葡萄の房 清白(伊良子清白)
葡萄の房
暮れ行く秋のたのしさを
語らふごとく睦まじく
葡萄は房に集りぬ
夕陽照らせる野の畠に
されどわが眼にとまりしは
風やおとせる草の間に
腐れはてたるくだものの
見るかげもなきそれなりき
愛は祕密のささやきか
さにはあらずと思へども
室に洩れたる繼子(ままこ)等を
見れば憎惡(にくみ)の疵(きず)はあり
棚にかかれる紫の
葡萄の房は幸あれど
情の犧牲(いけにへ)眼の下は
土も被(おほ)はぬ墓場なり
腐れしものはいとはしき
形を人に示せども
おのがすぐ世(せ)にくらべ見て
淚を灑(そそ)げつたなさに
愛は憎惡(にくみ)にあらねども
憎惡の砦(とりで)築かずば
安きを知らぬ果實(くだもの)の
葡萄の房ぞ罪多き
[やぶちゃん注:明治三五(一九〇二)年七月発行の『文庫』初出で総標題「葉分の月」の中の一篇(前の「三人の少女」の私の注を参照)。署名は「清白」。初出とは有意な相違を私は認めない。伊良子清白が意識しているかどうかは別として、「聖書」の「創世記」の、例のエデンの園の「禁断の木の実」はウィキの「禁断の果実」によれば、『しばしばリンゴとされるが、これはラテン語で「善悪の知識の木」の悪の部分にあたる「malus」』(マールス)『は「邪悪な」を意味する形容詞だが、リンゴも「malus」になるため、取り違えてしまったか、二重の意味が故意に含まれていると読み取ってしまったものとされ』、『東欧のスラブ語圏では、ブドウとされる事が多い。ユダヤ教神秘思想の書籍』「ゾーハル」『でも、禁断の木の実をブドウとしている』とある。伊良子清白は後年の大正七(一九一八)年三月、妻の幾美(きみ)とともに『永く近づこうとしてきたキリスト教に帰依し』(底本全集年譜に拠る)、洗礼を受けている。]
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