大嵙崁悲曲(大溪街懷古) 伊良子清白
大嵙崁悲曲
(大溪街懷古)
大嵙崁城(だいこかんじやう)の石疊(せきるゐ)から
臭木(くさぎ)が生え綠珊瑚が茂り
日本が攻めた時の激情が產んだ
赤い生々(なまなま)しい傳說は消えた
仙人掌(しやぼてん)の籬(まがき)
栴檀(せんだん)の花が紫に薰(く)ゆつて
滿地の草露
星を踏む夜の引き明け
蕃山の煙仄(ほの)白く
耿々と南下する大溪
阿旦葉(あたんば)のおほひかぶさつた片蔭から
金の耳環の少女は
靑鷺のやうに
蹌踉と浮び出で
畫眉(ぐわび)ふすふすと
火を點ずる時
廢墟の一角
刑死人らしい志士の幽靈は
日の出前につつましく
朝の齋飯(とき)をうけるのです
[やぶちゃん注:素材とした体験地や、その推定時制は前の「聖廟春歌」の私の注を参照されたい。
「大嵙崁城(だいこかんじやう)」現在の桃園市大溪區中央路に「大溪古城遺跡」(グーグル・マップ・データ。以下同じ)があるが、この附近か。同データの画像を見ると、石組の建物が並ぶのが判り、その西直近を大漢溪という川が流れ(後に出る「大溪」である)、その対岸には「大溪大嵙崁人工湿地」という名の地域が確認出来る。
「臭木(くさぎ)」シソ目シソ科クサギ属クサギ Clerodendrum trichotomum。日当たりのよい原野などによく見られ、和名は葉に悪臭があることに由来する。中国・朝鮮及び日本全国に分布する。現代中国語の漢名は「海州常山」「臭梧桐」。
「綠珊瑚」キントラノオ目トウダイグサ科トウダイグサ属ミドリサンゴ Euphorbia tirucalli。ウィキの「ミドリサンゴ」によれば、『観賞用に栽培される。アフリカ東部周辺の乾燥地の原産と考えられるが、世界の熱帯に広く帰化している。ただし文献によってはインド原産でそこからアフリカ全土に定着したのではないかとするものもあり』、『原産地に関してははっきりとしていない』。なお、『この植物に含まれる乳液は、少なくとも人間にとっては有害なもので』、『全株、特に乳液に発がん作用のあるジテルペンエステルのホルボールエステル類などが含まれ』、『毒性が強いので注意を要する。目に入ると炎症を起こして』『激しい痛みを、皮膚につくと皮膚炎を、誤食すると吐き気、嘔吐、下痢を引き起こす場合があり』、『危険である。皮膚に乳液が付着した場合には、石鹸と水で念入りに洗浄すべきであ』り、『目に入った場合の対処方法としては、人の乳を用いるのが有効であるともいわれる』とある。ウィキには移入先に台湾が含まれていないが、同種或いは同属種と思われるものが、石垣島に移入されて植生していることがネット記載から判るので、台湾に植生していてもおかしくはないと思われる。
「日本が攻めた時」「日清戦争」の結果、「下関条約」によって台湾が清朝から日本に割譲されたのは明治二八(一八九五)年四月十七日であるが、これは台湾の人々にとっては侵略であり、占領に他ならなかった。その初期に於いて、ウィキの「日本統治時代の台湾」によれば、『台湾総督府は軍事行動を前面に出した強硬な統治政策を打ち出し、台湾居民の抵抗運動を招いた。それらは武力行使による犠牲者を生み出した』とある。
「仙人掌(しやぼてん)」ナデシコ目サボテン科 Cactaceae のサボテン類。
「栴檀(せんだん)」本邦にも植生するムクロジ目センダン科センダン属センダン Melia azedarach と採ってよかろう。
「蕃山」(ばんざん)台北に同名の山があるが、ロケーションから違う。とすれば、「蕃」は一般名詞で、その場合、「草木が生い茂る」の意で採れる。別に「蛮」に通じ、未開の異民族や、それらの人々の住む未開の地の意があるが、伊良子清白の名誉のために私は前の意で採っておくことにする。
「阿旦葉(あたんば)」単子葉植物綱タコノキ目タコノキ科タコノキ属アダン Pandanus odoratissimus の葉。
「蹌踉」「さうらう(そうろう)」と読み、「足元がしっかりせず、よろめくさま」を言う。ここは単にイメージとしてのそれであるが、纏足の少女を想起させる。ウィキの「纏足」によれば、『中国大陸からの移住者が多く住んでいた台湾でも纏足は行われていたが、日本統治時代初期に台湾総督府が辮髪・アヘンとならぶ台湾の悪習であると位置づけ、追放運動を行ったため』、『廃れた』とあるから、既に若い少女のそれはなかったかも知れぬものの(伊良子清白が台湾に渡ったのは明治四三(一九一〇)年五月)、この後半部は一種の幻想世界への誘(いざな)いであるから、私は纏足の幼さの残る少女の娼婦、私の偏愛する芥川龍之介の「南京の基督」(大正九(一九二〇)年七月発表。リンク先は私の古い電子テクスト)の少女「宋金花」をイメージしてしまうのである。
「畫眉(ぐわび)」眉墨で眉を描くこと。また、その眉。転じて美人をも指す。そこに「ふすふすと」「火」が点ぜられるというシークエンスは強烈に妖なるもの凄さを持っている。
「廢墟の一角」「刑死人らしい志士の幽靈」無論、日本兵によって殺戮された若き台湾の青年志士である。ここも私は直ちに、芥川龍之介の名篇「湖南の扇」(リンク先は私の電子テクスト)を思い出さずにはいられない。
「齋飯(とき)」仏教では僧の戒律として、本来は正午を過ぎての食事を禁じており、食事は日に午前中に一度のみ許される(しかし、それでは実際には身が持たないので、時間内の正式な午前の食事を「斎食(さいじき)」「斎(とき)」と呼び、時間外の補食を「非時食(ひじじき)」「非時(ひじ)」と呼んだ。それらの語が時刻に関わるものであったところから、後に仏教では食事を「とき」と呼ぶようになった。さすれば、「とき」には「僧侶や修行者が戒に従って、正午前にとる正式な食事」又は「精進料理」、広く「法会の際に供される施食(せじき)」、果ては「法会や仏事の俗な呼称」になったが、ここはその本来の午前中の一度きりの「とき」の「斎料(ときりょう)」として殺された若き志士への少女の供物の意味で用いている。]