太平百物語卷一 四 富次郎娘虵に苦しめられし事
○四 富次郎娘虵(へび)に苦しめられし事
越前の國に富次郎とて、代々分限(ぶんげん)にして、けんぞくも數多(あまた)持(もち)たる人、有り。
此富次郎、一人(ひとり)の娘をもてり。今年十五才なりけるが、夫婦の寵愛、殊にすぐれ、生(むま)れ付(つき)もいと尋常にして、甚(はなはだ)みめよく、常に敷嶋(しきしま)の道に心をよせ、明暮(あけくれ)、琴を彈じて、兩親の心をなぐさめける。
或時、座敷の緣に出て、庭の氣色を詠(ながめ)けるに、折節、初春(はつはる)の事なれば、梅(むめ)に木づたふ鶯の、おのが時(とき)得し風情(ふぜい)にて、飛びかふ樣のいとおかしかりければ、
わがやどの梅(むめ)がえになくうぐひすは
風のたよりに香をやとめまし
と口ずさみけると、母おや、聞きて、
「げにおもしろくつゞけ玉ふ物かな。御身の言の葉にて、わらはも、おもひより侍る。」
とて、取りあへず、
春風の誘ふ垣ねの梅(むめ)が枝に
なきてうつろふ鶯のこゑ
かく詠(ゑひ)じられければ、此娘、聞きて、
「実(げ)によくいひかなへさせたまひける哉。」
と、互に親子、心をなぐさめ樂しみ居(ゐ)ける所に、むかふの樹木(じゆぼく)の陰より、時ならぬ小虵(こへび)壱疋(いつひき)、
「するする。」
といでゝ、此娘の傍(そば)へはひ上(あが)るほどに、
「あらおそろしや。」
と、内にかけいれば、虵も同じく付(つい)て入(いる)。
人々、あはて立出(たちいで)て、杖をもつて、追(おひ)はらへども、少しも、さらず、此娘の行方(ゆくかた)に、したがひ行く。
母人(はゝびと)、大(おほ)きにかなしみ、夫(おつと[やぶちゃん注:ママ。])に
「かく。」
と告げければ、富次郎、大きにおどろき、從者(ずさ)を呼(よび)て取捨(とりすて)させけるに、何(いづ)くより來(きた)るともなく、頓(やが)て立歸(たちかへ)りて娘の傍(そば)にあり。
幾度(いくたび)すてゝも、元のごとく歸りしかば、ぜひなく打殺(うちころ)させて、遙かの谷に捨(すて)けるに、又、立ち歸りて、もとの如し。
「こはいかに。」
と、切(きれ)ども、突(つけ)ども、生歸(いきかへ)り、生歸りて、中々(なかなか)娘の傍を放れやらず。
兩親をはじめ、家内の人々、
「如何(いかゞ)はせん。」
と嘆かれける。
娘もいと淺ましくおもひて、次第次第によはり果(はて)、朝夕(てうせき)の食事とてもすゝまねば、今は命もあやうく見へければ、諸寺諸社への祈禱、山伏・ひじりの咒詛(まじなひ)、殘る所なく心を盡せども、更に其(その)驗(しるし)もあらざれば、只いたづらに娘の死するを守り居(ゐ)ける。
然るに當國永平寺の長老、ひそかに此事を聞(きゝ)給ひ、不便(びん)の事におぼし召し、富次郎が宅(たく)に御入有りて、娘の樣躰(やうだい)・虵がふるまひを、づくづくと[やぶちゃん注:ママ。]御覽あり、娘に仰せけるやうは、
「御身、座を立て、向ふの方(かた)に步(あゆ)み行べし。」
と。
仰せにしたがひ、やうやう人に扶(たすけ)られ、二十(にじつ)步(ほ/あゆみ)斗(ばかり)行くに、虵も同じくしたがひ行く。
娘、とまれば、虵も、とまる。
時に長老、又、
「こなたへ。」
とおほせけるに、娘、歸れば、虵も、同じく立歸る所を、長老、衣の袖にかくし持玉(もちたま)ひし、壱尺餘りの木刀(ぼくたう)にて、此虵が敷居をこゆる所を、つよくおさへ玉へば、虵、行(ゆく)事能(あた)はずして、此木刀を遁(のが)れんと、身をもだへける程(ほど)、いよいよ強く押へたまへば、術(じゆつ)なくや有りけん、頓(やが)てふり歸り、木刀に喰付(くひつく)所を、右にひかへ持(もち)玉ひし小劔(こつるぎ)をもつて、頭を「丁(てう)」ど、打ち落し給ひ、
「はやはや、何方(いづかた)へも捨(すつ)べし。」
と。
仰せにまかせ、下人等(ら)、急ぎ野邊(のべ)に捨(すて)ける。
其時、長老、宣(のたま)ひけるは、
「最早、此後(こののち)、來たる事、努々(ゆめゆめ)あるべからず。此幾月日(いくつきひ)の苦しみ、兩親のなげき、おもひやり侍るなり。今よりしては、心やすかれ。」
とて、御歸寺(ごきじ)ありければ、富次郎夫婦は、餘りの事の有難さに、なみだをながして、御後影(おんうしろかげ)を伏拜(ふしおが)みけるが、其後(そのゝち)は、此虵、ふたゝび、きたらず、娘も日を經て本復(ほんぶく)し、元のごとくになりしかば、兩親はいふにおよばず、一門所緣の人々迄、悦ぶ事、かぎりなし。
「誠に有難き御僧かな。」
とて、聞く人、感淚をながしける。
[やぶちゃん注:以下の筆者評の部分は底本では文字が有意に小さく、全体が本文の二字相当の下げとなっているが、ブラウザの不具合を考えて引き揚げた。]
評じて曰(いはく)、虵、木刀に喰付(くひつき)たる内、しばらく娘の事を忘れたり。其執心(しうしん)のさりし所を、害し給ふゆへに、ふたゝび、娘に付事、能はず。是(これ)、倂(しか)しながら、知識(ちしき)の行ひにて、凡情(ぼんじやう)のおよぶ所にあらず。誠に、此一箇(いつこ)に限らず、萬(よろづ)の事におよぼして、益(ゑき[やぶちゃん注:ママ。])ある事、少なからず。諸人、能(よく)思ふべし。
[やぶちゃん注:おぞましき異類恋慕譚に、鎌倉新仏教のチャンピオンたる禅宗僧が、その蛇の執心の意識をずらすことで退治するという仕掛けを施し、気味の悪さを和歌で和らげてあるこの一篇、私などには、江戸時代の臨済中興の祖とされる名僧白隠慧鶴(えかく 貞享二(一六八六)年~明和五(一七六九)年)の逸話とされる、地獄を問う武士をけんもほろろに追い返して怒らせ、禅師を斬らんとしたその瞬間、彼に向って「それぞ地獄!」と応じた変形公案と同工異曲のようには思われる(白隠はまさに「太平百物語」の板行された享保一七(一七三二)年当時の同時代人である)ものの、なかなかに成功している怪談で、まず「太平百物語」の一つのクライマックスと言える。第四話目にこれを配し、しかも異例な作者の評言を添えるなど、筆者の自信作であったことは疑いない。但し、プロトタイプは恐らく中国の伝奇か志怪小説であろう。なお、この一条は既に「柴田宵曲 妖異博物館 執念の轉化」の注で電子化しているが、今回は底本を変えたので、一からやり直した。柴田宵曲はかなり綿密に本話を梗概訳しているので、そちらも見られたい。
「敷嶋(しきしま)の道」歌道のこと。これを「敷島の道」と呼ぶようになったのは、存外、新しいようだ。田中久三氏のサイト「亦不知其所終」の「敷島の道」の考証が興味深い。それによれば、歌学用語としての定着は鎌倉後期のようである。]
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