霰 伊良子清白
霰
やるせなや
軒の、玉霰
うけて見るまの
手の掌(ひら)を
流れておちる
もとの水
假りのすがたは
人かいな
[やぶちゃん注:初出は明治三二(一八九九)年十二月発行『よしあし草』で「きりの海」の総標題で別詩篇「きりの海」と併載。署名は「すゞしろのや」。本昭和四(一九二九)年新潮社刊「現代詩人全集 第四巻 伊良子清白集」に収録(改変部有り。以下参照)された詩篇の中では最も古いものである。初出は以下。
*
霰
やるせなや軒の、玉霰
うけて見るまの手の掌を
流れておつるもとの水、
假りのすがたは人かいな。
髑髏の霜が化粧なら、
卒塔婆小町の舞の手は
穴目穴目や枯芒、
まだ懲りずまに招くとは。
*
「穴目穴目や枯芒、」は、しばしば説話に見られる見られる〈髑髏の眼窩に芒の穂〉をイメージしたが、どうもそれらしい。小町伝承にもそれがあることが、個人ブログ「忍山 諦の写真で綴る趣味のブログ」の「吾れ死なば焼くな埋むな野に晒せ~小町ゆかりの寺(2)」で、小町所縁の寺のの一つで「小町寺」の通称で知られる、京都市上京区静市(しずいち)市原町(いちはらちょう)にある天台宗如意山(にょいさん)補陀洛寺(ふだらくじ)(グーグル・マップ・データ)について書かれた記事の中で、『階段の下に設置されている京都謡曲史跡保存会の案内板によると』、『「遠く陸奥路まで漂泊の身を運んだ一世の美人小野小町も、年老いて容色も衰えた身を、ここ市原野に、昔、父が住んでいたなつかしさから、荒れ果てた生家を訪れ、そこで朽木の倒れるように、あえなくなるが、弔う人とてもなく、風雨に晒される小町の髑髏から生い育った一本の芒(すすき)が風にふるえていた。この伝説に因んで穴目のススキ、老衰した小町像や、少将の通魂塚がつくられている」』『と記されている』。『言い伝えにによると、小町は』天慶八(九〇〇)年に』、
吾れ死なば燒くな埋むな野に晒せ
瘦せたる犬の腹肥やせ
『の辞世の歌を残してこの地で亡くなり、その遺骸は本人の望みどおり』、『野に晒らされたという』。『後年、恵心僧都源信がこの地を訪れたとき、「目が痛い」という声がしたので見ると、野晒しになった一体の遺骸の眼窩を貫くようにススキが生い出ていたので、これを拭き取り供養したと』も言われる。『この穴目のススキの話は謡曲の題材ともなっているが、果たして史実なのか、それとも後年の創作にかかるものかは確かめようがない』。『境内には小町の供養塔』『と深草少将の供養塔』『がある』とある。今度、行ってみたい。]
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