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2019/04/30

參宮ぶね 伊良子清白

 

參宮ぶね

 

磯は西風

  裙帶菜(わかめ)干す

 

山はつつじの

  花ざかり

 

昨日の雨の

  水たまり

 

燕が泥を

  掬(すく)ひとる

 

旗で飾つた

  參宮(さんぐ)ぶね

 

遠い紀州の

  船も來た

 

[やぶちゃん注:初出は昭和三(一九二八)年七月発行の『詩神』。初出標題は「參宮船」で、各連の前に一字下げで「一」から「六」の数字数字が配された構成となっており、一部の漢字に読みが附されたり、「裙帶菜(わかめ)」が「わかめ」、最終「六」の「參宮(さんぐ)ぶね」が「參宮船(さんぐぶね)」である以外は有意な差を認めないので初出は示さない。嘱目はツツジの満開から見て、四月の中・下旬と読んだ(三重県の観光情報でも確認)。

「參宮船(さんぐぶね)」船による一般参拝客のお伊勢参りは江戸時代に盛んであったが、陸路の整備によって近代に入って殆んど見られなくなった。ここは漁業従事者たちの船によるそれの景であろう。江戸時代よりの上陸地点は伊勢神宮の東北の勢田川の河口であった(グーグル・マップ・データ。右上。左下に伊勢神宮)。

「裙帶菜(わかめ)」「裙帶」は「くんたい」(撥音無表記で「くたい」とも書く)は平安後期(十一~十二世紀頃)の公家の女房らが、晴れの装束の際に裳の腰に附けて、左右に垂らした紐を指す。中国風に真似たもので、羅などの薄布でつくられた。異なった色が相半ばするのを特色し、八世紀頃の裾(きょ)に付属していた飾りの縁が独立して装飾化したものと考えられており、後の女房装束の小腰(こごし:裳の大腰の左右に取り附けて後ろに長く引き垂らした二本の飾り紐)はその遺制という。グーグル画像検索「裙帯」をリンクさせておく。不等毛植物門褐藻綱コンブ目チガイソ科ワカメ属ワカメ Undaria pinnatifida の直喩異名としては腑に落ちるものではあり、貝原益軒も「大和本草卷之八 草之四 裙蔕菜(ワカメ)」で標題にこれを用いているおり、『處々の海中に多し。二月にとる。伊勢の海に産するを好しとす』と述べており(リンク先で私はかなり詳細なワカメ注を行っているので参照されたい)、現代中国語でワカメ(ワカメの原産分布は本邦を中心とし(本来は植生しなかったのは北海道東部と同北部及び和歌山県熊野から鹿児島県に至る太平洋岸であるが、すでにそれらの場所にも棲息域を広げて晋三も羨ましがるであろう強力な全国区勢力となっている)、朝鮮半島南部まで。但し、現代ではタンカーのバラスト水で胞子が世界中に運ばれてしまい、深刻な優勢侵入外来種となって生態系を致命的に破壊している)は「裙带菜」と書くのであるが(ワカメの中文ウィキを見よ)、しかし、私はこの異名は、思うにそう古いものではないのではないかと考えている。少なくとも、採取し、生で食してきた一般国民の表記異名ではあり得ない(裙帯なんざ、みんな、見たことねえもん)。宮下章氏の「ものと人間の文化史 11・海藻」(一九七四年法政大学出版局刊)の第二章「古代人の海藻」の「(二)海藻の漢名と和名」の「藻(モ・ハ)」の項によると、源順の「和名類聚鈔」が編纂『されるより少なくとも二、三百年前から、古代日本の人々は「海藻」の文字に「ニギメ」(ワカメ)の和名を当てるという誤りをおかしてしまった』とする一方、諸海藻名の末尾に多く見られる「メ」は『布のほか「女」「芽」にも通』ずるとされ、また、後の「海藻(ニギメ・ワカメ)」の項では、『和名抄は、唐書が藻類の総称とする「海藻」をニギメと読む誤りをおかしたが、反面で「和布」という和製文字を示してくれた。また、ニギメのほかに「ワカメ」という呼び方も示してくれた。たとえば、延喜式では海藻をニギメ、和布をワカメ、万葉集では稚海藻をワカメ、和海藻をニギメと読ませている』。『ニギメとワカメとは別種でなく、ニギメの若芽がワカメである。古くから若芽が喜ばれたと見えて、中世に入るころには「ニギメ」は消えてしまう。「メ」は藻類の総称だが、「和布刈(めかり)」の神事や人麻呂の』歌(「万葉集」巻第七・一二二七番。上記リンク先で和歌を提示してある)などでも、「海和刈」(めかり)は『ニギメの意味にも使われていた』とある。平安中期の「一代要記」、平安後期の「東大寺文書」でも「和布」である。則ち、本邦の上古の上流階級に於けるワカメの呼称に於いても今、も現役の「和布」こそが最も普通であったのである。なお、宮下氏の同書によれば、『糸ワカメは、三重県の答志島辺を中心として志摩名産とされたもので』、『ミチ(葉』状部『の中央の茎状のすじ)をとり去り、乾燥してのち、こもに包んで約三〇分後にとりだし、手で一枚ずつもみ上げて箸状にしておくと白い粉を吹く。江戸時代から伊勢参宮みやげとされたものである』とある。この詩篇を読みながら、干されたワカメの景の向うに、そうした漁民の仕事を想起する時、この詩篇は正しくワイドに立体的な映像として現前すると言える(太字は私が附した。言い忘れが、私は海藻フリークでもある)。]

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