柳田國男 山島民譚集 原文・訓読・附オリジナル注「馬蹄石」(8) 「馬ニ騎リテ天降ル神」(3)
《原文》
蓋シ都鄙多クノ神體ノ製作ハ比較的後代ノモノナリトスルモ、其形狀特性ノ如キハ漫然タル空想ニ由リテ新タニ之ヲ附加セシモノニハ非ズシテ、ヤハリ神ノ示現ニ關スル當初ノ歷史ヲ表ハサント力メシモノナラン。【神ノ降臨】其證據ニハ神ガ馬ニ騎リテ降臨シタマヒシコトヲ傳說スル場合ニハ、其馬ノ毛モ亦多クハ白ナリ。【神ノ林】前ニ述べタル一二ノ例ノ外ニ、美作苫田郡一宮村大字西田邊ノ駒林ハ、慶雲三年ニ中山神ガ白馬ニ乘リテ來現セラレタル故跡ナリ。二町ヲ隔テヽ上林ト下林トアリ。其年ノ九月二十三日ニ神ハ此林ヨリ五町北ノ霧山ト云フ處ニ入リタマフ云々。林ヲ駒林ト云フコト、竝ビニ例年九月ノ神事ニ白馬ヲ用ヰルハ其爲ナリ〔作陽志〕。新羅ノ大昔ニ蘇伐公ガ白馬ノ林間ニ跪拜スルヲ見テ、卵ニ籠レル赫居世ヲ拾上ゲシト云フ話モ何ト無ク思ヒ合サル。日本ニテモ淸キ林ニハ此類ノ神話多シ。【境塚】伊勢ノ飯南郡川俣谷、即チ今日ノ宮前村大字作瀧(サクダキ)ニテハ、村ノ境ニ祓塚(ハラヒヅカ)アリテ其北ヲ賀瀨川流ル。其川ノ中流ニ立ツ大石ノ上ニ、昔天照大御神白馬ニ騎リテ降リタマヒ、國ノ堺ヲ定メタマヘリト云フ口碑アリ〔勢陽俚諺十〕。此石ハモトハ多分白クシテ馬ノ形ニ似タリシガ故ニ斯ル傳說ヲ生ゼシナルべシ。【石馬】阿波名西郡神領村字白桃名(シロモヽミヤウ)ノ一部ヲバ御馬原ト謂ヒ、丹生(ニフ)明神ノ乘捨テラレシト云フ石馬アリ。鞍鐙皆具シテ膝折伏セテ見返リタル形、ヨク見レバ鬣ノ筋マデアリアリトシテ、些シ遠クヨリ望メバ誠ニ生ノ馬ノ通リナリ。此地ハ元ヨリ村ノ山野ナルガ、村人此石ヲ尊崇シテ木草ヲ採ラヌ爲ニ、自然ニ林ヲ爲シテ終ニ石馬ヲ遠望スル能ハズ。【老翁】傳ヘ謂フ昔一人ノ老翁白馬ニ乘リテ此原ノ柴刈男ニ現ハレ、我ハ大和ノ丹生明神ナリ、由アリテ跡ヲ此地ニ垂レ五穀ヲ守ルべシト仰セラレ、乃チ天ニ歸リタマフ。神馬ハ之ニ伴フコト能ハズ、御跡ヲ顧ミツヽ石ト化シタルガ即チ是ナリ〔燈下錄〕。【熊野權現】岩代河沼郡堂島村大字熊野堂(クマンダウ)ノ熊野三社ハ、數多キ奧羽ノ熊野ノ中ニテモ殊ニ有難キ神ナリ。八幡太郞義家戰捷ヲ祈ル爲ニ建立セシ社ナリト傳フ。【駒形】其折ニ愛馬ノ連錢葦毛ヲ奉納シテ神馬トシ之ヲ駒形原ニ放牧ス。此葦毛ハ後ニ天ニ昇リ雲中ニ嘶クコト七日、仍テ之ヲ馬頭觀音ト祀リ、更ニ此原ニモ右ノ三社ヲ勸請ス。【三寶荒神】今ノ耶麻郡鹽川村ノ三寶荒神社ハ即チ是ナリト云フ〔新編會津風土記所引緣起〕。三寶荒神ハ竃ノ神ナリ。馬ト竈トノ關係アルコトハ前ニモ一タビ之ヲ述ブ。後段ニモ猶詳カニ攻究セント欲スル所ナリ。
《訓読》
蓋し、都鄙、多くの神體の製作は、比較的、後代のものなりとするも、其の形狀・特性のごときは、漫然たる空想に由りて新たに之れを附加せしものには非ずして、やはり、神の示現(じげん)に關する當初の歷史を表はさんと力(つと)めしものならん。【神の降臨】其の證據には、神が馬に騎りて降臨したまひしことを傳說する場合には、其の馬の毛も亦、多くは白なり。【神の林】前に述べたる一二の例の外に、美作(みまさか)苫田(とまた)郡一宮(いちのみや)村大字西田邊(にしたなべ)の駒林は、慶雲三年[やぶちゃん注:七〇六年。]に中山神が白馬に乘りて來現(らいげん)せられたる故跡なり。二町を隔てゝ上林と下林とあり。其の年の九月二十三日に、神は此の林より五町北の霧山と云ふ處に入りたまふ云々。林を駒林と云ふこと、竝びに例年九月の神事に白馬を用ゐるは其の爲なり〔「作陽志」〕。新羅の大昔に、蘇伐公(そばつこう)が白馬の林間に跪拜(きはい)するを見て、卵に籠(こも)れる赫居世(かくきよせい)を拾ひ上げしと云ふ話も、何と無く思ひ合さる。日本にても、淸き林には此の類ひの神話、多し。【境塚(さかひづか)】伊勢の飯南(いひなん)郡川俣谷、即ち、今日の宮前村大字作瀧(さくだき)にては、村の境に祓塚(はらひづか)ありて、其の北を、賀瀨川、流る。其の川の中流に立つ大石の上に、昔、天照大御神(あまてらすおほみかみ)、白馬に騎りて降りたまひ、國の堺を定めたまへりと云ふ口碑あり〔「勢陽俚諺」十〕。此の石は、もとは、多分、白くして、馬の形に似たりしが故に斯(かか)る傳說を生ぜしなるべし。【石馬】阿波名西(みやうさい)郡神領村(じんりやうそん)字白桃名(しろもゝみやう)の一部をば「御馬原」と謂ひ、丹生(にふ)明神の乘り捨てられしと云ふ石馬あり。鞍・鐙(あぶみ)、皆、具して、膝、折り伏せて見返りたる形、よく見れば鬣(たてがみ)の筋までありありとして、些(すこ)し遠くより望めば、誠に生(なま)の馬の通りなり。此の地は、元より村の山野なるが、村人、此の石を尊崇して、木草(きくさ)を採らぬ爲めに、自然に林を爲して、終に石馬を遠望する能はず。【老翁】傳へ謂ふ、昔、一人の老翁、白馬に乘りて此の原の柴刈男(しばかりをとこ)に現はれ、「我は大和の丹生明神なり、由ありて、跡を此の地に垂れ、五穀を守るべし」と仰せられ、乃(すなは)ち、天に歸りたまふ。神馬は之れに伴ふこと能はず、御跡(みあと)を顧みつゝ、石と化したるが、即ち、是れなり〔「燈下錄」〕。【熊野權現】岩代河沼(かはぬま)郡堂島村大字熊野堂(くまんだう)の熊野三社は、數多き奧羽の熊野の中にても、殊に有り難き神なり。八幡太郞義家、戰捷(せんせふ)[やぶちゃん注:戦勝に同じい。]を祈る爲めに建立せし社なりと傳ふ。【駒形】其の折りに、愛馬の連錢葦毛(れんせ(ぜ)んあしげ)[やぶちゃん注:葦毛に銭を並べたような灰白色のまだら模様のあるもの。グーグル画像検索「連銭葦毛」をリンクさせておく。]を奉納して神馬とし、之れを「駒形原」に放牧す。此の葦毛は後に天に昇り、雲中に嘶(いなな)くこと七日、仍(より)て之れを馬頭觀音と祀り、更に、此の原にも右の三社を勸請す。【三寶荒神】今の耶麻(やま)郡鹽川村の三寶荒神社は、即ち、是れなりと云ふ〔「新編會津風土記」所引「緣起」〕。三寶荒神は竃(かまど)の神なり。馬と竈との關係あることは前にも一たび之れを述ぶ。後段にも猶ほ、詳らかに攻究せんと欲する所なり。
[やぶちゃん注:「美作(みまさか)苫田(とまた)郡一宮(いちのみや)村大字西田邊(にしたなべ)の駒林」岡山県津山市西田辺(グーグル・マップ・データ。以下同じ)。「駒林」は現認出来ない。
「中山神」現在は「なかやま」と呼ばれるが、昔は「ちうさん」であったらしい。前の西田辺の南西近くの、現在の岡山県津山市東一宮に美作國一之宮中山神社があるが、これはサイト「玄松子の記憶」の同神社の記載によれば、『備前と備中の堺の山』である『吉備の中山から勧請したもので、美作国が備前国から分立した和銅六(七一三)年四月三日に創立されたらしい。但し、社伝では慶雲四(七〇七)年『四月三日の創祀とされている』。『吉備の中山には、備中一宮の吉備津神社と備前一宮の吉備津彦神社がある』とされ、さらに、『チウサンの音読みに関して、中国『山海経』に登場する鉄の国・中山経の影響とする説がある』。『祭神は、現在、鏡作神とされているが、金山彦命とする説もあり、産鉄の神である』とする。加えて興味深いことに、「今昔物語」や「宇治拾遺物語」に『「中山の猿神」として登場する猿神社は、境内の後方』五十メートル『の岩の上にあり、崇敬者の奉納した赤い猿の縫ぐるみが多く祀られている』。『昔、中山の猿神に、娘の生贄を捧げていたが、ある猟師が、犬をけしかけ、この猿を殺してしまった。その時、猿神が宮司に神がかり、
「今後、生贄を止める」と誓ったという』とあるのである。猿である。柳田國男の本書での考証と関係があるかどうかは分らぬが、「馬」と「猿」の親和性の強さが窺える話ではないか。
「上林」位置や読み不詳。「下林」との関係で、「うへばやし」と「しもばやし」と仮に読んでおく。
「霧山」現在の岡山県津山市西田辺霧山であろう。列石・巨石の古代遺跡があることがサイト「遺跡ウォーカー」の「霧山遺跡」(地図有り)で判明。
「蘇伐公(そばつこう)」次注参照。
「卵に籠(こも)れる赫居世(かくきよせい)」赫居世居西干(きょせいかん 紀元前六九年?~紀元後四年)は斯蘆(しろ)国(新羅の初名)の初代の王(在位:紀元前五七年?~四年)。姓を朴、名を赫居世とする。ウィキの「赫居世居西干」によると、「三国史記」の「新羅本紀」に『よれば、辰韓の今の慶州一帯には古朝鮮』『の遺民が山合に住んでおり、楊山村(後の梁部もしくは及梁部)・高墟村(後の沙梁部)・珍支村(後の本彼部)・大樹村(後の漸梁部もしくは牟梁部)・加利村(後の漢祇部)・高耶村(後の習比部)という』六『つの村を作っていた。この六つの村を新羅六部(または辰韓六部』『)と呼ぶ』。『楊山の麓の蘿井(慶州市塔里に比定される)の林で、馬が跪いて嘶いていることに気がついた高墟村の長の蘇伐都利(ソボルトリ)』(これが「蘇伐公(そばつこう)」である)『がその場所に行くと、馬が消えてあとには大きい卵があった。その卵を割ると』、『中から男の子が出てきた』『ので、村長たちはこれを育てた』、十『歳を過ぎるころには人となりが優れていたので、出生が神がかりでもあったために』六『村の長は彼を推戴して王とした。このとき赫居世は』十三『歳であり、前漢の五鳳元年(前』五七『年)のことという。即位するとともに居西干と名乗り、国号を徐那伐(ソナボル)といった。王となって』五『年、閼英井の傍に現れた龍(娑蘇夫人)の左脇(』「三国史記」では右脇とする『)から幼女が生まれた。娑蘇夫人がこれを神異に感じて、育て上げて井戸の名にちなんで閼英と名づけた。成長して人徳を備え、容姿も優れていたので、赫居世は彼女を王妃に迎え入れた。閼英夫人は行いが正しく、よく内助の功に努めたので、人々は赫居世と閼英夫人とを二聖と称した』。「三国遺事」の「王暦」「新羅始祖赫居世」の『条の伝える建国神話は、骨子は』「三国史記」と『同じであるが』、『細部に違いがみられ』、『天から降りてきた』六『村の長が有徳の王を求めて評議していたところ、霊気が蘿井の麓に下ったので見に行った。白馬が跪いている様が伺えたが、そこには紫(青色)の卵があっただけで、馬は人の姿を見ると嘶いて天に昇った。卵を割ってみると中から男の子が現れ出て、その容姿は優れていた。村長たちは男の子を沐浴させると、体の中から光が出てきた。鳥や獣は舞い踊り、地は震え、日月の光は清らかであった。このことに因んで赫居世王と名づけ、居瑟邯』『(きょしつかん、コスルガム)と号した。王となったとき赫居世は』十三『歳であり、同時に同じく神秘的な出生をした閼英を王妃とし、国号を徐羅伐(ソラボル)・徐伐(ソボル)』『とした。国号についてはあるいは斯羅(シラ)・斯盧(シロ』『)ともいう』。「三国遺事」や「三国遺事」に『よると、中国の王室の娘娑蘇夫人が、夫がいないのに妊娠したので海を渡り、中国から辰韓にたどり着き、赫居世居西干とその妃閼英夫人を生んだ』。『在位』六十一『年にして』『死去し、虵陵に葬られたという』「三国遺事」に『よれば、赫居世が死んで昇天して』七『日後に、遺体が地に落ちてバラバラになった。国人がこれを集めて葬ろうとしたが』、『大虵(大蛇)に阻まれたのでバラバラとなった五体をそれぞれに葬って五つの陵とした。そのために王陵を虵陵という』。『赫は朴と同音(パルク)で新羅語の光明の意、居世は吉支(キシ=王)と同音として、光明王(もしくは聖王)の意味とする説、「赫」は辰韓の語で瓠の意味とする説、「赫居」と日本語のヒコ(日子)やホコ(矛)との関係をみる説等がある』、「三国遺事」の『指定する訓によれば』、『「世」の字は「内」と読み「赫居世」は世の中を照らす意味という』。「三国遺事」に『よれば、生まれ出た卵が瓠(ひさご)の様な大きさだったため、辰韓の語で瓠を意味する「バク」を姓としたという。そのため、同時期に新羅の宰相を務め、瓠を腰にぶら下げて海を渡ってきたことから瓠公(ホゴン)と称された倭人と同定する、またはその同族とする説がある』。『また』、『赫居世の名の頭音「赫居」または「赫」が同音であるため』、『そのまま「朴」になったとも考えられている』とある。人の起原や昔話の古形(例えば「かくや姫」等)には卵生説話は洋の東西を問わず、かなり見られるものである。
「伊勢の飯南(いひなん)郡川俣谷」「今日の宮前村大字作瀧(さくだき)」現在の三重県松阪(まつさか)市飯高町(いいたかちょう)作滝(さくだき)。
「祓塚(はらひづか)」久保憲一氏のブログ「私、水廼舎學人です」の「榊塚(お祓塚)」によって現存することが判った。それによれば、国道百六十六『号線、旧作滝村と旧赤桶村の境界に「立て道」が通っています』。『この道の延長線上に「お祓塚」と呼ばれる塚があります』(『他にもう一つ』、『「お休み塚」という塚もあります』)。『そのまた延長線上の川中に』、『国分け伝説の「礫(つぶて)石」があるのです』。『これらを結ぶ線が昔々伊勢神宮領と大和領間の国境だったのです』。『おそらくこのお祓塚でお祓いをして神宮領と大和領を行き来したのでしょう』。『この辺一帯は「久保切」と言い、私の先祖が住んでいたとも言われています』。『亡父は此処から多くの土器やヤジリを収集しました』。『今この一帯は縄文遺跡「宮の東遺跡」とも呼ばれています』。『この「お祓塚」は別名「榊塚」とも言われており、どうやら明治の末頃まで榊の大木が繁っていたそうです』。『もはや榊の木はなく、茶の木が塚を覆っています』。さても『「榊」の語源は「逆木」であった、というお話』があり、『柳田國男「日本の伝説」(昭和』一五(一九四〇)年三國書房刊)『によると』、三十『年ほど前までは、この男石(礫石のこと)の近くに、古い大きな榊の木が、神に祀られてありました』。『伊勢の神様が神馬に乗り、榊の枝を鞭にしておいでになつたのを、ちよつと地に挿して置かれたものが、そのまま成長して大木になつた』。『それ故に枝はことごとく下の方を向いて伸びてゐるといひました』。『この木を「さかき」といふのも、逆木の意味で、ここがはじまりであつたと土地の人はいつております』とある。地図上では恐らくこの附近に存在するものと思われる(「礫石」の表示と画像有り)。
「賀瀨川」不詳、不審。作滝地区の北を流れるのは櫛田川であり、この名は倭姫命が櫛を落としたことに由来する古名で、「賀瀨川」という別名は持たない模様である。支流の名か? 「勢陽俚諺」の十巻を見ればいいのであろうが、三箇所の画像データは検索が出来ず、探すのにあまりに時間がかかるので諦めた。悪しからず。
「石馬」「いしうま」か「せきば」か読みに迷う。
「阿波名西(みやうさい)郡神領村(じんりやうそん)字白桃名(しろもゝみやう)」awa-otoko 氏のブログ「awa-otoko’s blog」の「大宜都比売命の御馬石(神山町 神領)」に、『古より神石として尊信せるのみならず、その古伝と能く符号せるを見れば、即ち大宜都比売命』(おおげつひめ:伊耶那岐・伊耶那美の子で、素戔嗚尊に惨殺された食物神の女神)『の来臨の霊地にして、阿波の国 開開闢の原地と考えられるべし』という前置きの後、『神山町神領』『上一宮大粟神社から南にある丹生というところに神代から伝わっている「御馬石」というものがあります』。『口碑によると』、『神代の昔、大宜都比売命が粟の国へ御来臨の時の遺跡で、即ち大神の乗用にあてられた神馬が化して石になったものと言い伝えられ、俗に御馬と称えて尊信されているのであります』。『この御馬石は昔より阿波に伝わる数々の文献に記載され、多くの参拝者があったと伝わります』。『●「丹生内有石、形似臥馬、名馬石。」(阿波志)』。『●「名西郡神領村の内白桃といふところに、馬石あり、其形は、彫りなせる馬の如し。大きさ常體の馬ほどなり。色は、薄黒く、河原毛に類す。尤も、鞍置馬にて、手綱まで粲にて、野中に乗り捨てたる形なり。」(阿州奇事雑話)』。『●「御馬石は、名西郡神領村御馬原といふところにあり、鞍鐙など、皆具して、膝を折り、伏し、見かへりたる形、少し遠ざけ見れば、誠に生けるかと疑はる。此所、野原ありしを、神石をかしこみて、木草を刈らず、自ら林をなし、遠方より今は見えざりし。即ち、近くに見るに、馬石の自然にして独座せり、首尾、鬣すぢなど妙なり。」(燈火録)』。『●「當村丹生内山へ大神御出あらせられる。(中略)其節、御馬に召され、候處、折節天火(をりふしてんか)にて、頻りに御馬近く山焼け来り、候に付、御召馬を石となし給ひける』。『今、其名馬の姿に相顕はれ、これを御馬石と申し、唯今、舊跡に御座候云々。」(上一宮大粟神社 神官 阿部氏に伝わる舊記)』と引用され、『このように数々の文献に記されていた御馬石に興味が湧くのは私にとって必然。阿波開闢の地をこの目で実際に見てみようと現地の方に聞きこみを開始致しました』とあって、苦心惨憺の末、遂に! 山中に、その御馬石(ポニーのような石がある!)を発見されるに至る過程が、写真附きで記されてあるのである! 必見!!! 位置としては現在の徳島県名西郡神山町(かみやまちょう)のこの附近であろうかと思われる。
「丹生(にふ)明神」「播磨国風土記」逸文に見える神で、和歌山県かつらぎ町の丹生都比売(にうつひめ)神社の祭神。丹生都比売神・爾保都比売命(にほつひめのみこと)とも呼ぶ。伊耶那岐の娘とも、天照大神の妹ともされる。水銀産出に関わる神で、高野山の地主神として高野明神とともに祀られるているという。但し、前注引用の大宜都比売とは異なる神である。
「岩代河沼郡堂島村大字熊野堂(くまんだう)の熊野三社」現在の福島県会津若松市河東町(かわひがしまち)熊野堂(くまのどう)村内甲(むらうちこう)にある熊野神社であろう。
「駒形原」「耶麻(やま)郡鹽川村」自信はないが、或いは候補地の一つは福島県喜多方市塩川町新江木字駒形附近(ここはYahoo!地図データ)ではないか? 但し、「三寶荒神社」らしきものは現認出来ない。]
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