蟲賣り 伊良子清白
蟲賣り
「松蟲鈴蟲くつわむし
蟲めせふ蟲めせかごも候」
四保小橋の袂には
八瀨の蟲うり早も出る
旅籠(はたご)の軒(のき)の汀(みぎは)には
水の高瀨のせせらぎや
柳は暗く月明(あか)く
蟲のこゑごゑ流れ行く
都大路のともし火も
秋の野らなる蟲の聲
殘る暑さの石疊
さすがに露のおきまさる
空は秋風人波の
上吹き越ゆる涼しさに
「蟲召せ蟲召せ」蟲うりの
聲もきえ行く高瀨川
[やぶちゃん注:底本校異に記載がない。これは昭和四(一九二九)年新潮社刊「現代詩人全集 第四巻 伊良子清白集」の、先の「避暑の歌」から後の「山家冬景」までの大パート「鷗の歌」全四十篇の中に含まれている。当該書は伊良子清白の生前に刊行されたものであり(扉の題字は本人の揮毫で、扉裏には本人による自伝が載る)、底本の校異の初出の判明している作品の発表順列を見ると、この前後に限っては編年(月ではやや前後するが、年単位では完全である)体で組まれてあることが判る。従って、この「蟲賣り」が書かれた、或いは、未詳の発表が行われたのは、先行する「背に負へる」・「おほしたてたる」・「しのびあるきの」の元である「一よぐさ」が発表された明治三四(一九〇一)年十一月以降、後の「新綠」が発表された翌明治三十五年五月(但し、初出は同じ「新綠」ながら、河井酔茗との合作で「雜司ケ谷鬼子母神に詣でゝ」「晩春鶯賦」「十二社にて」の全三篇から成り、その中の「雜司ケ谷鬼子母神に詣でゝ」を改題したものがこの伊良子清白の「新綠」である)の間か、その前後同年中と考えても、必ずしも見当違いではないかとも思われる。でなければ、大パート「鷗の歌」のここにこれを挟む必然性が見えてこないからである。但し、同パートの後の方では、編年順がひどく崩れているから、私の推定は決して真理性が高いとは言えない。]