「太平百物語」始動 / 太平百物語卷之一 壱 松岡同雪狐に化されし事
[やぶちゃん注:ブログ・カテゴリ「怪奇談集」で「太平百物語」を始動する。
「太平百物語」は菅生堂人恵忠居士(「かんしょうどうじんえちゅうこじ」(現代的仮名遣)と読んでおく。「菅生堂」の読みは「序」にある)なる人物の百物語系浮世草子怪談集で高木幸助画。享保一七(一七三三)年大坂心斎橋の書林河内屋宇兵衛を版元とする新刊で、五巻五十話。末尾に「以上前編終 後編跡より出し申候」とあり、百物語を期す気持ちがあったか、なかったか。しかし乍ら、五十話目は「百物語をして立身せし事」で、一応、これで完結したつもりであったようである。よく知られていないので一言言っておくと、百物語系怪談本で百話を完遂していて現存する近世以前のものは、実は「諸國百物語」ただ一書しかない(リンク先は私の挿絵附き完全電子化百話(注附き))。
底本は「早稲田大学図書館古典籍総合データベース」の原板本を用い、国立国会図書館デジタルコレクションの「徳川文芸類聚」第四所収の活字本で校合した。但し、加工データとして国書刊行会の「叢書江戸文庫」第二巻「百物語怪談集成」所収のものを(国立国会図書館蔵本を親本とする)OCRで読み込んだものを使用した。底本は多くの読みが附されてあるが、五月蠅いので、私が読みが振れると判断したものだけのパラルビとした。踊り字「〱」「〲」は正字或いは「々」に代えた。句読点等の記号は「江戸文庫」版を参考にしつつも、オリジナルに大幅に追加してある。原本はベタであるが、読み易さを考え、適宜改行を加え、今までもそうであるが、会話文は勿論、心内語やオノマトペイアも準じて二重鍵括弧や鍵括弧で概ね改行して示した(これは私が怪談を読むに非常に効果的と考えているリズム・ブレイクの仕儀でもある)。そのため、各話の冒頭は一字下げとし(底本にはない)、改行部も同様の仕儀を行った。漢字で正字か俗字か迷うものは、正字で示した。なお、読み等の一部の清音を濁音にしてある。読みで「/」で二つ示したものは、前者が右、後者が左に添えられた読みである。挿絵は、「叢書江戸文庫」版のそれをトリミングして用いた。
冒頭にある「冠首」の序(「山中散人 祐佐(ゆうすけ)」の署名があるが、作者の仮託で、別名或いは本名であろう。姓は「伴(ばん)」とも)と各巻の頭に附された目次は最後に一括して示すこととする。【2019年4月17日始動 藪野直史】]
太平百物語卷之一
○壱 松岡同雪狐に化されし事
津の國の片ほとりに、松岡同雪といふ㙒巫醫師(やぶくすし)あり。心、あくまで貧慾なる男なりしかば、人々、うとみて、療治もはかばかしからず、明暮れの竈(かまど)さびしく暮しけるが、一年(ひとゝせ)、風邪麻疹(かぜはしか)はやりて、何國(いづく)の浦も醫者と名付(なづく)るに隙(ひま)なるはなかりき。此同雪も、ことしはふしぎに病家(びやうか)おほくて、晝夜りやうじに隙なかりしが、或夜、表の戶をあらけなく叩きけるゆへに、
「誰なるや。」
と問ふに、
「これは此あたりの者にて候。一子、麻疹にて甚(はなはだ)惱(なやみ)けるが、只今、俄に目を見つめたり。頃日(このごろ)、賴み參らせし醫師は、他の急病に行給ひて間に合(あは)ず、夜分と申し、近比(ちかごろ)御苦勞の御事ながら、只今、御出(おんいで)下さるべし。」
と、実(げに)余儀なく申すにぞ、
「此あたりとは、いかなる人ぞ。」
と尋ねければ、
「それも御出候へばしれ申なり。則(すなはち)、御迎(むかひ)の籠を爲持(もたせ)たり。はやはや。」
と申にぞ、
「さらば行て參らせん。わが療治にて今宵の難を救ひなば、藥料銀五枚、御越(こし)あれ。」
といふに、
「其段は仰せにや及び候。」
とて、頓(やが)て駕籠に打乘(うちのせ)、飛ぶがごとくに馳行(はせいき[やぶちゃん注:ママ。])しが、
「さらば、此所にて侍(さふ)らふ。」
とて、駕籠の戶をひらけば、大きなる屋敷なり。大慾心(だいよくしん)の同雪、銀五枚と約せし事を悔み、
「かゝる所ならば、金十兩といふべきものを。」
と、未(いまだ)病人をも見ずして、貪る事を先だて、頭(かしら)をかきて奧に通れば、やがて病人の傍(そば)に伴ひ行きて、まづ樣躰(やうだい)みせけるに、同雪、病人をみて、
「扨(さて)々、夥敷(おびたゞしき)はしかの出樣(でやう)かな。」
と、脈を取、身躰(しんたい)より足をなでゝ、大きにおどろき、
「是れは。はや、事切(きれ)たり。扨々、殘心(ざんしん)なり。」
といふに、介抱の人々、いふ、
「たとひ左樣に候とも、折角、御出被下(いでくだされ)候上(うへ)は、ぜひに、御藥を下し給はれ。」
と、口々にいふほどに、
「然らば、一貼(てう)調藥申て見ん。」
と、駕籠に入來(いれきた)りし藥箱を取よせ、頭をかたぶけ調合し、
「はやはや、これを与へ玉へ。」
と指出(さしいだ)だすに、其あたりには、人、壱人も、なし。
「こはいかに。」
とあきれ果(はて)、彼(かの)ふしたる病人を、能(よく)々みれば、人にはあらで、石佛(いしぼとけ)なり。
同雪、大きに仰天し、あたりをとくと見廻せば、さしも結構なりし屋敷と思へしは、墓原(はかはら)にて、卒都婆木(そとばぎ)、いくつも並べたり。
「扨は狐の所爲(しよゐ/しわざ)ならん。」
と、やうやう心付ける内に、夜はしらしらと明わたれば、自身、藥箱を引(ひつ)かたげ、頭をかゝへて、ほうほう、わが家に迯げかへりしが、其後(そのゝち)は、これにこりて、夜(よ)に入りては、いかなる急病にも、なかなかゆかざりけるとなん。
[やぶちゃん注:「上方講談師・旭堂南海に語る大阪怪談百物語」のパンフレット(PDF)に、本話を元に改変した怪談講談が載る(現代語)が、そこでは、この話のロケーションを『大阪市上本町から谷町が舞台』とし、エンディングになかなかニクい捻りが施されてある。是非、ご覧あれ。
「風邪麻疹(かぜはしか)」「麻疹(はしか)」は、最初の三~四日の間は咳や鼻水・目脂(めやに)などが出、普通の流行性感冒と区別がつかない。ここはそうした症状から一語で読みを与えておいた。なお、「はしか」は麻疹ウイルス(ウイルス第五群(一本鎖RNA―鎖)ノネガウイルス目パラミクソウイルス科パラミクソウイルス亜科モルビリウイルス属 Morbillivirus 麻疹ウイルス Measles morbillivirus)による急性熱性発疹性感染症で、呼称は中国由来で、発疹が麻の実のように見えることによる。]
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