太平百物語卷二 十五 吉田吉郞化物に逢ひし事
○十五 吉田吉郞化物に逢ひし事
中京(なかぎやう)に吉田吉郞といふ者あり。
或夜、子の刻ばかりに、五条醒井(さめがい[やぶちゃん注:ママ。])を通りけるに、うしろより、しづかに步み來る者、あり。
ふりかえりみれば、年のほど、七、八才斗(ばかり)なる童子なり。
吉郞、あやしくおもひ、童子にむかひ、
「いかに、小伜(こせがれ)、此くらき夜(よ)の、しかも更行(ふけゆき)て、おのれ壱人、何國(いづく)へか行く。」
と、いひければ、わらは、答へて、
「我は、何(いつ)も、此所を通る者なり。我(わが)形(かた)ちの、ちいさく幼きが、御氣に參らずば、いざや、大きく成(なり)申さん。」
とて、其儘(まゝ)、六尺餘りの大童(おほわらは)となり、吉郞をにらみけるに、吉郞、元來、しれ者にて、
「さこそおもひし。」
とて、大脇指(わきざし)を、
「すらり。」
と引ぬき、橫樣に切り付ければ、頓(やが)て形は消失(きえうせ)たり。
吉郞、あざ笑ひて過(すぎ)ける所に、又、向ふより、いと誮(やさ)しき女、壱人、出(いで)きたり、吉郞が傍(そば)ちかく、寄(より)そひ、
「いかに。其方(そなた)樣へ、物申さん。われは四条あたりの者なるが、只今、其樣(さま)、すさまじき大坊主に行(ゆき)あひ、餘りのおそろしさに、これ迄、やうやう迯(にげ)きたりぬ。あはれ、御情(なさけ)に、われを誘(いざな)ひ玉へ。」
と、誠しやかに、いふ。
吉郞、此女の体(てい)を、つくづく見て、
『これ、誠の女にては有(ある)まじ、今の化者(ばけもの)が無念さに、又、我をたばかるならん。』
と、おもひながら、さあらぬ体(てい)にて、
「いざ、伴ひ申さん。」
と、少(すこし)もゆだんをせずして行けるが、吉郞、女にむかひ、
「其大坊主(おほぼうず)は、いか樣成[やぶちゃん注:「やうなる」。]者にて侍りしや。」
とゝへば、此女、袖、かき合せて、
「さん候ふ。其坊主が姿は、かやうにこそはべりし。」
とて、さしも美しかりし女、忽ち、壱丈斗の古(ふる)入道となり、面(おもて)の眞中(まんなか)に車輪のごとくなる眼(まなこ)、壱つ、ひからし、吉郞を、
「はつた。」
と、ねめしを、すかさず、脇指、ぬき放し、
『柄(つか)も碎け。』
と切付(きりつく)れば、切られて迯(にぐ)るを、追(おひ)つむれば、門(もん)の際(きは)にて漂(たゞよ)ふ所を、拜み打(うち)に切りこみしに、彼(かの)ばけ物は消失(きへうせ[やぶちゃん注:ママ。])て、大石(だいせき)にぞ切付たり。
吉郞、前後を、よくよく、見定め、
「今は恐るゝ事あらじ。」
と、氣色(きしよく)ぼうて[やぶちゃん注:ママ。]、宿に歸りしが、夜明(よあ)けて、人々に語り、彼(かの)脇指、取出(とりいだ)し見てあれば、悉く、刄(やいば)、こぼれてげり。
されども、不敵なりしゆへに、災(わざはひ)はなかりしとぞ。
[やぶちゃん注:「中京(なかぎやう)」近世、京都の中心部を成した商業地域を指し、二条から四条までの附近を称した。元禄期(一六八八年~一七〇四年)頃からこの呼称は用いられた(小学館「日本国語大辞典」に拠る)。本「太平百物語」は享保一七(一七三三)年の板行であるから、本話柄はごく直近の都市伝説(urban legend)ということになる。
「五条醒井(さめがい)」この附近(グーグル・マップ・データ)だが、現在、南北にあった醒井通は、この五条通以南では西隣りの堀川通が東よりに拡張されたため、これと重なって消滅してしまっている。
「頓(やが)て」そのまま。
「誮(やさ)しき」「優しき」に同じい。「優美である・上品で美しい」の意。
「四条」現在位置より北。
「門(もん)」国書刊行会「江戸文庫」版ではルビに『もの』と振る。不審。
「拜み打(うち)」刀の柄(つか)を両手で握り、頭上高く振り被って、上から下に一気に斬り下げること。
「氣色(きしよく)ぼうて」気色(けしき)ばんで。ここは「得意げに意気込んで・気負い込んだ顔つきになって」の意。]