洞窟の神 伊良子清白
洞窟の神
注連繩(しめなは)延(は)へし島の洞窟に
憂鬱の淸水滴る
陰森として魍魎棲む奧所(おくが)よ
海檜葉(うみひば)の蔓(はびこ)る絕壁を
船蟲の族群り上下す
新裝の砂汀は
晴れ渡る海面に輝けども
古代の怒濤を深く刻(きざ)める
老顏の洞窟はひたぶるに
日(ひ)の鋭(と)き香(か)をいとひて
腹立たしき澁面をつくれり
畏怖の鏡の前にすゑられ
赤兒(せきじ)の心にをののく漁人は
原始の威靈を直(ひた)と感ず
したたる淸水(しみづ)はげしく打つ
[やぶちゃん注:初出未詳だが、ロケ地を切に知りたくなる一篇である。
「延(は)へし」延ばして張った。「延(は)ふ」はハ行四段活用の動詞で、「地面や壁面に沿って延びる」の意。延縄(はえなわ)等で今も生きる読みである。
「魍魎」はロケーションと韻律から、水神を意味する「みずは」と読んでいよう。
「海檜葉(うみひば)」不詳。海岸の絶壁で「蔓(はびこ)る」と形容する草木を私は知らない。識者の御教授を乞う。
「族」「うから」と読んでいよう。
「砂汀」ルビを振らないから「さてい」と読んでおく。砂浜のこと。
「赤兒(せきじ)の心にをののく漁人は」純朴な心ゆえに洞窟の神に慄(おのの)いている漁師たちは。「赤子(せきし)の心」(生まれたままの純真で偽りのない心・赤子(あかご)のような心)に同じで、「孟子」「離婁 下」の「大人 (たいじん)とは其の赤子の心を失はざる者 なり」に基づく語。]