野衾 清白(伊良子清白)
野 衾
魔性の獸野衾(のぶすま)に
命取らるる人々を
希有(けう)がる少女(をとめ)野にいでて
癒えざる創(きず)を身に負ひぬ
丈(たけ)なす袖を飜へし
たちまち胸にとび入りて
あまき血潮に飽くときく
譫言(うはさ)は盡くる日もあらず
われは少女を戒めて
夕べの道に出でしめず
百日(ももか)經(た)つ頃かのものは
庭の茂みに見出されぬ
餓ゑたるらしく仰向けに
瘦せたる妖(えう)は死にてあり
人は來りて口々に
不思議を語りかへりけり
恰もその日妹は
われに來りて私語(ささや)きつ
母の形見の小懷劍(こわきざし)
ほろ刅(は)はいたく缺けてあり
妻を妹と呼ぶことの
ここに可笑しき制度(さだめ)かな
流石に彼は女性(をんなご)の
祟(たたり)をいたく恐るめり
かつて梅散る春の夜に
手をとり交はし立ちし時
林の奧に怪(け)の物を
見しは二人の祕密(ひそ)にして
[やぶちゃん注:初出は明治三五(一九〇二)年十二月発行の『文庫』であるが、そこでは総標題「霜柱」として本「野衾」・「淨瑠璃姬」(後に掲げる)・「秋和の里」を三篇を収める。署名は「清白」。初出とは特に有意な相違を私は認めない。
「野衾」「飛倉(とびくら)」とも呼ぶ、江戸に伝わる妖怪の一種。ウィキの「野衾」を引いておく。『ムササビのような姿をしていると言われ』、実際のムササビ(齧歯(ネズミ)目リス亜目リス科リス亜科モモンガ族ムササビ属ホオジロムササビ Petaurista leucogenys:日本固有種)やモモンガ(モモンガ族モモンガ属ニホンモモンガ Pteromys momonga:日本固有種)の『異称として』も『野衾の名が用いられることもある』。妖怪としてのその伝承は、『木の実を食べるほか、火を食べる、人や動物の生き血を吸うともいう。江戸時代の奇談集』「梅翁随筆」(作者不詳。寛政年間(一七八九年~一八〇一年)の巷談見聞を纏めたもの)には、『江戸でネコを襲ったり』、『血を吸ったりする獣がおり、その獣を殺したところ、イタチのような姿で』、『左右に羽のようで羽でないものを備えており、ある人が「深山に住む野ぶすまとはこれだ」と教えたとある』。『空を飛んで来て、人の目や口を覆うともいい』、『江戸時代の古書』「狂歌百物語」(嘉永六(一八五三)年に刊行された百物語怪談会を模した狂歌絵本)には『「飛倉」の名で、人の顔を覆う姿が描かれている』(引用元に画像有り)。享保年間(一七一六年~一七三六年)の随筆「本朝世事談綺」には、『野衾が夜に人の持つ松明を剪(き)って消し、その火を吹くので妖怪として恐れられたとの記述がある』。『江戸時代の奇談集』「絵本百物語」(天保一二(一八四一)年刊の奇談集)によれば、『長い年月を経たコウモリが妖怪化したものとされ』、先の「狂歌百物語」の『「飛倉」はコウモリのような姿で描かれている』。『歌川国芳による浮世絵』「美家本武藏丹波の國の山中にて年ふる野衾を斬圖」『として、剣豪・宮本武蔵がコウモリ状の野衾を山中で退治する姿が描かれているが、史実ではなく、武蔵の諸国武者修行の話を脚色したものとされる』(引用元に画像有り)。『ムササビは日中は木の洞などにこもり、夜に空中を滑空するという生態が怪しまれたことから、実在のムササビそのものが野衾として妖怪視されていたという説もある』。『また、ムササビやモモンガは暗視能力に長けるため、夜間での滑空中』、『松明や提灯の火に目が眩んで着地を誤り、その際に人間の頭にへばりつく様子を人間側が妖怪に襲われたと誤認し、怪異の事例として語ったともいう』。『鳥山石燕の妖怪画集』「今昔画図続百鬼」(安永八(一七七九)年刊)の『「野衾」の解説文にも「野衾は鼯(むささび)の事なり」と記述がある』。「和漢三才図会」の『「鼠類」の巻に鼯鼠という項目が有り』「むささひ」「のふすま」と『読み仮名が振られている。「鼯鼠は毛色と形はほぼ鼠に似て肉の翼有り。原禽類の伏翼(コウモリの事)に詳しい」と記されている』(「和漢三才図会」の「鼠類」は近日、電子化注に入る。後者は「和漢三才圖會第四十二 原禽類 伏翼(かうもり)(コウモリ)」で電子化注済み)。『「原禽類」の巻には』「䴎鼠」という『項目が有り』、「むささひ」「もみ」「のふすま」「ももか」『と読み仮名が振られている。記されている生態は』「爾雅注疏卷十」の『「鼯鼠」と同じ。呼び名については「俗に野衾と言う。関東では毛毛加と言う。西の国にては板折敷と言う」と記されている』(正確には私の「和漢三才圖會第四十二 原禽類 䴎鼠(むささび・ももか)(ムササビ・モモンガ)」を、是非、見られたい)。石燕の「今昔画図続百鬼」にある『妖怪「百々爺」』(ももんじい)『は、この野衾が老いたものだという説もあ』り、また、「絵本百物語」では、『野衾がさらに年を経ると、山地乳』(やまちち)『という妖怪になるとされる』。「絵本百物語」には、『野衾は同書に登場する妖怪「野鉄砲」と同一のもので、猯(まみ)という獣が老いて妖怪化したものともされている』。『妖怪研究家多田克己によれば、猯とは本来はタヌキの異称だが、当時は』「和漢三才図会」等においても、『「狸」と「猯」が別々の獣と扱われており』(直近で電子化する)、『ムササビもまた』、『猯と呼ばれたことがあることから、これらが混同された結果として生まれた伝承とされる』。『高知県幡多郡にも、発音は同じだが』、『漢字表記の異なる「野襖」という妖怪の伝承があるが、これは福岡県の妖怪として知られる塗壁のように、路上に現れて通行人の行く手を阻むものであり、文献によっては「野衾」と「野襖」が混同されている事例も見られる』とある。]