かくれ沼 清白(伊良子清白) (「孔雀船」の「五月野」の初出題)
かくれ沼
五月野(さつきの)の晝(ひる)しみら
瑠璃囀(るりてん)の鳥(とり)なきて
草(くさ)長(なが)き南國(みなみぐに)
極熱(ごくねつ)の日(ひ)に火(も)ゆる
謎(なぞ)と組(く)む曲路(まがりみち)
深沼(ふけぬま)の岸(きし)に盡(つ)き
人形(ひとがた)の樹立(こだち)見(み)る
石(いし)の間(ひま)靑(あお)き水(みづ)
水(みづ)を截(き)る圓肩(まろがた)に
睡蓮(ひつじぐさ)花(はな)を分(わ)け
のぼりくる美(うま)し君(きみ)
柔(やはら)かに眼(め)を開(あ)けて
王藻髮(たまもがみ)捌(さば)け落(お)ち
眞素膚(ますはだ)に飜(か)へる浪(なみ)
木々(きぎ)の道(みち)木々(きぎ)に倚(よ)り
多(さは)の草(くさ)多(さは)にふむ
葉(は)の裏(うら)に虹(にじ)懸(かゝ)り
姬(ひめ)の路(みち)金(こがね)撲(う)つ
大地(おほづち)の人離野(ひとがれの)
變化(へんげ)居(を)る白日時(まひるどき)
垂鈴(たりすゞ)の百濟物(くだらもの)
熟(う)れ撓(たわ)む石(いし)の上(うへ)
みだれ伏(ふ)す姬(ひめ)の髮(かみ)
高圓(たかまど)の日(ひ)に乾(かは)く
手枕(たまくら)の腕(かひな)つき
白玉(しらたま)の夢(ゆめ)を展(の)べ
處女子(をとめご)の胸肉(むなじゝ)は
力(ちから)ある足(たり)の弓(ゆみ)
五月野(さつきの)の濡跡道(ぬれとみち)
深沼(ふけぬま)の小黑水(をぐろみづ)
落星(おちぼし)のかくれ所(ど)と
傳(つた)へきく人(ひと)の子等(こら)
空像(うたかた)の數(かず)知(し)らず
うかびくる岸(きし)の隈(くま)
湧(わ)き上(の)ぼる高水(たかみづ)に
いま起(おこ)る物(もの)の音(おと)
めざめたる姬(ひめ)の面(おも)
丹穗(にのほ)なす火(ほ)にもえて
たわわ髮(がみ)身(み)を起(おこ)す
光宮(ひかりみや)玉(たま)の人(ひと)
微笑(ほゝゑ)みて下(くだ)り行(ゆ)く
湖(うみ)の底(そこ)姬(ひめ)の國(くに)
足(あ)うらふむ水(みづ)の梯(はし)
物(もの)の音(おと)遠(とほ)ざかる
目路(めぢ)のはて岸木立(きしこだち)
晝(ひる)下(お)ちず日(ひ)の眞洞(まほら)
迷野(まよひの)の道(みち)の奥(おく)
水姬(みづひめ)を誰(たれ)知(し)らむ
[やぶちゃん注:初出は明治三八(一九〇五)年九月発行『文庫』であるが、初出では総標題「夕蘭集」のもとに、先の「淡路にて」と「戲れに」「花柑子」(孰れも「孔雀船」再録)に続いて本「かくれ沼」(「孔雀船」所収の際に「五月野」と改題している)及び「安乘の稚兒」(「孔雀船」再録)の五篇を掲げてある。署名は「清白」。初出形の「睦蓮(ひつじぐさ)」「變化(へんぐわ)居る」は誤植の可能性が高いので、その二ヶ所は「孔雀船」により、一箇所だけ「丹穗(にのほ)なす火(ひ)にもえて」のみを初出に戻した。
「瑠璃囀(るりてん)の鳥(とり)」スズメ目ヒタキ科オオルリ(大瑠璃)属オオルリ Cyanoptila cyanomelana のこと。単に「るり」とも呼ぶ。全長十七センチほどで、♂は背面が瑠璃色で咽喉から胸が黒く、♀は全体に褐色を呈する。本邦へは夏鳥として飛来し、渓流近くで繁殖し、冬季は東南アジアへと渡る。高い木の上で朗らかに囀るので、伊良子清白はかく言ったものであろう。
「睡蓮(ひつじぐさ)」スイレン目スイレン科スイレン属ヒツジグサ Nymphaea tetragona。未草。本邦に植生する唯一のスイレン属の睡蓮。花期は六月から十一月。和名は、未の刻(午後二時)頃に花を咲かせるとされることに由来するが、実際には、朝から夕方まで花を咲かせる。]