柳田國男 山島民譚集 原文・訓読・附オリジナル注「馬蹄石」(7) 「馬ニ騎リテ天降ル神」(1)
《原文》
馬ニ騎リテ天降ル神 或家又ハ或地方ニ於テ白馬又ハ葦毛ヲ飼ハザル風習ハ、何レモ神祇ノ信仰ニ基クモノナルコトハ略確實ナルガ、其由來ニ至リテハ表裏相容レザル二種ノ說明アリ。即チ一ハ白馬ハ神ノ乘用ナルガ故ト謂ヒ、他ノ一ハ神此毛ノ馬ヲ好ミタマハズト謂フモノナリ。神ガ白馬ヲ好ミタマハヌ故ニ氏子モ之ヲ嫌フト云フ說ハ、近世ノ人ニハ通用宜シケレドモ、ソレダケニ思想新シト見エタリ。有馬又ハ讚岐ニ於テ別段ノ來歷ヲ必要トシタルヲ見テモ明ラカナルガ如ク、淸クシテ美シキ白馬ヲ神ノ惡ミタマフト云フハ何分ニモ不自然ナリ。【齋忌】此ハ疑無ク忌ト云フ語ノ意味ガ時世ト共ニ變遷シタル結果ニシテ、多クノ森塚巖石等ニ就キテモ之ニ似タル例アリ、即チ元ハ神ノ物トシテ其淸淨ヲ穢スマジトシタル忌ヨリ、轉ジテ神ガ枝葉ヤ土石ヲ採リ去ルヲ惜シムト云フ風ニ考ヘシト同ジク、神ガ凡人ノ之ヲ持ツヲ忌ムヲ自分モ欲セラレザルガ故ト察スルニ至リシナリ。多クノ社ノ神ガ白キ馬ノ嫌ヒデ無カリシ證據ハ今更之ヲ列擧スルニモ及ブマジ。神馬トシテ之ヲ奉納スル風習ハ弘ク行ハレ居タリシノミナラズ、御神體ニモ騎馬ノ像イクラモ有リテ、其馬ノ毛色若シ分明ナリトスレバ大抵ハ白ナリ。【騎馬神像】此序ニ言ハンニ、諸國ノ御神體ニ騎馬ノモノ多キハ決シテ輕々ニ見ルべキ現象ニハ非ズ。佛像ニモ勝軍地藏ノ如キハ必ズ馬上ノ御姿ナリ。此等ハ中世ノ武家ガ今ノ人ヨリモ馬ヲ愛シタリシ爲ナドト簡單ニ解釋シ去ル事能ハザル事實ナリ。
《訓読》
馬に騎(の)りて天降(あまくだ)る神 或る家又は或る地方に於いて、白馬又は葦毛を飼はざる風習は、何れも神祇の信仰に基づくものなることは略(ほぼ)確實なるが、其の由來に至りては、表裏相容れざる二種の說明あり。即ち、一つは「白馬は神の乘用なるが故」と謂ひ、他の一つは「神、此の毛の馬を好みたまはず」と謂ふものなり。神が白馬を好みたまはぬ故に、氏子も之れを嫌ふと云ふ說は、近世の人には通用宜(よろ)しけれども、それだけに「思想、新し」と見えたり。有馬又は讚岐に於いて別段の來歷を必要としたるを見ても明らかなるがごとく、淸くして美しき白馬を神の惡(にく)みたまふと云ふは、何分にも不自然なり。【齋忌(さいき)】此れは疑ひ無く「忌(いみ)」と云ふ語の意味が、時世と共に變遷したる結果にして、多くの森塚・巖石(いはほいし)等に就きても之れに似たる例あり。即ち、元は神の物として其の淸淨を穢(けが)すまじとしたる忌(いみ)より、轉じて、神が枝葉や土石を採り去るを惜しむと云ふ風に考へしと同じく、神が、凡人の之れを持つを忌むを、自分も欲せられざるが故と察するに至りしなり。多くの社の神が白き馬の嫌ひで無かりし證據は、今更、之れを列擧するにも及ぶまじ。神馬として之れを奉納する風習は弘く行はれ居たりしのみならず、御神體にも、騎馬の像、いくらも有りて、其の馬の毛色、若(も)し、分明なりとすれば、大抵は「白」なり。【騎馬神像】此の序でに言はんに、諸國の御神體に騎馬のもの多きは、決して輕々に見るべき現象には非ず。佛像にも勝軍地藏(しようぐんぢざう)のごときは、必ず、馬上の御姿なり。此等は中世の武家が今の人よりも馬を愛したりし爲め、などと簡單に解釋し去る事、能はざる事實なり。
[やぶちゃん注:「齋忌」狭義には祭りの前に行う物忌み、神を迎えるために心身を清浄にした生活を送ることを指す。
「勝軍地藏」時代的には鎌倉時代以後に武家の間で信仰された、これに祈れば戦に勝つという地蔵の一種。小学館「日本国語大辞典」には、『一説に、坂上田村麻呂が東征のとき、戦勝を祈って作ったことからおこったという地蔵菩薩。鎧、兜をつけ、右手に錫杖を、左手に如意宝珠をもち、軍馬にまたがっているもの。これを拝むと、戦いに勝ち、宿業・飢饉などをまぬがれるという』とする。]
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