太平百物語卷二 十六 玉木蔭右衞門鎌倉にて難に逢ひし事
○十六 玉木蔭右衞門鎌倉にて難に逢ひし事
九州に玉木蔭右衞門といふ侍あり。
一年(ひとゝせ)、主君の御供して登られけるが、とし比(ごろ)、鎌倉の方(かた)に心ざしありて、御いとまを願はれけるに、早速の御免、有り難く、供者(ずさ/けらい[やぶちゃん注:ママ。後も同じ。])壱人召具(めしぐ)して、日比、飼ひ馴れし栗毛の馬(むま)にうち乘(のり)、かまくらに赴きしが、小袋坂(こぶくろざか)といふ所にて、日、すでに暮れかゝりしが、折からの星月夜(ほしづきよ)も、
「所がら。」
とて、一入(ひとしほ)、興(けう)まさり、いにしへの歌人(うたびと)の、ことの葉草(はぐさ)をおもひ出(いで)て、いと面白く行(ゆき)ける所に、道のほとりの山路(やまぢ)より、裝束(しやうぞく)異形(ゐぎやう[やぶちゃん注:ママ。])の人、來つて、蔭右衞門にむかひ、申けるは、
「われらが主人、御身の日暮れて道を急ぎ玉ふをしりて、御宿(やど)を參らせん爲に、わらはを迎ひに參らせぬ。いざ、させ給へ。」
といふに、蔭右衞門がいふやう、
「こは、おもひもふけぬ[やぶちゃん注:ママ。後も同じ。]御事かな。御身の主人(しゆじん)は此所の首長(しゆちやう/かしら)なるや。」
と尋ねければ、答へていふ、
「長(ちやう)にはあらず。されども、家、富(とみ)さかへて、おほくの從者(ずさ)を持(もち)けるが、御身のごとき旅人(りよじん)を、いたはり玉ふ。」
と、いふ。
「扨(さて)は。御こゝろざしの程、淺からず。」
とて、此(この)者と伴ひ行(ゆく)に、山に入る事、百步(ひやくほ/あゆみ[やぶちゃん注:この左ルビは「步」のみに附く。後も同じ。])ばかりにして、一つの大門(だいもん)あり、朱塗(しゆぬり)にして、甚だ高し。人、多く守り居て、偏(ひとへ)に國君(こくぐん[やぶちゃん注:ママ。])のごとし。
此所にて、馬(むま)より下(おり)て行く所を、此馬、蔭右衞門が袂(たもと)を喰(くは)へて、しきりに、留(とゞ)む。
蔭右衞門、其故をさとらずして、あざわらひ、從者(ずさ/けらい)と共に殘し置きて、又、廿步(にじつほ/あゆみ)斗(ばかり)ゆけば、中門に至る。
彼(かの)者、いふ、
「しばらく、是れに待(まち)玉へ。」
とて、一人、内に入しが、程なく、衣冠(ゐくわん[やぶちゃん注:ママ。])せし人、兩人(りやうにん)きたりて、蔭右衞門を誘ひ入(いり)ぬ。
内の体(てい)をみるに、主人とおぼしき人、身に裘(かはごろも)を着(ちやく)し、面色(めんしよく)より相好(さうがふ[やぶちゃん注:ママ。])に至るまで、常の人には、事、かはりぬ。
夫(それ)より有あふ臣下、次第に列(つらな)り、坐す。
蔭右衞門、此有樣(ありさま)をみて、おもはず、拜す。
時に、主人のいはく、
「われ、此所に住(すむ)事、久し。たまたま、御身の通る事をしりて、迎へ入たり。これ、饗應(もてなさ)んが爲なり。」
と、いふ。
蔭右衞門、拜謝すれば、やがて、酒宴をまふく。
其器物(うつはもの)、皆、めづらしき物どもなり。主人、興に乘じ、左右の臣下にいふやう、
「かゝるめづらかなる客人(まらうど)を、など、なぐさめ參らせずや。」
と、いへば、
「畏(かしこま)り奉る。」
とて、御前に集(あつま)る。
其人々をみれば、其形(かた)ち、黑き裝束あり、錦(にしき)を著(ちやく)し、白き冠(かんぶ[やぶちゃん注:ママ。])り、又は、靑き衣、まだらなる衣裳ありて、いづれも酒を酌(くみ)かはし、音樂を奏す。
蔭右衞門も興に乘じける所に、錦を著(き)たる者、蔭右衞門にいふやう、
「われは未(いまだ)夜食(やしよく)せず。客人(きやくじん)、われに與へよ。」
と、いふ。
蔭右衞門がいはく、
「君の望み玉はん食物(しよくもつ)、此所にして、われ、いかで求めん。」
といへば、
「いや。わが望む所は外(ほか)になし。只、御身の肉をくらはしめ玉へ。別の味ひを求(もとめ)る事、なし。」
と、いふ。
蔭右衞門、大きに驚き、急に退(しりぞ)かんとすれば、黑き衣(ころも)着たる者、笑つていはく、
「客人(きやくじん)、おどろく事なかれ。われらは、さきに、足下(そこ)の下人と馬(むま)とを、わけて喰(くら)ひしゆへに、食(しよく)に飽(あき)たり。はやはや、御身を與へ玉へ。」
と、いふ。
蔭右衞門、いよいよ色を變じ、
『こは、そも、變化(へんげ)の者にたばかられけるぞ。』
と、おもひながら、すべき樣なく、網切(あきれ)たる所に、主人、此体(てい)をみて、いはく、
「汝等、何とて客人(まらうど)の心にさかふや。」
と、しかりければ、錦をきたる者、わらつて、
「これ、戲(たはふ)れなり。」
とて、退(しりぞ)きしが、しばらくありて、外(ほか)より、入り來(きた)る者あり。
其形(かた)ち、頭(かしら)、ながく、五体の丸き者なりしが、主人にむかひ、いふ様、
「われ、常に占卜(せんぼく/うらなひ)を好む。主人の愁ひ、此客人(きやくじん)に有る事を、しる。早く、ころし玉へ。」
と、すゝむ。
主人、怒つていはく、
「此悅びに何の災(わざはひ)あらん。」
卜者(ぼくしや/うらなひ)、なげきていふ、
「殺し玉はずんば、御身をはじめ、此所にありあふ者、一人も生(いく)る事、叶ふべからず。其時、おもひ知り玉へ。」
と、いふ。
主人、大きに怒つて、終に卜者(ぼくしや)を殺す。
夜(よ)更(ふ)くるにしたがつて、皆々、大きに醉(ゑひ)て、たふれ臥(ふせ)ば、蔭右衞門も、心氣(しんき)つかれて、眠(ねふ)らんとする時、天、まさに裂(さけ)んとして、忽ち、目(め)、覚(さ)め、あたりをみれば、大ひなる巖(いはほ)の中(うと)に、ふせり。
其中に種(しゆ)々の調度(てうど)、あり。
一つの大猿(おほざる)、かたち、人の如くなるが、醉(ゑひ)て、地に伏す。
これ、主人なり。
其次は、劫(かう)經たる熊、白き頭(かしら)の狼、毛の禿(はげ)たる狸、或は狐、鹿、猪、いづれも共に酔(ゑひ)ふして、正体(しやうだい[やぶちゃん注:ママ。])、なし。
其傍(かたはら)に、ひとつの龜、死しゐたり。
是、さきの卜者(ぼくしや)なり。
こなたをみれば、家來と馬(むま)とを取りくらひて、頭(かしら)と手足、すこし、のこれり。
蔭右衞門、十方(とほう)[やぶちゃん注:総てママ。]に暮(くれ)ながら、すべき樣なく、ひそかにしのび遁(のが)れいで、里にかけ付、所の長(ちやう/かしら)に告(つげ)て、地頭(ぢとう)に、
「かく。」
と訴ふれば、頓(やが)て、數(す)百人の若者どもをかり催し、武具を帶(たい)して、かけ來り、彼(かの)山中(さんちう)に分入(わけいれ)ば、大將の大猿、此音におどろき覚(さめ)て、大ひに叫んで、いはく、
「卜者(ぼくしや)がいさめを用ひずして、今、かくのごとし。」
と、いふ内に、はや、其いはほを打碎(うちくだ)き、手に手に弓・鐵砲をもつて、悉(ことごとく)平治(へいぢ)しければ、蔭右衞門は虎口(こかう)の難をのがれ、剩(あまつさ)へ、家來と馬(むま)の敵(かたき)を眼前(がんぜん)に取つて、人々に一禮し、辛(から)ふじて[やぶちゃん注:ママ。]靏(つる)が岡に至りしとかや。
[やぶちゃん注:さても私のテリトリーにしてフリークの鎌倉が舞台の異類変化オン・パレードの怪異譚とは頗る珍しい特異点の一話である。
「玉木蔭右衞門」不詳。「衞」の字は総てが「串」のような極端な奇妙な略字(恐らくはこれ(リンク先は「グリフウィキ」の当該字の画像ページ)の更なる略字で「ヱ」の原型)で表記不能であるため、正字で示した。
「栗毛」馬の毛色の名。地肌が赤黒く、鬣(たてがみ)と尾が赤茶色を呈しているもの。品種改良の結果、出現したもの。
「小袋坂(こぶくろざか)」水戸光圀の「新編鎌倉志卷之二」には、
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○巨福呂坂 巨福路(コフクロ)〔或作小袋路或作禮又作呂(或は「小袋路」(コフクロ)に作る。「路」或は「禮」に作る。又は「呂」に作る)。〕坂(サカ)は、雪下(ユキノシタ)より建長寺の前へいづる切通(キリトヲシなり)。【太平記】幷【神明鏡】に、新田義貞(ニツタヨシサダ)、鎌倉合戰の時、堀口美濃の守貞滿(サダミツ)を、巨福呂坂(コフクロサカ)へ指向(サシムケ)らると有は、此所にはあらず。市場村(イチバムラ)の西に、巨福呂谷)コフクロガヤ)と云所あり。是を指(サ)すなり。則、此道筋(ミチスヂ)なり。此の所ろは、巨福呂谷(コフクロガヤ)へ行(ユ)く坂(サカ)の名なり。【太平記】【神明鏡】をも、巨福呂谷(コフクロガヤ)となして見るべし。古老の云、此の邊より市場村(イチバムラ)の邊までを、巨福呂谷(コフクロガヤ)と云。故に建長寺を巨福山(コフクサン)と云也と。【鎌倉九代記】に、新田義興(ヨシヲキ)・脇屋義治(ワキヤヨシハル)、鎌倉に攻入(セメイ)りし時、基氏方(モトウヂガタ)の兵、小袋坂(コブクロサカ)・假粧坂(ケワヒサカ)に集りて堅(カタ)めたりとあるは、市場村(イチバムラ)の西を云(イ)ふには非ず。則ち、此の所ろを指(サ)すなり。義興(ヨシヲキ)、義治(ヨシハル)、已に源氏山(ゲンジヤマ)へ登り、鶴が岡山(ヤマ)へ登るとあるを以て知る也。
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とある。旧の巨福呂坂(現在の住所地名ではこの表記)は、近代に掘削して切通しになっている県道二十一号の被覆天上のあるトンネルのあそこではなく、その南西直近を南西直近の尾根の上を通る、かなりきつい山越え道であった。国土地理院図で説明すると、まさにこの部分の「巨福呂坂(二)」と言う地番が書かれてある右側、同図を少し拡大すると、旧道の南側の痕跡が判り、そのどん詰ったところに「巨福呂坂」と書いてあるのが、南側の坂の上ったところで、ここから北西へ伸びて、そこで現在の県道の掘削以前の尾根を越えて、円応寺前・建長寺門前で現行の県道のある道と一致していたものと推定される。現行、一般に車で鎌倉に入る場合は、この県道を使うのが普通であるが、鎌倉時代のこのルートは山越えでしかも狭く、鎌倉合戦の時も北からの攻め手は北鎌倉の浄智寺から西に迂回し、化粧坂(けわいざか)から侵入を試みたのは、そのためである。
さて、次に本ロケーション、猿(ましら)を首魁とする異類の巣窟であるが、三ヶ所が候補地として考えられる。巨福呂坂で呼びとめられたとすると、先の国土地理院図で示した箇所をやや引いてグーグル・マップ・データの航空写真画像で示すと、こことなるが、一つは、ここから東北方向に尾根を伝って建長寺の南東・鶴ヶ岡八幡宮の北西の山林である。但し、そこの南東部(鶴岡八幡宮の北西の谷戸)は候補外となる。何故なら、そこは二十五坊ヶ谷(やつ)と言って、今は人家も少ない閑静な谷で観光客は行かないところ乍ら、ここにはかつて鶴岡八幡宮寺の供僧寺院の集合である二十五坊がみっちりあったからである(明治の廃仏毀釈で総て消失した。詳しくは私の「新編鎌倉志卷之一」を参照されたい。他人からの拝借であるが、絵図や写真もある)。この尾根筋は十王岩を経て天園に向かい、所謂、「百八やぐら」へも通ずるから、本話のロケーション(この最後に現れる岩窟は鎌倉の人工の墳墓である「やぐら」の一つである可能性がすこぶる高い)には最も都合がよく、東北方向へ尾根を詰めれば詰めるほど、人里から有意に離れるからである。他の二つは、反対の西方向で、一つは私の愛する本尊のある浄光明寺の裏山であるが、ここは人里に近過ぎるし、自然林の範囲が狭い。今一つは、西北へ少し行った現在の横須賀線のトンネルの上の尾根で、ここまで行きつけば、今も、まず、普通の人が立ち入らぬ山林地ではあるが、ここに辿り着くためには、鎌倉時代からあった人作の亀ヶ谷坂を横切らねばならないので、私は無理があると考える。以上から、このロケーションは最初に挙げた一帯であると比定するものである。
『星月夜(ほしづきよ)も、「所がら。」とて』具体的な対象物としては鎌倉市坂ノ下の極楽寺坂切通しの鎌倉側手前の登り口右側にある、鎌倉十井(せい)の一つとされる「星月夜の井」があり、現存するが(グーグル・マップ・データ)、まあ、見るべきものはない。「新編鎌倉志卷之六」これは私の「『風俗畫報』臨時増刊「鎌倉江の島名所圖會」 星月夜井/虛空藏堂――(脱漏分+山本松谷挿絵)」を読まれるがよかろう。尤も、リンク先のそれは「新編鎌倉志卷之六」巻頭の「〇星月夜井〔附虗空藏堂〕」の無批判な引き写しなのであるが。要は、それらに記されている鎌倉のこの地名(これは井戸の名というよりもここら辺りの旧地名である。以下の引用参照)の名を詠み込んだとされる「後堀河百首」の常陸の一首、
我ひとり鎌倉山を越へ行けば、星月夜こそうれしかりけれ
とか、堯慧の「北國紀行」の、
極樂寺へ至るほとに、いとくらき山間
に、星月夜といふ所あり、むかし此邊
に星の御堂とて侍りきなど、古き僧の
申侍りしかは、
今もなほ星月夜こそのこるらめ寺なき谷の闇の燈
などを蔭右衛門は、坂の上で実際の降るような星空を眺めながら、想起して興じたのである。ということは彼には相応にその素養もあったらしい。
「國君(こくぐん)」一国の王。
「此馬、蔭右衞門が袂(たもと)を喰(くは)へて、しきりに、留(とゞ)む」忠実なる智ある同じ獣として、彼らの臭いを嗅ぎ知って、異形の変化(へんげ)と察知したのである。何と、忠たらんや!
「裘(かはごろも)」獣類の毛皮で出来た衣服。まんず、彼自身が大猿ですから。
「相好(さうがふ)」顔つき。正しい歴史的仮名遣は「さうがう」。
[やぶちゃん注:ママ。])に至るまで、常の人には、事、かはりぬ。
「黑き裝束あり」最後に出る(以下同じ)「熊」であろう。
「白き冠(かんぶ[やぶちゃん注:ママ。])り」なのは「白き頭の狼」であろう。
「靑き衣」不詳。古文の「青」は概ね暗い藍色であるから、それの白っぽいものなら、「貍」か。或いは妖狐の類いは青「狐」有り得よう。さらに白が強いのなら、挿絵にしか出ない(後姿)兎かも知れぬ。挿絵のそれは手前右奥が熊で、その前が白狼、中に兎で、左に控えているのが狸か。ちょっと鼬(いたち)か獺(かわうそ)のようでもあり、彼らの絵は本文に今一つ対応していない感じで、絵も上手くない(動物の顔がどれも下手だ。兎を背後から描いたのも顔を描くのが厭だったからではないか)。
「まだらなる衣裳」「鹿」であろう。
「網切(あきれ)たる」「江戸文庫」版は「あきれたる」と平仮名で、「徳川文芸類聚」版では「惘切(あきれ)たる」となっていて意味の通る(「惘」は「呆れる」の意)表記だが、私の底本としている原本は逆立ちしても「惘」には見えない「網」の崩し字である。それで表示した。
「卜者(ぼくしや/うらなひ)」これが「龜」(かめ)なわけで、亀卜(きぼく)と絡めるのは如何にも嵌まり過ぎていて、微苦笑せざるを得ない。これ以下の展開、忠臣伍子胥(ごししょ)と凡愚の呉王夫差の趣きがある。
「熊」昨日完遂した「和漢三才圖會卷第三十八 獸類」の「熊」の項をどうぞ!
「狼」「和漢三才圖會卷第三十八 獸類 狼」をどうぞ!
「狸」「和漢三才圖會卷第三十八 獸類 貍」をどうぞ!
「狐」「和漢三才圖會卷第三十八 獸類 狐」をどうぞ!
「鹿」「和漢三才圖會卷第三十八 獸類 鹿」をどうぞ!
「猪」「和漢三才圖會卷第三十八 獸類 猪」をどうぞ!
「地頭(ぢとう)」江戸時代のそれは知行取りの旗本。また、各藩で知行地を与えられ、租税徴収の権を持っていた家臣を指す。鎌倉は前者。多数人に分割されていた。
「靏(つる)が岡」現在の鶴岡八幡宮。私の推定したロケーションなら、バッチ、グー!]
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