柳田國男 山島民譚集 原文・訓読・附オリジナル注「馬蹄石」(13) 「駒ケ嶽」(3)
《原文》
サテ此ヨリ愈〻駒ケ嶽ノ本論ニ入ラント欲スルナリ。諸國ノ名山ニ駒ケ嶽ト云フモノ多キハ人ノ善ク知ル所ナリ。【嶽又ハ岳】「ダケ」ハ只ノ山又ハ峯ト云フ語トハ別ニシテ、神山又ハ靈山ヲ意味スル日本語カト思ハル。蟲送リ又ハ雨風祭ニ山ニ神ヲ送ルヲ「ダケノボリ」ト云フコト奧州ニ多シ。東國ニテハ秩父甲州ナドノ御嶽、木曾ノ御岳山ノ類アリ。沖繩ニ於テモ「ダケ」ハ悉ク神ノ山ナリ。駒ケ嶽ト云フガ如キ山ノ名ハ、固ヨリ偶然ニ出デ來ルべキ者ニ非ズ。故ニ今ノ人ガ此ニ無頓著ナルトハ正反對ニ、昔ノ人ハ色々ト其命名ノ由來ヲ說明セント試ミタリ。駒ケ嶽ニ駒ノ住ムト云フ說ハ、北海道渡島ノ駒ケ嶽ニモ存ス。文政八年ノ八月松前侯ノ御隱居、人ヲ彼地ニ遣ハシ其噂ノ實否ヲ確メシム。【野馬】其報告ハ區々ニシテ或ハ靑ト栗毛ト二頭ノ牝馬ヲ見タルハ、野飼ノ逸シ去リテ幸ニ熊ノ害ヲ免レシナラント言ヒ、又ハ古來一雙ノ神馬住ムト傳ヘタレバ、試ミニ牝馬ヲ繋ギ置キテ之ヲ誘ハント獻策セシモノアリ〔兎園小說別集上〕。併シ此等ハ山ノ名先ヅ知ラレテ後ニ生ジタル想像ノ產物ナリトモ見ルコトヲ得べシ。見キモ見ザリキモ要スルニ個々ノ人ノ言ナレバナリ。木曾ノ駒ケ嶽ニ於テハ、或ハ中腹以上ノ雪ノ中ニ先ヅ消エテ黑ク見ユル箇處、駒ガ草食ム形ニ見ユルガ故ト云ヒ〔本朝俗諺志〕、又ハ此山ノ東面ニ駒ノ形ヲシタル大石アリテ、春ハ此石ノ處ヨリ雪消ヘ始ムルガ爲ニ名ヅクトモ云フ〔新著聞集〕。會津槍枝岐(ヒノエマタ)ノ駒ケ嶽ニテハ之ト反對ニ、夏秋ノ際消エ殘リタル雪ノ形駒ニ似タリト稱シ、越後南魚沼郡室谷ノ奧ナル駒ケ嶽ニモ同ジ說アリ〔地名辭書〕。同國西頸城(にしくびき)郡今井村ノ駒ケ嶽ハ信濃トノ境ノ山ナリ。山中ノ洞ニ駒ノ形狀アリテ明ラカニ存ス。故ニ山ノ名トス。【石馬】俚俗ノ說ニ源義經ノ馬此ニ至リ石ニ化スト云ヘリ〔越後野志六〕。陸中膽澤郡ノ駒ケ嶽ハ彼地方馬神信仰ノ中心タリ。神馬今モ此山中ニ住ムト云ヒ、昔名馬ノ骨ヲ此山頂ニ埋メタリト傳ヘ、或ハ又殘雪ノ形ガ駒ノ形ニ似タル故ノ名ナリトモ稱ス〔奧羽觀迹聞老誌〕。前ニ擧ゲタル鐵製ノ馬ノ像モ、此峯續キノ赤澤山ニ在ルナリ。
《訓読》
さて、此れより、愈々、「駒ケ嶽」の本論に入らんと欲するなり。諸國の名山に駒ケ嶽と云ふもの多きは人の善く知る所なり。【嶽又は岳】「だけ」は只の「山」又は「峯」と云ふ語とは別にして、「神山」又は「靈山」を意味する日本語かと思はる。「蟲送り」又は「雨風祭(あめかぜまつり)」に、山に神を送るを「だけのぼり」と云ふこと、奧州に多し。東國にては、秩父・甲州などの御嶽(みたけ)、木曾の御岳山(おんたけさん)の類ひあり。沖繩に於いても「だけ」は悉く、神の山なり。駒ケ嶽と云ふがごとき山の名は、固より偶然に出で來たるべき者に非ず。故に、今の人が此れに無頓著なるとは正反對に、昔の人は、色々と其の命名の由來を說明せんと試みたり。駒ケ嶽に駒の住むと云ふ說は、北海道渡島の駒ケ嶽にも存す。文政八年[やぶちゃん注:一八二五年。]の八月、松前侯の御隱居、人を彼の地に遣はし、其の噂の實否を確めしむ。【野馬】其の報告は區々(まちまち)にして、或いは、靑と栗毛と二頭の牝馬を見たるは、野飼(のがひ)の逸(いつ)し去りて、幸ひに熊の害を免れしならんと言ひ、又は、古來、一雙の神馬住むと傳へたれば、試みに牝馬を繋ぎ置きて、之れを誘はんと獻策せしものあり〔「兎園小說別集」上〕。併し、此等は、山の名、先づ、知られて、後に生じたる想像の產物なり、とも見ることを得べし。見きも、見ざりきも、要するに、個々の人の言(いひ)なればなり。木曾の駒け嶽に於いては、或いは、中腹以上の雪の中に、先づ、消えて、黑く見ゆる箇處(かしよ)、駒が草食む形に見ゆるが故と云ひ〔「本朝俗諺志」〕、又は、此の山の東面に、駒の形をしたる大石ありて、春は此の石の處より、雪、消へ始むるが爲めに名づく、とも云ふ〔「新著聞集」〕。會津槍枝岐(ひのえまた)の駒ケ嶽にては之れと反對に、夏秋の際、消え殘りたる雪の形、駒に似たりと稱し、越後南魚沼郡室谷の奧なる駒ケ嶽にも同じ說あり〔「地名辭書」〕。同國西頸城郡今井村の駒ケ嶽は信濃との境の山なり。山中の洞(ほら)に駒の形狀ありて、明らかに存す。故に山の名とす。【石馬】俚俗の說に、源義經の馬、此に至り、石に化す、と云へり〔「越後野志」六〕。陸中膽澤(いざは)郡の駒ケ嶽は、彼(か)の地方、馬神(うまがみ)信仰の中心たり。神馬、今も此の山中に住むと云ひ、昔、名馬の骨を此の山頂に埋めたりと傳へ、或いは又、殘雪の形が駒の形に似たる故の名なりとも稱す〔「奧羽觀迹聞老誌(おううかんせきぶんらうし)」〕。前に擧げたる鐵製の馬の像も、此の峯續きの赤澤山に在るなり。
[やぶちゃん注:「蟲送り」主として稲の害虫(浮塵子(うんか:昆虫綱半翅(カメムシ)目同翅(ヨコバイ)亜目 Homoptera に属する一群で、特にその中のハゴロモ(ウンカ)上科Fulgoroidea或いはその中のウンカ科Delphacidae に属する種群が多い。セミに似るが、体長は一センチメートル以下で、触角の基部が太い。日本に約百種棲息し、多くはイネ科植物を食べる。ウンカ科 Sogatella 属セジロウンカSogatella furcifera・ウンカ科トビイロウンカ属トビイロウンカ Nilaparvata lugens・ウンカ科Laodelphax 属ヒメトビウンカ Laodelphax striatellus が代表的な食害種)や、二化螟蛾(鱗翅目チョウ目ツトガ(苞蛾)科ツトガ亜科メイガ科Chilo suppressalis):和名は本邦の大部分の地域で成虫が年に二回発生することに拠る)の幼虫等)を村外に追放する呪術的な行事。毎年初夏の頃、定期的に行う例と、害虫が大発生した時に臨時に行うものとがある。一例を示すと、稲虫を数匹とって藁苞に入れ、松明(たいまつ)を先頭にして行列を組み、鉦や太鼓を叩きながら、田の畦道を巡って村境まで送って行く。そこで藁苞を投げ捨てたり、焼き捨てたり、川に流したりする。理屈からいえば、村外に追放しても隣村に押し付けることになるが、村の小宇宙の外は他界であり、見えなくなったものは、消滅した、と考えたのである。「風邪の神送り」や「厄病送り」などと一連の行事で、呪術のなかでは鎮送呪術に含まれる。害虫は実在のものであるが、非業の死を遂げた人の霊が浮遊霊となり、それが害虫と化したという御霊信仰的側面もあって、非業の死を遂げたと伝えられる平安末期の武将斎藤別当実盛の霊が祟って虫害を齎すという故事に付会させて、帯刀の侍姿の藁人形(実盛人形)を担ぎ歩く所もある。虫送りを「さねもり祭り」などと呼ぶのはそれに由来する。初夏の風物の一つとして、子供の行事にしていた所も多い。近年は農薬の普及に伴って虫害も少なくなり、この行事も急速に消滅してしまった(以上は主文を小学館「日本大百科全書」に拠り、生物種はオリジナルに附した)。
「雨風祭(あめかぜまつり)」前の「虫送り」の風水害版。風雨の害を避けるために行われる呪術的行事。通常は男女二体の形代(かたしろ)の人形を村境まで送って行き、捨てたり焼いたりする。特に東北地方での呼称。私の「佐々木(鏡石)喜善・述/柳田國男・(編)著「遠野物語」(初版・正字正仮名版) 一〇九 雨風祭」も見られたい。
「だけのぼり」フレーズ検索「だけのぼり 風雨祭 東北」を掛けたが、確認出来ない。
「秩父・甲州などの御嶽(みたけ)」「秩父」のそれは埼玉県秩父市と秩父郡小鹿野町との境にある御岳山(おんたけさん:標高千八十・四メートル。木曽御嶽山の王滝口を開いた普寛上人が開山した)。「甲州」のそれは赤石山脈(南アルプス)北端の山梨県北杜市と長野県伊那市に跨る甲斐駒ヶ岳(標高二千九百六十七メートル)。
「木曾の御岳山(おんたけさん)」長野県木曽郡木曽町王滝村と岐阜県下呂市及び高山市に跨る標高三千六十七メートルの御嶽山。
「北海道渡島の駒ケ嶽」現在の北海道森町・鹿部町・七飯町に跨る標高千百三十一メートルの北海道駒ヶ岳。渡島半島のランド・マーク。江戸時代の旧称は内浦岳。ここ(グーグル・マップ・データ。以下同じ)。この山の名に関して言えば、大沼方面から見たそれが、馬が嘶いている姿に似ていることに由来すると言われている。これ(ウィキの「北海道駒ヶ岳」の同方面からの画像)。私はこの山容がとても好きである。
「文政八年の八月、松前侯の御隱居……」これは割注にある通り、「兎園小説」シリーズの中の、滝澤馬琴一人の編集になる概ね彼による考証随筆「兎園小説別集」の上巻の中の一条「内浦駒ケ岳神馬紀事」に基づく記載である。「松前侯の御隱居」というのは蝦夷地松前藩第八代藩主松前道広(宝暦四(一七五四)年~天保三(一八三二)年)のこと。ウィキの「松前道広」によれば、寛政四(一七九二)年に隠居し、長男章広に家督を譲っているが、九年後の文化四(一八〇七)年、藩主時代の海防への対応や元来の遊興癖を咎められて幕府から謹慎(永蟄居)を命ぜられた(この背景には元家臣の讒言があったともされる。文政五(一八二一)年にこれは解かれた)。当時、満七十一であったこの爺さん、大の馬好きで、駒ヶ岳の神馬の話を聴き、興味津々、ここにある通り、藩内の者を使って情報を収集、牝馬を囮にして捕獲を試みようとしたりしたのを、以前から江戸で知り合いであった馬琴が聴き付け、手紙をものして(原書簡が引用されてある)、古今の神馬の祟りの例などを挙げて遠回しに諌めた顚末が記されてある。「幸ひに熊の害を免れしならん」の部分は、百姓が放牧していた馬が逃げ出し、岳の中段より上に登ってしまった、極めて人目につきにくい個体で、また『駒ケ岳は靈山の事故、山の德によつて熊にも取られ申さず』と記している。
「新著聞集」前に引いた「早稲田大学図書館古典籍総合データベース」のこちらで原典当該部(終りの部分がそれ)が読める。
「會津槍枝岐(ひのえまた)の駒ケ嶽」福島県南会津郡檜枝岐村にある標高二千百三十三メートルの会津駒ヶ岳。
「越後南魚沼郡室谷の奧なる駒ケ嶽」新潟県南魚沼市と魚沼市に跨る標高二千三メートルの越後駒ヶ岳。「室谷」(「むろだに」か)の地名は現認出来ない。
「同國西頸城郡今井村の駒ケ嶽」現在の新潟県糸魚川市市野々(いちのの)の奥にある標高千四百八十七・四メートルの頸城駒ヶ岳。
「陸中膽澤(いざは)郡の駒ケ嶽」「前に擧げたる鐵製の馬の像も、此の峯續きの赤澤山に在るなり」本条の冒頭の段落の「赤澤山」の注で私が指摘した、岩手県胆沢郡北上市和賀町の標高千百二十九・八メートルの駒ヶ岳である。やはり、そこで私が推理した通り、この峰続きの地図上では無名のピークの孰れかが、「赤澤山」なのであった。]