美女 清白(伊良子清白)
美 女
米(よね)の白きと手弱女(たをやめ)の
白きといづれまさりたる
米は精(しら)げて飯(いひ)となり
飯(いひ)はしらげて人となる
米の千町田(ちまちだ)水の花
その水上の月淸く
白き膚(はだへ)の歷々(ありあり)と
物もかけざる立ち姿
硏(と)ぎすましたる月の面(おも)
皎々(かうかう)として山を照らし
水のくはし女(め)ただひとり
岩間にはだを洗ふなり
うなじただむきゐさらひも
霞流るるししつきの
ただ彫刻(ほりもの)の白はちす
風にたわむがごとくにて
水の千筋(ちすぢ)を肩にかけ
月にさらしてまたおとす
水の主(あるじ)のたをやめは
夜ただ流れに身を浸(つ)けて
[やぶちゃん注:明治三六(一九〇三)年一月十五日発行の『文庫』初出(署名は「清白」)。
「くはし女(め)」は「麗(くは)し女(め)」「くはし」は「詳し」と同語源で「繊細で微妙に美しい」の意。
「ただむき」は「腕(ただむき)」で、肘から手首までの間の腕(うで)のこと。
「ゐさらひ」は現代仮名遣「いさらい」で漢字表記は「臀・尻」、臀部のこと。
「ししつき」「肉附」で人、特に女性の体の肉の附き具合、「肉づき」のこと。
初出は以下。後半が大きく異なる。「いゝ」は総てママ。「滸」は「ほとり」と訓じていよう。
*
美 女
米(よね)の白きと手弱女(たをやめ)の
白きといづれまさりたる
米は精(しら)けて飯(いゝ)となり
飯(いゝ)は精(しら)けて人となる
千筋の絲の白絲の
水の滸の美女(くはしめ)は
白き膚(はだへ)の歷々(ありあり)と
物もかけざる立姿
霞流るゝしゝつきの
玉をのべたる柔はだに
岸の白萩ゆりのはな
と渡る月ぞ映りたる
丈なす髮をしぼりつゝ
淸きおもわにふりかへる
美女(びぢよ)のゑまひにさそはれて
いくつ蕾は開くらん
深山の奧にすみわたる
月の光はさやかにて
谷の彼方に山猨(やまをとこ)
手を拍つ響幽かなり
*
「山猨(やまをとこ)」の「猨」(音「ヱン」・訓「さる・ましら」)はヒト以外の霊長類の広汎なサル類を総称する語であるが、この「山猨(やまをとこ)」は伊良子清白は恐らく、中国の多分に伝説的な怪猿・妖猿としての山男的な「玃」(カク/やまこ)のことを想定して言っているように思う。詳しくは私の寺島良安の「和漢三才圖會 卷第四十 寓類 恠類」の「玃(やまこ)」を読まれたい。そこに掲げられた図は普通の猿のようにしか見えないが、明に李時珍の「本草綱目」の引用には、『玃は老猴(らうこう)なり。猴に似て大きく、色、蒼黑。能く人行(じんかう)して、善く人・物を攫持(かくじ)し、又、善く顧盼(こへん)す。純牡(ぼ)にして牝無し。善く人の婦女を攝し、偶を爲して子を生む』と引く。外形は猿の老成したもののようであるが、雄しかいない幻獣である。「攫持」は「攫(つか)み持ち取る」(文脈上は「人をさらう」の意で、ここもそれで採ってよいが、「攫」を「人をさらう」という確信犯的意味で当てるのはあくまで国訓である)。「顧盼」(「こはん」と読んでもよい)は「振り返り見る」の意。「善く人の婦女を攝し、偶を爲して子を生む」の「攝」は「摂取」のそれ、「偶を爲す」は「連れ合いとなる」で、「しばしば人間の婦女子を誘拐し、交合をなして、子を孕ませる」の意である。本シークエンスでは手を叩く音だけの出演であるが、なかなか、いい。因みに、ウィキの「玃猿」はそれである。よく纏めてある。そこでは晋の文人葛洪、(二八三年~三四三年)の神仙術の古典「抱朴子」には、八百年生きた獼猴(みこう:現行では一般に哺乳綱獣亜綱霊長目直鼻猿亜目オナガザル科オナガザル亜科マカク属アカゲザル Macaca mulatta を指す)が「猨」となり、さらに五百年生きて「玃猿」になるとあると記す。]
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