柳田國男 山島民譚集 原文・訓読・附オリジナル注「馬蹄石」(12) 「駒ケ嶽」(2)
《原文》
深山ノ奧ニ於テ生キタル白馬ヲ見タリト云フ話モ亦多シ。紀州熊野ノ安堵峯(アンドミネ)ノ中腹ニ、千疊ト云ヒテ數町ノ間草ノ低ク連ナリタル平アリ。如法ノ荒山中ナルニモ拘ラズ、古キ土器ノ破片ト共ニ古代ノ戰爭ニ關スル口碑ノ斷片ヲ殘存ス。其一區域ヲ或ハ馬ノ馬場ト名ヅク。時トシテ白馬ノ馳セアリクヲ目擊セシ者アリ〔南方熊楠氏報〕。【神馬足跡】薩摩日置都田布施村ノ金峯山ニモ、山中ニ權現ノ神馬住ミテ、其姿ハ見タル人無ケレドモ、社殿又ハ社頭ノ土ニ蹄ノ跡ヲ殘シ行クコトアリ〔三國名勝圖會〕。美作ノ瀧谷山妙願寺ハ本尊ハ阿彌陀ニシテ靈異多シ。近所出火ノ節ハ堂ノ前ニテ馬七八疋ニ乘リタル者集リ何ヤラ囁ク如ク本堂ニ聞エ、又馬ノ足跡ヲ土ノ上ニ殘スト云フ〔山陽美作記上〕。【山中ノ馬】木曾ノ駒ケ嶽ニ不思議ノ駒ノ居ルコトハ頗ル有名ナル話ナリ。或ハ至ツテ小ナル馬ニシテ狗ホドノ足跡ヲ土ノ上ニ留ムト謂ヒ〔蕗原拾葉所錄天明登攀記〕、或ハ又偉大ナル葦毛ノ馬ノ、尾モ鬣モ垂レテ地ニ曳キ、眼ノ光ハ鏡ヲ懸ケタルガ如ク怖シキガ、人影ヲ見ナガラ靜々ト嶺ノ中央マデ昇リ行ク程ニ、俄カニ雲立チ蔽ヒ行方ヲ知ラズ、其蹄ノ痕ヲ見レバ尺以上アリキト云フ說アリ〔新著聞集所引寬文四年登攀記〕。今若シ此等ノ傳說ニ基キテ馬ニ似タル一種ノ野獸ノ分布ヲ推測スル人アラバ、ソハ多クノ山中ノ馬ノ毛色白カリシト云フ事實ヲ過當ニ輕視スル者ナリ。日本ノ山ニハ白色ノ動物ハソウハ居ラヌ筈ナレバナリ。自分ノ信ズル所ニ依レバ、白馬ハ即チ山ノ神ノ馬ナリ。【山ノ神田ノ神】麓ノ里人時トシテ之ヲ見タリト云フ傳說ハ、ヤハリ亦山神ガ里ニ降リテ祭ヲ享クルト云フ信仰ノ崩レタルモノナルべシ。山ノ神ト田ノ神トハ同ジ神ナリト云フ信仰ハ、弘ク全國ニ分布スル所ノモノナルガ、伊賀ナドニテハ秋ノ收穫ガ終リテ後、田ノ神山ニ入リテ山ノ神ト爲リ、正月七日ノ日ヨリ山神ハ再ビ里ニ降リテ田ノ神トナルト云フ。【鍵引】此日ニハ多クノ村ニ鍵引ト云フ神事アリ。神木ニ注連ヲ結ヒ頌文(ジユモン)ヲ唱ヘツヽ田面ノ方へ之ヲ曳クワザヲ爲スナリ〔伊水溫故〕。【山神祭日】神ノ出入リノ日ハ地方ニ由リテ異同アリ。木曾ノ妻籠山口ノ邊ニテハ、舊曆二月ト十月ノ七日ヲ以テ山ノ講ノ日ト稱シ、山ノ神ヲ祭ル。甲府ノ山神社ノ緣日ハ正月ト十月トノ十七日ナルガ〔甲陽記〕、甲州ノ在方ニテハ十月十日ヲ以テ田ノ神ヲ祭ル〔裏見寒話〕。肥後ノ菊池ノ河原(カワハル)村大字木庭(コバ)ニテハ十一月九日ニ山ノ神ヲ祭ル〔菊池風土記〕。佐渡ニテハ二月九日ヲ山ノ神ノ日トシテ山ニ入ルコトヲ愼ミ、矢根石ノ天ヨリ降ルモ此日ニ在リト信ズ〔佐渡志五及ビ鏃石考〕。【十二神】越後魚沼地方ニテハ一般ニ二月十二日ニテ、從ツテ山神ノ祭ヲ十二講ト呼ビ〔浦佐組年中行事〕、明治以後ハ一般ニ山神祠ノ名ヲ十二神社ト改メタリ〔北魚沼郡誌〕。會津ノ山村ニ於テハ、或ハ正月十七日ニ山神講ヲ營ミ、又ハ二月九日ヲ山ノ神ノ木算ヘト稱シテ戒メテ山ニ入ラヌ例モアレド、多クハ亦正月十二日ヲ以テ其祭日ト爲シ、十二山神ト云フ祠モ處々ニ多シ〔新編會津風土記〕。十二日ヲ用ヰル風ハ隨分廣ク行ハレ、磐城相馬領ノ如キモ亦然リ〔奧相志〕。秋田縣ニテハ平鹿郡山内村大字平野澤ノ田ノ神ナド、四月ト十二月トノ十二日ニ古クヨリ之ヲ祭リシノミナラズ〔雪乃出羽路〕、今モ槪シテ二月ト十月トノ十二日ヲ以テ山ノ神田ノ神交代ノ日ト爲セリ〔山方石之助氏報〕。此地方ニハ北部ハ津輕堺ノ田代嶽、南ハ雄勝ノ東鳥海山ヲ以テ共ニ田ノ神ノ祭場ト爲セリ。【大山祇】田ノ神ヲ高山ノ頂ニ祀ルハ一見不思議ノ如クナレド、出羽ナドニテ山ノ神ト云フハ單ニ山ニ住ム神ノ義ニシテ、大山祇ニハ限ラザリシ由ナレバ〔雪乃出羽路〕、田ノ神任務終リテ靜カニ山中ニ休息シタマフヲ、往キテ迎フルノ意味ナリシナラン。此等ノ事實ヲ考ヘ合ストキハ、深山ノ白馬モ以前ハ右ノ如クー定ノ日ヲ以テ里人ニ現ハレシニハ非ザルカ。駿河ノ奧山ナル安倍郡梅ケ島村ノ舊家市川氏ニ、繪馬ノ古板木ヲ藏ス。モトハ二枚アリキ。【日待】新曆五月ト十一月ト春秋二季ノ日待ノ日ニ、村民此板木ヲ借リテ紙ニ刷リ其畫ヲ村社ノ前ニ貼リ置クヲ習トセリ。【歸リ馬】馬ノ畫ハ右向ト左向トノ二種ニテ、今殘レル板木ノ左向ナルハ之ヲ歸リ馬ト呼ビ、秋ノ祭ニ用ヰラルヽモノナリ〔仙梅日記〕。陸中遠野ニモ之ニ似タル繪馬ノ板木ヲ刷リテ出ス家多シ。春ノ農事ノ始マルニ先ダチテ之ヲ乞ヒテ田ノ水口ニ立テ神ヲ祭ルト云ヘリ〔佐々木繁氏談〕。【出駒入駒】カノ繪錢ノ出駒入駒ガ、之ト關係アリヤ否ヤハ兎モ角モ、此馬ノ田ノ神山ノ神ノ乘用ナリシコトノミハ、先ヅハ疑ヲ容ルヽノ餘地ナカルべシ。二月初午ノ祭ノ如キモ、今ハ狐ノ緣ノミ深クナリタレドモ、古クハ山ニ人ル日ノ祭ナリシコト、古歌ヲ以テ之ヲ證スルニ難カラズ。【白色ノ忌】常陸那珂郡柳河(ヤナガハ)村附近ニテハ、二月八日ノ午前ト十二月八日ノ午後ヨリト、白キ物ヲ屋外ニ出スコトヲ戒ムル俗信アリ〔人類學會雜誌第百五十九號〕。此日ハ他ノ地方ト同樣ニ山ニ入ルコトヲ愼ムヲ見レバ、即チ亦山神ノ祭日ニシテ、白キ物ヲ忌ムハ則チ白馬ヲ村ニ飼ハザルト同趣旨ノ風習ナルコトヲ知ル。
《訓読》
深山の奧に於いて、生きたる白馬を見たり、と云ふ話も亦、多し。紀州熊野の安堵峯(あんどみね)の中腹に、「千疊」と云ひて、數町の間[やぶちゃん注:一町は約百九メートルだから、六掛けで六百五十五メートルほどか。]、草の低く連なりたる平(たいら)あり。如法(によほふ)の[やぶちゃん注:そこらにある普通の。]荒山中(あらやまなか)なるにも拘らず、古き土器の破片と共に、古代の戰爭に關する口碑の斷片を殘存す。其の一區域を或いは「馬の馬場」と名づく。時として、白馬の馳せありくを目擊せし者あり〔南方熊楠氏報〕。【神馬足跡】薩摩日置(ひおき)都田布施(たぶせ)村の金峯山(きんぽうざん)にも、山中に權現の神馬住みて、其の姿は見たる人無けれども、社殿又は社頭の土に蹄(ひづめ)の跡を殘し行くことあり〔「三國名勝圖會」〕。美作(みまさか)の瀧谷山妙願寺は、本尊は阿彌陀にして、靈異、多し。近所出火の節は、堂の前にて、馬七、八疋に乘りたる者、集まり、何やら、囁(ささや)くごとく、本堂に聞こえ、又、馬の足跡を土の上に殘すと云ふ〔「山陽美作記」上〕。【山中の馬】木曾の駒ケ嶽に不思議の駒の居(ゐ)ることは、頗る有名なる話なり。或いは、至つて小なる馬にして、狗(いぬ)ほどの足跡を土の上に留むと謂ひ〔「蕗原拾葉」所錄「天明登攀記」〕、或いは又、偉大なる葦毛の馬の、尾も鬣(たてがみ)も、垂れて、地に曳き、眼の光は、鏡を懸けたるがごとく怖しきが、人影を見ながら、靜々(しづしづ)と嶺の中央まで昇り行く程に、俄かに、雲、立ち蔽ひ、行方を知らず、其の蹄の痕を見れば、尺以上ありき、と云ふ說あり〔「新著聞集」所引「寬文四年登攀記」〕。今、若(も)し、此等の傳說に基きて、馬に似たる一種の野獸の分布を推測する人あらば、そは、多くの山中の馬の毛色、白かりしと云ふ事實を、過當(かたう)に[やぶちゃん注:許容されるレベルを越えて過剰に。]輕視する者なり。日本の山には、白色の動物は、そうは居らぬ筈なればなり。自分の信ずる所に依れば、白馬は、即ち、「山の神」の馬なり。【山の神・田の神】麓の里人、時として之れを見たり、と云ふ傳說は、やはり亦、山神(やまがみ)が里に降(くだ)りて祭を享(う)くると云ふ信仰の、崩れたるものなるべし。『「山の神」と「田の神」とは同じ神なり』と云ふ信仰は、弘(ひろ)く全國に分布する所のものなるが、伊賀などにては、秋の收穫が終りて後、「田の神」、山に入りて「山の神」と爲り、正月七日の日より、「山神」は再び里に降りて「田の神」となると云ふ。【鍵引(かぎひき)】此の日には多くの村に「鍵引」と云ふ神事あり。神木(しんぼく)に注連(しめ)を結(ゆ)ひ、頌文(じゆもん)を唱へつゝ、田面(たのも)の方へ、之れを曳くわざを爲すなり〔「伊水溫故」〕。【山神祭日】神の出入りの日は地方に由りて異同あり。木曾の妻籠(つまごめ)・山口の邊りにては、舊曆二月と十月の七日を以つて「山の講の日」と稱し、「山の神」を祭る。甲府の山神社の緣日は正月と十月との十七日なるが〔「甲陽記」〕、甲州の在方にては、十月十日を以つて「田の神」を祭る〔「裏見寒話」〕。肥後の菊池の河原(かわはる)村大字木庭(こば)にては十一月九日に「山の神」を祭る〔「菊池風土記」〕。佐渡にては二月九日を「山の神」の日として、山に入ることを愼み、「矢根石(やのねのいし)、天より降るも此の日に在り」と信ず〔「佐渡志」五及び「鏃石考(ぞくせきかう)」〕。【十二神】越後魚沼地方にては一般に二月十二日にて、從つて、「山神」の祭を「十二講」と呼び〔「浦佐組(うらさぐみ)年中行事」〕、明治以後は、一般に、山神祠(やまがみのほこら[やぶちゃん注:私がこれを音で読むのが厭なのでかく当て訓した。])の名を「十二神社」と改めたり〔「北魚沼郡誌」〕。會津の山村に於いては、或いは、正月十七日に「山神講(やまがみこう)」を營み、又は、二月九日を「山の神の木算(きかぞ)へ」と稱して、戒めて、山に入らぬ例もあれど、多くは亦、正月十二日を以つて、其の祭日と爲し、「十二山神(やまのかみ)」と云ふ祠も處々に多し〔「新編會津風土記」〕。十二日を用ゐる風(ふう)は隨分、廣く行はれ、磐城相馬領のごときも亦、然り〔「奧相志(おうさうし)」〕。秋田縣にては平鹿郡山内(さんない)村大字平野澤の「田の神」など、四月と十二月との十二日に、古くより之れを祭りしのみならず〔「雪乃出羽路」〕、今も、槪して、二月と十月との十二日を以つて、『山の神」・「田の神」交代の日』と爲せり〔山方石之助氏報〕。此の地方には、北部は津輕堺(さかひ)の田代嶽、南は雄勝(をがち)の東鳥海山(ちがちちやうかいさん)を以て共に田の神の祭場と爲せり。【大山祇(おほやまづみ)】「田の神」を高山の頂(いただき)に祀るは、一見、不思議のごとくなれど、出羽などにて「山の神」と云ふは、單に山に住む神の義にして、大山祇には限らざりし由なれば〔「雪乃出羽路」〕、「田の神」、任務終りて、靜かに山中に休息したまふを、往きて迎ふるの意味なりしならん。此等の事實を考へ合すときは、深山の白馬も、以前は右のごとく、ー定の日を以つて、里人に現はれしには非ざるか。駿河の奧山なる安倍郡梅ケ島村の舊家市川氏に、繪馬の古板木を藏す。もとは二枚ありき。【日待(ひまち)[やぶちゃん注:村の近隣の仲間が特定の日に集まり、夜を徹して籠り明かす行事。通常は家々で交代に宿を務め、各家からは主人又は主婦が一人ずつ参加する。小規模の信仰的行事(講)で、飲食をともにして楽しく過ごすのが通例である。]】新曆五月と十一月と春秋二季の日待の日に、村民、此の板木を借りて、紙に刷り、其の畫(ゑ)を村社の前に貼り置くを習ひとせり。【歸り馬】馬の畫は、右向きと左向きとの二種にて、今、殘れる板木の左向きなるは、之れを「歸り馬」と呼び、秋の祭に用ゐらるゝものなり〔「仙梅日記」〕。陸中遠野にも、之れに似たる繪馬の板木を刷りて出だす家、多し。春の農事の始まるに先だちて、之れを乞ひて、田の水口(みなぐち)に立て、神を祭ると云へり〔佐々木繁氏談[やぶちゃん注:「遠野物語」の原作者佐々木喜善のペン・ネーム。]〕。【出駒(でごま)・入駒(いりごま)】かの繪錢(ゑせん)の出駒・入駒が、之れと關係ありや否やは兎も角も、此の馬の、「田の神」・「山の神」の乘用なりしことのみは、先づは疑ひを容るゝの餘地、なかるべし。二月初午(はつうま)の祭のごときも、今は狐の緣のみ深くなりたれども、古くは、山に人る日の祭なりしこと、古歌を以つて之れを證するに難からず。【白色の忌】常陸那珂郡柳河(やながは)村附近にては、二月八日の午前と十二月八日の午後よりと、白き物を屋外に出すことを戒むる俗信あり〔『人類學會雜誌』第百五十九號〕。此の日は他の地方と同樣に、山に入ることを愼むを見れば、即ち亦、「山神」の祭日にして、白き物を忌むは、則ち、白馬を村に飼はざると同趣旨の風習なることを知る。
[やぶちゃん注:「紀州熊野の安堵峯(あんどみね)」奈良県吉野郡十津川村上湯川(和歌山県境ごく直近)にある標高千百八十四メートルの安堵山(あんどさん)(国土地理院図)。次注も参照されたい。
「南方熊楠氏報」当該内容の部分は確認出来なかったが、明治四四(一九一一)年四月二十二日附の南方熊楠の柳田國男宛書簡で恐らく(書き方から)始めて南方が柳田にこの「安堵峯」の話をしており、その後もここで得た伝承を柳田宛の書簡で披露しているから、この時期に南方から得た情報であろうと思われる。因みに、当該書簡で南方は、この峰の名前について、『西牟婁郡兵生(ひょうぜ)』は『二川村の大字』で、『ここに当国』(紀伊国)『第一の難所安堵が峰あり、護良親王ここまで逃げのびたまい安堵せるゆえ安堵が峰という』と由来を記している。
「薩摩日置(ひおき)都田布施(たぶせ)村の金峯山(きんぽうざん)」は鹿児島県南さつま市金峰町(ちょう)尾下(おくだり)他にある本岳・東岳・北岳からなる標高六百三十六メートル(北岳)の連山。地元では美人が寝た横顔に見えることから「美人岳」という別名で親しまれる。山頂直下西に金峰神社がある。ここ(グーグル・マップ・データ)。
「美作(みまさか)の瀧谷山妙願寺」不詳。岡山県津山市戸川町に浄土真宗妙願寺があるが、ここは通称は「鶴山御坊」で、山号は「法雲山」で違う。但し、本尊は阿弥陀如来(浄土真宗だから当然)で、この寺、美作国の触頭(ふれがしら)を務めた有力な寺ではある。「山陽美作記」に当たらぬと判らぬ。
「木曾の駒ケ嶽」長野県上松町・木曽町・宮田村の境界にそびえる標高二千九百五十六メートル山で、木曽山脈(中央アルプス)の最高峰。ここ(グーグル・マップ・データ)。言わずもがなであるが、「駒」を名に持つ山は概ね、融雪期の山肌に現れる馬型をした残雪に基づき(山容の場合もある)、ここ木曽駒ヶ岳でも雪解け期には幾つかの雪形が見られ、それらが古くから農業の目安にされてきた経緯がある。特に山名の元にもなった駒(馬)は中岳(標高二千九百二十五メートル)の山腹に現われるものを特に指す。
『「新著聞集」所引「寬文四年登攀記」』同書「勝蹟編篇第六」の「信州駒が岳馬化して雲に入る」。寛文四年は一六六四年。「早稲田大学図書館古典籍総合データベース」のこちらで原典当該部が読める。
「馬に似たる一種の野獸の分布を推測する人あらば」柳田先生、そんな人は、いませんよ。そんな動物、いませんもの。
「日本の山には、白色の動物は、そうは居らぬ筈なればなり」柳田先生、冬毛のライチョウ(キジ目キジ科ライチョウ属ライチョウ Lagopus muta)、食肉目イヌ亜目イタチ科イタチ亜科テン属テン亜種ホンドテン Martes melampus melampus の冬毛は頭部が灰白色或いは白出、尾の先端も白いですし、特に鯨偶蹄目反芻亜目 Pecora 下目ウシ科ヤギ亜科ヤギ族カモシカ属ニホンカモシカ Capricornis crispus には全身が白い個体もいますぜ?!
「鍵引(かぎひき)」個人ブログ「愛しきものたち」の「伊賀市 西高倉の山の神(カギヒキ)」に解説と写真が載る(地図有り)。それによれば、『三重県伊賀地方やその南部、名張や大和高原域では「山の神」信仰が根強く残り、この地域では山の神を迎えるために殆ど「鍵引き神事」を行うので「山始め」を単に「カギヒキ」と呼び習わしている』。『「鍵引き神事」は山の神を「田の神」として里に迎え入れるために木枝の鍵手で引き寄せる神事で』「『山の神と共々』、『農作物や銭金や糸錦も村へと引き寄せよ』」『と祈って今尚』、『行われている』。『その現場には中々』、『出遭う事は出来』ない『が、その場所を後から訪ねることは出来』るとして、『先ずは』、『滋賀県甲賀市に程近い伊賀市の北端、御斎峠(おとぎ峠)に近い高倉神社一の鳥居と共に有る』、その『神事の行われる「山の口」の大ケヤキ』の写真が示される(神事の痕跡が明瞭)。『この地、西高倉の「カギヒキ」は例年』一月七日『に行われ、「東の国の銭金この国へ引き寄せよ、西の国の糸錦この国へ引き寄せよ、チョイサ、チョイサ」と唱えられると言う』。『両部鳥居脇に立つ「山の口」の大ケヤキと呼ばれる欅の巨木に縄の片方が巻きつけられ、鍵引神事の樫の葉をつけた鍵状の枝がたくさん付けられている』。『又』、『この西高倉では、縄は掛け渡されることなく』、『片方は切られて地表に打ち捨てられているが、これにはどういう意味が有るのか解らない』とある。検索では他の地方のそれも散見される。
「木曾の妻籠(つまごめ)」現在の長野県木曽郡南木曽町妻籠宿(グーグル・マップ・データ。以下同じ)。
「山口」岐阜県中津川市山口。県境を越えるが、実は妻籠の西直近。
「肥後の菊池の河原(かわはる)村大字木庭(こば)」旧上益城(かみましき)郡河原(かわはら)村、現在の熊本県阿蘇郡西原村河原の内であることしか判らない。この「かわはる」の読みも不審。郷土史研究家の御教授を乞う。
「矢根石(やのねのいし)、天より降るも此の日に在り」「矢根石(やのねのいし)」本邦では、縄文時代に弓矢の使用とともに現われ、縄文から弥生時代を通じて主に狩猟具として使われた剥片石器を指す。材料は黒曜石・粘板岩・頁岩が多い。ここで改めて説明するより、私の「北越奇談 巻之二 俗説十有七奇 (パート1 其一「神樂嶽の神樂」 其二「箭ノ根石」(Ⅰ))」や「同パート2」・「同パート3」を見られた方がビジュアル的にも手っ取り早い。なお、ここにあるように、これらを神々の武器と採り、暴雨風や落雷或いは禁忌を破る者が出た時、天からそれが振ってくると信じた、石器天降説は古くからあった。
「鏃石考(ぞくせきかう)」書名注は附けない約束だが、これは私の好きなの奇石収集家で本草学者であった木内石亭(きのうちせきてい 享保九(一七二五)年~文化五(一八〇八)年)の著作である。
「浦佐組(うらさぐみ)年中行事」「文化庁」公式サイト内の「浦佐毘沙門堂の裸押合(はだかおしあい)の習俗」で、宝暦(一七五一年~一七六四年)期に書かれた当地域の記録資料であることが判った。
『「山神」の祭を「十二講」と呼び』「十二山神(やまのかみ)」菊地章太氏の論文「十二山ノ神の信仰と祖霊観」(「上」・「中」・「下」・「拾遺」四部構成で孰れも総てPDFでダウン・ロード出来る)が非常に詳しい。
「磐城相馬領」現在の福島県相馬市・南相馬市・双葉郡の内の、旧標葉(しめは)郡と旧相馬郡に相当する(リンクはそれぞれのウィキで、そこにある旧郡域図で位置が判る)。
「平鹿郡山内(さんない)村大字平野澤」現在の秋田県横手市山内(さんない)平野沢。
「北部は津輕堺(さかひ)の田代嶽、南は雄勝(をがち)の東鳥海山(ちがちちやうかいさん)を以て共に田の神の祭場と爲せり」「田代岳」は秋田県大館市早口で、標高千百七十八メートル。「東鳥海山」は別名「権現山」で標高七百七十七メートルで、その名は単に山容が西方の鳥海山に似ていることによるもの。秋田県湯沢市相川麓沢。
「大山祇(おほやまづみ)」大山祇の神。小学館「日本大百科全書」より引く。狭義には、『記紀神話で』伊耶那岐・伊耶那美『の子、また磐長姫(いわながひめ)・木花開耶姫(このはなさくやひめ)の父として語られる神』で、「古事記」では「大山津見神」、「伊予国風土記」逸文では「大山積神」と『記す。本居宣長』は「古事記伝」の中で、『山津見とは山津持(やまつもち)、すなわち』、『山を持ち、つかさどる神のことであるという賀茂真淵』『の説を紹介している』。「伊予国風土記逸文では、『仁徳』『天皇のとき』、百済『国より渡来、初め摂津国御島(みしま)(大阪府三島)に座し、のち』、『伊予国御島(愛媛県今治』『市大三島(おおみしま)町)に移り、現在の大山祇』『神社に祀』『られたと記し』、「釈日本紀」では、『現在の静岡県三島市大宮町の三嶋』『大社の祭神としても記している』。但し、現在、各地の神社に祀られてある大山祇神は、そうした神話とは関係なのない、広義の意の「山の神」として一般に信仰されてきた神である、とある。
「安倍郡梅ケ島村」現在の静岡市葵区梅ヶ島。
「二月初午(はつうま)の祭のごときも、今は狐の緣のみ深くなりたれども」初午は本来その年の豊作祈願が原型であたが、それに稲荷信仰が強く結びついた結果、専ら、稲荷社の祭りのように転じてしまったものである。
「常陸那珂郡柳河(やながは)村」茨城県の旧那珂郡にかつて存在した村であるが、現在、村域は、ひたちなか市・那珂市・水戸市の三つに分離している。この附近(旧村名を継いでいる水戸市柳河町をポイントした)。]