太平百物語卷二 十八 小栗栖のばけ物の事
○十八 小栗栖(おぐるす)のばけ物の事
山城の國小栗栖といふ所に、化物住むと專ら沙汰しけるに、或夜の事なりし、醍醐の九郞次郞といふ者の宅へ、其近邊の若者ども、集まりて夜咄しをしけるが、折から秋の長き夜(よ)なれば、樣々の咄しをしける次で、彼(かの)小栗栖のばけ物ばなしを仕出(しいだ)し、
「おそろしき事なり。」
なんど、とりどり申し合(あひ)ければ、其座に八郞といふ者ありて、いふやう、
「何条(なんでう)、ばけ物という者、あらんや。われ、小栗栖に行かんに、若(もし)、ばけ物出(いで)なば、とらまへて連歸(つれかへ)り、いづれもへ、土產にせん。」
と廣言(くはうげん)すれば、人々、いふ。
「さあらば、今宵、彼(かの)所に行(ゆく)べきや。心得ず。」
といふに、八郞、聞(きゝ)て、
「安き事なり。われ行て參るべし。何にても印(しるし)を出(いだ)されよ。」
といへば、
「さらば。」
とて、「不敵の八郞」と書付(かきつけ)て、札を渡し、
「これを彼所に立置(たておき)て歸らるべし。然るにおゐては、今宵の夜食、御身の望みに任せん。」
といふほどに、八郞、ゑつぼ入[やぶちゃん注:「いり」。]、さまざま料理好(りやうりごの)みして、彼札を引(ひつ)かたげ、小栗栖にぞ、急ぎける。
さて、小栗栖にもなりければ、あたりを、
「きつ。」
と見廻すに、目に遮ぎる物もなければ、
『さもこそ。』
と、おもひて、彼札を㙒中(のなか)に立置(たておき)、歸らんとせし時、うしろの方より、
「八郞、まて。」
とぞ、聲、かけたる。
『扨(さて)は。聞ゆる化物、ござんなれ。』
と、大脇指(わきざし)の鍔元(つばもと)くつろげ、大音聲(だいおんじやう)にいひけるは、
「いかなる者なれば、わが名をしりて呼(よぶ)ぞ。其正体を顯はすべし。」
といひければ、いづくともなく、こたへていはく、
「我は、此所(ところ)に年久しく住(すむ)者なり。何故、かゝる怪しき札を立(たて)たる。急ぎ持(もち)て歸るべし。おこと、無益(むやく)のかけろくして、爰(こゝ)に來(きた)る事、わが眷属ども、先達(さきだつ)て、しらせたり。よしなき武邊(ぶへん)を立(たて)んとせば、目に物、見せん。」
と、のゝしりけり。
八郞、したゝか者なれば、打わらつていひけるは、
「あら、ことごとしの化物殿(ばけものどの)や。われ、其札(そのふだ)を取るまじきか、いかなる物をか見せけるぞ。出(いだ)せ、出だせ。」
と嘲(あざ)ければ、
「やらやら、にくき廣言かな。」
と、いふ儘に、さも、すさまじき毛のはへたる腕(うで)斗(ばかり)をさしいだし、八郞が髻(もとゞ)り、中(ちう)に引(ひつ)さげ、ゆかんとす。
「心得たり。」
とて、刀を、
「すらり。」
とぬき放し、かいなを、
「丁(てう)。」
ど、切りければ、
「あつ。」
と、さけびて、消失(きへうせ[やぶちゃん注:ママ。以下同じ。])たり。
八郞は㙒中に、
「どう。」
ど、落(おち)けるが、大聲上(あげ)ていひけるは、
「扨々、卑怯なる化者かな。何とてはやく消(きへ)たるぞ、形(かた)ちを見せずは、只今、出(いだ)せし腕(うで)なりとも出(いだ)すべし。取(とり)て歸りて、土產にせん。」
と、飽(あく)までに罵(のゝし)れども、八郞が勇氣にやおそれけん、何(なに)の返答(こたへ)もせざりければ、
「今は、長居して詮なし。」
と、いにしへの綱(つな)[やぶちゃん注:大江山の酒呑童子退治や京都の一条戻橋の上で鬼の腕を源氏の名刀「髭切(ひげきり)」で切り落としたとされる渡辺綱(天暦七(九五三)年~万寿二(一〇二五)年)。]におとらぬ心地して、いさみ進んで歸りけるが、向ふの方より六十斗の老婆(うば)壱人、出できたり。
八らふにむかひ、いひけるは、
「いかに。私殿(わどの)は、只今、小栗栖にて、かぎりなき手柄をし玉ひける事よ。今こそ九郞次郞殿方に、夜食、結構して、御待(まち)あらんに、早々(はやはや)、いざなひ參らん。」
とて、八郞がゑりくび、摑んで、虛空にあがるを、八郞、すかさず、太刀ぬきそばめ、彼(かの)婆(うば)を切りはらへば、うばは、八郞を抛(なげ)すて、いづくともなく、失(うせ)けるが、八郞は、九郞次郞がざしきの椽(ゑん)にぞ、落(おち)たりける。
ありあふ人々、此音におどろき、立出(たちいで)、みれば、八郞、絕入(ぜつじゆ)してこそ、居たりけり。
「こは、いかに。」
と、うち集(あつま)り、顏に水濯ぎて呼(よび)おこしければ、やうやう正氣に成(なり)けるが、髮は化者にむしられて、偏(ひとへ)に童子の頭(かしら)の如くなりしかば、皆々、大きにあきれ、とかくする内、夜(よ)はほのぼのと明(あけ)はなれて、夜食は、あだとなりにける。
[やぶちゃん注:百物語系怪談にポピュラーに出るお馴染みの話柄である。
「小栗栖」現在の京都市伏見区東部の一地区。「おぐりす」とも言う。山科盆地西縁の東山山地南東麓に当たり、伏見から近江に向かう街道が通ずる。天正一〇(一五八二)年六月、「山崎の合戦」で豊臣秀吉に敗れた明智光秀が、近江の坂本城に逃れる途中、この地で土民の竹槍に刺されて最期を遂げたとされる場所である(ここは小学館「日本大百科全書」に拠った。醍醐寺(伏見区醍醐東大路町(ちょう))のある醍醐地区の西南方の、この中央附近(グーグル・マップ・データ)。現在も小栗栖を冠した地名が点在する。
「かけろく」「賭け禄」で、金品を賭けて勝負すること。]
« 冬 の 山 伊良子清白 | トップページ | 和漢三才図会巻第三十九 鼠類 ※(「※」=「鼠」+「番」)(しろねずみ) (ドブネズミ及びハツカネズミのアルビノ或いは白色個体) »