竺有之似猫大尾【毛色有數品云】

[やぶちゃん注:「※」=「口」+「留」。]

 一種有麝香鼠【出于鼠類】 一種有麝香木大明一統志云

 眞臘國有麝香木其木氣似麝臍香

 

 

じやかうねこ 靈貍〔(れいり)〕 香貍

       神貍 類

靈貓

      【俗に云ふ、「麝香猫」。】

リンメウ

 

「本綱」、靈貓、南方の山谷に在り、狀、貍〔(たぬき)〕のごとし。其の文、金錢豹〔(きんせんへう)〕のごとくにして、髦〔(たれがみ)〕[やぶちゃん注:垂れ髪。]有り。自ら能く牝牡を爲し、自ら孕(はら)みて〔子を〕生ず。故に、之れを食ふ者、妬(ねた)まず。其の陰[やぶちゃん注:陰茎。]・糞・溺〔(ゆばり)〕[やぶちゃん注:尿。]、皆、香〔り〕、麝〔(じやかう)〕のごとく、功も亦、相ひ似たり。

△按ずるに、靈猫〔(れいびやう)〕【俗に云ふ「麝香猫」。】咬※吧(シヤガタラ)[やぶちゃん注:「※」=「口」+「留」。現在のインドネシアのジャカルタ。]及び天竺に之れ有り、猫に似て大(ふと)き尾〔なり〕【毛色、數品有りと云ふ。】。一種、「麝香鼠〔(じやかうねづみ)〕」有り【鼠類に出づ。】。 一種、「麝香木」有り。「大明一統志」に云はく、『眞臘國〔(しんらうこく)〕[やぶちゃん注:カンボジア。]に「麝香木〔じやかうぼく)〕」有り、其の木の氣(かざ)、麝臍〔(じやかうのへそ)〕の香に似たり』〔と〕。

[やぶちゃん注:食肉目ネコ型亜目ジャコウネコ科 Viverridae のジャコウネコ類。同科には、ヘミガルス亜科 Hemigalinae・パームシベット亜科 ParadoxurinaePrionodontinae 亜科・ジャコウネコ亜科 Viverrinae に分かれ、意外なことに、現生のジャコウネコ科は八十種あまりから成る大所帯で、実に食肉目 Carnivora の中では最も多く、東南アジアからアフリカ・ヨーロッパ南部にかけて広く棲息している。但し、ジャコウネコ亜科に属する、

ジャコウネコ属 Viverra

アフリカジャコウネコ属 Civettictis

ジェネット属 Genetta

や、パームシベット亜科の、

パームシベット属 Paradoxurus

また、Prionodontinae 亜科の、

オビリンサン属 Prionodon

などに属する種群を広義に「ジャコウネコ」と呼んでいるようであり、さらに狭義には、

ジャコウネコ亜科コジャコウネコ属コジャコウネコ Viverricula indica

を指すという。小学館「日本大百科全書」の「ジャコウネコ」の記載の中の「コジャコウネコ」についての記載によれば(一部をウィキの「ジャコウネコ科の資料で書き改めた)、『台湾、中国南部、ミャンマー(ビルマ)、ヒマラヤ山麓』『地帯から、インド、スリランカ、ジャワ島まで分布し、草地や低木林に生息する。頭胴長』は四十五~六十三センチメートル、尾長は三十~四十三センチメートル、体重二・七から三・六キログラムで、『吻は細くて先がとがり、体は細長く、尾は体よりわずかに短く、先が細い。前後肢は短く、指は前後足とも』五『本で、つめは短くて鋭く、鞘(さや)の中に引っ込めることができる。第』一『指は高く』、『ほとんど地につかず、歩き方は指行性』(踵を浮かせたような爪先立ちの状態で歩行することを指す)『である。会陰部に臭液を出す顕著な腺がある。体は灰黄褐色または灰褐色の地色に黒色の小さい斑点』『や縦長の斑紋が並び、のどには』三『本の帯が横切る。尾には互いに離れた黒い輪がある。近縁のオオジャコウネコ』(後述)『にみられる背のたてがみ状の長毛を欠く。夜行性で日中は樹洞や岩の下、草や低木の茂みに潜み、木登りがうまいが、食物は多くの場合地上でとる。食物はおもにネズミ、リス、小鳥、トカゲ、昆虫などであるが、果実も食べ、ときに家禽』『を襲う。普通は単独で生活し、まれに』一『対でいる。年じゅう繁殖可能で』、一産で三~五子を産む。『飼育すれば』、よく馴れる。『会陰部にある臭腺の』麝香『臭がある分泌液から香料がつくられる。本種より大形の』インドジャコウネコViverra zibethaは、頭胴長が八十三~九十センチメートル、尾長は三十三~五十センチメートルで、『背に逆立てることができる』鬣(たてがみ)『状の毛を』持ち、『あまり木に登らない』とある。ウィキの「ジャコウネコ科」によれば、『生息地では食用とされることもある』とあり、『一部の種の性器の周辺にある臭腺(会陰腺)から分泌される液は、香水の補強剤や持続剤として利用され』、『この液は制汗剤や催淫剤・皮膚病の薬として用いられることもあった』。『英語圏で本科の多くの構成種に対して用いられる呼称civetは、アラビア語で会陰腺から分泌される液およびその臭いを指すzabādに由来する』。『農作物や家禽を食害する害獣とみなされることもあ』り、『ネズミの駆除を目的に移入された種もいる』と記す。また、かなり知られるようになったが、『コーヒー農園において、パームシベットの糞から得られるコーヒー豆が利用されて』おり、『高級コーヒーであるコピ・ルアクは、ジャコウネコ科の動物に』、『一旦』、『コーヒーの実を食べさせ、排泄物の中から未消化の実を利用したものである』とある。

「金錢豹〔(きんせんへう)〕」斑模様が金銭のように見えるヒョウ(ネコ目ネコ科ヒョウ属ヒョウ Panthera pardus)を指す。

「自ら能く牝牡を爲し、自ら孕(はら)みて〔子を〕生ず」無論、誤認。

「之れを食ふ者、妬(ねた)まず」類感呪術。

「天竺」「和漢三才図会」の五書肆版ではここは「太泥(パタニ)」であるらしい(東洋文庫訳による)。それだと、インドではなく、パタニ王国で、十四世紀から十九世紀にかけてマレー半島にあったマレー人王朝を指す。マレー半島のマレー系王朝の中で一番歴史が古い国である。

「麝香鼠〔(じやかうねづみ)〕」姿はネズミに似るがネズミとは無縁な、モグラの仲間である(但し、地中に潜らない)獣亜綱トガリネズミ目トガリネズミ科ジャコウネズミ属ジャコウネズミ Suncus murinus。腹側や体側に匂いを出す麝香腺を持つが、本種のそれは悪臭と表現される。書かれた通り、次の「巻第三十九 鼠類」に出るので詳述しない。知らない方はウィキの「ジャコウネズミ」を参照されたい。

「麝香木」カンボジア産となれば、沈香木(じんこうぼく)である。東南アジアに植生するアオイ目ジンチョウゲ科ジンコウ属 Aquilaria の、例えば、アクイラリア・アガローチャ Aquilaria agallocha が、風雨や病気・害虫などによって自分の木部を侵された際に、その防御策としてダメージを受けた部分の内側に樹脂を分泌する。その蓄積したものを採取して乾燥させ、木部を削り取ったものを「沈香」と呼ぶ。原木は比重が〇・四と非常に軽いが、樹脂が沈着することによって比重が増し、水に沈むようになることからかく呼ぶ。原木は幹・花・葉ともに無香であるが、熱することで独特の芳香を放ち、同じ木から採取したものであっても、微妙に香りが違うために、僅かな違いを利き分ける香道において「組香」での利用に適している(以上はウィキの「沈香」を参考にした)。なお、現行では中国語で「麝香木」というと、全然関係ないアフリカ産のシソ目シソ科フブキバナ属フブキバナ Tetradenia riparia を指すので注意。

「大明一統志」明の勅撰の地理書。一四六一年完成。全九十巻。]

柳田國男 山島民譚集 原文・訓読・附オリジナル注「馬蹄石」(6) 「毛替ノ地藏」(2)

 

《原文》

 一體馬ノ毛色ト云フモノハ如何ナル程度ニ迄變化シ得ルモノナルカ、自分ハ聊カモ之ヲ實驗シタルコトハ無ケレドモ、葦毛ハ兎ニ角黑ヤ栗毛ノ類ノ馬ガ一朝ニシテ白馬トナルト云フニ至リテハ、之ヲ傳說ト見ルノ外無キナリ。藝州嚴島ノ神馬ハ平日ハ厩ニ繫ギ明神遊幸ノ折ハ之ヲ儀杖ノ列ニ加フルモノナリ。此神馬ハ如何ナル毛色ノ馬ヲ獻納シテモ、次第ニ毛ヲ替ヘテ一二年ノ間ニハ必ズ純白トナルト信ゼラレタリ〔藝藩通志〕。此等ハ特ニ此宮ノ神德ニ由リテノミ說明スルコトヲ得べキ話ナリ。之ト近キ一例ハ尾張國ニモアリキ。【熊阪長範】愛知郡天白(テンパク)村島田ノ東方ナル定納山(ヂヤウナウヤマ)ト云フニ、熊阪長範ノ厩ノ跡ト云フ處アリテ、今モ其小字ヲ厩内(マヤノウチ)ト呼べリ。【地藏】古クハ程遠カラヌ路傍ニ有名ナル地藏堂アリ。長範ガ白キ馬ヲ盜ミ來レバ、一夜ノ中ニ之ヲ黑馬ニシテ本ノ主ノ眼ヲ暗マス。此地藏ヲ毛替地藏ト稱ヘシハ此ノ如キ不名譽ナル靈驗アリシ爲ナリト云フ。【雨乞】或ハ又雨地藏トモ名ヅケテ能ク雨乞ノ祈願ヲ容レタリトモ傳ヘタリ〔尾張志〕。熊阪長範ハ謠ニテハ越前ノ人ト稱スレドモ或ハ又信州上水内郡信濃尻(シナノジリ)村大字熊阪ヲ以テ其鄕里トスル說アリ。野尻ノ湖水ノ岸ヨリ見ユル峠ヲ長範阪ト云ヒ、其山ヲモ今ハ長範山ト云フ。長範ハ此山中ニ隱レ住ミ夜ハ里ニ出デテ馬ヲ盜ム。其馬ヲ月毛ハ栗毛ニ染メ栗毛ハ黑ニ塗替ヘテ、再ビ市ニ曳出シ之ヲ賣飛バス。其染場ノ跡ト云フ地アリテ礎永ク殘リタリ。【盜泉】多分ハ隣村ナドヨリノ惡評ナランモ、野尻ト熊阪トノ間ヲ流ルヽ關川ノ水ハ、之ヲ飮メバ盜心ヲ生ズべシト唱ヘラレテアリキ〔眞澄遊覽記三〕。但馬養父郡大藏村大字堀畑ニモ長範屋敷ト云フ小字アリ。長範曾テ此地ニ住ムト傳ヘテ泉アリ。此ニハ染物ノ口碑ハ存セザルモ、此水ヲ飮ム者ハ盜心ヲ生ジ、馬牛ニ飼ヘバ性惡シクナルト云フ俗信アリテ、今モ之ヲ用ヰル者ナシ〔但馬考〕。長範ホドノ大盜人ガ刷子ヲ持チテ内職ヲシタリトモ思ハレザレドモ、兎ニ角馬ノ毛ヲ替フルト云フ話ハ彼ト何カノ因緣アルべシ。【染屋】或ハ一種ノ染工ヲ賤シキ部落トシテ取扱ヒシ遺風ナルカモ測リ難ケレド、之ヲ神佛ノ力ニ基クトスルモノニ至リテハ、恐クハ亦彼ノ七驄八白ノ思想ト關係アルべク、兼テ又神馬ノ毛ノ色ヲ選ビタリシ大小ノ神社ノ古例ヲ說明スルモノトモ見ルコトヲ得べキナリ。【田村將軍】磐城田村郡小野新町東遠山萬福寺ノ觀世音ハ、カノ田村將軍ノ祈願ニ因リ千ノ矢ヲ放チタマヒシ本尊ト云ヘリ。十四五里四方ノ人民牝馬ヲ牽來リ、其牝馬ノ生ム駒ノ牝牡毛色ヲ此靈佛ニ祈願スレバ、願ノ通リノ駒ヲ得ル奇瑞アリ。凡ソ此邊ヨリ出ル駒ニハ良馬多シトノコトナリキ〔行脚隨筆上〕。

 

《訓読》

 一體、馬の毛色と云ふものは如何なる程度にまで變化し得るものなるか、自分は聊かも之れを實驗したることは無けれども、葦毛は兎に角、黑や栗毛の類いの馬が、一朝にして白馬となると云ふに至りては、之れを傳說と見るの外、無きなり。藝州嚴島の神馬は、平日は厩に繫ぎ、明神遊幸の折りは、之れを儀杖(ぎじやう)の列に加ふるものなり。此の神馬は、如何なる毛色の馬を獻納しても、次第に毛を替へて、一、二年の間には必ず純白となると信ぜられたり〔「藝藩通志」〕。此等は特に此の宮の神德に由りてのみ說明することを得べき話なり。之れと近き一例は尾張國にもありき。【熊阪長範(くまさかちやうはん)】愛知郡天白(てんぱく)村島田の東方なる定納山(ぢやうなうやま)と云ふに、「熊阪長範の厩の跡」と云ふ處ありて、今も其の小字を「厩内(まやのうち)」と呼べり。【地藏】古くは、程遠からぬ路傍に有名なる地藏堂あり。長範が白き馬を盜み來たれば、一夜の中に之れを黑馬にして本の主(あるじ)の眼を暗(くら)ます。此の地藏を「毛替(けがはり)地藏」と稱へしは、此くのごとき不名譽なる靈驗ありし爲めなりと云ふ。【雨乞】或いは又、「雨地藏」とも名づけて、能く雨乞の祈願を容(い)れたりとも傳へたり〔「尾張志」〕。熊阪長範は謠(うたひ)にては越前の人と稱すれども、或いは又、信州上水内郡信濃尻(しなのじり)村大字熊阪を以つて其の鄕里とする說あり。野尻の湖水の岸より見ゆる峠を「長範阪」と云ひ、其の山をも今は「長範山」と云ふ。長範は、此の山中に隱れ住み、夜は里に出でて、馬を盜む。其の馬を、月毛は栗毛に染め、栗毛は黑に塗り替へて、再び、市に曳き出だし、之れを賣り飛ばす。其の染場の跡と云ふ地ありて、礎(いしづえ)、永く殘りたり。【盜泉】多分は隣村などよりの惡評ならんも、野尻と熊阪との間を流るゝ關川の水は、之れを飮めば盜心(たうしん)を生ずべしと唱へられてありき〔「眞澄遊覽記」三〕。但馬養父(やぶ)郡大藏村大字堀畑にも「長範屋敷」と云ふ小字あり。長範、曾つて此の地に住むと傳へて、泉あり。此(ここ)には染物の口碑は存せざるも、此の水を飮む者は盜心を生じ、馬牛に飼(か)へば[やぶちゃん注:牛馬の飲用水として与えると。]、性(しやう)惡しくなると云ふ俗信ありて、今も之れを用ゐる者なし〔「但馬考」〕。長範ほどの大盜人が、刷子(はけ)を持ちて内職をしたりとも思はれざれども、兎に角、馬の毛を替ふると云ふ話は彼(かれ)と何かの因緣あるべし。【染屋】或いは、一種の染工(せんこう)を賤しき部落として取り扱ひし遺風なるかも測り難けれど、之れを神佛の力に基づくとするものに至りては、恐らくは亦、彼(か)の「七驄八白」の思想と關係あるべく、兼ねて、又、神馬の毛の色を選びたりし大小の神社の古例を說明するものとも見ることを得べきなり。【田村將軍】磐城田村郡小野新町東遠山萬福寺の觀世音は、かの田村將軍の祈願に因り千の矢を放ちたまひし本尊と云へり。十四、五里四方の人民、牝馬を牽き來たり、其の牝馬の生む駒の、牝・牡・毛色を此の靈佛に祈願すれば、願ひの通りの駒を得る奇瑞あり。凡そ此の邊りより出づる駒には良馬多しとのことなりき〔「行脚隨筆」上〕。

[やぶちゃん注:「愛知郡天白(てんぱく)村島田」現在の愛知県名古屋市天白区島田はここ(グーグル・マップ・データ。以下同じ)で、その東に少し離れた「天白公園」も天白町大字島田とあるので、この周辺だろうと思われるが、既に市街地化が進んでおり、山らしいものは見えない。愛知県名古屋市緑区定納山があるが、位置がずっと南方で違い過ぎる。検索ワード「定納山 長範」で調べても掛かって来ない。但し、天白区島田には曹洞宗地蔵寺があり、熊坂長範所縁として、毛替地蔵が現存する。同寺公式サイトによれば、嘉吉二年(一四四二)年に福井の大本山永平寺から樵山和尚が当地に来て、島田山広徳院として建立した寺とし、「毛替地蔵(けがえじぞう)」は、『昔、このあたりに熊坂長範(くまさかちょうはん)という大泥棒がいたそうです。ある日、金持ちの馬を盗み、売ろうと馬市に出掛けましたが、見つかって売れません』。『そこで、お地蔵様に「この馬を何とか売らせて下さい」と一心に願ったそうです』。『すると』、『一夜にして馬の毛色が変わり、売れども』、『人に怪しまれません。恩義を感じた長範はこのお金を貧しい人に分け与えました。それ依頼、この地蔵様は「毛替地蔵」とよばれるようになったそうです』。『今も美しい髪を願う人はもとより、子供さんのこと、仕事のことで悩む人々が、このお地蔵様のもとへ数多く訪れています』とある。小学館「日本大百科全書」の「熊坂長範」によれば、『生没年不詳。平安末期の大盗賊。実在の人物として証拠だてるのは困難であるが、多数の古書に散見し、石川五右衛門と並び大泥棒の代名詞の観がある。出身地は信州熊坂山、加賀国の熊坂、信越の境(さかい)関川など諸説ある。逸話に』よれば、七『歳にして寺の蔵から財宝を盗み、それが病みつきになったという。長じて、山間に出没しては旅人を襲い、泥棒人生を送った』が、承安四(一一七四)年の『春、陸奥(むつ)に下る豪商金売吉次を美濃青墓(みのあおはか)の宿に夜討ちし、同道の牛若丸に討たれたとも伝わる。この盗賊撃退譚』『は、義経』『モチーフの一つではあるが、俗説の域を出ない。謡曲』「烏帽子折(えぼしおり)」や「熊坂」、能狂言「老武者」、歌舞伎狂言「熊坂長範物見松(ものみのまつ)」は『長範を扱って有名』とある。なお、この毛替地蔵は「往生要集」で知られる恵心僧都源信(天慶五(九四二)年~寛仁元(一〇一七)年)の作とされる。

『「熊阪長範の厩の跡」と云ふ處ありて、今も其の小字を「厩内(まやのうち)」と呼べり』池田誠一氏の「名古屋幻の古代道路/歴史紀行9」(PDF)の「(3)古代駅家の跡?」に、『島田の少し東、鳴海丘陵のふもとの天白公園の北に、奈良から平安時代の中頃までの陶器がたくさん散布していた遺跡があります。石薬師 B 遺跡と名付けられたこの遺跡は、散布している大量の平安時代陶器の中に緑釉陶器が含まれていたため、古代の公的な施設の跡ではないかと推定されています。『尾張志』では、島田村の項に、「此厩之内という地名は上古駅家のありけむ旧地にやあらむ…」と、地名の「厩(うまや)」からいうと古代の道路の駅家だったのではないかとし、現地の広さもそれに当たるとしているのです』。昭和5七(一九八二)年、『この地を発見、調査した三渡俊一郎氏(その後名古屋考古学会会長)は、この遺跡からは平安時代後期に大量に流通した山茶碗が出土しないことに注目しました。出土物が奈良から平安中期という古代幹線道路が維持されていた時期に当てはまることからも、ここは山田郡の両村駅に比定できると考えたのです。島田は、古渡と推定した新溝駅の次の駅家の候補地として、名古屋の古代道路を考える上での重要な地点になりました』とあることで、この旧地名を確認出来る

「信州上水内郡信濃尻(しなのじり)村大字熊阪」現在の長野県上水内(かみみのち)郡信濃町(まち)大字熊坂国土地理院図で見ると、この熊坂の南方直近、野尻湖北方に「長範山」を確認出来、そのすぐ南が現在の野尻峠(こちらはグーグル・マップ・データ。以下同じ)であるから、この別称か、その北方に連なる峠を「長範阪」と呼んだものかも知れない。

「野尻と熊阪との間を流るゝ關川」地名と川名の両方で残る

「但馬養父(やぶ)郡大藏村大字堀畑」現在の山陰本線養父駅のある兵庫県養父市堀畑(ほりはた)であろう。

『「長範屋敷」と云ふ小字あり』確認出来ない。

「長範ほどの大盜人が、刷子(はけ)を持ちて内職をしたりとも思はれざれども」南方熊楠ばりのおちゃらかしの洒落である。

「染工(そめこう)を賤しき部落として取り扱ひし遺風」藍染め業者は「青屋(あおや)」「藍染め屋」「紺掻(こんかき)」等と呼んだが、中世以降から江戸中期まで、関西地方、殊に京都に於いて差別視されていた。京都町奉行は当初はこの青屋に牢番や死刑囚の処理などの「青屋役」を課していたのである(「ブリタニカ国際大百科事典」に拠った)。

「磐城田村郡小野新町東遠山萬福寺の觀世音」これは現在の福島県田村郡小野町(おのまち)小戸神日向(おとかみひむき)にある浄土宗東堂山満福寺の誤りである(本尊は阿弥陀如来であるが、脇侍が観音菩薩と勢至菩薩で、本堂と別に観音堂があり、観音信仰の霊場でもある次注参照)。ここ

「かの田村將軍の祈願に因り千の矢を放ちたまひし本尊と云へり」「小野町史 民俗編」PDF)の六〇〇~六〇一ページに同寺の記載があり、その「縁起」の部分に、開山伝承として、平安初期の延暦二〇(八〇一)年に坂上田村麻呂が征夷大将軍として蝦夷征伐の際、『霧島岳(大滝根山)を根城として悪逆非道の限りを尽くしていた悪党大多鬼丸一味の退治に先立ち、日頃』から『信心』していた『観音菩薩に「能救世苦」の祈願をし、出陣したところ』、たちどころに、『全山鳴動』して『士気百倍』、『連戦連勝した』とあり、『戦死した将兵』や『愛馬の追善供養と観音さまへの感謝の心から、法相宗』の『高僧徳一を勧請して大同二年(八〇七)』、『榧(かや)の木の一木彫りの観音像を作り』、『開山したと伝える』とある。さらに、『馬の守護神として、東堂山は県内各地から信心され、絵馬なども沢山奉納されたであろう。中でも洋人曳馬図は、県の重要文化財にも指定されている立派なものである』とあり、馬との強い親和性のある寺であることも判った(太字下線は私)。]

白百合の歌 清白(伊良子清白)

 

白百合の歌

 

凱旋(かちどき)祝ふ王城の

夕べ輝く銀の盃(つき)

形も勝(け)なり百合の花

山の峽間(はざま)に開きたり

 

一々(いちいち)の花一々(いちいち)の

微妙(みめう)を現(げん)ず燦として

無數の花の百合の群(むれ)

白きに化(け)する魂(たま)あらむ

 

試みに採る一莖(いつけい)の

細きに撓む花の冠(かんむり)

淸淨(しやうじやう)世界眼前に

天女(てんによ)も來り舞ひぬべし

 

神見(みそな)はし頌(ほ)めたまふ

眞珠(またま)か籠る花の露

眠れる旦(あした)醒むる夕べ

詩人(うたびと)心を傷ましむ

 

冷やかにして秋の草

暖かにして春の花

悟りと迷ひ白百合の

花はすべてを超脫す

 

山縱橫(たてぬき)に雲百重(ももへ)

谷さかしまに水千尋(ちひろ)

遲々たる步み木(こ)の暗(くれ)に

蠢(うご)めく人間營めり

 

不老の門(かど)に駭(おどろ)きて

かけ去る物の命(いのち)かな

日月劫(ごふ)に蝕(しよく)し消え

百合の白きを殘すべし

 

[やぶちゃん注:初出は明治三五(一九〇二)年九月発行の『文庫』。署名は「清白」。

「勝(け)なり」形容動詞「異(け)なり」で、「常と違って勝(まさ)っている、特別である」の意。

「見(みそな)はし」老婆心乍ら、「みそな」は「見」のみのルビ。「見行はす」で「見る」の尊敬語。

「縱橫(たてぬき)」「ぬき」は万葉以来の「織物の緯(横)糸」を呼ぶ語。

 初出形は以下。

   *

白百合の歌

 

凱旋(かちどき)祝ふ王城の

夕べ輝く銀の盃(つぎ)

形に似たる百合の花

山の峽間(はざま)に開きたり

 

一々(いちいち)の花一々(いちいち)の

微妙(みめう)を現(げん)ず燦として

無數の花の百合の群(むれ)

白きに魂(たま)は化(け)するべし

 

試みに採る一莖(いつけい)の

細きに重き花の大(たい)

淸淨(しやうじやう)世界、眼前に

天女(てんによ)も來り舞ひぬべし

 

彼、去んぬ時入んぬ時

夢の使の花の露

眠れる朝(あした)醒むる夕

詩人(うたびと)心を傷ましむ

 

冷やかにして秋の草

あたゝかにして春の花

迷と悟白百合の

花はすべてを超脫す

 

山縱樣に雲百重

谷橫ざまに水千尋(ちひろ)

遲々たる步み木(こ)の暗(くれ)に

如是人間を拜せしむ

 

不老の門(かど)に駭(おどろ)きて

かけ去る物の命(いのち)かな

日月劫(ごふ)に蝕(しよく)し消え

百合の白きを殘すべし

   *]

晚春鶯語賦 伊良子清白

 

晚春鶯語賦

 

希望(のぞみ)平和(やはらぎ)悲嘆(かなしみ)の

汝(な)が聲きけば鶯よ

野邊の新綠(みどり)の春の暮

「不思議」流るる心地する

 

美しきもの人を去り

屬(たぐひ)も低き花鳥(はなどり)に

うつるは何の現象(あらはれ)ぞ

愧づ、われまたも樹を仰ぐ

 

瘦せたる鳥よ永劫に

傷(いた)める胸は薄からん

ああその笛よ艷にして

 

千古の愁語るなり

煙るが如き夕暮に

若葉の匂漲(みなぎ)りぬ

地上の歌はやみもなほ

啼きたつるなり高らかに

 

[やぶちゃん注:「艷」は底本は「艶」であるが、底本は総てで「艶」の字体を用いているのであるが、これは初版「孔雀船」で「艷」が用いられているのに反するものであるから、従えないからである。初出は明治三五(一九〇二)年五月発行の『文庫』であるが、前の「新綠」の注で述べた通り、初出は「新綠」を総標題とした、河井酔茗との合作で、「雜司ケ谷鬼子母神に詣でゝ」(本篇)・本篇の原型「晩春鶯賦」・「十二社にて」( 「十二社」は「じゅうにそう」(現代仮名遣)と読む。「新綠」の私の注を参照)の全三篇から成る(後日、それを含めて初出「新綠」を別に電子化する)。その「晩春鶯賦」をかく改題してかなり手を加えた(末尾が全く異なる)ものが、この伊良子清白の「新綠」である。初出の「晩春鶯賦」は以下。

   *

晚春鶯賦

 

のぞみ、やはらぎ、悲みの

汝(な)が聲聞けば鶯よ

野邊の若葉の春の暮

「不思議」流るる心地する

 

美しき物人を去り

屬(たぐひ)も低き花鳥(はなどり)に

うつるは何の現象(あらはれ)ぞ

愧づ、われまたも樹を仰ぐ

 

瘦せたる鳥よ永劫に

女の胸は薄からん

嗚呼その聲の持ち主は

愁を語るつとめあり

 

夕の文(あや)は黑牡丹(こくぼたん)

聞くが如し薄墨の

闇を怖れぬ鶯は

靈(れい)なればなりいと高き

   *]

新綠 伊良子清白

 

新 綠

 (雜司ケ谷鬼子母神に詣でて)

 

江戶の面影並木道

古き榎(えのき)は荒くれて

行く人小さし見上ぐれば

日は勝ち若き葉に透る

 

雜司ケ谷(やつ)の樹の煙

蒸せて汗じむ古衣(ふるごろも)

冬の名殘のありありと

春は目につく薄よごれ

 

羽蟲をよけて木に隱る

都少女のかげ見えて

暮れ行く春の絲遊は

鳩の翼の銀を縫ふ

 

涅槃(ねはん)五千の春の夕べ

無數の童子(どうし)あらはれて

供養飛行(ひぎゃう)を見るごとく

みだれみだれて花ぞ散る

 

足蹠(あうら)冷たく僧は過ぎ

瓔珞(やうらく)寂(じやく)に垂るる時

圓(まろ)き柱の繪に擦れて

白毛拂子(はくもうほつす)空(くう)を飛ぶ

 

[やぶちゃん注:初出は明治三五(一九〇二)年五月発行の『文庫』であるが、初出は同じ「新綠」を総標題とした、河井酔茗(明治七(一八七四)年~昭和四〇(一九六五)年:パブリック・ドメイン。当時、既に『文庫』の記者で詩歌欄を担当。伊良子清白より三つ年上)との合作(署名は「清白」)で、「雜司ケ谷鬼子母神に詣でゝ」(本篇)・「晩春鶯賦」(後に改題して改作した「晩春鶯語賦」を次で電子化する)・「十二社にて」(「十二社」は「じゅうにそう」(現代仮名遣)と読む。後日、それを含めて初出「新綠」を別に電子化する。ここで電子化しないのは、伊良子清白がそれだけを新潮社版作品集に以上二篇と並べて再録しなかった点に、この作品群が河井酔茗との合作であったことと無関係ではないのかも知れないと感ずるからで、別格扱いが必要かと思われるからである)の全三篇から成り、その中の冒頭の「雜司ケ谷鬼子母神に詣でゝ」をかく改題して一部に手を加えたものが、この伊良子清白の「新綠」である。
「雜司ケ谷鬼子母神」東京都豊島区南池袋にある日蓮宗(古くは真言宗か)威光山法明寺(ほうみょうじ)の雑司が谷の飛び地境内に建つ鬼子母神(きしもじん:梵語の漢音写は訶梨帝(かりてい)。女神の名。千人の子があったが、他人の子を取って食い殺したため、釈迦はその最愛の一児を隠してこれを教化し、のち仏に帰依して出産・育児の神となった。手にザクロの実を持ち、一児を抱く天女の姿をとる。「訶梨帝母(かりていも)」とも呼ぶ)を本尊とした鬼子母神堂。ウィキの「法明寺(豊島区)」によれば、永禄四(一五六一)年、『山村丹右衛門が現在の目白台のあたりで鬼子母神像を井戸から掘り出し、東陽坊に祀ったのが始まりとされる』。天正六(一六七八)年、『現在地に草堂が建立されたという。なお当所における正式な「鬼子母神」の表記は「鬼」の上の点がない字体である』とある。
 初出の「雜司ケ谷鬼子母神に詣でゝ」は以下。

   *

雜司ケ谷鬼子母神に詣でゝ

 

江戶の面影、並木道

古き榎(えのき)は荒くれて

行く人小さし見上ぐれば

日は勝ち若き葉に透る

 

雜司ケ谷(やつ)の樹の煙

蒸せて汗じむ古衣(ふるごろも)

冬の名殘のありありと

春は目につく薄汚(うすよご)れ

 

羽蟲を避けて木に隱る

都少女のかげ見えて

暮れ行く春の絲遊は

鳩の翼の銀を縫ふ

 

涅槃(ねはん)五千の春の暮

無數の童子(どうし)あらはれて

供養、飛行を見るごとく

みだれみだれて花ぞ散る

 

足蹠(あうら)冷たく僧は過ぎ

瓔珞(やうらく)寂(じやく)に垂るる時

圓(まろ)き桂の繪に擦れて

白毛、拂子空(くう)を飛ぶ

   *

初出最終連の「桂」は「柱」の誤植の可能性が高いか。]

2019/04/08

和漢三才圖會卷第三十八 獸類 麝(じやかう) (ジャコウジカ)


Jyakou

  じやかう 射父 香麞

     莫訶婆伽【梵書】

     【其香氣遠射

      故字从射】

本綱麝似麞而小黒色故名香麞【陝西益州雍州秦州文州諸蠻中尤多有】出西

北者香佳出東南者次之山谷在之常食栢葉及蛇其香

正在陰莖前皮内別有膜袋裹之夏月食蛇蟲多至寒則

香滿入春臍内急痛自以爪剔出着屎溺中覆之常在一

處不移人以是獲之其性絕愛其臍爲人逐急卽投巖舉

爪剔裂其香就縶而死猶拱四足保其臍其自剔出者極

難得價同明珠其香聚處遠近草木不生或焦黃也帶香

過園林則瓜果皆不實今人以皮膜裹之多僞凡眞香一

子分作三四子刮取血膜雜以餘物以四足膝皮而貨之

但破看一片毛共在聚中者爲勝今人以蛇蛻皮裹香彌

香是相使也

麝香【辛溫】 辟惡氣邪鬼温瘧驚癇心腹暴痛痞滿佩之或

 置枕間辟惡夢鎭心安神【麝香不可近鼻有白蟲入腦患癩久帶其香透關令人成

 異疾又忌大蒜】

△按三才圖會云麝如小鹿有虎豹之文今商汝山中多

 群也字彙亦曰有虎豹文葢黒色有豹文者乎文禄三

 年七月泉州堺商賣納屋助左衞門到呂宋國還得麝

 二匹獻之關白秀吉公

象退牙犀退角麝退臍皆輒藏覆知自珍也今所渡麝香

雲南者爲上東京者爲次福州南京又次之有眞僞數品

難明大抵臍麝香爲最上有皮膜裹之一箇重自五錢可

八錢一種無皮膜如煉粉者名曰傳染麝香共赤黒色而

有乾者有濕者其香亦有異同相傳鯨屎或朽木爲末同

麝臍盛噐置陰處經歳月拔取臍令香傳染最下品也臍

揉碎與木粉和合者爲中品眞臍揉碎者名臍傳染是爲

上品試法燒火無灰其香不變者眞也

谷響集云忌佛前焚麝香見于攝眞實經

 

 

じやかう 射父 香麞〔(かうしやう)〕

     莫訶婆伽〔(ばくかばか)〕【梵書。】

     【其の香氣、遠く射る。故に、字、

      「射」に从〔(したが)〕ふ。】

「本綱」、麝は麞〔(くじか)〕に似て、小さく、黒色。故に「香麞」と名づく[やぶちゃん注:これでは「香」が説明されず、不全である。「本草綱目」の「麝」の「正誤」の部分には「麞無香、有香者麝也。俗稱土麞呼爲香麞是矣」とあるのを良安は見落としている。]【陝西・益州・雍州・秦州・文州。諸蠻〔の〕中に尤も多く有り。】西北に出づる者、香、佳し。東南に出づる者、之れに次ぐ。山谷、之れ、在り、常に栢〔(はく)の〕葉及び蛇を食ふ。其の香、正に陰莖の前の皮〔の〕内に在り。別に膜〔の〕袋有りて之れを裹〔(つつ)〕む。夏月、蛇・蟲を食ひ、多く、寒に至れば、則ち、香、滿つ。春に入り、臍の内、急に痛み、自ら爪を以つて剔(か)き出だし、屎(くそ)・溺(ゆばり)[やぶちゃん注:尿。]の中に着け、之れを覆ふ。〔麝は〕常に一つ處に在りて移らず。人、是れを以つて[やぶちゃん注:この習性を利用して、いるところを探し当て。]之れを獲る。其の性、絕(た)へて[やぶちゃん注:ママ。]其の臍〔(へそ)〕[やぶちゃん注:麝香嚢(麝香腺はその中に開口している)。]を愛す。人〔の〕爲めに逐〔(お)〕はれて急なれば、卽ち、巖〔(いはほ)〕に投じ、爪を舉げて剔(か)き裂(さ)き、其の香〔(かう)を〕就-縶〔(もろとも)に〕して死す。猶ほ、四足を拱〔(こまね)きて〕其の臍を保つがごとし。其の自ら剔き出だす者、極めて得難し。價〔(あたひ)〕、明珠[やぶちゃん注:透明で曇りのない宝玉。]に同じ。其の香〔の〕聚〔(あつ)む〕る處〔の〕遠近〔(をちこち)〕、草木、生ぜず、或いは、焦げ、黃ばむなり。香を帶して園林[やぶちゃん注:農地や果樹園。]を過ぐるときは、則ち、瓜果〔(さうくわ)〕[やぶちゃん注:瓜や果物の果実。]、皆、實(みの)らず。今〔の〕人、皮膜を以つて之れを裹み、多く僞る。凡そ眞の香一子を分ちて、三、四子を作る。血膜を刮(こそ)げ取り、雜〔(まづ)〕るに餘物を以つてし、四足〔獸〕の膝〔の〕皮を以つて〔裹み〕、之れを貨〔(う)〕る。但し、破〔り〕て看るに、一片、毛共〔に〕聚〔れる〕中に在る者を勝〔(すぐれるもの)〕と爲す。今の人、蛇の蛻〔(ぬけがら)〕の皮を以つて香を裹む。〔さすれば、〕彌〔(いよいよ)〕香〔り〕して〔→せば〕、是れ〔を、よく〕相ひ使ふなり。

麝香【辛、溫。】 惡氣・邪鬼を辟〔(さ)〕く。温瘧〔(をんぎやく)〕・驚癇・心腹〔の〕暴痛・痞滿〔(ひまん)〕に、之れを佩ぶ。或いは枕の間に置けば、惡夢を辟け、心を鎭め、神を安んず【麝香は鼻に近づくべからず。〔極小さき〕白〔き〕蟲有りて、腦に入り、癩〔(らい)〕を患ふ。久しく其の香を帶〔ぶれば〕、關〔節〕を透して、人をして異疾を成さしむ。又、〔麝香は〕大蒜〔(にんにく)〕を忌む。】。

△按ずるに、「三才圖會」に云はく、『麝は小鹿のごとくにして、虎・豹の文〔(もん)〕有り。今、商・汝の山中、多く群るるなり』〔と〕。「字彙」にも亦、曰はく、『虎・豹の文有り』〔と〕。葢し、黒色にして豹の文有る者か。文禄三年[やぶちゃん注:一五九四年。]七月、泉州堺の商賣(あきびと)納屋助左衞門、呂宋(ルスン)國に到り、還りて〔→到りて還るに〕、麝二匹を得て、之れを關白秀吉公に獻ず。

象は牙を退〔(しりぞ)〕き[やぶちゃん注:捕られぬようにし。]、犀は角を退き、麝は臍を退く。皆、輒〔(すなは)〕ち、藏(かく)し覆ふ。自ら珍といふことを知るなり。今、渡る所の麝香〔は〕、雲南の者を上と爲し、東京(トンキン)[やぶちゃん注:現在のベトナムのハノイの旧称。或いはベトナム北部の中国語での広域呼称。]の者を次と爲す。福州・南京、又、之れに次ぐ。眞・僞、數品、有り。明〔(あきら)〕め難し。大抵、「臍(へそ)麝香」を最上と爲す。皮膜有りて之れを裹む。一箇〔の〕重さ五錢より八錢ばかり[やぶちゃん注:一銭は一匁で江戸時代は三・七四グラムほどであるから、十八・七から約三十グラム。]。一種、皮膜無くして煉りたる粉のととくなる者、名づけて「傳-染(うつし)麝香」と曰ふ。共に赤黒色にして、乾く者有り、濕(しめ)る者有り、其の香〔り〕にも亦、異同有り。相ひ傳ふ、鯨の屎〔(くそ)〕或いは朽木〔(くちき)〕を末と爲し、麝の臍と同じく[やぶちゃん注:一緒に。]噐に盛り、陰處に置き、歳月を經て、臍を拔き取り、香をして傳-染(うつ)らしむ。〔これ、〕最も下品なり。臍、揉み碎きて、木の粉と和(ま)ぜ合はせたる者を中品と爲す。眞の臍、揉み碎く者を「臍傳染(〔へそ〕うつし)」と名づく。是れ、上品と爲す。〔真贋を〕試みる法〔は〕、火に燒きて灰無く、其の香、變らざる者、眞なり〔と〕。

「谷響集〔(こくきやうしふ)〕」に云はく、『佛前に麝香を焚うことを忌むこと、「攝眞實經〔(せふしんじつきやう)〕」に見えたり』〔と〕。

[やぶちゃん注:鯨偶蹄目反芻亜目真反芻亜目ジャコウジカ科ジャコウジカ亜科ジャコウジカ属 Moschus に以下の七種が現生する(以前は五種であったが、内の二亜種が分離された)。

ヤマジャコウジカ Moschus chrysogaster(以下の二亜種がいる。Moschus chrysogaster chrysogaster(チベット南部に分布)・Moschus chrysogaster sifanicus(青海省・甘粛省・四川省・雲南省・寧夏回族自治区などに分布))

シベリアジャコウジカ Moschus moschiferus

コビトジャコウジカ Moschus berezovskii(中国やベトナムなどに分布。以下の四亜種がいる。Moschus berezovskii berezovskiiMoschus berezovskii bijiangensisMoschus berezovskii caobangisMoschus berezovskii yanguiensis

カッショクジャコウジカ Moschus fuscus

アンフィジャコウジカ Moschus anhuiensis(和名は限定棲息地であるの安徽省に因む)

カシミールジャコウジカ Moschus cupreus

ヒマラヤジャコウジカ Moschus leucogaster

ジャコウジカは、角を持たないこと、胆嚢を持つことなどから、一般のシカ類とは異なる種群である。また、♂には長大な上顎犬歯があるだけでなく、他のシカ類にみられる眼下腺や足の腺がなく、代りに尾腺と下腹部の大きな麝香腺を持つ。名はこの麝香腺に由来し、ここから発情期に約三十グラムの麝香が採取されることから、古来より捕獲され続け、頭数は減少傾向にある(ワシントン条約などによる取引制限はなされている)。七種の内、シベリアジャコウジカが体高六十~七十センチメートルで、最も大きく、分布も最も広い(シベリア東部・西モンゴル・中国北部・朝鮮半島などで、山林に棲息し、大群は成さず、一~三頭ほどで暮らし、朝夕に草や木の葉などを採食する。夜行性)。ヤマジャコウジカは中国中部・ヒマラヤ地方に、コビトジャコウジカは中国北西部の森林に(ここまでは解説の主文を小学館「日本大百科全書」に主に拠った)、カッショクジャコウジカは中国・インド・ブータン・ミャンマー・ネパールに、カシミールジャコウジカはインド・パキスタンのカシミール地方やアフガニスタンに、ヒマラヤジャコウジカはアフガニスタン・チベット・ブータン・インド・ネパールの標高二千五百メートル近辺の高地に棲息している(種学名その他データでは、サイト「いちらん屋」の「ジャコウジカ(麝香鹿・じゃこうじか)の種類一覧」を参考にした)。ウィキの「ジャコウジカ」によれば、『ジャコウジカ科には十数属が含まれるが、現生するのはジャコウジカ属のみである』。嘗つては『シカよりも原始的と考えられたが、実際にはそのような系統位置にはない』ことが判明している。『枝角や顔腺を有さず、乳頭は』一『対のみ、胆嚢、尾腺、一対の牙状の歯、そして人間にとって経済的価値のある麝香を分泌する麝香腺を有する。主に南アジア山岳の森または潅木地帯に』棲息する。『小さくてがっしりとした体格のシカに似ており、後肢は前肢よりも長い。全長』は八十~一メートル、肩高五十~七十センチメートル、体重七~十七キログラム。『荒地を登るのに適した脚を有す。シカ科のキバノロの様に角を持たないが、雄は上の犬歯が大きく発達して、サーベル状の牙となる』『歯式は』『シカと類似する』。『麝香腺は成獣の』♂のみに見られる器官で、『麝香腺は陰部と臍の間にある嚢』の中にあり、♀を『引き付けるために麝香を分泌する』。『草食性で、(通常』『人里離れた)丘の多い森林環境に生息する。シカと同様に主に葉、花および草を食べ、更に苔や地衣類も食べる。単独性の動物であり、縄張りがはっきりとしており、尾腺で匂い付けを行う。臆病な性格が多く、夜行性または薄明活動性』。『発情期になると雄は縄張りを出て、牙を武器にして雌争いをする。雌は』百五十~百八十『日で子を一匹産む。新生仔は非常に小さく、生後』一『ヶ月になるまでは基本的にあまり動かない。これによって捕食者から見つかりにくくなる』。『現在、ワシントン条約によって国際取引が禁止されているが、麝香採取のための密猟は絶えない。中国では』一九五八年『より飼育研究が開始され、四川省都江堰市のほか』、『数か所で飼育されている』とある。なお、荒俣宏氏の「世界博物大図鑑」の第五巻「哺乳類」(一九八八年平凡社刊)の「ジャコウジカ」の項によれば、属名の「Moschus」(モスクス)は確かにギリシャ語の「麝香(じゃこう)」であるが、この語は実はサンスクリット語の「睾丸」を意味する語が由来であるとある。また、ウィキの「麝香」も引いておくと、『ムスク (musk) とも呼ばれ』、『主な用途は香料と薬の原料としてであった。 麝香の産地であるインドや中国では有史以前から薫香や香油、薬などに用いられていたと考えられている』。『アラビアでもクルアーンにすでに記載があることから』、『それ以前に伝来していたと考えられる。 ヨーロッパにも』六『世紀には情報が伝わっており』、十二『世紀にはアラビアから実物が伝来した記録が残っている』。『甘く粉っぽい香りを持ち、香水の香りを長く持続させる効果があるため、香水の素材として極めて重要であった。また、興奮作用や強心作用、男性ホルモン様作用といった薬理作用を持つとされ、六神丸、奇応丸、宇津救命丸、救心などの日本の伝統薬・家庭薬にも使用されているが、日本においても中国においても』。『漢方の煎じ薬の原料として用いられることはない』。『中医学では生薬として、専ら天然の麝香が使用されるが、輸出用、または安価な生薬として合成品が使われることもある』。『麝香はかつては雄のジャコウジカを殺し』、『その腹部の香嚢を切り取って乾燥して得ていた。 香嚢の内部にはアンモニア様の強い不快臭を持つ赤いゼリー状の麝香が入っており、一つの香嚢からはこれが』三十『グラム程度得られる。これを乾燥すると』、『アンモニア様の臭いが薄れ』、『暗褐色の顆粒状となり、薬としてはこれをそのまま、香水などにはこれをエタノールに溶解させて不溶物を濾過で除いたチンキとして使用していた。ロシア、チベット、ネパール、インド、中国などが主要な産地であるが、特にチベット、ネパール、モンゴル産のものが品質が良いとされていた。これらの最高級品はトンキンから輸出されていたため、トンキン・ムスクがムスクの最上級品を指す語として残っている』。『麝香の採取のために殺されたジャコウジカはかつては年間』一『万から』五『万頭もいたとされている。そのためジャコウジカは絶滅の危機に瀕し、絶滅のおそれのある野生動植物の種の国際取引に関する条約(ワシントン条約)によりジャコウの商業目的の国際取引は原則として禁止された』。『現在では中国においてジャコウジカの飼育と飼育したジャコウジカを殺すことなく継続的に麝香を採取すること(麻酔で眠らせる』『などの方法がある)が行なわれるようになっているが、商業的な需要を満たすには遠く及ばない。六神丸、奇応丸、宇津救命丸などは条約発効前のストックを用いているという』。『そのため、香料用途としては合成香料である合成ムスクが用いられるのが普通であり、麝香の使用は現在ではほとんどない』。『麝香の甘く粉っぽい香気成分の主成分は』『ムスコン』で、『そのほかに微量成分としてムスコピリジン (muscopyridine) などの』『化合物が多数発見されている』。『有機溶媒に可溶な成分のうちで最大』二十%『程度含まれている。この他に男性ホルモン関連物質であるC19-ステロイドのアンドロスタン骨格を持つアンドロステロンやエピアンドロステロン (epiandrosterone) などの化合物が含まれている』。『ムスコンが』二%『以上、C19-ステロイドが』〇・五%『以上のものが良品とされる』。『麝香の大部分はタンパク質等である。麝香のうちの約』十%『程度が有機溶媒に可溶な成分で、その大部分はコレステロールなどの脂肪酸エステル、すなわち』、『動物性油脂で』しかない。『麝香の麝の字は鹿と射を組み合わせたものであり』、「本草綱目」に『よると、射は麝香の香りが極めて遠方まで広がる拡散性を持つことを表しているとされる』。『ジャコウジカは一頭ごとに別々の縄張りを作って生活しており、繁殖の時期だけ』、『つがいを作る。そのため』、『麝香は雄が遠くにいる雌に自分の位置を知らせるために産生しているのではないかと考えられており、性フェロモンの一種ではないかとの説がある一方』で、『分泌量は季節に関係ないとの説もある』。『一方、英語のムスクはサンスクリット語の睾丸を意味する語に由来するとされる。これは麝香の香嚢の外観が睾丸を思わせたためと思われるが、実際には香嚢は包皮腺の変化したものであり』、『睾丸ではない』とある。

「其の香氣、遠く射る。故に、字、「射」に从〔(したが)〕ふ」この解説は目から鱗! 流石は中国! フェロモン(pheromone)を遠の昔に名指して漢字としていたのだ!!(但し、上に飲用したように、ジャコウジカの麝香腺の分泌量は季節的変化がないという主張もあるところからは、性フェロモンではなく、テリトリーを示すためのマーキング或いは警告用とはなろうか。にしても遠く相手を「射」ることに変わりはない) 脱帽!!!

「麞〔(くじか)〕」既に私は何度もシカ科オジロジカ亜科ノロジカ族キバノロ属キバノロ Hydropotes inermis に推定比定している。

「陝西」現在の陝西省(グーグル・マップ・データ。以下同じ)。

「益州」四川省

「雍州」陝西省や甘粛省から青海省の一帯をさす広域地方地名。

「秦州」「文州」ともに同じく甘粛省内相当

「諸蠻」中国国境外の諸地域。前の注の分布域から見ても正当な表現である。

「栢〔(はく)〕」東洋文庫訳割注は『香木の一種』とするが、どこにそんな意義が載るのか甚だ不審である。中国語でこの「栢」は「柏」の旧字で、ヒノキ(球果植物門マツ綱マツ亜綱マツ目ヒノキ科ヒノキ属ヒノキ Chamaecyparis obtusa )・サワラ((椹:ヒノキ属サワラ Chamaecyparis pisifera )・コノテガシワ(ヒノキ科コノテガシワ属コノテガシワ Platycladus orientalis )などの常緑樹を指し(因みに、漢文学の諸注釈では圧倒的に「柏・栢」を「このてがしわ」と限定するが、私は植物学的に本当にそれに限定していいのかどうかは大学時分からかなり疑っている)、特殊な香木を指すというのは聴いたことがない。【2019年4月19日追記】いつも情報を戴くT氏から、寺島良安が本「和漢三才図会」の「巻第八十二」の「香木類」の冒頭で「柏」(標題下割注で『「栢」同』とする)を挙げていることを指摘して下さった。原文は、国立国会図書館デジタルコレクションの画像のここと次の頁である。さて、その冒頭で白檀とか言ってはいるが、東洋文庫訳の当該項を見ると、訳者は本文内の「柏」の割注で『ヒノキ科コノテガシワ、またはシダレイトスギ』としているのを見出せた。後者はヒノキ科イトスギ属シダレイトスギ Cupressus funebris である。さすれば、やはりこれは狭義の「香木」ではなく、時珍も良安も、その珠果が芳香を放ち、また、それらを伐り出した用材も良い香りがする(狭義の「香木」とは違う意味でである)から「香木」としているのだ、と私は読んだ。T氏はさらに、長岡美佐氏の論文『「柏(ハク)」と「カシハ」にみる中日文化』を紹介して下さった。これはまさに私の積年の疑問が明らかにされていて、まことにまさに清々しい木の香を嗅いだ如き気持ちになれた。そうそう! 漢文ではしばしば「栢」を棺桶の材料として出すのだったなあ! 必読!!!

「夏月、蛇・蟲を食ひ、多く、寒に至れば、則ち、香、滿つ」「本草綱目」(厳密には陶弘景の引用)は、この麝香の成分が蛇や虫由来と暗に示していることが判る。これは所謂、道教系のブラック・マジックである蠱毒(こどく)との親和性を感じさせる

「温瘧〔(をんぎやく)〕」平脈のように観察され、寒気もないが、ただ熱が出て、関節が疼痛を起こし、時に嘔吐する症状を指す語。

「驚癇」癲癇。

「心腹〔の〕暴痛」胸部や腹部の激しい痛み。東洋文庫訳は「心腹」だけで『胸腹部の疼痛』とするが、採らない。

「痞滿〔(ひまん)〕」東洋文庫訳割注に『腹がつかえてふくれあがること』とある。

「〔極小さき〕白〔き〕蟲有りて、腦に入り、癩〔(らい)〕を患ふ」これは先行する「鹿」の角の解説部で『鹿茸〔は〕鼻を以つて齅〔(か)〕ぐべからず。此の中に、小さき白き蟲、有り。之れ、視れども見えず、人の鼻に入〔れば〕、必ず、蟲顙〔(ちゆうさう)〕[やぶちゃん注:病名。後注する。]と爲り、藥も及ばざるなり』と割注があったのと頗る親和性のある注意書きである。そこで私は不詳の疾患名「蟲顙」を、異常プリオン蛋白の増加による中枢神経の感染性疾患である伝達性海綿状脳症(Transmissible spongiform encephalopathy:TSE:別名:伝播性海綿状脳症:プリオン(prion)病)に推定比定したが、ここではしっかり脳に侵入すると出たぜ! 「クロイツフェルト・ヤコブ病」だ! なお、この場合の「癩」はハンセン病ではなく、激しい皮膚や組織の変性を示す病態を言っている。

「久しく其の香を帶〔ぶれば〕、關〔節〕を透して、人をして異疾を成さしむ」長期間、麝香を身に携帯していると、その強力な成分が、知らぬうちに関節から過剰に浸潤してしまい、普通は見られないような異常な症状を生じさせる、という警告である。

『「三才圖會」に云はく……』原典は図がこちらの左頁、解説がこちらの左頁(国立国会図書館デジタルコレクションの画像)。前に出た人に追われると自ら投身自殺して、全き麝香囊を与えないという話が、ここにもしっかり載っているので、是非、見られたい。

「商」現在の陝西省。

「汝」河南省

「字彙」明の梅膺祚(ばいようそ)の撰になる字書。一六一五年刊。三万三千百七十九字の漢字を二百十四の部首に分け、部首の配列及び部首内部の漢字配列は、孰れも筆画の数により、各字の下には古典や古字書を引用して字義を記す。検索し易く、便利な字書として広く用いられた。この字書で一つの完成を見た筆画順漢字配列法は、清の「康煕字典」以後、本邦の漢和字典にも受け継がれ、字書史上、大きな意味を持つ字書である(ここは主に小学館の「日本大百科全書」を参考にした)。

「納屋助左衞門」戦国時代の和泉国堺の伝説的貿易商人呂宋助左衛門(るそんすけざえもん 永禄八(一五六五)年?~?)。本姓は納屋(なや)。堺の貿易商納屋才助の子で豪商となり、文禄二(一五九三)年に小琉球(呂宋・現在のフィリピン諸島)に渡航、珍奇な物品を仕入れ、翌年、帰国。堺代官石田政澄を介して豊臣秀吉に唐傘や壺などを献上した。特に壺は公家・武将間に茶の湯が隆昌を極めていたことから珍重され、かつ高価な茶器として、秀吉に愛蔵され、呂宋壺の名で諸大名や家臣にも分配された。競って買い求められるようにもなり、助左衛門は呂宋壺を主とした貿易により、巨利を独占したと伝えられる。慶長一二(一六〇七)年にカンボジア(東埔塞)に渡航し、国王に信任され、かの地で没したとされる(以上は「朝日日本歴史人物事典」に拠った)。

「福州」福建省

「鯨の屎〔(くそ)〕」抹香鯨(鯨偶蹄目Whippomorpha亜目Cetacea下目ハクジラ小目マッコウクジラ科マッコウクジラ属マッコウクジラ Physeter macrocephalus)の腸内に発生する結石で香料の一種である「龍涎香(りゅうぜんこう)」のことであろう。ウィキの「龍涎香」を参照されたい。

「谷響集〔(こくきやうしふ)〕」東洋文庫訳の「書名注」に元の釈善住撰の全三巻とある。

「攝眞實經〔(せふしんじつきやう)〕」東洋文庫訳の「書名注」に『『諸物境界摂真実経』三巻。唐、般若訳』とある。]

和漢三才圖會卷第三十八 獸類 麞(くじか・みどり) (キバノロ)

Kujika

 

 

 

くじか    麕【音君】 麏【同】

 みとり   麌【牡】  麜【牝】

       麆【子】

【獐同】

       【和名久之加

       俗云美止利】

 

本綱麞秋冬居山春夏居澤淺草中多有之似鹿而小無

角黃黒色大者不過二三十斤雄者有牙出口外其皮細

軟勝於鹿皮夏月毛毨而皮厚冬月毛多而皮薄也其大

者曰麃【音庖】古語云四足之美有麃是也【毨音先毛落更生整理也】

一種有銀麞白色云王者刑罰中理則出之

古今注云鹿有角不能觸麞有牙不能噬

三才圖會云麕之性怯飮水見影無不驚奔故人食其心

者多恇怯不知所爲

△按麞皮自暹羅來名美止利或稱奈阿比者乎以爲

 韤裘軟美爲最上

 

 

くじか    麕〔(くん)〕【音、「君」。】

       麏【同じ。】

 みどり   麌〔(ぐ)〕【牡。】

       麜〔(りつ)〕【牝。】

       麆〔(しよ)〕【子。】

【「獐」、同じ。】

       【和名、「久之加」。

       俗に云ふ、「美止利」。】

 

「本綱」、麞、秋冬は山に居り、春夏は澤に居る。淺〔き〕草の中に多く之れ有り。鹿に似て、小さく、角、無し。黃黒色。大なる者〔にても〕二、三十斤[やぶちゃん注:明代の一斤は五百九十六・八二グラムなので、十二キログラム弱から十八キログラム弱。但し、この数値は私が同定したキバノロの数値としては大き過ぎる。]に過ぎず。雄なる者に牙有り、口の外に出づ。其の皮、細く軟(やはら)かにして、鹿皮より勝れり。夏月は、毛、毨〔(ととの)ひて〕[やぶちゃん注:「鳥獣の毛が生え替わり、綺麗に生え揃う」の意の古語。]、皮、厚く、冬の月、毛、多くして、皮、薄し。其の大なる者を「麃〔(はう)〕」【音、「庖」。】と曰ふ。古語に云はく、「四足の美、麃に有り」[やぶちゃん注:四足獣の中で最も美しいのは麞である。]といふは是れなり【毨は、音、「先」、毛、落ちて、更に生いて、整-理(とゝな)ふことなり。】。

一種、「銀麞」有り、白色。云はく、「王者〔が〕刑罰、理に中〔(あた)〕るときは[やぶちゃん注:王が、裁判に於いて、正しい裁定を下して処罰を正当に行っている時には。]、則ち之れ、出づ」〔と〕。

「古今注」に云はく、『鹿は角有りて觸(つ)く能はず、麞は牙有りて噬〔(か)〕む能はず[やぶちゃん注:その牙で噛みつくことは出来ない。]』〔と〕。

「三才圖會」に云はく、『麕の性、怯にして、水を飮みて、影を見〔れば〕驚奔せざることいふこと無し。故に、人、其の心〔臟〕を食ふ者、多く恇-怯(おくびやう)にして〔→なりて〕爲す所を知らず』〔と〕。

△按ずるに、麞の皮、暹羅〔(シヤム)〕[やぶちゃん注:現在のタイ王国の前身。]より來たる。「美止利」と名づく。或いは、「奈阿比(なれあひ)」と稱する者か。以つて裘〔(かは)の〕韤〔(たび)〕と爲〔すに〕、軟〔かにして〕美〔(は)し〕。最上と爲す。

[やぶちゃん注:鯨偶蹄目反芻亜目シカ科オジロジカ亜科ノロジカ族キバノロ属キバノロ Hydropotes inermis朝鮮半島及び中国の長江流域の、アシの茂みや低木地帯に棲息する、体高四十五~五十五センチメートル、体重九~十一キログラムの小形のシカ。シカの仲間であるが、角はなく、上顎の犬歯が牙状になっており、特に♂では刀状に曲がった犬歯が口外に突き出ている。尾は短く、毛色は黄褐色。蹄の幅は比較的広い。単独又はつがいでいることが多い。シカ類中では多産で、五~六月に一回に一~三子を産み、時に七子を見ることもある。子の毛色は暗褐色で、背に小さな白斑がある。発情期は晩秋から初冬で、この時期の♂は牙を振るって闘争する。アシやその他の植物を食べ、寿命は飼育下で約十年である(小学館「日本大百科全書」に拠る)。

「みどり」(字下げはまま)「美止利」呼称由来不詳。小学館「日本国語大辞典」にも出ない。識者の御教授を乞う。

「獐」音「シヤウ(ショウ)」。懐かしいねえ! 中島敦の「山月記」の授業(リンク先は私のオリジナル授業案)で、原典の「人虎傳」をダイジェストでやったね、あの中のここ(リンク先は当時のオリジナル・プリントの原版PDF画像(私の授業用の汚い書き込み有り))に出てたじゃないか!

「古語」中文サイトを見ると、出典は「陸機詩疏」(西晋の文人陸機(二六一年~三〇三年)の詩の注釈書)らしい。

「銀麞」同定の必要はない。道に則って裁判が行われていれば、出現する銀色のキバノロに似た聖獣だからである。

「古今注」崔豹の代表作で諸書に出る事物について紹介・解説したもので、学術的価値が高いとされるが、東洋文庫訳の「書名注」によれば、『原本はおそらく失われ、現行本は五代の馬縞(ばこう)の『中華古今注』三巻に基づいて作られ』たものとし、『また、この『中華古今注』も、唐の蘇鶚そがく)の『蘇氏演義』二巻に依っていることが明らかにされている』とある。

「奈阿比(なれあひ)」「みどり」同様、由来不詳。同じく識者の御教授を乞う。

「裘(かは)」原義は革袋。]

蟲 伊良子清白

 

 

秋の夜長を

  曉かけて

 

なくよをちこち

  山にも野にも

 

絕えては續く

  蟲のこゑごゑ

 

荒妙(あらたへ)和妙(にぎたへ)

  織るは織姬

 

夜もよるとて

  暗のよすがら

 

露の高機(たかはた)

  風の細杼(ほそひ)に

 

織るよ織ひめ

  蟲のこゑごゑ

 

[やぶちゃん注:底本校異に記載がない。推定発表(或いは創作)時制は前の「蟲賣り」の注を参照されたいが、「蟲賣り」との内容の強い親和性が感じられ、或いは他の仕儀と同じく、元はあるやや長い詩篇の部分を孰れも分割独立させたものなのかも知れない。

「高機(たかはた)」「たかばた」とも言い、「大和機(やまとばた)」「京機」とも呼ぶ木製手機(てばた)の一種。織機の古い原型である地機(じばた:織機の脚が短く、織手は足を投げ出して座って用いる)を改良したもので、機の構造が地機より高い位置になっているところから、この名がある。経(たて)糸を上下させる綜絖(そうこう)が二枚以上あり、織り手が腰掛けて両足で操作する。ここは草に降りた露の輝きを、織り機の糸の束のそれに擬えたものか。

「細杼(ほそひ)」の「杼」は「梭」とも書き、織機用具の一つで「シャトル」(英語:shuttle)のこと。経糸が開口している間に、緯(よこ)糸を通すために用いる木製(椿・樫・黄楊(つげ)・枇杷(びわ)・柿などの固い狂いを生じにくい木材を素材とする)の舟形の道具で、織物によって様々な大きさのものがある。舟形の中央部を刳り貫いて、管に巻いた緯糸を嵌め込み、経糸の中を左右に潜らせて織り進める。ここは虫の声から機織りを引き出したので、その叢に渡る風を目に見えない細い杼に譬えたもの。]

蟲賣り 伊良子清白

 

蟲賣り

 

「松蟲鈴蟲くつわむし

蟲めせふ蟲めせかごも候」

四保小橋の袂には

八瀨の蟲うり早も出る

 

旅籠(はたご)の軒(のき)の汀(みぎは)には

水の高瀨のせせらぎや

柳は暗く月明(あか)く

蟲のこゑごゑ流れ行く

 

都大路のともし火も

秋の野らなる蟲の聲

殘る暑さの石疊

さすがに露のおきまさる

 

空は秋風人波の

上吹き越ゆる涼しさに

「蟲召せ蟲召せ」蟲うりの

聲もきえ行く高瀨川

 

[やぶちゃん注:底本校異に記載がない。これは昭和四(一九二九)年新潮社刊「現代詩人全集 第四巻 伊良子清白集」の、先の「避暑の歌」から後の「山家冬景」までの大パート「鷗の歌」全四十篇の中に含まれている。当該書は伊良子清白の生前に刊行されたものであり(扉の題字は本人の揮毫で、扉裏には本人による自伝が載る)、底本の校異の初出の判明している作品の発表順列を見ると、この前後に限っては編年(月ではやや前後するが、年単位では完全である)体で組まれてあることが判る。従って、この「蟲賣り」が書かれた、或いは、未詳の発表が行われたのは、先行する「背に負へる」「おほしたてたる」「しのびあるきの」の元である「一よぐさ」が発表された明治三四(一九〇一)年十一月以降、後の「新綠」が発表された翌明治三十五年五月(但し、初出は同じ「新綠」ながら、河井酔茗との合作で「雜司ケ谷鬼子母神に詣でゝ」「晩春鶯賦」「十二社にて」の全三篇から成り、その中の「雜司ケ谷鬼子母神に詣でゝ」を改題したものがこの伊良子清白の「新綠」である)の間か、その前後同年中と考えても、必ずしも見当違いではないかとも思われる。でなければ、大パート「鷗の歌」のここにこれを挟む必然性が見えてこないからである。但し、同パートの後の方では、編年順がひどく崩れているから、私の推定は決して真理性が高いとは言えない。

一よぐさ 伊良子清白

 

一よぐさ

 

   ○

しのびあるきの君なれば

いかで知るべき國君と

旗ひるがへる城の戶を

ひとりやいでゝきましたる

 

葡萄の岡と小流れと

あばらぶきなるやどの外

見給ふものもなきものを

しばしばきみはきましたる

 

あしきやからのおほかるを

あはれ貴きわがきみよ

あすより絕えてその門を

訪れたまふことなかれ

 

葡萄の房は年々に

いやうつくしくみのるべし

われはさびしきあばらやに

常少女にてをはらなむ

   ○

おぼしたてたるいくもとの

菊につきたる秋の蟲

いかりにたヘず火をとりて

のこるくまなくやきにけり

 

もとより菊はかれぬれど

今は心のやすくして

暮れ行く秋のさびしさを

ながめ空しくくらすなり

   ○

をのこの中にたゞひとり

はしき少女ぞまじるなる

沙漠の上に一ひらの

草生ひしげる風情あり

 

破れし城よりすくひしは

椰子の木生ふる國なりき

そのをりまでも手離さで

持ちしはかれの琴なりき

 

獅子色なせるその髮に

野營の月のてりそひて

熱きくになるをとめこは

こよひも琴をならすなり

   ○

そびらにおへる御佛に

西日かゞやく坂みちや

鉦の響に木の葉ちり

御厨のなかにおちつもる

 

身に御佛を負ふことの

こがねのはすをふみわけて

熱なき池に入ることも

すなはち今日の境なり

 

驗もたえや觀世音

木の間にとまる山鳩の

厨子にこのはを啄みて

高きみ空に翔り舞ふ

 

[やぶちゃん注:明治三四(一九〇一)年十一月発行の『文庫』に「S」のイニシャル署名(特異点)で発表した全十二連四パート構成から成る物語詩。既に電子化した「背に負へる」「おほきたてたる」「しのびあるきの」の三篇は、どれも皆、本篇の部分を独立させて改変・改題したものである。それぞれと比較されたい。]

しのびあるきの 伊良子清白

 

しのびあるきの

 

しのびあるきの君なれば

いかで知るべき國君と

旗ひるがへる城の門(と)を

ひとりやいでて來ましたる

 

葡萄の岡と小流れと

あばらぶきなる屋根の外

見給ふものもなきものを

しばしば君は來ましたる

 

あしきやからのおほかるを

あはれ貴きわが君よ

あすより絕えてこの門(かど)を

訪(おとづ)れたまふことなかれ

 

葡萄の房は年々に

いやうつくしくみのるべし

われはさびしきあばら屋に

常少女(とこをとめ)にてをはらなむ

 

[やぶちゃん注:本篇は明治三四(一九〇一)年十一月発行の『文庫』に発表した全十二連四パート構成から成る「一よぐさ」の最初のパートの四連分を独立させ、一部を改変して改題したものである。次で、その「一よぐさ」全篇を掲げる。これには底本に校異・初出があるが、伊良子清白が同じ仕儀を行った前の二篇にはそれがないのは、全く以っておかしい。前の二篇「背に負へる」及び「おほしたてたる」に異同がないのならまだしも(それでも不親切ではある)、実際には比べて戴ければ判る通り、前の二篇にも異同がある以上、画期的な「伊良子清白全集」の「校異」としては痛い欠落という謗りは免れぬ。伊良子清白の全貌を明らかにする優れた著作であるだけに次回の刷では以上二篇の校異を投げ込みでも挿入せずんばならず、と強く感ずることを言い添えておく。

2019/04/07

柳田國男 山島民譚集 原文・訓読・附オリジナル注「馬蹄石」(5) 「毛替ノ地藏」(1)

 

《原文》

毛替ノ地藏 白馬ト葦毛トノ混同ハサマデ古クヨリノ事ニハ非ザルべシ。萬葉集ニハ大分靑馬ト書キテ「アシゲウマ」、和名鈔ニハ說文ヲ引キテ葦毛ハ靑白雜毛ノ馬也ト謂ヒ、又漢語抄ヲ引キテ靑馬ナリトモ見ユ。新撰字鏡ニハ驄ハ馬白色又靑色、阿乎支馬(アヲキウマ)ト釋シタリ。葦毛ノ漢字ヲ驄ト云フモ亦同ジ理由ニ基クモノナリ。驄ハ即チ葱(ネギ)[やぶちゃん注:以上はルビではなく、本文。]ノコトニテ、本白クシテ末靑ク其色ノ最モ美シキヲ葱ニ譬ヘタルナリ〔相驥經二其他〕。併シ葦毛モ必ズシモ一種ニハ非ザリシガ如ク、現今葦毛ト呼ブ馬ノ中ニハ靑ヨリモヨホド灰ニ近キモノアリ。古クハ源平盛衰記ナドニモ靑葦毛白葦毛ト云フ語折々見ユ。【白馬節會】朝廷新年ノ儀式ニ有名ナル白馬節會ニハ、後世ハ葦毛ノ駒ヲ曳クヤウニナリタルガ、日本語ニテハ、白馬節會ヲ「アヲウマ」ノ節會ト訓マセタリ。伴信友翁ノ說ニ依レバ、此節會ニハ最初ハ今日ノ「アヲ」即チ鐵駿馬(クロミドリ)[やぶちゃん注:三字へのルビと採る。]ヲ曳キタリシガ、後ニ白馬ヲ用ヰルコトヽナリ、更ニ葦毛ヲ以テ之ニ換ヘラレタルナラント云フコトナレドモ〔比古婆衣九〕、未ダ安心シテ之ニ從フコト能ハズ。白馬ヲ神聖ナル物トスルハ、本來支那ノ思想ナガラ、我邦ニテモ頗ル古キ代ヨリノ風ナリ。或ハ白馬ヲ馬ノ性ノ本ナリト謂ヒ、地ニ白馬アルハ天ニ白龍アルガ如シトモ言フ說アリ。天子ニ限リテ之ヲ用ヰラルヽト云フモ恐クハ其爲ナラン。素問ノ書ニモ馬ヲ西方ノ白色ニ配シ、其類ハ金、其穀ハ稻、天ニ上リテ大白星ト爲ルト說キタリ〔弘賢隨筆五十七〕。思フニ白馬ノ珍重セラレタル根本ハ、ヤハリ純粹ノ物ノ得難カリシ爲ニシテ、其爲ニ又夙クヨリ葦毛ヲ以テ之ニ代用スルノ必要ハアリシナランカ。而シテ葦毛バカリガ白馬ノ代リトシテ用ヰラレタルモ、單ニ其色ノ美シク且ツ最モ近カリシ爲ノミニ非ズ、此馬ノ毛ガ年ト共ニ變化シテ恐クハ追々白勝チニ成ルコトヲ實驗シタル結果ナラント思考ス。【七驄八白】所謂七驄八白ノ說ハ古クハ埤雅ト云フ書ニ見エタリ。葦毛ハ八歳ニナレバ色變ジテ白馬トナルヲ謂フナリ〔華陽皮相其他〕。駿府ノ猿屋傳書ノ馬ノ毛色ノ說ニモ葦毛ノミハ全ク別物ニシテ五行ニ配スべカラズト謂ヘルハ、此馬ノ毛色ノ屢變リテ不定ナルヲ不思議トシタル爲ナルべシ。

 

《訓読》

毛替(けがへ)の地藏 白馬と葦毛との混同は、さまで古くよりの事には非ざるべし。「萬葉集」には、大分、「靑馬」と書きて「あしげうま」、「和名鈔」には「說文」を引きて『葦毛は靑白雜毛の馬なり』と謂ひ、又、「漢語抄」を引きて『靑馬なり』とも見ゆ。「新撰字鏡」には『驄(そう)は、馬、白色。又、靑色。阿乎支馬(あをきうま)』と釋したり。葦毛の漢字を「驄」と云ふも亦、同じ理由に基づくものなり。「驄」は、即ち、「葱(ねぎ)[やぶちゃん注:以上はルビではなく、本文。]」のことにて、本(もと)、白くして、末、靑く、其の色の最も美しきを葱に譬へたるなり〔「相驥經(さうききやう)」二・其の他〕。併し、葦毛も必ずしも一種には非ざりしがごとく、現今、葦毛と呼ぶ馬の中には、靑よりも、よほど、灰に近きものあり。古くは「源平盛衰記」などにも「靑葦毛」「白葦毛」と云ふ語、折々見ゆ。【白馬節會(あをうまのせちゑ)】朝廷新年の儀式に有名なる「白馬節會」には、後世は葦毛の駒を曳くやうになりたるが、日本語にては、「白馬節會」を『「あをうま」の節會』と訓(よ)ませたり。伴信友翁の說に依れば、此の節會には最初は今日の「あを」、即ち、鐵駿馬(くろみどり)[やぶちゃん注:三字へのルビと採る。]を曳きたりしが、後に、白馬を用ゐることゝなり、更に、葦毛を以つて之れに換へられたるならんと云ふことなれども〔「比古婆衣(ひこばえ)」九〕、未だ安心して之れに從ふこと、能はず。白馬を神聖なる物とするは、本來、支那の思想ながら、我が邦にても頗る古き代よりの風なり。或いは「白馬を馬の性(しやう)の本(もと)なり」と謂ひ、「地(ち)に白馬あるは、天に白龍あるがごとし」とも言ふ說あり。天子に限りて之れを用ゐらるゝと云ふも、恐らくは其の爲めならん。「素問(そもん)」の書にも、馬を西方の白色に配し、其の類は「金」、其穀は「稻」、天に上りて「大白星」と爲ると說きたり〔「弘賢隨筆」五十七〕。思ふに、白馬の珍重せられたる根本は、やはり、純粹の物の得難かりし爲めにして、其の爲めに又、夙(はや)くより、葦毛を以つて、之れに代用するの必要はありしならんか。而して、葦毛ばかりが白馬の代りとして用ゐられたるも、單に其の色の美しく、且つ、最も近かりし爲のみに非ず、此の馬の毛が年と共に變化して、恐らくは、追々、白勝(しろが)ちに成ることを、實驗したる結果ならんと思考す。【七驄八白(しちそうはつぱく)】所謂、「七驄八白」の說は、古くは「埤雅(ひが)」と云ふ書に見えたり。「葦毛は、八歳になれば、色、變じて、白馬となる」を謂ふなり〔「華陽皮相」其他〕。駿府の「猿屋傳書」の馬の毛色の說にも、『葦毛のみは、全く別物にして、五行に配すべからず』と謂へるは、此の馬の毛色の、屢々(しばしば)變りて不定なるを不思議としたる爲めなるべし。

[やぶちゃん注:(見出し「毛替の地藏」は出現する後の段落で注する)『「和名鈔」には……』「和名類聚鈔」の巻十一の「牛馬部第十六 牛馬毛第百四十九」に、

   *

騘馬 「説文」云、騘【音、「聡」。「漢語抄」云、「騘」、靑馬也。黃騘馬、葦花毛馬也。「日本紀私記」云、「美太良乎乃宇万」。】靑白雜毛馬也。

   *

とある。この「騘」は「驄」の異体字である。「美太良乎乃宇万」は「みだらをのむま」と読む。原稿、「靑馬」=「白馬」と同義と解釈されている。

「白馬節會」しばしば古語の難読字とされる「あを(お)む(う)まのせちゑ(え)」。奈良時代頃から行われた宮中の年中行事で、正月七日、天皇が紫宸殿又は豊楽殿(ぶらくでん)に出御し、左右の馬寮(めりょう)から引き出された二十一頭の「青馬(あおうま)」を検閲する儀式。「青馬」は白又は葦毛の馬で、この日に青馬を見れば、その年の邪気を避けられるという中国の風習に倣ったものであった。以前は発音通りに「靑馬」と書いていたが、村上天皇(在位:延長四(九四六)年~康保四(九六七)年)の時、表記を「白馬」と書き改めた。但し、読みは以前の「あを(お)うま」のままであり、馬の色が変わったのではなく、ただ、上代の色彩感が平安時代になって変化して白を重んじるようになった行事の日本化の結果であるという。平安時代には儀式も整い、初めに「御弓奏(みたらしのそう)」・「白馬奏(あおうまのそう)」が行われ、後に諸臣に宴が設けられた。平安末頃から行事自体が衰え、「応仁の乱」(一四六七年~一四七七年)で中絶したが、明応元(一四九二)には再興され、明治初年まで行われた(小学館「日本大百科全書」に拠った)。

「伴信友」(ばんのぶとも 安永二(一七七三)年~弘化三(一八四六)年)江戸後期の若狭生れの国学者で歌人。小浜藩士伴平右衛門の養子となり、藩侯酒井家に仕えたが、四十九歳の時、病気により致仕、以後、専ら学問に努めた。本居宣長の没後の門人。古典の考証を得意とし、仮名(かな)の各種字体を集め、その字源を明らかにし、また、神代文字の存在を否定した。ここに引く「比古婆衣」は考証随筆で全二十巻。伴信友の書き残したものを死の翌年から幕末・明治にかけて刊行したもの。国史・言語・故事などについての考証を集成する。

「素問」現存する中国最古の医学書とされる「黄帝内経(こうていだいけい)」の一部。前漢に成立したとされ、古くは「鍼経」九巻と「素問」九巻があったとするが、これら九巻本は孰れも散逸して現存せず、現在は唐の王冰(おうひょう)の編纂した「素問」と「霊枢(れいすう)」が元になったものが伝えられている。黄帝が岐伯(きはく)を始め、幾人かの学者に日常の疑問を問うたところから「素問」と呼ばれ、問答形式で記述されている。「霊枢」は「鍼経」の別名とされ、「素問」が基礎理論的なものであるのに対し、「霊枢」は実践的・技術的に記述されているという(以上はウィキの「黄帝内経」に拠った)。

『馬を西方の白色に配し、其の類は「金」、其穀は「稻」、天に上りて「大白星」と爲る』馬と五行思想はここに書かれているのとはかなり齟齬するが、私の「和漢三才圖會卷第三十七 畜類 馬(むま)(ウマ)」が一つの通例説の参考にはなる。因みに、この古書記載よりも、後の『駿府の「猿屋傳書」の馬の毛色の說』として出す、『葦毛のみは、全く別物にして、五行に配すべからず』として「此の馬の毛色の、屢々(しばしば)變りて不定なるを不思議としたる爲め」という柳田國男の説明の方が遙かにしっくりくる。

「此の馬の毛が年と共に變化して、恐らくは、追々、白勝(しろが)ちに成ることを、實驗したる結果ならんと思考す」この柳田國男の考察は妙に民俗学的に辛気臭くなく、プラグマティクで共感出来る。

「七驄八白(しちそうはつぱく)」「河童駒引」の「猿舞由緖」で既出既注。

「埤雅」北宋の陸佃(りくでん)によって編集された辞典。全二十巻。主に動植物について説明した書。]

おほしたてたる 伊良子清白

 

おほしたてたる

 

おほしたてたる幾本(いくもと)の

菊につきたる秋の蟲

いかりにたヘず火をとりて

のこるくまなくやきにけり

 

もとより菊は枯れぬれど

今は心のやすくして

暮れ行く秋のわびしさを

ながめ空しく暮すなり

 

[やぶちゃん注:前と同じく底本には初出記載や校異がないが、本篇は明治三四(一九〇一)年十一月発行の『文庫』に発表した全十二連四パート構成から成る「一よぐさ」の最後の第二パートの全二連を独立させ、一部の表記を改変し、改題したものである。後にその「一よぐさ」全篇を掲げる。
「おほしたてたる」の「おほしたつ」は「生ほし立つ」で「育てる・育成する」の意。]

背に負へる 伊良子清白

 

背に負へる

 

そびらに負へる御佛(みほとけ)に

西日かゞやく坂みちや

鉦の響に木の葉ちり

御厨子(みづし)の中におちつもる

 

身に御佛を負ふことの

黃金(こがね)のはちすふみわけて

熱なき池に入ることも

すなはち今日(けふ)の境なり

 

驗(しるし)もたえや觀世音

木の間にとまる山鳩の

厨子の木の葉を啄みて

高きみ空に翔(かけ)り舞ふ

 

[やぶちゃん注:底本には初出記載や校異がないが、本篇は明治三四(一九〇一)年十一月発行の『文庫』に発表した全十二連四パート構成から成る「一よぐさ」の最後の第四パートの全三連を独立させ、一部の表記を改変し、改題したものである。後にその「一よぐさ」全篇を掲げる。

海人の妻 伊良子清白

 

海人の妻

 

うまれて海を家とせば

目路(めぢ)にわきたつ靑き浪

飜り行く魚のごと

潮に滑べる海人(あま)の船

 

日每日每に別路(わかれぢ)の

海人の妻こそ悲しけれ

晝はしみらに子を抱きて

行方(ゆくへ)もしらぬおもひかな

 

見よ海原(うなばら)の吹き荒れて

高波白くよせくれば

持佛(ぢぶつ)の前にひざまづき

夫(つま)安かれといのるなり

 

[やぶちゃん注:前の「鷗」同様、明治三四(一九〇一)年九月発行『文庫』に発表された、既に電子化した八小篇からなる長詩「海の歌」の中の、「其三 女護が島」を独立させた上、改題して一部に手を加えたものである。初出形はリンク先のそれであるので参照されたい。]

鷗 伊良子清白

 

 

磯菜(いそな)に落つる滿潮の

聞きて白き岩の間(ひま)

架け渡したる巢の内に

海を窺ふかもめ鳥

 

海の景色をたとふれば

八重敷(やへし)く浪の沖の方

深き碧(みど)りの毛氈に

皺をうたせしごとくなり

 

やをら飛びたつ驕慢の

羽を恃(たの)みの鷗どり

海をおそるるいさり男を

嘲り笑ふ婆あり

 

鳥の中にもかもめ鳥

歌ふはむしろ叫ぶなり

なほかつ知らず溫かき

胸は和毛(にこげ)にかくるるや

 

脚を休むるひまもなき

苦しき海に浮きながら

眠るまねするかもめどり

飽くまで人を弄ぶ

 

止めよ大(だい)なる小さきもの

天(そら)の風雨(あらし)をしのぐとも

海の怒りに坐るとも

つひに强きが餌食のみ

 

眼(まなこ)を舉げよ朗々と

浮雲はるる山の藍

四方(よも)の景色を眺むれば

飄々としてかもめどり

 

自由にあそぶ身なりせば

何者かよく妨げん

心むなしくへりくだり

運命(さだめ)の前にとべよ鳥

 

白き日靑き空にして

波の起ふし限りなし

翼(つばさ)を伸べよ海山に

大天地(おほあめつち)を家として

 

[やぶちゃん注:明治三四(一九〇一)年九月発行『文庫』に発表された、既に電子化した八小篇からなる長詩「海の歌」の中の、「其二 鷗」を独立させた上、一部に手を加えたものである。初出形はリンク先のそれであるので参照されたい。]

和漢三才圖會卷第三十八 獸類 麂(こびと) (キョン)

Kobito

 

 

 

こびと     ※

【音己】

        【俗云古比止】

キイ

[やぶちゃん注:「※」=「鹿」の三画目を下に長く垂らし、内側に「旨」を入れたもの。]

 

本綱麂山中多有之乃麞類也麞似而小牡者有短角黧

色豹脚脚矮而力勁善跳越其行草芬但循一徑其口兩

邊有長牙好闘南人往往食其肉然堅靭不及麞味美其

皮極細膩鞾韈珍之爲第一無出其右者但皮多牙傷痕

其聲如擊破鈸

一種有銀麂白色 一種有紅麂紅色 一種麖【類麂而大者】

 

 

こびと     ※〔(き)〕

【音、「己」。】

        【俗に云ふ、「古比止」。】

キイ

[やぶちゃん注:「※」=「鹿」の三画目を下に長く垂らし、内側に「旨」を入れたもの。]

 

「本綱」、麂は山中に多く之れ有り。乃ち麞(くじか)の類なり。麞に似て、小さく、牡には短き角有り。黧〔(きぐろ)〕色[やぶちゃん注:黒みがかった黄色]。豹の脚〔たり〕。脚、矮(ひき)くして[やぶちゃん注:短くて。]、而〔も〕、力、勁(つよ)く、善く跳(と)び越える[やぶちゃん注:跳躍する。]。其の草芬〔(くさむら)〕[やぶちゃん注:叢。]を行くに、但だ、一〔つのみの〕徑〔(こみち)〕を循〔(ゆ)〕く。其の口の兩の邊り、長き牙有り。好んで闘ふ。南人、往往〔にして〕其の肉を食ふ。然れども、堅-靭(じなじな)として[やぶちゃん注:「じなじなと」は副詞で「少しずつ次第に力などが加えられるさま」を意味するが、ここは噛んでも何か噛みきれない感じがあることを言っているものか?]、麞の味の美なるに及ばず。其の皮、極めて細-膩〔(なめらか)にして〕、鞾-韈(たび)[やぶちゃん注:足袋。]〔に成して〕之れ珍とす〔ること、〕第一と爲せり。其の右に出づる者、無し。但だ、皮に牙の傷痕(きずあと)多し。其の聲、破(わ)れたる鈸(どら)を擊つがごとし。

一種、「銀麂」有り、白色。 一種、「紅麂」有り、紅色。 一種、「麖〔(けい)〕」あり【麂の類にして大なる者なり。】。

[やぶちゃん注:これは鯨偶蹄目シカ科シカ亜科ホエジカ族ホエジカ属 Muntiacus 類を指すことが、中文ウィキの「麂」で判る(そこでは同属を「麂屬」とする)。さらにその中でもキョン Muntiacus reevesi(羌:中文名「小麂」「山羌」「黃麂」)をこの時珍の記載本文のタイプ種として挙げてもよいのではないかとも思う。ウィキの「キョン」によれば、『中国東部、台湾に自然分布』し、『日本(房総半島、伊豆大島)やイギリスに移入』されている(本邦では特定外来生物に指定されている。僕等の世代は山上たつひこの漫画「がきデカ」で実物を見知る以前に「八丈島のきょん!」の名文句と言うより名ポーズで刷り込み暗記されてしまっている)。『日本での化石記録はないが、リュウキュウムカシキョン(Dicrocerus sp.)の化石が琉球列島で見つかっている』。体長は七十~一メートル、肩高四十~五十センチメートル、体重は十~十五キログラムで、♂には短い角と牙がある。『目の下方に臭腺(眼下腺)の開口部があり、これがつぶった眼のように見えるため、四目鹿(ヨツメジカ)とも言う』。『森林、低木林に生息し、群れは形成せず』、『単独で生活』し、『草食性で木の葉や果実などを食べる』。一回に一匹の『幼体を出産する。特定の繁殖期はなく、雌は』一『年を通じて繁殖する』。『イヌに似た声で鳴く』とある。You Tube のmayume kamada氏の「キョンが鳴いている」を聴くと、本文のように割れた銅鑼(どら)と形容出来るかどうかはちょっと留保するとしても、なんとも濁った不気味に罅割れたような吠え声であることは間違いない。姿は結構、可愛いくも見えるのだが(グーグル画像検索「Muntiacus reevesiをリンクさせておく)。キョンの鞣(なめ)し皮は『きめがとても細かく、セーム革』(ドイツ語「Sämischleder」(ゼーミッシュレーダー)由来で、本来はカモシカの皮を植物油で鞣したもの。シカ・ヤギなどのものも言い、手袋や衣料などに用いる)『の中でも最高級品とされる。楽器やカメラ』の『レンズ、骨董品、刀剣などの手入れのほか、理美容用品の素材としても使われている』とあり、さらにキョンの肉は『柔らかく、脂肪も少な』く、『福建料理、台湾料理、安徽料理などの中華料理では、薄切りまたは細切りにして、単独で、あるいは野菜と共に炒め物などにされる』とある(ここでは堅く噛みきれないと言っていて矛盾するものの、不味いとは言っておらず、南方(福建・安徽・台湾で一致)の人は食用とするとも言っている)。幾つかの画像を見るに、体色は黄褐色や赤褐色で、腹部は淡くて黄色味が強く、鼻から頭頂にかけては黒っぽい色をしているから、「黧〔(きぐろ)〕色」と言うのとよく合い、以上の下線太字部は本文の記載ともかなり一致するように思われる。なお、小学館「日本大百科全書」の「牙」によれば、『一般に動物は牙と角の両方を同時にもつことはない。たとえば、ゾウやイノシシは牙をもつが』、『角がなく、シカやウシには角はあるが』、『牙はない。しかし、キョンという小形のシカの雄は例外で、犬歯の発達した牙と、角の両方をもっている』とあるように、キョンは非常に珍しい動物なのである(太字下線は私)。

「麞(くじか)」既注であるが、恐らくは一属一種のシカ科オジロジカ亜科ノロジカ族キバノロ属キバノロ Hydropotes inermis と思われる。朝鮮半島及び中国の揚子江流域で、アシの茂みや低木地帯に棲息する小形のシカ。体高四十五~五十五センチメートル、体重九~十一キログラム。シカの仲間であるが、角はなく、上顎の犬歯が牙状になっており、特に♂では刀状に曲がった犬歯が口外に突き出ている。尾は短く、毛色は黄褐色。蹄の幅は比較的広い。単独又はつがいで生活することが多い。シカ類の中では多産で、五~六月に一産で一~三子を産み、時には七子を産むこともある。子の毛色は暗褐色で、背に小さな白斑がある。発情期は晩秋から初冬で、この時期の雄は牙を振るって闘争をする。アシやその他の植物を食べる。グーグル画像検索「Hydropotes inermisをリンクさせておく。キョンとは全くの別種であるが、♂の牙や顔の配色など、ちょっと遠目で見た感じはキョンと似ていると言える。但し、キバノロはキョンよりも小さいので、「麞に似て、小さ」いというのは外れる

「豹の脚〔たり〕」キョンはしっかり鹿の脚である。ただ、キョンはかなりすばしっこいので、それを「豹」のようだと言っているのかも知れない。

「但だ、一〔つのみの〕徑〔(こみち)〕を循〔(ゆ)〕く」これは単独行動をし、縄張り意識が強いキョンと合致する。

「細-膩(なめらか)」音は「サイジ」で「きめ細かい・つるつるしている」の意。

「銀麂」「紅麂」種同定不能。キョンの毛色の変異個体或いは近縁種ととっておく。

「麖〔(けい)〕」キョンよりやや大きい、同じホエジカ属のインドキョン Muntiacus muntjak かではないかと私は思う。インドから中国南部・ジャワ島・ボルネオ島まで広く分布し、肩高は五十~五十八センチメートルで、♂だけに角があり、キョンのうちではもっとも長い。キョンに比べると、角座(角の基部の毛で覆われた部分)が長く、前頭や頭頂の長い毛は見られない。犬歯は同じく牙状を呈し、大きな吠え声を出すので「ホエジカ」の名もあり(解説部は小学館「日本大百科全書」に拠った)、「大なる」のは体だけでなく、声もなのであればこそ、この同定はいい線いってるように思うんだけどなぁ。]

和漢三才圖會卷第三十八 獸類 麈(しゆ) (やはり大型のシカ或いはシフゾウがモデル)

Siyu

 

 

 

しゆ

【音主】

 

チユイ

 

三才圖會云麈似鹿而大群鹿隨之皆視麈所往也其尾

辟塵以置倩帛中能令歳久紅色不黦又以拂氈令氈不

△按禪家常攜塵尾【今呼曰拂子】爲高僧衆皆隨行【詳見于佛噐下】

 

 

しゆ

【音、「主」。】

 

チユイ

 

「三才圖會」に云はく、『麈は鹿に似て、大なり。群鹿、之れに隨ふ。皆、麈を視て往く所〔とす〕なり。其の尾、塵を辟〔(さ)〕く。以つて倩帛(あかねぎぬ)の中に置〔けば〕、能く歳久しくして紅色〔を〕黦(うる)まざらしむ。又、以つて氈を拂〔へば〕、氈をして蠧(むしく)はざらしむ』〔と〕。

△按ずるに、禪家、常に塵尾(しゆび)【今、呼びて「拂子〔(ほつす)〕」と曰ふ。】を攜(たづさ)へるを、高僧と爲す。衆、皆、隨ひて行なふ【詳〔かには〕「佛噐」の下を見よ。】。

[やぶちゃん注:これは限定された種を指さず、群れを先導するように見える、哺乳綱鯨偶蹄目反芻亜目シカ科 Cervidae のシカ類の大型固体(多くは♂)を指すと採るしかない。但し、種としては既に出したシカ科シカ亜科シフゾウ属 Elaphurus davidianus を名指しているとしてもよいように思う。シフゾウの尾は四十センチメートルと長く、本種の尾の毛が実際に払子(後述)の材料とされた事実があるからである。しかし、ともかくもこれは、本文にある通り、払子(ほっす:獣の毛などを束ね、これに柄をつけた仏具。サンスクリット語のビヤジャナの漢訳で、単に「払(ほつ)」或いは「払(ほっす)」とも書く。葬儀などの法要の際に導師を務める僧が所持するが、元来はインドで蚊などの虫を追い払うために用いたもので、後に修行者を導く際ににも利用されるようになった。「摩訶僧祇律(まかそうぎりつ)」などによれば、比丘(僧)が蚊虫に悩まされているのを知った釈尊が、羊毛を撚ったもの・麻を使ったもの・布を裂いたもの・破れ物・木の枝を使ったものなどに柄を附けて、払子とすることを許したという。その材料に高価なものを使用することは、他人に盗みの罪を犯させるとの理由から禁じられた(シフゾウが世紀末に野生状態では絶滅してしまったのは実に皮肉であると私は思う)。中国では禅宗で住持の説法時の威儀具として盛んに用いられ、本邦でも鎌倉時代以後、禅宗で用いられるようになり、浄土真宗以外の各宗で用いられている(ここは小学館「日本大百科全書」に拠った))の用法・威儀から逆に想定された、人文的文物から生まれた、原動物への比喩的な漢字名義と思われる

『「三才圖會」に云はく……』この右側(国立国会図書館デジタルコレクションの画像)。本挿絵にも実は見られる、角と鬚の他、体側に独特の円紋が派手に描かれているが、これも上記の仏教の導師の連想からの過剰な権威的装飾化であろうと思われる。

「麈を視て往く所〔とす〕なり」この麈の行くのを見て、その行くべき道を知って導かれて行く。如何にも人文的シンボルである。

「倩帛(あかねぎぬ)」「倩」は単に「美しい」の意であるが、上記の「三才図会」を見ると「蒨」で、これならば、キク亜綱アカネ目アカネ科アカネ属アカネ Rubia argyi で、根を用いた茜色・緋色の茜染めの原種であるから、当て訓の「茜帛・茜布(あかねぎぬ)」は正しい。

「黦(うる)まざらしむ」「黦」(音「エツ・エチ」)は「色が褪せる」の意。

「氈」音「セン」或いは「かも」と訓じているかも知れない。獣毛で織った敷物のこと。

「蠧(むしく)はざらしむ」毛織物を食害する虫がつかぬようにさせる。]

避暑の歌 清白(伊良子清白)

 

避暑の歌

 

新しき蚊帳の靑きに

蓮の花開くがごとく

美しき夢は破れぬ

麗らかに空は晴れたり

 

淡き星なにを私語(ささや)く

濃き朝日なにをもたらす

わがために衣桁(いかう)は冷えて

薄ごろも肩にかけよき

 

雲の峰東に涌きて

靑あらし西に吹きたち

山や水や綠迫りて

人の眉染めなんとする

 

夏の日の白日(まひる)の炎(ほのほ)

白く太くのぼる彼方の

森越えて鳥の行方(ゆくへ)を

伏して見る竹の小筵(こむしろ)

 

巖間なる淸水(しみづ)酌(く)ませて

水うるり桶に冷せり

湯上りの肌の熱きに

ここちよく玉の汗わく

 

盃の底の澱(おり)なる

山里の夕べの景色

朝貌の凋(しぼ)むが如く

凋みつつ色增すごとく

 

浮舟(うきふね)の枕の上に

洗髮苫(とま)とみだれて

宿近き山の社(やしろ)に

灯(ひ)を運ぶ人幽(かす)かなり

 

[やぶちゃん注:以下、昭和四(一九二九)年新潮社刊「現代詩人全集 第四巻 伊良子清白集」に所収された詩篇の内、「孔雀船」に所収されたものを除いたものの電子化に入る。本「避暑の歌」は同集の大パート「五月野」(後述)の次の大パート「鷗の歌」の第一に掲げられ、「山家冬景」まで、全四十篇が「鷗の歌」に含まれる。因みに前の「五月野」は詩集「孔雀船」から、以下の九篇を敢えて選び、その詩集「孔雀船」内での順列を敢えて変更して、「五月野」・「鬼の語」・「初陣」・「安乘の稚兒」・「月光日光」・「秋和の里」・「不開の間」・「漂泊」・「華燭賦」の順に並べ変えたものであり(この並べ変えには明らかに何らかの意図があるものと考えねばならぬが、全く不詳である)、詩篇自体への手入れは行われていない模様である(底本に校異が存在しない。但し、当該大パート本文は表題のみで詩篇九篇自体を全く載せていない)。

 本篇の初出は明治三四(一九〇一)年九月発行の『文庫』。署名は単に「清白」。満二十三歳。この前年に上京、内科医となって日本赤十字病院(医員候補)・横浜海港検疫所(検疫医)・横浜慈恵病院勤務を兼務する一方、鳳晶子(一歳歳下)に会い(上京直前)、与謝野鉄幹(四歳年上)とも親しく交流して『明星』へも寄稿したのであったが、この詩篇の発表の少し後、この年の三月に起こった、とある事件(こちらで略述)を契機としてとして投稿は途絶えた。初出形は以下。

   *

避暑の歌

 

新しき蚊帳の靑きに

蓮の花開くがごとく

美しき夢は破れぬ

麗らかに空は晴れたり

 

淡き星なにを私語(ささや)く

濃き朝日なにを齎す

わがために衣桁(いかう)は冷えて

薄衣肩にかけよき

 

雲の峰東に涌きて

靑嵐西にくづれぬ

山や水や綠迫りて

人の眉染めなんとする

 

夏の日の白日(まひる)の柱

太く立つや彼方の

森越えて鳥の行方(ゆくへ)を

伏して見る竹の小席

 

巖間なる淸水(しみづ)酌(く)ませて

菓物は桶に冷せり

湯上りの肌の熱きに

心地よく玉の汗わく

 

盃の底の澱(おり)なる

山里の夕の景色

朝貌の凋(しぼ)むがごとく

凋みつつ色增すごとく

 

浮舟(うきふね)の枕の上に

洗髮苫(とま)と亂れて

宿近き山の社(やしろ)に

灯(ひ)を運ぶ人幽(かす)かなり

   *

向後は有意な違いを私が認めないものは初出形を掲げない。

「水うるり」「西瓜」或いは「白瓜」。私は後者の色を採りたい。]

駿馬問答 すゞしろのや(伊良子清白) (初出形)

 

駿馬問答(しゆんめもんだふ)

 

 

    使 者(ししや)

月毛(つきげ)なり連錢(れんぜん)なり

丈(たけ)三寸(ずん)年(とし)五歲(さい)

天上(てんじやう)二十八宿(しゆく)の連錢(れんぜん)

須彌(しゆみ)三十二相(さう)の月毛(つきげ)

靑龍(せいりゆう)の前脚(まへあし)

白虎(びやくこ)の後脚(うしろあし)

忠(ちゆう)を踏(ふ)むか義(ぎ)を踏(ふ)むか

諸蹄(もろひづめ)の薄黑色[やぶちゃん注:「黑」はママ。]

落花(らつくわ)の雪(ゆき)か飛雪(ひせつ)の花(はな)か

生(はえ)つきの眞白栲(ましろたえ)[やぶちゃん注:「たへ」はママ。]

竹(たけ)を剝(は)ぎて天(てん)を指(さ)す兩(りやう)の耳(みゝ)のそよぎ

鈴(すゞ)を懸(か)けて地(ち)に向(むか)ふ雙(そう)の目(め)のうるほひ

擧(あが)れる筋(すぢ)怒いかれる肉(しゝ)

銀河(ぎんが)を倒(さかしま)にして膝(ひざ)に及(およ)ぶ鬣(たてがみ)

白雲(はくうん)を束(つか)ねて草(くさ)を曳(ひ)く尾(を)

龍蹄(りゆうてい)の形(かたち)驊騮(くわりゆう)の相(さう)

神馬(しんめ)か天馬(てんば)か

言語道斷(ごんごどうだん)希代(きだい)なり

城主(じやうしゆ)の御親書(ごしんしよ)

献上(けんじやう)達背(ゐはい)候(さふら)ふまじ

 

    駿馬(しゆんめ)の主(ぬし)

曲事(くせごと)仰(あふ)せ候(さふらふ)

城主(じやうしゆ)の執心(しゆうしん)物(もの)に相應(ふさ)はず

夫(そ)れ駿馬(しゆんめ)の來(きた)るは

聖代(せうだい)第(だい)一の嘉瑞(かずゐ)なり

虞舜(ぐしゆん)の世(よ)に鳳凰(ほうわう)下(くだ)り

孔子(こうし)の時(とき)に麒麟(きりん)出(いづ)るに同(おな)じ

理世安民(りせいあんみん)の治略(ちりやく)至(いた)らず

富國殖産(ふこくしよくさん)の要術(えうじゆつ)なくして

名馬(めいば)の所望(しよまう)及(およ)び候(さふら)はず

 

    使 者(ししや)

御馬(おんうま)の具(ぐ)は何々(なになに)

水干(すひかん)鞍の金覆輪(きぷくりん)[やぶちゃん注:「すひかん」「きぷくりん」はママ。]

梅(うめ)と櫻(さくら)の螺細(かながひ)は

御庭(おには)の春(はる)の景色(けき)なり[やぶちゃん注:「けき」はママ。]

韉(あをり)の縫物(ぬひもの)は

飛鳥(ひちやう)の孔雀七寶(しつぽう)の緣飾(へりかざり)[やぶちゃん注:「ひちやう」はママ。]

雲龍(うんりう)の大履脊(おほなめ)[やぶちゃん注:「りう」はママ。]

紗(きぬ)の鞍帊(くらおほひ)

人車記(じんしやき)の故實(こじつ)に出て

鐵地(かなぢ)の鐙(あぶみ)は

一葉(いちえふ)の船(ふね)を形容(かたどつ)たり

※(おもがひ)鞅(むながひ)鞦(しりがひ)は[やぶちゃん注:「※」=「革」+「面」。]

大總(おほぶさ)小總(こぶさ)掛(か)け交(ま)ぜて

五色(しき)の絲(いと)の縷絲(よりいと)に

漣(さゞなみ)組(うつ)たる連着懸(れんじやくかけ)[やぶちゃん注:「れんじやくかけ」はママ。]

差繩(さしなわ)行繩(やりなわ)引繩(ひきなわ)の[やぶちゃん注:総ての「わ」はママ。]

綠(みどり)に映(は)ゆる唐錦(からにしき)

菱形轡(ひしがたくつわ)蹄(ひづめ)の錢(かね)

馬装束(うまそうく)の數々(かずかず)を[やぶちゃん注:「そうく」はママ。]

盡(つく)して召されうずるにても

御錠違背(ごじやうゐはい)候(さふら)ふか

 

    駿馬(しゆんめ)の主(ぬし)

中々(なかなか)の事(こと)に候(さふらふ)

駿馬(しゆんめ)の威德(ゐとく)は金銀(こんごん)を忌(い)み候(さふらふ)

 

    使 者(ししや)

さらば駿馬(しゆんめ)の威德(ゐとく)

御物語(おんものがたり)候(さふら)へ

 

    駿馬(しゆんめ)の主(ぬし)

夫(そ)れ駿馬(しゆんめ)の威德(ゐとく)といつば

世(よ)の常(つね)の口强(くちごは)足駿(あしばや)

笠懸(かさがけ)流鏑馬(やぶさめ)犬追物(いぬおふもの)

遊戲狂言(いうぎきやうげん)の凡畜(ぼんちく)にあらず

天竺震旦(てんぢくしんたん)古例(これい)あり

馬(うま)は觀音(くわんおん)の部衆(ぶしゆう)

雜阿含經(ぞうあごんぎやう)にも四種(しゆ)の馬(うま)を說(と)かれ

六波羅蜜(はらみつ)の功德(くどく)にて

畜類(ちくるゐ)ながらも菩薩(ぼさつ)の行(ぎやう)

悉陀太子(しつたたいし)金泥(こんでい)の龍蹄(りようてい)に

十丈(ぢやう)の鐵門(てつもん)を越(こ)え

三界(ぐわい)の獨尊(どくそん)と仰(あふ)がれ給(たま)ふ

帝堯(ていげう)の白馬(はくば)

穆王(ぼくわう)の八駿(しゆん)

明天子(めいてんし)の德(とく)至(いた)れり

漢(かん)の光武(くわうぶ)は一日(じつ)に

千里(り)の馬(うま)を得(え)

寧王(ねいわう)朝夕(てうせき)馬(うま)を畫て

桃花(とうくわ)馬(ば)を逸(いつ)せり

異國(いこく)の譚(はなし)は多(おほ)かれども

類稀(たぐひまれ)なる我宿(わがやど)の

一(いち)の駿馬(しゆんめ)の形相(ぎやうそう)は[やぶちゃん注:「ぎやうそう」はママ。]

嘶(いなゝ)く聲(こゑ)落日(らくじつ)を

中天(ちゆうてん)に回(めぐ)らし

蹄(ひづめ)の音(おと)星辰(せいしん)の

夜(よる)砕(くだ)くる響(ひゞき)あり

躍(をど)れば長髮(ちやうはつ)風(かぜ)に鳴(なつ)て

萬丈(ぢやう)の谷(たに)を越(こ)え

馳(は)すれば鐵脚(てつきやく)火(ひ)を發(はつ)して

千里(り)の道(みち)に疲(つか)れず

千斤(きん)の鎧(よろひ)百貫(くわん)の鞍(くら)

堅轡(かたくつわ)强鞭(つよむち)

鎧(よろひ)かろかろ

鞍(くら)ゆらゆら

轡(くつわ)は嚙(か)み碎(くだ)かれ

鞭(むち)はうちをれ

飽(あ)くまで肉(しゝ)の硬(かた)き上(うへ)に

身輕(みがる)の曲馬(きよくば)品々(しなじな)の藝(わざ)

碁盤立(ごばんたち)弓杖(ゆんづゑ)

一文字(もんじ)杭渡(くいわた)り[やぶちゃん注:「くいわたり」はママ。]

教(をしヘ)ずして自(おのづか)ら法(はふ)を得(え)たり

扨又(さてまた)絶險難所渡海登山(ぜつけんなんじよとかいとざん)

陸(くが)を行(ゆ)けば平地(へいち)を步(あゆ)むが如(ごと)く

海(うみ)に入(い)れば扁舟(へんしう)に棹(さを)さすに似(に)たり

木曾(きそ)の御(おほん)嶽駒(こま)ケ嶽(だけ)

越(こし)の白山(しらやま)立山(たてやま)

上宮太子(じやうぐうたいし)天馬(てんば)に騎(き)して

梵天宮(ぼんてうきう)に至(いた)り給(たま)ひし富士(ふじ)の峯(みね)[やぶちゃん注:「ぼんてうきう」はママ。]

高(たか)き峯々(みねみね)嶽々(たけだけ)

阿波(あは)の鳴門(なる)穩戶(おんど)の瀨戶(せと)

天龍(てんりゆう)刀根(とね)湖水(こすゐ)の渡(わた)り

聞(きこ)ゆる急流(きふりう)荒波(あらなみ)も

蹄(ひづめ)にかけてかつしかつし

肝(かん)臆(おぢ)ず驅(かけ)早(はや)し

いツかな馳(かけ)り越(こ)えつべし

そのほか戰場(せんぢやう)の砌(みぎり)は

風(かぜ)の音(おと)に伏勢(ふせぜい)を覺(さと)り

雲(くも)を見(み)て雨雪(うせつ)をわきまふ

先陣先驅(せんぢんさきがけ)拔驅(ぬけがけ)間牒(しのび)

又(また)は合戰最中(かつせんもなか)の時(とき)

槍(やり)矛(ほこ)箭(や)種(たね)ケ島(しま)

面(めん)をふり躰(たい)をかはして

主(しゆ)をかばふ忠(ちゆう)と勇(ゆう)は

家子郎等(いへのこらうどう)に異(こと)ならず

かゝる名馬(めいば)は奥(おく)の牧(まき)

吾妻(あづま)の牧(まき)大山(だいせん)木曾(きそ)

甲斐(かひ)の黑駒(くろごま)

その外(ほか)諸國(しよこく)の牧々(まきまき)に

萬頭(とう)の馬(うま)は候(さふら)ふとも

又(また)出(い)づべくも侯(さふら)はず

名馬(めいば)の鑑(かゞみ)駿馬(しゆんめ)の威德(ゐとく)

あゝら有難(ありがた)の我身(わがみ)や候(さふらふ)

 

    使 者(ししや)

御物語(おんものがたり)奇特(きとく)に候(さふらふ)

とうとう城(しろ)に立歸(たちかへ)り

再度(さいど)の御親書(ごしんしよ)

申(まう)し請(こ)はゞやと存(ぞん)じ侯(さふらふ)

 

    駿馬(しゆんめ)の主(ぬし)

かしまじき御使者(おんしゝや)候(さふらふ)

及(および)もなき御所望(ごしよまう)候(さふら)へば

いか程(ほど)の手立(てだて)を盡(つく)され

いくばくの御書(おほんふみ)を遊(あそ)ばされ候(さふら)ふとも

御料(おほんれう)には召(め)されまじ

法螺(ほら)鉦(かね)陣太鼓(ぢんだいこ)

旗(はた)さし物(もの)笠符(かさじるし)

軍兵(ぐんびやう)數多(あまた)催(もよほ)されて

家(いへ)のめぐり十重二十重(とへはたへ)

鬨(とき)の聲(こゑ)あげてかこみ候(さふら)ふとも

召料(めしれう)には出(いだ)さじ

器量(きりやう)ある大將軍(たいしやうぐん)にあひ奉(まつ)らば

其時(そのとき)こそ駒(こま)も榮(はえ)あれ駒主(こまぬし)も

道々(みちみち)引(ひ)くや四季繩(しきなわ)の[やぶちゃん注:「なわ」はママ。]

春(はる)は御空(みそら)の雲雀毛(ひばりげ)

夏(なつ)は垣(かき)ほの卯花鴇毛(うのはなつきげ)

秋(あき)は落葉(おちば)の栗毛(くりげ)

冬(ふゆ)は折れ行く蘆毛(あしげ)積(つも)る雪毛(ゆきげ)

數多(かずおほ)き御馬(おほんうま)のうちにも

言上(ごんじよう)いたして召(め)され候(さふら)はん[やぶちゃん注:「ごんじよう」はママ。]

拜謁(はいゑつ)申(まう)して駿馬(しゆんめ)を奉(たてまつ)らん[やぶちゃん注:「はいゑつ」はママ。]

 

この篇(へん)『飾馬考(かざりうまかんがへ)』『驊鰡全書(くわりうぜんしよ)』『武器考證(ぶきかうしよう)』『馬術全書(はじゆつぜんしよ)』『鞍鐙之辯(くらあぶみのべん)』『春日神馬繪圖及解(かすがしんばゑづおよびげ)』『太平記(たいへいき)』及(およ)び巣林子(さうりんし)の諸作(しよさく)に憑(よ)る所(ところ)多(おほ)し敢へて出所(しゆつしよ)を明(あきらか)にす[やぶちゃん注:以上の注は恐らく初出でも詩篇とは有意な字下げで配されていよう。「孔雀船」では全体が一字下げのポイント落ちで三行となっている。「鰡」はママ(「孔雀船」初版も同じ)。「騮」が正しい。]

 

[やぶちゃん注:初出は明治三四(一九〇一)年一月一月発行の『文庫』。「孔雀船」の掉尾を飾る。今回はさすれば、誤植・誤字を含めて校異に載るもの総てを初出形で復元した。

初陣 すゞしろのや(伊良子清白) (初出形)

 

初 陣(うひぢん)

 

父(ちゝ)よ其(その)手綱(たづな)を放(はな)せ

槍(やり)の穗(ほ)に夕日(ゆふひ)宿(やど)れり

數(かぞ)ふればいま秋(あき)九月(ぐわつ)

赤帝(せきてい)の力(ちから)衰(おとろ)へ

天高(てんたか)く雲(くも)野(の)に似(に)たり

初陣(うひぢん)の駒(こま)鞭(むち)うたば

夢杳(ゆめはる)か兜(かぶと)の星(ほし)も

きらめきて東道(みちしるべ)せむ

 

父(ちゝ)よ其(その)手綱(たづな)を放(はな)せ

狐(きつね)啼(な)く森(もり)の彼方(かなた)に

月(つき)細(ほそ)くかゝれる時(とき)に

一(ひと)すぢの烽火(のろし)あがらば

勝軍(かちいくさ)笛(ふえ)ふきならせ

軍神(いくさがみ)わが肩(かた)のうへ

銀燭(ぎんしよく)の輝(かゞや)く下(もと)に

盃(さかづき)を洗(あら)ひて待(ま)ちね

 

父(ちゝ)よ其(その)手綱(たづな)を放(はな)せ

髮(かみ)皤(しろ)くきみ老(お)いませり

花(はな)若(わか)く我胸(わがむね)踴(をど)る

橋(はし)を斷(た)ちて砲(つゝ)おしならべ

巖(いは)高(たか)く劍(つるぎ)を植(う)ゑて

さか落(おと)し千丈(ぢやう)の崖(がけ)

旗(はた)さし物(もの)亂(みだ)れて入(い)らば

脚下の蟻にげまどふ一千の衆

城跡はた草の露

風(かぜ)寒(さむ)しあゝ皆(みな)血汐(ちしほ)

 

父(ちゝ)よ其(その)手綱(たづな)を放(はな)せ

君(きみ)しばしうたゝ寐のまに

繪卷物開きて

面白や墓に進軍

夕(ゆふ)べ星(ほし)波間(なみま)に沈(しづ)み

霧(きり)深(ふか)く河(かは)の瀨(せ)なりて

網代木かゝる黑髮

誰が子にかかきあげさせん

 

父(ちゝ)よ其(その)手綱(たづな)を放(はな)せ

故鄕(ふるさと)の寺(てら)の御庭(みには)に

うるはしく並ぶ十字架

栗(くり)の木(き)のそよげる夜半(よは)に

たゞ一人(ひとり)さまよひ入(い)りて

母上(はゝうへ)よ晩(おそ)くなりぬと

わが額(ぬか)をみ胸(むね)にあてゝ

ひたなきになきあかしなば

わが望(のぞみ)滿(み)ち足(た)らひなん

神(かみ)の手(て)に抱(いだ)かれずとも

 

父(ちゝ)よ其(その)手綱(たづな)を放(はな)せ

雲(くも)うすく秋風(あきかぜ)吹(ふ)きて

天に見る不滅の文字

星冴ゆる夕の家に

うぶ聲ぞわれはあげたる

吉き日秋時力あり

初陣の駒うちうちて我は進まん

 

[やぶちゃん注:初出は明治三三(一九〇〇)年九月発行の『文庫』。初出形(署名は「すゞしろのや」) を示したが、「盃(さかづき)を洗(あら)ひて待(ま)ちね」は初出が「盃(さかづき)を洗(あら)ひて待(ま)ちぬ」で膝がガックり落ちていしまうので(恐らく「ぬ」に字形の似る「ね」の植字工の誤植)、流石に「孔雀船」で訂した。「孔雀船」では珍しく最終連が大幅に有意に書き換えられている。]

戲れに 清白(伊良子清白) (初出形)


(たはぶ)れに

 

わが居(を)る家(いへ)の大地(おほづち)に

黑(くろ)き帝(みかど)の住(す)みたまひ

地震(なゐ)の踊(をどり)の優(いう)なれば

下(くだ)り來(きた)れと勅(ちよく)あれど

われは行(ゆ)き得ず人(ひと)なれば

 

わが居(を)る家(いへ)の大天(おほぞら)に

白(しろ)き女王(めぎみ)の住(す)みたまひ

星(ほし)の祭(まつり)の艷(えん)なれば

上(のぼ)り來(きた)れと勅(ちよく)あれど

われは行(ゆ)きえず人(ひと)なれば

 

わが居(を)る家(いへ)の古厨子(ふるづし)に

遠(とほ)き御祖(みおや)の住(す)みたまひ

とこ降(ふ)る花(はな)のたえなれば

開(あ)けて來(きた)れとのたまへど

われは行(ゆ)きえず人(ひと)なれば

 

わが居(を)る家(いへ)の厨内(くりやうち)

働(はたらく)く妻(つま)をよびとめて

夕(ゆふべ)の設(まうけ)をたづぬるに

好(この)める魚(うを)のありければ

われは行(ゆ)きけり人(ひと)なれば

 

[やぶちゃん注:初出は明治三八(一九〇五)年九月発行『文庫』であるが、初出では総標題「夕蘭集」のもとに、先の「淡路にて」「孔雀船」再録)に続いて本「戲れに」・「花柑子」(孰れも「孔雀船」再録)・「かくれ沼」(「孔雀船」収録の際に「五月野」と改題)・「安乘の稚兒」(「孔雀船」再録)の全五篇を掲げてある署名は「清白」。初出形に直したが、「とこ降(ふ)る花(はな)のたえなれば」は「たへ」(妙)の誤り(「孔雀船」では直っている)。]

陰の卷 清白(伊良子清白) (「鬼の語」初出形)

 

陰 の 卷

 

顏(かほ)蒼白(あをじろ)き若者(わかもの)に

祕(ひ)める不思議(ふしぎ)きかばやと

村人(むらびと)數多(あまた)來(きた)れども

彼(かれ)はさびしく笑(わら)ふのみ

 

前(きそ)の日(ひ)村(むら)を立出(たちい)でゝ

仙者(せんじや)が嶽(たけ)に登(のぼ)りしが

恐怖(おそれ)を抱(いだ)くものゝごと

山(やま)の景色(けしき)を語(かた)らはず

 

傳(つた)へ聞(き)くらく、此(この)河(かは)の

きはまる所(ところ)瀧(たき)ありて

其(そ)れより奥(おく)に入(い)るものは

必(かなら)ず山(やま)の祟(たゝり)あり

 

蝦蟆(がま)、氣(き)を吹(ふ)きて立曇(たちくも)る

篠竹原(しのだけはら)を分(わ)け行(ゆ)けば

冷(ひ)えし掌(てのひら)あらはれて

項に顏(かほ)に觸(ふ)るゝとぞ

 

陽炎(かげろふ)高(たか)さ二萬尺(まんじやく)

黃山、赤山、黑山の

劍(けん)を植ゑたる頂(いただき)に

祕密(ひみつ)の主(ぬし)は宿(やど)るなり

 

盆(ぼん)の一日(ひとひ)は暮(く)れはてゝ

淋(さび)しき雨(あめ)と成(な)りにけり

怪(け)しく光(ひか)りし若者(わかもの)の

眼(まなこ)の色(いろ)は冴(さ)え行(ゆ)きぬ

 

劉邦(りうはう)未(いま)だ若(わか)うして

谷路(たにぢ)の底(そこ)に蛇(じや)を斬(き)りつ

而(しか)うして彼(かれ)漢王(かんわう)の

位(くらゐ)をつひに贏(か)ち獲(え)たり

 

この子も非凡、山の氣(き)に

中(あ)たりて床(とこ)に隠(かく)れども

禁(きん)を守(まも)りて愚鈍者(ぐどんじや)に

鬼(おに)の語(ことば)を語(かた)らはず

 

[やぶちゃん注:初出は明治三六(一九〇三)年一月一日発行の『文庫』であるが、初出では署名「清白」で、総標題「山岳雜詩」のもとに、この「陰の卷」と「山頂」「淺間の烟」(孰れも新潮社刊「現代詩人全集 第四巻 伊良子清白集」に収録、後者は収録時に「淺間の煙」と表記を変えている)の全三篇を収録。本「陰の卷」は「孔雀船」で「鬼(おに)の語(ことば)」と改題して収録してある。校異に従い、初出形に戻したが、「孔雀船」同様、「項に顏(かほ)に觸(ふ)るゝとぞ」の部分の「項」は初出では「頂」となっている。「孔雀船」でも「頂(うなじ)」となっているが、底本の「孔雀船」校訂本文は別の二書に基づき「項(うなじ)」と訂するので、特異的に誤植と断じて「項」とした。思うに、これも長篇物語詩の構想の中の一部だったのではなかろうか?

2019/04/06

安乘の稚兒 清白(伊良子清白) (初出形)

 

安乘(あのり)の稚兒(ちご)

 

志摩(しま)の果(はて)安乘(あのり)の小村(こむら)

早手風(はやてかぜ)岩(いは)をどよもし

柳道(やなぎみち)木々(きゞ)を根(ね)こじて

虛空(みそら)飛(と)ぶ斷(ちぎ)れの細葉(ほそば)

 

水底(みなぞこ)の泥(ひぢ)を逆上(さかあ)げ

かきにごす海(うみ)の病(いたづき)

そゝり立(た)つ波(なみ)の大鋸(おほのこ)

過(よ)げとこそ船(ふね)のまつらめ

 

とある家(や)に飯(いひ)蒸かへり

男(を)もあらず女(め)も出(い)で行(ゆ)きて

稚子(ちご)ひとり小籠(こかご)に座(すわ)り

ほゝゑみて海(うみ)に對(むか)へり

 

荒壁(あらかべ)の小家一村(こいへひとむら)

反響(こだま)する心(こゝろ)と心(こゝろ)

稚子(ちご)ひとり恐怖(おそれ)をしらず

ほゝゑみて海(うみ)に對(むか)へり

 

いみじくも貴(たふと)き景色(けしき)

今(いま)もなほ胸(むね)にぞ跳(をど)る

少(わか)くして人(ひと)と行(ゆ)きたる

志摩(しま)のはて安乘(あのり)の小村(こむら)

 

[やぶちゃん注:私が「漂泊」とともに最も偏愛する一篇。初出は明治三八(一九〇五)年九月発行『文庫』であるが、初出では総標題「夕蘭集」のもとに、先の「淡路にて」と「戲れに」及び「花柑子」(孰れも「孔雀船」再録)に続いて前の「かくれ沼」(「孔雀船」所収の際に「五月野」と改題)及び本「安乘の稚兒」(「孔雀船」再録)の五篇を掲げてある。署名は「清白」。校異により初出形を再現した。

 安乗は作品内時制当時は、答志郡安乗村、現在の三重県志摩市阿児町安乗(グーグル・マップ・データ)。但し、ウィキの「阿児町安乗」では本詩篇について、『安乗の子どもを詠んでいるが、清白は安乗を訪れることなく』、『この詩を詠んでいる』と記している。伊良子清白が一度も安乗を訪問したことがなかったと言っている一次史料が存在するのであろうか? 清白は明治二三(一八九〇)年四月に三重県立尋常中学校に入学している。それ以前からその後も医師であった父政治(まさはる)は三重県内で単身で複数回、転居開業をしてもいる。従って、本人が「最後に行って見たように詠んでいるが、私は実は安乗には行っていない」と言っている事実が示されない以上、これは俄かには信じられない。その確かなソースがあることを御存じの方は是非、御教授あられたい。同ウィキの注では、根拠を「角川日本地名大辞典」編纂委員会編(一九八三年刊)の八十八ページとする。

不開の間 伊良子清白

 

不開(あけず)の間(ま)

 

花吹雪(はなふぶき)

まぎれに

さそはれて

いでたまふ

館(たち)の姬(ひめ)

 

蝕(むしば)める

古梯(ふるはし)

眼(め)の前(まへ)に

櫓(やぐら)だつ

不開(あけず)の間(ま)

 

香(かぐ)の物(もの)

焚(た)きさし

採火女(ひとり)めく

影(かげ)動(うご)き

きえにけり

 

夢(ゆめ)の華(はな)

處女(をとめ)の

胸(むね)にさき

きざはしを

のぼるか

 

諸扉(もろとびら)

さと開(あ)く

風(かぜ)のごと

くらやみに

誰(た)ぞあるや

 

色(いろ)蒼(あお)く

まみあけ

衣冠(いかん)して

束帶(そくたい)の

人(ひと)立(た)てり

 

思(おも)ふ今(いま)

いけにへ

百年(もゝとせ)を

人柱(ひとばしら)

えも朽(く)ちず

 

年(とし)若(わか)き

つはもの

戀人(こひびと)を

持(も)ち乍(なが)ら

うめられぬ

 

怪(け)し瞳(ひとみ)

炎(ほのほ)に

身(み)は燃(も)えて

死(し)にながら

輝(かゞや)ける

 

何(なに)しらん

禁制(いましめ)

姬(ひめ)の裾(すそ)

なほ見(み)えぬ

扉(とびら)とづ

 

白壁(しらかべ)に

居(お)る蟲(むし)

春(はる)の日(ひ)は

うつろなす

暮(く)れにけり

 

[やぶちゃん注:初出不明。]

花柑子 清白(伊良子清白)

 

花柑子(はなかうじ)

 

島國(しまぐに)の花柑子(はなかうじ)

高圓(たかまど)に匂(にほ)ふ夜(よ)や

大渦(おほうづ)の荒潮(あらじほ)も

羽(はね)をさめほゝゑめり

 

病(や)める子(こ)よ和(なご)の今(いま)

窓(まど)に倚(よ)り常花(とこはな)の

星村(ほしむら)にぬかあてゝ

さめざめとなけよかし

 

生(いく)をとめ月姬(つきひめ)は

新(あらた)なる丹(に)の皿(さら)に

開命(さくいのち)貴寶(あで)を盛(も)り

よろこびの子(こ)にたびん

 

淸(きよ)らなる身(み)とかはり

五月野(さつきの)の遠(をち)を行(ゆ)く

花環(はなたまき)虹(にじ)めぐり

銀(しろがね)の雨(あめ)そゝぐ

 

[やぶちゃん注:初出は明治三八(一九〇五)年九月発行『文庫』であるが、初出では総標題「夕蘭集」のもとに、先の「淡路にて」と「戲れに」及び本「花柑子」(孰れも「孔雀船」再録)に続いて前の「かくれ沼」(「孔雀船」所収の際に「五月野」と改題)及び「安乘の稚兒」(「孔雀船」再録)の五篇を掲げてある。署名は「清白」。初出と「孔雀船」との異同はない。]

かくれ沼 清白(伊良子清白) (「孔雀船」の「五月野」の初出題)

 

   かくれ沼

 

五月野(さつきの)の晝(ひる)しみら

瑠璃囀(るりてん)の鳥(とり)なきて

草(くさ)長(なが)き南國(みなみぐに)

極熱(ごくねつ)の日(ひ)に火(も)ゆる

 

謎(なぞ)と組(く)む曲路(まがりみち)

深沼(ふけぬま)の岸(きし)に盡(つ)き

人形(ひとがた)の樹立(こだち)見(み)る

石(いし)の間(ひま)靑(あお)き水(みづ)

 

水(みづ)を截(き)る圓肩(まろがた)に

睡蓮(ひつじぐさ)花(はな)を分(わ)け

のぼりくる美(うま)し君(きみ)

柔(やはら)かに眼(め)を開(あ)けて

 

王藻髮(たまもがみ)捌(さば)け落(お)ち

眞素膚(ますはだ)に飜(か)へる浪(なみ)

木々(きぎ)の道(みち)木々(きぎ)に倚(よ)り

多(さは)の草(くさ)多(さは)にふむ

 

葉(は)の裏(うら)に虹(にじ)懸(かゝ)り

姬(ひめ)の路(みち)金(こがね)撲(う)つ

大地(おほづち)の人離野(ひとがれの)

變化(へんげ)居(を)る白日時(まひるどき)

 

垂鈴(たりすゞ)の百濟物(くだらもの)

熟(う)れ撓(たわ)む石(いし)の上(うへ)

みだれ伏(ふ)す姬(ひめ)の髮(かみ)

高圓(たかまど)の日(ひ)に乾(かは)く

 

手枕(たまくら)の腕(かひな)つき

白玉(しらたま)の夢(ゆめ)を展(の)べ

處女子(をとめご)の胸肉(むなじゝ)は

力(ちから)ある足(たり)の弓(ゆみ)

 

五月野(さつきの)の濡跡道(ぬれとみち)

深沼(ふけぬま)の小黑水(をぐろみづ)

落星(おちぼし)のかくれ所(ど)と

傳(つた)へきく人(ひと)の子等(こら)

 

空像(うたかた)の數(かず)知(し)らず

うかびくる岸(きし)の隈(くま)

湧(わ)き上(の)ぼる高水(たかみづ)に

いま起(おこ)る物(もの)の音(おと)

 

めざめたる姬(ひめ)の面(おも)

丹穗(にのほ)なす火(ほ)にもえて

たわわ髮(がみ)身(み)を起(おこ)す

光宮(ひかりみや)玉(たま)の人(ひと)

 

微笑(ほゝゑ)みて下(くだ)り行(ゆ)く

湖(うみ)の底(そこ)姬(ひめ)の國(くに)

足(あ)うらふむ水(みづ)の梯(はし)

物(もの)の音(おと)遠(とほ)ざかる

 

目路(めぢ)のはて岸木立(きしこだち)

晝(ひる)下(お)ちず日(ひ)の眞洞(まほら)

迷野(まよひの)の道(みち)の奥(おく)

水姬(みづひめ)を誰(たれ)知(し)らむ

 

[やぶちゃん注:初出は明治三八(一九〇五)年九月発行『文庫』であるが、初出では総標題「夕蘭集」のもとに、先の「淡路にて」と「戲れに」「花柑子」(孰れも「孔雀船」再録)に続いて本「かくれ沼」(「孔雀船」所収の際に「五月野」と改題している)及び「安乘の稚兒」(「孔雀船」再録)の五篇を掲げてある。署名は「清白」。初出形の「睦蓮(ひつじぐさ)」「變化(へんぐわ)居る」は誤植の可能性が高いので、その二ヶ所は「孔雀船」により、一箇所だけ「丹穗(にのほ)なす火(ひ)にもえて」のみを初出に戻した

「瑠璃囀(るりてん)の鳥(とり)」スズメ目ヒタキ科オオルリ(大瑠璃)属オオルリ Cyanoptila cyanomelana のこと。単に「るり」とも呼ぶ。全長十七センチほどで、♂は背面が瑠璃色で咽喉から胸が黒く、♀は全体に褐色を呈する。本邦へは夏鳥として飛来し、渓流近くで繁殖し、冬季は東南アジアへと渡る。高い木の上で朗らかに囀るので、伊良子清白はかく言ったものであろう。

「睡蓮(ひつじぐさ)」スイレン目スイレン科スイレン属ヒツジグサ Nymphaea tetragona。未草。本邦に植生する唯一のスイレン属の睡蓮。花期は六月から十一月。和名は、未の刻(午後二時)頃に花を咲かせるとされることに由来するが、実際には、朝から夕方まで花を咲かせる。]

南の家北の家 すゞしろのや(伊良子清白)

 

南の家北の家

 

野葡萄の蔓

匍ひ廣がれる中に

獅子の形したる巨巖(おほいは)

幾つとなく峙ち

一刷毛撫でし雨の後の

紅珊瑚の紅葉の樹々は

谿と言はず嶺と言はず

麓と言はず染め盡して

朝な朝な雄鹿の群の角振り立てゝ

彼方の岸より此方の岸に

白く泡立つ石を越えて

水の早瀨を啼き渡る頃

茨に閉せる古き祠の扉は

風と雨とに鋲は錆びて

細き松葉の枯れ果てたるが

脚を開きて挾まれるのみ

祠の北の椋の大樹を[やぶちゃん注:「椋」「むく」。バラ目アサ科ムクノキ属ムクノキ Aphananthe aspera。]

右に曲りて坂を下れば

半ば岩窟(いはや)半ば黑木

萱を葺きたる杣小屋あり

祠の南の竹林過ぎて

鷄の聲朗らにきこえ

こはまた紅葉の懷子とも[やぶちゃん注:「懷子」「ふところご」。大事に育てられた子供。]

いふ可く景有る藁屋立てり

北には母持つ若人一人

山に育ちて火性の星の[やぶちゃん注:「火性」「ひしやう」。]

今年二十の腕を揮ひ

額の汗もて神人(しんじん)人に

廣く下せし生活(たつき)の物を

正しき價(しろ)もて我手に享けぬ

南はあらき父の手より

成長(ひとゝなり)たるわかき處女

春秋司の二人の姬の

形を具したる面花やかに

竹割る父の業を助けて

優なる手籠を編みし事あり

元來(もとより)兩家は往來繁く

親戚(みより)のごとき交際(なからひ)なれば

彼に枯木を集めし折は

此に水汲み湯をたてゝ待ち

此に蔗の飯炊く間に

彼は煤けし瓢を拭きぬ

二條三條林を穿ち

山の諸所(こちこち)印けたる道は[やぶちゃん注:「印けたる」「つけたる」。]

平和の神の守らせ給ひ

妙なる草木の花の香匂ふ

虹斷ち截れて紅葉の錦

旗卷き回す谷間に沈み

薄紫の藤の花棚

秋雲亂るゝ山の鞍に

靑くも落す虛空(そら)の湖

遙かに走れる遠の山脈

驚き亂れて野に僵るゝを[やぶちゃん注:「僵るゝを」「たふるるを」。擬人法。]

都の白壁千々に輝ぎ[やぶちゃん注:「輝ぎ」の「ぎ」はママ。]

河の帶もて珠と貫きぬ

山の瞳か二つの家は

げにこの木暗に世を見るものは

二つの家の圓き窓のみ

されど紅き日扇を閉ぢて

夜の色幕を垂るゝに及び、[やぶちゃん注:読点はママ。]

戶を固くして眠りし後は

天に彫める不滅の文字

銀河の砂岸に溢れて

星の宴(うたげ)の場(には)とぞ成れる

 

斯る詩卷の紙を年に

三百あまり繰り返しつゝ

其繪は曾て變らざりき

たゞ杣木樵る斧の音

斧の音は北と響き

たゞ籠を編む竹の風

竹の風は南と鳴りぬ

げに變らざりき變らざりき

されど變りぬ美はしく變りぬ

南の家を照らせし星は

その盃を北に投げ

北の方を守りし星は

その酒瓶を南に灌ぎ

見れば巖も戀草なりき

谿の紅葉も戀草なりき

椋の大樹も戀草なりき

古き祠も戀草なりき

なに神を瀆す言の葉なりとや

戀には神のなきものを

黑き目は黑き目に輝き

紅き唇は紅き唇に觸れ

燃ゆる手は燃ゆる手を握り

波立つ胸は波立つ胸と抱き

其日其時其山其水

皆一時に戀と成りぬ

木の火の紅葉を地より拔きて

人の火を描く雲もがな

紅葉摺りせし戀の衣

胸の焰に燒けやせん

二人の戀は砂の文字

岸の泡沫野の霞

たゞ一時を盛りなる

形の戀にあらざれば

たとへ天地裂くるとも

絕ゆる時なき戀衣

二人の戀に照らされて

山の草木に光あり

光の中に私語ぎて[やぶちゃん注:「私語ぎて」「ささやぎて」。]

巖の陰の往來は

花と花との白菊の

黃菊に語る風情あり

雨ふる時は雨の絲

風吹く時は風の音

たゞ戲れに戲れて

天つ柱を旋り行く

月日も口說の種なれば

戀の命は若くして

揚ぐるに易き春の幕

戀の二人は春なれど

山路は紅葉散り亂れて

冬の時雨の空となりぬれば

浦島の水江の蜑の玉手箱

短き時といふ勿れ

戀は芽を吹き蔓を延べ

花を開きて終に其

果(このみ)を結ぶ時ぞ來にける

 

南の家は紅葉散りしより

色の彩剝げたる跡の

木匠の木彫の如く

常磐木の葉のみ黑みて

谷の瀨の水は涸れ果て

底深く沈む木の枝

衣洗ふ手の皹痛く

油ぬけて髮おどろなり

水桶を肩げて登る

坂路の岩角高く

落葉の簌々下る[やぶちゃん注:「簌々」は「さくさく」。韻律からは前を「らくえふの」と読んでいるのであろう。]

瀨の魚は梁の破れの流れを上り

石疊木の陰暖き淵にぞ津る[やぶちゃん注:「津る」は「とまる」。]

草村の虫は穴を求めて赤土の

雨無き所霜負の枯生に隱る

物を燒く竃の烟

白くのみ立のぼりつゝ

その烟棚引く時は

軒を行く一村時雨

冬籠木部屋の屋根を[やぶちゃん注:「木部屋」(きべや)は「薪(たきぎ)の類いを入れておく小屋」の意。]

杉皮に厚く繕ひ

大雪の用心すると

置石の數を減らしつ

葡萄畠竹棚解きて

古蓙(ふるござ)に幹を被ひぬ

裏木戶に釘打つ音は

からびたる山に木精し[やぶちゃん注:「木精」「こだまし」。]

猪垣の石冬ざれて

ふくれたる野鳩ぞとまる

唐臼を門より下ろし

南の軒を支えて[やぶちゃん注:ママ。]

北風の荒るゝを防ぎぬ

鷄は藪を求食りて[やぶちゃん注:「求食りて」「あさりて」。]

枯殘る菊を啄み

くゝと啼きて人につかねば

捨飼の世話なかりしも

藪寒く冬來るまゝに

仕事場に上ぼる日多く

籠に伏せて籠の窻開けて

餌を撒く要なき手數

山かげは日の影薄く

張付の糊は乾かず

藪の前風强くして

干麥の席ぞ卷かる[やぶちゃん注:老婆心乍ら「席」は「むしろ」。]

炭俵空きたる燃し

爐の灰を換へてやおかん

菅笠の紐を固くし

蓑の緖も結ひなをしたり

數多き仕事の中に

女手一つの甲斐々々しくも

日の短さを夜業(よなべ)に代へて

手ばしこく冬の用意を調へ

母なき身には才覺ありて

針箱出して繼(つぎ)を集め

父のために袖無を縫ひつ

苦勞の種を身に蒔きしより

氣轉利きたる娘と成りぬ

北の家は南面の山豁けて[やぶちゃん注:「豁けて」「ひらけて」。]

野や畠や村や川や

海の妻磯の島々や皆見渡しの

猩々緋流す夕雲

其下に一々展きぬ

庭に干したる古綿を藏め

地上の星山茶花を賞めて

老いたる母は家の裏に行きぬ

二弓ばかり岩を離れし所

杉の幹を數多立てかけ

木屑まじり落葉積れり

厨に入れば筧の竹の朽目より

水は既に眞白なる氷柱をつくり

流し元にことことと音さすものは

夜寒に饑えし溝の鼠か

叱れは彼方の椽に飛びて[やぶちゃん注:「は」はママ。]

いたづら者は走り行きぬ

寒く成りぬと獨ごちつゝ

持佛の棚に燈上ぐるに

附木は盡きたり燧うちて

火の點きかぬる暮のわびしさ

漸くに夕經り後の世の

花の臺の夢を思ひぬ

火種得て圍爐裏を燃やし

外面に映る色に驚き

戶をさしに行く後は山風

榾の火を强く煽りぬ

きしめくは柱の音か

葉を振ふ林の響き

物遠き耳にも入りて

寂しさは榾の焰を

つくづくとながめて坐しぬ

爐の框にうづくまりては

我影も年老いにけり

市より歸りのなどかくは晚き

道草するとも上の渡の

茶店の外に知る人はなし

殺生好きの茶店の總領

また鹿狩(しゝがり)に誘ひはせずや

十一父に別れし時より

十年育てゝ人に賞められ

老いて幸ある我子なれども

男二十の今年の星は

山頭火六白大凶なれば[やぶちゃん注:「山頭火」は干支・陰陽五行説・古代中国の音韻理論を応用した三十に分類され、生まれ年に対応させた運命判断である「納音(なっちん)」の指標の一つ。]

諸事につけて謹むべしと

易の師しばしば我に說きぬ

今日は大安吉き日なれども

かゝるさびしき冬の晚にか

早くかへりて老いたる母に

いつもの笑顏を見せなばよきに

かゝる繰言いひいひ榾の

烟に咽びて眼を擦りつゝ

御名を唱へて我子を待ちぬ

 

買物多くて時いたくすぎ

母人待たすは心ならずと

枯野の細道近きをぬけて

宿場の店の中も覗かず

足强恃みて山路に入れば

谷川水瘦せ網代木高く

大根洗ふか田舟を浮けて

堰(ゐせき)のあたり人ぞ集へる

聲かけし者ありとは知れど

急ぐ急ぐといらへおきて

顧眄(かへりみ)せぬを可笑しと見けん

一の渡は今日新道の

開けし祝かいたく賑ひ

見知れる男の道化たるが

柝木擊ちて芝居をふれぬ[やぶちゃん注:「柝木」「ひやうしぎ」。]

それすらうはの空にきゝて

一里の峠は森陰暗く

日の落ちかゝる谷の隈々

笹原さわぎて白きは芒か

榛の樹小松黃ばめる岨路[やぶちゃん注:「榛の樹」「はんのき」。ブナ目カバノキ科ハンノキ属ハンノキ Alnus japonica。]

山幾旋り人にも逢はず

馴れては暗さも苦にはあらねど

母人獨り家におはすと

思へば流石に胸の迫りて

寒き風にも燃ゆる思

落葉の雨を蓑に凌ぎて

登れば北斗の影ぞ冴えたる

仄かに遠近杉の林

岩組をかくし道を窄めて

殘れる紅葉霧のごとく

暗き夜雲の奧に匂ひ

木の間を縫ふは我家の灯

風にゆらぐを一目見し時

若き木樵の心踴りぬ

標の椋の陰を繞り

まろぶがごとく坂路を下りて

肩に餘れる荷も下ろさぬに

母人かへりぬ今かへりぬと

聲はづませて門に立ちぬ

前後も忘ずる計に母は

草履も穿かず庭を走りて

板戶推し明け燈を上ぐれば

天は黑める銀河の下に

山と谷との色を分ちぬ

月無き夜の道暗くて

風さへ寒く吹きいでたれば

迎に出でぬをいたくな詫びそ

いざ内に入りて腰うち掛けよ

草鞋を解かんに足を出せ

洗足(せんそく)の湯はこゝに取りてあり

我子の詞は耳にも入らず

たゞ嬉しさに我のみ言ひて

蓑も脫がせ足袋も解かせ

一抱へ榾を爐に投げ込みて

活々と燃ゆる火の前にして

諸手の指を組み合はせつゝ

我子の顏を眿め入りぬ

今まで竹屋の娘も待ちしに

餘りに遲きに歸り行きぬ

夜業(よなべ)の暇をぬすみて老の

淋しき宵を慰めにきて

興ある談數多きかせぬ

勝れし性を眉にあらはし

顏立母似の世に美はしく

自づと人をひき入るゝは

女の德と言ふものならん

帶一條欲しくは言はで

父親大事と厚く侍き

身を惜まずに働く心

世に珍らしき娘なりと

褒むる其子口を結びて

老いたる母の言ふを味ひ

如何なる事を次に說くやと

いと嚴めしく敵を守れど[やぶちゃん注:「敵」「あひて」(相手)と訓じておく。されば韻律では「守れど」は「もれど」か。]

母は深くも語らざりき

山風いよいよ荒れ勝りて

行燈の火しばしば消えぬ

其兒は可笑しく語らざりし

母は山路の勞れと思ひ

臥床を布きそ早く寐させぬ

 

   (二)

 

其夜の風は雪と成りて

後夜すぐる頃はたと凪ぎぬ

背戶の林に木の折るゝ音

谷の峽に猿の叫ぶ聲

一時斷えては一時續き

なほしんしんと積る雪に

老の寐覺の母は起ちて

雨戶の隙より外をすかし

ほのかに煙る空を覗けば

霏々として降る六つの花

夜は混沌の雪に閉ぢて

幽かに遠き闇の彼方

隣の雞(かけ)は時をつくりて

まだ夜の深きを人に告げぬ

佛名(みな)を唱へて枕に就けば

燈心細く行燈靑みて

雪の明りにいよいよ暗く

我兒の寐姿さながら夢の

花の臺(うてな)に見たるが如く

深き追懷(おもひで)老いたる人の

袖は慈愛の淚にぬれぬ

日頃は早く兒を搖り起せど

雪降る空の寒さおもひて

夜着の端をも手にかけざりき

 

雪の日女性のかよわき肩に

水汲む業は辛からんとて

その朝吹雪に若き木樵は

仕事着着るや走り行きて

五荷ばかり谷の水を搬びぬ

幼き舉動(ふるまひ)若き娘は

廂の氷柱折りてありき

山に育てば坂に馴れて

平地(ひらち)に疲るゝ人の習ひ

若き木樵は爐火に坐して

寒さを勞ふ翁に向ひ[やぶちゃん注:「勞ふ」「ねぎらふ」。]

昨日の野路(のみち)の長きに比べて

朝食(あさげ)の前の業と笑ひぬ

朝食(あさげ)のまへは秀句なりき

小走り椋の蔭を飛びて

母の手盛の膳に坐せしは

一時後(ひとときあと)の事なりければ

翁は早く板間に下りて

竹割る用意に忙しかりき

小聲の戲言(ざれごと)二言三言

盡きぬは戀の戲れなれど

榾に添へたる火箸の頭(さき)の

いたく熱きに彼方の笑むを

此方も可笑(をか)しく話はきれぬ

姿勝れし山の少女の

火影に榮(は)ゆる白き顏(おもわ)は

雪姬巖(いはほ)の雪を踏みて

銀の翅を朝日に解くか

輝く瞳緘せる唇

若き木樵は物に撲れて

紅き焰の環(たまき)の奧の

花の姿をしばし凝視(みい)りぬ

薔薇(せうび)の簪(かんざし)髮を緩み

席(むしろ)の上に輕く落つるを

插さんともせず手に弄びて

眞白の花片口に觸るゝを

叱る眞似して初めて敵は

無言の鍵を爐火に捨てぬ

其時雪は小歇みとなりて

風一扇山より下ろし

竹の葉雪をふるびおとせば

後に彈(はじ)く幹の力に

三本四本强く打れて

戛々と鳴る琅玕靑く[やぶちゃん注:「琅玕」は「らうかん」で、ここは青々とした竹の幹の換喩的語義。]

頽雪狼藉竹影婆裟

皆紅の爐火に映りぬ

 

積りし雪も大方融けて

夕燒紅き日暮なりき

鳩啼き皈る森の彼方[やぶちゃん注:「皈る」「かへる」。]

淺黃の空は薄墨色の

隈取忙はしく碁(ご)の星屑の

祠(ほこら)の丘(をか)に見え初むる頃

石畠あさりて水菜を擇み

根土を濯ぎて皈り來れば

父の翁は頭(かしら)重しと

圍爐裏近く橫に臥しぬ

納戶(なんど)の奧に臥床を展べて

風上斜に小屛風立てかけ

夜着を圓めて枕を高め

行火(あんくわ)はなかなか毒と思ひて

裾の方には湯婆(ゆたんぽ)設けぬ

其夜はさしたる變(へん)もなくて

嬉しと思ひし翌くる朝(あした)

俄かに身熱(しんねつ)高く昇り

五躰の疲勞面(おもて)に見えて

すゝむる物もたうべず

たゞ寐苦しと悶ゆるのみに

女性の智惠の足らぬが悲しく

心惑ひてよゝと泣きぬ

かゝる折にもさすが少女の

插櫛拔きて鬢の毛理(なを)し

戀人訪はんと家を出るを

作者見もせば拳をあげむ

つまづく小石を邪慳に蹴りて

一村茂る松の木立

其家(そのや)の門(かど)に轉(まろ)び入れば

小母人(をばびと)何ぞと異み問ふを[やぶちゃん注:「異み」「あやしみ」。]

我家の云々(しかじか)漸く語りて

高き乳の氣は領(ゑり)にふるひぬ

若き木樵は始終を聽くや

丸太うち割る斧は捨てゝ

木戶押し開け庭に來り

一走り麓の村は近し

醫者屋(いしやや)よびこんかゝる折は

一時(いちじ)も猶豫はならぬものぞ

新しき草鞋一つ下ろせ

おそくも午には歸り來んと

會釋急はしく宙を蹴て

影は見る間に林樾(こむら)に沒(き)えぬ[やぶちゃん注:「林樾(こむら)」は当て読み。音「リンエツ」(「樾」は「木蔭」の意)で「林の蔭」の意。]

 

老人得たる心强さに

萬看護(みとり)の便宜(たつき)や就きし

指示(さしづ)に從ひ雨戶を閉し

盥に淸き水を酌みて

額に冷えたる布をおけば

身動きもせでたゞ安らけく

睡れる父の病や輕むと

いさゝか心の弓は弛みぬ

媼の人は厨のすゝぎ

圍爐裏の焚火も早く終へて

一掃庭に塵も留めず

花筵舒て席を設け[やぶちゃん注:「はなむしろ」/「のべて」(延べて:設(しつら)えて。)「せきをまうけ」。医師を迎えるため。]

客人(まれびと)招ずる用意かしこく

老の手精(まめ)に娘をたすけぬ

枕邊去らず坐する少女(せうじよ)の

慰惜(ゐせき)の爲に經を誦んじ

貴き教の他界の夢の

明き暗きを老は說きて

たゞ念々慈佛を念へ[やぶちゃん注:「念へ」「おもへ」。]

惡羅刹の咒詛も變じて

病苦を除き時を俟たず

善く本人に還著(げんぢやく)せんと

渴仰(かつがう)あつく法(のり)を勸めぬ

されども若き人の子には

餘りに冷たき敎なりき

幼(いとけ)きより父の手一つに

育まれては人一倍に

親孝行の心も深く

聖なる書は手にもせねど

人の行くべき道は知りぬ

殊更女子の懷(なつ)き易く

父の袂に縋りつきて

日も夜も片時膝を離れず

餘寒の月夜薄黑き夕

枯木の中に棺(ひつぎ)を送りて

麓の御寺に納めし時は

其兒は五歲(いつゝ)の頑是なくて

庫裡の椿をせがみたりき

悲しき昔を思ひいでゝは

男心の張も失せて

子故に早く髮も皤み[やぶちゃん注:「皤」は老人の髪の白いことを言うから、「しらばみ」と訓じておく。]

老い行く我身も忘れ果てぬ

片荷は其兒の輿に分ちて[やぶちゃん注:「輿」(こし)はこの場合、「背負籠(しょいこ)」のことであろう。]

竹籠鬻ぐと市に入れば

小路(こうぢ)の糠雨柳にかくれ

柔き黑髮濡るゝを厭ひ

稻妻秋の夜戶より洩れて

面わを照せば夜の具をかぶり

微笑む父の腕(かひな)に倚りて

小き寐姿市松人形(いちま)のごとく

紅梅匂へる窓を前に

草紙手習ふ姿を見ては

竹割る諸手をしばし停め

をりをりやさしき言葉をかけて

學の業に勵むを賞めぬ

娘も慈愛の中に長じて

溫和(すなほ)の性の女性となれば

老い行く父の上を守りて

遠きに出でし事はなかりき

北の家市女の店に購ひ

濃染の友禪色の美きを

正月(むつき)の祝に贈り來れば

武者繪の姿繪板に押して

たらちを祈るか祠に納め

文月亡き母まつる夕

木の間を流るゝ星を見ては

み親のこゝろ沈みやせんと

燈明く香を炷きて

供佛(くぶつ)の花を山路に探り

谷路のかけ橋藤蔓弛み

麥時長雨(ながせ)水嵩增すに[やぶちゃん注:「長雨(ながせ)」梅雨の別称。]

父を諫めて麓の里の

講會(かうゑ)に行くをかたくとゞめぬ

かゝれば家の榮は盡きず

平和の花園花咲き滿ちて

雨も嵐も襲はざりき

今少女子は父の病の

重きを見ては幼き性(さが)の

詮術盡きて枯野に迷ふ

小鳥の如く行方も知らず

思ひ惑ひて面は沈み

つとめて語る小母の爲に

常の快活(きさく)の子にあらざりき

影見かへれば障子の陰に

冬の日暗く光は入らず

なやみにやつれし父の面は

夢の中(なか)にも病苦を見せて

かたく閉せるまみのうちに

人に知られぬ恨や宿る

娘は物憂く手を拱きて

身置所も分かぬ計に

自づと頭は低く垂れぬ

山は朔風(きたかぜ)刅を鳴らし[やぶちゃん注:「刅」は底本では右の「ヽ」を除去した字体。「やいば」。]

魔の手の雲や虛空(みそら)をさふる[やぶちゃん注:「さふる」は「障ふる」で「邪魔している」の意か。]

板戶の隙の俄に暗く

すゝり泣きする聲は洩れて

媼の人の胸に沁みぬ

 

午すぐる頃醫師は來りて

いと懇ろに病をいたはり

さして重き症にはあらねど

老人なれば心せよと

藥くさぐさ調じ行きぬ

次の日また其次の日も其次の日も

かくて十日あまり若き木樵は

老人思ふ心切に

業を休みて日每日每

醫師がりにと山を下(お)りぬ

風寒く雲の色悲み

と渡る小鳥の聲咽ぶ所

岩間の瀑津瀨水は疲せて[やぶちゃん注:「瀑津」は「たきつ」(「瀧」の意)と読んでいよう。]

枯木の奧に日の影薄く

朽葉に迷ふ山田の畔路(くろぢ)

破(や)れたる案山子に懸れる月は

銀(しろがね)敏鎌を面(おもて)に投げて[やぶちゃん注:「敏鎌」「とがま」。「利(と)鎌」で、鋭利な鎌。三日月の隠喩。]

光は稻莖氷にまがひぬ[やぶちゃん注:「稻莖氷」不詳。「いなくきごほり」と一語で読んでおく。刈り取った後の稲の稲株(それを「稲茎(いなくき)」と呼ぶ)に、冬、氷が張って光ることか。識者の御教授を乞う。]

菅笠菅蓑打扮輕く[やぶちゃん注:「打扮」「だふん」。出で立ち。装い。]

醫師の門(かど)の標(しるし)の松の

下枝をくゞりて入るを見ては

例の性よき若者來ると

家人上下(かみしも)皆賞めたゞへて[やぶちゃん注:「たゞへて」はママ。]

出世の資(もと)ある木樵ををしみぬ

醫師は喜び駕を呼びて

霜柱踏む荒野の並木

山路に入れば人を讓り

若きに餘る前(さき)を荷ひ[やぶちゃん注:「前(さき)」先導役のことであろう。]

健氣の振舞譽を得るを

世馴れぬ無邪氣さ嬉しと思ひき

娘も木樵の情(じやう)をよろこび

親切深きを父に告ぐれば

老いて脆きは人の常や

病の床も忘ずる迄に

淚に咽びてわが子と共に

うくるに餘る深きこゝろを

手を取り合ひてしばし泣きぬ

もとより病める父のためには

あらん限りの心を苦め

畠の大根を細く刻みて

柔き煮染(しめ)に朝を勞り

冷ゆるに怯ぢず硏ぎたる米の

白きを溫め粥に作りて

夕の膳を床に据えぬ

汗じむ衣は早く脫せて

日當りよき日に洗ひ晒し

糊付肌の觸(さは)りよきを

皺も作らで日每すゝめ

我身のために夜具は取りても

たゞ病人の寒さなげきて

厚きが上に厚く重ねぬ

かくて二人は祠の神に

朝々祈の供物(くもつ)を捧げ

智惠有顏に理を說く人の

知らぬ運命(さだめ)を一(いつ)にまかせ

御札(みふだ)は日に日に吉とありし

されば小雪の晴るゝ朝

翁の病は全(また)く癒へて

此日は瑞相ありげなりき

床上げ終れば兩家は集ひ

集ふといふもたゞ四人なれば

むつかしくいふ程にもあらねど

祝の辭をのぶる時に

虹七色の弓を張りて

南の家より北の家に

一つの根ざしは竹の林に

一つの根ざしは椋の大樹(おほき)に

獅子の形したる巖(いはほ)を下に

古びし祠(ほこら)の千木を越えて

鷸の斑(ふ)まだらの雪消の岡の[やぶちゃん注:「鷸」「しぎ」。鴫に同じい。]

雪は紫空に映(えい)じ

谷間を昇る雲の中より

出る日紅く森を射れば

山鳩驚き枝を離れて

南の家の上を翔り

新しき風天(てん)より來り

樹々皆活きて梢を鳴らせば

平和の曉南の家の

四人の山人門(かど)に立ちて

歡喜(くわんぎ)に滿ちたる胸を叩き

天(そら)より天(そら)の虹を仰ぎ

かの藍色の遠(をち)の方に

懸れる朝日の影に向ひ

禮拜(らいはい)あつく眼を閉ぢて

老も若きも諸手を合せぬ

 

   (三)

 

山は深かりき雪の中に

何の木ぞ斧香(かう)を帶びて

白き木屑は四邊(あたり)に散りぬ

小舍(こや)の柱に釘は無くて

拂はぬ枝こそ物は吊らめ

されど柱に立てかけたるは

蓑と笠と割籠と斧と

敵(かたき)持つ人假りに姿を

木樵にやつす昔語り

後に巖あり嚴に松あり

松に竹刀(しなへ)をふりかざしては

武術(ぶじゆつ)を硏ぐ景とならば

奧山眞白の鶴に駕(が)して

白髮(はくはつ)の翁(おう)前に現(げん)じ

祕卷(ひくわん)授くる日とも見んか

他所事(よそこと)無益(むやく)若き木樵は

仕事の小休柱に凭れ

石の爐焚火の暖(ぬくみ)を取りて

飛ぶは黃雲落るは木の葉

深山の冬を一人に領じ

かざす手の掌手相を眺めて

早く逝きたる父の親を

斷れたる條(すぢ)の故と思ひぬ

父の事より母の事と

想は想をめぐりめぐりて

今日は母人南の家に

手傳ひがてら行きたまへば

常のごとく心おかねど

もし空惡しく雪にもならば

歸路(かへさ)案じて弱き胸に

よしなき波の立ちもやせむと

雲行觀じて斧を取るにも

たゆたひ勝になれるなりき

しばしの後に虛空(みそら)みだれ

あやにくあしき日とはなりしを

みそかに敎へし山祇ありて[やぶちゃん注:「山祇」「やまつみ」。山の神。]

若人かくは恐ぢしならん

 

そはめづらしき異變なりし

山風强く西より來り

彼の雲彼の葉一時に飛び落ち

冬の日鏡を被ひ果つれば

奇形の雲々亂字と狂ひ

山より山を谷より谷を

埋め盡してたづきも分かぬ

深き狹霧の奧と成りぬ

吹雪吹雪必ず吹雪と

若き木樵は聲を厲まし[やぶちゃん注:「厲まし」「はげまし」。]

身仕度早く焚火の上には

雪を團めて幾つともなく

投げかけ投げかけ投げ消して

雪來ぬ隙と風に追はれ

我家の方を東に馳せぬ

坂に楠のうつろ木ありし

細石(さゞれ)の流ありし巖(いはほ)の門(もん)ありし

新しき橋ありし岨路ありし

稻妻木々にはためきて

木々紅(くれなゐ)に黃(き)に銀(ぎん)に

雲金(きん)に褐(かげ)に紺(こん)に

坂の楠細石(さゞれ)の流

巖の門岨の橋

皆其色に輝きわたりぬ

仆れたる老木の幹ありし

枯芒の折れ重なれる山陰ありし

棘多き野茨の茂みありし

木の根蔓れる細路(ほそみち)ありし[やぶちゃん注:「蔓れる」「みだれる」と訓じておく。]

雪おこし雷(いかづち)轟きて

東より西に南より北に

なり響き響きどよみぬ

響きどよむ雷は

たちまち雪をさそひて

雪の風風の雪

風は雪を捲き雪は風に舞ひ

笠も蓑も蓑とも笠とも

たゞ白くのみ分かざりし時

木樵の家の山は近かりき

其家近かりし時

祠の崖を南に下りし時

小巾の稻妻森の樹々を照らせし時[やぶちゃん注:「小巾」「こぎれ」。落雷の閃光の隠喩。]

蓑の菅一條一條に

うす紫に血染まりて見えし時

うす紫の粉雪

蓑より亂れて散りし時

竹の林は靡きたふれ靡きかへり

雪にもまるゝ笹の葉は

流るゝ光のはたゝ神に

瑠璃色靑き竹の幹は

轟く響の雷(らい)の音(おと)に

さけて飛び折れて伏し

裂けて飛びし葉は板戶の隙(ひま)より

其家の庭に入り

折れて伏す幹は垣を越えて

其門(かど)の道を遮りぬ

其家其門竹の林竹の下道

低きは草か喬きは木立か

白きは雪か黑きは雲か

火柱一條白銀(しろがね)の火柱一條

坂路(さかぢ)をかすめて閃きくだり

竹の林の雪の中に

みどりの笹葉碧き竹は

硏げる鏡の底の罔象(みつは)か[やぶちゃん注:「罔象(みつは)」水の神。水の精霊。]

漂ふ光の中にうかぶ

漂ふ一時うかぶ一時

崩れておつる雷(いかづち)百(もゝ)の

山には山の響をおこし

谷には谷のどよみを放ち

巖(いはほ)の角の小石をふるひ

祠の柱の鋲をおとし

障子の棧におきわすれたる

縫針飛びて蓙にや立てる[やぶちゃん注:「蓙」「ござ」。茣蓙。]

燒けたる竹の末を洩れて

雪に濡れたる煙細く

若き木樵の眼に入りし時

老いたる母は右の方に

ぬれたる蓑の裾に縋り

若き處女は左にたちて

冷えたる腕(かひな)を諸手に抱きぬ

板戶は破れて雪に塗れ

門の置石笹葉散りて

天(てん)と地(ち)と人との風情

電又祠の森に碎けぬ[やぶちゃん注:「電」はここのみの使用であるから、「雷」と差別化して「でん」と音で読むべきか。「かみなり」では韻律に弛みが出るように思われる。]

竹の林の垣ほを見れば

巖が根しめて一本さける

水仙の花雷(らい)を避けて

淸くほゝゑみ立てる方に

小女の簪は髮をぬけて

眞白の雪の上に落ちぬ

 

昨日の異變を老は語りて

祠の神の守らせたまひ

若き木樵に恙なくて

終りし事の慶(けい)を陳ぶれば

媼は小窓の釘にかゝりて

其時さきたる袖のやぶれを

繕ひながら言葉をつぎて

さればぞ今年二十の星の

山頭火の難のがれ難きに

凶事運らず十步(とあし)の前に[やぶちゃん注:「運らず」「めぐらず」。至らず。]

雷神(らいじん)御符(ごふ)の神威に恐ぢて

竹の林の中に落ちしは

靈驗(れいげん)まさにいやちこなりと[やぶちゃん注:「いやちこなり」「灼然(いやちこ)なり」で、神仏の利益(りやく)・霊験のあらたかなさま、それが目に見えてはっきりしているさまを言う。]

山人互に神を說きて

萱の廂にたまれる雪の

融けて流るゝ音をきゝつゝ

爐火を圍みて話に耽りぬ

知らるゝごとく我身も老いて

竹割る業も手の甲寒く

先つ日熱病(ねつびやう)病みて後は

身の衰へも一入いみじく

市場の競聲(せりごゑ)人にまじりて

商かしこき智惠も出でず

雪解泥(どろ)の道を踏みて

枯野を辿るに兩荷は重く

娘一人に家の事は

萬づ任せて朝夕火のみ

親む老の賴りなくて[やぶちゃん注:「親む」は「なづむ」であろう。]

近頃おもひ續けし事あり

そこのをとこも火難のがれ

凶事過ぎたる今日にあれば

婚禮濟ませて娘の緣に

我が子と呼びて老いたる後を

媼のをとこに讓りておかば

南の家も北の家も

これに過ぎたる幸いなきに[やぶちゃん注:「幸い」はママ。]

媼を何時ぞや忙(せは)しなしと

叱りし過(あやまり)今ぞ悔いて

かく願事(ねぎごと)に來りしなりと

話の節は手輕なりき

媼は點頭(うなづ)き針を停めて

そはそれにおはす持佛達も

草葉の陰より喜びたまはん

幼(いとけな)きより兄のごとく

妹のごとく懷(なつ)き合ひて

心あひたる二人なれば

いはゞ願ふたり叶ふたり

かゝる芽出度事はなしと

喜悅(よろこび)面(おもて)の上にあらはれ

老の額に皺をよせて

翁の願は早く成りぬ

なほくさくさの談合ありて[やぶちゃん注:「くさくさ」はママ。底本では後半は踊り字「〱」。]

知らぬ二人の戀のために

こひは花さき果をむすび

果の熟るゝ時は來りぬ

 

    *  *  *  *

 

律師(りし)は麓(ふもと)の

   寺(てら)をいでゝ

駕(が)は山(やま)の上(うへ)

   竹(たけ)の林(はやし)の

夕(ゆふべ)の家(いへ)の

   門(もん)に入(い)りぬ

 

親戚(うから)誰彼(たれかれ)

   宴(えん)たすけ

小皿(こざら)の音(おと)

   厨(くりや)にひゞき

燭(しよく)を呼(よ)ぶ聲(こゑ)

   背戶(せと)に起(おこ)る

 

小壺の水(みづ)に

   浸(ひた)すは若菜(わかな)

若菜(わかな)を切(き)るに

   俎板(まないた)なれず

新(あたら)しき香(か)の

   木より去らねば

 

菱形(ひしがた)なせる

   窓(まど)の外(そと)に

三尺(じやく)の雪(ゆき)

   戶(と)を壓(お)して

靜(しづ)かに暮(く)るゝ

   山(やま)の夕(ゆふべ)

 

夕(ゆふベ)は

   樂(たの)しき時(とき)

夕(ゆふベ)は

   淸(きよ)き時(とき)

夕(ゆふベ)は

   美(うつぐ)しき時(とき)[やぶちゃん注:「うつぐ」のルビはママ。]

 

この夕(ゆふベ)

   雪(ゆき)あり

この夕(ゆふベ)

   月(つき)あり

この夕(ゆふベ)

   宴(うたげ)あり

 

火(ひ)の氣(け)弱(よわ)きを

   憂(うれ)ひて

竈(かまど)にのみ

   立(た)つな

室(しつ)に入(い)りて

   花(はな)の人(ひと)を見(み)よ

 

花(はな)の人(ひと)と

   よびまゐらせて

この夕(ゆふベ)は

   名(な)をいはず

この夕(ゆふベ)は

   名(な)なし

 

律師(りし)席(せき)に入(いつ)て

   白毫(びやくがう)威(ゐ)あり

長人(ちやうじん)を煩(わづら)はすに

   堪(た)へたり夕べ

 

琥珀色の酒

   酌(く)むに盃(さかづき)あり

盃(さかづき)の色(いろ)

   紅(くれなゐ)なるを

山人(やまびと)驕奢(おごり)に

   長(ちやう)ずと言(い)ふか

 

紅(くれなゐ)は紅(くれなゐ)の

   芙蓉(ふよう)の花(はな)の

秋(あき)の風(かぜ)に

   折れた其日

市(いち)の小路(こうぢ)の

   店(みせ)に獲(え)たるを

律師(りし)詩(し)に堪能(たんのう)

   箱(はこ)の蓋(ふた)に

紅花盃(こうくわはい)と

   書(しよ)して去(さ)りぬ

 

紅花盃(こうくわはい)を

   重(かさ)ねて

雪夜(せつや)の宴(えん)

   月出(つきい)でたり

月出でたるに[やぶちゃん注:後注参照。]

   島臺(しまだい)の下睛き[やぶちゃん注:「島臺」言わずがなとは思うが、婚礼等の目出度い儀式での飾り物。州浜(すはま)の台の上に松竹梅を作り、これに尉と姥を立たせ、鶴亀などを配したもの。蓬莱山を象ったものとされる。なお、「孔雀船」では句末は「下(もと)暗(くら)き」となる。「睛」は「黒目」の意であるから、同様に読んでいるものと思われる。]

 

島臺(しまだい)の下(もと)

   暗(くら)き

蓬莱(ほうらい)の

   松(まつ)の上(うへ)に

斜(なゝめ)におとす

   光(ひかり)なれば

 

銀(ぎん)の錫懸(すヾかけ)

   用意(ようい)あらむや

山(やま)の竹(たけ)より

   笹(さゝ)を摘(つ)みて

陶瓶(すがめ)の口(くち)に

   挿(さ)せしのみ

 

王者(わうじや)の調度(ちやうど)に[やぶちゃん注:「ちやうど」のルビはママ。]

   似(に)ぬは何々(なになに)

其子(そのこ)の帶(おび)は

   うす紫(むらさき)の

友禪染(いうぜんぞめ)の

   唐縮緬(たうちりめん)か[やぶちゃん注:ルビの「たう」はママ。]

 

艷(つや)ある髮(かみ)を

   結(むす)ぶ時(とき)は

風(かぜ)よく形(かたち)に

   逆(さか)らひ吹(ふ)くと

怨(えん)ずる恨(うら)み

   今(いま)無(な)し

 

若(わか)き木樵(きこり)の

   眉(まゆ)を見(み)れば

燭(しよく)を剪(き)る時(とき)

   陰(かげ)をうけて

額(ぬか)白(しろ)き人(ひと)

   室(しつ)にあり

 

袴(はかま)のうへに

   手(て)をうちかさね

困(こう)ずる席(せき)は

   花(はな)のむしろ

筵(むしろ)の色(いろ)を

   評(ひやう)するには

まだ唇(くちびる)の

   紅(べに)ぞ深(ふか)き

 

北(きた)の家(いへ)より

   南(みなみ)の家(いへ)に

來(く)る道(みち)すがら

   得(え)たる思(おもひ)は

花(はな)にあらず

   蜜(みつ)にあらず

 

花(はな)よりも

   蜜(みつ)よりも

美(うつく)しく甘(あま)き

   思(おもひ)は胸(むね)に溢(あふ)れたり

 

雷(いかづち)落(お)ちて

   籔(やぶ)を燒(や)きし時(とき)

諸手(もろて)に腕(かひな)を

   許(ゆる)せし人(ひと)は

今(いま)相對(あひむか)ひて

   月(つき)を挾(はさ)む

 

盃(さかづき)とるを

   差(はづ)る二人(ふたり)は

天(てん)の上(うへ)

   若(わか)き星(ほし)の

酒(さけ)の泉(いづみ)の

   前(まへ)に臨(のぞ)みて

香(にほ)へる浪(なみ)に

   恐(お)づる風情(ふぜい)

 

紅花盃(こうくわはい)

   琥珀色の酒

白(しろ)き手(て)より

   荒(あら)き手(て)にうけて

百(ひやく)の矢(や)うくるも

   去(さ)るな二人(ふたり)

 

御寺(みてら)の塔(たふ)の

   扉(とびら)に彫(ほ)れる

神女(しんによ)の戲(たはぶれ)

   笙(しやう)を吹(ふ)いて

舞(ま)ふにまされる

   雪夜(せつや)のうたげ

 

律師(りし)駕(が)に命(めい)じて

   北(きた)の家(いへ)に行(ゆ)き

月下(げつか)の氷人(ひやうじん)[やぶちゃん注:ルビの「ひやう」はママ。]

   去(さ)りて後(のち)

二人(にん)いさゝか

   容儀(やうぎ)を解(と)きぬ

 

夜(よ)を賞(しよう)するに

   律師(りし)の詩(し)あり

詩(し)は月中(げつちう)に[やぶちゃん注:ルビの「ちう」はママ。]

   桂樹(けいじゆ)挂(かゝ)り

千丈(ぢやう)枝(えだ)に

   銀(ぎん)を着(つ)く

銀光(ぎんくわう)溢(あふ)れて

   家(いへ)に入(い)らば

卜(ぼく)する所(ところ)

   幸(さいはい)なりと[やぶちゃん注:ルビ「さいはい」はママ。]

 

銀光あふれて

   室を射る

佳事數へ難し

   歡(よろこび)多きに

三たび換へて

   燭に知る

夜の更け行くを

翁媼(わうおん)諸人(しよにん)[やぶちゃん注:ルビ「おん」はママ。おかしくはない。]

   歡(くわん)酣に

良夜(りやうや)盃(さかづき)

   運(めぐ)る時

小狐戶に倚り

   興をたすく

 

小狐叱(しつ)すと

   戶を放てば

祠の森

   竹の林

白く雪を帶びたり

   白く月に沈めり

 

[やぶちゃん注:本篇は、明治三三(一九〇〇)年十一月発行の二冊及び十二月発行の一冊の『文庫』に、三回に分割して発表された、長篇の物語詩であるが(署名は「すゞしろのや」)、実はこの最後の「*  *  *  *」の後の部分を、その後半部を大幅にカットして「華燭賦」と題したものが、実は「孔雀船」に載るそれなのである。これは正直、この原型の方が映像がくっきりと見えてきて、遙かに優れている。「華燭賦」は物語をカットしたせいで、ただのその辺に転がっている祝婚歌に堕ちた感がある。底本校異にによって限りなく初出に近いものを復元してみた。なお、「花賣」の注で疑義を示したように、このカットした末尾を見ても、伊良子清白の初出形は総ルビではないことが判るし、実は「孔雀船」では「月出(つきで)でたるに」となっているのを編者平出氏は昭和四(一九二九)年梓書房刊の再版「孔雀船」と昭和一三(一九三八)年岩波文庫刊「孔雀船」によって「月出(つきい)でたるに」と訂しているとある。ということは、これは初出では「月出でたるに」にルビが振られていないということを意味するのである。そこでルビを外したのは、そうした意味があるのである。さらに、伊良子清白は本篇には特別な思い入れがあったものと思われ、後の明治三九(一九〇六)年四月(「孔雀船」初版刊行の一ヶ月前)に改作されて『白鳩』に同じ「南の家北の家」(上・下構成)として改作発表されており、また、昭和四(一九二九)年新潮社刊「現代詩人全集 第四巻 伊良子清白集」では、本篇の一部が「山家冬景(斷章)」として抜粋抄録という特異な形態で収録されてもいる。それらは孰れも後日、電子化公開する予定である。

「少女子」「をとめご」と訓じておく。]

2019/04/05

月光日光 伊良子清白

 

月光日光(げつくわうにつくわう)

 

月光の

    語るらく

わが見しは一(いち)の姬

  古(ふる)あをき笛吹いて

  夜も深く塔(あらゝぎ)の

  階級(きざはし)に白々(しらじら)と

    立ちにけり

 

日光の

    語るらく

わが見しは二(つぎ)の姬

  香木の髓香る

  槽桁(ふなげた)や白乳(はくにう)に

  浴(ゆあ)みして降りかゝる

  花姿(はなすがた)天人(てんにん)の

  喜悅(よろこび)に地(つち)どよみ

    虹たちぬ

 

月光の

    かたるらく

わが見しは一の姬

  一葉舟(ひとはぶね)湖(こ)にうけて

霧の下(した)まよひては

  髮かたちなやましく

    亂れけり

 

日光の

    語るらく

わが見しは二(つぎ)の姬

  顏映る圓柱(まろばしら)

  驕(おご)り鳥(どり)尾を觸れて

  風起り波怒る

  霞立つ空殿(くうでん)を

  七尺(せき)の裾曳いて

  黃金(わうごん)の跡(あと)印(つ)けぬ

 

月光の

    語るらく

わが見しは一の姬

  死の島の岩陰に

  靑白(あをしろ)くころび伏し

  花もなくむくろのみ

    冷えにけり

 

日光の

    語るらく

わが見しは二(つぎ)の姬

  城近く草ふみて

  妻(つま)覓(ま)ぐと來し王子(みこ)は

  太刀取(たちとり)の耻(はぢ)見じと

  火を散らす駿足に

  かきのせて直走(ひたばせ)に

  國領(こくりやう)を去りし時

  春風(はるかぜ)は微吹(そよふ)きぬ

 

[やぶちゃん注:初出は明治三八(一九〇五)年一月発行『文庫』であるが、初出では総標題「冬の夜」のもとに、本篇と「漂泊」及び「無題」(昭和四(一九二九)年新潮社刊「現代詩人全集 第四巻 伊良子清白集」に所収)の三篇を掲げてある。署名は「清白」。本電子化は初出を復元しようと思ったが、第一連の四行目の「笛(ふえ)吹(ふ)いて」が「笛次いて」とあるのは誤植で、第三連の「語(かた)るらく」のみが「かたるらく」というのは如何にもなので、今回は「孔雀船」版を示した。但し、読み誤りようのないと思われるルビを除去し、後注して差別化しておいた

「塔(あらゝぎ)」読みは所謂、「斎宮(さいぐう)の忌(い)み詞(ことば)」(伊勢の斎宮(「いつきのみや」とも読む)が仏教用語や不浄語を避けるために代わりに用いた言葉。他に、「経」→「染め紙」・「死」→「直り物」・「僧」→「髪長 (かみなが)」・「血」→「汗」・「仏」→「中子(なかご)」・「病気」→「慰 (やすみ) 」等と言い換えた類いを言う)の一つで、「仏塔」を意味する。]

柳田國男 山島民譚集 原文・訓読・附オリジナル注「馬蹄石」(4) 「白馬ヲ飼ハヌ村」(2)

 

《原文》

 村ニ白馬ヲ置カシメザル理由ニ至リテモ、地方ニ由リ些シヅツノ相違アリ。武藏入間郡高麗村大字新堀(ニヒホリ)大宮ニテハ、今モー般ニ白毛ノ馬ヲ飼ハズ。【白髭】此村ハ上代高麗人ノ殖民地ニシテ、祖神トシテ白髭明神ヲ祀レリ。其氏子ナルガ故ヲ以テ村人モ白馬ヲ忌ムナリト云フ〔東京人類學會雜誌第二百十六號柴田氏〕。【若宮八幡】橫濱市本牧町本鄕ノ若宮八幡宮ノ神體ハモト白馬ニ乘リタル神像ナリキ。此地ノ農民ハ夫ガ爲ニ嚴ニ白馬ニ乘ルコトヲ戒メタリ〔新編武藏風土記稿〕。【海邊ノ牧】本牧ハ即チ一箇海邊ノ馬牧ナレバ、此ノ如キ口碑ノ存スルハ偶然ニ非ザルべシ。【天智天皇】大隅囎唹郡東志布志村大字安樂ノ山口六社明神ハ天智天皇ヲ祀ルト傳ヘラル。此天皇ノ傳說ハ弘ク鹿兒島縣ノ南海岸ニ分布シテ此ハ其一例ナリ。此神社ノ境内ニ於テハ昔ヨリ白馬ニ騎ルコトヲ固ク戒ム。其禁ヲ犯セバ必ズ災アリ。白馬ハ此神ノ乘用ナリシガ爲ナリト言ヒ傳フ〔三國名勝圖會〕。【白山】【黑駒】之トハ正反對ニ薩摩川邊郡川邊(カハナベ)村大字淸水ノ白山權現ノ神體ハ、黑キ馬ニ騎リタマヘル像ナルガ故ニ、村中ノ民ヲシテ白馬ヲ飼ハシメズ〔同上〕。【平家谷】土佐ノ山中ニハ平家隱里ノ傳說多シ。【白旗】之ト伴ヒテ又所謂白旗傳說アリ。日向ノ那須山ナドニテハ山櫻ノ花ノ盛リヲ見テ源氏ノ旗影カト誤リシト傳ヘタルニ、【白鷺】此地方ニテハ、何レモ白鷺ノ飛ビ揚ルヲ白旗ト見誤リテ一族悉ク自殺シタリト語リ傳ヘタリ〔土佐州郡志〕。此國兩家村ノ平家谷ナドハ、此因緣ヨリ今以テ所謂不入山(イラズヤマ)ノ禁令固キノミナラズ、白馬ヲ曳キ又ハ白キ手拭モテ頰冠リシタル者ハ、此山ヲ過グルコト能ハズト云フ〔土佐國古雜志〕。白旗ト白鷺ニ就キテハ最モ多クノ傳說アリ。白キ衣ヲ著タル老女ヲ白鷺ト思ヒテ射殺シ、其他色々ノ物ニ見誤リテ後ノ災アリシ話ノ多キハ、何カ仔細アルコトナルべシ。

 

《訓読》

 村に白馬を置かしめざる理由に至りても、地方に由り些(すこ)しづつの相違あり。武藏入間郡高麗(こま)村大字新堀(にひほり)大宮にては、今もー般に白毛の馬を飼はず。【白髭】此の村は上代、高麗人(こまびと/こまうど)の殖民地にして、祖神として白髭明神を祀れり。其の氏子なるが故を以つて、村人も白馬を忌むなり、と云ふ〔『東京人類學會雜誌』第二百十六號・柴田氏〕。【若宮八幡】橫濱市本牧(ほんもく)町本鄕の若宮八幡宮の神體は、もと、白馬に乘りたる神像なりき。此の地の農民は夫(それ)が爲に、嚴に白馬に乘ることを戒めたり〔「新編武藏風土記稿」〕。【海邊の牧】本牧は、即ち、一箇[やぶちゃん注:一つのれっきとした。]、海邊の馬牧(うままき)なれば、此(かく)のごとき口碑の存するは偶然に非ざるべし。【天智天皇】大隅囎唹(そお)郡東志布志(ひがししぶし)村大字安樂(あんらく)の山口六社明神は、天智天皇を祀ると傳へらる。此の天皇の傳說は、弘(ひろ)く鹿兒島縣の南海岸に分布して此れは其の一例なり。此の神社の境内に於いては、昔より白馬に騎(の)ることを固く戒む。其の禁を犯せば、必ず災ひあり。白馬は此の神の乘用なりしが爲なりと言ひ傳ふ〔「三國名勝圖會」〕。【白山】【黑駒】之れとは正反對に、薩摩川邊郡川邊(かはなべ)村大字淸水(きよみづ)の白山權現の神體は、黑き馬に騎りたまへる像なるが故に、村中の民をして白馬を飼はしめず〔同上〕。【平家谷】土佐の山中には平家隱里(かくれざと)の傳說、多し。【白旗】之れと伴ひて又、所謂、白旗(しらはた)傳說あり。日向(ひうが)の那須山などにては、山櫻の花の盛りを見て、源氏の旗影かと誤りしと傳へたるに、【白鷺】此の地方にては、何(いづ)れも白鷺の飛び揚るを白旗と見誤りて、一族悉く自殺したりと語り傳へたり〔「土佐州郡志」〕。此の國、兩家村の平家谷などは、此の因緣より、今、以つて、所謂、「不入山(いらずやま)」の禁令、固きのみならず、白馬を曳き、又は、白き手拭(てぬぐひ)もて頰冠(ほおかむ)りしたる者は、此の山を過ぐること能はずと云ふ〔「土佐國古雜志」〕。白旗と白鷺に就きては、最も多くの傳說あり。白き衣を著たる老女を白鷺と思ひて射殺(いころ)し[やぶちゃん注:「ちくま文庫」版全集は『射チ殺シ』とするが、従えない。]、其の他、色々の物に見誤りて、後の災ひありし話の多きは、何か仔細あることなるべし。

[やぶちゃん注:「武藏入間郡高麗(こま)村大字新堀(にひほり)大宮」現在の埼玉県日高市高麗本郷(グーグル・マップ・データ。以下同じ)

「橫濱市本牧(ほんもく)町本鄕の若宮八幡宮」之は現在の横浜市中区本牧和田にある本牧神社内の境内社である若宮八幡宮(鎌倉幕府成立以前から本牧に祀られていたとされ、源頼朝や惟康親王など崇敬を受けた。海岸に流れ着いた大日孁女貴命(おおひるめのみこと=天照大神)像を、弘長三(一二六三)年に奉斎して本郷村の総鎮守としたと伝える)を指すと考えられる。但し、かつてはここではなく、北東海浜の「十二天社」地区にあった丘の上にあったもので、ここもその旧地と考えねばならない。詳しい経緯はウィキの「本牧神社」を見られたいが、ここには例祭として「お馬流し神事」があり、『茅を編み込んで作った』、「お馬」と『呼ばれる馬頭亀体の人形に厄災をのせて、根岸湾に流す 神事で』、室町時代の永禄九(一五六六)年から『行われていると伝えられている。お馬は旧本牧六ヵ村と呼ばれる間門、牛込、原、宮原、箕輪、台にひとつずつ、計』六『体が「やぶ」という屋号をもつ氏子によって製作され、例祭初日の』「お馬迎え式」と『呼ばれる儀式と共に神社に奉納される。翌日』、「お馬送り式」の『儀式と共に奉戴車に乗せられたお馬は、本牧漁港から祭礼船に載せ替えられ、根岸湾の沖合で流される。お馬を流した祭礼船は、各船が競い合って港へと戻る』。『お馬流しは「ハマの奇祭」と呼ばれることもあるが』、『國學院大學伝統文化リサーチセンターによる調査は、その起源は鎌倉時代に本牧にある和田山が軍馬の放牧地であった地域的特性に関わっている、と指摘している』とある。本文の「馬牧」のそれである。

「大隅囎唹(そお)郡東志布志(ひがししぶし)村大字安樂(あんらく)の山口六社明神」現在の鹿児島県志布志市志布志町安楽にある山宮神社の旧称。ウィキの「山宮神社」によれば、『社伝によると』、和銅二(七〇九)年の創建で、大同二(八〇七)年に近隣の六社を『合祀して「山口六社大明神」と名乗っていた』が、明治二(一八六九)年の廃仏毀釈以降は『現在の山宮神社に改称』したとする。『現在』、『建築物などは新しくなっているが』、『宝物は平安時代からの物も含め多数にのぼり、かなり古くに創始された神社ではないかと思われる』とある。

「天智天皇を祀る」上記ウィキによれば、祭神は天智天皇・持統天皇・玉依姫・大友皇子・乙姫・倭姫とある。

「此の天皇の傳說は、弘(ひろ)く鹿兒島縣の南海岸に分布して此れは其の一例なり」古賀達也氏の論文『最後の九州王朝 鹿児島県「大宮姫伝説」の分析』がよい。

「薩摩川邊郡川邊(かはなべ)村大字淸水(きよみづ)の白山權現」場所は既出で、現在の鹿児島県南九州市川辺町清水であるが、同明神社は確認出来ない。

「日向(ひうが)の那須山」不詳。但し、高い確率で、平家落人伝説の地で、後に那須氏が支配した宮崎県東臼杵郡椎葉村(しいばそん)の域内或いはその周辺(東直近県外(熊本県八代市泉町樅木)には同じ落人伝説で知られる五家荘(ごかのしょう)がある)もにある山の異名ではないかと思われる。

「此の國、兩家村の平家谷」文脈から「此の國」は土佐としかとれないから、安徳天皇が落ちのびたとされて墓もある、高知県高岡郡越知町(おちちょう)としか思われないが、ここを「平家谷」とは呼ばないように思う。「兩家村」とは合併して「越知村」となった越知村・野老山(ところやま:と読むか)村を指すか。

「不入山(いらずやま)」癖地(くせち-:所有したり、立ち入ったりすると不幸があると信じられている土地)の一つで、入ると出られなくなるといい、行くことを忌む山。四国地方に多い。藩命で入山を禁止した保護山林もこう呼ぶ。]

花賣 清白(伊良子清白) (初出形)

 

花 賣(はなうり)

 

花賣娘(はなうりむすめ)名(な)はお仙(せん)

十七、花を賣りそめて

十八、戀を知(し)りそめて

顏(かほ)もほてるや耻(はづ)かしの

 

蝮(はび)に嚙(か)まれて脚(あし)切(き)るは

山家(やまが)の子等(こら)に驗(げん)あれど

戀(こひ)の附子矢(ぶすや)に傷(きづゝ)かば

毒、とげぬくも晩(おそ)からん

 

村(むら)の外(はづ)れの媼(おば)にきく

昔(むかし)も今(いま)も花賣(はなうり)に

戀(こひ)せぬものはなかりけり

花(はな)の蠱(まど)はす業(わざ)ならん

 

市(いち)に艷(えん)なる花賣(はなうり)が

若(わか)き脈搏(みやくう)つ花一枝(はなひとえ)

彌生、小窓(こまど)にあがなひて

戀(こひ)の血汐(ちしほ)を味(あぢは)はん

 

[やぶちゃん注:初出は明治三六(一九〇三)年二月発行の『文庫』であるが(署名は「清白」)、総標題「淡雪」のもとに「赤インク」(後に「赤インキ」と表記を変えて新潮社刊「現代詩人全集 第四巻 伊良子清白集」に収録)と本篇の二篇を収録。校異に従い、初出形に戻した。「艷」は「孔雀船」の表記に従った(底本校訂本文は「艶」)。ここで一言言っておくと、底本校異ではルビを振らないものと振るものがあり、それに従っているが、底本の校異は或いはルビを完全には再現していないのではないかと感じられる節があり、或いは、ルビの有る無しを校異としては完全には示していない可能性を感ずる。例えば、本篇の場合、初出は、詩集「孔雀船」の数字を除いた総ルビの形ではなく、パラルビなのではないかという疑義が強くあるということである。ここまで電子化してきて、他の詩篇でもそれを強く感ずるからである。実際に「未収録詩篇」所収の『文庫』発表の詩篇群は概ねパラルビである。しかし、『文庫』原本を私は見ることが出来ないので、「孔雀船」のルビは残して電子化している。なお、これについてはくだくだしいばかりで実のない謂いとなるので、ここでのみ掲げておき、向後は繰り返さない。

「蝮(はび)」有鱗目ヘビ亜目クサリヘビ科マムシ亜科マムシ属ニホンマムシ Gloydius blomhoffii の方言。小学館「日本国語大辞典」によれば、採集地を千葉県夷隅郡・三重県南部・大和・奈良県・和歌山県とする。伊良子清白は鳥取県生まれであるが、明治二〇(一八八七)年、父で個人開業医であった政治(まさはる)の一家転住に伴い、満十歳の時に三重県津市に転住しているので、腑に落ちる。]

夏日孔雀賦 清白(伊良子清白) (初出形近似版)

 

夏日孔雀賦(かじつくじやくのふ)

 

園(その)の主(あるじ)に導(みちび)かれ

庭(には)の置石(おきいし)石燈籠(いしどうろ)

物古(ものふ)る木立(こだち)築山(つきやま)の

景(けい)有(あ)る所(ところ)うち過(す)ぎて

池(いけ)のほとりを來(き)て見(み)れば

棚(たな)につくれる藤(ふぢ)の花(はな)

紫(むらさき)深(ふか)き彩雲(あやぐも)の

陰(かげ)にかくるゝ鳥屋(とや)にして

番(つがひ)の孔雀(くじやく)砂(すな)を踏(ふ)み

優(いう)なる姿(すがた)睦(む)つるゝよ

 

地(ち)に曳(ひ)く尾羽(をば)の重(おも)くして

步(あゆみ)はおそき雄(を)の孔雀(くじやく)

雌鳥(めとり)を見(み)れば嬌(たを)やかに

柔和(にうわ)の性(しやう)は具(そな)ふれど

綾(あや)に包(つゝ)める毛衣(けごろも)に

己(おの)れ眩(まばゆ)き風情(ふぜい)あり

 

雌鳥雄鳥(めどりをどり)の立竝(たちなら)び

砂(すな)にいざよふ影(かげ)と影(かげ)

飾(かざ)り乏(とぼし)き身(み)を耻(は)ぢて

雌鳥(めどり)は少(すこ)し退(しりぞ)けり

落羽(おちば)は見(み)えず砂(すな)の上(うへ)

淸(きよ)く掃(は)きたる園守(そのもり)が

箒(はゝき)の痕(あと)も失(う)せやらず

一つ落(お)ち散(ち)る藤浪(ふぢなみ)の

花(はな)を啄(ついば)む雄(を)の孔雀(くじやく)

長(なが)き花總(はなぶさ)地(ち)に垂(た)れて

步(あゆ)めば遠(とほ)し砂原(いさごばら)

見(み)よ君(きみ)來(きた)れ雄(を)の孔雀(くじやく)

尾羽(をば)擴(ひろ)ぐるよあなや今(いま)

あな擴(ひろ)げたりことごとく

こゝろ籠(こ)めたる武士(ものゝふ)の

晴(はれ)の鎧(よろひ)に似(に)たるかな

花(はな)の宴(さかもり)宮内(みやうち)の

櫻襲(さくらかさね)のごときかな

一つの尾羽(をば)をながむれば

右(みぎ)と左(ひだり)にたち別(わか)れ

みだれて靡(なび)く細羽(ほそばね)の

金絲(きんし)の縫(ぬひ)を捌(さば)くかな

圓(まろ)く張(は)りたる尾(を)の上(うへ)に

圓(まろ)くおかるゝ斑(ふ)を見(み)れば

雲(くも)の峯(みね)湧(わ)く夏(なつ)の日(ひ)に

炎(ほのほ)は燃(も)ゆる日輪(にちりん)の

半(なか)ば蝕(しよく)する影(かげ)の如(ごと)

さても面(おもて)は濃(こま)やかに

げに天鵞絨(びろうど)の軟(やはら)かき

これや觸(ふ)れても見(み)まほしの

指(ゆび)に空(むな)しき心地(こゝち)せむ

 

いとゞ和毛(にこげ)のゆたかにて

胸(むね)を纏(まと)へる光輝(かゞやき)と

紫(むらさき)深(ふか)き羽衣(はごろも)は

紺地(こんぢ)の紙(かみ)に金泥(こんでい)の

文字(もじ)を透(すか)すが如(ごと)くなり

冠(かぶり)に立(た)てる二本(ふたもと)の

羽(はね)は何物(なにもの)直(すぐ)にして

位(くらゐ)を示(しめ)す名鳥(めいてう)の

これ頂(いたゞき)の飾(かざり)なり

身(み)はいと小(ち)さく尾(を)は廣(ひろ)く

盛(さかん)なるかな眞白(ましろ)なる

砂(すな)の面(おもて)を步(あゆ)み行(ゆ)く

君(きみ)それ砂(すな)といふ勿(なか)れ

この鳥影(とりかげ)を成(な)す所(ところ)

妙(たへ)の光(ひかり)を眼(め)にせずや

仰(あふ)げば深(ふか)し藤(ふぢ)の棚(たな)

王者(わうじや)にかざす覆蓋(ふくがい)の

形(かたち)に通(かよ)ふかしこさよ

四方(よも)に張(は)りたる尾(を)の羽(はね)の

めぐりはまとふ薄霞(うすがすみ)

もとより鳥屋(とや)のものなれど

鳥屋(とや)より廣(ひろ)く見(み)ゆるかな

 

何事(なにごと)ぞこれ圓(まど)らかに

張(は)れる尾羽(をば)より風(かぜ)出(い)でゝ

見(み)よ漣(さゞなみ)の寄(よ)るごとく

羽(はね)と羽(はね)とを疾(と)くぞ過(す)ぐ

天(てん)の錦(にしき)の羽(は)の戰(そよ)ぎ

香(かを)りの草(くさ)はふまずとも

香(かを)らざらめやその和毛(にこげ)

八百重(やほへ)の雲(くも)は飛(と)ばずとも

響(ひゞ)かざらめやその羽(は)がひ

獅子(しゝ)よ空(むな)しき洞(ほら)をいで

小暗(をぐら)き森(もり)の巖角(いはかど)に

その鬣(たてがみ)をうち振(ふる)ふ

猛(たけ)き姿(すがた)もなにかせむ

鷲(わし)よ御空(みそら)を高(たか)く飛(と)び

日(ひ)の行(ゆ)く道(みち)の縱橫(たてよこ)に

貫(つらぬ)く羽(はね)を摶(う)ち羽(は)ぶく

雄々(をを)しき影(かげ)もなにかせむ

誰(たれ)か知(し)るべき花蔭(はなかげ)に

鳥(とり)の姿(すがた)をながめ見(み)て

朽(く)ちず亡(ほろ)びず價(あたひ)ある

永久(とは)の光(ひかり)に入(い)りぬとは

誰(たれ)か知(し)るべきこゝろなく

夜逍遙の目(め)に觸(ふ)れて

孔雀(くじやく)の鳥屋(とや)の人(ひと)の世(よ)に

高(たか)き示(しめ)しを與(あた)ふとは

時(とき)は滅(ほろ)びよ日(ひ)は逝(ゆ)けよ

形(かたち)は消(き)えよ世(よ)は失(う)せよ

其處(そこ)に殘(のこ)れるものありて

限(かぎ)りも知(し)らず極(きは)みなく

輝(かゞや)き渡(わた)る樣(さま)を見(み)む

今(いま)われ假(か)りにそのものを

美(うつく)しとのみ名(なづ)け得(う)る

 

振放(ふりさ)け見(み)れば大空(おほぞら)の

日(ひ)は午(ご)に中(あ)たり南(みんなみ)の

高(たか)き雲間(くもま)に宿(やど)りけり

織(お)りて隙(ひま)なき藤浪(ふぢなみ)の

影(かげ)は幾重(いくへ)に匂(にほ)へども

紅燃(くれなゐも)ゆる天津日(あまつひ)の

熖(ほのほ)はあまり强(つよ)くして

梭(をさ)と飛(と)び交(か)ひ箭(や)と亂(みだ)れ

銀(ぎん)より白(しろ)き穗(ほ)を投(な)げて

これや孔雀(くじやく)の尾(を)の上(うへ)に

盤渦卷(うづま)きかへり迸(ほとばし)り

或(あるひ)は露(つゆ)と溢(こぼ)れ零(お)ち

或(あるひ)は霜(しも)とおき結(むす)び

彼處(かしこ)に此處(こゝ)に戲(たはぶ)るゝ

千々(ちゞ)の日影(ひかげ)のたゞずまひ

深(ふか)き淺(あさ)きの差異(けじめ)さへ

色薄尾羽(いろうすをば)にあらはれて

涌來(わきく)る彩(あや)の幽(かす)かにも

末(すゑ)は朧(おぼろ)に見(み)ゆれども

盡(つ)きぬ光(ひかり)の泉(いづみ)より

ひまなく灌(そゝ)ぐ金(きん)の波(なみ)

と見(み)るに近(ちか)き池(いけ)の水(みづ)

あたりは常(つね)のまゝにして

風(かぜ)なき晝(ひる)の藤(ふぢ)の花(はな)

靜(しづ)かに垂(た)れて咲(さ)けるのみ

 

今(いま)夏(なつ)の日(ひ)の初(はじ)めとて

菖蒲(あやめ)刈(か)り葺(ふ)く頃(ころ)なれば

力(ちから)あるかな物(もの)の榮(はえ)

若(わか)き綠(みどり)や樹(き)は繁(しげ)り

煙(けぶり)は探(ふか)し園(その)の内(うち)

石(いし)も靑葉(あをば)や萌(も)え出(い)でん

雫(しづく)こぼるゝ苔(こけ)の上(うへ)

雫(しづく)も堅(かた)き思(おもひ)あり

思(おも)へば遠(とほ)き冬(ふゆ)の日(ひ)に

かの美(うつく)しき尾(を)も凍(こほ)る

寒(さぶ)き塒(ねぐら)に起臥(おきふ)して

北風(きたかぜ)通(かよ)ふ鳥屋(とや)のひま

雙(ふたつ)の翼(つばさ)うちふるひ

もとよりこれや靈鳥(れいてう)の

さすがに羽(はね)は亂(みだ)さねど

塵(ちり)のうき世(よ)に捨(す)てられて

形(かたち)は薄(うす)く胸(むね)は瘦(や)せ

命(いのち)死(し)ぬべく思(おも)ひしが

かくばかりなるさいなみに

鳥(とり)はいよいよ美くしく

奇(く)しき戰(いくさ)や冬(ふゆ)は負(ま)け

春(はる)たちかへり夏(なつ)來(きた)り

見(み)よ人(ひと)にして桂(かつら)の葉(は)

鳥(とり)は御空(みそら)の日(ひ)に向(むか)ひ

尾羽(をば)を擴(ひろ)げて立(た)てるなり

讃(さん)に堪(た)へたり光景(くわうけい)の

庭(には)の面(おもて)にあらはれて

雲(くも)を驅(か)け行(ゆ)く天(てん)の馬(うま)

翼(つばさ)の風(かぜ)の疾(と)く强(つよ)く

彼處(かしこ)蹄(ひづめ)や觸(ふ)れけんの

雨(あめ)も溶(と)き得(え)ぬ深綠(ふかみどり)

澱(おり)未(ま)だ成(な)らぬ新造酒(にひみき)の

流(ながれ)を見(み)れば倒(さか)しまに

底にことごとくあらはれて

天(そら)といふらし盃(さかづき)の

落(おと)すは淺黃(あさぎ)瑠璃(るり)の河(かは)

地(ち)には若葉(わかば)の神飾(かみかざ)り

誰(たれ)行(ゆ)くらしの車路(くるまぢ)ぞ

朝(あさ)と夕(ゆふ)との雙手(もろで)もて

擎(さゝ)ぐる珠は陰、光

溶(と)けて去(い)なんず春花(はるばな)に

くらべば强(つよ)き夏花(なつばな)や

成(な)れるや陣(ぢん)に驕慢(けうまん)の

汝(なんぢ)孔雀(くじやく)よ華(はな)やかに

又(また)かすかにも、濃やかに

千々(ちゞ)の千々(ちゞ)なる色彩(いろあや)を

間(ま)なく時(とき)なく眩(まば)ゆくも

標(あら)はし示(しめ)すたふとさよ

草(くさ)は靡(なび)きぬ手(て)を擧(あ)げて

木々(きゞ)は戰(そよ)ぎぬ袖振(そでふ)りて

卽(すなは)ち物(もの)の證明(あかし)なり

かへりて思(おも)ふいにしへの

人(ひと)の生命(いのち)の春(はる)の日(ひ)に

三保(みほ)の松原(まつばら)漁夫(いさりを)の

懸(かゝ)る見(み)してふ天(あめ)の衣(きぬ)

それにも似(に)たる奇蹟(きせき)かな

こひねがはくば少(すくな)くも

此處も駿河とよばしめよ

深き林の庭の面に

草は靡きて手を舉げよ

木々はそよぎて袖振れよ

靡けといへば靡きたり

そよげといへばそよぎたり

 

斯(か)くて孔雀(くじやく)は尾(を)ををさめ

妻懸(つまこ)ふらしや雌(め)をよびて

語(かた)らふごとく鳥屋(とや)の内(うち)

花(はな)耻(はづ)かしく藤棚(ふぢだな)の

柱の影に身(み)をよせて

隠(かく)るゝ風情(ふぜい)哀(あは)れなり

しばしば藤(ふぢ)は砂(すな)に落(お)ち

ふむにわづらふ鳥(とり)と鳥(とり)

あな似(に)つかしき雄(を)の鳥(とり)の

羽(はね)にまつはる雌(め)の孔雀(くじやく)

 

[やぶちゃん注:「色薄尾羽(いろうずをば)」「美(うつぐ)しく」のルビの濁音は初版「孔雀船」でもママで、底本全集校訂本文でもママである。初出は明治三五(一九〇二)年六月十五日発行の『文庫』。署名は「清白」。ところが、その一ヶ月後に七月十五日発行の同『文庫』に発表した総標題「葉分の月」(「葡萄の房」(後に新潮社刊「現代詩人全集 第四巻 伊良子清白集」に収録)と「卜」(「ぼく」或いは「うらなひ」。後に「三人の少女」と改題して同前作品集に収録)の二篇構成)の末尾に、

『「夏日孔雀賦」中三〇九頁下段深き林以下五行は衍』

とあり、底本全集ではそれに従って校訂本文が作られ、校異でカットした衍文部分が示されてある。則ち、今回、私はその初出形を敢えて再現した。則ち、最終連前の「深き林の庭の面に」/「草は靡きて手を舉げよ」/「木々はそよぎて袖振れよ」/「靡けといへば靡きたり」/「そよげといへばそよぎたり」の五行総てが意図しない形で入り込んだ衍文だというのである。しかし他に同じ詩句はなく、これは削除したはずの詩句が活字化されたものとしか思われず、一ヶ月の間は『文庫』読者はこれを含めて本篇を読んでいたことを考えると、これを復元することは意味があると私は考えるからである。他に、校異に示された初出の形の内、誤植と私が判断したものを除き、その通りにした。

2019/04/04

柳田國男 山島民譚集 原文・訓読・附オリジナル注「馬蹄石」(3) 「白馬ヲ飼ハヌ村」(1)

 

《原文》

白馬ヲ飼ハヌ村 葦毛ハ一名ヲ靑鷺毛(アヲサギゲ)トモ謂ヒテ、稍靑味ノカヽリタル白馬ナリ。然ルニ夙クヨリ白馬ト同ジ毛色ノ如ク取扱ハレ、村ノ内ニ飼ハヌト云フ右ノ傳說ノ如キモ二者共通ニ存スルハ奇ト謂フべシ。【有馬】攝津有馬ノ湯山權現ハ此山ノ地主神ナリ。曾テ婦人ノ姿ヲ現ジテ麓ノ野邊ニ遊ビシニ、國ノ守護某ナル者鷹狩ニ出デテ之ヲ見怪シミ、滋籐ノ弓ニ白羽ノ箭ヲツガヒ、葦毛ノ馬ニ乘リテ山ノ奧マデ之ヲ追ヒ懸ケタリ。其咎ヲ以テ武士ハ即座ニ命ヲ殞シ、其後右ノ三物ヲ携ヘテ山内ニ入ル者アレバ、必ズ山荒レ雷電スト云フ話ナリキ〔諸國旅雀五〕。此話ハ極メテ古クヨリ世ニ傳フル所ナリ。阿波ノ領主三好修理太夫長慶ガ弟ニ十河ノ某ト云フ武士ハ、唐瘡ヲ煩ヒテ此湯ニ養生ノ間、人々ノ止ムルヲモ聽カズ、葦毛ノ馬ニ乘リテ押シテ登山シ、ヤガテ神罰ヲ蒙リテ歸國ノ後程モ無ク病死セリ。此ハ正シク永祿九年中ノ出來事ナリ〔當代記〕。ソレヨリ更ニ百十餘年ノ以前ニモ、有馬ニ滯在シテ山神ノ女ノ姿ト現ハレテ武士ニ追ハレシ話ヲ聞書シタル僧アリ。【三輪】此ニハ湯山權現ノ本地ハ三輪明神ニシテ、此山ニテ禁ズルハ白馬ナル事ヲ記載シテ葦毛ナリトハ言ハズ〔臥雲日件錄寶德四年四月十八日條〕。此湯ノ發見ニ三輪ノ神ト因ミアル蜘蛛ノ絲ノ導アリシコトハ前ニ言ヘリ。【厩師ノ神】而シテ三輪ガ小山秦兩家ノ厩師ノ尊信スル神ナルコトハ猿屋傳書ニモ見ユ〔駿國雜志七〕。又之ト因ミアルカ否カヲ知ラザレドモ、更ニ今一ツノ似タル話アリ。下野那須郡那珂村大字三輪ノ三輪明神社古傳ニ曰ク、昔此村ノ宮窪ニ柏ノ大木アリ。其處ヨリ見エ渡ル所ヲ白馬ニ乘リテ過グレバ、人馬共ニ即時ニ倒ル。【神託】人々不思議ノ思ヲ爲シ湯ノ花ヲ捧ゲ神託ヲ問ヒシニ、神少女ニ移ラセタマヒ、吾ハ大和ノ三輪ノ神ナリ。此地ニ跡ヲ垂レントスルコトヲ知ラシムル爲ナリ。爰ニ祀ラバ永ク里ヲ守ラントアリシヨリ此社ヲ建テタリ。今ニ至ルマデ葦毛ノ馬ヲ此里ニ留ムルコト一夜ナリト雖、必ズ災アリト云ヘリ〔下野風土記下〕。

 

《訓読》

白馬を飼はぬ村 葦毛は一名を靑鷺毛(あをさぎげ)とも謂ひて、稍(やや)靑味のかゝりたる白馬なり。然るに、夙(と)くより、白馬と同じ毛色のごとく取り扱はれ、村の内に飼はぬと云ふ右の傳說のごときも、二者共通に存するは奇と謂ふべし。【有馬】攝津有馬の湯山權現は此の山の地主神なり。曾つて、婦人の姿を現じて、麓の野邊に遊びしに、國の守護某なる者、鷹狩に出でて、之れを見怪しみ、「滋籐(しげどう)の弓」に「白羽(しらは)の箭(や)」をつがひ、「葦毛の馬」に乘りて、山の奧まで之れを追ひ懸けたり。其の咎(とが)を以つて、武士は即座に命を殞(おと)し、其の後、右の三物(みつもの)携へて山内に入る者あれば、必ず、山、荒れ、雷電す、と云ふ話なりき〔「諸國旅雀」五〕。此の話は、極めて古くより世に傳ふる所なり。阿波の領主三好修理太夫長慶が弟に、十河(そがう[やぶちゃん注:歴史的仮名遣がこれで正しいかどうかは不明。])の某(なにがし)と云ふ武士は、唐瘡(たうがさ)[やぶちゃん注:「唐人が伝えた病気」の意で梅毒のこと。]を煩ひて、此の湯に養生の間、人々の止むるをも聽かず、葦毛の馬に乘りて押して登山し、やがて、神罰を蒙りて、歸國の後、程も無く、病死せり。此れは正(まさ)しく永祿九年中の出來事なり〔「當代記」〕。それより更に百十餘年の以前にも、有馬に滯在して、山神の、女の姿と現はれて、武士に追はれし話を聞き書きしたる僧あり。【三輪】此れには、湯山權現の本地は三輪明神にして、此の山にて禁ずるは「白馬」なる事を記載して、「葦毛なり」とは言はず〔「臥雲日件錄(ぐわうんにつけんろく)」寶德四年[やぶちゃん注:一四五二年。]四月十八日の條〕。此の湯の發見に、三輪の神と因(ちな)みある「蜘蛛の絲の導(みちび)き」ありしことは、前に言へり[やぶちゃん注:本書の本文冒頭。]。【厩師の神】而して、三輪が、小山・秦兩家の厩師の尊信する神なることは「猿屋傳書」にも見ゆ〔「駿國雜志」七〕。又、之れと因みあるか否かを知らざれども、更に今一つの似たる話あり。下野(しもつけ)那須郡那珂(なか)村大字三輪の三輪明神社古傳に曰く、昔、此の村の宮窪に柏の大木あり。其處(そこ)より見え渡る所を、白馬に乘りて過ぐれば、人馬共に即時に倒る。【神託】人々、不思議の思ひを爲し、湯の花を捧げ、神託を問ひしに、神、少女に移らせたまひ、「吾は大和の三輪の神なり。此の地に跡(あと)を垂れんとすることを知らしむる爲なり。爰(ここ)に祀らば、永く、里を守らん」とありしより、此の社を建てたり。今に至るまで、葦毛の馬を此の里に留むること、一夜なりと雖も、必ず、災ひありと云へり〔「下野風土記」下〕。

[やぶちゃん注:「滋籐(しげどう)の弓」(「しげとう」とも読む)弓の束(つか)を黒漆塗りにし、その上を籐(単子葉植物綱ヤシ目ヤシ科トウ連 Calameae に属する熱帯性植物。多くは蔓性)で強く巻いたもの。大将などが持った弓で、籐の巻き方などによって多くの種類がある。握り下を二十八ヶ所、握り上を三十六ヶ所巻くのが正式なそれ。

「三好修理太夫長慶」(大永二(一五二二)年~永禄七(一五六四)年)は戦国時代の武将で畿内・阿波国の大名。室町幕府の摂津国守護代で相伴衆(しょうばんしゅう)。細川政権を事実上、崩壊させ、室町幕府将軍足利義晴や足利義輝を京都から放逐し、三好政権を樹立した。後は足利義輝・六角義賢・畠山高政らと時に争い、ときに和議を結び、畿内の支配者として君臨した。その「弟」で「十河の某」というのは、十河一存(そごうかずまさ/かずなが 天文元(一五三二)年~永禄四(一五六一)年)。ウィキの「十河一存」によれば、『讃岐十河城主の十河景滋(存春)の世子の十河金光が早世したこともあり、長兄の長慶の命により』、『景滋の養子となって十河氏の家督を継いだ』。天文一八(一五四九)年六月には、『父の仇である三好政長との摂津江口の戦いで勝利に貢献した。これにより』、『細川晴元の政権は崩壊し、兄』『長慶の政権が確立』し、天文一九(一五五〇)年の「東山の戦い」で『京都復帰を狙う晴元を阻止』し、天文二二(一五五三)年六月の「阿波見性寺事件」の際にも、『次兄の実休を助けて細川持隆殺害に協力した』。永禄元(一五五八)年の「北白川の戦い」にも参戦し、永禄三(一五六〇)年には『畠山高政との戦いで大勝し、長慶から岸和田城主に任じられた。その後も畿内各地を転戦して功を挙げ、兄を軍事的によく補佐した』。『しかし』、永禄四(一五六一)年三月十八日(異説として四月)、『病を患い、子・松浦萬満の後見のために在住していた和泉国で死去した。享年』三十。『一存の死因は、瘡による病死といわれる。しかし』、『一存が死んだ時に、不仲であった松永久秀が傍にいたことから、当時から京都では久秀による暗殺説が伝聞として流れた。以下のような逸話がある』。「足利季世記」並びに「続応仁後記」には、『一存の死去について以下のように伝える』。永禄三(一五六〇)年頃に『一存は病にかかった。そこで摂津の有馬温泉で一存が久秀と湯治中のとき、久秀が一存の乗馬である葦毛馬を見て、「有馬権現は葦毛を好まないため、その馬には乗らないほうがいい」と忠告した。しかし久秀を嫌う一存は忠告を無視して乗馬し、そして落馬して絶命したというものである』。『この話について、現代の歴史研究家である長江正一は、病を得ていた一存がわざわざ乗馬をするだろうか、武勇に長け乗馬にも習熟していたと思われる一存がはたして落馬するものだろうか』、『という疑問を呈している』。『さらに、実際には一存が没したのは』翌年『であり』、『この話は、死去した時期にも誤謬が生じている』。『あるとき、一存は合戦中に左腕を負傷した。普通ならば養生するであろうが、一存は傷口に塩をすり込んで消毒し、藤の蔓を包帯代わりにして傷口に巻いて、再び戦場で猛然と槍を振るったという。このため、一存は「鬼十河」(鬼十川)と呼ばれて敵に恐れられたという。その武勇から家臣たちからも信望厚く、一存の髪型は「十河額」と呼ばれて、真似する家臣も多かったという』。ともかくも、『兄を軍事的によく補佐したため、その死は三好軍の軍事力衰退を招くことになった』とする。「戴恩記」では、『松永貞徳が俳句の世界で師匠にあたる九条稙通に聞いた言葉として、「婿の十川は武勇である」としてその武勇の高かったことを評したとしている』とある。

「唐瘡」「當代記」(寛永年間(一六二四年~一六四四年)頃に成立したとされる史書。編纂者は姫路藩主松平忠明と言われるが、不詳。全九巻。太田牛一の「信長公記」を中心に、他の記録資料を再編した二次史料である)の冒頭にある。国立国会図書館デジタルコレクションの画像のここ。そこには彼の有馬での養生を確かに「永祿九年」と記しているが、もう死んでる↑ぜ?

「それより更に百十餘年の以前」「有馬に滯在して、山神の、女の姿と現はれて、武士に追はれし話を聞き書きしたる僧あり」「臥雲日件錄(ぐわうんにつけんろく)」これはこちらの記載によれば、室町中期の臨済僧瑞渓周鳳(明徳二/元中八(一三九二)年~文明五(一四七三)年:和泉国出身。俗姓大伴氏。周鳳は諱、瑞渓は字。臥雲山人とも称された)の日記。全七十四冊あったが、一冊しか現存しない。文安三(一四四六)年から文明五(一四七三)年までの記録で、社会情勢だけでなく、禅宗・学芸史料にも富むという。アテズッポウで「国文研」の「臥雲日件録抜尤」の画像を冷やかしたら(画像表示に時間がかかるので滅多にやらない)、数分で発見出来た。ここの左頁部分

「下野(しもつけ)那須郡那珂(なか)村大字三輪の三輪明神社」現在の栃木県那須郡那珂川町(まち)三輪には「三和神社」なら現存する(グーグル・マップ・データ)。この神社の南北方向にはそれぞれ「温泉神社」なるものがあり、東北直近には「馬頭温泉郷」というのがあってコリャマタ! 非常に気になるわい。

「此の村の宮窪」地図上では確認出来ないが、個人サイト「神社と古事記」の「三和神社」に同神社自体が『もとは大字三輪字宮窪に鎮座し』てい『たという』とある。]

海の聲山の聲 清白(伊良子清白)

 

海の聲山の聲

 

  序歌の一

 

鞠つく女の兒手をやめて

虹よ虹よといふ聲に

窓を開けば西日さす

山に錦はかゝりけり

 

家ことごとく虹ならば

歌ことごとく玉ならん

かく口ずさむ折からに

虹のかゝやきいひしらず

 

もとより家は埴生にて

名もなき賤の物狂

破れたる窓にうづくまり

破れたる歌の作者なり

 

たまたま虹の現はれて

さびしき家を照らせども

なにとこしへにわが歌は

掃きて捨つべきあくたのみ

 

  序歌の二

 

無賴(むらい)乍らもこの歌を

君にさゝげんかたみにと

祝ひの歌にあらざりと

いふ人あるも妨げじ

 

山の博士(はかせ)と渾名して

行者(ぎやうじや)となのる君なれば

とにもかくにもこの歌の

山の條(くだり)をよみたまへ

 

蓬萊(よもぎ)が島に漕ぎたみて

いたくな醉ひそ盃に

若し夫れ女神現はれて

われは不二なり月の夜を

[やぶちゃん注:「巡・廻(た)む」であろう。]

 

君の門邊に訪れぬ

日頃親しむめぐしごの

額を胸に押しあてむ

來れといはゞいかにせん

[やぶちゃん注:「愛(めぐ)し子の」。]

 

われはこのめる綿津見の

海の卷をもかき加へ

伊賀の旅路の雪ごもり

はじめて成りぬわが歌は

 

花の和子(わくご)を娶る夜は

君も美少に若がへれ

若がへるともわが歌を

老いしれたりといふ勿れ

 

こは醉興ぞ旅に病み

われは枯れたる老なれば

せめては人の物笑ひ

さびしきひげをほこらんか

 

 

  上 の 卷

 

   

 

いさゝむら竹打戰ぐ

丘の徑の果にして

くねり可笑しくつらつらに

しげるいそべの磯馴松

 

花も紅葉もなけれども

千鳥あそべるいさごぢの

渚に近く下り立てば

沈みて靑き海の石

 

貝や拾はん莫告藻(なのりそ)や

摘まんといひしそのかみの

歌をうたひて眞玉なす

いさごのうへをあゆみけり

[やぶちゃん注:不等毛植物門褐藻綱ヒバマタ目ホンダワラ科 Sargassaceae の海藻類を指す万葉以来の古語。ホンダワラ属ホンダワラ Sargassum fulvellum とする説の他に、ホンダワラ属アカモク Sargassum horneri に当てる説もある。私の寺島良安の「和漢三才圖會 卷第九十七 水草 藻類 苔類」の「莫鳴菜(なのりそ/ほだはら)」や、ブログの「大和本草卷之八 草之四 海藻(ナノリソ/ホタハラ)(ホンダワラ)」の私の注を見られたい。]

 

波と波とのかさなりて

砂と砂とのうちふれて

流れさゞらぐ聲きくに

いせをの蜑が耳馴れし

音としもこそおぼえざれ

 

社をよぎり寺をすぎ

鈴振り鳴らし鐘をつき

海の小琴にあはするに

澄みてかなしき簫(ふえ)となる

 

御座(ござ)の灣(いりうみ)西の方

和具(わぐ)の細門(ほそど)に船泛けて

布施田(ふせた)の里や隱海(かくれみ)の

潮を渡る蜑の兒等

[やぶちゃん注:「孔雀船」で「泛(う)けて」(「泛(うか)べて」の意)と読んでいる。]

 

われその船を泛べばや

われその水を渡らばや

しかず纜解き放ち

今日は和子(わくご)が伴たらん

[やぶちゃん注:「纜」「ともづな」。]

 

見ずやとも邊に越賀(こが)の松

見ずやへさきに靑(あを)の峯

ゆたのたゆたのたゆたびに

潮の和(なご)みぞはかられぬ

 

和(なご)みは潮のそれのみか

日は麗らかに志摩の國

空に黃金や集ふらん

風は長閑に英虞(あご)の山

花や都をよぎるらん

 

よしそれとても海士の子が

歌うたはずば詮ぞなき

歌ひてすぐる入海の

さし出の岩もほゝゑまん

 

言葉すくなき入海の

波こそ君の友ならめ

大海原に男のこらは

あまの少女は江の水に

 

さても縑(かとり)の衣ならで

船路間近き藻の被衣(かつぎ)

女だてらに水底の

黃泉國(よもつぐに)にも通ふらむ

[やぶちゃん注:「縑」「固織(かたをり)」の転訛。織り目を密に固く織った絹布のこと。]

 

黃泉(よみ)の醜女(しこめ)は嫉妬(ねたみ)あり

阿古屋(あこや)の貝を敷き列ね

顏美き子等を誘ひて

岩の柩もつくるらん

 

さばれ海(わた)なる底ひには

父も沈みぬちゝのみの

母も伏(こや)しぬ柞葉の

生れ乍らに水潛る

歌のふしもやさとるらん

[やぶちゃん注:「伏(こや)しぬ」「こやす」は「臥(こ)やす」で動詞「臥(こ)ゆ」に上代の尊敬の助動詞「す」が附いて転訛したもの。「横たわっておられる」、ここは「そこで亡くなられた」の意。

「柞葉(ははそは)」。「母」の枕詞。]

 

櫛も捨てたり砂濱に

簪も折りぬ岩角に

黑く沈める眼のうちに

映るは海の泥(こひぢ)のみ

[やぶちゃん注:「簪」「かざし」と読みたい。]

 

若きが膚も潮沫(うたかた)の

觸るゝに早く任せけむ

いは間にくつる捨錨

それだに里の懷しき

 

哀歌(あいか)をあげぬ海なれば

花草船を流れすぎ

をとめの群も船の子が

袖にかくるゝ秋の夢

 

夢なればこそ千尋なす

海のそこひも見ゆるなれ

それその石の圓くして

白きは星の果ならん

 

いまし蜑の子艪拍子の

など亂聲(らんざう)にきこゆるや

われ今海をうかがふに

とくなが顏は蒼みたり

 

ゆるさせたまへ都人

きみのまなこは朗らかに

いかなる海も射貫くらん

傳へきくらく此海に

男のかげのさすときは

かへらず消えず潛女(かつぎめ)の

深き業(ごふ)とぞ怖れたる

 

われ微笑(ほゝゑみ)にたへやらず

肩を叩いて童形の

神に翼を疑ひし

それもゆめとやいふべけん

 

島こそ浮べくろぐろと

この入海の島なれば

いつ羽衣の落ち沈み

飛ばず翔らず成りぬらむ

 

見れば紫日を帶びて

陽炎ひわたる玉のつや

つやつやわれはうけひかず

あまりに輕き姿かな

 

白き松原小貝濱

泊つるや小舟船越(ふなごし)の

昔は汐も通ひけむ

これや年月の破壞(はゑ)ならじ

 

潮のひきたる鏡砂

うみの子ならで誰かまた

かゝる汀に仄白き

鏡ありとや思ふべき

 

大海原と入海と

こゝに迫りて海神が

こゝろなぐさや手ずさびや

陸(くが)を細めし鑿の業

 

步をかへせ海(わだ)の神

きみのかひなにのせられて

堪へんやわれは、しかりとて

あゝ其景の美しき

 

   

 

道は古びぬ二名島(ふたなじま)

土佐の沖より流れきて

紀路に渦卷く日の岬

潮の岬にさわぎては

底に破れし浮城の

鋼鐡(はがね)の板も碎くらむ

五月雨降れば荒れまさる

那智の御瀑の末にして

泥(どろ)を二つに分つ時

黃ばめる海を衝き進み

香(かぐ)の木の實を積み載せて

大冬海を直走(ひたばし)る

牟婁(むろ)の大人(おとな)の耳朶(ほだれ)にも

頻吹(しぶき)をかけて嘲笑(あざわら)ふ

海の流の黑潮は

今霜月の波頭

科戶(しなど)の風も吹き止みて

晴れわたりたる海の門を

玉藻流るゝ日もすがら

顏赤黑きいさり男が

沖の海幸卜はん

河の面は輝きて

志摩の岬を藍染の

緩き流と成りぬかな

[やぶちゃん注:「耳朶(ほだれ)」調べてみると、「耳たぶ」のことを「ほだれ」と呼ぶのは栃木県に確認された。但し、伊良子清白と栃木は縁がなさそうなので、他の地域でもこの方言があるものと思われる。識者の御教授を乞うものである。「科戶」「しなと」とも読み、「し」は「風」の意、「な」は連体格を示す格助詞で「の」の意、「と」は「場所」の意)風の起こる所。「日本書紀」の「神代上」に見える風神に「級長戸辺命(しなとべのみこと)」の名がある。]

 

加賀の白山(しらやま)黑百合の

咲き絕ゆる間の長冬を

時じく空の惡くして

波路險はしき時化(しけ)つゞき

雪持つ風に吹き閉る

海の一村うづもれて

橇も通はずなりぬれば

磯に幽鬼(すだま)の走るぞと

泣く子をおどす三越路の

北の雪國荒るゝ時

暗をはなれて光ある

秋津島根の表國

榕樹(あこう)繁れる屋久島の

南の果の海所(うみが)より

親潮ぬるむ陸奥(みちのく)や

黃金花咲く山根まで

伊豆の七島海境(うなざか)の

道の傘隈大灘に

音も騷がぬ常世波

船は百日を漂ひて

梶緖もとらぬ物ぐさの

蹲居(うづゐ)の膝やゆるぶらむ

[やぶちゃん注:「榕樹(あこう)」温暖域に植生する半常緑高木の、バラ目クワ科イチジク属アコウ変種アコウ Ficus superba var. japonica

「道の傘隈」意味不明。識者の御教授を乞う。

 

登れば高き石階(きざはし)の

寺院(じゐん)の柱午(ご)にせまる

圍き光の輪を帶びて

誰荒彫の龍頭

海に向ひて氣を吹くも

弱き炎のいかにして

下に沈める靑波の

凝れる膏を熔き得べき

 

見渡す限りわだつみは

凪ぎかへりたる秋日和

いはゞ淨めしちりひぢの

波の化生の鳥ならで

白きをかへす羽もなし

[やぶちゃん注:「塵泥(ちりひぢ)」。]

 

鐘樓(しゆろう)に上ぼり杵をとり

力の限り撞く時に

白き壁より白き壁

波切(なきり)一村分限者(ぶげんじや)の

家の榎に傳はれば

共鳴したる大木(たいぼく)の

うめきは海にひろがりて

波の寐魂(ねだま)と成りにけり

 

此(この)樓(ろう)にして空(そら)を見る

西七ケ國雲の影

東五ケ國雪の花

南は靑き海にして

羽繕ひせし白鶴(はつかく)の

翅(つばさ)かへさん方もなし

 

わが羽(はね)見ずやことごとく

白羽の征矢といひたげに

雲を望んで羽を持ち

吁(な)いて御空に入りにけん

驕慢(けうまん)の鳥いつの世か

地(つち)なる人の寵を得ん

 

國誌傳へていひけらく

此寺巖の頂に

雲を帶びたる一つ星

危くかゝる風情にて

夏の黑はえ冬の朔風(きた)

雨と風とにざれにけり

 

秋更け渡る此頃を

美童の沙彌の現はれて

さと開きたる諸扉

海の粧花なれば

錆びたる鋲もうごめきて

瞽ひたる身を悶ゆめり

[やぶちゃん注:「瞽ひたる」「めしひたる」。]

 

師の坊いでゝ慇懃の

禮をつくすも嬉しきに

引いて山艶蕗(つはぶき)黃(き)を潑(ち)らす

趣味ある庭を前にして

語る雄々しき物語

 

客人(まれびと)知るや海士の子が

十三歲になりぬれば

はじめていづる海の上に

腕は鋼鐡(はがね)の弓にして

それ一葉(いちえふ)の船なれば

足は鐙を踏まへたり

阿呍の息の出入も

引く櫓押す櫓の右左

左に押せば翼あり

右にかへせば車あり

海の獲物を積み載せて

水を蹴立つる直走(ひたばせ)や

空の景色の變はる時

海の備へは成りにけり

こは甲斐ありし初陣ぞ

疾く陣立をとゝのへよ

風雨も起れ波も立て

わが胸板にぐさと立つ

一矢もあらば興ならん

生れしまゝの柔肌(やははだ)に

些(ちと)の疵だにあらざれば

兄者人にや氣壓(けお)されん

來れといひて聲高に

どつと笑へば海原の

果にあたりて貝鉦(かひがね)や

軍鼓(いくさつゞみ)のどよめきに

旗さし物の白曇(しらぐもり)

曇りはてたるいくさ場の

流を亂る船の脚

いかり易きは件(ともがら)の

嵐高浪手を擴げ

鷲づかみとぞきほひ來る

くゞりぬけたる少年(せうねん)の

頸(うなじ)は母が手に撫でし

產毛の痕やそれならぬ

岬の岩を漕ぎ繞り

舷うちてあそびけむ

幼き折にくらぶれば

ひとゝなりたるわが兒よと

流石に父はあらし男の

雄き心も鈍るらん

其時浪は捲き立ちて

うしろにかへる闇打に

艫(とも)に立ちたるいたいけの

背(そびら)をうてばよろめきて

のめり伏したる板のうへ

また起きあがり海を見て

さてもきたなき眷族(けんぞく)の

ほこる手並はそれしきか

初手合(はつであはせ)の見參(げんざん)に

耻なきものゝ哀さよ

退(まか)れといひて勇ましく

艪のかけ聲にかけ合はす

幼き聲を侮りて

しかみ面(づら)なるはやて雲

脚空ざまに下ろし來て

たちまち船をとり卷けば

黑白(あやめ)もわかぬ槍襖

篠つく雨のしきりなり

これにおそれぬ海の男の

船は天路(あまぢ)の彗星(はうきぼし)

直指(たゞさ)す方を衝き進み

波に泡立つ尾を曳きぬ

しばし程經て波すざり

風片陰に成りぬれば

かけ並べたる楯板の

苫に亂るゝ玉霰

あたれば落ちて消えにけり

矢種盡きたる痴者(しれもの)の

今は苦しき敗軍(まけいくさ)

投げてつぶての目つぶしに

虛勢を張るか事可笑し

行けと叫びて押しきれば

家路は近し艪の力

安乘岬(あのりみさき)の燈臺(とうだい)は

美しき眼をしばたゝき

人戀ふらしき風情なり

今は海路も暮れはてゝ

里のいそべに着きぬれば

濡れたる衣も干しあヘず

おどりて運ぶ海の幸

[やぶちゃん注:「おどりて」はママ。]

 

聞きねと語るわが僧の

炭(す)びつの炭をつぐ時よ

魚見の小屋の貝がねに

海士の囀かしましく

かごを戴き女のこらも

網引(あびき)に急ぐ聲すなり


 

  下 の 卷

 

   

 

時雨るゝ頃の空なれば

雲の色こそ定らね

虹に夕日にもみぢ葉に

刷毛持つ神ぞ忙しき

 

岩切り通し行水の

岸は花崗(みかげ)の波がしら

たまたま淸水滲(にじ)みては

根芹生ひたり苔まじり

 

鹿(しゝ)追ふ子等が行き艱む

流の石は圓くして

蹄の痕もとゞまらぬ

時雨の雨ぞ新なる

[やぶちゃん注:「艱む」「なやむ」。]

 

波越す岩に羽うちて

鶺鴒かける谷の上

流れ葉嘴(はし)を掠め去る

瀧津早瀨の水は疾し

 

   

 

鉾杉立てる宮川(みやがは)の

源近く分け入れば

昨日の夢のわだつみは

八重立つ雲にきえにけり

 

草分衣霜白く

故鄕こふる旅人が

枕に通ふ山の聲

海の聲とやきこゆらん

 

白日(まひる)の落葉小夜の風

秋は暮こそ詫しけれ

深山の奧に菴して

誰かきくらん山の聲

 

海の子われは荻葺きて

あみ干す家をこのめばか

眞梶しゝぬぎ帆綱くむ

海士の業こそこひしけれ

[やぶちゃん注:「眞梶しゝぬぎ」これは「しゞぬき」の誤用であろう。万葉語の動詞で「繁貫く」(カ行四段活用)で「しじ」は「繁く」、「ぬく」は「貫く」の意で、橈(かい)(=「梶」)を舷(ふなばた)にぎっしりと取り付けることを言う。]

 

海の子われはわだつみの

廣き景色をこのめばか

汐汲車汲み囃す

海の歌こそこひしけれ

 

今海遠く船見えず

何を思はむ渡會(わたらひ)の

南熊野の空にして

雲の徂徠や眺むべき

[やぶちゃん注:「徂徠」(そらい)は「行き来すること・往来」。後の部分抽出による改作を見ると「ゆきき」とルビしているから、ここもそう読んでいるとすべきかも知れない。]

 

熊野の浦の島根には

浪こそ來よれ深綠

うみの綠に比ぶれば

檜は黑し杉は濃し

森の下草秋花に

せめてはしのぶ海の色

 

熊野の浦のしまねには

鯨潮吹く其潮の

漂ふ限り泡立ちて

鶚(みさご)も下りぬ海原の

荒き景色を目に見ては

細谷川の八十隈に

かゝれる瀑も何かせん

 

   

 

今朝立ちいでゝ宮川の

水のほとりに佇むに

流れて落つる河浪の

岩に轟き瀨に叫び

岸の木魂と伴ひて

秋の悲曲を奏しけり

 

木々の落葉に葬りし

虫の骸だに朽ちぬれば

凡をおそるゝ鵯鳥の

胸を貫く聲ならで

生きたる者の音もなし

 

見れば河床荒れだちて

拳を固め肩を張り

人に鎧はあるものを

これは素肌の爭ひに

かたみにひるむ氣色なし

 

蛤仔(あさり)蟶(まて)貝蛤の

白くざれたる濱にして

花の籠(かたみ)に拾ふらん

海の樂數盡きず

何とて山の峽間には

秋の笹栗ゑみわれて

空しく水に沈むらん

[やぶちゃん注:「蟶(まて)貝」斧足(二枚貝)綱異歯亜綱 マルスダレガイ目マテガイ超科マテガイ科 マテガイ属マテガイ Solen strictus

「籠(かたみ)」筐(かたみ)。目を細かく編んだ竹籠。堅間(かたま)・勝間 (かつま)。

「峽間」「はざま」。]

 

   

 

岩ほをつたひ攀ぢ上ぼり

靑垣淵(あをがきぶち)をうかがふに

獺も返さん斷崖(きりぎし)の

高さをくだる蔦蘿

下に漂ふ靑波の

澱みに浮ぶ泡もなし

[やぶちゃん注:「獺」「をそ」(おそ)と読みたい。日本人が絶滅させてしまった哺乳綱食肉(ネコ)目イタチ科カワウソ亜科カワウソ属ユーラシアカワウソ亜種ニホンカワウソ Lutra lutra nippon

「蔦蘿」「つたかづら」。]

 

生命の影のさすごとに

渦卷きたちぬ廣がりぬ

波色增しぬ漲りぬ

底ひに人を誘ふなる

常世の關はなかなかに

物も祕(ひそ)めず岩床の

隈に隱るゝ鰭(はた)の物

陰行く群もさやかなり

 

知らずや月の夜半の秋

柝(たく)擊つ老が白髮(しらかみ)も

氷り果つらん置霜の

寒き細路折れ下り

渡しの舟の艪を操りて

疲せたる影やきえぎえに

浮ぶ彼方の水の末

[やぶちゃん注:「柝」拍子木。

「疲せたる」「やせある」。「瘦(や)せたる」に同じい。]

 

知らずや木々も雪の朝

六つの花片飛び散れば

氷柱かゝれる岩廂

棹もすべりて三吉野の

故鄕思ふ筏師が

蓑や拂はんかげもなき

狹き峽間の淵のうへ

 

   

 

仰げばすでに空晴れて

霧たち迷ふ山の襞(ひだ)

秋の錦の紅葉は

あらゆる山を染め成して

とはの沈默(しゞま)のゐずまひを

くづせと着せしごとくなり

 

山走りして白雲の

黃雲にまじる境より

きらめきいづる日の光

山の眞額かゞやくも

海のごとくにけしきだち

わらひどよめき脚をあげ

よろこび躍るさまもなし

 

さてもあたりの山々は

或は頭を擡げつゝ

あるは頸(うなじ)を屈めつゝ

雲の脇息(ひぢつき)脇にして

眠ると見ゆる姿かな

 

   

 

今日栗谷(くりだに)の里に入り

櫛田(くしだ)の河も川上の

七日市(なのかのいち)を志す

草鞋のひものとけ易き

 

蕎麥は苅りたる山畑の

あぜに折れ伏す枯尾花

返り咲する丹つゞしの

色褪せたるも寂しかり

[やぶちゃん注:「丹つゞしの」不詳。後の抄出改作では「丹つつじ」としてあり、これなら「丹躑躅」で腑に落ちる。]

 

登りて原と成る所

高きに處りて眺むれば

行水低し谷の底

巖を穿ち石を蹴る

白斑も見えず征矢の羽

岸に轟き瀨に叫ぶ

鍛工(かぬち)も打たず石の砧(とこ)

長き磐船方(けた)にして

盛るか水銀(みづがね)きらゝかに

重みに底ひ窪むらん

[やぶちゃん注:「鍛工(かぬち)」は「鍛冶(かぬち)」で「金打(かなう)ち」の転訛。鍛冶屋。]

 

それ輝くは光のみ

流れず行かず下に凝り

身を縮めたる鳥自物

海の鷗のていたらく

石に嵌めたる象眼の

工を誰か爭はむ

あゝ水煙湧き返る

水の勢いかなれば

山の尾上を行きかへる

人の眼に淀むらん

[やぶちゃん注:「鳥自物」は「とりじもの」で万葉語。「じもの」は「そのようなもの」の意を表わす接尾語で「鳥のようなもの」。但し、副詞的に「鳥のように」の意で用いるのが普通。]

 

   

 

そも此川の源は

圖の境の岩襖

名も大臺(おほだい)の麓なる

眞冬の領を流れいで

涼石(すゞし)の洞にぬけ通ふ

大和の風におはれつゝ

七里七村領内の

紙篩く子等が皹(あかぎれ)の

手をだにこえて注ぐめり

栗谷川(くりだにがは)と落ち合ひて

夜たゞねぶらぬ物語

一葉(ひとは)の水を潛るにも

千々のよろこび籠るらん

片陰篠生(すゞふ)春ざれば

花の女神の杯の

椿葉隱れ咲きいでゝ

春雨重る川添の

稚樹の枝の淺綠

下を流るゝ大河の

胸に綴れる瓔珞も

花ゆるやかに流れては

渦卷き入るゝ淵もなし

若し夫れ翼紀伊の國

一たび海をあふりなば

伊勢の國土は(くぬち)は潮煙

千年の曆飜る

野後(のじり)の宮の杉の木に

かゝりみだるゝ秋の雲

多氣(たき)の谷には火を擦りて

燃ゆる檜の林かな

神領(じんりやう)東足引の

山田の原に駈け下る

水の諸脛(もろはぎ)健やかに

岸をどよもす風神(ふうじん)の

短き臑(すね)も何かせん

[やぶちゃん注:「紙篩く」「かみすく」(紙漉く)と読んでいよう。

「夜たゞ」「よただ」一語で副詞。「夜直(よただ)」。夜の間中ずっと。夜通し。一晩中。

「篠生」細い筍が生えることであろう。「春ざる」は「春去る」で「春が来る」の意。

「瓔珞」は「やうらく(ようらく)で珠玉を連ねた首飾りや腕輪。仏像の荘厳(しょうごん)。ここは「花の女神」に応じた比喩。]

 

   

 

杉の林の木下闇

雨もあらしも常(とこ)にして

晴るゝ間もなき窈冥門(かくろど)の

神の荒びを誰か知る

[やぶちゃん注:「窈冥門(かくろど)」は「奥深くほの暗い」の意で「荘子」の「外篇」の「在宥」には、「窈冥門」を、仙人が立ち至るところの「地下の冥界の門」とする。]

 

石に生命を刻みては

月を見ぬ國の流れ星

名も無き花の紫に

瘦せたる莖をたふしたり

 

岨の細道幾廻り

嶮はしき坂をとめくれば

小霧の奧に幻の

動くを見たり氣疎くも

 

それか深山の山賊が

育つ巖屋の石疊

霧の毛皮被ぎては

靈(ぐし)ふる夢も多からん

[やぶちゃん注:「靈(ぐし)ふる」は不審であるが、「靈・奇(くし)ぶ」(バ行上二段活用)で「霊妙な働きをする」の意があるから、それであろう。]

 

羅犇とかけ結ぶ

不斷の封の固ければ

焚火の煙しらじらと

立ちものぼらずいはの上

[やぶちゃん注:「羅犇」と「うすぎぬ」/「ひしと」では何だかおかしい。後の抄出改作では「蘿(かづら)犇(ひし)と」とあるので納得はした。]

 

冬は小蓑欲しげなる

猿は面をあらはせど

馴れては殊に山人の

絕えてそれとも覺らざり

 

こゝをよぎれば山めぐり

そがひになりて朗らかに

林もつきぬ久方の

雲の滿干の澪標

尾上の巖を仰ぐかな

[やぶちゃん注:「そがひ」「背向」で「背後・後ろの方角・後方」の意。]

 

   

 

今頂上(いたゞき)に登り立ち

嚴に倚りて眺むれば

太初(はじめ)よ未だ剖れざる

混沌(おぼろ)の形現はして

早く成りたる人の子の

不具(かたは)を嘲(あざ)む形姿(なりすがた)

高山續き大臺(おほだい)の

鰾膠(にべ)なき峯を見渡せば

うつる時世の蠱物(まじもの)の

雲も及ばず聳ゆめり

西高見山(たかみやま)二ケ國の

境の山を隨へて

天津御國の號令(がうれい)の

あらば起たんの身構へも

千年をあまた過ぎにけり

池木屋山(いけぎややま)の頂上(いたゞき)は

大和國原打ち渡し

あなときのまに積りぬと

古き都に降りしきる

錆に眼をさらすらん

[やぶちゃん注:「剖れざる」「わかれざる」と読んでおく。

「鰾膠(にべ)なき」そこに取りつくことも不可能な。

「蠱物(まじもの)」人を惑わす魔性の物の怪。]

 

北の方なる白星(しらぼし)は

八十年(やそとせ)過ぎて人の世に

はじめて影を落すとか

はてなき空にうつ伏して

身じろきもせぬ山なれど

天(てん)の齡(よはひ)に比ぶれば

またゝく隙を飛びすぐる

日影の身にも似たらずや

ありと名のりて宇宙(よのなか)の

いたるところに顯はるゝ

時より時の燭火(ともしび)の

ひかりを點(とも)すそのものよ

今も昔も雄叫(をたけ)びて

こはあらずてふ燒金を

かれの額に捺しえたる

不仁身(ふじみ)の猛者(もさ)のあらざるよ

[やぶちゃん注:「白星(しらぼし)」「こいぬ座」のα星、こいぬ座で最も明るいプロキオン(Procyon)のことか。「おおいぬ座」のシリウス(Sirius)、「オリオン座」のベテルギウス(Betelgeuse)ともに、「冬の大三角形」を形成する。]

 

見ればいつしか黃を帶びて

とくかはりたる山の色

人の眼の鈍くして

そのけぢめだにわかねども

かつては白き濤を上げ

かつては紅き火を飛ばし

一つの命過ぎぬれば

一つの命あらはれて

今は凝りたる其姿

たゞ束の間の光にも

直指(たゞさ)す方よひしめきて

完全(またき)を得んと色に出で

音(ね)にいで物を思ふかな

 

人は健氣(けなげ)に戰ひぬ

血に塗れたる其衣

白き柩に代ふるには

あまりにやすき商(あきなひ)よ

聖(ひじり)の書を高あげて

渇きは堪へぬ唇に

濃き一と雫かゝりなば

死(こ)ろすも絕えてうらみじに

學術(まなび)よ詩歌(うた)よ教法(をしへ)さへ

たゞ一と時の榮にて

朽つるに人の得堪へんや

 

櫟林(くぬぎばやし)の捨沓(すてぐつ)に

巢ぐふは山の鶯か

求食(あさ)り後れてうゑ死ぬも

心臟(こゝろ)は霜に消えもせで

落葉の下(した)に殘るらん

わが居る岩は白草(しろぐさ)の

九十九(つくも)の髮をはゝらかし

物を怨ずるさまにして

もしはすてたる山姥の

化(な)りいでたるとおどろきて

坂を下ればあわたゞし

われはあまりに空想(ゆめ)の兒(こ)と

眼を拭ひうち仰ぎ

またとゞまりし山路かな

甕(かめ)を碎きて悲しめる

童女(どうによ)をわれの妻として

こもらばいかにうれしきと

おもひし谷は底にして

いまだ山脈(やまなみ)驚かず

四つの界に寂寥(さびしさ)の

漂ふ限り雲なれば

止んぬるかなや名も戀も

快樂(けらく)も醉も一にぎり

すてゝ立ちけり冷えし足蹠(あうら)に

[やぶちゃん注:「巢ぐふ」の濁音はママ。

「はゝらかし」荒々しく髪を後ろに捌いて、の意か。]

 

[やぶちゃん注:この「序歌の一」「序歌の二」「上の卷」(内で「一」及び「二」に分かれる)「下の卷」(内で「一」から「九」に分かれる)の大パート四篇から成る長詩は、明治三七(一九〇四)年一月一日発行『文庫』に発表されたもの(署名は「清白」)であるが、この内の「上の卷」内の「一」を独立させたものが、詩集「孔雀船」所収の「海の聲」である。前回の長詩「海の歌」とは異なり、幸いにして、本初出に関しては、底本では「未収録詩篇」に初出を元に校訂されて全篇本文が載るので、それを電子化した。幾つか私が躓いた語句に特異的に当該語句を含む連の最後に注を附した。紀伊半島を中心とした地名についてはエンドレスになるので(私は、無論、総ての地名を認知しているわけではない)、注は略した。悪しからず。なお、底本全集年譜によれば、この前年の明治三十六年(満二十六歳)、歩合制嘱託医として三重県一帯を巡ったが(父政治が負債で窮し、その補填のため)、その時の旅が本作が生まれた、とある。

 作成にはかなり疲れたが、詩篇自体は非常に興味深いものであった。この詩篇全体が、今まで、殆どの人に読まれてこなかったことを私は残念に思う。

2019/04/03

和漢三才圖會卷第三十八 獸類 麋(おほしか) 附・雙頭鹿 (大型のシカ或いはシフゾウ)

Oojika

  

 

おほしか  麔【牡】 麎【牝】

      䴠【子】

【音眉】

       【和名於保之加】

ミイ

 

本綱麋海陵間最多千百爲群多牝少牡乃鹿屬也牡者

有角鹿喜山而屬陽故夏至解角麋喜澤而屬陰故冬至

解角麋似鹿而色青黑大如小牛肉蹄目下有二竅爲夜

目今獵人多不分別鹿往往以麋爲鹿

麋角【同茸同膠同霜】 屬陰故治腰膝不仁補一切血病若卒心

 痛一服立瘥【鹿之茸角補陽右腎精氣不足者宜之麋茸角補陰左腎血液不足者宜之】

――――――――――――――――――――――

雙頭鹿

[やぶちゃん注:以下の二行は原典では上記標題の下に一字空けで入る。]

又名荼首机本綱似鹿前後有頭一頭食

一頭行山人時或見之

 

 

おほしか  麔〔(きう)〕【牡。】

      麎〔(しん)〕【牝。】

      䴠〔(あう)〕【子。】

【音、「眉」。】

       【和名、「於保之加」。】

ミイ

 

「本綱」、麋、海陵[やぶちゃん注:現在の江蘇省泰州市海陵区附近を中心とした広域か(グーグル・マップ・データ)。]の間に最も多く、千・百、群れを爲す。牝、多く、牡、少し。乃〔(すなは)〕ち鹿の屬なり。牡には角有り。鹿は山を喜んで、陽に屬す。故に夏至に角を解(をと[やぶちゃん注:ママ。])す。麋は澤を喜びて、陰に屬す。故に冬至に角を解〔(おと)〕す。麋、鹿に似て、色、青黑。大いさ、小牛のごとし。肉の蹄(ひづめ)〔たり〕。目の下に二〔つの〕竅〔(あな)〕有り、夜、目と爲す。今、獵人、多く〔は〕分別せず、往往に〔して〕麋を以つて鹿と爲す。

麋〔の〕角【〔鹿〕茸〔に〕同〔じ〕。〔鹿〕膠〔に〕同〔じ〕。〔鹿〕霜〔に〕同〔じ〕。】 陰に屬す。故に腰・膝〔の〕不-仁〔(しびれ)[やぶちゃん注:東洋文庫のルビに従った。]〕を治し、一切の血病を補す。若〔(も)〕し、「卒心痛」[やぶちゃん注:心筋梗塞。東洋文庫訳に拠る。]〔せば、〕一服にして立ちどころに瘥〔(い)〕ゆ【鹿の茸角〔(ふくろづの)〕は陽を補し、右腎・精氣の不足の者、之れ、宜〔(よろ)〕し。麋の茸角は、陰を補し、左腎・血液の不足の者、之れ、宜し。】。

――――――――――――――――――――――

雙頭の鹿

又、「荼首机〔(だしゆき)〕」と名づく。「本綱」、『鹿に似、前後に、頭〔(かしら)〕有り。一頭〔は〕食〔ひ、〕一頭は行く。山人、時に或いは之れを見る』〔と〕。

[やぶちゃん注:文中、猟師も区別しないともあるように、大型のシカ類を指すことも多いが、種として特に挙げるなら、前項「鹿」の「麋」で既に示したように、シカ科シカ亜科シフゾウ属シフゾウ Elaphurus davidianus(現行の漢名でも「麋鹿」(音なら「ビロク」)と呼ぶ)に比定してもよかろうと思う。野生種は既に絶滅した。ウィキの「シフゾウ」を参照されたい。後の「雙頭の鹿」「荼首机〔(だしゆき)〕」(東洋文庫訳は『さいしゅ』とルビしてママ注記する)は凡そ考証する気力が起こらない。なお、「荼首」というのは現代中国語では「白頭」で老人を指すらしい。]

海の歌 清白(伊良子清白) (初出形に近づくよう合成復元したもの)

 

海 の 歌

 

 

  其一 浦島

 

山幸は山に任せて

海幸は海に任せて

海山の寶集めて

樂しきや浦島の子

流れ藻の磯邊に出でゝ

釣すべく行きにし日より

春と過ぎ秋と暮らせど

音信は絕えてきこえず

 

山幸は山に任せて

海幸は海に任せて

海山の寶集めて

歸りこぬ浦島の子

 

三百の年を經てあと

沖の方音樂(おんがく)起り

珊瑚樹の檣立てゝ

美しき船着にけり

 

山幸は山に任せて

海幸は海に任せて

海山の寶集めて

歸り來る浦島の子

 

 

  其二 鷗

 

磯菜(いそな)に落る滿潮の

開きて白き岩の間(ひま)

架け渡したる巢の内に

海を窺ふ鷗鳥

 

海の景色をたとふれば

八重波續く沖の方

深き碧(みど)りの毛氈に

皺をうたせしごとくなり

 

やをら飛び立つ驕慢(きやうまん)の

羽を恃(たの)みの鷗鳥

海を恐るゝいさり男を

嘲り笑ふ風情あり

 

鳥の中にもかもめ鳥

歌ふは寧ろ叫ぶなり

なほかつ知らず溫き

胸は和毛(にこげ)に隱るゝや

 

脚を休むるひまもなき

苦しき海に浮き乍ら

眠るまねする鷗鳥

飽くまで人を弄ぶ

 

止めよ大(だい)なる小さきもの

天(そら)の風雨(あらし)をしのぐとも

海の怒に坐るとも

つひに强きが餌食のみ

 

眼(まなこ)を舉げよ朗々と

浮雲はるる山の藍

四方(よも)の景色を眺むれば

樂しからずや鷗鳥

 

自由に遊ぶ身なりせば

何物かよく妨げん

白き日靑き空にして

憚る勿れ鷗鳥

 

 

  其三 女護が島

 

魚には魚の棲居あり

人には人の屯あり

飜り行く魚のごと

潮に滑べる海人の舟

 

日每日每に別路(わかれぢ)の

海人の妻こそ悲しけれ

晝はさながら女護が島

行衞も知らぬ思哉

 

見よ海原(うなばら)の湧きかへり

高波白く寄せ來れば

持佛(ぢぶつ)の前にひざまづき

夫(つま)安かれと祈るなり

 

 

  其四 島

 

黑潮(くろじほ)の流(なが)れて奔(はし)る

沖中(おきなか)に漂(たゞよ)ふ島(しま)は

 

眠(ねむ)りたる巨人(きよじん)ならずや

頭(かしら)のみ波(なみ)に出(いだ)して

 

峨々(がゞ)として岩(いは)重(かさな)れば

目(め)や鼻(はな)や顏(かほ)何(な)ぞ奇(き)なる

 

裸々(らゝ)として樹(き)を被(かうぶ)らず

聳(そび)えたる頂(いたゞき)高(たか)し

 

鳥(とり)啼(な)くも魚(うを)群(む)れ飛(と)ぶも

雨(あめ)降(ふ)るも日(ひ)の出入(いでい)るも

 

靑空(あをぞら)も大海原(おほうなばら)も

春(はる)と夏(なつ)秋(あき)と冬(ふゆ)も

 

眠(ねむ)りたる巨人(きよじん)は知(し)らず

幾千年(いくちとせ)頑(ぐわん)たり崿(がく)たり

 

 

  其五 暴風雨の航海

 

醉ひたる人の步むごと

船は烈しくゆらぐなり

怒る牡牛の吼ゆるごと

風は高くも吹き號ぶ

 

熱の限りの火をたきて

釜に蒸氣をみたすべし

滑(な)めりに活くる機械には

油の瀧を流すべし

 

はびこる蔓の麻繩の

亂れを解きて整へよ

梯を下りて船艙(ふなぐら)の

壁(かべ)の裂目を警めよ

 

窓を閉ざせよ客室の

柱に人を結(ゆ)ひつけよ

恐怖を抱くものあらば

何事もまた說く勿れ

 

白きは雨か篠をつき

黑きは風か雲を捲く

雨と風とを排(お)し分けて

乍ち起る波の山

 

筒にあふるゝ黑煙

吹き散らされて空になし

奈落の底を出づる時

波の響に蘇る

 

咽喉(のんど)の渴き堪へざれど

攪拌(かきみだ)さるゝ水槽(みづため)に

ちぎれて浮くや底の澱(おり)

早く濁りに染まりたり

 

飢にせまれど厨より

火を失ふを虞るれば

好み好(ごの)みに赴きて[やぶちゃん注:「好(ごの)」み」は底本では踊り字「〲」。]

食むや生米(なまごめ)肉醬

 

膩と汗を雨風に

乾しつ洗ひつ働けど

高き檣旗の綱

折れてちぎれて飛び狂ふ

 

梶よ鎖よ船脚(ふなあし)の

上下(あがりさがり)に伴ひて

或(あるひ)はゆるみ輕き時

或(あるひ)はしまり重き時[やぶちゃん注:ルビの「あるひ」は孰れもママ。]

 

走せ行く船をたとふれば

秋の木の葉の舞ふごとく

人の魂迷ふごと

行衞も知らず波に漂ふ

 

 

  其六 阿漕が浦

 

松原探し安濃の津の

結城の社伏し拜み

阿漕が浦に來て見れば

白き砂や靑き浪

風にもまるゝ荻の葉に

古き名所の跡もなし

月影暗く雲早み

時鳥なく宵々を

人に知られず網引きて

市に鬻ぎしうろくづの

鱗の目より洩れいでゝ

想も薄く身も薄き

阿漕平治やいづこなる

砂の上に伏し沈み

昔と今をなげく時

こうの阿禰陀の鐘鳴りて

驟雨(ゆふだち)白き伊勢の内海

 

 

  其七 海のなげき

 

傾くる耳の朶には

底深き波を聽くなり

輝ける瞳の色は

漂へる草を追ふなり

 

額を被ふ綠の髮は

初秋の風に散るなり

かぎりなき咽喉の渴きは

海の氣の濃きを吸ふなり

 

力ある兩の腕は

櫓のつかを强く押すなり

嘆息にみつる胸には

流れ藻をあてゝ泣くなり

 

小休なく狂ふ心は

岸を去り沖を漕ぐなり

循りつゝ踴る血潮は

流れいでゝ汗と成るなり

 

或時は夢に微笑(ほゝゑ)み

或時は現になげき

君故に思ひ焦れて

大海の上に漂ふ

 

 

  其八 舟出の歌

 

憚らぬ大步擧げて

眞砂路を步み行くかな

天廣く海はるかなり

鳴呼自由自由なる哉

 

苦しとは人の心のために

心をば使はるゝなり

樂しとはわが身のために

わが身をば働くことぞ

 

行けよ行け海に行く人

貴きは海に來らず

榮ゆるは海に來らず

富みたるは海に來らず

 

なめし草赤きに似たる

額には喜宿り

鐡の如强き腕には

壓制に勝つ力あり

 

差別なく只絕對に

平等の海に浮びて

階級を誇る社會を

罵るも亦面白し

 

行く所行かれざるなく

欲するに來らざるなし

潮は滿ち日は昇りけり

希望ある海の景哉

 

淸く且つ正しく高き

第一の人間として

海士人は舟出するなり

最上の美觀ならずや

 

[やぶちゃん注:この八小篇からなる長詩は、明治三四(一九〇一)年九月発行『文庫』に署名「清白」で発表されたものである。但し、後述するが、今回ここに復元電子化したものは初出のままではない。この内、

  • 「其四 島」を独立させたものが「孔雀船」所収の「島」

であり、さらに、昭和四(一九二九)年新潮社刊「現代詩人全集 第四巻 伊良子清白集」では、

  • 「其二 鷗」を独立させたものが「鷗」
  • 「其三 女護が島」を独立させたものが「海人の妻」

として載っている。

 さて、私の底本としている二〇〇三年岩波書店刊平出隆編集「伊良子清白全集」第一巻の詩篇パートは特殊な(と私は感じている)編集方法を採っており、詩集「孔雀船」の校合本文をまず載せ、次に新潮社刊「現代詩人全集 第四巻 伊良子清白集」所収の詩篇の内、詩集「孔雀船」所収の詩篇を除いた詩篇の校合本文が続き、その後にその二冊に所収されなかった詩篇を「未収録詩篇」として載せているのである。「だから? 何?」と言われるか? では言おう。底本は詩篇をダブらせないという原則(そうでないケースもある。次回のここと似た「海の聲山の聲」のケースでは原型全篇が載る)に基づいて編集されているため、則ち、その「未収録詩篇」部では、この「海の歌」は、上記の改作独立させた部分を省略した形でしか載っていないのであり、初出と殆んど変わらない長詩として続けて読むためには、ページを行きつ戻りつしなくては読めないのである。

 私は当初、「孔雀船」所収のものはその初出形を示すことで私の古いテクスト「孔雀船」と差別化しようと考えていたのだが、これに関しては、それ以前に――初出の長詩「海の歌」の通読テクストを再現することが何より肝要――と考えた。校異を用いれば、初出通りのそれも再現出来るのではあるが、例えば「其二 鷗」等では、冒頭からして「磯菜に落つる」が「磯名に落る」で、読むに躓くこと、請け合い物なのである(そうした部分注記を施すのも神経症的に憂鬱なのである)。さればこそ、平井氏が校訂した底本詩篇本文の三箇所をそのままに繋げて再現するのが、読み易い初期形に最も近いものとはなろう、と判断して、そのように繋げた。ただ、例えば、「孔雀船」の「島」は総ルビであるが、この「未収録詩篇」の他のパートと比べるに、初出形の「其四 島」だけが総ルビであったとは考えられず、パラルビであったと思われるけれども、初出誌を見ることは出来ないので、総ルビで入れてある。奇異に感じられるかも知れぬが、そういう仕儀を採った結果なのであることをここにお断りしておく。]

旅行く人に 清白(伊良子清白) (初出形)

 

旅行(たびゆ)く人(ひと)

 

雨(あめ)の渡(わたし)に

   順禮(じゆんれい)の

姿(すがた)寂(さ)びしき

   夕間暮(ゆふまぐれ)

 

霧(きり)の山路(やまぢ)に

   駕舁(かごかき)の

かけ聲(ごゑ)高(たか)き

   朝朗(あさぼらけ)

 

旅(たび)は興(けう)ある

   頭陀袋(づだぶくろ)

重(おも)きを土産(つど)に

   歸(かへ)れ君(きみ)

 

惡魔(あくま)木暗(こぐれ)に

   ひそみつゝ

人(ひと)の財(たから)を

   ねらふとも

 

天女(てんによ)泉(いづみ)に

   下(お)り立(た)ちて

小瓶(こがめ)洗(あら)ふも

   目(め)に入(い)らむ

 

山蛭(やまびる)膚(はだ)に

   吸(す)ひ入(い)らば

谷(たに)に藥水(やくすゐ)

   溢(あふ)るべく

 

船醉(ふなゑひ)海(うみ)に

   苦(くる)しむも

龍神(りゆうじん)臟(むね)を

   醫(いや)すべし

 

鳥(とり)の尸(かばね)に

   火(ひ)は燃(も)えて

山(やま)に地獄(じごく)の

   吹噓聲(いぶくこゑ)

 

潮(うしほ)に異香(いかう)

   薫(くん)ずれば

海(うみ)に微妙(びみやう)の

   蜃氣樓(かひやぐら)

 

暮(く)れて驛(うまや)の

   町(まち)に入(い)り

旅籠(はたご)の門(かど)を

   くゞる時(とき)

 

米(こめ)の玄(くろ)きに

   驚(おどろ)きて

里(さと)に都(みやこ)を

   說(と)く勿(なか)れ

 

女房(にようぼ)語部(かたりべ)

   背(せな)すりて

村(むら)の歷史(れきし)を

   講(かう)ずべく

 

主(あるじ) 膳夫(かしはで)

   雉子(きじ)を獲(え)て

旨(うま)き羹(あつもの)

   とゝのへむ

 

芭蕉(ばせを)の草鞋(わらじ)

   ふみしめて

圓位(ゑんゐ)の笠(かさ)を

   頂(いたゞ)けば

 

風俗(ふうぞく)君(きみ)の

   鹿島立(かしまだち)

翁(おきな)さびたる

   可笑(をか)しさよ

 

[やぶちゃん注:初出は明治三六(一九〇三)年三月発行『文庫』。署名は「清白」。第三連の二行目「あらはれて」が「孔雀船」では「ひそみつゝ」に変えられているのが大きな異同。他に二箇所のルビの違い(「微妙(みやう」「蜃氣樓(かりやぐら)」)があるが、これは誤植と断じ、訂した。「草鞋(わらじ)」のルビはママとした(「孔雀船」も「わらじ」。歴史的仮名遣として「わらぢ」が正しい)。

「芭蕉」「圓位」言わずもがなであるが、前者は松尾芭蕉、後者は西行の法号で、孰れも度に生きて旅に死んだ固有人名を添えて「草鞋」「笠」を修飾したもの。

「鹿島立(かしまだち)」はこれで単に「旅立ち・門出」のこと。鹿島香取の明神が天孫降臨の際に先ず使いされたという故事から出た汎用の一般名詞。]

秋和の里 清白(伊良子清白) (初出形)

 

秋和(あきわ)の里(さと)

 

月(つき)に沈(しづ)める白菊(しらぎく)の

秋(あき)冷(すさ)まじき影(かげ)を見(み)て

千曲少女のたましひの

ぬけかいでたるこゝちせる

 

佐久(さく)の平(たひら)の片(かた)ほとり

あきわの里(さと)に霜(しも)やおく

酒(さけ)うる家(いへ)のさゞめきに

まじる夕(ゆふべ)の鴈(かり)の聲(こゑ)

 

蓼科山(たでしなやま)の彼方(かなた)にぞ

年經(としふ)るおろち棲(す)むといへ

月(つき)はろばろとうかびいで

八谷(やたに)の奥(おく)も照(て)らすかな

 

旅路(たびぢ)はるけくさまよへば

破(や)れし衣(ころも)の寒(さむ)けきに

こよひ朗(ほがら)らのそらにして

いとゞし心痛(こころいた)むかな

 

        (秋曉に贈る)

 

[やぶちゃん注:初出は明治三五(一九〇二)年十二月発行『文庫』(署名は「清白」)であるが、初出では総標題「霜柱」のもとに、「野衾」「淨瑠璃姫」(孰れも昭和四(一九二九)年新潮社刊「現代詩人全集 第四巻 伊良子清白集」に再録所収)及び本「秋和の里」の三篇を掲げてある。「孔雀船」との相違は(標題を「さきわ」とするのは誤植と見て採らない)、「千曲乙女(ちくまをとめ)のルビがないこと、詩篇末(位置は不明なので一行空けて有意に下げた)の「(秋曉に贈る)」という後書きがないことである。この「秋曉」は人名で、『上田市関連ソング 「秋和の里」について』に、『明治の末期、日本の文学界きっての文人滝沢秋暁(本名』は彦太郎。『文庫』派)『が種々の事情で東京の文学界を去り、故郷秋和村(現上田市秋和)に隠遁していることを知った文学界駆け出しの伊良子清白が、越後出張のおり』、『表敬訪問』して『歓迎され』、『秋暁の家に泊めてもらうことになった。そのお礼にと後日贈った詩である』とある。記者で作家の滝沢秋暁(しゅうぎょう 明治八(一八七五)年~昭和三二(一九五七)年)は、早くから『少年文庫』などに投稿し、明治二十年代から小説「田毎姫」・詩「亡友の病時」・評論「勧懲小説と其作者」「地方文学の過去未来」などを発表、明治二八(一八九五)年には『田舎小景』を創刊したが、画道を志して上京、『少年文庫』の記者となった。しかし翌年、病を得て帰郷、家業の蚕種製造に従事する傍ら、小説「手術室の二時間」などを発表した。著書に「有明月」「愛の解剖」「通俗養蚕講話」などがある(以上は日外アソシエーツ「20世紀日本人名事典」に拠った)。

「秋和の里」は現在の長野県上田市秋和(あきわ)(グーグル・マップ・データ)。

「佐久(さく)の平(たひら)の片(かた)ほとり」については、先の『上田市関連ソング 「秋和の里」について』に、『上田あたりを佐久の平と言うのは無理があるが、これは蓼科山に対する詩人の言葉であると言われており、「酒うる家」は上田からの途中にあった「米万」という居酒屋のことらしい』とあった。]

淡路にて 清白(伊良子清白) (初出形)

 

淡路(あはぢ)にて

 

古翁(ふるおきな)しま國(くに)の

野にまじり覆盆子(いちご)摘(つ)み

門(かど)に來(き)て生鈴(いくすゞ)の

百層(もゝさか)を驕(おご)りよぶ

 

白晶(はくしやう)の皿(さら)をうけ

鮮(あざら)けき乳(ち)を灑(そゝ)ぐ

六月(ぐわつ)の飮食(おんじき)に

けたゝまし虹(にじ)走(はし)る

 

淸凉(せいろう)の里(さと)いでゝ

松(まつ)に行(ゆ)き松(まつ)に去(さ)る

大海(おほうみ)のすなどりは

ちぎれたり繪卷物(ゑまきもの)

 

鳴門(なると)の子(こ)海(うみ)の幸(さち)

魚(な)の腹(はら)を胸肉(むなじゝ)に

おしあてゝ見(み)よ十人(とたり)

同音(どうおん)にのぼり來(く)る

 

[やぶちゃん注:初出は明治三八(一九〇五)年九月発行『文庫』であるが、初出では総標題「夕蘭集」のもとに、本「淡路にて」と「戲れに」「花柑子」(孰れも「孔雀船」再録)及び「かくれ沼」(「孔雀船」所収の際に「五月野」に改題)及び「安乘の稚兒」(「孔雀船」再録)の五篇を掲げてある。署名は「清白」。では「六月(ろんぐわつ)」であるが、「ろくぐわつ」の誤植と思われ、「孔雀船」では「六月(ぐわつ)」と「六」にルビを振らない(当時、総ルビでも数字にルビを振らないケースは普通に見られる)から、ここは特異的にそれを採った。

「生鈴(いくすゞ)の」は鈴生りの反転で、摘んだ沢山の野苺の山を指す。

「百層(もゝさか)を驕(おご)りよぶ」いやさかを祝して御馳走しようというのである。

最終連は豊漁の若人の意気揚揚と帰帆するシークエンスであろう。]

カテゴリ「伊良子清白」始動 / 「漂泊」初出形

 

[やぶちゃん注:医師で詩人であった伊良子淸白(いらこせいはく 明治一〇(一八七七)年~昭和二一(一九四六)年:本名暉造(てるぞう)。鳥取県生まれ。父政治(まさはる)・母ツネの次男として生まれた。もとの筆名「すずしろのや」。後に「淸白」と改めたが、旧筆名から「すずしろ」と訓ずることもあり、私は常に一貫して「すずしろ」と訓じている)は、河井酔茗・横瀬夜雨と並ぶ『文庫』派(『文庫』は投書文芸雑誌。明治二八(一八九五)年八月から明治四三(一九一〇)年八月まで刊行。通巻二百四十四冊。『少年文集』の後身で、発行は、初めは「少年園」、後に「内外出版協会」。記者として河井酔茗・小島烏水らが在社し、青少年のための詩歌・俳句・漢詩・小説などの投書を中心とした。特に詩に特色を持ち、酔茗・夜雨・清白らの質朴な詩風が『文庫』派と称されるに至った。ほかに烏水の文芸評論・山水紀行も特記される。寄稿家としては窪田空穂・三木露風・北原白秋と数多い。最晩期は俳句雑誌に変貌した)の代表的詩人である。鳥取県八上(やかみ)郡曳田(ひけた)村(現在の鳥取市河原(かわはら)町)に生まれ、京都府立医学校に学んだ。雑誌『少年園』『青年文』の投書家として詩文に頭角を現わし、『文庫』にあっては、詩「巖間(いはま)の白百合」(『詩美誘韻』明治三三(一九〇〇)年七月発行所収。生前の詩集「孔雀船(くじゃくぶね)」や作品集には未収録)・「夏日孔雀賦」(『文庫』明治三五(一九〇二)年七月初出。詩集「孔雀船」に再録所収)・「海の聲山の聲」(『文庫』明治三七(一九〇四)年一月初出。昭和四(一九二九)年新潮社刊「現代詩人全集 第四巻 伊良子清白集」に再録所収)などの秀作を発表し、〈漂泊の詩人〉として明治三十年代の詩壇に重きを成した。明治三九(一九〇六)年五月、その絶唱をストイックに厳選した唯一の詩集「孔雀船」を刊行、『文庫』派解体後は詩壇を決然として去り、医師として横浜・浜田(島根県)・台湾その他の各地に転住し、大正一一(一九二二)年九月に移った三重県志摩郡鳥羽町大字小浜で、村医としてようやく腰を落ち着けることが出来た(昭和期には『女性時代』『白鳥』への短歌や詩篇の寄稿がある)。昭和二十一年一月、疎開先の三重県度会(わたらい)郡七保村(現在の大紀(たいき)町)で、急患往診の途上、脳溢血で倒れ、自宅へ運ばれる途次、逝去した(以上は割注も含め、主文を小学館「日本大百科全書」に拠った)。

 私は十代の終りに彼の詩に出逢い、特に「漂泊」と「安乘(あのり)の稚兒」(孰れも「孔雀船」所収)に心打たれた。拙サイトでは、既にサイト開設二年目の十二年前の二〇〇七年七月七日(もう思い出せぬが、恐らくは「漂泊」の詩中の「圓(まろ)き肩(かた)銀河(ぎんが)を渡(わた)る」に合わせたものと思う)に、サイトで彼の唯一の単行詩集「孔雀船」初版(復刻本底本)を電子化している。

 今回は、まず、現在知られた彼の詩篇の全電子化を目指す。底本は所持する二〇〇三年岩波書店刊平出隆編集「伊良子清白全集」第一巻を用いる(正字正仮名表記)。既に電子化している「孔雀船」所収の各篇については、それらの初出形(底本の校異に従って再現したが、底本校異は初出のルビの有無を総ては挙げていないものと推察するので初出のままではなく、初出に近いものを「初出形」と称することを言い添えておく)を示す形で掲げる。但し、初出形が誤植等で不全なもの、初出が不明なものは「孔雀船」版(或いはそれに準拠した形)を掲げておいた。【二〇一九年四月三日始動 藪野直史】]

 

 

漂 泊(へうはく)

 

蓆戶(むしろど)に

秋風(あきかぜ)吹(ふ)いて

河添(かはぞひ)の旅籠屋(はたごや)さびし

哀(あは)れなる旅(たび)の男(をとこ)は

夕暮(ゆふぐれ)の空(そら)を眺(なが)めて

いと低(ひく)く歌(うた)ひはじめぬ

 

亡母(なきはゝ)は

處女(をとめ)と成(な)りて

白(しろ)き額(ぬか)月(つき)に現(あら)はれ

亡父(なきちゝ)は

童子(わらは)と成(な)りて

圓(まろ)き肩(かた)銀河(ぎんか)を渡(わた)る

 

柳(やなぎ)洩(も)る

夜(よ)の河(かは)白(しろ)く

河(かは)越(こ)えて煙(けぶり)の小野(をの)に

かすかなる笛(ふえ)の音(ね)ありて

旅人(たびびと)の胸(むね)に觸(ふ)れたり

 

故鄕(ふるさと)の

谷間(たにま)の歌(うた)は

續(つゞ)きつゝ斷(た)えつつ哀(かな)し

大空(おほぞら)の返響(こだま)の音(をと)と

地(ち)の底(そこ)のうめきの聲(こゑ)と

交(まじは)りて調(しらべ)は深(ふか)し

 

旅人(たびびと)に

母(はゝ)はやどりぬ

若人(わかびと)に

父(ちゝ)は降(くだ)れり

小野(をの)の笛(ふえ)煙(けぶり)の中(なか)に

かすかなる節(ふし)は殘(のこ)れり

旅人(たびびと)は

歌(うた)ひ續(つゞ)けぬ

嬰子(みどりご)の昔(むかし)にかへり

微笑(ほゝゑ)みて歌(うた)ひつゝあり

 

[やぶちゃん注:初出は明治三八(一九〇五)年一月発行『文庫』であるが、初出では総標題「冬の夜」のもとに、「月光日光」(「孔雀船」所収)と本「漂泊」及び「無題」(昭和四(一九二九)年新潮社刊「現代詩人全集 第四巻 伊良子清白集」に再録所収)の三篇を掲げてある。署名は単に「清白」である。

初出との大きな違いは、「孔雀船」版が全六連構成であるのに対し、初出はその最後の二連を一連にしている点である。私のサイト版詩集「孔雀船」初版(復刻本底本)で確認されたい。

「圓(まろ)き肩(かた)銀河(ぎんか)を渡(わた)る」の「圓(まろ)き」は、初出(底本校異の記載から推定)や「孔雀船」初版でも「わろ」と振るが、底本及び後の諸作品集に基づき、特異的に「まろ」に訂した。

「銀河(ぎんか)」は初出のママ。底本及び現行諸本は総て「ぎんが」。]

2019/04/02

和漢三才圖會卷第三十八 獸類 鹿(しか) (シカ・ニホンジカ他)

Sika

 

 

 

しか    斑龍   麀【牝】

      麚【牡】 䴥【牡】

      麛【子】 麑【子】

鹿【音禄】

★     密利迦羅【梵書】

      【和名加

ロツ     俗云之加】

[やぶちゃん注:★部分に上図の篆文が入る。]

 

本綱鹿山林中有之馬身羊尾頭側而長高脚而行速【鹿與

遊龍戲必生異角則鹿得稱龍也】牡者有角夏至則解大如子馬黃質白

班牝者無角小而無班毛雜黃白色孕六月而生子性淫

一牡常交數牝性喜食龜能別良草食則相呼行則同旅

居則環角外向以防害臥則口朝尾閭以通督脉鹿乃仙

獸自能樂性六十年必懷璚于角下班痕紫色行則有涎

不復急走故曰鹿載玉而角班魚懷珠而鱗紫鹿千歳爲

蒼又五百歳爲白又五百歳爲玄瑞應圖云鹿者純善之

獸王孝則白鹿見

 古今すかるなく龝の萩原朝立て旅行人をいつとかまたん

△按鹿多淫而牡夜鳴喚牝秋夜最頻又出田圃食穀菽

 獵人以鹿角根及胎鹿皮或蝦蟇皮作笛吹僞牡鹿之

 音牡匍匐來竟罹弶或入陷穽【但蝦蟇皮之笛則蛇多來集故今惟用胎鹿皮】

 又夏月腰鐵籠焚火狀似松明鹿見火太喜來竟爲人

 所殺謂之照射性怖人不囓不觝如被逐迫則以後足

 彈力甚强如捉兩角相推則人難勝捉片角捏則鹿直

 倒也鹿爲春日神使奈良人家多狎如雞犬【春日生土人勿食鹿】

鹿肉【甘溫】 補中益氣力強五臟【九月以後正月已前可食他月不可食】鹿常

 能別良草【止食葛花葛葉鹿葱鹿藥白蒿水芹甘草薺苨蒼耳】不食他草乃仙獸

 純陽多壽之物故其肉角有益於人無損【△按多食鹿肉損牙齒但

 食之次吃生米則不損屢試然】

鹿茸【甘溫】 壯筋骨生精補髓養血益陽治一切虛損蓋古

 角既解新角初生時如紫茄【月令云冬至麋角解夏至鹿角解陰陽相反如此】

 稍長四五寸形如分岐馬鞍茸端如瑪瑙紅玉破之肌

 如朽木者最善【鹿茸不可以鼻齅此中有小白蟲視之不見入人鼻必爲蟲顙藥不及也】

△按鹿茸【和名乃和加豆乃俗云袋角】茸字【草生貌】俗爲蕈菌之字鹿

 角初生相似未開蕈故然矣長二三寸不尖不堅者爲

 良【以猿尾鹿尾僞之而此等短而有毛】本草必讀云鹿角初生爲茸至堅

 老成角不過兩月久其發生之性雖草木易生者未

 有速於此者其補益於人又豈有過於此物乎

鹿角【鹹溫】 生用則散熱行血消腫辟邪熟用則益腎補虛

 強精活血

鹿角霜【同膠】 補中益氣治腰痛吐血下血婦人血閉無子

 者懷妊安胎久服輕身延年

 煑作法【百代醫宗云】新鹿角三對毎對各長二寸截之取長

 流水浸三日刷浄垢土毎角一斤用楮實子【一兩】桑白

 皮黃臘【各二兩】入鐵鍋水煮三晝夜慢火不可少停水少

 則添熱湯【不可添冷水】日足取出角以脆爲度削去黒皮薄

 切曬乾碾爲末名鹿霜也 其餘于鍋中水慢火再熬

 成膠名鹿膠也【本綱之說亦互交註】今自中華來鹿角膠形圓而

 押朱印云世醫製角膠

造玉法 以鹿骨角爲屑浸醋四五日用其醋煮熟之半

 日取出入朱和調作珠形以贋珊瑚又欲青色則用緑

 青染成【今人造贋玉多用鯨骨削成染色】

鹿皮 治一切漏瘡【燒灰和豬脂納之日五六易愈乃止】

△按鹿皮作革以作皷鞠韤裘等其用最多但倭鹿皮薄

 小而肌不濃也凡暹羅柬埔寨咬※吧太泥太冤等

[やぶちゃん注:「※」=「口」+「留」。]

 西南夷毎年所來鹿皮野馬皮麂皮等大約二十余万枚

 以暹羅麂麞之皮爲最上其野馬皮肌厚麤而爲最下

 

 

しか    斑龍   麀〔(ゆう)〕【牝。】

      麚〔(か)〕【牡。】 䴥〔(か)〕【牡。】

      麛〔(べい)〕【子。】

      麑〔(げい/べい)〕【子。】

鹿【音、「禄」。】

★     密利迦羅〔(みつりから)〕【梵書。】

ロツ    【和名、「加」。俗に云ふ、「之加」。】

[やぶちゃん注:★部分に上図の篆文が入る。]

 

「本綱」、鹿、山林の中に之れ有り。馬の身、羊の尾。頭、側〔(そばだ)ち〕て長し。高き脚にして行〔くこと〕速し【鹿、遊龍と戲〔れば〕必ず異角を生ず。則ち、〔かく成れる〕鹿を龍と稱することを得るなり。】牡には角有り、夏至には、則ち、解(をと)す[やぶちゃん注:ママ。以下同じ。「落とす」。脱け落ちる。事実、ニホンジカの角は毎年抜け替わる。]。大いさ、子馬のごとし。黃〔の〕質〔(ぢ)〕に白班なり。牝は角無し。小にして班無し。毛、雜黃白色。孕むこと、六月にして子を生む。性、淫にして、一牡、常に數牝〔(すひん)〕に交はり、性、喜びて龜を食ふ。能く良草を別〔(わか)〕つ。食ふときは、則ち、相ひ呼び、行くときは、則ち、同じ旅を〔し〕、居るときは、則ち、角を環〔(まは)すに〕外に向けて、以つて害を防ぎ、臥すときは、則ち、口〔を〕尾閭〔(びりよ)〕[やぶちゃん注:肛門。]に朝〔(む)けて〕[やぶちゃん注:向けて。]以つて督脉〔(とくみやく)〕に通〔(つう)〕す。鹿、乃〔(すなは)ち〕仙獸〔にして〕自ら能く樂しむ。性、六十年にして、必ず、璚(たま)を角の下に懷(いだ)く。班痕、紫色。行くときは、則ち、涎〔(よだれ)〕有り。復た急に〔は〕走らず。故に曰ふ、「鹿は玉を載せて、角、班〔(まだら)〕なり。魚は珠を懷きて、鱗、紫なり」〔と〕。鹿、千歳にして蒼と爲り、又、五百歳にして白と爲る。又、五百歳にして玄〔(くろ)〕と爲る。「瑞應圖」に云はく、『鹿は純善の獸なり。王、孝たれば、則ち、白鹿を見る』と。

 「古今」

   すがるなく龝〔(あき)〕の萩原〔(はぎはら)〕朝立ちて

      旅行く人をいつとかまたん

△按ずるに、鹿、多淫にして、牡、夜(〔よ〕る)鳴きて牝を喚(よ)ぶ。秋夜、最も頻りなり。又、田圃に出でて、穀・菽〔(まめ)〕を食ふ。獵人、鹿角の根及び胎〔(はらご)の〕鹿皮、或いは蝦蟇の皮を以つて笛を作りて、吹きて、牡鹿の音〔(ね)〕に僞る。牡、匍匐して來りて、竟〔(つひ)〕に弶(わな)[やぶちゃん注:罠。]に罹(かゝ)り、或いは陷穽(をとしあな[やぶちゃん注:ママ。])入る【但し、蝦蟇の皮の笛は、則ち、蛇、多く來たり集まる故、今、惟だ胎の鹿皮を用ふ。】又、夏月、鐵の籠を腰にし、火を焚き、狀〔(かたち)を〕松明(たいまつ)に似す。鹿、火を見て太〔(はなは)〕だ喜び來りて、竟に人の爲に殺さる。之れを「照射(ともし)」と謂ふ。性、人を怖れて、囓まず、觝(〔つの〕つ)かず。如〔(も)〕し逐はれて迫(せま)れば、則ち、後足を以つて彈(はじ)く。力、甚だ强し。如〔(も)〕し兩の角を捉(とら)へて、相ひ推すときは、則ち、人、勝ち難し。片角を捉へて捏(ねじ)れば、則ち、鹿、直(そのまゝ)倒(たを[やぶちゃん注:ママ。])なり。鹿は春日の神の使ひと爲して、奈良、人家には多く、狎れて、雞・犬のごとし【春日の生土(うぶすな)の人、鹿を食ふ勿〔(な)〕し。】。

鹿肉【甘、溫。】 中[やぶちゃん注:脾胃。漢方で消化器系を指す。]を補し、氣力を益し、五臟を強くす【九月以後、正月已前、食ふべし。他月は食ふべからず。】。鹿、常に能く良草を別つ【止(たゞ)、葛の花・葛の葉・鹿葱・鹿藥・白蒿〔(びやくかう)〕・水芹〔(みづぜり)〕・甘草・薺-苨〔(そばな)〕・蒼耳〔(をなもみ)〕を食ふ〔のみ〕。】他草を食はず。乃ち、仙獸〔にして〕純陽、多壽の物〔なり〕。故に其の肉の〔→と〕角、人に益有り。損〔(そこな)ふこと〕無し【△按ずるに、多く鹿肉を食へば牙齒を損ず。但し、之れを食ひ、次に生米を吃〔(く)〕へば、則ち、損ぜず。屢〔(しばしば)〕試みて、然り。】。

鹿茸(ふくろづの)【甘、溫。】 筋骨を壯にして、精を生ず。髓を補し、血を養ひ、陽を益す。一切の虛損を治す。蓋し、古〔き〕角、既に解(を)ち、新〔しき〕角、初めて生ずる時、紫〔の〕茄(なすび)のごとし【「月令〔(がつりやう)〕」に云はく、『冬至に麋〔(おほじか)〕の角、解〔(お)〕ち、夏至に鹿の角、解〔(お)〕つ』〔と〕。陰陽、相ひ反すること此くのごとし。】。

 稍〔(やや)〕長くして、四、五寸。形、分岐〔して〕馬の鞍のごとし。茸〔(つの)〕の端、瑪瑙〔(めのう)〕・紅玉のごとし。之れを破れば、肌、朽木のごとくなる者、最も善し【鹿茸〔は〕鼻を以つて齅〔(か)〕ぐべからず。此の中に、小さき白き蟲、有り。之れ、視れども見えず、人の鼻に入〔れば〕、必ず、蟲顙〔(ちゆうさう)〕[やぶちゃん注:病名。後注する。]と爲り、藥も及ばざるなり。】。

△按ずるに、鹿茸〔(ふくろづの)〕【和名、乃ち、「和加豆乃(わかづの)」[やぶちゃん注:「若角」・]。俗に云ふ、「袋角」。】は「茸」の字【草の生ずる貌〔(かたち)〕。】、俗に蕈菌(くさびら)[やぶちゃん注:キノコ。]の字と爲す。鹿角、初生〔は〕、未だ開かざる蕈(たけ)[やぶちゃん注:キノコ。]に相ひ似たり。故に然り。長さ、二、三寸。尖らず、堅からざる者、良と爲す【猿の尾、鹿の尾を以つて、之に僞る[やぶちゃん注:「猿の尻尾」を「鹿の角」と称して贋造する。]。而れども、此等は短くして、毛、有り。】。「本草必讀」に云はく、『鹿角〔の〕初生、茸〔(きのこ)〕と爲り、堅く老(ひね)て、角と成るに至りて〔→るまでは〕、兩月〔(ふたつき)〕の久〔しき〕に過ぎず[やぶちゃん注:たった二ヶ月しかかからない。]。又、其の發生の性[やぶちゃん注:ここは「機序」の意。]、草木の生へ[やぶちゃん注:ママ。]易き者と雖も、未だ此れより速やかなる者、有らず。其れ、人に補益あるも又、豈に此の物に過ぐること有らんや』〔と〕。

鹿角【鹹、溫。】 生〔(なま)〕にて用ふれば、則ち、熱を散じ、血を行〔(めぐ)ら〕し、腫〔(はれもの)〕を消し、邪を辟〔(さ)〕く。熟して用ふるときは、則ち。腎を益し、虛を補し、精を強くし、血を活〔(いか)〕す。

鹿角霜〔(ろくかくさう)〕【同じく「膠〔(にかは)〕」。】 中を補し、氣を益し、腰痛・吐血・下血、婦人の血閉〔して〕子〔の〕無き者を治す。懷妊〔せし婦人〕は胎を安んじ、久しく服すれば、身を輕くし、年を延ぶ。

煑作〔(にづく)〕る法【「百代醫宗」に云ふ。】。新しき鹿角三對、毎對、各〔(おのおの)〕長さ二寸に之れを截(き)り、長流水[やぶちゃん注:「本草綱目」の通りであるが「長」の意は不詳。]を取りて、浸すこと三日、垢・土を刷〔(す)りて〕浄くし[やぶちゃん注:「本草綱目」では「刮浄」でこれだと「刮(こす)りて」となる。]、角一斤毎〔(ごと)〕に楮--子(かうぞのみ)【一兩。[やぶちゃん注:明代のそれは三十七・三グラム。]】・桑白皮〔(さうはくひ)〕[やぶちゃん注:桑の根皮。消炎・利尿・鎮咳効果を持つ。]・黃臘〔(わうらふ/くわうらう)〕[やぶちゃん注:蜜蝋のこと。]【各二兩。】を用ひて、鐵鍋に入れて水〔にて〕煮ること三晝夜、慢火〔(とろび)〕にて少(しばら)くも停(とゞ)むべからず。水、少きときは、則ち、熱湯を添ふ【冷水を添ふべからず。】。日、足りて、角を取り出だし、脆(もろ)きを以つて、度と爲し[やぶちゃん注:それで煮込みは充分として。]、黒皮を削り去りて、薄く切り、曬〔(さら)し〕乾し、碾(をろ)して[やぶちゃん注:ママ。]、末と爲し、「鹿霜」と名づくなり。其の鍋の中に餘(のこ)りたる水を、慢火〔(とろび)〕にて再び熬り、膠〔(にかは)〕と成る。名づけて「鹿膠〔(しかにかは)〕」なり【「本綱」の說も亦、互ひに交へ註〔せり〕。】。今、中華より來たる鹿角〔の〕膠は、形、圓くして、朱印を押して云はく、「世醫角膠製」[やぶちゃん注:「世醫(せいい)某(なにがし)、角膠(つのにかは)を製す」。]〔と〕。

玉〔(ぎよく)〕を造る法 鹿の骨・角を以つて屑(すりくづ)と爲し、醋〔(す)〕に浸すこと四、五日、其の醋を用ひて、之れを煮熟すること半日、取り出だし、朱を入れ、和〔(あ)へ〕調へ、珠の形に作り、以つて珊瑚に贋(にせ)る。又、青色ならんと欲せば、則ち、緑青〔(ろくしやう)〕を用ひて染め成す【今の人、贋(にせ)玉を造るに、多く、鯨の骨を用ひ、削り成して色を染む。】。

鹿皮 一切の漏瘡を治す【燒〔きて〕灰〔と成して〕豬(ぶた)の脂(あぶら)に和〔(あ)へ〕、之れを〔患部に〕納(いる)ゝ。日々に五、六たび、易〔(か)〕ゆ[やぶちゃん注:ママ。]。愈〔(い)えば〕乃ち止む。】。

△按ずるに、鹿の皮、革(なめしがは)と作〔(な)〕し、以つて皷〔(つづみ)〕・鞠・韤(たび)・裘(かはごろも)等に作る。其の用、最も多し。但し、倭〔(わ)〕の鹿の皮は薄く小さくして、肌、濃(こまや)かならざるなり。凡そ、暹羅(シヤム)[やぶちゃん注:現在のタイ王国の前身。]・柬埔寨(カボヂヤ)[やぶちゃん注:現在のカンボジア王国の前身。]・咬※吧(ヂヤカタラ)[やぶちゃん注:「※」=「口」+「留」。現在のインドネシアのジャカルタ。十六世紀から十九世紀にかけてジャワ島西部バンテン地方に栄えたイスラム国家バンテン王国の港町として栄えていた。]・太泥(パタニ)[やぶちゃん注:南インド。]。太冤(タイワン)[やぶちゃん注:台湾。]等、西南夷より毎年來たる所の鹿の皮・野馬(やまむま)の皮・麂(こびと)の皮等、大約[やぶちゃん注:凡そ。]、二十余万枚、暹羅〔の〕麂(こびと)・麞(なれあい)の皮を以つて最上と爲し、其の野馬の皮は、肌、厚く麤〔(あら)く〕して最下と爲す。

[やぶちゃん注:哺乳綱鯨偶蹄目反芻亜目シカ科 Cervidae のシカ類。中国には多種のシカがいるが、本邦ではシカ属ニホンジカ Cervus nippon(亜種分類ではホンシュウジカ Cervus nippon aplodontus・キュウシュウジカCervus nippon(四国・九州など)・ケラマジカCervus nippon keramae(慶良間列島。江戸時代に九州から移入されたもの)マゲシカCervus nippon mageshimae(馬毛島。二個体を基に記載されたものの、種子島の個体群を含んだり、分類上の位置は明確ではない)・ツシマジカCervus nippon pulchellus(対馬)・ヤクシカCervus nippon yakushimae(屋久島)・エゾシカCervus nippon yesoensis(北海道)の七亜種となる。但し、ニホンジカは日本固有種ではなく、中華人民共和国・ロシアにも棲息する。朝鮮民主主義人民共和国・ベトナムでは絶滅したと考えられており、大韓民国では絶滅した。生態その他中国産種のシカ類は、ウィキの「シカ」及び「ニホンジカ」を参照されたい(後者にも中国産ニホンジカ亜種複数種を記載する)。以下の記載も多くを後者に拠った。野生のシカには何度か山行で出逢ったが、丹沢の蛭ヶ岳で昼飯を食っていたら、人慣れしてしてしまった♂の成年鹿がやってきて、私を凝っと見ていたが、私が何もやらないと、私の太腿を右前肢で突かれた。同僚が鹿を叱って(洒落ではない)追い払ったが、私は何か少し淋しい気がした。

「遊龍」不詳。単に蛟龍のように棲息域を水辺に縛られたりしない龍として昇天して自由行動をしている成龍のことを指しているか。

「異角を生ず。則ち、〔かく成れる〕鹿を龍と稱することを得るなり」しかし「龍馬」は「龍鹿」というのは、日本語ではまず聴かんね。

「白班」「班」は「斑」で「まだら」のこと。この誤字は良安の書き癖。

「孕むこと、六月にして子を生む」ニホンジカの場合、九月下旬から十一月に交尾を行い、妊娠期間は約二百三十日。出産は五月下旬から七月下旬で一頭のみ。

「同じ旅を〔し〕」移動する際には一緒に行動し。ニホンジカの場合は、森林から完全に離れる行動をとることは普通はない。また、実際には通常時は雌雄別々に群れを形成する。♀の群れは母系集団で、群れで産まれた♀とその母親で構成されている(♂は生後一~二年で産まれた群れから独立し、生後二年以上の♂は♂のみで群れを形成する)

「尾閭」(びりょ)は「荘子」の「秋水」にある「天下之水莫大於海。萬川歸之不知何時止、而不盈、尾閭泄之不知何時已、而不虛」(天下の水は海より大なるは莫し。萬川之れに歸し、何(いづ)れの時に止(とど)まるかを知らざる。而(しか)も盈みたず[やぶちゃん注:溢れない。]。尾閭(びりよ)は之れを泄(もら)し何れの時にか已(や)むを知らざるも、而も虛(むな)しからず)に拠る語で、「人が見ることは出来ない、海の底にあって絶えず水を排水していると考えられた穴。すべての川から海を経た水の出口に当たると信じられていた所。転じて、排泄することや排泄腔(肛門)の喩え。

「督脉〔(とくみやく)〕に通〔(つう)〕す」督脈は「会陰部から起こって脊柱に沿って上り、後頭部から脳に入いる。さらに頭部の正中を通って頭頂部(百会穴(ひゃくえけつ))に上り、額を循って鼻柱に至り、上歯齦で終わる経絡。鹿は、睡眠中、その体を貫通する気の流れが遅滞せずに効率的に循環するよう、この姿勢をとるのだと言いたいのであろう。これは確かに「仙獸」と言える。

「六十年にして、必ず、璚(たま)を角の下に懷(いだ)く」龍と相性がいいのだから、龍が持っている玉、如意宝珠みたようなものか。

「班痕、紫色。行くときは、則ち、涎〔(よだれ)〕有り。復た急に〔は〕走らず」主語は六十歳を経た珠を角の下に抱いた霊鹿であるので注意。しかし、普通に読むと「班痕、紫色」とは、白い斑(まだら)部分が紫色に変じていると読むのだが、直後に「鹿は玉を載せて、角、班〔(まだら)〕なり」と出るので、訳わからん。

「鹿は玉を載せて、角、班〔(まだら)〕なり。魚は珠を懷きて、鱗、紫なり」というのは宋の陸佃の「埤雅」にも載る。この魚、何歳で珠はどこにあるとですかねえ?

「瑞應圖」東洋文庫版の書名注に、『一巻。孫柔之の『瑞応図記』。清の馬国翰編輯の『玉函山房輯佚書』にある。天地の瑞応の諸物を分類し、図に説明を付けたもの』とある。

「古今」「すがるなく龝〔(あき)〕の萩原〔(はぎはら)〕朝立ちて旅行く人をいつとかまたん」「古今和歌集」の「巻第八 離別歌」の二首目の詠み人知らずの一首(三六六番)、

すがる鳴く秋のはぎはら朝たちて

   旅行く人をいつとか待たむ

である。「すがる」は東国では狩り蜂として知られる「ジガバチ」(昆虫綱 膜翅(ハチ)目細腰(ハチ)亜目アナバチ科ジガバチ亜科ジガバチ族 Ammophilini のジガバチ類を指すのだが、中世の注釈書では鹿のこととする。まあ、その方が意味は素直に落ちる。あの鹿の声は山でよく聴いたが、何かひどく淋しいものだった。

「菽〔(まめ)〕」(音は「シュク」)食用にする栽培種の大豆・小豆・隠元豆などを総称する語。

「胎〔(はらご)の〕鹿皮」鹿の胎児の皮。

「葛の花・葛の葉」マメ目マメ科マメ亜科インゲンマメ連ダイズ亜連クズ属クズ変種 Pueraria montana var. lobata

「鹿葱」単子葉植物綱キジカクシ目ヒガンバナ科ヒガンバナ亜科ヒガンバナ連ヒガンバナ属ナツズイセン Lycoris squamigera の漢名。同種の中文ウィキを見よ。

「鹿藥」単子葉植物綱ユリ亜綱ユリ目ユリ科マイヅルソウ属ユキザサ Maianthemum japonicum の漢名の一つ。同種の中文ウィキの「鹿药」を見よ。下方の「外部連結」に「鹿藥」とある。なお、そこでは学名を Smilacina japonica としているが、これは旧学名のシノニムで、最近、属替えがあったことによる。

「白蒿〔(びやくかう)〕」中文サイトのこちらを見る限りでは、恐らくキク亜綱キク目キク科ヨモギ属アルテミシア・ハーバ Artemisia herba なのであるが(中国北部・西南部及びチベット地区に植生するとする)、本当にこの学名が正しのかどうかは、やや疑問ではある(リンク先のラテン語学名表記からして何だかおかしいのだ)。なお、これは本邦のヨモギ属シロヨモギ Artemisia stelleriana とは別種なので注意されたい(シロヨモギは中国には植生しない)。それで当初、東洋文庫と同じく「しろよもぎ」と振っていたのを音読みにかえた。

「水芹〔(みづぜり)〕」セリ目セリ科セリ属セリ Oenanthe javanica

「甘草」マメ目マメ科マメ亜科カンゾウ属 Glycyrrhiza

「薺-苨〔(そばな)〕」キク亜綱キキョウ目キキョウ科ツリガネニンジン属 Adenophora の一種。或いは本邦では同属のソバナ(蕎麦菜)Adenophora remotiflora を指し、漢名は「薄叶荠苨」であり、中国にも分布し、本種は山菜として食用にもされるから、それに比定しても強ち誤りではあるまいとおも思う。

「蒼耳〔(をなもみ)〕」キク目キク科キク亜科オナモミ属オナモミ Xanthium strumarium。所謂、「ひっつき虫」の本体である。

「新〔しき〕角、初めて生ずる時、紫〔の〕茄(なすび)のごとし」言い得て妙。

「月令〔(がつりやう)〕」「礼記(らいき)」の「月令」篇。月毎の自然現象・古式行事・儀式及び種々の農事指針などを記したもの。

「麋〔(おほじか)〕」単に大きな鹿の意もあるが、ここでは「陰陽、相ひ反する」と言っている以上、特定の種を示さねばなるまい。幸いにして、シカ科シカ亜科シフゾウ属 Elaphurus davidianus を漢名で「麋鹿」(音なら「ビロク」)と呼ぶので、それに比定してよかろう。シフゾウは一属一種で、野生のそれは十九世紀末に絶滅してしまった。ウィキの「シフゾウ」によれば、この奇妙な名について、『シカのような角をもちながらシカでない。ウシのような蹄をもちながらウシでない。ウマのような顔をもちながらウマでない。ロバのような尾をもちながらロバでない。このように四つの動物に似た特徴をもちながら、そのいずれとも異なるために「四不像(中国音:スープシャン)」と呼ばれる』とある。体格もシカ類の中では大きい。

「蟲顙〔(ちゆうさう)〕」実はこれ「徒然草」の第百四十九段に出るのだ。

   *

 鹿の茸(つの)、鼻にあててかぐべからず。小さき蟲ありて、鼻より入りて、腦をはむと言へり。

   *

東洋文庫訳はこの病気を不詳とするが、気になるぞ! 脳を食うとな! 「顙」は「額」の意だ! 鹿の角は鹿の脳に近いぞ! 鹿……羊……牛……脳……おい! これって!?! 異常プリオン蛋白の増加による中枢神経の感染性疾患である伝達性海綿状脳症(Transmissible spongiform encephalopathyTSE:別名:伝播性海綿状脳症:プリオン(prion)病)じゃあねえか? 「虫」が食うように「脳」がスポンジ化するあれだよ! ヒトの「クロイツフェルト・ヤコブ病」、羊の「スクレイピー」、牛の「牛海綿状脳症」などがあるし、鹿にあってもおかしくない!!!

「本草必讀」東洋文庫訳の書名注に『『本草綱目類纂必読』か。十二巻』とのみある。清の何鎮撰になる「本草綱目」の注釈書らしい。一六七六年序。

「其の發生の性、草木の生へ易き者と雖も、未だ此れより速やかなる者、有らず。其れ、人に補益あるも又、豈に此の物に過ぐること有らんや」その角が生える様子は、草木の生え生長しやすい種であっても、この鹿の角の成長のように速いものは、ない。だからこそ、鹿の角が薬として、人のあらゆる部分に補益するところのその即効力も、これ以上のものはないのである。

「鹿角霜」鹿の角を粉末状に砕いた薬剤。

「楮--子(かうぞのみ)」バラ目クワ科コウゾ属コウゾ Broussonetia kazinoki × Broussonetia papyrifera の集合果。

「世醫」官医ではない、世間一般の医師の意。

「漏瘡」化膿した腫れ物のことか。

「西南夷」中国古代に現在の四川省南部から雲南・貴州両省を中心に居住していた非漢民族の総称であり、彼らの居住していた広域地名でもある。チベット(蔵)・タイ(傣)・ミヤオ(苗)などの諸民族に属する。滇(てん)・雟(すい)・哀郎・冉駹(ぜんもう)・邛(きょう)・筰(さく)など、数多く、それぞれが幾つもの部族に分かれ、習俗・言語も異にした。四川省から西南夷を介してビルマからインドへ、また、南越の番禺(現在の広州市)へ交通路が通じており、文物の交流に重要な役割を果たした(以上は平凡社「世界大百科事典」に拠った)。

「野馬(やまむま)」既出項

「麂(こびと)」既注であるが、再掲しておくと、中形の鹿で、ヨーロッパ・中国・中近東と分布域が広い(本邦には棲息しない)、鯨偶蹄目反芻亜目シカ科オジロジカ亜科ノロジカ属ノロ Capreolus capreolus(「ノル」「ノロジカ」とも呼ぶ)であろう。地域によりいくつかの亜種があるが、大きく次の三亜種に分けられる。ヨーロッパノロ Capreolus capreolus capreolus は、ヨーロッパから中近東にかけて分布し、肩高六十~六十八センチメートル。マンシュウノロ Capreolus capreolus bedfordi は、肩高六十五~七十八センチメートル、夏毛と冬毛の色彩的差異があまりない。中国・朝鮮半島などに分布する。オオノロCapreolus capreolus pygargusは、三亜種中、最大で、肩高七十~九十センチメートルあり、アルタイ・アムール地方に産する。毛色は夏毛は赤黄色、冬毛は灰褐色。晩春から初夏にかけて。、成獣の♂はテリトリーを作り、七月下旬から八月上旬の発情期に入ると、♂は♀を追い、二頭は「ノロの輪」と呼ばれる円を描くように走る。妊娠期間は九ヶ月半にもなる場合があり、受精卵の着床遅延が認められている。出産期は五~六月、一産に通常は二子、時に三子、稀に四子を産む。寿命は十五年ほど。ここまでは小学館「日本大百科全書」によった。大修館書店「廣漢和辭典」では「オオノロ」とするのであるが、現行の分布域と、良安が「こびと」とルビするところからは、上記のマンシュウノロの方が相応しい。

「麞(なれあい)」恐らくは一属一種のシカ科オジロジカ亜科ノロジカ族キバノロ属キバノロ Hydropotes inermis と思われる。朝鮮半島及び中国の揚子江流域で、アシの茂みや低木地帯に棲息する小形のシカ。体高四十五~五十五センチメートル、体重九~十一キログラム。シカの仲間であるが、角はなく、上顎の犬歯が牙状になっており、特に♂では刀状に曲がった犬歯が口外に突き出ている。尾は短く、毛色は黄褐色。蹄の幅は比較的広い。単独又はつがいで生活することが多い。シカ類の中では多産で、五~六月に一産で一~三子を産み、時には七子を産むこともある。子の毛色は暗褐色で、背に小さな白斑がある。発情期は晩秋から初冬で、この時期の雄は牙を振るって闘争をする。アシやその他の植物を食べ、寿命は飼育下で約十年(以上は小学館「日本大百科全書」に拠った)。グーグル画像検索「Hydropotes inermisをリンクさせておく。]

2019/04/01

人間の二様について

人間には二様がある。あることを言ってそれが相手にどんな変調を起こすかを理解する人間と、それを全く認知しない人間である。私は確かに前者だとは言わないが、後者の人間は、実は無数にいる。それをまた全く当人は理解していない。それを精神疾患或い境界例とするのは、精神医学の進歩なのかも知れないが、私は分らない。しかし、厭なことが理解され得ないということに於いて「私確かにテツテ的絶対的に厭なのだ」――

イスラエルに告ぐ

「アウシュヴィッツ以後、詩を書くことは野蛮である」などと詩人づらをしたテオドール・W・アドルノが、イスラエルがパレスチナの無辜の民や嬰児を殺戮してしている現実を見て、「イスラエルの殺戮以後、詩を書くことは野蛮である」と言わなかったら、先の命題は「偽」に他ならない!

漢字「令」或いは戴冠せる天皇をないがしろにするファッショ的日本政府について

まず、この漢字の部首を答えられる日本人は三分の一以下であろうと私は思う。
部首は「人」部である(知っていた方には礼拝しよう)。
解字は(かんむり)の「人」が「集める」の意ともされ、頭上に戴く「冠」の意ともされる、その下部の形は「人の跪く」形で、「人々が神意を拝聴する」さまを表わし、「言いつける」の意を表わす(大修館書店「廣漢和辭典」に拠る。以下も同じ)。
意味は「命ずる」・「君主の仰せ」・「法令・布告」・「教訓・訓戒」。「官吏の長官」・「善い」・「立派にする」・「他人の親族への敬称」・「避ける」・「上位の者が誰かを召す」・「全きこと」・「皇后・太子・諸侯等の命令文」・「小間使い」・使役の助而・仮定の助字・鳥の「鶺鴒」といった意味だ。
少なくとも私はこの「令」の字を書くのは非常に厭だ。
頗るバランスを取りにくいからである。
三画目を「ヽ」にし、四画目の最後を左上に撥ね、五画目も「ヽ」にする字体変性もあるのは、いいのかね? 役所であの男が掲げた字でないと受け付けないのではないのかね?(私の「藪」の字は戸籍謄本で(くさかんむり)の間が、ある時、官吏の誤りで繋げられてしまって、今では繋げなければ受け入れられないという事実を言っておく)。
しかも、「令月」(吉祥の月、或いは、陰暦二月の異名)なんて熟語は二月生まれの私は使ったこともないぜ? あの公表会見で菅とか安部は「令月」を判ったように何も説明しなかったのは、実は、意味さえ知らなかったからじゃないのか?!
 
何が平和だ! 何が幸福な時代だ! 糞野郎!!!
薄っぺらの平「和」を上から命「令」する時代が、また性懲りもなくやってきた――

柳田國男 山島民譚集 原文・訓読・附オリジナル注「馬蹄石」(2) 「葦毛ノ駒」(2)

 

《原文》

 葦毛ノ馬ヲ飼ハヌト云フ風習ハ古ク且ツ弘ク行ハル。武藏入間郡飯能(ハンノウ)町大字中山ノ天滿宮ハ、昔ノ領主中山氏一家ノ氏神ナリキ。【老翁】天文二十年川越城ノ夜軍ニ、中山勘解由家勝敗北シテ中山ニ還ラントスルニ、入間川洪水ノ爲ニ渡リ難ク殊ニ艱難ノ折柄、何處ヨリトモ無ク一人ノ老翁葦毛ノ駒ヲ牽キ來リ、勘解由ヲ扶ケ乘セテ中山ニ歸リ、我ハ吾妻天神ナリト名乘ツテ人馬共ニ社ノ側ニ於テ姿ヲ見失フ。ソレヨリ此社ヲ導(ミチビキ)ノ天神トモ稱シ、中山ガ子孫ハ勿論、一村ノ者マデモ今モ葦毛ノ馬ヲ飼フコト無シ〔同上所引緣起〕。同國比企郡宮前村大字伊古ニテハ、鎭守淡淵明神之ヲ忌ミタマフトアリテ、村ノ者決シテ葦毛馬ヲ用ヰズ〔山吹日記〕。甲州ニテハ東山梨松里村大字松里上井尻組ノ諏訪明神ハ例祭舊曆ノ七月十九日ナリ。【祭ノ愼】七月一日ノ日ヨリ始メテ此日マデ氏子ノ物忌最モ嚴重ナリ。其間ハ高聲普請及ビ繩目ヲ結ブコトヲ戒メ、又祭ノ日ニハ葦毛ノ馬ヲ牽出スコトヲ禁ズ。東八代郡富士見村小石和(コイサワ)組ノ諏訪明神モ葦毛ノ馬ヲ忌ミタマフ。里人之ヲ飼フコトアレバ神必ズ之ヲ隱ス。【苧】又苧ヲ栽ウルコトモ忌ムト云ヘリ〔以上山中笑翁書簡〕。【權五郞】磐城西白河郡三神村大字三城目ノ御靈社ハ、鎌倉權五郞ヲ祀ルト云フモ所傳ヲ失ス。【竹】此村ニテハ神ノ忌トテ葦毛馬ヲ飼ハズ又矢柄竹ト謂フ竹ヲ栽ヱズ。祟ヲ畏ルヽコト古來ノ習ニシテ人敢テ犯サザリシヲ、寬政中領主松平越中守吉田家ニ請ヒテ免許ヲ得、其旨ヲ社ニ告ゲテ人ノ惑ヒヲ解キ、爾後竹ヲ栽ヱ馬ヲ畜ヒテ民用ニ給スト云ヘリ〔白川古事考二〕。信州北佐久郡本牧村大字望月、即チ古來有名ナル望月牧ニモ、同ジク此毛ノ馬ヲ飼ハヌ慣習アリ。一說ニハ村ニ飼ハヌハ葦毛ニ非ズシテ鹿毛ナリト云フ。「カゲ」ナラバ望月ニ忌ムモ理窟アリ。但シ未ダ何レガ正シキヲ知ラズ。筑前嘉穗郡足白(アシロ)村大字馬見ハ、村ニ葦毛ノ馬ヲ飼フコトヲ戒ムルノミナラズ、他處ヨリ曳來リシ者ヲモ止宿セシメズ。此村ハ多分ハ倭名鈔ニ所謂嘉麻郡馬見鄕ナルべシ。村ノ境ニ馬見嶽ト云フ高山アリ。【馬ノ神】其頂上ニ祀ラレタル馬見權現ハ一ニ白馬大明神トモ名ヅケ奉リ、昔ハ嘉麻一郡ノ總社ナリキトナリ〔太宰管内志〕。讚岐綾歌郡松山村ノ各大字ニ於テハ、葦毛ヲ飼フトキハ或ハ斃レ或ハ奔リテ必ズ飼主ニ損ヲ被ラシム。往昔三木近安ト云フ鄕士アリ。朝命トハ言ヒナガラ讚岐院ニ對シテ矢ヲ射掛ケ奉ル。【柳】普通ノ歷史トハ合ハザレドモ、終ニ路傍ノ柳ノ空洞(ウツロ)ノ中ニ於テ院ヲ害シマツレリトモ傳ヘタリ。其折三木ハ葦毛ノ駒ニ乘リ居タリ。【楊枝】故ニ今モ此家ノ者ハ決シテ楊枝ヲ懷ニセズ、又此村ニ絕エテ柳ノ木ノ生立タザルモ、總テ同ジ因緣ニ基クト云ヘリ〔讚岐三代物語〕。德川將軍家ニテモ葦毛ノ馬ハ村正ノ刀ト共ニ代々大ナル禁物ナリシガ、其理由トスル所ハ寧ロ之ト異ナリ、幾分カ中山氏ノ家傳ト相類セリ。蓋シ上野新田ノ一宮ハモト新田義重ノ尊信セシ神ナリ。寬永中林道春ノ作リタル鐘ノ銘ニモ、此神葦毛ノ駒ニ乘リタマヘルガ故ニ、新田氏ノ子孫タル者ハ此毛色ノ馬ヲ避クルナリト謂ヘリ。【金創ノ藥】後世ノ學者之ヲ記載シ更ニ附加シテ曰ク、葦毛ノ馬ノ糞ハ金創ノ妙藥ナルコトハ、既ニ甲陽軍鑑ノ松代攻ノ條ニモ見エタリ。今御當家ニ於テ悉ク此毛ノ馬ヲ忌ミタマフトアリテハ、飼フ人無クシテ次第ニ其種ヲ絕ヤスニ至ルべシ。右ノ如ク軍用トモナルべキ馬ナリトスレバ、セメテハ之ヲ諸國ノ社ノ神馬トシテナリトモ奉納シ置キタキモノナリト說ケリ〔※麓堂隨筆[やぶちゃん注:「※」=「木」+「离」。]〕。然ルニ葦毛ノ駒ハ、此學者ノ說ヲ須タズシテ、古今共ニ多クノ社ノ神馬タリシナリ。以下順序ヲ逐ヒテ自分ガ述べント欲スル所ハ即チ其始終ナリ。

 

《訓読》

 葦毛の馬を飼はぬと云ふ風習は古く、且つ、弘く行はる。武藏入間郡飯能(はんのう)町大字中山の天滿宮は、昔の領主中山氏一家の氏神なりき。【老翁】天文二十年[やぶちゃん注:一五四三年。但し、後注するように天文十五年の縁起自体の誤り。]、川越城の夜軍(よいくさ)に、中山勘解由(かげゆ)家勝、敗北して、中山に還らんとするに、入間川、洪水の爲に渡り難く、殊に艱難(かんなん)の折柄(をりから)、何處(いづこ)よりとも無く、一人の老翁、葦毛の駒を牽き來たり、勘解由を扶(たす)け乘せて中山に歸り、「我は吾妻天神なり」と名乘つて、人馬共に社の側に於いて姿を見失ふ。それより此の社を「導(みちびき)の天神」とも稱し、中山が子孫は勿論、一村の者までも、今も葦毛の馬を飼ふこと無し〔同上所引緣起〕。同國比企郡宮前村大字伊古にては、鎭守淡淵(あはぶち)明神、之れを忌みたまふとありて、村の者、決して葦毛馬を用ゐず〔「山吹日記」〕。甲州にては東山梨松里村大字松里上井尻組(かみゐじりぐみ)の諏訪明神は、例祭、舊曆の七月十九日なり。【祭の愼(つつしみ)】七月一日の日より始めて此の日まで、氏子の物忌(ものいみ)、最も嚴重なり。其の間は高聲・普請(ふしん)及び繩目を結ぶことを戒め、又、祭の日には葦毛の馬を牽き出だすことを禁ず。東八代郡富士見村小石和組(こいさわぐみ)の諏訪明神も葦毛の馬を忌みたまふ。里人、之れを飼ふことあれば、神、必ず之れを隱す。【苧(からむし)】又、苧を栽うることも忌むと云へり[以上山中笑(ゑみ)翁書簡〕。【權五郞】磐城西白河郡三神村大字三城目の御靈社は、鎌倉權五郞を祀ると云ふも、所傳を失す。【竹】此の村にては、神の忌むとて葦毛馬を飼はず、又、矢柄竹と謂ふ竹を栽ゑず。祟りを畏るゝこと、古來の習ひにして、人、敢へて犯さざりしを、寬政中[やぶちゃん注:一七八九年~一八〇一年。]、領主松平越中守、吉田家に請ひて、免許を得、其の旨を社に告げて、人の惑ひを解き、爾後、竹を栽ゑ、馬を畜ひて、民用に給すと云へり〔「白川古事考」二〕。信州北佐久郡本牧村大字望月、即ち、古來有名なる望月牧(もちづきのまき)にも、同じく此の毛の馬を飼はぬ慣習あり。一說には、村に飼はぬは、葦毛に非ずして、鹿毛(かげ)なりと云ふ。「かげ」ならば、望月に忌むも理窟あり。但し、未だ何れが正しきを知らず。筑前嘉穗(かほ)郡足白(あしろ)村大字馬見(うまみ)は、村に葦毛の馬を飼ふことを戒むるのみならず、他處より曳き來りし者をも止宿せしめず。此の村は多分は「倭名鈔(わみやうせう)」に所謂、嘉麻(かま)郡馬見鄕なるべし。村の境に馬見嶽と云ふ高山あり。【馬の神】其の頂上に祀られたる馬見權現は一に白馬大明神とも名づけ奉り、昔は嘉麻一郡の總社なりきとなり〔「太宰管内志」〕。讚岐綾歌(あやうた)郡松山村の各大字に於いては、葦毛を飼ふときは、或いは斃(たふ)れ、或いは奔(はし)りて、必ず、飼主に損を被(かふむ)らしむ。往昔、三木近安と云ふ鄕士あり。朝命とは言ひながら讚岐院[やぶちゃん注:崇徳院。]に對して矢を射掛け奉る。【柳】普通の歷史とは合はざれども、終(つひ)に路傍の柳の空洞(うつろ)の中に於いて院を害しまつれりとも傳へたり。其の折り、三木は葦毛の駒に乘り居たり。【楊枝(やうじ)】故に今も此の家の者は決して楊枝を懷(ふところ)にせず、又、此の村に絕えて柳の木の生ひ立たざるも、總て同じ因緣に基づくと云へり〔「讚岐三代物語」〕。德川將軍家にても葦毛の馬は、村正の刀と共に、代々、大なる禁物なりしが、其の理由とする所は、寧ろ、之れと異なり、幾分か中山氏の家傳と相ひ類せり。蓋し、上野(かうづけ)新田(につた)の一宮(いちのみや)は、もと、新田義重の尊信せし神なり。寬永中[やぶちゃん注:一六二四年~一六四五年。]、林道春の作りたる鐘の銘にも、此の神、葦毛の駒に乘りたまへるが故に、新田氏の子孫たる者は、此の毛色の馬を避くるなりと謂へり。【金創(きんさう)の藥】後世の學者、之れを記載し、更に附加して曰く、『葦毛の馬の糞は金創の妙藥なることは、既に「甲陽軍鑑」の松代攻(まつしろぜめ)の條にも見えたり。今、御當家に於いて、悉く此の毛の馬を忌みたまふとありては、飼ふ人無くして、次第に其の種を絕やすに至るべし。右のごとく、軍用ともなるべき馬なりとすれば、せめては之れを諸國の社の神馬としてなりとも奉納し置きたきものなり』と說けり〔「※麓堂隨筆」[やぶちゃん注:「※」=「木」+「离」。]〕。然るに、葦毛の駒は、此の學者の說を須(ま)たずして、古今共に、多くの社の神馬たりしなり。以下、順序を逐(お)ひて自分が述べんと欲する所は、即ち、其の始終なり。

[やぶちゃん注:「武藏入間郡飯能(はんのう)町大字中山の天滿宮」現在の埼玉県飯能市中山字吾妻台にある加治(かじ)神社(グーグル・マップ・データ。以下同じ)。東京都・首都圏の寺社情報サイト「猫の足あと」の「加治神社」によれば、慶長元(一五九六)年武、蔵七党の一人であった『中山勘解由丹冶家範の老臣本橋貞潔が聖天社として勧請、明治初めに加治神社と改称し』たとあり、『聖天社境内には、天満宮があり、天神様、天満様とも称されてい』たとあり、「新編武蔵風土記稿」には、『天満宮、真福寺持。縁起に云、天文』二十『年、川越夜軍の時、中山勘解由家勝当所より出陣せしに、敗軍して其夜中山へ帰らんとせし時、入間川満水にて渉りかね、殊に艱難の折からいづくとも知らず独の老人、葦毛の馬を牽来て家勝を扶け乗せ中山に帰る。家勝その姓名を問ふに、我は吾妻天神なりと云て、人馬ともに社のほとりに所在を失ふ。是よりして導の天神とも称すと云、此故を以て今も中山が子孫と、当村の民家にては、葦毛の馬を飼養せずと云。川越夜軍は天文』十五『年なるを』二十『年と云は、縁起の年代をあやまれり』と引用し、さらに、「埼玉の神社」から以下も引く。

   《引用開始》

当社は明治四〇年、丹党中山氏縁の天神社に、他の同氏崇敬の社を合祀し、そのうちの村社の名を取り、加治神社と改称した。

当地は、武蔵丹党の祖、丹治武信が元慶年中武蔵国に下向し、館を構えた所で、丹治家季の次男助季は地名の中山を名乗り、丹党中山氏の祖となった。天文一五年河越夜戦に敗れた中山家勝は、帰途、入間川の増水に遭い渡りかねていたところ何処ともなく一人の老人が蘆毛の馬を曳いて現れ、家勝を対岸に渡し、中山に導いた。家勝が名を問うと、「我は鎮守十二社の吾妻天神なり」と答え姿を消した。これにより家勝は“導の天神”と崇め、館の北、勘解由山に祀られていた天神社を現社地裏に当たる御伊勢山へ遷座したという。また、中山ではこれより蘆毛の馬は神馬だとして飼わないという。

丹党と天神社との関係は、天慶五年に多治比文子に菅公の神託があったことが『北野天神縁起』に見え、多治比の血を引く中山氏とのかかわりが推測される。

   《引用終了》

「中山氏」ウィキの「中山氏」によれば、『高麗』(こま)『五郎経家が武蔵国高麗郡加治郷に定着したことから』、『当初は加治氏を名乗った。その』十三『代目の家勝が同郷の中山村に移住したため』、『以後は中山氏を称した。中山家勝』(生没年未詳)『は武蔵七党』の一つである『丹党の一族(加治氏)として武蔵を基盤に活動し』、初め、『山内上杉家に仕えた。ついで』、『後北条氏の北条氏康に仕えた。家勝の子中山家範(勝範)は北条氏照に仕え』、天正八(一五八〇)年に『豊臣秀吉の北条攻めを受け、八王子城を守って討ち死にした』とある。

「川越城の夜軍(よいくさ)」戦国時代に武蔵国の枢要な城であった河越城の争奪を巡って河越城周辺で争われた一連の戦いを「河越城の戦い」(北条早雲の嫡男で後北条氏の第二代当主北条氏綱が武蔵国征服のために武蔵国を支配していた上杉氏の居城河越城に侵攻、大永四(一五二四)年から複数回の争奪戦が展開された)と称するが、その中でも「日本三大奇襲(日本三大夜戦)」の一つとして有名な、天文十五年四月二十日(ユリウス暦一五四六年五月十九日)に行われた、関東の政局を決定した大きな戦いとなった五度目の戦闘である「河越夜戦(かわごえよいくさ)」を指す。参照したウィキの「河越城の戦い」によれば、『河越夜戦は、北条氏康軍と上杉憲政・上杉朝定・足利晴氏の』三『者連合軍が武蔵国の河越城(現在の埼玉県川越市)の付近で戦闘し、北条軍が勝利を収めた戦いである』。この時点で既に川越城は北条氏に奪われていたが、こ『の夜、氏康は自軍』八千『を四隊に分け、そのうち一隊を多目元忠に指揮させ、戦闘終了まで動かないように命じた。そして氏康自身は残り三隊を率いて敵陣へ向かう。子の刻、氏康は兵士たちに鎧兜を脱がせて身軽にさせ、山内・扇谷の両上杉勢の陣へ突入した。予期しない敵襲を受けた上杉勢は大混乱に陥り、扇谷上杉軍では当主の上杉朝定、難波田憲重が討死、山内上杉方では上杉憲政は』辛うじて『戦場を脱出し』、『上州平井に敗走したが、重鎮の本間江州、倉賀野行政が退却戦で討死した。氏康は』、『なおも上杉勢を追い散らし』、『敵陣深くに切り込むが、戦況を後方より見守っていた多目元忠は危険を察し、法螺貝を吹かせて氏康軍を引き上げさせた。城内で待機していた「地黄八幡」綱成はこの機を捉えて打って出ると、足利晴氏の陣に「勝った、勝った」と叫びながら突入した。既に浮き足立っていた足利勢も』、『綱成軍の猛攻の前に散々に討ち破られて』、『本拠地の古河へ遁走した。一連の戦闘による』上杉・足利の『連合軍の死傷者は』一万三千~一万六千名『と伝えられている』。但し、残念ながら、当時は上杉方であった中山家勝の名はウィキのそれには登場していない。

「中山に還らんとするに、入間川、洪水の爲に渡り難く」この地図を見て貰うと判るが、現在の川越の中心街にあった川越城は入間川の右岸、中山は左岸である。

「比企郡宮前村大字伊古」現在の埼玉県比企郡滑川町(なめがわまち)伊古(いこ)

「淡淵(あはぶち)明神」上記の伊古地区には現認出来ない。名称が変わったか、合祀されたか。識者の御教授を乞う。

「東山梨松里村大字松里上井尻組(かみゐじりぐみ)の諏訪明神」現在の山梨県甲州市塩山上井尻の諏訪神社。「組(くみ)」は旧来の村の中をさらに分けた最小単位を指し、それを地名の中に添えて呼んだ。

「繩目を結ぶことを戒め」意味不明。紐や縄を結ぶ行為は古代からの習俗では、その結び目にある種の念を込めることとなり、神を招く行為でもあったが、或いは、この諏訪明神以外の神霊を呼び寄せてしまうことになるのを忌んだものか? 識者の御教授を乞う。

「東八代郡富士見村小石和組(こいさわぐみ)の諏訪明神」現在の山梨県笛吹市石和町四日市場にある諏訪神社。次注の後のリンク先を参照。

「苧(からむし)」イラクサ目イラクサ科カラムシ属ナンバンカラムシ変種カラムシ Boehmeria nivea var. nipononiveaウィキの「カラムシ」によれば、本種の『茎の皮から採れる靭皮繊維は麻などと同じく非常に丈夫である。績(う)ん取り出した繊維を、紡いで糸とするほかに、糾綯(あざな)って紐や縄にし、また荒く組んで』、『網や漁網に用い、経(たていと)と緯(よこいと)を機(お)って布にすれば』、『衣類や紙としても幅広く利用できる。分布域では自生種のほかに』、六千年も前から『ヒトの手により栽培されてきた。日本において現在自生しているカラムシは、有史以前から繊維用に栽培されてきたものが野生化した史前帰化植物であった可能性が指摘されている。古代日本では朝廷や豪族が部民(専門の職業集団)として糸を作るための麻績部(おみべ)、布を織るための機織部(はとりべ、はとり、服部)を置いていたことが見え』、「日本書紀」の持統天皇七(六九三)年の『条によれば、天皇が詔を発して』、『役人が民に栽培を奨励すべき草木』を列挙しているが、その『一つとして「紵(カラムシ)」が挙げられている』。『中世の越後国は日本一のカラムシの産地だったため、戦国大名として有名な上杉謙信は衣類の原料として青苧』(あおそ)『座を通じて京都などに積極的に売り出し、莫大な利益を上げた。新潟県の魚沼地方で江戸時代から織られていた伝統的な織物、越後縮はこれで織られていた。また上杉氏の転封先であった出羽国米沢藩では藩の収入源のひとつであった』とある。これだけ価値のある植物を栽培しないというのは、よほど変わった禁忌起原伝承があるに違いないと、勇んで調べて見たが、判らぬ。サイト「YAMANASHI DESIGN ARCHIVE」のこちらに、その諏訪神社の画像とともに、「馬を忌む神」として、「東八代郡誌」の引用(但し、土橋里木「甲斐傳説集」(昭和二八(一九五三)年山梨民俗の会刊からの孫引きか)で、『村社諏訪神社は、むかし石和川の水難鎮護のために奉祀したもので、石和川神社とも、船形神社ともいうが、また』『馬蔵(マガクシ)社といい、この神は葦毛の馬を忌み、里人がこれを飼えば、神は必ず林中にその馬を隠してしまわれるので、この名がある。また苧を作ることをも忌むというが、理由はわからない』とあったから、これ以上は調べない。何か情報をお持ちの方は御教授願いたい。

「磐城西白河郡三神村大字三城目の御靈社」現在の福島県西白河郡矢吹町三城目にある御霊神社

「鎌倉權五郞」菅原道・平将門・崇徳院などと並ぶ御霊信仰の知られた対象である、平安後期の猛勇無双の武将鎌倉権五郞平(たいらの)景政(延久元(一〇六九)年~?)は。私の「『風俗畫報』臨時増刊「鎌倉江の島名所圖會」 御靈社」の注や、「甲子夜話卷之三 24 權五郎景正眼を射させたること、杉田玄伯が説幷景正が旧蹟」の本文及び私の注を参照されたい。

「矢柄竹」単子葉植物綱イネ目イネ科タケ亜科ヤダケ属ヤダケ Pseudosasa japonica の古名・別名。矢の矢柄の材料とする。これを栽培しないという方は権五郎景政の強烈な勇猛果敢なエピソードから納得。

「信州北佐久郡本牧村大字望月」現在の長野県佐久市北西端及び立科町(たてしなまち)大字茂田井(もたい)附近。この地図の中央一帯

「望月牧(もちづきのまき)」信濃国佐久郡の千曲川と鹿曲(かくま)川の間にある御牧原(みまきがはら)台地を中心に設置された御牧(勅旨牧)。前注の地区はその中心地で馬の名前(後述)由来。信濃十六牧の一つ。現在の長野県佐久市・東御(とうみ)市・小諸市に亙り、浅科村(現在の佐久市)には「御馬寄(みまよせ)」の地名が残る。「延喜式」によると、年貢馬は信濃諸牧で最も多い二十疋で、貢馬日が八月十五日(後に十六日)の望月の日であったことから信濃の馬は「望月の駒」と称されて歌にも詠まれ、十六牧を代表する当牧が望月牧と呼ばれるようになったという。他牧の貢馬が途絶えてからも、望月牧のみは南北朝頃まで続けていたが、正平二二/貞治六(一三六七)年の十疋貢進を最後に記録から消えた(以上は平凡社「百科事典マイペディア」に拠った)。

「葦毛に非ずして鹿毛(かげ)なり」既注であるが、再掲すると、「葦毛」は、馬を区別する最大の指標である毛色の名で、栗毛(地色が黒みを帯びた褐色で、鬣(たてがみ)と尾が赤褐色のもの)・青毛(濃い青みを帯びた黒色のもの)・鹿毛」(かげ:体は鹿に似た褐色で、鬣・尾・足の下部などが黒いもの)の毛色に、年齢につれて、白い毛が混じってきたものを指す。もっと簡単に言うと、「葦毛」は「灰色の馬」(但し、肌は黒っぽいが、生えている毛が白いことの方が多い)で、「鹿毛」は、普通、我々が「馬」と言われて想起する色、則ち、一般的に見られる茶褐色の馬のことを指すと言ってもよい。

『「かげ」ならば、望月に忌むも理窟あり』満月が翳(かげ)る(曇る)に掛けて忌み嫌うという意であろう。駄洒落っぽいが、禁忌や忌み言葉(数字の縁担ぎや結婚式の祝辞等)にはかなり頻繁に見られる。

「筑前嘉穗(かほ)郡足白(あしろ)村大字馬見(うまみ)」現在の福岡県嘉麻(かま)市馬見。柳田國男は「アシロ」と振るが、明治の村落名では「あしじろ」であり、現在の施設につくそれも「あしじろ」である。柳田のそれは間違いの可能性もある。

「倭名鈔」「和名類聚鈔(抄)(わみょうるいじゅしょう)」。平安中期、勤子内親王の求めに応じて源順(みなもとのしたごう)が編纂した辞書。承平年間(九三一年~九三八年)成立。「嘉麻(かま)郡馬見鄕」は同巻九の「國郡部第十二」の「筑前國第百二十五 嘉麻郡」に『馬見〔牟万美〕』と出る。

「村の境に馬見嶽と云ふ高山あり」現在、馬見山山頂は福岡県嘉麻市桑野であるが、現在の馬見にある馬見山キャンプ場近くから御神所岩(ごしんじょいわ)を経て馬見山山頂へ登るルートがあり、この御神所岩(馬見地区内)はグーグル画像検索で見ると、如何にも権現を祀っていそうな(実際に下部に祠あり)奇体な巨石である。その画像の中に『御神所岩直下に祀られた馬見神社上宮の石祠』(前のリンク画像はそれ。残念ながら、本体ページは消失している)というキャプションも発見した。個人ブログ「事代主のブログ」の「馬見神社」(地図有り)によれば、馬見にあるそれは、 掲示板の由緒書きによれば、『上宮の創立は不詳であるが』、三『千年前と言われ』(大きく出たね!)、『馬見山頂』(九百八十七メートル)『の頂上近く御神所(ごしんじょ)岩の巨岩あり、ここに鎮座。瓊瓊杵尊は天孫降臨の御神で、日本民族の祖。比類なき神徳をもって尊崇される』。『中古仏法隆盛の頃、約』千三百年『前、鎮西八郎為朝現在の神社(下宮)建立』(為朝は(保延五(一一三九)年生まれで数字がひどくおかしいが、写真を見ると確かにそう書いてある!)、『また神木寺も建つ』。『天正前後、武家政治となり、秋月藩主秋月種実公、毎年参拝せられ尊崇を集めた』。『黒田藩となり』、『嘉穂郡の総社として、代々尊崇あり』。「福岡県神社誌」に『よれば、神武天皇ご東征の時、ここに参拝せられ、その御神馬が足が白い馬で(足白)又、馬見の地名が起こったとも言われる』(『縄田小観 記』とある)。以下、ブログ主の記載。『「天降八所神社縁起」によると』、『馬見の物部の末裔の駒主の命が案内した馬見山の中腹に馬見神社があり』、『神武天皇は東征の時、ここに参拝されその後目尾山(現在の鳥尾峠)に向かったとあり』、『また』、『乗っていた馬が足の白い馬で「足白」又「馬見」の地名が起こったと言われ』、『他に、馬に逃げられてしまって見送ったので「馬見」となったという伝承もある』とされ、「筑前国続風土記附録」の「馬見大明神社」には、『産土神である。御祭神は天津彦ホホデミの尊・ニニギノ命であって、賀茂大明神・荒穂大明神をも相伝に祭っている』。『馬見山が東にそびえ、渓水が西に流れて、人里離れて潔浄の宮所である。馬見山の山上に社があって、白馬山大明神ともいう。どんな神を祀っているか分からないという』とあるとする。また、「筑前名所図会」の「馬見大明神」には、『古宮は馬見山上にあり』。『御神域という大岩の辺に石の祠あり』。『今の社は山下にあり』。『白馬大明神とも申して、瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)なり』。『この神、葦毛の馬を忌むという』。『この里に飼うを忌むのみならず、他のことろから来ても、村の方で留めて置くという』とある。

「讚岐綾歌(あやうた)郡松山村」現在の香川県坂出市高屋町か。ここには崇徳上皇が讃岐に配流され、「松山の津」に着いたとされており、ここがその比定地候補である。

「三木近安」玉山氏のブログ「紀行歴史遊学」の「崇徳天皇弑逆事件(崇徳院番外編)」で彼が崇徳院を殺害した場所が坂出市府中町柳田であるとする(地図有り)。それによれば、『延享二』(一七四五)年『に原本が成立した』「讃州府誌」では、『崇徳上皇の崩御について、次のように伝えている』。『院の御崩御に付ては記すだにも恐れ多き事どもなるが、本書原本の記す所に依れば長寛二年八月二十六日二条帝陰に讃の士人三木近安(保)なる者に命じ戕(しょう)ぜしむ。時に近安驄馬(そうば=青馬)に乗り紫手綱を取って鼓岡を襲ふ。院知り玉ひ急に之を避け路の大柳樹の穴に匿れ玉ふ。近安之を探し索め執て之を害し奉り遂に崩ず御年四十六。是に因って三木姓の者、驄馬紫衣の者、白峯に上るを得ずといふ』。以下、ブログ主の訳。長寛二(一一六四)年八月二十六日、『二条天皇はひそかに、讃岐の武士・三木近安という者に命じて、崇徳上皇の暗殺を図った。近安は青い馬に乗り、紫の手綱を取って、仮御所のある鼓岡を襲撃した。上皇は逃げて大きな柳の木の穴に隠れた。近安は上皇を探し出して殺害し、上皇は』四十六『歳の生涯を終えた。このことによって、三木姓の者、青い馬に乗る者や紫色を身に着ける者は白峰山に登ってはならないということだ』。『その殺害場所が「柳田」だという』。『しかもこの伝説は、三木姓の者を排除する差別性を有する。何がしかの根拠があるのではなく、まったくのフィクションだろう』。『二条天皇は、崇徳上皇の死後一年ほどで亡くなるので、その死は上皇の祟りと考えられた。なぜ祟られるのか。それは、上皇暗殺を命じた黒幕だからだ。そのように考えられ、フィクションの暗殺事件が創作されたのだろう。我が国では珍しい話である』とあり、柳田國男の大雑把な梗概の不足を補って余りあった。

「楊枝」(ようじ)はインド・中国に始り、本邦でも平安時代から柳(ヤナギ)の枝を細長く削り、先を尖らせたものを歯を清潔にするために用いた。昔の楊枝は小は三寸、大は一尺二寸(約 三十六センチメートル)と長いものであった。ここは類感呪術で、殺害した崇徳院が隠れ潜んでいた柳絡みによる禁忌である。

「德川將軍家にても葦毛の馬は、村正の刀と共に、代々、大なる禁物なりし」「村正」はウィキの「村正」によれば、『村正(むらまさ、初代の生年は文亀元年』(一五〇一年)『以前)、通称千子村正(せんご むらまさ)は、伊勢国桑名(現在の三重県桑名市)で活躍した刀工。千子派の祖。およびその名跡、その作になる日本刀の名。 同銘で六代以上あり』、『中でも右衛門尉村正(文亀・永正頃』(一五〇一年~一五二一年頃)『に活躍)と藤原朝臣村正(大永・天文頃』(一五二一年~一五五五年頃)『に活躍)が最大の名工だが、名跡そのものは少なくとも寛文』八(一六六八)年『まで存続した』。『史上最も有名な刀工名の一つ』で、『その作は武器としての日本刀の代名詞で、斬味凄絶無比と名高く』、『精強で知られる三河武士を中心に』『将軍徳川家康』『・関白豊臣秀次』『ら天下人を含む戦国時代の武将から至上の業物(実戦刀)として愛用された。さらに、刀剣美術としても、南北朝後の室町・戦国時代』(一三九四年~一五九六年)『を代表する巨匠で』、『覇気を放つ鋭い作風で知られ』たとある。以下、「妖刀村正伝説」の項。『村正は妖刀として広く知られて』おり、噂に『徳川家に仇をなす妖刀:徳川家康自身、祖父、父、息子が、村正によって被害を受けたので、徳川家に禁止された』というのがあるが、『現実には、家康自身が二振りの村正を子孫に残し、譜代の重臣も村正や村正から影響を受けた刀工の武器を使用するなど、村正は三河武士に愛好された武器だった』。『家康自身やその家族が血を流した、などという話も、比較的信頼のおける史料があるのは、祖父清康が村正で家臣に殺された一件だけで、他は著者不明の書や偽書、あるいは死後』百『年以上後に書かれた書籍に登場する。祖父の殺害に用いられたのが村正だったのも、当時家臣には千子派(村正一派)の武器が普及していたのだから、特に不思議な話ではない』。『まして家康が村正を禁じたなどというのは根拠の無い俗説である』。『しかし、正保年間』(一六四五年~一六四八年)『以降に書かれた偽書』「三河後風土記」で、『村正の作は徳川三代不吉の刀槍、直臣陪臣に至るまで皆所有を禁止』『とされてしまう。この説が』百『年かけて』一七〇〇『年代後半までにはかなり広まり、徳川家以外にも災いをもたらす刀だとか』、『実は四代不吉の刀であるとか』、『噂に尾ひれがついていく』。一八〇〇『年代になると、幕府の正史』「御実紀」の『附録に妖刀村正伝説が収録される』『など、権威も付けられていった』。『根拠が無いにも関わらず、一体なぜこれほどまでに妖刀伝説が広まったのかについては』、幾つかの『説がある』。まずは、●『村正の桑名と家康の三河は、地理的に近く、三河武士に普及していたため』とするもので、『桑名(三重県桑名市)から七里の渡しで尾張(愛知県西部)に渡って陸路ですぐが三河(愛知県東部)である。前述の通り、村正は三河武士によく使われていたから、説話そのものの真偽はともかくも、周辺の説話にしばしば登場するのは不思議ではない』。次に、●『悪い剣相とされたから。江戸時代には「剣相」といって刀の見た目から吉凶を占う迷信があり、村正は悪しき剣相を持つ刀として妄説の標的にされた』。●『権威のある書物に妖刀伝説が掲載されたから』。『江戸中期の南町奉行根岸鎮衛はその随筆で妖刀伝説の正しさの根拠に』「三河後風土記」などを『挙げている』(私の電子化注「耳囊 卷之二 村政の刀御當家にて禁じ給ふ事/利欲應報の事」を参照されたい)。『この書は本来は偽書であるのに、根岸の随筆の数年後には講談師が辻で軽々しく読むのを禁じられるほど、当時は権威がある書物とみなされていた』。●『村正の作の覇気のこもる外観も、妖刀伝説に説得力を与えた』。●『一般に人間は他人の良い噂よりも悪い噂を好む』。●『徳川幕府からの「黙認」があった』。『本来ならば、神である東照大権現家康とその親族が血を流した、などという話は幕府の検閲の対象となっても良さそうなものである』。『原史彦は、「実証的な見解にはほど遠い」「事実経過を踏まえた上での一つの仮説呈示」としつつ、家康の長子の信康切腹事件が家康主導だったという汚点を覆い隠すために、信康切腹が(家康のせいではなく)村正の祟りのせいだという妖刀伝説の噂が広まるのを、幕府は積極的に支援する訳ではないが、検閲はしないという形で、あえて黙認したのではないか、という新説を唱えている』。『妖刀伝説普及の過程で、家康と戦った真田信繁(俗に幸村)』、『幕府転覆を図った由比正雪』、『吉原で遊女を斬殺した(後に百人斬りと誇張された)佐野次郎左衛門』、『江戸城で殺傷事件を起こした松平外記』『など有名人も根拠なく』、『村正の所有者とされるようになる。こうした結果、妖刀伝説はただの噂から倒幕の象徴の一つと化し、西郷隆盛』や『三条実美』『などが実際に所持していた』という。『一方で、文化的な影響も大きく、幕末から明治初期にかけて歌舞伎』や『浮世絵』などでも、『妖刀村正を題材にした傑作』が『生まれるようになった』とある。また、日本刀売買の「刀剣鋼月堂」の公式サイト内の「千子村正(せんごむらまさ) 徳川家に祟る妖刀村正」によれば、『初めて村正が徳川家に祟る刀といわれた所以について、徳川将軍家の公式記録である「徳川実紀」によると、徳川家康の祖父松平清康が天文四年』(一五三五年)『に家臣に村正の刀で斬られた事に始まり、父広忠が乱心した家臣に村正の脇指で刺され、信長から内通の嫌疑をかけられ、切腹に追い込まれた家康の長男信康を介錯した刀も村正でした。また、家康自身も信長の甥長孝の戦功報告を受けた際に、村正の槍を検分中に手に怪我を負っています。以上が、村正が徳川家に祟る妖刀として一般に広く認知されたと推測される理由なのですが、祖父清康の例はともかく、父広忠の時までは偶然で済んだのでしょうが、家康、信康と四代もこの様な凶事が重なると、村正は徳川家に祟る刀ではないかという話が出てきても不思議はありません。但し、三河と伊勢は近いので、それだけ村正の刀がこの地方で流通していたとも考えられます。仮に、備前や美濃に代々住んでいる一族がいて、親子三代戦争で長船派の刀や関の刀に切られたとしても「長船派(或いは関)の刀は我が家を祟る刀じゃ」とは言わないと思いますので、やはり千子派の刀が現在の東海地方に多く流通していたことと家康が天下をとったことが結びついて「村正=徳川家に祟る刀=妖刀」というイメージが出来上がったのだと思います。実際、徳川家の一族である尾張徳川家は江戸期から現在に至るまで皆焼の村正を所有していますし、徳川四天王の一人本多忠勝の愛槍「蜻蛉切」も千子派の作です。本当に徳川家に祟る刀であれば両家とも改易されているでしょうから、江戸初期はともかく、江戸中期以降は徳川家自体もそこまで重く考えていなかったのではないかと思います』とある。

「其の理由とする所は、寧ろ、之れと異なり、幾分か中山氏の家傳と相ひ類せり」葦毛の馬を德川が忌む理由は調べて見たが、よく判らない。識者の御教授を乞うものである。

「上野(かうづけ)新田(につた)の一宮(いちのみや)」現在の群馬県富岡市一ノ宮にある一之宮貫前(いちのみやぬきさき)神社。 祭神は経津主神(ふつぬしのかみ)と姫大神(ひめおおかみ)。

「新田義重」(永久二(一一一四)年或いは保延元(一一三五)年~建仁二(一二〇二)年)は新田氏の祖(後に鎌倉幕府を倒した義貞は嫡流)。武家の棟梁として名を馳せた八幡太郎義家の孫で、新田氏本宗家(上野源氏)の初代であり、上野国新田荘を本拠としたため、新田義重と称した。

「林道春」江戸初期の朱子学派の儒学者で林家の祖である林羅山(天正一一(一五八三)年~明暦三(一六五七)年)。羅山は号で、本名は信勝。「道春」は出家後の号。

「葦毛の馬の糞は金創の妙藥なること」小学館のサイト「NEWSポストセブン」の「戦国時代の傷病治療 馬糞や尿を塗ったり飲んだりしていた」に、『戦国時代の傷病治療は薬草や漢方を用いた民間療法が主体で、当然ながら医学的根拠のないものだらけだった。たとえば』、『戦場で受けた刀傷には、馬糞や尿を塗ったり飲んだりした。これは排泄物に含まれる成分に止血効果があると信じられていたからである』とある。また、あるQ&Aサイトの回答には、『戦国時代、戦場には金創医という従軍医師が居て、彼らの治療法には「馬糞療法」という治療法があったとい』い、『出血、内出血の場合、馬糞を水で溶いて飲む又は馬糞を食う。特に腹部の内出血には有効とされ、鉄砲で撃ちぬかれて腹部に血が溜まって膨れた時』、『馬糞を水で溶いた「馬糞汁」を飲むと』、『腹に溜まった血が排出され』、『傷が治ると信じられていた』という。また、『エピソードとしては』、『武田の家臣、甘利昌忠』(あまりまさただ 天文二(一五三三)年~永禄七(一五六四)年)が『負傷した家臣』『米倉重継の子』『彦二郎の鉄砲傷を治すため』、葦『毛の馬の馬糞汁を飲ませようとし、彦二郎が嫌がると、自ら馬糞汁を飲んで見せ、彦二郎を説得したという逸話が有名』だとある。さらに、『多量の出血時は、馬の糞を水で溶いて飲ませるか』、『そのまま食べさせる。傷口の消毒には人の小便が使われ、場合によってはそれを飲ませ、刀傷の痛みが酷い場合には、小便を陣笠に溜めてから暖めて飲ませた。文献「戦国時代なるほど事典」(川口素生著 PHP文庫)』(こうした回答で引用が示されているのは頗るありがたい)。『ちなみに、韓国では早漏に対する民間療法として馬糞を食べるというものがある』らしいともあった。

「甲陽軍鑑」江戸初期に編纂された軍書。全二十巻。甲州流の軍法・兵法を伝える目的で、武田晴信(信玄)・勝頼二代に亙る事績・合戦・刑政・軍法を記し、さらに甲州武士の事績・心構え。理想を述べたもので、特に軍法の記述に中心がおかれているので「軍鑑」と言われる。本書は武士団内部に於ける種々の伝承を集大成したものの代表的なものであり、「武士道」という語を使用した最も古い文献でもある。著者については六つの説あり、そのうちで最も有力なものは、信玄の重臣海津城主高坂弾正虎綱(昌信)の遺記や関山派の僧の遺記を基礎資料として、春日惣次郎・小幡康盛・外記孫八郎・西条治部らが書き継ぎ、さらに江戸初期の軍学者で兵法家の小幡景憲が、自家門客の説及び自己の見聞を加えて集大成したというものである(以上は「ブリタニカ国際大百科事典」に拠る)。

「松代攻(まつしろぜめ)」長野県長野市松代町松代にあった松代城。この城は「海津城」或いは「貝津城」「茅津(かやつ)城」とも呼ばれた。参照したウィキの「松代城」によれば、上杉氏への最前線に位置し、永禄四(一五六一)年九月、『上杉氏が川中島へ侵攻すると、海津城の城代である武田家臣・春日虎綱(高坂昌信)は海津城において篭城し』、『信玄本隊の到着を待ち』、九月十日に『八幡原において両軍の決戦が行われたという』(第四次の「川中島の戦い」)とあるのが、それか。]

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