太平百物語卷一 三 眞田山の狐伏見へ登りし事
○三 眞田山(さなだやま)の狐伏見へ登りし事
伏見に德地屋(とくぢや)といふ穀物(こくもの)問(とい[やぶちゃん注:ママ。])屋あり。或日の事なりしが、五十斗(ばかり)の女壱人、此みせの先に立ちやすらひ居(ゐ)けるが、風呂敷包より藁苞(わらつと)を取出(とりいだ)していふやう、
「わらはゝ、大坂より京へのぼる者なり。此苞は大事の物に候ふまゝ、厠(かはや)へ參り申すうち、しばらく是(これ)に御預り置給はれ。」
といふにぞ、
「子細候はじ。」
とて許容して預り置(おき)しが、一時(とき)斗になりても、此女、見へこず。
「こは。わすれて上京せしにや。大事の物といひしが。」
なんど、寄合、いひあへりしを、主人、聞付(ききつけ)、おくより出ていひけるは、
「しらぬ人の物、須臾(しばらく)も預る事、卒爾(そつじ)の至りなり。」
とて、大きに叱り、其あたりなる厠ごとに尋(たづね)させけれども、敢て見へねば、
「又々たづね來(きた)るまで大事にして置べし。」
とて、庭の片脇(かたわき)に持行(もちゆき)、桶をかぶせ、犬・猫の用心をして置けるに、亥の刻ばかりとおもふ比(ころ)、此桶、そろそろとゆるぎ出(いだ)しけるを、下女が見付けて、うちおどろき、
「あれあれ、桶の步き侍る。」
といひければ、家内(かない)の男女(なんによ)、おそれ合、身をちゞめて守りゐる内、此桶、次第に宙に上(あが)るとぞ見えし。
小坊主、壱人、立出(たちいで)しが、次第次第に大きになりて、七尺有餘(ゆうよ)の大入道となり、
「あら窮屈や。」
といひて、四方を見廻す其眼(まなこ)のすさまじさ、偏(ひとへ)に車輪のごとくなりければ、女・わらべはいふに及ばず、さしもに若き男までも、一度に、
「わつ。」
とさけびて迯吟(にげさまよ)ふ。
されども、亭主は心剛(こゝろがう)る男にて、脇指(わきざし)おつ取、飛(とん)で出(いで)、彼(かの)大入道を、
「はつた。」
とねめ、
「おのれ。いかなる變化(へんげ)なれば、我家(わがいへ)に來りて、かく人を惱ます。はやく此所(このところ)を立ちさるべし。ぜひ、災(わざはひ)をなさんとならば、今(いま)、目の前に切(きつ)て捨てん。」
と、勢ひかうでいひければ、入道がいはく、
「われは大坂眞田山に年を經る狐なり。此家(このいへ)の者、頃日(このごろ)、わが住(すむ)所に來りて、出(いで)入りする穴に、小便をし、穢(けが)したるがにくさに、跡をしたふて登り、此所の桃山に住む狐を賴みて、今朝(こんてう)、たばかり入たり。はやはや、其者を出すべし。さもなくば、家内殘らず仇(あだ)をなさん。」
といふ。
亭主、此よしを聞(きゝ)、
「頃日(このごろ)大坂へ下(くだ)せし者は太次兵衞(たじびやうへ[やぶちゃん注:ママ。])なり。」
とて、呼出(よびいだ)して、事のやうすを尋ねければ、太次兵衞、ふるひふるひ這出(はひいで)て、
「誠に、仰せのごとく、眞田山見物に罷りて、木陰なる所に、何心なく、小便いたし候ひき。しらぬ事にてさふらへば、御ゆるし下さるべし。」
と、色を變じてなげきければ、亭主、入道にむかひ、
「樣子は、なんぢ、今(いま)聞く通りなり。しらざれば、力なし。ゆるして、はやはや歸るべし。」
といふ。
入道がいはく、
「然らばいのちを助くべし。此(この)過代(くはだい)として、わが住(すむ)穴に、三日が内(うち)、赤飯(あかめし)と油ものを備へ來(きた)るべし。此事、違(たが)ふにおいては、汝が皮肉に入りて、命を取(とる)べきぞ。」
といふに、
「其義(そのぎ)ならば、いと安き事なり。明日(みやうにち)より三日の内、朝暮(てうぼ)備へ申さん。」
と請合(うけあひ)しかば、忽ち、形ちは、消え失せたり。
それよりして三日の内、朝暮、彼(かの)所に備へければ、太次兵衞が身の上、無事にをさまりけるとかや。
[やぶちゃん注:「太平百物語」のここまでの巻頭三話は総て妖狐譚で、作者の計算された構成意図が窺える。狐の博物誌は、ごく最近電子化注した「和漢三才圖會卷第三十八 獸類 狐(きつね)(キツネ)」をお薦めする。
「眞田山」現在の大阪市天王寺区の大阪城の南方にある小さな丘。「大坂冬の陣」の際、真田幸村が陣を構えた所とされる。ここ(グーグル・マップ・データ。大阪府大阪市天王寺区玉造本町の宰相山公園をドットした。宰相山は真田山の別名)。ここから伏見までは直線でも三十六キロメートルある。
「一時」現在の二時間相当。
「卒爾」十分な判断をせず、軽々しい行動をとること。軽率。
「亥の刻」現在の午後十時の前後二時間頃。挿絵師は本文を読んで描いていると思われるから、おくどさん(竈)では飯が炊かれているのは、当時の商家の雇い人たちの夕食か。されば彼らの夕飯は著しく遅かったことが窺われるではないか。
「七尺」二メートル十二センチ。
「吟(さまよ)ふ」当て訓としては不審。「吟」にはこのシーンに相応しい意味では「呻(うめ)く」・「嘆く」・「泣き叫ぶ」等があるが、「彷徨(さまよ)う」の意はない。
「桃山」伏見桃山。この附近(グーグル・マップ・データ。京阪電気鉄道京阪本線の「伏見桃山駅」をドットした)。狐が住まうのだから、地図の東北の、伏見桃山城跡や明治天皇陵がある辺りであろう。
「たばかり入たり」(「入(いり)たり」)「謀(たばか)る」は「計略をめぐらして騙(だま)す。誑(たぶら)かす」。本話の前の一連の変事・怪異を総て示す。さすれば、五十歳ほどの老女は助力を頼んだ桃山の狐が変じたものと読める。
「赤飯(あかめし)」赤飯(せきはん)。供物としての赤飯の起原はよく判っていないが、ウィキの「赤飯」によれば、『古代より赤い色には邪気を祓う力があるとされ、例えば墓室の壁画など呪術的なものに辰砂が多く使われ、また、日本神話の賀茂別雷命や比売多多良伊須気余理比売出生の話に丹塗矢(破魔矢の神話的起源)の伝承があることからも窺える。また、神道は稲作信仰を基盤として持ち(田の神など)、米はとても価値の高い食糧と考えられてきた。このため、古代には赤米』『を蒸したものを神に供える風習があったようである(現在でもこの風習は各地の神社に残っている)。その際に、お供えのお下がりとして、人間も赤米を食べていたと想像される。米の源流を辿ると、インディカ種とジャポニカ種に辿り着く。インディカ種は赤っぽい色をしており、ジャポニカ種は白である。縄文時代末期に日本に初めて渡ってきた米はこの』二『種の中間の種類で、ちょうど赤飯くらいの色だった。この米を、日本人は江戸時代になる前まで食べていた。しかし、稲作技術の発展による品種改良でより収量が多く作りやすい米が出てきたこと、食味の劣る赤米を領主が嫌って年貢として収納することができなかったことから、次第に赤米は雑草稲として排除されるようになった。だが』、『赤いご飯を食べる風習自体は生き続け、白い米に身近な食材である小豆等で色付けする方法が取られるようになったと考えられる。赤飯にゴマを乗せるのは、白いご飯を赤くしたことを神様にゴマかすためである』という。『現在は、祭りや誕生祝いなど吉事に赤飯を炊く風習が一般的である。しかし、江戸時代の文献』「萩原随筆」には、『「凶事ニ赤飯ヲ用ユルコト民間ノナラワシ」と記されており』、『凶事に赤飯を炊く風習がこの頃には既にあった』。『凶事に赤飯を炊く理由は不明ではあるが、赤色が邪気を祓う効果がある事を期待したためという説や、いわゆる「縁起直し」という期待を込めて赤飯が炊かれたとも考えられる。また、古くは凶事に赤飯を食べていたものが何らかの理由で吉事に食べるように反転したという説もある』。『伝承や歴史が明白となっている部分では、少なくとも』十二『世紀には赤飯が供養に使われていたという事である。赤飯は宗教的な意味合いも強く、赤飯を用いた「赤飯供養」という風習が存在する』とあるから、稲荷信仰よりも以前に赤飯を供物とする習俗は存在したのであり、動物生態学的にもキツネが赤飯を好むものではない。
「油もの」「油揚げ」ではない。油で揚げたものである。当初の稲荷信仰ではキツネが好む鼠を油で揚げたものが供物とされていたが、仏教の殺生禁断から油揚げに変わったに過ぎず、くどいが、肉食であるキツネが特に油揚げを好むわけではない。但し、キツネは肉食に近い雑食性であり、飢えていれば、赤飯や油揚げも食う。]