新綠 伊良子清白
新 綠
(雜司ケ谷鬼子母神に詣でて)
江戶の面影並木道
古き榎(えのき)は荒くれて
行く人小さし見上ぐれば
日は勝ち若き葉に透る
雜司ケ谷(やつ)の樹の煙
蒸せて汗じむ古衣(ふるごろも)
冬の名殘のありありと
春は目につく薄よごれ
羽蟲をよけて木に隱る
都少女のかげ見えて
暮れ行く春の絲遊は
鳩の翼の銀を縫ふ
涅槃(ねはん)五千の春の夕べ
無數の童子(どうし)あらはれて
供養飛行(ひぎゃう)を見るごとく
みだれみだれて花ぞ散る
足蹠(あうら)冷たく僧は過ぎ
瓔珞(やうらく)寂(じやく)に垂るる時
圓(まろ)き柱の繪に擦れて
白毛拂子(はくもうほつす)空(くう)を飛ぶ
[やぶちゃん注:初出は明治三五(一九〇二)年五月発行の『文庫』であるが、初出は同じ「新綠」を総標題とした、河井酔茗(明治七(一八七四)年~昭和四〇(一九六五)年:パブリック・ドメイン。当時、既に『文庫』の記者で詩歌欄を担当。伊良子清白より三つ年上)との合作(署名は「清白」)で、「雜司ケ谷鬼子母神に詣でゝ」(本篇)・「晩春鶯賦」(後に改題して改作した「晩春鶯語賦」を次で電子化する)・「十二社にて」(「十二社」は「じゅうにそう」(現代仮名遣)と読む。後日、それを含めて初出「新綠」を別に電子化する。ここで電子化しないのは、伊良子清白がそれだけを新潮社版作品集に以上二篇と並べて再録しなかった点に、この作品群が河井酔茗との合作であったことと無関係ではないのかも知れないと感ずるからで、別格扱いが必要かと思われるからである)の全三篇から成り、その中の冒頭の「雜司ケ谷鬼子母神に詣でゝ」をかく改題して一部に手を加えたものが、この伊良子清白の「新綠」である。
「雜司ケ谷鬼子母神」東京都豊島区南池袋にある日蓮宗(古くは真言宗か)威光山法明寺(ほうみょうじ)の雑司が谷の飛び地境内に建つ鬼子母神(きしもじん:梵語の漢音写は訶梨帝(かりてい)。女神の名。千人の子があったが、他人の子を取って食い殺したため、釈迦はその最愛の一児を隠してこれを教化し、のち仏に帰依して出産・育児の神となった。手にザクロの実を持ち、一児を抱く天女の姿をとる。「訶梨帝母(かりていも)」とも呼ぶ)を本尊とした鬼子母神堂。ウィキの「法明寺(豊島区)」によれば、永禄四(一五六一)年、『山村丹右衛門が現在の目白台のあたりで鬼子母神像を井戸から掘り出し、東陽坊に祀ったのが始まりとされる』。天正六(一六七八)年、『現在地に草堂が建立されたという。なお当所における正式な「鬼子母神」の表記は「鬼」の上の点がない字体である』とある。
初出の「雜司ケ谷鬼子母神に詣でゝ」は以下。
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雜司ケ谷鬼子母神に詣でゝ
江戶の面影、並木道
古き榎(えのき)は荒くれて
行く人小さし見上ぐれば
日は勝ち若き葉に透る
雜司ケ谷(やつ)の樹の煙
蒸せて汗じむ古衣(ふるごろも)
冬の名殘のありありと
春は目につく薄汚(うすよご)れ
羽蟲を避けて木に隱る
都少女のかげ見えて
暮れ行く春の絲遊は
鳩の翼の銀を縫ふ
涅槃(ねはん)五千の春の暮
無數の童子(どうし)あらはれて
供養、飛行を見るごとく
みだれみだれて花ぞ散る
足蹠(あうら)冷たく僧は過ぎ
瓔珞(やうらく)寂(じやく)に垂るる時
圓(まろ)き桂の繪に擦れて
白毛、拂子空(くう)を飛ぶ
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初出最終連の「桂」は「柱」の誤植の可能性が高いか。]