秋和の里 清白(伊良子清白) (初出形)
秋和(あきわ)の里(さと)
月(つき)に沈(しづ)める白菊(しらぎく)の
秋(あき)冷(すさ)まじき影(かげ)を見(み)て
千曲少女のたましひの
ぬけかいでたるこゝちせる
佐久(さく)の平(たひら)の片(かた)ほとり
あきわの里(さと)に霜(しも)やおく
酒(さけ)うる家(いへ)のさゞめきに
まじる夕(ゆふべ)の鴈(かり)の聲(こゑ)
蓼科山(たでしなやま)の彼方(かなた)にぞ
年經(としふ)るおろち棲(す)むといへ
月(つき)はろばろとうかびいで
八谷(やたに)の奥(おく)も照(て)らすかな
旅路(たびぢ)はるけくさまよへば
破(や)れし衣(ころも)の寒(さむ)けきに
こよひ朗(ほがら)らのそらにして
いとゞし心痛(こころいた)むかな
(秋曉に贈る)
[やぶちゃん注:初出は明治三五(一九〇二)年十二月発行『文庫』(署名は「清白」)であるが、初出では総標題「霜柱」のもとに、「野衾」「淨瑠璃姫」(孰れも昭和四(一九二九)年新潮社刊「現代詩人全集 第四巻 伊良子清白集」に再録所収)及び本「秋和の里」の三篇を掲げてある。「孔雀船」との相違は(標題を「さきわ」とするのは誤植と見て採らない)、「千曲乙女(ちくまをとめ)のルビがないこと、詩篇末(位置は不明なので一行空けて有意に下げた)の「(秋曉に贈る)」という後書きがないことである。この「秋曉」は人名で、『上田市関連ソング 「秋和の里」について』に、『明治の末期、日本の文学界きっての文人滝沢秋暁(本名』は彦太郎。『文庫』派)『が種々の事情で東京の文学界を去り、故郷秋和村(現上田市秋和)に隠遁していることを知った文学界駆け出しの伊良子清白が、越後出張のおり』、『表敬訪問』して『歓迎され』、『秋暁の家に泊めてもらうことになった。そのお礼にと後日贈った詩である』とある。記者で作家の滝沢秋暁(しゅうぎょう 明治八(一八七五)年~昭和三二(一九五七)年)は、早くから『少年文庫』などに投稿し、明治二十年代から小説「田毎姫」・詩「亡友の病時」・評論「勧懲小説と其作者」「地方文学の過去未来」などを発表、明治二八(一八九五)年には『田舎小景』を創刊したが、画道を志して上京、『少年文庫』の記者となった。しかし翌年、病を得て帰郷、家業の蚕種製造に従事する傍ら、小説「手術室の二時間」などを発表した。著書に「有明月」「愛の解剖」「通俗養蚕講話」などがある(以上は日外アソシエーツ「20世紀日本人名事典」に拠った)。
「秋和の里」は現在の長野県上田市秋和(あきわ)(グーグル・マップ・データ)。
「佐久(さく)の平(たひら)の片(かた)ほとり」については、先の『上田市関連ソング 「秋和の里」について』に、『上田あたりを佐久の平と言うのは無理があるが、これは蓼科山に対する詩人の言葉であると言われており、「酒うる家」は上田からの途中にあった「米万」という居酒屋のことらしい』とあった。]