船は進む 伊良子清白
船は進む
山と積まれた蛸壺殼(つぼがら)で
松の幹はかくれてゐる
胸をはだけた此庭の眺望(みはらし)は
午前の太陽が香ばしい
沖のうねりの强い朝だ
近い颱風を豫感させる日だ
銀綠の島々は
もう睡たさうな徽暈を帶びてゐる
見よ、生活が
傳統から力づけられ
戀愛から彩られ
信仰から燃やされて
大洋のただ中に
何の不安もなく
人達は突き進む
[やぶちゃん注:ロケーションを知りたいが、「蛸壺殻」と「島々」と、伊良子清白の居住歴を見るに、三重県の鳥羽の景である可能性が高いように思われる。「鳥羽市観光課」の公式サイト内のこちらによれば、『かってはタコガメ漁だけで生活ができると言われるほど、タコ漁業が盛んであった。鮹漁は、年間を通じて行われるが、最盛期は麦が穂を見せはじめる頃から夏にかけての「ノボリダコ」と、秋から冬にかけての「オチダコ」と呼ばれる時期の』二『回である。タコガメは、常滑の素焼きのカメが使用されてきたが、近年ではプラスチックのものになってきている。島内で捕れたタコを、島の女性達が加工した「潮騒タコ」は隠れた島の特産品として人気が高い』とある。してみると、この口語詩は一つ、彼が当時の三重県志摩郡鳥羽町大字小浜に転居して村医(翌年には小浜小学校校医にもなっている)として診療所に住んだ大正一一(一九二二)年九月十二日から、本篇が所収される新潮社の「現代詩人全集 第四巻 伊良子清白集」の刊行された昭和四(一九二九)年十一月までの閉区間の約七年間の秋が有力な創作時期となるようには思われる。以下、本集の大パート「南風の海」の最終篇「老年」までの海をロケーションとする総てが(二篇そうでないものがあるが、それが中に挟まっているのはやはり同時期の作と採ってよいように思われる)、その時期のそのロケーションであると、私は確信している。それは、後に出る詩篇「凍死の漁夫」の後註に『大正十五年一月十五日未明、二人の漁夫年若うして伊勢灣外石鏡沖に凍死す、そを悼みてこの詩をつくる』と伊良子清白が記していることが、大きな証左となろう。「石鏡」はこれで「いじか」と読み、これは現在の三重県鳥羽市石鏡(いじか)町を指す(ここ。グーグル・マップ・データ)からである。因みに、この石鏡は私は行ったことがないのに、よく知っている場所なのだ。かの偏愛する昭和二九(一九五四)年の「ゴジラ」の「大戸島」のロケ地だからなのである。
「蛸壺殼(つぼがら)」「つぼがら」は「蛸壺殼」三字へのルビなので注意されたい。
「微暈」見慣れぬ熟語であるが、「びうん」と音読みしておく。微かに暈が(かさ)がかかったようにぼんやりして見えることではあろう。]