泉のほとり 伊良子清白
泉のほとり
わが心奇異の思す
また同じ道に出でたり
砂山の南の麓
さわさわと泉の音す
家求めまたよぢ登る
西の方天(あま)つ日(ひ)おはす
ごうごうと海の響は
くらうなる心を醒す
三たびまた泉にいでぬ
これはこれ人とる水か
金精(こんじやう)の棲むときくなる
北の海波間も近し
一つづつ破るる泡は
蠱惑(まどはし)がつぶやくごとし
まなこ張り驚かされて
我はしばしそこに佇む
いつのまにうまいしにけむ
束(つか)のまといふ程なりき
さめごこちよき風吹きぬ
足らずげに泡はつぶやく
恍惚と心とられて
聲ききぬいといと淸き
人にあらぬ艶美(あて)なるものを
想像す氣の衰へに
四たびめは家にかへりぬ
白壁はあからめもせず
さりげなく裝ひするも
わが心ときめきにけり
[やぶちゃん注:明治三九(一九〇六)年一月一日発行『文庫』初出。初出時は前の「琴の音」とともに総標題「北の海」で併載。
「金精(こんじやう)」男根の形でシンボライズされる金精神(こんせいしん)の異名。民俗社会では泉は女陰にシンボルされ、泉が枯れずに湧き続けるように男根である金精神を祀ることがある。
「うまい」漢字では「熟寝」と当て、快く眠ること。ぐっすり眠ること。因みに、古くは男女の共寝に用いた名詞である。
初出形は以下。
*
泉のほとり
わが心奇異の思す
また同じ道に出でたり
砂山の南の麓
さわさわと泉の音す
家求めまたよぢ登る
西の方天(あま)つ日(ひ)在(おは)す
ごうごうと海の響は
くらう成(な)る心を醒す
三たびまた泉にいでぬ
これはこれ人とる水か
金精(こんじやう)の棲むときくなる
北の海波間も近し
一つづつ破るる泡は
蠱惑(まどはし)がつぶやくごとし
眼(まなこ)はり驚(おどろか)されて
我はしばしそこに佇む
いつのまにうまいしをらん
束(つか)の間(ま)といふ程なりき
よき心地(こゝち)眠(ねぶり)はさめぬ
廣野(ひろの)なりわが家(や)を思(おも)ふ
恍惚と心とられて
聲ききぬいといと淸き
人にあらぬあてなるものを
想像す氣の衰へに
四たびめは家(いへ)に歸(かへ)りぬ
白壁はまみに映(うつ)りて
さりげなく裝ひするも
わが心(こゝろ)ときめきゐたり
*]