卯の花降し 清白(伊良子清白)
卯の花降し
卯の花降ししとしとと
しめりがちなる燈火に
西の國なるうた人の
すぐれし歌を誦し行けば
傷ましかりし我が戀の
悲しき節を歌ふとて
皆うるはしき手弱女の
淚の袖によそへたり
春の牧場に笛吹きて
獵の童を戀ふるあり
秋の落葉を片敷きて
仇の世嗣をしたふあり
龍の宮居をぬけいでゝ
うみにうかべる少女あり
雪の山路を下りきて
冷き石を抱くあり
ことこそかはれさまざまに
うきを籠めたる物語
物の思に堪へかねて
書を擲ち外を見れば
顏靑白きうた人は
闇の中よりあらはれて
「わが戀人やなやむらん
なげく勿れ」と告げにけり
[やぶちゃん注:初出は明治三八(一九〇五)年九月発行の『文庫』。初出では総標題「短夜」のもとに、本「卯の花降し」と前に電子化した「散步」の二篇を掲げる。署名は「清白」。本篇をここで電子化したのは、底本と差別化するためでもある。底本では本篇は「未収録詩篇」(これは詩集「孔雀船」(明治三九(一九〇六)年五月刊)及び昭和四(一九二九)年新潮社刊「現代詩人全集 第四巻 伊良子清白集」の二種の著作に「未収録」の「詩篇」の謂いである)パートに離れて載り、初出で並べられたという事実を意識しない限り、共時的に読むことがは出来ないからである。是非とも、本篇を読み、後、戻って、「散步」の初出を読まれたい。そうした時、初めて時の推移、「短夜」の夏へと向かう一種の爽快感が漂ってくるように思われるのである。たまにはこういう変則の電子化をやらかしたく思うのである。それぐらいの手間で、初出を味わって戴くのも、これまた、一興と存ずる。
「卯の花降し」は「うのはなくだし」と読む。陰暦四月頃に降る、ちょうど咲いているせっかくの卯の花を散らせてしまうほどに続く長雨を指す。「卯の花腐(くた)し」とも呼び、春雨と梅雨の間の、本格的な梅雨の前触れ、「走り梅雨」のことを指す。私は「うのはなくたし」の「腐し」の漢字表記が嫌いなので、これは視覚的には好ましい。]