陰の卷 清白(伊良子清白) (「鬼の語」初出形)
陰 の 卷
顏(かほ)蒼白(あをじろ)き若者(わかもの)に
祕(ひ)める不思議(ふしぎ)きかばやと
村人(むらびと)數多(あまた)來(きた)れども
彼(かれ)はさびしく笑(わら)ふのみ
前(きそ)の日(ひ)村(むら)を立出(たちい)でゝ
仙者(せんじや)が嶽(たけ)に登(のぼ)りしが
恐怖(おそれ)を抱(いだ)くものゝごと
山(やま)の景色(けしき)を語(かた)らはず
傳(つた)へ聞(き)くらく、此(この)河(かは)の
きはまる所(ところ)瀧(たき)ありて
其(そ)れより奥(おく)に入(い)るものは
必(かなら)ず山(やま)の祟(たゝり)あり
蝦蟆(がま)、氣(き)を吹(ふ)きて立曇(たちくも)る
篠竹原(しのだけはら)を分(わ)け行(ゆ)けば
冷(ひ)えし掌(てのひら)あらはれて
項に顏(かほ)に觸(ふ)るゝとぞ
陽炎(かげろふ)高(たか)さ二萬尺(まんじやく)
黃山、赤山、黑山の
劍(けん)を植ゑたる頂(いただき)に
祕密(ひみつ)の主(ぬし)は宿(やど)るなり
盆(ぼん)の一日(ひとひ)は暮(く)れはてゝ
淋(さび)しき雨(あめ)と成(な)りにけり
怪(け)しく光(ひか)りし若者(わかもの)の
眼(まなこ)の色(いろ)は冴(さ)え行(ゆ)きぬ
劉邦(りうはう)未(いま)だ若(わか)うして
谷路(たにぢ)の底(そこ)に蛇(じや)を斬(き)りつ
而(しか)うして彼(かれ)漢王(かんわう)の
位(くらゐ)をつひに贏(か)ち獲(え)たり
この子も非凡、山の氣(き)に
中(あ)たりて床(とこ)に隠(かく)れども
禁(きん)を守(まも)りて愚鈍者(ぐどんじや)に
鬼(おに)の語(ことば)を語(かた)らはず
[やぶちゃん注:初出は明治三六(一九〇三)年一月一日発行の『文庫』であるが、初出では署名「清白」で、総標題「山岳雜詩」のもとに、この「陰の卷」と「山頂」「淺間の烟」(孰れも新潮社刊「現代詩人全集 第四巻 伊良子清白集」に収録、後者は収録時に「淺間の煙」と表記を変えている)の全三篇を収録。本「陰の卷」は「孔雀船」で「鬼(おに)の語(ことば)」と改題して収録してある。校異に従い、初出形に戻したが、「孔雀船」同様、「項に顏(かほ)に觸(ふ)るゝとぞ」の部分の「項」は初出では「頂」となっている。「孔雀船」でも「頂(うなじ)」となっているが、底本の「孔雀船」校訂本文は別の二書に基づき「項(うなじ)」と訂するので、特異的に誤植と断じて「項」とした。思うに、これも長篇物語詩の構想の中の一部だったのではなかろうか?]