凍死の漁夫 伊良子清白
凍死の漁夫
雪が降つて來た四方から
靑い蝶が羽搏く
淦(あか)の上につもる金銀
水(か)ん子の魚は沈んで動かぬ
兄弟(きやうだい)釣りはやめようじやないか
夜明けは近い
東の方の紫は
遠い茜紅(あかね)であるかも知れぬ
風も波もないが
しんしんたる寒さではある
燈明臺は凍てたのか燻(くす)ぶつてゐる
暗い海は一面の雪だ
船の船首(みよし)に誰か立つてゐる
雪の夜の雪女郞が
目の前にあらはれた
兄弟(きやうだい)おいらは死なねばならぬ
甘い睡りの寒さが來た
ふりしきる雪が船をうづめぬ前に
兄弟二人は帆綱で
からだを縛(しば)つておかう
ひき潮時の海は今
沖の方に渦を卷いてゐる
日の出の島においらは
死んで着くであらう
註 大正十五年一月十五日未明、二人の漁夫年若うして伊勢灣外石鏡沖に凍死す、そを悼みてこの詩をつくる。
[やぶちゃん注:「船は進む」の私の冒頭注を必ず参照されたい。最後の注は、全体が底本では詩篇本文の一字下げポイント落ちで、二行に亙っており、二行目は「註」の字の位置の一字下から始まっている。ブログ・ブラウザでの不具合を考えて上記のように配した。「大正十五年」一九二六年。日付まで示された伊良子清白にして特異点の海難事故死した若き漁師二人に対する追悼詩であるが、調べて見たが、残念ながら、当時の天候や事故記事は見出せなかった。医師であったから、或いは伊良子清白は彼らの遺体を検死したものかも知れないなどと私は考えた。なお、その検索の途中、「リクルート」(グループ)公式サイト内の観光サイトの「漂泊の詩人伊良子清白の家」を発見した。移築であるが、伊良子清白の診療所兼住居であった建物だそうである。JR鳥羽駅のすぐ近くにあり、見学無料とあって、投稿者による多くの写真が見られる。今度行ったら、是非、見たい。
「石鏡」「いじか」と読む。現在の三重県鳥羽市石鏡町(グーグル・マップ・データ)。因みに、「船は進む」の私の冒頭注でも述べたが、この石鏡は私は行ったことがないのに、よく知っている場所なのだ。それは私の偏愛する昭和二九(一九五四)年の「ゴジラ」(私はサイトで「やぶちゃんのトンデモ授業案:メタファーとしてのゴジラ 藪野直史」を公開している程度には同作に対してフリークである。なお、この「メタファーとしてのゴジラ」は現役の宗教民俗学者の論文(橋本章彦氏「露呈するエゴイズム ――『ゴジラ』(一九五四)を考える」)にも引用された)の「大戸島」のロケ地だからなのである。
「淦(あか)」「浛」「垢」とも書く。船の外板の合せ目などから浸み込んできて船底に溜まる水。また、荒天で船体に「あか」の道が出来て浸入してくる水や、打ち込む波で溜まった水をも称す。「あか水」「ふなゆ」「ゆ」とも言う。梵語の「閼伽(あか)」(仏前に供える水)が語源とも言われ、中世には生まれていた。小学館「日本国語大辞典」に拠った)。
「水(か)ん子」平凡社「世界大百科事典」の「かんこ船」を見ると、『北陸・山陰海岸に多い小型漁船。瀬戸内や九州の北西部にも少しは見られた。多くは』矧(はぎ)板(板の側面を接合させて作った幅の広い板)の五『枚仕立てで,長さ』七~八メートル、『肩幅』一・二メートル『程度の』小舟で『手漕ぎで』、『帆はもたない。〈かんこ〉の語義は明らかでない』が、『西日本の太平洋岸には漁船の〈いけま〉の部分を〈かんこ〉といっているところがあ』る、とあった。この「いけま」とは「活間」で、船の中に設えた「生簀(いけす)」のことを指すから、さすれば、ここはその「いけま」を「かんこ」と呼んでいることが判り、映像もはっきりと見えてきた。]